ミグ事件から50年~ベレンコ中尉との3日間~

元駐ウクライナ大使 天江 喜七郎
1.はじめに
本年9月6日は、ミグ事件から丁度50年を迎える。奇しくもパイロットのヴィクトル・ベレンコ中尉と3日間を過ごすことになった当時の記憶が、昨日の出来事のように蘇る。ベレンコは3年前に亡命先の米イリノイ州で76歳の生涯を閉じた。当時、ミグ事件は我が国にとり経験したことのない大事件であり、多くの影響と教訓を与えた。
本件に関しては、外交文書公開30年ルールに従い関連文書の多くが秘密指定を解除されており、外交史料館において閲覧可能となっている。またベレンコが亡命後に米国で行った証言や会見録をベースにした著作本が数冊出版されており、特にジョン・バロン著「ミグ25ソ連脱出:ベレンコは何故祖国を見捨てたか」(高橋正訳、パシフィカ1980)では、ベレンコの生い立ちから亡命に至ったソ連社会の矛盾が描写されている。 また、竹内行夫著「外交証言録、高度成長期からポスト冷戦期の外交・安全保障」(岩波書店2022)では、国際法の観点からミグ事件に対処した著者自身の労苦が詳述されており(第2章外交政策と国際法、(6)ミグ25型機の函館強行着陸)、貴重な資料として一読に値する。更に、今日、AIの飛躍的進歩により、当時のNYTimes記事や冷戦期の東側パイロットによる西側亡命事件などが容易に検索できる。従って、本稿では上記の諸情報を参考にしつつ、関係者の多くが他界した今、ベレンコの亡命を担当した体験を留め置き、所感を述べることとしたい。
2.ベレンコ中尉の事情聴取
1976年9月6日、午後1時10分過ぎ。ソ連空軍所属ミグ25型機が函館空港に強行着陸した。滑走路を通り越し芝生に停止した状態のミグ機がNHKテレビで全国に放映され、多くの国民がその事実を知った。その直後、警察庁外事課から本省東欧第一課(現ロシア課)に緊急連絡が入り、都甲課長から現地に急行し状況を把握して報告するよう命じられた。筆者は外事課の係官と、函館空港が閉鎖のため千歳空港に飛び、そこから道警手配の車で約6時間かけてやっと現地に到着した。時計を見ると既に真夜中を優に過ぎていた。
9月7日午前2時過ぎ、函館市の「湯の川グランドホテル」にてベレンコ中尉と初対面した。彼は熟睡中にたたき起こされたためか、機嫌がすこぶる悪い。後日分かったことだが、函館署は6日午後の事件発生後間もなく、ロシア語を解する元警察官を急遽呼び出し、ベレンコから事情聴取を行っていた。ベレンコからすれば、危険を賭してソ連から逃亡した緊張感と現地警察官の事情聴取から解放され、夕食を済ませ熱いシャワーを浴びた後、やっと床に就いた矢先に叩き起こされ、「何様だ」と言ったところであろう。
しかしながら、筆者がモスクワ大学仕込み(?)のロシア語で話しかけたからか、ベレンコも次第に打ち解けて話に応ずるようになった。彼は最新鋭のミグ25型機を持ち込んだことを鼻に掛けるような高慢な態度を示したので、ベレンコの行動が日本の領空侵犯に当たるのみならず、強行着陸の際に、函館空港の施設の一部を破壊し、そのため空港が閉鎖の止むなきに至り多大の不便を被っている旨述べ、「その責任はベレンコ中尉貴官にある」と強い調子で伝えたところ、彼は「それは大変申し訳ない」と謝り、その後はこちらの事情聴取に素直に応じるようになった。
事情聴取の中でベレンコは、自分は米国への亡命を強く希望していること、ソ連への帰国は絶対に望まないことを明確に述べたので、その旨を白紙に書いて署名してもらった。そのメモ書きはその後直ちに外務省から在京ソ連大使館に正式に伝達されたが、後述するように、そのことでベレンコと在京ソ連大使館員との面接は劇的な幕切れとなり、筆者にとっては苦い記憶として残っている。なお、事情聴取の途中で北海道法務局の検事が入室し不法入国容疑でベレンコを尋問したが、ベレンコはこれに協力的に応対した。尋問はミグ機による日本への不法入国の状況、亡命の動機に集中した。
先ず、ソ連領を離脱して日本の領空に入り、函館空港に強行着陸した状況である。
