【資料】欧州各地にある幕末・明治初期日本人の墓について


元駐シンガポール大使 竹内春久

はじめに

 黒船来航以来、幕末から明治初期にかけて、多くの日本人が海外に渡った。その内訳は、幕府、雄藩、明治政府から派遣された使節団の構成員、公私の留学生、海外で興行した軽業師・曲芸師など多彩である。これらの人々の中には海外渡航中に亡くなり、異国の土となった人々も少なくない。
 本稿では、これまでの先行研究に依拠して、欧州各地にある幕末から明治20年前後までの日本人の墓を概観する。墓の所在地を示すことを主眼とし、各人に関する記述は最小限にとどめ、詳細は文末の引用文献に委ねることとした。
 この時代、日本から欧州への旅路は、大別してインド洋を経由するものとアメリカ大陸を経由するものがあった。前者は、マラッカ海峡を通過してインド洋に進み、さらにスエズから地中海に入り、欧州に至るもので、途中複数の港に寄港し、所要日数は約2か月、喜望峰経由で欧州に至る場合はさらに日数を要した。1869年にスエズ運河が開通する前は、スエズでいったん上陸し、火輪車、すなわち汽車でカイロ、アレクサンドリアに至った。後者は太平洋からアメリカ大陸に渡り大陸を横断し、大西洋から欧州に至るものであった。米国で最初の大陸横断鉄道が開通したのは1869年である。それ以前は西海岸からパナマに至り1855年に開通したパナマ地峡鉄道によりカリブ海側に出て東海岸に至った。
 当時の旅は多くの困難を伴った。「遠海の船中水火の苦しみ、生涯忘れ難し」、とは1862-63(文久元-2)年の文久遣欧使節に組頭として随行した柴田剛中の述懐である。厳しい航海の中で体調を崩す者もいた。1866(慶応2)年、英国に渡航した中井弘はその日記に、カルカッタから乗船した英国人乗客が地中海を航行中に病死し、水葬されたことを記録している。中井は長い航海の末に無事英国に上陸した喜びと安堵を、「実に万里の波濤を凌ぎ大西洋外に来り、一身無事、謹て東方を拝謝し天地の大恩を感喜す。温暖の布団上に夢を結べり。」と書き残している。
 困難に満ちた長旅の末ようやく到着した欧州であったが、慣れない生活環境と格闘し、西欧文明の圧倒的な存在感にプレッシャーを感じる中で、健康を害する者が出てきたとしても何ら不思議ではない。欧州の衛生環境、医療水準も今日と比べれば劣悪であった。当時の死の病は結核である。本稿で取り上げる人々も、その多くが肺病で落命している。
 以下、墓が所在する国別に見る。なお、各人の死亡時の年齢については資料により異同があり、確定できないことがままある。本稿では各人の概ねの年齢を示す趣旨で記述する。

