余談雑談

第26回「女性の敬称―MissとMrs.とMs.」
2017-02-07

第26回「女性の敬称―MissとMrs.とMs.」


元駐タイ大使 恩田 宗

少し前のことだが米国紙にMs. Warren has criticized Mrs. Clintonとあった。 女性は英語では結婚前がMiss 結婚後はMrs.だった。それが1970年代初頭の米国で未婚既婚に関わりなく一律にMs.と呼ぶ慣行が始まった。雑誌「Ms.」が発刊されMrs.は女の男への従属を示す差別語であり女性も男性同様に結婚しているか否かで区分されるべきではないと主張した。ボストン・グローブ紙はその趣旨にすぐ賛同しMs.の導入を応援した。商用書簡や一部政府刊行物も早期にMs.に切り替えたがこれは女性の婚歴を確認せずに済む便利さに惹かれたからだと思われる。何れにせよ1986年それまで躊躇していたニューヨーク・タイムズが遂に大勢に同調しMs.は米国で標準用語として受け入れられた形となった。そして1991年には英国のザ・タイムズの王室・社交欄での使用が許され英語の家元の認可が下りた。

 しかしまだ多くの人がMrs.を使っている。冒頭の新聞記事から察するとクリントン夫人もMrs.と呼ばれるのを望んでいるようである(多くの報道機関が敬称については本人の意向を尊重するとしている)。ウォーレン上院議員は娘時代の姓はHerring でWarren 姓の男性と結婚しその後離婚した。今はMann姓の男性と再婚しているが姓は政治活動上の便を考えてのことかWarrenのままでいる。ウォーレン女史はMs.としか呼ぶ他はなくMs.がなかったとしたらどう呼ぶべきか迷うところである。

 2014年の在京外交団リストでは米国大使館の館員夫人は七割近くがMrs.でありMs.は少数派である。ケネディー大使は夫君の姓が Schlossberg だがMs. Caroline Kennedyである。その他の国の館員夫人はほぼ全員がMs.の豪州カナダ両国を除き英国等欧州諸国を含め圧倒的にMrs.である。独身の女性外交官でMissを名乗るのはタイ大使館の六人だけである。

 イリノイ大学言語学部のD・バロン教授によるとMs.は意識が高く自立した現代女性をイメージさせるとして女子学生が好んで使っているが彼女達の多くは結婚したらMrs.と呼ばれたいと言っているという。立場のある職業人(プロフェッショナル)であれば別として或る程度の年になりMs.などと名乗ると離婚したか寡婦になったかと思われかねないということらしい。

 事態はMs.推進者達の意図した通りにはなっていない。Missは追放できたが敵とした本命のMrs.が居残っている。言葉は文化である。主義主張だけでは変えられない。それに誰が誰の連れ合いか判った方が便利だということもある。 なおドイツでもFrauleinは使われなくなり女性はすっきりFrauに一本化されたという。然しフランスではMademoiselleも Madameもその侭らしい。文化の違いである。

第25回「幸福度――ブータン人と日本人」
2017-01-16

第25回「幸福度――ブータン人と日本人」


元駐タイ大使 恩田 宗

ブータンは国民の97%がとても幸福或いは幸福だと答える幸福国だという。先代国王が1976年に「国内総生産GDP」だけでなく豊かさの持続性と公平さ、自然環境、伝統文化、統治の質などをも考慮した「国民総幸福量GNH」を重視すべきだと主張し以来幸福増大がブータンの国是になっている。この考え方は環境破壊や貧富の格差を憂えていた世界の識者の共感を得た。UNDPの「人間開発指数HDI」はそれに触発されて作られた指標である。ブータンは新たな開発理念創出に向け世界をリードしている。

 しかし現実は厳しい。観光と水力発電の他お金になる産業はなく政府予算の3割を外国援助に頼っている。医療と教育は無料にしているがその水準はまだまだで乳幼児死亡率が高く成人識字率は低い。人口の4分の1近くが貧困層(1日1.25ドル以下)で2011年のHDIは世界141位である。

 それでどうしてあんな笑顔をしているのだろうか。「ブータン、これでいいのだ」の著者御手洗瑞子は彼等は幸福を感じる力が強いのだという。幸福を身近な人の分を含め広く捉え自分にとり苦しいことは心の中で巧く処理するらしい。不運にあっても失敗をしても、約束を破られても破っても、他人を責めず自分も責めず、相手を許し自から謝ることもしない。諸事多くを望まず何があっても仕方がないとあっさり諦めるらしい。先のことは分らないので欲求は我慢せず満たすことができればその場で満たす。見方によればずぼらな快楽主義だとも言える。考えるに、ブータン人の幸福の秘密はコロンブスの卵と同じである。あっけない程簡単で「幸福への道は幸福だと思うこと」ということのようである。

 日本は所得・教育・安全・健康等の幸福指標が高くHDIは187ヵ国中12位である。しかし2010年の世界価値観調査では日本人で幸せだと答えた人の割合は86.5%でパキスタン人の少し上インド人の少し下であって60ヵ国の中頃に留まっている。

 日本にはストレートに幸せだと答えるのをためらう人が多いのかもしれない。日本国憲法第13条には「幸福追求に対する国民の権利」は「最大の尊重を必要とする」とあるが幸福追求の権利などという観念は占領軍が持ち込んだものである。伝統的には「幸い」や「幸せ」は獲物のように狩るものではなく願うものであり神の嘉(よみ)し給う人が授かり恵まれるものだった。自分と自分で決めた生き方に責任と自信をより強く持つようになり、よそ様への遠慮とか聞こえなど周囲への気遣などをしなくなれば、自分は幸せだとはっきり答える人が増えると思う。 

 幸福の定義やその測定方法にこれだというものはない(「幸福は何故哲学の問題となるか」青山拓央)それに言語が違えば幸福を指す言葉とその含む意味が微妙に違う。ブータンの国語のゾンカ語には我々の言う幸福にぴったりするような言葉はないという。幸福度を国際比較する現存の統計ではおおよそのことしか分らない。ブータン人と日本人でどちらがより幸福かは何とも言えない。

第24回「暦」
2017-01-06

第24回「暦」


元駐タイ大使 恩田 宗

 2011年、福岡県の古墳から西暦570年に当たる干支(えと)と正月6日の日付が刻まれた刀剣が出土した。暦の使用を示す日本最古のものとして評判になった。暦については6世紀初頭には百済から暦博士を雇い入れていたという(「暦」広瀬秀雄)。日本書紀に602年書生(ふみまなぶるひと)の玉(たま)陳(ふる)が百済の僧より「暦法(こよみ)を・・学びて業(みち)を成(な)しつ」とあるのでヤマト朝廷は政治支配の基幹ソフトの暦を100年近くお雇い外国人に頼っていたことになる。

 暦にはそれを生んだ文明の世界観が凝縮されていて中国、印度、メソポタミヤ、ローマなど文明の数だけあった。又、ユダヤ教徒には世界創造(BC3761年)を紀元とするユダヤ暦、仏教徒には仏滅(BC543年)を紀元とする仏暦、イスラム教徒にはモハメッドのメジナ聖遷(622年)を紀元とするヒジュラ暦がある。イスラム教徒は巡礼・断食・礼拝など宗教的行事はヒジュラ暦で励行している。しかし今では日常の生活にはイスラム教徒も西暦(キリスト生誕年を紀元とするグレゴリオ暦)を使っている。

 キリストの生誕年(実はBC4~5年らしいが)より起算する紀年法は欧州で中世後半から教会内で行われていた。しかし一般人には数が大きすぎて使い難く印刷時代に入るまでは普及しなかったという。英国のジョン王はマグナカルタ(1215年)に「朕の治世第17年6月15日」と署名しており、シェイクスピアの「ヘンリー5世」の中のカンタベリー大主教も「先王の第11年に・・」という言い方をしている。ただ帝王の冶世を基準とする暦では年数の通算に不便である。人の年齢も数えにくくシェイクピア史劇には歳を聞かれて答えられない男が出てくる。宗教改革のルターも自分が正確に何歳かは知らなかったという。最近は「あらフォー」などと言うが当時の多くの人は生れた月日は覚えていても何年前だったかは分らず歳は「あら」ですませていたらしい。

 西暦は17世紀に欧州諸国で使われ始め20世紀始めには(日本は明治5年)事実上世界標準暦として定着した。欧米諸国の影響力が全世界に及んだからであるが運用の簡便さと正確さ(3333年に誤差一日)で他の暦に勝れていたからでもある。ただ西暦にも問題はある。零年がなく暦日と週日が毎年異なり1ヶ月や半期四半期の日数が違う。幾つかの改善案が国連でも議論されたが加盟国の多くが改暦に熱意なく沙汰止みになっている。西暦は今後も現行のまま行くことになるだろう。 

 なお、国家経営にとって暦と共に重要なソフトの度量衡はメートル法が世界共通にはなっていない。富強を誇る米国人が科学などの一部の分野を除き慣れたヤード・ポンドを諦めてメートル法を使う気がないからである。しかしメートル法は優れて合理的な制度で世界の大勢でもある。いずれ彼等も同調することになると思う。

第23回「自己評価」
2016-12-14

第23回「自己評価」


元駐タイ大使 恩田 宗

 米国チェス連盟は公式試合に出たプレーヤー約3万人の実力を評価し点数でランク付けしている。極めて正確で相手より200点高ければ75%の確率で勝ち差が400点あればほぼ100%勝てるという。ところがアンケート調査(調査対象のプレーヤー達の格付けは平均1751点)をしたところ連盟の格付けが自分の真の実力だと答えた人は21%に過ぎず、75%が過小評価されていると答えたという。これは男性の71%(女性の57%)が自分の知能は平均以上と考える米国での話である。

