余談雑談(第170回)九十歳を超えて
元駐タイ大使 恩田 宗
獅子文六は「隠居の仕損じ」にこう書いている。フランス人は「働かないタノシミ」を味わうため余力を残して隠退する、江戸の横町のご隠居も元気な人が多かった、口うるさく敬遠されがちだったが気に入った人には「婆さん羊羹を切りなさい」と言い気に食わなければ茶も出さないという気ままな老後生活を楽しんでいた、今の人は働きたくて仕様がなく老衰するまで隠居しない、と。いつまで働くかはその人の趣味・体調・収入や属する組織の事情で色々であっていいと思う。しかし日本では何事にも年齢意識が強く働く。外務省を退官した後も会社・大学などで働いている人の多くは80前に引退している。
朝日歌壇に「地下足袋の爪をはめれば英気湧き八十路の翁野良に出で立つ」とあった。農家では80を超えても田畑に出ているらしい。11年前に80になった時は気力体力が充分残っており自分が翁と言われるような歳になったことが信じられなかった。やろうと思えば、郷里の墓地や家宅の始末、古い手紙や日記・書類の片付け、夫婦二人での旅行、回想録の執筆、その他人生でやり残した宿題を片付けることが出来ただろうと思う。
うかつだったが90を超すともうそうする気力が湧かない。朝日俳壇に「未来あり九十一歳秋刀魚(さんま)焼く」とあったが時たまのそうしたつつましい贅沢を楽しみに穏やかに生きることになる。毎日同じ雑事の繰り返しで時の流れが止まった様に感じる。ただ老化は容赦なく進む。80だった時は去年出来たことが出来ないと嘆いたが90になると2~3ヶ月前に出来たことが出来ない。心身の衰えは努力で多少遅らせは出来るがもの忘れや足のふらつきは防げない。階段では腕の力を使い目はかすみ耳も遠くなり読書や会話に不便する。金木犀も昔の様には香らない。
老齢を理由の退官は大化の改新で官僚制が整った頃からあったらしい。大宝律令の時代になると「七十以上致仕」と定められた。あの時代、人の寿命は4~50歳台だった筈で官人にとり定年は事実上無かったに等しい。日本書紀に持統天皇が「右大臣丹比真人(たちひのまひと)に腰杖(こしつえ)を賜ふ。以て到事(おいてまかること)を哀(かなし)びたまふ」とある。真人は既に70歳を超えていた。女帝の持統天皇は藤原宮の建設や律令制への移行など成すべき大事業を抱えており有能な真人を手放せず長く働かせ続けたに違いない。「哀びたまふ」との言葉に苦労させた忠臣の老いた姿にすまなく思う気持ちが表れている。
志賀直哉の随想「老廃の身」に夫人に先立たれるのを「極度に恐れ…先に死ぬのは絶対に困る」といっているとある。最近は伴侶に頼ることが多くなり身につまされる。(了)