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『日記について思うこと』 2017-01-16


『日記について思うこと』

               元駐ハンガリー大使 松本 和朗

 日本人には日記愛好家が多いという。私もここ20年愛用の日記帳を使って日記を書いてきたが、以下に日記について思うことをつれづれに書いてみることとした。日記に関心のある向き、あるいは同好の士がおられれば、興味あるエピソードや参考になることを教えていただければと思っている。

1、日記の種類(公開と非公開)

 日記のなかには公開を前提としたものが少なくない。たとえば、石射猪太郎の「外交官の一生」(中公文庫、1986年)は公開を前提に書いた日記がもとになっている(日記自体は戦災で焼失してしまった)。永井荷風の「断腸亭日乗」も公開を前提とした日記なので、人に知られたくない、書きたくないことは書かれていない。かつ、芸術作品としての日記文学であり、荷風は毎日いろいろ見聞きしたことを書いて、それを大学ノートに写し、さらにそれを和紙に清書したという。並大抵でないエネルギーを投入している。

2、私の日記の書き方 

 自分の日記はあくまでも自分だけに書いたものであり、公開することは全く考えていない。したがって、書き方も走り書きで、最小のエネルギーしか使っていない。他人に読ませたくない日記を書いた人に、17世紀のイギリスの蔵書家で海軍大臣であったサミュエル・ピープスがいる。フランス語、イタリア語、スペイン語、ラテン語、ギリシャ語、ドイツ語を英語に混ぜ込んで書いたといわれている。石川啄木も妻に読まれないため、「ローマ字日記」を書いた由である。

 日記は日本語で書いている。一時期、語学の勉強のため英語やドイツ語の日記を書いたことがある。しかし、語学力の不足もあり、これは3日坊主に終わった。ドイツ研修時代にビュルツブルグ大学で課題として課せられた吉野文六大使のドイツ語日記が、偶然大学から亡くなられる前に吉野文六大使に郵送されてきた(本人は日記を書いたこともすっかり忘れていた)。ドイツの大学が日記の原物だけを郵送してきたことは謎ではあるが、佐藤優の「私が最も尊敬する外交官 ナチスドイツの崩壊を目撃した吉野文六」(青淡社、2014年)の末尾にドイツ語日記の日本語訳が掲載されている。ドイツ語を考えながら日本語訳を読んで吉野大使のドイツ語力に感心させられた。ところで、外国語で書いた自分の日記は、外国語のレベルが低く、読むに堪えない代物であったが、それでも再読しておおよその意味をとることはでき、その当時の記録としてはまったく意味がなかった訳でもないと思っている。

 自分の日記は人に読まれることを前提にしていないので、最小エネルギ―で、走り書きしたものである。とくに疲れている時に書いた時は、後から読み直すとおうおう解読不能の文字に化してしまう。それだけでない。この走り書きを自分は「つつき書き」と称しているが、思いつくままにいい加減に書いているので、まず文章の体をなしていない。また、時には感情をぶつけるだけで、論理も全くない記述となり、たとえ他人が私の日記を読めたとしても、書いている内容を理解するのは不可能であろう。兼好法師の徒然草なども自由につれづれに書かれているので、論理的整合性がなく、理解できないところや矛盾するところがあるが、私の日記はそれどころではなく、あえて言えば、日記以前の日記であり、単なる備忘録というべきものかもしれない。その意味で、柏木博の「日記で読む文豪の部屋」(白水社、2014年)にあった芥川龍之介の次のような「日記のつけ方」に大いに共感している。

1、 文学青年は日記が必要でせうか。無からん

2、 貴下は日記をおつけになりますか。つけたりつけなかったり、

3、 参考までに日記のつけ方を示してください。精粗でたらめ、

4、 日記をつければ効果がありますか。大したものならず、

5、 何店発行の日記を御使用になってゐます。半紙三帖とじの帳面大抵手製なり。

3、愛用の日記帳

20年前から愛用しているのは日本能率協会ペイジェムメモリーの日記(1200円+税)で、毎日1頁であること、持ち運びしやすいこと、自分の1年をそこに凝縮出来ること、保存がしやすいことで重宝している。それ以前は、大学ノートや、いろんな種類の日記を使ったり、パソコンへの書き込みもしていたが、統一性がないこと、保存の不便などいろいろ難点があり、結局、この日記に落ち着いた。なお、この日記を使い始めたころは表紙は黒色の立派な装丁であったが、残念ながら2010年に廃版となり、様式は同じであるが、ネイビー色の表紙に変わっている。

 現在の日記スタイルに定着するまでには、仕事日記とプライベートな日記の二本立てにしていたこともあった。日独2ヵ国語で書くエクソフォニー作家の多和田葉子は、言葉に関することを中心に書く日記と、その他普通のことを書く日記の「二重帳簿」をつけている由である(「言葉と歩く日記」岩波新書、2013年)。しかし、自分の場合、仕事日記のほうはスタイルが固まらず、ある段階で諦めてしまった。

 また、ある時期、日記をパソコンに書きこんだが、これもうまくいかなかった。データー保存について十分配慮しなかったので、いつのまにか新しいパソコンに変わって、大部分の日記を含む記録が失われ、残ったのはパソコンを印刷して残してあったものだけである。余談であるが、もともとハイテク・アレルギーなので、今使っているパソコンが壊れればパソコン自体を諦め、すべて手書きの世界に戻ろうかとも考えている。

4、日記と「終活」

 自分だけの日記を再読してみると自分についてのいろんな発見がある。何より日記がなかったら、過去の出来事やその時々で感じたこと、考えたことが忘却の世界に入ったまま出てこなかったであろう。日記を書いてきて良かったことは、記録としての価値であり、これこそが日記の最大のメリットである。さらに、備忘録としての役割も得難いものがあり、一年前の日記を必要に応じて再三確認をすることが少なくない。

 現在、「終活」に取り組む中で、大学ノートやパソコンなどの古い日記をときおり再読しているが、時間を食うものの、こんなことがあったかと昔のことが思い出され、結構楽しい時間潰しになっている。自分の見たこと、感じたことなどを無責任に書きなぐっているだけなので、肝心なことが抜け落ちていることもあり、再読してこんなことも見過ごしいたのかと反省させられることも少ないない。これも日記の効用といえるかもしれないし、それだけになおさら非公開の原則を維持していかなければならないと思っている。

「終活」といえば、放置したままであった写真や手紙の整理作業に入っているが、これらの記録力にも感心させられる。古い手紙を再読して多くは忘れてしまっていたことであるが、他者の目から見た自分の姿を知ることができたし、また、古い写真からは当時の状況が瞬時にイメージすることができた。これらは日記データーを補足するものであり、ある意味で「第二の日記」と呼んでよいのかもしれない。

5、日記による脳活性化

 最近になって、時間にやや余裕がでてきたか、自称「つつき書き」のいろんな不便を回避するため、下書きしてから日記を浄書をするようになった。まず、下書きは捨てる前の用済みの厚紙に絵を描いたり、へぼ川柳を作ったり、殴り書きの文章を書いたりして手間暇かけずに下書きし、そこから日記に記載できるものだけを浄書することにしている。浄書(?)といっても人に見せない日記であるので、どうしてもいい加減に書いてしまう流し書きには変わりはない。

 このやり方をして、脳のフリーズを防ぐという新たな効用があることが分かった。後期高齢者となった今、物忘れもひどくなってきており、脳のメインテンスに気をつけるようになっているが、頭の中にあることを何でも書く下書き方式によって頭の中にある記憶が紙に移転され、その結果、頭脳のフリーズが防止され、脳活性化に役立っているのではないかと考えるようになっている。                     以上、閑話休題。 (2016,11、22記)。

『思い出の珍談・奇談』 2016-12-14


『思い出の珍談・奇談』

               元駐インド大使 小林 俊二

酒を持て、オズリック

 古い話で恐縮だが、大学の教養学部に在学中のことである。ESS(English Speaking Society)がシェクスピアのハムレットを原語で上演することになり、協力を求められた。私がESSとは別に英会話クラブを主宰していたからである。私に割り振られたのは廷臣(courtier)オズリックという端役であった。厳密にいうと劇中廷臣は何人も登場するのだが、人手不足の折からオズリック一人で何役かを勤めることになったのである。ともあれ英語の台詞を逐一暗記するのは並々ならぬ作業であるから、台詞の少ない方が楽だと思って引き受けた。

 劇中ハムレットとレアティーズが王と王妃の面前で試合をする場面がある。主な登場人物がすべて命を失うという血腥い悲劇の大詰めの場面である。父である先王毒殺の事実を確信したハムレットの復讐を恐れる国王。宰相であった父ボローニアスをハムレットに誤って刺殺され、ハムレットの変貌に絶望して気の狂った妹オフェリアを失ったレアティーズ。ハムレットを亡きものにするため、王がレアティーズを唆してハムレットに挑戦させた試合である。酒にも剣にも企みが仕組まれていた。オズリックは審判役としてこれに立ち合う。試合半ばで王が小姓に乾杯のため「酒を持て」と命じる。ところが出番の少ない小姓役の学生は退屈しのぎに大道具の陰で裏方と雑談していて、王の命令に気がつかない。王は同じ台詞を二度繰り返したが、小姓は出てこない。窮した王は「酒を持て、オズリック」と叫んだものである。

 廷臣といえども武士である。酒の給仕などするいわれはなかったが、王命とあれば止むを得ない。抜刀していた剣を鞘に収め、片隅の台から細口瓶とコップの載った盆を取り上げて王の許に赴き、酒を注いで王に捧げた。かくてその場は一先ず無事に収まったというわけである。

 終演後、指導に当たってくれた文学部の英人教授を囲む会が開かれ、教授から各人の演技についてコメントがあった。私については酒の注ぎ方が良かったと褒めてくれたが、コメントはそれだけだった。

睡眠中

 私がパリの大使館でOECD(経済協力開発機構)関係の事務を担当していたときの話である。日本の正式加盟も主要な担当案件の一つであった。正式加盟は1964年4月のことであったから、その前年辺りのことであろう。OECD側で加盟交渉事務を担当していた法務部長が何度か東京に出張した。

 東京のホテルの室内にあった”Do not disturb”と記された掛け札が気に入ったらしく、持ち帰って事務局の自室の扉の外に掛けていた。桜の模様をあしらった洒落た掛け札であった。しかし、札に記された日本語の表記を見て吹き出した。掛け札には「睡眠中」と併記されていたのである。私は本人に注意もしなかったから、その後掛け札がどうなったか知らない。

搭乗機の異変

 ある時バンコックで国際会議が開かれ、私は主管課長として三木(武夫)外相に随行してタイに出張した。日本航空の搭乗機がバンコックにさしかかって暫くすると、スチュワデスが青い顔をして客室内の通路を往復し、頻りに「落ち着いてください、落ち着いてください」と乗客に呼び掛け始めた。しかし、搭乗機は異常な揺れもなく飛行を続けており、アナウンスによる説明もなかったから乗客には何のことやら訳が分からず、落ち着いているしかなかった。多分客室乗務員は、マニュアルにない英語の説明ができなかったため、日本語でのアナウンスもしなかったのであろう。

 そのうちに機は着陸態勢に入り、やがて滑走路に着地した。多少がたがたとした衝撃を感じたがそれだけのことで、無事停止した。直ぐ搭乗口が開いてシュートが降ろされ、報道関係者が滑り降りた。乗務員の指示で何も持たずに地上に降り立った報道関係者が「カメラ、カメラ」と叫んでいた。そのうちにタラップが降ろされ、代表団一行は何も分からないままタラップを降りた。地上に降りて見ると機の周辺に消防車が群がり、燃え上がったらしい車輪が白い泡に埋まっていた。要するに着陸態勢に入った際、一部の車輪のブレーキがどうしても外れないため、何度も上空を旋回した挙げ句、そのまま着陸を強行することになった。その結果、ブレーキが噛んだままの車輪が滑走路との摩擦で燃え上がったというわけである。確かに着地した機が姿勢を崩したり、燃え上がったタイヤから燃料に引火して爆発でも起せば大事故になりかねない状況だったのかも知れない。出迎えのため空港に参集していたタイ政府、日本大使館その他の関係者は、極度の緊張に包まれていたらしく、一行遭難の場合には会議を中止せざるを得ないなどと話し合っていたという。

 翌日、現地の新聞に大事故寸前の状況にかかわらず日本代表団一行は何事もなかったかの様子で平然とタラップを降りてきたと、その沈着冷静振りを称賛する記事が掲載された。事情を知らない私たちは取り乱しようがなかったのである。私は代表団の事務方の責任者として何としてでも乗務員をつかまえ、事態を確認すべきだったのであろう。だがそうすれば惨事を免れた機体から外相がシュートで滑り降りる等という、いささか威厳にかかわる事態を招いたかも知れない。怪我の功名ではあったが、余り自慢のできる話でもない。

ジュネーブの昼食会

 私がジュネーブの国際機関代表部に着任して間もない頃だから、1979年半ばのことである。国連ジュネーブ本部で開かれた会議に出席中、議長を勤めていたニュージーランド大使から大使公邸での昼食会に招かれた。

 当日午前の会議終了後、車を運転して大使公邸に向かった。まだジュネーブの地理に詳しくなかった私には招待状に印刷されていた地図が頼りであった。地図に従ってレマン湖畔を走行中、前を行く車の後部座席で同じ会議に出席しているフィリピン大使が薄くなった頭を櫛で撫でつけているのに気がついた。フィリピン大使は会議で途上国グループの代表であり、スポークスマンであったから、議長の昼食会に招かれても可笑しくない。私は時折地図を確かめながら大使の車の後について走った。

 車はレマン湖の南岸に沿って東に走り、やがて右折してゴルフ場のあるコンシュに向かう道に入った。これも地図の示すとおりである。私は大使が議長公邸に向かっているものと確信した。しばらくして大使の車は鬱蒼とした樹木に囲まれた宏壮な邸宅の門をくぐったので、私も後について敷地に入った。大使車は玄関に横づけにされ、車を降りた大使が玄関に入っていった。私は駐車場に車を停め、大使の後を追った。玄関ホールに続く広間では同じ会議に出席している各国代表が歓談していたから、私もその輪に加わった。

 やがてバトラーが食事の用意ができたことを告げ、一同は食堂に入った。どうも腑に落ちなかったのは、ニュージーランド大使の姿がなく、主人の席にイギリス大使が着席していたことである。会議がかなり揉めていたことから、私は議長が昼食会に出席できなくなり、英連邦の誼か何かでイギリス大使に主人役を勤めるよう依頼したのだと解釈した。もう一つ気になったのは、他の出席者の席に金色の紋章入りで氏名のタイプされた名札が置かれていたのに、私の席の名札だけ二つ折りにして氏名を手書きした白いカードだったことである。

 ともあれ食事は和やかな談笑のうちに進んだ。メイン・ディッシュはロースト・ビーフであった。食事が終わると参会者は別室に導かれ、コーヒーや食後の酒が供された。一頻り歓談の後、一同はイギリス大使に挨拶して辞去したのである。

 その日の午後は会議がなかったので、翌日午前の会議の際、私は開会前に議長席に歩み寄り、前日昼食会で会えなかったのは残念だったと述べた。ところが議長はきょとんとした表情で私を見上げ、あなたは一体どこの昼食会に出席したのかねと尋ねたのである。私は飛び上がった。私は議長の招待をすっぽかし、招待を受けていないイギリス大使の昼食会に出席してしまったのだ。二人の大使に平謝りに謝らなくてはならない結果になったことはいうまでもない。ニュージーランド大使の公邸は、同じ通りをさらに数百メートル進んだところにあったのである。

 イギリス大使は会議に出席していた次席が私を昼食会に招いたのだと思い、大使秘書は大使が直前になって私を招待したのだと思って急遽席次をアレンジし直したり、私の名札を用意したりしたのだという。名札の件を除き昼食会の始めから終わりまで、突然の闖入者である私に何の違和感も抱かせず、従って自分の思い違いに気づかせなかった大使以下の対応振りは見事という他はない。私はイギリス外交の伝統の一端を垣間見た思いで、密かに感服の念を新たにした。とはいうものの、これは甚だしく外交儀礼に反する失態であり、褒められた話ではなかった。当時は誰にもこの事件について口にすることができなかったのである。

春の椿事

 私は1993年に外務省を退官後、日本大学法学部に外交史担当の専任教員として任用を受けた。同時に「国際関係と外交」を主題とするゼミを担当した。しかし、70才で教授の定年を迎え、非常勤講師になるとゼミの担当がなくなるので、私のゼミは六期生の卒業とともに消滅した。在籍したゼミ生は一部、二部を合わせて120名ほどに過ぎなかったが、その代わり最年長者と最年少者の年令の差が少ないこともあって、ゼミ生OB、OGの纏まりが良かった。やがて俊桜会と称する旧ゼミ生の懇親グループが発足し、毎年定期的に会合して食事を共にすることになった。出席者は平均して15名ほどであるが、この会合は、私の教授退任後15年を経た今でも続いている。毎年11月の土曜日に昼食会を開く慣行が定着して何年にもなる。

 全員が卒業してしばらくすると、ぽつぽつ結婚するものが出てきた。ゼミ生同士の結婚もすでに四組を数えている。ある年の三月か四月、一通の結婚披露宴への招待状を受け取った。新婦の氏名はかつて小林ゼミに名を連ねていた女子学生のものだった。私は独りで出席する旨返事を送り、当日、会場に指定された横浜のホテルに赴いた。

 ホテルの廊下で私は家内の妹夫婦に出会った。聞けば同じ披露宴に出席するところだという。私は義妹の主人が新郎の縁戚にでも当たるのかと思い、これは奇縁だなと思った。しかし、良く良く聞いて見ると、出席しようとしていたのは私のゼミ生だった女性のではなく、家内の従妹の結婚披露宴だったのである。家内の従妹は、私が披露宴の新婦だと思い込んでいたゼミのOGと同姓同名だったのだ。家内の従妹は結婚して長いこと当時の夫の姓を名乗っており、その後離婚して実家の姓に戻ったというややこしい事情もある。ゼミの女性と同じだったのは実家の姓であった。招待状の封筒の裏には従妹の氏名とともに住所も書いてあった可能性があるから、家内が見れば分かったのかも知れないが、ゼミのOGだと思い込んだ私は、多分家内に招待状を見せることもしなかったのであろう。

 ともあれそういうことならこれは私より家内が出席すべき宴席だったのであるから、新郎、新婦に家内の不参加の理由を説明しないわけにはいかなかった。その結果私は満場の爆笑を買う羽目になり、身の縮む思いがした。春の椿事であった。





『能とバレエ』 2016-07-29


『能とバレエ』

               元駐ギリシャ大使 齋木 俊男

 世の中に能とバレエほど違いの大きいものはありませんが、両者の競演というめずらしい催しが昨平成二十七年一月国立能楽堂でありました。いささか旧聞に属しますが、同年九月号本誌掲載の拙稿「能は千番」の補足までにその様子を記してみます。

 この催しは当代一流の能楽師・人間国宝の梅若玄祥がパリ・オペラ座トップ・バレエダンサーのマチュー・ガニオと「タイースの瞑想曲」を舞うものでした。「競演」といっても二人が一緒に舞うのではなく、まずガニオが妹のマリーヌ・ガリオとパ・ドゥ・ドゥーを踊り、次に梅若玄祥が同じ曲を創作能で単独に舞うものでした(能は原則として足を上げないので「踊る」とはいわず「舞う」といいます)。  「共演」の部分もあり、開演直後二人が能管に乗って登場し、橋掛かりのところに並んで「瞑想曲」の最初だけを能の振り付けで舞いました。バレエ・ダンサーにとっては初めての体験だったでしょう。  他方能楽師が西洋音楽を舞うことはこれまでにもありましたが、同じ西洋音楽の曲をバレーと前後して舞うのは空前の試みだったはずです。公演は梅若とガニオが互いに相手の芸術を尊敬しあう結果実現したものだったそうです。  八十才を過ぎ、近年ほとんど東京に出ない私がわざわざこの公演を見に行ったのは能の「舞」(「舞事」)に興味があったからです。前回書いたように能の「舞」は物語りの担い手である謡が止まり、シテが囃子だけをバックに抽象的な「型」の連続であるパターンを舞うもの。パターンは「舞」の種類が同じならどの曲でも共通です。それでも曲によって表現の差があるのか。そもそも抽象性のある「舞」がなにかの意味を表現するのかという疑問がありました。同じ舞踊芸術でも洋の東西で性質が違うバレエと比較すればなにか分かるかもしれないと期待したのです。  

 意外だったのは、バレエもやはり「型」の芸術のように見えたことです。バレエをよく知らないので見当違いかもしれませんが、そう感じたのは実物の演技ばかりでなく同じダンサーの基礎練習風景のDVDを買って見たからです。

 実演の印象でもバレエは能の「舞」と同じように物語を直接的になぞるようなことはしません。大部分は抽象的な「型」のような動作で踊るのです。しかし能とちがうのは、ところどころに表意性のある仕草(日舞でいう「当て振り」)らしいのがあることでした。つまり舞踏をつうじて物語りを直接的にではないが間接的には表現しようとしているらしい。ガニオ兄妹が踊ったのは有名な振付師による振り付けだそうですから、これが正統なバレーの姿と見てよいでしょう。兄妹は能舞台という狭い独特な空間の制約にもかかわらず堂々たるバレエを披露しました。

 話を梅若の能に移す前に共通の音楽的背景である「タイースの瞑想曲」についてふれておく必要があります。この曲はポピュラー名曲として単独に演奏されますが、もとは十九世紀末マスネ作曲の「タイース」というオペラの間奏曲です(ちかごろは「タイス」という表記が多いがオペラを聞けば旧表記の「タイース」の方が正しいようです)。

 オペラは紀元四世紀のアレキサンドリアが舞台。当時この町はキリスト教以前の異教の支配下にあり、ヴィーナス神の女司祭にして高級娼婦(古代宗教ではよくあったこと)タイースの影響によって道徳的に頽廃しています。そこに一人のキリスト教修道僧が現れ、彼女に神の道の永遠を説いて改悛させようとする。彼女はいったんこれを退けるものの世俗愛のはかなさを思い、また自らの美貌が失われる老いの恐怖から回心するという物語です。「タイースの瞑想曲」はその過程の宗教的な浄化を表現します。

 実際の物語はもっと複雑で、修道僧は内心タイースを愛しており、オペラ終盤でそれが爆発的に表面化します。他方タイース自身の回心にも世俗愛からの脱却の苦悩があり、そういうもろもろの葛藤と苦悩を描くのがオペラ本来の目的です。

 清純ひとすじに聞こえる「瞑想曲」もよく聴くとこれらの苦しみや葛藤が暗示されています。音楽的には曲の中間部で旋律が短調に転調し、世紀末風の複雑な和声がつけられています。ガニオのバレーはこの裏側の世界を色濃く表現するようには見えませんでしたが、バレー通が見ればわかることがあったでしょう。

 しかし背後に暗い影があるにせよ「瞑想曲」自体の表現の中心はあくまで「浄化」。それはまた梅若が能によって現したいと考えたものです。アーティストはふつう自らの意図を語ろうとせず能楽師は特にそうですが、梅若は公演に先立つ取材に対しあえて表現したいのは「浄化された『白衣の女』」と答えました(日経新聞文芸欄)。その言葉通り梅若は輝くような純白の能衣装に白い女面をかけて登場しました。

 ただ梅若は一つ大きな変更を行いました。同じ西洋の曲を使いながら物語りの背景をオペラから能の「大原御幸」(おはらごこう)に替えたのです。西洋風の物語は能になじまないと考えたのでしょう。

 「大原御幸」は「平家物語」の最終巻「灌頂巻」(かんじょうのまき)を素材にする能です。場面は平家没落後出家して京都郊外の大原にわび住まいする建礼門院を後白河法王が訪ねて来るところ。この建礼門院が「浄化された『白衣の女』」です。

 両人の背景には因果に満ちた大ドラマがあります。後白河法王は平家と権力闘争をくりかえして最後には平家を滅ぼした張本人。建礼門院徳子は清盛の娘。政略結婚で後白河の子高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生むが、安徳天皇は平家一統とともに壇ノ浦に沈む。そして平家一門は滅亡。女院自身は入水するものの生き延びて出家し、大原の草庵で暮らしている。法王が訪ねて来るのはその悲劇からたった一年後のすべてがまだ生々しいときです。そのような中を最高権力者に返り咲いた法王がわざわざ訪ねてくる。しかもお忍びで突然の訪問です。

 こうした状況下での「浄化」とは一体何でしょうか。ふつうに考えられるのは正反対のことです。権力者に返り咲いた後白河が平家の中心的女性だった女院の零落ぶりをハラスメントよろしく見にやって来る。歴史に残る後白河の行状からすれば考えられることです。そればかりでなく、かつて両者の間には只ならぬいきさつがありました。平家が危機に立ったとき、一門の間には当時中宮であった徳子を後白河に”献上”しようとする動きがあったのです。これは徳子の拒否によって実現しませんでした。

 思うに「浄化」はフィクションです。すべてとは言いません。大原でわび住まいする建礼門院は平家一門の菩提を静かに弔う姿で描かれており、その姿はすでに「浄化」されています。フィクションは後白河法皇の訪問自体にあると考えます。この訪問を裏付ける史料的根拠がないからです(皮肉なことに”献上”の動きは史実です)。

 虚構の必要性は「大原御幸」を記述する「灌頂巻」の性質に由来するものでしょう。「灌頂巻」は「平家物語」全十三巻の最後の巻ですが、いろいろ版本がある「平家」のすべてにはなく、後世の追加という説があります。しかし平家琵琶の系統を中心に伝統的に重要視されており、それはたぶんこの巻によって盛者必衰の叙事詩である「平家物語」に救いがもたらされ、敗者に同情的な日本人の心に訴えるからです。

 「灌頂巻」の後白河法王は、敗者の象徴建礼門院を訪ねて来ても権力者として驕慢な態度で臨むことはせず、女院の境遇に同情の涙を流します。そればかりでなく法王は、天上から地獄に及ぶような女院の深刻な体験は仏教でいう「六道」に当たるとし、女院が生きながらにしてそれを果たしたのは仏・菩薩にも匹敵する宗教的偉業であるとたたえます。勝ち誇るライバルから差し出された和解と宗教的敬意。それは悲劇の癒しでしょう。また「平家物語」の無常感を象徴する「祇園精舎の鐘の声」の書き出しに対応する仏教的諦観のエンディングでもあります。もしこの巻がなければ、「平家物語」は出家した平氏最後の男子までが斬られるという無惨なだけの結末に終ります。「灌頂巻」の虚構によって「平家物語」はしみじみと胸を打つ結末を迎えます。そして建礼門院は生きながらにして「六道」を巡る宗教的な「浄化」を達成し、それによってまた平家一門の大悲劇も「浄化」(カタルシス)されたという物語りが成立しました。

 オペラ「タイース」と同じように、この物語りでも「浄化」の裏側には現世の葛藤が渦巻いています。

 「大原御幸」という能はいかにも能らしく簡潔で、能を見ただけでは上にのべたようなことはわかりません。まして今度の上演では物語りを担う「謡」がなく、西洋音楽だけで表現するという困難さがありました。その上原曲「大原御幸」には能としてはめずらしく独立した「舞」の部分がありません。つまり文学的表現無しに囃子だけで舞う部分すら欠けているので、梅若はかわりに新しい「舞」を創作する必要がありました。その「舞」は能の伝統に反して「舞」自体によってあるていどストーリーも反映しなければならない。なかなかのチャレンジだったと思います。

 このような多重的困難を解決する方法として、梅若は一連の伝来の「型」をつないで「舞」を仕上げながら、抽象的な型ばかりでなく具象的な型もふくめて物語性を出しました。能の伝統にないことです。具象的な型の例は「泣きの型」で、「瞑想曲」中間部の苦悩と葛藤を示すために使われました。

 しかし素人の立場で見ると型の理解はむつかしく、また型の知識があったとしてもそれだけでけでこの創作舞の表現内容、つまり「タイースの瞑想曲」の「浄化」が能風に舞われたことを即座には理解できなかったでしょう。すくなくとも私にとっては梅若の事前のヒント、「浄化された『白衣の女』」が必要でした。

 出来映えはどうだったかというと、梅若は「瞑想曲」にうまく乗りながら苦難と葛藤をつうじて「浄化」した「白衣の女」建礼門院を静かに気韻高く舞いました。好演でした。能の原曲では「謡」によって初夏の大原の静謐で美しい自然がうたわれており、装飾がほとんど無い能舞台でかえって瑞々しいイメージを喚起するのですが、心の中でそのイメージを重ねながら舞を堪能しました。

 終わりにちょっと一般論を付け加えておきす。

 二回にわたって能について書いてきました。前回は抽象的な型の組み合わせである能の「舞」にも「言葉にならない意味」があり、これをつかまえることが理解のポイントであるという趣旨のことを書きました。ところがこの「言葉にならない意味」という表現は知り合いの哲学者や哲学周辺の学問をした人たちにとって居心地の悪いものだったようです。たしかに「語りえぬものについては沈黙せねばならない」(ウイットゲンシュタイン)そうですから。また哲学事典で「意味」を引くとむつかしいことがたくさん書いてあります。

