わが師にして最高の“外交官”―千 玄室 裏千家前家元 鵬雲斎宗匠を偲んで―
元駐ウクライナ大使、茶道裏千家淡交会顧問 天江喜七郎
令和7年8月14日、千玄室大宗匠(裏千家第15代 鵬雲斎)が102歳の天寿を全うされた。同11月27日には、国立京都国際会館において、三千家(裏千家、表千家、武者小路千家)の家元により鵬雲斎宗匠を偲ぶお別れの会が催され、国内外から多くの弔問客が訪れた。
筆者は30余年に亘り鵬雲斎宗匠のご薫陶を頂いた一弟子として、師の思想と行動の一端を以下に記すこととしたい。

1.特攻隊の経験、慰霊、そして平和への強い願い
鵬雲斎(当時は千政興次期家元)は、太平洋戦争末期の昭和20年4月、鹿児島県の鹿屋海軍航空隊に配属され血の滲むような訓練を受けたが、米軍の沖縄侵攻を前に戦友たちと共に特攻を志願した。しかるに、特攻の数日前に司令官に呼ばれて後方の基地への転属命令を受けた。鵬雲斎にとっては正に青天の霹靂であった。戦友たちと特攻の訓練に明け暮れ、共に見事に散って後は靖国で会おうと誓い合った手前、「千、お前だけがなぜ?」との戦友のまなざしに、言うに言われぬ後ろめたさを感じた。戦友は機体の故障で基地に引き返した一人(後の俳優、西村晃氏)を除いて、全員が戦死した。鵬雲斎は、訓練後のある日、滑走路に車座になり戦友たちにお茶を点てたところ、皆が旨そうに飲んで、「もし生きて帰ったなら、京都の千の家でまたお前のお茶を飲ましてくれ」と言ったと、しみじみと語っておられた。鵬雲斎は毎年必ず靖国神社で英霊を追悼し、鹿児島、奄美、沖縄で交互に慰霊の献茶を行ってこられた。「あの時、自分は一度死んだ。その後の人生は、戦友たちによって生かされているのだよ。」この言葉を何度耳にしたことか。「一盌(いちわん)からピースフルネスを」という理念は、鵬雲斎のこのような体験から生まれたものではないだろうか。また、鵬雲斎は常にご先祖の千利休居士を心に留めて生きてこられた。利休居士は茶道を集大成し、その根本精神を「和敬清寂」の四文字で表した。茶人にとり「和」は最も大切な心であり、その信念から利休は秀吉の朝鮮出兵に反対し勘気を被り、従容として腹を切った、と師は語っておられた。
2.鵬雲斎の茶道外交
筆者が裏千家茶道に出会ったのは1988年、韓国のソウルにおいてである。勤務した日本大使館広報文化センター(日本文化院)の近くに裏千家の茶室が拓かれ、韓国人が熱心に学んでいた。同年ソウルオリンピックが開催され、韓国の民主化が大きく進んだ一方、日本文化の解禁は先送りされたままであった。その中で、裏千家茶道が受入れられたことは、誠に興味深い。お茶は中国の雲南省やインドのアッサム地方が原産地で、仏教と共に朝鮮や日本に伝来したため日本文化とは見なされなかったのかも知れない。
鵬雲斎はお茶の持つ国際性を大いに利用して、韓国に次いで中国にも積極的に茶道を広めた。1979年に人民大会堂で鄧小平中央軍事委員会主席に一盌のお茶をふるまってその信任を得ると、北京ほか各地に茶道同好会を発足させた。天津商業大学内には、日本人と中国人学生が共同生活をしながら茶道と相互の文化を学ぶ裏千家茶道短期大学を設立するなど、茶道に関心を持つ人材を養成することに尽力した。
鵬雲斎は各国の大学から名誉博士号を付与されたが、中国の南開大学および韓国の中央大学校に茶文化に関する論文を提出し正式に博士号を取得している。師はそのことを大変自慢しておられた。そしてそれを機に、2004年には「東アジア茶文化シンポジウム」を立ち上げ、毎年三ケ国で交互に学術的な国際会議を開催した。鵬雲斎はアジア各地に茶道を実践する場を提供するとともに、学問的見地から東アジアを一つの茶文化圏として域内の結びつきを強める努力を惜しまなかった。師の気宇広大な発想と実行力には脱帽するしかない。
1990年末モスクワに転勤になった筆者は、そこでも裏千家の活発な活動を目にすることになった。時はソ連末期。ゴルバチョフ大統領のペレストロイカで民主化が進む一方、経済は破綻寸前であった。裏千家モスクワ協会はそのような時期に開設され、日本から派遣された師範の下でロシア人が熱心に茶道に勤しんでいた。国営百貨店からは消費物資がほとんど姿を消し、市民はハイパーインフレでどん底の状態であったが、それでも茶室に通う者が絶えなかった。当時を振り返ってみると、モスクワ市民の文化行事への関心は極めて高く、ボリショイ劇場の前には三度の食事を減らしてでも切符を求める人であふれていた。鵬雲斎はロシア人の日本文化への強い関心に心を動かされ、2008年にモスクワ大学に茶室「清露庵」を寄贈し同大学で講演とデモンストレーションを行った。鵬雲斎は、同時にポーランドやフィンランドといった親日国を重視して茶道外交を行っており、外国人修道者のための「みどり会」には、各国からの研修生を受け入れていた。師のロシア訪問後「みどり会」にはロシア人の姿が多く見られるようになったのである。