1 フランス

【横山敬一】
 1864(元治元)年、外国奉行支配定役横山敬一は、池田筑後守長発を正使とする第二回幕府遣欧使節の一員としてフランスに向かう途次、黄熱病にかかり、マルセイユ到着後、同地で没した。38歳。横山の墓はマルセイユ市サン・ピエール墓地にある。
 横山は江戸の生まれ。長崎奉行支配定役、外国奉行支配定役を務めた。
 横山の墓は、幕末期、欧州で亡くなった日本人の墓としては最も古いものであると思われる。横山の死は、同年5月21日付 Le Monde Illustré紙にイラスト入りで報じられている(※本文末尾参照)。
【藤井万蔵】
 1865(慶応元)年、柴田日向守剛中家来藤井万蔵はパリで病没し、同地に埋葬された。33歳。墓所は明らかになっていない。藤井は伊勢出身、同年、製鉄所建設及び軍制調査のためフランスに派遣された柴田に従い渡航した。
 『続通信全覧』の記述から、藤井は訪仏中に発病し、柴田一行の帰国後もそのままフランスに残って療養していたものと推察される。
【野中元右衛門】
 1867(慶応3)年、佐賀藩の商人野中元右衛門はパリで病没し、ペール・ラシェーズ墓地に葬られた。55歳。野中は、同年、パリで開催された第2回万国博覧会に参加するためフランスに渡った佐賀藩派遣団の一員であったが、パリに到着した直後に病を得て死去した。
【兵部省派遣留学生】
 明治に入り、1870(明治3)年、兵部省はフランスに10名の留学生を派遣した。一行は、1871年1月(明治3年11月)、マルセイユに到着した。当時、フランスは晋仏戦争のさなかであった。
 これら留学生のうち、4名がフランスで没している。以下、没年、死亡地、墓所、出身藩を示す。
  前田壮馬  1871(明治4)年  マルセイユ、サン・ピエール墓地、高知藩
  戸次正三郎 1872(明治5)年  フォンテンブロー、フォンテンブロー共同墓地、柳川藩
  楢崎頼三  1875(明治8)年  パリ、モンパルナス墓地、山口藩
  野村小三郎 1876(明治9)年  アメリーレバン、アメリーレバン共同墓地、岡山藩
【司法省派遣留学生】
 1875(明治8)年、司法省は7名の留学生をフランスに派遣した。
 この内、岡村誠一(犬上県士族)が1876(明治9)年に、また、関口豊(磐前県士族)が1877(明治10)年にパリで死亡した。両名の墓所は明らかになっていない。
【入江文郎】
 1878(明治11)年、幕末明治初期のフランス語学者入江文郎はパリで病死し、モンパルナス墓地に埋葬された。45歳。
 入江は松江藩出身、幕府の蕃書調所教授方、開成所教授などを務めた。次いで明治政府に出仕し、1871(明治4)年に渡仏。1873(明治6)年、日本人フランス留学生総代となった。
【京都府派遣留学生】
 1877(明治10)年、京都府は8名の留学生をフランスに派遣した。一行は京都仏学校のフランス語教師レオン・デュリー(のちにマルセイユの日本名誉領事)が帰国する機会にデュリーに引率され渡仏した。この内、2名がフランスで死亡している。
 横田重一は1879(明治12)年にランベスクで病死した。18歳。横田は図案を学ぶために渡仏し、マルセイユのサンシャ―ル(注:Saint Charlesか)学校に学んだ。横田の墓所は明らかになっていない。
 歌原十三郎は、1882(明治15)年、サンテティエンヌで肺病のため死亡しサンテティエンヌ市営墓地に葬られた。24歳。歌原はサンテティエンヌの国立鉱業学校で採鉱冶金を学んだ。ランベスクにあるデュリー家の墓所には「サンテティエンヌで逝った十三郎の魂 ここに眠る」と刻まれたプレートがある。
【鮫島尚信】
 1880(明治13)年、駐仏特命全権公使鮫島尚信(1845-1880)は肺病のためパリで死去し、モンパルナス墓地に葬られた。
 鮫島は、幕末に薩摩藩から英国に派遣された留学生の一人で、英国から米国に渡った後、1868(明治元)年に帰国し、明治新政府に出仕した。1878(明治11)年に駐仏公使として着任、在職中に死去した。
【栗本貞次郎】
 1881(明治14)年、栗本貞次郎はパリで死去した。33歳。墓所は明らかになっていない。
 栗本は江戸出身、栗本鋤雲の養子。幕府に出仕し、横浜仏語伝習所、開成所頭取などを経て1867(慶応3)年、幕府留学生として渡仏した。1870(明治3)年、再渡仏。1873(明治6)年には岩倉遣外使節団に随行し、帰国後大使事務局に出仕した。その後、三度フランスに渡航した。
 共著に『始学日本安文』(仏文、パリ刊)、訳書に『佛國民法解釈』第三篇第一巻、第二巻。また、ボアソナードの講義を栗本が口訳した『刑法草案講義筆記』がある。
【林研海】
 1882(明治15)年、陸軍軍医総監林研海は、ロシアのアレクサンドル3世の戴冠式に列席した有栖川宮熾仁親王に随行して訪欧、ロシアからイタリアを経てパリに至ったところで腎臓炎を発病、死亡した。39歳。林の墓はモンパルナス墓地にある。
 林は、江戸の生まれ。1862(文久2)年、幕府がオランダに派遣した榎本釜次郎ら15名の留学生の一人で、医学を学んだ。1871(明治4)年、明治政府に出仕、軍医となった。
【福島虎次郎】
 1886(明治19)年、海軍大尉福島虎次郎(海兵二期、死後少佐に特進)はルアーブルにおいて赤痢のために病死し、同市サン・マリ墓地に埋葬された。35歳。
 福島は佐賀の人。帝国海軍がフランスに発注した戦艦畝傍引き取りの責任者として1886(明治19)年に渡仏したが、畝傍の就役(同年10月)を見届けることなく、6月30日に亡くなった。
 戦艦畝傍は日本回航の途次、同年12月にシンガポールを出港した後、行方不明となった。
【池尻富興】
 1888(明治21)年、フランスに留学中、パリで死去した。墓所は明らかになっていない。
【横井佐久】
 1889(明治22)年、海軍大技士横井佐久はパリで死亡した。28歳。横井は海軍から派遣された留学生で、造船学を学んだ。墓所は明らかになっていない。

