太平洋を挟んだ南米の戦略的パートナー・チリ

駐チリ大使 伊藤 恭子
スペイン語の研修を受けていない筆者が南米チリの勤務を命じられ、前任地のエチオピアからサンパウロ経由でサンチャゴに着任したのは2023年11月末だった。かつて日チリ経済連携交渉の交渉官の一人として2回ほど出張したことはあるものの、銅とワインとサーモン、イースター島とパタゴニア、そして世界ではアフガニスタンとチリでしか採掘されない宝石ラピスラズリの産地であること以外はほとんどチリについて知らない状態での転勤であった。しかし、この2年弱の間にチリ国内の16州すべてを訪問し、様々な人々と接することで、南米におけるチリの重要性につき理解するとともに、なぜもっと日本からチリが注目されないのかと訝しく思うことも多くなった。以下、南米におけるチリの重要性について論じてみたい。
1.成熟した民主国家で、真に価値と原則を共有する戦略的パートナー
近年、我が国は外交関係強化を首脳会談等の成果として打ち出すために「戦略的パートナー」の表現を様々な国に対して濫発しているように思われることがあるが、チリについては真の意味で戦略的パートナーとしての関係があるといえよう。ピノチェト将軍の軍事クーデターとその後16年半の軍事政権を経て平和裏に民政移管を実現したチリ国民には、民主主義、自由、人権、法の支配への信念が強くしみ込んでいるのである。「チリには、総選挙やレファレンダムの結果を受け入れることが出来る、成熟した民主主義が根付いている」というのは、人権分野を長年専門としてきた中南米の某国の駐チリ大使が筆者に述べた言葉だが、他の中南米諸国が認めるほどチリの民主主義は成熟しているのである。また、開かれた自由経済を掲げ、65の国・地域とFTA/EPA等を締結している点は、日本よりはるかに豊富な経験を有している。南米初のOECDメンバー国であり、経済社会分野での価値観も共有できている。国際社会では多国間主義を掲げ、国連改革、気候変動、軍縮不拡散等、日本が抱える多くの課題で共通の立場にある。加えて、長年にわたり防衛・安全保障分野では米国と密接な協力関係にあることも、わが国ときわめて似た立場にある。
2.経済安全保障上の重要国
我が国の経済安全保障の面からみると、チリはまず重要鉱物資源の安定した供給元として大きな存在感がある。温暖化対策として脱炭素化を支える電化製品や再生可能エネルギー設備に大量に使用されることで今後ますます需要が高まるであろう銅の埋蔵量は世界一であり、我が国の最大の輸入元である。炭酸リチウムやモリブデンも同様に輸入元として第1位であり、さらにチリ政府は今後、コバルトを含むレア・アースの開発も視野に置いている。
また、日本の農家が栽培する野菜や花のための種子も、日本の二大種苗企業がチリの広大な農地において生産を行っており、これを日本、および日本で袋詰め加工をして海外の農家へと輸出している。人参、ブロッコリー、トマト、カボチャ等、様々な野菜の種がチリから日本に送られ、それが日本で育てられて日本人の口に入っているのである。
寿司ネタとして今や人気第1位に輝き、朝食の焼き魚やおにぎりのネタとしても日本人の食生活に欠かせないサーモンも、日本の輸入量の約6割はチリ産である。もともとチリではサーモンは外来種であったが、JICAがチリに紹介し、いまやチリでは銅に次いで外貨を稼ぐ主要輸出品に成長している。サーモン養殖に複数の日本企業が参加し、チリ経済に大きく貢献していることも、日本大使としては誇らしい限りである。
3.太平洋を挟んだ隣人
チリは、北にアタカマ砂漠、南に南極大陸、東にアンデス山脈を擁して隣国から隔離された状況であるため、自らを西に広がる太平洋に浮かぶ「島国」だと揶揄することがあるが、海洋を通じた貿易立国という点で日本とチリは同じ立場であり、海洋における法の支配、海洋資源の活用、安全保障、防災への取組は、太平洋を挟む隣人である日チリ両国にとって共通の課題である。ともに環太平洋火山帯の上に位置し、地震と津波という共通の災害も有しているが、防災分野ではすでにJICAを通じた協力実績もあり、防災に関する三角協力として中南米防災人材育成拠点化支援プロジェクト(KIZUNAプロジェクト)も成果を上げている。IUU(違法・無報告・無規制)漁業に関しては、チリも中国船団に大いに苦労している模様である。
チリは既にAPECや太平洋同盟の一員であるが、最近では中国と米国に大きく依存する貿易構造からの脱却を目指し、インド、インドネシア、フィリピンとのFTA交渉、ASEANの開発パートナーとしての関係構築にも着手している。さらに、2026年内にも開通がみこまれる双洋回廊(ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン、チリを通り、太平洋と大西洋をつなぐ道路)が開通すれば、日本から南米地域への貿易の太平洋側の玄関口としての重要性も高まるとみられる。
4.再生可能エネルギー生産での先進国
チリ南部のマガジャネス州では、一年を通じて強力な風力を利用し、グリーン水素と二酸化炭素から合成燃料(e-fuel)を生産するHIF社の事業がいまだ実証段階ではあるが動いており、日本からもJOGMEC、出光および商船三井が出資している。自動車の内燃機関を変更することなく、水と二酸化炭素から作るクリーンエネルギーで自動車を走らせることができることから、自動車の排気ガス規制が強化される欧州市場をターゲットとして進められてきている。チリ政府からの環境アセスメントの許可が年内にも出た後には大規模事業として進展させる準備が進んでおり、規模の経済による生産コストの低下も期待されている。
