米国大統領選挙とネタニヤフの戦争
元駐イラン大使 齊藤 貢
ネタニヤフの戦争
昨年10月にガザで始まった中東の紛争は収まるばかりか、ガザからレバノン、さらにイランにまで広がろうとしているが、今回の中東の混乱はネタニヤフ・イスラエル首相の個人的事情が大きく影響している。知人の中東専門家は、「後世、ネタニヤフの戦争と呼ばれるのでは無いか。」と言っていたが、筆者も同感だ。個人的事情というのは、同首相は、首相を辞めると収賄罪で収監される虞があり、それを免れるために危機的状況を続けて首相に居座るしか無いと言うことだ。しかも、米国大統領選挙はネタニヤフ首相と個人的に親しいイスラエル贔屓のトランプ前大統領の勝利に終わり、既に、同首相は、各国要人に先駆けてトランプ新大統領に電話してその親密さをアピールしているが、ネタニヤフ首相がトランプ新大統領の後押しで、ますます、強硬な姿勢を強めて中東の危機的状況が加速するだろう。
昨年10月7日のハマスのイスラエル奇襲により、イスラエル側の一般市民に1200名以上の死者、200名以上の人質が連れ去られたのはかってない事件でありイスラエル側は、人質の奪還、報復のためにガザに侵攻し、1年間でガザの一般市民に4万3千人以上の死者が出るという大惨事となっている。ハマスというのは、パレスチナにイスラム国家樹立を目的とするイスラム原理主義武装組織の事だが、長年、イランが武器や資金面で支援してきた。因みにイランのハマスへの支援というのは、1979年に起きたイランのイスラム革命をなぞらえて、抑圧者(イスラエル)を被抑圧者(パレスチナ人)が武力で倒すための支援を意味する。
どうしてイスラエルは戦うのか
今回、イスラエルが多数の一般市民を巻き込むことを躊躇せずに戦闘を続けているのはイスラエルの建国の理念と深く関わっている。ユダヤ人は、紀元135年にローマ帝国に故郷のパレスチナを追放され、ヨーロッパにも流れたが、キリスト教が支配する中世ヨーロッパでユダヤ人は迫害され、さらに、近代になりヨーロッパで国民国家が広まると、根無し草のユダヤ人はますます肩身が狭くなり、シオニズムと呼ばれる故郷のパレスチナにユダヤ人の国家を作ろうとする運動が生まれた。第2次世界大戦中にナチス・ドイツが600万人のユダヤ人を虐殺するホロコーストが起きるとユダヤ人のパレスチナへの流入は加速して現地のパレスチナ人との衝突が激化し、1948年の第一次中東戦争の結果、パレスチナにイスラエルが建国されたが、同時に70万人のパレスチナ人が難民化(現在ではその子孫が560万人に増えている)し、今度はパレスチナ人の権利回復(パレスチナ国家の樹立と難民の帰還)が大きな問題となった。これがパレスチナ問題である。
この様な歴史的経緯から、イスラエルのユダヤ人は、「イスラエルはユダヤ人が安全に暮らせる国でなければならない。」さらに、ホロコーストの経験から、「国際社会が何と言おうがイスラエルはその存続に必要な事を行う。」という信念を強く持っている。過去、イスラエルが国際法や国際的ルールを破った例は枚挙にいとまが無い。今回、イスラエルが国際法のルールや、国際社会の声に殆ど耳を傾けず、強引な軍事行動を続けるのは昨年10月のハマスの襲撃を彼等が「イスラエル存亡の危機」と思い込んでいることにある。但し、俗にイスラエルをユダヤ人国家と呼ぶが、現実にはユダヤ人は人口の約70%に過ぎない。
しかし、その後、一向に進展しないパレスチナ問題に対して国際社会も徐々に関心を無くし、ここ10年以上、パレスチナ問題は「忘れ去られた紛争」となっていた。他方、1979年にイランでイスラム革命が起きるとそれに刺激されてイスラム原理主義がアラブ世界にも広まり、ガザでもイスラム原理主義武装組織であるハマスが影響力を強めて2007年以来、ガザを支配していた。こうして、昨年10月にハマスがイスラエルを奇襲した時点では、パレスチナ問題は「忘れ去られた紛争」になっていたが、それが再び国際的な重大関心事になったのは、バイデン大統領の再選に向けてのレガシー作りだった。
