余談雑談(第120回)専門家

元駐タイ大使 恩田 宗

 東アフリカに数十年来最悪というバッタの被害が発生している。専門家の解説では、サイクロンが砂漠に上陸すると一面に草が生える、それを餌にバッタが何千億匹と発生する、風にのれば最速で日に150キロ以上も移動し葉や草や作物を食い尽くす、対策は殺虫剤の空中散布くらいしかないが餌になる物が無くなれば消滅する、という。そういうものかと納得した。自然界の現象については謬説が世に流布することは希なので安心して聞ける。  

 政治経済や国際情勢についてはそうはいかない。誤りなく生きていくため世の中の動きを知っておきたいと思うが将来の見通しについては専門家の間でも意見が異なることが多く諸説がそのまま提示される。事態が進展し結果が判明するまではどの専門家の説が正しいか分らない。我々も多少の経験や知識を身に付けてはいるが素人の常識では専門家の所説の判定は難しい。結局、マスコミなどで爽やかに論じている名の売れた専門家になびくことになる。

 ただ、Dr.Fox効果という危険がある。心理学実験として何も知らせていない聴衆に弁舌の上手な役者を専門家のDr.Foxだと言って紹介し出鱈目をジョークを交えながらもっともらしく喋らすと殆どの人が「興味深かった」「すばらしかった」と肯定的反応を示すという。最初から専門家とか博士とかという肩書きに騙されてしまうからである。

 コロンビア大学のM・リラ教授はNYT紙へ投稿し、未来はまだ存在しておらず知り得ない、専門家も前提・仮定をたてて推測しているに過ぎない、知り得ないという人間の置かれた不確実な状況を受け入れ少し先を杖で確かめつつ歩いてゆくしかない、と論じている。然し、そうした漸進主義では間違いは犯さないが競争には遅れをとる。 

 同じNYT紙の評論家N・クリストフはこう言っている。人は専門家と言うと信じやすいが専門家と言っても恐ろしくお粗末な人が多い、情勢分析や見通しで重要なのは経験や知識の量ではなく判断力の良さ・・と云うより考え方の良さであるがそれを取り違え賢明な人でも時々専門家らしい人に迷わされることがある、世の評論家についてもコンシューマー・レポートのように実績を追跡調査し公刊すれば自分を含め評論家のアカウンタビリティーが今より増し公益に資するだろう、と。そんな便利なもののない今のところは、常識を鍛え考え方の良い人を見分ける努力をするしかない。

 常識について小林秀雄は「(現代では)常識の働きが利く範囲・・・とどく射程はほんの私達の私生活の私事を出ない」と慨嘆し「私達常識人は専門的知識におどかされ通しで・・日に新たな機械(も)生活上の利用で手一杯でその原理や構造に通ずる暇など誰にもありはしない。・・・専門家達にしてみても専門外の学問については無知蒙昧で・・・この不思議な傾向は日々深刻になるであろう」と書いている。1959年のことである。

 今、それなりに経験を積んできてはいるが生活用品のパソコンやスマホの少しの不調にも専門店に駆け込まざるをえない。若い孫のような店員がそんなことですかと目の前でさっと直してしまう。我ながら情けないと思う。