 謙虚を美徳として重んずる日本では違った結果になると思う。日米の高校生に「自分を価値ある人間と思うか」「自分に満足しているか」等の意識調査をしたところ(青少年研究所2002~3年)日本の学生の自己評価は米国のそれより格段と低かったらしい。「なぜ自信が持てないのか」の著者根本橘夫は米国では生徒を頻度高く褒めるが日本の教育は努力主義で自分を責める心性が育ち易いからではないかと言う。

 自己評価の高い低いは程度にもよるがそれぞれ得失がある。一概に良し悪しは言えない。高ければ自信をもって新たに挑戦する気力が得られる。しかし自信過剰になると反省に欠け無謀になったり押し付けがましくなったりする。自己評価が低いと謙虚で協調的になり向上への努力をする。しかし低く過ぎると自分の意見が持てず決められず他人の意見に影響され流される。

 最近は競争が激化しており一般に自信の強い人や強そうに見える人が優位に立ち有利である。しかし自分に確信が持てずそうした社会の潮流に順応できない人増えているらしい。自分の本当の価値や能力は自分では分かりにくく人は他人の指摘や評価を参考にしてその都度修正しながら自己像を固めてゆくものである。繊細な人は失敗したとか好かれないとかの思い込みで過早に自己否定をしてしまうことがある。他者から愛され認められたいという承認願望は誰もが持っており自己評価は他者からの信愛と評価の言葉で補強されて維持されている。自信に溢れ上に立って活動している人でも無意識にそうした言葉を求めている。褒め言葉は権力者に言うと追従になるがこの時代多くの場合励ましになり善行になる。

 ファン・ゴッホは879点の作品を残したが生存中売れたのは死の直前に買い手のついた一枚だけだった。彼は37歳で自殺する2年前(アルルで「ひまわり」を描いていた頃)弟テオへの手紙に「僕の絵もいつか売れる日が来ると思う」と書いている。しかしその1年後には「僕は画家として決して重要な意味をもつようにはなるまい」と気が挫けてしまった。もう少し売れていればもう少し生きて描き続けたかもしれない。

第22回「借金」
2016-12-01

第22回「借金」


元駐タイ大使 恩田 宗

東北大学付属図書館の所蔵している漱石の蔵書・書簡・書付などが江戸東京博物館で展示されたことがある。その中に金銭貸付簿があった。見ると漱石がお金を貸した相手の名前、金額、日付が几帳面にしるされていた。開かれていた頁の年には17人に対し1回10~30円程度の貸付を20回行なっている。相手は親戚や知人とおぼしき人達で「矢田の婆さん」などという借り手もいる。それに漱石の門下生3人(小宮豊隆、森田草平、鈴木三重吉)である。しかしきちんと返済しているのは小宮豊隆ほか2人だけでその他門下生を含む14人は借りたまま返していない。その年は250円の貸し越しである。漱石が「大学では講師として年俸800円を頂戴していた(が)・・(それでは)到底暮らせない」と言って東京朝日新聞に移った(明治40年2月)ばかりの頃だった。月給200円と収入は増えてはいたが250円は小さい額ではない。それでも貸し手も借り手もあまり問題にはしなかったらしい。社会的地位のある者と彼に縁のある困窮者とは金の無心はされて当然して当然だったようである。

落語家の五代目志ん生は漱石より一世代後の人だが人生の出だしは極めつきの貧乏で借金の踏み倒しや夜逃げを繰り返したという。それでも大事にならずなんとかしのげたようである。その頃の大晦日の寄席は家に押しかけてくる借金取りと顔を合わせずに年を越そうという人達で一杯だったらしい。借金の達人の志ん生は落語の枕で「大晦日越すに越されずなんて言ったって元日は来ちゃうんですから越してしまうんですな」などと話している。万事が鷹揚で借金返済の督促もまだそれ程厳しくなかったらしい。家長と一族縁者、大家と店子、親方や師匠と弟子、先生と門人、店主と使用人などの社会制度がセイフティー・ネットの機能を果たしていたのである。

そうした古い制度が壊され個人は自立し自由で平等ということになったがいざという時泣きつくところが無くなってしまった。その代りサラ金やヤミ金融業者(東京だけで約5,000社)に行けば手軽に貸してもらえる。反面債務返済の追及は組織化されていて厳しいらしい。電話による頻繁な督促に始まり勤め先や家庭を訪問したり暴言・暴行・脅迫など過酷な手段を使ったりもする。人によってはホームレス化や自殺に追い込まれる。

少し前の統計だがサラ金の利用者1,900万人の内返済困難に陥っている多重債務者は150~200万人と推定されている。自殺者はピークだった2003年の34,400人から2014年の25,400人へと減少しホームレスも全国で2003年の25,300人から2007年の18,600人へと少なくなっている。しかし問題は依然深刻で自立自由平等の代償だとしても厳し過ぎるように思う。                                   

第21回「地図と地球儀」
2016-11-14

第21回「地図と地球儀」


元駐タイ大使 恩田 宗

フェルメールの現存する37点の絵のうち10点に地図か地球儀が描いてある。当時地図や地球儀はまだ貴重品で権力者や金持ちは室内装飾としても使っていたらしい。17世紀のオランダは貿易で栄え世界の地理情報にも恵まれて地図・地球儀作りの中心地だった。

地図の歴史を読むと人間の知識や技術は急速に進歩する時と緩慢に進む時があり退歩することさえあることを教えてくれる。

世界の地理についての知識は大航海時代に飛躍的に拡大した。ローマ最盛期の2世紀にプトレマイオスが古典ギリシャ以降の成果を集大成して世界地図を作成しているがその業績は忘れられ長い間顧みられなかった。中世になると世界地図と言ってもエルサレムを中心とし東の端にエデンを画いた基督教ドグマの解説絵図のようなものしかなかった。従ってコロンブスを西への航海に思い立たせた地図は彼の時代より1,200年前のプトレマイオスの地図の復活修正版だった。彼がインドに着いたと誤解したのはそのためである。ただ探検はその後も引き継がれ100年を経ずして南北米大陸の入ったほぼ現実に近い世界地図が完成している。あの時代の地図を年代順に見比べると進歩の速さに感嘆させられる。

最近、地図は再び革命的進化の時代に入った。誰でもパソコンを使えば数値化された地理情報が得られるので縮尺や方角を自由に変えたり地形を立体化したりして見ることができるようになった。地域の実景も眺めることができる。地図のカストマイズ化で主導権が利用者に移ったという意味で革命である。これがどこまで進むのかまだ分からない。

地図は日用消耗品になった。しかし途上国では簡単な道案内図さえ読めず画けない地図文盲の人がまだ多い。日本でも巨大なショッピング・モールで大きな案内図を壁に掛けて置いても迷う客が多くついに床の上に画くことで解決したという。「話しを聞かない男地図が読めない女」(ピーズ夫妻著)によると女性の9割は地図から現実を想起する能力が弱いらしい。男は狩り女は育児との分担を何万年もしてきて男は広い空間を感知計測する能力が発達し女は危険を察知する注意力が育ち身近な状況に敏感になったのではないか。女性が道に迷っても道端に咲くコスモスなどを見落とさないのはそのためである。

地球儀は最近あまり見かけない。米国でも執務室や居間から消え教室にも置かなくなりつつあるという。確かに第二次大戦後は新しい国が次々と生まれ国境や地名がよく変わり長持ちがしなかった。又地球儀上の地図は小縮尺で小さい川や島は載っていない。それに地球の丸さは多くの人が飛行機旅行で体験済みでもある。しかし地球儀を眺めていると人間世界を空から見降ろす様な気分になる。国際問題などについて物事のバランスを維持する上で役立つと思う。

第20回「大掃除と記念の品」
2016-11-01

第20回「大掃除と記念の品」


元駐タイ大使 恩田 宗

12月には大掃除と決まっていたが最近は必ずしもそうではないらしい。ダスキンの最近の調査(2015年1月全国20歳以上の男女を対象に実施)では大掃事をしたと答えた人は58%だったという。そのすこし前のインテージ社の調査では東京の主婦の68%が大掃除をすると答えている。ただ日頃こまめに掃除して年末に大掃除をするにしてもあまり大がかりにはしないらしい。同社によれば掃除用品の売り上げは年末にかけ伸びることは伸びるが近年その上昇カーブは緩やかになり家の掃除が年中分散の傾向にあることを示しているという。

家の掃除事情が変化しているのは住まいの造りが変わり家庭用品や用具も進歩したからである。あまり汚れなくなり汚れても簡単に清掃できるようになったということである。しかしレンジフードと換気扇の掃除は未だに厄介らしくダスキンの調査では最も苦戦した場所として6年連続でトップの地位を占めている。「くじ引きでパパ大当たり換気扇」が大掃除川柳のダスキン大賞を取ったことがある。又インテージ社の調査でも大掃除の際は洗車に次いで空調・エアコンのフィルターの清掃を夫がそのほとんどを引き受けているという。

落語に「柳田角之進」という人情話がある。師走13日の「煤払い」の際質屋の主人の部屋の額の後ろから50両が出てきて盗んだと疑われていた浪人角之進の身の潔白が明らかになるという話である。50両という大金でも置き忘れということがある。旅先で気に入って買ったり凝って集めたりした品々、書き溜めたノート類、記念の写真やパンフレット、親しい人からの手紙や絵葉書なども仕舞っておくと何時の間にかその存在さえ忘れてしまう。大掃除をしている時そんなものが出てくると途端に記憶の回路がパッと繋がり懐かしい想い出が蘇りいっとき幸福な気持ちになる。想い出は普段は記憶の深い淵に沈んでいて何かに触発されないと意識に上ってこない。想い出に繋がるものは捨ててしまうと大切な想い出自体を捨てることになりかねずなかなか捨てられない。物が溜まる一方である。

