「チーコ」の備忘録(歴代駐独大使に仕えた秘書のモノローグ)


元駐スウェーデン大使 森元誠二

1.1942年の駐独外交団リスト
 私の手元に、陸軍の通常礼装に身を固めた大島浩駐独大使の肖像写真及び彼が館長を務めていた1942年2月付の独外務省発行外交団リストの日本関連部分の写しがある。凛々しい顔の大使の襟と肩には中将を示す星二つの襟章と肩章、胸には日独を始めとするおびただしい勲章や略綬が飾られている。大使館の館員リストを見ると、大使の下に加瀬俊一参事官、内田藤雄三等書記官、牛場信彦三等書記官、上田常光理事官、新関欽哉理事官など私も知る諸先輩の名前も散見される。

大島浩駐独大使
駐独外交団リスト抜粋
アンネマリア・チチンスキー(チーコ)

2.アンネマリア・チチンスキーの証言
 これらの物品は、私が1998年に二度目の勤務地ボンの大使館を去るに当たって、かつて大使秘書を務めていたアンネマリア・チチンスキーから譲り受けたものである。既に1990年に独再統一が成り首都はベルリンと定められたことから、中曽根総理とコール首相との合意により1985年に設立された日独文化センターとして立派に修復された旧日本帝国大使館の建物を再び日本国大使館として利用するための諸準備が進んでいた。独財団法人としてのセンターとの契約中に、両独が統一の暁には大使館として再び使用するため建物を日本国政府に返却するとの一文を挿入した先人達の先見の明には感服する。ベルリンへの移動準備に伴い、大使館職員もボンの大使館分館に留まる者、新たな首都の大使館に移動する者など振り分けが進みつつあったが、既に1989年10月に退職していた老齢のチチンスキーは住み慣れたボンの地に留まる意向であった。身寄りのない彼女は2012年7月にその地で一人寂しく生涯を終えたと後に仄聞した。
 彼女のことは、フライブルク大学での研修を終えて私が最初のボンでの大使館勤務となった1978年以来知っていたが、当時から彼女は一部の館員の間では親しみを込めて「チーコ」と呼ばれていた。私は、何となくこれが「チーコ」との最後の別れになるのではないかとの予感がして、戦中から長く勤務し数多くの大使や館員に仕えた彼女から話を聞き、これをアンドレアス・ゲーベル高級クラークの力を借りて記録に留めることにした。その際に、彼女が自分の宝物としていた前述の写真と外交団リストをコピーさせてもらったのである。
 実際、その後私は2005年にベルリンで大使館次席として三度目の独勤務をすることになるが、そこに「チーコ」の姿はなく、彼女の記録のことも記憶のかなたに追いやられたまま私は任期を終えた。「チーコ」の証言のことが再び頭に浮かんできたのは、私が2015年秋に退官した後のことであった。

3.ユダヤ系「チーコ」の大使館現地職員採用
 1923年5月にベルリンで生まれた「チーコ」が日本帝国大使館での勤務を開始したのは1942年1月のことである。前年にギムナジウムを卒業した彼女は戦局が厳しさを増す中、母親の知り合いのある日本人のつてを頼ってこの仕事に就いた。彼女の初任給は200ライヒスマルクであったが、二重課税防止条約の適用もあって租税負担はなく、その後1945年には450ライヒスマルクに引き上げられたので当時としては高給取りであった。彼女の証言に言及はないが、私が初めての大使館勤務を始めた時にお仕えした吉野文六大使は、「チーコ」がユダヤ系であることから、ナチスが勢力を伸ばす中その身をかくまう意味もあって現地職員として採用されたと述べておられたことがある。

4.在ベルリン日本帝国大使館
「チーコ」が勤務についた当時の大使は、1941年2月から独で二度目の館長を務めることになった大島浩大使である。館員は総勢約50名、現地職員約25名の大所帯であった。管理人も3人いた。大使の下には2人の公使がいたが、政務総括は加瀬俊一参事官、政務班長は内田藤雄書記官、その下に牛場信彦書記官がおり、他に上田常光理事官や新関欣哉理事官もいた。「チーコ」にとって最初の難しい仕事は、ウチダ、ウシバ、ウエダといった紛らわしい名前と具体的人物を結び付けて覚えることであった。
 戦雲は急を告げており、人々は駅で頻繁に見かける兵員輸送列車の行き来からもこの先何かが起こると不安を感じていたが、そのことを口にすることは出来なかった。しかしながら、生活必需品は1943年末ぐらいまでほぼ手に入り、首都ベルリンも美しい街に留まり活力に満ちていた。多くの人が通りを行き交い沢山の車も市中を走って、目抜き通りのカフェやレストランは明け方まで店を閉めることはなかった。
 大使館の位置するティアガルテン地区は官庁街や経済の中心地ポツダム広場に近く、市内でも優雅な地域と認識されていた。ティアガルテンそのものが美しく広大な公園であり、ビスマルクやモルトケ、ワーグナーなどの人物像やプロイセンによる戦いの戦勝記念塔などのモニュメントがあちこちに立ち並び、朝には馬を駆る人々も見かけられた。大島大使は独政府から乗馬一頭を供されたが、実際には武官府所属の西郷従吾中佐がもっぱらその馬を駆り、他の同僚からは羨望の目で見られていた。
 1940年9月に調印された日独伊三国同盟のよしみで日本帝国大使館には区域内の一等地が割り当てられ、1938年秋から42年にかけて建物が建設された。その横には立派なイタリア大使館が建てられた。両者はこの地区でも目立つ存在の豪華な建物であった。大使館は大使公邸とそれに接続する事務棟からなり、後者には大使、公使、参事官、儀典班の他に政務班と官房が入り、更に敷地内の別棟には経済班、陸海空の武官室及び領事班が入っていた。公邸の後ろには、運転手や管理人が居住する建物もあった。今日でも見られるが、事務棟入り口には2頭の狛犬像が建物を守るように立っていた。公邸入り口の扉は背丈が高く立派であり、当時の価格でも22,000ライヒスマルクと高価なものであったが、内部は大理石を多用し、床には黄金縞模様の入ったライムグリーンの絨毯が敷き詰められ、大広間や食堂を始め一部の壁面には桜のパネルが用いられて招かれた人々の心を魅了した。

