話題の国々

『ブルガリアの地を初めて踏んだ日本人-露土戦争の観戦武官・山澤静吾の武勲-』2017-02-07

『ブルガリアの地を初めて踏んだ日本人
-露土戦争の観戦武官・山澤静吾の武勲-』


福井宏一郎


福井 宏一郎
元駐ブルガリア大使

私は、ブルガリアに2004年から2007年まで大使として赴任した。この時に、山澤静吾なる露土戦争の観戦武官がロシア軍の側で戦い、戦地にいたロシア皇帝から叙勲されたとの興味深い逸話を耳にした。日本では歴史の中に埋もれて、殆ど知られていなかった人だ。

ところが小説「屍者の帝国」(2014年発刊)の中で剣の達人として登場し、映画化もされて、最近その勇名が噂話と共に一部で飛び交うようになった。実像はといえば、中立国の観戦武官が戦地を視察中に戦うというのがそもそも不思議な話だ。本稿では、謎に包まれた山澤の行動を当時の資料などから推察する。

露土戦争と観戦武官・山澤静吾

山澤静吾は、幕末から明治を生きた薩摩の人である。日本ではちょうど西南戦争の時期に、ロシアとトルコの間で戦争が勃発した。これが露土戦争である。山澤は日本政府派遣の観戦武官としてロシア軍本営に属し、この戦争に臨んだ。のみならず、重大な場面で巻き込まれた。

ロシア帝国とオスマントルコ帝国は、1877年(明治10年)から1878年(明治11年)にかけて露土戦争を戦った。ロシア帝国の汎スラブ主義・南下政策の中で、トルコに支配されているバルカン半島のスラブ人を救うという旗印を掲げて、ロシアの大軍がドナウ川を渡り、オスマントルコ領内のブルガリアでトルコ軍と激突した。

激しい戦闘が何度も繰り返されたが、戦争はロシアの勝利に終わった。オスマントルコは、この後に衰退・瓦解へと向かっていく。勝ったロシアも、戦後すぐの英仏独の干渉で得たものは期待外れとなり、バルカン半島の民族問題も解決されなかった。ロシアは、その前のクリミア戦争、その後の日露戦争と苦しい戦争が相次ぎ、国内は疲弊した。その意味で、露土戦争は第一次世界大戦・ロシア革命という、20世紀ヨーロッパの動乱への序章となる大戦争であった。

この露土戦争に、観戦武官としてロシア軍本営に加わったのが、陸軍省からフランスに派遣されていた山澤静吾である。山澤は西郷隆盛や大久保利通と同じ鹿児島城下の三方限に、1846年1月に生まれた。三方限は、明治維新を担った下級武士が住んでいたところである。露土戦争が始まる2年半ほど前から陸軍中佐としてフランスにいたが、露土戦争の観戦武官に選ばれてフランスからロシアに入った。山澤が31歳の時で、ロシア軍本営に属して露土戦争の一年余をロシア軍の中で過ごした。

中立国の観戦武官は自身が戦闘に加わる事はない。ところが山澤は露土戦争の大きな山場のプレヴェンの戦いで、1877年9月11日の両軍激突の時に武功をあげ、戦地にいたロシア皇帝(アレクサンドル2世)から勲章を授けられている。この戦は、ロシア軍の死者が2万という惨憺たる被害で、いわばロシアの負け戦の中での武勲だった。負け戦に、山澤がロシア皇帝から特別に感謝された行動とは、一体何であろうか。そして、ロシア軍本営にいる観戦武官が戦わなければならないとは、どういう状況であろうか。

山澤派遣の背景

露土戦争に日本から観戦武官を派遣したいとロシア政府に申し入れたのは、在ロシア特命全権公使の榎本武揚である。榎本は旧幕臣で、戊辰戦争では蝦夷地の総裁として函館戦争を率いた。敗北後、榎本は敵将の黒田清隆の助命嘆願により救われ、明治政府に仕えてロシアとの領土交渉に当たっていた。1875年の千島樺太交換条約は、榎本とロシアの外務大臣との間で締結されたものである。さかのぼって榎本は、旧幕府から派遣されてオランダ留学中に、プロシアとデンマークの戦争を観戦武官として視察した経験があり、国際法を熟知していた。

外務卿(外務大臣)の寺島宗則は、陸軍卿(陸軍大臣)の山縣有朋と協議し、陸軍省からフランスに派遣されている山澤静吾を観戦武官に選んだ。薩摩藩英国派遣使節の一人だった寺島は維新後に外交に活躍の場を得て、関税自主権の交渉に当たっていた。長州の山縣は陸軍を足場に、その後国政に大きな影響を与えていく。山澤の露土戦争派遣は、旧幕臣・薩摩・長州の、幕末・明治を飾った人たちの合作であった。折しも明治10年、日本国内では西南戦争が勃発し、よちよち歩きの明治新政府は、その存立さえも危ぶまれた時期である。

露土戦争の進展

ロシアは1877年4月22日にオスマントルコに宣戦を布告し、ここに露土戦争が始まった。ロシア軍はロシア皇帝の弟の軍人ニコライ公爵を総司令官とし、7月にドナウ川を渡ってブルガリアの地に入った。山澤はロシア軍本営に属して行動を共にした。ロシア軍は更に南下して、プレヴェンの要塞にこもるオスマン・パシャ指揮下のトルコ軍と対峙した。

7月末までに、ロシア軍は3万5千に、トルコ軍は2万2千に増強された。7月31日にロシア軍はトルコ軍の要塞を攻撃した。激しい戦闘の末、日暮れまでにトルコ軍はロシア軍を撃退した。ロシアの死者7千3百、トルコの死者2千、ロシアにとってはまさかの緒戦の敗北であった。

トルコ軍の手強さに、ロシアは8月中に軍を10万に増強した。ロシア軍の援軍として、ルーマニア軍も到着した。トルコ軍は3万がプレヴェンの要塞に立てこもった。兵力差からみて、ロシア皇帝アレクサンドル2世は勝ちを疑わず、弟の指揮する戦の観戦にプレヴェンにやってきた。山澤静吾はロシア軍本営から、負けるはずのない戦を観戦するはずであった。

9月11日、ロシア軍の総攻撃が始まった。トルコ軍は、繰り返し前進してくるロシア軍に対し、プレヴェンの要塞からクルップ製砲尾詰め大砲とウインチェスター製連発銃を何時間も浴びせ続け、反撃した。ロシア軍の死者は2万にのぼった。総攻撃は失敗に終わり、その後戦線は膠着した。

山澤の武勇と叙勲

その少し後の9月20日に、ロシア外務省大輔ヂエールから榎本武揚ロシア公使に「陸軍中佐山澤静吾氏は釼の形を装付せしサンブラヂミル四等賞牌を綬典相成り候」(外務省公電)と連絡があった。ロシアの惨憺たる戦いの後で、戦地にいたロシア皇帝から山澤が叙勲したというのである。

この武勲の様子を10月19日の外務省公電は次のように記している。「山澤静吾、露軍に属し戦地に出張中、弾丸雨注の際、自若勇猛の挙動抜群、衆目を驚かし、戦地熟練の名誉を露軍に顕し、魯(露)帝より勲章を授けられし旨、戦地より申し越す」(在フランス公使館の中野代理より陸軍卿山縣有朋宛て)観戦武官が衆目の驚く勇猛ぶりで、ロシア皇帝から戦地で勲章を授与されたとは、どういう事であろうか。

中立国の観戦武官が戦うというのは、トルコ兵がロシア軍本営に迫り、自分の身を守る必要があったとしか考えられない。ロシア軍本営総崩れの一歩手前が目に浮かぶ。山澤は、白兵戦の中で軍刀を振るって応戦したのであろう。これは想像だが、一撃で頭蓋骨を切り裂く山澤の自顕流が露土双方の兵士の「衆目を驚かし」、トルコ兵を撃退するほどの威力を持ったのではないか。自顕流は、初太刀を相手の頭蓋骨に一瞬でも早く打ち込む事を繰り返し練習する実戦向きの特異な剣法で、薩摩では下級武士が修練していた。幕末ものの歴史小説では、広い意味で薩摩の示現流として知られている。

山澤の生い立ちをひもとくと、1946年1月鹿児島の三方限生まれ、17歳で薩英戦争に従軍、18歳で蛤御門の変を経験、21歳で戊辰戦争に従軍、23歳で御親兵として上京、25歳で陸軍へ。幕末の動乱を、白刃の下をくぐり抜けている。強いはずである。山澤の「戦地熟練」は、露土戦争の重大な場面で、ロシア皇帝が特別に感謝するほどの働きとなったようだ。

山澤は1878年11月にフランスから帰国後、陸軍軍人を全うした。1895年に陸軍中将第4師団長として日清戦争に従軍、その武功により男爵を授けられ、1897年に51歳で没した。日露戦争が始まる7年前である。妻の若子と対の双墓が青山墓地に残る。

プレヴェンの町は今や瀟洒な文化都市となっており、露土戦争の要塞跡には記念館が建っている。古戦場を見渡すと、140年前にブルガリアの地を初めて踏んだ日本人・薩摩の武人、山澤静吾への想像が膨らむ。

『「スーチー政権」の実績と展望:ミャンマー政治のパラドックス』2016-11-04

『「スーチー政権」の実績と展望:ミャンマー政治のパラドックス』


小島 誠二


熊田 徹
元在ミャンマー大使館参事官 元アジアアフリカ法律諮問委員会事務局次長

はじめに

昨年11月のミャンマー総選挙で圧勝した、アウンサン・スーチー女史のNLD(国民民主連盟)政権が今年春に発足してから半年がたった。1988年の反政府デモ以来祖国ミャンマーの民主化運動指導者として野党NLDを率いて苦節28年、ついに政府与党に勝利して文民政権を率いることとなったが、現行憲法上は大統領ではなく、「国家顧問」という肩書だから、この政権を「スーチー政権」と呼ぶのは、建前上不適当かもしれない。だが、特異な歴史的経緯ゆえに一種パラドックス的構造を有する同国の政治的、法制的現状を考慮するならば、それが最も実態に適した表現だと思える。

いずれにせよ、スーチー女史のカリスマと国際的名声に頼って四半世紀間を過ごしたNLD のこの政権は、政権運用経験も人材も殆ど有しないので、政権獲得後も女史個人の能力に頼るしかなく、当初は国内外から「専横的民主主義」などの言辞が贈られた。組閣での人選に行き詰まり、4つもの大臣ポストを兼任したことについては「己を知り責任分担を」ともコメントされた。選挙後、与野党間で行政部の引継ぎチームが一応の準備をしていた筈とはいえ、主な政策決定はすべて女史の下達を待つのがNLDの習慣だったので、国民や外部の目で見れば無理もない批判だったといえよう。

他方、経済計画の詳細などは9月末時点では依然未公表の状態ではあるものの、米国の経済制裁がほぼ全面解除とされたことで(10月7日に実施)、国政の局面が大きく動いた。ミャンマー国家にとっても同女史にとっても最大の課題である全国民的和解問題で女史は、8月末に「21世紀のパンロン会議」を立ち上げてその初会合を主催し、外交面でも外相、国家顧問の肩書のもとで活発に動いて、大きな成果をあげた。膨大な数のミャンマー人移住労働者がいる隣国タイへの3日間の訪問での「首脳会談」を皮切りに、中国訪問、ASEAN 首脳会議出席、米国訪問等の「首脳外交」にも成功した。時と共に、同女史を「国家顧問」兼「事実上の指導者」などと呼ぶ例も増え、ミャンマー首脳としての女史の国際社会での地位は確定したといえる。

大統領の上に立つ指導者

周知のとおり、スーチー女史はかねてから、軍人中心主義の現行憲法改正を民主化実現の前提と位置づけてきた。そして、憲法第59条(f)項が女史の家族が外国籍だとの理由で自らが大統領就任の可能性を封じていることを不満とし、昨年総選挙投票日の直前にあたる11月5日の内外記者会見では、現行憲法を“sillyな(訳のわからない)“ 憲法とさえ表現して、「国民多数の支持さえあれば憲法改正などマイナーな問題」とも述べていた。しかし、選挙での地滑り的勝利に続く政権移行後は、議会での25%の軍人賛成票と国民投票での50%の支持を必要とするだけでなく、軍との対立を強めかねない、この憲法改正を慎重に回避する方向の模索に転じた。そして、憲法第217条の解釈に基づき、与党NLDが現在の同女史肩書である「国家顧問」なるポスト新設のための法案を、軍人議員達全員の反対を押し切って圧倒的多数で採決し、実質的な最高指導者としての地位に就いたのだった(この217条は国軍指導部が万一の場合に備えて挿入していたものといわれ、ミャンマー政治の特異性を反映したもののようである)。それは昨年11月5日に内外記者団に表明していた、「大統領の上に立つ」との強い意思を実現したもので、大統領には小学校時代の後輩で同女史に忠実なNLD 党幹部であるティン・チョー氏が、国会で選出された。

政権発足以降2か月ほどの間の状況は先に触れたとおりだが、その後、スーチー女史は8月の中国訪問で国家最高指導者に準ずる待遇を得、ミッソンダム建設問題などの両国間主要案件についても有利な方向性を確保した。このことは、西の隣国インドの対ミャンマー政策にも玉突き反応を引き出し、同国の対ミャンマー外交を多少とも積極化させた。9月にはラオスでのASEAN関連首脳会議出席し、それに続く訪米中、国連での演説前にオバマ大統領との一対一の「首脳会談」に臨み、対ミャンマー経済制裁のほぼ全面的な解除や今後の協力関係強化に関する共同声明を発表するなどの成果を挙げた。これらの実績により、女史のミャンマー国家の実質的指導者としての地位が国際社会でも事実上確立した。

このようにしてスーチー女史を国家指導者とする文民政権が発足し、本格的なミャンマー民主化過程の第一歩が踏み出された。しかしそれは、独立以来ずっと軍事化が続いてきた政治秩序から抜けだし得ないでいる同国での、軍人優先憲法の改正という難問を回避したからこそ、実現し得たのだということであろう。それはまた、現在のミャンマー政治のパラドックス構造を示す代表的な事例として受け止め得よう。

規律ある民主主義への努力  

 スーチー女史は、新年休み明けの4月18日に、「民主主義実現のためには憲法改正が必要」とか「軍人起案の憲法は人々を傷つけるから憲法は改正すべき」などとの基本的信念を表明する一方、「国内の和平に差支えるような形での改憲はしない」とも述べていた。5月末ケリー米国務長官がミャンマーを訪れた際も、国軍への制裁解除と「ロヒンギャ」などの問題が、「民主化のための憲法改正」の論と共に取り上げられたが、同長官はその後ミンフライン国軍総司令官とも会った。ワシントンではその直前に、ローズ安全保障担当大統領副補佐官が「国軍の役割は完全な民主化達成まで続く」との見通しを述べており、6月に入ってから、ミャンマー下院議長も「憲法改正は国内和平達成後」と言明した。

こうした流れの中で、スーチー女史は7月のアウンサン殉難記念日にミンフライン総司令官と並んでアウンサン廟に参詣し、同総司令官が女史の自宅を訪ねるような身近な人間関係を築いた ― その後女史と総司令官との間には非公式の連絡チャネルができたとする報道もある。そして9月、オバマ大統領に対するミャンマー経済復興支援申し入れの形で、国軍関連企業やその関係者等111件の制裁解除を含むほぼすべての対ミャンマー制裁の解除(麻薬関連は除く)や米緬軍事協力等々の、新時代をめざす協力関係構築に合意し、共同声明発表にこぎつけた。

民と軍それぞれのトップ間の上記のような実際的関係の緊密化は、「パーソナリティ・ポリティックス」が優越するミャンマーでは大きな意味を有する。一言でいえば、従来モラリスト的傾向が強かった女史が、時の流れとともに、その重責遂行の必要上、柔軟な実務的政治家の顔を鮮明に示し始めたのだと解し得る。8月の中国訪問での外交的成功を、内外紙はそのような表現を用いて報じていた。

内外の報道で見る限り、憲法改正問題の今後についての女史自身の明確な考え方はまだ必ずしもはっきりしておらず、「21世紀のパンロン会議」との関連でも様々の見方があるようだが、ひとつ思い出されることがある。それは、2012年の補欠選挙で大勝したスーチー女史が4月の議員就任宣誓に際して、宣誓文では憲法第6条が規定する「連邦の基本原理」中の二つの原理「・・・のために献身することを『遵守する』」と書いてあるのを、『尊重する』に変更するよう主張したことである。結局『遵守する』との本来の文言で宣誓したのだが、この二つの原理とは、同条の基本的原理6項目中の冒頭の、「連邦国家の分裂排除(non-disintegration of the Union)」と「全国民的連帯の分裂排除(non-disintegration of National solidarity)」とであった。

この「分裂排除(non-disintegration )」とのもってまわった表現はいかにもギコチないが、これをnonとdisとintegrationの三つの部分に分けてみると、その論理構造がハッキリする。先ずnonは反対、否定ないし排除であり、disは非ないし不だから、nonとdisで二重否定、integrationは字義通り統合、統一である。要するに連邦国家や国民的連帯の非統合状態、あるいはそれらの統合を妨げる行動を「無くす」、あるいは「排除する」との趣旨であって、NLDを含めて 一般的に用いられている「国民和解=national reconciliation」と同じ行動目標概念なのだといえる。他方それは、軍事政権側からすれば秩序破壊防圧の趣旨であるのに対し、長年反軍事政権闘争に従事してきた野党ないし民衆の側からすれば、反対派弾圧の口実と聞こえても不思議ではない。要するに、立場の相違が極端に際立ってしまう、同床異夢的用語法だといえる。英語のcrackdownが、第三者的立場からは、当局による不法行為や暴動の「取り締まり」にも、デモなどの「弾圧」にも用いられ、あるいはそう解し得るのと似たところがある。

女史は2012年6月、オスロでのノーベル賞受賞演説で「民族間和解」の必要を訴えて「国民としての精神」にも触れ、「ミャンマーでの平和の概念は、調和と全体性とを妨げる諸要因からの脱却にある」と説いていたが、その際の民族間和解や平和をintegration=non-disintegrationと置き換えてみれば、少なくとも論理的にはそうかけ離れた概念構造ではないように思える。野党たるスーチー女史・NLDと諸民族及び国軍が起案した現行憲法との関係は、いわば三角関係に似た構造に近いといえよう。

いずれにせよ、女史は現時点では反政府強硬派の野党ではなく、政権指導者として、下記のような全国民的和解プロセス、すなわち「21世紀のパンロン会議」を自ら立ち上げ、この会議の枠内で国軍の協力を得ながら会議の運営とその実施に取り組むこととなった。つまり、基本的には現行憲法の枠内での和解達成の責任を担う立場を自ら担ったたわけである。それは同時に現行憲法規定をも遵守する立場であり、上記の理念的な立場を「実際」に適合させるような整理が求められる。

要するに、不法経済や国外勢力に依存する少数民族の反政府武装勢力が跋扈するミャンマーの現状では、行政府は強力な秩序維持能力を備えた、クラックダウン(crackdown)組織たる国軍を手放すことはできず、それゆえ多数決でもって押し切るような形での憲法改正選択の余地はもはやあり得ない。つまりそれは、憲法第6条の基本原理d項と同第39条が規定する、「真の、規律ある複数政党制民主主義の興隆」を選択する、ということでもあろうと解し得る。

「21世紀のパンロン会議」

国民和解問題に関する実際的側面に目を向けると、次のような、民族的、政治的、経済的に幾層にも重なった、実利面での厳しい対立要因が目立つ。たとえば、北部のコーカン族は国境の中国側、雲南省の同族との血縁関係や国境沿いの町ムーセ等を経由する密貿易を通じて、ミャンマーとよりも中国寄りの利害構造を持っており、そもそもその殆どがミャンマー語を解しない由である。19世紀頃まで首狩り族として恐れられていたシャン州のワ族は、植民地時代からケシ栽培・阿片交易を主産業としてき、冷戦時代には蒋介石の国府軍系勢力下に置かれたり、ビルマ共産党~中国共産党の支配下に入ったりして、コーカン族同様その勢力基盤を移してきた。現在は中国に依存し、その2万以上の兵力の武器は中国から得ている由である。カチン族も植民地制下以来主要なアヘン生産者で、ワ族やコーカンと似た境遇にあったが、広大なカチン州は最近特に大きな話題となっているヒスイ鉱山のほか、エヤワディ川上流での360億ドルのミッソン水力発電所建設計画の所在地でもある。その電力の90%が中国向けという収奪的な契約内容に加え、恐るべき環境破壊をもたらす可能性があり、すでに大規模の違法砂金採掘で汚染と破壊が進んでいる由である。これらや数十年前から続く事実上無法状態に近い国境貿易等の関連でも、人口流入があり、これらを含めると、中国からミャンマーへの不法移民数はミャンマー総人口の2~3%(つまり100~150万人)に達する由(ミャンマー政治学の権威者D.スタインバーグ教授が引用した推計)である。

古くからの仏教王国で18世紀にミャンマー王朝に征服された現ラカイン州住民の間には独立回復・反ビルマ族の心情が根強く、ミャンマー独立前後の時期にも分離独立を志す人士の運動が続いていた(ムジャヒッヅと呼ばれたグループなど)。1947年のパンロン会議には招待されておらず、現在でも一部分子による反政府武装組織が国軍との間で武力抗争を続けている一方、宗教対立に起因する州内部の政治抗争も続いており、事件が絶えない。「ロヒンギャ」の問題でも国際社会の注目を浴び、スーチー政権非難の種となっている。また、ベンガル湾の化石燃料資源とその中国向けパイプライン・鉄道輸送路の起点でもあるチャウピュウ経済特区など、巨大な中国権益の所在地でもある。このようなラカイン州は他の州とは異なる、複雑な問題を抱えているので、スーチー女史が特別の委員会を設けて、アナン元国連事務局長にその委員長を依頼したのはきわめて優れた措置だったと考えられる。同州のロヒンギャ問題はその特異な背景にもかんがみ後程、改めて触れることとしたい。

以上のような武装組織中の8つ以上が、昨年10月にテインセイン政権が開催した全国和平会議をボイコットし、今回も政府・国軍側の非武装化要求を蹴って出席をしぶっていた。前記スーチー女史訪中の際に、これらのうちの3組織が習近平主席の手配により同会議への招待に応じる姿勢を示したものの、その後のイザコザでワ族のUWSAは初日のみで退席、他については政府・国軍側が武器問題ゆえに招待しなかった。

「21世紀のパンロン会議」は諸政党なども含め700組織・団体、1,600人が集まり、各代表約700人が10分ずつその政治的立場を述べ、その様子は国民にTV放映された。欧米紙では「シンボリックだが効果は疑問」との評価だったが、ミャンマータイムズなどは、スーチー女史の締めくくり演説を紹介しつつ、「少々不足はあったが、画期的な第一歩」だったと評価した。私もそのとおりと思う。第一に、このように幅広い全国民的対話ないし情報・意見交換の場を持ち、それが映像を通して国民一般に公開されたのはミャンマー史上初めてではないだろうか。手続き的には公正だったものの政策論も各種の問題点の議論も回避し、人気投票に等しかった昨年の選挙の欠陥を大幅に補ったといえる - よく考えてみれば、ミャンマーのような複数政党制選挙の経験が僅かで、正確な関連情報も十分行きわたっていなかった国民間での効果的な政策論争はそもそも無理だったともいえる。上記TV放送が「国民和解」ないし「全国民的連帯の分裂排除」に関する具体的な問題点について、国民の側の実態理解をどの程度深めたかはともかく、ミャンマーの国民が今後に向けて把握しておくべき、複雑で幅広い問題点を、仮に表面的にせよ、知るきっかけが提供されたことの意義は大きいと思われる。

スーチー女史は、同会議開催が準備不十分で早すぎたとの批判に対し、むしろ遅すぎたと反論し、過去を恨む発言があったが未来に向けて考えよう、と呼びかけ、国民全般の対話参加を促した。民族代表の相当数が連邦制そのものよりも自治権優先を志向し、また憲法改正を主張した中で、議会内の反政府強硬派民族組織連合体たるUNFCは、現在の「7州7地方」制の行政組織の14州制への編成替えと現行憲法改正とを、和平と連邦形成との前提条件とする、厳しい主張を行った。

一方、この歴史的会議の交渉枠組みを検討していた委員会は9月中旬、議事内容を民族問題(エスニシティ)、地方制度、国民全体との3つに区分し、更に分野別テーマを、政治、安全保障、経済、社会問題、土地と自然資源管理、その他一般の、6テーマとするなどの議題設定と、会議開催を6か月に1回とし、計3回の会議で交渉を終えるとの、会議開催日程枠組み草案を、1か月以内にまとめる旨を発表した。これにより、21世紀のパンロン会議と銘打った「全国民的和平交渉」は、とりあえず、ほぼ1年半をかけて行われる見通しとなった。

しかし、仮に1年半後に「全国民的合意」が達成できたとしても、その実施について確かな担保がなければ、画餅に帰しかねないとの問題は残るだろう。具体的にカチン州やコーカン族、ワ族の居住地域で見れば、夫々の場所と住民の生活基盤を、ヤミ経済から正統で持続性のある産業社会構造に移し替えるにはおそらく2年以上を要するだろう。スーチー政権の残り4年半で、上記合意とその効果的実施が可能か、合意順守の意思のみならず、その担保となる経済・社会基盤構築のための資金や技術、外部経済社会との調和的交易圏の確保等々、多くの課題が待っていよう。そしてこの間の安定的秩序も現国軍に依存せざるをえない可能性が高い。国連組織等、国際社会の支援も期待し得ようが、先ずは自助努力が必要だろう。国軍や国軍関連企業の腐敗構造の改革についても、機微な経緯など、国軍関係者、とくに清廉派とされるテインセイン元大統領などからのお知恵拝借や、高度の政治技術的支援が役立つかもしれない。先般ミンフライン総司令官が自分の任期を5年間延長するとの意思表示をしていたのは、この辺の見通しと関連があるのかもしれない。

「ロヒンギャ」問題:現代のアポリア?