整理の専門家は真に愛着のあるものだけを残しあとは思い切って捨てろと言う。ほとんどの「想い出物」は本人が亡くなれば皆ゴミで残された人々がその始末に苦労するだけだなどともいう。学び、考え、行動し、感動し、喜び楽しみ、悲しみ苦しんだことの記憶が人の心を豊かにするのだがその全てを何時までも忘れずに抱えていたいというのは欲深く未練に過ぎるのかもしれない。厳しく選別をしていさぎよく処分しないと物は片付かない。

昭和天皇が亡くなられた後お部屋の机を片づけたら引き出しの中からお孫様達からの手紙とパリの地下鉄の切符1枚が出てきたという(卜部侍従日記)。年が明ける前に物片づけをして自分にとっての「メトロの切符」は何なのか考えてみたいと思う。

第19回「寅さんと日本人」
2016-10-14

第19回「寅さんと日本人」


元駐タイ大使 恩田 宗

「それを言っちゃあおしまいよ」は「男はつらいよ」の寅さんがよく使うセリフである。人は表面を整えていても負い目や痛い所隠したい事を抱えている、そこを言い立てると全てが打ち壊しになるというのである。落ちこぼれの寅さんが26年間で48巻もの映画にされる程愛されたのは彼の心根の良さにもよるがその少し滑稽な言動が日本的としか言いようのないものだったからである。観客は自分の戯画を見せられた時のように恥ずかしさを感じつつも納得して笑えたのである。News Weekは1995年8月渥美清の死を悼む追悼記事を掲載し寅さん映画は「西洋文化に毒され」ず「誰もが自分の居場所を心得てい」た「変わることのない日本」を描きそれが「急速に変化」していた日本人に魅力的に映ったのだと論じた。

確かに日本人は敗戦を契機に急速に変化してきた。上下意識は薄まり権利意識が高まり自由と個性が尊ばれようになった。ものをはっきり言うようになり女性の地位も向上した。

しかし外国人からみると日本人は相変わらずらしい。タレントのサンコンは日本人の思い遣りは有難いが気を使い過ぎるので何を考えているのか分らないことが多くて困ると言う。元英紙記者のC・ジョイスは日本人が英国人に似ているのではないかと質問されて驚愕し「全く似ていないとは必ずしもいえない」と答え「日本の義理の文化が要求するものは自分の心の奥深くに刷り込まれた公正さの感覚と相容れない場合」が多いと述べている(「ニッポン社会入門」)。元FT紙記者のD・ピリングも「たぶん世界の主要国の中で日本ほど海外の人達にとって不可解で謎めいた存在で在り続ける国はほかにないだろう」と書いている(「日本―喪失と再起の物語」)。

「敗北を抱きしめて」の著者J・ダワーは占領軍は日本の諸制度の民主化自由化には一応成功したが占領初期に目指した「一人ひとりの日本人・・の考え方や感情を作りかえ」「本性を変質させる」という理想は達成できなかったと書いている。日本が主権回復した時のNYT紙記事の小見出しは「日本はほとんど変わっていない」だったという。

答えは多分その中間にあるのだろうが他人の評価の方がより客観的だとすれば日本人はあまり変わっていないということになる。

失恋続きの寅さんの理想の女房は「亭主が帰ってくる。風呂が先か酒が先か。スッと面(つら)みて分るようじゃなきゃ駄目だ」だった。しかしもし又映画に出てくる時は「亭主が帰ってくる。風呂と酒とドッチが先? スッと面みてそう聞くようでなきゃあ」と妥協するかもしれない。もっともその頃にはそんな女性は日本にはもういなくなっているだろうが。

第18回「日本と日本人」
2016-10-03

第18回「日本と日本人」


元駐タイ大使 恩田 宗

 数年前になるがNYタイムズ・マガジンの文芸評論家S・アンダーソンが村上春樹取材のため初めて来日しこう書いていた。「村上小説から想像していた東京はバルセロナやパリやベルリンのような国際都市だった。英語が話せ西洋の音楽・文学・演劇などの裏表に詳しくストレートにものを言うそんな人々のいる所だと思っていた。大違いだった。実際に触れた現実の日本は骨の髄まで日本的でしかも頑固にそう在ることにてんとして恥じるところがない。(Japan…(is)intensely, inflexibly, unapologetically Japanese)」短期旅行者の第一印象に過ぎないがそれだからこそ真実を突いているのかもしれない。                                  

 日本は西洋文化の輸入を始めて既に150年近くになる。最近は日本人も欧米人も互いに同類か仲間として考えがちである。普通の付き合いはそれで間違いは起こらない。しかし、一段深くより密接に関わり合うと互いに違和感や肌合いの違いに悩まされることがしばしばである。A・トインビーは「歴史の研究」の中で、日本は他の何れとも異なる独立の文明を構成するとしている。S・ハンチントンの「文明の衝突」も日本は中国と基本的なところで違っているとして西欧・イスラム・中華・ヒンズー・ラ米・東方正教会圏に加え日本を主要文明の一つにあげている。違和感は文明という出自の違いからくるものでその克服は難しい。

 日本は近代西洋に近づく努力を続けながらもその立ち位置を定めきれず長い間悩んできた。『「日本人論」再考』(船引建夫2003年)は日本で日本人論が繰り返し書かれ読まれてきたのはそうしたアイデンティティーの定まらない不安を鎮めるためだったとする。そして、「不安」は国家が危機に直面したとき増大するが国運が好調のときもその「成功」に確信が持てず生じるのだという。高度成長で日本が元気であった時も「タテ社会の人間関係」「甘えの構造」「日本人とユダヤ人」「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などが書かれ読まれたのはそのためだという。

 では何故経済低迷の長く続く今の日本に新しい日本人論が出てこないのだろうか。2009年に「日本辺境論」(内田樹)という本が出版されたが題名が想像させる通りのもので特に新味のあるものではなかった。船引建夫はもう大体のところまで来たという安心感から「不安なし」の状況にあるのかもしれないと書いている。日本は物質的・文化的な水準高まりとともに西洋を相対化してとらえ違いを違いとして受け入れる余裕が出てきたのではないかと思う。

  昼時のオフィス・ビルのエレベーターに乗ると背の高い青年達に取り囲まれ息苦しい程である。彼等の1~2世代後になれば欧米人に対し身体的にも違和感を感じなくなるに違いない。

第17回「人や動物の集団行動」
2016-09-15

第17回「人や動物の集団行動」


元駐タイ大使 恩田 宗

 鳥や魚の大群は捕食者に出会うと黒いひと塊となり縦横に旋回して体をかわす。無数の個体が一つの生き物であるかのような見事に統制のとれた動きを示す。しかし群れに統率者がいる訳ではないらしい。彼等は(1)周囲の仲間との間隔を常に一定に保つように動く方向とスピードを合わせる(2)障害物は避ける、というルールに従って行動しているだけだという。全員ひたすらただ周りに同調して動いているに過ぎない。

 人間も集団を作り事があれば同調して行動する。我の強い人は別として普段は差支えない限り大勢に順応している。集団と行動を共にすればあまり間違うことがなく間違ったとしても助け合えるからである。それに群れで行動すると気が楽であり楽しくもある。

 「群れはなぜ同じ方向を目指すか」(L・フィッシャー)によると、生徒約30人に選択式問題の試験をしたところ正解率は平均50%であったが各問題につき一番大勢の生徒が選んだ回答は全て正解だったという。集団の多数意見は案外正しいのである。民主的決定方法(一人一票での多数決)の信頼性も数学的にある程度証明出来るらしい。ただそれには条件があるという。問題に一つの正解があり各人が正解率50%以上の能力を有しそれぞれ独自に考えをまとめ互いに影響し合わないこと等である。集団のサイズと意見の多様性が大きい程多数派の答は正解に近づくという。各人が独自の考えを主張し合い最終的には多数意見でまとまるのが理想的ということらしい。

 しかし集団の構成が多様で多元的になるとその分多数派の割合が下がる。クイズの正解探し等であれば数の少ない多数派へ同調することにあまり大きな支障はないが政治問題になると利害が絡みそうはいかない。過半数を大きく割る多数派が集団全体にとり必要な施策だと提案しても少数諸派の賛同を得ることは容易ではない。ジャパンInc.と言われた日本が事を決められなくなったのはそのためである。F・フクヤマは米国政治は少数利益の代弁者(ロビースト)の数と力の増大で多数の意志が通らなくなっておりDemocracyでなくVetocracyだと論じているという。G・アッカ―マン議員も30年前と比較し米国議会は互譲協力の精神を失い動きがとれなくなったと嘆いている。

 ドイツ人映画監督D・デリエは東京の群衆は周りの他人と適度な間隔で自然に調和しており中に紛れて遊泳すると自分を消し去ってしまえる安心感に浸れると述べている。彼女が帰国し魚の群れのように動くよう指示してもドイツ人にはうまく出来ず誰が群れを指揮するかとの議論を始めてしまうという。 強固な個性と柔軟な協調性の二つがひと一人の中に共生両立し得れば問題はないのであるが・・・。

第16回「通信料と電報文」
2016-09-01

第16回「通信料と電報文」


元駐タイ大使 恩田 宗

外国との通信料は今はほとんどかからなくなったが昔は恐ろしく高かった。明治28年の外務省の電信費は省予算の17%を占め本省人件費の3倍だった。以後年によって上下があった。第一次世界大戦に勝利して5大国の一つとして国際連盟に加盟した大正9年は省予算の24%で連盟から脱退した昭和8年は6%になった。第二次大戦の前は平均して1割前後だった。電報は語数が多いと送信料が高くなるだけでなく暗号処理などに電信官の手間が増えるので省員は皆簡潔に要領よく書くよう鍛えられた。

