余談雑談(第76回)歴史の教訓 

元駐タイ大使 恩田 宗

 人工知能(アルファ碁)がイ・セドル9段に圧勝した時、北野宏明(ソニーコンピュータ研究所社長)はこうコメントした。最先端のAIソフトは「何をすればどういうことが起きるのか未来を見通す力」がついてきた、しかし世の中にはルールのある碁と違い不確かで不完全な情報しか得られない問題が多く今後の課題はそれへの挑戦である、と。

 国際情勢の見通しにAIの利用が可能になるのはまだ少し先のことになる。「歴史の教訓」(1973年)の著者A・メイは未来を予測し政策を選択することを職業とする者にとり歴史は無限の宝庫であり歴史の先例に有用な示唆を求めるべきだと説く。実際にルーズベルトからニクソン迄の米国の大統領の事績を調べると問題に直面した時は皆歴史上の類似例を参照して決断しているという。例えばトルーマンが第2次大戦を戦い終えたばかりの米国を再び朝鮮での戦争に突入させる決意をしたのは国共内戦を傍観し「中国を失った」と批判されていたからである。トルーマンの回顧録には「歴史を振り返って先例を探すように自分自身を訓練してきた」とあるという。

 メイによると問題は先例の選び方である。多くの場合直前の類似例に目を向け政策決定の拠り所にしているが先例は歴史学者の協力を得て探す範囲を広げて選ぶべきだという。ルーズベルトは第2次大戦後の世界を構想するに当たり第1次大戦後ドイツの軍事的再起を許した誤りを繰り返さぬよう日独の再起を防ぐことに気を奪われソ連の脅威の予測を間違えた、後から考えればナポレオン戦争後の状況を想定すべきだったという。

 吉田茂は歳も国政担当の時代も期間もトルーマンとほぼ同じで国の命運に関わる重い決断をしたことでも似ている。しかし彼の「回想十年」の何処を読んでも政策の選択に先例を参照したなどという話は出て来ない。3十3章にも及ぶ回想はウィルソン大統領顧問のハウス大佐にdiplomatic sense(吉田茂訳では「国際的な勘」)の重要性を教えられたという懐旧談で始まる。国の大事も「勘」に依拠して決めていたのだと思う。「吉田茂とその時代」(岡崎久彦)は「吉田は・・歴史は好きで」史書を読むよう人に勧めていたが愛読したのは軽いもので凡そ哲学や思想や「主義などいうものに無縁な人物」であって自慢の「勘」もそれ程のものではないと評している。

 吉田茂は首相就任を承諾した際近親者に「戦争に負けて外交で勝った歴史がある」と決意を吐露している。あの時点でフランスが負けたナポレオン戦争後の状況をも想定していたのだとするとその国際情勢への大局観というか「勘」の働きには非凡なものがあると思う。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。