「ロヒンギャ」を自称するイスラム教徒が実に気の毒な状況に置かれていることは周知のとおりである。だが、その国籍や民族的、法的位置づけがきわめて難しく、したがって、日常生活や福祉の面での処遇が不十分のうえ、人身売買や海上遭難などの被害も受けている。にもかかわらず、救済策が困難を極めている。ラカイン州住民、とくにイスラム教徒との紛争事件が絶えない仏教徒は、これらの人々を「バングラデシュからのベンガル人不法入国者」として嫌っている。現在ミャンマーにいるこの人達の正確な数字は不明で(無国籍のイスラム教徒数100万人との推計もある)、ラカイン州には20万ほどの人々が難民として滞在しており、国際世論はその処遇が悲惨な人権問題として、スーチー政権を非難しているのだが、政権は米国大使館が「ロヒンギャ」とのコトバを用いること自体に反対している。私自身は、あるきっかけで「ロヒンギャ」という人間集団の実態に関心を抱いて、その名称の民族の存否や名称そのものの起源を調べたことがある。だが、信頼し得る研究者の著作で部分的なデータが得られたものの、それ以上の結果は得られなかった。逆に専門的研究者でさえ、珍説を展開しているのに遭遇したことがある。したがって、ミャンマー政権のこの態度には納得できる。

一方、スーチー女史は国家顧問として6月に「ロヒンギャ」などについての具体的問題とその対策案検討の委員会を立ち上げ、8月24日、アナン元国連事務局長を「ラカイン州諮問委員会」(ラカイン州の仏教徒2名、ヤンゴンのイスラム教徒2名、政府関係者2名、外国人3名、計9名)の委員長として委嘱した。同委員会は約1週間の調査を行う予定だったが、ラカイン州住民の多くが、委員の3名が外国人であることを「主権侵害」として抗議し、州議会は委員会そのものに対する不承認の決議を採択した。調査活動に対しても、多数の住民がデモなどで妨害した。アナン委員長は委員会の調査目的は人権問題ではなく、問題の根本原因を探り開発協力(いわば人間の安全保障の概念のような内容)のための総合的な対策の在り方を助言することだと説明したが、聞き入れられず、調査不十分に終わった様子である。

一方、バングラデシュ首相は9月下旬、この問題で既にスーチー国家顧問とも協議して32,000人のロヒンギャ難民を受け入れたとするなど、協力姿勢を示す傍ら、両国間国境沿いに282キロメートルの有刺鉄線建設計画も発表した。「ロヒンギャ難民」については昨年5月、タイで関係19か国(オブザーヴァーとしての米国、日本を含む)の参加を得て国際的な対策会議が開かれたが、会議内容は公表されていない。

おわりに

ミャンマーの諸問題は、「ロヒンギャ」の例のように、判りにくい面がかなりある。とくに冷戦期や1988年以降の事柄には、機密事項や立場の差ゆえに偏った、誇張法的な情報や誤った認識が生じ、判断や政策に対立や齟齬を生じた例が少なくない。この点について、2011年9月、D.ミッチェル米国政府対ミャンマー政策調整官兼政府代表(前駐ミャンマー大使)は、ミャンマーを訪問してスーチー女史を含む幅広い関係方面の人々と意見交換した後の記者会見で、米国の対ミャンマー政策には「懐疑派の過ち」で政策対立があったことを認めた。そして、これを是正するための「パラメーター」調整の必要を指摘したうえで、米国とミャンマーの関係者との間では「人権、民主主義、和解、開発」の4目標が共有されている、との趣旨を述べた。それから5年、「スーチー政権」と国軍の関係者、連邦議会議員達との間でも、この「4つの目標」共有化への努力が進み、新たなミャンマー国家形成の過程が踏み出されつつあると見受けられるのは、頼もしい限りである。

この過程の中で日本が果たす役割は、伝統的な日緬友好関係を反映して、重要な位置を占めている。とくに極めて困難な少数民族問題への対策については、笹川洋平氏が2012年にミャンマー少数民族福祉向上大使に就任し、更に翌2013年にはミャンマー国民和解担当日本政府代表に就任され、すでに触れたような難問に取り組んでおられる。また、JICAの経済計画専門家グループは、ミャンマー政府庁舎内に作業室を供与されて、大奮闘している由である。多少の御縁で日本人の一人としてミャンマーの平和と発展に関心を抱いてきた私としては、笹川政府代表の御尽力に改めて敬意を表するとともに、JICAその他の関係者の方々のお仕事とも合わせて、その御成功を心から祈念している。 

(2016年10月10日記)

『日本ブータン外交関係樹立30周年を祝う』
2016-10-14

『日本ブータン外交関係樹立30周年を祝う
―日本ブータン友好協会親善訪問団のブータン訪問―』


  • 小島 誠二

元駐タイ大使 小島 誠二

はじめに―親善訪問団派遣の経緯

昨年2月に日本ブータン友好協会会長に就任した。本年は、日本ブータン外交関係樹立30周年、そして日本ブータン友好協会設立35周年に当たり、官民両分野においてさまざまな行事が実施されている。この記念すべき年に、日本ブータン友好協会親善訪問団団長として、9月7日から17日まで、ブータンを訪問することとなった。今回の訪問は、インド在勤中の1996年3月にブータンを訪問した筆者にとって、20年ぶりの訪問となる。本稿では、日本ブータン友好協会設立と外交関係樹立までの経緯、協会による親善訪問団の派遣状況、今回の親善訪問の意義・成果を紹介したうえ、今後の日本ブータン関係について考えてみたい。

1.日本とブータンを結びつけた京都大学とブータン王妃陛下(当時)

(中尾佐助大阪府立大学助教授のブータン踏査)1957年11月、滋賀県の牧師・西村関一師の仲介で京都大学山のグループ(桑原武夫教授、芦田譲治教授及び中尾佐助大阪府立大学助教授)は、母君に当たるラニー・チュニー・ドルジ夫人とともに訪日中のケサン・チョデン・ウォンチュック王妃陛下(第3代国王王妃)に京都ミヤコ・ホテルで拝謁する。この出会いが契機となって、中尾助教授は1958年6月から11月にかけてブータンを踏査し、その成果を一般向けに「秘境ブータン」(毎日新聞社刊1959年)として発表する。

(西岡京治氏のブータン派遣)1964年に西岡京治氏は、海外技術協力事業団(OTCA、現在のJICA)からコロンボ計画の農業専門家としてブータンに派遣される。西岡氏は中尾助教授の大阪府立大学での教え子であり、同助教授がインド西ベンガル州のカリンポンにあるブータン・ハウスで西岡夫妻をジグミ・ドルジ・ブータン首相に紹介したことがきっかけであった。西岡氏は、1964年から28年間にわたってJICAの農業専門家として活躍し、1980年第4代国王陛下から「ダショー」の称号を授与された。西岡京治氏が日本式農業のモデルファームとして「パロ農場」を開設されたことは日本でもよく知られているが、焼き畑農業からの転換を図るため、1972年頃から南部のシェムガン地方開発計画の推進者の一人となったことはあまり知られていない。1988年2月ADBに出向中の筆者は、ブータンに出張した折、西岡氏のご自宅をお尋ねしたことがある。同氏は、1992年グラム陰性菌によるとみられる敗血症により客死された。                                                                                                                                                           

(京都大学ブータン学術調査隊の派遣)1969年2月にブータン王妃陛下の再度の訪日があり、王妃陛下の招待により桑原武夫教授と笹谷哲也京都大学経済学部卒業生が短期間訪問した後、1969年10月から12月にかけて京都大学ブータン学術調査隊が派遣される。松尾稔助教授を隊長とする調査隊はプンツォリンからパロ、ティンプー、ブムタン、モンガル、タシガンを経て、サムドゥップ・ジョンカルからインドに抜けるルートをたどる。文字通り、ブータンを横断したわけである。同調査隊は、馬や人夫に頼らざるを得なかったことに加え、ブータン政府の滞在許可とインドのインナーライン・パーミットの取得に苦労したようである。その記録は「ブータン横断紀行」(講談社刊1978年)に取りまとめられている。このような京都大学の伝統は、2010年10月に開始された「京都大学ブータン友好プログラム」に生きている。同プログラムには、健康・文化・安全・生態系・相互貢献という5つのキーワードが設定されている。

2. 東郷文彦カルカッタ総領事によるブータン訪問

日本とブータンとの初期の出会いは、京都大学によるもののみに限られていたわけではない。日本政府側からのイニシアティヴもあった。1962年5月東郷文彦カルカッタ総領事夫妻は、ジグミ・ドルジ・ブータン首相の招待で、ブータンを訪問された。夫妻は、プンツォリン経由ジープで3日をかけてパロに到着された。その間、いせ夫人はあの中尾助教授を悩ませたヒルに襲われたようで、その時の経験を自伝である「色無花火」(六興出版刊1991年)に書いておられる。東郷総領事は、ブータンの学校に200枚の板ガラスを寄贈しておられ、これがブータンでガラスを使用した最初と言われている。ご夫妻は何度もブータンを訪問しておられ、ケサン・チョデン・ウォンチュック王妃・皇太后陛下(第3代国王王妃)と長きにわたって親交を結ばれた。東郷総領事は、いせ夫人に「自分はかつてこの国で生まれたことがあったような気がする」と言われたそうで、1985年4月に逝去された後、東郷総領事の遺骨の一部は、パロにあるキチュ・ラカンを見下ろす慰霊塔に安置されている。

3. 日本ブータン友好協会の設立と日本ブータン外交関係の樹立

(日本ブータン友好協会の設立)1981年1月、日本ブータン友好協会が設立される。会長に桑原武夫京都大学名誉教授、副会長に東郷文彦外務省顧問、常任幹事に小方全弘富士印刷取締役および栗田靖之国立民族博物館教授が就任し、13人の幹事の中には、芦田譲治京都大学教授、川喜多二郎筑波大学教授、中尾佐助大阪府立大学教授、中根千枝東京大学教授、西堀栄三郎京都大学名誉教授、原寛東京大学名誉教授および松尾稔名古屋大学教授とともに、宇山厚元駐インド大使と新関欽哉元駐インド大使の名前が見える。ここには、京都大学を中心とする学会と外務省OBの融合が見られ、その後の協会の方向性にも影響を与えたと考えられる。

(日本ブータン外交関係の樹立)ブータンは1962年にコロンボ計画に、1972年には国連に加盟する。また、1968年にインドと、1973年にバングラデシュとそれぞれ外交関係を樹立し、80年代半ばにはネパール、クウェート、スイスおよび北欧諸国と外交関係を樹立した。ブータン側に日本と外交関係を樹立する機運が高まっていたとみられる。日本側においても、1981年に日本ブータン友好協会が設立され、5年後の外交関係樹立に繋がっていったと想像される。

(日本ブータン友好協会の役割)当協会の会則には、協会の目的として、「民間相互の立場から日本・ブータン両国国民間の理解を深め、両国の友好・親善に寄与すること」が掲げられている。しかしながら、設立当初から外務省OBの参加が見られること、両国の在インド大使館がそれぞれ在ブータン日本国大使館と在日ブータン大使館を兼轄していることから、当協会は、草の根レヴェルの友好親善活動に加え、両国政府間の橋渡し、両国外務省への支援、在東京ブータン名誉総領事館への支援、在日ブータン人のお世話、一般日本国民に対する情報提供などの活動を行ってきた。

4. 日本ブータン友好協会による親善訪問団の派遣

(1) これまでの訪問団

当協会設立当初から、親善訪問団の派遣は重要行事である。設立の年には、いち早く桑原武夫会長を団長とする訪問団を派遣している。第1回訪問団が陸路ブータンに入国したのに対し、第2回以降の訪問団は空路を利用している。第2回訪問団の訪問先には、トンサやブムタンが、第3回訪問団の訪問先にはモンガルやタシガンが含まれており、訪問旅行は相当過酷なものであったと想像される。野田英二郎会長を団長とする第4回訪問団(2000年6月)は、王立自然保護協会の招きによるものであり、ブータンのNational Forest Dayに合わせて、桜の苗木200本を植樹することが目的であった。谷野作太郎会長を団長とする第5回訪問団(2008年11月)の目的は、第5代国王陛下の戴冠を祝うことと、同国王陛下がパトロンをされている王立自然保護協会によるポプジカ鶴祭りに主賓として出席することであった。また、榎泰邦会長を団長とする第6回訪問団(2011年8月)は、「協会創設30周年、両国国交25周年」を記念することにあった。第4回以降の訪問団の目的は、それぞれ異なっていたが、首都ティンプーのある西ブータンを主たる訪問先とし、ブータン政府要人訪問が重視されていた。

(2)今回の訪問団

(目的―2つの周年を祝う)今回の訪問は、日本ブータン外交関係樹立30周年と当協会設立35周年を記念するものであり、親善訪問団としては5年ぶりの訪問であった。今回の訪問には、4つの目的があると考えていた。

第一に、当協会の設立目的に鑑み、できる限り多くの場所を訪問し、多くの人々と交流し、相互理解を深めること。

第二に、ティンプーにおいてブータン政府要人を表敬訪問し、これまで当協会に提供していただいた様々な支援に対して、感謝の気持ちを伝え、これからの支援をお願いすること。

第三に、設立35周年を機会に、これまで当協会のたどってきた道を振り返ること。

第四に、節目の年に当たり、当協会のあり方、ひいては日本とブータンとの関係について、ブータン政府や人々とともに考えてみること。

(今回の訪問団の位置づけ―中部・東ブータンに足を伸ばす)今回は、これまで訪問する機会が少なかった中部ブータンおよび東ブータンを重点的に訪問することとし、訪問団本体とは別に、会長および副会長が先行してティンプーを訪問して、政府要人を訪問することとなった。

(ティンプーにおける行事―ブータン政府より当協会への謝意表明)ティンプー滞在中のワーキング・デイが短かったこともあって、地方行幸中の国王陛下への拝謁及び地方出張中の首相への表敬は実現しなかったが、ダムチョ・ドルジ外務大臣、ソナム・キンガ上院議長、ナド・リンチェン前枢密院顧問、ダゴ・ツェリン前駐インド大使(元駐日大使)などと懇談することができた。10日の懇親会には、ダムチョ・ドルジ外務大臣、ジグミ・ザンポ下院議長、V. ナムゲル駐インド大使、ダゴ・ツェリン前駐インド大使、ナド・リンチェン元駐インド大使、ペマ・ジャムツォDPT党首などの官民要人、日本への留学生、ブータンで活躍する在留邦人などを含む約50人の参加があったが、主賓として出席した外務大臣から当協会のこれまでの支援への謝意が表明された。改めて、当協会が懸け橋―両国をつなぐ懸け橋、両国国民をつなぐ架け橋および日本政府と日本国民をつなぐ架け橋―を果たしていくべきことを胸に刻むこととなった。この関連で、複数の元駐日大使が中心となってブータン日本友好協会(名称未定)を設立する動きがブータン側に見られることを知り、心強く思った。もう一つの懸け橋がブータン側から懸けられることになる。2つの協会の相互訪問が実現する日を待ち望みたい。

(中部・東ブータン訪問―さまざまな多様性に触れる)パロからブムタンまでは航空機を使い、ブムタンからサムドゥップ・ジョンカルまでは陸路であった。全行程約470キロ、連続で車両走行しても約20時間を要する。すべての行程が照葉樹林の中を通る山道であった。後で、山谷風による乾燥地帯も通ってきたことを知った。ブータンでは峡谷が南北に走っているから、東に行くには峡谷を超えていくほかはない。1969年京都大学ブータン学術調査隊がかつて馬と人夫とともに訪問した村を通過したり、休憩したりしていくことは感慨深かった。いたるところで道路改修工事がなされているので、調査隊の苦労を想像することはますます難しいものとなろう。小型バスは、標高3,740メートル(トゥムシン・ラ峠)から、途中上りと下りを繰り返しながら、標高150メートルのサムドゥップ・ジョンカルにたどり着くことになる。その間、ウラ、センゴル、モンガル、タシ・ヤンツェ、タシガン、ワムロン、ナルプンに立ち寄りながら、点在する村々の生活の営み、生活用品、伝統的な衣服、稲を育てる段々畑、ピンク色のそばの花、植生の変化、人々の祈りの姿とあかし(多様な祈りの対象と場と手段)などを目にすることができた。一部の団員はメラまで足を延ばした。今回は車で行くことができたそうである。ブータンでは、峠を越えるたびに植物相や言語・風俗が移り変わると言われるが、旅行の過程で乳製品の多様さ、家造りの違い、生育されている農作物の変化などを観察することができた。

(参考)ブータンについては、民族的な多様性や地理的な多様性が指摘される。ブータン文化は、牧畜を主とするチベットの文化的要素と東南アジアの農耕社会的要素の融合したものであると言われる。民族的には、ブータン国民は、シャーチョップ(東方の民)と呼ばれる原住民の子孫、チベットのカム地方から移住してきて西ブータンに住みついた人々の子孫および前世期の初め頃にネパールからやってきて南ブータンに住み着いた人々によって構成されている。なお、ネパール系住民は、ブータンの全人口の20~30%を占めると言われる。地理的には、南北160キロの国土に対して7,000メートルの高低差が存在しており、複数の気候帯にまたがっている。

(日本ブータン間の協力と交流―成果に出会い、実践する)中部・東ブータン訪問に先立つ7日、JICA事務所を訪問し、山田浩司事務所長と高野翔次長から、JICA協力の重点分野と将来の協力の方向について詳しくお話を伺うことができた。

中部・東ブータンでは、偶然、日本が協力して建設された橋(ブムタン)、地方自治体が供した消防車(ブムタン空港とタシガン・ゾン)、救急車(ブムタン空港)、ゴミ収集車(ブムタン・ゾン)が今も使われていることを目にすることができた。

今回の訪問では、日本語学校への日本語図書の寄贈(ティンプー)、熊本県山鹿市からティンプー市への山鹿灯篭の寄贈、ニンマ派のロダク・カルチュ・ゴンパ(ナムカイ・ニンポが座主を務めることからナムカイ・ニンポ・ラカンと呼ばれる。)における法要(世界の平和とジグメ・ナムゲル親王殿下のご健勝を祈願した。)、国立盲人学校生徒の歌による歓迎(カリン)、国立伝統技芸院の見学(タシ・ヤンツェ)などを通じて草の根の交流を進めた。

(モンガルからバンコクまで追いかけてきた国王陛下の贈り物)旅の途中、ジグミ・ケサル・ナムギャル・ワンチュク国王陛下から一行全員に贈り物が下賜されたという連絡をいただいた。一行はワクワクして贈り物が届くことを待ちながら、旅行を続けることとなった。待ち望んだ贈り物は、帰国前夜、バンコクでの夕食の席でソナム・プンツォ在タイ・ブータン大使館参事官より団員一人一人に手渡されることになる。

5. 今後の日本ブータン関係

(1)ダムチョ・ドルジ外務大臣の見解

9月9日、ダムチョ・ドルジ外務大臣は、親善訪問団団長の筆者に対して、次の通り述べた。

(イ)ブータン王室と日本の皇室との間には、親密な関係がある。

(ロ) 欧州のドナーがブータンへの援助を打ち切り、アフリカへの援助を増大させる中で、日本が援助を継続してくれていることに感謝する。確かに一人当たりGDPは増大しているが、現在計画中の水力発電事業が収益をもたらすまでの間、外国からの援助が必要である。

(ハ) 現在政府予算はプロジェクトの維持管理費を計上しているが、資本投資そのものは外国援助に頼っている、ブータン政府は債務抑制・管理に留意しており、水力発電分野とそれ以外の分野に分けて公的債務の上限を設けている。

(ニ) 外国投資の分野としては観光とIT関連分野が考えられるが、投資優遇制度を導入することは難しい、ブータンは製造業への大規模投資を期待しているわけではない。

(ホ) 2015年のブータンへの旅行客数では、中国や米国が上位を占め、日本は第7位にとどまっている。

(ヘ) 日本ブータン友好協会が友好親善活動を続けてこられたことに感謝する。ブータンが在外公館を設立することには予算的な制約があり、ティンプーに多くの在外公館の建設を認めるには土地の制約がある。今後、日本ブータン関係に関与する組織を一つにまとめるようなことも考えたい、

(2) 筆者の私見

(イ) 日本の皇室とブータン王室の親善活動

日本とブータンの間には、皇族と王族の相互訪問がこれまでに頻繁に行われてきた。2011年11月の国王陛下・王妃陛下のご訪日が日本国民に強い感銘を与えたことは記憶に新しい。本年も「ブータン展」開催に合わせて、前王妃陛下が来日されている。今後とも、このような親善活動が続けられることを期待したい。

(ロ) 政治対話

9月24日から26日まで、河井克之内閣総理大臣補佐官が「ブータン日本週間」オープニング・セレモニーに出席するため、ブータンを訪問された。日本の政治家のブータン訪問が多いとはいえず、今回の訪問は喜ばしい。近年ブータンへの航空アクセスが改善されており、両国政治家間の対話がもう少し活発化することを期待したい。

(ハ) 開発協力

ブータンの一人当たりGDPは、2,560米ドル(2014年世銀資料)であり、中所得国のレヴェルに近付いているが、国家の規模・位置、労働力の制約、可耕地の制約、多数の氷河湖の存在などから生ずるさまざまな脆弱性に直面している。今後とも、農業・農村開発、地方部基礎インフラの整備、地方行政能力構築、産業育成・雇用拡大、環境問題・気候変動への対応などの分野で支援が続けられることを期待したい。今回の訪問で、タイ国際協力機構(TICA)がタイ版「一村一品運動(OTOP)」を「ワン・ゲオグ・ワン・プロダクト運動(OGOP)」として協力していることを知った。このような三角協力も、有意義ではなかろうか。

(ニ)草の根交流

今回、ブータン中部・東ブータンを訪問して、草の根の交流と協力の成果を見る機会があった。当協会としても、引き続きこのような交流と協力を行ったり、他の国内組織を支援したりすることを続けていきたい。また、両国をつなぐ懸け橋、両国国民をつなぐ架け橋および日本政府と日本国民をつなぐ架け橋を今後とも果たしていくこととしたい。                                                         

なお、飛行機乗り継ぎのため、南部ブータンとアッサム州に立ち入るに当たっては、日本外務省の「海外安全情報」と現地の治安情勢に通じている東ブータン出身のベテラン・ガイドと日本人添乗員の助言に従ったことを付言しておきたい。

参考文献
東郷いせ「色無花火」六興出版1991年
中尾佐助「秘境ブータン」毎日新聞社1959年
桑原武夫編「ブータン横断紀行」講談社1953年
西岡京治・里子「ブータン」NTT出版1998年
今枝由郎「ブータン―変貌するヒマラヤの仏教王国」1994年
本林靖久「ブータンと幸福論」法蔵館2006年

