黒海の真珠とうたわれたオデッサの日本領事館


前駐ウクライナ大使 角 茂樹
(玉川大学客員教授、岩手大学客員教授)

1.オデッサという町

オデッサを築いたリシュリュー公爵像

 オデッサと聞いて皆さんは何を思い浮かべるのでしょうか。映画好きの人であれば古典的作品であるエイゼンシュタイン監督の「戦艦ポチョムキン」を想起するであろうし、スパイ小説が好きな人にとってはフォーサイスの「オデッサファイル」で描かれた秘密組織オデッサを思い浮かべるかもしれない。実際のオデッサは黒海の北西部に位置するウクライナの港街であって温暖な気候で知られる美しい町である。19世紀にはロシア帝国内に於いてモスクワ、ザンクト・ペトロスブルグ、ワルシャワに次ぐ人口を持つ大都会に発展しており欧州有数の港町であり多くポーランド系、ギリシャ系、ユダヤ系の人々が暮らす国際都市であった。街のプランは19世紀初頭のオデッサの知事でありフランス人であったリシュリュー公爵(有名なリシュリュー枢機卿の甥)が策定したのでオデッサはフランス風の街として発展し、「黒海の真珠」、「ロシア帝国の南の首都」と呼ばれほどの繁栄を誇った。日本は、日露戦争直前の1902年から1937年まで領事館を置いており1965年には横浜市とオデッサ市が姉妹都市協定を結んでいる。明治から大正にかけて日本の絹、漆器、陶磁器といった輸出品が横浜からオデッサに運ばれた縁である。

2.名誉領事時代
 1874年、日本はロシア帝国首都ザンクト・ペトロスブルグに公使館を開設したがオデッサの重要性に注目し日本の領事館の開設を強く求めたのは西徳二郎公使であった。まずは現地人による名誉領事を置いてはどうかという事になり1889年から1898年にかけて現地の有力者が任命されたが特に2代目のラセーエフは、20年近く日本商品の見本市を開くなど精力的に活躍した。

3.日露戦争前夜の領事館
 1898年ラセーエフが死去したのをうけて林董(ただす)駐ロシア公使は、本国に対し今度はオデッサに名誉領事ではなく正式な領事館を開設すべきであるとの意見を送った。その理由として日本よりの絹、陶器、漆器と雑貨の対ロシア輸出及びロシアよりの石油の輸入に関してだけでなく、ロシア黒海艦隊の動向を探る上でもオデッサが重要であることを強調している。こうして1902年3月に飯島亀太郎がオデッサに着任した。飯島は、東京帝大を卒業し、1894年に行なわれた第1回文官高等試験外交科に合格したキャリア外交官第一号である。飯島は、まずオデッサのブリストルホテルに仮事務所を開設している。ブリストルホテルは、今もオデッサにおける高級ホテルとして健在であって、私も宿泊したことがあるがロシア帝国時代の雰囲気が随所に残るホテルである。飯島は、4月にはヴォロンツォフ街4番地に領事館と公邸を兼ねた建物に移っている。海辺を見渡す一等地である。
 当時バルカンは、ロシア帝国、オスマントルコ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国がその影響力を巡って争う地域であり日本にとっても注視する大きな問題であった。仮にロシアがバルカンで戦争を始めれば当然それはロシアの極東の動きを制限し日本と戦争を始める余力が低下するからである。この時日本は、オスマントルコトルコ帝国をはじめバルカンに公館を有していなかったのでバルカンの情報取集は専らオデッサ領事の重要な仕事であった。一方ロシア黒海艦隊情報に関しては、1903年4月、開設間もないオデッサに日本陸軍より歩兵大尉武藤信義が表向き留学生として又名前も武藤昇の仮名で情報収集のため派遣されている。武藤は、ロシアにとっての2大外交懸案は満洲問題とバルカン問題であるとして、その対処のためにはロシア黒海艦隊にダーダネルス海峡が解放される事が急務であるとの報告を行っている。当時は1871年のロンドン条約その他の条約によってダーダネルス及びボスポラス海峡の軍艦通過は禁じられていた。このため黒海艦隊はもっぱら黒海においてロシアがトルコ対する軍事的優位を確保するために設立された艦隊であって黒海の外には出ることは条約違反であると考えられていた。しかし、日露関係が緊張するに及んでロシアがトルコに圧力をかけ黒海艦隊の海峡通過を認めさせるとの風評が飛び交っていたのである。