 しかし日本語の用法としては「名曲の意味を探る」(インターネット辞書「意味」の項の用例)だの、「その心の模様というか意味の・・・(現れ方)」(玉三郎 舞扇についての発言)だのという例があり、まあそういう日本語として普通の「意味」を使ったつもりでしたが、「言葉にならないなにか」とでも言っておけば無難だったかも知れません。 

  大事なのは、能の「舞」にかぎらず芸術一般において、この「なにか」は「感じとる」もので頭で分析的に理解しようとしても無駄だということです。その「感じる」が一般にいう「芸術がわかる」こと。最近あまり流行らないが小林秀雄はやはり立派で、この事情を「美しい『花』がある。『花』の美しさという様なものはない」(「当麻」)と言っています。この言葉は長く一人歩きしていましたが、もとが能に関するエッセーであることを知る人は多くないでしょう。ただ小林は能の観方など論じているわけではありません。花は美しいと感じるもので、花の「美」などという抽象的なものを考えてもはじまらないと言っているのです。

 例えていえばこれは重力と物理学の関係に似ています。今日、重力の法則や作用は物理学によって極めつくされており、地球の重力を利用して探査衛星の向きを変えて金星に飛ばすような芸当までできるようです。しかし物理学をいかに学んでも、われわれはそれによってわれわれ自身にかかる重力を体験することはできません。近ごろのエレベーターはよくできていて重力を感じないように設計されています。重力を感じるためには遊園地に行ってジェットコースターに乗るか、より直接的にはパラシュートを抱えて飛行機から飛んでみるほかないでしょう。ジェットコースターなどが芸術鑑賞に当たります。

 ただジェットコースターなどとちがって芸術は鑑賞しても必ず「感じる」わけではありません。芸術からなにかを感じるためには工夫が必要です。能の「舞」については、今回話題にした「浄化」のように、能楽師がどういう「想念」をもって舞っているかを知る、あるいは想像してみることが助けになります。前回この「想念」が「言葉にならないなにか」のすべてをカバーするかのように書いてしまったのは行きすぎで、「なにか」を感じるためのヒント、あるいはヒントになるイメージとでも考えた方がよいでしょう。

 能の場合、「想念」の例としては「浄化」のほかに「滅びの美」とか「追憶の恋」などいろいろありますが、直接それを知ることは困難でも、想像できる力を養っておく努力が必要です。

「想念」ばかりではなく、芸術鑑賞には手がかりとしてちょっとした知識も有益です。私が試行錯誤の末に知ったように、能の「舞」が抽象的な「型」の連続で物語的意味を表すものではないと知れば、「舞」の中にストーリーを探す無駄な努力をしてイライラしたり、挙げ句のはてに眠くなったりしなくてすみます。物語を探さず身体技の美しさ追っているうちに(演者によっては)芸の深さや能の奥にあるものが感じられて来ます。

 こういうことはたとえばクラシック音楽についてもいえます。ちかごろの若い人は知りませんが、日本人はクラシック音楽でとかくメロディー(と言って悪ければ上声部)ばかり聴く傾向があるように思います。しかし楽式、ハーモニー、対位法などの知識があればより豊かな鑑賞ができます。音楽は時間の芸術ですから、時間を構造によって満たしてゆく必要があります。これらの技法を意識すると、それまで訳のわからなかったパッセージが面白く聴けるようになります。対位法はとくにそうです。対位法はルネッサンス以来西洋音楽の基本で、バッハ以降の近現代音楽でも気の利いた作曲家はみな使っています。音楽理論を学ぶのは大変で私にもできませんが、どういうものか知っているだけでも鑑賞には役立ちます。

 芸術から「感じる」のは「ちょっと面白い」や「ハッとする」に始まって甘美な陶酔や崇高な感動に至るまで幅があります。それを分類するのは美学の仕事ですが、美学を学んでも感じ方は身につきません。また、感じる作用の本質について考えるためには脳科学や近年問題の「身体性」の知見が必要になってくるでしょう。しかしまず感じないのでは話になりません。なにも感じない芸術鑑賞ほど空しいものはありません。そしてせっかく感じるのなら大きな感動を体験したいものです。  昔の能の名人が舞うと感動で席が立てないことがあったそうです。能はそういうものがある世界です。名演に出会う機会に備えて感動をとり逃さない用意をしておきたいと思います。





『イースター蜂起百周年』 2016-04-27


『イースター蜂起百周年』



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               駐アイルランド大使 三好 真理

[プロローグ]

 今年はイースターが早かったため、3月は、アイルランド由来の聖パトリックデー、イースター蜂起百周年記念式典等様々な行事が目白押しとなりました。  「とにかく、小さな国なのに、毎年、表参道の交通を1時間半さえぎってしまうんですよ。」と、東京の聖パトリックデーのパレードでグランド・マーシャル役を務めたアイルランド人神父のドナル・ドイル上智大学名誉教授からは、少しばかり誇らしげな報告がありました。  米国では、例年通り、訪米したケニー暫定首相(2月26日の総選挙後の投票で首班指名に必要な過半数が獲得できず、この段階では一旦首相職を辞任して代行中)が、オバマ大統領にシャムロック(クローバーの一種で三つに分かれた葉を持つ草)の鉢を贈呈し、会談し、ランチを共にしました。ホワイトハウスの大統領の日程を、聖パトリックデーの前後に毎年必ず押さえることができる国は、アイルランドをおいて他にはないでしょう。「アイルランド魂」とでも呼びましょうか。人口460万人の小国ながら、存在感を示している姿はあっぱれ、だと思います。

[イースター蜂起を巡る歴史]  今から百年前と言えば、1914年に第一次世界大戦が勃発し、1917年にはロシア革命が起こったことは周知の事実です。アイルランドでは19世紀末頃から民族的な意識が盛り上がりを見せ、GAA(ゲーリック運動協会)が古来からアイルランドで行われてきたハーリングやゲーリックフットボールを復活させました。また、W.B.イェーツ(アイルランドが輩出した4人のノーベル文学賞受賞者の一人)らがアベー劇場を設立し、国民演劇を発展させ、これに呼応するように、ゲール語連盟が創設され、ゲール語の復活運動を始めました。第一次世界大戦が勃発するや、英国政府は戦争遂行を全てに優先させるため、アイルランド自治問題を当分の間凍結させようとしますが、長年の懸念がそう簡単に冷却するはずもありません。

 1916年のイースターに、パトリック・ピアースやジェイムス・コノリーらが、中央郵便局(GPO)を司令部として、ダブリンの重要拠点を制圧し、アイルランド共和国の成立を宣言しました。しかし、英軍が出撃し、この武装蜂起は数千人の死傷者と市の中心部の破壊をもたらしただけで、一週間で制圧されてしまいます。蜂起は完全な失敗に終わるのですが、この時の英軍当局による、共和国宣言の署名者7名を含む反乱指導者16名の性急な処刑が、事態を一変させたのでした。

 その後1918年には共和派のシン・フェイン党が大勝利し、アイルランド共和国の設立を宣言し、さらに「英・アイ戦争」や内戦を経て、1922年アイルランド自由国が成立し、アイルランドは独立を達成します。

[イースター蜂起百周年記念式典]

 百周年の記念式典は、イースターサンデーの3月27日(実際の蜂起があったのは、イースターマンデーの4月24日)に、蜂起の舞台となったダブリン市内のGPO前で行われました。アイルランドの政府要人や外交団が見守る中(屋外行事だったため、雨の多い当国の式典らしく桟敷席の下にはカッパの用意もありました)、国防大臣、ダブリン市長、ケニー首相、ヒギンズ大統領が順に到着し、正午ちょうどに式典は始まりました。GPOの屋上にある緑・白・オレンジの国旗を半旗とした上で、「ダニー・ボーイ」が演奏され、「共和国宣言」の朗読、大統領による献花、参加者全員による一分間の黙祷、国旗を元に戻したあとは、国歌演奏、6機の軍機が編隊飛行でトリコロールを描き、式典は終わりました。

 引き続き総勢3500人、車両70台によるパレードが行われました。晴天に恵まれ(最後の最後、たまりかねたように大雨が降ったのはご愛敬でしたが)厳かな記念行事は、つつがなく幕を閉じたのでした。

[今日的意義]

アイルランド政府は、この百周年の準備のため、一年以上も前から芸術省の下に超党派議員グループ及び専門家グループからなる「Ireland 2016」を立ち上げて、各種イベントを各地で開催すると同時に、自国の歴史や国旗等についてのナショナリズム教育に力を入れてきました。また外務貿易省のプレスリリースによれば、2016年は年間を通じて、わが国を始め、米・英・豪・中国など15か国で関連事業の開催を予定しているようです。

 政府要人の中には「イースター蜂起の指導者等による暴力に訴えた行動は間違ったもの。」(ジョン・ブルートン元首相)という意見があり、また2011年のエリザベス女王のアイルランド訪問やヒギンズ大統領の2013年の答礼訪問などを通じて良好な関係にある英愛関係にとっても微妙な問題(式典には米国から議員団が参加していましたが、英国は駐愛大使が代表)ではありましたが、ヒギンズ大統領は、はっきりとイースター蜂起は、「帝国主義への反発」であったとその意義を強調しています。

 共和国宣言の冒頭にある「アイルランドの男女諸君、神の名において、また我々が彼らから古い民族的伝統を継承している過去の人達の名において、アイルランドは我々を通じてその旗の下に子孫を招集し、その自由の為に戦うものである。」という文言を子ども達が朗読し、また3月27日の晩、若者の間で「アイルランドのことを誇りに思う。」といったツイッターが飛び交ったという話を聞くにつけ、この国には健全なナショナリズムが育っているということを感じます。最後にこのイースター蜂起で処刑された志士たちを悼んで詩人W.B.イェーツが書いた詩の一節を引用して拙文を終えたいと思います(『恐ろしい美が生まれている』(ユーリック・オコナー著、波多野裕造訳)から)。 私はこれを詩のなかですべて謳い尽くそう。

マクドナとマックブライド
そしてコノリーとピアス
今日、そしてこれからの日々、
グリーンの服が着られる祖国の全土で
変わった、全く変わってしまったのだ。
恐ろしい美が生まれている。

(本稿における見解は筆者の個人的なものです。)





『ヴィシーからの手紙』 2016-03-31


『ヴィシーからの手紙』



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              日本学術会議事務局次長 千葉 明

「ヴィシー第一信」

 母が他界したのを機に実家から引き揚げた遺品の中に、戦時下の欧州から東京の父宛に届いた祖父母の手紙類があった。通し番号が振られているのは、祖母の几帳面な性格を反映した訳ではなくて、どの手紙がいつ日本に届くか、当時は皆目見当がつかなかったからである。最初の「ヴィシー第一信」にしてから、出張者に託しスイスから差し出す旨の注意書きがある。手紙の内容と併せ、当時の在欧邦人の置かれた状況が浮かび上がる。

 祖父・千葉蓁一は昭和十七年十月十四日、特命全権公使のまま、中立国ポルトガルから「佛國出張」を命ぜられた。東條英機の署名があるその辞令には、「兼任大使館參事官」以外に具体的な任務は記載されていないが、フランスの降伏とペタン政権の成立によってヴィシーに移った三谷駐仏大使に代わり、在パリ帝国大使館の留守居といった役回りだった趣である。

 昭和十七年十一月十日付の「ヴィシー第一信」は、十月三十一日午後に車で着任し、ナチスドイツが押さえていたホテル「マヂェスティック」に逗留したところから始まる。蓁一は到着後すぐ、ドイツでの大公使会議出席のためベルリンに出張している。リスボンからの赴任途次立ち寄ったマドリードで受け取った電報の中に、十七歳だった父の「父上ご健闘を祈る」との伝言を見つけ、大笑する心のゆとりがあった。戦時下の外務省は留守宅からの伝言を電報に載せていたものらしい。

 ヴィシーは敗戦の都であり、ホテルは軒並み官庁として接収され、「気の利いた別荘は皆大公使館または領事館」とされたと手紙は教える。帝国大使館は町中のビルに陣取った模様で、玄関前で館員家族一同写した写真に、祖父母と並んで、故本野盛幸大使のご尊父、本野盛一書記官夫妻の姿もある。

パリ留守居役

 蓁一の仕事は三谷大使の代理が多かったらしい。昭和十七年十二月二十九日付の「ヴィシー第三信」には、十二月七日から十四日までパリ出張の記述が見えるが、これは三谷大使とともに開戦一周年記念行事に出席するためであった。そのすぐ後の元旦拝賀式は、大使は動かず、蓁一が再びパリに派遣されて挙行しているから、当時の物事の優先順位が分かる。

 祖母も時折祖父に伴って、若き日を家族で過ごしたイタリアやパリに出かけたらしい。陥落から二年を経たパリは、まさにドイツ人の天下だった。

 「一流だったティールーム等はその入り口にサクを一寸おいて、独人のみ出入出来るのです。立派なホテルは皆独の役所等になって居て、その前すら道路上にサクをおいて、通ることも出来ません。一度巴里でドイツ人経営のレストラン(前は佛人のものでしたが)に行きましたらば、肉も魚も立派なものがありお菓子、リキュール、コーヒー(勿論砂糖つき)まであり、食事中は音楽がなりひびいてゐて、一寸戦前と変わらないのにはおどろきました」

 業務がパリ留守居役だったため、ヴィシーに拠点を置いていては却って不便であり、祖父母はパリに移り住むこととなる。昭和十八年三月十六日が「巴里第一信」の日付である。

 「巴里には二月十七日からきて居ます。一か月の中三、四日程ヴィシイに行かれればよいので、いよいよ家を持つ事に決めました。しかしそのアパートがなくて閉口して居ます。つまり、ドイツがよい家又ホテルは殆ど徴発してしまつたのです。それで、目下独軍にたのんで、その中の一軒をかしてもらうやう交渉してゐます。」

 パリの物件もナチスドイツが占拠しており、住居が見つからないため、三谷大使がヴィシーにいる間、祖父母は公邸に仮住まいしていたらしい。だから大使が用務でパリに出てくるたびに退去することとなり、不便だったようだ。

 「三月二十八日 今日又ホテルブリストルに引越しました。大使が後日来巴されますので官邸を出ましたわけ」(昭和十八年三月二十一日「巴里第二信」)

 ドイツ占領軍にわたりをつけて交渉しなければ家一つ手に入らないが、それでも四月十日にはアパートが斡旋されたから、同盟国外交官はまだいい。フランス人は「若い男子はどんどん独へつれて行かれて工場その他で働かされるのです」と悲惨である。

 斡旋されたアパートはブローニュの森の近く、アンリ・マルタン街のイタリア人の借家だった。なぜ空いていたかというと、そのイタリア人は「ジュイフ」(ユダヤ人)で、逃げたのだという。当時の写真を見るとなるほどガランとしているので、ドイツ軍が略奪したのでなければ本当に逃げたのだろう。無事を祈るばかりである。

ドイツの天下

 こうしてパリに寓居を定め、曲がりなりにも邦人権益保護の任務を開始できたが、この頃からやや雲行きが怪しくなってくる。昭和十八年四月十三日付「巴里第三信」は、連合軍によるパリ爆撃を報告している。

 「去る四日の日曜の午後、英米機が巴里をおそひました。ルノーの工場を荒し、ロンシャンの競馬場、ブローニュの森をもついでに見舞ひました。折からの大好天気、日曜日を利用して森には多くの人が出ており、相当の死傷者となりました」

 この爆撃は記録に残されており、標的はルノー工場、競馬場はコラテラル・ダメージであるが、死者四百三人のうち五十四人が競馬場で落命したとある。気丈な祖母もさすがにこのときは「本年中に欧洲に『アディユ』つげられたらば幸ひです。」と綴っている。戦況面白からず、閉塞感が忍び寄ったのだろう。

 「最近の新聞で、東洋向けの郵便物一切スヰスでは受け付けぬ事になったと云ふ事を知りましたので、がつかりしました。いよいよ手紙も出せなくなりました」という事情が、友軍へのやんわりとした苛立ちとなって表現されている。

 「ドイツの兵隊たちのうたふ声が毎朝八時に聞こえてゐましたが、パーク(復活祭)の休み中は聞こえませんでした。やはり戦時中は全然休んでいるよりも、交代でも日常行ふべき行事はした方が頼もしく思はれますね。勤勉なのは我国が世界中で第一と思ひます」

 そうは言っても、パリにおけるドイツの天下はゆるぎない。日常もドイツ抜きには何事も進まない。

 「巴里ではドイツ語も相当必要となりました。日常生活はもちろん万事佛語ですが、交際は独人と多く、又独人の居るホテル等への電話等、なかなかよく使ひます。随って父上も、幸ひリスボンの時の様に座る暇もない程忙しいこともございませんので、毎日独語をかかさず勉強して居られます」

帰朝発令

 こんな毎日ではあったが、祖母の願いは程なく叶えられ、蓁一は六月に帰朝発令となり、その後スイス経由欧州を離れて、アジアの西端イスタンブールにたどり着くこととなる。とりあえず「欧州よ、さらば」である。

 外務省はおそらく留守宅の父に発令の件を通知しているはずだが、祖母も

 「明朝巴里を出発される某氏が、非常に早い日本向けの便があるから急いで手紙を留守宅へお書きなさいと云はれた」

 と急かされるまま発令の件を記し、

 「あと六カ月もすれば、一夫さんの望み通り、父上を上座に母の料理を一家五人で食べられる時が来ます。楽しみに待ってゐて下さい。」

 と希望をつないでいる。

 こちらの望みはしかし、ついに叶えられることはなかった。

 昭和十八年七月、祖父母はベルリンを訪れる。祖母は大島大使夫人の計らいで、帝国大使館前でコッホ博士未亡人と記念撮影している。うららかな初夏の日差しを浴び、のどかな印象のある写真で、撮影のいきさつを記した葉書は全盛のヒトラー総統の肖像だったりする。しかし、ナチス占領下の欧州は磐石から程遠い。

 「巴里のパンは黒く『ワラ』の様なものが時々這入つてゐます。白パンはありません。ここ(ベルリン)では白も黒もあり遥かに美味しいです。パンは巴里が欧洲第一に美味しかつたのに、どうもおかしな様に変はりました」

 パリに戻ると、昭和十八年八月十三日付「巴里第五信」をベルリンに行く人に託す。

 「巴里は毎晩(日中も折々)の様に警報が鳴りわたり、折には高射砲の音が聞こえたりします。巴里へは彈(爆弾)の投下はこの所ありませんがドイツに行く途中のものでせう。伯林と違って、ここできく警報はのんびりとして居ます。」

 ということは、ベルリンはやはり張り詰めていたのだろう。その緊張の糸を、今度は友軍への信頼に託して持ちこたえている。

 「毎朝起きて独兵士の歌ふ声が聞こえ、その音が窓の下に聞こえて来ると、身のしまるうれしい気持です」

 今から見ると違和感があるが、ドイツは同盟国、戦争は既に始まってしまっている。時代の気分とはそういうものなのかもしれない。

パリ出発

 この秋、祖父母はパリを離れ、祖国へと遠い未完の旅に出る。昭和十八年十月一日、外務省は留守宅の父に、手書きのはがきを寄越している。

 「千葉公使夫妻九月三十日巴里出發歸朝ノ途ニ就カレタル旨在『プィシィ』三谷大使ヨリ電報有之候條此段通知申進候也 昭和十八年十月一日 外務大臣官房人事課」

 昭和十八年十一月十三日、イスタンブールでソ連の通過ビザを待っていた蓁一は、アンカラの帝国大使館からの電話で、トルコ出張命令を受けたことを知る。事実上の帰朝発令取り消しである。やがてアンカラに身を移し、続々帰朝する同僚や邦人を横目に、館務従事を開始する。

 この頃祖父母の心の支えの一つだったのが、東京から届いた「輔仁會雑誌」であった。父が編集委員を務めた学習院の文芸誌である。軍国主義いよいよ濃厚、父を含めた学生達が異口同音に皇国のため一身を捧げる覚悟を吐露する中、ひとり平岡公威、のちの三島由紀夫だけは純文学作品を寄せているのが、意外といえば意外、さもありなんといえばさもありなんである。

 そんな中、

 「幸い、満洲国の外交官の人々が八月初旬、殆ど最後のすべり込みと云ふ形で当国に来られ、九月四日当地出発帰国される」

 のを受けて、珍しく祖父が筆を執り、父に書き送っている。絶対国防圏が風前の灯となり、徴兵適齢の引き下げで父も学徒動員されることとなった頃である。

 「此の手紙も入隊后御披見のことと存じます。心身共に全く立派に出来上がったあなたに対し、父からは何も申し上げることのないのを此の上なき幸と悦んで居ます。」

 どこまでも簡潔な短文の行間から、離れて暮らした四年間で成人した姿を見せることもないまま戦死するかもしれない我が子に対する、祖父の言い尽くせぬ思いが滲む。

 やがてトルコは日本に宣戦布告し、中立国ではなくなる。祖父母も他の館員共々軟禁下に置かれた。青木盛久大使のご尊父、青木盛夫氏も一緒におられたらしく、極限状況の挙句、戦後口さがない向きに悪意の揣摩憶測を書き立てられた。残念なことである。

 父はその後入営、旅順で軍事訓練の後、東京郊外に配属されて沖縄への艦砲射撃を無線傍受で聞かされ、しかるのち呉に配置換えとなった。父が原爆を目の当たりにした八月六日は、ポツダム宣言発出、そして祖父が絶筆を残した七月二十六日から数えて十一日目。終戦の詔勅渙発まであと九日であった。





『「特別展・黄金のアフガニスタン」-守りぬかれたシルクロードの秘宝-うれしい日本での公開』 2016-03-10


『「特別展・黄金のアフガニスタン」-守りぬかれたシルクロードの秘宝-うれしい日本での公開』



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              学校法人 日本体育大学 理事長 松浪 健四郎

 発展途上国との交流は、想像以上に難しい。だからといって、諦めては意味がない。民間人が、大きな組織を動かすのは容易ではないが、永年にわたって培ってきた信頼関係が困難を克服してもくれる。

 願い事や着手した仕事が成就したとき、心奥から喜びが湧いてくる。ましてや、相手が途上国ともなると、その喜びは大きい。

 昨年、私たち夫婦は、その大きな喜びに浸ることができたのである。

 2015年11月10日、私たち夫婦の結婚記念日、東京麻布にあるアフガニスタン大使館で報道発表会が開催され、「特別展・黄金のアフガニスタン=守りぬかれたシルクロードの秘宝=」が、2016年早々、九州国立博物館と東京国立博物館で公開されると主催者が発表した。そもそも大使館での記者発表も異例だが、詰め掛けた関係者の多いのにも驚かされた。

 実は、私は、この日を首を長くして待ちに待っていたのである。特に毎日のように数ヶ月も東奔西走した家内にとっては、夢物語を見るシーンだった。一民間人の執念が実った瞬間だった。

 外務省が、今も渡航禁止に指定している国の一つに治安の悪いアフガニスタンがある。自由な往来ができなくなって久しいが、私たちは1978年から日本・アフガニスタン協会の運営に携わってきた。関係者やメンバーは、ポツリポツリと鬼籍に入られ、この国を愛し、よく識る人や興味をもたれる人が激減し、外務省からも「社団法人」格の返上を余儀なくされた。

 それでも私たちは、新婚時代にカブール大学教師(国際交流基金派遣)として3年間暮らしたアフガニスタンへの思い入れが強く、両国の友好のために汗を流させていただいてきた。たとえば、九段ライオンズクラブの皆さんの協力と支援を得て、カブール博物館に美術図書を贈ったり、毎年、多摩川グラウンド(日体荏原高野球場)で「アフガニスタン凧揚げ大会」(今年は2月28日)を主催してきた。そして今回の特別展の開催にまでこぎつけることができたのである。

 1979年末に旧ソ連軍が侵攻し、その後、イスラム原理主義勢力タリバーンが支配する前は共産主義政権だった。そのナジブラ政権のおり、私は副大統領のモータッキ氏(元駐日大使)より招待を受けてカブールを訪れ、大統領官邸で北部のティリヤ・テペでソ連の考古学隊によって78年に発掘された、数々の副葬品である黄金の出土品を日本人として初めて鑑賞する機会を得た。逸品ぞろいに圧倒された記憶が強く脳裏に焼きついていた。

 また、京大の故樋口隆康名誉教授がカブール博物館でシバルガンの遺宝を撮影され、当時の『アサヒグラフ』にも発表された。だが、戦乱、内戦が休むことなく続き、その後はそれらの貴重な秘宝に関するニュースに接することがなかった。

 しかし、ファティミ駐日大使によると、「数人の勇気ある博物館員による命懸けの行動によって、金、ブロンズ、彫刻品、象牙およびガラス工芸品などが別の場所に移動され、隠されたのでした。それらは2003年に大統領官邸隣の中央銀行金庫室から取り出され、明らかにされました」という。あのバーミヤン大仏まで破壊した、偶像崇拝禁止のテロ集団タリバーン政権から、これらの秘宝が奇跡的に守られたのである。

 ちなみに、大仏破壊を中止させるため、平山郁夫画伯の集めた署名録を携えてタリバーン政権の外務大臣ムタワキール氏と交渉したのは、与党代表の私であった。カンダハルまでパキスタンのクエッタから国連のジープで地雷を避けて走った想い出がある。

 さて、隠密行動に出た博物館員たちは、「自らの文化が生き続ける限り、その国は生きながらえる」と信じ、勇気を出して命を懸けたのであった。タリバーンの主張と残忍さを識る私にすれば、その勇気と行動は表現できぬほどの価値を認めねばならない。

 そして、米国ワシントンDC、ニューヨーク、ロンドンなどの名だたる博物館で06年から公開されるに至った。その実情を耳にした私は、当時のカルザイ大統領に「日本でも展覧会を行ってほしい」と直訴した。日本体育大学がカルザイ大統領に名誉博士号を授与したのを機にお願いしたのだ。次に大統領からカブール訪問の招待状をいただき、カブールで再び大統領に陳情し、ラヒーン情報文化相にもお願いして承諾を得た。

 ところが一筋縄では進まないのが途上国との交渉の常である。もちろん、日本側の国家補償(保険)問題もさることながら、アフガン側の大統領、大臣、博物館長などが総入れ替え、交渉が振り出しに戻ってしまう。

 駐カブールの高橋博史日本大使を通じて、隔靴掻痒の再交渉。外務省中東二課の皆さん、ファティミ駐日大使の応援と粘り強い交渉の結果、やっと実現の運びとなったのだ。これら関係者の方々は、私どもの執拗な要求に閉口されたと想うが、大変な協力をして下さった。産経新聞社とフジテレビが主催者となってくれたのもインパクトがあった。

 かくして、16年1月から九州国立博物館で、4月から東京国立博物館で、夢のようではあるが、特別展が開催されることになったのである。私たち夫婦は、感無量の一言に尽きるほどにうれしい。日本国民のアフガニスタン理解の出発点になれば、と期待している。あの親日的なアフガニスタンの諸問題を風化させず、さらに友好の絆を強化したいものである。

 先日、私たちは、九州国立博物館に足を運び、特別展を鑑賞した。多くの市民が訪れ、熱心に鑑賞されていた。人気も上々とのこと、安堵の胸をなでおろして帰京したが、改めて協力して下さった方々に感謝したい、と痛感した次第である。





『河内(ハノイ)のことは夢のまた夢~ベトナム本出版余話~』 2015-11-09


『河内(ハノイ)のことは夢のまた夢~ベトナム本出版余話~』



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              元駐ベトナム大使  坂場 三男

 私は、このほど、かつての勤務地ベトナムについて1冊の本を上梓した。単行本の出版は初めての経験である。私は、履歴書の「趣味」の欄に恥ずかし気もなく「読書」と書くほどの本の虫であるが、近所の書店の店頭に並ぶ自著を眺めるといささか妙な気分である。果たしてこんな本が売れるのか、書いた本人が疑わざるを得ないほどの駄作。一応、「ベトナム論」あるいは「ベトナム人論」風の体裁をとっているが、在勤時代のもろもろの思いをダラダラと書き連ねただけなので、学術的意義はもちろん、専門書としての価値もない。改めて立派な回顧録や外交論を著作として書き残された諸先輩の偉大さを思わざるを得ない。

 昨年9月末に外務省を退官して、突然何もすることがなくなった私は、最後の勤務地となったベルギーについて諸々の思い出を書き物に残しておきたいという思いに駆られた。ベルギーについては久米邦武編「特命全権大使米欧回覧実記」の中に岩倉使節団がこの国を訪問した詳細な記録が残されており、かの司馬遼太郎も「オランダ紀行」の中でリエージュやアントワープといったベルギーの地方都市を訪ねた旅を絶妙な文章で著述している。勿論、私にはこれらの大作に比肩するような観察力も文章力もないが、当時のベルギーと私が生活して実感した現代のベルギーとの間には明らかに大きな差異があり、この「違和感」がモチベーションとなって「現代ベルギー論」を書き始めたのである。徒々なるままにあれやこれやと書いているうちに思わぬ長文になり、一冊の書物に出来るだけの分量に積み上がったので知り合いの編集者に出版の可能性を打診してみた。ところが彼の反応は冷ややかで、「いまどきベルギーでは売れません」とのつれない返事。私個人の思い入れを離れて考えてみれば彼の言い分はもっともで、小国ベルギーに関心を向ける読者が大勢いるとは思われない。ただ、この編集者は意外な助け舟を出してくれた。「ベトナム本なら売れるかも知れません」と言う。確かに、日々のニュースを見ても南シナ海の領有権をめぐる問題や、あるいは「チャイナ+ワン」の企業ビジネスの新たな展開先としてベトナムが言及されることは少なくない。そこで、いずれハノイでの在勤経験を別途纏めてみたいと思っていた矢先でもあったので、こちらの執筆に取り掛かることにした。これが昨年の暮れ近い頃だった。