『発展著しいポーランド』
2016-7-15

『発展著しいポーランド』


  • 山中 誠

前駐ポーランド大使 山中 誠

 ポーランドが欧州連合(EU)加盟28か国の中で6番目の大国であると聞くと驚く人が多い。面積、人口が6番目の大きさであることに加えて、今やGDPでも第6位を誇っている。近代史では、ロシア、ドイツといった強大な隣国に翻弄され、百年以上にわたって国を失った時代もある。第二次大戦後はソ連圏に組み込まれて辛酸をなめてきた。今日この国は、経済を発展させ、政治を安定させ、「欧州の優等生」と言われるまでになった。2014年には、民主化(体制転換)25周年、NATO加盟15周年、EU加盟10周年を大々的に祝賀した。ポーランドの発展と地位向上を象徴するように、元首相のドナルド・トゥスクが欧州理事会議長に選出された。7月にはNATO首脳会議がかつてのワルシャワ条約機構ゆかりの首都で開催される。

 本稿では、ポーランドという国の現況と展望について、我が国との関係を含め、同国贔屓の筆者の感想を綴ってみたい。

今日のポーランド

  ポーランドのGDPは、1989年の体制転換以来実に7倍となっている。この著しい成長は、当時ほぼ同じ経済規模であったウクライナが現在ポーランドの約三分の一という状況が物語っている。リーマンショックの際に欧州で唯一プラス成長を維持したのがポーランドであった。ポーランドは今年3.7%、明年3.5%の成長が見込まれるなど好調を維持している(世銀予測)。欧州の抱える深刻な構造問題が2004年以降次々と新規加盟を増やした「拙速なEU拡大」に起因するとの説があるが、ポーランド関係者はこれに強く反発する。彼等は、問題はむしろ「古い欧州」であって、新規加盟国から構成される「新しい欧州」がEUの発展に貢献していることは数字が示していると反論する。

 ポーランドの発展と地位向上は、民主化と親欧米路線を強力に打ち出したワレサ委員長で有名な「連帯」運動がその起源である。民主化以降の政治潮流は、この連帯の流れをくむ中道の「市民プラットフォーム」(PO)と保守色の強い「法と正義」(PiS)の二大政党に収斂されてきた。旧共産党を引き継ぐ左派政党は、昨年10月の総選挙で議会から姿を消し、その退潮は顕著である。 昨年の総選挙の結果、8年ぶりにPOからPiSへの政権交代が行われた。同年前半に行われた大統領選挙でも、POの推した現職がPiS候補に敗れるとの波乱があった。繁栄の果実を享受できなかった国民層を中心に8年続いたPO政権への不満が顕在化した結果と分析されている。カチンスキPiS党首の強い指導の下で、ドゥダ大統領及びシドゥウォ首相を首班とするPiS政権が始動している。PiSは、上下両院で単独過半数を制しているため、体制転換後初めて連立ではなく単独で新政権を構成している。新政権は、国民多数からの支持を背景に、民族的、保守的、民生重視の政策を進めようとしている。時として国会運営などで強引さが見られるが、外交、安全保障政策では、全体として穏健な政策を継続するとの姿勢を示している。   このようにポーランドは長期的には政治的な安定・成熟の道をたどっているが、短期的には昨年の政権交代を機にぎくしゃくした印象を与えている。特に、PiS政権の進める憲法法廷などに関する法改正がEUの基本原則たる法の支配に背馳しないかとの問題提起が欧州委員会から行われ、ブリュッセルとワルシャワの間で話し合いが続いている。ブリュッセルがEU標準の民主主義を標榜して是正策を求めているのに対して、ワルシャワは国家主権への介入であるとして苛立ちを隠さない。筆者は、この問題が基本的には8年ぶりの政権交代が招来した国内の党派対立であるので、欧州委とポーランド政府が原則論を振りかざして対立を深めてしまうことは避けるべきものと考える。いずれにせよ、ポーランドが苦難の歴史の中で勝ち取ってきた民主主義の根幹が簡単に崩れることはあり得ない。 同様に中東や北アフリカからの難民問題を巡ってポーランドがその排斥を強硬に主張する急先鋒であるかのような批判がメディアを中心にみられることは残念である。ウクライナなど東欧諸国からの移民を抱え、かつ、歴史的に異民族の受入れに慣れていないことから、国民の半数以上が難民受け入れに反対しているとの世論調査の結果はある。しかし、一部報道にあるような批判には、かなり誇張があると思われる。 欧州は、現在、南からは難民流入の脅威、東からはロシアの脅威にさらされ、西にはEU離脱の是非を問う英国がある。テロの脅威は依然として現実のものであり、金融財政上の困難も欧州を覆っている。欧州の中道左派の与党勢力はこれら諸困難に有効に対応できずに苦戦している。こうした手詰まり感の中で保守色の強いポーランド新政権をことさら非難の的とする雰囲気を感じるのは筆者だけであろうか。

日本との戦略的関係

 今年1月にポーランド航空によるワルシャワ・成田間の直行便が就航したことは大きなニュースであった。両国の経済関係は、対ポーランド投資の存在感(約300社進出、4万人の雇用創出)を中心に良好に推移。投資分野も、自動車、家電に加えて、エネルギー、環境、食品、サービスなど多様化しつつあり、R&Dやバックオフィスの進出拠点としても注目され始めている。両国経済関係に、量的拡大もさることながら、質的向上が見られるようになっていることは心強い。投資する側と受け手との間の思惑、熱意がマッチしている表れであろう。ただし、ポーランド側には、インフラ整備、行政の簡素化、構造改革など一層のビジネス環境整備が引き続き求められることは指摘しておかなければならない。

 政治・安全保障の分野でも、米国との同盟関係、隣国ロシアの存在など共通の事情もあり、両国協力の意義は大きい。日露戦争当時の情報協力やシベリアで困窮・孤立していたポーランド孤児を日本赤十字社が救済した逸話などの歴史がある。防衛、安全保障分野で新たな協力や政府間対話が始まっていることは心強い。

 親日的風土もポーランドの大きな特徴である。在留邦人、日本企業関係者がほぼ異口同音に指摘する特徴である。日本や日本人に対する親愛の情を示す例は枚挙にいとまがない。空手、合気道などの武道人気、日本語学習熱、日本食ブーム、古典から現代ポップカルチャーまでの日本文化人気は世界でもトップレベルである。その象徴的存在がクラクフにある日本美術技術博物館(通称Manggha館)である。同館は、世界的な巨匠アンジェイ・ワイダ映画監督と同夫人の献身的な尽力で日本文化の発信基地として定着しているが、その背景にはこの国の親日的風土がある。

 この6月には「日本祭り」がワルシャワで開催された。2万人近くの地元住民が来場して日本文化に触れ、日本食を楽しんだ。この祭りは、今年で4回目を迎えたが、日本の一大文化イベントとしてワルシャワっ子達が待ち望む草の根交流の場となっている。相撲を縁に隠岐の島とクロトシン(ポーランド中部)との友好都市提携が結ばれ、心温まる地方交流も始まっている。

 このように、経済、政治・安全保障、文化など緊密の度を増している両国関係は、正に戦略的と呼ぶにふさわしいものである。安倍総理のポーランド訪問(2013年6月)とコモロフスキ大統領訪日(2015年2月)を通じて「戦略的パートナー」への格上げが公式に謳われたことは、時宜に適ったものであった。  

  今後の展望

 経済成長の続くポーランドは、今後とも欧州の新興勢力の筆頭として、また、欧州拡大の成功例として発展を続けていくであろう。そのためにも、経済の構造改革、高度化を進めていく必要がある。比較的安価な労働力に依存した時代は終わりを告げている。政府も経済界もこの点はもとより承知しており、種々手を打ちつつある。この分野で我が国官民が協力できることは多く、エネルギー協力や研究開発などは有望分野である。

 ポーランドがEUの中で発言力、影響力を高めていくことも確かであろう。冒頭に述べたように、既に6番目の大国であり、経済のみならず、ウクライナとロシアと国境を接する前線国家としての重みも加わる。そもそも長年の経験から来るロシア分析については定評がある。EU外交筋は、その対ロ政策の企画立案においてポーランドからのインプットは欠くべからざるものとなっていると認めている。7月にワルシャワで開催するNATO首脳会議の成果が注目される。

 ポーランドとチェコ、スロバキア、ハンガリーの4か国は、ヴィシグラード・フォー(V4)として地域協力を進めつつある。安倍総理のポーランド訪問の機会に開催された史上初の「V4+日本」首脳会議を契機として、V4との協力の機運も高まった。PiS新政権は前政権以上にV4としての結束・連携を促進することに熱心であり、首脳レベルでの往来も活発化している。7月からポーランドがV4の議長国を務めるので、EUの中でV4グループとしての存在感を示す局面もこれまで以上に見られることとなろう。特に、安全保障やエネルギーについては、4か国がまとまって行動するメリットが大きい。我が国とV4との協力も多様な可能性が出てくるであろう。いずれにせよ、欧州の中での中東欧、就中、V4の発言力が増していく中で、大国ポーランドの動向が注目される。

 このような展望に立つとき、ポーランドと我が国が戦略的に協力していく意義は益々大きくなってくる。両国は、2017年に国交回復60周年、2019年に国交樹立100周年を迎える。こうした慶事をとらえて、戦略的関係を一層進め、具体的成果を積み上げていって欲しいと思う。

(2016年6月21日記)

『ルーマニアから帰って』
2016-6-22

『ルーマニアから帰って』


  • 甲斐 哲朗

前駐ルーマニア大使 山本 啓司

 最後の任地ブカレストから帰って半年になる。パーティーで久しぶりにお目にかかった先輩から、ルーマニアといえば今はどんな国になったのかな、と聞かれて、その場では十分なお答えが出来なかった。

 かつてであれば、オリンピックを通じ「白い妖精」と讃えられた体操のナディア・コマネチの国、あるいは冷戦時代にモスクワに反抗し西側にもてはやされながら冷戦終了とともに夫妻共々公開処刑された独裁者ニコラエ・チャウシェスクの国、あるいは有名なホラー映画「吸血鬼ドラキュラ」伯爵の国だといえば、だいたい相手は「ああ、そうか」と納得した時代があった。だが、今や世代も時代も変わり、そういう時代が遠くなった。

 という訳で、この紙面をお借りして、最近の日本とルーマニアとの交流の一端を紹介させていただく次第である。

 冷戦終了とともに共産主義を廃し国名を「ルーマニア」とすっきり改称したこの国は2007年念願のEU加盟を果たし、おそらく2世紀に古代ローマ帝国の版図に入ったダキア時代以来、あるいはオスマン帝国からの独立以来の大変革で国創りに励んでいる。ちなみに、「ルーマニア」という国名はルーマニア語では「ロムニア」と発音し「ローマの国」を意味する。そのことをルーマニア国民は、自らはローマ・ラテン文化の継承者として誇りに思っている。最早神話に近い話だという人もいるが、これがこの国の人々の精神文化の支えになっていることは間違いない。

 確かに数字で見れば、新生ルーマニアはEU28加盟国中、いまだ貧しい国のひとつであるが様々な民族がいて文化的には豊かな歴史と背景をもつ国である。そこは欧州の国である。ルーマニアという国は、ざっといえば、かつて南半分はオスマン帝国の宗主権下にあったバルカンの国であるが、カルパチア山脈の森を越えた北半分はトランシルバニアと呼ばれドイツ人やハンガリー人が勢力を誇ったオーストリア・ハンガリー帝国の版図の一部だった。民族大移動の時代以来、多くの民族がこの地に展開し、あるいは通過していった。ハンガリーとの国境の町、アラドを訪ねた時には、若い考古学者が、私に最新の発掘の成果を見せながら説明してくれた。

 そのトランシルバニアのほぼ中央にトゥルグ・ムレシュという小高い丘に囲まれた瀟洒な町がある。かつてはハンガリー人が多数を占めて繁栄した町で、中央には往時を偲ばせる立派な文化宮殿がある。私もスピーチの冒頭はハンガリー語で挨拶した。平成26年度外務大臣表彰受賞者の指揮者、尾崎晋也氏はこの宮殿の一角に住居を与えられて滞在していた。冷戦終了間もない1994年から現在に至るまで、国立トゥルグ・ムレシュ交響楽団の常任指揮者である。毎年シーズンに2ヵ月滞在し指揮棒を振るうとともに、日本から演奏家を招待する。見込まれた指揮者としての力量はもちろん、気さくな人柄で市民やルーマニア政府からも高く評価され、なによりも地元に溶け込んでいた。ルーマニア語やハンガリー語はもちろんいくつもの外国語を話す才人である。日本政府の文化無償でオーケストラの古い楽器を一新し、歳月をかけて国立トゥルグ・ムレシュ交響楽団育ての親のひとりになった。

 同じくトランシルバニアには中世ドイツから移住してきたザクセン人の造ったブラショフという町がある。ドイツ語名をクローンシュタットといい、今なお中世の面影を残し、トランシルバニアを代表する美しい町のひとつである。かつてはドイツ人やハンガリー人が多数を占めていたが、現在はルーマニア人が大多数を占める。この町と1992年以来、日本の武蔵野市が友好都市として交流を続けている。その縁を取り持ったのが尾崎氏の後輩指揮者にあたる曽我大介氏だ。留学先のルーマニア国立音楽院を卒業した曽我氏は、この町の国立交響楽団の指揮者をしていたが、ルーマニア革命後の交響楽団の惨状を見兼ねて、ご自身の出身地である武蔵野市に支援を要請した。これに応えたのが、時の土屋正忠市長(現在、衆議院議員で総務副大臣)。交響楽団を日本に招待して、両市の交流が始まった。現在の邑上市長になっても市長レベル・市民レベルで交流が続いており、ブラショフにある日本武蔵野センターでは、市から派遣された日本語教師が現地のボランティアとともに日本語教室を開いている。生徒たちの日本への関心は高く、武蔵野市は毎年2名のホームステイを引き受けている。ブラショフを訪れる度に、必ず町の中で日本人観光客に出会った。今も音楽を共通言語とする日本人指揮者、菅野浩一郎氏が在住し、ルーマニアと日本を往来しながら活動している。

 ルーマニアの優れた音楽家たちも、活躍の場を世界に求め自国にとどまってはいない。人口2,000万人の国で体制転換後、国外に職を求めて流出した人口はおよそ350万人といわれる。特にEU加盟後は技能・頭脳流出が加速した。例えばフランスにおける外国人医師のなかで最も数が多いのが実はルーマニア人医師だといわれている。ルーマニア語はラテン語に一番近い言語だといわれ、イタリア語などのラテン系言語は大して苦労しなくとも解ってしまう。スペイン、フランス、イタリアにざっと各100万人前後、更にドイツ、英国、米国、カナダへ。

 ある夏の日の午後、大統領府での室内コンサートに夫妻で招待され最前列に席をもらった。ピアノとバイオリン、チェロとの素晴らしい三重奏だった。演奏を終えた美男のバイオリニストが挨拶に来た。なんだろうと思ったら、「私はバカンスのために帰ってきたばかりですが、日本で働いています。夏が終わったら再び長崎に行ってハウステンボスで毎夜演奏をする契約です」

 彼は満足そうに私達に語りかけた。恐らく日本で頑張っているルーマニア人は彼だけではあるまい。

 さて、ブカレストを代表する音楽ホールといえば、旧市街の中心部にあって、現在は美術館になっている旧王宮の向かいにあるアテネ音楽堂と、そこから程遠からぬラジオ放送音楽ホールだ。音楽堂は、1881年にドイツのホーエンツォレルン家から王様を迎えて誕生したルーマニア王国の国民がひとりひとりお金を出し合って建てたという大理石の建物で、ルーマニア国民の誇りになっている。なお、完成したのは1888年で、革命後の修復では日本財団も貢献している。

 在任2年目の2014年、「望郷のバラード」でその名を高めたバイオリニスト、天満敦子さんが愛器ストラディヴァリウスを携えて久しぶりにブカレストに来られた。政情もまだ不安定な92年に招かれて、初めて訪れたブカレストだったが、演奏会は大成功だったそうだ。天満さんからは当時の思い出を公邸でゆっくり聞かせていただいた。その天満さんとルーマニアの「望郷のバラード(バラーダ)」との出会いについては、これまた、ひとつの物語になるようなエピソードが存在するらしい。哀愁を帯びた美しい曲を作曲したチプリアン・ポルムベスクは、当時まだオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったトランシルバニアの独立を夢見ながら夭折したという。

 その日アテネ音楽堂の席を埋め尽くした聴衆は、前半のオーケストラとの共演を終えて、後半のソロ演奏では今再び天満さんの弾きだす名器の調べに、水を打ったような静寂のなかで居住まいを正して聞き入っていた。曲名「望郷のバラード」は、冒頭の「望郷」の部分は日本人が付けた形容詞のようであるが、その音色は間違いなく聴衆のこころ奥深く沁み渡っていくが如くであった。まさに、日本人音楽家との心の交流であった。

 また同年夏の終わりには、2年に一度ブカレストに欧州の一流のオーケストラや演奏家たちを集めて開催されるジョルジェ・エネスク国際音楽祭に、この音楽堂で大友直人氏が日本の楽団の指揮を執られた。

 一方のラジオ放送ホールはもっと広いがアクスティックが素晴らしい。3年間の任期中に毎年来られて、立ち見が出るほどの聴衆から鳴りやまぬ拍手喝采を奪ったのは若きジャズピアニスト、上原ひろみさんであった。今や“世界の上原ひろみ”であるが、快活でエネルギッシュな彼女のツアー演奏を心待ちにするファンはルーマニアにも多い。アンコールに応えて縦横無尽の演奏を終えた彼女を館員たちと一緒に楽屋に尋ねると、疲れの片鱗も見せずににこやかに記念撮影に応じてくれた。

 さて、音楽はここまで。ルーマニアといえばもう一つ、今やアビニョンやエジンバラに次いで欧州三大演劇祭の一つとまで言われるようになったシビウ国際演劇祭がある。演劇に関心のある方ならご存じだろう。故中村勘三郎、串田和美、野田秀樹、野村萬斎など著名な演劇人がすでに参加している。20年以上の歴史を持ち、昨年も70ヵ国、350の団体が参加した夏の一大演劇祭である。日本からも毎年様々な劇団が参加する。そしてルーマニアで操業する日本企業もスポンサーに名を連ねている。ブラショフと並んで、シビウもまた中世以来の豊かな文化遺産に恵まれたトランシルバニアを代表する古都だ。この町は2012年縁あって日本の岐阜県高山市と友好都市交流を始めた。覚書の調印のために高山市を訪れたのはドイツ系出身の現大統領、当時のクラウス・ヨハニス市長。大統領になったヨハネス氏が私に言った。「だから、私は日本に特別の思いを抱いている」。

 国際交流基金は、2015年度国際交流基金賞をこのシビウ国際演劇祭に授賞した。日本とルーマニアとの関係も、こうして新しい交流を広げている。ルーマニアといえばどんな国、先輩の御下問に答えられたか分からないが、これからの交流が楽しみな国であることは確かだ。欧州で移民・難民問題の嵐が吹き荒れる中、任国の益々の発展を祈って帰ってきた。

(平成28年4月記)

『日本とエストニア--把瑠都関、音楽、スカイプ』
2016-4-27

『日本とエストニア--把瑠都関、音楽、スカイプ』


  • 甲斐 哲朗

前駐エストニア大使 甲斐 哲朗

<エストニアとは?>

エストニアというと、何を思い浮かべられるだろうか?バルト海やバルト三国、あるいは大相撲で活躍した杷瑠都関、NHK交響楽団の常任指揮者・パーヴォ・ヤルビィ氏であろうか。ITやスカイプ、更に日本が今年から導入したマイナンバーは、エストニアの経験やノウハウが大いに生かされている点はどうであろうか。

このような問いかけをしたのは、次のような話を聞いたからでもある。数年前、把瑠都関の現役時代に来日したエストニアの高官が、日本で把瑠都関がどの程度知られているのだろうかと思い、観光中の浅草で通りがかりの日本人10名に把瑠都関のことを聞いたところ、10人全員が知っていると答え、びっくりしたという。ついでに、エストニアのことを聞いたら、ほとんどの答えはNOであったが、同人は当時の両国関係を考えると、さもありなんと妙に納得した由。

その後、特にこの数年IT・サイバーを中心に日本とエストニアの関係は飛躍的に発展している。この点、一部関係者の間では知られているが、一般的には、エストニアに対する認知度はまだまだ低いのが現状であろう。

そういう私自身も、2012年にエストニア赴任の内示を頂いた時、恥ずかしながらエストニアがどこにあるか、即座に思いつかなかった。欧州の北の方であろうとは思ったが、それまでだった。これが地理の試験だと落第だったに違いない。その後、早速エストニアのことを調べるとともに、赴任直前の2012年秋、杷瑠都関夫妻と会食する機会を得た。その時、把瑠都関はあいにく膝を痛め休場中であったが(その1年後に引退)、快く会食に出かけて来てくれた。相撲からITや音楽まで色々なことに話題が及び、最も重要な「事前ブリーフ」となった。杷瑠都関の親しみやすい人柄もあり、エストニアが非常に身近に感じられ、赴任がとても楽しみになった。

簡単におさらいをすると、エストニアは北緯59度、バルト海を挟んでフィンランドの対岸、バルト三国の中では最も北方に位置する。面積は九州よりやや広く、人口は130万人(そのうち25%はロシア系)。例えば、デンマーク(人口約560万)、オランダ(人口約1、700万人)と比較すると、エストニアの面積は、両国より多少広いが、人口は圧倒的に少なく、国土の半分以上は自然林に覆われている。25年前にソ連から独立し、その後短期間のうちにEU,NATO, WTO,OECDに加盟し、またユーロを導入し、スカイプの開発で知られるIT先進国となった。政治的には安定し、GDPの2%を防衛費に回す等国防には常々意を用い、経済的には堅実(例えば、国債発行ゼロ)。エストニア人は人種的、言語的にフィンランド人(フィン・ウルゴ語系、それはハンガリー語と同様に起源は東方)に近く、その特色として、忍耐強く、注意深いと言われる。長年大国の狭間で生きてきた人々の英知であろう。

<知日・親日的、でも距離感>

実際にエストニアに着任し、よくわかったのだが、人々はとても知日・親日的である。よく言われるのは、25年前の独立の際、指導者や一部識者は自国の将来を考えるに、再びロシアに戻りたくはないと思いつつ、地図上に目をやると、ロシア、中国ほど大きくはないが、その東方にある経済大国で伝統文化もある日本の存在に目が止まったという。このような関心が意識の底辺にあるためか、黒沢映画から日本のアニメやコスプレを含め、日本の文化や伝統に幅広い関心がもたれている。人口40万人の首都タリンには寿司屋・カフェが30軒近くあり、スーパーマーケットでも寿司弁当が売られている。毎月の新車登録台数は日本車が1位であり(近隣のドイツ車ではない)、村上春樹氏の最新作のエストニア語版が店頭に並んでいる。欧州の日本研究学会の会長が最近までエストニア人の大学教授だったし、主要上位3大学に日本語講座があるといった具合である。そこに把瑠都関の活躍が拍車をかけた。他方、多くのエストニア人にとり、日本文化を実際に体験したり、あるいは日本へ行ったりする機会はそう頻繁にあるわけではなく、日本はまだ遠い存在である。

<日本とエストニアの3つのS>

このような両国間における相互認識の差異ないし質的違いに鑑み、着任後、2つの対策をとった。一つは、地味ではあるが、日本のビジネス関係者等にエストニアの基本的な経済情報(英語)を定期的にメール送信することにした。エストニアとのビジネスを考えようにも、普段から経済情報(英語)にあまり接する機会がなく、イメージがわかないとの指摘に応えようとしたもの。この3年間でメール送信先は3倍に増えた。

次に、日本人とエストニア人がより親近感を抱けるようなキャッチ・フレーズがないものかと考えた。それで思いついたのが、日本とエストニアの「3つのS」である。日本とエストニアには、「意外と身近に共通なものがあり、お互いに思っている程遠く離れてはないのではないか。その共通なものは、把瑠都関の相撲のS, 歌うこと=singingのS、そしてスカイプのS」である。

エストニアでよくこの話をしたり、投稿もした。その具体的な効果は兎も角として、交流関係のある長野県佐久市とエストニアのサク市(同音でSaku)のSを追加してはどうか、酒・寿司・SAKU BEERもあるではないか(佐久市も日本酒で有名だが、エストニアのSAKU市はビール生産で知られる)、スカイプ・ソニー・シャープはどうか、また、EUのいわば“首都”ブラッセルとエストニアとの間には国がいくつかあるが、(微笑みながら)エストニアと日本の間には一カ国だけではないか(その国はやや大きいが)、国名も以前はSで始まっていた等いろいろな反応があった。言葉の遊びといわれるかもしれないが、更に両国のことを考えるための取っ掛かりになったと思う。 本稿では、「3つのS」を敷衍しつつ、最近の日・エストニア関係を振り返ってみたい。

