「フェアネス」を至上の価値とする米国
(個人的に目の当たりにした米国の懐の深さ)


元駐ブラジル大使 島内 憲

 ヒラリー・クリントン氏は2016年の民主党大会の大統領候補指名受諾演説で「米国が偉大なのは米国が善良だからだ」(America is great because America is good)と述べた。この言葉は、対抗馬のドナルド・トランプ候補を暗に批判する発言乃至ヒラリーの空虚なレトリックと受け止められ、あまり人々の記憶に残っていないようだが、個人的には米国の強みと良さを的確にとらえていると思っている。近年、中国の台頭の中で米国の衰退が論じられ、トランプ前大統領の言動や国内格差・黒人差別問題に焦点が当たるようになったが、私は、フェアネスを重んじる国、ソフトパワー大国としての米国にも改めて目を向ける必要があると考える。私は米国の世界のリーダーとしての地位はゆらぐことはないと思っている。むしろ中国が、かつてソ連に対して使われた「悪の帝国」という言葉を想起させる振る舞いをすることが多くなる中で、米国がより一層その強みを発揮する環境が整ってきていると考える。本稿では「米国の良さと強さ」について米国での小中学校時代以来の個人的経験に基づき述べたい。

I.少年時代に見た米国
 1954年10月、私が8歳の時外務省に勤めていた父が在米大使館勤務になり、家族でワシントン生活をすることとなった。米国の大統領はドワイト・アイゼンハワー、副大統領はリチャード・ニクソンだった。
 当時の米国のGDPは総額のみならず、一人当たりでも圧倒的に世界一だった。国全体として自信と余裕に満ち、社会も健全だった。しかし、国内の一部で黒人差別が公然と行われ、先進民主主義国とは思えない暗黒面を抱えていた。マーティン・ルーサー・キング牧師がワシントン大行進で有名なスピーチ(「私には夢がある」)を行って(1963年)公民権運動が盛り上がる前だった。また、移民も欧州系の白人以外は数が少なく、現在米国の総人口の18%を占めるラティーノ系の人口は全米で数百万人、現在5%以上を占めるアジア系は数十万程度だった。「自由な白人」以外の帰化を排除していた1790年移民法が改正され、アジア人の帰化が認められるようになったのは1952年のことである。
 ワシントンの生活が始まった1954年の時点では、終戦からまだ9年しか経っていなかった。当時は、直前に朝鮮戦争があったものの、米国の人々の間で第二次大戦の記憶も生々しく残っていた。学校には、爆撃機の砲手だった叔父さんがゼロ戦に撃墜されて戦死したクラスメートや戦争未亡人の先生もいた。私は日米開戦記念日の12月7日(日本では8日)が大嫌いだった。全テレビ局が終日真珠湾攻撃の映像を流し、クラスメートの間でも一日中「パールハーバー」が話題になった。「奇襲攻撃(sneak attack)をしかけたお前ら日本人は卑劣だ」などと言われ、嫌な思いを何度もした。しかし、そのような経験をさせられたのは、年間を通してその日1日だけだった。普段は米国人の子供と仲良く机を並べて勉強し、近所の白人家庭の子供と一緒に野球やフットボールなどをして遊んだ。また、ワシントン市のノースウエスト地区という土地柄、民主党支持の家庭が多く、選挙の時期は小学生の間でも政治が話題になることが多かった。私も友達の影響で民主党の候補を応援した。
 1950年代の米国を特徴づけていたのは、その同化力・包容力とフェアネスの精神であり、それは今もなお変わっていないと信じる。ワシントンに到着してすぐ、近所の公立小学校に2年生として入学したが、英語が一言も話せないにもかかわらず、初日から米国人の子供と一緒に扱われた。外国人の子供のための特別英語授業(ESOL)などなかった。まず、朝一番の米国国旗への宣誓を覚えさせられた。英語は、3ヶ月で日常生活に不自由を感じない程度に話せるようになり、1年後には、すべての授業について行けるようになった。3年後には自宅でも日本語をほとんど話すことがなくなり、物事をアメリカ人の目で見るようになった。外国人を同化する米国の力を直接的に体験した。