2 ドイツ

【トラキチ】
 1873(明治6)年3月19日、ベルリンで曲芸師トラキチが埋葬されたとの記述がペーター・パンツアー・ボン大学名誉教授の著作にある。折しも岩倉遣外使節団がベルリンに滞在中のことであった。トラキチについては、ベルリンに至った経緯、墓所の所在を含め明らかになっていない。
【袋久平】
 1873(明治6)年、袋久平は、ベルリンに留学中肺病を患い、帰国の途次、ロンドンで死亡した。24歳。墓所はロンドン郊外ブルックウッド墓地にある(英国の項参照)。
 袋は佐賀藩出身、1871(明治4)年、ドイツに渡り大学入学を目前にして発病した。
【益満行靖】
 1878(明治11)年、陸軍中佐益満行靖はフリードリヒローダーで肺病により病死し、フリードリヒローダー市営墓地に埋葬された。32歳。
 益満は、鹿児島の生まれ。戊辰戦争に参加した後、陸軍省から兵事(参謀学)取調のためドイツに派遣されたが、帰国直前に死亡した。
 益満の墓は、2002年、墓地の改修工事が行われた際、地元住民の墓の棺桶の下からさらに別の棺桶が発見され、それが益満のものであることが判明した。
【奥青輔】
 1887(明治20)年、農商務省の奥青輔はベルリンで死亡した。42歳。奥の墓所は明らかになっていない。
 奥は鹿児島の人。農商務省初代水産局長を務め、漁業法制の整備に功があった。奥は、1886(明治19)年から谷干城農商務大臣の欧米視察に同行していた。

3 オーストリア

【福田嘉太郎】
 1873(明治6)年、肥前国諫早出身の福田嘉太郎は肺結核のためウィーンで死去し、ヴェーリンガー共同墓地に埋葬された。22歳。
 福田は経済学を修めるためベルリンに学び、次いでウィーンに移り高等工業高校に学んだ。
 ヴェーリンガー共同墓地は1874年に閉鎖され、1923年には公園に改造された。このため、福田の墓は失われた。

4 イタリア

【緒方惟直】
 1878(明治11)年、緒方惟直は壊血病のためヴェネツィアで死亡した。25歳。緒方の墓はサン・ミケーレ島市民墓地カトリック地区にある。墓は壁形になっており、緒方のレリーフがはめ込まれている。
 緒方は緒方洪庵の5男で大阪生まれ。横浜仏語伝習所を経て1867(慶応3)年、幕府の遣仏留学生として渡仏。帰国後、陸軍兵学寮で教師を務めた。1873(明治6)年ウィーン万国博覧会に政府事務官として再度渡欧。1875(明治8)年、三度渡欧し、トリノで学んだあと、ヴェネツィア商業高等学校日本語教授となった。
【河瀬太郎、二郎、タエ】【山田貢一郎】
 ローマの「ローマ非カトリック信徒墓地」に、1874(明治7)年から1876(明治9)年にかけて駐イタリア特命全権公使河瀬真孝(1840-1919)夫妻の間に生まれたが、いずれも生後間もなく死亡した3名の幼子、太郎、二郎、タエの墓と、1883(明治16)年に死亡した山田貢一郎の墓がある。山田は、駐イタリア特命全権公使浅野長勲の従者として1882(明治15)年にイタリアに赴任したが、その半年後に亡くなっている。33歳。
【森雅守】
 1884(明治27)年、陸軍砲兵少佐森雅守は、エルバ島ポルトフェライオで死亡した。37歳。森の墓は「エルバ島共同墓地」(注:ポルトフェライオのCimitero Comunaleのことか)にある。
 森は会津藩出身。陸軍に入り、1881(明治14)年、フランスに留学、帰国後は東京砲兵工廠検査官を務めるなどした。1883(明治26)年、イタリアに留学していた。