(写真左)在独日本大使館  (写真右)狛犬像

 「チーコ」の家が1942年11月に被弾し、母親たちは故郷のシュレジア地方に疎開したので、彼女は大使館別棟の経済班のある階で寝起きすることになった。1943年11月からはベルリンも激しさを増す空襲に頻繁に晒されることになる。ある日事務棟に爆弾一発が当たり、建物の背後を壊した。公邸の裏にも二発が落ち、一発は不発に終わったものの一発が公邸の背部と大広間を破壊した。その後、館員は寒さの中、執務室でも外套に帽子をまとい手袋をつけて仕事を継続したが、1945年2月の独外務省指示により大島大使は武官を含む一部館員及び家族と共に避難先の一つであるオーストリアのバートガスタインに退避することになった。大使一行がベルリンを去った後も残務整理のためにロシア語のできる新関理事官を始めかなりの数の館員が同地に残留した。残された主な仕事はすべての文書の焼却と廃棄であったが、遂に4月13日、独政府は南独に疎開することになるとの理由をもって、大使館員もベルリンを去り同地に向かうよう独外務省から告げられる。

5.ソ連軍占領下のベルリン
 アドルフ・ヒットラー総統が1945年4月30日に自害して、ソ連によるベルリン制圧は翌日完了した。ソ連兵の占領後一週間余の間の独市民に対する乱暴狼藉には目に余るものがあり、「チーコ」たち女性は館員や男性現地職員の保護なしに外出するのは身の危険を感じる程であった。大使館に侵入した一部の兵士が絨毯や銀器を始めとする貴重品の類を持ち去るということもあった。その時「チーコ」が果敢に身を挺して兵士の侵入を阻止しようと試みたとの武勇伝も語り継がれている。残留した館員及び現地職員は旧武官府側の建物の地下で共同生活を強いられたが、大使館にはコメやオイル・サーディンなどの缶詰のほか、緑茶や人参などの野菜もかなりあり、日本人料理人の用意する食事を皆で共有して一時期をしのいだ。5月になると突然ソ連軍の車両が2台大使館の前に現れ、館員は皆僅かばかりの荷物を持って連れ去られたが、後に「チーコ」は彼らがシベリア経由で帰国の途に就いたのだと知った。別れに際し彼女は数百ドル分の紙幣を館員から受け取ったものの、すべてが100ドル札だったために闇市場でこれら大金をライヒスマルクに交換するのには苦労した。

6.在ボン日本国大使館での再勤務
 ベルリンに残された「チーコ」はその後数奇な運命をたどる。米国占領軍から日本帝国大使館での役割について取り調べを受けたが、その過程で彼女がかつてあるユダヤ人の国外逃亡を支援したことを把握していたユダヤ系将校の配慮もあって、やがて米軍のために働くことになる。ベルリン封鎖の後には、彼女は米軍関係者と共にフランクフルトを経由してボンに向かった。
 1952年になるとケルンでの大使館開設準備を経て寺岡洪平在外事務所所長が西独の暫定首都ボンに着任し、4月に大使館が開設されると臨時代理大使に昇任した。「チーコ」は一部の旧大使館員と連絡を保っていたことから打診を受け、再度大使館の職員としてボンで雇用されることになった。かつての現地職員の中で、大使館に復したのは彼女一人だけだった。公邸職員も必要とされたが、彼女を通してかつての現地職員の中からオーストラリア大使館で配達員をしていたイットラーが採用された。私もボンの公邸で執事を務めていたイットラー職員のことはよく覚えている。口髭を蓄えた外見がヒットラーにそっくりであり、館員の間ではヒットラーが名前を変えているのではないかと冗談の陰口を叩かれていた。

