ミャンマーの現状と今後及び日本の対応
前駐ミャンマー大使 丸山市郎
2021年2月1日深夜、ある日系企業関係者から「首都ネーピードーの通信が全て遮断されている」との電話で起こされた。まさかと思いつつアウン・サン・スー・チー氏に電話を入れるが繋がらず不安が募る中で、民主化活動家から「軍がクーデターを起こし、スーチー氏、大統領が拘束された。これから抵抗運動を行う」との連絡が入りクーデターを確信した。アジアのニューフロンティアとして世界の期待を集めていたミャンマーはこの日をもって軍事政権が復活し、政治・経済的な困難は益々悪化の一途を辿り、国際社会から非難を受ける状況が現在も続いている。
ミャンマーは1948年独立するが、議会政治の混乱、シャン族やカレン族などの武装少数民族組織との戦闘の激化を経て、1962年3月、当時のネーウイン国軍司令官がクーデターを決行し、それ以降ミャンマーでは2021年まで約50年間の長きに亘って軍事政権が続くことになる。ミャンマーの国民が軍事政権下で強いられている苦難から脱したいとの強い思いはこの時から始まっている。
ネーウイン政権は1962年から1998年まで26年間続くことになるが、農業を除く全ての経済活動の国有化を柱とする「ビルマ式社会主義」政策を徹底的に進めると共に、対外的には厳正非同盟主義を標榜し鎖国政策とも言える政策を行ってきた。この当時タイ、インドネシア、マレーシア等のASEAN諸国が、西側諸国との経済活動を活発化させ貿易や投資を拡大することで経済発展の道を進みつつあったのとは対照的に、ミャンマーは対外経済関係も全て軍事政権が管理し、外国投資がミャンマーに入ることはなく、その鎖国政策によって「総国民の貧困化」が加速される状況になっていった。そのような中で日本はミャンマーに対して、1970年代からODAを加速的に増やしていった。その背景には様々な要素があったと考えられるが、特に3点を上げれば、第一に1974年ミャンマーで軍人が軍服を脱ぎ平服に替えただけの表面的なものではあったが所謂「民政移管」の体裁を取ったこと、第二に当時は東西冷戦が激化し米国等西側諸国がミャンマー国軍を反共勢力と位置づけ、日本がODA支援を行うことを容認していたこと、第三に1970年代以降、日本政府はODAを外交の重要な一つとして位置づけ拡大を始めた時期であったことなどが主に考えられる。
しかし一方で政治的にはネーウイン指導の下での一党独裁体制、表現・報道の自由の徹底的な制限、反政府活動の摘発といった強権政治が1962年から26年間に亘って続き、国民は軍事政権の厳しい監視下に置かれてきていた。また経済的には、企業国有化・鎖国主義により国際経済とは完全に隔絶され国民の貧困化が進み、1987年には国連から「最貧国;LLDC」の認定を受けるまでの状況となった。
このようなネーウイン政権下における政治・経済的困難の中で発生したのが、1988年の市民、学生、公務員の多数が参加する全国規模での民主化運動であり、それは奇しくも1989年の中国の天安門事件、ベルリンの壁崩壊・東西冷戦終結の前年でもあった。1988年8月民主化運動が大きな高まりとなった時に登場したのがアウン・サン・スー・チー氏であった。彼女は英国人と結婚後英国に在住していたが、母親の看病のため一時帰国していた。同氏の父親アウン・サン将軍はミャンマーの独立を主導したリーダーであったが、独立前夜の1947年暗殺されており、ミャンマー国民にとって「独立の父」として非常に強い尊敬を受けている英雄である。そのカリスマ性とも相俟って同氏は一躍民主化運動の象徴としてリーダー的存在となっていった。