ソ連崩壊から約10年を経た2002年から約3年、筆者はキーウに在勤した。2004年末、「オレンジ革命」が起き、ウクライナのロシア離れが大きく動いた政情不安な時期であった。ある日、モスクワ裏千家協会で茶道を学んだウクライナ女性に出会った。そこで当時、キーウ工科大学に開設したばかりの日本文化センター内に、裏千家のご協力を得て、畳の間を設け、茶室として利用してもらうことにした。その後もキーウの茶道教室は存続し、2012年、鵬雲斎のお伴でウクライナを再訪した。坂田東一大使のお陰でキーウ工科大学での師の講演とデモンストレーションは盛況の中に終了したが、呈茶席の水屋(準備や片付けをする場)には、ウクライナ人に交じって裏千家モスクワ協会のロシア人の姿があった。
ウクライナ戦争以降も、キーウでのお茶の稽古は有志により続けられている。日本の裏千家同門等による支援物資が届けられているが、状況は厳しさを増す一方。鵬雲斎は晩年、ウクライナ戦争に心を痛めておられた。戦争が早期に終結し平和が到来して、ウクライナとロシアを含む世界各国の茶人が一堂に会して、「一盌よりピースフルネス」を一緒に味わって欲しいものである。
3.ハワイは「茶道外交」揺籃の地
話は30年前に戻る。1995年、筆者はホノルル勤務となったが、その夏にホノルルに滞在中の鵬雲斎(当時は裏千家第15代家元千宗室)と登三子夫人を公邸にお招きした。爾来、家族ぐるみのお付き合いをさせて頂いた。それまで、韓国とロシアで裏千家の活動を身近に感じながら、鵬雲斎ご自身がはるか以前の1951年にハワイに渡られた事実を知らなかった。
鵬雲斎は戦時中特攻隊員として従軍していたが、1945年8月、出撃直前に終戦を迎え無事帰郷された。ある時、師は兜門の前に米軍のジープが止まっているので慌てて家に入ると、父親の淡々斎が英語で会話をしながら数名の米兵に茶を点てていた。その内の一人が床の間に腰かけたので大声で叱りとばしたのを目撃し驚愕したと同時に、戦勝国の人間が敗戦国の人間に教えを乞う姿を見て文化の力に初めて気づいたとも述べている。鵬雲斎はその後、米兵がお茶を習いに来たのはGHQの指令によるものであり、またGHQの高官は講演で「日本にも民主主義はある。それは茶道だ。茶室ではすべての者が平等ではないか。」と述べたことを東京の友人から聞いて、米国に対し強い関心を覚え直ぐにでも渡米したい気持ちになったと述懐している。
幸い、戦前からの同門がホノルルにいたので渡米することができ、ハワイ大学で学ぶ傍ら地元の人に茶道を教えた由である。これが契機となって裏千家はホノルルに最初の海外支部を設立。そこからの鵬雲斎の茶道行脚はすさまじく、結婚後は登三子夫人と二人三脚で筵(むしろ)を担いで各州を回り茶道の実演を繰り返したと言われ、米本土各地に裏千家茶道を広めていった。その情熱はその後も続き、家元を坐忘斎に譲って玄室と名乗って以降も、米海軍士官学校、更には米上院、国連本部で呈茶を披露している。
ハーバード大学ライッシャワーセンター所長のケント・カルダー博士は、鵬雲斎の功績を「茶道外交(Tea Diplomacy)」と呼び、相手に脅威を与えることのないソフトパワー日本の賢明な外交であると高く評価している。太平洋戦争開戦の地であるハワイに対する鵬雲斎の念は深く、日米の恒久平和を象徴する場として、ハワイ大学やホノルル日系人センターに複数の茶室を寄贈するとともに、ご自身は約60年に亘って毎年二回ハワイ大学で学生相手に茶道文化に関する講義を行ってきた。更に、50年以上も毎年、日本、北米、カナダ、豪州各地から希望者を募って、約100名を対象にハワイセミナーを開催してきた。