9月6日正午に訓練のためサハロフカ空軍基地を離陸した4機編隊の最後尾に位置したベレンコは、急上昇する僚機から離脱して下降し、海上50メートルの超低空飛行に入りソ連のレーダー識別圏を脱した後、再び上昇して千歳空港を目指した。日本の領空識別圏に入り空自機のスクランブルを期待したが遭遇できず、また千歳空港までの燃料が足りないことが危惧されたので、雲の下に降下し目視で函館空港を目指したとのことであった。日本の空港は全て位置を把握していたとのことで、函館空港への強行着陸はやむを得ない措置だったと述べた。後日談であるが、ベレンコは亡命先の米国で、「4機編隊の最後尾に位置して上昇したが、途中で隊列を離れて下降し非常信号を発信、その後無線を全て遮断した。機体に異常が発生し海に墜落したと思わせるためだった」、「函館空港に着地した時、燃料は残り30秒分しか残っていなかった」と述べている。ベレンコにとっては、正に命がけの逃避行であった。
次に亡命の動機であるが、ベレンコの説明を聞いた上での理解は以下の通りである。
動機の第一は、ベレンコの強い自負心と、軍内部で評価されないことに対する不満である。亡命当時ベレンコは29才、空軍中尉である。空軍将校としては大尉になっていてもおかしくない年齢である。昇進が遅れた理由は不明であるが、ベレンコはその待遇に強い不満を持っていた。ベレンコは一時期モスクワにある軍の航空学校で教鞭をとったが、これについても「閑職に追いやられた」と批判的に述べていた。
動機の第二は、家庭の不和である。夫婦仲はかなりギクシャクしていたようだ。エリート軍人の父を持つ妻は、父親と自分を比べては、不満ばかりを口にしていたと述べた。米国亡命後のインタビューでもベレンコは、「妻からは離婚を迫られていた」との趣旨を語っており、「さもありなん」と思う。
動機の第三は、基地での待遇とソ連社会に対する不満である。サハロフカ空軍基地での待遇はかなり酷かったようで、訓練に次ぐ訓練はともかく、日々の食事は不味く娯楽も少ない生活にウンザリしていたようだ。唯一の楽しみは外国放送、特に米国のジャズ音楽を聴くことだと述べたが、空軍基地の耐乏生活の中でVOAや Radio Free Europeから流れるポップ・ミュージックやジャズ音楽は、まだ見ぬ外界へのあこがれを掻き立てたのやも知れない。米ソ「両超大国」の時代ではあったが両国の経済格差は広がる一方で、ソ連軍内部の士気の低下や国民の体制批判はかなり根深いものがあったと思う。アレクサンドル・ソルジェニーツィンの発禁本「収容所群島」が市民の間で密かに回し読みされていたのもこの頃である。その後9月7日夜にベレンコと二人で水上警察署の留置所の中で食事を済ませ雑談した時のことである。ベレンコは、空軍基地で訓練中の戦闘機が着陸に失敗して滑走路を超え、一般道路を走行中の通学バスに激突し、乗っていた子供たち全員が犠牲になった事件のことを赤裸々に語った。そして、市民を巻き込んだ大事故にもかかわらず地元紙には一行も記事が載らなかったことに強い憤りを憶えたと述べた。
最後に、亡命の動機として米国から何らかの働き掛けがあったかどうか。この点に関してベレンコからは明確な証言は得られなかった。他方、筆者は状況証拠から何らかの接触があったのではないかと見ている。外交史料館の公表文書に含まれているが、函館空港着陸直後にベレンコが警察官に手渡した英文のメモには、米国の情報機関に連絡を乞う旨が記されていた。当時、デタントとは裏腹に米ソの軍拡は激しさを増しており、ミグ事件の前後にもソ連軍人の亡命事件が幾つか起きている。周知のとおり、1960年に米偵察機U-2がソ連上空で撃墜される事件が起きたが、ミグ25型機はU-2の後継機として就役した米偵察機SR-71にとって極めて警戒すべき存在とされていた。それ故、米国が総力を挙げて情報収集に努めていたことは想像に難くない。更に、後述の通り、ベレンコは羽田を出発する直前にソ連大使館員との面接に応じたが、相手は一等書記官の肩書を持った在京KGBトップのサドブニコフ大佐であった。ソ連大使館の領事部長(参事官)をさて置いてサドブニコフ大佐が面接した背景には、何としてもベレンコの米国亡命をとどまらせたいKGBの焦燥感がひしひしと感じられた。因みに、当時のNYT紙は、ジョージ・ブッシュCIA長官がミグ事件を米情報機関のBonanzaと述べたと報じている。