しかし民主化運動の高まりに危機感を高めた国軍は、1988年9月にクーデターで再度国権を掌握するに至り、この軍事政権は2011年まで23年間続くことになる。またアウン・サン・スー・チー氏に対しても1989年以降繰り返し自宅軟禁措置が取られるようになった。このクーデターに対して当然欧米諸国は強く反発し、経済制裁による圧力を強めていく政策を取ってきた。日本もそれまで供与していたODAについて、人道援助を除き基本的にこれを全面的に停止する措置を取るに至った。タン・シュエ国軍司令官率いる軍事政権は、クーデター後民政移管を目指すと表明しつつも、そのためには憲法が必要だとして新憲法の起草に着手し、2008年に憲法草案が国民投票で承認され公布された。同憲法では、連邦及び地方議会の25%が国軍司令官の任命による軍人議員に割り当てられている。
2010年、軍事政権は政権を委譲するとして総選挙を実施する。アウン・サン・スー・チー氏率いる政党「国民民主連盟(NLD)」は、同氏が自宅軟禁措置にあることや民主的な憲法ではないこと等を理由に総選挙をボイコットする。総選挙結果は、国軍系の政党「連邦団結発展党(USDP)」が連邦議会、地方議会共に8割近くの議席を確保して大勝し、2011年3月、軍事政権で首相を務めていたテイン・セイン氏が大統領に就任した。テイン・セイン大統領は、元軍人であり、軍事政権では首相を務めていたこともあり、この民政移管によってミャンマーが民主化に動き出すとは誰も期待も予想もしていなかった。筆者自身も、東京でテイン・セイン大統領就任の報に接した時、まさか同政権が大きな政治・経済改革をその後実施するとは正直想像もしていなかった。しかしこの大方の予想を大きく覆す2つの出来事が立て続けに行った。政権発足後四ヶ月が経過した2011年8月、テイン・セイン大統領は2010年に自宅軟禁から解放されていたアウン・サン・スー・チー氏と突然面談し、その様子は、両氏がアウン・サン将軍の肖像画の前で撮影された写真と共に大きく報道された。当時筆者は、その面談当日にミャンマーに着任し、翌朝大使館に向かう車中から、路上で多くの人々がアウン・サン・スー・チー氏の写真が掲載された新聞を読んでいる姿を見て大きな変化の予感を感じたのを今でも覚えている。軍事政権下では、同氏の写真を持っているだけで拘束されたため国民が外で写真を見ることはあり得ないことであったからである。第二は、中国のよる水力発電プロジェクト(ミッソンダム建設)の突然の中止である。同プロジェクトは、ミャンマー人の誇りであるイラワディ川の自然に悪影響を及ぼす恐れがあるとして国民の多くが反対していた。しかしこのプロジェクトは、軍事政権議長を務めていたタン・シュエ国軍司令官自ら中国との間で合意したプロジェクトであったため、この突然の中止決定は、テイン・セイン政権による変化を内外に大きく印象づけるものとなった。この大きな出来事の直後である2011年11月には、クリントン米国務長官がミャンマーを訪問した。米国務長官のミャンマー訪問は56年振りであり、米政府がテイン・セイン政権支持と制裁解除に向けた対応を検討しているシグナルと受け止められ、日本を始めとする国際社会がニューフロンティアとしてミャンマーに大きく注目する契機となった。2012年11月には、現職の大統領として初めてオバマ米大統領がミャンマーを訪問し、テイン・セイン大統領及びアウン・サン・スー・チー氏と会談している。
テイン・セイン政権は、2012年4月に補欠選挙を実施し、アウン・サン・スー・チー氏も選挙参加が認められ、同氏を始めNLDから43名が連邦議会議員として当選した。1962年の軍によるクーデター以降50年経って、軍政に反対し民主化を主導するリーダーが率いる政党が国政に初めて参加した瞬間であり、内外の大きな注目と期待を集めた。テイン・セイン政権は、ネーウイン政権から続けられていた報道の検閲撤廃等自由化を積極的に進めてきた。このような民主化の進展を背景に、2014年には首都ネーピードーでミャンマーがASEAN議国として初めてASEAN首脳会議を主催し、安倍総理、オバマ米大統領等主要国首脳が一堂に出席するまでに至った。
このような民主化・自由化の動きに呼応し、日本政府は、2013年ネーウイン政権以降に供与してきたODAの延滞債務約5千億円を解消する措置を取り、ODAの全面再開に踏み切った。国際社会も日本を始め各国が、人口5千4百万人、東南アジア大陸部最大の国土面積、豊かな天然資源を持つフロンティア・ミャンマーの出現に熱狂したと表現しても過言ではない。