 米国の包容力の源泉の一つは「フェアネス(fairness)精神」である。米国人はフェアであることを至上の価値とし、フェアでないと思うことがあれば黙っていない。小学校4年生の時だったと記憶しているが、次のような経験をした。ある時、クラスメートのS君とつまらないことで罵り合いの喧嘩になり、同人は最後に思わず「ダーティー・ジャップ」という言葉を口にしてしまった。それを側で聞いていた同じクラスのD君は二人の間に割って入り、「そのようなことを言ってはダメだ」とS君を厳しくたしなめた。三人とも9歳くらいの時だったが、他の国ではこのようなことはまずあり得なかっただろう。米国以外であれば、おそらく、他の子も一緒になって私をいじめたのではないか。なお、D君は例外的な優等生ではない。米国で私と同じような経験をした日本人は多い。最近、帰国子女の女性から、ヨーロッパのインターナショナルスクールでいじめにあった時、他の子供が見て見ぬふりをする中で米国人のクラスメートが一人で体を張って守ってくれた、という話を聞いた。このような正義感は親が子にいちいち教えるわけではなく、多くの米国人のDNAの中に受け継がれ、米国を米国たらしめているのだと考える。
 一方、当時、米国南部においては、黒人差別が公然と行われていた。白人(whites)トイレと黒人(colored)トイレが別々になっているのをはじめて見た時、大きなショックを受けた。ワシントン市の人口は当時から黒人が約半数を占めていたが私が住んでいた住宅街は、黒人住民が全く住んでいなかった。事実上の人種隔離が厳然と存在した。しかし、私の周りにいた人々が皆、心の中で人種差別主義者だったかというとそうではない。黒人の入店を断っていたレストラン・チェーンがあったが、世論の批判を浴びていた。学校では、先生が、白人のクラスメートの差別発言に傷つけられた他校の黒人小学生の話を紹介するなど黒人差別を厳しく戒めていたのを今も覚えている。また、学校で唯一の黒人職員の用務員のおじさんに対し敬意をもって接するよう教えられた。
 以上は、60年以上前の話である。黒人差別問題は、1960年代の公民権運動の高まりを経て、大きく前進し、2009年には、黒人大統領が誕生するに至った。一方、トランプ政権誕生以来、米国内の反移民の動きや黒人差別に改めて注目が集まっている。昨年は、黒人に対する警察の暴力的取り締まりの中で死者が出て、全米各地で、抗議活動が起きたが、この問題は奴隷制の歴史にも遡る根深い問題であり、別途の考察が必要なのでここでは立ち入らない。
 最近、伝えられる「アジア人差別」の増加は、米国における各分野での中国・中国人の存在感の高まりと、同国の国際舞台における傍若無人な振る舞いと無関係ではない。また、一般的な反移民感情の台頭は、白人のマイノリティー化に対する危機感(白人ナショナリズム)が高まる中、トランプ前大統領が巧みに自らの政治的利益のためにこれに乗じたという面がある。しかし、移民の側においても、米国社会に溶け込む努力・意欲の不足、横柄な態度、ヒステリックで攻撃的な言動等の問題もあり、一方的に白人中心のエスタブリシュメントを責めるのは公平ではないと個人的には思う。英語の使用や生活様式を含め米国的価値観を受け入れ米国人らしく振舞えば、三世代目までには、完全な米国市民としての地位を獲得することできることは今もなお変わらない。
    
II.戦時中の日系人強制収容と米国人の認識
 米国における日系人の収容所体験については、山崎豊子氏の小説「二つの祖国」やテレビドラマなどを通じて、日本でも広く知られているが、祖父母たちが収容されていた私にとってはファミリーヒストリーの一部である。ここでは、ワシントンの子供時代に、同居の祖母から聞いた話を紹介しつつ、戦時中の日系人収容問題について考えてみたい。