 第二次大戦後も状況は同じだった。外交が再開されて暫くした1957年当時の中東諸国への電報は全て海底ケーブルでロンドンを経由して送られるため1語が200円前後だった。45語の電報1本で外務省の大卒初任給(9,000円)が消し飛ぶ計算だった。電信案は上司により徹底的に直された。1952年のファイルにある新米の事務官起案のワシントン大使館宛て電信案は「16日JAL606号機にて羽田発、ホノルル午後7時30分着、同10時30分発、桑港17日10時20分着、一泊ののち、18日7時UAL 618号機にて同地発、ワシントン午後10時5分着の予定」であった。それが「16日JAL606にて出発、17日桑港着、一泊、18日UAL 618にて貴地着の予定」と字数が911から41に削られている。こうした電文短縮への努力の過程で外務省電報に独特の言い回しが生まれた。

 ハイテクの通信網と情報処理システムの導入で通信料は画期的に安くなり電信官への負担も極小化された。今や通信専用料は省予算の0.2%に過ぎず電報の字数は問題とされなくなった。逆に、誰が読んでも違和感がないよう又情報公開の関係でインターネット検索の妨げにならぬよう多少長くなっても平易で判りやすく書くよう奨励されているという。その為、国名や都市名の漢字による短縮表記(蘭、瑞、墺、寿府、桑港)や「 」を使った省略表現(ゴルバチョフを「ゴ」、サウジアラビア訪問を訪「サ」)は少なくなっているという。

 通信のハイテク化は電報の数の飛躍的増大をもたらし電報総数はいずれ年1,000万通(転電を含む)にせまる勢いだという。首席事務官や課長も内容の吟味が精一杯で文章の添削までは手が回らないらしい。今後は読む人の負担を考慮した電報文のスタイルを生み出す必要があるかもしれない。

 なお明治30年代の後半まで電信は英語で遣り取りしていた。ロシア皇太子遭難の日青木大臣は駐ロシア西公使にAssault was made upon Russian Crown Prince this noon...Express at once our most profound regret ...and assure him…that full and complete justice shall be meted out to His assailant… I proceed at once to Otsuと訓令し、2日後(露外相は) said that he felt as though he was struck by lightning and that he knew not how to answer before the matter will be presented to the Emperor...(He)was much agitated saying that nothing can be worse than thatとの返電を受け取っている。                   

第15回「日本語の文法」
2016-08-16

第15回「日本語の文法」


元駐タイ大使 恩田 宗

「リンゴと柿、どっちがいい?」との台所からの声に「柿でいい」と答えると重い思いをして買って来たのにがっかりだと言う。「柿で我慢する」という意味に受け取ったらしい。当方は選択に迷い即座に「柿が欲しい」「柿を貰う」と言いかね「柿の方でも食べようか」という趣旨で返事をしたのだが「柿にする」と言えば誤解なく済んだかもしれない。文法書には「で」は含意が豊富だが正確さに欠けるとあった。

 こうした問題を文法書で確かめたいと思っても一般成人向けの便利で詳しい文法書はないと言ってよい。あっても著者により言うことが違う。日本の文法学界が諸説対立していて「ザ」日本語文法と言えるものが確立していないからである。学校で習う文法は所謂「学校文法」と言われていて一つの文法学説に基づくものに過ぎない。

 現代日本語の文法の研究は明治時代に日本語に印欧語(特に英語)の文法を当てはめて考える所から始まった。単語を品詞に分類し主語 - 述語を文の基本骨格とする文法である。しかし肉包丁で魚を調理した様なものでさばききれない問題を沢山残した。日本語は切れ目なく書かれており単語の認定が厄介である。例えば「ている」を一つの助動詞とするか助詞「て」と動詞「いる」の2単語とするかで見解が分かれている。そもそも助詞や助動詞を単語と認めない説もある。単語の品詞分類でも意見が一致しない。広辞苑のように「そんな」を連体詞だと分類する辞書もあれば角川国語辞典のように形容動詞「そんなだ」の連体形とするところもある。形容動詞や代名詞を品詞として認めない説も有力である。形容動詞だとされている「静かだ」は体言「静か」と助動詞「だ」であるというのである。

 「学校文法」は文は「主語 - 述語」で成り立つと教える。しかし日本文に主語があるかないか要るか要らないかの学術論争はまだ決着していない。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」のサイデンステッカー訳はThe train came out of the long tunnel into the snow country である。しかし原文は作者も主人公も汽車と一緒にトンネルを抜けて行ったように読み取れ主語は汽車だとは必ずしも言えない。

 昔イエズス会の神父が日本語の解明に手こずり「悪魔が考えた言葉だ」と言ったという。それは作り話らしいがロドリゲスは「日本語大文典」(1604年)に「日本語は・・不完全な言語」などと書いているという。印欧語の文法から見ての判断である。「世界の言語と日本語」(角田太作)によると調査した130の言語の中で日本語は決して特殊な言葉とは言えないという。主語の問題にしても世界には主語の弱い言語の方が多くその意味で英語は主語の強さで突出しているという。

 文法学者の大野晋は、日本語文法は学問としてまだ整っていない、「日本語で育った人間が・・自分の言語を深く反省し」自分で自分の「文法を・・組織立てていく以外に方法がない」と言っている。言語は文化の基である。日本人は大事なことを遣り残している。                         

第14回「幕末日本の英語力」
2016-08-01

第14回「幕末日本の英語力」


元駐タイ大使 恩田 宗

幕末の武士が持っていた英語の単語集をみたことがある。はがき大の和紙8枚の裏表に細筆で約650語がみっしり書き込んであった。仙台藩士玉蟲左太夫(1823~69)が「世界の形勢を観察し国家の為に資せんと志し」万延元年(1860年)の遣米使節に「懇請して随従」した際携行したものである。

 あの近代日本の最初の外交使節団は総員77名(大使級3名、参事官・書記官級17名、従者57名)でその中に阿蘭陀通詞3人が居た。米国政府もオランダ語通訳一人を準備していて、大統領、国務長官、市長、議会などへの公式訪問には彼を介在させ日―蘭―英の間接通訳で意思疎通をした。しかし副使村垣淡路守の日記に大統領主催晩餐会でホステスから女性は日米「いづれが勝れるや」と問われ「米利堅(メリケン)の方色白くてよしと答えければよろこびあえり、愚直の性質なるべし」とあり社交の場での会話は阿蘭陀通詞が直接英語で通訳したようである。同行した通詞達はその程度の英語通訳はできたらしい。現地紙は彼等の英語はtolerably good Englishだと評価している。

 玉蟲はというと自薦他薦の諸国藩士と同様従者扱い(玉蟲は荷物係)のため通訳を通詞に期待できなかった。漢学者だった彼は出発前に蘭学者から泥縄式に英語を勉強したのである。

 玉蟲の単語帳には、明日ツムルロー、富リシ、怒アンジル、違うチフリント、本ホック、甚高値ウェレー・ジイル、吾思アイシンキ、五ファイとありオランダ訛りが強い。「皆美シキ女子」ヲール・ビヲーチホル・オーメンともあるが玉蟲のお愛想が米国の女性達に通じたとは思えない。実際に「書肆ヲ尋ネシニ言語通ゼズ」という有様だった。あの単語帳の発音では円滑な意思疎通は無理である。 

 咸臨丸で西海岸まで同行した福沢諭吉も英語は習いたてで現地での首尾は玉蟲と大差なかった筈である。幕末(1858年頃)逸早く英語塾を開いた伊東貫斉でさえ下田でヒュースケンに直されるまではwhiteを「ウヒイッテ」と読んでいた。又、開港地では値段なんぼハマチ、わたし正直アイライト、などと教える実用書が売られていた。英語の普及に貢献した米人宣教師ヘボンは着任したばかりで日本最初の和英辞典「和英語林集成」を出すのはその7年後である。幕末日本の英語力はまだ夜明け前の状態だった。

 それでも玉蟲は滞米中は勤めて資料を集め人にも執拗に質問し各地の地勢・文物・制度を詳細に調査した。その報告である「航米日録」は筆写され多くの人に読まれた。彼は当時数少ない米国通で仙台藩の「開国助幕派」のリーダーとして藩内若手の輿望を一身に集めていたが明治2年奥羽越列藩同盟策謀の罪により切腹を命じられた。玉蟲はあの怒涛の時代持てる才能・知識・経験を生かせず無念の死を遂げた数多くの俊傑の一人である。 

第13回「米空軍による日本爆撃」
2016-07-15

第13回「米空軍による日本爆撃」


元駐タイ大使 恩田 宗

米空軍の日本本土空襲の基地となったマリアナ諸島は1944年7月陥落した。その時の凄惨な有様を従軍特志看護婦の菅野静子が手記「サイパン島の最期」(戦争文学全集)に書いている。傷口を蛆虫の白い山で覆われたり片腕を肩から砕かれたりした傷病兵を手に余る程収容し治療より死体埋葬に忙しい野戦病院が山中をのたうつように逃げ回り最後は全員玉砕するという話である。彼女も手榴弾で自決したが死にそびれ捕虜として米軍のトラックで運ばれる。彼女は日本兵や市民の死体が累々と横たわる地域を通るときは「見せて下さい!」と身を起こして眺め岬に来ると荷台から降してもらい海に浮かぶ無数の遺体が浮沈するのを見つめたという。死者達が自分達の哀れな最期を故国に知らせて欲しいと彼女に向って叫んでいたのだと思う。三島由紀夫は、歴史に証人として選ばれた人間は生き残されて事の顛末を世に伝える役目を負わされる、彼女はそういう人だと書いている。