<相撲のS>

相撲のSであるが、把瑠都関は、現役時代から日本、エストニア双方でとても人気があり、知名度も高く、まさしく両国を繋ぐ懸け橋である。特にエストニアでは対日関心を「力強く、グイグイと引き寄せて」くれている。

相撲界のデカプリオと言われた杷瑠都関だが、彼と話すとよくわかるのは、「気は優しく力持ち」と云う言葉は、まさに彼のためにある。「気は優しく」は気がよくつくことも含み、例えば食事や社交の場でもさりげなく気配りをしている。「力持ち」には精神的強さを含み、具体的に相撲社会での苦労話などを聞こうとすると、彼は「自分の意志で相撲界に入ったものですから」と云って、それ以上は語らず、凛としたものを感じさせる。そして、話し方は簡潔明瞭で、反応が早く的確でユーモアもある。

ちなみに、把瑠都関もそうだが、夫人のエレナさんも日本語が達者であり、LINEのメッセージをもらっても、それは日本人と全く変わらない。お二人に日本語上達の秘訣を聞いたら、杷瑠都関は笑いながら、自分はタニマチとカラオケのお陰と云っていた。二人曰く、たまに口げんかをする時は「中立的な共通語」である日本語のことが多いとのことであり、私から日本語が二人の「喧嘩用語?」と茶々を入れたら、二人曰く、日本語の方が感情移入は少なくなり、話がこじれないとのこと。良き夫婦仲のための、新しい日本語の使い方かもしれない。

エストニアはもともとスポーツがとても盛んだ。人口が少ないこともあり、一旦外国で活躍する選手が出現すると、英雄である。杷瑠都関も然りである。杷瑠都関の地元ラクベレー市には以前より「バルト・ドウジョウ」というスポーツ施設があり、子供たちが相撲の練習をし、全国相撲大会も開かれている。最近では、昨年11月、欧州相撲大会が同地で開かれ、独、旧東欧諸国、ロシア等10か国から約350名の選手・役員が参加し、杷瑠都関も幹事役を務めた。参加者はみんな把瑠都関の日本での活躍は知っているものの、彼自身はあまり表に出ず、裏方としてさりげなく目配りをしていたところ、いかにも彼らしい。相撲以外でも、日本武道では空手、柔道、合気道、剣道等の愛好会がある。

地元メディアもヒーローである杷瑠都関の一挙手一投足を報じる。現役引退後もマスコミの関心は薄れることはない。把瑠都関が引退表明直後一時帰国した際など、各紙が一面トップの大きな写真入りで大々的に報じ、翌日の把瑠都関の記者会見では、専門誌を含め約60名の記者(これはエストニアでは凄いこと)が出席し、杷瑠都関は日本とエストニアのために引き続き活動したいと力強く語った。

翌14年2月の断髪式、6月の杷瑠都関とイレナさんとの正式な結婚式の様子も大きく報じられた。結婚式・披露宴は、正午過ぎの教会でのミサから始まり、未明まで続いた祝宴でお開きとなった。バルト海に接する美しい教会でのミサが終わると、そこから祝宴会場のバルト・ロッジ(把瑠都関と御母さんが経営する、自然に囲まれた宿舎)まで、杷瑠都関夫妻が乗った車を先頭に約50台の車列が2-3時間かけ、ゆっくり移動した(直行すれば30分程度)。その間、3か所ぐらいに止まり、結婚を祝ういろいろなセレモニーが行われた。例えば、消防隊(杷瑠都関はその全国組織の名誉顧問)が放水して杷瑠都関の乗った車を歓迎するとか、コウノトリの巣がある大きな木の下にしつらえられた簡単な台所セットで新婦のエレナさんが食事の支度をするしぐさをする、などである。その時、全く偶然だが、大きなコウノトリが巣に舞い戻って来て、日本から参加したファンやメディアを含め、出席者は大いに盛り上がった。祝宴では、杷瑠都関のお母さんの得意の豚料理を堪能し、宴は未明まで続いた。

最後に把瑠都関の知名度の高さを物語る2つのエピソードを紹介しておきたい。小さなエピソードは、把瑠都関が自動車免許を取るべく路上練習を受けていたら、その車が故障したとかで、そういうことまでニュースになる。大きなエピソードとして、断髪式後、タリンとタルトの2都市で杷瑠都展(化粧回し等相撲にまつわる品々の展示)が長期間開かれ、多くの人が観賞した。2015年2月のエストニア独立記念日式典では、イルヴェス大統領のスピーチ後、過去一年間を振り返るべく、主だった出来事のスティール写真を綴ったドキュメンタリーが上映された。エストニア・欧州以外では、杷瑠都展のオープニングでの杷瑠都関と私の写真と9月のオバマ大統領のエストニア訪問だけだった。無論、独立記念日式典の様子は全国にTV生中継された。

<SingingのS>

次のSはSingingであるが、エストニア人は歌う民族と云われ、合唱が盛んである。5年に一度、歌い手、聴衆合わせて数万人の人々がひとつの会場に集まり、歌の祭典(ユネスコ無形文化遺産)が開かれる。これは圧巻である。そこで、エストニア人も歌うことが好きだが、実は日本人もカラオケを発明したぐらいなので、歌うことは大好きであると言うと、なぜかエストニアの人々にはとても受けた。

このsingingにクラシック音楽も含むと解すると、この分野でも日・エストニア関係は急速に発展している。2014年には、エストニア人の世界的な作曲家であるアルヴォ・ペルト氏が高松宮殿下記念世界文化賞(音楽)を受賞し、その授賞式の様子は、エストニアTVの音楽番組で繰り返し放映された。世界で最も演奏されているクラシック音楽の現役作曲家のひとりであるペルト氏は、欧米では極めて知名度が高く、2年続けて天皇誕生日レセプションに出席頂いたが、多くの出席者が同氏を囲み、歓談、記念撮影をしていた。同氏は80歳だが、とても若々しく、ユーモアを解する人である。公邸での会食の際、少年時代の自分が自転車に乗っている姿を描いた小さなモニュメントが把瑠都関の故郷、ラクベレー市の広場に建っているが、自分の貢献は些細なものであり、それに比し杷瑠都関の貢献は質的にも物理的にも非常に大きく、今後ラクベレー市は巨大な杷瑠都像を建てざるを得ないのではないか、とユーモラスに述べていた。

そして昨年9月,NHK交響楽団の常任指揮者にエストニア人のパーヴォ・ヤルヴィ氏が就任した。ご案内の通り,前職はパリ交響楽団の常任指揮者で、世界中で活躍している。彼の父親も指揮者で、音楽一家として知られている。彼の日本でのコンサート・チケットがなかなか取れないと聞き、内心嬉しく思った。東京へ赴任する直前の公邸での会食にて、ヤルヴィ氏はこれまでも何度か訪日しているが、日本の音楽ファンのレベルはとても高く、東京での指揮が待ち遠しいこと、そして毎年6月末、エストニアの故郷で世界中の若手指揮者を招いて音楽祭を開いているので、今後は日本の若手指揮者も招き、交流を深めたいと述べていた。

<スカイプのS>

3つ目はスカイプのSである。エストニアで開発されたスカイプは、日本を始め広く世界で利用され、エストニア人の誇りである。インターネットを使った無料通話システムで、画像も含む。語学レッスン始め、色々な使い方がある。ユニークな使い方は、スカイプ・ランチやディナーである。単身赴任の日本人が週末に東京に残した家族とスカイプを繋ぎ、画像を見ながらランチ(時差の関係で東京はディナータイム)を楽しみ、家族団らんに役立っている。

スカイプの開発はエストニアのITレベルの高さを意味する。高度にIT化した行政サービスや社会インフラがあり、ビジネス面では水準の高いスタート・アップ企業が活躍(スカイプもその一例)し、サイバー面では、過去の苦い経験からNATOサイバー・センターが置かれ、実践的訓練や対策(いわゆるタリン・マニュアルを含む)が実施されている。具体的には、インターネットで納税は5分、新会社設立登記は30分で完了し、WIFIは全国津々浦々で利用可能(無料)であり、世界で唯一、国政選挙もインターネットで行われているといった具合である。そこで在勤・生活して一番感動するのは、効率化が進み、とにかく待ち時間が少ない、ということである。このようなエストニアのIT化は欧米でもよく知られており、IT担当のEU副委員長はアンシップ前エストニア首相が務めている。独立100周年に当たる2018年にEU議長国に就任するエストニアは、この分野での進展を意図し、また、インターネット・アクセスは基本的人権と認識し、いろいろな場でその推進に努めている。

わが方との関係では、本年1月から導入されているマイナンバー制度は、エストニアの制度(IDナンバーという)が随分参考にされている。そのため2013年夏から2015年にかけ、エストニアの制度に関する情報入手・意見交換等のため、日本とエストニアの人的交流が飛躍的に高まり、また定期的なIT・サイバー協議の場も設けられている。また、日本側の友好議連も再結成された。

特に、2014年は両国関係にとり画期的な年であった。同年1月に6年半ぶりの両国外相会談(於東京)、外務省政務局長協議(2月、於タリン)と続き、ITの権威でもあるイルヴェス大統領が3月に初訪日し、IT・サイバーを含め安倍首相との首脳会談が行われた。この訪日は、エストニアにとり内政的には内閣の辞職、外政的にはクリミア併合等ウクライナ情勢の緊迫という機微な時期に実施された。その後、山崎参議院議長(7月)、自民党IT特委(平井委員長)関係者の訪問(8月)、そして10月には日本と北欧・バルト諸国との初の首脳協議にて安倍首相とエストニアのロイヴァス首相が共同議長を務めた。翌2015年も、左藤防衛副大臣、山口内閣府特命大臣、甘利内閣府特命大臣、山田外務政務官の訪問が相次いだ。エストニア側からもスリング経済貿易大臣やコトカ経済通信省次官補(エストニアITの立役者)が訪日した。

最近では日本企業がエストニアのスタート・アップ企業と協力し、LED(日本人研究者が青色LEDでノーベル賞を受賞)を用い、新たな大量通信システムを開発中であるが、その日本企業のエストニア進出は把瑠都関から聞いたエストニアのIT事情がヒントになった由。東日本大震災の時、携帯通話が集中し不通になったことは記憶に新しいが、LEDの使用によりこれが回避できる由で、その実用実験が数万の人々が集まった前述の歌の祭典にて成功裏に行われた。早期の実現化を期待したい。

<日本人とエストニア人の類似性>

この3年、日本とエストニアの関係は飛躍的に進展したが、その過程で日本人とエストニア人の相互理解も大いに進んだ。実際の交流を通じ、多くの日本人とエストニア人の間で、お互い謙虚で物静かで思いやりがあり、仕事熱心でよく似ているとの認識が広まった。昨年12月、私の離任表敬の際、イルヴェス大統領自身から同様の認識が示され、思わず微笑んだ。

イルヴェス大統領:「この3年間ITを中心に両国関係は大きく変わった。自分自身、日本のITの専門家とよく話すが、話せば話すほど、エストニア人と日本人はよく似ている。」

(了)

『『メキシコ点描』―「日墨関係の新たなステージへ」―』
2016-3-31

『『メキシコ点描』―「日墨関係の新たなステージへ」―』


  • 山元 毅

山田 彰
(駐メキシコ大使)

 2014年10月にメキシコに赴任して一年余が過ぎた。私が最初にメキシコを訪れたのは、1976年末、大学生の時なので、もう40年近くになるメキシコとのつきあいであるが、近年、日本とメキシコとの関係はかってなく、また他に類を見ない勢いで急速に進展している。  さらに、日本とメキシコには長い友好の歴史があり、両国関係にまつわる興味深い話はつきない。また、メキシコの各地で、日本との関係増進に尽力しておられる、メキシコ人、日系人、日本人の姿は枚挙のいとまが無い。本稿では、そうしたメキシコの現在の様々な姿を点描してみたい。

1.メキシコの今日

 メキシコは、途上国・新興国と呼ばれる国の中でも安定した民主主義政治体制を持ち、市場経済の下、堅実な経済運営と自由で開かれた対外経済政策が確立した国である。 

 2012年12月に発足したペーニャ・ニエト大統領は、就任直後に連邦政府と主要政党間で『メキシコのための協約』という合意を形成し、多分野にわたる一連の構造改革を進めてきた。世界に構造改革の推進を標榜する政府は多数あるが、メキシコほど具体的、大規模かつスピーディーに実施している国は稀であろう。特にエネルギー改革等を契機として、外国企業による対墨投資機会が拡大しており、世界のメキシコに対する注目が高まっている。

2.日本との関係(経済関係を中心に)

 日本とメキシコの関係は、特に経済面において進展が著しい。日墨間には2005年に発効した経済連携協定(EPA)があるが、この10年で貿易額はほぼ倍増している。それ以上に注目すべきは、日本企業の進出、日本の対墨投資の顕著な増加である。2009年に399社だった在メキシコ日本企業数は、2014年には814社、2015年には957社を数え、本2016年中には1,000社を越える勢いである。世界でもこのような規模と速度で日本企業が増えている国はないのではないか。

 日本企業の進出の中心は、バヒオと呼ばれる中央高原地域(メキシコシティの北西)であり、大多数は自動車関連産業である。

 メキシコにおける自動車生産については、日産が50年以上の歴史を持つが、近年日産、マツダ、ホンダといった完成車メーカーがバヒオ地域に工場を新設し、それに伴って多くのサプライヤー(自動車部品、素材)企業がメキシコに進出し、その他の関連企業もメキシコに拠点を置くようになった。昨年4月には、トヨタがグアナファト州に新工場を作ることを発表した。2019年生産開始の予定だが、トヨタの新工場開設でまたさらにサプライヤー企業が日本から進出することが予想される。

 自動車以外のビジネス・チャンスも増えており、日本企業の対墨進出増加は、まだ当面継続すると見込まれているのである。 こうした関係緊密化を反映し、メキシコにおける日本のプレゼンスは拡大している。

上記の日墨関係の進展、特にバヒオ地域における日本企業、日本人の増加に鑑み、同地域の中心都市であるレオン市に日本の総領事館が開設され、2016年1月から業務が開始された。早速大勢の日本人、メキシコ人が領事サービスを受けるために総領事館を訪れている。 また、本年4月には、日本経済新聞のメキシコ支局が開設されることになった。近年日本の新聞の海外支局は人員削減の方向にあるのではないかと思うが、日墨経済関係の進展状況に鑑み、メキシコ発のニュースをよりカバーする体制を整備したわけで、メキシコ発のニュースがよりバランスのとれた形で日本に届くようになるであろう。

 もう一つのニュースは、全日空直行便の開設である。現在、アエロメヒコが成田-メキシコシティ間の直行便(ノンストップ)を週4便飛ばしている。日墨間では、訪問者が双方向とも5年で倍増といったペースで着実に増加しており、こうした中、全日空が2016年度下半期から東京・メキシコシティ間の直行便を毎日1往復で飛ばすことになったのである。(日メキシコ便は、かってバンクーバー経由で運航していた日本航空が2010年1月に撤退した。)在墨邦人にとっては大変嬉しいニュースである。

 在レオン総領事館開設、日本経済新聞支局開設、日系航空会社(全日空)の直行便就航という三つの出来事は、まさに日墨関係の急速な進展を象徴するものといえる。

 同時に、国際社会での存在感を増すメキシコは、日本にとって国連、APEC、OECD、G20、TPPといった国際場裡における重要なパートナーであり、多分野における政策協議・協調はますます重要になっている。

3.日墨の交流史

 2009~2010年には、『日本メキシコ交流400周年(1609年、当時スペイン領であったメキシコ生まれの在フィリピン臨時総督が現在の千葉県御宿に漂着、地元民に救助される。翌年、徳川家康が船を提供し、メキシコへ帰国させた)』を祝い、2013~14年は、『日メキシコ交流年(メキシコとの直接貿易を目指した伊達政宗が派遣した支倉常長慶長遣欧使節団の出帆及びメキシコ上陸400周年)』を祝った。

 これらについては、様々な資料もあるので詳述しない。私が着任したときに、あるメキシコ人から「400周年はもう二度祝ったので、三度目はないぞ。大使は何か新しいフラッグシップ・プロジェクトを考えないといけない」、と言われたが、400周年はなくとも、毎週のようにメキシコの各地で様々な交流事業、文化行事が行われている。さらに、『周年』ということで言えば、本2016年は日墨協会60周年、2017年は移民120周年(中南米に対する最初の組織的移民である『榎本移民団』(1897年)から120年)、2018年は日墨修好通商条約130周年(明治の日本政府が締結した最初の平等条約)と、若干数字は半端であるが、祝賀すべき年が引き続き待っている。

 ここで、日墨の交流エピソードとして是非ご紹介したいことがある。

1913年2月、メキシコ革命の最中、悲劇の十日間と呼ばれるウエルタ将軍によるマデロ大統領に対するクーデターの際、マデロ大統領夫人、同父母など親族等20名以上が日本国公使館に駆けつけ、一族の親しい友であった堀口九萬一臨時代理公使(詩人堀口大學の父)に庇護を求めた。堀口は、ウエルタ将軍一派が日本公使館を攻撃すると見られていたにもかかわらず、一族の保護を続けた。クーデターによりマデロ大統領は殺害されたが、一族は無事にメキシコを出ることが出来た。

 昨年2月、メキシコの上院で「1913年のマデロ大統領家族に対する日本国公使館の庇護に関して、日本国民、日本政府、外交官堀口九萬一の親族に感謝し、この史実をメキシコ国民と日本国民の関係の歴史の最も美しい1ページとして語り継ぐ」とした決議が採択され、4月には記念プレートの除幕式が上院で開催された。

 7月にメキシコ上院議長が日本を公式訪問した際に、堀口九萬一をたたえる式典が在京メキシコ大使館で行われた。式典には、堀口九萬一の孫で詩人の堀口すみれ子さんも招待されたが、奇遇なことに在京メキシコ大使夫人は103年前に公使館にかくまわれたマデロ一族の一人の孫に当たる。百年余の歳月を経て、日墨の両家族が相まみえたのであった。

4.終わりに

 約2万人と言われる日系社会の活躍、メキシコにおける日本のポップカルチャー人気、野球、サッカー、ボクシング、プロレスと言ったスポーツ交流、近年に多様化し、大きく進展する大学間交流、などなどメキシコに関してご紹介したい話題は尽きない。

 また、メキシコという国自身、歴史、文化、自然、人々、料理、音楽など様々な面で非常に多様性に富んだ国であり、関心を引くところが無限にある。

 長い友好の歴史を持ち、親日的で、日本との関係も緊密化しているメキシコではあるが、まだまだメキシコの真の姿は日本で十分に知られていないきらいがある。メキシコにおいて日本をより良く知ってもらうことは大使の本来の使命であるが、同時に日本人にももっとメキシコを知ってもらいたいと考える。

そして、日墨関係をさらに発展するために、「あらゆる分野で、あらゆるレベルでの双方向の交流を増大させる」、ことが自分の重要な使命である、と考えている。

(了) 

『オリンピック・パラリンピックを控えたリオデジャネイロの様子』
2016-3-10

『オリンピック・パラリンピックを控えたリオデジャネイロの様子』


  • 山元 毅

山元 毅
(在リオデジャネイロ総領事)

1.オリンピック・パラリンピックの準備状況  南米のリオデジャネイロ(以下、リオ)という土地柄のせいか、日本からの来訪者から「オリンピックの準備は大丈夫ですか。」と頻繁に質問される。しかし現地に駐在していてもこの問に確信を持って答えることは難しい。4カ所に分かれるオリンピック会場のひとつひとつをつぶさに見学できる機会はなく、当局の発言はいつも「大丈夫、すべて予定通り。」という公式見解に終始する。IOCからも準備状況についての公式なコメントは聞こえてこず、メデイアや有識者から聞く話も裏付けが不明である。

 数少ない手がかりが、オリンピック公共機関(APO:Autoridad Publica Olimpica)が発表する報告である。APOは、オリンピックに向けた連邦、リオ州、市の取り組みの調整を任務に設置された機関であり、6ヶ月に一度、競技施設建設の進捗状況を公表している。最新報告(本年1月)では、4会場、計47件の工事は完成かそれに近い状況(完成率90%以上)にあるとされる。筆者が2月中旬にAPO総裁と話した際にも、「一部補助電力施設の整備が気がかりなくらいで、他はすべて順調」との発言があった。報道等では一部テニスや馬術会場の遅れが指摘されるが、全体として競技施設の建設はほぼ順調と見て差し支えない。1月末の女子レスリングのテストイベントで使われたバッハ会場のカリオカ1競技場は、明日からでもすぐ本番に使えそうな仕上がりであった。

 問題があるとすれば、競技会場ではなく公共交通機関、特にメイン会場があるバッハ地区と市中心部を結ぶ地下鉄新線の整備であろう。バッハ地区はリオ市街から30キロほど南西部の海外沿いに発展した新興地区である。コパカバーナ(以下コパ)やイパネマといった高級住宅地区の喧噪や犯罪を嫌った富裕層が90年代半ば頃から移り住みはじめ、2000年代以降住宅商業地域として大発展を遂げた。一のブランドショップがこれでもかと軒を連ねるショッピングモール、延々と続く美しい海外でスポーツに興ずる人々など、リオの新しい顔とも呼べる地区であるが、いかんせん交通の便が悪い。皮肉にもアクセスが良くないがために治安と静謐が保たれ金持ちの人気スポットとなった側面もあるが、多くの観光客が宿泊する市の中心部やコパからは遠い。距離ではなく、移動手段が車しかなく、一本しかない自動車道路の渋滞がラッシュアワーに限らずひどいためである。中心部からは片道2時間以上かかることもまれではなく、中心部近くにいる我々総領事館員も、バッハでの仕事は常に半日がかりとなる。

 そこでオリンピック開催決定を契機に始まった地下鉄4号線(総延長16キロ程度)に期待が集まる訳だが、工事の進捗ははかばかしくないようであり、開会半年前の時点でも未だ600メートルが未掘削のままである。この600メートルもじりじりと掘り進められてはいるが、地下鉄を走らせるには掘削完了後も電力や信号関連で多くの作業が必要である。当局はオリンピック直前での完成を力説し(実際そう期待したいが)、有識者やメディア関係者の間で間に合わないのではという見方が最近急増している。

 ちなみに世界最高レベルといわれる日本の掘削技術であるが、専門家によると、土砂崩れ対策を同時に進めながら掘削する必要のある(東京湾海底のような)柔らかい地盤では力を発揮するが、リオの奇岩群のような固い岩盤には歯が立たないとのことである。

2.オリンピック開催を控えたリオの情勢

 リオといえばまず治安が話題に上るが、2000年代後半から一貫して減少傾向にあった犯罪、特に殺人、強盗といった凶悪犯罪の件数は、国内の景気後退と歩調を合わせるように2013年頃から再び増加に転じた。14年の数字での日本との比較では、殺人は約23倍(人口10万人あたりリオ市:19.2件、日本:0.83件)、強盗に至っては実に約510倍(同じくリオ市:1228.9件、日本:2.41件)である。

 凶悪犯罪の温床はファベーラと呼ばれる麻薬組織に支配された貧民街にあるため、当地治安当局は2007年からUPP(平和構築部隊)と呼ばれる特殊部隊を組織し、麻薬組織を掃討し、貧民街を平和なコミュニティーに再生させる取り組みを進めている。UPPの活躍により、リオ大都市圏内の1000カ所以上のファベーラの250カ所程度において治安が回復されるなど成果が上がったが、あまりにUPPに人員と資金を投入し過ぎたため街頭警備が手薄になった結果、ここ2,3年、特にこれまで比較的安全とされてきた(コパやイパネマが含まれる)南部地区における犯罪の再増加を招いたとの批判もある。限られた資源をどう振り分け総合的に治安対策を進めていくか、悩ましいところである。

 なおオリンピック・パラリンピック開催期間中については、ブラジル全国の警察からの応援を得て(ロンドンオリンピックの倍の)総勢8万5千人の治安要員からなる手厚い警備体制が敷かれることとなる。しかしながら警察官の数が増えようが、最も効果的な犯罪防止策は自身の行動にある。リオ訪問を予定されている邦人の皆様には是非外務省及びリオ総領事館が発出する安全情報に注目し万全の注意を払って頂きたい。

 次に現在ブラジル経済は2015年、16年の2年連続にわたって3%超のマイナス成長が見込まれるなど、大恐慌以来といわれるどん底の状況にある。またブラジル最大の企業であるペトロブラス石油公社(以下PB社)を舞台に多数の政治家を巻き込んだ汚職スキャンダルが発生し、その関連でルセーフ大統領の弾劾請求が議会に提出されるなど、混乱した状況が続いている。リオについても、PB社の不振及び油価下落等に伴う石油ロイヤリティー収入の激減が州の懐具合を直撃しており、公務員給与の遅配や、教育・保健分野などでの深刻な予算カットが発生している。

