中国代表権問題と逆重要事項指定決議案

元駐トルコ大使 竹中繁雄
1.中国代表権問題
私が外務省で担当した外交案件の中で最も世間の注目を集めたのは国連における中国代表権問題だと思います。中国代表権問題というのは1949年に中華人民共和国(以下「中国」と略す)が誕生して以来この中国を支持するグループと中華民国(以下国府と略す)を支持するグループの間で争われてきた問題です。
このどちらが安全保障理事会の常任理事国である「中国」を代表すべきかの問題は1950年代から20年に亘り毎年国連総会の中で討議されて来ましたが、常に国府に対する支持が中国に対する支持を上回ってきました。また、国府支持グループは1961年以来この問題は国連憲章18条にいう「重要事項」であり、中国支持グループの押す決議案(通称アルバニア決議案)を通すためには3分の2の多数を要するとの決議案(通称重要事項決議案)を提案しかつこれが可決されてきたため、国府側の立場は一層強固なものになっていました。
ところが、1960年代にアフリカを中心に多数の新加盟国が生まれたこともあり、またその他の国の中にも従来のやり方を踏襲することに疑問を投げかける国が増えてきたためにアルバニア派と国府派の票の差は徐々に縮まり始めました。そして1970年の国連総会での表決ではアルバニア案が52票を獲得しついに反対派を2票上回ってしまったのです。幸いにして重要事項決議案が賛成65、反対52、棄権7で可決されたため大事に至らなかったのです。しかし次の年には従来の方法を続けることが出来ないことは明らかでした。
2.逆重要事項指定決議案
当時私は外務本省の国連局政治課に所属していました。国連局は経済問題を担当する経済課、社会問題を担当する社会課、科学や環境を担当する専門機関課等で構成されていましたが、政治課は国連で取り上げられる政治問題を担当する課です。この中で実務を主に担当するのは課長、首席事務官、べテラン、若手を含む6人の事務官でした。私は仕事の内容としてはメインを中国代表権問題、サブとしては朝鮮問題、ローデシア制裁問題を担当していましたが、メイン、サプというのは総会開催中に長期の出張があるので複数の事務官が一つの問題を担当するようにしておく必要があったからです。現に私は69年、70年、71年と毎年ニューヨークに出張しましたが、中国代表権問題に専念したのは1971年のみです。70年の出張は佐藤総理の国連出席のお世話が中心で10月中にすでに東京に帰ってきていました。
従ってアルバニア決議案が過半数を超えたとのニュースは東京で受けました。これは容易ならぬことが起きたなあと思う間もなく、課長から愛知大臣はこの結果を自民党に報告することになるだろうからその原案を準備するようにとの指示がありました。その指示を聞いた時私はこの報告内容の出来不出来は中国代表権問題の行く末を左右するほど重要であると直感しました。なぜならその時この問題は既に大きな政治問題に発展する可能性を秘めており、通り一遍の報告では政治家の皆さんを納得させることは出来ないだろうと考えたからです。
国連総会の投票結果が外務省内で広がると外務本省の関連部局と在外公館からこれからの方針につき多くの意見が寄せられました。その多くは「二つの中国」ないし「一つの中国、一つの台湾」のどちらが望ましいかという実質問題に関する考え方でした。しかし私はあの時点で実質問題にあまり踏み込むことに躊躇いを感じていました。そこには何よりもタイミングの問題がありました。愛知演説のタイミングはすぐそこです。その短い期間に国府が中国全土を支配しているとの立場を変える可能性は限りなくゼロに近かったのです。従って日本が「二つの中国」や「一つの中国一つの台湾」に傾いているという印象を与える報告案はあの時点では書きたくなかったのです。
そうすると検討すべきは手続き決議案すなわち重要事項決議案の見直しということになります。そして何日かの苦吟を経て思い浮かんだのが中国代表権問題を重要事項とする代わりに国府の国連追放を重要事項とするという考えです。
しかしこれを国の政策として打ち出す前に一つ確認しておくべきことがありました。というのも昔外交官試験の準備のために読んだ国際法の教科書の中で国連憲章18条が規定する重要事項についてはこれになじむ事項となじまない事項が存在すると言うような記述があったことを思い出したからです。国連総会で重要事項に指定された案件の多くは国連発足の直後に扱われたものです。しかるにその頃日本は国連にまだ加盟しておりません。そこでそのころ何が重要事項としての適格性を備えているかに付きどんな議論がされていたのか確認する必要があったのです。
