〈帰国大使は語る〉 多様性を乗り越えて国家建設に励むタンザニア


前駐タンザニア連合共和国大使 後藤真一

 2018年10月から2022年4月まで駐タンザニア大使を務めて最近帰国した後藤真一大使は、インタビューに応え、タンザニアの特徴と魅力、在任中に経験したことや力を入れて取り組んだこと、日本との関係とその展望等について以下の通り語りました。

―タンザニアはどんな国ですか。その魅力は何ですか。

 ちょうど4年前の10月、大使として赴任する際には恥ずかしながら予備知識が乏しく、セレンゲティ国立公園などでの野生動物サファリやアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ、その名を冠したコーヒー、そしてインド洋上に浮かぶ海洋リゾートであるザンジバルの印象くらいしかありませんでした。確かにいずれも人類の共有遺産と思える素晴らしい観光資源です。しかし4年間の勤務を通じて感じたのは、おおらかさの内にもアフリカ人としての強い誇りを持っているタンザニア人の心意気と多様性を乗り越えて国家建設に励む真摯な姿勢に強い魅力を感じ、その歴史的な背景に関心を持ちました。

 タンザニアはアフリカ大陸側のタンガニーカと島嶼ザンジバルの連合共和国です。2021年12月に独立60周年を迎えたタンガニーカは、セレンゲティ近くのオルドバイ峡谷で最古の化石人類と見做されたジンジャントロプス・ボイセイの頭骨がリーキー博士夫妻により発見されたことなどから「人類のゆりかご」として知られます。広大な東アフリカのサバンナ地域は以後も統一政権が成立することなく多くの部族からなる社会が続いていましたが、1885年のベルリン会議などの西洋列強によるアフリカ大陸の植民地分割の一貫で、地元の地理的状況や社会的同質性を無視して引かれた直線的な国境により北の英国領と南のドイツ領、後のタンガニーカに分割されました。ドイツによる植民地政策は苛烈を極め、中央山地部イリンガ州におけるへへ族酋長ムクワワの反乱に続き、1905年には綿花栽培のための労働力として強制徴発を行ったため、霊水(スワヒリ語で水の意であるマジ)によりドイツ兵の銃弾が溶けて無効になるとの呪術信仰をもとに、南部全域の部族が連携して一斉蜂起する大規模な反乱、マジマジの乱が起こりました。これに対しドイツ側は食糧をも焼き払う徹底した焦土作戦をもって応じたため、なんと20万から30万人もの犠牲が生じ、その後過疎地となった反乱地域に象などの野生動物が繁殖して現在のセルー国立公園が成立したとも言われています。さすがにドイツの植民地政策は見直されましたが、すぐに第一次世界大戦が勃発。多くの原住民がアスカリ(兵士)として徴用され、悲惨なことにアフリカ人同士で戦火を交えることになります。献身的な努力にもかかわらず宗主国ドイツの敗戦となり、第二次世界大戦後に英国信託統治領から独立後も、北側のケニアとは異なり西側から距離を置きました。初代ニエレレ大統領は汎アフリカ主義を掲げ中国の毛沢東などと連携して非同盟諸国の立場をとり、南アフリカのアパルヘイト反対運動などの南部アフリカ諸国の民族解放を強く支援しました。こうした反植民地主義は現在でも国を越えて指導性を発揮しようとするタンザニアの政策に色濃く反映しています。

 タンザニアは2つの地域共同体に所属し、東アフリカ共同体(EAC)は同国北部の国際観光都市アルーシャに本部を持ち、本年コンゴ民主共和国が7番目に正式加盟し、通貨統合を模索する状況にあり、未熟な段階ながら運営が開始されているアフリカ大陸自由貿易圏の形成にも今後重要な役割を果たしうると思います。また南部アフリカ開発共同体(SADC)においては、多くの加盟国の民族解放を支援した立場から一目おかれる地位を占め、アフリカ人の自立を訴え公用語としてのスワヒリ語の普及を推進しています。スワヒリ語はもともとアラブ世界から見て辺境(スワヒリ)であったアフリカのインド洋沿岸地域において地元のアラブ商人らによって使用されていたもので、初代ニエレレ大統領が全国で公式に使用する国語として定め、多様な部族から成る複雑な社会に統一と安定をもたらす役割を果たしてきました。