 幸い競技施設をはじめオリンピックの箱物については工事開始が数年前であり、いわば景気後退の方が遅れてやってきた状況にあるため、今までのところ大きな影響は見られない。しかしながらリオ・オリンピック組織委員会直轄の大会運営予算は、現状でも人件費や物品費を含め相当節約下状況にあるため、深刻な経済情勢がオリンピックの運営面に陰を落とすことがないのか、気がかりである。

 一方で景気後退や汚職に対する国民の怒りが(ワールドカップ開催前に見られたように)反オリンピック運動へと転換する可能性についても注視しているが、当地識者の間では、オリンピックは広大なブラジルの中でリオのみで行われる局地的なイベントであること、サッカーと違って大衆に馴染みの薄いスポーツも多いオリンピックは(良くも悪くも)注目を集めにくいため、大規模な抗議運動の対象となるとは考えにくいとの見方が大宗である。(参考までに当地で人気のスポーツはサッカーを筆頭にバレーボール、ハンドボール、バスケットボールの4つであり、これらはMagic Fourと呼ばれている。)

 最近大きな問題となっているジカウィルス感染症については、リオ州の公式統計では、2015年11月18日から16年2月3日までに妊婦で159人のジカウィルス感染症患者が確認されている。また(ジカウィルスとの関連性が疑われる)小頭症についての保健当局への報告数は、2014年の10件に対して、2015年1月から16年1月までの13ヶ月の間に208件の疑い例が報告されており、(国民の意識レベルが上がった結果、報告件数が増えた面もあるが、)データ上は大きな増加である。ジカと同じく熱帯シマ蚊が媒介するデング熱の感染者数もリオ州内で2015年の疑い例が14年と比べ約9倍増である。

 現在ブラジルでは大統領の号令一下、軍隊も動員した蚊の繁殖防止作戦が大々的に進められており、リオ当局もオリンピック会場における蚊の徹底駆除を宣言している。ブラジルの官民挙げた取り組みと気候的要因(オリンピック・パラリンピックが開催される冬期の7,8月は例年蚊の減少に伴いデング熱感染者数も激減する)により、今後のジカウィルスの感染状況について楽観的な声も聞かれるが、日本の冬のように蚊が死に絶える訳ではなく、一定の警戒は必要であろう。

3.最後に

 南米最初のオリンピック・パラリンピックを迎えるリオの状況は上記のとおりなかなかチャレンジングである。が、それではカリオカ達(リオの人々)がこの満身創痍の状況にうち沈んでいるかといえばそうでもない。軍政から民政移管を経て今日に至るまで幾多の政治的、経済的危機を乗り越えてきたブラジルの人々はたくましく、大らかである。オリンピックについても持ち前の陽気さと巧みな知恵を発揮してくれるものと期待したい。

 最後にリオ・オリンピックについて、いくつか注目すべき点をごく簡潔に紹介したい。まず、競技施設等の再利用への強いコミットメントである。「ホワイトエレファント(白象)注:大イベントのために作られその後無用の長物と化す巨大な箱物」は残さないというスローガンのもと、恒久利用が見込めないすべての施設は仮設で建設され、予め再利用先が決定されている。例えばハンドボール等が行われる「フューチャーアリーナ会場」は、オリンピック終了後、解体され貧困地域で4つの小学校に生まれ変わることになる。次に民間資金の大胆な動員である。競技施設建設資金計70億レアル強の内、実に50億レアルが民間資金である。オリンピックを口実とした大胆な規制緩和を餌にえげつないまでの民間デベロッパーの巻き込みに成功した。リオ市の担当者は、バルセロナオリンピックを参考にしたといわれる旧市街の港湾地域(500万平米)の再開発を、(空中権を活用することで)リオは公的資金を一銭も使わず成し遂げたと胸を張る。最後に徹底したレガシー作りへのこだわりがある。リオ市長はじめ関係者は、リオ・オリンピックはリオ市民のためのレガシー作りこそが目的だと公言してはばからない。それ故にこそシカゴや東京に勝利して2016年の開催地に選ばれたのだと。景気低迷に悩む市民は、オリンピックを契機にリオは生まれ変わるのだという当局の説明に懐疑的になっているが、2009年には16%であったリオ市民の公共交通へのアクセスが16年には63%に達するという当局の説明には一定のインパクトがある。

このように見ると、カーニバルに象徴される派手さとは裏腹に、実に堅実かつプロフェッショナリズムに基づいてオリンピックを計画されていることが分かる。この新しいカリオカ流オリンピックが成功することを心から願っている。

『ミャンマーの民主化実験』
2016-2-11

『ミャンマーの民主化実験』


  • 熊田 徹

熊田 徹
(元在ミャンマー大使館参事官)

1.ミャンマーにおける民主主義と選挙

 J.S.ファーニヴァルは1957年に、「(多数の民族が隣り合ってはいるが、まとまりなくバラバラに暮している)複合社会国家であるビルマ(ミャンマー)では、民主主義すなわち多数決原理に基づく政治制度は幻想に過ぎないのだが、ビルマ人は例外的に不利な条件下でその実験を行っている」と指摘した。それから60年、昨年11月に行われた「民主的選挙」で圧勝したスーチー女史のNLD(国民民主義連盟)が総議席の6割を占める新議会が今月初めに開会し、半軍事的なUSDP(連邦連帯発展党)から政権を受け継ぐ準備が始まったことは、この民主主義の実験がついに成功寸前の段階に到達したことを意味しよう。だが一方、同国独立以来の山岳地帯少数民族反乱組織と中央政府との間の武力対決構造、及びそれを反映した軍人優越で「危機管理」中心の現行憲法という、民主化実験過程における二つの最大障害が依然立ちはだかっている。

本年1月12日から16日までの5日間にわたり、700名以上の関係諸民族組織や政党代表などを集めて首都ネピドーで開催された、「連邦和平会議(Union Peace Conference=UPC)」は、この課題解決努力の一環で、昨年10月の「全国的停戦合意(NCA)」に基づいて今後の和平プロセスの枠組みを検討するためのものである。興味深いことに、大小20を超える武装反乱組織中主要8組織しか参加しなかったNCAそのものに反対し、別途独自の和平集会を企図していたスーチー女史は、直前になって突然UPC開会式への参加を決めた。

1月18日付の現地紙報道によれば、UPCは下記4点に合意して閉幕した。
(!)政治対話を今後3ないし4年間以内に完結させる。
(2)次回会合は可能の限り速やかに開催する。
(3)会合出席者の30%を女性とするようにつとめる。
(4)昨年のNCA参加者名とその名誉を記録に残す。

これら合意事項は、昨年のUPCが議題としていた治安・反乱組織問題や山岳地帯自然資源の帰属関係などの具体的問題点に触れていないが、要するに上記の「民主化への二つの障害」の解決にはあと数年を要するということであろう。

この点に関して留意したいのは、スーチー女史が昨年総選挙の3日前にあたる11月5日、100名以上の内外記者を自宅に招いた記者会見で、NLDが勝利した場合には自分が大統領以上の政治指導者となるとともに、国民和解を目指すとし、国民多数の支持さえあれば「このバカゲタ憲法の改正などマイナーな問題」だとの趣旨を述べていたことである。 国民和解は秩序維持の根幹にかかわる実質的問題だが、ファーニヴァルの言うように、多数決では解決しえない。ところが、同女史・NLDは昨年9月から11月までの2ヶ月にわたる今回選挙戦では、小選挙区制選挙だったこともあり、このような難しい政策課題についてはなんら触れなかった。選挙戦直前になって発表した選挙公約ではその冒頭でこれら問題の解決を掲げていたが、候補者が公約の内容に触れることを禁じたうえで憲法改正などの「変化」を強調し、候補者名さえ忘れて「党への投票」のみを促す作戦を採用していた。民主的選挙にはまだ不慣れで、貧困や不正からの脱出のための変革を最大関心事としていたミャンマー民衆に対して、先進民主主義諸国で時々用いられるスピン・ドクター的戦術のごときものだったとさえいえる。

このギャップをどう埋めるかが、今後の政治日程上最大の課題であろう。NLD幹部は選挙で大勝の直後、1年以内での憲法改正とかスーチー女史の代理としての大統領候補の選定問題などに言及していた。その一方、「国民和解」の必要のみならず、自らの政策形成・実施についての経験不足と国民の期待に応える責任能力についての不安もあって、与野党連携の動きを強めている。以下、このような「ミャンマー民主主義の実験」の過程を振り返りつつ、今後の展望についても触れてみたい。

2.「複合社会構造」とアウサンの国家建設計画の挫折

 前記UPCは、この種会議としては、殆どのミャンマー人が知っている、1947年2月に独立準備として開催されたパンロン会議に比肩されよう。周知のとおり、アウンサンが主導した英国植民地からのビルマ族を中心とする独立戦争においては、ビルマ族からの独立約束により英国側兵力として動員された山岳地帯少数民族の多くとビルマ族とが敵対関係に置かれた。だから、第二次大戦終了後ビルマ族とこれら少数民族とは和解を必要とし、そのために開催されたのがパンロン会議だった。その産物であるパンロン合意は、同年9月採択のミャンマー独立憲法における少数民族問題処理の基本原理となった。スーチー女史はこれまでの民主化運動において「第2のパンロン会議」開催を何度も呼びかけ、選挙公約でも「パンロン精神を基盤とする政治対話」を強調していた。だが、パンロン会議もパンロン合意も、したがってミャンマー国家初の憲法も決定的な欠陥を抱えていた。 

第一に、当時仏教徒とムスリムの双方を含め、分離独立ないしは自主権を求める激しい反中央運動を展開していた、現ラカイン州が参加しておらず、カレン州を代表していたのは同州少数派代表のみだった。第二に、何らかの手違いが原因らしいが、同憲法規定上シャン、カチン両州の連邦離脱権が留保されていた。第三に、憲法附則において、英国が植民地行政上許していたシャン、カチン両州でのケシ栽培とアヘンの製造販売が、財政自主権の一部として容認されていた。冷戦期の外部介入はこの麻薬産業を軍資金源として利用し、ミャンマーは世界一の麻薬生産国となった。1964年、時のネウィン政権が非合法化したが奏功せず、両州は今日に至るまで、麻薬生産を続けており、ごく最近の国連統計によれば、ミャンマーは麻薬生産量でアフガニスタンに次いで世界第2位の由である。第四に、第二次大戦中の「ビルマ独立軍」と反ビルマ族少数民族ゲリラとの間の兵力再編成作業が未着手のまま放置され、それが独立直後の「内戦」につながった。

注意すべきは、植民地以来の麻薬生産に加え、長らく中国からの武器支援を受けているシャン州ワ族のUWSA(ワ州連合軍)、同じく麻薬やラワン材その他の密輸などを通じて中国の影響下にあるKIA(カチン独立軍)、かつての反中央抵抗運動の流れを受け継ぐAA(アラカン軍。自治権を要求するアラカン仏教徒組織でカチン族の政治機構KIOと連携している由)など、相当数の武装反乱組織が依然ミャンマー国軍と武装対立関係にあって兵火を交えており、上記のとおりNCA にも今回のUPCにも参加していないことである。さらにシャン州北端で中国との国境をまたいで居住し、ワ族同様麻薬その他の密輸に依存しているコーカン族の軍事組織とミャンマー国軍との間で昨年2月に激しい砲撃戦が発生してテインセイン大統領が非常事態宣言を発令し、中国との外交案件化寸前に至ったこともある。

ここで想起すべきは、ミャンマー国民が建国の父と仰ぐアウンサンが描いていたミャンマー国家建設計画がどんなものだったか、である。彼は、日本亡命中の1941年初頭に記した「ビルマ独立の青写真」では、「(植民地統治者の策謀により平野部と切り離された辺境山岳地の)後進的民族の民度を引き上げ、諸民族間の接触と交流を妨げている自然障害を、道路・鉄道・通信等の建設によって克服する必要」を強調した。制憲議会を前にした1947年5月の演説では、当時のミャンマー行政も経済運営の主体も白僑や印僑、華僑によって占められていた状況にもかんがみ、そのビルマ化を期した。また、「古い民主主義」ではなく「新しい民主主義」、そして緩い連邦制(federation)ではなくミャンマーの国情に合う「我々の民主主義」としての、諸民族が強固に統一された「ユニタリーな連邦制国家(union)」の建設を目指した。 だが彼は、憲法採択の2か月前に、パンロン合意の欠陥調整に着手できぬまま、暗殺されてしまった。

もう一点忘れてならないのは、民族間対立も麻薬産業も、ミャンマー人の自発的意思に基づいたものではなく外生的な要因に由来しており、それが長い間ミャンマー内政の混乱を招いてきたことである。第二次大戦がもたらした民族間対立構造が冷戦期には東西両陣営からの介入工作に利用され、ミャンマー政府軍が世界最多の20数にものぼる武装反乱組織群を相手とする激しい内戦が続く一方、議会政治の混乱を招いた。国軍司令官ネウィンは1962年の無血革命と1974年の憲法改正とによる強権的な一党独裁制確立を通じて、ヴェトナム戦争などの冷戦に巻き込まれる危険からの防衛を図った。だが冷戦終了後も、国境周辺秘境地の不法経済と軍事化した内政状況ゆえの人権問題や民主化の停滞が続き、このため国際的な制裁介入が科された。こうしてアウンサンの悲願は日の目を見ることなく今日に至っている。

3.ミャンマーの内外政治と憲法改正問題

以上のごときミャンマー政治経済混乱の過程でさらにもう一つ注意すべき現象がある。介入側とビルマ族そのもの双方における内部分裂である。具体的にいえば、米国の対ミャンマー政策は、冷戦初期においてはネウィン政権をミャンマーで唯一秩序維持能力を有し、かつ信頼し得る実力組織とみなす国務省とこれを容共的とみなすCIAとの間での対立があった。冷戦後期以降は同政権を通じて麻薬撲滅対策に取り組む国務省政務局とネウィン政権を人権・民主化運動抑圧者とみなす同省人権局との間で、米国議会をも巻き込む熾烈な政策対立があった。

他方ミャンマー国内では、BCP(ビルマ共産党)が、冷戦中期にネウィンからの要請に応じた中国共産党からの軍事的・財政支的支援を打ち切られたために、麻薬生産者たるワ族を支配下において代替資金源としていた。このBCPは冷戦末期の1987~88年には、米国の前記政策対立につけ込んで反ネウィン闘争のための少数民族反乱組織の統合とNLDの乗っ取りを図った。  

時あたかも、冷戦終了を見通したネウィンが1987年8月10日の政府・党全幹部向け演説で、経済と政治の体制改革のための憲法改正意思を表明して程なくの頃合いであった。BCPはこの目的のために、母親の病気見舞いのため帰国中のスーチー女史を利用する策を立て、その政治指南役として、独立運動中アウンサンの盟友であった老党員をスーチー宅に住み込ませてイデオロギー的誘導を図る一方、NLD中央委員会に多数のBCP党員を潜り込ませた。こうして、ミャンマーの国家体制変革意思が二分され、ポスト冷戦期のミャンマー政治は米国内の政策対立と呼応するがごときネジレ現象に陥った。

1988年7月、ネウィンは突然のように開いた臨時党大会で、憲法改正とそのための国民投票実施とを提案するとともに、公職からの辞任を表明して政治の表舞台から身を引いた。だがその後、NLD主導により、軍事政権下での国民投票にも憲法改正にも反対するとの、全国的デモが発生した。そして、9月にこれを武力で鎮圧した国軍とNLDとの間で、少数民族や国際社会をも巻き込んだ四半世紀に及ぶ対決構造が出来上がった。

2008年に現行憲法が採択されたのは、いわゆる「サフラン革命」のさなか、国連安保理で対ミャンマー制裁介入が議論され、ASEANの主要会合でも、それまでのミャンマー政権に対する同情的態度の見直しが検討されるという、ミャンマー国軍にとっては危機的な状況下においてであった。念のため付言すると、一昨年の米国スティムソン・センター資料によれば、2000年代初期には、ミャンマー問題解決のため米国ミャンマー間、米中間である程度の融和・協調的努力がなされていた。

 今回選挙戦では殆ど取り上げられなかったが、ミャンマーの現状で重要なのは少数民族反乱組織との関係、特にNCAに参加しておらず「不法組織」とされている前記12の武装反乱グループへの対策である。ミャンマー民営紙「イラワディ」によれば、これら12の武装反乱組織が前記ワ州連軍(UWSA)の招聘に応じて開催された昨年11月初めの3日間にわたる会合後の声明文は、次期政権との和平交渉を呼びかけ、そのなかで中国と中国軍を仲介役として参加することを提案した。

同紙によれば、中国は兵力2万を有するUWSAに対し従来から大量の武器供給を行いつつ、そのミャンマー当局との和平交渉を妨げてきた。一方、カチン独立軍(KIA)に対してはその支配下にある20万エーカーの土地をコーカン族反乱組織用にリース方申し入れた経緯がある由だ(交渉は未成立)。昨年2月にコーカン族反乱軍とミャンマー国軍との戦闘が外交問題化しかけたことはすでに触れた。かつてビルマ共産党(BCP)は、ワ族やコーカン族とそのアヘン産業を支配して反中央政権闘争の資金源としていたが、両族は1989年3月、おそらくは中国の介入によって、反乱を起こしてBCPを崩壊させ、当時の軍事政権の危機を救った経緯がある。 前記会議には、NCAに参加したカレン族組織KNU(カレン民族同盟)の次席指導者で女性人権活動家でもある人物が出席している。彼女は、NCA署名に反対したカレン民族防衛組織(KNDO)をも代表している由だが、スーチー女史はかつてKNUに対しNCA署名を差し控えるよう申し入れ、また、NCA署名式も欠席した。 

こうした背景を、中国がミャンマーに有している諸権益や対外拡張主義的な政策傾向を踏まえたうえで考慮すると、スーチー女史の少数民族対策には十分に留意すべき危険な要素が絡んでいるように思えてならない。

4.共有された「四つの目標」と今後の展望

2011年9月、D. ミッチェル米国政府特別代表兼政策調整官(現駐ミャンマー大使)がネピドーを訪問し、発足して間もないテインセイン現政権や議会の主要幹部、スーチー女史を含む政党関係者等と幅広く接触のうえで行った「きわめて親密で建設的な会談」を機に、米国は「軍人第一主議の危機管理憲法」下でのミャンマーの民主化改革支援に向けて政策転換を行った。

同政策調整官はこの政策変更を、「懐疑派の誤り」とか「パラメーターの変更」との言葉で説明しつつ、米国もミャンマーも主要関係者のすべてが、人権、民主主義、開発、そして和解という「四つの目標」を共有していることを強調した。「懐疑派の誤り」とは、それまでの米国内部での政策対立への反省、「パラメーターの変更」とは本稿上記で縷々触れた、ミャンマー側と米国側とにおける歴史認識の差や政策対決の原因となった諸要素の再評価を意味しよう。こうして、米国政策当局は2008年の現行ミャンマー憲法と2011年選挙の結果とを容認のうえ、「半軍事的性格」のテインセイン政権による政治経済改革を後押しすることとなり、国際社会も同調して今日に至った。

つまり、米国側の現時点での認識においては、ミャンマーの現行憲法改正よりも現行憲法体制下での「四つの目標」の追求こそが優先するのである。そして、かつてスーチー女史もこの優先順序の重要性の認識を共有していたはずなのである。このような観点からであろうが、米軍はすでにミャンマー国軍との交流を行っており、英国もサンドハーストでの両国軍将校たちの交流研修事業を実施し、さらについ先週、英国軍トップもネピドーを親善訪問した。

テインセイン政権は昨年3月、各省に事務次官(パーマネントセクレタリー)のポストを創設して、行政実務組織の政権変更からの独立性とその安定化を図った。また、各省に政策実施の実績や懸案事項および諸資産などの帳簿作成を命じ、さらにNLD とともにそれぞれの政務引き継ぎ委員会を作って共同の勉強会を開いたりし、政権移行に備えている。 

だが、最大のハードルは、女史自身を含め殆どのNLD 党員の理想と善意とを実行に移すべき政策立案の経験と実務能力の空白であろう。現政権は一程度の改革実績を残しはしたが、前記UPCのみならず、国営企業やヒスイ鉱山等、カチン・シャン両州の自然資源開発関連事業をめぐる腐敗構造と国境を越えた利権抗争などの弱点を克服し得ていない。ましてや、山岳地帯住民のヤミ経済を代替すべき合法的経済基盤の開発整備は停滞したままである(1989年のクーデターで「暫定政権」を担ったSLORC=国家法秩序回復評議会=は特別の委員会を設置したうえで、山岳地帯での道路・橋梁等の事業に着手したが、国際制裁ゆえに進捗しなかった)。もし、国軍の強力な秩序維持能力とテインセイン現大統領らの行政実務能力の活用、そしてNLDの圧倒的議会勢力による法制的統御の下での国際社会からの開発援助というような組み合わせが可能となるならば、アウンサンの悲願であった山岳地帯の「文明的開発」がより迅速かつ確実に進展するように思えてならない。


「四つの目標」の実現にはいくつかの選択肢があろうが、最良の方法は、2011年頃のテインセイン大統領とスーチー女史との良好関係を回復したうえで、与野党連携体制を少なくとも1~2年間、必要ならば2~3年間続けてUPCを成功に導くこと、そしてその間にスーチー女史はじめNLD 党員が一種のインターンシップにより政策実務を実地に学ぶことであろう。このような方法で憲法第59条d項が定める大統領の資格要件(連邦の行政、政治、経済、軍事に関する事項に通じていること)を確保してから政権を移譲するような工夫を凝らすことは、憲法改正や無理な憲法規定いじりを急ぐよりは合理的で、国民の利益にも適うのではなかろうか。


2月初めに新議会が発足し、議長・副議長等いくつかの人事が固まるのに並行して次期大統領選出の問題が注目を浴びており、様々な情報が飛び交っている。ある報道では、「スーチー大統領」実現を急ぐNLD議員達が、その障害となっている憲法第59条f項を一時凍結する法案の提出を計画しているが、スーチー女史自身は、現大統領の任期は3月末までだからまだ時間があるとして記者達の質問には取合っていない由である。他方、ここ数か月間の同女史の言動を追ってみると、一般常識を超える大胆な発想に固執する反面、状況に応じて柔軟な対応に転じてもいる。女史は選挙後、党員達に「歴史と憲法とを学ぶ」ことを指示していた。それは多忙を極める選挙戦を終えた女史が、亡父アウンサンの歩みを改めて顧みた結果なのかもしれない、というのが筆者の印象である。

ミャンマーの長い民主化実験の歩みの中での最も重要な岐路に立っている女史が、その選択を誤まることはあり得ない、と筆者は信じている。      (2016年2月4日記)

『ラグビーワールドカップ2015を終えて』
2016-1-21

『ラグビーワールドカップ2015を終えて』


  • 林 景一

林 景一
(駐英大使)


