日加関係の進展〜カーニー訪日から外交関係樹立100周年(2028年)に向けて

駐カナダ大使 山野内勘二
はじめに
現在、我々は21世紀の苛烈な地政学的現実の中に生きている。新型コロナ感染爆発の国際社会へのインパクトが未だ色濃く残る中で、ロシアによるウクライナ侵略が起こって既に4年余が経過した。習近平が異例の3期目に突入。バイデン政権の後、再びトランプ政権が発足すると、一気に国際社会に不透明感と不確実性が高まった感がある。一方的な高関税政策の導入はWTOに基づく多角的自由貿易体制にショックを与え、カナダを51番目の州と挑発すると同時に、グリーンランドやパナマ領有に関する発言は19世紀の汎アメリカ主義の再来と見る向きもある。米のウクライナ支援についても当然視は到底出来ず、NATOの結束の重要性が指摘されている。2026年になると、米のベネズエラ軍事作戦、更には、対イラン軍事攻撃が衝撃を与えている。
そんな状況で、米国に最前線で接しているのがカナダだ。約10年続いたトルドー政権を引き継ぎ、2025年3月にカーニー政権が発足。カナダと英国というG7の二つの国の中央銀行総裁を歴任したとはいえ、政治経験ゼロながら、自由党・党首選に勝利し、その後、自らの判断で下院を解散。過半数に僅かに及ばぬものの総選挙に勝利。G7カナナスキス・サミットでは議長として見事に采配。本年1月のダボス会議でのスピーチも記憶に新しい。
そこで、本稿では日加関係について、先日のカーニー首相の訪日、2028年の日加外交関係樹立100周年、更に日加間の知られざるエピソードも紹介したい。
カーニー首相の訪日
3月6日、カーニー首相は、インド・豪州を経てインド太平洋諸国訪問を締め括るべく訪日した。日本政府による公式実務訪問賓客で、筆者は、首席接伴員に任じられ羽田空港での出迎えから首相官邸での歓迎式典、首脳会談、記者会見、そしてワーキング・ディナー、更に見送りまで全ての公式行事に同席した。これまで日米首脳会談はじめ多くの首脳会談、G7、G20、APEC、WTO等の会談に携わって来たが、全く主観的な感想ながら、今回の高市・カーニー会談は、最も印象に残る会談の一つだ。理由は3つある。
まず、この会談は21世紀の苛烈な地政学的現実に直面する状況下で世界が劇的に変化する真っ只中で行われた。それ故に、議論の質は極めて高かったと思う。カーニー首相がインド太平洋訪問に出発した2日後の2月28日、イスラエルと米国がイランを武力攻撃した。ハメネイ師の死亡が確認される一方、イランは報復を宣言。予談を許さぬ状況下で、両首脳はイランを含む中東、更にインド太平洋等における国際情勢、そして日加二国間関係まで率直に語り合った。
次に、両首脳のケミストリーが抜群であった。両者とも政治家一家ではなく一般庶民の家庭から自らの才能と刻苦勉励で道を切り拓いた。カーニー首相は国民の高い支持を誇る一方、高市首相は先の総選挙で歴史的大勝を収めた。国民からの強力なマンデートを持って議論している。加えて、ワーキング・ディナーが行われたのが高市総理の誕生日前夜で、カーニー首相からサプライズのバースデーケーキがプレゼントされた。個人的印象だが、高市総理は少女のように喜んでおられた。二人の人間的な距離が縮まり、信頼感と親近感が芽生えたのは間違いない。
そして、日加両国は、基本的価値と「自由で開かれたインド太平洋」というヴィジョンを共有する。同時に、米国との強力な同盟関係を持ちつつ、政治・安全保障分野からビジネス・経済安保、文化・人物交流まで多岐にわたって関心を共有する強力なパートナーである。それ故に、今後の日加関係の進展に向け包括的に共通の絵を描くことができた。
首脳会談の成果
両首脳は、日加関係を包括的戦略的パートナーシップへと拡大することで一致し、日加首脳共同声明に署名した。この共同声明は、日加関係が進むべき戦略的方向性を包括的に定めた日加間で初の首脳文書だ。その具体的な内容は「日加ロードマップ」に集約される訳だが、両首脳は、優先事項として6分野に合意した。即ち、①安全保障・防衛協力の強化、②経済安全保障、サプライチェーン、技術的レジリエンス、③貿易、投資、食料安全保障、④エネルギー安全保障と持続可能な脱炭素化への移行、⑤北極、環境、及び気候変動分野での協力、⑥人的交流、学術・文化交流、である。