5 オランダ

【大河喜太郎】

 1865(慶応元)年、江戸出身の鍛冶師、軍艦器械方職人大河喜太郎はアムステルダムで病死した。33歳。大河の墓は、アムステルダムのDe Nieuwe Ooster墓地にある。
1862(文久2)年、幕府はオランダに榎本釜二郎、林研海ら15名の留学生を派遣した。大河は、そのうちの一人で、鍛工習得を目的としていた。
【桜田親義】
 1885(明治18)年、在オランダ日本公使館書記官桜田親義はハーグで死亡した。桜田の墓はハーグのKerkhoflaan墓地にある。
 桜田は外務省に出仕、1877(明治10)年から在イタリア公使館に勤務した後、1881(明治14)年、ハーグの日本公使館に転勤した。

6 英国

 英国各地にある幕末、明治初期の日本人の墓として確認されているものは以下の通りである。ここでは、地域ごと、墓地ごとに、氏名、没年、死亡時の年令、出身地(藩)などを記した。
【ロンドン地域】
(1)Brookwood墓地(Surrey州Woking所在)
 (39区:plot 39)
  山崎小三郎  1866(慶応2)年、22歳、長州藩
  有福次郎   1868(慶応4)年、22歳、徳山藩士
  福岡守人   1873(明治6)年、21歳、土佐藩
  袋久平    1873(明治6)年、24歳、佐賀県多久
 (107区:plot 107)
  松井菊治郎  1868(慶応4)年、33歳、江戸、帝国日本人一座コマ回し師
(2)Kensal Green墓地(ロンドン市内)
  柏木門三   1877(明治10)年、18歳、豊前国
  鈴木敬作   1887(明治20)年、35歳、江戸、大蔵省
(3)Brompton墓地(ロンドン市内)
  稲見鹿之助  1885(明治18)年、22歳、版木師、ロンドン日本人村で焼死
  淺野長道   1886(明治19)年、21歳、広島藩
【北東イングランド】
(4) Bishopwearmouth墓地(Sunderland市所在)
  ‘Little Godie’ 1873(明治6)年、15ヶ月、欧州巡回曲芸団関係者の幼子
(5)Darlington West墓地(Darlington市所在)
  深尾貝作   1873(明治6)年、18歳、高知県士族、溺死
(6)Elswick墓地(Newcastle市所在)
  岩本勝之助  1877(明治10)年、20歳、山口県士族
  深町多計三  1886(明治19)年、29歳、海軍中主計、公務事故死
  大内末吉   1893(明治26)年、不詳、海軍主計
  山崎勝次郎  1899(明治32)年、不詳、海軍主計(paymaster)
  伊東長太郎  1906(明治39)年、39歳、海軍技手
【石神豊胤】【野口貞次郎】
 このほか、1878(明治11)年に石神豊胤が、1884(明治17)年に野口貞次郎が英国で客死しているがその墓所は明らかになっていない。
 石神は鹿児島の人。海軍省に出仕し軍医となった。1873(明治6)年、職を辞しエジンバラで医学と兵学を学んだが、病を得て、日本への帰路、ロンドンで死亡した。26歳。
 野口は石川の人。海軍に入り、1884(明治17)年、中尉となる。同年、海軍軍事研修のため英国に派遣されたが、ポーツマスで病死した。30歳。

7 アデン

【上野武利太】
 1879(明治12)年、駐英特命全権公使上野景範(1845-1888)が英国から帰国する途中、生後半年の三男武利太がアデンで病死、同地に埋葬された。墓所は明らかになっていない。
【林譲作】
 1891(明治24)年、海軍大尉軍人林譲作はツーロンから回航中の軍艦厳島船上で腸チフスを発病し、寄港したアデンで死亡した。36歳。墓所は明らかになっていない。
 林は厳島の水雷長であった。