 ザンジバルは一定の独立性を確保した共和国として独自の大統領を有していますが、もともと黒人奴隷と象牙などの交易で潤ったアラビア半島のオマーンのスルタンが19世紀後半まで英国と連携して強い支配力を有し、第二次大戦後に一旦立憲君主国となりました。しかし1964年に勃発した社会主義革命によりスルタンらは逃亡し、タンガニーカと連合を組むことになりました。国名はタンガニーカとザンジバル、そして紀元1世紀半ばのローマ時代に既に海上交易が盛んになっていたインド洋に関してギリシア人が書いたガイドブック『エルトゥラー海案内記』にみられる古代の地名アザニアに因んでタンザニアと定められました。因みに映画『ボヘミアン・ラプソディー』で生涯が描かれた往年の英国ロックグループのボーカリスト、フレディ・マーキュリーはアラブ風旧市街ストーンタウンで育ち、その当時の住居が現在観光名所となっていますし、昨年のノーベル文学賞受賞者、アブドゥルラザク・グルナ氏もザンジバル生まれで、革命後に英国に移住しています。

(写真)インド洋に面したリゾート、ホワイトビーチ

―在任中に経験された大きな出来事や特筆すべき事柄はありますか。

 言うまでもなく任期の後半は新型コロナ禍と重なり大使としての活動に大きな制約がかかった上、在留邦人の保護が最優先となりました。2020年3月にタンザニアでも感染ケース第一号が報告され、保健省が毎日発表する感染件数が次第に増加、4月には予算審議中の国会でも議員が続いて急死する事態となりました。5月初めに現役の憲法司法大臣(前外務大臣)マヒガが亡くなった段階で、大統領自ら政策に介入し、「PCR検査は信頼ならない。タンザニアは神のご加護により新型コロナから救われた。国民は自宅待機などせず勤勉に通勤・通学すべきである」との趣旨の演説を行いました。以後、中止されていた国際便の再開、PCR検査を行っていた感染研究所の幹部ら関係者の更迭と検査中止、感染件数の発表も中断してWHOへの感染件数ゼロ報告が開始されました。さらに感染症に関して政府広報と異なる「フェイクニュース」を流した者に厳しい刑罰が科される法改正も行われたため医療機関も取材に応じず、大使館によるタンザニア国内の正確な感染実態の把握が困難となってしまい、他の国の大使館や国連機関と職員などの感染状況に関する情報交換を行うなどして対応することを余儀なくされました。

 2015年の大統領選挙においてダークホースながら前政権の汚職撤廃を公約に当選したマグフリ大統領は、高校の化学の教師から政界入りし、主にインフラ建設担当大臣としてキャリアを積んできましたが、就任後、国土の東西を横断する標準軌鉄道(SGR)及び、セルー国立公園内ルフィジ川を巨大なダムで堰き止めてのニエレレ大型水力発電所の建設、国営航空会社エアタンザニアによる新鋭ジェット旅客機の大量調達、強制的な中央官庁移転を伴う首都ドドマの整備(ドドマはインド洋に面した中心都市で各国大使館があるダルエスサラームからおよそ600キロ離れた内陸の町)など、次々と大型プロジェクトに着手。日常的にテレビ演説で国民に語り掛け、女性からも頼りになる父親像をもって人気を博し、その行動力からブルドーザーの異名をとっていました。他方、次第に政権内での権力集中を進め、反対意見を呈する閣僚を頻繁に罷免。妊娠した女子児童に対して育児に専念するための学業の断念を唱え、インターネット検閲を導入し、内政干渉の手先と見做してNPO活動への監督を強化し、政府見通しと異なるマクロ経済指標の研究公表に制約を課すなどしたため、西側諸国との対立を深めました。こうした動向を受けてEUは大使を召還し、世界銀行も援助を一時見合わせる事態となりました。その後、2019年10月に治安当局が野党候補へのあからさまな牽制を行う中で「地滑り的」再選を果たしましたが、翌年2月末から公の場面から姿を突然消し、約2週間後の深夜、テレビによる緊急放送で持病の心臓疾患による逝去が国民に伝えられました。マグフリ大統領は欧米製ワクチンの効果も疑って調達を拒み、周囲の閣僚にもマスクの着用を認めていなかったことから、その真の死因として新型コロナの噂が絶えないところです。憲法の規定により女性副大統領のサミア・ハッサン女史が大統領に昇格して漸く新型コロナ政策は「正常化」し、COVAXからのワクチン調達に着手し、保健省による感染状況の公表も再開されました。2019年にタンザニアは低位とはいえ国民所得が年間約1,100ドルを超えて目標より早く世界銀行の分類で中所得入りを果たしましたが、新型コロナ禍においてもロックダウンなどの厳格な措置を採用しなかったことから、好調な鉱物資源の輸出を相俟って、それまでの実質7%が4%台に減速したものの、マイナスに落ち込んだケニアなどと比較して安定的な成長を続けていることは皮肉な結果とも言えます。

