余談雑談(第130回)ゴッホと一休

元駐タイ大使 恩田 宗

 ゴッホがゴーガンに贈るため憧れる曰本の簡素な僧侶に似せて描ぃたとぃう自画像がある。やや頬高で静かに心を見つめているような真剣な顔つきをしている。一休禅師も若い頃はこんなではなかったかと思う。 ゴッホはオランダの牧師の家の長男に生まれた。熱しやすく激すると自制できず対人関係は敵か味方かになり職の定まらない一族の黒い羊だった。女性との出逢いも皆破綻し独身で終ゎった。画家を志したのが27と遅くパリに出てから印象派や浮世絵に接し光と色に開眼したがその後4年足らずの37で没した。 その短い間に描ぃた油彩画の数は900に近いが売れたのは一枚で弟テオの仕送りで飢えをしのいだ。 耳切り自傷で世話になった医師レイの肖像を描き贈呈したところ医師の母は鶏小屋の穴塞ぎにしたという。

 一休は後小松天皇の落胤といゎれ片親育ちだった。6才で禅寺に入門27で大悟した。生涯大寺院に依らず無一物一処不住で禅の修行と布教に努め晩年は愛人や弟子達に囲まれ88まで生きた。頭蓋骨をかざし年賀回りした話は有名だが民衆から慕ゎれ禅の庶民普及に貢献した。連歌師能楽師茶人などとも交り諸芸への禅の浸透をもたらした。

 二人は大きく異なるが闘・狂・貧で共通する。一休は権力におもねる禅寺院の堕落に狂風をもって闘った。 心温かく遊び心のぁる人だが師の印可証を目の前で破る峻厳狷介な闘士でもあった。禅僧の偽善を嘲笑するため長大な刀を持ち歩き己の飲酒女犯を公言し多数の詩文で腐敗僧を痛罵した。ゴッホは新しい絵画創造のため苦闘したが画家として油がのり傑作が生まれるようなった大切な時期に癲癇(てんかん)に襲ゎれるようになり以後2年弱は数ヶ月毎の狂的発作との闘だった。発作の合問になお描き続けたが (糸杉・星月夜.教会など) 燃ぇ尽きたのかテオ宛てに「もう理性が半ば崩壊した」 と書き残している。

 人は持てる才能と体質気質で最善を尽し生きる。長短あってもあっという間で嫌でも死なねばならない。 大乗仏教は全ては「空」で不生不滅だとし生か死の二元論的苦悩から解脱せよと教ぇる。説教師の経験のあるゴッホはこの教えのことも知っていたと思う。誰も生まれ方は選べない。死に方も普通は選べなぃ。 ゴッホは拳銃で自分を撃った。発作が原因とされてぃるが駆けつけた弟に「これで死ねそうだよ」と言って目を閉じた。彼が描いた教会は自殺として埋葬を拒否した。一休は弟子の記した年譜では眠るが如く座逝 したというが本阿弥行状記には臨終の際「死にとうなぃ」と唖然とさせるようなことを言ったとある。二人は死に方もそれぞれだった。

(参考)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。