リトアニアに赴任して感じたこと
駐リトアニア大使 清水信介
1.はじめに
2025年2月にリトアニアに着任して10ヶ月になりますが、着任前にいくつかの素朴な疑問がありました。まず、①リトアニアは、帝政ロシアとソ連に併合された歴史があるため、対ロシア警戒感、強硬姿勢が際立っていますが、その地理的な状況や旧ソ連圏との経済的な繋がりに鑑みて、完全にロシアの影響を脱却して欧州と一体化することは現実的なのかという疑問です。次に、視点は異なりますが、②杉原千畝(敬称略)の業績が日リトアニア友好関係の絆となっているけれども、イスラエルに対する国際的な批判が高まる中で、杉原の訴求力がリトアニア国内で弱まっていないのだろうかという疑問でした。
結論から言えば、筆者の2つの疑問は否定されました。リトアニアは一貫した戦略に基づいてロシアからの脱却を進め欧州の一員として驚くべき成果を上げています。また、杉原に対しては何の留保もなく敬意が保たれています。本稿では、1年にも満たない期間ではありますが、筆者の当地での経験を交えながら、余り知られていないリトアニアの歴史を辿りつつ、現在のリトアニアが進もうとしている方向と日本との協力関係について述べたいと思います。
2.ナウセーダ大統領の訪日に同行して
2025年6月にナウセーダ大統領が万博訪問のため訪日し、筆者も3泊4日同行しました。石破総理(当時)との首脳会談・夕食会は、戦略的パートナーシップ(日本とリトアニアは、北欧バルトではデンマークに次いで2番目に早い2022年に戦略的パートナーシップに格上げしています)を具体化する実り多い成果を上げたのですが、石破総理が事前にリトアニアの歴史を良く勉強されていたために、話題はリトアニア大公国の時代へと流れていきました。石破総理が、リトアニア大公国は13世紀にモンゴルを撃退し、13-14世紀に欧州で最大の領域を占めていたのですね、と話をふると、ナウセーダ大統領は、「リトアニア大公国の版図は、当時100万平方キロを超え現在のベラルーシ、ウクライナを含んでいた。現在リトアニアがウクライナを支援しているのは、ウクライナが欧州防衛の最前線にいることが一番の理由だが、それに加え、歴史に根ざしたウクライナとの絆(attachment)がある。」と応じていました。

筆者は、この首脳会談の後も大統領に同行し、大統領と一対一で懇談する機会に恵まれました。その一つで、また歴史の話となり、大統領は、「18世紀の末にポーランド分割によりリトアニアは帝政ロシアに併合される(注:リトアニアとポーランドは1569年のルブリン合同で連合国家を形成していた)が、その背景には、当時のリトアニア・ポーランド連合国家が貴族による民主制を採っていて全会一致でないと決定ができず、適時に適切な措置が執れず、絶対君主制のロシアに対抗できなかった。」と述べ、現在のEUがコンセンサス・ルールに縛られウクライナ支援で迅速な決定ができないのは、当時のリトアニア・ポーランド連合国家の状況を彷彿とさせると述べたのが印象的でした。
3.リトアニア大公国の教訓
大統領が述べられたとおり、リトアニア大公国は、13-14世紀にベラルーシ、ウクライナ方面に領域を拡大し、15世紀には黒海にまで至ります。当時のリトアニア大公国は異教徒国家であったため、最大のライバルは、ロシアではなく、バルト海沿岸を支配していたドイツ騎士団でした。リトアニア大公国は、ドイツ騎士団に対抗するため、正教文化圏であったベラルーシ、ウクライナ方面に勢力を拡大し、正教の教会組織や文字言語(キリル文字によるルテニア語:後のベラルーシ語)を吸収したとされます。当時リトアニア大公国に文字言語はなく、リトアニア大公国の行政機関はルテニア語で記録文書を作成しました。その後、リトアニア大公はポーランドと同盟を結ぶためにカトリックに改宗しますが、ベラルーシ、ウクライナ地方はリトアニア大公国の中で正教文化を維持し、リトアニア・ポーランド連合軍が1410年のグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を壊滅した際にも、ベラルーシ、ウクライナ地方出身の軍勢が貢献したとされます。