 新型コロナ禍については、外務本省の指示により帰国希望者を支援するチャーター便の手配を行ったことが印象深く思い出されます。民間航空会社と契約する主体が地元日本人社会に見当たらなかったため、韓国大使館などにもお願いし、契約手配やチャーター便の条件として求める最低乗客数の確保で協力してもらいました。既にマグフリ大統領による政策転換が開始されていた時期でもあり、直前までチャーター便の着陸許可が出ず気を揉みましたが、かつて大阪でのJICA行政官研修に参加した経験があるカムウェルウェ運輸担当大臣の計らいで難局を脱することができました。大使館員や日本人会メンバーなど当時お世話になった方々、そして誠意をもって全面的に協力してくれた韓国の趙泰益元大使に改めて感謝する次第です。

―タンザニアと日本との関係はどのようなものですか。今後の展望はいかがですか。

 冒頭でタンガニーカの独立60周年について触れましたが、実は日本政府は直ちに国家承認を行い、独立式典に特使として自民党の有力政治家黒金泰美氏を派遣しましたので、日本タンザニアの両国外交関係も60周年と言え、大使館としても積極的に広報して祝いました。そして日本たばこ産業(JT)の系列会社、タンザニア・シガレット公社もやはりほぼ同時期に専売公社として発足し、マラリア蚊対策の防虫ネット「オリセット」を現地生産している住友化学とともに製造業における代表的な日系企業となっています。

 タンザニアは爾来日本からアフリカに対する開発協力の主要な受益国です。日本はいち早く活動を開始したJICAの精力的な努力もあり、これまで道路等交通インフラの整備、ダルエスサラームやムワンザでの近代的な魚市場の建設、北部のアルーシャ州でのコメ栽培増進などの多くの分野で発展に貢献し、さらに人間の安全保障の視点に立った草の根無償支援事業などを通じて、得意とする人材育成にも積極的に取り組んできました。大使として両国関係の発展に関わった方々の業績を顕彰すべく推薦を行い、企業の生産性向上運動であるカイゼンの啓蒙普及に積極的に取り組んだエドウィン・ムヘデ歳入庁長官(当時)、大阪外国語大学(現在の大阪大学外国語学部)でのスワヒリ語教育の基盤を築いたサイド・モハメド氏、女性の国家リーダー育成を目標として故岩男寿美子慶応義塾大学教授とともに「さくら女子中学校」を創設して運営に携わっているフリーダ・トミト女史がめでたく外務大臣表彰を受賞されました。そして本年は日本側で初めて、山崎俊先生を代表として中部地方の眼科医で構成される「日タンザニア眼科医療支援チーム」が、10年以上に亘る国立ムヒンビリ病院への白内障手術等の実地訪問支援により受賞されました。そして、このチームをタンザニアと仲介するなど、退官後も日タンザニア関係の発展に貢献したムタンゴ元駐日タンザニア大使が、本年秋の叙勲において旭日重光章を受章されました。

(写真)キリマンジャロの麓、ロアモシにおけるコメ作り支援プロジェクト

 このように長年の官民の交流により人と人の繋がりの裾野が広がってきましたが、近年では開発協力よりも民間投資に重点が移りつつあり、新たな課題も浮上してきました。外交の局面ではTICADのたびに日本側のアフリカへの投資促進が謳われ、タンザニア側も日本からの投資促進を要望するものの、実際の実務のレベルにおいては歳入庁は先にご紹介した大型プロジェクト等を賄う財源確保の面から外国企業への課税強化を図っており、多くの国との間で紛争を招来していますし、ビジネス環境の向上についても進出企業の不満が提起されています。財務省・金融庁で金融や税務行政の経験を持つ私から見て、タンザニアでは社会主義を信奉していたこともあり欧米ビジネスルールや慣行の理解が十分とは言えない状況であることを実感しました。

