ロシアのウクライナ侵攻に思うこと


前駐キルギス大使 山村嘉宏

 2月24日、ロシアがウクライナに攻め込んだ時には、その目的については、ウクライナのNATO加盟を阻止するため、という見方が多かったと記憶します。今になってみると(6月下旬)、ロシアの目的はウクライナ全体を併合するか、または一部を併合の上、ウクライナに圧力をかけ続け、唯々諾々とロシアに従う国に仕立て上げるか、のいずれかではないかと考えます。いずれにせよ、NATO云々はこじつけか後付けの理由で、領土拡張が今回の本質だと思います。
 ロシアは、国際法はおろか、人倫さえ通じない国となってしまいました。破壊、虐殺、拷問、性的暴行、略奪と、品性の下劣極まりない国家に落ちぶれました。疑う余地のない事実を否定し、「フェイク」の一言で責任を転嫁する厚顔無恥には唖然とします。倫理観の底が抜けた感があります。ロシア正教会でさえ聖職者の倫理をかなぐり捨てて、ウクライナ侵攻を「聖戦」と呼ぶというご都合主義に転じました。
 以下、私がこれまでロシアについて考えてきたことを含め、ウクライナ侵攻について思うことを書いてみました。

<ロシア人の物事の発想>
 ロシア人にとっての物事の基準は、「いいか悪いか」ではなく、「強いか弱いか」、「勝ったか負けたか」です。強い者が偉い、勝った者が偉い。例えばスターリンは数千万人を粛正した人物ですが、ロシアでは今も強い尊敬を集めています。第二次大戦をロシアの勝利に導いたからです。
 最近プーチンは、核兵器による脅しをかけていますが、力の信奉者であるロシア人は、「俺たちはヤワじゃないぞ」というたぐいの物言いが大好きです。おそらく多くのロシア人がプーチン発言に拍手喝采を送ったと思われます。核が使用される懸念は現実味を帯びています。
 ちなみに、ほとんどのロシア人が北方領土の返還に否定的です。国際法や条約になにが書いてあるかは問題ではない。ロシア人にとっては、ロシアは戦争に勝った、日本は負けた、という事実が何よりも重いのです。これがロシア人のリアリティです。
 この事例と矛盾するようですが、ロシア人を知る日本人は誰でも感じているように、ロシア人はたいへん親日的です。私は、ロシアでの生活で、日本人であることによって敬意を表され、歓待されこそすれ、不愉快な思いをしたことはありません。この好感はどこから来るのか長年不思議に思っていましたが、あるロシア人の日本研究者から、「日露戦争で日本が勝ったからだと思う」と言われ、納得しました。「俺たちの大国ロシアを破った小国日本はあっぱれ」ということなのでしょう。
 それにしても、この21世紀に弱肉強食の論理を堂々と実践して恥じない人たちがいるというのは驚きです。

<ロシア国民はウクライナ侵攻の真実を知らないのか>
 私は、「プーチンと一般ロシア人は違う。一般ロシア人は今回の暴挙に責任がない」という主張には与しません。歴史上これだけロシアによる悪行が繰り返されると、たまたまその時々の指導者の資質だけに原因を帰すことには無理があるということは容易にわかります。独裁主義・権威主義の成立を後押しする心理がロシア人の精神風土に巣食っていることも明らかです。さらに注目されるべきは、過去の所業についてロシアは反省したことがないという事実です。たまに謝罪に追い込まれても(たとえば日本人のシベリア抑留やカチンの森事件など)、頭を下げるのはその時だけで、反省を後世に伝えるということがない。ソ連・ロシアの歴史は、上から目線と無謬主義に貫かれています。すなわち、懲りない人たちなのです。だからまたやります。
 政権のプロパガンダによって侵攻の実態を国民が知らないためにプーチンの支持が落ちない、一般のロシア人は騙されている、という説がありますが、これは違います。報道がもっと厳しく規制されていたソ連時代でさえ、ロシア人は、大事なことについてはどこからか本当の話を仕入れてきていました。ましてやネット時代の今、事の真実を知るのは容易です。
 しかしやっかいなことに、ロシア人にとっての真実とは「客観的な事実」ではありません。ロシア人は、それがねじ曲げられたものであっても、自分にとって都合がよければ真実にしてしまいます。これはロシア人を理解する一つの鍵です。
 この関連で興味深い世論調査があります。2014年にロシアの「世論基金」が行った調査ですが、72%のロシア人が「社会的に重要な問題の報道に際して、国家の利益のためであれば事実を隠してもかまわない」と答えています。さらに54%が、同様の場合において「事実を歪曲してもかまわない」と答えています。つまりロシア人の多くは、事実が報じられていないことを知っているのです。
 現時点で(6月下旬)少なく見ても過半数のロシア人がウクライナ侵攻を支持しているのではないかと推測されます。我々の考える「ウクライナ侵攻の真実」をロシア国民が知れば皆戦争反対に立場を変えるかどうかはかなり疑問です。ロシア将兵の死傷の規模が膨らむことが反戦の気分につながる可能性があるとの見方には期待したいと思いますが。