しかし時間がなかったのでこうした確認は後回しにして愛知報告の原案作成に取り掛かりました。そしてこの原案の最後では実質決議案の見直しの可能性も匂わせました。またソ連がその構成国であるウクライナと白ロシアを独立国であると強弁して三票の投票権を総会の中で持っていることにも言及しました。そのうえで中国代表権が重要であるという代わりに国府の追放が重要であるという内容の提案をすることも考えられるという趣旨をさらりと挿入しておきました。これがのちに逆重要事項決議案と呼ばれた考えが外務省の外に出た始まりです。なお逆重要という言う呼び方は日本のプレスが名付けたものです。またアメリカの国務省は「改良型の重要事項決議案」という呼び方をしていたようでした。
3.米国との協議
12月2日に愛知報告が行われたことを確認の上で、憲章18条に基づき重要事項とされた先例につきそのいきさつを調査しました。国連総会の議事の進め方については国連事務局の作成した分厚いコンメンタール(逐条解説または注釈書)があります。これにより国連総会で表決により重要事項とされた件数は8件、総会議長の裁定で重要事項とされた案件が十数件あることが分かりました。そこでこれらがどのような過程を経て重要事項になったのかを一件毎に洗うことにしました。幸いに政治課の書庫には第一回の国連総会からの本会議の膨大な議事録がすべて揃っています。そこで同僚事務官の助けを借りて議事録の中の関係個所を探し当て、それらをすべてコピーしてもらいました。これらを熟読した結果重要事項に指定された事項の中身は多岐にわたるが、提案国ないし議長が重要事項だと考え、それが過半数の賛同を得られればどんなことでも重要事項になり得るということが分かりました。これは物事の性質上重要事項に適さないというような制約は特に存在しないということを意味します。
次いでこの逆重要が従来の重要事項決議案に比べどのくらい多くの票を集められるかについても推計を行いました。その際に参考になったのが前回のアルバニア決議案の表決で棄権の数が25票と意外なほど多かったことです。それは一つには当時新加盟した国は人ロ面で小国が多く(当時一番人口数の少なかった国はモルディブ共和国で人口は約十万)人口が1000万を超える国府を国連から追放することに躊躇いがあったことです。またアルバニア案に賛成票を投じた国の中にも、自らが中国を代表するのは当然だというあまりに頑なな国府の態度は論外だが、中国の態度にももろ手を挙げて賛成していない国があることも事実でした。いずれにしろ逆重要は十分に検討に値する案であるというのが政治課のコンセンサスになったと私は理解しています。
年が明けると国府及び米国との協議は本格化して行きました。ここで念のために付け加えますと、私がこれらの重要な協議に出席した訳ではありません。特に国府との会談は主管課が異なっていることもあり一度も出席しておりません。米国との会談でも駐米大使が国務長官やキッシンジャー補佐官と話されたとき現場に居合わせえなかったことは言うまでもありません。東京で行われた会談でも幹部レベルの話し合いには参加も傍聴もしておりません。しかし決議案を文書にまとめて比較しあうといった事務レベルの検討には私も加わっていました。
国府との協議での前進は遅々たるものがありました。それも当然で問題の核心は国府が現在中国大陸も支配している、ないし近い将来大陸を奪還するという旗印を下せるのか否かです。言い換えればいまだに大陸奪回を夢見る年おいた蒋介石に誰が何時鈴をつけるのかという問題です。病床に伏す蒋介石自身が日本との会議に足を運ぶことはあり得ない以上会議の進展が見られないのも当然です。
米国との協議では71年の早い段階から逆重要のアイデアは伝わっていました。反対に米側にこのような手続き決議案を検討していた様子は見られません。米側から出てきた案は米国が二重代表制と呼ぶ決議案でしたが、私から見ると実質は「二つの中国」案と何ら変わらぬものでした。ところがこうした過程の中で外務省内部に必ずしも好ましくない動きが出てきました。それは米国の二重代表制と日本の逆重要を一つの決議案にまとめてはどうかという提案です。私はこの考えに真っ向から反対しました。手続き決議案の利点は実質決議案の表決で示した態度と関係なくその手続き案のメリットに関する判断で投票を決められることにあります。二つの決議案を一つにまとめればこの利点は失われてしまいます。またこれは手続き決議案だから実質決議案の前に表決に付すべきだという議論を展開する余地もなくなります。私はこの一本化の案に懸命に反対した積りですが、私の説得の仕方が稚拙だったせいか、皆さんの賛同は得られませんでした。私の出席した日米事務レベルの協議で日本から提案された案はこの一本化された案でした。
しかしこれは日米案に関する何らかの決定がこの時点で下されたという訳ではありません。そういう決定を下す前に国府が日米の説得に応じない以上国府の態度決定を待たずに見切り発車するか否かにつき政治的な決断が必要だったからです。
4.ニクソン訪中発表
