テヘラン日本人墓地墓参記


駐イラン大使 塚田玉樹

 テヘラン市南部にレイという小さな町がある。町の起源はテヘランより遥かに古く、紀元前のアケメネス朝時代にまで遡ることができるが、13世紀モンゴルの侵入により町は破壊された。現在はそうした町の歴史を窺わせる面影もなく、大都会テヘランの喧騒と粉塵の中に置かれている。
 そのレイのさらに町はずれに外国人共同墓地がある。プロテスタント教会により維持管理され、宗教にかかわらずテヘランで亡くなった外国人が埋葬されている。日本人の他、オーストラリア、イギリス、カナダ、中国、ドイツ、オランダ、ノルウェー、ロシア、スウェーデン、スイス人など約300人が眠る。テヘラン日本人墓地は、この共同墓地の一角に存在する。
 10月末日、私は毎年行われている日本人墓地の墓参式に参加した。イラン情勢をめぐる緊張が高まり、民間駐在員の多くはテヘランから本邦ないし近隣国に退避していたため参加者は少なくならざるを得なかったが、大使館館員およびサフラン会(イラン在住の日本人女性の集まり)からも参加を得て、この良き伝統を絶やすことなく実施できたことはありがたいことであった。
 大使館担当者から事前に説明を受け、ここに9名の日本人が埋葬されていることは知っていた。頭の中でそれを振り返りつつ、一つ一つ墓石を巡ったが、なかでも戦前に亡くなった以下の4名の外務省関係者の短い人生に筆者は格別の感興を覚えた。

  • 成瀬俊介。1929年没。享年32歳。笠間杲雄(かさま・あきお)初代ペルシャ公使の着任に先立ち、公使館開設準備のため、当時二等書記官として在勤していたロシア(モスクワ)より出張を命ぜられ、テヘラン滞在4か月で病没。
  • 石光昌子。1931年没。享年2歳。石光医務官の令嬢。笠間公使の本省への強い要望により医務官がテヘランに派遣された直後に夭逝。
  • 羽鳥三郎。1932年没。享年21歳。笠間ペルシャ公使付のクラーク。着任した翌年に病没。
  • 川添アナトール。1937年没。享年20歳。当時大使館書記生であった川添政太郎の継子。両親に会いにテヘラン訪問中に病没。

 石射猪太郎の回顧録に『当時ギリシャ、シャム(タイ)、ペルシャの三カ国は「三シャ」と言われ、外交官の墓場として嫌われた赴任先であった』という記述があるが、私はこれは左遷されて行く国という比喩的な意味だと思っていたが、ペルシャは文字通り墓場だったのだ。
 横道にそれるが、成瀬俊介は文学者の成瀬正一(芥川龍之介、菊池寛などと第四次『新思潮』を創刊)の実弟であり、彼の追悼集には、旧制三高時代に一年間同じ部屋で起臥を共にした菊池寛が文章を寄せている。当時の一般的なペルシャ観が表れており興味深いので、その一部を引用する。
 『彼は代理公使として任地に客死したのであるから、軍人ならば戦場で死んだやうなものであるが、しかし波斯のやうな交通不便な、医者もろくろく居ないやうな所へ行かなくっても済むやうな方法はなかったかとつい愚痴が出るのである。』
 笠間公使も成瀬をかわいがり、同公使の回想記「砂漠の国」には、本省や在外での両者の交流のエピソード、そして最後の4日間(笠間がテヘラン着任して4日後に成瀬は亡くなった)が叙情豊かに描かれている。
 それにしても亡くなった方々の何と若いことか。実際テヘランは、当時の世間一般の医療、衛生事情を差し引いても、格別に過酷な瘴癘の地であった。上記の笠間の回想記にも、それをうかがわせる記述が随所に見える。
 『飲料水は、英国公使館が山から直接引いたものを我々に売ってくれた。そのため病菌などの脅威は全然免れた。』
 『モスコーからバクーへ着くと何の訳とも知らずに涙がハラハラと出ますよと私の前任者の夫人が云った。同夫妻は長らくロシアに在勤したロシア通であるが、バクーがスラブ文明の最後の別れ場でここを出れば文明とは暫く縁が切れるという気持ちを私に教えたものと思われる。』
 さだめし「西ノ方陽関ヲ出ズレバ故人ナカラン」の心境であろうか。イランに行ってしまったらもう君に酒を勧めてくれる友人もいまい、そういう気持ちでイランに赴任する者を送り出したのだろう。
 さて、9名の墓を一通りめぐった後、ふと脇に目をやると、そこにキリスト教式の小さな墓石が立っているのが目に留まった。石の劣化具合から、かなりの年代を経過したものであることがうかがえた。
 表には十字架、その下にローマ字と漢字カタカナで「Anatole Kawazoye 川添アナトール」と刻まれ、裏には以下の墓碑銘がフランス語で刻まれていた。
 『1917年4月23日、ルーマニア領内ベッサラビア州ティギナで生まれ、ルーマニアで幼少期を過ごす。母はロシア革命の混乱を逃れてルーマニアに避難していた。その後ルーマニアで教育を受け、ブカレスト大学に進学し、建築を学んでいた。1937年夏、両親に対する愛情に誘われ(par amour pour ses parents)テヘランを訪った。当時父はテヘランの日本公使館の書記生であった。テヘラン来訪直後に病を患い、同年10月22日に早すぎる死を遂げた。』
 両親に対する愛情に誘われ―私は無味乾燥な墓碑銘に刻まれたこのやや唐突ともいえる人間味溢れる叙述に好奇心をくすぐられた。

