余談雑談(第173回)日本の仏教

 元駐タイ大使 恩田 宗 

 毎日の散歩で池上本門寺の墓地を通る。加藤清正の正室や前田利家の側室の供養塔がある古い墓地である。最近は殆どが新しい墓で彼岸やお盆の頃は多くの墓参者に出会う。NHKの「現代日本人の意識構造」調査では7割近くの人が墓参りをすると答えている。エッセイストの森下典子も「わが家は無宗教でお葬式の時だけ仏教徒にな」ったと書いているが(1月11日日経)、大抵の日本人は墓参と葬儀と初詣などでしか寺や僧侶に関わらず仏教という宗教にも無関心である。 
 「なんとなく、仏教―無宗教の正体」の著者木村文輝によれば、日本人の宗教意識は自分の全てを賭ける覚悟の要る「信じる」という処まで行かず墓地で先祖の霊を「なんとなく」感じるあの「なんとなく」に留まっている。他方、スリランカの上座仏教長老のスマナサーラ師は、日本人は西洋の思考と一致させるため曖昧な人間になりその曖昧さに悩んでいるがそんなことに悩む必要はなくそのままで良い、仏教も信仰せずとも共感ということで良い、と語っている(「出家の覚悟」)。仏教は融通無碍で懐が深く対立したものも並列両存させたまま包容してしまう。
 釈迦は主に修行者に対し戒律を守り正しく生きて解脱せよと説いた。その教えが西域・中国・朝鮮を経て千年かけて日本に到来した。その間変化を免れず中国では先祖崇拝と葬儀を受入れた(原始仏教は霊魂を認めず死体は遺棄した)。日本では神道と習合した。家康のノバ・イスパニア王への書簡に「我が国は神を敬い佛を貴ぶ。仏と神と・・・同じくして別なし」とある。徳川幕府は誰をも近くの寺の管理下に組み入れた(寺請制度)。そのため寺は仏教修行の場というより葬儀と墓地の管理をする機関になってしまった。「仏教」の著者渡辺照宏はいまの日本の仏教信仰のあり方は厳密には仏教ではないと言う。
 宗教が政治的権力と結びつくと正義か悪かの二項対立の思考に傾き信念と利害を異にする他者と流血の闘争に陥り易い。日本は元首を神として奉じ「八紘一宇」の旗印を掲げアジア諸国を侵略し打ちのめされた。イスラエル人はパレスチナに入植し現地人と同じ土地を争って百年以上殺し合いの闘争を続けている。近年は宗教団体にも似た政治政党が権力を独占する中国が「中国の夢」の実現を目指し横暴・無法な海洋侵出を試みている。
 仏教到来から千五百年経ち「因縁」「業」「無常」「悟り」などの語が日常語になり「サザエさん」のカツオとワカメは飼っていた虫が死ぬと墓に埋め手を合わせる。日本人は仏教に無関心とは言っても仏教的世界観は本人達が自覚している以上に心に深く定着している。(了)