 このため産業界におけるタンザニア人の人材育成が急務ですが、インド系社会の存在を無視し得ません。特に流通や金融などの分野においては存在感が大きく、タンザニアに関心をもつ日系企業の方々にも重要なビジネス提携相手であるとお伝えしてきました。例えば金融面での政府顧問をシンガポールなどでビジネス経験を積んだ大手民間銀行のインド系会長が務めるなど、彼らは政治から慎重に距離を置きつつ営々とビジネス基盤を築いてきています。今でも歴史的に交易が盛んであったインド西端グジャラート州との関係が深く、毎年のように親善を目的したインド海軍の艦隊がダルエスサラームを訪れています。インド系の方々と話していると、「タンザニアがグローバルに発展したいならスワヒリ語ではなく英語を国語とするべきであろう」との意見もありました。国家形成の過程にある途上国にとって、欧米から自立した国家アイデンティティーの確立と経済発展との両立は容易なものではないと実感しました。

 こうした状況においても欧米企業は先端的なデジタル分野やIT面で既に積極的に進出を図っていますし、日本が得意としてきたインフラ建設等では韓国やトルコといった強力なライバルが出現しています。日本としては短期的な利益に走らず、じっくりとアフリカ諸国それぞれの実情を官民協力の下で研究調査した上で、限られたリソースを効率的効果的に活用すべく自らの比較優位をよく見極めて、中長期的な戦略をもって粘り強く関係を深めていくアプローチが重要でしょう。横浜で開催されたTICAD7に続き、先の安倍元総理の国葬にマジャリワ首相が来日し、岸田総理との会談において経済関係の一層の発展を含め幅広い意見交換が行われたと伺っています。

(写真)タンザニア南部の東西幹線道路延伸区の建設プロジェクトの完成式典。
JICAタンザニア事務所の山村所長とアフリカ開発銀行のムビル代表と。

 因みにいよいよ大阪関西万博の準備が本格化していますが、新型コロナ禍の中で亡くなったマヒガ外務大臣は、来日して大阪の開催予定地を視察した際に、「1970年の大阪万博当時、自分はそれを記念した全国児童作文コンクールで入選し、賞品のミシンを母親に贈ったら大いに喜ばれたものです」とのエピードを披露。また現役の女性閣僚ムラムラ外務大臣も、私が次回万博への参加をお勧めした際に「大阪万博と言えば、当時「万博へ行こう」という歌がタンザニアで大流行しました」として懐かしそうにメロディーを口ずさんでくれました。「人類の進歩と調和」のテーマの下、奇跡の戦後復興を遂げ高度成長を実現していた東洋の国で開催された万博が、アフリカの人々にもいかに大きなインパクトを与えていたかを実感し、大いに感激しました。世界秩序が揺らぐ中で開催される次回の大阪関西万博の意義は大きく、その成功が期待されるところです。

(写真)大阪万博時にタンザニアで大流行した「万博に行こう」を歌ってくれたムラムラ外務大臣と。

―大使として在任中、特に力を入れて取り組まれたことは何ですか。

 TICADと東京オリンピックパラリンピックが赴任当時予定されており、その広報活動に注力しました。2019年8月のTICAD7の直前にはダルエスサラーム以外の地方も含めて日本が実施している開発協力の主要現場をいくつか同行する形で新聞・テレビ局のスタッフに紹介し、地元スワヒリ語放送局であるチャンネル10において特別番組としてゴールデンアワーに何度も放映してもらい、かなりの手ごたえを感じました。ケニアと異なり、国語がスワヒリ語なので、一般国民、特に将来を担う若者に向けて日本から紹介する各種コンテンツの制作に予算を確保して、先行する中国や韓国に倣ってスワヒリ語で対応する必要性を強く感じました。先に紹介しました通り、既に東アフリカ地域で数億人に及ぶ普及をみており、さらにSADCの公用語に採用されたことから益々言語人口の増加が見込まれます。

 オリンピックについても、タンザニア側のスポーツ関係当局や団体を直接訪問して実情を大使館HPで紹介しました。大手企業がスポンサーにつく隣国ケニアとは異なり、運動用具の調達や指導員の確保はおろか予選となる全国大会の開催すら困難であるという深刻な財源難に悩む五輪委員会の窮状を知り、わずかばかりの金額ですが在留邦人のご婦人方や企業が募った寄付金をお届けしました。その一方で、帰国のたびにタンザニア選手を迎えるホストタウンに名乗り出てくれた山形県長井市を吉田前大使に続いて訪問し、準備状況を確認しつつ広報に努めました。元JICA職員と結婚したタンザニア人女性のご子息である鈴木政輝さんを職員に持ち、タンザニアの選手をも招いて毎年マラソン大会を主催している長井市は、内谷重治市長のリーダーシップの下で大変精力的に対応して頂きました。しかし最終的にタンザニアからの出場種目が男女マラソンのみとなり、その会場が暑さを避けた札幌となったため、残念なことに選手団が同市を訪問する機会が失われてしまいました。それでも本番ではパブリックビューを実施して市民が声援したそうで、ベテランのアルフォンス・シンブ選手が、最後に大迫傑選手に抜かれたものの男子で7位に入賞する健闘をみせました。そしてパラリンピックにも男女一名ずつ陸上選手が投擲競技に参加しました。