(写真)川添アナトール氏の墓石(筆者撮影)

 イラン事情に詳しい三菱商事の梨本博氏にこの話をしたところ、井上英二氏(外務省きってのイラン専門家)の遺稿集『わが回想のイラン』にアナトールのことが書いてあると紹介された。さっそく該当部分を繰ってみると、以下のような記述があった。(なお、当の井上英二氏自身、1986年に亡くなられた際ご本人の遺言に基づき分骨されテヘラン日本人墓地に眠っている。)
 1937年、それは井上氏がペルシャ語研修を終えて帰朝する年であった。公使館書記生の川添政太郎氏の令息でブカレスト大学生であったアナトールが夏季休暇でテヘランの両親のもとに滞在していた。「アナトール君の母はルーマニア人で、第一次大戦中ロシア軍の将校と結婚し、アナトール君をもうけた。夫君は戦死し未亡人となっていたが、当時ブカレストに留学中の川添氏と知り合い、結婚した。アナトール君は教育の関係上ブカレストに残った。川添氏は夫人との間には子供をもうけることができず、アナトール君を実子のごとく可愛がっていた。」
 井上氏もテヘラン出発直前で多忙な合間にときどき川添邸に招待され、アナトールとも片言の英語で話し合ったようで、「スマートな好青年であった」と記されている。そのアナトールが腸チフスにかかり重体であると知ったのは、井上氏がテヘランを出発する四日前であった。「川添夫妻の献身的な看病の甲斐もなく、その二日後に不帰の客となった。その翌日行われた告別式での川添夫人の『この世に神はない』と繰り返し慟哭する声が、43年経た今も耳朶に残っている。」
 アナトールが生まれ育ったティギナとはどんな所なのだろうか。現在はモルドバ領であるが、戦前の一時期(1925-1938)はルーマニア領で、ちょうどアナトールがそこで過ごした時期と重なる。当時人口の約50%がルーマニア系人、人口構成で次に大きいのがロシア人(約15%)だったので、ロシアとの関わりは深い地域のようだ。
 墓碑銘にはアナトールの母は「ロシア革命の混乱を逃れてルーマニアに避難していた」とあるが、これと夫の戦死との前後関係は不明である。アナトールを産むために故国ルーマニアに戻ったのではなかろうか。
 一方、アナトールの将来の父となる川添書記生は、人事課の記録によれば「1895年生、1920年10月外務省雇」とある。ルーマニア在勤を命じられブカレストに着任したのは、1922年10月であった。このときアナトールは5歳になったばかりであり、川添氏がいつ夫人とめぐりあい結婚したかは不明なるも、この年齢を考えれば川添氏がアナトールを実子のように可愛がったというのはうなずける。
 その後川添書記生はペルシャ在勤を命じられ、ブカレストを離任したのが1930年12月、この時アナトールは13歳であった。教育の関係上アナトールはブカレストに残ったということは、おそらく川添夫人もしばらく(あるいはアナトールの大学進学時まで)ブカレストに残ったのではあるまいか。
 アナトールは立派に成人し、ブカレスト大学に進学した。そして夏休みに「両親に対する愛情のおもむくままに」、運命のテヘラン行きを決める。
 川添書記生は、同年10月13日、なんとアナトール死去の10日前にエジプト在勤を命ぜられ、翌年2月にテヘランを離任した。官命とはいえ、さぞかし重苦しい思いを抱いた中での転勤ではなかったろうか。
 1937年という年自体、重苦しい年であった。欧州ではスペイン内戦が激化し、ナチスが猖獗を極めていた。極東では盧溝橋事件が勃発、上海事変から日中全面戦争に発展し、年末に南京が陥落した。
 その後の川添氏の経歴を調べたところ、エジプトの後は1943年シャムに転勤(サイゴン出張駐在)となり、そこで終戦を迎え、1946年退官と記録されている。
 もし両親を訪ねてテヘランに旅行していなければアナトールのその後の人生はどうなっていたのだろうか。私はアナトールの墓碑銘を思い返し、広大無辺な歴史の絨毯に埋もれる無数の人生の綾に、そして「両親に対する愛情」が引き起こした幸禍のドラマに、あらためて感慨を覚えずにはいられなかった。
 墓参の数日後、当館領事班の担当者が、日本人墓地に関するファイルの中に一通の手紙―川添政太郎氏から井川克一駐イラン大使(当時)宛の本人直筆の書簡―を発見した。日付は1974年11月22日、場所はロサンゼルスとなっている。外務省引退後の川添氏の経歴は不明である。あるいは余生を米国で過ごしていたのであろうか。
 書簡の内容は、最近実現した日本人墓地の移転の際の盛大な供養に対する御礼であり、あわせてそこには、最近川添夫人が他界したこと、その結果天涯孤独の身となり、色々支障を生じ墓参もままならなかった折、図らずも墓地移転の知らせとともにアナトールの墓石の写真が送られてきて、それを見て感泣したことが、几帳面な書体で記されている。(了)