安倍総理の想い出


元内閣官房副長官補・国家安全保障局次長 兼原信克

 安倍総理と初めてお会いしたのは、安倍晋太郎外務大臣の時だった。高野紀元秘書官が、山口県出身の外務省職員を赤坂の料亭に集めて、外務大臣秘書官になられたばかりの安倍晋三氏に紹介された。安倍総理は当時の若者らしく長髪で、低い鴨居の下を長身の身をかがめ、ひょっと頭を下げて入ってこられ、少し緊張した面持ちで座布団の上に座られた。何か運命的なものを感じたが、その時は、それが何かわからなかった。

北朝鮮の核実験

 安倍総理は、絶大な国民的人気を誇った小泉総理に、北朝鮮による拉致被害者への対応が認められて抜擢された。日本に一時帰国した拉致被害者が北朝鮮への帰還を拒否した時、「あくまでも一時帰国だ」としていた小泉総理と金正日の約束を反故にしてでも、北朝鮮に帰してはならないと一人頑張ったのが若き日の安倍総理だった。その後、安倍総理は、自民党幹事長、官房長官、総理大臣へと一気に登竜門を駆け抜けていかれた。当時、私は総合外交政策局総務課長だった。第一次安倍政権で思い出深いのは、2006年の北朝鮮の核実験である。総理は、中国、韓国と歴訪の最中だった。
 中国で胡錦涛主席との首脳会談を終えてソウルに向かうために特別機のタラップを上っていると、突然、同行していた安藤裕康内閣官房副長官補から背中をたたかれた。
「北朝鮮が核実験をするらしい。5分後だ。準備してくれ。」
 不思議なもので、何か虫が知らせたのだろう。私は、出発前に、万が一北朝鮮が核実験をしたとき備えて、総理記者会見のドラフト等を密かに作成してカバンの中に潜ませていた。
 特別機がソウルに着いた時には、既に核実験は終わっていた。北朝鮮による初めての核実験だった。盧武鉉(ノムヒョン)大統領はNSCを開いて対応を協議していた。総理は直ちに日韓首脳会談へと臨まれた。ブッシュ米国大統領より、日韓首脳会談後、直ちに日米電話首脳会談を実施したいとの申し入れがあり、また、米国のCNN放送からは、日韓首脳会談後の総理の記者会見を全米にライブで放送したいとの申し入れがあった。
 同行の幹部が全員日韓首脳会談に出席したので、残ったのは総合外交局総務課長として危機管理を担当していた私と北東アジア課の高羽補佐、秋山補佐だけだった。東京に電話したが、官房長官以下、日本政府のほとんどの閣僚及び関係省庁幹部が総理官邸地下の緊急参集ルームに集まっており、連絡が取れない。総政局総務課に電話して、誰か現場に行って様子を見てきてくれと頼むと、「みんな、落ち着け!」という閣僚の怒鳴り声が聞こえますという返事が返ってきた。
 当時の日本政府には、国家安全保障局(NSS)もなく、北朝鮮の核実験という国家的危機に際して、外遊中の総理と指揮命令系統を繋いで総理の指示を仰がなくてはならないという発想がなかった。北朝鮮の核実験に対する備えはもとより、核抑止のイロハに関する議論さえ、当時の日本政府にはなかった。結局、現場で日米首脳電話会談や、総理の記者会見の原稿を、若い補佐たちとワープロを叩いて作った。安倍総理は、ブッシュ大統領との会談も、興奮した記者たちを目の前にした単独記者会見も、見事にこなされた。安倍総理は、後に第二次政権で、「世界の安倍」と呼ばれ外政家として大成されることになるが、早くもその片鱗を見た気がした。

