<帰国大使は語る>独立30周年を迎えた「ひまわり」の国・ウクライナ


前駐ウクライナ大使 倉井高志

 2019年1月から2021年10月まで駐ウクライナ大使を務めて最近帰国した倉井高志大使は、インタビューに応え、ウクライナの特徴と魅力、在任中に経験したことや力を入れて取り組んだこと、日本との関係とその展望等について以下の通り語りました。

―ウクライナはどんな国ですか。その魅力は何ですか。

 初夏にキエフ郊外をドライブすると、遙か地平線まで黄色一色に広がる見事なひまわり畑を見ることができます。一直線に広がるひまわりの上には真っ青な空が果てしなく広がっている。このような、地平線を境に上半分が青、下半分が黄色の二色で構成される景観をそのまま図案化したのがウクライナの国旗。果てしなく広がる大地、ヨーロッパの穀倉地帯と言われた肥沃な土地が、ウクライナの最大かつ最も重要な特徴であると自分は思います。
 「最も重要」というのは、この自然環境がウクライナの人々のメンタリティに大きな影響を与えているからに他なりません。19世紀に多くのウクライナ人がカナダや米国、また極東地域に移り住みました。それはもちろん、当時の帝政ロシアの内政に大きく関わる動きでしたが、移住を決意した人々の意識は農業を続けたいという欲求であり、果てしなく広がる空間を求めて止まない、言うに言われぬ思いでありました。
 本年8月24日、ウクライナは独立30周年記念式典を、国を挙げて大々的に開催しました。ウクライナは旧ソ連邦の構成共和国の一つ「ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国」の領域を継ぐ形で成立し、この地理的範囲を領土とする今日のウクライナという独立国家は30歳になったばかりです。

(写真)ひまわり畑と青空

 しかしながら、今日のウクライナの領土を含む黒海周辺は紀元前700年頃には人類史上初の騎馬遊牧民と言われるスキタイが非常に高度な文明を発達させていた地域でした。キエフから南方に車を走らせて8時間ほどいくとクルミア半島の付け根あたりに行き着きますが、この地域にはスキタイの遺跡がなお多く残されています。当時に作られた金細工がキエフのペチェルシカ大修道院内の博物館に保管されていますが、その精巧さは見事というほかなく、これが今から2700年も前に作られていたことに驚かされるのは自分だけではありません。また10世紀に成立したキエフ・ルーシ公国は、北方はモスクワからノヴゴロド以北まで広がり、ヴォロディーミル公の時代にはヨーロッパ最大の領土を誇っていました。キエフ・ルーシ時代の歴史的建造物等も多くのこされています。
 新生国家としての歴史は浅いが、高度な文明を誇る悠久の歴史をもつ土壌の上に形成されたウクライナの懐の深さが、ここに住む外国人にとっては興味のつきないものとなっています。