8 香港

【湯川温作】
 1878(明治11)年、陸軍少尉湯川温作は、フランス留学中に病を得て帰国する途中、香港で死亡し、香港墳場(Hong Kong Cemetery)に埋葬された。湯川は、山口の出身。1872(明治5)年、陸軍省からフランスに派遣されていた。
【桐野俊邦】
 1888(明治21)年、海軍少技監桐野俊邦は英仏出張から帰国する船で発病し、香港で死亡した。44歳。墓所は明らかになっていない。

おわりに

 本稿で言及した墓については、これまで日欧双方の幾多の人々がその再発見、保存、顕彰に尽力してきた。ただ、本稿で触れた人々の中には、墓の所在が未だ明らかになっていないものがある。福田嘉太郎の墓のようにすでに失われてしまったものもある。また、本稿で取り上げた人々以外にも欧州各地に眠る幕末・明治初期の日本人がいるかもしれない。今後の調査研究に期待したい。
 本稿執筆に当たってはできる限り正確を期すことに努めたが、なお誤りや見過ごした点があるものと思われる。大方のご叱正ご指導を頂ければ幸いである。

(写真)Le Monde Illustré紙記事、横浜開港資料館所蔵
(写真)河瀬太郎の墓、林要一氏撮影
(写真)松井菊治郎の墓、筆者撮影

〔引用文献〕
・大植四郎編『明治過去帳-物故人名辞典』、東京美術、1971年
・手塚晃・石島利男編『幕末明治海外渡航者人物情報事典』(CD-ROM)、雄松堂、2003年
・冨田仁編『新訂増補 海を越えた日本人名事典』、内外アソシエーツ、2005年
・「アジ歴 地名・人名・出来事事典」、www.jacar.go.jp
はじめに
・芳賀徹『大君の使節 幕末日本人の西欧体験』、中公新書、1968年
・中井弘『西洋紀行 航海新説』、『明治文化全集』第17巻(外国文化篇)所収
フランス
(横山敬一)
・在マルセイユ日本国総領事館ホームページ、「マルセイユに眠る先人たち」
https://www.marseille.fr.emb-japan.go.jp/itpr_ja/ohaka.html
・『続通信全覧』類輯之部慶弔門凶門、「横山敬一於佛國死去一件」
・Le Monde Illustré, 21 Mai 1864
・宮永孝「マルセイユに眠る幕臣 横山敬一」、『法政史学』37巻pp49-54
(藤井万蔵)
・『続通信全覧』類輯之部慶弔門凶門、「柴田日向守家来佛國ニ於テ病死一件」
(野中元右衛門)
・2017年1月3日付毎日新聞佐賀地方版「パリ万博150年/1 野中元右衛門 死を覚悟の渡仏」
・2017年6月26日付佐賀新聞「野中元右衛門、パリで慰霊祭」
・パリ日本文化会館ホームページ
https://www.mcjp.fr/ja/accueil/focus-en-une/les-samourais-du-monde-moderne?timeline-month=2
(兵部省派遣留学生)
・前掲在マルセイユ総領事館ホームページ
・『日仏交流黎明期の解明:大阪兵学寮第一期留学生とフランス語教師シャルル・ビュランの足跡と業績』、明治大阪兵學寮佛國留学生史研究会編、2006年
・明治大阪兵學寮佛國留学生史研究会編「フランスに点在する日本人の墓」
https://web.archive.org/web/20090403185122/http://www.geocities.jp/silkroadforest1212/
・田中隆二「フランスに眠る明治初年日本人留学生」、2003年4月8日付中国新聞
・「明治に渡仏 18歳客死 同郷留学生の墓守れ 柳川出身・戸次親任」2003年7月3日付西日本新聞
・小川三枝「所管雑感:南仏にある前田壮馬の墓」、2003年7月23日付高知新聞
・L’Indépendant, 19 Avril, 2003
(司法省派遣留学生)
・前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』、内外アソシエーツ、2005年
・村上一博「パリ留学時代の栗塚省吾」、越前市立図書館ウェブサイト
http://lib-city-echizen.jp/biblio/kurizuka/doc/kurizuka_paris.pdf
(入江文郎)
・田中隆二「明治初年日本人フランス留学生総代(松江出身) 博士 入江文郎―事業と資料―」、『山陰地域研究』第12号、1996年、第13号、1997年
(京都府派遣留学生)
・田村喜子『京都フランス物語』、新潮社、1984年
(鮫島尚信)
・犬塚孝明『日本青春外交官 国際交渉から見た明治の国づくり』、NHKブックス、2006年
・犬塚孝明『明治外交官物語 鹿鳴館の時代』、吉川弘文館、2009年
(栗本貞次郎)
・前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』
・前掲「アジ歴 地名・人名・出来事事典」
(林研海)