バイデン大統領のレガシー作り
歴代の米大統領は、任期が終わりに近づくと外交面でのレガシー(成果)作りに励むが、今回、バイデン大統領は、再選を見据えてユダヤ票獲得のためにイスラエルとサウジアラビアの国交樹立にターゲットを絞った。トランプ前政権時代にアブラハム合意(2020年)と呼ばれる、イスラエルとアラブ首長国連邦、バーレーン、モロッコ、スーダンとの国交正常化が行われたが、パレスチナ人に対するアラブ世界の同情は依然として強く、イスラエルとの関係正常化はそれ以上は進んでいなかった。
今回、バイデン政権は、アラブの「盟主」のサウジアラビアが、イスラエルと国交を樹立すれば、他のアラブ諸国も雪崩をうってイスラエルを承認するだろうと考え、昨年7月以降、積極的にイスラエルとサウジアラビアの国交樹立を働き掛けた。昨年9月には、ムハマド・サウジ皇太子はFOXニュースにイスラエルとの国交正常化の可能性について言及し、コーヘン・イスラエル外相も「2024年早々にサウジアラビアとの国交が樹立される。」との見通しを述べ、両国の国交正常化は手の届くところにある様に思われた。
そこに起きたのが10月7日のハマスの奇襲だった。ハマスからすれば、サウジアラビアがイスラエルと国交正常化すれば、ドミノ倒しにアラブ諸国がイスラエルを承認し、そうなればパレスチナ問題はアラブの同胞からも見放されて完全に「終わった紛争」となってしまう。昨年、10月のハマスの奇襲は、イスラエルとサウジアラビアの国交樹立を阻止するためだったのは間違い無い。実際、その後、サウジアラビアの外相は、「パレスチナ国家の樹立無しには、イスラエルとの国交樹立は困難だ。」と発言している。
ハマスの攻撃についてイラン陰謀説も語られるが、イスラエルと長年対立しているイランからすれば、ペルシャ湾の対岸の大国サウジアラビアにまでイスラエルの影響が及ぶ事は容認出来ないと考えてもおかしくない。イランが指示したとは思えないが、イランが背中を押した可能性はあろう。こうして昨年10月のハマスのイスラエル奇襲はイスラエルの油断を突いたが、その損害が甚大だったためにイスラエルのユダヤ人はこれを「ユダヤ国家存亡の危機」と捉え、さらに、汚職問題で辞職の危機にあったネタニヤフ首相も政治生命の延命のためにこの奇襲を利用し、その後、イスラエル軍のガザ侵攻作戦が始まり今に至っている。
当初、バイデン大統領はイスラエルを全面的に支持したが、その後、ガザの一般住民の被害がうなぎ登りに増え、米国内でも多くの学生やユダヤ系米国人の間ですら反イスラエル、パレスチナ支持の声が強まるとバイデン大統領は、トーンを変えざるを得なくなった。そして、ガザの停戦に向けてブリンケン国務長官を10回以上、イスラエルに派遣し、時として武器弾薬を供与の停止をちらつかせてイスラエルに圧力を掛けた。しかし、ネタニヤフ首相は、バイデン大統領がユダヤ票を気にして思い切った圧力を掛けられないと見切り、さらに、ここで停戦が成立すればバイデン大統領の再選を後押ししてしまうので、仲の良いトランプ前大統領の当選を望む同首相は、のらりくらりと対応してバイデン政権を翻弄した。
レバノンに拡大する紛争
ハマスとイスラエルの衝突が始まると、レバノンのシーア派組織ヒズボラがハマスを支援するとの名目でイスラエルに対してロケット弾攻撃を激化させ、その結果、イスラエル国内で6万人の避難民が生じ、イスラエル内政上の大きな問題となった。ヒズボラとは、前回のイスラエルのレバノン侵攻とその後の南部レバノン占領(1982年~2000年)に際して、イランの支援で南レバノンに多いシーア派の間で対イスラエル抵抗運動として結成されたが、今では閣僚や国会議員などを輩出し、単なる武装組織では無くレバノン国内の一大勢力となっている。ここで重要なのはヒズボラがイランのイスラム革命のイデオロギーを受け入れた世界で唯一の組織であり、その存続自体がイランにとって極めて重要で、単なるイランの代理勢力では無い事だ。
