日本大使館は江戸時代の大名屋敷

駐チェコ共和国大使 長岡寛介
チェコ共和国の首都プラハは、近世以降、大きな戦禍に見舞われたことがないため、中世以来の建物が多く残り、何とも言えない趣をもった町として有名です。特に、一年中、多くの観光客が行き交う、プラハ城とカレル橋の間に広がるマラー・ストラナ地区(チェコ語で「小地区」の意)には、かつての貴族の館の他、多くの古い教会も往事のままの姿で残されており、長い歴史を感ぜずにはいられません。
現在のマラー・ストラナ地区には10世紀頃から集落が存在し、13世紀の半ばには、その時の王によって正式に「市」になりました。当時、周辺の国々からボヘミアにやってきた「外国人入植者」用の居住地として開発されたそうで、その多くはドイツから来た、いわゆる東方植民だったと言われています。14世紀、神聖ローマ皇帝カレル4世の時代には、マラー・ストラナ地区を含めてプラハ全体が大きく発展しましたが、その後のフス戦争や1541年の大火によって、同地区は大きな被害を受けます。17世紀初めには、三十年戦争のきっかけともなる、カトリック教徒と新教徒(フス派)の戦いがボヘミアで展開されましたが、それに勝利したハプスブルク帝国のカトリック系貴族によって、マラー・ストラナ地区には多くのバロック様式の宮殿や教会が建設されました。こうした宮殿の一部は、現在、米、英、仏、独、伊等主要国の大使館として使用されています。また、かつて商人や職人が使っていたであろう家屋は、現在も、レストラン、カフェ、お土産屋等として利用されています。中世のプラハには「番地」という概念がなく、個人の家を特定するために、紋章が使われていました。その種類は様々で、「雄猫」、「金の杯」、「ざりがに」、「三つのヴァイオリン」等興味深いものが多く、カフェや土産店の軒先でどんな紋章があるのかを探して歩くのも楽しいものです。
さて、我が日本大使館も、このマラー・ストラナ地区にあります。上記の国々の大使館に比べるとかなり小ぶりではありますが、かつての貴族の館である点は同じです。時は18世紀半ば、ハプスブルク家に仕える貴族、トゥルバ卿の住居(トゥルバ宮殿)として建設されたものです。宮殿が完成したのは1767年とされており、日本では明和4年に当たり、田沼意次が権力を握っていた時代と重なります。トゥルバ卿(フランティシェク・ザヴェル・トゥルバ)は、ハプスブルク帝国を構成していたボヘミア王国の宮殿で勤務していた貴族で、王国の財政や所領の管理を担当していたようです。それほど高位の貴族というわけではなく、その役回りも政治的というよりは実務的なもののようでした。
日本は第一次世界大戦後の1920年に当時のチェコスロバキア共和国との外交関係を開設し、翌年にはプラハに公使館が設けられ、初代公使として長岡春一・特命全権公使が着任しています。(なお、筆者と同じ苗字ではありますが、親族ではありません。)1922年、日本政府は、メキシコが外交使節団事務所として使用していた「トゥルバ宮殿」を購入し、公使館事務所としました。近所にマルタ騎士団の教会があるために「マルタ広場」とよばれているところの6番地になります。ちなみに、1980年代、モーツァルトの生涯を描いた「アマデウス」という映画が大ヒットしました。その撮影地がウィーンではなくプラハであったというのは有名な話ですが、日本大使館のあるマルタ広場もロケ地の一つになりました。
淡いピンク色のファサードをもつこの建物は、周囲のものと比べても、ひときわ瀟洒な感じのするもので、当時の貴族の趣味が伺えます。一方、もともとは住居として建設されたものなので、事務所として使用するには相応の改修が必要でした。実際、購入直後の1924年には2階部分の改装、屋根裏部屋(日本風に言えば5階)の増築、車庫の設置などがなされています。さらに、1932年頃から追加工事が始まり、エレベーターや各階へのトイレの設置の他、中庭に八角形の執務室が増設されました。

1939年、日本とチェコスロバキアの外交関係は断絶し、4月には公使館も閉鎖されます。その後、戦後の1957年に至り、外交関係は再開され、大使館は引き続き以前と同じ建物を事務所として使い始めました。爾来、約70年間、チェコスロバキアは共産主義の国から民主主義の国に生まれ変わり、1993年にはチェコとスロバキアに分かれ、1999年にはNATOに、2004年にはEUに加盟するなど、多くの変化が生じましたが、日本大使館は同じ建物を使用し続けています。日本との二国間関係も大いに発展し、今やチェコ国内に約270社の日本企業が活躍し、在留邦人も3,000名近くになっています。当然、その間に、館員や現地職員の数も増えましたが、事務所自体は、江戸時代に作られた貴族屋敷のままでした。現在、日本の在外公館(実館)は全体で234になりましたが、江戸時代に作られた建物を使用しているのはプラハの日本大使館のみだそうです。