このように、当時、現在のリトアニア、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナにあたる地域は、リトアニア・ポーランド連合国家という、異なる民族、宗教、文化、言語が混在した一つの国家を形成していて、モスクワ公国とは明確に区別された枠組みを作っていました。こうした多民族国家が力を合わせて、ドイツ騎士団を打ち破り、次いで、16世紀からは、バルト海に進出してきたモスクワ・ロシアやスウェーデンに対抗していきます。その過程で、リトアニア大公国は1569年のルブリン合同でポーランドとの連合国家が誕生(但し独自の財政、軍、法制度は維持)します。その際、リトアニア大公国がポーランド化されたと言われますが、ポーランド化されたのは人口の7%を占める貴族だけで、農民を中心とする大半の国民は、ポーランド化せず、それぞれの民族性を保ち、それが将来のリトアニア、ウクライナ、ベラルーシという民族国家になっていくのです。
こうして歴史を振り返って見ると、現在のリトアニアが進もうとする方向性が見えてきます。プーチン体制のロシアが武力と威嚇により、ウクライナとベラルーシ、更にはバルト3国までその影響圏に再び取り込もうする中、リトアニアは、ポーランドや他のバルト諸国とともにEU・NATOの中にしっかりと根ざした上で、東方のウクライナ、更に可能であればベラルーシとも協力して、昔のリトアニア大公国にも比肩するようなエリアを築き、ロシアに対抗しようとするのではないでしょうか(但し、ベラルーシについては、現在のルカシェンコ体制との協力は望めないため、反体制派のチハノフスカヤ「移行内閣」をリトアニア国内に迎え入れ支援している。)。
4.リトアニアによるロシア影響圏からの脱却、対ロシア対抗軸強化の取り組み
このような視点で見ると、リトアニアの様々な取組が、ロシア影響圏からの脱却、対ロシア対抗軸強化の目的で一貫していることがよく分かります。
一番徹底しているのが、エネルギー面です。ソ連時代にロシアの石油・天然ガスに100%依存していましたが、現在はロシアからの輸入はゼロです。2014年のクリミア占領を機に、バルト海沿いのクライペダ港に浮体式LNG貯蔵再ガス化設備を横付けして、LNGを米国等から輸入することに切り替えました。その設備の名前を「インデペンデンス」と名付けるなど徹底しています。電力面では、2025年2月にロシアの電力網から完全に離脱し欧州電力網への接続を完了しました。更に、再生可能エネルギーの導入を加速して、2025年の夏には一時的ですが全消費量を再生可能エネルギーで賄えるレベルにまで達しています。
実体経済でも大きな転換が図られています。ソ連時代のリトアニアの主要工業は、ロシアからの石油・天然ガスの輸入を利用した製油や肥料製造でしたが、製油施設はポーランド企業に売却され、肥料工場は防衛産業に転換されようとしています。逆に、リトアニアの再生可能エネルギー企業のIgnitis Renewableはポーランドの風力発電に大規模投資を実施しています。
物流面では、東西から南北への切り替えが進んでいます。リトアニアの鉄道はソ連時代の広軌が東西に走るネットワークになっていて、ベラルーシ産のカリウムを輸送してクライペダ港から輸出する物流が盛んでした。しかし、ウクライナ戦争の結果ベラルーシ制裁が導入され、この物流が完全に停止し、クライペダ港の荷物取扱量は40%落ち込みました。しかし、鉄道と港の双方で、バルト諸国やポーランドとの間の南北の物流に切り替えて、物流量は再び上昇に転じています。
軍事面では、2004年にNATOに加盟し、2017年からはNATO前方展開部隊が展開していますが、2025年から、その中核部隊としてドイツ軍旅団が正式に発足し2027年までに5千人規模に増強される予定です。リトアニア自身も、来年度予算でGDP比5.38%の防衛費を計上し、近代的装備を備えた一個師団の編成を進めています。