筆者がホノルル総領事に就任した1995年の9月、クリントン大統領夫妻出席の下、ハワイで太平洋戦争終結50周年記念式典が行われた。同12月7日、筆者はパールハーバーのアリゾナ・メモリアルでの慰霊祭に出席して献花することを希望したが、退役軍人会の強い反対で実現しなかった。聖地アリゾナ・メモリアルの慰霊祭に、総領事といえども日本人の出席はまかりならんというわけである。そこで筆者は、米陸軍日系人部隊の退役軍人を通じてパールハーバー退役軍人会と接触し信頼醸成に努めた結果、2年後にようやく慰霊祭への出席と献花が認められた。一方、鵬雲斎も長い間アリゾナ・メモリアルでの献茶を希望されたが、こちらの方は2011年にやっと実現した。仄聞したところでは、ジョージ・アリヨシ元ハワイ州知事夫人で有心会(ハワイ在住の婦人の茶道同好会)会長ジーン夫人が共にお茶を学ぶ太平洋総司令官夫人に相談したところ、総司令官の許可をいとも簡単に取ってくれた由である。ここでも茶道外交の影響力をまざまざと見せつけられた次第である。
4.“外交官”としての資質と才覚
鵬雲斎は国際人にして最高の外交官であった。世界各地を訪問し元首や首脳に拝謁して一盌のお茶を奉じ、即座に相手の心を掴み信頼関係を築く。このようなことは誰にでもできることではない。
2010年に西林在キューバ大使からの強い要請を受け、鵬雲斎にハバナを訪問して頂いた。ハバナではフィデル・カストロ前議長への表敬が予定されていたが、氏は入院中のため実現しなかったが、ラウル・カストロ議長の温かい歓迎を受けた。実は、鵬雲斎は以前、橋本龍太郎総理からキューバのフィデル・カストロ議長を訪問して欲しいとの内々の要請を受けておられた。その要請とは、ペルーの日本大使公邸占拠事件に際して協力を惜しまなかった当時の議長フィデル氏に、総理の名代でハバナを訪問して謝意を伝えた上、お茶を差し上げてくれないかというものであった。生憎、鵬雲斎の日程が会わずその話は沙汰止みとなったが、そのような経緯があってキューバ行きを決行された。一連の行事を終えハバナを去る日、フィデル・カストロ氏のご子息が、病床の父からと言って前議長自筆の署名とメッセージが書かれた肖像写真を持参し鵬雲斎に手渡した。そこには、「千玄室様 真心を込めた友情をもって フィデル・カストロ」と書かれてあった。鵬雲斎は大変喜ばれたと同時に、故橋本総理との約束を果たした、と安堵されたことであろう。
もう一つ興味深い出来事があった。2008年に鵬雲斎はアブダビ首長国連邦を訪問し、ムハンマド皇太子殿下・同妃殿下に呈茶をされた。鵬雲斎にとっても補佐する業躰(裏千家の茶道補佐)達にも中東での行事は初めてのことで、勝手が分からなかったようであるが、案ずるより産むが易し、ムハンマド皇太子は茶道に強い関心を寄せられ、それが縁で鵬雲斎は翌年も同地を訪問してエミレーツ・パレスホテルに茶室「緑水庵」を寄贈された。これに対し、皇太子は王室の秘書役を数名、京都の裏千家に派遣して茶道を学ばせた。ある時、鵬雲斎は皇太子に「どうして殿下はこれ程までに私共に親切にして下さるのですか」と尋ねたところ、「貴方は私の父と実に雰囲気がそっくりなのです」との答えが返ってきたと、師は述懐されておられた。そのようなこともあって、鵬雲斎のアブダビ訪問は5回にも及び、茶道を通じて皇太子の信頼を得たこともあり、その後もアブダビからの対日石油供給は順調に行われている。
5.茶道外交のススメ
鵬雲斎は「喫茶去(きっさこ)」という禅語を好んだ。元の意味は「お茶でも飲んで出直して来い」という叱咤激励の言葉であるが、「お茶でも一服飲んで行きなさい」という意味に代わってきたようだ。お茶を点てるという行動は相手を思いやり、もてなすことを意味する。敵意をもっていては、一盌のお茶を分かち合うことなどあり得ない。
友人のダニエル・ラッセル元米国務次官補から聞いた話である。彼は在京米大使館でマイク・マンスフィールド大使の秘書官を務めたが、彼によるとマンスフィールド大使は客に対して必ず自分でコーヒーを淹れサーブしたとのことだ。「そうすると、客は大変感激して、それだけで部屋の雰囲気が和む・・・」と語っていた。マンフィールド大使の客人に対する振る舞いは正に「喫茶去」の精神そのものである。
外交官は、どんな相手に対しても、またどんな状況の下でも、「まずは、お茶でもいかがですか?」という相手への気遣いと余裕を持って欲しい。一服のお茶を勧めることは、相手と対話する気持ちがあること、話し合いによって問題を解決する用意があることを示すことに他ならない。鵬雲斎は外交官が茶道に関心を持つことを望まれ、そのために経験豊かな森明子師に指導を命ぜられた。そこから、小野啓一大使、小野日子大使、故高橋妙子参事官他、茶道外交を継承する茶人外交官が育っている。
鵬雲斎が逝去され半年、生前のご薫陶に感謝し少しでも師の境地に近づければと願う日々である。