こうしてこの問題に関する結論が出ないうちに7月に入りあの世界を揺るがす発表が米国でありました。キッシンジャーの隠密の中国訪問とニクソン大統領による72年の中国訪問計画です。大統領はこの決定をするに当たり日本への事前通報を怠っただけでなく、代表権問題を司るロジャーズ国務長官も蚊帳の外に置きました。米国内における混乱ぶりは想像に難くありません。一方日本国内でも日中国交正常化の促進派と慎重派の間での対立が激化して政権の交代さえ噂されるようになりました。愛知外務大臣も7月になって外務大臣を辞任しました。
それでも8月に入ると米政権内の混乱が取りあえず収まったのか、ロジャーズ国務長官が米国としては中国の国連加盟を支持するが、国府の国連追放には反対するとの明確な方針を発表しました。そして日本に対しては共同提案する決議案の作成作業に参加するよう呼び掛けてきました。国連局に身を置く我々としては日本が共同提案国にならない限りニューヨークや各加盟国の首都で多数派工作を開始できません。従って我々も米国との話し合いに早く入ることを望んでいたのですが、国内政治の動きは我々にとって芳しいものではありませんでした。待ちに待った米国は日本抜きで他の有志国と一緒に国府国連追放反対の決議案を国連総会に共同提案してしまいました。佐藤総理がこの決議案の共同提案国になることを決断したのは9月の下旬で、実際の表決の1か月前というぎりぎりのタイミングでした。とにかくこれで我が国も国府追放反対運動に積極的に乗り出す道が開けたわけです。まずは総理の指示により複数の有力な政治家がまだ方針の確定していないと思われる国の首都に飛び、現地で説得工作に当たることになりました。また外務大臣を辞した愛知さんはこの問題の特別代表に任命されニューヨークに派遣されました。ちなみに私は愛知代表の通訳兼アシスタントとしてニューヨークにお供することになりました。
ここで米国提案の中身を確認しますと米国提案は彼らのいわゆる二重代表制と逆重要の別々の二つの決議案から成り立っています。これは逆重要が手続き案として独立した決議案でなければならないと言う私の主張に沿うもので、大いに勇気づけられました。ちなみに正式に逆重要が外に出たのは米国からが初めてなのでそのアイデア自体も米国から出たと思い込んでいる人がいますが、それは違います。この時から25年後に公表された国務省の公文書にはこのアイデアは日本から出たと明記されています。
愛知代表の説得工作は相手国と相互に都合の良い日を選んですべて国連のロビーで行われました。私は会談のすべてを通訳するつもりでしたが、海外生活の経験がある愛知代表は3人目ぐらいから自分の英語で説得をするようになりました。私は開発途上国のあまり聞きなれない英語の日本語訳に専念でき大いに助かりました。また愛知代表は米代表部にブッシュ国連大使(後のブッシュ大統領(父))を訪ね情報交換をしましたが、ブッシュ大使は前向きでやる気満々の印象を受けました。
愛知代表と会った約20カ国の各国代表の反応も悪くありませんでした。皆さんはそれぞれに日本から前外務大臣が駆け付けたことに印象付けけられた様子でした。あの頃代表部では毎日のように票読みを行っていましたが、国連での動きと加盟各国の首都から来る電報を見て私も五分五分以上の勝算は十分にあると思っておりました。
5.キッシンジャーの2回目の訪中と終局
こうした計算を吹き飛ばしたのはキッシンジャーが再び訪中するとの発表でした。しかもそのタイミングが恐らく代表権問題の表決の直前に北京に居ると言うのですから、その影響は計り知れません。これで米国の中国政策の比重が国府にはなく中国にあることが明々白々になりました。これまで米国に気を遣ってアルバニア決議案に慎重だった国のうちの多くがその投票態度を見直すのは確実です。私はこの時点で中国代表権問題は事実上決着がついたと判断しました。
10月25日の投票では逆重要決議案は賛成55、反対59、棄権15で否決されました。棄権に回った15票のうちの5票でも賛成に留まってくれていたならなあとは思いましたが、事実は冷酷でした。勢いの付いたアルバニア案側は自らの案を賛成76、反対35、棄権17の圧倒的多数で可決することに成功しました。
私から見て我々の案に決定的な打撃を与えたのはキッシンジャーの二回目の訪中です。なぜ十月になって訪中の予定を発表し表決の直前に北京入りをしなければならなかったのかはいまだに謎です。本人はそのダイアリーでその理由を述べていますが、私には言い訳のように聞こえます。ニクソン訪中の予定通りの実施のためと言っても、何もあのタイミングの必要はないわけです。ニクソンの訪中は72年の7月に行われる予定と発表されていました。しかるに本当の訪中はその五か月前の72年2月なのですから。しかもこの訪中で米中の国交回復は実現しなかったのみならず、その方向さえ示せなかったのです。さらにそれは次のフォード政権でも同じでした。米中国交正常化は実に七年後の民主党カーター政権になって初めて実現を見たのでした。(2026年7月1日記)
