欧州の行方-西山健彦著「欧州の新時代-西欧の復権と日本」を再読する

 
駐ベルギー大使 三上正裕 

はじめに

 筆者は1986年に外務省に入省したが、4月に大塚の研修所で研修を受けた後、5月初旬のG7東京サミットに従事した後で当時の欧亜局西欧第二課に配属された。東京サミットは中曽根総理がホストし、レーガン米国大統領、サッチャー英国首相、ミッテラン・フランス大統領など豪華な顔ぶれが揃っていたし、また、西欧第二課での初の仕事は、英国のチャールズ皇太子とダイアナ妃の公式訪日という華やかな行事であった。1985年3月にソ連でゴルバチョフ共産党書記長が誕生し、ペレストロイカやグラスノスチが時代のキーワードになっていた頃である。局内では、課長や先輩方が、ゴルバチョフの改革が真剣なのか、或いは西側をごまかすためのジェスチャーなのかということを熱く議論していたことを思い出す。

 当時の欧亜局長は後にアルジェリア大使と欧州共同体(EC)代表部大使を務められた西山健彦局長で、同じ局内とはいえ新人にとっては遠い存在であったが、局長が6月号の中央公論に「西欧は復権するか」という論考を発表された。もう40年近く前のことで、詳しい内容については忘れてしまったものの、外務省に入った直後の高揚感の中でわくわくしながら読んだことはよく覚えている。本省での1年間の研修と英国での2年間の留学研修の後の初任地はエジプトで、湾岸危機・戦争などを経験したが、1991年夏に帰国した頃、当時EC大使を務められていた西山大使の悲報に接した。まだ50代の早すぎるご逝去であった。その後、筆者の海外勤務は米国、タイ、中国、カンボジアとアジア太平洋地域が多く、直接欧州を観察する機会には恵まれなかったが、2年前にベルギー兼北大西洋条約機構(NATO)代表部大使を命じられ、現在、初めての欧州の在外公館勤務を経験している。このうち、NATO代表部大使については本年1月に新大使を迎えて代表部が独立したため、今年はベルギーや欧州そのものについてもう少し勉強を深めようと思い、かつての同僚でもある杉浦雅俊西欧課長に頼んで、西山大使の遺稿を集めて出版された「欧州の新時代―西欧の復権と日本」(1992年8月、サイマル出版会)を古本で入手して送ってもらった。収められている論考のほとんどは1980年代に書かれたもので、かつての「新時代」も約40年を経て歴史の一部となっている。本日この本を紐解く人はほとんどいないだろうが、歴史の後知恵をもって西山大使の本を読むのは大変刺激的であった。本稿ではその感想を紹介したい。

当時の欧州情勢

 1980年代の欧州は好調だった日本とは対照的に経済の停滞に喘ぎ、ユーロペシミズムが語られていた。そして、日本との関係では日本企業の競争力が強すぎ貿易不均衡が大きな問題になっていた。西山大使は最後の原稿になったと思われる「統合ECと日本」(『世界経済評論』1991年9月号)の中で、「ソ連の将来にあまり明るい展望を持っていない」と書き、「そうだとすれば、ソ連から起こるさまざまな問題を協議するのには、もちろんアメリカも重要ですが、経験、地理的な関係からいって西欧が第一に必要であり、大切なので、西欧との政治協議を組織的に強化することが日本にとってどうしても必要」なので、「政治的に復権したECとの協力関係をぜひ強化したい、しかし、経済問題がその足を引っ張っている、という状況をなんとかしなければいけないと思うのですが、これがどうにもならないほど難しい」と述べている。

 このような弱い欧州の起死回生策が欧州統合の推進であった。そして、その中核事業が単一市場から単一通貨へと進む経済統合であり、これに西山大使は大きな期待を寄せていたが、まだ十分に視野に入ってきていなかったのは、ソ連崩壊を含む冷戦構造の終了や中東欧やバルト諸国の欧州への統合の巨大な影響であった。これは、最後の原稿が東西ドイツの統一から一年もたっておらず、ソ連崩壊の前に書かれたことを考えると無理からぬことである。また、この頃は日本経済のバブルが弾ける前後であったが日本経済はまだまだ強く、西山大使はまさかこれが「失われた30年」ともいわれる日本経済大停滞の入り口になるなどとは夢にも思わなかったことであろう。

