日本近代史の「鏡」としての台湾

日本台湾交流協会台北事務所代表 片山和之
(はじめに)
台湾について語る時、理性と感情の両面に左右される。一方では、冷徹で非情な国際政治の現実と日本の国益という戦略的観点から大局的判断をすべきは言を俟たないが、同時に他方では、台湾に住んで多くの台湾人と交流すればするほど、また、台湾の歴史を知れば知る程、そして、日本統治時代を生きた台湾人の著わす書物に触れれば触れる程、日本人の心の琴線に触れ、情緒的な思いを拭いきれないこともまた事実である。今回は、後者に焦点を当てて日台関係への個人的な思いを綴ってみたい。
(高雄の元日本兵)
あれは、41年前の1985年のことであった。まだ戒厳令下の台湾を初めて旅行した時のことである。国民党一党支配体制が続き、新党設立や新聞発行の認められない、いわゆる「党禁」、「報禁」の時代であった。映画館に入ると、本編が始まる前に起立してスクリーンに映し出される蒋経国総統の閲兵シーンを見ながら中華民国国歌の演奏が終わるのを待たなければならなかった。山肌には、まだ「三民主義統一中国」のスローガンが掲げられ、庶民は日常生活で政治的発言に注意していた。共産党統治とある意味で似た側面があったとも言えよう。台北観光を終えて南下し、高雄駅近くのキオスクに立ち寄った時のことである。筆者の挙動で日本人青年と分かったのか、60代と覚しき店主が流暢な日本語で話しかけて来た。彼は大日本帝国陸軍の二等兵として先の戦争を戦ったという。自分は天皇陛下のために死ぬ覚悟であった、今の日本はどうなっているのだ、自分が命を捧げた日本はどこに行った、最近の日本の若者はなっちゃいない云々と、古風な日本語でしばし説教を喰らう羽目に陥った。別れ際、主人の顔には、日本語を使った満足感、青春時代と分かち難く結びついていた日本への憧憬、そして戦後日本人に見捨てられ忘れられた悔しさ、しかし、過去を思って愚痴を述べてもどうしようもない現実を生きているといった諦観が同時に見え隠れしていたように思えてならなかった。かつて李登輝総統が述べた「台湾人に生まれた悲哀」に通じる感覚かもしれない。筆者としては、嬉しいような悲しいような複雑な異郷での体験であった。
(台中の国民党老兵)
これも初めての台湾旅行で台中を旅行していた時の話である。大仏で有名な宝覚寺を見学した後、ふらっと入った近くの上海料理店で昼飯を食べていたところ、台湾人の話す中国語とは異なるアクセントで話す珍しい日本人の客と思われたのか、主人が奥からやって来て会話が始まった。聞いてみると、内戦中に国民党兵士として台湾にやって来て、そのまま生活する羽目になった「老兵」であった。いわゆる外省人である。両親や兄弟姉妹を郷里の上海に残し、台湾で戦後40年も生活するという数奇な人生を歩むことになってしまうとは、台湾に来た当初は想像もしていなかったであろう。幸い、彼の場合は一生独身の老兵と違って台湾人の女性と結婚し、子供も設けていたが、当時は、1979年以降、両岸関係について中国政府が呼びかけた「三通政策」(通信、通航、通商)に対して、台湾は「三不政策」(接触せず、協議せず、妥協しない)を堅持して対抗していた時代である。上海に残した家族との連絡は香港や日本経由で細々としかできないようであった。筆者が少し前に上海を旅行したことを伝えると、身を乗り出して矢継ぎ早に質問責めに合い、写真や手紙を託された。夕食までご馳走になり、途中から近隣住民まで集まって来て、上海や中国の話で盛り上がり、結局解放されたのは夜中の12時過ぎであった。