 実は、ベトナムについては、在勤時代やその後に各所で行った講演の記録がいくつも残されており、ベトナム各地を訪問した際の印象記も在勤時代に大使館ホームページに「大使のよもやま話」という短文コラムを連載していたので原稿執筆の材料に困ることはなかった。ただ、何分、5~6年前のベトナムの話ばかりなので、今、新たに「現在のベトナム」のことを書こうとすると最新情報の不足に悩まされることになった。そこで、あちこちから過去数年のベトナムに関する情報を集め始めたが、一番役に立ったのは「VIETJO」というベトナム専門のインターネット情報誌だった。ベトナムの政治、経済、社会のあらゆるニュースについて毎日朝夕2回配信しているのでこれを遡っていくことで「空白期間」の動静を埋めることが出来た。これらを材料に執筆すること約1ヵ月、400字詰め原稿用紙に換算すると400枚分ほどの長さの「ベトナム論」が完成した。早速、くだんの編集者にこれを持ち込むと、「これなら行けます」との嬉しい返事。しかし、本当の悪戦苦闘はこの時から始まった。個々の内容の追加・修正から全体の構成のあり方までありとあらゆる注文が下りてきたのである。私なりに言いたいこと、書きたいことはあるので、編集者の考えとすれ違うことが一再ならずあったのは事実。その都度率直に話し合い、徐々に私の思いを理解いただくようにした。ただ、各章の順序や見出しなどについてはさすがにプロの編集者だけあっていかにも読者の関心を惹くような立て方になったのは幸いだった。最終的に合意しあった各章の順序と見出しは次のようなものになった。

序章:悩めるベトナム、悩まないベトナム人
第1章:世界一親日的なベトナム人
第2章:ベトナム人について知っておきたい6つのこと
第3章:ベトナムという国について知っておきたい5つのこと
第4章:不思議の国、ベトナム
第5章:ベトナムの最新地域事情
第6章:ベトナムの未來、ASEANの中で生きる
終章:深化する「日越戦略的パートナーシップ」

 これに、「はじめに」と「あとがき」を加え、写真を選定して完成である。

 ところが、最後の段階になって、このベトナム本のタイトルをどうするかで思わぬ意見の相違に逢着した。私が付けたかったタイトルは本稿の見出しにした「河内(ハノイ)のことは夢のまた夢」である。ハノイ市はもともと漢字で「河内」と書く。そこでこの「河内」の字の上に「ハノイ」とルビをふることで本書がベトナム本であることを示せばよいと考えた。この表題は豊臣秀吉の辞世の句の末尾、「浪花のことは夢のまた夢」をもじったものだが、事実、私のかつての在勤地ベトナムに対する望郷の思いを見事に言い表すもので、個人的には大変気に入っていた。しかし、この私の思いは出版社の編集会議で一蹴された。こんなタイトルでは誰も読む気にならないというのである。彼らが強く示唆して来たものは「世界一の親日国・ベトナムの素顔」だった。どうも、昨今の日本の風潮として「親日」とか「嫌韓」、あるいは「反中」のような国民感情むき出しのタイトルが歓迎されているというのである。これには私の方に少なからず抵抗があった。あまり感情的なタイトルにはしたくなかったし、第一、ベトナムが親日国ではあるとしても「世界一」かどうかは客観的に証明のしようがない。いろいろと議論しているうちに、私個人が「世界一」だと勝手に思い込んでいるというのならギリギリ受け入れ可能という妥協が成立して「大使が見た世界一親日な国・ベトナムの素顔」に落ち着いた。出版社にとって本は売れなければ商売にならないのであって、著者の個人的な思いを斟酌するにも限界があるということであろう。私はしぶしぶこれを受け入れた。

 私は、今回の自著出版の過程で多くのことを学んだ。本の内容はもちろん、見出しの付け方から写真・図画の選定、果ては装丁のあり方まで検討・吟味しなければならないことは山ほどある。ゲラを読み返していて、誤字脱字の訂正はもとより、内容的にも改めた方が良いと気付くところが多々あって、ギリギリまで加筆修正をさせていただいた。その意味では編集者に随分と迷惑をかけた。どのような内容の本を出版し、如何に販売促進を図るかについても出版社によって違いは大きい。たまたま私が編集者を知り、出版の相談をした会社は岩波書店や中央公論のような堅い専門書を出版する会社ではなく、いわば「市井の人々」を想定読者とする「やわらか系」の出版社である。結果として、私の著したベトナム本は専門書でもなければ学術書でもなく、ベトナム旅行をしてこの国に関心を持ったという人やベトナムとビジネスをしている企業人に更にもう一歩踏み込んでベトナムを理解してもらうための「ベトナム紹介本」なので、自著の出版社としては良い選択だったように思う。諸先輩からは「元大使である以上はもう少し真面目に書け」とお叱りを受けそうであるが、一人でも多くの方々に読んでもらい、ベトナムについて理解を深めてもらうには、こうした内容の方が目的に叶っていると考えた結果であり、お許しを賜るしかない。

 今年、2015年はサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結してから40周年に当たる。パリ和平協定が調印された1973年は私が外務省に入った年である。そして、来年の2016年は南北ベトナムが統一されてから40年目。ベトナム戦争末期に学生時代を過ごした私はまさに「ベトナム戦争世代」であり、この国には特別の思いがある。今、私が、己が非才を顧みず、「現在のベトナム」の姿を多くの方々に紹介したいと願うのは、こうした若き日のトラウマがあるためかも知れない。(了)





『外交は武道である』 2015-9-28


『外交は武道である』

千葉 明  
(日本学術会議事務局次長) 

 ブルース・リーが残した私の好きな言葉に、次のようなものがある。  
 
「武道・格闘技の修行を始める前は、パンチはただのパンチであり、キックはただのキックでしかなかった。  
 
武術の修行を始めると、それがただのパンチではなく、ただのキックでもないと感じ始めた。  
 
長い間修行を続け武道を理解した時、やはりパンチはただのパンチであり、キックはただのキックでしかなかった。」  
 
ブルース・リーは俳優であり、「東洋人男性は美しい。その魅力は外面、内面両方に及ぶ」という(当然の)パーセプションをあのハリウッドで確立した功労者だが、優れた武術研究家でもあった。この言葉に触れたとき中学生だった私は、なんだか意味は分からないがかっこいいこの言葉を胸に、合気道道場の門をたたいた。  
 
武術でなく武道という以上は、技術習得にとどまらない道(みち)の探究が必須だ。技術レベルでは、たとえば合気道であれば、相手の立ち位置を無理に変更させることなく、それを尊重しながら、同時に自分の軸を確固として保ち、相手の軸をずらしていくことで重心を崩し、制していくことが、基本の理合いである。その技術の体得の上に、日常の発想をこの理合いに近づけていくことが道の部分となる。  
 
ただただ訥々とこちらの立場を繰り返すのではなく、ウィット、恫喝、泣き落としを含め手練手管を繰り出して取るものを取る技術を競うのが外交官のメチエだということは、霞関会会員にとっては当たり前のことだろう。その際、独り勝ちの形を避け、相手もなにがしか取ったような言い分を使える余地を残しておくことが要諦であることは、諸先輩から繰り返し伝えられた教えだ。合気道の理合いでも、相手が自分から率先して畳に沈み込むよう導く点が、この「独り勝ちを避ける」点に似ている、と思ってきた。  
 
しかし、五年近い海外勤務を終え、各国の道場での稽古を経て再び日本の道場に出入りを始めると、冒頭のブルース・リーの言葉がどうにも思い出されてならなくなった。合気道の神髄と思い込んできたこの重要な理合いも、所詮は技術の一端に過ぎないのではないか、と。  
 
何しろアメリカ人もイラン人も、とにかく体密度が高い。同じ背丈の日本人より数段重く、相手の立ち位置を尊重していたら動かせるものではない。相手と接触する前に、既に相手の体勢を崩しておかないと、技がかからないのだ。  
 
外交とは何であろうか。諸先輩が一三〇年間にわたって積み重ねてきた交渉術の数々は、それ自体在職中に身に付けられるかどうか分からないほどだが、それでもやはりパンチでありキックなのではないか。武道が教えてくれる外交の要諦は、交渉が始まる前に、即ち普段から不断に、我が国の立場を優位化し、競うべき相手国の立場を劣位化しておき、交渉のスタートラインに立った時には既に相手国が崩れているという状態に持っていくことではないか。  
 
とすれば、従来は外交成果の宣伝といった付け足しの位置づけで捉えられがちだった広報こそが、実は外交の本体ではないか。優れた広報活動を弛まず継続しておけば、いざ交渉のテーブルに臨んだ時には、勝負は既についているのが外交というものなのではないか。  
 
まだよく分からない。道場通いは続く。





『古代ローマ遺跡の傍に眠る四人の日本人』 2015-7-31


『古代ローマ遺跡の傍に眠る四人の日本人』

元駐中央アフリカ共和国大使  林 要一 

 アウレリアヌスの城壁、3世紀後半ローマの都を外敵から守るためアウレリアヌス帝によって建設されたゆえにそう呼ばれているこの城壁は、現在でも市内のあちこちでその威容をみることができる。その南の一角にあるサン・パオロ門は、その昔首都ローマの港町として栄えたオスティアに通じる街道の起点であった。その城門のそばに城壁を胎内に取り込んだ形で大理石のピラミッドがそびえている。法務官ガイウス・ケスティウスの遺言で紀元一世紀末につくられた彼の墓廟である。2015年4月、日本人篤志家の財政援助で修復工事が施され往昔の白亜の輝きをとりもどした。

 今年5月から6月にかけて筆者は約1ヶ月をローマで過ごしたのだが、この修復がローマ市民のあいだで評判になっていると聞き、装いを新たにしたピラミッドを見に行った。ところが、内部の見学は土日に限られていて、なおかつ予約制、すでに7月末まで予約は満杯とのことで残念ながら外観しか見ることはできなかった。

 しかし、そのまま帰るのも癪にさわるので、ちょうどこのピラミッドの裏手にプロテスタントの墓地があり、そこには英国の詩人キーツやシェリー、イタリア共産党の創立者で思想家のアントニオ・ グタムシの墓もあることを思い出し、そこへ行ってみることにした。

 正式名称を「ローマ非カトリック信徒墓地」というこの墓地は、城壁とこれに並行するケスティウス通りに挟まれた長方形の土地に広がっている。道路側も5〜6メートルの高い塀で閉鎖されていて その一角にある正門を入ると、城壁にむかって登り傾斜になっている土地に墓が並んでいる。背の高い糸杉が林立し、その間に大小の樹木が枝を広げているので昼なお暗いといった印象である。この区画は、現在「新墓地」と称され、1822年以降の死者が葬られている。

 これに対してピラミッドの裏側を目の前にする「旧墓地」は、「新墓地」とは土塀で仕切られ、ローマの笠松が植えられた広々とした緑の芝生のあちこちに墓石が散在する、墓地というより公園といった雰囲気である。

 「新墓地」の一角にある管理事務所では、この墓地関連の絵葉書や図書類が売られているほか、希望者には有名人の墓地を案内するガイドをつけてくれる。

 筆者が、日本人の墓のあることを教えられたのはその事務所の英国婦人からだった。墓地のデータベースによると、その日本人の名は、河瀬太郎、二郎およびタエ、それに山田貢一郎であった。

 事務所からもらった地図をたよりにまず河瀬太郎の墓をみつけた。位牌型の墓石には、表側に右から「明治七年三月十四日於羅馬誕 大日本河瀬太郎墓 同年五月九日于同所歿ス と記され、裏側には上から TAROU KAWASE / HE WAS BORN 14 MARCH 1874 / AND / DIED AT ROME / 9 MAY OF THE SAME YEAR」とあった。わずか五十六日の儚い人生である。

 太郎の墓にほど近いところで見つかったあと2人の墓は合葬墓で日本式の太郎の墓とは異なり、地面に水平に置かれた板石に両人の氏名と生年没年が英語で記されている。まず上から「CIROW SAME YEAR / AT ROME KAWASE / BORN 20 FEBRUARY 1876 / DIED 7 JULY OF THE とあり、横一本線の下に、 TAE KAWASE / BORN 17 DECEMBER 1876 / DIED 29 OF THE SAME MONTH / AT ROME」と書かれている。二郎は4ヶ月半、タエにいたっては僅か12日間のつかの間の命であった。

 「ローマ非カトリック信徒墓地その300年の歴史と被埋葬者」の著者ニコラス・スタンリー=プライス氏によれば、この夭折した3人の幼子の父親は、イタリア駐劄特命全権公使河瀬真孝である。

 河瀬真孝は、旧長州藩士で、桂小五郎や高杉晋作などと尊皇攘夷運動に積極的に参加、明治政府になってからは、特に木戸孝允の引き立てで所謂立身出世をとげた人物である。

 慶応3年(1867年)、木戸等の勧めのよりグラバーの協力を得て密かに英国に留学、明治4年(1871年)4月に帰国した。滞在中は家庭教師について英語を学ぶかたわら工業専門学校などで造船術の修行をしたといわれている。帰国後直ちに、木戸孝允の推挙で工部少輔に任官したが、故あってその2ヶ月後の9月に侍従長に任ぜられた。そして翌10月には、これも木戸の斡旋で韮山代官江川太郎左衛門英龍の娘英(ひで)と結婚した。真孝31歳、英16歳。英龍に深く恩義を感じていた木戸孝允は、この結婚に先立ち、英を自分の養女として自邸に引き取っている。また、英のほうも孝允を“お父様”と呼んで慕っていた、と後に河瀬は語っている。

 2年後の明治6年(1873年)11月、イタリア駐劄特命全権公使を拝命した河瀬真孝は、同年12月、妻英を同伴して横浜港からフランス船で赴任の途についた。イタリア皇帝ヴィットリオ・エマヌエーレ二世への信任状の捧呈は、翌明治7年(一八七四年)3月1日、水の都ヴェネツィアの離宮で行われた。

 その13日後の3月14日、長男太郎が産声をあげた。河瀬夫妻がローマに着いたのは、おそらくこの年の1月末か2月始めであったろう。すでに身重の身であった英にとって、50日に及ぶ長旅と生まれて初めての外国での慣れない生活は、さぞかし大きな負担であったと推測される。

 そんなこともあってか、両親の喜びと期待を裏切って太郎は5月9日に夭折する。それから1年9ヶ月後の明治9年(1876年)2月20日に次男の二郎が誕生したが、この子も5ヶ月に満たずしてこの世を去る。だが悲劇はそれだけでは終わらなかった。その年の暮れに生まれた年子の長女タエも生後12日目に儚い命を終えた。つまり、河瀬夫妻は着任後三年の間に三人の愛児をつぎつぎに失うという不幸に見舞われたのである。

 当時のイタリアは内戦の末に統一を果たしたばかりでその首都がトリーノ、フィレンツェを経てローマに定まったのは1870年、河瀬公使着任の3年ばかり前のことであった。したがって医療衛生施設にしても法皇領時代と大差のない水準であったことは容易に推測される。乳幼児の死亡率も他のヨーロッパ諸国に比してはるかに高かったと言われている。ローマでもマラリアが発症していた時代である。

 その後河瀬公使は、明治16年(1883年)司法大輔に任官、明治17年(1884年)からは英国公使としてロンドンに駐在して、条約改正交渉に当たったが、さしたる成果を挙げることができないまま、明治26年(1893年)青木周蔵公使と交代した。

 しかし、この間、夫人の英は大いに内助の功を発揮して、現地の社交界でもその名を知られる存在となったほか、若い邦人留学生に対しても親身になって世話をしたので、実の母親のように慕われた。ローマで愛児三人を失ってからは子宝に恵まれなかった英にとって、若い留学生たちは満たされなかった母性愛を注ぐ格好の対象であったのかもしれない。

 公益財団法人江川文庫が所蔵する七万点にも及ぶ史料のなかにはローマからの消息をつたえた河瀬英の書簡類も含まれている。今後これら史料の解読が進めば、三人の愛児死亡の経緯についてもあらたな事実がでてくるかもしれない。

 死亡した三人の乳児が「ローマ非カトリック信徒墓地」に埋葬されたのは、当時はここ以外に非カトリック教徒の墓をつくることができなかったからだが、それに加えて父親が外交官であったことが埋葬許可の取得を容易にする要因でもあったと思われる。この推測が、後述のとおり4人目の日本人被埋葬者の特定にも役立つことになる。

 その日本人とは1883年にローマで死亡した山田貢一郎なる人物である。

 その墓碑は、河瀬太郎のそれを簡素にした形の石碑である。表側には右から左に「大日本山田貢一郎之墓/明治十六年一月 十五日於羅馬歿」、裏側には、フランス語で上から順に「KOITIRO JANVIER 1883 JAPON / MORT A` ROME A` L’AGE DE 33 ANS / LE 15 YAMADA / NATIF D’HIROSHIMA DE LA PROVINCE D’AKI / ( 山田貢一郎日本国安芸国広島で生誕一八 八三年一月十五日ローマにて歿す享年三十三)」 と書かれている。前出のスタンリー=プライス氏によれば、墓地のデータベースには、 “著述家、英国国教会信者”としか書いてない、という。

 そこでまずインターネット検索で調べてみた。すると、明治5年に、わが国に初めて西洋建築を紹介する書物として「西洋家作雛形」なる本が出版されていて、その原本である英国人建築家チャールズ・ブルース・アレンの著書を翻訳したのが、山田貢一郎と村田文夫という人物であることが分かった。

 村田文夫は、芸州広島藩の眼科の藩医の息子で、明治2年(1869年)に書いた「西洋聞見録」という西洋文化紹介書は、福沢諭吉の「西洋事情」に次いで広く読まれた。そして、山田はその村田文夫の弟子であったという。ローマの墓地に葬られた広島生まれの山田貢一郎が、この翻訳者と同一人物である可能性はきわめて高いと思われた。

 他方、ローマ非カトリック信徒墓地にはるか極東の小国日本からやってきた山田が埋葬を許可されたについては、同人が単なる旅行者ではなく、なんらか公的な用務を帯びて滞在した人物ではなかったかとの推測が、前述の河瀬一族の例を引くまでもなく、成り立つのではないかと考えられた。つまり、日本公使館となんらかの関係がある人物ではないか、と。

 そこで山田が死去した明治16年当時のイタリア駐劄公使は誰であったか、を在外公館歴任表で調べると、なんとこれが浅野長勲公使。芸州広島藩最後の藩主である。明治15年(1882年)から明治17年(1884年)まで約2年間在勤している。二人は広島というキーワードでつながっていた。

 幸いなことに浅野公使は、赴任のため本邦を出発した日から帰朝した日までの毎日を几帳面に記した日記を残している。題して「海外日録」。日記を所蔵している国会図書館にでかけて早速閲覧した。驚いたことに山田貢一郎の名前は、日記の第一日の記述の中にあった。そればかりではない。彼の死亡、葬儀、埋葬、一周忌についても特記されていたのである。以下にその抜粋を紹介する。

「明治十五年六月十八日(雨日曜)
伊太利国駐劄特命全権公使の命を奉し午前七時十五分妻と共に出発す
(以下小文字)随行外務書記官田中健三郎、外務書記生市来政方、従者石川完治山田貢一郎
明治十六年一月十五日(晴月曜)
山田貢一郎病院に於て病死す。
明治十六年一月十七日(晴又雨水曜)
午後二時山田貢一郎の葬儀を行ふ。仍てプロテスタンテの墓地に会葬す。
明治十七年一月十五日(曇火曜)
午後駕して山田貢一郎の墳墓に詣る。但し本日一周歳忌日に相当するに因てなり。

 山田貢一郎に関する記述は以上ですべてであるが、いささか不思議に思うのは、浅野公使が、山田の死亡の事実を特記し、その葬儀を執り行い埋葬にも立ち会い、さらには一周忌に墓に詣でることまでしているのに、山田が、いつ何の病気で入院したのかについては一切言及していないことである。

 公使は、おそらく家臣であったであろう山田の英語の能力を買って従者として任地に連れて行き、プライベートな秘書役として働かせていたと考えてまず間違いはないだろう。さすれば日常的に接触があったはずで、その発病、入院を知らなかったとは考えられない。それなのになぜそのことを記述することがなかったのか。

 他方、公使は明治15年の10月29日に発熱、それから凡そ1ヶ月間公邸で病床につきほぼ毎日ドイツ人医師が来診していた事実がある。病名ははっきりしないが、そのことと山田の罹病入院のあいだになんらか因果関係がなかったのか。これまでのところこれらの謎を解くカギとなる資料を発見するには至ってはいない。

 四人の墓の現在の佇まいから思うに、もう随分長い間詣でる人もなかったようだ。とくに河瀬二郎とタエの墓石は全面がコケで覆われ、しかも手前の角が大きく割れたままになっている。

 邦人観光客も多い昨今、ピラミッド墓廟を見学のついでにこの墓地まで足をのばして、同胞の訪れもなく侘しく眠る四人の霊を慰めてくれる奇特な人はいないものだろうか。





『ベルギーから見えるヨーロッパ』 2014-12-05


『ベルギーから見えるヨーロッパ』



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              前駐ベルギー大使  坂場 三男

去る9月、私は2年弱という短いベルギー在勤を終えて帰国し、その後、さほど間を置かずに退官した。41年半に及ぶ外務省勤務の概ね半分を本省で、残りの半分を在外で過ごしたことになるが、フランスでの語学研修期間を除けば、私の外交官としての生活はベルギーで始まり、ベルギーで終わったことになる。私が日本を11分の1に縮小したような小国ベルギーに魅力を感じるのは、この国が独、仏、英といった欧州の大国の狭間で独立を保ってきた「生き様」と、首都ブリュッセルにEUやNATOの本部を抱えヨーロッパにおける1つのパワー・センターとしての「空気」を持っていることにあるように思われる。正に、ベルギーからはヨーロッパが見えるし、時には世界も見えるのである。

<ベルギーの国内状況はヨーロッパの縮図>
近年、特にリーマン・ショック以降、ヨーロッパは豊かな北部と貧しい南部に分化しつつあるように見える。EUの統合が深化する中で巨大市場のメリットを最大限に享受する独や北欧諸国に対して、イタリア、スペイン、ギリシャといった南欧諸国は経済発展が遅れ、巨額の対外債務に苦しんでいる。フランスの影響力にも大きな陰りが見える。ユーロ圏の中での「勝ち組」と「負け組」の関係は固定化されつつあるのではないか。こうした状況にあって、オランダやベルギーといった小国はドイツ経済に寄り添うことで生き延びようとしているし、中・東欧の国々も同様であろう。私が、ベルギー人の友人とこうした問題を話題にすると、ベルギー国内の政治経済状況がヨーロッパのそれと(縮尺の違いこそあれ)酷似していると指摘する人が多い。ご承知のように、ベルギーは北部がオランダ語圏(フランドル地域)、南部がフランス語圏(ワロン地域)であるが、過去四半世紀の間に、この両地域間の経済格差が拡大しており、豊かな北部地域にとって貧しい南部地域はお荷物になりつつある。このため、北部ではアントワープを拠点に南部からの分離を主張する政党が急速に勢力を拡大し、内政の混乱を招いている。北部の人々の間には、かつて、19世紀後半から20世紀前半にかけて産業革命に成功し重厚長大産業が隆盛を極めた南部地域の富裕層から虐げられたという怨念が今なお残っており、感情的要素が事態を更に複雑にしているようである。こうした南北分断状況はベルギー内政にも暗い影を落とし、連立政権の成立を一段と難しくしている。2010年の総選挙の後は新政府発足まで541日を要するというギネス記録を打ち立て、今年5月の総選挙でも(ベルギー人の目には極めて順調に映ったようだが)4党間の連立合意が成立するまでに5ヵ月近くを要しているのは異常というしかない。新たな連立政権は南部地域の中心政党である社会党をはずし、経済再建を優先する中道右派勢力を結集したものになったが、ベルギー内政はしばらくの間混乱を免れないだろう。

<カトリック離れする若者たち>
ベルギーは永らくカトリック信仰の篤い国の1つと考えられて来た。中世期において全欧州が十字軍で熱狂した時代にはベルギーから参加した王侯貴族がその中心勢力となり、第一次十字軍の指導者の一人、ゴドフロワ・ド・ブイヨンなどはベルギーの遙か彼方の地に「エルサレム国」を建国し、王の座におさまったと伝えられる。更に近世になって宗教戦争がヨーロッパ大陸を燎原の火の如く覆うと、ベルギーは新教徒と対峙し、スペイン側に付いてオランダと決別している。多くの若者がイエズス会士となってローマに赴き、遙か中南米や極東まで遠路布教の旅に出たベルギー青年の名前が今日数々残されている。16世紀末に日本に来た最初のベルギー人もイエズス会士である。ベルギー各地には世界遺産クラスの立派な教会(大聖堂)が多々残存し、堂々たる姿を見せている。しかし、近年、こうした歴史や建造物とは裏腹にベルギー人、特に若者たちの宗教離れは著しく、日曜日のミサは閑散とし、経営難に陥る教会も多いようである。週末はレンタルのディスコになっている教会もあると聞く。かつてベルギーの主要政党であったキリスト教民主党は第一党の座を追われ、南部地域ではほぼ消滅しかかっている。
その一方で、イスラム教徒の数が着実に増えている。モロッコやトルコなど中東アラブ諸国からの移民が激増した結果であり、ブリュッセルの北西街の一角は広大なアラブ人居住区になっている。最近では、「イスラム国」などの過激派に身を投じるアラブ系ベルギー人の数が増え、治安上も大きな問題になっている。また、EU域内に人の移動の自由を定めたシェンゲン協定の影響で、東欧諸国から移住してくる者も多い。ブリュッセルの街角に立つ物乞いの半数がルーマニア人やブルガリア人で、彼らの失業率の高さが社会問題化しつつある。こうした状況は独、仏などの西ヨーロッパ諸国に共通して見られ、今や「悩める欧州」の象徴的な風景になっている。 <内向する貴族社会>
ベルギーは王国であり、貴族制度が現存する。国民人口の0.2%、約2万人が貴族としての爵位を持っているようである。彼らは「貴族名簿」を通じてお互いを認知し、特権的な会員制クラブの場で交流を深めている。先祖代々の城に住み、婚姻関係も貴族どうしの間で結ばれることが多い。言語は、昔ほどではないにしても、オランダ語圏においてすらフランス語が好まれる傾向は残っている。国王は各界で活躍したり社会貢献の顕著な者の中から毎年10名ほどを対象に新たな貴族として爵位を授与している。ビジネスの世界で成功した者は、排他的なゴルフ・クラブや美食会のメンバーとなってお互いに親交を深めている。一流の音楽会やガラ・ディナーなどに着飾って出席するのも彼らである。ベルギーに在住しているとこうした「上流社会」と貧民街に居住する多くのアラブ系や東欧系の人々(半数近い若者が失業している)とのコントラストに驚かざるを得ない。この2つの世界の間にはほとんど接点はなく、むしろますます遠ざかっているように見える。ベルギーの「上流社会」は一般の人々と住む世界を異にしており、「居心地の良い空間」を守るために一段と閉鎖的になっている。勿論、いずこの国においても程度の差こそあれこれに似た状況が生まれていると思われるが、いわゆる「貧富の格差」とは非なる世界であり、長い貴族制度の伝統を持つ西欧諸国特有の「人格の格差」のようなものを感じるのは私だけだろうか。

<「欧州統合」こそベルギーの生きる道>
去る5月の欧州議会選挙では欧州統合に対する懐疑主義的な思潮が拡がり、多くの国でナショナリズムを煽る政党が勢力を伸ばした。経済低迷の責任をEU共通政策の不手際に押し付け、いわゆる「EU官僚」に対する批判も噴出した。しかし、ベルギーではこうした政治主張は全く見られず、むしろEU統合のプロセスが不十分なところに諸悪の根源があり、財政金融政策や産業政策におけるEUの権限を一層拡大すべきであるとの論調が主流である。「国の将来を欧州統合に託する」という点でベルギーの人々の間には確固たるコンセンサスがあるように見える。では、その理由は何か?
その答えは20世紀前半の歴史にある。勿論、ベルギーのような小国にとって統合された巨大市場の魅力は大きい。19世紀にヨーロッパ大陸で最初に産業革命に成功したベルギーは、常に大きな市場を求めて経済を発展させて来た。アントワープやゼーブリュージュといった主要な港湾都市は欧州のハブ港となることで最大限のメリットを享受している。しかし、ベルギーの人々が欧州統合の推進に寄せる想いはこうした経済的理由にあるのではない。それは2度の世界大戦で国家を蹂躙された苦い経験にこそ深く根付いている。隣国の独と仏が干戈を交えれば最初の被害者は両国の中間に位置するベルギーである。この両国が二度と戦争をしない仕組みを作ることが第二次世界大戦の焦土から立ち上がったベルギーの悲願であり、その願いを託されたのが後に「欧州統合の父」と言われるポール=アンリ・スパーク(ベルギーの元首相・外相)であった。EUの初代大統領がベルギー人のファンロンパイ元首相であるのも偶然ではない。EU本部は首都ブリュッセルにある。欧州統合はベルギーの国家安全保障政策の根幹を占めるのである。そう言えば、ベルギーの初代国王であるレオポルド一世はドイツのサックス・コブール家から招かれ、その王妃はフランス王家の出身であった。この国は建国の当初から独仏融和に心血を注ぎ、狭隘な民族主義的プライドを捨てていたのだと思わざるを得ない。