2015年11月、総選挙が実施されることになった。アウン・サン・スー・チー氏率いるNLDが参加しなかった2010年の選挙と異なり、今回はNLDが参加し政権獲得出来るかが焦点であった。結果は連邦議会議席の八割前後を獲得したNLDが圧勝し、国軍系政党USDPの惨敗となった。テイン・セイン政権が民主化、経済の自由化を大きく進め国民の間でも一定の評価を得ていたのは事実であるが、テイン・セイン大統領並びにその閣僚の多くは元軍人であり、国民の目からすれば軍事政権の一つとして見られていたことが上げられる。これに対してアウン・サン・スー・チー氏は1988年の民主化運動以降一貫して軍事政権に反対してきており、国民は軍事政権の終焉、そして国民から選ばれた民主政権の登場を強く熱望していたことが根底にある。更に大きな要素としてアウン・サン・スー・チー氏の存在である。独立の父アウン・サン将軍の娘というカリスマ性に加えて、軍事政権当時の度重なる拘束、自宅軟禁措置を受けても軍政に屈しなかったことが国民の支持を不動のものとしていた。
NLD圧勝を受け、果たして平和裏且つ円滑な政権委譲が行われるかどうかが次の関心事となった。選挙直後、筆者はテイン・セイン大統領並びにミン・アウン・フライン国軍司令官と面談する機会を得たが、両者共に、いずれも選挙結果を尊重し、NLDによる新政権の下で協力していくと明言していたのが印象的であった。その発言の通り2016年3月30日、NLD政権が発足したが、それは五十年以上続いた軍政に終止符を打つ歴史的な出来事であり、また平和裡に行われたことは画期的だった。筆者自身、これを契機にミャンマーは今後種々困難がありながらにも民主化、自由化に向かって進んでいくと確信し、五年後の2021年2月にクーデターで再び軍事政権に戻るとは想像すらもしていなかった。
内外の大きな期待を背負ってNLD政権は発足したが、実際の政策運営は必ずしも順調とは言えなかった。憲法は、アウン・サン・スー・チー氏を念頭に置いて、大統領資格要件として、本人のみならず配偶者や子弟も全てミャンマー国籍でなければならないと規定されている。そのため同氏は大統領に就任できないため「国家最高顧問」という憲法の規定にない役職を創設し全ての政府機関に助言できる権限を与えることとしたため国軍から強い反発を受けることになった。また政権発足当時、長年続いてきた武装少数民族組織との和平実現を主要政策課題としたが、NLD関係者で国内和平について知見のある者は皆無であるにも拘わらず、テイン・セイン政権で国内和平を進めてきた準政府機関「ミャンマーピースセンター」を解散させ、国軍とも十分な意思疎通が取れないため和平プロセスが頓挫する状況にまでなった。他方で経済対策は当初優先課題とされなかったことや資質や経験に欠ける者が経済関係閣僚に任命されたため、政権発足から暫くの期間停滞を招いてしまった。更にはバングラデシュと接するラカイン州に居住するイスラム系民族ロヒンジャに対して治安当局が厳しい取締りを行い、際社会から国軍のみならずアウン・サン・スー・チー氏自身も糾弾される事態となった。しかし国民の多くからすれば、50年振りに誕生した、しかもアウン・サン・スー・チー氏が率いる民主政権としてその支持は依然として非常に高いものであった。
そのような状況で行われたのが2020年11月の総選挙であった。NLDの政権運営が前述の通り必ずしも円滑なものではなかったが、国民にとってNLDが選挙に敗北すればそれは軍政復活を意味するものであった。これに加えてアウン・サン・スー・チー氏に対する国民の人気は依然として圧倒的なものがあり、連邦議会の八割以上の議席を確保し大勝する結果となった。選挙前からミン・アウン・フライン国軍司令官はUSDPが勝つと予測しており、11月8日投票日当日も投票箱を前にして集まった報道のテレビカメラの前で「選挙結果を尊重する」と明言していたほどであった。国軍がこれほど国政にとって重要な選挙結果の予測について決定的な間違いを犯したのは今回が初めてではない。