余談雑談(第172回)日本語とニュアンス
元駐タイ大使 恩田 宗
G・カーティス(コロンビヤ大学名誉教授)は1969年日本の国政選挙の実態を候補者に密着して調査した。大分県の候補者の選挙事務所に拠点を構え後援会からの講演依頼にも「めんどうしいけんど(恥ずかしいけど)」と前置きをして話したと書いている。
「恥ずかしい」には類語が多くある。気恥ずかしい、きまり悪い、てれくさい、てれる、赤面する、気まずい、面目ない、あわす顔がない、ばつが悪い、間が悪い、格好が悪い、肩身が狭い、みっともない、等々である。恥じていることに変りはないが含まれるニュアンスが違う。日本語は類語が豊富で「好む」でも、選り好む、好(す)く、横好きする、気に入る、気に染む、愛す、愛好する、惚れる、惚れ込む、等30を超える。言語はその国の文化を集約している。日本人はもの事の有り様の細やかな違いや移り変わりに敏感でその違い(ニュアンス)の微妙さを感じとり心を奪われる。何事もニュアンスに富むもの(満開の桜より散りかけた桜)を趣(おもむき)があるとして愛好する。異なったニュアンスを違った言葉に込めて表現するので類語が増え語彙が膨らむ。日本語は外国語の受入れにも寛容なためフランス語と比べ語彙が4~5倍と大きく日本語の習得を難しくしている。
日本人は、大抵の場合、単刀直入で明快な断定的言い方を避ける。自分の真意を表わすニュアンスのある無難な言葉を選びものを言う。相手がそのニュアンスを察知し真意を理解してくれるよう期待する。金田一春彦は日本人は「互いにカンを働かせあって生きている」と述べこう論じている(「日本語の特質」)。日本語では、名詞に単数複数の区別がなく(芭蕉の俳句の枯れ枝に止まった烏が一匹か複数か分らない)主語を好んで省略する(広島の慰霊碑の「安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませぬから」は誰が誓っているのか分らない)、表現が曖昧になるので「相手の勘に頼ることの多い」言葉である、と。
日本語で育てば日本語への勘が身につき不便はないが外国人にそれは望めない。日本には340万人の外国人が住み社会に不可欠な一員となっているが日本語の難しさに苦労している。彼等が円滑に日本社会に参入できるよう日本語教育の拡充が必要である。
含みの多い言い方を好む日本人はニュアンスという便利な外来語を好み日常よく使うがフランス人はそれ程頻繁には使っていないらしい。明晰判明な表現を貴ぶ彼等にとり言葉に付きまとうニュアンスは言葉の概念を歪めてしまう夾雑物のようなものかもしれない。日本が輸出品の包み紙に使った浮世絵をフランスの画家達が珍重したことの裏返しである。(了)