素通りした和平工作
駐バチカン大使 千葉 明
5世紀間に跨がるさまざまな周年
今年、2025年は、四半世紀に一度の聖年である。その年にしか開かれない四つの大聖堂の「聖なる門」をくぐって罰を軽くしてもらうため、思い当たる節のある信徒をはじめ、世界中の3千万人の人出がかねてから見込まれていた。そこへ教皇フランシスコの崩御、新教皇レオ14世の即位という、十数年に1回あるかないかの大イベントが重なり、日本大使館が面する表参道・コンチリアツィオーネ通りは、連日竹下通り並みの混雑である。
2025年は、日本のカトリック史においても、天正少年遣欧使節団教皇謁見440周年、慶長遣欧使節団教皇謁見410周年など節目の年を迎える。
だが本稿では、もう一つの周年を取り上げたい。2025年は、バチカンを和平工作が素通りしていって80年目に当たるのである。
日本は1942年にバチカンと国交を樹立した。使節の人選につき、バチカン側の要望は、「なるべくなら大使たる特命使節であること、兼轄国を持たないこと、交戦国からの異動でないこと」だった。外務省は同年1月時点で、戦争による交通の遮断を理由に、「在欧の特命全権公使の中から人選せざるを得ない」と在京教皇特使に伝えていた。実質上スイス、スペイン、ポルトガルの3公使からの人選である。
その後3月7日に至り、米国がバチカンと日本の国交樹立の動きに関し、駐米教皇特使に対し再考を促す。同日、在ヴィシー使節団長たる臨時代理大使をバチカンに駐在させるのが日本側の意向であることが、在バチカン伊大バブッショ参事官から教皇庁タルディーニ国務長官に伝えられた。その際バブッショ参事官は、在欧特命全権公使から人選すれば話は簡単だったのに、と付言している。日本の方針変更の理由は公になっていないが、この臨時代理大使が、在ヴィシー原田健参事官である。

初代原田公使の赴任
原田は高文試験行政科で、外交官試験組ではない。その海外経験は新渡戸稲造・国際連盟事務次長の秘書としてのロンドン赴任に始まり、連盟退職後、在仏大使館の次席としてパリに着任する。後日、吉田首相をして「原田は掘り出し物だよ」と言わしめたというから、相当な逸材だったらしい。臨時代理大使だったのは、在仏大がヴィシーに移って日も浅い紀元節に、思いがけず加藤大使が急逝したからである。在スイスの三谷隆信公使がヴィシー転任の内示を受けたのはシンガポール攻略中で、それから一週間と経っていない。時を移さず外務省は、原田を特命全権公使に発令する手続きを開始する。バチカンが求める3点を満たすためである(ヴィシー政権は宣戦布告をしておらず、交戦国ではない)。
原田は1942年5月に教皇に信任状を捧呈し、そのヴィシーの後任には駐ポルトガル特命全権公使が10月になって「出張」扱いで参事官として赴き、専らパリの留守居役を務めることとなる。こちらの人事については、三谷は「本省の都合」としか書き遺していないが、半年は空席だったことになる。更にそのリスボンへの後任、森島守人公使は、外交官交換船で米国からの帰途立ち寄った欧州出張中に発令されたというから、戦時中の人繰りは綱渡りである。

イタリア降伏の影響
原田の最初の仕事は、バチカンに対し、南京政府と国交を樹立するよう、駐バチカン伊大使と共同デマルシュを行うことだった。というのは、米国はバチカンと日本との国交樹立に横槍を入れると同時に、国府との国交樹立を働きかけており、これと相前後して、在米の宋子文国府外相がバチカンとの国交樹立の意向を正式に伝えてきたからである。原田が働きかけた段階で、バチカンは既に国府の要望を受け入れていたため、原田着任からそう時を経ずに国府とバチカンの国交が成り、年明けを待って謝寿康公使が着任している。この不首尾が、今日も青天白日旗がコンチリアツィオーネ通りに翻っていることに繋がっている。
1944年6月、ナチスの占領下にあったローマが陥落すると、駐バチカン枢軸国外交官はバチカン領内の裁判所を改装した臨時宿舎に居を移し、入れ替わりに、それまでバチカン領内で起居していた駐バチカン連合国外交官が、今や連合国側となったローマ市内に戻った。同じ頃、米統合参謀本部は戦略情報局(OSS)要員をローマに駐在させる。崩壊間近なドイツの国内事情を探るためであるが、日本の継戦意思の動向も重要な情報だった。しかしヴァイツゼッカー独大使(ヴァイツゼッカー独大統領の父親)も原田公使も既にバチカン城壁の内側にあり、情報収集はバチカン通に頼らざるを得なくなる。