 マリアナ諸島からの日本空襲はその年の11月に始まったが当初は飛行機工場等戦略目標を高高度爆撃していたが命中精度が悪く効果が上がらなかった。指揮をとったC・ルメイ少将は翌年3月10日の東京大空襲(334機、死者9万数千)から攻撃を都市への無差別爆撃に切り替えた。ルメイは日本をscorched & boiled & baked to deathする、一晩で10万の市民を殺すことになっても仕方がない、万一負ければ戦犯だろうと言っていたという。当時幕僚として爆撃計画作成に当たっていたR・マクナマラ元国防長官は、戦争では不必要に人を殺す、原爆二つの投下を含め67都市を焼き尽くしその市民(計30数万)を殺したことは米国が達成しようとしていた目的に対しproportionalではなかった、太平洋での戦争は双方が抱いた人種的悪感情に増幅され欧州でのそれと比較しより野蛮でより残酷なものになったと述懐している(The Fog of War)。

 終戦の前月の7日、千葉、甲府、清水、下津、明石が爆撃された。平成になり甲府を空襲した(132機、死者1127)元兵士達を訪ねたところ、「甲府? 記憶にないな、I suppose nothing eventful happened to us that night 」と答えたという。B29での爆撃は昼夜2日にまたがる往復15時間の飛行で休みなしの出撃(7月2日下関、4日徳島、7日甲府、10日岐阜、13日宇和島)はきつかったらしい。彼等にとって戦争は「相手の顔も見えずimpersonalなもの」で何処でもいい「命令通りに落として逃げるだけ」ということだった。原爆投下機の機長も命令されれば又同じことをすると述べたという。戦争とはそういうものである。

 原爆による死者を含め戦争の全ての犠牲者は彼等の死が無駄にならぬよう戦争を命じ得る全ての国家指導者に彼等の話しを聞いて欲しいと願っている。

第12回「公平と不公平」
2016-07-01

第12回「公平と不公平」


元駐タイ大使 恩田 宗

 チンパンジーを隣接する檻にいれ餌などで差別待遇をすると差別された方が飼育員に抗議の仕草をするという。公平を求める心は類人猿にもその萌芽が認められるもので人間共通の欲求である。しかし何をもって公平で公正なことだと考え感じるかは時代や国によって異なる。

 宇治川の先陣争いでは佐々木高綱は最初11メートルほど梶原景季に遅れていたが後ろから馬の腹帯が緩んでいるから気を付けろと叫び景李が直そうとする間に追い越して勝利する。平家物語や源平盛衰記によると景季は「たばかられ」たと思ったとあり腹帯が本当に緩んでいたかは疑問である。しかし両書においてもその後の世評でも高綱の行為への批判は全くみられない。競争の際の正当な駆け引きだと見られていたのである。

 世界価値観調査では同年齢で同仕事の秘書達に能力差で賃金格差をつけるのは不公平(アンフェア)だとする日本人が1990年には41%いた。それが2000年には13%(米国では9%)に落ちている。能力に応じて働き必要に応じて与えられるべきだとの考え方は人類一時期の夢想として消えつつある。

 日本は輸出を伸ばすことで経済発展を遂げたがその過程で英米などからアンフェアだと難詰された。昭和27年1月の霞関会会報に朝海ロンドン在外事務所長は「(英国議会は日本の)アンフェア・コンペティションとスレーヴ・レーバーの話しばかりで・・全くウンザリ」したと書いている。日本が勤勉で低廉な労働力を武器に輸出を増やしたのは事実だったがそれをアンフェアだと言われるのは口惜しいことだった。

 日本の輸出産業が元気だった頃は米国議会も市場を閉ざして黒字を積みあげ安全保障はただ乗りではアンフェアだと強引な圧力をかけてきた。大平総理はカーター大統領主催晩餐会の際「日本に比べ米国はなんと広大なことか・・神様は不公平ですね」と話かけたという。米側通訳でカトリックのC・イイダはGod is unfair という発想をそのまま訳すのを躊躇したため話はそれで途切れてしまったらしい。総理は日本側にも米国はアンフェアだとの思いがあると言いたかったのではないかとイイダは回想している。

 ただ米国のアンフェアとも思えた圧力なしに日本の非効率な制度慣行の改革は不可能だった。摩擦対象製品は雑貨や繊維品で始まり鉄鋼・テレビ・自動車・半導体・スーパー電算機と日本経済の高度化の歴史をそのままなぞっている。日本の製造業が米国市場の胸を借りて成長してきたことは認めざるを得ない。

 「カブキ・プレイ」は米人記者達が自分達のフェアー・プレイに対比して日本の慣行を揶揄侮蔑する時使った言葉である。公開入札や株主総会や審議会など公正性を担保する制度があっても実質は仲間内の不透明な馴れ合いで筋書が決められている見せかけ芝居だと言うのである。時代が変わりそうした言葉が使われなくなって久しい。

第11回「慰問袋と慰問の手紙」
2016-06-16

第11回「慰問袋と慰問の手紙」


元駐タイ大使 恩田 宗

サウジアラビアの首都リアドにある日本大使館で勤務していた時のことである。1990年の12月も終わりの頃でクエイトに居座った55万のイラク軍と米国主導の多国籍軍との間で戦争が始まるかもしれないという緊張した状況にあった。その数でイラク軍に匹敵する米国軍はクエイトの南部国境に接するサウジアラビアの砂漠に展開していて既に数か月が経っていた。

 そんな頃米国ワシントン州在住の4人の日本婦人から大使館に手紙が送られてきた。送り状によれば、米国では女性達がグループを作って前線の兵士に慰問袋や慰問の手紙を送っている、テレビで見ると砂漠での生活は大変らしい、日本も医療団を派遣したと聞いたので日米国際結婚の自分達も何かしなければと思い日本の医療団に慰問の手紙を書いた、大使館から渡して欲しい、ということだった。4通とも日本語で書かれていて「砂漠の地でご奮闘の皆様へ」という書き出しの心のこもった手紙だった。

 米国の市民が前線の兵士に慰問袋を送る習慣は19世紀に遡るらしい。日本では日露戦争のとき婦人矯風会が米国のcomfort bagを慰問袋と訳して満州の戦地に100個程送ったのが始まりだという。日本ではもう遠い昔の過去のものとなったが米国では(military )care packageと 呼び変えて今も盛んに行われている。色んな種類の既製パッケージがあって自分の身内や知人に或いは軍が注文に応じて選んでくれる兵士に送料は軍の負担で送るのだそうである。注文は出身地、勤務地、兵科、年齢、趣味などあらゆる選択肢で指定する事ができる。慰問袋を貰っていない期間が一番長い兵士などという指定もできるという。米国は第二次世界大戦以降の68年間のうち戦争をしていない期間は14年だけだった。全世界に威を張る軍事大国米国を支えているのは慰問袋に象徴される軍と兵士と市民の間の強い信頼と連帯の関係である。

 あの婦人達の手紙が到着した日は皮肉なことに目的を果たせず日本に戻る医療団の最後の4人を送別した日だった。日本からの医療団の派遣は発表してから4ヶ月が過ぎていたが、前線の近くには行かない、軍の病院では働かない、市民や難民は手当するが兵士は治療しない、という日本側の出す条件が現地のニーズと全くかみ合わず頓挫してしまったのである。渡す相手の居ない手紙をどうしたか、記憶をたぐり日記もめくってみたが確認出来ない。送り返すのは簡単だが彼女達をして母国に失望させたり米国人の夫や友人達の手前恥をかかせるようなことになるのは忍びない。多分仕方なくそっとそのまま預かって置くこととしたのではないかと思う。未だに心につかえの残る出来事だった

第10回「横浜開港と英仏駐屯軍」
2016-06-01

第10回「横浜開港と英仏駐屯軍」


元駐タイ大使 恩田 宗

横浜開港と英仏駐屯軍

 幕末の横浜開港当時の絵地図には居留地左の山手に英仏駐屯軍の基地が描かれている。欧米五ヵ国との安政の修好通商条約(一八五八年署名)では軍隊の駐留など認めていないがなし崩しに押し切る形で居座ったものである。

 当初は公使館警備の兵士が上陸し公使の外出や江戸参府のおりの警護などをしていた。その後居留民とその資産保護のための守備隊が駐屯するようになった。各地で攘夷を主張する騒擾事件が起こるようになり幕府も黙認せざるをえない状況だった。最後は生麦事件で浪人の横浜来襲が噂されるようになると英仏両国は攘夷派対策に軍事支援を受け入れるよう特に英仏軍による横浜防衛を認めるよう要求してきた。

 そんな状況のなか上洛中の将軍家茂は迫られて攘夷決行を奉答させられた。一八六三年六月六日である。江戸に居た外交担当閣僚の小笠原長行は同月二十四日勅諚だとして各国に諸港の閉鎖と居留民の退去を通告するとともに最後通牒を突きつけられていた生麦事件の法外な賠償金をあっさり支払った。フランスの外交記録によると長行はこの通告の前日の深夜に神奈川奉行を通じ仏公使に対し幕府は攘夷実行の意思はなくむしろ各国が激しい憤りを表明するよう望むと伝えている。同奉行は加えて横浜居留地の警衛は仏海軍提督に任せると述べ二十六日付書簡によりその旨確認したという(「幕末のフランス外交官」矢田部厚彦編訳) 