7.大島大使と「チーコ」の間柄
 「チーコ」によると大島大使は流暢な独語を話した。現地職員が大使に接することは多くないが、大使は彼らから大いなる尊敬の念をもって見られていた。職員が接する時に大使の方から親しい挨拶を交わすことはあっても私的な会話をすることはなかったが、やさしい心遣いの人であり、「チーコ」の母親がけがをした時には薬や人手の手配をしたり、空襲で被害を被った現地職員のためには衣食の手当てを自ら采配したりするなど心配りのできる人だった。彼女が公邸に招かれたことがただの一度だけあった。それは大島夫人に食事に招かれた時だったが、そこに後から大使も加わった。「チーコ」にとっては大使と親しく話す初めての機会だったが、個人的に話すときの愛想の良さが印象に残った。
 「チーコ」の大使夫妻との交流はその後も続く。彼女が外務省に招かれて1970年に初来日した際は、茅ケ崎の自宅に大使夫妻を訪ねた。その後も関係は続き72年及び76年(注:証言記録には「76年」とあるが、大島大使は75年に亡くなっているので「チーコ」の勘違いかと思われる)にも夫妻と茅ケ崎で会った。最後に会った時、「チーコ」は大使が既に病気であることを知っており、これが永久の別れになろうと薄々感じていた。彼女が辞する時、着物姿の大使は既に暗闇の増す寒い中を外に出て、彼女の車が見えなくなるまで懐中電灯の手を振って見送った。

8.大島大使の日独伊三国同盟にかける思い
 大島大使を巡っては昨年11月に興味深い報道があった。三国同盟の成立に与って力のあった大島大使は東京裁判で無期禁固の刑に処されたが、1955年に仮釈放された後も先の大戦のことについては固く口を閉ざしたまま亡くなったと言われていた。しかるに、晩年の1971年から73年にかけて三宅正樹明治大学名誉教授によって大使にインタビューが行われており、その録音記録の一部が11月19日のNHK「おはよう日本」で公開されたのである。その中で、自ら曰く「頭がいいこと、天才であることは疑いのない」とヒットラーに心酔していた大島大使は、三国同盟は自分が言い出したものであり、ドイツ側に自ら用意した骨子案を持たせて松岡洋右外務大臣に繋いだのも自分だと驚きの証言をしている。
 と同時に、「私はもちろん自分の責任を痛感する、非常にそういうことを感じますね。いま考えるとドイツが勝つだろうという前提に立ってやったわけなんですよ。私が陸軍武官のときは、軍が強いか弱いかを見てればいいんだけど、大使になれば総力ですね、経済力とか産業とか、そういうことに関する判断もしないとならん。経済力・生産力なんて判断はまったくやってないんですよ、私はね。軍力だけでこれは勝つだろうと」と述べて、自らの過ちを率直に認めてもいる。
 私の父は陸軍将校として満州に駐屯していたが、終戦間際にソ連軍の捕虜となり、過酷なシベリアの地に抑留された経験を有していた。戦時中のことは父もあまり多く語らなかったが、ある時、抑留の地で同じく捕虜となった独将兵と話していて彼らが日本は独の同盟国であることを全く知らずにいたので驚いたと語ったことがある。三国同盟の実態とは、前線ではその程度のものであったのであろう。

9.あるドイチェ・シューレの会合
 大島大使の下でベルリンに在勤した独語の諸先輩の幾人かに、私は1975年入省後にドイチェ・シューレの新人としてお目にかかる機会があった。今では省内でも廃れつつある慣行のようだが、比較的少人数の語学グループというということもあって当時は関係者の歓送迎会や忘年会・新年会の類の集まりは結構よく行われていた。その中で今でも忘れられないのは、下町の割烹で開かれたある会合のことである。そこには内田藤雄、牛場信彦、上田常光、法眼晋作他の大先輩が出席する中、我々「新入生」も自己紹介する機会が与えられた。
 圧巻は、宴を終えるに当たり皆で唄って締めくくろうということになった時、「それならリリー・マルレーンだな」との誰かの一言でこれら先輩方がひときわ声高く歌詞を原語で唱和し始めたことであった。大合唱の中で、勿論(?)我ら新人は一緒に歌えない。しかし、マレーネ・ディートリッヒの活躍に象徴される「ベルリンの黄金時代」を知る彼らのドイツ文化への思い入れは強く感じ取った次第であり、その後に控えるドイツ留学に向けて「新入生」としての心意気を新たにする良い機会となった。

10.外交官人生
 振り返ってみれば、その時から退官までの歳月は矢の如く過ぎ去って行った感じがする。入省した当時、ソ連の崩壊や東西両独の統一など誰も想像すら出来なかったが如く、世界の歴史は誠に波乱万丈である。
 我が身に照らしてみても、ウィーンから東西の壁崩壊以前にも把握できた東欧の瓦解プロセス、バグダッドで遭遇した湾岸危機と「人質」となったクウェート在留邦人の解放劇、アンカラで体験したイスタンブール近郊大地震と我が国の緊急援助、マスカットでもすぐさま吹き荒れた「アラブの春」の騒乱などの事例を挙げるまでもなく、そこに投げ込まれた私の40年余に亘る外交官人生も波乱万丈であり、また興味深く遣り甲斐のあるものであった。