「二つの海の交わり」と「自由で開かれたインド太平洋」

 安倍総理は、2007年、インドを訪問された。安倍総理は、インド国会で、後に米国NSCによって「自由で開かれたインド太平洋」構想の原点と位置付けられた「二つの海の交わり」という名演説をぶたれた。外務省で副報道官を務めた谷口智彦慶応大学教授が精魂込めて書き下ろした演説であった。インド国会議員の熱狂は凄まじかった。はじめは万雷の拍手から始まり、やがて興奮した議員たちがドンドンと床の上で足を揃い踏みし始め、その内、大勢の議員が机の板を持ち上げては叩き下ろし、バンバンという音が議会中に木霊し始めた。
 インドの超大国化をにらんだ戦略枠組みの組み替えは、ブラックウィル米駐インド大使を始め、ワシントンでも模索が始まっていた。米印原子力協定、日印原子力協定が締結された。核兵器を保持するようになったインドをNPT体制と相いれない「パリヤ」として扱うよりも、責任ある大国として取り込んだ方が、核不拡散を始め国際秩序にとって有益だとの判断があった。
 インドは、屈折していた。英国王権のくびきをはずして、ガンジーが生み、ネルーが育てた根っからの民主主義国家である。インドは、冷戦開始当初、非同盟を唱えてアジアを中国と共にリードしようと考えたが、その中国が1959年、1962年と二度にわたってインドを侵略した。中印関係はそれ以降冷え切ったままであった。
 ところが、1970年代に入り、日米両国という西側の雄が、こともあろうに20世紀最大の独裁者である毛沢東を抱きしめた。アメリカはベトナム戦争で疲弊していた。ダマンスキー島(珍宝島)に無謀にも攻め込んだ毛沢東はソ連に北京を蹂躙されることを恐れていた。米中接近は、「敵の敵は味方」という典型的な権力政治の発想から生まれた便宜的な提携だった。日本では田中角栄総理が、交渉らしい交渉もなく、2か月で国交を正常化した。
 米中接近、日中接近は思わぬ副産物を生んだ。インドをソ連に押しやったのである。インドは、米中接近に焦った。近代兵器の獲得が必要だったからである。その後、インド軍の主要装備はすべてロシア製となった。ロシアにしてみれば、毛沢東が逆らう中国よりも、大人しいインドの方がかわいかったのであろう。しかし、インドはロシアと一線を守り、共同訓練は拒み続けていた。
 中国が国力を上げ、リーマンショック後の世界経済をけん引し始めると、中国指導部は鄧小平の韜光養晦の教えを捨てて、大国意識をむき出しにし始めた。昭和前期の日本のようなナショナリズムへの陶酔が始まったのである。東風は西風を圧すると信じ始めた。中国が、南シナ海、東シナ海で力押しを始め、経済規模が急激に米国に追いつき始めると、米国側にも警戒感が出てくる。新興大国が現れると戦争が起きるという「ツキジデスの罠」がまことしやかに語られ、オバマ政権からトランプ政権に移ると、米国の対中強硬姿勢が表面化した。2020年の西海岸でのポンペオ国務長官スピーチは、その典型であった。
 インドは、特にモディ政権成立後、ゆっくりと、しかし明確に、戦略的立ち位置を変え始めた。冷戦後半以来の「西側+中国」対「露印」の戦略枠組みが、「西側+インド」対「中露」の戦略枠組みに転換し始めたのである。中国とのキッシンジャー流の提携が欧州権力政治そのものであったのに対し、安倍総理の対印戦略は、自由主義的国際秩序を守るための共通の価値観に基づく連携であった。安倍総理が高く評価されているのは、第二次政権において、「自由で開かれたインド太平洋」構想を打ち出し、世界的戦略的構図の地殻変動を見事に言い当てたからである。

国家安全保障会議(NSC)、国家安全保障局(NSS)の設置

 第一次安倍内閣で取り組みが始まり、第二次安倍政権で花開いたのはNSCの設置である。第一次政権で、まだ若い安倍総理がNSCを作ろうと言い始めたとき、霞が関は冷笑をもって受け止めた。森内閣による内閣制度の強化、小泉内閣による強力な政治主導があったとはいえ、まだまだ官僚天下の時代だった。外務省は総理の耳を独占したがり、防衛省は外務省の影の薄い旧安全保障会議に執着し、防衛省、特に陸幕の官邸内の影響力伸長を嫌がった警察庁は露骨に反対だった。何より内閣法制局が、「総理にそんな権限は認められない」と言って抵抗していた。
 総政局総務課の総務班長だった山本文土君(現駐韓国公使)を内閣官房に短期出向させて法案を起草してもらい、同期の上月豊久官房総務課長(現駐ロシア大使)と総政局総務課長だった私で、内閣法制局に足しげく出かけた。けんもほろろな対応だったが、最終局面で、「私たちは総理の命で来ているのであって、自分の意見できているわけではありません。法制局が絶対反対というのなら、その旨を総理に伝えて、作業を打ち切ります」と告げると、法制局参事官の態度が急変して、突然、OKが出た。こうして日の目を見かけた安倍NSCであったが、安倍総理のご病気で一旦とん挫することとなった。
 第二次安倍政権になって、NSCを設立することになった。不思議なご縁で、私は内閣官房副長官補として、再びNSC設立に携わることになった。外務省も、防衛省も、総理官邸から見れば外様であり、総理官邸の組織運営に不案内であった。総理官邸を切り盛りしているのは昔ながらに旧内務省系官庁(警察、自治、建設、厚生)の官僚たちであった。不慣れな内閣官房の中で、旧内務省の方々には、財務省との定員折衝を始めとして、あれこれ助けて頂いた。特に、総務省から内閣官房に出向していた北崎修一審議官に大変にお世話になった。総理官邸は、やはり旧内務省系官僚が取り仕切っているのだと痛感させられた。
 政権誕生から1年後の2013年末、国家安全保障会議が設置され、翌年1月、国家安全保障局が設置された。国家安全保障局には、安倍総理直筆の看板が掲げられた。