冷戦終了後の展開

 西山大使ご逝去は東西冷戦終了の時期とほぼ同じであったが、その後の歴史の展開は、当初、西欧の復権にとって追い風になった。西欧が戦後ずっと対峙してきたソ連の崩壊は中東欧諸国や旧ソ連諸国の自由化に繋がり、それら諸国のEU加盟は欧州統合プロジェクトに大きな弾みを与えた。そして、共産主義の敗北とグローバリゼーションの進展は、自由民主主義と市場経済を信奉する西欧諸国に大きな希望と利益をもたらした。西山大使がユーロペシミズムの主要な原因の一つとして挙げていた人口の減少問題に対しては、移民による労働力の確保という処方箋が描かれた。しかし、その後の展開は周知の通りである。ロシアを西側の友好的な隣国にしようという努力は、1999年末に登場したプーチンの長期政権の下で水泡に帰し、共産党の一党支配体制を維持したままでの中国の急速な台頭は欧州にも様々な影響を及ぼしてきている。グローバリゼーションへの反発が起こり、欧州各国で反移民の「極右」政党が勢力を伸長し、自由民主主義は世界各国で劣勢に立たされている。追い打ちをかけるように、米国では米国第一主義を強烈に推進するトランプ政権が再登場し、米欧関係の亀裂と緊張は覆うべくもない。

 現在もEUは国際政治・経済上の主要なプレーヤーであり、これは加盟国がばらばらであったなら、到底成し遂げられなかったことであろう。欧州連合(EU)の発足と単一市場、単一通貨ユーロの創設を含む経済面での統合、不完全とはいえ外交・安全保障政策の進展、中東欧やバルト諸国のEU加盟などを考える時、「西欧は復権したか」という問にある程度肯定的に答えることは可能かもしれない。しかし、ウクライナがロシアによって侵略され、欧州に極めて批判的な米国トランプ第二次政権が欧州の防衛は欧州自身が担うべきことを要求して、NATO脱退さえちらつかせる今、欧州諸国は極めて難しい立場に立たされている。一つ明らかなことは、安全保障に関してもはや欧州がこれまでのような米国依存を続けることは不可能であり、マクロン・フランス大統領が主張してきたように、「戦略的自律(strategic autonomy)」を強めていくしかないということであろう。しかし、欧州の中でも多様な立場があり、ハンガリーの例を見ても明らかなように、EUが一体として迅速に行動することは容易ではない。

悪魔と外交

 西山大使の著書を再読して強く感じるのは、当たり前のことではあるが、国家や地域の繁栄にとって自らを取り巻く地政学的情勢・世界情勢が如何に重要であるかということである。多くの場合、それは与件であって自分ではどうすることもできないことが多いのだが、情勢を的確に分析し、それを少しでも自らに有利な方向に持っていこうと努力するのが外交の営みであろう。「欧州の新時代」の冒頭には、「悪魔と外交」という印象的な短文が掲げられている(『外交知識』1984年5月25日)。そこで西山大使は、オペラ「ファウスト」におけるメフィストフェレスがファウストに言った言葉、「この世では、筆者は貴方の僕(しもべ)、だが地獄ではお前は俺の言いなりになるのだ」という一節を引用した後でこう述べる。少し長くなるが引用したい。

 「外交という仕事に携わって30年近くになるが、その間、何度かこの一節が耳の奥で鳴り響くような気持になったことがある。それは、人間の心の奥に潜む怨念、権力欲、闘争心など、一般化すれば「悪」への可能性について想像力が及ばず、情勢判断が甘かったとほぞをかむ思いを味わった時である。地獄で悪魔の僕になるかどうかは別として、この世では悪魔を駆使して情勢の分析に万全を期したいという思いが胸をよぎる。
 思えば、われわれの世代は、新憲法に盛り込まれたきわめて楽観的な国際政治像、我が方が善意と誠意をもって対応すれば、相手もまた、それに応じてにこやかな善意と誠意で報いてくれるという性善説の世界、そしてそれを疑うこと自体、平和に対する反逆であるかのような空気の中で学生時代を過ごしたのである。これは明治の外交指導者が生死の境目を何回もくぐり抜け、権謀術数にもまれて、人間に潜む「悪」の振幅の広さを見据える能力をおのずと備えていたのと対蹠的ともいえる原体験の違いではないだろうか。
(中略)
 いつも悪魔を求めて不信と猜疑の眼で世界をみなければならないとは、外交官という職業も因果なものであるが、「悪に徹することを知らないものは神をも知ることができない」というボードレールの言葉がせめてもの救いである。」

