余談雑談(第167回)思い出と記憶

元駐タイ大使 恩田 宗

 文藝春秋7月号に小澤征爾の娘の小沢征良(作家)が父親の思い出を書き綴っている。

 2歳にもならない彼女を抱いて優しくたたき ながら鼻声で「せらちゃん、けらちゃん、せらちゃんのちゃん」と歌って暗い廊下を行っ たり来たり、肩越しに坂下のダウンタウンが 無数の蛍の舞う湖面のように光っていた…息子に授乳していた時そんな記憶が昨日のよう な鮮明さで蘇ったという。

 心理学者は殆どの人は幼児期健忘により4歳位までの体験は確かな形では思い出せないと言う。幼児期の体験を語る人は後に聞いた 話を記憶として取り込んでいることが多いら しい。ただ、2歳の時空襲で母親にドブに置 かれ家が焼けるのを一人で見ていたことを忘 れられないという人もいるという(「思い出 袋」鶴見俊輔)。格別印象深い体験は幼児期 のものでも記憶に残るのかもしれない。

 過去の記憶は人が生きていく上で欠かせない。未来に進むには現在の自分を確認しそこから出発する。現在の自分は過去の自分を集約したもので記憶により保たれている。「人生の全ては記憶である」は米国の心理学者 M・ガザニガの言葉だというが、記憶を失うことは人生を失うことに等しい。交通事故などで過去の記憶を失った人は、身体・言語の能力や事を処理するための短期的記憶力に問 題がない場合でも、自分が何処で何をしていた何者なのかを思い出せない間は不安に怯えて一人では行動に踏み出せないらしい。 過去には善し悪しの明暗がある。通常、幸福だった過去は思い出と言い中立的かネガティヴな過去には記憶と言う。19世紀のイタリア詩人が「思い出はただそれだけで愛おしい」と言っているが幸福だった過去は思い出す度に淡い憧れを感じる。反対に悔しかった 「苦い記憶」は今も心を苦しめる。

 「思い出袋」に「80代になってからは亡くなった人と生きている人との区別が薄くなり長く付き合った人は実在感をもって私の中に住み着いている。亡くなったからと云って 終わりにはならない」とある。91になると昔の同僚友人が息災でいると聞いても諸々 の事情で簡単に会うことが叶わなくなる。その意味で死者生者の別は一層薄くなるが両者 とも往時を思うと懐かしく心が和む。そんな 淡い繋がりで満ち足りるようになる。小澤征爾は征良が覚えている限りいつも、ウイーンでもベルリンでも東京でもどこでも、暗い早朝に起き背筋を伸ばし椅子に座り流れる音楽を聞きながら集中して楽譜を読み続け勢いよく頁をめくっていたという。「昔の電話帳ぐらい分厚」かったという楽譜を頭に入 れてしまえる記憶力は凡人の想像を超える。