 9月18日に開幕したラグビーワールドカップ・イングランド大会は、10月31日の決勝戦でニュージーランドが豪州に快勝し、連覇と3回目の優勝といういずれも史上初の快挙を成し遂げ、11月1日の表彰式において、イングランドから2019大会の開催国である我が国への引継ぎがなされて閉幕した。
 世界最大のスポーツ行事であるサッカーのワールドカップは、歴史も古く(第1回は1930年開催)、ご存じの方も多いだろうが、ラグビーの方は、英国、アイルランド、豪州、ニュージーランド、南アに在勤した人くらいしか関心がなかったかもしれない。筆者自身は、たまたま出身高校(大阪府立天王寺高校)が、旧制中学時代以来、二度全国優勝していることなどから、ラグビーが「校技」とされていた。全校クラス対抗で試合をしたり、在学中に花園に出場したラグビー部を応援に行ったりしたため、関心がない訳ではなかった。それでもワールドカップと言えばサッカーだろうと思ってきた。しかし、駐アイルランド大使時代に、2011年大会の開催国に日本が立候補していたため、その選挙運動のお世話に関わることとなり、重要性を再認識した経緯がある(世界ラグビーの本部はダブリンにある)。確かに、ラグビーワールドカップの歴史は新しく、第1回大会開催は1987年であった。しかし、その後人気はうなぎ上りで、すぐに、観客動員数やテレビ視聴者数では、サッカーワールドカップ、オリンピックに次ぐ、世界第三の国際スポーツ行事となった。日本は、アジアで初の大会開催によってラグビーの地平を拡大するという謳い文句で最初の選挙を戦ったが、僅かな票差でニュージーランドに敗れた。しかし、その次の選挙において、今年の大会と2019年大会を抱き合わせで決定することになり、イングランドと組んで見事に雪辱を果たした。しかも、その後2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催が決まったこと、観光立国の政府方針とも合致することから、さらに大きな意義のある行事と位置づけられることとなった。関係者の間では、直近のイングランド大会は、初開催の日本としてもその運営ぶりを学ぶ場でもあり、また、次期開催国として、日本代表がどれだけ活躍できるかは、大会の成否を分けることにもつながるという意味で、大きな関心があった(日本は、これまで、1991年大会でジンバブエに勝って以来、一勝も挙げておらず、ラグビーの社会では、雑魚minnowsという評価であった。エディー・ジョーンズ監督が目標を聞かれて予選リーグで2位以内となって準々決勝に進出することと表明した時、信じた人はほとんどいなかったようだ)。
 結果は、多くの人が知るとおりだ。今回のワールドカップは記録ずくめだった。観客数も過去最高の約248万人、チケットの売上げは約2億ポンドに上った。地元イングランドは、残念ながら予選リーグで敗退したが、スコットランド、ウェールズ、アイルランドは、準々決勝まで駒を進め、大会全体としては大いに盛り上がったことから、過去最高の大会だったという評価がもっぱらだ。会場案内などで6千人ものボランティアが活躍したことも特筆される。
 しかし、今回の大会を盛り上げることに貢献した主役の一人に躍り出たのは、日本代表だった。特に、鍵となったのは、イングランド南部ブライトン市で行われた初戦の対南ア戦だ。南アは、モーガン・フリーマンがマンデラ大統領を演じ、ラグビーを通じて民族融和を図るという映画「Invictus」(クリント・イーストウッド監督)でも有名な1995年大会を含め、二度世界王者になったラグビー大国だ。1点を争うサッカーと異なり、ラグビーに番狂わせはないと言われる。日本は、その南アと互角の試合を行い、試合終了間際に、それだけでも勲章になる引き分けのチャンスを捨てて果敢に勝利を目指した。そして、一つミスをすればタイムアップで敗戦という緊張の中、劇的な逆転トライを挙げて勝利を収めた。日本人応援団による「ニッポン、ニッポン」という声援が、次第に「ジャパン、ジャパン」という地元の人たちの声援に圧倒されるようになっていたが、最後は、スタジアムが、pandemoniumと報じられる熱狂に包まれた。日本代表のあだ名の「勇敢な桜花たち(Brave Blossoms)」に相応しい勝利だった。報道も「Unbelievable」といった見出しが躍った。筆者は、会場から「Veni, vidi, vici! 夢ではない、日本が南アに勝った。歴史が作られた」といういささか興奮気味のツイッターを発出したが、これがロンドン・タイムズ紙に日本大使のツイートとして、引用されるほどだった。この日本・南ア戦での劇的、歴史的勝利は、11月1日の表彰式において「ワールドカップ最高の瞬間」に選出されたが、優勝したニュージーランド代表チームを含む1,500人の出席者は、誰もが惜しみない拍手を送り、満場の賛意が示された。
 次の対スコットランド戦は、先方は初戦、こちらは中3日という苛酷な条件もあって苦杯をなめたが、休養を取った後の対サモア戦では、日本として史上初めてラグビーワールドカップでの複数勝利を飾った。この試合の日本におけるテレビ視聴者は2,500万人。ラグビーワールドカップ史上、一国における最高視聴者数で、日本のマーケットの大きさが再認識されることになった。そして最終の対米国戦ではついに予選リーグで3勝目をあげ、南ア、スコットランドと勝敗成績では並んだ。しかしながら、トライ数などで与えられるボーナスポイントのわずかな差で、予選敗退となり、予選で3勝をあげながら準々決勝に進出できなかった史上初のチームとなった。この大会を通して、比較的小柄な日本代表の勇気と規律ある戦いぶりに、多くの賞賛・激励の声が上がった。大使館にも手紙やメール、電話が多数寄せられたし、街中を歩いていて、日本人かと声をかけられて、「素晴らしかった」と握手を求められたという在留邦人もたくさんいたようだ。英国で高い人気を誇るラグビーを通して、数えきれないほど多数の英国人に日本への敬意と親近感を持ってもらえたようだ。
 素晴らしい大会だった。もちろん、これは終わりではない。2019年に向けての始まりなのだ。4年後、日本がアジアで初めてのラグビーワールドカップを開催する。北は札幌、釜石から、南は福岡、熊本まで12都市が、世界中から熱狂的ラグビーファンを日本流の「おもてなし」で迎えて、熱狂的日本ファンにする絶好の機会となる。イングランド大会は6週間にわたったが、この間、森元総理、御手洗2019組織委員会会長、岡村日本ラグビー協会会長、遠藤オリンピック・パラリンピック担当大臣に加え、開催予定地から知事や市長を始め、多数の関係者が来訪し、一試合平均5万人の観客動員という大会の迫力を肌で感じることになった。代表チームのキャンプ・宿舎の対応、要人接遇、セキュリティ、輸送計画、ファン・ゾーンの設置、ボランティア動員、広報等々、大会運営の様々な側面に直に触れて4年後に活かすことが期待される。今回の大会中、日本は、後半3週間にわたり、ロンドン中心部ウェストミンスターに、「ジャパン・パビリオン」を設置し、日本大会と日本の宣伝を行った。日本代表の大活躍も手伝って、会場は賑わいを見せたようだ。
 今大会を語る時に、イラクで殉職した奥克彦大使を語らずにはおれない。奥大使は、伊丹高校、早大を通じてラグビー部で活躍した根っからのラガーマンで、外務省入省後、英国研修中には、オクスフォード大学ラグビー部の代表(いわゆるblue)にも選ばれた。2003年、在英国大使館広報文化センター所長だった彼がイラクで凶弾に倒れた後、彼の友人を中心とする有志が「奥大使記念杯ラグビー大会」を年に一度当地で開催している。今年は、イングランドでのワールドカップの機会を捉えて「大学ワールドカップ」が初開催され、その初戦として、奥大使の出身校同士、オクスフォード大学対早稲田大学戦という好カードが、奥大使記念杯として実現した。
 森元総理によれば、日本がワールドカップ開催を最初に提起したのは2003年で、その時、ロンドンで奥大使がお世話したそうだ。奥大使は、その実現に強い情熱を持っていた。彼が存命だったら、どこに在勤していようが、イングランド大会には飛んで来て、南ア戦の興奮を一緒に味わえたのではないかと思う。そして、2019年大会成功のためのビジョンを熱く語ったことだろう。彼の殉職はその意味でも痛恨の極みだ。しかし、だからこそ、2019年日本大会は、日本代表が更なる大活躍をして、大成功の大会にしていかねばならないと思う。


『繁栄する南ドイツ』
2015-10-19

『繁栄する南ドイツ』


  • urabe

柳 秀直
(在ミュンヘン総領事)


 ミュンヘン総領事館が管轄する南ドイツ二州の発展が際立っています。9月以降、シリア等からの難民が三十から四十万人流れ込んでおり、特に、その最前線にあるバイエルン州と、隣のバーデン=ヴュルテンベルク州の自治体にとっては大きな負担となっていますが、今のところ、マクロ経済的には大きなマイナスにはなっていないようです。私がミュンヘンに着任して約一年半になりますが、二つの州の発展ぶり、そして日本との関係について簡単に御紹介したいと思います。南ドイツ二州とは、ミュンヘンを州都とするバイエルン州と、シュトゥットガルトを州都とするバーデン=ヴュルテンベルク州(以下BW州)です。バイエルン州は、面積は、独の16州の中で一番大きく、オランダの1.5倍以上で、GDPはオランダの七~八割くらい、人口は一千二百六十万人です。BWは面積もGDPも、ベルギーと比較すると一~二割大きく、人口は千六十万人で、両州をあわせると世界で十七番目の経済単位になると言われています。

1.繁栄する南ドイツの二州


 今日EUの中でドイツ経済がほぼ一人勝ちと言われますが、そのドイツ経済の発展を支えているのが,この二つの州です。昨年の経済成長率は独全体が1.6%の中で、バイエルン州は1.8%、BW州は2.4%、失業率も、本年6月の統計で独全体で6.2%のところを、バイエルン州では3.4%、BW州では3.7%と、16州の中で上位2位を占めており、バイエルン州に至ってはほぼ完全雇用の状況です。
 もともと、南ドイツ二州では農業が盛んでしたが、1970年代くらいから、バイエルン州のBMW、アウディ、BW州のメルセデス・ベンツ、ポルシェに代表される自動車産業が盛んになりました。それ以外にもバイエルン州にはジーメンス、宇宙・航空産業のエアバス(エアバスはハンブルク等独の各地にあり、BW州にもありますが、独の本社機能はミュンヘンです)、BW州にはボッシュという大企業がある他、バイエルン州ではアディダス、プーマ、BW州ではヒューゴ・ボスやITのSAP等、日本でも有名な企業が多々あります。また、保険の分野でもミュンヘンには、アリアンツ、ミューニック・リー(旧ミュンヘン再保険)といった大企業が本社を構えています。
 ドイツには16の州の間で,豊かな州から貧しい州に財政支援をするという州間財政調整という枠組みがあります。その中で,近年はバイエルン州、BW州、そしてフランクフルトのあるヘッセン州、ハンブルクの四州のみが支援する側になっており、昨年の数字ではそれぞれ48.52億ユーロ、23.56億ユーロ、17.55億ユーロ、0.55億ユーロを移転しており、受け取る側の中で、最も貧しいベルリン州は約35億ユーロを受け取っています。移転額の多い三州は、保育園の待機児童がある中で、受け取り側の旧東独の州で,保育園の待機児童ゼロの州もあるため、現在の制度は不公平だとして、現行の法律の期限となる2019年に向けて制度の再構築を議論しているところですが、まだ合意の見通しは得られていません。

2.繁栄の背景


 独の経済を支えているのは中小企業ですが、その研究開発は多くの場合、研究機関や大学との協力により支えられています。その点で、両州には応用技術に重点を置くフラウンホーファー協会(本部ミュンヘン、両州に多くの傘下研究所あり)と、ミュンヘン、カールスルーエ、シュトゥットガルトをはじめとして工科系の優れた大学が数多くあり、直接の研究委託、もしくは産業クラスターを通じての産官学の協力が盛んです。再生可能エネルギーはフライブルク、eモビリティはカールスルーエ、生産技術はシュトゥットガルトというように、各地に強い分野が存在しています。また、基礎研究に重点を置くマックス・プランク研究所もミュンヘンに本部があります。
 このように多くの研究所があるので研究開発も盛んで、両州で全独特許出願の60%以上(2014年)を占めています。ミュンヘンには、ドイツ特許商標庁の本部があるだけでなく、欧州特許庁の本部があるため、欧州における特許の中心地となっており、日系企業でも特許専門の担当を置いているところもあります。また、多くの特許関係の弁護士事務所でも日本人が働いています。その関係もあって、総領事館には特許庁からの出向者が、既に十代前くらいから経済担当の領事として来ています。

3.経済発展の上でのアキレス腱


 さて、順風満帆の二州ですが、今後の経済発展の上での問題はエネルギーです。というのも、バイエルン州にはなお三基、BW州には二基の原発が稼働しており(ドイツ全体では八基)、それらは2022年までに段階的に閉鎖されていきますが、南ドイツの二つの州ではその代替エネルギーの目処がついていないからです。ドイツでは北ドイツと南ドイツの送電網がつながっておらず、豊富な風力発電で余剰電力が大きい北ドイツの電力を南に持ってくる必要がありますが、住民の反対で計画が進んでいません。それでもBW州は緑の党主導の州政府ということもあり、再生可能エネルギーでの対応等、かなり進んでいますが、バイエルン州では、ようやくこの7月に、従来二本引くはずだった送電線のうち、一本のバイエルン州内敷設部分をかなり短くし、もう一本もやや短くした上で多くの部分を地下に埋める形にすることで連邦政府と合意しました。この案に対してもなお反対している団体はあり、また、2022年までに間に合うのか、まだはっきりとしないところがあるので、今後とも注視していきたいと思います。

4.日系企業の進出


 このような経済状況をも踏まえ、日本企業の進出も増えており、昨年10月の調査の結果、ミュンヘン総管轄二州の邦人数(12,750人)が、デュッセルドルフ総管轄のノルトライン=ヴェストファーレン州の邦人数(11,775人)を初めて超えました。また、日系企業数もミュンヘン総管轄二州では670社となり、デュッセルドルフ総管轄の570社を大きく越えています。  以前から、南独二州にある4つの自動車メーカーに部品を納入すべく、部品メーカーが多く進出しており、80年代からデンソー、アルプス電気等の大手が出ていましたが、近年は自動車部品関係の中小企業の進出も増えています。加えて、最近では第一三共、アステラスといった製薬会社など、自動車と無関係な業種も増えてきました。
 その背景には、発展著しいミュンヘン空港と東京が、10年ちょっと前からルフトハンザ、そして5年ほど前から全日空の直行便で結ばれるようになったことも大きいようです。ミュンヘン空港は年間約4千万人が利用する欧州第7位の空港に成長し、4位から6位に並ぶ、マドリッド、アムステルダム、イスタンブールにそう遠くないと思われます。フランクフルト(第3位)と異なり、できてまだ20年強で比較的新しく、40分くらいあれば荷物も含めて乗り換えが可能という便利さが売り物です。ルフトハンザも、南東欧向け、旧ソ連CISのウクライナ、モルドバ、ジョージア向けなどは、飽和気味のフランクフルトからミュンヘンに移しており、当地から発着しています。また、昨年3月末からは全日空、ルフトハンザとも羽田発着となり、一層便利になりました。私も平均すると週に一回以上、乗り換え支援か送迎のために空港まで往復しています。
 なお、日系企業の進出と言っても、人件費の高いドイツにおいて、大規模な現地生産を行っているところは殆どなく(アウグスブルク近郊の富士通がパソコンやサーバーを作っているのが例外的存在で、これはかつてジーメンスとの合弁で行われていたものが、現在は富士通の100%となったものです)、多くの日経企業は、独の顧客との関係で、本邦から持ってきた製品の微調整や、先端を行くドイツ市場動向の調査、それに併せた研究開発機能のための投資といったところのようです。

5.在留邦人の増加


 在留邦人数はバイエルン州で約7,600人、BW州で約5,200人となっており、その中でミュンヘンには約4,300人が住んでいて、デュッセルドルフに次いで日本人の多い町となっています。ただ、デュッセルドルフと異なり、日本人が集まっている地域が殆どないのと、ミュンヘン自体の人口が150万人ですので、あまり日本人が多いという印象は受けないかもしれません。一方、シュトゥットガルトは約1,200名、周辺を含めても約2,000人程度です。
 こうした状況を受けて、ミュンヘン日本人国際学校の生徒数は増加の一途をたどっており、今年度は遂に二百人を超え、現在の校舎でいつまで対応できるかという難しい問題も浮上しつつあります。生徒数では、欧州の中でパリを抜いて第五位になりつつあり、今年度も派遣教員数の増加を認めてもらっており、今欧州で、邦人数の増加が一番著しい町と言えそうです。また、ミュンヘン補習校の生徒数も二百人を超え213名となりましたが、こちらの生徒の大半は国際結婚の家庭の子女となっているのが実態です。バイエルン州では、ニュルンベルクにも補習校があり、生徒数は約45名で、ミュンヘンほど急速には増えてはいません。
 また、シュトゥットガルトの方も補習校の生徒数は増加傾向にあり、171名と二百人にせまる勢いですが、ここには日本人学校がないので、2割くらいは駐在員の子女も通っています。BW州では、ハイデルベルクにも補習校があり生徒数は61名で、シュトゥットガルトほどの増加傾向にはありません(生徒数はいずれも本年4月15日現在)。
 なお、バイエルン州にはノイシュヴァンシュタイン城、ミュンヘン市、ロマンチック街道など日本で人気のある観光資源が豊富なので、正確な統計はありませんが、おそらくドイツに来る日本人観光客(2013年で約70万人)の約半分以上はバイエルン州にも来ているものと思われます。

6.結語


 以上の通り、このまま南ドイツ二州が発展を続ければ、邦人数も日系企業数もバイエルン州だけでノルトライン・ヴェストハーフェン州を抜き、ミュンヘン在住日本人の数がデュッセルドルフを抜く日が訪れるかも知れません。当館としてもそれに対応できる体制を整えられるよう、努力していきたいと思っています。
 (なお、本文中の評価・意見に関わる部分は、すべて筆者個人の見解であることをお断りしておきます。)


『私のメキシコ再発見』
2015-09-28

『私のメキシコ再発見』


  • urabe

目賀田周一郎 
(前駐メキシコ大使)


 昨年11月、3年半のメキシコ勤務を終え帰国した。メキシコは日本にとって、最初に不平等ではない通商航海条約を締結した国、中南米で最初に組織的移民を受け入れた国、講和条約の早期発効や日本の国連加盟を支援してくれた国、農産品を含む実質的な経済連携協定(EPA)を初めて締結した国である等、日本外交の地平を開いてくれた国とされている。また、地震国という共通点もあり、災害時には助け合う伝統もあり、最近でも、東日本大震災では中南米では唯一緊急援助隊を派遣し、福島原発事故を理由とする輸入制限を早期に撤廃するなど、好意的な対応を示しており、我が方としても好意には好意をもって報いる姿勢が重要である。
 赴任に際しては、二国間関係はある程度成熟しており、差し迫った懸案は無いと聞いていたが、着任してみると、まだまだ様々な分野で二国間関係を更に進展させる余地があるのではないか、潜在的な可能性のある二国間関係に双方の政府、国民がもう少し関心を高めても良いのではないかとの印象を持った。
 メキシコにとっても、2012年12月大統領に就任したペニャ・ニエト大統領がエネルギー分野への民間開放等の改革に取り組むなど、歴史的な変革の時期に重なった。
 振り返ると、赴任前にはあまり認識していなかったこと、予想していなかったことが数多くあった。親日的な姿勢の背景にある様々な史実や、文化や自然の多様性といったことに関連するものが多いが、これらは、私にとってメキシコ再発見といえるものである。
 その中でもここでは特に以下の5つの点を紹介したい。
 

1.支倉常長使節団


 2013年及び2014年を「日墨交流年」とする旨両国首脳間で合意して頂き、様々な事業が実施された。これは、両年が、支倉常長使節団の日本出発、メキシコ到着のそれぞれ400周年に当たることを記念するのもであった。
 私も歴史の知識の中で支倉使節団の存在は知ってはいたが、そもそも支倉が何故メキシコ経由で、スペイン、ローマまで赴いたのか明確に認識していたわけではなかった。
 調べてみると、伊達政宗の支倉使節団派遣の目的は、仙台藩を日本の窓口としてアカプルコとの間に太平洋を越える貿易航路を樹立し、メキシコ経由で欧州との貿易ルートを樹立しようとしたものであった。当時の宗主国であり太平洋貿易をガレオン船により独占していたスペイン国王の了解を得るためマドリッドに赴き、そして、伊達領でカトリックを普及するための宣教師の派遣をローマ法王に請願し、引き換えに法王からメキシコとの直接貿易の実現への助力を仰ぐべくローマまで赴いたということである。
 日本とメキシコとの間では、2005年に経済連携協定が発効しており、また、現在TPPについても両国は交渉当事国となっている。メキシコの戦略的重要性は不変であり、両者間の経済関係を発展させるとの政宗の夢は400年を経て経済連携協定として花開き、後述の日本企業の投資ブームにより実を結ぼうとしているといった表現を私のスピーチで何度も繰り返した。 交流年の直前に大統領に就任し、日本との関係を更に強化したいと考えるペニャ・ニエト大統領にとっても格好の舞台を提供したといえる。2013年4月の大統領訪日、同月の岸田大臣の訪墨、5月の宮城県代表団の訪問、14年1月の千玄室大宗匠の来訪と記念の茶会、3月の上院における記念式典、7月の安倍総理訪墨、10月のセルバンテイーノ国際芸術祭への日本の招待国参加、秋篠宮同妃両殿下のご訪問、同月末の日墨大学長会議そして関係各州での日本週間、姉妹都市・県の知事や市長の訪問等様々な行事の場で支倉使節団の話は何度も繰り返され、日墨間の歴史に裏打ちされた特別な友好の絆についてメキシコの方々の理解も深まったのではないかと思う。
 改めて、伊達政宗の構想の大胆さに感銘を覚えるが、様々な資料を読むと、支倉使節団については、いろいろ疑問も生じてくる。政宗は、徳川幕府の了解を得て支倉を派遣した
 とされるが、伊達領でのカトリックの普及のための宣教師派遣の要請まで幕府が了承していたとは思いにくい。政宗がスペインと軍事同盟を結んでキリシタンの力を借りて幕府に対抗しようとしたのではないかとの見方や支倉は欧州の実情を調査する密命を帯びていたのではないか等、学者の間には、使節団の真意を巡って論争もある。また、使節団の何人かがメキシコに残留し、また、使節団との関係は判然としないが17世紀中期にメキシコでのビジネスに成功を収めた日本人の記録も別途残されている。
 いずれにせよ、同使節団は、400年後に日墨友好を深める重要な機会を提供したことは間違いない。このような成り行きに一番驚いているのは、当の伊達政宗や支倉常長自身であるかもしれない。

2.堀口大學とメキシコ


 詩人の堀口大學は、1909年から1913年まで在メキシコ代理公使を務めた外交官堀口九萬一の息子であり、父親に呼び寄せられて18か月間メキシコに滞在している。当時は、30年間の独裁を続けたポリフィリオ・デイアスに対し立ち上がったメキシコ革命が成功し、革命の英雄であるフランシスコ・マデロが大統領に就任した直後であった。しかしながら旧勢力の巻き返しがあり、1913年2月9日朝からメキシコ市は、反革命勢力の蜂起により騒乱状態になる。その日の午後、予てから堀口公使一家と懇意であったマデロ大統領の夫人、両親など30人余りが身の危険を感じて日本公使館(公邸も兼ねていた。)に庇護を求めて逃げ込んできた。堀口公使はこれを快く受け入れた。外務本省も、大統領一族が公使館で政治的活動をしないことを条件にそのまま保護して良いとの指示であった。15日になって、反乱軍が公使館を襲撃するとの噂が伝わり、その日の深夜大統領の両親等は自発的に公使館を退去し大統領官邸に戻ることにしたが、堀口公使は砲弾が飛び交う中、公使夫人と息子(大學)を付き添わせた。18日に至り、マデロ大統領は反乱軍側に拘禁され、反乱軍側に寝返ったウエルタ将軍が事態を掌握する。22日には、大統領自身が暗殺され、ウエルタ将軍が大統領に就任することになり、メキシコ革命は暫く頓挫することになる。堀口公使は、とりあえずウエルタ政権とも良好な関係を保つも、数か月後には帰朝する。
 これらの経緯は、九萬一自身が記した「メキシコ革命騒動体験記」、そして堀口大學が記した随筆集の中に「悲劇週間」というタイトルで克明に記録されている。この日本公使館がマデロ一族を保護した史実は、現地日系人協会の資料には美談として紹介されているが、日本国内、更にはメキシコ国内でもあまり知られていなかったのではないか。ただ、日本では、作家の矢作俊彦が同じ「悲劇週間」という題名で当時の堀口大學を主役に革命と恋愛をテーマとした長編小説を書いており、柏倉康夫の「評伝堀口九萬一・敗れし国の秋の果て」といった著作もある。九萬一は、その後ブラジル公使時代に、日露戦争に際しロシアを出し抜いてアルゼンチンから軍艦2隻を購入することに成功するなど、外交官として注目される活躍をした人物である。この2月には、メキシコ上院でマデロ一族の庇護について日本に対する感謝決議が採択されたとの報に接した。そして、7月に参議院議長の招待でバルボサ・メキシコ上院議長一行が訪日した際、同議長より、在京大使館に堀口九萬一と日本国民に感謝の意を表するプレートが寄贈された。100年を経て日墨友好を支える史実が改めて脚光を浴びたことは極めて喜ばしい。ちなみに、新任のアルマーダ・メキシコ大使夫人は、マデロ大統領の弟のお孫さんである。