 西山大使の諸論考が書かれた当時の世界情勢、西欧や日本が直面していた課題と現在のそれは全く異なり、その意味では、再読してすぐ現状への対処に役立つという訳ではない。日本人の国際社会に対する認識や姿勢も随分と変化した。しかし、「歴史が終わり」自由民主主義と市場経済が世界を覆うという楽観論が遠景に退き、時計の針が19世紀に逆回転したかのような力の外交が跋扈する今日、西山大使のいくつかの言葉、洞察は一層の真実性をもって私たちに迫ってくる。思うに、欧州が築こうとして営々と努力してきた世界とは人間に潜む「悪」を徹底的に認識しながら、その対局にある人間の「善」を信じ、理想を諦めずに追求することではなかっただろうか。

欧州の意義の再認識
 
 西山大使は、「日本にとっての西欧」という論考(『世界経済評論』1985年10月号)の中で、「ヨーロッパの衰退」が言われ、特に経済的な意味では西欧は日本にとって何ら積極的意義を持たないのではないかという気持ちが多くの日本人にあると指摘した上で、それでも、「日本にとって西欧のもっている意味を再認識しなければならない」とし、西欧の意義を以下の3点に要約している。

 第一は、民主主義や市場経済といった戦後日本のよって立つ基本的な価値の源泉が欧州にあり、日本にとっての歴史的な鑑である西欧が政治的、経済的、社会的に強く存続していくことがわが国にとってもきわめて重要であること、第二は、戦略的、安全保障上の観点から、今日、世界の安全保障が一体化し、グローバルなものとして考えざるを得なくなっていること。西山大使は、それを象徴的に表すものとしてソ連の中距離弾道ミサイルSS20の極東配備問題を挙げ、特に1983年のウィリアムズバーグ・サミット以来、日本においても、西欧とアジアの安全保障の関係に関する認識が変わってきたことを歓迎している。第三は、西欧のストックとしての経済力や長い歴史で育まれてきた政治的な知恵には非常に優れたものがあり、世界の政治、経済のマネジメントの上で西欧が持っているノウハウと発言力が重要であること。西山大使はこれら3点を指摘した上で、次のように書く。

 「こういうわけですので、われわれは西欧というものが日本にもっている意味を、この際、改めて再認識する必要がある、いや、それにとどまらず、強いヨーロッパをつくるために、日本としてはむしろ協力的な姿勢で臨むべきである、競争相手としてはこれと争うということではなくて、西欧を強化するという方向で日本の政策を形成していくべきではないかと考えるのです。」
 この40年間で国際情勢は激変し、現在、欧州はかつてとはまったく異なる新しい挑戦に直面しているが、西山大使の指摘は今日でもその基本的な妥当性をまったく失っていないと思う。

おわりに

 西山大使がかつて大使を務められた欧州共同体日本政府代表部は欧州連合日本政府代表部と名前を変えたが、今年設立50周年を迎えた。筆者自身も西山大使が亡くなられた年齢を遥かに超えていることに愕然とするが、「西洋の没落」という本がベストセラーになる今日、西山大使に情勢の展開を存分に分析し、我々にヒントを与えていただきたかったと思わずにはいられない。日本とEUとの協力関係は、経済連携協定(EPA)や戦略的パートナーシップ協定(SPA)も結ばれ、当時と比べて飛躍的に強固になっているが、自由民主主義、法の支配に基づく既存の国際秩序が各方面から大きな挑戦を受けている今日、欧州において自由民主主義が維持されることの重要性はわが国を含む世界にとってかつてない重要性を帯びていると言って差し支えないのではないだろうか。私が西山局長と直接言葉を交わしたのはほんの数回に過ぎなかったが、中曽根総理が「あのハンサムな欧亜局長」と呼ばれたという端正で知的な面影や笑顔を偲びつつ、欧州が現在の難局を克服すること、また、自由民主主義と「法の支配」に基づく国際秩序を維持するために欧州と日本がしっかりと協力していけることを祈りながら、本稿を閉じることとしたい。(了)