 スポーツ交流について強い印象をもったのは、それを支える多くの個人による地道な支援努力です。例えば柔道については、タンザニア特有の色鮮やかな動物絵画であるティンガティンガなどの日本での販売事業を手掛けるザンジバル在住の島岡強・由美子ご夫妻が私財を投じて道場をいくつも建設し、有力若手選手の日本へのスポーツ留学も支援しています。野球・ソフトボールについても、同ご夫妻のほか、北大阪ロータリークラブの鴻池一季氏や吉川健之氏ら、アフリカでの普及に熱心に取り組んでいる元JICA職員の友成晋也氏らにより「タンザニア甲子園」プロジェクトが実現し、ダルエスサラーム市内のアザニア中学校のグランドを整備して毎年全国大会が開催され、新型コロナ禍にもめげず年々発展をみせています。さらに有力種目のマラソンについても交流が活発で、私の任期中にシドニー五輪金メダリストでJICAのオフィシャルサポーターでもある高橋尚子選手がアルーシャでの若手選手の指導のために来訪してくれました。タンザニア側では、陸上競技連盟幹部でかつて瀬古利彦選手と競った往年の名選手ジュマ・イカンガー氏が初の女子陸上競技大会「レディーズ ファースト」を開催するなど、JICAの広報大使として活躍し、長井市マラソン大会にもたびたび来日しています。

(写真)2018年12月に完成したアザニア中学校野球グランドでの全国野球ソフトボール大会、タンザニア甲子園の開会式。来賓にスポーツ担当のムワキエンベ大臣(当時、黒いソフト帽にスーツ姿)。

―在外勤務を通じて強く感じられたことはありますか。

 アフリカ勤務というと、多くの日本人からタンザニアにおける中国の一帯一路の状況はいかがですかとよく聞かれます。私もこの点に強い関心をもって現地に向かいましたが、実情は一言で割り切れない複雑なものとの印象を持ちました。むろん中国とタンザニアの関係は、先に触れた通り、独立以来非同盟諸国グループとして緊密な関係にあります。例えば60年代に隣国ザンビアとの鉄道(いわゆるタンザン鉄道)の敷設においても中国からツルハシや大勢の肉体労働者が送り込まれて多くの犠牲を払いながら敢行した事実があり、いまでも毎年夏に合同慰霊祭は執り行われて友好のシンボルとなっています。また与党革命党は中国共産党と政治協約を結んで提携関係にあります。インフラ整備以外にも医療面では無償サービスを提供する病院船がたびたび寄港し、タンザニアの一般市民から感謝されていますし、最近ではダルエスサラーム大学に国際会議場併設の巨大な超デラックス図書館を建設。北京出身の中国大使をして「中国でも見たこともない立派なもの」と言わしめました。こうした背景を持って、インド洋と内陸国を結ぶ標準軌鉄道(SGR)の敷設やダルエスサラームとムトワラでの港湾拡張工事が、一帯一路のプロジェクトの一環とみなされて進行中です。

 ただし、その一方で中国一辺倒かというと必ずしもそうと言えないようです。その例として、キクウェテ政権が中国及びオマーンと合意した大規模なバガモヨ港経済特区建設プロジェクトについて、後続のマグフリ政権が引継ぎ作業で精査した結果、完成後に中国が同港の運営管理権を掌握するとの密約があることが明らかになったとされました。マグフリ大統領は「こんな契約は酔っ払いしか署名しない」と強く非難し、同プロジェクトは凍結されて現在に至っています。隣国ザンビアやマラウィが抱える中国との債務返済問題に関するリスクなどを現在ではタンザニア側も理解し、個別事業ごとに警戒しながら対応している姿が伺えます。キクウェテ元大統領との距離が近いとされるサミア・ハッサン政権において同プロジェクトが再び動き出すかどうかに日本企業を含めた注目が集まっています。