3.「親子丼」と「カツ丼」
9月7日未明のホテルでの事情聴取とミグ機の実況検分を終えて、ベレンコを伴い道警のヘリで千歳空港に飛び、そこから空自の輸送機で東京に向かった。警視庁の水上警察署に到着したのは夕刻遅くと記憶する。長い一日だった。本省への報告を済ませて再度ベレンコに会いに行った。ベレンコは鉄格子のある留置所の中で仮眠していた。「ここが一番安全なので、狭いがしばらく我慢して欲しい。」と言うと、「良く分かっている。有難う。」とベレンコ。時計は午後8時ごろだったと記憶する。空腹を感じたので、警察官に夜食の希望を伝えたところ、警察署に置いてあった近所の食堂のメニューを持ってきたので、ベレンコに相談することなく独断で好物の「カツ丼・大盛」を二人分注文した。ものの30分も経たないうちに、ホカホカの大盛のカツ丼が目の前に届けられた。一口食べたベレンコは「オーチェン、フクースノ(すごく旨い)!私のために特別料理を出してくれた警察のコックに感謝の気持ちを伝えて欲しい。」と言うので、「いいや、これは近所の大衆食堂に注文したもので、誰でもそこに行けば食べられるよ。」と説明すると、信じられないという顔を見せた。サハロフカ基地では食事に肉が出るのは2週間に一度で、それも鶏肉のみで豚肉を食べたのは久しぶりとのこと。筆者が「モスクワ大学の学生食堂の食事もひどかったよ。」と言うと、「サハロフカに比べればずっとマシさ。」との答えが返ってきた。ソ連は極東の空軍基地に最新鋭のミグ25型機を配置しながら、ソ連版トップガン達の食事に全く配慮していない現実を頭に描いて、筆者はベレンコに対して同情を禁じえなかった。
なお、蛇足ながら、当時の報道には「ベレンコ中尉は出された親子丼を食べてとても感激した」とあるが、鶏肉が苦手の筆者が親子丼を注文するハズがない。おそらく函館のホテルで口にしたのではなかろうか。
4.ベレンコと在京KGB大佐とのフェイスオフ
先に述べた通り、函館に於いてベレンコは、「ソ連への帰国を望まず、米国への亡命を希望する」旨を書面に書いて署名した。その書面は、その後直ちに外務省幹部からソ連大使館幹部に手渡された。そしてその事実をベレンコに伝えると共に、ソ連大使館の要求に応じて、ベレンコが亡命意思を直接伝えるべくソ連大使館員と面会するよう要請した。ベレンコは当初大使館員との面会に強い難色を示したが、日ソ領事条約の規定上ソ連大使館は日本で拘留されているソ連国民と面会する権利があること、またソ連政府がモスクワで一大キャンペーンを展開し、その内容は『ベレンコ中尉は訓練中にミグ25型機に異常が発生したためやむなく函館空港に不時着した。しかしベレンコ中尉は不当にも身柄を日本の警察に拘束された。よってソ連政府は日本政府に対しベレンコ中尉の即時釈放と機体の返還を要求する。』というものであることを説明すると、ベレンコはちょっと考えた後で、「短時間であれば面会してもいい」と答えた。
9月9日夕刻、ベレンコと共に水上警察署内の即席の面会所に向かった。さすがにベレンコは緊張している様子だった。先に会場を下見すると、2名の私服の警官が長いテーブルの席にジュラルミンの盾を持って座っていた。聞けば、「相手がピストルを撃ってくるかも知れないので、ベレンコ氏を両脇から守ります。」と言う。またソ連側が座る長テーブルとは遠く離されていた。ジュラルミンの盾だけは止めてもらい、筆者自身はベレンコ側ではなく、テニスコートの審判席のように、両者の中間に椅子を移してもらった。
間もなく、ソ連大使館のサドブニコフ一等書記官(KGB大佐)が入室してきた。ベレンコが着席するや否や、サドブニコフは胸の内ポケットから手紙のようなものを取り出してテーブルに置いておもむろに口を開いた。「ヴィクトル・イワノビッチ、私はソ連政府を代表して貴方に深くお詫びしたい。」その言葉で始まったサドブニコフの弁舌は、実に流暢で説得力があった。その趣旨は次の通りと記憶している。
・ベレンコ中尉に対する軍の対応は間違っていた、申し訳ない、