また、国際海事機関(IMO)が2050年頃までに温室効果ガスの排出ゼロを目指すとの方針を打ち出し、世界の海運事業者が対応に追われているところだが、世界一の海運会社であるマークス社を抱えるデンマークは、船舶燃料としてのグリーン・アンモニアの利用を見据え、マガジャネス州にその生産設備及び港湾設備も含めた大規模投資事業を進行中である。
北部のアタカマ砂漠では、太陽光の単位面積当たりの熱量は欧州の約1万倍で世界一といわれ、太陽エネルギーを利用したグリーンエネルギーの生産事業への欧米諸国の投資も行われており、一部の日本企業も参画している。
再生可能エネルギー分野では、チリの優れた地理的条件を活かした欧米の投資が動いており、関心のある日系企業は積極的に参画する時期にあると思料する。
5.三角協力での対等のパートナー
かつてEPAの交渉官時代のカウンターパートが、「自分たちチリ人は南米で一番つまらない国民だ」と自嘲していたことがあったが、それはチリ国民が非常にまじめであることの裏返しでもある。ドイツやクロアチアからの移民が多いこともその要因の一つかもしれないが、とにかくやるべきことはしっかりやってくれる。それが端的に表れているのが日チリ間の三角協力であり、両国ともに50%ずつを負担して第三国への協力を行うという方針はぶれない。防災分野のKIZUNAプロジェクトでは、2015年~2020年の間に中南米の27か国5000人以上の人材を育成し、その成功を受けたKIZUNA2も進行中である。また本年は、JICAとカトリカ・デ・ノルテ大学により、日本の指導によるチリでの水産養殖の経験をアフリカ諸国に共有する事業も行われた。今後は医療、教育等の分野でも日チリの三角協力の拡大が期待される。
6.地政学上の重要国:チリと中国の関係
トランプ政権成立以降、米国は中南米諸国から中国の影響を一掃すべく様々な動きを見せており、パナマ運河へのアクセス排除などは大きく報じられているが、チリもこの点において地政学上の重要な意義を有している。
まず、世界でもっとも乾燥したアタカマ砂漠を中心とした天文観測施設からアクセスできる宇宙の情報である。世界の天文学観測データの50%以上はチリで収集されるといわれているほど、チリは天文観測の好条件がそなわっているが、宇宙を観測できるほどの高性能の天文観測施設は、各国が飛ばしている衛星や宇宙基地の詳細も当然ながら「見えてしまう」のである。誰が宇宙空間で何を見て、それをどのように使うかというのは、まさに安全保障に直結する話であり、日米欧を含めチリに観測台を設置している西側諸国にとって、最近中国がこの分野で進出しようとしていることは非常に大きな懸念事項である。西側諸国の働きかけもあり、これまでのところ中国の試みは頓挫しているものの、引き続き十分な注意を要する。
南極に関しても、中国は南極大陸近辺の海洋で資源探査と思しき動きを見せておりNZや豪州等から問題提起がなされているほか、何を目指してか南極大陸に新たな基地を建設する意向を示している。
南米とアジア太平洋を結ぶ海底ケーブル「フンボルト計画」は、最終的には米グーグル社が締結したことで中国企業の参入は排除されたが、その後も中国は民間ベースで中国とチリを結ぶ海底ケーブルの敷設を目指していると報じられており、採算を度外視してでもアジアと南米をむすぶ海底ケーブル敷設に取り組んでいるとみられる。
現在、中国はチリにとって最大の貿易相手国であり、様々なインフラ事業でのコンセッションを獲得してインフラ建設を行う一方、地方の小さな町でも「パンダモール」「チャイナ・モール」が小売業で繁盛するなど、経済面で大きな存在感を示している。また多くの政財官学関係者が中国に招待されて親中人脈となっており、その規模はわが国政府の招聘プログラムの比ではない。さらにボリッチ大統領下の左派連合政権にはチリ共産党も含まれており、昨年以降は同党関係者と中国関係者との様々な癒着が発覚するなど、中国による活発なチリへの食い込みの実態が露呈されるようになった。それでも現政権関係者の発言の節々からは、経済的恩恵を与えてくれる中国に対する様々な配慮が漂うとともに、中国が有する安全保障上の脅威や力による現状の変更の試み、露朝への接近等に関する認識が不十分であると思われることが少なくない。来年3月の政権交代では右派政権成立の可能性が高いと見られる中、誰が政権を掌握しようとも、わが国の立場への理解と協力を得ていく必要がある。
7.終わりに:南米へのゲートウェイとしてのチリ
上述の通り、チリはわが国と戦略的パートナーシップを一層充実させ得る様々な可能性を有している。安定した民主主義国家であり、南米で唯一、投資適格のAランクを維持している安全な先進国である。LATAM航空はサンチャゴをハブ空港として南米各地を結んでいる。そして何より、チリは日本が大好きである。長い歴史と文化を有し、戦後の復興を成し遂げた日本への尊敬の念、またアニメ・漫画や各種武道、日本の純文学等の影響もあり、親日感情は良好である。チリを南米へのゲートウェイとして、地球の反対側においても我が国の外交イニシアティブを積極的に進めていく時代が到来していると強く感じる次第である。