3.日墨医業自由営業協定


 この協定は、1917年から1928年まで効力を有していた二国間条約で、医師、歯医者、薬剤師、産婆、獣医の5つの業種については、いずれか一方の国の免許を有している者は、他の一方の国においてその翻訳証明をもって自由に開業することができるという内容である。メキシコは、1897年、中南米で最初に日本人が組織的に移民を行った国であるが、1899年にはペルー、1908年にはブラジルへの移民が開始されている。日本政府は、日本人移民支援の観点から、この3か国に対し同様の内容の提案を行ったが、メキシコが応じたのに対し、ブラジルは断り、ペルーからは回答がなかったとの記録がある。当時、メキシコはメキシコ革命の余韻も冷めやらず、医者が不足していたのであろう。この協定により、多くの日本人医師等がメキシコに移住し開業することとなった。協定の効力は10年とされ、延長も可能であったが、10年たってみるとメキシコで開業した日本人医者、歯医者等は日本政府が把握したものだけで少なくとも65人に及ぶのに対し、日本で開業したメキシコ人医師等はゼロであった。メキシコ国内からこれは片務的な条約であるとの批判が出され、条約の廃棄通告が出されてしまった。廃棄の効力は、1年後に生ずるが、この間に日本外務省は、協定の下で一旦開業した医師等については、既得権としてその後も営業を認めてもらいたいとの交渉を行い、メキシコ側はこれを認めた。その結果として、今日に至るまで現地日系人には親を継いで医師や歯科医を職業としたものが多く、過去には医学学会の会長や保健大臣に就任した日系人医師も輩出した。現在でも、日本で研修経験があり、日本語堪能な日系人医師も多いので、在留邦人にとっては安心できる要素であるといえる。私自身、在勤中に急性虫垂炎にかかり、現地で緊急手術を受けたが、その際の内科の担当医は日本語堪能な日系人の方で、大変心強く感じたものである。
 昨年8月には、大使館の働きかけで日系人医師会医療セミナーを開催し、併せて、日本の医療機器や医薬品の展示会を開催しプロモーションの機会としても活用した。その端緒となった日墨医業自由営業協定については、寡聞にして着任するまで知らなかったが、如何に昨今のEPA/FTAブームとはいえ、今日ではまず実現困難な協定であろう。良好な健康管理の体制は投資環境の重要要素であり、この協定は100年近くを経過して日系人医師の存在という資産を残してくれたわけである。

4.自動車生産拠点としてのメキシコ


 2011年5月にペルーからメキシコに転勤の途次、本邦に立ち寄った際も特に日本からの企業進出が活発化するとの話は特に聞かなかった。ところが、6月に入り、マツダがメキシコに年産20万台の初の工場を建設するとの発表があり、その発表式で未だ信任状を提出する前であったが、当時のカルデロン大統領ともご挨拶する機会ともなった。その後、8月にはホンダが年産20万台のメキシコ2つ目の工場を建設するとの発表があった。更に、2012年1月には、日産がメキシコで3つ目の工場を設立するとの発表が行われ、これで、堰を切ったように自動車部品を中心とする企業の新規進出が続いた。
 この背景は、欧州金融危機による異常な円高、タイの洪水、日中関係の悪化、東日本大震災のサプライチェーンの断絶等により、グローバル企業はリスクの分散に経営戦略を切り替えたためと考えられる。どうして投資先がメキシコかといえば、政治的な安定、自由で開放的な経済政策、1億人の国内市場に加え世界最大の消費市場のアメリカに隣接し、特にNAFTAをはじめとする43か国とのFTA の存在といったメリットがあった。NAFTAの関係で米国市場向けの日産、フォルクスワーゲン、ビッグ3の工場が既に進出していたので、もともと自動車企業進出の素地はあった。ローカルコンテントの確保、また、コスト削減の観点からも部品企業が現地生産に踏み出すことは自然である。メキシコの人口構成の上で、国民の平均年齢が20代の後半であり、今後20年近く労働人口が増え続けること、賃金の上昇も顕著ではないこともプラス要因である。このような日本企業の自動車関係投資ブームは、さらに鋼板・プラステイック等の原材料・機械、流通、建設、金融等の分野にも波及が見られた。私の在勤中、日本から、毎年100社以上、3年間で300社以上の新規進出があり、既存の工場の生産力増強も含めメキシコ着任後少なくとも70億ドル以上の新規投資が発表され、メキシコの経済活性化、雇用機会の提供にも大きく貢献した。
 前述の3つの新しい工場はいずれもメキシコ中央部の中央高原地帯に立地しており、関連企業の進出も集中し、同地域では在留邦人の数も急増した。同地域に位置するレオン総領事館の新設が要請開始2年目にして実現の見込みとなったことも大変時宜を得たものとなった。 3年前には新規投資に慎重であったトヨタもこの4月にメキシコで初の乗用車工場の建設に踏みきり、自動車部品企業の進出ブームはもうしばらく続くであろう。 自動車製造拠点としてのメキシコを再発見した自動車関連企業の決断の背景には、長年の二国間の友好関係も考慮されたであろう。

5.自然と文化の多様性の宝庫


 メキシコには32件のUNESCO世界遺産がある。マヤ・アステカの古代遺跡群、スペイン植民地時代に建設された中世コロニアル都市、そして現代のメキシコ芸術を象徴する
 壁画などの種々の文化遺産、生物多様性に富む自然遺産などを含む。また、各地の先住の
 お祭りなど多様で楽しい。
 特に、11月1日に花を飾りお供えして夜を明かし先祖と対話する「死者の日」の行事、オアハカのゲラゲッツアの踊り、チアパス州チアパ・デ・コルソのチャパネコの祭り、サンルイス・ポトシのセマナ・サンタ(イースター)の行進など、いずれも色彩に富み個性豊かで素晴らしいものがある。
 自然の魅力もカンクーン等の美しいビーチやグランドキャニオンにも劣らないチワワ峡谷のような自然の景観に限られない。毎年カナダからはるばる到来する何十万羽のモナルカ 蝶が群舞する光景は壮観である。またトラスカラ州には、ホタルが群舞する場所もあり、生物多様性の魅力も大きい。メキシコ料理でも、タコスやモレに限られず、ウイトラコッチェ(トウモロコシに生えるキノコ)、エスカモーレ(蟻の卵)等、多様なのである。

6.将来への期待

このような魅力に富むメキシコの唯一の難点と言っても良いのが治安の問題であろう。麻薬組織が暗躍する米国国境沿い等の一部の特定の地域が特に危険である。一般犯罪も他の途上国並みに発生する。しかし、これらの問題については、危ない所に近寄らない、車にものを置かない、戸締りはしっかりする等、犯罪被害に巻き込まれるリスクを最小化することはできる。私の在任中は、幸いなことに邦人が被害者となる殺人事件や誘拐事件は起こらなかった。現在メキシコ政府が注力している諸改革に成功を収め、治安対策が徐々に成果を上げ、豊かな資源とオープンな経済政策により、政治、経済、文化・学術、地域間交流の様々な面でメキシコが日本にとって更に魅力あるパートナーであることを益々多くの方々が再発見されることを願って止まない。 (了)


『ASEANの劣等生?フィリピン』
2015-06-12

『ASEANの劣等生?フィリピン』


  • urabe

卜部 敏直 
(前駐フィリピン大使)


●最初に


 昨年9月に帰朝して以来、いろいろな方にお会いしました。その際に感じることは皆様が「フィリピン」という国に対して悪いイメージを漠然と持っていることです。政治的、経済的な混乱、若王子誘拐事件、保険金詐欺事件、クーデター、ミンダナオ島のムスリム闘争等々どうしても物騒なイメージが頭をよぎるようです。しかし、変化しないことが最大のリスクだとも言われています。そこで在比大使として3年余を過ごした実感を霞関会に寄稿することを思い立ちました。
 確かに、アジア経済危機の90年代以降フィリピンはASEANの劣等生と称されるだけの実績しか挙げてこられませんでした。しかし、ここ数年でフィリピンは投資先としてにわかに注目されてきたのは事実です。私がフィリピンに赴任した2011年5月頃は日本ビジネス界の関心は殆どゼロと言うのが挨拶回りした時の体感温度でした。しかし、同年末にはインドネシア、ヴィエトナムと並ぶ有望投資先(VIP)としてもてはやされるようになりました。その変化は劇的でした。
 本稿では大使として在勤中に知りえたフィリピン経済の魅力をご紹介するとともに、だからと言ってバラ色の世界が待っているわけではない国情の一端、そして今後の日比経済関係の展望につき皆様にご紹介できればと思って筆を執りました。
 

●フィリピン国事情


 まず、釈迦に説法とはこのことと思いますが本稿の前提となるフィリピンの基本的な事情を確認したいと思います。
 フィリピンは七千の島々で構成される島国です。我が国は三千余です。我が国同様太平洋のリング・オブ・ファイアに位置し火山活動が活発で台風被害も多い地勢です。我が国からの飛行時間は4時間半です。16世紀にスペインが植民地としてキリスト教を布教した結果国民の大多数はキリスト教徒です。回教徒は7%程度です。そして米西戦争の結果19世紀末に米国の植民地となります。米国支配の大きな遺産が英語で現在もフィリピン語と共に英語が公用語です。
 太平洋戦争では真珠湾攻撃直後に日本軍はクラーク空軍基地を空襲、翌1942年5月に駐比米軍は降伏、1944年に米軍はレイテに反攻上陸、終戦まで戦闘は続きました。その間、比人は110万人、日本軍は50万人が亡くなりました。当時人口1,700万人のフィリピンにとって太平洋戦争の人的被害は極めて大きなものでした。総人口比では最大の被害国かもしれません。
 戦後の冷戦では反共連合の要としてASEAN設立時のメンバーとなりました。1960年代から70年代はASEANで経済的な優等生でした。しかし、マルコス独裁政権の下で資源配分が歪曲され、ミンダナオ島のモロ解放戦線の活動が活発化する一方、クーデターが頻発し政治的にも混乱、1997年のアジア経済危機以降はASEAN諸国の中で投資先としての魅力が薄れていきました。
 

●近年フィリピンが注目される背景


 さて、そのようなフィリピンが何故再び経済界の注目を再び集めるようになったのでしょう。
 [ チャイナ・プラス・ワン ]
 やはり中国台頭の光と影が大きいと考えます。中国は短期間に「世界の工場」と言われるほどの驚異的な発展を遂げた一方、労賃などの内部経済コストとともに、公害等の外部経済コストが高くなっています。更に、平和的な台頭を唱えつつ経済力のみならず軍事力、経済力を誇示して自らの主張を押し通そうとしています。このため中国の経済パートナーは政治的なリスクを徐々に認識しはじめています。そこで注目されたのが周辺で開発が遅れて伸びしろの大きい国々です。VIPと称されるヴェトナム、インドネシア、フィリピン、というわけです。もっとも、マニラではVery Important Philippinesと理解しています。
 [ 国内改革路線 ]
 一方、フィリピンにおいては2010年7月にアキノ政権が発足します。前アロヨ政権時代の汚職横行に辟易としていた民意が選出の要因の一つでした。アキノ大統領は「汚職をなくして成長を」、と唱え、前政権のインフラ事業の見直し、公共事業の入札制度の刷新、ゼロ・ベース予算編成、予算執行のインターネットによる可視化などの政策を進めています。副作用として公共事業の執行遅延、入札見直しに伴う混乱などが見られます。しかし、全てが透明化されたわけではないものの行政機構、ビジネスの意識改革は進んでいます。結果的に予算や資源の効率的利用が進んでいます。過去の政権は選出後数年を経て支持率が低下していきましたがアキノ政権は6割前後の支持率を維持してきました。(但し、今年に入ってマレイシアから逃亡していたテロリストを狙った作戦が警察特殊部隊に多くの犠牲者を出したために直近では支持率は5割前後になっています)
 [ 人の力 ]
 フィリピン経済最大の魅力は人です。戦後1,700万人だった人口は今年ついに1億人に達しました。平均年齢22.7歳。扶養人口である15歳以下の子供が多いので人口ボーナスを享受するのはこれからです。2050年には労働人口が現在の4,800万から1億に達します。更に、英語が公用語であり、どこでも働く意欲があるので世界中で仕事を見出しています。労働市場が国内に限られないのです。出稼ぎ労働者は1,000万人を超え、仕送りはGDPの1割に達します。この資金は留守家族の生活費に使われ消費や住宅建設を通じて経済活動を押し上げています。毎年GDPの1割相当の経済対策が打たれているようなものです。その上、人口が増加していますから2012年、13年には年率7%前後の経済成長を実現しました。

urabe

 

●フィリピンのビジネス環境


 フィリピンが二国間経済連携協定を結んでいるのは我が国とだけです。我が国がフィリピンにおいてどのような位置づけかを示しています。経済連携協定ではとかく関税率の引き下げが注目されがちです。しかし、私見では日比EPA(Economic Partnership Agreement)の大きな成果は協定に基づき設立されたビジネス環境整備小委員会です。在比大使はこの小委の日本側議長として在比日本商工会議所会頭とともに比の貿易産業省次官が率いる比官民の代表と半年に一回協議する機会があります。
 主な論点は以下の点でした。
 [ 統治の一貫性、予測可能性、透明性 ]
 比側との協議ではこの三点を一貫して主張し続けました。政権の交代に伴い政策が変更されるのは何処も同じとはいえ過去の政策決定を尊重してもらわないとビジネスになりません。付加価値税還付の遅れ、無償援助に対する地方自治体の課税、投資優遇措置を見直しにより既に進出した企業に負担を求めるなどの事例を取り上げました。特に、既存の手続きを見直した上で遡及適用しようとする事例は離任直前に起きた大問題で今後の展開を心配しています。
 比ビジネス、行政責任者の多くや弁護士事務所などは我が方に理があることを認めます。比政府も努力をしており、投資税還付の制度改革などを進めており、銀行業の認可枠拡大を短期間で仕上げるなど、認可手続きの簡素化、迅速化に目標値を設けています。世界ビジネス環境ランキングにおいてフィリピンは徐々にランクを上げているのも事実です。しかし、問題の解決に多くの時間を要しているのが実情です。
 [ インフラ ]
 JICAの調査によればマニラでは交通渋滞により1日24億ペソ(2012年換算:約55億円/日)の無駄が生じています。インフラ未整備の問題は、道路の渋滞に限らず、港湾荷役や空港の利便性など現地企業の日々の業務に大きな影響を与えています。小委員会では毎回インフラ改善の必要性を訴え、政府の取り組みと今後の方向性を問い詰めました。
 政府も問題があることを認識しています。そもそもアキノ政権は少ない財源で公共投資、インフラ整備を推進するためにPPP(官民パートナーシップ)を提唱して選挙運動をしたわけです。政府は公共事業のGDP比を2010年の2.5%から2016年に5%に引き上げる野心的な計画を立てています。しかし、問題解決には時間がかかります。根の深い問題です。土地登記、裁判制度、政治の介入、不法居住者、官僚機構の脆弱などなど様々な要因が複雑に絡まっています。一朝一夕に問題は解決しない前提で対比投資をする必要があります。
 [ 電力 ]
 周辺国に比して高い電力料金は企業が投資をする上で大きな問題です。特に好調な経済により需要曲線は上振れしやすいのに対し、発電所建設の認可手続きや工事に要する時間の制約があって供給曲線は硬直的です。2015年春は需給がひっ迫することが懸念されます。この点は、三年前に小生着任時から我が方より問題提議していました。
 しかし、事の発端はマルコス政権が需要の三分の一の供給を予定していた原子力発電所を1986年の民主革命後にキャンセルしたことに始まります。このギャップを埋めるために電力を民営化して民間投資を呼び込んだ結果、高い電力料金として経済活動に跳ね返ってきています。政府は更なる民営化を通じて問題を解決しようとしています。しかし、巨額の投資を長期に回収して低廉なサービスを国民経済に提供するのが公共事業の本来の役割です。これを長期的なリスクをとれない民間投資を絡ませると自ずとそれなりのコストがかかります。ましてや、公共事業の蓄積がある先進国とフィリピンのような開発途上国を同列に公共事業に民間資本を招くメリットに疑問を感じます。
 以上の通り、率直に申し上げてビジネス環境改善のカギを握る、統治、インフラ、電力のボトルネックは長い目で見た対応が必要だと感じます。
 

●今後の展望


 このように書いてまいりますと、「では何故フィリピンに投資するのだ?」という疑問を持たれるかもしれません。そこにフィリピンのビジネス・チャンスがあると思います。
 まず、最初に言えることは統治、インフラ、電力の問題は何処の開発途上国でもある問題です。フィリピンは民主主義体制の下で事態を改善する動きが進んでいます。その先を見るとフィリピンは我が国に地理的に一番近いASEANの国です。また、人口が1億に達しこれから人口ボーナスを迎えるという展望があります。更に、「量」だけではなく英語を公用語とするために世界の労働市場で活躍できる「質」があります。
 具体的な例をあげましょう。今やフィリピンはBPO(Business Process Out-sourcing)のヴォイス(コール・センター等)ではインドを凌駕して世界一の座を占めています。わずか1億のフィリピン人が12億のインドに対抗できる力があります。ノン・ヴォイス部門(ソフト開発、CAD[コンピューターによる設計支援]のインプット、取引帳簿の整理、カルテのインプット等)でも有力な投資先です。すでに多くの日本企業がこの分野で投資しています。日本の海員の7割を比人が占めていることは良く知られている事例です。すでにエンジニアや機械整備で比人を養成して世界の現場で活用している日系企業もおります。
 別の言い方をすれば、通例、開発途上国は豊富な資源と労働力に外資が資本や技術や販路を提供して輸出を通じて経済を発展させていきます。しかし、どうもフィリピンはこの一般モデルに当てはまらないようです。インドも似ていますが「人の力」を利用してサービス産業を足掛かりに国が発展させようとしています。このような視点に立てばフィリピンは経済開発の劣等生なのでしょうか。むしろ、伝統的な型にはまらないので評価は低い、しかし、国情に合った経済発展モデルを作り上げつつあるともいえるのではないでしょうか?
 

●政治的側面


 最後に政治リスクについて。
 良く聞かれるのは「フィリピンの大統領制の下で政権交代により政策が大きくぶれる」ことへの懸念です。確かに政策のブレに振り回される面があります。その点を否定するつもりはありません。他方、それは何処の国でもあるリスクですし、フィリピンにおいては政策の振幅は徐々に小さくなっているように思えます。現政権はインターネットの活用により行政の透明性を高め、改革を定着させようとしております。経済のグローバル化と経済連携の進捗があります。民主主義の強固な基盤のあるフィリピンではビジネス環境改善の方向性は持続すると考えます。
 

●結びに


 以上、比のビジネス環境改善に現場で取り組んできた経験から、我が国とフィリピンの互恵的な経済関係は以下の点に集約されると思います。
 急速に少子高齢化が進み労働力不足が顕在化している我が国にとり若く、英語を話す労働力が豊富なフィリピンとの経済相互補完関係は自明です。
 ①地理的に近く、災害の多い島国特有の文化的特性が日本人と親和性を持っていること、②太平洋戦争で多くの犠牲を払ったのにも拘らず歴史を乗り越え世界で一、二を争う親日国になったこと、③外交につき共通の価値観を持っていること、を踏まえればフィリピンは政治社会面でも我が国のビジネスにとり、またとなき良きパートナーだと確信しております。
 しかし、ビジネス環境は理想的とは言えないので腰を据えた取り組みが必要です。重要なことは安い労働力を現地で活用する既存のモデルに囚われずにフィリピンの長所を見極めたビジネスモデルを構築することだと思います。統治、インフラ、電力の問題解決には時間がかかる前提で対応しつつ、短期的には比の労働力をいかに活用するかという視点が重要だと感じます。


『ミャンマー政治改革の行方』(第3回)
2015-04-23

『ミャンマー政治改革の行方』(第3回)


  • 熊田 徹

熊田 徹 
(元在ミャンマー大使館参事官)


 ミャンマーではここ数年間、国際社会の後押しを得て政治経済改革が進められて来たが、民主化推進の大きな結節点となる今年11月の総選挙を控えて、さまざまの動きがめまぐるしい。
 総選挙の公明性確保のため、内外から批判の多い2008年憲法の改正に向けた国民投票が5月に予定されており、また、独立以来激しい紆余曲折を経てきた少数民族武装反乱勢力のうち16の組織の代表達と中央政府との間の全国統一的停戦協定の草案が3月末にヤット合意できた。 
 だが、いくつかの組織の足並みがそろっておらず、その署名はミャンマー正月明け以降に持ち越されている。一方、東北部の中国系少数民族で、この協議に参加していないコーカン族の武装組織が国境を越えた中国領内の同族グループとの間で行っているヤミ経済活動を取り締る国軍との間で武力衝突が発生して国家非常事態が宣言され、一時は中国との間で外交問題化しかけた。西部のラカイン州でも、イスラム系「ロヒンギャ」の市民権問題解決が宙に浮いているだけでなく、仏教徒との間の暴力沙汰が絶えない。
 
 憲法改正の焦点となっているのは、国軍の特権的な地位と大統領被選挙資格要件に関する諸条項で、スーチー女史が国際社会の世論を背に一貫して非民主的として批判してきた。女史は今年4月上旬、ロイター通信とのインタービューで、自分の大統領就任を妨げている第59条の取り扱い次第では総選挙をボイコットすることをほのめかせた。一昨年末の「ボイコット発言」と同じ戦術らしいが、同女史の一種高圧的な言動には国民の間からだけでなく英米のマスコミからも、「大統領に選ばれた場合にどんな政治を行うのかが不明」など、批判の声も聞こえてきている。昨年11月8日付英国エコノミスト誌は、匿名の米国人官僚によればオバマ大統領が、同月初旬ミャンマー訪問を前にしていた時点で、「選挙の公正さを求めはするが、スーチー女史の大統領選出への道確保にはもはやこだわっていなかった」由を伝えている。
 少数民族問題についていくつかの問題を残しながらも、民主化改革のかなめである国民和解に向けての前進が見られる一方、従来非常に高い期待がかけられてきたスーチー女史の政治的位置に疑念が生じてきた、というのが現時点の状況といえよう。 
 ここで、今後のミャンマーの「開かれた民主主義」にとって重要な役割を担うべき最大野党の指導者としての同女史の動向にも留意しつつ、ミャンマー政治改革に向けての主な課題と思われる二・三の点に触れてみたい。
 

憲法法改正についての目下の注目点


 憲法第59条は大統領の資格要件として、d項で「連邦の行政、政治、経済、軍事などの諸事情に十分通じていること」を挙げ、f項で「配偶者、子供が外国人ではないこと、外国への忠誠を負わされていないこと」などを挙げている。両項とも女史にははなはだ不利だが、テインセイン大統領は昨年初頭の国民向け放送で、「市民の誰でもが大統領になれるようにすべき」とか、「憲法は必要に応じ随時修正すべき」、とのきわめて柔軟な考えを示している。だが、「国益や国家主権は守り、政治危機は回避すべき」と釘をさす一方、本年3月には「国軍は民主化への移行を支えるための役割を維持するが、いずれは文民に政権を譲る」と述べている。現行憲法は、ミャンマーが、内戦状態が続くだけでなく2008年の「サフラン革命」のさなか、外部からの制裁介入にも備える必要をも盛り込んだ「危機管理憲法」として作られたという、特異な性格を持っている。
 外部介入の恐れがほぼなくなった以上、59条f項は不要としても(軍人層には異論があるが)、少数民族反乱組織の問題が残っている以上、d項の廃止には国軍からの強い抵抗がありえよう。この点についてのスーチー女史や議会、諸政党、国民一般の考え方はまだ十分明らかではないが、憲法改正や総選挙に際しては争点の一つとなりえようし、国軍の機能に関する他の諸条項の改正も、若干の条項を除いては、少数民族問題の解決、つまり現行憲法が重視する「国家・国民の分裂」状況の解消を待たざるを得ないだろう。逆に見れば、この点でのスーチー女史の政治的貢献度如何も憲法改正や総選挙の際の争点の一つとなりえよう。
 