 1904年2月に日露戦争がはじまると3月25日にオデッサ領事館は閉鎖される。オデッサを去った飯島が向かったのは日本ではなくイスタンブールであった。同地で黒海艦隊の動きとバルカンの情勢を引き続きフォローするためである。
これより少し前、つまり日露戦争が始まった2月から3月中旬にかけて飯島は、コンスタンチノープルに出張してトルコ政府の海軍教育に携わっていたイギリス人海軍パーシャ中将と会談し、黒海艦隊の動向につき(ア)日露開戦のひと月前ロシアはトルコに黒海艦隊の海峡通過を求めたがトルコはそれを拒否している。(イ)黒海艦隊の艦船は老朽艦が多く新造艦も遠洋航海には向かないものが多く石炭の供給問題もあり極東にまで派遣するのは物理的に困難である。(ウ)黒海艦隊がダーダネルス海峡通過を強行した場合はトルコは力でそれを阻止できないが明確な条約違反であり、地中海の軍事バランスを崩す事、ロシアのバルカンにおけるスラブ政策の脅威から見ても英国の公論は戦争をしてでも阻止すべきとなると思われる。(エ)ただロシアが義勇艦隊(注、露土戦争後ロシア民間人が組織したもので商船と多少の戦闘能力のある予備巡洋艦からなっていた)を商船としてトルコ政府に通知する事なく海峡を通過させる可能性はあるとの情報を得ている。パーシャ中将は明治維新前に英国海軍の軍艦船長として日本を訪れたことがある事から日本に特別の好意を持っていたのだ。黒海艦隊の主力が極東に向かう可能性は少ないとのこの情報は日本海軍を喜ばせた。

 オデッサ領事館閉鎖に伴いイスタンブールに移った飯島は、そこで元海軍大尉であって中村商店をイスタンブールで営んでいた中村健次郎の協力を得てダーダネルス海峡を通過する船の監視を行っている。イスタンブールに於いて飯島は外交官としてではなく新聞通信員松本という偽名を使っていた。ロシア及びトルコ政府に飯島の諜報活動を知られないための配慮である。しかし在コンスタンチノープルのロシア公館は飯島の本性を見抜いていたようであり常に飯島を尾行した。4月、飯島は、病気になり完全に回復しなかった事、ロシアが既に飯島の活動を警戒しており同人の身の安全上の問題があるとの理由で結局秋にはウイーンに戻る事となる。肝心の黒海艦隊の動向であるが1904年7月4日にロシアの義勇艦隊3隻(石炭輸送船に限られた)が軍艦でない事(軍艦旗を掲げない、武器の搭載の有無をトルコ側が点検する)を条件に海峡の通過を認められた。海峡を通過した義勇艦隊はその後エジプトのポートサイドに寄港しスエズ運河を商船旗を掲げながら航海のうえバルチック艦隊に合流している。飯島が3月にイスタンブールに於いてパーシャ中将から聞いた通りのことが起こった事になる。ロシアが義勇艦隊に石炭をのせてバルチック艦隊に合流させた背景には、バルチック艦隊が英国領の入港を拒否され、その途次において石炭をはじめとする物資の調達が困難を極めた事から石炭を積んだ義勇艦船が必要であった事がある。

 1905年に日露戦争が終了すると翌年の1906年4月には早くもオデッサ領事館が再開され飯島亀太郎が領事として復帰している。1907年4月オデッサに赴任した佐々木静吾書記生は当時オデッサについて、経済は衰微し、革命派テロと、ロシア国民協会の反革命テロが交差し日々血なまぐさい事件が頻発していたと次の通り述べている。
(ア)オデッサの中心部にあった警察署のすぐ近くで歩いていた警部に爆弾が投げつけられ、警部の体は粉々となり片足だけが跳んで路端の家の2階の窓側にぶら下がるとの事件が起こったが犯人は捕まらなかった。
(イ)官憲が殺害された後はその葬儀において黒シャツを着たロシア国民党員(チョルノソーテンツ)と称するグループが報復のため、ユダヤ人の商店や住宅に乱入し狼藉を働く事態が発生したが警察はこれを阻止しないどころかこれに加勢するものもいて市民の怨嗟の声が高かった。
(ウ)一人の妙齢の夫人がオデッサ軍管区司令官カウリバラス大将(日露戦争で満洲従軍)に紹介状を持って面会の上爆弾で暗殺を企てた。この夫人が大将の官邸の前の通りを散歩と見せかけて歩いているうちに爆弾を落としたことから逮捕され大将は無事だった.しかしこの事件は革命派が暗殺のために若い婦人をも利用した一例として記憶された。
(エ)革命派は資金調達のため大会社、銀行、商店を襲撃した。ある日、市の中央にあるデパートが襲撃されたことがある。午後4時ごろ人出の多い時刻に革命派の青年がデパートの2階で支配人に面会の上爆弾を突き付け、青くなった支配人から金を受け取るとこともなげに支配人室から退去し買い物客で込み合う中を通り抜け戸外に姿を消した。その機敏さと落ち着きぶりに市民は舌を巻いた。
(オ)革命党の一味が警察隊に追撃されたことがあり、革命党員の一人の女党員が打たれ倒れたので最初は他の何人かの党員がこの夫人を抱えて駆け出した。しかし警察に一網打尽となる恐れが出て来たので男党員は女党員に数弾打ち込んで完全に死んだことを確認の上逃走した。市民の間では危急の場合には証人を残さぬため同士を殺すという用心深さは感心なものだと評判になった。