<ロシア国家・ロシア人の行動様式>
 「最初は戦争に反対だったが、西側の制裁を見てプーチン支持に態度を変えた」というロシア人の発言をネットで目にしました。こういうロシア人はたくさんいると思います。排外主義に染まり、自分たちが損害(特に西側諸国から)をこうむるとなると途端に頭に血がのぼって、やれ行けそれ行けロシア軍、という好戦主義に至ります。なぜ制裁を受けるのだろうか、という思考は完全に停止してしまいます。
 ロシア人は、一発殴られると5発、10発殴り返します。自分が殴られた原因がどこにあるかは関係ない。ウクライナは、ロシアからクリミア奪取という一発を最初に食らったので、しかたなく殴りかえしてきただけです。それが領土を蹂躙され、人々は虐殺され、拷問され、家財は略奪され、女性は暴行されるに至っています。すでに数千発は殴られています。なんという理不尽でしょうか。
 ロシアという国は、みずから敵を作り出し、しかも敵対関係を相手のせいにするのが大得意です。今回がその好例です。さらに言うと、なぜ自分たちが嫌われているのかわからないという鈍感さでロシア人に並ぶ民族はないでしょう。侵攻に先立ってプーチン大統領に、ロシアが侵攻すればウクライナ国民はこれを歓迎するだろう、という部内報告が上げられたとの報道には思わず笑ってしまいましたが、いかにもありそうな話です。
 ソ連邦の崩壊についてプーチンは「20世紀最大の地政学的悲劇」と述べていますが、ロシア国民の間でも崩壊を嘆く声こそあれ、ロシアの専制支配から逃れて喜ぶ各国民にエールを送るロシア人に私は出会ったことがありません。ロシアの支配のために他国民が感じてきた痛みを理解できないのか、それとも目をつむっているのか。いずれにせよ、一般ロシア人の間にも、広大だったソ連邦への郷愁と領土拡張への欲求がくすぶっていることは否定できません。プーチンも怖いのですが、ここにロシア人の怖さがあります。

<北方領土問題について>
 日本による対ロシア制裁を巡って北方領土返還交渉との関連につき政府内でいろいろ議論があったと想像します。私は、日本は欧米諸国にように強い制裁には踏み切れないのではないか、と思っていましたが、日本政府は迅速にかつきちんと対応していると評価されるべきと考えます。
 制裁が領土交渉に与える悪影響を懸念する声もあったでしょうが、欧州でむき出しの野心と欲望で他国の主権を平然と踏みにじる国が、片や極東では笑顔で日本に領土を譲り渡すことなどあるでしょうか。冷静に考えれば簡単にわかる話です。
 先般、ロシアのミロノフ国家院議員が、ロシアは北海道領有への権利を有していると発言した由です。私がペテルブルクに勤務していたときに、19世紀にロシアが米国に売却したアラスカの代金700万ドルの受領を示す公文書が残っていない、としてロシアは米国にアラスカの返還を求める権利があると主張する学者の論文が堂々と一流紙に掲載されていました。領土にからむロシア人の度し難い強欲ぶりにはあきれるほかありません。「オレのものはオレのもの、人のものもオレのもの」というわけです。

<ロシアには毅然と>
 ロシア国家とロシア人の思考・行動様式を直視してロシアとの向き合い方を考えないと、とんでもない禍いに巻き込まれかねません。ロシアは他国への侵略の根拠をいとも簡単に捏造します。嘘と捏造はロシアのお家芸です。今回、われわれは、実例を嫌というほど見せつけられています。
 ロシアは大国主義国家で、ロシア人もまた大国主義者です。なぜか自分たちが常に正しいと考えている。こういう人たちにははっきりとものを言うことが必要です。遠慮すれば相手も引いてくれると考えるのは甘い。こっちが引けば、彼らは、「自分たちは正しかった。もっと踏み込んでも大丈夫」と考えます。ロシアにおもねるとつけ込まれます。

 先日、ロシアの人気作家ボリス・アクーニン氏が日本のテレビ局の取材に対し、「プーチンのロシアはほんとうのロシアではない」と語っていました。氏によれば、ほんとうのロシアとは、「トルストイやチェーホフの描く世界」ということですが、それではなぜ「ほんとうのロシア」はプーチンのロシアに勝てないのか。
 プーチンのロシアもまたほんとうのロシアだからです。