まる子、モルドバに笑顔をもたらすの巻

前駐モルドバ大使 山田洋一郎
モルドバは、ルーマニアとウクライナに挟まれた九州より小さな内陸国で、7000年のワイン製造の伝統がある豊かな黒土の農業国である。1991年にソ連から独立し、国語はルーマニア語だが、皆ロシア語も流暢に話す。モルドバと聞いて「青い海に囲まれた国ですね」と言った人に何人か会った。モルドバのある閣僚は、ピアニストのアシュケナージに自己紹介したら、「ああ、スメタナの!」と言って興奮していたと話してくれた。前者はモルディブと、後者はモルダウとの勘違いである。
無名のモルドバが一躍有名になったのは2022年だ。ロシアがウクライナを侵略したあと、わずか人口240万のモルドバに100万人以上のウクライナ難民が逃げてきた。その彼らを一般のモルドバ人が温かく保護した映像が世界に流れたのである。グテーレス国連事務総長はモルドバを「大きなハートの小さな国」と呼んだ。
平和そうに見えるモルドバだが、赴任してみると、国の内部では激しい権力闘争が繰り広げられていた。これはロシアと結びついて伝統的な権益や秩序を守りたい勢力と、彼らの腐敗体質を拒絶し法の支配に基づく民主主義を実現したい親EU勢力の間の争いである。2025年9月の総選挙は、今後のモルドバの方向を決めることになる独立以来最も重要な選挙となるということを知った。モルドバは議会制民主主義の国であり、議会で多数を組織する政治勢力が政府を組織し、予算と立法および外交の主導権を握るからである。
モルドバ議会選挙は全国を単一の選挙区とする比例代表制で行われる。選挙前、国民議会の101議席のうち、サンドゥ大統領が設立した「行動と連帯の党」(以下PAS)が61議席の安定多数を占めていた。しかし、PASの支持率は、過去数年の国の経済苦境を背景に低迷していた。ロシアの内政干渉は明らかだった。もし選挙で親ロシア派が勝てば制度改革もEU加盟も遠のいてしまう。
特定の勢力を応援するわけにはいかない。しかし、ルール違反のロシアの介入を等閑視するのも無策だ。モルドバの民主主義を支援するために何かできないか。こう考えていたら、アニメを通してモルドバ国営放送を支援するというアイデアが浮かんだ。JICAの支援により、選挙直前に一つのプロジェクトを実施することができた。かくして、「ちびまる子ちゃん」が選挙前の一か月間、モルドバの視聴者の前に毎日姿を現すこととなったのである。なお、総選挙の結果は与党が辛くも過半数に達して安定多数を獲得し、EU加盟交渉を継続することとなった。
モルドバのEUへの接近を妨げるロシア
モルドバの総選挙が熱く争われた背景には、国内・国際の2つの要因がある。2000年代初めから、モルドバにはEU加盟を目指す政治的勢力が存在した。しかし、ロシアやウクライナのオリガルヒと結びついた既得権益を握る人々は改革を妨げた。ロシアはモルドバで分断工作を続け、EU加盟の動きを阻害した。一方で、EUとの経済的関係は緊密化し続け、2014年にはEU加盟の前段階である連合協定も締結された。だが、同年には有力政治家の共同謀議により、銀行システムから10億ドルが詐取される事件が発生してモルドバの信用は失墜し、その後はその首謀者が率いる政党が2019年まで国家権力を壟断して、国民の怒りが高まった。
2020年の大統領選挙では、汚職撲滅を掲げるマイア・サンドゥ氏が当選し、2021年の議会選挙では彼女が設立したPASが勝利して過半数の議席を得た。新政権は利権構造の解体と司法改革を目指したが、新型コロナで社会生活が麻痺する中、改革は容易に進まなかった。2022年2月にロシアが対ウクライナ侵略戦争を開始すると、モルドバはロシアを非難しEU加盟を申請し、わずか数か月後にはウクライナとともに加盟候補国の地位を与えられた。だが、国内経済状況は悪化し、ウクライナ難民の到来とロシアによる経済制裁としての天然ガス供給削減等により、高率のインフレが発生した。国民の生活は打撃を受け、与党と政府の支持率は低迷した。野党はPASの無能と傲慢を非難し、与党はEUを始めとする民主主義諸国の支持と支援を頼りに危機を乗り越えようとした。
