指導者交替の続くベトナム政局 -高所得国入りの「生みの苦しみ」?-
前駐ベトナム大使 山田滝雄
ベトナムにおける頻繁な指導者交替が関心を呼んでいる。
ベトナムの政治指導部の頂点にあるトップ4(共産党書記長、国家主席、首相、国会議長)だけでも、昨年1月のグエン・スアン・フック国家主席の退任に続き、今年に入ってヴォー・ヴァン・トゥオン国家主席、ヴォン・ディン・フエ国会議長が相次いで退任し、代わって5月にはトー・ラム国家主席、チャン・タイン・マン国会議長が新たに就任した。更に、トップ4以外の政治局員まで含めると、過去一年半の間にベトナムの政治局員18名のうちのおよそ三分の一に当たる7名が辞任した。
反腐敗キャンペーン
このように頻繁な指導者交替が起こる原因となっているのが、「反腐敗キャンペーン」である。これは、グエン・フー・チョン書記長が自らの政治生命を賭けて取り組んでいる大事業であり、ベトナムが独立100周年となる2045年までに高所得国入りするという大目標を達成するために避けては通れない重要なテーマである。
実際、腐敗は、ベトナムの社会制度に巣くう深刻な構造問題である。ベトナム人自身がその最大の被害者であることは言うまでもないが、我が国を含む多くの海外投資家も腐敗に悩まされてきており、ベトナムが海外から質の高い投資を呼び込み、高度な経済成長を遂げるためには、腐敗克服は不可欠である。
チョン書記長は、高齢かつ病身でありながら、この困難な課題に文字通り命を賭して取り組んでおり、その姿は多くのベトナム国民の支持を集めている。筆者も駐ベトナム大使としての在勤中、様々な機会に、ベトナムが腐敗を克服し、ルールに基づきコンプライアンスを重視する社会へと生まれ変わろうとする努力を評価する旨繰り返し述べてきた。
社会的、政治的コスト
他方で、腐敗克服には相当な荒療治が必要であり、その社会的・政治的コストが高いことも事実である。冒頭で、過去一年半程度の間に政治局員のおよそ三分の一が辞任したと書いたが、その殆どが腐敗絡みの辞任である。更に、政治局員よりもう少し対象を広げると、筆者がベトナムに在勤した4年間に腐敗絡みで辞任ないし処分された党や政府の幹部は数えきれず、その中には筆者と面識のあった幹部も数多く含まれていた。
腐敗克服のためには党や政府の幹部であろうと容赦しないという厳格な姿勢は、「反腐敗キャンペーン」に国民的支持を集める上で大きな役割を果たしている。しかし、高位の幹部の辞任や処分は、ベトナム政治に混乱をもたらし、公務員を萎縮させている側面も否定はできない。
腐敗克服を重視するのか、それとも行政の効率性を重視するのか、ベトナム指導部は、この大きな矛盾に直面しながら微妙な舵取りを続けている。
しかし、そのような中にあっても、ベトナムの政治は結束を維持し、経済は一昨年に8%、昨年は5%以上という東南アジアでも有数の成長率を誇ってきた。これは、ベトナム社会が大きな潜在力とダイナミズムを胚胎し、腐敗克服のために様々なコストを払いつつも、経済成長を継続できる可能性を有することを示しているとも言えるだろう。
最高指導部人事への影響
党や政府の幹部を巻き込んだ「反腐敗キャンペーン」は、意図するかしないかに関わらず、ベトナム指導部人事にも大きな波及をもたらしている。特に今年に入ってからのトップ4を巻き込んだ辞任劇は、2026年1月に予定される第十四期党大会を睨んだ最高指導部の人事に大きな影響を与えた。
ベトナム共産党の最高指導者であるチョン書記長は、現在も大きな指導力を保持しているが、高齢かつ病身であり、かねてより2026年1月の次期党大会での退任が噂されている。そして、その後継候補として有力視されてきたのは、フエ前国会議長とトー・ラム前公安大臣の二人であった。