『ペルーのロマンと魅力』 2014-10-20


『ペルーのロマンと魅力』



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              嘉悦大学学長 元ドミニカ共和国大使  赤澤 正人

外務省を退職した後、海外勤務地でどこが一番楽しかったか、としばしば聞かれる。それぞれの勤務地の楽しみがあり、一概には答えられないというのが私の外交的な定番の答えである。それでもどこが一番魅力があったかとの更問に対しては、「ペルー」と答えることが多い。
私は1986年から88年まで、リマの大使館に勤務した。スペイン語圏での勤務は初めてだったので、緊張してリマ空港に降り立った。治安が悪いとのことだったので、緊張感は一層強かったのを覚えている。南米でブラジルに次ぐ大きな日系人社会を抱えるペルーは、私にとって、テロ事件が多発することを除き全くの未知の国であった。
今振り返るとやはりペルー勤務は、潜水艦沈没事故、東銀支店長襲撃事件、日産工場襲撃事件等、領事関係事件の多い2年間であった。同時に、この国のロマンを満喫した2年間でもあったといえる。

遠く離れた中国で起こった文化大革命の影響は、リマにも及んでいた。四面を道路で囲まれていた中国大使館は、「修正主義」の象徴として、ペルーのテロリスト集団から頻繁に中庭に手榴弾を投げ込まれていた。歴史のあるリマの旧市街は治安が悪くて気軽には近づけなかった。逆に、郊外に出るとリラックスして砂丘地帯やゴルフ場を楽しむことができた。太平洋に面する南北アメリカ大陸の海岸線の地形は、米国のカリフォルニア州からチリに至るまで乾燥地帯であり、砂丘が連なっている。太平洋に面するリマもその砂丘地帯の一角にある。従って、リマでは全く雨が降らず、いかなる行事にも雨天順延がない。当然ながらリマの埃ぽさに慣れるには相当の月日が必要だ。このリマで2,3年に一度霧雨のような雨が降ることがあるといわれた。現地の人々はこの雨を「インカの涙」と呼んでいた。スペイン人に征服されたインカの恨みだという訳である。アンデス山脈に入り込むとこうしたインカの恨みを実感する光景にしばしば出くわす。クスコの朽ち果てた建物の壁にもたれて、ぶつぶつと独り言を言っているインカの末裔の老人を見ると、こうした恨みを体中で表しているようだ。日本でも有名な「コンドルは飛んでいる」はこうしたアンデスの山間で作られた歌である。クスコの町でこの歌を聞くと、まさに心の琴線に触れる。我々と同じようにお尻に蒙古斑点があるというインカの末裔とは、共通したDNAを持っているのだろうか。今でこそ日本人にも人気のあるマチュピチュの遺跡も、治安情勢の悪化で、テロリストによりクスコ・マチュピチュ間の鉄道線路が破壊され、長期間観光ができなくなっていた時期もあった。

マチュピチュやクスコ等の遺跡の他にも、ペルーには神秘的な現象が数々ある。米国を中心とした世界の社会科学関係の学者にとって、研究材料の宝庫ともいえそうだ。その一つがリマの郊外に広がる砂漠や砂丘地帯だ。途上国の常として、ペルーにおいても首都リマへの人口集中はすさまじい。特に、治安状況が極めて悪かった時期には、多くの山間部や地方の農民がテロの危険を逃れて、リマに移り住んできた。当然リマ市のインフラは、こうした大量の移住者を支える余力はない。地方からの人々はリマの郊外へ郊外へと広がって定住していく。周囲の砂漠に、テントや粗末なバラックが突然出現し始める。そうして、いつの間にか、どんどんしっかりした家々が建っていく。そうこうする内に電柱が出現する。主電線には無数の盗電用の電線が巻きつき始める。その内に、バスの停留所の如き物があちこちに立ち始め、リマの中心街に向かう定期バスが運行し始める。バスには鈴なりの通勤客の出現となる。こうした一連の社会現象には、全くリマ市行政当局は関与していない。全くの住民の自発的な活動の結果なのである。誰が主体となって、どのようにしてこうした共同体が出来上がっていくのか、は社会科学者にとって、極めて魅力的な研究対象となっていたのだ。

外務省員にとってペルーというと、大使公邸占拠事件が真っ先に思い浮かぶことだろう。日本外交においても最悪のテロの被害となったので、ペルー政府の対応とともに、極めてショッキングな事件であったといえよう。しかもその対応に当たったのが日系人として最初の外国の元首となったフジモリ大統領というのも、歴史の皮肉である。ペルー日系人社会も複雑な歴史を背負って日系人初の大統領を輩出したのであるから、あのようなテロ事件には、一層複雑な思いを抱いていたことであろう。
私が赴任していた80年代の後半では、フジモリ氏は日系人社会の中でさえ、それほど目立った存在ではなかった。国立農科大学の学長として教育界においては重鎮であったが、政治的には全く無名であった。私は在リマ総領事として度々フジモリ学長を訪問し、お話を聞く機会があったが、いかにも学者らしい沈着な言動に強く印象付けられた。ある時「学長は政治に興味がおありですか」と質問したことがあったが、「全くありません」との答であった。当時の日系人としては、ペルー社会において際立った活動をすること自体が極めて難しいこととされ、できるだけ控えめな存在とするよう心がけていたといえる。主としてサトウキビや綿花関連の農業に従事することを目的として移住した日系人は、本当に厳しい労働と生活を強いられた。そして、その後の第2次世界大戦時の敵国民(ペルーは米国と同盟)としての苦しい体験(米国の強制収容所への護送を含む)を経て、その勤勉振りによってようやくペルー社会で評価され始めたところであった。
ペルー社会に溶け込み、できるだけ日本人としてのアイデンティティーを誇示しないことに主眼を置いていた日系人社会としては、大統領に日系人が立候補することには大きな不安とためらいがあったに違いない。そうした葛藤を乗り越えて誕生した大統領であるからこそ、その後の反フジモリ運動も日系人社会には、極めて複雑な影響を及ぼしているものと想像される。日系人大統領の光と影は、今後も長く日系人社会を覆っていくであろう。
外国に移住した日系人の多くは、はるか離れた母国に対し、私たちの想像以上に強い郷愁と愛国心を抱き続けている。ほとんど日本語を話せない3世や4世でも、すばらしいコブシのきいた日本の演歌をカラオケボックスで楽しんでいた。大晦日には、リマの中心街の映画館を借り切って、自薦他薦の「プロ歌手」が出演する紅白歌合戦に熱狂していた。秋の日系人大運動会では、赤組、白組に代わって、明治、大正、昭和組とのグループ名に分かれた激しい対抗戦が繰り広げられていた。古き良き日本にタイムスリップできるのが、移住者の社会かも知れない。

こうした移住者の社会においても、日本人や日本企業を狙ったテロ事件は大きなショックであった。第2次世界大戦時の厳しい経験を踏まえて、現地社会に融合していくことに最大の目標を置き、その意味からはできるだけ目立ったり際立った存在を避けてきた日系社会にとって、日本というだけでテロの対象となったことは、日本の存在が大きくなってきたことを意味すると同時に、長年の融合努力に反する事件とみなされた訳である。中南米諸国においては、多かれ少なかれ反米意識があり、あまりにも巨大な存在としての米国に対しては、強い憧れと強烈な反米感情が複雑に同居している。小国になればなるほどこの感情は複雑なものとなる。
私は、1990年代の後半にカリブ海の島国ドミニカ共和国に勤務した。ドミニカ共和国も米国に地理的にも近いこともあり、対米感情は複雑だ。ニューヨークのタクシー運転手の多くはドミニカ共和国出身だ。米国のプロ野球メジャーリーグにも多くもドミニカ共和国出身者が活躍している。フェルナンデス前大統領も出稼ぎ家族の一員として幼少期をニューヨークで過ごした。しかし、歴史を振り返ると、ドミニカ共和国は何度も国内の混乱を経験し、3回ほど米海兵隊による軍事侵攻を受けている。その度に国民の中には、いっそ米国に併合された方が経済的にも豊かになるとして、併合を希望する人々も出てきたといわれている。20世紀の初頭米軍の侵攻を受け、国民の多くは反米運動を展開した。プラカードとシュプレヒコールで激しい街頭活動を行った。その多くのプラカードには、お決まりの「Yankee Go Home!!」の文字が躍っていた。そして、こうした多くのプラカードに混じってあるプラカードには、お決まりの大きな文字の下に、少し小さな文字で、少々遠慮がちに「Take me with you !」と書かれていたそうだ。この国の国民の米国に対する感情をよく表している。

ペルーにおいても米国の存在は圧倒的なので、日系人にとって米国と同様に左翼テロの標的となるとは、以前なら予想さえできなかった出来事であっただろう。ペルーのテロ活動はある意味では貧困層の支持を受けることもあり、その根絶は極めて難しかった。ペルー国民の生活レベルの向上に伴って、治安が一層改善され、日系人社会が更に発展していくことを心から願って、このロマンに満ちた国についての一随想としたい。
(2014年10月20日寄稿)





『エボラとモブツ』 2014-9-14


『エボラとモブツ』



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        フォーリンプレスセンター理事長、元国連事務次長 赤阪清隆

エボラ熱が西アフリカで猛威を振るっている。世界保健機関(WHO)によると、 9月10日現在、すでに感染者数が約4,300人、死者数は約2,300人に達している。リベリア、ギニア、シエラレオネなどでの死者が多いが、感染者が西アフリカの他の国々にも拡大している。

エボラ熱というのは、世にも恐ろしい感染症である。人類が発見したウイルスの中でも最も危険なウイルスの一つだと言われ、感染者の死亡率は50から90パーセントにも達する。感染原因は、サルやコウモリなど諸説があるが、感染した患者の血液や汗、唾液などの飛沫が感染源となる。感染すると短期間(早ければ数日内)に発病し、口や、歯、鼻、皮膚、消化管などから出血し、多くは死に至る。まだ有効なワクチンや治療法は確立されておらず、WHOは今年11月から2種類のワクチンを試験的に投与すると発表した。 

このエボラ熱がアフリカを襲うのは今回が初めてではない。私が外務省からWHOに出向していた1995年にも、その4月から6月にかけて、ザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサから約400キロ離れた人口約40万人のキクウットという町で、エボラ熱が発生した。発生から数週間が過ぎたころから、死亡者が増え始め、その中には、熱を出した患者を病院に運んだタクシーの運転手が、タクシー代金をもらう際の患者の手との接触で感染し、数日と経たない間に死んだという例もあった。

エボラ熱がザイールの首都キンシャサに近いところで発生したということに、WHOは危機感を高めた。キンシャサからは欧州の各首都などへ国際線航空便が数多く飛び交っている。だから、万が一エボラ熱がキクウイットからキンシャサに飛び火すれば、世界中に感染者が広がるかもしれないと懸念された。

WHOの対応ぶりは、素早かった。WHOは、5月初旬にザイール政府の要請を受けて、米国の疾病予防管理センター(CDC)と緊密な連絡を取り、国際医療チームを結成して、彼らを即刻現場に派遣した。WHOでは、イタリア人のバサーニ部長をヘッドとする緊急対策部が、昼夜を分かたず現地との連絡を取り続けた。現地では、感染者を町の人々から隔離し、病院で懸命の治療が行われた。このために、現場の医者や看護婦で感染し死亡した人も、死者全体の3割に当たるほど多かった。5月中旬から下旬にかけての時期に感染・死亡のピークを迎えたが、関係者の懸命の努力の甲斐あって、その後死者数は急速に減少した。

そして、6月後半に至って、ようやくエボラ熱の伝染が止まった。結局、感染者数は315人で、そのうち死者は244人であった。死亡率は77パーセントにも及んだことになる。エボラ熱が征圧されたのを受けて、WHO本部では、中嶋事務局に現地に飛んでもらうことを決めた。

6月29日、中嶋事務局長、バサーニ緊急対策部長などの一行は、ザイールの首都キンシャサに着いた。中嶋事務局長の顧問をしていた私も同行した。キンシャサは緑豊かな大きな都会だ。WHOのザイール駐在代表による歓迎の宴が、宿泊先のインター・コンチネンタル・ホテルの緑の絨毯を敷き詰めたような広大な庭で開かれた。
誰が言い出したのか覚えていないが、ザイールを国連専門機関のトップが訪問するからには、独裁者といえどもまだ元首のモブツ大統領にまず挨拶に行かねばまずいだろうということになって、その手配が行われていた。しかし、当時ザイールの政情は悪化の一方をたどっており、身に危険の迫ったモブツ大統領は、首都キンシャサを逃げ出して、中央アフリカとの国境に近いバドリテという町に避難していた。キンシャサから直線距離で測っても約1200キロも離れたところである。鉄道も高速道路もないところだから、小型飛行機をチャーターして行くしかない。バドリテまで飛んで、さっと大統領に会って、それからエボラ熱発生の地キクウットへ出来るだけ早く飛んでいく計画が作られた。

ザイールのモブツ・セセ・セコ大統領は、ウガンダのイデイ・アミン大統領、中央アフリカの皇帝ジャン・ベデル・ボカサ、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク大統領などと比べても、一歩も引けを取らない正真正銘の独裁者であった。1965年11月に2回目のクーデターで政権を掌握し大統領に就任したモブツは、国名を「コンゴ」から「ザイール」に変更し、強烈な独裁制を敷いて、1997年までの32年間もの長期にわたり大統領職にあった。冷戦時代は、西側先進国から多額の援助を受け、その多くを着服した。

キンシャサで一泊した中嶋事務局長一行は、翌30日早朝、小型チャーター機に乗り込んでバドリテに向かった。本当に小さな飛行機で、体格の良いバサーニ部長などは体を小さく丸めて窮屈そうに座った。ザイールの国土は広く、日本の全面積の6倍以上もある。飛行機の窓から地上を垣間見ても、森また森が続くばかりであった。
バドリテというところは、中央アフリカとの国境をなすウバンギ川の近くで、モブツの母イエモの生まれたところといわれる。モブツ自身は、そこから250キロほど南に行ったリサラで生まれた。5千人ぐらいしか住んでいなかった森の中の小さな村バドリテに、「ジャングルのヴェルサイユ宮殿」と呼ばれた豪華な宮殿を建てた。ベルギー国王のラーケン王宮をまねて作らせたという。そしてこの村には、大型のボーイングやコンコルドも乗り入れできる国際空港が建設された。モブツは当時世界最速の飛行機コンコルドに乗るのが好きで、1989年のフランス革命200年祭に招待されたあと、その帰りにパリとバドリテ間を飛ぶのに、コンコルドを借り上げた。

中嶋事務局長一行は、数時間の飛行の後、午前10時半にバドリテに到着した。その日もまた中部アフリカの蒸し暑い一日が始まろうとしていた。我々がバドリテに着いた時点では、ザイールの内紛がもうその空港を使うことも困難にしていたのだろうか、広い空港には他の飛行機は一機も見えず、閑散としていた。空港に降りついたというより、一面コンクリートのだだっ広い広場にたどり着いたような感じであった。

間もなく、迎えの車と軍用車が来て、我々を宮殿まで運んでくれた。まずは、大統領官邸から少し離れたゲストハウスに案内され、そこでしばらく待つようにとの指示があった。しばらくすると儀典長がやってきて、慇懃に歓迎の意を述べた後、大統領は目下外出中であるが、もうすぐ戻ってくるので少し待っていただきたいという。我々は、指示されるままに、そこにあったソファーに座って待つことにした。

それから1時間ぐらいすぎたころに、儀典長が再びゲストハウスに顔を出して、「まもなく大統領は戻ってくるでしょうから、もう少し待ってください」と言ったあと、そそくさと姿を消した。この儀典長は背が低い男であったが、低姿勢で、慇懃無礼で、しかもなかなか親切そうに見えた。
当時、独裁者に会うのに数時間ぐらい待たされるのは当たり前であった。中嶋事務局長に同行してシリアを訪問したときは、事務局長がアサド大統領(現シリア大統領の父親)と会うのに、ホテルで何時間も待機させられたあと、突然お呼びがかかったことがあった。だから、こちらも、独裁者モブツに会うのに2,3時間の待機がありうることは覚悟していた。

午後3時が過ぎたころ、儀典長がまたやってきて、「もうすぐ大統領に会っていただけますが、皆さんはおなかがすいたでしょうから、まずはどうぞ昼食を召し上がってください」といって、昼食を提供してくれた。昼食は、確かサンドイッチと果物だったと記憶する。我々は、「ああ、これはありがたい」と感謝して食物を口に入れた。
昼食を済ませたあと、私は夜までの残り時間がだんだんと少なくなりつつあることに気がついて心配になりだした。すでに4時間以上も待たされていた。私は、「中嶋先生、もう帰りましょうか。これ以上待つと飛行機を飛ばせなくなりますよ」と出発を促した。飛行機の残りの燃料からして、そこからキクウィットまで直行して、そのあとキンシャサに戻るのは無理であったので、まずは一旦キンシャサに戻り、翌日出直してキクウットに行くしかないと考えた。中嶋事務局長も、そうするしかないかということで私の提案を受け入れた。

それで儀典長を呼び出してもらって、「大変残念ですが、大統領との会談をこれ以上は待てません。明日は大勢の人たちが我々を待つキクウットに飛ばなくてはならないのです。そのために、今日は夜になる前にキンシャサに戻らなくてはなりません」と伝えた。そうしたら、儀典長は、みるみる血相を変えて、「それは困ります。頼みますから、夕刻まで待ってください。大統領には必ず会っていただけますから」と言う。こちらが「夜になると飛行は危ないのではないですか」と言うと、儀典長は、「いや、いや、夜でも飛行は大丈夫ですよ。夜に飛行機が飛ぶことはしょっちゅうありますから」と応じた。

それでは、と不満を抑えて再びソファーに座りなおして待つことにした。「夜でも飛べるなら、そんなに慌てることもないでしょう」と中嶋事務局長に伝えた。事務局長は、私などと違って、全然あせる風でもないし、長時間待たされたのに怒るわけでもない。いつものように、随員をつかまえては雑談に興じていた。

だんだんと時間は過ぎて、午後7時を回ったころになっても、まだ大統領には会えない。私はしびれを切らして、儀典長を呼んで、「もうこれ以上は待てない。今晩キンシャサに帰らないと、明日キクウットにも行けなくなる。キクウットでは、たくさんの重要人物や医師たちが我々を待っているのだ。どうしてもこれから帰る」と伝えた。そうしたら、儀典長は、「そうは言っても、もう夜です。夜の飛行は危なくて、無理です。皆さんを危険な目に会わせることはできません」と先刻言ったこととは全然違うことを言う。

「あなたは夜でも飛行は大丈夫だと言ったではないか」と相手をなじると、横からサンバ・WHOアフリカ地域事務局長が、「ミスター・アカサカ、ここはアフリカだ。アフリカではアフリカの流儀に従うのがルールだ。大統領に会わないで帰るのは非常にまずい。もう少し待てというなら待つしかない」と言い出した。私は、頭にきて、「何を抜かすか。お前のボスは国連機関のヘッドではないか。国連機関のヘッドがこんなひどい扱いをされてたまるか」と怒り声を上げたら、先方も怒り出して、二人して大声でわめき合いとなった。儀典長は、おろおろとしながら、「もうすぐ大統領に会えるでしょうから、もうちょっと待ってください」と言うばかりで、そそくさと何処かへいなくなった。
アフリカの夜はつるべ落としで暗くなる。マラリアのウイルスを持った蚊がやってくるのではないかと心配しながら、そのまま夜遅くまで待ち続けた。夜11時過ぎに、ばたばたと人の足音がして、小テーブルに載せた夕食が持ち込まれた。チキンと野菜を煮たものをご飯にかけたようなものだったと記憶する。おなかがすいていたので、やけにおいしかった。

やがて儀典長の部下がやってきて、「この時間になると、今晩は大統領に会うのは無理と思うので、どうぞ今晩は寝てください」と言う。中嶋事務局長には個室があてがわれたが、そのほかの随員はソファーで寝るしかない。こんな風に泊まることは想定していなかったから、着替えも、歯磨きも持ってきてはいない。着の身着のままでソファーに身を横たえるしかなかった。
深夜、ぷーんと蚊が近づいてくる音がする。メスのハマダラカは夜に産卵のために人の血を吸って、マラリア原虫を人体に侵入させる。赤ちゃん蚊を育てるために夜にだけ人を刺すというのだから、健気なやつだという気もしないではないが、マラリアにかかったら発熱して大変だ。アフリカでは、毎年数十万人もの人や子供がマラリアで亡くなっている。
だから、眠るどころではない。近づいてきた蚊をたたき、手を振り回すうちにいつの間にかまどろんだのか、朝が白々と明けてきた。午前6時前に起き上がったが、すでに私の堪忍袋の緒は切れていた。もうこれ以上は1分も我慢できないと、固い決意で儀典長にこちらから一方的に別れを告げた。そして荷物をまとめて、みんなして空港へ車で直行した。

がらんとした空港には、我らの小型飛行機だけが待機していた。そこにも蚊がいたが、マラリアをうつすメスのハマダラカは日が昇ったら人を刺さないと聞いていたので、もう怖くはなかった。アフリカの朝の空気は冷たくさわやかで気持ちがいい。その空気をいっぱい吸い込んで、昨日のひどい出来事を忘れようとした。
我々のパイロットが乗り込んで、飛行の準備をはじめたころ、空港の隅からジープが近づいてくる音がした。そして、それが我々に近づいて、兵士数人がどやどやとジープから降りたかと思うと、機関銃を我々に向けた。そのうちの一人が、「元のゲストハウスへ戻れ」と我々に命令した。大統領に会うまでは出発させないというのだ。
私は、驚くやら腹が立つやら、「なにー、それではあなたたちは我々を人質にするというのか。国連機関のヘッドを人質にして、どのような結果が待っているか分かっているのか」と大声を上げてみたが、兵士たちにはまるで蛙の顔に小便、何の効果もなかった。所詮、武器を持った兵士たちを相手に喧嘩を始めても勝ち目はない。すごすごと元のゲストハウスに引き返すしかなかった。

ゲストハウスに戻ってまもなく、儀典長が息せき切ってやってきて、「大統領が会います。これから皆さんは宮殿に向かってください」と大声で告げた。そして、ようやく午前10時過ぎに、中嶋事務局長一行は宮殿の中の大統領官邸に導き入れられた。
大統領官邸は、聞きしに勝る豪華な建物であった。そこで待つこと数分、あのモブツ大統領が部下を引き連れて顔を出した。さすがは天下の独裁者、惚れ惚れするほど堂々としていた。そして、中嶋事務局長と私の顔を見るなり、大統領は太い声のフランス語で、「あなたがた日本人は、パシアント(忍耐強い)」とのたもうた。
私は「馬鹿にするのもいい加減にしろ」と叫びたかったが、中嶋事務局長はニコニコと笑っていた。大統領は、「親戚の不幸があって、昨日はその葬式に行ってきたのだ」と付け加えた。私は、なぜそうならそうと言わなかったのだと顔で示して、そばにいた儀典長を睨みつけた。

中嶋事務局長は、忍耐強いといわれて気を良くしたのか、開口一番、23時間も待たされたことへの不満を一言も発せずに、「大統領、飛行機の燃料をください」と切り出した。「燃料のケロシンが足りないのです」と付け加えた。これが中嶋事務局長の非凡というか、常人と違うところだ。大上段に構えて大所高所の話から始めるのではなく、目の前の個別の問題のデイテールから始めるのだ。モブツ大統領は笑みを浮かべながら、「もちろんお安い御用だ」と機嫌よく応じた。そして、大統領は我々一行を別室での朝食へと誘った。そこには、ボン・ママンのイチゴジャムが瓶のままでフランスふうの朝食が我々を待ち受けていた(写真)。
朝食が終わるや否や、我々一行は急いでキクウイットに直行することを決めた。燃料の補給が出来たので、まずキクウイットに飛び、それからキンシャサに戻ることが可能になったのだ。パイロットが飛行機の翼によじ登って急いでケロシンを注いだ。

 それから一路キクウットへ向けて飛んだ。キクウイットの空港では、大勢の人々やお偉方が待ち構えていた。加えて、半分裸の踊り手たちがドラムをたたいたり、踊ったりして派手に歓迎してくれた。それから町の中央まで自動車やバンに分散して向かったが、道中はまるで凱旋将軍が群集にもみくちゃにされるような騒ぎであった。大人も子供も、走り、飛びながら我々の車を追いかけてくる。エボラという悪魔が町から消えた安堵と喜びとがどの顔にも表れていた。そして、それを可能にしてくれたのがWHOであり、そのトップの中嶋事務局長は、人々にとっては命の恩人なのだった。

今から振り返ると、中嶋さんは事務局長時代に色々と批判も浴びたが、ことこのような感染症にまつわる非常事態となると確かな指導力を発揮したと思う。後の狂牛病の発生のときもそうだった。彼を支えた部長連中やスタッフにも飛び切り優秀で仕事熱心な人たちがいた。だから、1995年のエボラ熱の流行の際は、緊急対応策が迅速にとられ、国際的な医療チームが遅滞なく現地に飛んで、死者を2百数十人出しただけでこの恐ろしい感染症の拡大を防いだ。
あれから20年たった2014年の現在、予算が削られ、担当の職員が少なくなったWHOが、再び発生した西アフリカのエボラ熱の拡大を必死で防ごうと努力している様子を見るにつけ、大変だろうが頑張れとエールを送りたくなる。予測では、死者数は近いうちに1万人を超えるだろうという。この史上最大のエボラ熱の蔓延が、一日も早く終焉を迎えることを祈りたい。その際には、アフリカ全土の人々は、あの中嶋事務局長一行を迎えたキクウイットの人々のように、WHOのドクターたちを命の恩人として再び英雄のように迎えることだろう。 (了)
(2014年9月11日寄稿)





『日本の近代史を勉強しよう』 2014-7-9


『日本の近代史を勉強しよう』



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        元在ウルグアイ大使館 書記官 菊池 寛士

日本の国益を擁護する事は、政治家はもとより、直接外交に従事する外務省員にとっても、最も重要な使命の一つである。
近代世界史は、殆どが、西欧キリスト教文明の歴史と言っても過言ではない。
極東の一島国日本が、この世界史の片隅に端役として初めて登場するのは、1543年、種子島に漂着したポルトガル人によって「発見」されてからである。
然し、この島国は、発見されて間もなく、西欧キリスト教文明圏に編入されるのを拒否して、突然、鎖国を宣言する。「何故鎖国したのか」とか、「鎖国によって得たもの、失ったものは何か」とかは、外国の知識人より良く受ける質問だが、私には、「どうして鎖国が可能であったか」を問い直すほうが、当時の西欧諸国と日本の間の利害と力関係、ひいては、その後の日本の国際関係を解明する鍵としてより重要であると思われる。

19世紀に入ると、鎖国と言う外堀と封建制度と言う内堀に囲まれて安眠を貪っていた日本にも、西欧列強の植民地拡大競争の余波が押し寄せて来るようになった。大西洋の鯨を取り尽くし、太平洋の鯨資源に目をつけた米国が、捕鯨船の補給基地として日本に目をつけたのも、上記状勢と関連している。
往年の勢威を失っていた徳川幕府には、江戸湾内に侵入してきた黒船の武威に抵抗する術も無く、慌てふためいて開国を約束してしまう。

開国して周囲を見回すと、世界の殆ど全ての地域が西欧列強の草刈り場と化してしまっているという現実に目覚める。
日本が250有余年の間、孤立した平和をむさぼっている間に、蒸気機関の発明を引き金として工業革命を成し遂げた西欧諸国は、新技術と工業力を背景に、相互に植民地獲得競争を繰り返しながら、武力を研ぎ、西欧列強と日本の総合軍事力の差は、大人と子供の差以上になっていた。
当時の世界は、弱肉強食が正当化された帝国主義の最盛期であり、武力無き黄色人種の小国が、自分の意思だけで独立を維持する事など、到底考えられない事であった。日本が、一人前の独立国として認知される為には、西欧列強と同様、海外に植民地を有し、富国強兵策をとって強力な軍隊を抱える帝国に自国を変貌させる以外に道は無かった。