安全保障面では、共同演習の更なる拡充等の日加安保協力を一層強化・発展させることで両首脳は一致。また、サイバー等の新領域での協力を進めるため、サイバー政策に関する日加協議を立ち上げることとした。
更に、首脳は、「海外における自国民保護に関する日カナダ協力覚書」を踏まえて、平時からの情報共有や緊急時における相互協力を一層強化することで一致した。
経済・ビジネス面においては、国際経済環境が急速に変化する中で経済安全保障分野における協力を加速する重要性を認識した。新たな二国間経済安保対話の立ち上げを調整し年内にキックオフ会合を開催するよう指示した。また、両首脳は、重要鉱物の輸出規制への懸念が高まる中、重要鉱物を含むサプライチェーン強靭化のため、同志国全体で連携を強化することとした。
日加ビジネスの深化とCUSMA
今般の首脳会談の成功の背景としてビジネス分野の深化につき2点触れたい。まず、エネルギー分野だ。カナダ産LNGの日本を含むアジアへの輸出開始。更に、GE日立ニュークリア・エナジーの技術が採用された小型モジュール炉(SMR)の建設。目を見張る進展である。次に、自動車だ。カナダの自動車生産の77%は進出した日本メーカーによるものである。背景には、カナダの豊富な天然資源、質の高い労働力、社会の安定性、連邦及び州政府の寛大な支援はカナダの優位性である。加えて、CUSMA(米加墨3か国間の自由貿易協定)による世界最大の市場である米国市場へのアクセスは非常に重要な要素である点は強調し過ぎることはないであろう。
日加外交関係樹立100周年
さて、2028年は、日加間に公式な外交関係が樹立された1928年から100周年の節目だ。勿論、それ以前にも、大英帝国の自治領カナダは存在しており、日本とも密接な関係を有してはいた。外交関係樹立の意義を理解するため、少々歴史を振り返ってみたい。
近代北米史は1492年のコロンバスの西インド諸島来訪から始まる。スペイン、フランス、英国の植民地が拮抗する中、七年戦争とフレンチ・インディアン戦争の結果、1763年のパリ条約で北米大陸全体が大英帝国の植民地となった。が、13州が独立戦争を戦いアメリカ合衆国となり、それ以外は英国植民地に留まった。米英戦争(1812〜14年)、南北戦争(1861〜65年)をへて米国の国力が増大する中、大英帝国は植民地の経営方針を転換。1867年7月1日に自治領カナダ(Dominion of Canada)が誕生した。自治領である故、憲法に該当するのは「英領北アメリカ法」という法律であり、その改正は英国議会の議決と英国王の勅許が不可欠であった。外交権はオタワではなく、ロンドンにあった。
一方、明治時代を通じて、日本と自治領カナダの関係は深まっていく。最初の日本人移民、長崎県出身の永野万蔵がバンクーバーにやって来たのは1877年とされている。日本はカナダの主力輸出品である木材や海産物の主要な輸出先であった。1886年には、バンクーバーに領事館も設置され、多数の日本人がカナダへと移住して来た。
更に、日英同盟が結ばれるとカナダ自治領との関係は、同盟国であるイギリスの一部として一層発展する。第一次世界大戦では、日本海軍とカナダ・ロイヤル・ネイビーは太平洋において共同で対ドイツ海戦を戦うまでになっていた。
しかし、第1次世界大戦参戦は、カナダの意思ではなく、英国によって決定された。当時、人口約800万人のカナダから60万人余の兵士がヨーロッパ戦線に派兵された。しかも、ヴィミーリッジ要塞等の戦闘が困難を極めた戦線へ配備された。多大の犠牲を払い自治領の悲哀を舐めたカナダは完全な主権国家を目指す。1919年のベルサイユ講和会議には、カナダとして代表団を送り、講和条約にカナダとして署名した。
カナダが正式に主権国家となり外交権を持つのは1931年12月のウエストミンスター憲章を待たねばならないが、1926年に英国議会に提出された前首相バルフォア卿による「バルフィア報告書」である程度の外交権が認められることになる。中東問題を巡る英国の3枚舌外交の一つ「バルフォア宣言」で有名な人物であるが、減衰する国力を冷徹に認識し、自治領として保持するより主権国家として独立させると同時に、英連邦の主要メンバーとして繋ぎ止めるの政策へと舵を切った訳だ。
