指導者交替の続くベトナム政局〜トー・ラム新書記長の下で安定回復に向かうか?〜
前駐ベトナム大使 山田滝雄
ベトナムにおける頻繁な指導者交替が関心を呼んでいる。
ベトナムの政治指導部の頂点にあるTOP4(書記長、国家主席、首相、国会議長)だけでも、昨年1月のグエン・スアン・フック国家主席の退任に続き、今年に入ってヴォー・ヴァン・トゥオン国家主席、ヴォン・ディン・フエ国会議長が相次いで退任した。代わって5月にはトー・ラム国家主席、チャン・タイン・マン国会議長が新たに就任し、更に7月のグエン・フー・チョン書記長の逝去を受けて、8月にはトー・ラム国家主席が新書記長に選出された。TOP4以外の政治局員まで含めると、過去一年半程度の間にベトナムの政治局員18名のうち半数に近い8名が交替したこととなる。
反腐敗キャンペーン
このように頻繁な指導者交替が起こる原因となっているのが、「反腐敗キャンペーン」である。これは、故グエン・フー・チョン書記長が自らの政治生命を賭けて取り組んできた大事業であり、ベトナムが独立100周年となる2045年までに高所得国入りするという大目標を達成するために避けては通れない重要なテーマである。
実際、腐敗は、ベトナムの社会制度に巣くう深刻な構造問題である。ベトナム人自身がその最大の被害者であることは言うまでもないが、我が国を含む多くの海外投資家も腐敗に悩まされてきており、ベトナムが海外から質の高い投資を呼び込み、更に高度な経済成長を遂げるためには、腐敗克服は不可欠である。
生前、チョン書記長は高齢かつ病身でありながら、この困難な課題に文字通り命を賭して取り組んできた。その姿は多くのベトナム国民から熱い支持を集め、同書記長の国葬には多くの人々が参拝し、葬儀終了の時間を超えてもその行列は途絶えることがなかった。
筆者も駐ベトナム大使としての在勤中、様々な機会に、ベトナムが腐敗を克服し、ルールに基づきコンプライアンスを重視する社会へと生まれ変わろうとする努力を評価する旨繰り返し述べてきた。
社会的、政治的コスト
他方で、腐敗克服には相当な荒療治が必要であり、その社会的・政治的コストが高いことも事実である。冒頭で、過去一年半程度の間に政治局員の半数近くが辞任したと書いたが、その殆どが腐敗絡みの辞任である。更に、政治局員よりもう少し対象を広げると、筆者がベトナムに在勤した4年間に腐敗絡みで辞任ないし処分された党や政府の幹部は数えきれず、その中には筆者と面識のあった幹部も数多く含まれていた。
腐敗克服のためには党や政府の幹部であろうと容赦しないという厳格な姿勢は、「反腐敗キャンペーン」に国民的支持を集める上で大きな役割を果たしている。しかし、高位の幹部の辞任や処分は、ベトナム政治に混乱をもたらし、公務員を萎縮させている面も否定はできない。
腐敗克服を重視するのか、それとも行政の効率性を重視するのか、ベトナム指導部は、この大きな矛盾に直面しながら微妙な舵取りを続けている。
しかし、そのような中にあっても、ベトナムの政治は結束を維持し、経済は一昨年に8%、昨年は5%以上という東南アジアでも有数の成長率を誇ってきた。これは、ベトナム社会が大きな潜在力とダイナミズムを胚胎し、腐敗克服のために様々なコストを払いつつも、経済成長を継続できる可能性を示しているとも言えるだろう。
最高指導部人事への影響
党や政府の幹部を巻き込んだ「反腐敗キャンペーン」は、意図するかしないかに関わらず、ベトナム指導部人事に大きな波及をもたらしている。特に今年に入ってからのTOP4を巻き込んだ政変劇は、結果として、2026年1月に予定される第十四期党大会で決まると見られていた最高指導部人事を前倒しで実施することになった。
このような流れが顕在化し始めたのは、本年1月、チョン書記長の容態悪化が報じられ、早期退任の噂が流れ始めた頃である。その時点において、チョン書記長の後継候補として有力視されていたのは、フエ国会議長(当時)とトー・ラム公安大臣(当時)の二人であった。
