余談雑談(第166回)なぞ遊び
元駐タイ大使 恩田 宗
子供の絵本に「タマムシくんはマクマタッキーが欲しいという、なんだろう」とあり答はタとマを無視しクッキーだとあった。昭和時代の「おすとあんでるくうとうまい、なーんだ(饅頭)」より大分スマートである。
「なぞの研究」(鈴木棠三)によると、古代日本のなぞ遊びは中国の「字謎」(漢字の旁や偏や字画を操作して作る、例・縦三本に横一本、横三本に縦一本=山王)に習ったもので識字層の遊びだった。万葉集の筆記者は「出」と一字で書かず字遊びをして「山上復有山」とも書いている(山の上に山=出)。平安時代には「なぞなぞ物語」と称され和歌の教養も試される貴族階級の遊戯だった。「深きは浅き浅きは深き」は「飛鳥川」であるが古今集に「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬となる」という歌のあることを知らないと答えられない。鎌倉時代になると「なぞなぞ」と呼び、「酒の肴」は「袈裟(サケの逆名)」、「鉞の懐妊」は「小野小町(斧の子持ち)」、「那須与一」は「泉水(扇子射)」と、庶民も楽しむ遊びになった。
室町時代は下克上と戦乱で旧体制が破壊され日本が最も乱れた時代だった。皇室は所領を簒奪され財政破綻、公家は都から離散し朝儀が滞った。後花園上皇と後土御門天皇は内裏を焼かれ神器を奪われ将軍の御所に十年仮住まいで皇威は地に墜ちた。後柏原天皇が幕府の管領細川政元に即位式の経費を求めると、式は必要ない私が国王と認めておりそれで充分、と応えたという。天皇家の存続さえ危ぶまれる中、後花園、後土御門、後柏原の三帝はなぞ遊びをしていたという。グループを組んで遊ぶと病みつきになるらしいが時代の嵐には逆らわず経費のかからぬ遊びをしつつ辛抱強く耐えていたとも解釈できる。世界最古の王室として今あるのもそうした叡智が受け継がれているからかもしれない。
三帝が在位した室町中期(十五世紀)には天才が輩出し現代日本文化の基を築いた。雪舟(水墨画)、狩野正信(障壁画)、宗祇(俳諧)、世阿弥(能)、一休(庶民禅)、村田珠光(侘び茶)、池坊専慶(立花)などである。イタリアもルネッサンス時代で、雪舟はレオナルドダヴィンチと、狩野派の祖・正信はボッチェチリーと、同時代人である。コジモ・デ・メディチと足利義政は芸術家のパトロンで前者はメディチ宮殿を後者は銀閣を建てた。なお、饅頭はこの時代に豆腐納豆と共に禅寺での食べ物として導入された。
後土御門天皇御製の「雪ハしたよりとけて水のうへそふ」は雪のキを消し水のミに替えると「弓」になる。「武力さえあればもう少し何とか」と思われることもあったのではないか。