日本酒は「世界酒」を目指す!~「伝統的酒造り」のユネスコ無形文化遺産登録
元ユネスコ日本政府代表部大使、酒サムライ、クラマスター協会名誉会長
門司健次郎
お正月に日本酒で乾杯された方も多かったのではないでしょうか。昨年暮れに「伝統的酒造り」のユネスコ無形文化遺産登録という嬉しいニュースが飛び込んできました。正式タイトルは、「日本における麹菌を使った酒造りの伝統的な知識と技術」。対象は、「杜氏や蔵人が麹菌を用い、日本各地の気候風土に合わせて、経験に基づき築き上げてきた、伝統的な酒造り技術(日本酒、焼酎、泡盛等を造る)」です。

(©UNESCO)

(©UNESCO)

まず、ユネスコと無形文化遺産について簡単に述べたいと思います。
ユネスコ:国連教育科学文化機関は、第二次世界大戦の直後に設立された国連専門機関で、平和を希求する機関です。ユネスコ憲章前文の冒頭の一文「戦争は人の心の中に生まれるものであるので、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」が、ユネスコの精神を表しています。教育、科学、文化はそのための手段なのです。
1951年、日本が戦後初めて加盟を認められた国際機関がユネスコです。国連加盟の5年も前のことです。ユネスコ加盟は、「戦争を起こした日本が平和国家に生まれ変わって国際社会に復帰する」との象徴的意味を有しており、国内で熱烈に歓迎されました。それ以来、日本はユネスコの大のファンです。
ユネスコと言えば世界遺産が有名ですが、無形文化遺産にも注目が集っています。その契機となったのがサイモンとガーファンクルの楽曲「コンドルは飛んでいく」です。アンデス地方の民謡をベースにしたこの作品は、1970年に世界的にヒットしましたが、元の民謡を伝承してきたアンデスの人々には何の利益ももたらしませんでした。そこで1973年にボリビアが民俗伝承の保護をユネスコに求めたのが無形文化遺産への関心の始まりでした。これを受けてユネスコや世界知的所有権機関で様々な取組みが追求されましたが、大きな進展はありませんでした。
1990年代になって無形文化遺産保護の動きを活発化させたのが日本です。その背景として、①1950年代から有形と無形の双方の文化財を保護してきた日本が、その経験から1993年にユネスコに無形文化遺産保護日本信託基金を設置し、世界の無形文化遺産の保護に貢献したこと、②ユネスコの世界遺産は、長く存続する石の文化である欧州に圧倒的に偏在しており、その是正が必ずしも進まない中、開発途上国には、舞踏、音楽、祭り、演劇、陶芸など各国、地域、人々の誇る豊かな無形文化遺産があるとの認識が高まったこと、そして、③グローバリゼーションや社会の変化の中で既に絶滅したり、その危機に瀕していたりする無形文化遺産も多かったこと、が挙げられます。日本が推進した無形文化遺産保護条約は、2003年に採択され、2024年12月現在(以下同様)、締約国は183ヶ国に達しています。
条約の目的は、無形文化遺産の保護・尊重と国際的な協力・援助です。条約の下で、無形文化遺産の代表一覧表と緊急保護一覧表の2つのリストに加え、保護活動の模範例の登録簿が設けられています。現在、788件の無形文化遺産が登録されており、日本の件数23は世界第7位です。
無形文化遺産の範囲は非常に広く、実に多岐にわたります。例えば、スペインのフラメンコ、アルゼンチンのタンゴ、インドのヨーガ、フィンランドのサウナ、UAE・クウェートのらくだレース、スイス・オーストリアの雪崩リスク管理、スイス・フランスの機械式時計作り、タイマッサージなど、そして登録数第1位44件の中国からは古琴、書道、切り絵、影絵人形劇、鍼灸術、京劇、太極拳、珠算、養蚕と絹、活版印刷、龍泉青磁などです。なお、我が国では、書道、茶道、俳句、和服、温泉文化、長良川の鵜飼、神楽(拡張登録)なども登録を目指しています。
最近注目されているのが食文化の分野です。まず2010年にフランス人の美食、地中海の食事、メキシコの伝統料理が登録され、2013年に和食が続きました。各国とも熱心で、現在、55件を超えています。他に、韓国、北朝鮮のキムチ、ナポリのピッツア、モロッコ他のクスクス、トルコ・コーヒー、フランスのバゲットパン、タイのトムヤムクンなどが挙げられます。便宜上略称を用いましたが、料理や飲物自体が文化遺産になる訳ではなく、無形文化遺産の定義と分野に合致する必要があります。
酒類の登録は、古代ジョージアの伝統的ワイン製法、ベルギーのビール文化、モンゴルの馬乳酒製造の伝統技術、キューバのライト・ラムの製造技術、セルビアのプラム・スピリッツ、そこに伝統的酒造りが加わり、6件となりました。
私は、ユネスコ日本大使として2013年の和食の登録という歴史的瞬間に立ち会い、その直後から次は日本酒の番だとあらゆる機会をとらえて働きかけてきました。1990年代初めから外交の諸場面で日本酒を活用するという日本酒外交を推進し、また、日本酒普及への貢献により2008年に日本酒造青年協議会から酒サムライに叙任されていましたので、ユネスコ大使として日本酒の無形文化遺産登録を主張したのは自然な流れでした。