フエ前国会議長は、国立財政学院の教授・副学長、会計検査院副院長、財政大臣やハノイ市党委員会書記などの要職を歴任した経済に明るいテクノクラートで、自らの出身地であるゲアン省及び隣接するハティン省の出身者で形成される所謂「ゲティン閥」の支持を背景に、近年大きく存在感を伸ばしていた。
一方、トー・ラム前公安大臣は、ベトナムにおいて国防省と並ぶ最有力省庁である公安省のキャリアを上り詰めてきた超エリートであり、しかも公安一辺倒の堅物ではなく、音楽や美術を愛し、経済にも通ずる教養人である。日本との関係も長く、日本に知人も多い。
この二人の後継争いは、2026年1月の次期党大会を睨んでもう暫く続くのではというのが大方の見方であったが、今年に入って、腐敗絡みの指導者交代劇の中で、2人の明暗は大きく別れた。即ち、4月26日にフエ国会議長が腐敗事案に関する道義的責任を取る形で辞任する一方で、5月22日にはトー・ラム公安大臣が新たに国家主席に昇進した。これによって、2026年1月の第十四期党大会に向けた後継争いは、トー・ラム国家主席に有利な方向に大きく展開したと見られる。
ベトナムの投資環境への影響
ベトナム政局が複雑に揺れ動く中で、我が国を含む世界の投資家の間に、ベトナムの投資環境は大丈夫かとの心配の声が上がるのは当然のことであろう。特にベトナムの場合、政治的安定性が投資家にとって大きな魅力とされてきただけに、政局の先行きへの不安は投資意欲に大きな影響を与える。
ただ筆者自身は、現状では、今回の指導者交替劇がベトナムの投資環境に及ぼす影響は、世上懸念されているほど大きくはならないと見ている。
その理由は、第一に、今回の指導者交代劇、就中、トー・ラム新国家主席の誕生によって、2026年1月の次期党大会に向けた後継争いに一定の方向性が見え始めて来たため、当面は大きな政変が起こる可能性がむしろ減じているように思われるからである。勿論、今から次期党大会までにはまだ一年半もの時間が残されており、様々なことが起こり得るし、今回の政変劇の傷跡も未だ癒えてはいない。従って、次期党大会における最高指導部人事の行方を見極めるには、今暫く情勢を見守る必要があろう。他方で、トー・ラム国家主席の地位を脅かすような力学がベトナム国内で生じる明確な兆候も現状では見当たらない。トー・ラム新国家主席が、公安大臣を兼任しなかったことが一部報道で憶測を呼んでいるが、これは国家主席が政府の役職を兼務できないという制度上の制約によるものである。また、注目を集めていた公安大臣の後任には、トー・ラム氏と同じフンイエン省出身のルオン・タム・クアン公安副大臣が昇進することが決定された。これによって今後、政局はむしろ安定し、次期党大会を睨んで新たな指導部の体制を固める動きが出て来る可能性もあろう。今回発表された政治局の新しい序列を見ても、新体制発足を見込んだ世代交代の兆候が窺える。
第二の理由は、ベトナムの経済政策をリードするファム・ミン・チン首相が留任したことである。ベトナムでは、軍と公安という「力の官庁」は書記長の下に置かれ、「経済官庁」は首相の統括下に置かれている。従って、投資環境に直接の影響をもつ「経済官庁」を統括するチン首相が留任したことは、海外の投資家にとっての安心材料であろう。チン首相サイドからは、今回の政変がベトナムの投資環境に与える影響は殆どないので安心して欲しいと言うメッセージが筆者のもとにも送られてきている。
因みに、一部報道では、トー・ラム前公安大臣が国家主席に就任したことをもってベトナムの「公安国家化」が進み、投資環境にも影響を及ぼすのではないかという懸念の声も聞かれるが、筆者は、海外からの投資受け入れを重視するベトナムのお国柄からしても、そのような事は起こりにくいと考えている。
ベトナムにおいて、元公安大臣が国家主席に就任した前例は、日本に馴染みの深かった故チャン・ダイ・クアン氏を含め過去に幾例もある。また、上記の通り経済官庁を統括するのはチン首相であり、国家主席は直接関与しない。