フエ国会議長は、国立財政学院の教授・副学長、会計検査院副院長、財政大臣やハノイ市党委員会書記などの要職を歴任した経済に明るいテクノクラートで、自らの出身地であるゲアン省および隣接するハティン省の出身者で形成される所謂「ゲティン閥」の支持を背景に、近年大きく存在感を伸ばしていた。
一方、トー・ラム公安大臣は、ベトナムにおいて国防省と並ぶ最有力省庁である公安省のキャリアを上り詰めてきた超エリートであり、しかも公安一筋の堅物ではなく、音楽をこよなく愛し、経済にも通ずる教養人である。日本との関係も長く、日本に知人も多い。
この二人の後継候補者の明暗は、今年に入ってからの腐敗絡みの指導者交代劇の中で、大きく別れることとなった。即ち、4月26日にフエ国会議長が腐敗事案に関する道義的責任を取る形で辞任する一方で、5月22日にはトー・ラム公安大臣が新たに国家主席に昇進した。そして、7月19日にチョン書記長が逝去したことを受け、8月3日、党中央執行委員会はトー・ラム国家主席を新書記長に選出することを全会一致で決定したのである。
ベトナムの投資環境への影響
ベトナム政局が複雑に揺れ動く中で、我が国を含む世界の投資家間に、ベトナムの投資環境は大丈夫かとの心配の声が上がるのは当然のことであろう。特にベトナムの場合、政治的安定性が投資家にとっての大きな魅力とされてきただけに、政局の先行きへの不安は投資意欲に大きな影響を与える。
ただ筆者自身は、現状では、一連の指導者交替劇がこれからのベトナムの投資環境に及ぼす影響は、世上懸念されているほど大きくはないように観ている。
その理由は、第一に、今回の指導者交代劇の結果、トー・ラム新書記長の下に新たな最高指導体制が発足し、今のところ順調に滑り出しており、当面は大きな政変が起こる可能性はむしろ減じているように思われるからである。
勿論、一連の政変劇の傷跡は未だ完全には癒えておらず、トー・ラム新体制が本当に安定するかはもう少し様子を見た上で評価を固める必要はあろう。しかし、以下のような状況を見る限り、トー・ラム新体制の基盤固めは順調に進んでいるように見受けられる。
(1)公安大臣の後任人事
トー・ラム氏が国家主席に昇進した際に先ず話題となったのは公安大臣の後任人事であった。結局後任には、トー・ラム氏が最も信頼を寄せる同郷(フンイエン省出身)のルオン・タム・クアン公安副大臣が就任し、更にその後、クアン新公安大臣は順当に政治局員に昇進している。これらの動きは、トー・ラム新書記長が公安省への強い影響力を維持している証左と見られている。
(2)軍との関係
また、トー・ラム新指導部と軍との関係に懸念を寄せる向きも一部にはあったが、軍からはルオン・クオン人民軍総政治局長が党内序列第5位の「書記局常務」に抜擢され、現状では新指導部と軍との間に大きな軋轢は見当たらない。
(3)「ゲティン閥」との関係
更に、今回の政変劇で退任したフエ前国会議長の支持母体である「ゲティン閥」とトー・ラム新指導部との関係を懸念する声も一部に聞かれたが、8月3日にトー・ラム新書記長が選出された際のお披露目では、トー・ラム新書記長を囲んだ6名の幹部のうち3名がゲアン省ないしハティン省出身者であった。又、党人事を総括する組織部長や財政担当副首相といった要職にゲアン省、ハティン省出身者が登用されるなど、「ゲティン閥」に手厚い配慮が払われていることが窺われる。
第二の理由は、ベトナムの経済政策をリードするチン首相が留任したことである。ベトナムでは、軍と公安という「力の官庁」は書記長の下に置かれ、「経済官庁」は首相の統括下に置かれている。従って、投資環境に直接の影響をもつ「経済官庁」を統括するチン首相が留任したことは、海外の投資家にとって安心材料であろう。チン首相サイドからは、今回の政変がベトナムの投資環境に与える影響はあまりないので安心して欲しいと言うメッセージが筆者のもとにも送られてきている。