米国における日本人移民排斥の歴史】
 戦時中の日系人強制収容以前の米国にも日系人排斥の長い歴史がある。日本人の米国本土への移住は、1885年の中国人排除法の成立によって生じた米国内の労働力不足の中で本格化した。これに対し、白人の間で人種偏見や経済的利害に基づく排日運動がカリフォルニア州を中心に高まり、日米両国間の緊張要因となった。私の父が祖父母とともにカリフォルニアに移住したのは、ラティーノやアジア系が多数を占め政治的にもリベラルな今日の姿と異なり、同州で露骨な人種差別がまかり通っていた時代だった。そして、排日の急先鋒はカリフォルニアの民主党だった。ワシントンの政治においては、民主党は日系人排斥を見て見ぬふりをし、共和党は対日重視から何とかしようという基本的構図が存在した。父が移住した1912年は、タフト大統領の共和党政権時代で、排日問題は小康状態にあった。しかし、カリフォルニアの排日の動きはその後も続き、1920年にカリフォルニアの州法で排日土地法が成立した。連邦レベルでも、連邦議会内の様々な思惑と政治的駆け引きの中で、1924年移民法(通称日本移民排除法)が成立した。
 私の父の少年時代には醜悪な日本人・日系人差別が存在した。父は近所の白人の子供に差別的な言葉を浴びせられるなど不愉快な思いをすることが時折あったようだ。そして、排日移民法の成立により、帰化への道も完全に閉ざされた。父は1931年にロスアンジェルスの大学を卒業後、1934年に日本に帰国した。父の弟と三人の妹は米国生まれで米国籍だったが、妹たち(筆者の叔母)は後述するように戦時中祖父母とともにユタ州の日系人収容所に強制収容された。叔父は、戦前に米国籍を放棄し、日本で日本人として生きる道を選んだ。
排日移民法の成立は日本における米国のイメージを著しく傷つけ、対米強硬論の台頭の一つの原因を作った。

【米国の民主主義の歴史に大きな汚点を残した日系人強制収容】
 日米開戦の10週間後の1942年2月19日にフランクリン・D・ローズベルト大統領が署名した大統領令(第9066号)により、各地域の軍司令官に対し、軍事区域を指定し、当該区域から「何人も排除することができる」権限が付与された。この大統領令に基づき、アラスカ、カリフォルニア、オレゴン、ワシントンに居住するすべての日系人に対し域外への移動が命じられ、約12万人の日系人がカリフォルニア、アリゾナ、コロラド、ワイオミング、ユタ及びアーカンソーの各州の10か所の収容所と数か所の刑務所に抑留された。
 収容された12万人の7割は米国生まれの米国人であり、日本人の血が流れているという理由だけで囚人同様の扱いを受けた。残りの3割の日本生まれの一世は、前述の差別立法により米国籍取得の道が閉ざされていたわけであり、日本国籍を保持していることをもって危険視する理由はなかった。隔離政策の根底にあったのは、安全保障上のリスクではなく、人種差別主義そのものだった。因みに日本人の血が16分の1以上流れている者はすべて「日系人」とみなされた。
 収容所がリゾートであるかのような国内説明もなされたが、実態は戦争捕虜収容所だった。収容所の周囲には鉄条網が張り巡らされ、「日系人を民衆の怒りから守る」ためと言いながら、警備塔の機関銃は内側に向けられていた。日系人の収容を推進したのは、日系人による破壊活動の可能性を主張した陸軍のデウイット将軍等とこれを支持したローズベルト政権だったが、高級紙を含むマスコミ、多くの政治家、役人、裁判官が後押しをした。西海岸の有力紙は社説で日系人を平然と「ジャップス」と呼んだ。支持者には戦後、政治やマスコミで活躍した有力者、著名人も多く、その中には当時のアール・ウォーレン・カリフォルニア州司法長官(1943年より州知事)も含まれていた。同人は1953年~1969年の間、連邦最高裁長官として人種差別撤廃等で画期的な判決を主導した人物で、最も偉大な最高裁長官の一人に数えられているが、戦時中は日系人の収容に関し陸軍に全面的に協力した。もっとも、最高裁長官引退後の回想録においては、日系人の強制収容を米国の基本的価値と相容れないものとして「深く後悔している」と述べており、また、引退後のインタビューで質問が同問題に及んだ時、泣き崩れてしまったと伝えられる。