上海の浦東開発が本格化するのは1992年に鄧小平が南巡講話で改革開放を更に推進することを強調して以降であり、当時は、改革開放政策の成果が上海にはまだ十分及んでおらず、かつての租界時代のバンド(外灘)に立ち並ぶ壮麗な建築群も燻んで沈滞したイメージであった。主人から、自分が上海に住んでいた当時、最も高かったビルは南京路にあった国際大廈であったが、あのビルはまだあるかと聞かれ驚いた。今の上海では想像もつかないが、1985年当時は、戦後40年が既に経過していたにもかかわらず、20数階建てのこのビルはまだ上海一高いビルであったからである。日中戦争なかりせば、国共内戦も異なった結末を迎えた可能性があり、主人の人生もまた全く違った方向に進んだかも知れないことを思う時、何となく居心地の良くない気持ちであった。
(八田與一技師と頼清徳総統)
現在の台南市の郊外に烏山頭ダムがある。日本統治時代、約10年間を費やし1930年に完成した巨大ダムで、フーバーダムが完成するまでは世界最大のダムと謳われた。嘉南平野を一大穀倉地帯に変えた「嘉南大圳」(灌漑施設)の中心施設である。建設を指揮したのが当時台湾総督府の技術者であった八田與一である。八田技師はその後、1942年、陸軍の命令でフィリピンの灌漑調査のため広島県宇品から赴任中、五島列島付近で米潜水艦の攻撃を受け死亡した。妻も敗戦後の1945年9月、夫の後を追って烏山頭ダムの放水口に身を投げて自殺した。日本では生地の石川県はともかく、ほとんどの人の記憶には留まっていない人物であるが、台湾ではいまだに日本の技術力の高さやインフラの立派さ、勤勉さ、責任感、そして台湾近代化への貢献を体現する代表的な人物として、語り継がれている。現場に銅像まで作られ、5月8日の命日には現地で追悼慰霊祭が大規模に行われ、かつて台南市長であった頼清徳総統は、総統就任後を含めて15年連続で現場に足を運んでいる。
頼総統と言えば、ある週末、プライベートでお誘いがあり、台北郊外(新北市。かつての台北県)の万里というところにある彼の生家を訪れ、庭のガジュマルの大木の元にある椅子に共に座り、幼い頃の思い出話をしばし伺った。彼は生後3ヶ月の頃、自宅近くの炭鉱事故で父親を一酸化炭素中毒で亡くした。したがって、父親の記憶はないが、母親や周囲に住む父母世代、祖父母世代の隣人から、日本統治時代の日本人がいかに立派であったかという話を何度となく聞かされ、日本に対する敬意と暖かい感情を持って育ったと言う。台南市長時代には、東日本大震災や熊本大震災が発生すると、いち早く、地元市民数百名を組織して現地を訪問し、暖かい激励や多額の義捐金を提供頂いている。多忙な中、八田與一技師の慰霊祭に毎年出席する背景には、彼の中に形作られたこのような日本像があることが容易に想像できる。
(元日本人従軍看護婦の遺言)
本年2月、元従軍看護婦の廖淑霞さんが99歳の人生を終えた。彼女には生前会ったことがないが、虫の知らせか亡くなる数週間前、自身の半生を書いた書「白衣天使的未竟戦争」(白衣の天使の未だ終わらぬ戦争ー台湾従軍看護婦廖淑霞の命の物語(仮訳))が、彼女の手紙とともに筆者の手元に届いた。先の大戦で台湾人は大日本帝国臣民として、軍人、軍属、従軍看護婦等20万人以上が戦地に赴き、約3万人が戦死したと言う。彼女は女学校を卒業した17歳の年に日本赤十字の募集に応じて従軍看護婦を志願し、戦時中、上海の第173兵站病院で勤務した。
戦後、日本はサンフランシスコ平和条約で台湾の領有権を放棄し、台湾人は日本国籍を自動的に喪失することとなった。その結果、日本の援護法や恩給法の定める補償の対象外となった。また、1972年の日中国交正常化の結果、日華平和条約(1952年締結)で定められた両国国民の財産請求権に関する特別取極を政府間で結ぶことが事実上不可能となった。その後、台湾人元日本兵に対し一人当たり200万円の弔意金を支払うこと、未払い給与・軍事郵便貯金を120倍の換算レートで返還すること、アジア女性基金の償い事業の一環として、台湾の元慰安婦に対しても一人当たり200万円の償い金を渡すこと等の一連の措置が議員立法や政府の政策として決定され、実行された。しかしながら、日本人戦死者遺族が受給する軍人恩給とは雲泥の差がある。