平和安全法制の制定

 第二次安倍政権の最大の安全保障上の業績といえば、平和安全法制の制定、特に、集団的自衛権の行使是認である。第一次安倍政権で取り組みを始め、病気退任で一旦中断された作業が再び開始された。
 安倍総理の決意には並々ならぬものがあった。北岡伸一元東大教授に有識者会議を開催して世論の醸成を図っていただいた。世論は既に大きく現実主義化していた。駐フランス大使のポストから呼び返された小松一郎内閣法制局長官が、文字通り、命を削って成し遂げた法制整備である。憲法解釈変更の閣議決定がなされた後、集団的自衛権行使の是認を生涯をかけて主張してこられた岡崎久彦大使が、「総理に会いに行くから君もついてくるかい」と言われ、そのまま一緒に総理室に入り込んだ。「曠古の敗戦久しく志を奪う、誰にか託さん民族安危の事、父子三代憂国の情、遂に顕わす集団自衛の義」と書かれた書を額に入れて総理に贈呈された。総理はうれしそうにしておられた。
 思えば岸総理が1960年に日米安全保障条約を改定されて以来、米国が日本の外縁にある韓国、台湾、フィリピンの安全を守り、日本はその後方基地に徹してきた。それが「極東条項(第6条)」の仕組みであった。米国はまだ、「瓶の蓋」として日本を抑えねばならないという発想から抜け出していなかった。1999年、冷戦が終わり、北朝鮮の核危機に際して、小渕総理は朝鮮有事のように重要な影響が日本にある事態では、米軍に後方支援するという重要影響事態法を策定された。一歩、日米同盟が対等な同盟に近づいた。そして2015年の平和安全法制である。安倍総理が、集団的自衛権の行使を可能にすることで、日本は韓国や台湾等の日本有事に直結する事態において、米軍と共同で武力行使に出ることができるようになった。岸総理が求めてやまなかった日米同盟の対等化を、孫の安倍総理が見事に果たしたのである。

70年歴史談話

 戦後70年の歴史談話は、安倍総理の業績の一つとなった。この談話発出に先立って有識者会議を開いて世論の醸成を図った。再び、北岡伸一教授にお世話になった。この談話が発出されると同時に、内閣支持率は跳ね上がった。歴史問題を政局の道具に仕立てて倒閣を狙っていた左派メディアは大きく的を外す格好となった。
 安倍総理は、多くの人と直接話をして、最後まで70年談話に自分で筆を入れられた。安倍総理ご自身も悩んでおられた。資本主義、封建時代の日本はすべて悪であり、共産主義社会が未来を拓くというマルクス主義史観にはとても共感できなかったが、戦前の日本が全て正しいわけでもない。何を間違え、何を正しく選択したのか。それをはっきりさせて、歴史問題に決着をつけねばならない。未来の子供たちに永遠に謝罪させ続けるわけにはいかない。安倍総理の熱い思いは本物だった。
 日本は「アジアを侵略した」と言われた。そして東京裁判が開かれた。日本は米本土や欧州大陸を侵略したわけではない。日本敗戦の後、英仏蘭といった欧州植民地帝国はアジア再征服のために武器を携えてアジアに帰ってきた。日本が悪くて、彼らは正しいのか。あれは侵略ではないのか。安倍総理の質問は真摯なものだった。
 安倍総理の回答は明快だった。彼らも負けたのだ。日本敗戦後、アジアの植民地はみな次々と民族自決と独立を果たし、同じ頃、欧米の先進国においては人種差別が厳しく糾弾されるようになった。ソ連や東欧諸国の共産党一党独裁も倒れた。そうして生まれたのが今日の自由主義的な国際秩序ではないか。自分はその秩序を守る。その秩序の主宰者の一人になる。これからの歴史を振り返る日本人の立ち位置がここにある。そう考えられた。
 それ以降、安倍総理は、「歴史は百年のスパンで世界史全体を見なければいけない」とよく口にされるようになった。自由主義者、愛国主義者が混然と一体となった新しい日本の指導者の誕生であった。

おわりに

 安倍総理が退任されてしばらくして、旧NSCの幹部が慰労される機会があった。昔話に花が咲く中で、安倍総理から「君とはよく世界中を一緒に旅行したなぁ」と言われた。確かに総理と地球を股に掛けて飛び回ることができたことは、生涯の思い出となった。
 安倍総理が亡くなる数か月前、雑誌の対談でご一緒した時、総理から「君ももう政府を出たんだから、思う通りのことを発信したらいい」と声をかけていただいた。ご遺志にそって安倍総理のやり残された日本の安全保障政策の充実について、少しでもお国のお役に立ちたいと考えるこの頃である。