【祖父母等の経験】
 次いで、1942年9月から1944年8月まで収容所で過ごした祖母から直接聞いた話を交えて述べたい。
 祖父母と三人の叔母は、1942年3月、連邦捜査局(FBI)によりサンフランシスコの自宅から同市郊外の集合センターに連行された。祖父は脳内出血で倒れた直後で、自宅療養中だったが、FBIは祖父の病状を全く考慮することなく連行した。集合センターはタンフォラン競馬場を一時的に転用した臨時施設で、各地から集められた日系人は、馬の糞尿のにおいがする厩舎に多人数押し込まれた。日系人たちは、その数か月後、各地の集合センターから10か所の収容所に移された。祖父母と叔母たちは、ユタ州中部に鉄道で移送され、1942年9月28日にトパーズ収容所に収監された。1942年12月の有力紙社説は、日系人の収容所内の生活について「日系人は食住等の面で収容前には経験したことがない手厚い待遇を受けている」と論評したが、事実の歪曲も甚だしい。トパーズは、夏の平均最高気温は35度、冬の最低気温はマイナス10度、年間雨量250ミリの半砂漠だった。乾季の砂嵐はすさまじく、細かい白砂が室内にまで入ってきた。収容所の広大な敷地は42区画に分かれ、各区画に12のバラック小屋、食堂、娯楽室と共同便所があった。収容所の人口はピーク時に8100~ 8300人に達し、ユタ州内で第三の人口センターになったという。各バラック小屋は6つのアパートに区分され、私の祖父母らは5人家族だったので最も大きい50平米のアパートを与えられたようだ。間仕切りがなくプライバシーの確保は困難で、真冬の極寒のなかでトイレに通うのは大変だったに違いない。食事も粗末なものだったことは想像に難くない。明治生まれの祖母は食べ物を大事にする人だったが、ワシントンで絶対に食べないものがあった。近年日本の若者の間でも人気の「スパム」が大嫌いだった。収容所の食堂で毎日のように出されたらしい。衛生状態も悪く、赤痢が発生したこともあったという。このような劣悪な環境は病弱の祖父にとってあまりにも厳しかった。祖父は、1943年7月に死亡した(享年66歳)。収容所の葬式の様子については讃美歌名まで祖母から詳しく聞いた。祖母は1944年8月に収容所を出てニューヨークに移ったが、サンフランシスコの自宅をはじめ全財産を失った祖母は、白人家庭の家事手伝などの生活を余儀なくされた。終戦時には在米生活が30年を超えていたが、同世代の多くの移民一世と同様、祖母は英語が覚束なく、相当苦労したに違いない。次女(父の妹)と一時期一緒に暮らしたが、子供たち(私の従妹弟)は三世で日本語を全く解さなかったため、祖母との意思疎通は困難だったようだ。因みに、4年前、その従弟に30年ぶりに会ったが、トパーズ収容所の生活についてはほとんど何も聞いていないとのことだった。祖母とは会話が成り立たず、母親(叔母)は当時の話を一切したがらなかったようだ。
 日系人の強制収容には、カリフォルニア州を中心とする長年の排日運動、アジアにおける利害をめぐる日米対立などが背景としてあったが、直接の契機となったのが真珠湾攻撃だった。反日の嵐、集団ヒステリーともいうべき状況の中で政治家、軍人、ジャーナリストをはじめ大多数の米国人は日系人の強制収容を当然のことと考えた。一方、そのような中でも、強制収容の不当性を訴える勇気ある米国人(非日系)もいた。コロラド州のラルフ・カー知事(共和党)は日系人収容を人種差別的として批判、反対したため選挙民の反発を買い、1942年11月の上院議員選挙で敗れた。少数ながら強制収容反対の論調を掲げる新聞もあった。また、各収容所の中で、教師や医師として献身的な働きをした白人もいた。戦争という極限状態の中でもフェアで懐の深いアメリカが完全に失われたわけではなかった。

