余談雑談(第132回)漢文と和文

元駐タイ大使 恩田 宗

 古事記に応神天皇が賢人(さかしきひと)をと百済に命じ学者王仁と論語十巻他を得たとある。 書籍というものの記録に残る最初の日本到来である。応神天皇(四世紀後半)も実在確実な最初の天皇で次の仁徳天皇と共に巨大な古墳を残している。朝鮮半島に出兵し拠点を築き先進的知識や技術を求め積極的に人や文物を招来した。国力が充実し進取の気風ある時代だった。日本書紀には太子(ひつぎのみこ)が王仁を師とし手に入れた典籍の読み方を習ったとある。昭和天皇の時皇太子明仁親王のため占領軍総司令部を介しヴァイニング夫人が招聘されたことと思い合せられる。

 王仁の来朝から二百数十年経つと時の皇太子(聖徳太子)は自ら漢文(シナの古典文語)で十七条の憲法を作っている。更に百年下った奈良時代になると朝廷に仕える上級官吏は漢文能力が必須となり下級者もメモ程度は漢字で読み書きできた。漢文を日本語に直して読むこと(漢文訓読)が始まりその試みの中から日本語の書き言葉が生まれてきた。平安時代には平仮名で「むかしおとこ有けり」と漢文の匂いの残る和文物語が書かれるようになり源氏物語で漢文の支配を脱した雅文が確立した。しかし漢文や漢文訓読調の文章はその後も鎌倉・室町・江戸時代を通じ行政や学芸に用いられ、その慣行は20世紀になるまで続いた。民法が平仮名口語文になったのは21世紀になってからである。

 漢文は概念を表わす語を裸で連ね簡潔に乾いていて鋭い。日本文は修飾語や助辞・接辞で細かい陰影を加えるので丁寧で長くなる。「国破山河在」の訓読文は「国破レテ山河在リ」と原文の短く断定的な語気を保っているが口語文では「都は破壊されてしまったが山や河はそのままである」となる。現代曰本語の書き言葉は明治の文人達が漢文訓読文を基にして話し言葉に近づける工夫を重ねて創ったものである。今学校では「国語」の中で古文と漢文を教える。 曰本語の長い歴史を考えると史記・論語や唐宋の詩を源氏物語・方丈記や万葉集・古今集と並べて教えておかしくない。

 論語に女性が一人出てくる。衛国の霊公の夫人南子である。国務もこなしていた実力者で淫乱との噂があったらしい。孔子は働き所を求め弟子達と衛にいたとき彼女に会いに行った。それを説(よろこ)ばない弟子の子路に対し孔子は「私が否とするところは天もそれを厭う」(私はそんなことはしない) と言ったと論語にある。この話を司馬遷は史記に孔子が彼女の強い求めに応じ宮廷に出かけ前に立って頭を下げると「夫人帷中ヨリ再拝ス環佩(カンパイ)ノ玉声璆(キュウ)然(ゼン)タリ」だったと書いている。玉製の腰飾りの環が何故美しく鳴り響いたのかについて後代の堅物の儒者の問で議論になったらしい。権力ある才女がまだ男盛りの孔子に媚態を示したとも読めるからである。漢文は政治や思想を論じるには向いているが男女の微妙な関係の描写は日本語の雅文にかなわない。紫式部であれば二人の間に実際何があったのかあからさまには書かなくとも読者に正確に伝わるよう行間に上手に滲み出させ得たと思う。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。