 1908年7月日本政府は経費節約を理由にオデッサ領事館を閉鎖しその予算でドイツのハンブルグに新たな領事館を開設することを決定した。

4.ソ連時代の オデッサ領事館
 ロシア革命後の1925年1月に日本とソ連の国交が回復された。日本は新たに領事館をオデッサにおくことを決め、同年1月佐々木静吾が領事として赴任する。1909年にオデッサを副領事として去った佐々木書記生が16年ぶりに領事として復帰した。革命前を知る佐々木によればオデッサの様子はすっかり変わっており、港の周囲にあった高架鉄道は全てなくなっていたが穀物輸出の港湾設備は整備され穀物輸出期には多数の船が港に入る順番を待っているという盛況であったという。ただしオデッサ市の人口は革命前は60万であったが1925年は32万に減少している事、貨物の集積量そのものは革命前の一割に過ぎない事、市内は革命前と変わらないが郊外の家屋は革命と内乱で破壊されたままになっている事を東京に報告している。

 1937年5月にいたってソ連は突然オデッサとノヴォシリヴィスクの領事館の閉鎖を求めてくる。1925年の日ソ合意により日本とソ連両国はそれぞれ8か所の領事館を設けたわけだがソ連はその後長崎と東京の領事館を閉鎖したことをもって双方の領事館の数を同じくする必要があるとの理由を述べて来た。1925年の合意は双方の領事館の数の上限を9と定めているのであって同数主義ではない。この事から日本は要求を拒絶し東京、モスクワ双方で折衝が続けられたが8月に入りソ連側は、9月15日以降は両領事館の職務執行を認めないとの通告を一方的に行った。9月15日になるとソ連側は平田オデッサ領事夫妻に対し郵便物配達の停止、大使館との電話連絡の切断、運転手と女中の逮捕、ついには水道、ガス、電気の供給までたってしまうとの暴挙に出たので領事館は職務不能の状況に陥った。こうして日本は止む無く9月30日に領事の引揚を行ったのである。9月20日、日本側はモスクワに於いてソ連側に対しソ連が協定に違反してオデッサとノヴォシリヴィスクの領事館の活動を不可能にしたため館員を引き揚げる事とするがこれは、ソ連による圧迫のための一時引揚げであり閉鎖ではないとの抗議を申し入れている。ソ連は、当時日本だけでなく米、英、ドイツ、ポーランド、イタリアといった国に対しても領事館の閉鎖を求めてきておりその背後にはスターリンが外国公館がスパイ活動の巣窟となっており政府転覆を狙っているとの猜疑心を持っていたことが影響していたとみられている。それにしても日本領事に対する度を越えた非礼な取り扱いは、1936年の日独防共協定に対するソ連の反発があったとしても許されざる行為であろう。

5.芦田均のオデッサ訪問
 戦後総理となった芦田均は、ロシア革命のさなかロシアに勤務しており1918年にキエフを訪問しているが、その10年後の1928年7月、同人はトルコ大使館勤務時代にオデッサをはじめとする黒海を周遊し「黒海周遊記」として本にまとめている「1958年 『革命前後のロシア』 自由アジア社 黒海周遊記 )。この時芦田はオデッサに於いては日本領事館があった「ロンドンスカヤ」ホテルに宿泊し、街を探索している。芦田は「ロンドンスカヤ」ホテルについて天井の高い贅沢なものであるがもう何年も手入れを怠っているので薄汚れており、シーツは擦り切れ、穴がのぞいている淋しいものであったと記している。オペラ座についても壮麗な帝政時代の建物と粗末な服を着た観客との対比が悲惨な思いを起こさせると言っている。オッサ港は、帝政時代は小麦、バター、木材を輸出していたのに農産物の輸出が止まったので港には全く船の姿がなく、街全体に物がない、金がない、心の安定がないという現象が現れているとし、革命前に比べ生活水準が著しく低下していると述べている。1928年といえば、スターリンによる外貨獲得のための無理な農産物輸出政策と農業集団化政策とそれに反発するウクライナ農民に対する弾圧がたたってその後の1932年に起こるホロドモール(ウクライナ大飢饉)の前兆がみえ始めていた時期である。

オデッサオペラ座

6.オデッサ探訪
 最後にオデッサの魅力について述べたいと思う。オデッサ市はウクライナの中にあってはザンクト・ペトロスブルグに最も近い街並みを有している。町が碁盤の目の様に作られていることがそうさせているのかもしれない。特に19世紀後半に建てられたオペラ座は内部の装飾がロココ様式でありその華麗さに圧倒される。ウクライナは、現在においてもオペラ、バレエが盛んで首都キエフのオペラ座、リヴィウ市のオペラ座もそれぞれ美しい。ポチョムキン階段は、1925年制作のセルゲイ・エイゼンシュタイン監督の「戦艦ポチョムキン」で有名である。周辺には帝政ロシア時代の総督の宮殿、リシュリュー像、市役所といった見どころが集まっている。エカテリーナ女帝の像も遠くないところにある。映画「戦艦ポチョムキン」で乳母車が階段を落ちていく有名なシーンもここで撮影された。

ポチョムキン階段
オデッサの街並み
オデッサの街並み