戦後の日本が置かれた厳しい国内外の環境の下、当時の日本政府としては国際条約や国内法の基本的枠組に則り、可能な限り誠実に対応したのであろうし、外務省条約局をはじめ当時の政府関係者が一つ一つ残された困難な戦後問題を処理し、日本が国際社会に復帰する道筋をつけたことに対しては深甚なる敬意を表することに吝かではない。他方、台湾人の観点から見れば、かつては一視同仁の下、日本のために人生を犠牲にし、戦後は突然日本人ではないと言われ、補償の対象外とされ、日本に見捨てられた恨みや怒りに近い思いであろう。
廖淑霞さんから届いた手紙には、彼女の振り絞るような最期の言葉が次の通り綴られていた。「先の戦争の記憶も急速に風化が進んでいます。私たちは別にお金が欲しいわけでも、日本政府に謝罪を求めているわけでもありません。ただ、同じく日本人として戦火をくぐり抜けてきた者として平等に扱っていただきたいだけです。国籍の違いゆえに、それが叶わないというのであれば、せめて忘れないでいただきたい。かつて台湾にも日本のために尊い命を捧げた若者たちがたくさんいたことを」。この悲痛な心の叫びを前に、日本人としてただただ感謝の言葉しかなく、自らを恥じるのみである。廖淑霞さんの安らかなることを切にお祈りする。
(おわりに)
以上筆者が関わった4つの物語は、全て、日本と言う国家が近代史において台湾、そして東アジアで行った行為と直接・間接に繋がる話である。この短い原稿では語り尽くせないが、このような話やゆかりの場所は台湾のあちこちに痕跡を留めている。国家の行為が如何に個人の人生を長期に亘って翻弄するか、そして後世に影響を与えるかということを改めて考えさせられる。
17世紀以降の近代400年の台湾史の中で、支配者はオランダ、明の遺臣鄭成功一族、清朝、大日本帝国、国民党と目まぐるしく替わったが、共通しているのは外来政権による統治であったということである。第二次大戦後、白色テロの時代を潜り抜け、台湾の人々の長年に亘る地道な営みと勇敢な犠牲によって、民進党支持者であるか国民党支持者であるか、本省人であるか外省人であるか、あるいは先住民であるかを超越して、今日の自由で民主的な台湾社会を、彼ら自身の手で勝ち取り、造り上げて来た。今年は総統直接選挙が実施されて30周年に当たる。戒厳令は1949年から38年間続いたが、既に解除後の期間の方が長くなった。戒厳令下の41年前に台湾を訪れたことを振り返ると深い感慨を禁じ得ない。天安門事件を若い外交官時代に北京で経験し、中国の知人たちが民主化運動の中で挫折して行った姿を目の当たりにした経験を持つ者として思いは複雑である。
台湾は、今や名実ともにアジアを代表する民主社会となり、世界の先端半導体の7割を供給する戦略的なサプライチェーンの一環を担っている。日台間では昨年相互訪問者が年間820万人を突破し史上最高を記録した。地震や台風、感染症等を通じた両者間の助け合いは心と心の繋がりを強固にしている。また、台湾は安全保障上重要な第一列島線上に位置しており、台湾海峡の平和と安定は世界の安全と繁栄に直結している。日本のお隣に、価値を共有し、自由で、民主的で、安定し、発展し、成熟し、安全で、親日的な台湾という堅固な社会が存在することの意味合いを日本は改めて認識する必要がある。いかなる台湾問題の解決も、ここに住む2千3百万余の住民の意向の尊重なくしてはあり得ない。現在我々は、今後の東アジア、ひいては世界の国際関係の枠組を規定する大きな岐路に差し掛かっている。その中で日本が国際社会に対して如何なる構想を提示し、何を発言し、どのように行動するかが問われている。日本として、台湾の将来に対して真剣かつ誠実に向き合うことが、かつて日本に自らの命運を託し、そして裏切られた人々に対するせめてもの償いではないだろうか。
(本稿は筆者の属する組織の意見を代表するものではない。)