こうした迅速な切り替えは、人口280万人の国だからこそできるのかもしれません。リトアニアが優れているのは、こうした経済的転換を大きな混乱を来すことなく、3%程度の経済成長率を維持しながら実現していることです。一人あたりのGDPも、24年には28,712ドルで、日本の32,859ドルと遜色なくなっています。
こうした成功の背景には、ロシアの影響力の排除、周辺国との関係強化によるロシアへの対抗というリトアニアの歴代政府による強い政治意志がくみ取れます。リトアニアは、1990年にソ連から独立を回復して以来、キリスト教民主・保守政党と社会民主主義政党の間で政権交代を繰り返してきましたが、政権が代わっても、上記の基本政策は一貫してきたのです。
5.日本との協力(三海域イニシアティブとウクライナ支援)
こうしたリトアニアの脱露入欧の取組は、欧州の同志国との協力を強化する日本の方針に合致し、日本政府として支援していくべきものです。
具体的に二つ挙げたいと思います。一つは、2024年にビルニュスで首脳会議が開催された三海域イニシアティブです。これは、EUの東部地域を南北に繋ぐインフラを整備しようとするものです。当初は経済交流の促進に主眼がありましたが、ウクライナ侵攻以降、NATOのEastern Flank防衛のための軍事的モビリティ確保の観点が重視されるようになり、リトアニアにとって戦略的重要性が増しました。三海域イニシアティブの主要プロジェクトとして、バルト三国とポーランドを欧州標準軌の高速鉄道で繋ぐレイル・バルティカ計画があり、リトアニアは関係国の中で最も熱心に推進しています。これは、有事の際にポーランドからバルト諸国に兵員や装備を迅速に運ぶインフラとなるものです(現在の鉄道インフラではワルシャワとビルニュスは8時間以上かかりますが、レイル・バルティカが完成すると所要時間が半減する予定です。)。日本は、ビルニュスの首脳会議で、三海域イニシアティブの戦略的パートナーとなりました。日本企業がレイル・バルティカ等の具体的プロジェクトに参入するべく、日本政府も支援していく必要があります。

二つめはウクライナ支援です。リトアニアは、毎年GDPの0.25%をウクライナ支援に充てることにコミットしており、軍事・非軍事の両面で強力に支援しています。他の欧州諸国では支援疲れの世論もあるようですが、リトアニアは違います。ビルニュス市内にはウクライナの国旗が随所に見られ、市内バスの行き先表示には「Vilnius♥Ukraina」と書かれています。現在も週に200名のペースでウクライナ難民が受け入れられ、大統領夫人のイニシアティブでリトアニア各地に設立されたウクライナ・センターでは、難民の子供たちへの教育・文化活動が行われています。日本とリトアニアは既に地雷除去で協力しており、2025年秋には陸上自衛隊の教官がリトアニア国内で行われたウクライナ兵の訓練に参加し、日本で10月に開催された地雷会議にはブドリース・リトアニア外相が出席し、就任直後の茂木外務大臣と会談しました。リトアニアは、ウクライナの復興についても日本と協力したいとの強い意向を示していて、今後双方の優先分野が重なる部分での協力を検討していく必要があります。
6.リトアニアにおけるユダヤ人
ここで、もう一つの話題、杉原千畝のリトアニアにおける評価に移りたいと思います。
杉原千畝のレガシーが日リトアニア友好関係の基礎であり、これを後世に伝えていくことの重要性は、両国間の様々な文書に明記されおり、6月の首脳会談でも言及されました。
杉原が勤務したカウナスには、当時の領事館の建物を改装した杉原ハウスなどがありますが、ビルニュスにも、早稲田大学の同窓生が200本の桜を植えた杉原桜公園があり、更に、ビルニュスのホロコースト博物館の前には、彫刻家北川剛一氏らによる「月光」という記念碑が作られています。