更にトー・ラム新国家主席自身、海外からの投資の重要性をよく理解している。大使在任中、筆者は、公安大臣時代のトー・ラム国家主席と何度も話す機会があったが、公安関係だけではなく、日本企業の投資環境など幅広い事項に話題が及ぶことが常であった。また、「反腐敗キャンペーン」を指揮するチョン書記長も『漢書』から「鼠に投げんとして、器を割るなかれ」という言葉を引いて、腐敗克服にあたっては、経済や行政に過度な悪影響を与えてはいけないと繰り返し警句を発している。
「和解と団結」を重んじる政治文化
更に、ここで指摘させて頂きたいのは、ベトナムには「和解と団結」を重んじる独特の政治文化があることである。
これはホー・チ・ミン主席以来の伝統である。若き日のホー主席は、儒教の礼記の中の『大同説』、即ち、「天下を公となし、賢をえらび能とくみし、信をはかり睦をおさめ」れば、人々がみな助けあう社会ができるという理想郷論を信奉していたと言われる。そして、国家指導者となった後も、集団主義を重んじ、「団結、団結、大団結」と常々唱えていた。ホー主席の考えを筆者なりに噛み砕くと、「政治には、対立はつきものであるが、大事なことは、対立を如何に克服し、和解し、団結を維持するかである。」という事ではないだろうか。
実際、ベトナムの政治家は、対立を克服し、和解を醸成する「切り替え」が頗る上手い。筆者在任中のエピソードをご紹介すると、フック元国家主席は昨年1月に腐敗事案の道義的責任を取る形で退任したが、国家主席退任の直後から、公的な場所で日本の要人を接遇していた。また、昨年5月と10月のベトナム国会開会式では、フック元国家主席は最前列に座り、他の指導者と談笑していた。更に、今年4月に退任したフエ前国会議長も、5月の国会開会に先立って指導部幹部が行ったホーチミン廟参拝にフック元国家主席他とともに最前列で参加していた。
筆者は大使として、フック元国家主席やフエ前国会議長の退任劇をかなり深く観察していただけに、この「切り替え」の早さには戸惑いすら覚えることがあった。
このように「切り替え」の上手いベトナムの政治文化からすれば、最高指導部人事が決まる2026年1月の第十四期党大会に向けて今後も様々な政治的駆け引きはあろうが、ベトナム指導部は、対立や軋轢を克服し、和解し、そして一致団結して新しい体制の確立に向かうのではないか、筆者にはそのように思われるのである。
高所得国になるための「生みの苦しみ」
本稿の締め括りに改めて指摘したいのは、チョン書記長の主導する「反腐敗キャンペーン」は、ベトナムが、腐敗という構造問題を克服し、海外から質の高い投資を受け入れ、2045年の独立100周年までの高所得国入りという大目標を達成するためには不可欠の大事業だということである。
腐敗克服は、伝統的なアジア社会が近代化する上で避けては通れない課題である。日本にも、疑獄事件が相次いだ時代があった。そして、今もベトナムだけではなく多くのアジア諸国が腐敗克服に取り組んでいる。
ベトナムにとって腐敗克服に向けた道程は、これからも決して平坦ではないかもしれないが、ダイナミズムに溢れるベトナム経済は、指導者交代劇の真只中である2024年第一四半期には、5.7%、第二四半期には6.9%もの成長を達成した。ADBによる2024年通年の成長予想も6%台が維持されている。
ベトナム人材の勤勉さ、理数系能力の高さ、技術革新への適応力、旺盛なチャレンジ精神、そして「和解と団結」の政治文化に鑑みれば、ベトナムが、「中進国の罠」を乗り越えて2045年までの高所得国入りという大目標を達成することは可能ではないかと筆者は見ている。そして、最近の「反腐敗キャンペーン」に起因する政治的混乱は、そのための「生みの苦しみ」のように思われるのである。 (了)