 賠償金の支払も横浜防衛の委任も急進開国派に擁せられた長行が江戸留守居の幕閣にはからず全て独断で行ったことである。幕府の外交記録「続通信全覧」によると江戸城では砲艦を海に並べて脅迫する英仏の要求にどう応えるか徹夜で会議相談を繰り返したがなかなか結論が出なかった。「廷聴ヲ恐レ内事ニ拘泥シ後日ニ患難ヲ残ス」より「一時ノ権道ヲ以テ彼ガ望ミニ随(まか)スル二如ズ」との意見が通り城内で廟議一決したのは六月末か七月一日である。七月二日若年寄と神奈川奉行に対しこれは現場限りの一時的処分であり確約の形としないよう言い含め英仏公使及び両国海軍提督に応諾の回答をさせた。要求されて若年寄が翌日両国海軍提督に出した書簡の文面はこうである。「当分」の居留地警衛は「商議の上足下の見込に応じ」たと「神奈川奉行より承知」したが「右者は余に於ても同意」である。姑息なやり方だが前後のつじつまが合い幕府上層に責任が及ばぬようにもなっている。

 英仏軍の本格的上陸はこれで始まり最盛期には三千数百人で(平均約千人、艦船乗組員を除く)基地建設の経費は幕府が負担した。英仏は維新政府の強い引き揚げ要求に直ぐには応じなかったが明治八年になり撤収した。理由は諸説ありはっきりしない。 

 急進開国派の手の込んだ外交の評価は難しい。買弁行為だったとの批判がある。国内と国外の食い違いを外交当局が取りつくろって凌がざるを得ない場合はあるが外国軍の駐留となると話しは別である。危ない綱渡りであった。ただ外交も政治だと考え結果だけで判断すれば言われるほど悪くはない。国家としての体を成していない混迷した状況にあって破局の危険を回避し駐留は「当分」ではなかったが幸運にも恵まれ長期に及ばなかった。

第9回「ハリスとペリー」
2016-05-18

第9回「ハリスとペリー」


元駐タイ大使 恩田 宗

 築地の聖路加病院の辺りから隅田川にかけては慶応から明治の初期は外国人の居留地だった。幕府が安政の修好通商条約の履行のため約3万坪を造成し外国人に売り渡した所である。外国公館や商館・牧師館や洋式ホテルが並び西洋の香りがしていたという。

 安政の条約は1858年に欧米5ヵ国と締結された。外交使節の交換や貿易とそのための外国人の居留地への来往や居住を認めている。実質的に日本を開国した条約である。それへの道筋をつけたのが米国総領事(後に弁理公使)のタウンゼント・ハリスである。

 マシュウー・ペリー提督が1854年に締結した日米和親条約は日本が結んだ最初の条約でありその歴史的意義は大きい。ただ中身は下田と函館への米船の寄港と漂着船や漂着民の保護などで通商や人の出入国は入っていない。ペリーの日本遠征は大艦隊を派遣し日本をこじ開けるという米国の国家プロジェクトだった。来てみるとコロンブスの卵で砲艦から空砲を何度も撃って脅すと条約締結に応じた。条文交渉自体は1ヶ月で済んだ。通商と人の往来を認めさせることは諦めたからである。彼は凱旋すると大歓迎を受けた。議会に提出した挿絵つき「日本遠征記」は市販されベストセラーになった。

 ハリスはその2年後オランダ語通訳のヒュースケン一人を連れて下田に着任した。ペリーのやり残した貿易の扉を開くためである。彼は渋る幕府に世界の情勢を説き口だけの脅しも使い粘り強く交渉し条約締結に持ち込んだ。2年近くかかった。侘しく慣れない食住のためか体調を崩し鬱屈が高じると平素飲まない酒を手に深夜一人泥酔したという。孤独な性格で生涯独身だった。日本滞在6年で惜しまれて帰国したがその頃米国は南北戦争で人々の関心はもう日本になかった。日記の一部が没後17年たって出版された。

 中学高校用の歴史参考書を見るとペリーが日本を開国しハリスは修好通商条約を締結したと書いてある。日本語でも出版されているThe Story of Americaではペリーは鎖国日本を国際社会にひきだした人物としてその事績に2頁さいている。ハリスのことは残された数々の障害を打破した領事だと2行で解説しているにすぎない。日本を泰平の眠りから醒ましたのは確かにペリーだった。しかし日本を「開国」させた功績と名誉を彼一人に帰すのは公平ではない。井戸に例えればペリーが水脈の在りかを見つけて旗を立てハリスが岩を掘って水を出したということである。ハリスは日本到着のとき自分が将来日本の歴史に「名誉ある記載」をされるよう希望すると日記に書いている。誰でも自分の事を後の人が正当に評価するよう望む。しかし歴史はしばしばえこひいきをする。

 ハリスは日本側との交渉に先だち2時間にわたり熱烈な演説をした。蒸気船により交易が盛んになり西洋各国は世界のあらゆる国と自由な交易をしたいと考えている、英仏などはそれへの障害は戦争してでも取除くつもりでいる、日本は先ず平和的で領土的野心のない米国と交易の条約を結び先例を作っておくのが得策である、という趣旨だった。それに対し老中堀田備中守は日本は米国と事情が異なって重要問題は多くの人と相談する必要があり決めるのに時間がかかると応えたという。意思決定に手数がかかるのは昔からである。

第8回「老いということ」
2016-04-27

第8回「老いということ」


元駐タイ大使 恩田 宗

東京大学の辰野隆仏文学教授は定年後も駒場の教室で教えていた。その頃のことについて「(先生は)お茶目で若々しかった。60歳の若さなのだから無理もないが・・・」と書いてあった。元生徒の80歳近くなってからの回想である。人が若いか年取っているかは相対的なことである。

しかし老いは青春と同じで或る一つの身体的・精神的な状態である。誰でも人生仕上げの時期になるとふとした事で自分の肉体や精神に老化という非情なプロセスが進行していることに気付かされる。老いは近いとの予告である。ただいつ老いの境地に入るかは人により早い遅いがある。一般論で言えば心身の衰えを痛感するようになり自分にとっての次の大事は死であると自覚したとき老いたことになる。それからどうするかは人それぞれで老いてなお命あるかぎり走り続ける人もいれば静かな隠退生活で余生を送る人もいる。

老いに共通するのは身体に関する悩みである。ゲーテの格言集に年を取るということは新しい一つの仕事につくことだとある。身体の修理修繕や維持管理だけでも若い人には想像できない程の時間と資金と労力を費やさなくてはならなくなる。その上に歳に応じた私的社会的な活動をしなけなければならない。亡くなった父は年取ると生き続けるだけでも大変な作業だとこぼしていた。

精神的には記憶力や集中力が衰えるが長い人生で磨かれた知恵はそう簡単には曇ることはない。利害の葛藤から遠のくので人の話やものの動きがより透けて見えるようにもなる。昔から東洋の知識人が理想とし老いてはじめて可能となる穏やかで高く澄んだ心境に到達する人もいる。ロングフェローは詩の中で暗くなると日中見えなかった星が見えるように年取ると若いとき見えなかったものが見えてくると言っている。

残念だがそうした精神的な能力は次の世代に渡すことができない。蓄積した知識と豊富な実体験のミックスから生まれる叡智は話したり書いたりで他人に譲って渡すことはできない。日本でも過去に遡れば偉大な政治家がいた筈がその叡智が引き継がれているようには見えない。

ギリシャ神話ではシジフォスが丘の上に石を運び上げるという労働を無限に続けさせられる。それを人間一人が一生かけて下から押し上げ息絶えたところで石は再びふもとに落ち次の世代がまた一から改めてやり直すという話にするとこの叡智の引き継ぎの問題に当てはまる。老いた者は後から来る人達には同じおろかな間違いや苦労をして欲しくないと思う。しかしベトナム・アフガニスタン・イラクの後でのシリアでの無惨な成り行きを見ていると人間の営みが大も小も善も悪も果てしない繰り返しのように思えてくる。

日が暮れた空に見えてきた星を若い人達にも見せてやりたいと思うことがある。                                                   

第7回「引越し」
2016-04-13

第7回「引越し」


元駐タイ大使 恩田 宗

外務省に勤めると外国勤務がある。人にもよるが退職するまでに平均して7~8ヶ所でそこにそれぞれ2~3年程度というとこである。引越し1回は荷作り荷解き家の閉じ開けと2回の作業になる。新たな住まいを見つけるにも時間がかかることがあり仕事との兼ね合いで苦労する。家族持ちの場合は子供の学校などの問題も加わる。外国でも一時的な腰掛生活でなく充実した生活を送ろうと思うと持って行く品物が増える。荷造りは業者にも頼めるが自分でしないと何がどの箱に入っているか分らなくなり荷ほどきのとき不便する。新任地でがらんとした部屋にコンテナで到着した段ボール箱の山を見ると途方に暮れる。引越しは親族友人と遠く離れる苦痛も伴う。退職してほっとすることの一つはもう引越しをしないで済むことである。

 引越しの多さでは葛飾北斎が有名だが(90年の生涯で93回)その理由は謎である。住家を全く掃除せず不潔でどうしようもなくなると引越したとする説がある。掃溜のように取り散らかした部屋で画作に没頭する北斎を見たとの証言や訪ねてきた尾上梅幸(3世菊五郎)がその住まいの汚さに驚いて持ってきた自分の毛氈を敷いてその上に座ったなどという話もある。しかし部屋の汚れに全く無頓着な北斎が不潔さに耐えかねて引越したというのは理屈に合わない。それに1日に3度引越したこともあるらしい。江戸の家主(大家)は貸家の所有者(地主・家持)からその管理を委託されていて同時に町役人として店子の監督責任も負っていた。自分の利益と保身のためにも店子選びはかなり慎重だったという。北斎は隅田川周辺の狭い地域内でぐるぐる転居していた。しかも高名な絵師である。部屋を荒らすだけ荒らして出てしまうなどということを繰り返したら情報は家主仲間に伝わり借り替えなど出来なくなっただろう。北斎の転居は彼の道教観と妙見信仰が原因だとする説(「北斎の謎を解く」諏訪春雄)があるがそれもしっくりしない。北斎と多くのベストセラー読本を協同で作り数ヶ月同居をしたこともある曲亭馬琴は、「居を転する・・この男ほどしばしばなるハなし」とただ驚いているだけで理由については書いていない。たぶん北斎自身でも説明の出来ない奇癖というかむら気がそうさせたのではないだろうか。現代でも確たる理由も無しに転々と居所を変える芸能人がいるらしい。