ある情報屋の栄光と転落
そうしたバチカン通の一人に、その報告の細かさと生々しさで定評のある人物がいた。イタリア人スカットリーニ、コードネーム「ヴェッセル(船)」である。特にその日本情報は重宝され、ルーズベルト大統領の目にも触れたという。あまりにもお誂え向きの情報に、これは欧州からアジアに注意をそらそうとするナチスの仕込みではないかという疑いもなくはなかったらしいが、そもそも捏造ではないかと疑う人はなかった。
ところが、やがて「ヴェッセル」は致命的なミスを犯す。情報屋の常として、顧客ごとに欲しがりそうな情報を売るのだが、顧客が相互に情報を融通していると知らずに、原田公使が在バチカンのルーズベルト大統領個人代表マイロン・テイラーと接触した、とまことしやかに報告したのである。この情報を入手したOSSは直ちにテイラーに裏を取り、原田と接触どころか面識もない、との回答を得るや、「ヴェッセル」情報の使用を中止する。そして、それまで提供された「ヴェッセル」情報も、全て信頼できないものとしてディスクレディットされ、逆に和平工作は日本の念頭にない、という結論に傾いていくのである。戦後、「ヴェッセル」ことスカットリーニは、「外国に危害を及ぼす罪」というファシスト党の制定した法を援用して「バチカンに対する危害」の容疑で逮捕・投獄され、出所後、妻子と共に杳として姿をくらました。
素通りした和平工作
さて、公開された日本側外交文書によると、1945年6月、原田は本省に打電し、元在米教皇使節団のヴァニョッツィ司教が大使館嘱託の富沢神父に接触越したが、交渉の相手たるべき米側人物につき何ら明かすところがなかった、と報告した。さらにその翌週、再びヴァニョッツィが接触越したことを報告した上で、「当方回答に対する先方の弁明」と断じ、肯定的評価を付さなかった。なお公電の文面には出ていないものの、この時点で米側人物がOSS要員であることを認識していた、と原田は戦後の対談で述べている。
確かに、映画人の肩書を使ってOSSで情報活動に従事していたマーティン・クィグリーは、これを遡る1944年の秋口、上司のウィリアム・ドノヴァン将軍から、対日和平工作の準備をするよう指示された、と書いている。しかし戦後の原田との文通からは、二人がバチカンではお互い知りもしなかったことが窺える。原田はどうやってヴァニョッツィの言う米側人物がOSSだと見抜いたのか。OSSは、スカットリーニ情報がガセネタだったことを承知の上で、なおも直接日本の感触を探ろうとしたのか。
この関連で、当時日本使節館(公使館とは呼称しなかった)の次席として勤務し、終戦後も事情で七年にわたりバチカン市国内で「居候」していた金山政英は、OSS工作員が和平案を持ち込んできた、と書き遺しているが、いつの時点で、なぜOSSと分かったのかには一切触れていない。
いずれにしても、東京はこの時点でソ連を介した終戦工作に全ての希望を託しており、原田の報告電が東郷外相に上がったかどうかさえはっきりしない。
バチカンを舞台とした和平工作は、こうして通り過ぎて行った。
3つの変数
ところで原田は、1968年に「同志社時報」に寄せた一文に、「天皇陛下は万一開戦となった場合でも終戦の場合に和平工作を進める必要上、ローマ法王庁と外交関係を開きおくように」下命していたことを、帰朝後始めて知った、と記している。つまり、和平工作の打診を受けながら、それが天皇直々の使命遂行につながる、とは認識していなかったことになる。
ことは諜報であるから、誰がどこまで真実を言っているのか分からない。ローマを逐われた原田と、ヴェネツィアの別荘を引き払ったテイラーは、互いに面識がないとしつつ、東京ディスニーランドほどの広さもない、建物もまばらなバチカンに、同時期に居を構えていたのだから。ともあれ、各人の言い分を全て額面通り受け取るなら、バチカンでの終戦工作には3つの変数が絡んでいたことになる。一つは日本に和平への意図が存在しない、従って徹底的に戦うしかないという米側の思い込み、一つはソ連に期待しその他の終戦工作の可能性に見向きもしない日本戦争指導部の態度、そして一つは、真相を知らされなかった出先公館長である。
この3つの変数の連立方程式の解が、広島と長崎であったとすれば、何とかならなかったのか、と誰しもがやるせない気持ちになるだろう。
痛恨の教訓を活かすには
ただ、この3変数の中で、一つだけ差し替え可能なのが、3つ目である。すなわち出先の公館長に本国の意図を包まず伝え、「真実の時」が来たなら確信を持って身命を賭す行動に出させることである。その点、現在の外務省の情報共有システムは、関係情報が発信者の見込みでシェアされ、丹念に読み込んでおきさえすれば、言われなくても何をしたらいいかおおよその見当はつく仕組みになってはいる。一方で、読み込むからこそ、肝心な情報が届いていないと察せられることもなくはない。今年で80周年を迎える、この痛恨の教訓を活かすためにも、世界に誇る外務省の情報ネットワークをより一層確たるものにして欲しいと願う。

(本稿は全て筆者の個人の責任で著したものであり、筆者の属する組織の意見を反映したものではない。)
(了)
【参考文献】
1.眞珠灣・リスボン・東京 續ー外交官の回想 森島守人 岩波新書 1959
2.原田健遺集 原田和歌子編 自費出版 1974
3.誰も書かなかったバチカン 金山政英 サンケイ出版 1980
4.日本ヴァチカン外交史 高木一雄 聖母の騎士社1984
5.バチカン近現代史 松本佐保 中公新書2013
6.侍従長回顧録 三谷隆信 中公文庫2024
7.Le Saint Siege et la Guerre Mondiale Juillet 1941-Octobre 1942, Libreria Editrice Vaticana, 1969
8.The Last Hero, Anthony Cave Brown, Vintage, 1984
9.Peace without Hiroshima: Secret Action at the Vatican in the Spring of 1945, Martin S. Quigley, Madison Books, 1990
10.The Secrets War, George C. Chalou ed., National Archives and Records Administration, 1991