1988年民主化運動直後の1990年選挙、2015年総選挙でもいずれもNLDは勝てないとの選挙予測が国軍上層部に報告されていた。ミャンマーの国民性、就中国軍の特性として、上層部に対して「耳障りの良い情報」を入れる傾向が非常に強い。そのためミン・アウン・フライン国軍司令官は、憲法の規定により国軍の持つ25%の議席と国軍系政党の獲得議席を合わせれば容易に過半数を獲得し国権を国軍が取り戻し自らが大統領となる道筋を想定していたと考えられる。総選挙直後の2020〇年12月筆者はミン・アウン・フライン国軍司令官と面談したが、その中で司令官は国軍幹部の中で様々な国政の課題を経験してきているのは自分だけであるとして、引き続き国政に関与していく強い決意と自信を示していた。国軍は、選挙後にNLDが有権者名簿の改竄等選挙不正を行ったとして議会招集延期、選挙結果の見直しを強く迫るようになった。国軍とNLDとの間で2021年1月28日頃から話し合いがもたれたものの、選挙後の議会招集日である2月1日を迎え国軍はクーデターを決行、アウン・サン・スー・チー氏、ウイン・ミン大統領始め政府やNLD幹部の多くを拘束した。国民の多くは当然クーデターに強く反発し街頭でデモを行ったが、これに対して国軍は2月下旬頃より銃を使用した実力での取り締まりを激しく行うようになり、これに対して追い詰められた多くの若者が武器を手に持ち武力闘争を始めていった。彼らの多くは国境地帯の様々な武装少数民族組織と合流、支援を受けながら戦闘を継続している。当初圧倒的な力を持つ国軍の前でこのような武力闘争は長くは続かないと見られていたが、クーデターから3年以上が経過した現在まで継続しているのみならず、マンダレー近郊やザガインでの戦闘が拡大するなどむしろ国軍側が劣勢に立たされる状況にまでなっている。民主派勢力や少数民族勢力が、圧倒的な火力を有する国軍の瓦解まで追い込むことは容易ではないと考えられる。しかし他方でミャンマー独立以来、これほどまでに大多数の国民から国軍が「憎悪」の対象となっているのも初めてのことである。国民の多くから憎まれている国軍が果たして今後も存続できるのか、これがミャンマーの今後を予測することを最も困難にしている最大の要素である。
軍政は、2025年に総選挙を実施すると公約しているが、地方の多くでは民主派、少数民族組織との戦闘が継続して起きており、全国で選挙を行うのは難しいとの見方が一般的である。最近ではミャンマー選挙管理委員会委員長が政党関係者との会議で、全国330選挙区のうち選挙が実施出来るのは162選挙区と説明したと伝えられている。更にはアウン・サン・スー・チー氏始めNLD幹部は拘束されるか国外に逃亡しており、また軍政によってN LDは政党登録が抹消されており選挙参加が検討出来る状況ではない。国民の多くにとって「選挙」とは「2020年選挙」を指すのであって、軍政が行う選挙には激しく反発している。来年選挙が行われるならば、多くの国民の強い反対の中で行われることになり更に国内の混乱を招くことは必至である。また国際社会も既に選挙支援を表明している中国やロシアはこれを受け入れ、欧米等国際社会の多くは選挙実施自体に反対し、国際社会の対応も「分断」されることが必至である。ミン・アウン・フライン国軍司令官率いる国軍にとって、アウン・サン・スー・チー氏や民主派側に将来の政治路線について何らかの譲歩や妥協を示すことは、国政に彼らが関与するスペースを僅かでも与えるものとして到底受け入れられるものではなく、むしろ今後とも徹底的に排除していく立場を堅持していくことは確実である。とするならば現時点で「政治的出口」を探すことは現実的ではない。
クーデター後、軍政は、経済活動の軍政による統制強化、数々の外貨規制などネーウイン政権に回帰したかのような「軍政管理」の経済政策を取ってきている。国際社会から制裁を課され援助は全て停止しており国内経済は困難を強めている。また民主派勢力や少数民族組織との戦闘では劣勢を強いられ、本年2月にはミャンマーで独立後初めての徴兵制実施に踏み切った。国軍に徴兵されることは国民同士の戦闘に駆り出されることであり多くの若者が国外に逃れようとしている。徴兵制実施後に在ミャンマー日本大使館には連日500人以上が査証の申請に来ているほどである。