今年の春頃からイスラエルがレバノンに侵攻するとの観測が米国のメディアで流れ始めた。これは6万人の国内避難民の問題が政治問題化していた事とイスラエルのガザ侵攻作戦の目処が付いてきた事から自己保身のために危機的状況を続けなければならないネタニヤフ首相としては新たな危機を必要としていたという事情がある。そして、イスラエルは9月17日、ヒズボラの数千台のポケベルと携帯無線機が爆発させてヒズボラの通信網を麻痺させた。なお、この爆発で子供も含めた一般市民にも多数の犠牲が出ており、これは無差別テロに等しい。さらに、同月27日にはヒズボラの指導者ナスラッラー師がイスラエルの空爆で爆殺され、ヒズボラの組織は混乱したが、その最中、10月1日、イスラエルは、「限定的作戦」と称してレバノンに地上侵攻を開始するとともにレバノン全土に激しい空爆を行い、レバノン側に3千人以上の死者が出ていると言われる。現時点ではイスラエル側の一方的なゲームとなっているが、ヒズボラは南レバノンのシーア派に根ざした組織であり、ガザのハマス同様、殲滅は不可能だ。結局、イスラエルは、ヒズボラからのロケット弾攻撃を防ぐために、恐らくイスラエル国境から30キロにあるリタニ川のラインまでの占領を強いられようが、前回同様、多大な人的、財政的な負担を強いられることになる。
イランを挑発するイスラエル
今年4月1日、イスラエル軍機によると思われる空爆でダマスカスのイラン大使館が破壊される事件が起きたが、イランは報復として史上初めてイランが数百発の弾道ミサイルとドローンでイスラエルを直接攻撃した。イスラエルは、イランがイスラエルを破壊しようとしていると確信しており、10年以上、両国の間では、「陰の戦争」と呼ばれる暗闘が続いていたが、両国の衝突が顕在化した事になる。その後も、テヘランでハマスの指導者を暗殺したり、イランにとり極めて重要なヒズボラの指導者を暗殺したりとイスラエル側の挑発は止まらず、10月1日、イランは、再度、イスラエルに対して弾道ミサイル攻撃を行った。この2回のイランの攻撃に対してイスラエルはいずれも限定的な再報復を行ったが、これは米大統領選挙を間近に控えて中東で戦火が拡大する事を恐れたバイデン政権がイスラエルに対して強い圧力を掛けたためだった。
イスラエルは、イランの核開発はイスラエルを核兵器で攻撃するためだと確信していて、核施設の破壊を強く望んでいる。さらに、イスラエルへの脅威と見なすイランのイスラム革命体制自体を崩壊させたいと望んでいるとも思われ、そのためにイランの石油積み出し施設を破壊してイランの外貨収入を絶ち、トランプ前政権時に再開した対イラン経済制裁で弱体化しているイラン経済を崩壊させて、イラン国民の蜂起を促そうとしているのかも知れない。しかし、バイデン政権は、大統領選挙への悪影響を避けるためにイスラエルに対して核施設と石油施設を攻撃しない様、強く圧力を掛けたと言われている。
今年の4月以降、ネタニヤフ首相の率いるイスラエルは、明らかにイランへの挑発を繰り返し、イランとの対決を望んでいるかの様に見える。しかも、レバノン侵攻後の世論調査では、イスラエルのユダヤ人の87%が軍の行動を支持している。勿論、親イスラエルのトランプ新大統領は、選挙中、「イスラエルはイランの核施設を破壊するべきだ。」と述べている様にイスラエルが中東で紛争を拡大するのを止めないだろう。しかし、1年経ってもハマスを殲滅出来ず、レバノンのヒズボラを壊滅させることも不可能であり、いわんやイランが倒れるという保証は全く無い。ネタニヤフ首相は、自己保身のために危険な賭に出ている。なお、イスラエルはイランの核施設攻撃のために米軍の協力を必要としているとの見方があるが、もし、そうならば性格的に武力行使に消極的なトランプ大統領がどう対応するのか興味深い。 (了)