北斎は目まぐるしく転居しながらもその間2度結婚し男女数人の子を儲けている。また一大画閥の長として多くの門人を指導し文化人仲間との交際もこなしている。それでいてあの質とあの量の作品である。凡人と比すべきもない超人である。

その彼と比較する訳ではないが外国での勤務を承知で選んだ職業である。引越しで泣き言を言うべきではないかもしれない。                                                  

第6回「文化財の略奪」
2016-03-23

第6回「文化財の略奪」


元駐タイ大使 恩田 宗

ヒトラーは自分の名を冠した大博物館を作る計画を立て第二次世界大戦で占領した国の文化財を没収しドイツへ移送させた。米英軍は反攻当初より砲爆撃(自国軍によるものを含む)や暴徒による教会・博物館などの破壊略奪を防ぐため専門家十数人を各軍団に分散配属させていた。しかしナチス機関による組織的な略奪は小人数の専門家の手に余る規模だった。絵画彫刻から家具や教会の鐘に至るまで500万点にも及ぶという文化財を没収し南独の塩鉱山などの約1,000ヶ所に隠匿していた。連合軍はその探索と保護返還の作業に13国籍にわたる専門家300数十名を動員し内60名を前線部隊に随行勤務させたが全ては解決できていない。ポーランドにあった筈のラファエロの「若い人」は未回収だという。経緯はThe Monument Men(R.M.Edsel 2009年)に詳しいが映画化もされている。

 ヒトラーはゲントの祭壇画の獲得に特にこだわったという。欧州絵画史上の記念碑的な昨品だからだけではなかった。祭壇の一部が第一次大戦の賠償としてベルギーに引き渡したものでありその奪還はベルサイユ体制否定を意味することでもあったからである。 国家による略奪は征服や報復を象徴的に誇示確認する行為でもある。奪われる側が誇りとし心の支えとしている大切な物である程その効果は大きい。タイの王宮寺院のエメラルド仏(実は翡翠製)はタイ国民の篤い信仰の対象でありバンコク観光の目玉の一つでもある。しかしあの仏像は現王朝の初代国王がまだ将軍であった頃ラオスに侵攻し(1778~9年)ビエンチャンから奪取してきたものである。ラオス人の無念の思いは未だに静かに深く残っているという。

 欧米のミュージアムは国力を背景に世界の文化財を蒐集した。大英博物館は世界に跨っての帝国主義的活動のお陰で充実された。ルーブル美術館は初期のナポレオン(一世)美術館の頃は戦利品で溢れていた。そして彼の没落後も全部は返還しなかった。米国も第二次大戦では文化財の保全に努力したがヒトラー所蔵の稀覯本等は全て議会図書館等に持ち帰っている。潔癖に徹していた訳ではない。欧米のミュージアムでギリシャ・エジプト・メソポタミヤなどの古代遺跡から剥がし取られた膨大な量の彫刻を目の前にすると人間の業を思わされる。 日本は韓国との国交正常化の際約300点の朝鮮文化財を引き渡した。主に新羅・古墳時代の土器や高句麗の鏡など帝室博物館(とその前身)が明治時代に購入したもので内高麗青磁など陶芸品90件は伊藤博文が献納したものである。それ等が今何処に保管されているか東京博物館では把握していないという。

 NHK「歴史発見」(藤川桂介解説)によると桃太郎話の原型は岡山に伝わる吉備津彦命の鬼退治伝説で鬼とは出雲に近い地方の製鉄技術を有し鉄器を使う半島からの渡来人のことだという。日本書紀によると崇神天皇が出雲大神の神宝を取り上げた際それに不満の態度を示した神宝の主を勅命により成敗したのも吉備津彦命である。他人の財物を略取したという話が時の流れに洗われて無邪気な童話になったということらしい。

第5回「梅と桜」
2016-02-29

第5回「梅と桜」


元駐タイ大使 恩田 宗

 「梅見酒びんも小ぶりとなりにけり」脳梗塞で倒れリハビリ生活数年の後亡くなった友人の句である。明るくて成績が良くスポーツも上手な好漢だった。酒類は制限されていたらしい。日の当たる縁側に座り一人で梅見をしたのではないだろか。幕末の英国公使館員アーネスト・サトウは蒲田の梅屋敷を見物し「(人々はここで食べたり飲んだりするが)梅の花は曇った日にくすんだ色の杉並木を背景として暖かい炉辺にすわりながら窓越しに眺める」方が良いと清少納言のようなコメントをしている。確かに梅は桜ほど華やかではないので鑑賞するには静かで落ち着いた環境がふさわしい。

 梅見は奈良時代からあった風習だという。大宰府の長官大伴旅人が催した観梅の宴の際の彼と招客の和歌32首が万葉集(巻第5)に載っている。その4分の1は梅の枝を挿頭(かざし)にして遊ぶことを詠った歌で梅の花は人を陽気にさせたらしい。梅は大陸渡来の花として上層階級の間では土着の桜より人気があり万葉集には桜の歌40首余りに対し梅の歌は110首を超えるという。

 それが逆転するのは平安時代になってからである。「・・・しず心なく花のちるらむ」「花の色はうつりにけりな・・・」のように花といえば桜を指すようになる。古今集では桜の歌は梅の歌の3倍近くになるらしい。

 桜の花は献上品にもなった。一条天皇(中宮彰子)の宮廷に奈良から八重桜が献上された時のこと、受け渡し役を急遽することとなった新米女官の伊勢大輔が桜を捧げると「歌よめ」と命じられという。彼女はその場で「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほいぬるかな」と詠み「万人感嘆、宮中鼓動」せしめた。彼女は70をこえる長生きして多くの秀歌を残しているが人に知られるのはこのはたち前のデビュー作1首によってである。人生には色々の形がある。

 新古今集になると春の歌のほとんどは桜の歌で桜と梅の比率は5対1である。桜の歌の多くは落花の歌で歌人は散りゆく桜の風情に歌心を誘われたらしい。

 今のような花見が庶民の間に年中行事として定着したのは江戸時代になってからだという。吉宗は向島や飛鳥山など江戸周辺の各地に桜を植えさせて民衆の行楽を勧めたという。 梅か桜かと言われれば桜である。桜は富士山と芸者に並び訪れた外国人に強い印象を与えこの3つが近代日本のシンボルになった。しかし満開の桜と嫋やかな美女の組み合わせは「南の温かくのどかな国=後進国」という欧米諸国の固定観念に結びつき進んだ工業製品の輸出には具合が良くなかった。昭和3~40年代のことである。対外広報では日本が北にある雪も降る先進工業国だとのイメージを広めたいとして満開の桜や大和なでしこを強調することは控えた。日本の技術に対する世界の信頼感は確立された。桜には日本のシンボルとして活躍して欲しいと思う。

第4回「友人の数」
2016-02-01

第4回「友人の数」


元駐タイ大使 恩田 宗


 人生駆け出しのころ外国の任地から送った絵葉書を友人の一人が君からもらったものだが覚えているかと見せてくれた。外国がまだ遠かった時代で珍しい異国風景の絵葉書を方々に出した記憶がある。当時は海外視察に来られた議員先生方も選挙区に何十枚もの絵葉書を出していた。旅先の短い時間を惜しんで書いたということで国元での効果が大きかったらしい。 
 最近、絵葉書は勿論のこと手紙や葉書を書くことも貰うことが希になった。殆どの用件はメールや電話で済ますことができるからである。人との連絡が便利で楽になったが仲良くなった人の全てと交信を絶やさず続けることは難しい。時が経つにつれ縁遠くなる人が出てくる。友人として付き合う人の数は年齢と共に増え続けるものではない。
 20年程前、英国の人類学者R・ダンバーが人間は交際に使える時間と脳の能力に限りがあるので一対一で頻繁に会うような「最良の友」は5人、安定した親しい関係にある所謂「友人」はせいぜい230人から100人(平均して150人)が限度であるとの説を発表した。綿密な調査研究の結論であり当時の欧米人の経験値(毎年出すクリスマスカードの数等)にも合っていたので友人150人限度説は広く受け入れられた。友人の数は定義にもよるが本人の性格や年齢・職業の違いによって多い少ないがでてくる。しかし平均すれば日本人でも大体そんなところではないだろうか。
 ところが今この説に疑義が呈されているらしい。IT技術を使いこなすネット世代では数百人から千人を超える相手と常時交信している者が珍しくないからである。彼等は電子画面と対峙する時間が長い。情報過多の状況に慣れ選択肢の多さに圧倒される事はない。文書のスキャンや機敏な意識の切り替えなど高い情報処理能力も身につけている。彼等は150の限界線を突破できる脳を発達させつつあると説く学者が出てきた。ダンバーは会うこともなくSNS等で交信するだけでは質的に友人との交流とはいえず彼等の活動も従来の脳の限度内にあると反論しているという。
 脳の能力についてダンバーはこうも言っている。鳥類や哺乳類で一雌一雄の関係を保つ種はその夫婦関係の維持調整に頭を多く使っている、その気苦労に比例して脳を発達させたので一夫多妻型や乱婚型の種と比較すると体格の割に脳が格段と大きい、と。ネット世代が彼等の親の世代より夫婦関係をうまくこなすことができれば彼等の脳の能力は真実発達していることの証明になるかもしれない。
 なお、前回の米国の大統領選挙ではオバマ陣営の若い世代が活躍し勝利に貢献した。然し彼等はネット通信しただけでは選挙民を説得できず結局戸別訪問や飲み会やバーベキューなどの対面接触に精力を集中せざるを得なかったらしい。手間をかければその分人の心を動かせるということに変わりはないようである。


