余談雑談(第83回)利己心と利他心

元駐タイ大使 恩田 宗

 ラ・ロッシュフーコーは人の立派に見える行動も裏に隠れた真の動機は自己愛(利己心)だとする辛辣な人間観の持ち主だった。彼は箴言集の中でこんな風に言っている。「他人の利益の為に働くときは・・与えると見せて高利で貸しているのだ」「人が賛辞を呈するのはそれで得をしようと思うから(だ)」「善良さは・・怠惰か・・意志の弱さに過ぎない」などと。若い頃それを読んだときは意地悪い皮肉屋だと思ったが今読むと人間にはそうしたところがあると思う。

 武人系の大貴族の彼は人生の前半分を戦場での戦いと宮廷での恋愛や陰謀で過ごし不遇だった後半生はサロンでの社交と読書で日を送った。多彩な人生経験に加え鋭い洞察力と文筆の才に恵まれ手すさびに書いた箴言集は再版を重ねるほど評判だったらしい。 

 偽善は自己の利益のため表面を偽り飾って他人を欺く行為である。ラ・ロッシュフーコーは女性の偽善を標的とした箴言も書いている。「女の貞節は多くの場合自分の名声と平穏への愛着である」などと。サロンの女性達の間での彼の人気がどうだったかは知らない。女性に対しても厳しいことを言う偽悪家めいた彼は近付き難くかったのではないだろうか。偽善を暴かれた女性を弁護する訳ではないが人にどう思われたいかについては正直さにおいて偽善家の方が偽悪家に勝ると思う。 

 生物学者R・ドーキンスもその著書「利己的な遺伝子」で人間は基本的に利己的な存在だと論じている。あらゆる生物は遺伝子の作った機械であり間接的にではあるが「強力な意味における遺伝子の制御下にある」と言う。遺伝子の専らの関心事は自己のコピーの増殖であり自分の宿る個体に「利己的であるよう指図する」。遺伝子が方針決定者であって脳は実行者という関係らしい。生物が利他的に見える行動をすることがあるがその多くは姿を変えた利己主義だと言う。
 
 然し人間の歴史には疑う余地のない利他的行為の数々が記録されており現に目にしたり耳にしたりすることがある。ドーキンスは純粋で私欲のない本当の利他主義は自然界では存在し得ず又存在しなかったと主張する。ただ地上で唯一人間だけは「(自分達を)生み出した利己的遺伝子に反抗・・する力」を持っており教え込めば利他的行為もするようになると言う。人間は利己主義だけに染まっているわけではない。

 事実、我々は利己と利他との間でどう行動すべきか迷うことがよくある。助言を求めても人により考え方が異なり違った事を言う。そもそも人生で出会う選択問題に正解などはないのかもしれない。心細くても自分の心を覗いて決める他はない。結果を納得して受け入れるためにはそれしかないと思う。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。