開国当時の日本は、封建制度の下、270もの封建領主に支配される藩に分割されていた。そういう国土を近代的帝国に改組する為には、先ず、中央集権政府の下に国家を統一する必要があった。その為、天皇という錦の御旗をかざして、将軍を頂く封建制度を打倒し、近代的独立帝国に日本を脱皮させると言う 困難極まる作業に、日本人は、時間と競争しながら敢然と挑戦した。これが、明治維新である。

その頃、世界列強は、それぞれの帝国の版図拡大に熱中していた。問題は、地球の面積に限度があり,各 帝国それぞれの利害が衝突し、戦争が頻発する事であった。生まれたばかりの日本帝国も、清国と1894年に、強大なロシア帝国と1904年にそれぞれ戦火を交え、苦戦の末勝利する事になり、朝鮮半島を併合し、満州から中国大陸の北方、樺太からアリューシャン列島にまで権益を拡大する事が出来た。第一次世界大戦には連合国側について参戦し、ドイツ帝国を破り、遂に世界列強の一座を確保するに至った。
然し、ロシア帝国とドイツ帝国の敗北と、それらに取って代わる新興帝国日本の躍進は、かっての師であり、同盟国でもあった大英帝国や米国に新たな警戒心を抱かせ、太平洋と中国大陸における権益を巡り、英・米両国と全面的に対決を迫られる運命に身を委ねざるを得なくなる。

日本帝国はナチス・ドイツとムッソリニの支配するイタリーと枢軸同盟関係に入り、スターリンのソ連と相互不可侵条約を結んで対抗し、第2次世界大戦に突入するが、日本の呼称する大東亜戦争は1945年日本帝国の無条件降伏で終結した。日本帝国は敗戦と同時に海外の全ての植民地を失い、武装解除されて滅亡した。その屍の上に新生日本国が誕生したが、国民は等しく、これでもう2度と世界の檜舞台を踏む事の出来ない3等国に押し込まれる事になったと受け止めた。
然し、1945年を境に、旧来の帝国主義の終末を予測させる世界政治史上の新現象が出現した。即ち、アジアの旧植民地におけるナショナリズムの大きなうねりや基本的人権の一つとしての民族自決権と言う概念の普及により、植民地維持のコストが、植民地経営の粗利を大きく上回るようになって来た事であった。そして,第二次世界大戦の戦勝国となった英国・米国・オランダ・フランス等は拡大する民族独立運動の前に、次々と海外植民地を喪失して日本同様普通の国になって行った。
日本の場合、米国が主導する占領軍の政治・経済顧問団にはニュウデイラーズが多く、日本の民主化と非武装化の二大目標を掲げて日本改革を強行した。新平和憲法の制定、農地改革、教育システムの改革、戦争に協力した疑惑の深い企業の分割と中小企業化等、次々と打ち出される占領政策を、国民は敗戦の代償として抵抗せずに受け入れると共に、押し付けられた民主主義をむしろ積極的に勉強し、将来、国際社会に無理なく迎え入れられるような新生日本の創設に努力した。現在の日本はこれらの要素が重合して出来た一種の日米合作の成果であるとも言えよう。

1952年のサンフランシスコ平和条約締結会議で独立を回復した日本は、西欧的資本主義社会の中で信頼される地位を得ようと努力を重ね、日本企業は日本における唯一の自然資源である日本人を全面的に活用し、国際経済市場における競争に乗り出し、気が付いてみれば、世界第2の経済大国に成り上がっていた。
以上が、1993年に小生がアルゼンチンで出版した外人の為の日本近代史(ORIGEN DEL PODER – Historia de Una nación llamada Japon -  Editorial Sudamericana)の概要である。

日本の国益を擁護する使命は在外在住の全ての日本人が外交官同様持つべき義務でもあろう。その為には自国の歴史を自分の言葉で語れるよう勉強しておく必要が痛感される。現在の常識から見れば、大東亜戦争までの日本軍部の犯した人権蹂躙罪は決して軽くは無いと言えるかも知れない。然し、それで卑屈になる必要は皆無である。戦争自体が悪の根源である。戦争に駆り出された人間は、日本人であれ、英国人であれ、ロシア人であれ、フランス人であれ、米国人であれ、中国人であれ、大なり小なり同様な過ちを犯している。
第一次世界大戦後に作られた国際連盟加盟国は、その後脱退した日本帝国も含めて42カ国に過ぎなかった。現在の国際連合に加盟している国の数は193カ国に達し、その大半は第二次世界大戦までは欧米列強の植民地であった国である。小生の個人的見解では、日本帝国が世界の植民地帝国に対する唯一の有色人国家として対等の立場で戦火を交えた事が、アジアやアフリカの植民地に独立する自信を与えた契機となっていると思う。

私の記憶では高校までの日本史が1930年代までしか教えられずに時間切れで終わってしまっていたようであった。その後の日本史は左翼知識人の語る自己批判と偏見に満ちた論旨と右翼歴史家の自己礼賛論旨の葛藤に終始し、普通の日本人には自国の歴史を如何見るべきか混沌とした印象しか与えられずにいる。これでは、日本人が自国の歴史に誇りを感じ、良き日本人として国際社会の一員になる事に歯止めをかけているとしか思えない。外務省研修所等には、もう一度日本の近代史を世界史の一部として読み直し、日本の国益を擁護するのに充分な自分自身の日本史観を論議し合う機会と時間があるように愚考されるが、如何であろうか?

(2014年3月26日寄稿)




『タイ社会の分裂はどこに向かうのか』 2014-4-10


『タイ社会の分裂はどこに向かうのか』



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        前駐ラオス大使 横田 順子

1.  2007年4月、タイのチェンマイに総領事として勤務した。これが最後のタイでの勤務であった。1973年7月、最初にタイに赴任して以来34年が経過していた。この間、タイとシンガポールと日本で勤務した。シンガポールでの勤務ではタイと直接関わりの無い仕事に就いていたが、どこでどんな仕事をしていてもタイのことが気になる。結婚して他家に嫁いでもやはり実家が気になるのと同じだろう。外務省にあってタイ語を現地で研修し、多くのタイ人に助けられ、交流を続けた者として当然の事でもあろう。そんな私がタイに最後の機会として赴任したのが2007年4月、3度目のタイ勤務であった。チェンマイには3年4ヶ月在勤したが、その間最も強く感じたことが、本稿の表題「タイ社会の分裂はどこに向かうのか」という点であった。というのもタクシン首相が2006年に国外に出て以来、タイ政治はタクシン氏を巡る意見対立で現在に至るまで大きく揺れているが、その対立が当時すでにかってないほど国民の間にまで広く浸透していたからである。ご存知の通り、タイは政権交代の手段として軍部によるクーデターが頻繁に行われてきた国だが、広く国民一般がその権力闘争に参加することはほとんどなかった。

政治が誰の手に移ろうと家庭や職場でそれが言い争いの種になるようなこともなかった。しかしチェンマイで観察した限りこれまでとどうも様子が違う。タクシンを賞賛する親となじる息子、タクシンを糾弾する上司と擁護する部下。階層、職種、性別に関わりなく各々のタクシンへの評価が分かれ、それが時に互いへの憎しみにまで沸騰する。タイ社会はそもそも寛容な社会であり、軍部のクーデターでさえ、追い落とした相手を処刑するようなことは滅多になく、対立した者同士がしばらくすれば談笑しあう国である。そんな国で何故ここまで意見対立が続き先鋭化するのか。出口の見えない不安を感じざるを得なかった。この3度目のタイ勤務で感じた違和感を述べる前にまず最初(1970年代)と二回目(1980年代後半~1990年代前半)の勤務の頃の政治状況を振り返りたい。

2. 今から約40年前の1973年の最初の勤務(チェラロンコーン大学での研修)の折、着任3ヶ月後に「10月14日事件」と呼ばれる学生革命に遭遇した。当時長期化する軍事政権に対する批判の声は一般市民の中にもあったものの、行動したのは大学生達だった。タイ全国学生連盟書記長ティラユット・ブンミーの名前を今でも鮮明に憶えている。あの当時、戒厳令や夜間外出禁止令で国民にさまざまな制約を課す一方、全ての権限を手中に収め私腹を肥やす軍事政権への嫌悪感は国民の間に広がっており、その先鋒役である大学生達が街頭デモを呼びかけていた。大規模な集会、どこからか飛んでくる銃弾、混乱そして鎮圧しようとする軍部。だが、時のクリット陸軍司令官は首相からの出動命令を拒否、中立の立場を表明した。この司令官の動きがなかったら、タノーム首相一派の国外逃亡と長期軍事政権の崩壊をもたらした1973年の10月政変も起き得なかっただろう。タイの民主化の始まりであった。

3.  1987年10月から1993年1月までの5年3ヶ月、2度目のタイ勤務となった。丁度1987年が日タイ修交100周年の年に当たり、オペラ「夕鶴」公演、中曽根首相のタイ訪問、ワチラロンコーン皇太子殿下の御訪日、常陸宮同妃両殿下のタイ御訪問など様々な記念祝賀行事が実施された。「日タイ交流600年史」が刊行され、日本とタイの伝統的なつながりが改めて認識された節目であったが、同時に日タイ関係はその頃新たなステージに入りつつあった。1985年のプラザ合意による円高で海外に目を向けた日系企業の進出ラッシュがタイに向かい、1990年前後には日系企業の工場オープンがほぼ毎日どこかで行われるほどの対タイ投資ブームが巻き起こっていた時期だった。

4.  当時のタイ首相はプレム・ティンスラノン陸軍司令官(現在枢密顧問団議長)。1973年の学生革命で軍事政権が崩壊した後も、軍部によるクーデターそして政権交代が何度も繰り返され、その度毎に民主化の動きは3歩前進、2歩後退のような状況だった。そんな中でプレム政権はプレム首相が軍人で軍部を掌握していることに加え、王室から深い信頼を得ていること、身辺がクリーンで汚職腐敗の疑いをもたれなかったことなど国民からも信任を得て安定した政権運営だった。そんなタイでは珍しい8年に亘る政治安定期を経ていよいよ政党政治家が選挙で競い合う時代が始まろうとしていた。1988年の総選挙で誕生したチャチャイ政権である。チャチャイ首相は外相や工業相も歴任した政党政治家であると同時に実業家でもあり、経済に明るい実業政治家の登場である。「インドシナを戦場から市場へ」のスローガンを掲げベトナムやカンボジアとの接近を図った。しかしそのチャチャイ首相も自分の息子や側近を政策ブレーンとして重用する一方、軍との関係を次第に悪化させ、1991年2月再び軍のクーデターによって退場を余儀なくされた。


5.  しかし、これまでタイ政治において大きな役割を果たしてきた軍も1990年代になるとさすがに軍人では政権運営はできないという認識が定着し、クーデターは起こしてもその後の政権担当は文民政治家に任せる方向を打ち出さざるを得なかった。そうした状況を背景に暫定首相を任されたのが外交官出身のアナン首相だった。アナン首相はその高潔性と識見に加え、高い行政能力を示し、1年後の総選挙実施までに多くの業績を残して退いた。アナン氏への評価は現在においても高く、国が混乱に陥った時の切り札的な存在感を示している。クーデター後初の総選挙は無事行われたが、軍に政治権力を手放す準備がまだ出来ていなかった。首相にはならないと公言していたスチンダー陸軍司令官が軍を退役した上ではあるが首相に就任すると、民選議員でない首相の就任は民主化の後退であるとしてこれを批判する野党議員のハンガーストライキが始まった。さらに清廉の人として人気のあったチャムロン前バンコク都知事の断食まで加わると一般市民の関心が一気に高まり、王宮前広場でのチャムロンのスチンダー批判演説を聞く群集は万単位にふくれあがった。

私自身もその王宮前広場にいた。週末であったので、9歳の息子を連れて集会現場を訪れていた。広場に整然と座ってチャムロンの演説に聞き入る群集。地方の農民ではなく、都会の市民層らしき人々であった。日が暮れかかっても群集の数は減るどころかさらに増えていた。私の脳裏にこのまま現場にいると息子を危険にさらすことになるかもしれないという不安がよぎり、急いで息子を自宅に連れ戻った。自宅に戻って2~3時間後、チャムロンが率いる群集と制圧しようとする軍・警察との間で衝突があり発砲が始まった。すぐに息子を知人に預け、大使館に駆けつけ情報収集に当たった。1992年5月17日の騒擾事件である。死傷者が多数出たほか、市内の治安が悪化、商店への破壊活動をするグループまで現れた。そんな混乱を鎮めたのがプーミポン国王陛下の裁定であった。対立するチャムロン氏とスチンダー首相を宮殿に呼び、両者の争いをやめるよう諭す国王と頭を垂れる両者の姿は全世界に放映され、タイ人の持つ柔軟性と寛容性が改めて認識される出来事であった。スチンダー首相は混乱の責任を取って辞任し、暫定首相としてアナン氏が再び任命された。4ヶ月後の9月、出直し選挙が実施され、リベラルな民主党のチュアン党首が首相に選ばれた。以後現在に至るまで選挙の洗礼を受けていない首相は2006年9月の軍事クーデターにより暫定首相に任命されたスラユット枢密顧問官(元陸軍司令官)のみである。

6.  翌年の1993年1月、シンガポールに転勤となり、冒頭に述べた通り、3度目のタイ勤務になるのは14年後の2007年4月である。この間、タイは1997年に通貨危機に直面、事業が一夜にして倒産し路上でサンドイッチを売って生計をたてる元社長など資産を失う人が続出した。自殺をしないと言われるほど楽天的なタイ人が自信を喪失した時期だった。そんな喪失感の漂う中で現れたのが「タイを愛するタイ」(タイラックタイ)を掲げ、タイ人のプライドを呼び覚ましたタクシン首相だった。タクシン首相への評価が人によって大きな差があることはすでに述べた通りであるが、彼が提唱した幾つかの構想が従来のタイ国一国に留まらない地域的な視座を持つヴィジョンであったことを否定する人はいないと思う。タクシン政権下でタイの国威は再浮上し、インドネシアと並ぶアセアンの盟主としての立場を取り戻したかに見えた。そのタクシン首相が2006年9月、15年ぶりの軍のクーデターで失脚、現在に至るまで外国での生活を続けているものの、サマック首相、ソムチャイ首相(義兄)、インラック首相(実妹)とタクシン派の首相の就任を実現している。

7. 2007年4月にチェンマイに赴任以来、最も神経を使わざるを得なかったのは管轄地域である北部9県、特にチェンマイ県知事、チェンマイ市長などの行政機関トップや第3軍管区司令官、第5警察管区司令官など治安部隊トップのめまぐるしい人事交代だった。中央でのタクシン陣営と民主党による政権交代がある度にこうしたポストには政権についた陣営から人が送り込まれるため、長い付き合いをしようにもできない状況だった。さらにどちらかに加担しているとみられることは避けざるをえず、話をしている相手がどちらの陣営に組しているかを見極めないうちは率直な政治談議など出来ない相談だった。しかし私にとってそれ以上に深刻に感じたのがこうした対立が政治家や行政責任者の間に留まらず、ビジネス関係者、商店主、労働者、農民など広範囲に浸透しつつあることであった。タクシンを支持するか、糾弾するかで参加するデモが違い、着るシャツの色も違った。ここまで国内を分断したつけを誰が払うのか。結局はタイ社会全体でその結末を受け止める以外にないが、願わくはタイ人の持つ寛容性をもう一度発揮してほしいと祈っている。 (2014年4月9日寄稿)

『私とイラクとの長~い関わり』 2014-2-6


『私とイラクとの長~い関わり』


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        元駐イラク大使    小川正二

私は駐イラク大使を最後に平成22年に退官しましたが、外務省勤務の終わりの期間、イラクと深く関わってきました。そして退職した今もコンサルタントとして日本企業のイラク関連ビジネスのお手伝いをしており、もう10年以上もイラクに関わる仕事をしていることになります。アラビストでもない私がこのように特定のアラブの国に長く関わってきたことも何かの縁でしょうか?今回はこの欄をお借りして、この10年ほどを振り返りながら私とイラクとの関わりの中で印象に残っていることを述べてみたいと思います。言うなれば「我が心のイラク」へのセンチメンタル・ジャーニーです。

私の最初のイラクとの関わりは1990年に起こったイラクのクェート侵攻でした。90年8月、国連代表部での勤務を終えて帰国すると本省はイラクのクェート侵攻(のちに第2次湾岸戦争)への対応に緊張感を高めていました。私は国連代表部の直前にはサウジアラビア在勤だったこともカウントされたのか、直ちに湾岸戦争貢献対策チームに配属されました。政府は湾岸貢献策として物資、輸送、資金、医療貢献の4分野での多国籍軍
及び国際機関への協力案を策定、私は主に資金協力を担当し、省内の調整、大蔵省との折衝に約3か月間は毎日午前様の勤務でした。勿論当時は自衛隊の派遣法等はなく自衛隊の参加は全く不可能な状況であり、この経験が後の派遣法の制定、PKO参加に繋がっていくわけです。私の担当した資金協力については多国籍軍への資金的支援をどのような形で行うかに苦労しましたが、私が勤務していて土地勘があったリヤドに本部を置く湾岸協力会議(GCC)に基金を設け、そこに資金を拠出する形で行うことになりました。

その構想への支持と基金のメカニズムの決定の交渉のためにワシントン、リヤドに急遽出張したことが懐かしく思い出されます。実際にこのような仕組みが関係国に受け入れられ機能するかについては省内でも懐疑的な見方もありましたが、この出張でどうにか目的を果たして帰るときはホットしました。行く前には上司や大蔵省の関係者から「交渉がうまく決着するまで帰れませんね」と言われ、自分でも大げさに言えば「砂漠の土」になる覚悟で出張に出たことを思い出します。なお、ご承知の通り湾岸戦争は翌年3月に多国籍軍の勝利に終わりクェートが解放されて終了しましたが、日本の貢献が必ずしも国際的に認識されなかったことが政府関係者に深刻な衝撃を与え、後の自衛隊の国際貢献のための法制整備に繋がっていくことは上に述べた通りです。

次にイラクに関係した仕事は2004年7月から翌年2月まで約8か月間のイラク・サマーワ勤務でした。イラク戦争後我が国はイラク派遣法を制定、2004年1月から陸上自衛隊約550名がイラク南部ムサンナ県の首都サマーワに派遣されました。国連の平和維持軍ではなく米国を始めとする多国籍軍の一員としての参加であり、また未だ治安が安定していない準戦乱地への派遣であったこともあり、当時国内においても激しい議論を巻き起こした派遣であったことはご承知の通りです。自衛隊の派遣と同時に外務省も自衛隊駐屯地(キャンプ)内に連絡事務所を設置し自衛隊との調整、協力による戦後復興、人道援助の実施に当たった訳です。所員は所長以下5名、2組のチームがローテーションで勤務していました。事務所と宿泊棟はキャンプ内の外れに位置したプレハブの建物でしたが、宿泊棟は対弾設備が十分なものでないものであったため、迫撃砲による攻撃が増えたあとは周囲と屋根に土嚢を積んだコンテナ(船に積んでいるコンテナと同じ)内に寝泊まりすることになりました。このコンテナの住み心地、寝心地は極めて悪く(ベッドは折り畳みの簡易ベッドでドアの密閉度が悪いため砂が入りやすく、常にザラザラしていた)、私はルール違反覚悟で時々はもとのプレハブ棟で寝泊まりしていたことを思い出します。 迫撃砲の攻撃は通常夜間、それも真夜中1時、2時頃に行われることが多く、2、3発続けて発射されるので、1発目のあとに直ぐ避難、眠い目を擦りながら避難していました。避難と言っても警護用の防弾車に飛び乗り、その中に伏せているのですが。

キャンプ内での生活は朝6時前に自衛隊の起床ラッパで起床、毎朝6時半からの全員の朝礼に参加、7時より朝食、そのあとは実施中や計画中のプロジェクトについての打ち合わせ、現地視察、県知事との折衝・協議、連絡所長としての現地プレス対応、そして毎晩9時ごろよりの陸自幹部との連絡調整のための協議等、早朝から夜遅くまでびっしりと予定の詰まった長い1日でした。勤務の1サイクルは約4週間、このサイクルを終えてサマーワを一時離れるときは流石にクタクタになっていたことを思い出します。このキャンプにおける生活の中で一番というか唯一の楽しみだったのは3度の食事でした。3食とも隊員用の食堂で隊員の人たちと一緒に食べるのですが、食事の中身はなかなか充実していて冷房の効いた広い食堂での時間は殺風景で楽しみのないキャンプ生活の中においてオアシスのような心休まるひと時でした。

サマーワは首都バグダッドと南部の港湾都市バスラとのちょうど中間点にありますが、この地域は世界でも最も暑い地域であり、私の体験した最高気温は初回のローテーション勤務の期間中、2004年7月7日に記録した摂氏57度、これはちょっと想像を絶する暑さでした。敢えて例えれば溶鉱炉の中に居るような感覚でしょうか(と言っても私は溶鉱炉の中に入ったことはありませんが)。通常の気候では風が吹くと涼しく感じるものですが、真夏のサマーワで風が吹くは、まさにヘアドライアーに当たるような感覚でした。

サマーワでの仕事は復興、人道援助の実施、計画業務それに現地情勢に関する情報収集がメインでしたが、自衛隊が地元で築いたネットワークを通じて上がってくる情報や地元の要望をプロジェクトに仕上げていくのが基本で本省の強力なサポートを得て実にやりがいのあるものでした。自衛隊の幹部、隊員も皆モチベーションの高い素晴らしい人たちで、我々外務省連絡事務所との関係も良好であり極めて密接な協力体制を築くことが出来たと思います。また連絡事務所で一緒に寝食を共にして仕事した同僚の諸兄も皆自ら手を挙げて勤務を申し出た連中であり、厳しい勤務・生活環境の中で士気も高く気持ち良く仕事をすることが出来ました。サマーワでの勤務は僅か8カ月という短い期間でしたが、私の外交官生活の中でも最も記憶に残る勤務体験として強く記憶の中に残っています。
イラクとの関わりの最後は2008年から10年にかけて2年4カ月にわたるイラク大使としてのバグダッド在勤でした。赴任当時のバグダッドは漸く内戦状況から状況が改善しつつありましたが、それでも未だ準戦時下のような環境であり、赴任の際もクェートから航空自衛隊のC-130輸送機でバグダッド入り(写真。この飛行機はサマーワ勤務の際にもよく利用した)、バグダッドの空港、市街も全て米軍の警備管轄下にあり米軍の兵士、民間コントラクター要員で溢れていました(近年の米国の軍事作戦における民営化を実感した)。グリーンゾーンにある現在の新しい我が大使館は改築工事中で、私が着任した時は大使、次席と政務担当官等の数人の館員がグリーンゾーン内にある出張所のような小さな別館に、他の館員はレッドゾーンにあった従来からの大使館本館に勤務、宿泊するという体制でした。信任状捧呈が比較的早く出来たため直ちにイラク政府要人、主要国の大使、米軍幹部等への表敬を行いましたが、米国大使館は現在の新しく建設されたものではなく、サダムフセインが使っていた巨大な宮殿を使用しており、迷路のような回廊や階段を辿って当時のライアン・クロッカー大使を訪問したことが思い出されます。私の大使としての仕事で重要なものとして特に時間と精力を注いだのは日本企業に対する支援と米軍幹部との関係構築でした。戦後の混乱から立ち上がりつつあり、インフラ復興、石油開発の再開について外資の導入に積極的であったこともあり、石油、電力、商社等の日本企業がイラク進出に強い関心を示していましたが、未だ準戦地であり、全く体制の変わった戦後のイラクへの足掛かりのない日本企業への支援は大使館として最も重要な仕事であり、日本からの経済ミッションの受け入れ、経済フォーラムの開催した他、個別の企業の案件についても最大限のサポートを行いました。

また、当時は治安や現地情勢に関する情報は米国大使館よりもむしろ米軍が持っていたこともあり、米軍幹部との人脈形成に努めました。当時の多国籍軍司令官は最初は後にCIA長官になった有名なペトロイアス将軍、その後任は副官から昇格したオディエルノ将軍でした。ペトロイアス将軍はアメリカ人としては小柄な学研肌、オディエルノ将軍はアメリカン・フットボールのプレーヤーのような堂々たる体躯で全く対照的な風貌でしたが、どちらも極めてシャープな頭脳の持ち主で非常に勉強になりました。米軍には治安情勢等の情報提供の他に、国内移動において全面的にお世話になりました。当時は国内の移動は治安が安定しコマーシャル便があったクルド地域への移動を除き、その他の地方へは米軍機或いはヘリを利用せざるを得ず、地方視察の際には常に米軍に依頼していましたが、先方は我が国が多国籍軍の一員として自衛隊を派遣していたことで友軍の大使として我々の要望を最大限叶えてくれました。スンニー派の最大県であり最も反政府勢力の抵抗が激しかったファルージャを含むアンバール県を視察した時はバグダッドよりヘリによる約45分ほどのフライトで、常に高度200~300mの低空飛行で窓は開けたまま、機関銃を地上に向けて構えた女性兵士が直ぐ前に座った移動でしたが、高所恐怖症の私は生きた心地がしない45分間の恐ろしいフライトでした。何れにせよペトロイアス将軍を始め一流の米軍人と交流を持てたことはイラク大使時代の貴重な経験として心に残るものでした。バグダッド勤務ではこの他にもバグダッド大学で度々学生相手に講演を行ったこと等思い出は尽きませんが、私の外交官生活のフィナーレがイラクの首都であったことは何かの縁を感じざるを得ません。

ご存じの通り、イラクはチグリス・ユーフラテス河流域に栄えた古代メソポタミア文明発祥の地であり、BC3500年以来の5500年に亘る悠久の歴史を誇る国ですが、近年は愚かな指導者の悪政により、そして国際政治の激流や大国の思惑に翻弄され、イラクの人たちは幾多の戦争や内乱の苦難にずっと耐えてきました。私はサマーワ在勤時代はユーフラテス河、バグダッド在勤時はチグリス河を日々眺めながら過ごしてきましたが、このような歴史の流れと人間の文明、叡智の進化というものの関係について複雑な想いを強くしたものでした。米国の侵攻によって上から与えられたものとは言え、やっと民主的な政治体制の下に新しい国造りのチャンスに挑戦している現在のイラクの指導者、国民が直面している試練や困難を乗り越え、安定への道を進んでいくことを願いつつ筆を置きたいと思います。(2013年12月16日寄稿)


『ウマ年の話題・「白馬ハ馬ニアラズ」』 2014-1-9


『ウマ年の話題・「白馬ハ馬ニアラズ」』


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        元駐フィリピン大使 荒  義 尚

1.  始めに
「白馬ハ馬ニアラズ」といったのは、諸子百家時代の公孫竜という人で、時代としては、荀子の少し後、韓非子の少し前、西洋ではアリストテレスの死後間もない頃に活躍した思想家である。世上、詭弁の典型的な例とされている「白馬ハ馬ニアラズ」を何故公孫竜が言い出したのか、その理由を私なりに説明すれば次のようになる。

 理想とする堯舜時代が過ぎるに従って世の中が乱れたことを憂いた孔子は、「礼」をもって世の中の秩序を回復しようとした。孔子は論語の中で、「必ズヤ名ヲ正サン」ともいっている。この「名実一致」の考え方が、実は、その後延々と続く論争の底流となっているといわれている。

何が問題かといえば、名実を一致させるためには、名を実より優先させるか、それとも実を名よりも優先させるか、のいずれか(もっとも、名と実を対等に考えるという折衷案もありうるが、論理的ではない)になるが、基本的な考え方の相違は容易には解決しないからである。名を優先する考え方は、西洋哲学では「実念論」または「実在論」(リアリズム)、実を重んじる考え方を「唯名論」(ノミナリズム)と呼んでいるが、未だにどちらかに軍配が上がったという話は聞いたことはない。なお、実念論と唯名論という用語法は、名と実の優先度の観点から見ると、漢字の使い方が丁度逆になっているので、頭がすこし混乱するが、哲学字典ではそうなっているので我慢することにしたい。


2. 「白馬ハ馬ニアラズ」の論理
 公孫竜のこの命題は、唯名論であるが、その論理は、私の理解では次のようになる。
馬には白い馬、黒い馬、栗毛の馬など色々な馬がいるが、公孫竜が何故白い馬をとりあげたかは、良く分からない。これは推測であるが、白い馬は稀少な上にその姿が優美であるので、例示として選んだのであろう。ともあれ、そこに一頭の白馬がいる。私達は、それを見る時、そこに「白」(白さ)があるとは考えない。何故ならば、白は物の属性であるから、それ自体として独立に存在するわけではない。今日「白」に出会った、というようことはありえないのだから。

 では、馬のほうはどうか?確かに馬である。ただ良く考えてみると、馬には色、形、性質、年令(馬齢?)などによって云わば、無限の種類があるが、その全てに共通するものとして、馬という「属」を認識することは出来る。しかし、と公孫竜は云う。馬という属を認識するに吝かではないが、その属は一体「実在」するのだろうか?答えは否である。何故なら、抽象概念としての馬は実在せず、実在するのはそこにいる白馬だけである。よって、その白馬は「馬」ではない。