こうした変化の中で、建物は事務所として手狭になり、また、時代の要請に応えるのが難しくなってきました。例えば、近年、在外公館の警備措置はますます厳重なものになってきていますが、築250年超の古い家屋にこれらを設置するのは容易ではありません。また、領事関係の手続きで来られる来訪者のために、待合室はできる限り快適なものにすべきですが、限られた敷地においては限界があります。さらに、地上5階とはいえ、最上階はかつての屋根裏部屋であり、天井も他の階よりはかなり低い上、一部は窓が全くないなど、非人道的といっても良いような環境でした。最近は本省もかなりおしゃれな感じのオフィスに生まれ変わり、気持ちよく働けるようにするために様々な工夫や配慮がなされていますが、この古い建物にはそうした配慮を受け付ける余地がありませんでした。さらに、2002年に発生したヴルタヴァ川の氾濫の際には、地上階(日本式1階)の約70cmまで水が上がってきたため、地下にあったボイラー室は完全に水没してしまいました。
歴代の大使や館員が本省に訴えてきた結果、2022年8月、まずは本格的な改修工事に関する方針等をまとめた「素案」が作成され、工事の実現に向けた、長いプロセスが始まります。すなわち、マラー・ストラナ地区を含むプラハの歴史地区は1992年にユネスコの世界遺産に登録されているため、その中にある歴史的建造物の改修に際しては、非常に複雑な手続きを経なくてはなりません。広大な領土を擁し、かつ、多民族国家であるハプスブルク帝国を統治するのに際して、文書による行政事務管理制度が発達し、その歴史は今のチェコにも受け継がれています。それに共産主義時代の経験が加わったため、red tapeの弊害も見られます。ファサードだけでなく、歴史的価値が高いとされる内部についても、原則として、変更を加えることは許されておらず、それらがきちんと改修工事の設計に反映されているかを確認するために、多くの書類を作成し、関連する役所の許可を得るのは非常に骨の折れる仕事でした。外務省で長年、営繕業務を担当されてきた方は建築のプロではありますが、その知識と経験だけでは十分ではなく、チェコの歴史的建造物に詳しい専門家にもチームに入ってもらい、彼らの意見を参考にしながら、許可取得に向けた作業を一つずつ積み重ねていきました。
また、これはプラハの歴史地区に限った話ではありませんが、チェコでは建築関係の仕事を進めるに際して、既存の住民の意見をよく聞く傾向にあります。日本大使館と隣接する建物にも複数の一般住居が含まれているため、彼らの意見を一度ならず聴取しただけでなく、反対意見がないかどうかを見極めるために、一定期間を経ないと、手続きを前に進めることができませんでした。
上記の「素案」に対するプラハ市の許可を得るのに約半年かかり、その後、より本格的な建築許可取得に向けた書類の作成、プラハ市との度重なる調整を経て、2025年3月に何とか最終的な建築許可を得ることができました。「素案」作成から数えると、実に2年半以上も要したわけです。
2025年6月、改修工事に向けて、館員と現地職員は車で約10分程度離れた仮事務所に移動し、今年の1月からようやく実際の工事が始まりました。最初に行われたのは、取り壊し可能な壁や天井等の撤去作業です。撤去した後に残ったのは、250年前の木材で作られた屋根の骨組みや各階の床と天井の梁でした。中にはひびのはいっている木材もありますが、専門家によれば、その強度は依然として十分であり、改修後も使用可能だそうです。ヨーロッパの古い家屋と聞くと、一般の日本人はレンガ作りのものを想像するかもしれませんが、トゥルバ宮殿は壁以外殆どが木製なのです。
また、思いがけない発見もありました。未だ専門家の意見を聞いているところなのですが、壁の一部にフレスコ画が描かれていたのです。色は相当薄くなっており、果たして、芸術的・歴史的価値がどれほどあるのか分かりませんが、この発見が作業の遅延を招くことは避けたいところです。
工事は未だ緒に就いたばかりで、今後も紆余曲折が待っていると思いますが、順調にいけば、2027年度末には終了する見込みです。地下1階、地上5階という基本構造を変えるわけにはいかないので、改修後も館内の移動に階段やエレベーターが必要になりますが、これまで有効利用できなかった中庭に多目的ホールを設け、様々な文化イベントや小規模なレセプションを行えるようになります。また、領事待合室も、より快適なスペースにする予定です。新しい大使館が、古い建物を時代のニーズに合わせて手直ししながら用いるという、プラハの伝統に合致したものとなり、日本とチェコの関係を象徴する存在になることを願っています。