第3回「「昭和」と平成-日本人の身長」
2016-01-11

第3回「「昭和」と平成-日本人の身長」


元駐タイ大使 恩田 宗


 「降る雪や明治は遠くなりにけり」は明治が終わって20年後の昭和6年に中村草田男が詠んだ句である。今年は昭和が終わって30年近くになる。昭和は明治より長く大戦争の前と後とで二つに割れているので仮に戦後の44年間(明治もほぼ同じ45年)を「昭和」とすると「昭和」は遠くなりにけりという感じはあまりしない。
 草明治が遠くなったという草田男の感懐は当時の人々の共感を得たという。一つの時代が終わったと皆が実感していたからである。昭和六年と言えば経済不況と大凶作に苦しむ中軍部の暴走で満州事変が勃発し国際的孤立が始まった年である。軍縮条約締結の浜口首相は右翼テロで亡くなっている。時代の様相が変化していた。平成は「昭和」とはそれ程の変化はない。バブル崩壊で始まりその後遺症でまだ苦しんでいるが今日本人が再び起ち上げたいとしている日本は基本的には「昭和」の続きの日本で「昭和」との決別までは考えていない。「昭和」を遠く感じないのはそのためである。
 明治から平成までの諸時代を通じ変わらず一貫して日本人を悩ましてきた問題がある。身体の見栄えの問題である。ロンドンでビクトリア女王の葬列を下宿の親父に肩車してもらって見送った夏目漱石は通りのウインドーに写る自分が「一寸法師」のように惨めに見えたと嘆いた。彼の三四郎も腕を組んで停車場のプラットホームを歩く西洋人夫妻の姿に「見惚れ」「これでは威張るのは尤もだ」とつぶやいている。漱石の身長は当時の日本人の平均の157cmで英国人の平均より10cm低かった。漱石に限らず明治以来西洋人に接した殆どの日本人は見た目の劣ることに多かれ少なかれ引け目を感じ彼等の仲間の中に溶け込みきれない疎外感を味わってきた。
 「肌色の憂鬱」(真嶋亜有)から拾い出すと、ベルサイユ会議では仏首相クレマンソーが日本全権を「あのチビ」と周囲に聞こえる声で呟き、国際連盟出席の松岡外相は若いものは劣等感がなくて羨ましいと随員に打ち明け、マッカーサーは天皇と並んで立った写真を日本人に見せつけ、フランス留学の遠藤周作は偏見に苦しみつつ「聖アンナ像と弥勒菩薩との間にはどうにもならぬ隔たりのある」ことを学んだ。
 しかし西洋人種との身体的差異の存在は或る意味で日本に幸いした。そこから生じる違和感が西洋との融合を妨げ日本をして日本で在り続けさせたからである。鹿鳴館で象徴されるような性急な西洋化熱にブレーキが掛らなかったとしたら日本はどんな形になっただろうか。弥勒菩薩は間違いなく辛い思いをなさったと思う。
 平成になり日本人の体格も良くなってきた。2009年のOECD統計では男子の平均身長は171.6cmと英国人のそれと5cm違いとなり中国韓国を含め殆どのアジア諸国のそれよりも高い。平成の次の時代には身長の悩みは和らぐだろう。そんなことをまだ話題にしていた平成を遠くに感じるかもしれない。


第2回「17条の憲法の解釈」
2015-12-21

第2回「17条の憲法の解釈」


元駐タイ大使 恩田 宗


 集団的自衛権の問題で憲法をどう解釈するかが議論になっている。
 日本で憲法という言葉が最初に使われたのは聖徳太子の17条の憲法であるが今の憲法とは成立の背景も性格も違う。形成されつつあった官人層に服務の心得を訓示し併せて守られるべき一般道徳を説いたものである。日本人の性格や心情をよく見極めての教えでその殆どが時代を超えて今に通じる。保元の乱で敗れた藤原頼長は天下を取った暁には17条の憲法の精神で政治を行うと神に誓ったという。安部総理も「以和為貴」と色紙に書いて書道展に出品し「議論しながら最後には皆でまとまって進んでいくこと」だと説明したと報じられた。
 「以和為貴」は日本書紀の伝える17条の憲法の第1条冒頭の文である。太子の時代それを日本語でどう読んでいたかは分らないらしい。記録に残る最も古い訓みは平安中期のもので第1条の和は「ヤワラグ」「ヤワラカナル」となっている。穏和・柔軟であることが大切だということになる。第13条と15条にも和という字がでてくるがこれは「アマナヒ(フ)」と振り仮名されていて一致するとか協調するという意味になる。和には読み方と意味が二つあったということになる。ところが室町時代になり関白一条兼良が第1条の和も「アマナヒ」とそれ迄とは違う訓点をして後世の解釈に影響を与えた。今は殆どの日本人が1条の和を「ワ」と音読し安倍総理と同じに合意し団結することを勧めているのだと理解している。
 日本書紀に詳しい石塚晴道北海道大学名誉教授によると兼良は超一流の学者であり典拠に基づき長年熟考の末解釈を変更したと思われるがその生きた時代にも影響されたのではないかという。15世紀の日本は下剋上の風潮が吹き荒れ既成秩序が崩壊しつつあった。武力抗争や土一揆が全国で頻発し応仁の乱では兼良邸を含め京都がほぼ全焼している。西軍の主将山名宗全が有職故実を論じ先例々々と言い立てる兼良らしき学者に対し全て「その時が例」であり時勢によって変わるべきだと言い返したという話が残っている。そういう時代だった。
 聖徳太子も時代の波に洗われてきた。日本書紀では聖人扱いで次第に神格化され親鸞は久世観音の化身だとして礼拝した。江戸時代の儒者や国学者からは太子の仏教受容振興策が日本を悪くしたと非難された。明治の小学校の最初の歴史教科書はこんな逸話を載せているという。子供仲間といたずらをしていた時父の欽明天皇が笞を持って現れたが太子一人は罰を受けて当然だとして逃げなかった、と。昭和のナショナリストからは隋に対し対等の外交を実行した人として尊崇されたが敗戦で占領軍に紙幣の上からパージされかけた。近年は太子存在が日本書紀の創作に過ぎないと論じる学者もいるらしい。日本が世界に誇り得る17条の憲法の作者とされている方である。これからも生き続けて頂きたいと思う。


第1回「オノマトペ(擬態語・擬音語)」
2015-11-30

第1回「オノマトペ(擬態語・擬音語)」


元駐タイ大使 恩田 宗


 外国人に日本語を教えていて困るのはオノマトペ(擬態語・擬音語)である。よろよろ ふらふら よたよた の違いなどを聞かれると往生する。普段これ等の言葉は獏とした語感で適当に使い分けていて概念的にその差を明確に意識していないからである。「日本語オノマトペ辞典」の編者小野正弘は「どうもすっかり遅くなってすみません」のすっかりには「ずっと気にはしていたのですが色々あってあっと気がついたらこんなに遅くなってしまって」という釈明の気持も込められているという。オノマトペは奥が深い。
 日本語にはオノマトペが多い。英語では350種なのに日本語は1200種あるという。しかも日本語は よろよろ に類似した言葉として更に よろっ よろん よろり もあり一種の中の語数が多い。語数で比較すると日英の差は更に大きくなる。その代わり英語には「歩く」動作を表す動詞が複数あるが日本語にはない。「歩く」に説明を加えるか漢語を使うかさもなければ とぼとぼ どたどた せかせか などのオノマトペを使わざるを得ない。笑う話すなど他の動作についても同じである。
 オノマトペを使えば事物を概念的に分析し明確に定義された言葉で表現する手間が省ける。便利であるが人により好き嫌いはある。三島由紀夫は抽象性に欠け卑俗だとして嫌ったらしい。「翻訳のおきて」の著者河野一郎も翻訳するときは擬態語擬音語に逃げれば楽だが使い過ぎると安っぽくなると忠告している。しかしオノマトペは直接人の感性にうったえニュアンスに富むのでうまく使うと短く印象的でしかも余韻のある文章になる。川端康成の「雪国」では酔った芸者駒子が「ばたりと投げ込まれたように(島村の部屋に入り彼の)体にぐらりと倒れ」る。
 日本語にオノマトペが多いのは感覚的に納得出来れば全くの新語や造語でもすぐ受け入れられるからでもある。中原中也の詩の中の、サーカス小屋の天井に、高く吊られたブランコは ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん と揺れる。漫画の銃の発射音は バキューン ズキューン ドギューン ズガーン ビシュー チューウン シュバッ ガヒ―ン である。今はもっと増えているかもしれない。
 「犬はびよと鳴いていた」(山口仲美)によると奈良・平安の時代の猿の鳴声は樹上で餌を食べ満足している時出す ココ であり犬のそれは野犬の遠吠えの びょう であった。それが室町時代になると猿は見世物に使われるようになり恐怖に怯えて キャッ と鳴くようになり江戸時代には犬はペット化されて わん と鳴くようになったという。動物は人間との関係で鳴声も変えるのである。
 桃太郎話の桃も最近は つんぶく かんぶく(松井直)、ぷいこ ぷいこ(おざわ・としお)、つんぶら つんぶら(大川悦生)、どんぶらこっこ すっこっこ(平きょうこ)、どんぶり かっしり つっこんご(松谷みよ子)と絵本作家により流れ方が違っている。小学国語読本(昭8「サクラ読本」)ではドンブリコと流れていた。いつまでもドンブリコと流れてきたと語り継いでいって欲しいがあの世代の人間の郷愁・未練だろうか。