 この議論は、形式論理学上、「排他的選言」の問題とされている。つまり、A又はBの時はAかBのどちらかに限って真であるとするわけで、公孫竜は、この命題で、白馬は馬か、どうか、と二者択一を迫っているわけである。このように、白や馬という概念を使って議論をすると、現代の意味論、更には記号論にまで続いて行く可能性が出て来ていたが、その反面、論理の罠にはまり、現実からますます乖離して、「名実一致」という本来の理想を忘れたことが公孫竜の後、墨家が次第に勢力を失っていった原因とされている。

3. 「白馬」論争に関する蛇足
 公孫竜の命題は、白い馬を見る時に、云い方を変えれば、それが色の認識であるのか、それとも形の認識であるのか、を問うものであるが、形式論理上、どちらか一方のみが真であって、両方ともに真ということはありえないという二元論ないし二項対立の考え方に基ずいている。正直なところ、私は、白と馬とが同時に認識され、かつ、同時に実在すると考えればそれでよいのではないか、とも思うが、そこが日本人たる私と中国人、更には欧米人との思考方法の違いなのだろう。私達は、家庭でも職場でも白黒をはっきりさせることを避ける傾向が強いが、彼等の頭の中には、善悪、大小、遠近、生死などの二項対立がぎっしりと詰まっているに違いない。

 日本と中国の双方を良く知っているヨーロッパの友人達が、中国人の話は(日本人より)はっきりしていて分かりやすい、と言っているのも思考回路が似通っているためではなかろうか。実際、フランス語の会話では、しばしば「De deux choses l’une」(どちらか一方)というのを聞いた方は多いだろう。ちなみに、私がかつて中国に在勤していた当時、日本からやってきた人達が挨拶の中で日中は一衣帯水、同文同種だから一緒に友好親善を促進しましょう、というのを聞いて、一衣帯水はともかく、「同種」には何となく違和感を覚えたのを思い出す。顔形は確かに似ているが、心の中は全然違うのでは、と考え始めていたからである。(なお、この小文を書くに際しては、貝塚茂樹著「中国の歴史」、加地伸行著「中国人の論理学」、講談社現代新書「現代哲学辞典」、山川 出版社「世界史人名事典」などを参照した)
              (了)

『カブール訪問記』 2013-12-12


『カブール訪問記』


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 (社)日本アフガニスタン協会理事長
 日本体育大学理事長
 元外務大臣政務官  松浪 健四郎

久しぶりに第二の母国と決めつけているアフガニスタンを訪問した。外務省を通じて、カルザイ大統領から招待を受けての訪問。 ニューデリー経由でカブールに着く。上空からのカブールは、想像できぬくらい大きく広がり、人口増加に納得する。
一木一草も生やさなかった二つのテペにまで階段上の住宅が列を作していた。眼下のカブールは、もはや私たちの識る都市から大きく変貌を遂げていて、地方からの人口流入が容易に想起できた。

 日本政府の援助した空港ターミナルビルが立派に完成し、空港前には太陽光を利用するパネルが並んで、近代的設備に驚く。 日本大使館の出迎えではなく、アフガニスタン政府の儀典次長が迎えてくれる。防弾車のベンツに乗り込むが、前方と後方に警備の車がつく。それだけで、治安の恐さが襲ってくる。警備の車には、カラシニコフを手にした大統領府の兵が身構える。まるで映画を観ている感じ、ロケ現場にいる錯覚を起こす。
 直行したのは在カブール日本大使館。 高橋博史大使、前田公使等の出迎えを受ける。が、大使館に辿り着くまでに、幾つもの検問所を通過せねばならないのだ。文字どおり厳密であった。テロ攻撃の凄まじさが伝わってくる。と同時にタリバン勢力のパワーが増大している様子を頭に叩き込まれた感じがした。

 大使館の警備担当者から諸注意事項についてレクチャーを受ける。外国人の誘拐事件が多発しているために、自由に街を散策することなどできないと教えられた。非常用の電話を受け取り、大使公邸の客室に案内される。 アフガニスタン政府は、私どものためにセリナホテルを準備してくれていたのだが、高橋大使はノルウェー外相が襲撃された件もあり、大使公邸に宿泊されるのが安全だとして、大使公邸でお世話になることとなった。

 客室には、防弾チョッキ、非常用無線電話、それに十分な飲料水があり、戦時下にある日常を私どもの脳裏に焼きつかせる。平和な日本から、非常事態中の国にやってきたのだと意識せねばならなかった。 到着の夜、大使は大統領府の幹部を公邸に招いて夕食会を開いてくれた。官房長をはじめ大統領の側近たちばかり、意見交換を楽しんで昔話に話がはずむ。参加者の多くは私の旧知の人たちで、懐かしさがこみあげてくる。 とくに、かつてのオリンピック委員会の委員長であられたエテマディ夫人との偶然の出会いと会話は小説的ですらあった。私がカブール滞在中、委員長には眼をかけていただき、レスリング指導を円滑に行うことができた。がエテマディ氏は鬼籍に入られ、夫人が大統領府にいるという。元王族の一員としての待遇なのだろう。

 翌日の昼、私ども夫婦と大使、公使、そして通訳一行は大統領府(かっての王宮殿)へ向かう。眼前に王宮殿があるのに、検問は5個所、容易に辿り着かない。しかし、数ヶ月前、テロ集団は1トンの爆弾を積んで二つ目の検問所まで達し、銃殺されたという。ニセの軍服に身を包んでいたという。 王宮殿に幾度も入った経験のある私は、警戒の厳格さにアフガニスタン政府の現在の置かれている立場を理解するしかなかった。カルザイ氏が大統領でなく議長であった頃、私は単身でアポイントなしで王宮殿でカルザイ氏と面会したことがある。私とザヒルシャー国王とのツーショットの写真がパスポートとなり、すべての検問を突破できたのである。以来、日本政府要人と共に、五回も六回も訪れた王宮殿、その様相は、まったく異なっていた。

 米軍やNATO軍のISAFという軍隊が駐留しているというのに、タリバンたちテロ集団が簡単に首都に入り込む現実、いかにこの国の治安を護るのが困難であるかを物語る。大使から諸々の話を伺うにつけ、かなりの弾薬を積んだ車がカブールに入っているらしい。そんな検挙例を耳にしながら王宮殿に着く。カメラやハンドバッグ、すべてを入口で差し出し、何も持たずに宮殿に入る。この変化も驚嘆にあたいする。取材のためにカブールまでやってきた毎日新聞記者は、前日まで取材許可を手中にしていたのに、当日になって拒否されたという。取材は記者団の代表のみ、現地新聞社1名だけであった。
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 カルザイ大統領が大きな喜びの両手を広げてハグのポーズで私どもを歓迎して下さった。昨年夏、日本体育大学で名誉博士号を授与させていただき、それ以来の再会。その記念の立派な写真を額に入れ、同席された4名の閣僚の分まで持参した(前日大統領府に届ける)。
 おそらく、民間人では私がカルザイ大統領と一番多く逢っているにとどまらず、私の家族までも知って下さっている間柄、本当に嬉しかった。直接、いろんな提言を私は大統領に行ってきた。もちろん、かつての私は国会議員であり、その間、アフガニスタン支援のために誰よりも尽力してきたという自負がある。また、その事実を大統領はじめ、政府幹部がよく理解されていた。

 宮殿の一階の大テーブルを囲み昼食会となった。純粋のアフガン料理である。これが高級のアフガン料理なのかと感心する。大統領自身が私の皿に沢山の料理を入れてくれた。この国のことをよく知る私にとって、宮殿の料理は格別であり、妻も眼を輝かせて舌鼓を打つ。
 数年前、私と家内は、パキスタンのムシャラフ大統領(当時)がアフガニスタンを訪問された際の大統領招待の歓迎晩餐会に宮殿に招かれた唯一の日本人であった。その時も立派な金縁の皿で凄いアフガン料理をいただいたけれど、今回の昼食も美味で誇るべき料理で文化を感じた。

 デザートを食べながら大統領との会話がはずむ。私は質問しずらいテーマを直球を投げるかのごとく連発した。通訳氏が、あまりにもドギツイ質問であったからか、通訳をためらう場面があった。だが、高橋大使は堂々と私の質問を訳された。
第一に、大統領は来年4月、本当に職を辞すのか、憲法を改めて再出馬するのか質問した。
 大統領は憲法に従うといい、新しい人が大統領に就くと明言される。次に米軍が来年になれば撤退することになっているが、どれだけの米兵を残して、何ヶ所の基地を与えるのか聞いた。大統領は、まず米側との信頼関係を良好にしなければならないと前置きして、地位協定をきちんと詰める必要があると述べられ、外務省と在米大使館が折衝中だと補遺された。翌日、外務副大臣と外務省で会談し、その様子を耳にしたが割愛する。
三番目の質問は、アフガニスタン政府内の賄賂問題である。この質問に対し、カルザイ大統領は眉間にシワを寄せた。失礼な質問であったのかも知れないが、大統領がどのように感じ、考えているのか私は知りたかった。「確かに政府内に賄賂問題は存在する。しかし、西洋のごとく大きなものではなく、小さなものだと捕えている」と答弁されたのである。それ以上、私は突っ込まずに話題を変えた。

以前から私は、現在アフガニスタンの秘宝展が欧米各地で開催されているが、それを日本でも開催できるように大統領に直接お願いしてきた経緯があるが、今回もその念押しをさせていただいた。後日、ラヒーム文化情報大臣と昼食をいただきながら、その件についてお願いをし快諾を得た。問題は、日本側の受け入れ体制の組織づくり、スポンサー等の処理であろう。
私どもは、社団法人・日本アフガニスタン協会が数年前から実施している「アフガニスタンに美術図書を贈ろう」運動の一環として、今回も高価な図書を国立カブール博物館に東京・九段ライオンズクラブの支援を得て贈呈させていただいた。文化情報大臣出席のもと、博物館長に贈ったのだが、現地のTVニュースに流れるほどの反響があった。日本の新聞にも報じられ、重い本を持参したかいがあった。贈呈式にあたり、在カブール日本大使館が絶大な協力をして下さった。

 結核の研究所や建設中の感染症病院を視察させていただき、日本政府の援助が戦況下にありながらも日本人の手によって遂行中であるのには頭が下がった。日本がアフガン国民になぜ信頼されているのか、これらの現場を視察すれば一目瞭然であろう。
 高橋大使は、私の訪問を盛り上げてくださるために、日本への留学経験者を集めてパーティーを催してくれたり、数人の実力大臣や旧王族の方々を招いて夕食会を開いて下さった。旧知のたくさんの人びとと久しく逢って、いろんなことを回顧させられた。私には、アフガニスタンに関する想い出が山ほどあるにくわえ、家族が生活した国でもあるのだ。
 大統領と会談したおり、高橋大使は、大統領にパキスタンを訪問してシャリフ大統領とタリバン問題について相談し、協力を要請すべきだと発言された。そして数日後にその会談は実現したが、和平の糸口がないだけに日本の発言力は強い状況下にある。あらゆる支援を続けてきた日本政府が信頼され、現在も支援のために国際社会に呼びかける姿勢は、感謝されていると実感させられるものだった。

 カブール大学を訪問させていただき、私は日本政府からのバス寄贈式典で祝辞を述べたにとどまらず、学長や高等教育大臣等との会談は有意義であった。くわえて、視察した名門中・高のザルゴナ女学校では、私どもの高校への留学生受け入れの仮覚書を交わした。また、サッカー協会長にも留学生受け入れを表明させていただいた。これからは人材育成に少しでも協力したいと考えている。高橋大使が段取りよくスケジュールを作成して下さったので、無駄のない有意義な滞在となった。 それにしても、公的建造物や外国公館はおしなべて要塞化する異常な都市カブールを直視すれば、私でなくとも日本人なら心身ともに窒息する雰囲気、その生活環境は最悪といわねばならない。しかし、平和を希求し、アフガニスタン国民の幸福を願って、あらゆる応援をせねばならないとつくづく痛感した。

 最後に、今回の訪問に際し、目本の外務省と在東京アフガニスタン大使館にお世話になった。心から御礼申し上げる。

2013年8月吉日



『映画『リンカーン』と米国「1965投票権法」4条に対する違憲判決』 2013-8-1


『映画『リンカーン』と米国「1965投票権法」4条に対する違憲判決』







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               元駐韓国大使 霞関会理事長 大島正太郎


しばらく前のこと、1863年1月のリンカーン大統領による「奴隷解放宣言」150周年を念頭に置いて作製されたハリウッド映画『リンカーン』が日本でも封切られたので見に行った。米国では今年のアカデミー賞最有力とすら言われていたが、蓋を開けたら、イラン人質事件を扱った『アルゴ』が最優秀作品賞を受賞し、『リンカーン』は逃してしまった。確かに、映画としては『アルゴ』の方が面白かった。『リンカーン』は、米国史上最も評価の高い大統領を描くに当たり、彼が暗殺される少し前の数か月の間の、憲法修正第13条(案)の採択を求めて議会に働きかけた際のドラマに限定してしまったのでアメリカ人一般大衆の受けも今一つだったのかもしれない(同案が上院に続き下院で三分の二の多数を辛うじて確保し可決したのが、1865年2月1日、南軍の総帥であったリー将軍が降伏したのが4月9日、リンカーン大統領が暗殺されたのが4月14日、この憲法修正案が各州議会の採択を経て発効したのが12月18日)。

米国史の中でも南北戦争の時代ほど面白い時代は無い。その中でも極く限られた側面だけに焦点を絞った映画だったので、リンカーン大統領の偉大さが描ききれなかったのかもしれない。この激動の時代は、もし米国にNHK大河ドラマみたいなものがあれば、ちょうど日本の幕末明治の激動期同様に、多くのドラマがあるから題材には困らない(考えてみれば、戊辰戦争も南北戦争もいずれも内戦だ)。実際に南北戦争を時代背景とした映画は多い。アカデミー賞で言えば1939年の最優秀作品賞を得た『風と共に去りぬ』は映画としては出色だ。

そのレベルには程遠いが、ニコール・キッドマン、ジュード・ローの『コールド・マウンテン』、リチャード・ギア、ジョディ・フォスターの『ジャック・サマースビー』も南北戦争を背景としている。ちなみに前者では共演したルネイ・ゼルウィガーが2003年度アカデミー賞助演女優賞を得ている。また、後者は、中世のフランスで実際に起こった他人に成りすます男の話(アイデンティティー詐称)を扱った『マルタン・ゲールの帰郷』と言うデパルデュー主演の大変面白い映画を、ハリウッドが再映画化したものだ。アメリカには中世が無いから、背景の戦争を南北戦争に換えていたわけだ。仏・米のどちらかの映画を見るならフランス映画の方が圧倒的に面白い。南北戦争を巡る歴史(戦争そのものの歴史ではない)は、米純文学上の最高峰の一人フォークナーを生み出す背景でもあり、映画ドラマ以上のものがあるのみならず、まさに今日の米国の政治社会の骨格を作った時代である。

南北戦争の一度の戦闘で最も多数の戦死者を出したのが1863年7月1日から3日間にわたり、米国ペンシルバニア州ゲティスバーグで繰り広げられたいわゆる「ゲティスバーグの戦い」である。その150周年を機に、この7月4日付インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙はロバート・ヒックス氏による、「米国の内戦(南北戦争)が今でも意味を持つ理由」と言う論評を掲げている。そこでは、今日のアメリカの在り方「全て」が「(南北戦争と言う)血なまぐさい事態の帰結とその後の展開」に結びついていると言う趣旨を述べられている。

南北戦争後の米国の歴史の中でも憲政史の分野では、映画『リンカーン』が描いた修正13条を巡る大統領の獅子奮迅の活躍はドラマとしては面白いものがあるのかもしれないが、むしろリンカーン大統領暗殺後に各州の「批准」により成立した修正14条(1868年発効)、修正15条(人種等の理由で選挙権を制限することを禁止、1870年発効)の方が数奇な運命をたどるので、はるかに重要である。確かに、奴隷解放を憲法で法的に確定した修正13条は、戦後に南部諸州が大統領宣言による解放は違憲だと訴えた場合(保守的な)最高裁がそれを認めることが無いようにする、つまり揺り戻しを防ぐために、憲法改正で法的安定を与えることが重要であった。しかし、実際の南部諸州の社会では、奴隷制度の復活こそ無かったが、南北戦争後約百年間は黒人差別が公然と行われていた。これは、「法の下の平等」を定めた修正十四条が、南部では骨ぬきになってしまったからである(特に、1896年の最高裁判決(「プレッシー対ファーガソン」)で「分離すれど平等」原則が憲法解釈として確立していた)。

それが本来あるべき姿に戻るのは、第二次大戦後に高まった人種差別撤廃に向けての動き、特に公民権運動、の高まりによる政治社会に起こった変化の結果である。その中でも1956年の「ブラウン対教育委員会」裁判で最高裁が、1896年の判決を覆し、公共施設での人種差別措置は修正14条違反という違憲判決を出したことは大きな転換点であった。その後、公民権運動はさらに高まり、1964年の『公民権法』、1965年の『投票権法』の成立に至った。

つまり、修正13条により奴隷解放は法的には実現したが、社会的差別は、「分離すれど平等」(“Separate-but-equal doctrine”)と言う理屈で、憲法的にも容認された時代が長く続いていた。この状態に大きな転換期が来る為には、リンカーン暗殺百年後に連邦議会が立法した前掲の二つの法律を待つ必要があったと言うことである。(再びアカデミー賞に戻れば、1967年度最優秀作品賞を受賞した『夜の大捜査線(In the Heat of the Night)』(シドニー・ポアティエ、ロッド・スタイガー主演)は1960年代半ばの社会風景を反映しており、ドラマとしても面白く、必見と言える。)

ところがつい先日、6月末にだされた米最高裁判決で、その1965年『投票権法』の4条が違憲とされた。5対4の僅差であり、オバマ大統領も判決に批判なコメントを出したという報道にも示されている様に微妙な判決であったようである。一見、人種差別撤廃に効果のあったとされている法律の核心的な条文が違憲とされたので、保守派の巻き返しのような印象を与えるのであろう。真相は判決を読み込み、理解するしかないが、人種差別を法的な手続き面の平等にとどめず、実態面での制度的担保が必要と言う観点から規定された条項が、1960年代には正当化され得たとしても、その後50年たった今日の政治社会の実態からは違憲であると言う、興味深い判断であるようだ(専門家の間で同法律の5条は違憲とされず、その五条が適用される判断基準を定めた4条のみ違憲とされたところが注目されているようである)。今日の米国内部の進歩派と保守派の対立による政治的分裂状態を反映した五対四であると言えようが、この判決だけを見れば保守派に軍配が上がったようにも見える。「法の下の平等」原則について、これが手続き面にとどまるべきか、実態面で確保されてこそ本当に実効的と言えるかの神学論争はこれからもしばらく続くであろう。(ちなみに、同時に公表された一連の最高裁判決には、同性婚がらみの連邦法(「Defense of Marriage Act」)についても違憲判決(これも5対4)があり、米国でもこちらの方が大きく取り上げられたが、今日の米国の世相を表していると言える。)

映画『リンカーン』の一場面で失笑(?)を誘う場面があったが、その笑いの「取り方」が如何にも今日の米国の社会風土を反映していて苦笑(?)させられた。それは、奴隷解放が、黒人への選挙権を与えることになることを危惧した反対派(保守派)のごりごりの議員が、仲間内で(ちょっと表現ぶりを意図的に厳しく意訳するのでお許しいただきたいが)『黒んぼどもに選挙権(投票権)を与えるようなことになったら、その次は女どもが選挙権を持つことになるじゃないか!』と暴言(?)を吐く場面があった。当時の男性にとって、女性は「法の下の平等」の対象外であったと言うことだろうか。そう言えば、1964年の「公民権法」の「タイトルVII」(第7章)」は職場における女性差別を禁止した画期的な条項である。黒人差別撤廃と女性差別撤廃が同じ法律に規定されたことは、米国社会が少数者差別撤廃を進める中で、黒人と女性の差別撤廃運動が相互補完的に作用し、より広範な少数者差別撤廃をすすめ、多民族国家・多文化主義をすすめているとすら言えるであろう。(ちなみに、多民族国家・多文化国家を形作る上で大きな役割を果たしたのが、前掲の二つの法律と同時期に成立した1965年の『移民法』であることもよく知られている。)

実は、米国犯罪史上女性として最初に死刑(絞首刑)になったのが、リンカーン暗殺の犯人の一人であったメアリー・スラットであった。映画『リンカーン』を見た翌日、大統領暗殺を共謀した罪で起訴され、最終的には処刑された、彼女の裁判に関するロバート・レッドフォード製作の映画『声をかくす人(The Conspirator)』を近くの名画座で見た。基本は法廷ドラマであったが、むしろ、南北戦争・リンカーン大統領関連映画として、また、さらに米国における「法の支配」の意義を理解する上でも、こちらの方が面白かった。  
(2013年8月1日寄稿)


『私は夜陰に乗じて大使公邸を脱出した』 2013-7-4


『私は夜陰に乗じて大使公邸を脱出した』





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                       駐ラトビア大使 多賀 敏行
2011年の初頭から中東・北アフリカにおいて、民主化を求める民衆の動きが広がった。後に「アラブの春」と呼ばれる大規模な反政府行動である。 その先駆けとなったのが、 2010年12月17日のチュニジア人青年による抗議の焼身自殺に端を発し、翌 2011年1月14日にベン・アリ大統領を国外に追い出すに至った「ジャスミン革命」である。 ベン・アリ大統領は 23年に亘って強権的政治でもってチュニジアを支配した独裁者であった。 私は図らずも現地でこの革命に巻き込まれ、一時は危険な状況下に置かれたものの、運良く生き延びることが出来た。

早いものでこの革命から 2年半が過ぎてしまった。 チュニジアは民主的な新しい国に生まれ変わるために新憲法の制定、それに基づく選挙の実施に向けて努力を行っているが、動きは遅く、道のりは遠い。 革命は詩的でありロマンティックでさえあるが、その後の国作りは散文的である。 革命後9ヶ月の時点で書いたメモが手元にある。 これに沿って当時を振り返りたい。

私が住んでいた日本大使公邸はカルタゴという地区(チュニス中心から北東 17キロにある)にあり、大統領宮殿が近くにある。大統領宮殿に近いことから警備がしっかりしていて、チュニスとその郊外では最も安全な地区である。 ところが、2011年1月14日にベン・アリが国外脱出して以降、ベン・アリが残していった大統領警備隊が宮殿から外に出て銃を乱射し、地域住民を恐怖に陥れていた。 それまで一番安全であった場所が、一瞬のうちに一番危ない場所になってしまった。まるでオセロ・ゲームのようだ。

1月16日の午後4時ごろから夜まで、17日正午頃から3、4時間の間、要するに 2日間に亘って、日本大使公邸から20メートルほどの至近距離でベン・アリの大統領警備隊の残党と正規軍の掃討部隊との聞で激しい銃撃戦が繰り広げられた。私と公邸料理人のH君は流れ弾に当たらないよう2階の廊下にひたすら、うつ伏せになって、銃撃戦が止むのを待った。 17日午後になって、「公邸を出て、チュニスの町中にある日本大使館事務所に移ったほうが安全で、仕事の上でも好都合」と判断し、チュニジア外務省を通じ、軍・警察の保護を頼んだ。大使館に居る公使がそのアレンジをしてくれた。

スーツを着た理由
要請をしてから、結構、待たされた。日が沈んであたりが薄暗くなったころに、警察の車輌がやってきた。 10数人乗れる小型バスのような車輌である。その前後を4輪駆動の車が挟んでいる。 全部で3台のコンボイだ。4駆の屋根には誘導中であることを示すランプが付いている。警察車輌が来るのを待っている間に、私は普段着から、スーツに着替えていた。 ネクタイもした。 公邸料理人の H君はジャージにアノラックを羽織って、頭は毛糸で編んだ帽子というカジュアルな服装だ。 H君はカジュアルな格好で良いが、私については仕事上の正式な服装、スーツを着ないといけないと考えて、スーツを着た。

警官はチュニジアの友好国、日本の大使を保護して、大使館事務所まで護送するという重要な仕事をしようと思って、謂わば張り切って来てくれるのだろう。公邸に着いて車輌で護送しようとして大使を見たら、セーターにアノラックというようなカジュアルな服を纏っていたら落胆するのではないかと恐れた。 多賀個人はこの際、横に置いて、日本大使は軽く見られてはならないと思った。それに加えて、このころには治安が悪化していて、無法地帯が町のあちこちで出現していた。 地区ごとに町内会が成年男子からなる自警団を結成し、通りの角々に立っていた。これら自警団は、セーター、ジーンズ、革ジャンパーという格好が多かった。 言って見れば薄汚い格好なのである。薄暗い街角で木の棒きれ、鉄のバーなどを持って、不審者を見張っているのを見かけたが、格好があまりにもカジュアル過ぎるので彼らの方こそ盗賊、強盗の一団かと思ってしまいそうだ。

こいう自警団の人と一緒にされてはまずい、もし何かが起きて、車から下りて道を歩かざるを得なくなった場合、スーツを着ていた方が、彼らも何となく重要な人物と思ってくれるだろう、もし運悪く銃弾にあって死んだ時も、私が何者かすぐ分かってくれるだろう。セーターにアノラックでは、まず、どだい自警団のメンバーと区別が付かないし、強盗や泥棒と間違われる可能性だってある。そう考えてスーツを着たのである。 「人は見てくれが全て」とはこの場合本当だろう。 H君はカジュアルな格好だが、銃に倒れる時は私の近くに倒れるだろうから、日本大使の同行者であることはすぐ分かるだろう。

警察車輌に乗ったが車は発車しない。このコンボイの隊長とおぼしき警官が、私に「近くの地区で勤務している同僚警察官のグループもこの車輌に乗る。彼らはもうじきここに到着するので、少し待っていただきたい」と言う。 私はもちろんこれを了承し、この隊長に、「私と、この横に居るのは私の料理人であるが、我々2人を迎えに来てくれて感謝する。この大変な時期に困難な仕事を遂行する警察の勇気に敬意を表する」とお礼を言った。街灯の光は木の枝やバスの窓枠に阻まれてこの隊長の顔を半分くらいしか照らしていないが、にっこり笑ったように見えた。大きな銃を肩から胸に回す感じで抱えている。 この銃はカラシニコフのような形をしている。あとで調べたら、オーストリア製のシャイナーという銃とのことであった。この隊長と1、2分会話をする。もし誤解が生じて、銃で撃たれては叶わない、とにかく話をして、この隊長に日本大使は感じの良い人物である。と思ってもらわねばならない。

途中で、もし、ベン・アリの大統領警備隊の残党と遭遇して銃撃戦になった場合にも、隊長は私に好感を持っていてくれていたなら、そうでない場合よりは、遙かに真剣に守ってくれるだろう。

sur realismeの世界を垣間見た
そうこうしている内に、5、6人の警官のグループが到着してバスに乗り込んだ。出発だ。 警察車輌は比較的ゆっくりとしたスピードで走り、チュニス中心部に続くマルサ街道を走ってゆく。 我々以外の車は見かけない。不思議な静寂が支配している。屋根の上に誘導灯を点滅させた4輪駆動車が前後を挟んでいる。 車種を見ると、日本車だ。 三菱パジェロではないか。 緊急時で見聞きしたことには些細なことでも不思議に記憶に残っていることがある。車種がパジェロであったこともそのひとつだ。
コンボイがチュニス・カルタゴ空港の横を通りかかった。 門のところに兵隊を乗せた軍用トラックが配備されているのが見えた。

数分行くと高速道路の反対側に、黒焦げになった迷彩塗装の兵員輸送車が1台ごろんと横倒
しになって車体が割れた無惨な姿を晒していた。 はらわたを抉られて干からびた豹の死体を連想した。

車輌が高速から出て普通の道に下りた。とたんにコンボイは止まった。 路面に障害物が散らばっていたからである。 前の車、パジェロから警官が下りて片付け始める。 コンクリートの破片である。 これで住民が車輌を止めようとしたのだ。10メートルくらい離れた所に5、6人の男が鉄棒を持って屯していてこちらの方を見ている。 この地区の自警団だ。身なりを見る限り強盗の集団にも見える。コンクリートを取り除いてもまだ障害物があった。 大きな看板が半分に折れて倒れている。

薄闇の中に目をこらすと、ベン・アリ大統領のポスターを貼りつけた看板が割られていたのである。3日前まで、この国の民衆を強権政治で押さえつけていた独裁者の顔の口や目がずたずたに破られていた。 このポスターは政変が始まる前は毎朝、大使館への出動の途次、眺めていたものだった。 ベン・アリ大統領が右手を胸にあて、ほんの少し微笑みをたたえ、今にも民衆に語りかけようとする表情の写真だった。3日前にはこの大統領のポスターが破られるとは想像だにできなかった。信じられない代物が横たわっていて、警官2人が、この世の中で最も日常的で、ありふれた仕事を処理するかのごとく、淡々と除去作業を行っている。 すべて沈黙の中である。