ロシアは、モルドバの独立後もこの国を自国の勢力圏とみなし、モルドバがEUに接近するたびに経済制裁を課してきた。これは1812年のベッサラビア併合以来、過去200年の多くの期間にわたって現在のモルドバの地がロシア(およびソ連)の一部であったため、今でも当然ロシアの意向に従うべきだという認識がロシア指導層の間に存在するためである。また、モルドバに親ロシア政府が存在すれば、ウクライナとの戦争で断然有利になる。社会党を始めとする親ロ諸政党は、過去4年間の経済的困難をPASによるロシア敵視政策の結果であると主張した。ロシア逃亡中の元政治家イラン・ショールは、ロシアの支援を受けて有権者の買収や抗議行動を組織し、ロシア正教の聖職者に金銭を与えて動員し、少数民族に働きかけて国内の対立を煽った。またロシアは、TikTokなどのSNSやロシア系テレビを通じてEUやPASに関する偽情報を拡散し、戦争を示唆して恐怖心を喚起させるなどの揺さぶりをかけ続けた。
恐怖心と憎しみを煽り、金銭欲に働きかけるロシアの内政干渉は効果的だ。2024年10月に行われたモルドバ大統領選挙およびEU加盟をめぐる国民投票においては、政府発表で国内有権者の10%以上にあたる約14万人の有権者が買収されたという。この結果、国内有権者の間では反EU票とサンドゥの対立候補が過半数を占めるに至り、有権者総数の20%近くに達する海外在住者の支持でようやくEU加盟方針が可決されサンドゥ大統領も再選を果たすという結果となった。2024年10月のジョージアの総選挙と同年12月のルーマニア大統領選挙ではロシアの選挙工作が成功しており、モルドバ総選挙が次のターゲットであることは明らかだった。
一方のEU側は、加盟候補国となったモルドバに対し、各種の加盟前支援を提供し、改革とEU加盟を促進する姿勢を貫いた。欧州委は2025年に入るとモルドバに対する大規模な投資計画を打ち出し、選挙が近くなった7月初旬にはフォン・デア・ライエン欧州委員長とコスタ欧州理事会常任議長がそろってモルドバを訪問するなど、PASとサンドゥに対して強い連帯と支持を示した。もしモルドバに親ロ政権が誕生して、モルドバからの分離地域トランスニストリアに駐留するロシア軍が強化されるならば、ウクライナは東部と北部に加えて南西部からも包囲されるという危機を迎える。ウクライナが占領されれば、ロシアは確実にモルドバも占領するであろう。サンドゥ大統領が述べるように、ウクライナとモルドバの安全保障は不可分であり、このことをEUは強く認識していた。
トランプ政権誕生以来、米国がメディア支援を停止したので、ロシアに比べて資金力で劣るモルドバの親EU勢力はメディア戦略で大きな不利に立たされた。国営テレラジオ社総裁からの支援要請は日本にも寄せられ、2024年11月に岩屋外務大臣(当時)は訪日したポプショイ外相に対して機材支援の意向を表明したが、選挙前に実現できるプロジェクトではなかった。インフレを始めとする経済困難の原因がロシアによる経済制裁にあることは外部の目には明らかであるが、経済的苦境の原因が政府にあるとする野党からの批判やロシア系プロパガンダは多くの国民に対して説得力を持った。選挙でPASは過半数を大きく割り込んで、不安定な連立政権が誕生するだろうとの予想が支配的だった。
国営テレビでアニメをロシア語で放映する狙い
2025年2月、JICAから在モルドバ大使館に対し、ウクライナ周辺国向け支援に我が国補正予算が取れたとして、使い道について提案はないかと相談が来た。モルドバの公共放送はルーマニア語番組がほとんどであるが、国民の殆どはロシア語にも通じている。日本のアニメをロシア語で放映すればウクライナ避難民にエンタメを提供し、広くモルドバ社会に日本文化を紹介できるとJICAに提案したところ、検討できるという。この提案には、隠された狙いがあった。それは、国営テレビで子供番組が放映される午後4時30分にアニメを流せば、子供たちだけでなくその保護者である祖父母も一緒に観る可能性が高く、彼らの多くはそのままチャネルを変えずに午後5時のロシア語ニュースも観るだろうということである。モルドバでは両親がEUに出稼ぎに行って子供は祖父母と一緒に住むケースが多い。特にエンタメの少ない地方に住む高齢者は、資金力豊かなロシアのテレビ番組やネットを観ることが多く、ロシアは数年来、その中に巧みに親ロ・反EUのメッセージを組み込む情報工作を仕掛けていた。テレビは高齢者の間で重要なニュース源である。中立公正な事実を報道するモルドバ国営放送のロシア語ニュースを見れば、視聴者はロシアの選挙介入の実態を知ることとなり、情報操作に対抗する一助になるだろう、と考えたわけである。EU代表部にいた1996年、内戦終了直後のボスニアのメディア環境を改善するため、独立テレビ局に「未来少年コナン」を提供するプロジェクトを実施して好評を博したので、今度もうまく行く気がした。