また、登録を訴えた背景には、当時、日本酒が直面していた危機がありました。今日、日本酒を巡る状況は、輸出を除き、2013年の頃より更に悪化しています。出荷量は最盛期の73年の5分の1、酒蔵の数は70年の約3分の1にまで減少しました。輸出は好調で2022年まで13年連続の伸びで、6.6倍増を達成しましたが、23,24年はやや減少しています。国内・海外で日本酒ブームとの報道もありますが、一部の熱狂的ファンの間の話であり、地理的・人的に極めて局地的なブームに留まっています。
この日本酒低迷の理由は何か。かつては悪酔いの経験や悪評による飲まず嫌いが主でしたが、最近は、社会生活に日本酒の存在が無くなってしまったことが原因だと感じています。日本酒関連行事を除き、ホテル、宴会場、企業その他のイベントで日本酒はまず出されません。飲酒年齢を迎える若者の親たちも日本酒を知りません。
かかる状況において、日本酒の存在を取り戻す有効な手段の1つが、日本酒のユネスコ無形文化遺産登録だと考えました。私にとって今回の登録の意義は次のとおりです。
第1に、登録は、文化を担うユネスコが「日本の伝統的な酒類は、単なるアルコール飲料ではなく、日本の文化である」と広く内外に宣言することです。
第2に、登録は、日本酒の存在を多くの日本人が再認識する契機になり得ます。ユネスコ登録は大きなニュースとなります。日本酒の存在を取り戻す好機です。全47都道府県にある地元の酒蔵が注目されることを期待します。
第3に、登録は、近年好調な海外市場で日本酒への強い後押しとなります。和食の登録が更なる和食ブームにつながったことが想起されます。
今回の登録では、麹菌を用いた伝統的な酒造り技術が保存されてきたことが評価のポイントです。発酵とは、酵母が糖分からアルコールを造ること。醸造酒と呼ばれます。日本酒の原料の米は糖分を含まないので、デンプンを糖化させる必要があります。これを行うのが麹菌です。最初から糖分を含むブドウ果実を原料とするワイン造り、大麦を発芽させ麦芽にするときに生成される酵素がデンプンを糖化させるビール造りとの大きな違いです。
麹菌を用いた醸造酒である日本酒は、旨味成分のアミノ酸を多く含んでおり、幅広い料理に合います。また、麹菌を用いた醸造酒はアルコール度が高いので、1回の蒸留で焼酎や泡盛等の蒸留酒ができます。ウィスキーやウオッカなどの造りに使われる連続蒸留ではないため、原材料の味と香りを残しているので、蒸留酒でありながら食事にも合うのです。
日本では、和食に加え、日本独自の洋食、イタリアン等の西洋料理、中華にインドや韓国の料理など世界中の料理が食べられています。しかも、これらを自宅でも作って食べる国は日本だけです。しかし、日本人の好きな料理ベスト10の定点観測的な調査によると、日本酒が合うと思われている料理は寿司と刺身の2つのみ。20年前は、うどん・そば、野菜の煮物、天ぷら、焼き魚が入っていたのですが、食生活が大きく変化してしまいました。現在、ベスト10の残りの8つは、焼肉、ラーメン、鶏唐、カレー、餃子、ステーキ、パスタ、ハンバーグです。これらに日本酒を合わせる人は殆どいません。しかし、旨味成分が多く、多様性に富んだ日本酒なら、これらの料理にも合う酒があるのです。
私が名誉会長を務めるフランスのクラマスターは、フランス人の酒と食のプロがフランス料理に合う日本酒を選ぶコンクールです。フランスでは生活様式の変化に伴い、バターやクリームの使用を減らす等フランス料理が変化し、苦味、酸味、旨味、辛味、ヨード香などワインの苦手な食材や味が増えています。そのため、これらの味と相性の良い日本酒が注目されているのです。フランスでは日本酒とワインとは互いに補完する関係と捉えられており、ミシュランの三つ星レストランでは日本酒を置いていない店の方が少ないほどです。日本酒がグルメで有名なフランスの料理に合うのであれば、イタリアン、スパニッシュ、中華等の料理にも合うはずです。クラマスターの重要な役割の1つは、「日本酒には和食」という強い思い込みを打破することです。
ユネスコ登録により日本酒の存在が改めて認識され、更に、日本酒が和食以外の幅広い料理にも合うことが理解されることにより、世界でも最も多種多様な日本人の日常の食生活に合わせて、もっと日本酒が飲まれるようになることを期待します。
2009年の日本醸造協会誌への寄稿で「日本酒は世界酒になりうるか」との問いかけをしました。世界酒とは、ワインやビールのように世界中で親しまれている酒です。あくまでも目標として掲げましたが、今日では実現可能であると信じています。日頃の食卓で様々な料理に合わせて日本酒や焼酎、泡盛を味わっていただければ幸いです。 (了)