こういうのを sur realismeの世界と言うのだろう。 権威と秩序が全て消えさり、自分の立つ位置が不明で物事の価値が逆転した異次元空間である。 あり得ないことが不思議な静けさのなかで、ゆっくりと繰り広げられていた。コンボイはあと 3、4箇所の町角で、車輌を止めてはコンクリートの固まりを取り除いて進んだ。 やっとアポロ通りの日本大使館事務所に着いた。夜の6時40分であった。 公邸を出発して1時間ほど経っていた。 普段の2倍の時間がかかったことになる。 冬なのでこの時間でも、もうあたりは真っ暗になっていた。私は大使館の門灯や警備員が照らす懐中電灯をまぶしいなと感じながら、車輌から降りた。

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追補

外国語は出来たほうが良い
ところで、前述の隊長との会話はフランス語で行った。 チュニジアでは小学校3年から皆フランス語を勉強する。母語はチュニジア語(アラブ語のチュニジア方言)であるが小学校1年から標準アラビア語を勉強する。 従って大人のチュニジア人がアラブ人に会うときには、標準アラビア語で話し、欧米その他の外国人とはフランス語で話そうとする。 警官も、しかも隊長クラスとなると立派なフランス語を話す。英語はこの国ではあまり話されていない。私は英語は大学1年で英検1級に合格しておりその後、イギリスに留学し英語の研鑚に努めた。何とか自信はついた。

フランス語については大学1年と2年の時、第2外国語として勉強した。 一橋大学の前期に小平分校で作家で精神科医の、なだいなだ氏の夫人であるルネ・ラガーシュ先生に教わった。 プルースト研究で有名な鈴木道彦先生にも教えていただいた。NHKのフランス語講座も一生懸命見たり聞いたりした。 

丸山啓三郎、渡辺守章、福井芳男、朝倉季男などの諸先生方にお世話になった。 皆立派な先生方だった。青雲の志を抱いて三重県の田舎から上京した甲斐があった。東京は知的刺激にあふれており、フランス語も勉強できる。カミュもサルトルもサンテクジュペリも皆、フランス語で読みたい。カトリーヌ・ドヌーブもアラン・ドロンもジャンルイ・トゥラントゥニアンもその映画の台詞をフランス語でそのまま理解したい。 シャルル・アズナブールもアダモもミレーユ・マテューもシルビー・バルタンも彼ら、彼女らの歌うシャンソンの歌詞をフランス語でそのまま理解したい。 夢は膨らむ一方であった。

爾来、フランス語に対する憧憬は押さえがたく、断続的ではあるが独学で30年以上勉強してきた。一生懸命勉強するものの進歩は遅い。 去って行った青春時代の恋人を追い求めるような切なささえ感じた。

言うまでもないが緊急時に、相手と共通の言語を通じて意思疎通できるということは実に重要なことである。 

私の場合、この1月17日の夜、警察との間で十分にコミュニケーションを行うことが出来、パニックに陥ることなく冷静に振る舞えたのはフランス語を理解できたお陰だ。 フランス語を、 18才の時、当時ペンペン草が生えていた小平で勉強したからである。 先生方に感謝せねばならない。 

また、今回のチュニジア政変のような事態では、緊急事態に関係する基本的表現を知っているのと知らないのでは随分違うことを悟った。

フランス語のcouvre-feu (クーヴル・フ)という表現は、「夜間外出禁止令」という意味である。 (ちなみに英語ではcurfewである。) Couvreはcouvrir(覆う)という動詞から来ていて「覆い」という意味である。Feuは「火」である。つまり、couvre-feuとは「火を覆う」ことから「消灯令」、それからさらに転じて「夜間外出禁止令」という意味になる。「火を消して家に居なさい」ということだ。

非常事態下で生きていくには知っていなくてはならない語彙である。 この種の語彙、 50語くらいを集めて、『仏語圏の国で緊急事態を生き延びるための、必須フランス語50単語』という調書を外務省の同僚のために書きたいと思ったがまだ着手していない。

(本稿に記載している内容は個人的見解に基づくものです。) (2013年6月28日寄稿)
(本稿は白水社「ふらんす」2012年4月号に掲載された文書に大幅な追加を加えたものです)



「デリーとベルリンの日本人学校・補習校に子供を通わせて」2013-5-13

「デリーとベルリンの日本人学校・補習校に子供を通わせて」






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                       南部アジア部審議官  柳 秀 直

 平成16年8月末から2年間インド大使館、その後平成21年7月まで3年弱、ベルリンの日本大使館に勤務した際、息子が小学校5年から中学卒業まで、それぞれの地で日本人学校に通い、いろいろな点で対照的な2つの日本人学校を経験することができました。また、娘はデリーではアメリカンの幼稚園、ベルリンではインターナショナルの小学校と、補習校に通ったことにより、親として日本人学校とインターを比較するとともに、補習校も経験することができました。 2つの日本人学校を見ただけで日本人学校一般について論じることは適当ではないとも思いますが、こうした経験を通じ、日本人学校の重要性を改めて認識したので、それについて記してみたいと思います。もちろん、日本全体で内向き志向が強まる中で、せっかく在外に家族と赴任する機会には、その地に日本人学校があったとしても、インターや現地校に通わせるべきと考える方も多いと思いますし、特に、外交官の場合、次の任地に日本人学校がある保証もないので、英語の学校に行かせた方が良いというご意見の方も多いと思いますが、一人の親の印象として何かの参考になれば幸いです(ただし、最近は在外手当や授業料の関係で、以前に比べれば日本人学校を選ぶ方も増えてきたのかもしれません)。

 私自身もデリーに赴任するまで、外務省プロパーの職員におかれては、任地に日本人学校があってもインターナショナル・スクールに通わせる方を何人も見てきたので、その方が英語の習得等、メリットが多いのではないかと漠然と考えていました。しかし、日本に5年勤務した後の在外赴任に際し、当時小学校5年生の長男は、前回のドイツ勤務時の幼稚園時代は3年間地元のドイツの幼稚園に通っていたのですが、今回は日本人学校のあるところにしか一緒に行かないと主張していました。幸いデリーには日本人学校があったので、日本人学校に通うこととなりましたが、6歳下の幼稚園の娘は、スクールバスのサービスを利用できなかったので、住居から比較的近いアメリカンの幼稚園に通わせることとなりました。

1.デリー日本人学校
 デリーの日本人学校は、既に約40年の伝統があり、教室、体育館、グラウンド、プールを含めきちんとした自前の施設を有する立派な学校です。2004年当時、デリーの邦人数は1,000人くらいで、小中9学年で80人くらいの生徒数でしたが、その後、インド・ブームもあり、最近では当時の3倍以上の生徒数になったとも聞いています。その中で息子のいた年の小学校5年生は、校内で一番人数が少ない学年で、転校当時の7人から一時は3人にまで減り、先生の目が実によく行き届く環境でした。北は北海道から南は九州まで日本各地から文科省経由で派遣された先生方は、皆非常に意識が高く、デリーの厳しい生活環境の中でもよく頑張っておられました。もっとも当時のデリーでは学校以外に余暇の機会もあまり無かったので、先生方にとっても生徒にとっても、文字通り学校が生活の殆ど全てであり、生活環境では苦労が多いものの、教師として学校での教育活動には集中しやすい環境だったのではないかと思います。

 デリーの日本人学校の特徴は、デリーの日本人会、商工会にとっても一つの中心となる場を提供していたことで、9月末には日本人学校のグラウンドを使って、日本人会、商工会と共催の夏祭りが行われ、学校側だけでなく、一部の企業が出店を出すなどの楽しい行事でした。また、11月の運動会も日本人会との共催で、長距離走等、大人も参加できるプログラムもあり、その他にも学校のグラウンドを商工会のソフトボール大会で使ったこともあったと思います。

 また、日本人学校も現地理解体験学習という名で、毎年12月の土曜日に、校庭に象や猿使い、蛇使い、オートリキシャなどを招いた行事を行うなど、生徒のみならず父兄にとっても楽しい行事がありました。デリーでは4月から9月前半くらいが非常に暑いので、9月後半から3月頃までに種々の行事が続くことが特徴です。また、毎週土曜日の午後には、男子生徒は学校のグラウンドで炎天下の夏でも午後3時半から2時間、冬は2時間半、キッカーズというサッカー教室が行われており、他にすることもないせいか、多くの生徒が参加していました(女子は小学校低学年は男子と一緒にサッカー、高学年以上はバスケットを行っていました)。

2.ベルリン日本人学校
 一方、2006年の9月から息子が通い始めたベルリン日本人学校は、ドイツ統一後に作られ、当時はまだ
15年に満たない歴史しかない学校で、学校規模は全生徒数が20~30名と小さく、校舎といっても大きな民家のような建物を借りたもので、それ以外の施設もなく、隣接しているコンラッド小学校の校庭(といっても小さなものです)を使わせてもらい、また、同小学校の3階にあるホールを入学式・卒業式や学芸会等のために時々貸してもらっていました。

 加えて、デリーと異なり、ベルリンには日本人会もなく、商工会の規模もデリーとは比べものにならないくらい小さいので(ドイツの場合、日本企業はデュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルク、ミュンヘンといったところに進出しており、ベルリンの在留邦人数は二千人くらいいるのですが、進出企業は両手で数えられるほどです)、日本人学校が現地の日本人の活動の中心になることもなく、年末に日本人学校が商工会に手伝ってもらって行うクリスマス会が、年によってあったりなかったりといった程度でした。
 それでも先生方は皆熱心に指導にあたってくれて、私の息子が中3の時はたまたま中3の生徒が五人もいましたが、進路指導もしっかりやって頂きました。実は、90年代後半、ボンの日本大使館に在勤していた頃にベルリン日本人学校について耳に入ってきたのは、小さすぎる等、必ずしも芳しい話ばかりではなかったので、ベルリン着任前にはやや心配していましたが、それは杞憂でした。勿論、ベルリンの場合、デリーと異なり先生方にとっても、観光や文化的な催し物など、余暇を過ごす際に多彩な可能性がありましたが、それはそれとして、どの先生方も大変一生懸命取り組んで頂いたと思います。

3.インターナショナル・スクールとの比較
 ベルリンでは娘も日本人学校に送る選択肢もありましたが、たまたま当時、ベルリン日本人学校の娘の学年(小学一年生)には、その時点で生徒がいなかったということもあり、デリーに続いてインターナショナルに行かせることとしました(ちなみに、ベルリン日本人学校は生徒数が少ないので、小学校では一二年を低学年、三四年を中学年、五六年を高学年と呼んで二学年を一緒にして授業を行っていました)。その結果として、日本人学校とインターの異なる点も多く学ぶことができました。例えば、運動会ですが、これは極めて日本的行事であり、他の東アジアの国は知りませんが、あそこまできちんと練習を重ねて集団行動を教え込む、秩序だった運動会というのは欧米ではなかなか見られず、やはり日本の学校独特のものではないかと思います。また、国語、社会や音楽といった授業は、日本人学校では当然日本のことを学ぶ機会となることが多いわけですが、インターではそうした機会はないため、インターに通った児童は、単にインター在学中に日本語の習得に苦しむだけでなく、日本人として通常知っていることを学ぶ機会がかなり制約されるのではないかと感じました。

4.補習校
 デリーには補習校がなかったのですが、ベルリンでは補習校があり、娘は補習校にも行っていたので、補習校にも簡単に触れておきたいと思います。補習校も極めて重要で、インターに行っていた私の娘が日本に戻って大きな苦労がなく日本の小学校4年生に溶け込めたのは、やはり週一回とはいえ補習校で国語と算数の授業を受けていたことが大きいと思います。ベルリンの場合、ドイツ人男性と結婚した日本人女性が相当な数おられ、そうしたカップルは子供を現地校に通わせつつ、日本語習得のために補習校にも通わせることが多いようです。よって、日本人学校の生徒数は、多い年でも30人前後なのに対し、約百名の生徒を有する補習校が二校あるという状況でした。他の国では補習校は土曜日に開かれるところが多いと思いますが、ベルリンでは場所の確保が難しいせいか、または、片親がドイツ人の家庭が土曜日を大事にしたいと思うからかわかりませんが、平日の夕方に行われています。私の娘がベルリンにいたのは小学校1年~3年までの間ですが、やはり日本人の友達と日本語で遊べるということは、子供にとってとても楽しいことのようでした。親から見ると週一回とはいえ、平日に3時半までインターの学校に行き、その後すぐに補習校に行って六時過ぎまで学ぶというのは、小学校低学年の子供には大変ではないかと心配しましたが、本人は毎週補習校に行くことをとても楽しみにしていたようです。

5.その他
 在外日本人学校の特徴は小中九学年制であるというところにもあり、上海やデュッセルドルフのような大規模校は別なのかもしれませんが、ベルリンのみならずインドでも、学年を越えて一緒に授業や行事を行うことも多かったです。日本の場合、学年の壁がかなり厳密に存在しているように見えますが、海外の日本人学校で、学年を越えて遊んだり、中学生が小学生を、また、小学校高学年が低学年を指導したりするのは、子供達にとっても非常に貴重な経験になったのではないかと思いました。
 なお、ベルリン日本人学校は五年に一度、東京でOB会のようなものを開催しており、2010年の8月、東京で親を含めて二百名近くが集まりました。私の予想に反し、父親もある程度参加しており、また、家族を連れて参加された先生もおられて、やはり在外では学校を通じての親同士、家族ぐるみの付き合いがあったのだなということを改めて実感しました(デリー日本人学校についても、三年に一度東京でOB会のようなものを開催しており、2011年の8月に開催されたのですが、我が家の連絡先が幹事に伝わっていなかったせいか、連絡がなく、後で開催されたことを知り、家族共々大変残念に思いました)。

 以上、個人的な経験を書き連ねただけですが、在外勤務の際の学校の選択というのは(選択肢があればの話ですが)、その子供にとっても家族にとっても非常に重要な話ですので、これから子供と一緒に赴任される方にとり何かの参考になれば幸いです。また、現在、日本人学校や補習校のある在外公館に勤務されている大使館員、特に幹部や領事班の方におかれては、これまで以上に日本人学校、補習校への支援に力を入れて頂ければ幸いです。

(筆者は現在領事局審議官を兼任していますが、本稿は、領事局の立場から書いたものではなく、あくまで個人的な寄稿ですので、念のため。なお、外務省は各公館を通じ、日本人学校・補習校に対して、校舎借料の一部、現地採用教員・講師の給与の一部を援助しており、また、日本人学校に対しては、安全対策費についても援助を行っています。)(2011年11月22日寄稿) 2013年5月13日会報より転載


「ダニエル・イノウエ米陸軍大尉とその仲間たち」2013-4-1

「ダニエル・イノウエ米陸軍大尉とその仲間たち」




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                       元在ホノルル総領事 天江喜七郎

(はじめに)
 人の記憶ほどあやふやなものはない。心理学によると、脳細胞に記憶された過去の事実を再び外部に表現する場合、自分に不都合な事実や不愉快な内容は無意識のうちにスクリーンされ内容が薄められて表出するらしい。他方、都合のよいことや自分の評価にかかわることについては、意識しないでも表現が過大になりがちである。この点に心して記述することにしたいが、いかんせん20年近い昔のことである。特に文中括弧の中の発言は、一字一句関係者が話したことの再現ではなく、その趣旨であることをお断りしたい。

(議会の子)
 ダニエル・イノウエ上院議員は、昨年12月17日、ワシントンDCのジョージワシントン大学病院で亡くなった。88歳だった。死去の前に「ハワイと国家のために力の限り誠実に勤めた。まあまあ(良く)できたと思う」と述べ、最期の言葉は「アロハ」だったと伝えられている。連邦上院議員(セナター)を1963年1月から2012年12月まで実に50年間、下院議員を含めると53年余勤められた。正に「米国議会の子」といってよい。最後の役職である上院仮議長は名誉職とはいえ大統領、副大統領に次ぐ第3位のポストであり、日系人として、また非白人系米国人として初めてのことである。
 周知の通り、イノウエ議員は第二次大戦中、日系二世で組織された米陸軍第442連隊に所属し、イタリア戦線でドイツ軍と戦い数々の武勲を立て、陸軍大尉で退役した。イタリア中部のカッシーノの戦いでは手榴弾で右腕を吹き飛ばされたにもかかわらず敵の陣地を沈黙させ、その勇気ある行動により米軍最高位の名誉勲章を受章している。葬儀に際し、オバマ大統領は「アメリカの真の英雄を失った」と述べて故人の死を悼んだ。この4月には茶道裏千家前家元でイノウエ議員と親交の深かった千玄室大宗匠が、故人への追悼の意を込めて日米友好・世界平和祈念の献茶式を上院でとり行う予定と聞いている。大宗匠はイノウエ大尉がヨーロッパ戦線で戦っていたころ、帝国海軍少尉として海軍航空隊特別攻撃隊に所属し米太平洋艦隊を迎え撃つべく日夜特攻の訓練に励んでいた。戦後まもなくハワイに渡り、そこから茶道を米国全土に広められた。イノウエ議員とは同年代であり、2人は半世紀以上もの長い交友関係にあった。

(出会い)
 1995年1月、筆者はホノルルに着任した。その年、第二次クリントン政権は第二次世界大戦終結50周年記念式典をヨーロッパと太平洋の双方で大々的に開催する計画でいた。ヨーロッパ戦線に関しては、同年5月に旧連合国とドイツの首脳がノルマンディーに集まり対独戦勝記念、いわゆるV Dayを祝賀する行事を行うことが決まっていた。また太平洋戦線に関しては、同年9月にホノルルで旧連合国と日本、それに戦後独立したアジア諸国の首脳を交えて対日戦争終結記念式典を開催する案が考慮されていた。
 ダニエル・イノウエ上院議員への着任挨拶を兼ねた面談は比較的早い時期に実現した。
筆者は事前に日系二世の「戦友」たちにイノウエ議員の人となりを聞いてその日に備えた。実際にお会いしたときの印象は、厳しさを備えながらも親しみやすい政治家という感じだった。イノウエ議員のオフィスはホノルルの旧市街にある連邦事務所ビルにあった。応接室に通され、そこで議員の到着を待つ間、壁に掛かっている多くの表彰状や感謝状を眺めていた。特に注目されたのは、全米ユダヤ人協会などユダヤ系諸団体から贈られた賞状が壁の一角を占めていたことだ。議員が到着したので着任の挨拶を行うとともに、太平洋戦争終結50周年記念式典について議員の意見を伺い当方の考えを述べた。議員は「ハワイでの準備委員長のロバート・キフネ提督を紹介するので、率直に話をしたらよい」とアドバイスしてくれた。キフネ提督は日系三世の退役海軍中将。お合いしてみると誠実で気さくな軍人さんだ。「海軍提督のご先祖のお名前は貴船ですかそれとも木船ですか」と伺ったところ明確な答えはなかったと記憶している。そのキフネ提督のご尽力もあって、記念式典から「リメンバー・パールハーバー」やV-J Day(対日戦勝記念日)のスローガンが消え、「太平洋での平和回復」を祝賀する米大統領と各国国防相の記念行事に落ち着いた。

(ユダヤ女性)
 イノウエ議員との会談の中で、「セナターはどうしてこんなに多くの賞状をユダヤ人から頂いたのですか?」と疑問をぶつけてみた。議員は「よくぞ聞いてくれた」とばかりに、にやりと微笑んで次のような話をしてくれた。  「イタリア戦線で腕をやられてフランスにある野戦病院に担ぎ込まれたときのことだった。気がついてみると手術で右腕の肘の関節から下がなくなっていた。それはショックだったね。ある日のこと、タバコが吸いたくなり一本取り出して口にくわえ、左手でマッチをすったのだが上手く火がつかない。それで近くにいた看護婦を呼んで、タバコに火をつけて欲しいと頼んだんだ。そうしたらこう言い返された。『あなたはこれから一生、腕一本で生きて行くのよ。だからタバコの火も自分でつけなさい。』あの一言は強烈だったね。後で分かったことだが、彼女はユダヤ人だった。ユダヤ人の境遇を知って彼女に同情してね、ハワイに復員後ユダヤ人支援団体を作ったよ。連邦議員になってからも全米の様々なユダヤ人団体をサポートしてきた。」

ヨーロッパにおけるユダヤ人に対する根深い偏見と人種差別、ナチ強制収容所とホロコースト。ヨーロッパ戦線で見聞したであろうユダヤ人の境遇と米国で差別待遇を受けている日系人の境遇とが、若き日のイノウエ青年には重なって見えたに違いない。そして思い出したように議員は言葉を継いだ。「あれは戦争が終わってニューヨークに着いたときのことだった。髪が伸びたのでどこかで散髪したかった。裏通りに一軒床屋を見つけ、ガラス窓から中を見ると客は1人しかいない。中に入って、『頭を刈ってほしいんだが』と言うと、白人の
床屋は私を見るなり『ユー、ジャップ、ゲラリヒアー』と怒鳴ったんだ。米国のために片腕を失ったのに。そのときは悔しさで一杯だった。白人の人種偏見は戦争が終わっても何も変わっちゃいないと思ったね。」

 「上院議員になって30年以上経った今でも、それを感じるときがある。この前、上院でスピーチをしたときのことだ。私が話し出すと、誰かが足で床を踏み鳴らすんだ。無視したがね。戦後半世紀たった今でも偏見はなくなっていない。」これを聞いて筆者は、イノウエ上院議員ほどの重鎮に対してさえも、議場で嫌がらせをする人種偏見の根強さに返す言葉を失った。 イノウエ大尉は1945年4月、カッシーノの戦闘で瀕死の重傷を負い野戦病院に運び込まれた後、後方のフランスにある米陸軍病院に搬送された。復員したのはそれから1年8ヶ月後の1947年末だから、手術を受けたのもユダヤ人看護婦と出会ったのも、その陸軍病院でのことと思われる。「あなたはこの先、一生片腕だけで生きて行かなければならないのよ。その覚悟を持ちなさい」という彼女の一言は、どんな慰めの言葉よりもイノウエ大尉の心を奮い立たせ、生きる勇気を与えたと思う。と同時に、病床の東洋人に対して分け隔てなく看病してくれたユダヤ女性に対して、イノウエ青年が特別な想いを抱いたのではないかと想像しては故人に失礼だろうか。

(戦友たち)
 筆者はハワイの日系人を通じて、米陸軍第100歩兵大隊や第442連隊の苦難の歴史を知った。1995年夏、第100大隊および第442連隊の退役軍人が家族と一緒にホノルルに集まり50周年の祝賀会を開いた。筆者も招待されたが、そこには多くの親しい顔があった。老兵たちは50年前の青年に戻ったように目を輝かせて声高に思い出話を語り合った。ビールで杯を重ねるうちに、老兵たちは次のような話をしてくれた。
「イタリア戦線である町を攻略したときのことだ。米軍の白人部隊が、町の入り口に陣地を築いて抵抗しているドイツ軍を攻撃したが、抵抗が激しくて全く前進できないでいた。そこで第442連隊の我々に出撃命令が出たのさ。我々は死に物狂いでドイツ軍陣地を攻撃した。
 連隊の合言葉は『ゴー・フォー・ブローク』、当たって砕けろ、だからね。味方は大分殺られたが、やっとのことでドイツ軍の防衛線を突破できた。それで市街地へ突入しようとすると、『442連隊、攻撃中止』の命令が来たんだ。道端で小休止していると、さっき後退した白人部隊が我々を追い抜いて市内に一番乗りさ。ドイツ軍は既に撤退しており、町の中央には市民が集まって連中は大歓迎を受けた。我々はその後でひっそり町に入ったよ。」

 「司令官が替わって各部隊による閲兵式が行われたときのことだ。第100大隊の参加人数があまりにも少ないので、司令官は『残りの連中はどこに隠れているんだ』と大声で詰問したんだ。大隊長は『他はみんな戦死しました』と答えたら司令官は驚いていたね。第100大隊と第442連隊の消耗率は米軍で最大だった。」「ダッハウのナチ強制収容所に一番乗りしたのは我々442連隊だ。ドイツ軍は既に撤退していて、日系部隊が収容所のゲートのカギを破壊して中に入ると、数えきれないほど多くのユダヤ人が骨と皮ばかりになって収容されていた。こちらもびっくりしたが、あちらも日本人の顔をした米兵を見て驚いた。日本軍の兵隊が来たと勘違いした人もいたっていうよ。あれから50年経った今でも、ダッハウの収容所にいたユダヤ人の家族がハワイを訪れて日系人と交歓パーティーを開いている。」

 戦後しばらくの間、ダッハウ強制収容所を解放したのは米第7軍42歩兵師団と公表されていたが、1992年になって初めて、第442連隊所属の第552野戦砲兵大隊がダッハウ収容所群の一つを最初に解放したことが正式に確認された。ほかの老兵が話を続けた。「第442連隊は我々ハワイと米本土の日系二世の混成部隊だが、お互い仲は良くなかったね。ハワイの二世は喧嘩早いのが多くてね、殴り合いになると決まってハワイ側が勝ったよ。我々は米本土の二世の連中を『コトング』と呼んでいた。頭を殴ると『コトン』と音がしたからだ。『コトング』はハワイの二世に比べると態度が卑屈でいつもおどおどしていたから、いじめるにはもってこいだった。でも後で気が付いたんだが、米本土の日系人はみんな収容所に入れられたんだな。我々ハワイの日系人はパールハーバーの負い目はあったが、収容所に隔離されることはなかった。『コトング』たちには悪いことをしたと後で思ったよ・・・。」  
 当時のハワイと米本土の日系人はその精神構造を大きく異にしていたようだ。その第一の理由は、ハワイ日系人が有している「我々はカンヤク移民の子孫」という誇りと自尊心である。1881年(明治14年)、当時独立国だったハワイ王国のカラカウア王は世界一周旅行の
途次日本に立ち寄り、明治天皇に対して天皇家とハワイ王家との姻戚関係を結ぶことの打診と、サトウキビ農場の労働力不足を解消するため日本人をハワイに大量に移住させる提案を行った。 時の明治政府は検討の結果、前者に関して否定的な回答を行ったが後者については肯定的に対処し、日本政府とハワイ政府との間に移民に関する協定が締結された。この「官約」に基づいて1885年から10年間で約3万人の「選ばれた」日本人がハワイに移住した。 1894年からは民間契約に切り替わったが、戦前のハワイの日系人数は20万人まで増加した。「カンヤク移民」とは「天皇陛下の命によるハワイ移民」であり、米本土に渡った日本人とは違うとの優越感をハワイの日系人に植え付けた。

 第2の理由は、強制収容所での生活経験である。真珠湾攻撃直後日系人に対する監視が厳しくなり、米本土では1942年2月、西海岸に住む日系人を強制収容する大統領行政命令が発せられた。悪名高きリロケーション・キャンプである。しかしこれはハワイの日系人には適用されなかった。米海軍はパールバーバーの奇襲攻撃で多大の犠牲を蒙ったこととハワイの安全保障上日系人全てを強制収容所に移送すべしと強く主張した。これに対し米陸軍はハワイ日系人の労働力が対日戦争を遂行する上で兵站確保に不可欠であると主張し、海軍の反対を押し切ってしまった。実際問題として、米西海岸沿いの12万人に上る日系人を収容するため全米各地に収容所を短時間で建設するだけでもかなり困難な作業であったが、その上にハワイ在住の日系人20万人を遠く離れた米本土に移送し収容することは、開戦直後の非常事態という状況下にあって不可能だったといわれている。

(補償への道)
 この大統領行政命令に関しては後日談がある。公民権運動の高まりの中で、対日戦争中とはいえ国家安全保障上米本土の日系人全てを強制的に収容する必要性があったかどうか疑問が提起された。1980年に至ってカーター大統領は本件の詳細な実態調査を命じた。そしてついに1988年、レーガン大統領は「日系米国人補償法」に署名して日系人の強制収容に対して正式に謝罪し、1人当たり2万ドルの補償に踏み切った。レーガン大統領が法案に署名したのは、第442連隊での日系人の英雄的行動に感動したからといわれる。署名に際して大統領は、「日系米国人は戦争中ファシズムと人種差別という2つの敵と戦い、その両方に勝利した」と述べて日系人の苦労に報いた。日系人補償法に至る一連の動きの背後には、収容所生活を余儀なくされた本土の日系人とともにハワイ出身の第442連隊将校スパーク・マツナガ上院議員とダニエル・イノウエ上院議員の活躍があった。先に述べたように人種差別が根強い白人社会において、慎重な上にも慎重に行動しタイミングを測りつつ、ついに日系人の尊厳を回復した忍耐力にはただただ低頭するのみである。

 先に、ハワイの日系人は強制収容を免れたと書いたが、実は約1800名が本土の強制収容所に送られた。収容された本土の日系人の数に比べれば微々たるものではあるものの、その事実は筆者の心にわだかまりとして残った。ホノルル本願寺の住職の話では、強制収容された日系人のほとんどが仏教や神道などの宗教関係者であり、特にお寺の住職は大日本帝国総領事館と檀家とをつなぐ連絡役を担っていたため、FBIに敵性分子として捕縛されたとのことであった。その後筆者は、週末などを利用して各地の寺院を訪問し強制収容にあった方々にお詫びを申上げたところ、「長い間こころの奥につかえていたものが取れました」と涙を流された老住職もおられた。