3月に大使会議で帰国した際、JICAで担当理事にこのような趣旨を説明し、協力に前向きな反応を得た。選挙前の数か月間に新しくロシア語吹き替え版を作る時間はない。すでにロシア語に吹き替え済みの作品はないか。放送の途中から観る人のことも考えれば、各エピソードが時間内に完結する方がよい。JICAとともにアニメ会社にあたっていくつかの作品を検討し、日本アニメ社の「ちびまる子ちゃん」を20日分、40エピソード選んだ。モルドバ国営テレビはこの提案を歓迎し、午後4時半から5時までのスロットを利用できることとなった。
最初の計画では、アニメだけを放送する予定だったが、ここで問題が起こった。モルドバの法律では、子供番組は国語であるルーマニア語で放送しなければならず、ロシア語では許されないという。但し、アニメであっても文化紹介番組であれば大人向けと扱われるのでロシア語での放送が可能だというのだ。これを告げられたのは7月末だった。文化紹介番組としての体裁を整えるには、毎日の2つのエピソードの前、中、後にロシア語で日本の様々な側面についての対話を含めるのがよいという。そこで、8月中作業して、筆者が英語で書いた台本をもとに、国営テレビ局のロシア語ニュースのキャスターがロシア語のセリフを作ってくれた。
こうして、9月1日から選挙直前の26日まで、平日の午後4時半から5時までの30分間、国営テレビ局「モルドバ1」で「ちびまる子ちゃん」のロシア語版を2エピソードずつ放映する日本紹介番組が実現した。筆者は赤い半被(はっぴ)を着て、青い半被を着た司会者とともに、テレビカメラに向かってロシア語で日本の文化、風習、歴史、政治、社会など様々な側面を紹介する対話を行った。
このプロジェクトは所期の効果を上げた。放送時間帯の視聴率は以前の数倍に増加し、毎日唯一のロシア語ニュースである午後5時からのニュースも大きく視聴率が上がった。票の売買に対する重い罰金についての番組後の政府広報も効果があったようである。西側諸国の同僚大使たちやモルドバ政府高官はこの企画をとても面白がってくれた。9月のG7大使のランチでは、英国大使が「ジロー(注、筆者の渾名)、あなた今、全国的なヒーローよ!」と言ってくれた。
親EU与党、単独過半数に達する
9月28日夜、選挙の結果が明らかになった。事前の大方の予想を覆してPASが有権者の50.24%の票を獲得し、かろうじて単独過半数の議席を確保した。モルドバの未来がかかっていた今回の総選挙では、どの政党を支持するかを子供や孫と相談して投票した高齢の親が多かったという。他にもいろいろな特殊要因が働いたであろうが、ちびまる子ちゃんの番組もロシアのプロパガンダに対抗するうえで総投票数の0.3%くらいの票の獲得には貢献したかもしれない。そう思うことにして、特上のモルドバワインを開けて、一人で乾杯した。
このプロジェクトはモルドバ在勤中の忘れがたい思い出となった。その実現は大使館の同僚たちやJICAの担当者の協力のおかげであり、彼らに心から感謝したい。
モルドバは、デジタル化が急速に進み、有為の人材に富む面白い国である。モルドバの高校生チームは、昨年秋、世界190か国が参加する世界最大の国際ロボットコンテストで金メダルを獲得した。5年連続の金メダルである。モルドバでは長いこと、高校卒業生の半数以上がルーマニアを始めとするEUの大学を選んで国外に出てしまう人材流出が続いていたが、一昨年から国内の大学を選ぶ学生が増えだしたという。EU加盟の可能性が高く、ウクライナ人との共通言語を持つモルドバは、今後、高い経済成長が期待できる国だ。かつては雇用機会を求めて身一つで国外に出たモルドバ人が、今度は技術とコネと資金とともに次々に本国に戻ってくる動きも現実化しつつある。将来がとても楽しみな国である。もっとも、このような明るい未来は、ウクライナが持ちこたえ、モルドバが再びロシアに併合されることがないことが大前提であるが。モルドバの平和と繁栄を祈っている。
なお、筆者は退職後、「国境のない外交団(Diplomats Without Borders)」の既存会員からの勧誘と推薦で、その会員となった。2022年に設立された新しい組織で、約50か国のシニアな元外交官・国際機関職員等がボランタリーで参加し、研修協力や紛争解決、国際法に基づいた国際システムの推進などの面で国際社会に貢献することを目的としている。日本人会員は筆者が初めてであり、ラーデ会長から、「あなたが99人目だ。100人目になる良い人がいたら国籍を問わず紹介してほしい」と言われている。ご関心の向きはご連絡いただければ幸いである。