1940年に杉原が通過ビザを発給して命を救うこととなったユダヤ人は、当時ポーランドから難民としてリトアニアに避難していた人々で、リトアニア在住(注)のユダヤ人ではありませんでした。また、現在のリトアニアには、ユダヤ人は数千人しかいません。そのような中、なぜ杉原がこれほどまでの敬意の対象となったのでしょうか。
(注)ここでいう、「リトアニア」は1940年のリトアニアで、ビルニュスを含む。両大戦間期に独立していたリトアニアは、ポーランドにビルニュスを占領されていた。1939年にポーランドがソ連とドイツの双方から侵略された際に、ビルニュスは一時的にソ連から独立国リトアニアに返還されたが、1940年にリトアニア全体がソ連に併合された。杉原がビザを発行したのは、ソ連による併合の過程に重なる時期であった。そして、1941~43年はナチス・ドイツによりリトアニア全体が占領され、リトアニア在住のユダヤ人に対するホロコーストが起こる。
その答えは、毎年秋に行われる一連のホロコースト追悼行事にありました。筆者は、9月25日、まだ9月だというのに気温は10度以下に下がる中で、Paneriaiというホロコースト記念碑で行われた追悼行事に参加しました。そこで、オレーカス国会議長がスピーチの中で、リトアニアでのホロコーストは、「ナチスのイデオロギーで起こされたが、その殺戮において、隣人を裏切り殺害を助けた人々がいた。これが真実であり、我々は目を背けてはいけない。」と述べ、何故このようなことが起きたのか若者に伝え、将来に対する戒めとすべしと強調しました。即ち、リトアニアにおけるホロコーストの追悼は、リトアニア人の関与に対する贖罪の意味が大きいのです。
先に述べたように、リトアニア大公国は多民族国家で宗教的に寛容でした。したがって、中東欧からユダヤ人が移り住み、18世紀にはビルニュスが北のエルサレムと呼ばれるほどにユダヤ・コミュニティーが発展しました。ナチス・ドイツがリトアニアを占領した1941年の6月の時点で、リトアニア全体で21万人のユダヤ人がいましたが、その90%がホロコーストで命を落とし、その割合は欧州全体で最大でした。そして、その大きな部分にリトアニア人が関与したと言われています。
7.杉原千畝の評価
Paneriaiでの追悼行事の1週間後、今度はトラカイという、湖上の美しい古城で有名な町の市長から筆者は招待を受けました。それは、同市でもホロコーストの追悼行事を行うので日本大使としてスピーチをして欲しいとの依頼でした。当日、赴いてみると、町の中心から車で数十分離れた森の中にある記念碑で、既に数十人の中高生が集まっていました。市長は中高生達に、同地でリトアニアの住民が手を貸す中でユダヤ人の殺害が起きたことを説明し、その一方で、杉原という日本の外交官がいてユダヤ人を救ったと述べました。筆者からは、第二次大戦中、日本はアジアで加害者の立場でもあったことに言及しつつ、その中で杉原という人道主義に基づいて行動した外交官がいたことを誇りに思う等々述べました。

市長は、こうした中高生向けの行事を毎年行っていると述べていましたが、リトアニアでは、こうしたホロコーストに対する贖罪、これを歴史の教訓とする意識が強くあります。そのような中、杉原千畝の功績は、ユダヤ人を救った多くのリトアニア人(830人のリトアニア人が「諸国民の正義の人」としてイスラエルに登録されている)とともに、揺るぎない敬意の対象となっていると言えます。このリトアニアの意識は、日本人の杉原に対する思いーこの時期に日本がアジアで多大の損害と苦痛をもたらした中で、杉原が多数のユダヤ人の命を助けたことに救いと安堵を求める気持ちーと相通じるものがあるのではないでしょうか。
2026年は、杉原千畝の没後40周年となるため、日本大使館は様々な記念行事を企画しています。その一つとして、先述したビルニュスの記念碑「月光」の前で、記念式典を行うアイデアがあります。杉原千畝はベートーベンの「月光」を好んで弾いたと言われているので、彼を偲んでピアノ演奏もできればと考えています。

1992年に杉原千畝の功績を記念して、彫刻家北川剛一氏らが作成した
(2025年12月記)
