霞談話室・会員の縁側 富士山
新幹線で大阪に行くことが多いが、天気が良ければ、富士山が見える。思わず席から立ち上がり、デッキでしばらく霊峰を眺めることが多い。その度に思い起こすのが、万葉集にある山部赤人(やまべのあかひと)の歌「田子の浦ゆ うちいでて見ればま白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」である。「ま白にぞ」という一言に、パッと視界が開け富士山が目に入った瞬間の感動がよく表れている。(修正を加えられた百人一首ヴァージョンより、表現が素直で直情的である。)
高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)の長歌の末尾「駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」も言い得て妙である。確かに、富士山はいくら見ても飽きない。隣にインバウンドの旅行客と思しき人がすわっていると、「ほら、富士山ですよ」とリマインドしてしまう。大抵の場合喜んでもらえるが、時には「来日は2回目で前回見ているから」といった反応をされることもある。「自分は毎回見ているけど飽きないんだよ」と言い返したいが詮無い事なのでそうはしない。
富士山が季節ごとに違う顔を見せるのも味わい深い。おととしの秋は例年より暖かく、なかなか冠雪が見られなかった。そこで一首浮かんだ。「暖秋に富士山あふぎ ふと思ふ 雪の帽子をかぶるはいつかと」 稚拙なので、そっと日記にしたためそのままになった。しかし、そんな富士山も気づくとすっかり雪化粧していたりする。逆もまた真なり。春過ぎて夏近づくと雪化粧が徐々に小さくなりいつの間にか雪のない夏富士になっている。田んぼもすっかり緑に変わっている。
富士山を見て思い出す英単語もある。名詞であり動詞でもあるaweである。英和辞典をひくと「畏れ、畏敬、畏怖」とある。「かしこし」という古語に通ずるものがある。人智を超えたものの前にお手上げして降参する宗教的な響きがある。そういえば、聖書にも「神を畏れる」という表現がよく出てくる。最近は、英語圏の若者がawesomeを乱発するので些かこの言葉も軽くなっているようだが、自分は新幹線のデッキで富士山にawestruckされて暫し佇むのを引き続き楽しんでいる。
富士山は関西から見るとだいぶ関東寄りに位置している。その昔畿内に住んでいた人々にとって、富士山とは音には聞くがまだ見ぬ霊峰である場合が多かったのではなかろうか。さすれば、山部赤人は如何にして富士山まで旅したのか? 費用はどう賄ったのか? 聖徳太子が馬に乗って飛んできて富士山を登ったという伝説もあり、聖徳太子絵伝にも描かれているが、誰にでも出来ることではない。人智を超えたawe-inspiringな富士山の不思議は尽きない。
(松永記)