【強制収容に対する謝罪と補償】
 1976年にジェラルド・フォード大統領は、上述の大統領令9066号の廃止を正式に確認し、「今日、我々は最初から知るべきだったことを知った。日系人の収容は誤りだった。彼らは忠実な米国人だった」と述べた。連邦議会では1980年に日系人収容問題に関する調査委員会が設置され、同委員会は、1983年の報告書で日系人の強制収容は、「重大な不正義であり、原因は、人種偏見、戦時のヒステリーと政治の破綻だった」と結論付けた。これを受けて連邦議会で1988年市民的自由法が成立し、ロナルド・レーガン大統領が正式に謝罪した。1991年には、同法に基づき収容所の生存者に一人当たり2万ドルの補償金が支払われ、ジョージ・ブッシュ大統領(父)が改めて謝罪した。私の叔母たちも大統領の手紙と補償金を受け取った。ブッシュ大統領の手紙は「言葉と金銭で過去の過ちを正すことはできない。しかし、日系米国人に対して重大な不正義がなされたことを明確に認識することはできる」とする感動的な内容だった。米政府の謝罪、補償の実現においては、日系社会の長年にわたる粘り強い根回し、働きかけがあった。この運動を主導したのが上院仮議長(議長は副大統領)まで上り詰めたダニエル・イノウエ上院議員、クリントン・ブッシュ両政権で閣僚を務めたノーマン・ミネタ下院議員をはじめとする日系社会の重鎮たちだった。
なお、日系人収容の中心地だったカリフォルニアで州議会が正式に謝罪したのは、2020年2月だった。

【移民問題、人種問題を巡る近年の米国内の動き】
 2017年の就任直後、トランプ前大統領は、7カ国(いずれもムスリムが人口の多数を占める諸国)からの入国を制限する大統領令に署名し大問題になった。その際、テレビインタビューで大統領補佐官が、同大統領令を正当化するため「日系人の収容が先例としてある」と言いかけたところ、女性キャスタ―(フォックス・ニュースからNBCに移籍直後のメギン・ケリー)が、険しい表情で「あなた何を言っているの!」と発言を遮ったのが印象的だった。同大統領令の有効性は、連邦最高裁まで争われ、2018年の判決主文では、連邦政府の主張を認めたものの、付随意見で、日系人の収容の合憲性を認めた1944年の最高裁判決を改めて批判した。トランプ政権の動きに危機感を覚えた著名な歴史家により、日系人の強制収容に関する新たな著書も出版されている。日系人収容問題が風化することはない。
 私は、2015年11月に長年の念願がかない、トパーズ収容所の跡地を自分の目で見る機会を得た。現在現場に残っているのは、日系米国市民同盟(JACL)が設置した記念碑のほか、バラック小屋の礎石や鉄条網の一部だけだが、近くのデルタ市(人口3500人)にトパーズ博物館がある。同博物館は同年1月に日系人収容と「同様の自由権の侵害が二度と繰り返されないよう市民を教育すること」を目的として設立されたばかりだったが、日系人が住んでいたバラック小屋の一部や彼らによる手芸品、絵画等が展示されていた。理事長兼館長は、日本政府のJET計画で滞日経験を持つ白人女性で、博物館を軌道に乗せるため展示の拡充と寄付集めに奔走していた。他の収容所の跡地にも同様のプロジェクトがあるが、ボランティアの力でこのような事業を成し遂げるのは米国ならではのことだ。

Ⅲ.結び~米国はフェアで魅力的な国であり続ける
 これからも移民問題を巡る米国内の対立は続くであろうが、日系人強制収容の負の教訓は、外国人排除の行き過ぎの歯止めとしての役割を果たすであろう。そして、日系人はその中で主要プレヤーあり続けるであろう。前述の1988年市民的自由法の実現の過程で豊富な経験を積み、9.11事件後の中東系に対する差別などに先頭に立って反対した日系人は黒人を含む他のマイノリティー・グループに一目置かれている。
 米国民は熱しやすく、時に判断を間違えることがあるが、誤りを指摘し、正そうとする勇気のある人々が必ず声を上げる。米国で移民・マイノリティーに対する差別はなくならないだろうし、ポスト・トランプにおいて状況が更に先鋭化しない保証はない。ブラック・ライブズ・マター(BLM)などの差別反対運動に参加・支持する白人が確実に増える一方、これに対する一部保守派の反発も高まるであろう。民主、共和両党間の対立が更に深まるとともに、両党内部の対立が激化することも懸念される。しかし、それがアメリカだ。今後も、フェアネスを重んじる米国が根幹から揺らぐことはなく、米国全体が持つ特有のバランス感覚が失われることはないと信じる。そして、世界中の人々を引き付ける国であり続け、他の国がそういう米国にとって代わることはないと確信する。