このようなミャンマーに対して欧米は圧力・制裁を主体とする強い立場を取っているのに対し、軍政は中国やロシアへの傾斜を一層強めている。特に中国は本年8月以降、国軍の戦闘での劣勢を踏まえて、ミャンマーにおける自国の権益維持の立場から来年の選挙支援等軍政支持の立場に明らかにシフトさせてきている。ASEANは、タイやカンボジアが軍政に近い立場を取る一方で、マレーシア、インドネシア、シンガポールなどは軍政と一定の距離を置く立場を取ってきている。
日本は、クーデター直後から、①暴力の停止、②アウン・サン・スー・チー氏等全ての拘束者の釈放、③民主政府への復帰を求めることを3本の柱に据えている。また現在まで軍事政権を「政府承認」しないとの立場を取ってきており、筆者も本年九月に離任したが後任は大使ではなく「臨時代理大使」を派遣している。
ODAについてはクーデター前から実施してきていた案件についてはその個別の状況等を踏まえながら検討実施しているが、新規案件は停止している。
日本と長年に亘って歴史的な関係のあるミャンマーの現状はこのように非常に困難であり、前述の通り現時点で民主化に向けた動きを導き出すことは限りなく困難である。他方でミャンマー国民の多くは、何時拘束されるか分からない恐怖、学校教育の崩壊、経済状況の一層の悪化による貧困、更にそれに追い打ちをかけたのが徴兵制であり、日本人には想像も出来ない恐怖や困難に直面している。日本としては、先ずはこのような深刻な困難に直面しているミャンマー国民の立場に立ち、彼らの困難に対してキメの細かい支援を実施していくことが先ず重要である。現在多くのミャンマーの若者が「技能実習生」、「特定技能」或いは「留学」のために日本に来ている。彼らの多くにとって現在のミャンマーは、戻れる母国ではない。そこには命の安全はなく経済的困難があるからである。そのようなミャンマーの国民を日本でなるべく多く受け入れていく体制を一層進めていくことが大切である。また予算の制約はあるが、国費やODAによる留学支援は引き続き人材育成の観点から進めていく必要がある。
他方で様々な事情でミャンマー国内に止まらざるを得ない国民や国境付近などに逃げている紛争避難民に対する支援は、日本としても国際機関やNGO等を活用し支援の方策を検討し進めていくことが望まれる。
日本とミャンマーの両国民の間では、長年に亘って様々な暖かい関係が築かれてきている。この日本とミャンマーの両国民の友好を将来に向けてさらに築いていくことが日本とミャンマーの外交のために非常に重要であり、そのためには「国民の側に寄り添った」立場で前述のような施策を実施していくことを基本とすべきである。
ミャンマーはクーデター後、当然のことながらビジネス環境が極端に悪化しており、またミャンマーで事業を継続すること自体がレピュテーションリスクを招く恐れもある。クーデター前には現地日本商工会議所には400社以上が登録していたが、クーデター後休業や撤退を余儀なくされ、現在は330社までに減少している。しかし踏み止まっている日本企業の多くも様々な困難に日々直面している。日本企業のミャンマーでの活動は、「責任あるビジネス」を進めていく存在であると同時に、雇用の確保、人材育成の観点からも価値のある貢献をミャンマーに対して行ってきており、引き続き日本政府として日本企業の経済活動を後押ししていくことが重要であることは言うまでもない。
日本にとっては、益々悪化し改善の動きすら見えない政治経済状況の下で苦しんでいるミャンマーの国民に対する支援、そして現地に残り踏み止まっている日本企業に対する協力について具体的な方策を検討しながら、一方で政治的出口の見えない現状の中で忍耐強く民主化への道筋のための緻密な情勢のフォローが求められていると言える。(了)