(写真)スキタイの宝物「黄金の首飾り」

―在任中に特に印象に残っている事柄は何ですか。

 2020年初頭から顕在化してきた新型肺炎(Covid-19)の関係で国内移動が思うに任せない時期が続くことがありましたが、今なお紛争の続くドンバスには何とか3度訪問することができました。そのうち2度は日本政府によるウクライナ東部支援の完成式典のため、そしてもう一つはゼレンスキー大統領によるドンバス訪問へのG7大使「ウクライナ・サポートグループ」(同グループについては後述)の参加としての訪問でした。いずれも戦争による被害をカバーする特別の保険を手当てした上で、国際機関の提供する防弾車を利用し、コンタクトライン(ウクライナ軍・武装勢力間の対峙ライン)の手前、砲弾等の届きにくいと思われる距離の範囲で移動するものでした。大統領の訪問に参加したときはウクライナ軍の提供する輸送ヘリで、敵のレーダーに捕捉されないよう、地面の草木がすぐ下に見えるほどの低空飛行で移動しました。
 自分にとって忘れられないのは、危険地域に暮らす住民との交流です。2019年の秋、2度目の訪問のとき、10人ほどの現地住民の方に集まっていただき、意見交換会をもちました。砲弾等のため自宅が半壊して吹きさらしになってしまった人、暖房のためのペチカが機能しなくなった人、勤めていた工場が破壊されて職の見通しが全くたたなくなった人等々、それぞれ非常に深刻な問題を抱えていましたが、その中の一人がこのように言いました。「自分は何のために戦争しているのか、分からない。向こうから撃ってくる者も我々と同じ言葉を話し、同じ生活をしている。何のためなのか」
 ドンバスの紛争は2014年9月の停戦合意を始め、これまで何度も停戦が合意されましたが、合意はそのたびに破られ、戦闘は今も続いています。その中にあって少なくとも週に数人のペースで、今でもウクライナ人兵士が尊い命を犠牲にしているのです。
 ドンバス訪問でもう一つ忘れられないのは、日本政府による支援で住居の修復等を行った現地の子供たちとの触れあいです。吹きさらしになってしまったところを修復した住居を訪ねたところ、お母さんが暖かい紅茶とおいしいピローグを出してくれ、家族みんなで四方山話に花を咲かせました。そのときに自分は村の子供たちが感謝の気持ちを込めて書いてくれた絵の贈呈を受けたので、キエフに戻ってからこれを最高会議(ウクライナ議会)の外交委員長に見せ、日本の支援活動を知らせるとともにウクライナ議会としての更なる支援を求めました。その際に外交委員長と一緒に撮った写真を現地の村に送ったところ、今度は現地から、自分が送った写真を子供たちがもって見せてくれている写真を送ってきてくれました。
 ドンバス訪問中の現地の人々との出会いで自分が素晴らしいと思ったのは、村の学校を訪問して高校生たちと懇談の機会をもったときのことです。どの生徒も貧しい家庭の中で育ってきたのですが、生徒たちの多くが、ウクライナの将来をどうすべきか、自分がウクライナの将来建設に如何に関わっていくかについて抱負を語ってくれました。「○○が欲しい」などとおねだりする者は一人もいませんでした。

(写真)ドンバスで交流した地元の家族と筆者夫妻

―ウクライナと日本は遠く離れていますが、それぞれにとって相手国はどのような意味をもっていますか。

 既に述べたとおり、ウクライナは若い国です。また日本からは8千キロ以上離れていて、恐らく日本人で、欧州の地図上にウクライナを正しく示せる人は少ないでしょう。しかし両国には非常に重要な協力のベースがあります。 
 経済的側面から日ウクライナ関係をみると、数字の上からは商業ベースの取引は低いレベルにとどまり、日本からの政府開発援助が大きな比重を占めています。日本の政府開発援助は独立以来の合計で31億ドル、2014年のマイダン革命以降で18億ドル強にのぼり、G7でも最大規模の支援となっています。その大部分は空港建設などのインフラ整備ですが、医療機材、教育、文化施設や東部住民に対する支援など、実にきめの細かい支援を行ってきています。
 他方、商業ベースの経済関係はなお低いレベルにとどまっています。ウクライナは大農業国ですが、オデッサ港からボスフォラス海峡を通って地中海、更にスエズ運河を通過してインド洋、マラッカ海峡を経て日本まで輸送する時間とコストは無視できません。日本からは主に自動車や機械類を輸出していますが、これを増やしていくためにはウクライナ側の購買力を更に強化していかなければなりません。ただIT分野ではウクライナは大きな潜在力をもっており、EUもこれに注目しています。ITは距離のもつ意味合いが小さいこともあり、優秀でかつ比較的賃金の安いウクライナのエンジニアは日本にとっても魅力的で、既にいくつかの日本企業がこの点に着目してビジネスを行っています。
 政治面では日本とウクライナには重要な協力のベースがあります。ウクライナの帰属意識はもちろん欧州であり、特に2014年のマイダン革命以降は国家が進むべき戦略的方向性の舵を明確に欧州(EU)に切ることとなりました。そのようなウクライナが東方を向いたとき、最も頼りになる国が日本なのです。我が国はウクライナの主権、独立、領土一体性を支持しており、ロシアによるクリミア「併合」は断じて認めることはありません。この関連でウクライナが国連に提出する決議案は全て支持してきています。またG7の一員として、ウクライナの改革を支持・支援してきていますが、このような支援の背景には政治的支持があると言えます。
 日本にとって、ウクライナが地政学的に意味をもつのは今に始まったことではありません。あまり知られていませんが1902年から1937年まで、オデッサには日本領事館が置かれていました。当時は露土戦争(1877-78年)のあと極東に矛先を向けたロシアとの衝突が現実のものとなりつつあった頃で、在オデッサ日本領事館の最大の任務はロシアのバルカン方面における動きや黒海艦隊の動向にかかる情報収集でした。当時はもちろん今のような意味でのウクライナという国家は存在せず、ロシア帝国ないしソ連邦の一部でありましたが、日本にとってのこの地域の地政学的な意味合いは当時から認識されていました。
 2014年3月頃から始まったドンバスにおける紛争、また同時期に行われたロシアによるクリミア「併合」は、日本にとってのウクライナの意味合いを再認識させることとなりました。ロシアによるクリミア「併合」は、力による現状変更を認めないとする我が国の立場からして断じて認められず、この立場は今後も変わることはありません。これは国際法、国家関係のあり方の基本に関わる問題であり、決して人ごとではなく、抽象的な問題でもありません。
 ウクライナは自国の将来を欧州への統合の中に位置づけています。ウクライナがNATOに、あるいはEUに加盟することは容易ではないでしょう。しかし重要なことは、ウクライナ自身がその国家戦略として大西洋同盟や欧州連合への統合という方向性を堅持し続けていることであり、そこに独立以来取り組んできた改革の方向性を見いだしていることは、我が国にとっても大いにプラスになるものです。