(太平洋戦線)
 二世部隊が活躍したのはヨーロッパ戦線だけでない。1980年まで秘密のベールに包まれていた米陸軍情報部(Military Intelligence Service, MIS)の語学要員部隊は、太平洋戦争で捕虜になった日本人兵の尋問や文書の解読、更には沖縄戦での投降呼びかけなど広い分野の活動に従事した。筆者がハワイで親しくしたMIS元隊員の二世たちは戦争中の話になると途端に口数が少なくなる。話好きな第442部隊の元隊員たちとは対照的だった。それは当然のことで、第442部隊には、多大な犠牲を払いながらドイツ軍に勝利し、また米国内の人種偏見を跳ね返したという誇りと達成感があった。米陸軍史上最高の栄誉を与えられ、メディアにも大きく報道された。他方、戦争中のMISの活動はすべて隠密であり、戦後も長らく秘匿され歴史の表面に現れてこなかった。日系隊員は米軍の各部隊に1人、2人とばらばらに配属され、部隊では白い目で見られた。沖縄戦で日本兵に投降を呼びかける役を引き受けた沖縄出身の二世は、前方から撃たれるだけでなく後方からも撃たれる危険性があった。ある元隊員は筆者にこう語った。 「捕虜になった日本軍将校の尋問にはてこずりました。私はMIS部隊の通訳ですが、日本語が流暢なので日本の脱走兵と間違われて罵倒されたこともありました。裏切り者とは口もきかん、との態度ですからね。でも、日本兵の捕虜は黙秘をやめた途端、ドーッと何でも話すのです。米軍では捕虜になった際の行動規範があります。名前と階級、所属部隊は答えてもよいがそれ以外はダメとかね。日本軍は捕虜の辱めを受けるくらいならば潔く自決せよと教えたが、万一捕虜になった場合、どのように行動すべきかを教えなかった。だから何でもしゃべったと思います。」

「MIS隊員になったのは、家庭の中で父母から日本語の教育をしっかり受けたインテリが多かったですね。戦後、本土で高等教育を受け、努力して大学教授や裁判官になった人も少なくありません。」当時から日系人は子弟の教育に熱心だった。筆者は息子を現地のイオラニ・スクールに通わせたが、校長はじめ日系人の教師が多いことに強い印象を受けた。
 文化勲章受章者で、昨年日本国籍を取得した日本文学研究家のドナルド・キーン先生も戦争中は海軍情報部に所属したひとりだ。先生は講演の中で、日本軍の遺棄文書を翻訳する作業に携わったと述べている。 「米軍は日本軍の基地を攻撃し占領すると、そこに残された大量の日本語の文書を送ってくるのですが、毎日毎日無味乾燥な内容の文書ばかり読ませられてうんざりしていました。しかし、その中に日本兵が書き残した日記があり、それを読む機会がありました。国にいる家族を思い出しながら戦地で書いたのでしょう。読んでいるうちに涙が止まりませんでした。」

 ドナルド・キーン先生には数多くの優れた著作があるが、「百代の過客―日記に見る日本人」もその1つである。日記文学への先生の傾倒は、あの見知らぬ日本兵の日記がその動機かもしれない。 日系米兵の物語に関心のある方には、ハワイ在住の荒了寛和尚が丹念に聞き取り調査を行った末の労作「ハワイ日系米兵―私たちは何と戦ったのか」をお勧めしたい。第442連隊もMIS部隊も、そこに所属した日系米兵はいずれも米国市民でありながら偏見と差別の中で生きてきた。戦争を通じ、米国に忠誠を誓い自己犠牲の精神で国に奉仕することによって偏見と差別を払拭することに成功したのであった。

(日米関係への思い)
 再び、イノウエ議員の思い出に話を戻そう。1995年当時、ホノルルではイノウエ議員よりも先輩格であり1990年に他界したスパーク・マツナガ上院議員の名声が高かった。マツナガ議員は豪放磊落な性格で日本人に対する面倒見がよかった。これに比べてイノウエ議員はワシントンDCで過ごすことが多く日本に行くことも稀だった。しかし戦後50年を経たころから、イノウエ議員は次第に日本に対する関心を強めるようになったように思う。議員が筆者に述べた日米関係の重要性に関する発言は明快そのものであった。
「英国は欧州における米国の最も信頼すべき同盟国だ。日本には英国のような役割を期待したい。米国と英国は同じ民族で同じ言語を話すから友好関係にあるのは当然と思うかもしれない。しかし米英関係の歴史を紐解けば、常に良好な関係にあったわけではない。独立戦争で米国はフランスと組んで英国と激しく戦った。また米英の外交政策では異なる分野もある。しかし両国のあらゆるレベルでの意思疎通によって米英関係は今日ゆるぎないものになっている。
 日米関係についても同じことが言える。両国は熾烈な戦争を戦ったが、戦後は同盟条約を結んで信頼を培ってきた。英国が米欧の橋渡し役を果たしているのと同様、日本もアジアと米国の橋渡し役を担うことができる。日米関係が堅固である限りアジアは平和であり続ける。」

(ラスト・サムライ)
 何度目かにお会いしたとき、イノウエ議員は珍しく井上家について語った。「ボクの祖先は黒田藩のサムライだ。黒田武士(クロダブシ)なんだよ」と誇らしげに話していた。いまダニエル・ケン・イノウエの一生を振り返るとき、わが身を犠牲にしてアメリカに対し揺るぎない忠誠を尽くす一方で、日系人としての自尊心を胸に秘めながら米国日系市民の地位向上と名誉回復をなし遂げた勇気と意志の強さには改めて尊敬の念を禁じえない。日米両国はその類まれな功績のゆえにイノウエ議員に最高の勲章を授与した。ダニエル・イノウエ議員の人生はまさに武士(もののふ)の生き様そのものであり、われわれ日本人にひとつのお手本を示してくれたと思う。セナター・イノウエのご冥福を衷心よりお祈りしたい。
(2013年4月1日寄稿)





「杜の都仙台に遣いして~東日本大震災から丸2年」2013-3-7

「杜の都仙台に遣いして~東日本大震災から丸2年」




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                       仙台入国管理局長 三好真理

〈最近の出入国管理行政〉
 縁あって2012年(平成24年)春から仙台入国管理局に勤務している。入国管理局への出向は、法務本省登録管理官以来6年振り2度目だが、この間に海空港では外国人から個人識別情報(指紋及び顔写真)の提供を求めるようになり、それもあって不法残留者の数は、約20万人(2006年)から約7万人(2012年)に激減した。また昨年7月には、戦後60年間存続した外国人登録法が廃止されて、『入管法』(出入国管理及び難民認定法)に一本化され、在留資格をもって本邦に3か月以上在留する外国人には、法務大臣が在留カードを発行して直接把握する「新しい在留管理制度」が施行されている。

同時に各自治体では、外国人住民を日本人同様住民基本台帳に登録することで、同じ地域社会の一員として受け入れる基盤が整えられた。市町村長が発行していた外国人登録証、そして指紋押捺をめぐる長い歴史を知る者には感慨深いものがある。特別永住者(いわゆる「在日」の方々)は年々減る一方で2010年には40万人を割り、現在では一般永住者の方が数は多い。在留外国人は、国籍別では、中国人が最も多く(2011年末現在約67.5万人)、次いで韓国・朝鮮人(54.5万人)、ブラジル人(同21万人)、フィリピン人(同20.9万人)、ペルー人(同5.3万人)、米国人(同5万人)の順になっている。入管行政の話はひとまずこれくらいにして、東日本大震災から丸2年を迎える現地の状況についてご報告したい。

〈3.11からまもなく丸2年〉
 2011年3月11日、私は在ドイツ大使館に勤務していた。年初から日独交流150周年の行事を色々と手掛けていたが、当然のことながら大震災後は、日本の実情を訴えると同時に、ドイツの人々からのお見舞いや取材、チャリティー行事への対応等に追われる日々が続いた。150周年のフィナーレには仙台から加茂綱村太鼓のメンバーを招きベルリンフィルでコンサート、震災1周年には、津軽三味線のプロに大使公邸で演奏していただくなど、東北地方と多少のかかわりはあったものの、心のどこかに、当日日本にいなかった負い目のようなものがあって、仙台へ赴任するからには被災した人々に心を寄せていきたいとの思いもあった。

 前任の貝谷俊男局長(現東京入管局長、外務省の2年先輩)によれば、当日、震度6強の地震があった仙台市宮城野区の入管庁舎では、建物の倒壊こそなかったものの窓ガラスが何枚も落ちて粉々になり、壁に亀裂が走って大変だったらしい。2011年春に赴任した人たちは、皆行き先が仙台とわかると引っ越し業者から断られ、マイカーで転勤、電気・水道は比較的早くに復旧したが、ガスが3週間以上も止まって入浴もままならなかったという。2012年春にベルリンから転入した際は、もはやそのようなことはなかったが、それでも職人不足で工事が遅れており、庁舎の洗面所には鏡がなく、壁もボロボロで、建物内が薄暗い状態だった。同年5月には週末、被害の大きかった石巻市を訪問した。日和山から見た景色は、1年前にドイツでテレビを見ていた時と変わらず(それどころかきれいに積み上げられた瓦礫の山が2つ加わって)思わず涙がこぼれた。

 着任直後、初度巡視といって東北6県の各出張所を一巡する機会を与えられた。仙台空港では、津波来襲で当局職員も旅客や近隣住民等1400名と共に3日間にわたり孤立し、通勤用の真新しいマイカーを流されたり、売店にあった笹かまぼこと銘菓「萩の月」で飢えをしのいだ、等の哀しい話を聞いた。東北管内で、定期的に入国審査官を派遣している空港は、現在、3か所ある(韓国便のある青森・秋田空港と中国、韓国、台湾、グアム便のある仙台空港)。このうち壊滅的被害を受けた仙台空港は、ご案内の通り、米軍と自衛隊による「トモダチ作戦」のおかげで2011年8月にはバイデン米国副大統領を迎え再スタートを切り、フライト数も徐々に回復して、2012年夏にはほぼ震災前のレベルに戻った。が、その後尖閣諸島や竹島を巡る日中・日韓関係の緊迫化があり、昨秋以降またフライト数が少し落ち込んでいる。2012年7月からは、外務省が中国人観光客向けに東北三県で1泊以上すれば3年数次の査証を発給する特別措置を導入し、地元で大いに期待されたが、残念ながら活用されていない状況である。

 昨年7月に野田総理(当時)を迎えて外務省主催で開催された「世界防災閣僚会議in東北」や同10月キム世銀グループ総裁やラガルドIMF専務理事も参加しての「防災と開発に関する仙台会合」等でも強調されたが、東日本大震災は、①被害が広域にわたること(復興庁のホームページによれば未だに32万人もの避難者がいる)②地震・津波・原発事故の複合災害であること、で他とは際立っている。自衛隊のヘリに乗せてもらい、上空から被災地を眺めた際には、松島の景観はかろうじて保たれているものの、石巻、気仙沼や陸前高田など沿岸部は一部地盤沈下もあり、水産加工業を中心に大打撃を受けてなかなか立ち直れないでいるのを目の当たりにした。第二管区海上保安本部では、今でも地元関係者からの要請を受けて、行方不明者について潜水捜査を実施している。すっかり海外でも有名になった感のある福島についても、出張所のある郡山市にしかまだ行っていないが、子どもが外で遊べない状況で、復興も除染の問題が大きく立ちはだかっているという話であった。これまであった福島空港への韓国、中国からの定期便は中断されたまま、風評被害はなかなか払拭されない。

〈本格的復興に向けて「今こそ息の長い支援を!」〉
 今年1月4日に、新春恒例の仙台市長と仙台商工会議所共催の新年の集いが市内のホテルで開催され出席した。来賓の村井宮城県知事をはじめ、名誉市民の西澤元東北大学総長や昨年暮れの選挙で選出された地元出身の国会議員等が登壇され、財界を中心に1200名が参加して盛会であったが、皆の願いは、「今年こそ本格的復興を」ということであった。安倍総理の言われるように「復興の槌音を響かせよう」ということだと思う。4・5・6月のデスティネーション・キャンペーン(むすび丸をシンボルマークに『笑顔咲くたび伊達な旅』と銘打って仙台・宮城が一体となって観光振興を行う)、そして外務省の大使方も何人か関与しておられるが、今年は、支倉常長らの慶長遣欧使節団が石巻市月浦を出帆して、メキシコやキューバを経、イスパニアやローマに派遣されて400周年ということが紹介された。  

東北地方の人々は、おとなしく我慢強い。しかし、それに甘えることなく、国としても息の長い支援を続けていかねばならない。大震災の教訓を風化させないことが大事で、「忘れない」「絆」がキーワードである。皆さん、新鮮な魚介類や美味しいお肉(牛タンや笹かまぼこはもちろんのこと松島のカキや気仙沼のフカヒレ料理など名物は多々あり)、そして滋味豊かなコメ(ひとめぼれやササニシキは宮城原産)や野菜、まろやかな日本酒、温泉や祭り(注)のある東北地方へ是非お出かけください!

(注)2013年東北夏祭りの日程
竿燈まつり(秋田県秋田市)   8月3-6日
ねぶた(青森県青森市)     8月2-7日
七夕まつり(宮城県仙台市)   8月6-8日
花笠まつり(山形県山形市)   8月5-7日
さんさ踊り(岩手県盛岡市)   8月1-4日
わらじまつり(福島県福島市)  8月2-3日
そして、6月1、2日には福島市で東北六魂祭が開催される。




「アウンサンスーチーさん, 待ちぼうけ」2013-2-7

「アウンサンスーチーさん, 待ちぼうけ」



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                       前国連事務次長   赤阪 清隆


ミャンマーのアウンサンスーチーさんの来日が、今年こそは実現するのではないかとの期待が高まっている。実現すれば、1986年以来27年ぶりの訪日となる。その間の彼女の苦労を思えば、誰しもが大歓迎したいと思うだろう。
 軍事政権による暴政と数々の弾圧を乗り越えて、ミャンマーの民主化運動の先頭に立ってきた彼女は、現代の比類なき世界の英雄である。ようやく訪れた「ミャンマーの春」に、これまでの努力をねぎらおうと、彼女に一目会わんとする世界のリーダーはひきも切らない。バン国連事務総長、キャメロン英首相、クリントン米国務長官、オバマ米大統領など、次々と首都ヤンゴンの彼女の自宅を訪問するニュースが世界中を飛び交っている。
 この稀代の指導者アウンサンスーチーさんに、こともあろうに待ちぼうけを食わせた日本の御仁がいた。中嶋宏WHO(世界保健機関)事務局長がその人である。いや、その責任は、彼ではなく、彼の補佐官だった私が負わねばならない。話は、1996年春にさかのぼる。
1990年の総選挙で彼女が率いる国民民主連盟(NLD)が大勝したにもかかわらず、軍事政権側は、権力の移譲を拒否し軍政を敷き続けた。この軍事政権に真っ向から立ち向かった彼女は自宅軟禁され、1991年に受賞のノーベル平和賞授賞式にも出席できなかったが、1995年7月にいったん自宅軟禁から開放された。
当時、ジュネーブに本部を置くWHOでは、ポリオを2000年までに撲滅しようと世界中でキャンペーンを展開していた。その一環としてミャンマー軍事政権も、WHOやユニセフなどの協力を得て、1996年2月にミャンマー全土でポリオ・ワクチンの一斉投与キャンペーンを挙行することを決定し、WHOの中嶋事務局長にこれに合わせて同国を公式訪問するよう招待状を送った。同事務局長はこれを唯々諾々として承諾したが、WHO幹部の間では、世界の非難を浴びている軍事政権の下へはせ参じることに懸念を表明する声もあった。
案の上、ミャンマーに向けてジュネーブを出発する日の数日前になって、ニューヨーク国連本部のブトロス・ガリ事務総長から中嶋事務局長に対して、ミャンマーを訪問するからには、軍事政権の指導者だけでなく、アウンサンスーチー女史にも会うべしとの指示が来た。圧制を続ける軍事政権に対して、国連としては、民主化と人権擁護の旗振り役としての立場から、彼女への敬意を示すことによって国連としての立ち位置をミャンマー内外に示すとの趣旨からであった。また、アウンサンスーチーさんは当時しばしの行動の自由を許されていたから、国連本部は、物理的にも彼女に会えないことは無いはずだと判断した模様であった。

しかし、中嶋事務局長は、このニューヨークからの指示にいたく困惑し、不満を隠さなかった。ミャンマーの軍事政権の招待で同国を公式に訪問する以上、反政府運動の代表に会ってその政権首脳を怒らせることはしたくないという気持ちが強く働いた。当時の状況からして、アウンサンスーチーさんに会わせてくれと軍事政権側に頼んでも断られることは火を見るよりも明らかであった。断られるだけでなく、今回の公式訪問を台無しにし、同政権とWHOとの協力関係を決定的に悪くする危険すらあった。その結果、ポリオ撲滅キャンペーンにも支障が出るかもしれなかった。

しかし、民主化運動の指導者たるアウンサンチーさんと会えというのは、国連事務総長からの指示である。これを無視した暁には、そのあとWHOが国連本部からどのような処分を受けるか心配である。軍事政権に媚を売ったと国連グループ内で冷たい目で見られるかもしれない。また、中嶋事務局長に批判的な欧米のメデイアに知れたら、どんな非難記事を浴びせられるか分かったものではない。

このような懸念が必ずしも過大すぎるものでなかったことは、それから10年以上たった2009年のバン国連事務総長のミャンマー訪問の結果を見れば、よく理解できるだろう。十分な準備もなくミャンマーを訪問したバン事務総長は、時の軍事政権の指導者タン・シュエとの会談で、当時再び軟禁状態にあり、突然自宅に飛び込んだアメリカ人と接触したかどで裁判にかけられることを目前にしていたアウンサンスーチーさんと会わせてくれと、拝まんばかりに懇願した。しかし、裁判が近いということもあってかその願いは拒否され、結局彼女に会えないままニューヨークに戻ったバン事務総長は、文字通り世界中のマスコミから袋叩きにあった。国連にとってアウンサンスーチーさんは、軍事政権に勇敢に立ち向かう民主化運動のリーダーであり、その人物に会うこともできない国連事務総長は腰抜けと批判されたのである。

話を1996年に戻そう。中嶋事務局長は、このようにアウンサンスーチーさんとの会見を巡って、ミャンマーの軍事政権とニューヨークの国連本部との間に、あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず、という進退窮まる難しい立場に置かれてしまった。
しかし、中嶋事務局長の図太いところは、WHOの目的は世界のすべての人の健康の確保なのだから、その目的のためには、相手が軍事政権であれ、独裁政権であれ、必要な相手と手を握ることになんら躊躇しないことであった。1995年ザイールのキクウイット村を襲ったエボラ熱の制圧の際には、首都キンシャサから直線距離で計って1200キロも先にいた独裁者モブツ大統領に小型飛行機をチャーターして会いにゆき、延々22時間も待たされたあとで大統領との会見にこぎつけた。

それでも今回の場合、ミャンマー軍事政権の意向を斟酌することは、国連本部からの指示に従わないことを意味した。WHOの国連専門機関としての立場とその将来を考えれば、これは相当危険な行動であった。それでなくとも日頃中嶋WHOに批判的な欧米諸国のメデイアの出方を考えると、むしろ一時的に軍事政権を敵に回してもアウンサンスーチーさんと会ったほうがメリットが大きいと考えることもできた。

私は、当時外務省からWHOに出向して政務担当の顧問をしていた。欧米諸国からの厳しい批判にさらされていた中嶋事務局長のお守り役であった。アウンサンスーチーさんに会うのかどうかについて結論を出さないまま、中嶋事務局長はミャンマーに向けてジュネーブを発った。それに同行した私は、機中、高校の教師だった父親の教頭時代の話を思い出していた。

私の父は、教頭を務める大阪の高校の卒業式に日の丸を立てる、立てないの論争で学校側と一部教師側との間で激しい対立が続く中、卒業式の当日、日の丸の旗竿を両手でささげ持ちつつ、高校の玄関先の溝をまたいで仁王立ちを続けた。日の丸反対派がやってきて、「教頭、日の丸を持って何をしているか」と問えば、旗竿を支える片足は学校の外にあるので問題はないはずだと答え、他方日の丸支持派が問えば、もう一方の片足は学校内にあるのでこれも問題はないはずだと答えて、両者を納得させたという。私は、「そんなふうに、ミャンマー軍事政権とニューヨーク国連本部の双方をうまく納得させることができる妙案は果たしてあるだろうか?」と自問し続けたが、いい案は浮かばなかった。

2月8日、ヤンゴンのホテルに着いた夜、ミャンマーで国連を代表する国連開発計画(UNDP)の常駐調整官も交えて、事務局長の部屋で対応を協議した。私は、国連本部からの指示だということを正直に明らかにして、軍事政権側に協力を求めてはどうかと提案したが、中嶋事務局長は、「そんなことはできない。そんなことをしたら、そんな目的のために来たのかと政権側を怒らせて、今回の訪問を中止して帰ってくれといわれるかもしれない」と、頑として同意しない。

話しは堂々巡りで結論が出ないまま、深夜になった。UNDPの常駐調整官は既に立ち去って、私と事務局長のさしの話し合いとなったが、ふたりともワインで酔いがまわってきたせいか、だんだんと険悪な雰囲気になってきた。私も、民主主義を踏みにじる軍事政権の横暴は断じて認めないという国連やWHOの面目と矜持、ひいては中嶋事務局長を生んだ日本の面目と矜持にもかかわる一大事だと思ったから、アウンサンスーチーさんとの会見をたやすくあきらめるわけにはいかない。

「今回彼女に会わなければ、事務局長は国連だけでなく、世界中から非難の矢面に立ちますよ」と、脅迫じみた言葉も発してみたが、それでも事務局長は応じない。「あなたはどうして私をそんなに苦しめるのですか」と、事務局長の声は、嘆願調になってきた。
「分かりました。それでは、事務局長は何も知らないことにして、すべてを私に任せてください」。最後にこう言ってその晩は別れたが、私には一計を案じる腹づもりがあった。
ミャンマー軍事政権が作った公式日程に従えば、翌9日は、ヤンゴンでのポリオ撲滅のためのキャンペーン式典に参加。10日は、ヤンゴンから北に約700キロ離れた古都マンダレーに飛行機で移動。そして、11日は、ミャンマーが世界に誇る大仏教遺跡のあるパガンを訪問。12日朝にパガンを発って国内便でヤンゴン空港に午前9時50分に戻る。同空港まで戻れば、それでミャンマー訪問の公式日程はすべて終わりだが、それから12時30分発のシンガポールへ向かう国際線ミャンマー航空(UB)231便に乗り換えるまでに、2時間40分の待ち時間がある。その時間を使えば、公式日程の枠外で事務局長とアウンサンスーチーさんとの会談を実現できるのではないか。

そう考えた私は、早速行動に移すことにした。しかし、これはミャンマー軍事政権側に知られないよう極秘裏に進めなければならない。政権側にさとられれば、計画は絶対つぶされる。盗聴されているだろうからホテルの部屋の電話は使えない。「そうだ、公衆電話を使えばいい」-こう考えた私は、マンダレーのホテルに着いてから、周りに誰もいないことを確かめつつ、ホテルの廊下にあった公衆電話を使ってUNDPの常駐調整官と連絡を取り、12日の朝10時30分にアウンサンスーチーさんにヤンゴンのWHO事務所に来てもらって、中嶋事務局長を待ってもらう手はずを整えた。

それから後はできるだけ知らん振りをして、その日を待つだけであった。次から次と寺院や遺跡を訪問する日程が組まれていた。サマーセット・モームも訪れたマンダレーの広大な景色もすばらしかったが、パガンでは、整然と並ぶ何千ものソツーパ(仏塔)が作り出す荘厳な美に心底圧倒される思いであった。ひと時、アウンサンスーチーさんのことは忘れた。
そして、いよいよ12日朝が来た。中嶋事務局長一行は、パガンの空港のVIP待合室に午前7時すぎに到着し、午前7時55分に飛び立つ予定の国内便を待った。午前9時50分にヤンゴン到着予定だから、約2時間の飛行である。ミャンマー側は、多くの関係者や軍人、政府関係者がVIP待合室に集まった。にこやかに、我々一行全員には羽織のような赤い色の着物がお土産として配られた。軽口が飛び交う。そこにいる人たちの間で、ヤンゴンに着いたらWHOの事務所で中嶋事務局長がアウンサンスーチーさんと密かに会う手はずになっていることを知るものは、同事務局長と私しかいない。

「さあ、これからが勝負だ」と私は意気込んだが、どういうわけか7時30分を過ぎても飛行機の姿が待合室の前に広がる空港敷地に現れない。広々とした空港は果てしなく空っぽのままである。そして、出発予定の時間が来たが、我々の飛行機はまだ来ない。「遅れるのかな」と思って私は待合室から外に出て空を仰いだが、飛行機の姿はどこにも見当たらない。「遅れるのですか」と近くの軍人に聞いてみたが、返事がない。少々焦る気持ちを抑えつつ、待合室に戻って飛行機が来るのを待った。

ようやく飛行機が来てパガンを飛び立ったとき、時間は午前9時近くになっていた。機内では、私は窓側に座った。ヤンゴンの街を一刻も早く白い雲の波の間から見たかった。いつヤンゴンに着けるかと心配で自分の腕時計をにらみ続けながら、「10時30分に着けば間に合う、いや、11時に着いてもまだ何とかなるだろう」と、自分に言い聞かせ続けた。

そのころ、首都ヤンゴンでは、午前10時30分きっかりに、WHO事務所にアウンサンスーチーさんが到着し、中嶋事務局長一行の現れるのをWHO関係者と一緒に待っていた。
我々の飛行機は、予定の到着時間よりも約1時間10分遅れて、午前11時にやっとヤンゴン空港に着いた。シンガポールへ向かう便まで残る待ち時間は1時間半となったが、空港からWHO事務所までは、車で急げば2, 30分である。 ちょっとの間だけなら中嶋事務局長がアウンサンスーチーさんに会うことが出来るはずであった。空港到着ロビーで自分の荷物の確認を急ごうとしていた中嶋事務局長に私は、「何をしているんですか。荷物なんか後でもいいではないですか」と大声で叫んで、空港を一緒に出ようとしたら、ミャンマーの政府関係者が我々の前に立ちふさがって、「空港を出るのはだめです、次の飛行便に間に合わなくなる」と我々を止めた。

「いや、WHOの事務所にちょっとだけ立ち寄るためです」と私は答えて先を急ごうとしたが、今度は多くのミャンマー関係者が出てきて我々を囲んでブロックした。私は、ええい、仕方がない、ことここに至った以上ミャンマー側にこれまでの計画をばらして、お情けを受けてでもWHO事務所に急ぐのを許してもらうしかないと観念した。「実は今この時間に、アウンサンスーチーさんがWHO事務所で中嶋事務局長を待っているのだ。公式日程はすでに終わっている。5分だけでもいいから会わせて欲しい」と、政府幹部と思しき人物に慌てて舌をかみそうになりながら頼んだ。

「その時間はない」と、にべも無い返事が返ってきた。その政府役人は若かったが、頑としてこちらの言うことには応じないという冷たい態度をしていた。「それじゃ、空港から電話をさせてくれ。中嶋事務局長が彼女と電話で話す」と応じたが、「だめだ、電話をするなら、シンガポールからやれ」と言う。押し問答を続けたが、ミャンマー側は「だめだ」の1点張り。

空港に着くまで穏やかで何の変哲もなく見えた彼らの顔つきが、今はみな軍人の顔に変貌していた。これがミャンマーの軍事政権の本当の姿なのだと、改めて思い知らされた。そうか、君たちは、すべて知っていたのか。飛行機の到着も故意に遅らせたのか。
私の胸は怒りではち裂けそうであったが、結局、あきらめざるを得なかった。そして、中嶋事務局長は、シンガポールに着いてからアウンサンスーチーさんに電話をかけ、待ちぼうけを食わせたことを深く謝るとともに、ミャンマーの保健状況の一層の改善と彼女の活躍を期待している旨を伝えた。彼女は、事情をよく察して、不満めいたことは一言も言わず、WHOの一層の発展を願っていると応えた。

ジュネーブに戻ってから、私はニューヨークの国連本部に簡潔に報告書を書いた。中嶋事務局長は、ヤンゴンでアウンサンスーチーさんと会見する段取りをつけ、彼女には当日WHO事務所で待ってもらったにもかかわらず、飛行便が予定よりも遅れたために、残念ではあったが会うことが出来なかった、しかし、シンガポールについてから彼女と電話で話すことが出来た、と。これに対して、国連本部からは何の音沙汰も無かった。一件落着であった。

他方、ミャンマーの軍事政権側も、その後この件をまったく問題にすることは無かった。それもそのはず、中嶋事務局長はミャンマー訪問中アウンサンスーチーさんのことは一言も触れず、接触することも全く無かったのだから。
私は、一所懸命に何とか難問を解決しようともがいているうちに、謀らずして、ニューヨークの国連本部とミャンマーの軍事政権の双方とも納得させるような結論となったことに我ながら驚いた。とたんに、親父の日の丸が目に浮かんだ。(了)

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