・宮永孝『幕末オランダ留学生の研究』、日本経済評論社、2003年
・望月洋子「林洞海 林研海 父と子の理念」、日本医学雑誌第49巻4号、2003年
(福島虎次郎)
・前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』
・『原敬日記』第1巻官界言論人、福村出版、1965年、p92、明治19年6月30日及び7月2日の項
(池尻富興)(横井佐久)
・前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』
ドイツ
(トラキチ)
・Peter Pantzer, “Die Iwakura-Mission. Das Logbuch des Kume Kunitake über den Besuch der japanischen Sondergesandtschaft in Deutschland, Österreich und der Schweiz im Jahre 1873”, Iudicium Verlag, 2002, 504p
(益満行靖)
・前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』
・フリードリッヒローダ・ウェブサイト
https://www.friedrichroda.info/buerger/unsere-stadt/persoenlichkeiten.html
(奥青輔)
・前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』
オーストリア
・ペーター・パンザー/ユリア・クレイサ『ウィーンの日本 欧州に根づく異文化の軌跡』、サイマル出版会、1990年、pp109-110
イタリア
(緒方惟直)
・冨田仁・西堀昭『日本とフランス 出会いと交流』、三修社、1979年、pp101-103
・石井元章『明治期のイタリア留学 文化受容と語学習得』、吉川弘文館、2017年
(河瀬太郎、二郎、タエ、山田貢一郎)
・林要一「古代ローマ遺跡の傍らに眠る四人の日本人」、霞関会ホームページ
https://www.kasumigasekikai.or.jp/15-07-31/
(森雅守)
・「森少佐死亡証書の件」、アジア歴史資料センター Ref.C03030859800
・Gazzetta Ufficiale del Regno d’Italia, 21 Maggio, 1884, 25 Maggio 1884
・前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』
オランダ
(大河喜太郎)
・『続通信全覧』類輯之部慶弔門凶門、「大河喜太郎蘭國ニ於テ死亡ノ件」
・宮永前掲書
・在オランダ日本国大使館ホームページ、「幕末のオランダ留学生の鍛冶師大川喜太郎の墓碑銘除幕式」
https://www.nl.emb-japan.go.jp/j/culture/okawa_kitaro.html
(桜田親義)
・前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』
・「在蘭公使館故桜田書記官墓地保存方ノ件」、アジア歴史資料センター Ref.B04121152100
・桜田の墓の写真は以下に紹介されている。
Netherlands(img_01).jpg
英国
・竹内春久「英国にある幕末・明治初期日本人の墓―日英交流史の一側面」、『外交史料館年報』第22号、2008年
・古賀節子『英国留学生の道標 維新四藩士がつないだ日英交流』、中央公論事業出版、2015年
・犬塚孝明『アレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン伝』、海鳥社、2015年
・井上琢智「塾生馬場辰猪、伊賀陽太郎と仲間たちーユニタリアン牧師J・P・ハムを巡ってー」、『福沢諭吉年鑑』46、2019年
・小山騰『ロンドン日本人村を作った男』、藤原書店、2015年
・関口英男「明治初年英国北東部における留学生の活動」、『英学史研究』第28号、1995年
・石神豊胤、野口貞次郎については、前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』
アデン
(上野武利太)
・門田明ほか「『上野景範履歴』翻刻編集」、『鹿児島県立短期大学地域研究所研究年報』(11)、1983年、21p
(林譲作)
・「明治24年12月23日 海軍大尉林譲作死亡届の件」、アジア歴史資料センターRef.C10124969200
香港
(湯川温作)
・香港日本人倶楽部ウェブサイト、「香港日本人墓地管理委員会」の項
http://www.hkjapaneseclub.org/aboutclub/cemetery.html
(桐野俊邦)
・宮岡謙二『異国遍路 旅芸人始末書』、中公文庫、1978年