余談雑談(第174回)江戸時代について
元駐タイ大使 恩田 宗
書店に江戸時代に関する本が沢山並んでいる。大河ドラマ「べらぼう」があの時代への関心を高めているのである。江戸ブームは戦後何回目かで人々の江戸時代を想う気持ちには底堅いものがある。歌舞伎・浮世絵・俳句・生け花・庭・盆栽やサムライ・三味線・粋(いき)・もったいないなど日本独特の文化だと誇れるものが花咲いた時代だからである。
日本は平和で長かった江戸時代に初めて国家の形が整い民族的個性も形成された。中央政府(幕府)の法律と通貨が全国に及び、整備された街道を人・物・情報が行き交い、一つの思想(朱子学)と一つの宗教制度(寺請制度)でまとめられ一つの倫理規範(武士道)が模範とされた。藩校・寺子屋などの教育制度やお盆・正月等の年中行事や趣味・嗜好もほぼ同様なものが広く全土に普及した。
日本は江戸時代に中国とその従属国からなる政治経済体制(冊封体制)から脱した。倭奴(わのな)国王(1世紀)は中国皇帝から金印を授かり邪馬台国の卑弥子(3世紀)は奴隷と特産物を献上し金印と大量の下賜品を得ている。その後も朝貢は続き、遣隋使小野妹子は「日出るところの天子」の使者だと胸を張ったが、19回の遣唐使と同様、実質は朝貢だった。彼等は隋・唐の宮廷では新羅などと同じ扱いだった。足利義満は書を「大明皇帝陛下に上(たてまつ)」り巨額の利益を獲得したが「爾(なんじ)日本国王源道義」と呼びかける皇帝の国書を焼香三拝し跪いて拝読している。徳川家康は民間貿易は認めたが明・清との公式な接触は避けた。
江戸後期には世界地図を自前で作れるようになり欧米諸国の実情も書籍やオランダ人を通じ大体のことは分ってきた。思想家の本多利明は欧州は遙かに強大で唐(もろこし)を中国・中華などと呼んで模範とするのは愚かなことで日本は漢字をアルファベットに変えるべきだなどと論じている。日本人は中国を超えた全世界を構造的に把握しその中で自分達の国はどうあるべきかを考えはじめた。国民意識の芽生えである。「江戸時代」の著者北島正元は近代日本は天保期に始まるとしている。明治時代の近代化が円滑に進んだのは江戸時代が地ならしをして置いたからである。
明治維新で徳川時代の制度慣行が廃され人々は自由になったと喜んだ。日露戦争で戦死した高知連隊の本郷源三郎少佐は「御維新で良い時代になった。この時代のためなら俺は喜んで死ぬ」と語っていたという。日本軍は旅順で六万近い死傷者を出したが兵士達も本郷少佐と同じ思いで要塞に突撃していったのだと思う。日本人は上下に関わりなくこの戦争に日本の存亡がかかっているとの危機意識を共有していた。明治はそんな時代だった。(了)