余談雑談(第181回)日本語の書き言葉


元駐タイ大使 恩田 宗

 All Men are created equal…they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights…大抵の米国人は今この独立宣言(1776年)を読み理解できるであろう。当時の英語が現代英語とあまり違っていないからである。同じ頃徳川幕府が寛政の改革で下級武士救済のため札差(金貸し)に下した命令文は「…迄に貸付候金子は古借新借之無差別棄損之積可相心得事…」と今の日本人には漢文の素養がないと読めない。改革の主導者松平定信が幕府幹部や親族に書き与えた訓戒も「面々自分勝手向之儀も酉年被仰出候通弥無油断節倹相用候様可被致候…」と漢文である。古くから教養ある男子は漢文の書を読み改まった文章は漢文かその読み下し文で書いていた。
 日本人の漢文との付き合いは古い。邪馬台国は言語習俗の違う数十部族の連合体でそれを卑弥呼が何とかまとめていたのだという。あの時代(3世紀)には共通語の日本語はまだ出来ていなかったらしい。邪馬台国は中国の魏に朝貢していたが朝鮮半島と関わりを持つ部族もあり漢字・漢文に堪能な者は日本に数多く居た筈である。日本語は生まれ育つ過程でそこから多くを学んだ。大和言葉にない概念を表す漢語を取り入れたり(明治中期の語彙統計では和語100に対し漢語280)文の組み立てを漢文に倣ったりして。
 大和朝廷は早くから漢字・漢文に馴染んでいたと思われる。十七条の憲法は漢文である。唐の模倣に熱中した奈良時代になると公文書は全て漢文で(これは明治まで続く)知識人は漢詩を嗜なみ(これも同様)漢詩集「懐風藻」の編纂は万葉集より早かった。平安時代も中国文化への傾倒は変わらず清少納言は「文は文集文選」と書き源氏物語の「才」は漢文能力を意味し公家は崩れた漢文で日記をつけていた。鎌倉・室町・徳川の三つの幕府の基本法「御成敗式目」は皆漢文で、幕末の薩摩・会津両藩は漢文で交信した。乃木大将の旅順要塞攻撃戦についての漢詩は当時の人を感動させた。漢文は日本化し日本語の一部になり日本人が書き残した漢文文献の量は膨大である。学校は漢文にもう少し力を入れて良い(いい)。
 冒頭の名句の福沢諭吉の訳は「天ノ人ヲ生スルハ億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラザル通義ヲ以テス」と漢文調である。司馬遼太郎と海音寺潮五郎は対談で「あらゆる問題を表現できる文章日本語ができたのは戦後のこと(だが)・・・まだ完成はしていない」と言っている。言語に「完成」ということが有り得るか疑問であるがAIを使い「完成」に近づくことはできるかもしれない。 (了)