余談雑談(第138回)不殺生戒

元駐タイ大使 恩田 宗

 漱石は「我が輩は」の猫が死ぬと庭の隅に埋め猫の墓と記した墓標を建て花と水を添えた。命日には好物を供えたという。あの猫は高名な猫でありその位はして当然だった。最近はペットへの愛着を深めベストなど着せ死後も人間と同じように扱いたいという人が多いらしい。ネットにはペットの霊園、墓石、骨壺、 供養の仕方の広告が溢れている。

 動物についての考え方は宗教により違う。釈迦は全ての生き物に心(仏性)があると説いた。五大戒律の第一は不殺傷である。その教えは500年後に中国に伝わったが釈迦と同時代の孔子が始祖の儒教が既に国教になっていた。日本にはその更に500年後にもたらされた。先進文化に飢えていて抵抗もあったが朝廷の帰依を得て浸透した。仏教は中国・朝鮮を経てきたが人の考え方ヘの影響は曰本において最も大きく長続きしている。日本の天台宗は教義を突き詰めて石ころにも心がある (草木国土悉皆成仏) と解した。人々は動物と人は似たものだと考えて生きてきた。落語「もと犬」のシロは八幡様に通い続けて人間になった。噺し家志ん生によれば下駄も履かず「はだし参り」をしたからである。

 聖書では神は人間を自身の姿に似せて創り全ての動物を支配せよと命じた。モーゼの十戒が禁じたのは殺人である。基督教徒は人間と猿が親類だとするダーウィンの進化論に驚き反発した。20年遅れてモースが曰本に紹介したが問題にはならなかった。ローマ教会が限定的に認めたのは1996年で米国の一 部にはまだ受入れない人達がいる。最近ある米国の哲学教授がNYT紙でこう論じている。西洋哲学は人間が動物にまさる理性・道徳・正義・自由意志などを考究し結果としてそれに劣る人種の差別・奴隷化・抹殺を招いた、人間も動物の一員であり両者の共通点を強調すべきなのかもしれない、と。

 イスラム教はユダヤ教と基督教に習いそれを引き継いで創られたより新しく勢いもある宗教である。 神々の偶像を拝していたアラブ世界で厳しい迫害に耐え武力抗争に勝って発展した。預言者マホメットの伝承「ハディース」を見ると彼は生涯で19の聖戦を指揮し8回は乱戦の中自ら剣を取って闘っている。 又、信者を虐めるユダヤ人の暗殺を指示し牧羊や狩猟に使う以外の犬や蛇・やもりは殺せと命じている。 信者は動物の頸動脈を切って神に捧げる。残酷に思えるが苦しめずに殺すためだという。苦しみもがく魚を窒息死させて食するのも残酷と言えば残酷である。

 全人類的な精神指導者が出現すれば違いは無くなるだろうが望むべきもなく望ましくもない。違いを認め互いに寛容になるしかない。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。