因みに、一部報道では、トー・ラム元公安大臣が新書記長に就任したことをもってベトナムの「公安国家化」が進み、外国企業の投資環境に消極的な影響が及ぶのではないかという懸念の声が聞かれる。このような懸念が持たれる理由はよく理解できるが、筆者は、海外からの質の高い投資受入れが自国の経済成長には不可欠という認識が、他の共産主義国以上に浸透しているベトナムでは、これまでも公安当局による外国投資家への干渉は比較的少なかったし、今後もそのような事は起こりにくいものと考えている。
トー・ラム新書記長自身、海外からの投資の重要性をよく理解している。大使在任中、筆者はトー・ラム公安大臣(当時)と何度も懇談する機会があったが、そのような場では、公安関係だけではなく、日本企業の投資環境など経済関係にも話題が及ぶことが常であった。また、邦人を巻き込んだある深刻な事案の解決のために、トー・ラム公安大臣自らがベトナム上層部の調整に動いていただいたこともあった。
「和解と団結」を重んじる政治文化
更に、ここで指摘させて頂きたいのは、ベトナムには「和解と団結」を重んじる独特の政治文化があることである。
これはホーチミン主席以来の伝統である。若き日のホーチミン主席は、儒教の礼記の中の『大同説』、即ち、「天下を公となし、賢をえらび能とくみし、信をはかり睦をおさめ」れば、人々がみな助けあう社会ができるという理想郷論を信奉していたと言われる。そして、国家指導者となった後も、集団主義を重んじ、「団結、団結、大団結」と常々唱えていた。ホーチミン主席の考えを筆者なりに噛み砕くと「政治には、対立はつきものであるが、大事なことは、対立を如何に克服し、和解し、団結を維持するかである。」という事ではないだろうか。
実際、ベトナムの政治家は、対立を克服し、和解を醸成する「切り替え」が頗る上手い。筆者在任中のエピソードをご紹介すると、フック元国家主席は昨年1月に腐敗事案の道義的責任を取る形で退任したが、国家主席退任の直後から、公的な場所で日本の要人を接遇していた。また、昨年5月と10月のベトナム国会開会式では、フック元国家主席は最前列に座り、他の指導者と談笑していた。更に、今年4月に退任したフエ前国会議長も、5月の国会開会に先立って指導部幹部が行ったホーチミン廟参拝にフック元国家主席他とともに最前列で参加していた。
筆者は大使として、フック元国家主席やフエ前国会議長の退任劇をかなり深く観察していただけに、この「切り替え」の早さには戸惑いすら覚えることがあった。
このように「切り替え」の上手いベトナムの政治文化からすれば、今後も様々な政治的駆け引きはあろうが、対立や軋轢を克服し、和解し、そして一致団結して、トー・ラム新体制の下で政治的安定の回復に向かうのではないか、筆者にはそのように思われるのである。
高所得国になるための「生みの苦しみ」
本稿の締めくくりに、改めて指摘したいのは、故チョン書記長が主導し、トー・ラム新書記長に引き継がれた「反腐敗キャンペーン」は、ベトナムが、腐敗という社会制度に巣くう構造問題を克服し、海外から質の高い投資を受け入れ、2045年の独立100周年までの高所得国入りという大目標を達成するためには不可欠の大事業だということである。
腐敗克服は、伝統的なアジア社会が近代化するためには避けて通れない課題である。日本にも、疑獄事件が相次いだ時代があった。そして、今もベトナムだけではなく多くのアジア諸国が腐敗克服に取り組んでいる。
腐敗克服に向けた道程は、これからも決して平坦ではないかもしれないが、ダイナミズムに溢れるベトナム経済は、指導者交代劇の真只中である2024年第一四半期には5.7%、第二四半期には6.9%の成長を達成した。ADBなどによる2024年通年の成長予想も6%台が維持されている。
ベトナム人材の勤勉さ、理数系能力の高さ、技術革新への適応力、旺盛なチャレンジ精神、そして「和解と団結」の政治文化に鑑みれば、ベトナムが、「中進国の罠」を乗り越えて2045年までの高所得国入りという大目標を達成する可能性はあると筆者は見ている。そして、最近の「反腐敗キャンペーン」に起因する政治的混乱は、そのための「生みの苦しみ」なのかもしれない。