・奥さんも貴方に対して「私が悪かった、許してほしい」と言っている、
・奥さんからの手紙にはその思いが書かれているが、離れて座らされているので手渡すことが出来ない、後で読んで欲しい、
・両親からの手紙も届いている、是非家族のもとに帰ってきて欲しいと懇願している、
・ソ連政府は貴方の行動に対して一切罪を問わない旨決定したのでお伝えする、云々。
ベレンコの方を見ると、彼はサドブニコフの長弁舌を聞いている内に次第に頭を垂れ、あまつさえ涙ぐんでいるようであった。「ひょっとしてベレンコは亡命を翻意するかも知れない」そんな思いが頭をよぎった。「もしベレンコがソ連に帰国すればどうなるのだろう?彼は免罪符を得るため、嘘八百並び立てて日本での出来事をでっち上げるかも知れない。ソ連はそれを利用して対日非難を強め、その結果日ソ関係はガタガタになってしまうのではないか・・・・。」そんな心配が膨らんできた。
サドブニコフの長弁舌が終わると、ベレンコはうつむいたまま何かを呟いた。何を言ったのか聞き取れない。サドブニコフも同様で、「何に、何に?よく聞こえないので、もう一度声に出して言ってくれないか?」と聞き返した。するとベレンコは頭を挙げて、「自分の気持ちは変わらない。それは手紙に書いた通りだ。」ときっぱりと述べた。すると、サドブニコフは「一体何のことだ?そんな手紙は見ていない。」と言い放ったので、ベレンコは当方を見て「手紙はソ連側に手渡したとあなたは言ったが、本当に渡したのか?」と目で聞いてきた。そこで筆者はサドブニコフに対して、「手紙とは、昨日外務省幹部の〇〇よりソ連大使館高官の××氏に手渡した手紙のことです。」と発言したところ、サドブニコフはこちらを睨みつけて、「あんな手紙は日本側が書かせたものだろう。そんなものは信じない!」と声を荒げた。それを聞いたベレンコはすっくと立ち上がり、大きな声で、「あの手紙は私が自分の意志で書いたものだ!こんな茶番はもうおしまいだ!」と言って身を翻しあっと言う間にその場を去ってしまった。それを見たサドブニコフは豹変し、不気味なダミ声で、「ベレンコ!貴様のことは一生忘れないぞ!覚えておれ!」と捨てぜりふのように叫んだ。
あまりの急展開に一瞬動転したが、ベレンコが明確に意思表示をしてくれたので胸を撫で下ろして会議室を出た。そこから警察の車でベレンコの乗った車を追い、米国行き航空機のタラップへと向かったが、胃に激痛が走り、車の後ろ座席に伏してしまった。極度の緊張で胃痙攣を起こしたようだった。そのため、NW機体のタラップを駆け上っていくベレンコの後ろ姿を車の窓越しに見送らざるを得なかった。
本省に帰った筆者は、事の次第を課長に述べて報告書を作成したが、案の定、翌朝ポリャンスキー大使が外務省を訪れ外務次官に抗議文を手渡した。そこには「昨日、ソ連大使館員とベレンコ中尉との友好的な話し合いの最中に、外務省の一係官が介入したため両者の会話は阻害された。その責任はひとえに日本側にあり、強く抗議する・・・」との趣旨が書いてあった。ソ連側の抗議に対し、外務省幹部が毅然と反駁したのは当然である。
5.その後・・・
1990年暮れ、筆者は在ソ連日本大使館経済公使として崩壊直前のソ連に赴任した。現地では、ゴルバチョフ政権が推し進める国営企業民営化の支援を担当した。ソ連国鉄民営化事業に協力するため運輸省担当局長率いる、JR東日本一行が訪問し、ソ連国鉄との会議に臨んだ。対面の末席には何とあのサドブニコフが座っていた。15年前の出来事が頭を過った。互いの目と目が合った。先方も気付いた様子であった。あの時と比べて体が一回り小さくなったような印象を受けた。嘗てのように体からほとばしる威圧的なエネルギーは全く感じられなかった。その尾羽打ち枯らした姿を見て、ベレンコの亡命を阻止できなかったことが、少なからずサドブニコフのその後に影響を与えたものと直感した。会議がほどなく終わり、歓迎レセプション会場に促されたが、そこに彼の姿はなかった。
50年前にアメリカに亡命したベレンコ。あの3日間で彼の人生は大きく変わった。果たして憧れの地に楽園を見たのであろうか?タラップを駆け上がる彼の後ろ姿が今でも脳裏に焼き付いている。 【了】