1928年とは、上述のようにカナダが自治領から主権国家へと覚醒していく重要な時期であった。この時期、カナダ が外交関係を樹立したのは、フランス、米国そして日本のみであった。一方、この頃の日本は、普通選挙法が可決する一方で、治安維持法が成立。5.15事件が勃発し、大正デモクラシーで進展した民主主義的な社会が強権的なレジームへと変化し、徐々に軍国主義的な社会に移行する時期であった。
そこから1世紀、日加関係の進展には目を見張るものがある。日加首脳宣言においても、歴史的な節目に向けロードマップに基づき緊密に協力する旨が記されている。
知られざる日加関係秘話
日加両国は新たな章に向けて前進していると同時に、両国には素晴らしい逸話が多数ある。ミラノ・コルティナ冬季五輪のフィギュアスケートのペアで金メダルを獲得した「りくりゅう」はトロント郊外を拠点に頑張ってきたことはよく知られている。しかし、日加間には、知る人ぞ知る秘話に留まっているものも多い。ここでは2つだけ紹介する。
〈アルバータ山初登頂と銀のピッケル〉
登山家が憧れるカナディアン・ロッキーだが、5番目に高いアルバータ山は標高3,619mで垂直に切り立った壁に阻まれ長く未登頂であった。この難攻不落な山頂の初制覇は1925年、日本の登山家達によるものだった。後に日本山岳会を設立し初代会長となる槙有恒が慶應義塾と学習院の登山部員を率いての世界の山岳史にも刻まれる快挙だった。
が、ここにもう一つのエピソードが加わる。登山隊は、細川護立侯爵から頂戴した銀のピッケルを置き手紙と共に山頂に残し下山した。時は流れ、1948年に史上2度目の登頂を果たしたのが米登山隊で、このピッケルを発見。ニューヨークへ持ち帰えるのだが、ピッケルの4分1は地中に埋まったまま残った。そして、1965年、長野高校山岳部OB が登頂し、ピッケルの残りを発見し回収した。
初登頂から75周年となる2000年、アルバータ山麓のジャスパーで開催された特別式典でピッケルが結合された。現在、ジャスパー・イエローヘッド博物館に日米加が共有する登山の歴史として展示されている。
〈奇跡の旗〜ハンプトン・グレイ大尉と女川空襲〉
日本とカナダは第2次世界大戦では敵として戦った。終戦間近の1945年8月9日、連合国側は、リアス式の天然の良港である宮城県女川に集結していた連合艦隊艦船を空襲した。日本側は200名以上の犠牲者を含め大きな被害を被ったが、連合国側の犠牲者はカナダ人の飛行隊長ロバート・ハンプトン・グレイ大尉のみであった。戦後、グレイ大尉はヴィクトリア十字勲章を授けられ英雄となった。
終戦から40年を経て、共にG7メンバーとなり日加関係が順調に発展する中、カナダ側はグレイ大尉の追悼碑を女川に設置したい旨を伝える。が、グレイ大尉は地元では敵と認識されていた。女川町は慰霊碑設置を拒否した。そこで、立ち上がったのが女川空襲を生き延びた元通信兵で地元で洋品店を営む神田義男だった。過去の怨讐を乗り越え交流すべきだと地元民を説得。結果、1989年、グレイ大尉の追悼碑が設置された。その際、大きなカナダ国旗に日加両国の関係者が署名した。その後も多くの関係者が署名し、この旗は日加友好のシンボルとなった。神田家とグレイ家の交流も深まっていく。
しかし、2011年の東日本大震災で旗も流されてしまった。が、4ヶ月後、ジップロックに入った旗が瓦礫の下で見つかった。「奇跡の旗」と呼ばれ、昨日の敵が今日の友となった象徴だ。実は、今般のカーニー首相訪日に同行したマクギンティ国防大臣と小泉防衛大臣との会談の場に用意され、両大臣も署名した。多くの人に知って頂きたい話だ。
結語
カナダと言えば、「赤毛のアン」の牧歌的イメージがあるが、21世紀の苛烈な国際情勢の中、日加両国は包括的戦略パートナーだ。安全保障、経済・ビジネス、経済安保、文化・人物交流等のあらゆる分野で協力が拡大している。2028年の外交関係樹立100周年に向け一層の進化と深化を期待したい。
(了)