―大使として在任中、特に力を入れて取り組まれたことは何ですか。

 2015年、ドイツ・エルマウで行われたG7サミットにおいて、当時のメルケル首相の提唱を受け「G7大使ウクライナ・サポートグループ」なる枠組みが合意されました。これはウクライナに駐在するG7各国の大使による枠組みで、本国と連携しながらウクライナの改革を支援していこうというものです。
 G7大使グループはG7サミット議長国の在ウクライナ大使が議長となり、定期的に会合して改革に向けた支援のあり方を協議し、ウクライナ政府の改革を支援するとともに、様々な制度や政策のあり方につきウクライナ政府と緊密に協議を重ねています。活動の対象は、司法改革支援、法執行機関改革、経済・財政政策、投資環境整備、軍産複合体改革等々、多岐にわたります。
 これらはいずれも一筋縄では行かない重要課題であり、ウクライナ政府としてはG7側の主張に完全に同意してその方向で政策を進めることもあれば、両者の間で見解の相違があって、かなり厳しいやりとりになる場合、あるいはウクライナ側としてG7からの「押しつけ」と感じていると思われる場合もあります。そのような中でG7大使はほぼ毎週、場合によっては週に何度も顔を合わせ、電話やSNS等を通じての連絡は早朝・深夜を問わずほぼ常時取り合い、さらに大統領を始め首相、関係大臣等々との協議を頻繁に行っています。自分の知る限り、G7大使が一つのグループとして、これほどまでに深く任国の政治・経済改革に関わっている例はありません。自分のウクライナ勤務において、恐らく最も時間と労力をかけて取り組んできたのは、このG7大使グループを通じての対ウクライナ支援であったと思います。このような支援の中で、司法・裁判制度の改革、軍産複合体改革、地方分権等の改革が少しずつではあれ進んできたことは喜びに堪えません。

(写真)ゼレンスキー大統領と筆者夫妻。大統領は非常に気さくな人柄

―これまでの在外勤務の全体を通じて、強く感じられたことはありますか。

 アジアであれ欧州であれ、全ての在外勤務の経験を通じて間違いなく言えることは、いずれの国においても日本の国家と国民に対する信頼が非常に厚いということです。これは官民を問わず、我が国の先人達による長年にわたる努力、海外での立ち居振る舞いが評価されてきた結果でありますが、問題はこのことに日本人自身があまり気づいていないように思えることです。
 外交官の重要任務のひとつは自国について正しい認識を任国側に伝えることですが、日本の場合は、日本国民自身に対しても、海外における評価が如何に高いか、そしてそれは何故なのかを、我々が身をもって感じたこととして伝えることが必要と感じています。それは決しておごり高ぶることではありません。これまで日本と日本人が行ってきたことの価値を正しく評価することが、いわれのない外国からの批判の背後にある政策的な意図を見抜き、真の相互理解に基づく国家関係を構築していくために不可欠であると信じるからです。