歴史認識とイデオロギー:「我々の民主主義」と「真の民主主義」


 少数民族問題は、ミャンマー独立運動以来の難問であり続けてきた。現行憲法の前文は、スーチー女史の亡父アウンサンが知的にも情熱と時間の上でも最大限のエネルギーを注いで制定にこぎつけた1947年憲法について、「急いで起草されたこの憲法下での民主主義は効果的に機能しなかった」と回顧している。
 周知のように、ミャンマーの独立戦争は、日本が支援した「ビルマ族」と連合国側が動員した多数の「(非ビルマの)山岳地少数民族」との間の代理戦争とでも表現し得る側面を有するものでもあった。だから戦後の「ビルマ独立」に際しては、これら多数の民族間の和解協力関係の構築が不可欠だった。にもかかわらず、そのためのパンロン会議参加民族の代表を選んだ英国の「辺境地」担当官僚は、カレン、シャン、カチン、チンの代表を召集したが、アラカン地区からは代表を呼ばなかった。アラカン族は地理的にインドとの関係が深く、インドが英国からの独立に際して、ヒンズー系インドとイスラム系パキスタンとに分離することとなった際、アラカン族中のイスラム教徒がビルマから分離してパキスタンへの帰属を画策していたからである(このアラカン族の問題は改めて、「ロヒンギャ」問題として後述する)。カレン族も、長年の英国の愛顧に依拠してビルマ族からの分離独立を画策する、キリスト教徒系の主要勢力(現在のKNU)がパンロン会議をボイコットし、カレン族は弱小代表が参加したのみであった。
 もう一つの問題が、「ビルマ共産党(BCP)」の反中央闘争である。第二次大戦中、ビルマ族は共産主義者を含め一致団結していたが、戦後はイデオロギー的、政策的亀裂ゆえに他の少数民族まで巻き込んでの武装対決にまで発展し、東西冷戦期には中国共産党軍と国府軍との内戦関係にも巻き込まれた。そのうえ、麻薬産業とその密貿易の要素も加わって、ミャンマーの政治経済を麻のごとくに乱れさせた。このBCPは1988年の民主化運動に際してNLDの中央委員会内部に入りこむだけでなく、当時のミャンマー事情にほとんど通じていないスーチー女史の指南役として、イデオロギー的なレトリック戦術を駆使して彼女を党利のためにフルに利用した。そして、憲法改正により1947年憲法体制に近い複数政党制への転換を志していたネーウィンの軍事政権との対決構造を作り上げ、民主化運動に決定的な影響力を行使した。
 このようなBCPのイデオロギー的工作手法の詳細は、本ホームページの「論壇」での昨年5月12日付拙論「ミャンマー政治とスーチー女史―四半世紀を母国に捧げてきた道徳的政治家―」で触れたのでそれをご参照願うこととし、一つだけ、スーチー女史が1989年以来重視し続け最近でも言及している「真の民主主義」をアウンサンがどう位置づけていたかに触れておきたい。
 アウンサンは独立準備過程において、「我々のビルマに適した民主主義」を模索し、憲法制定に備えて行った演説で「古い(帝国主義的ないしレッセフェール的)民主主義」を退け、「新しい民主主義」を選び、それを「真の民主主義」と表現した。だが、それは、国民経済が外僑支配下に置かれ、しかも民族間対立の問題を抱えていたがために、緩やかな「連邦制=federation」ではなく、諸民族がしっかりと連合した「統一体としての連邦=union」を目指すものだった。ところがその憲法体制は前述のとおり機能しなかった。東西冷戦の荒波が運んできた少数民族問題への外部介入に対する防衛策としてミャンマー政治が軍事化されてしまったがために、1974年の一党独裁制憲法と2008年の「危機管理憲法」体制に導かれ、「我々のビルマに適した民主主義」も「真の民主主義」も先送りされている。問題は、アウンサンのいう「真の民主主義」の本旨が「我々のビルマ(ミャンマー)に適した民主主義」であったということである。テインセイン大統領が「国軍は民主化への移行を支えるための役割を維持するが、いずれは文民に政権を譲る」と言う意味は、アウンサンが果たせなかったこの「ミャンマーに適した民主主義」にいたる過程での政権と国軍の責務を指すものと理解できよう。
 一方で、気にかかるのはスーチー女史の用語法である。
 女史は、民主化運動最中の1989年6月に、ヤンゴン管区で青年達を前にして「不当な軍権力に対しては義務として反抗せよ」と演説して国軍の分裂を計った。その際女史は、「現在は『真の民主主義』という言葉の代わりに『ミャンマー国に見合った民主主義』と言う言葉を使わなければならないのだと、ある集団が言っているのを耳にするが、きわめて危険」といっているのである。そして、「私は『ミャンマーに見合った民主主義』という言葉を全く認めることができません」とも付け加えていている。これは明らかに、BCP系のレトリックと同じである。それから四半世紀の今日、女史が同じ意味で「真の民主主義」という語を用いているとは思えないが、やはり少々気にかかる点である。
 

「ロヒンギャ」問題:市民権か民族権か


 少数民族問題を巡る和解と国民統合(現行憲法のいう「国家・国民間の分裂排除」)の行方について、国内だけでなく、タイにも数十万人の難民を抱えている上記カレン族は2012年に政府との停戦に合意済みである。加えて昨年には、和平プロセスの安定的促進の見地から、2015年以降もテインセイン大統領政権継続を希望するとの立場を明らかにした。つまり憲法第59条維持の立場であり、古い歴史認識に基づく従来の政策を変更した結果だといえよう。カチン、ワなど中国国境をまたぐアヘンや天然資源の密輸で食べている諸民族も、前述のコーカンを除いては何とか停戦にこぎつけかけており、軍事組織の扱いが難航してはいるが、代替経済構築が進めば安定化が期待し得る。こうしてみると、現在最も厄介な民族問題の一つとなっているのが、ラカイン州のイスラム系「ロヒンギャ族」の問題であろう。
 「ロヒンギャ(Rohingya)」を民族的存在として承認のうえ国際標準的処遇を与えるべきことを唱える国際NGOもあるようだが、ミャンマー政府は「ロヒンギャ」を民族としても正規の市民としても認めず、隣国バングラデシュからの不法移民として処遇している。いずれにせよ、仏教徒との対立関係や種々の規制か結果する人権侵害状況が政治的問題となっていることには変わりない。注意すべきは、これらイスラム教徒の相当数がミャンマー独立時に、ミャンマーから分離してインド(後の東パキスタン、バングラデシュ)に帰属することを目的として、「ムジャヒッヅ」という反乱組織を形成していたことで、その経緯は英国外交資料を用いたラカイン州出身研究者の論文で明らかにされている。この計画が東パキスタン側から拒否されたために「ムジャヒッヅ」から「ロヒンギャ」に組織名を変えたのだが、当初この名称を全関係者が受け入れたわけではなかったとの米国人研究者の記述がある。また、あるインド人研究者の1992年の著作によれば、その多くは非定住の季節労働者や、飢饉の際に国境のナフー河を渡って豊かなコメ産地のラカイン州に食料を求めて大量流入を繰り返す一時的避難民で、長年両国間での国境管理問題となっていた。他方、信頼できる資料によってみる限り、「ロヒンギャ(またはロヒンガ=Rohinga)」称する「人間集団」はいるがロヒンギャとかロヒンガという「民族」は存在しないようである。世界各地の民族言語を集めた米国の出版物Ethnologueの比較的最近の版(たとえば2005年の第15版)では、バングラデシュで話されている、インド-イラン~インド-アッサム系語族に属するベンガル語の一方言であるチッタゴン語(ChittagonianBengali。話者数1千4百万。別途ミャンマーにも話者がいる)のうち、チッタゴン出自でラカイン州生まれのベンガル人ムスリム(ethnic muslim)のdialect(つまり「・・・訛り」ないし「・・・弁」)の話者を「ロヒンガ(Rohinga)」としている(Rohingyaは用いていない)。ミャンマーの項のチッタゴン語の箇所でもほぼ同様だが、そこでは、ロヒンガ話者を、バングラデシュからの数世代前からの移民とし、最近の「25万人の難民」にも簡単に触れている。一方、たとえば1992年の第12版にはなんらの記載がない。これらの版のいずれも上述の歴史的、政治的経緯や(言語と宗教以外の文化的・伝統的側面などの)民族学的ないし人類学的要素には触れておらず、十分な判断材料が乏しい。 
 また、第三者的にみるならば、たとえば「欧州少数民族保護枠組条約」や「少数民族言語の保護に関する欧州憲章」が定めているような意味での少数民族に対する法的保護義務を立証することができるのか、疑念がある。とりあえずは難民として保護しつつ、現行市民権法上の市民権資格の確認ないしは帰化手続きによる市民権付与というのが常識的処遇なのであろう。その意味では、テインセイン大統領がこれらの人々に「ホワイトカード(臨時の居住許可証)」を付与したうえで、今度の選挙での投票権もみとめたのは、ずいぶん寛大な措置だった。だが、これにはラカイン州住民が反対し、同州知事が憲法裁判所に提訴して、政府側が敗訴してしまった。
 一方、UNHCR(国連高等弁務官)の1995年度報告書は在ミャンマー「ロヒンギャ」難民25万人中に国外で軍事訓練を受けたムスリム2万人が紛れ込んでいると述べており、ここ2-3年でも、インドやパキスタンを拠点とするイスラム過激派が訓練したグループがミャンマーでテロ支援を行っているとの報道がある。いずれにせよ、「ロヒンギャ」と称される人々の法的身分を含め、処遇の改善が急がれ、日本や国連、国際社会が「人間の安全保障」の対象事業として、必要に応じ帰化や第三国移住促進のための教育プログラムなどに加えて、テロ予防策を含めた幅広い協力を行う余地があるように思える。
 

ミャンマーにおける政治と道徳


 大雑把ながらミャンマーの民主化改革と憲法改正問題の歴史的背景を通覧して強く印象付けられることは、「政治と道徳」の問題である。より正確にいえば、道徳と政治との間に介在する、あるいはその間をつなぐ、事実認識と十分に検証された政策が不可欠ということである。米国のミャンマー近現代史研究者間での歴史認識の差が、道徳的高みからの「人道制裁」を主張するグループとこれに反対するグループとに分かれていたがために、アメリカの世論が長年分裂していたことなどはその例だが、米国政策当局の内部でも同様だった。幸い、現在の米国の対ミャンマー政策ではこのような分裂が解消している。  
 スーチー女史も1980年代の民主化運動初期には、BCP系のイデオロギー的レトリックにしたがって、なんらのまともな政策論を打ち出すことなく、混乱した歴史認識に基づく道徳的判断をしてしまったが、今後についてはこの苦い経験をしっかりと生かしてほしいものである。5月の憲法改正が第59条f項をどう扱うにせよ、より重要なのはd項のはずであるから、今度こそ、亡父アウンサンの悲願を噛みしめたうえで、より確かな歴史認識に基づいた政策論で選挙戦を戦うことを望みたい。それが、最大野党の指導者としてのミャンマーの民主化改革における国民に対する義務でもあろう。たとえ大統領になれなくても、議会で政権与党との知恵比べや、政策の道徳的優劣の論争により政治の質的向上に寄与することは可能のはずである。
 今年2月9日付フィナンシャル・タイムズ紙は、同女史が「勇敢な兵士を探している(Suu Kyi’s search for ’one brave soldier’)」との大きな見出しつきで全1頁を費やしてこの点を批判的に論評している。その結論は、女史は大上段で変革について語るが、政権に就いたら何をなすのかとの質問に対して直接答えず、「選挙で戦うか否かさえ決めていないのだから、どんな政権ができるか答えようがない」との反応だったということである。そのとおりだとすると、1989年の「国軍は誰のものか」と民衆に呼びかけて国軍分裂を図ったBCP戦略と変わらないこととなってしまうだろう。
(2015年4月21日記)


『インドネシアの勤務を終えて』(第2回)
2015-03-05

『インドネシアの勤務を終えて』(第2回)


  • 鹿取克章

前駐インドネシア大使 鹿取 克章



1.ダイナミックな日インドネシア関係

 私は、2011年4月末から2014年9月末までの3年5カ月、インドネシアに在勤した。幸運だったのは、在勤が日インドネシア関係の新たな躍動期と重なったことである。日本の対インドネシア直接投資は、2010年の7億米ドルから2013年には47.1億ドルとほぼ7倍に拡大し、同年、日本はインドネシアにとって最大の投資国となった。2014年には多少減速したが、インドネシアにおける日本の存在感は再度高まった。投資の中心は依然として自動車関連であるが、中間層の拡大と共に、銀行、保険、医療、住宅、食品・飲料、コンビニ、大型店舗等投資の分野は広がっている。ユニクロは既にジャカルタに進出し、イオンは2015年に店舗を出す予定である。日系企業数も大幅に伸びており、2010年の約1,000社から2014年には1,763社に増加した。在留邦人も2010年の11,701人から2013年には16,296人と増加している。
 人の交流も増えている。2013年にインドネシアを訪問した日本人の数は479,305人であった。ピークの706,942人(1997年)には依然及ばないものの、近年着実に増加している。注目されるのは、インドネシアからの日本訪問者数の増加である。2011年には61,911人であったのが、2013年には136,800人に増加した。インドネシアのポテンシャルを考えるとまだ少ないが、日本に対する関心は特に富裕層を中心に明らかに高まっている。東京、京都、大阪のような定番の訪問地だけではなく、北海道から沖縄まで新たな観光地が探求されている。ゴルフ、スキー、温泉、料理、買い物等々様々な形で日本を楽しんでいる。最近ではインドネシア人の方がはるかに日本の高級料理店を知っていることに驚かされる。
 学術・教育分野でも交流は伸びてはいるが、インドネシア人留学生の数は依然として2,410名に過ぎない(2013年、うち国費生は630名)。留学生は、将来にわたり両国関係を支える重要な架け橋である。日本の各大学も努力を強化しているので、留学生が今後さらに増えることが期待される。他方、高校生を中心に日本語学習者の数は約87万人と大きく増えている。これは、中国に次ぎ世界第二位の数である。若い人たちの日本に対する関心を将来に繋いでいくことが重要である。
 山梨県、愛媛県、岐阜県、岡山県など地方自治体もインドネシアとの交流を強化しており、両国関係のすそ野が広がっている。
 日本とインドネシア間の旅客便も増加しており、現在、ジャカルタと東京を結ぶ便は1日6便ある。インドネシアと日本を結ぶ便は、週67便(日本航空は成田-ジャカルタが週14便、全日空はジャカルタ羽田を含め週14便、ガル―ダ・インドネシアは週39便)あるが、2015年にはガルーダ航空が名古屋便を就航させる予定である。


2. インドネシアの印象

(1)親日的国民
 着任後、多くの新鮮な印象を得た。第一は、日本に対する暖かい感情である。1958年に外交関係を樹立後、日本は一貫してインドネシアの安定を重視し、インドネシアは長年にわたり最大のODA供与国であった。また1967年の外資導入法成立後は、多くの日本企業が進出した。1974年1月の田中総理訪問に際しての反日デモも乗り越え、両国の経済関係は深化し、1990年から2013年までの累計では日本はシンガポールに次ぎ第二の投資国であった(1990年から2009年までの累計では、第一位)。緊密なビジネス関係は、両国の友好に大きく貢献した。日本車の割合は約95%、二輪は約99%である。近年では、ラーメン、カレーなどカジュアルな日本食店も増加しており、衣食住様々な分野で、日本の姿を見ることができる。
両国間の人間関係も緊密である。戦後の人的交流は、戦後賠償による留学生、研修生の受け入れで開始され、ギナンジャール氏のように今でも長老格として両国関係のために尽力している人がいる。その他にも、留学、JICA等の各種研修プログラム、企業の活動やプログラムを通じて日本滞在を経験した多くのインドネシア人が各界で活躍している。プルサダと呼ばれる元日本留学生の組織も、インドネシア各地で両国の架け橋となっている。
 日本人とインドネシア人は、感情面でも似ているところがある。インドネシアは多民族の国家であり、性格もそれぞれ異なるが、国民の4割以上を占めるジャワ人は、人前で怒りや感情を見せないことを徳とし、「Yes」、「No」を明確に言わない。誇りが高く、面子を重視する。また、横柄な姿勢(会談に際し足を組むなど)を嫌う。欧米人は、インドネシア人との接触に困難を感じているようであったが、「阿吽の呼吸」を理解する日本人は、インドネシア人との付き合いにおいて優位性を持っているのではないかと感じた。インドネシア人の日本に対する評価は高い。2013年のBBCの国際世論調査では、インドネシアは、調査対象25か国の中で日本を最も高く評価(82%が日本は世界に良い影響を与えていると評価)した。2014年調査でも概ね類似の結果が得られている。

(2)社会の多様性
 インドネシアは、非常に複雑で奥が深い。1万3千以上の島々からなり、300以上の民族、2億4000万人の人口を抱えている。ムスリムが約9割を占めるが、イスラムは国教ではなく、キリスト教、仏教など他の宗教も認められている。この多様性故に、インドネシアにおいては国家の一体性を守るために様々な努力が払われている。1928年に、最も多くの人が話していたジャワ語ではなく、比較的覚えやすいインドネシア語(Bahasa Indonesia)を国語として選んだのも、インドネシアの一体性を維持するためであった。インドネシアの国家原則であるパンチャシラ{建国5原則。「唯一神への信仰」(㊟イスラムに限定されない)、「人道主義」、「インドネシアの統一」、「民主主義」、「社会的公正」)及び国の標語である「多様性の中の統一」(bhinneka tunggal ika)は様々な機会に言及される。
 インドネシア人は、国家の一体性にかかわる問題に敏感である。また、社会における融和を常日頃から重視している。ジャカルタでは常にパーティや集まりがある。ブカプアサ(断食期間中の日没後の夕食会)、レバラン(断食月明け大祭)、中国正月等におけるオープンハウス、結婚式、結婚記念日、誕生日、出版記念パーティ等々である。社交は、お互いの気配り、目配りを反映しており、人々はできるだけ顔を出すよう努力する。ゴルフも盛んであり、ゴルフ場は極めて重要なネット・ワーキングの場である。この活発な社交が、奥の深いインドネシアの様々な仕組みを機能させる潤滑油になっている。女性も重要な役割を果たしている。主婦も家事に縛られることなく、サークルやチャリティグループなどで活動している他、社交にも活発に参加している。お互い常にフェイスブック、SMSで連絡を取りあっている。


3. インドネシア情勢

(1)ハビビ、ワヒド、メガワティ大統領の時代(1998年~2004年)
簡単にこれまでの動向を概観したい。1998年5月21日、スハルトが退陣した。その後の約6年にわたるハビビ、ワヒド、メガワティ大統領の時代は、民主化の始動期ともいえ、4次にわたる憲法改正を通じ、大統領の直接選挙、地方自治の強化(州知事等の直接選挙導入)等民主体制強化のための多くの進展が見られた。また、テロ対策の強化が図られたほか、東チモール問題の解決、汚職撲滅委員会の設置、中華系住民の権利の回復等様々な重要な取り組みが行われた。

(2)ユドヨノ大統領の時代(2004年―2014年)
 2004年、ユドヨノ大統領が初めて直接選挙で選出された。10年間にわたるユドヨノ政権は様々な重要な成果を上げた。第一は、治安の回復である。2002年10月にバリにおいて爆弾テロが発生し202名の犠牲者が出たが、その後の努力により、2009年7月(ジャカルタのマリオット及びリッツ・カールトンにおける爆弾テロ)を最後に、一般市民を巻き込むような大きなテロは発生していない。30年以上続いたアチェ問題も解決(2005年8月15日、ヘルシンキ合意)された。
 積極的な外交努力によりインドネシアの国際的地位は強化された。インドネシアは、ASEANにおいて主導的役割を果たしており、東南アジア唯一のG-20の一員である。また、インドネシアは、「百万の友、敵はゼロ」との外交方針の下、各国と良好な関係を維持しており、非同盟運動にも参加している。国民の90パーセントがムスリムであり、穏健なイスラムを代表する国家として国際社会で重要かつ独自の役割を果たせる立場にある。
 経済も順調に成長した。2013年には若干低下(5.8%)したが、2007年から経済成長は6%を超えている(但し、2009年は4.6%)。また、2009年に続いて2014年の議会及び大統領選挙が平穏に実施される等、民主主義も一層定着した。

(3)残された課題
 他方、課題も多く残されている。第一に格差の問題である。ジャカルタ州の一人当たりGDPは12,000ドルを超えているが(全国では3,500ドル)、ジャワ島中部、東部は発展が遅れており、また、インドネシア東部の開発が重要な課題となっている。パプア州において燻っている分離運動の背景は、主として開発の遅れである。インドネシア政府基準の貧困率は年々低下しているが、世銀基準(1日2ドル以下)の貧困率は43.3%と依然高い水準にあり、ジニ係数も上がっている(2012年0.41、2004年は0.32)。
 経済成長を今後とも維持していくことも重要な課題である。2013年には6%を割り、5.8%と減速した。2014年については、インドネシア政府は5.5パーセント成長を予算編成(2014年補正予算)の前提としているが、多くの機関はより低い成長率を予想している。経常収支は、2011年第4四半期より、また、貿易収支も2012年より赤字となっている。
 経済成長を支えていく上で投資環境の整備が不可欠である。特に、インフラ整備は喫緊の課題である。日本はインドネシア政府と共に特にジャカルタ地域で協力を進めている(MPA-Metropolitan Priority Area)。このMPAを新政権の下でも円滑に推進していくことが重要である。特に、現在工事が進められているMRT(地下及び高架鉄道)は、毎日ジャカルタ市民の目に触れる象徴的案件であり、ジョコ新大統領及びバスキ新ジャカルタ知事もその早期の完成及び拡張に大きな期待を有している。現在進められている南北第一期工事(15.7キロ)の速やかな推進と共に、できるだけ早く南北第二期及び東西線についても整備を進める必要がある。
汚 職問題は、ユドヨノ大統領も重視したと考えられるが、ユドヨノ政権においては現職閣僚が3名容疑者として認定され、多くの民主党(ユドヨノ大統領が党首)関係者も汚職疑惑の対象となり、政権及び民主党の信用は大きく失墜した。また、ユドヨノ大統領の次男エディ・バスコロの現金受領疑惑も報道されている。汚職問題に厳正に対処してくことは、益々重要となっている。
 平均年齢28歳、人口ボーナスが2030年代後半まで続くと予想されるインドネシアでは、高度技術や知識を持った人材の育成は、若い人口を経済のために有効に活用する上で極めて重要な課題である。ジョコ新政権は、人材育成を特に重視していく旨明らかにしている。


4. ジョコ・ウィドド政権の発足

(1)庶民派大統領の誕生
 2014年10月20日、ジョコ・ウィドド政権が発足した。軍人やエリート層出身ではなく、初めての「庶民派」大統領の誕生である。ジョコ・ウィドド大統領に対する国民の期待は大きいが、チャレンジも大きい。先述のとおり、2013年以降、経済成長には陰りが見えている。新政権は、できるだけ早期に7%台の成長路線に乗せたいとしているが、状況は容易ではない。汚職の問題も深刻である。インフラ整備は喫緊の課題であり、地域間、国民間の格差の問題にも対応しなければならない。ジョコ新政権は、国民から強く支持されているが、どの程度速やかに目に見える実績を示すことができるかが、円滑な政権運営のカギとなる。
 注目されていた新閣僚は10月27日に発表された。「クリーン」な人物を選ぶべく組閣は慎重に進められたが、起業家を含む新鮮な顔ぶれとなった。商業相に任命されたラハマット・ゴーベル氏は現地パナソニック社の会長であり、中央大学の卒業生で日本語も堪能である。親日家で日本にとっては心強い人選である。
新政権は11月17日、石油燃料価格の引き上げを発表した。インドネシアにおいては燃料等に対する補助金が財政の2割前後を占めており、財政の硬直化を招いている。インフラ整備や社会保障に一層の予算を配分するためにも、石油燃料価格の引き上げ及び補助金の削減は従前から重要な課題であった。同時に極めて不人気な政策でもある。ジョコ大統領は公約通り、政権発足後1カ月も経たないうちに決断した。その結果、ジョコ大統領の支持率は低下したが、国益のためには「火中の栗」をも積極的に拾う姿勢に対し、評価する声も聞かれる。
 外交面では、北京におけるAPEC首脳会議、ミャンマーにおけるASEAN関連会議、豪州におけるG20会議等に相次いで出席し、多忙な滑り出しを見せている。
 ジョコ大統領は、自らの内閣を「働く内閣」と銘打っており、今後とも迅速に具体的成果を挙げていくことを重視していくこととなろう。
(2)継続する厳しい政治闘争
しかしながら、ジョコ大統領の前途は多難である。7月9日の大統領選挙に敗れたプラボウォは、これからも政治闘争を継続することになろう。プラボウォ派は、議会における多数を背景に、自らにとって都合のよい法律を通し、議会の議長及び委員長ポストを手中に収めた。加えて、州知事、県知事の選出手続きを変え(住民の選挙により選出されていたのを、州議会議員による選出に変更)、地方も自らの勢力下に置こうとしている。ジョコ新大統領にとって重要なのは、議会の多数を確保することである。4月9日の総選挙を経て、新議会は10月1日に発足したが、与党勢力は当初4党(闘争民主党、民族覚醒党、ナスデム党、ハヌラ党)207議席に過ぎなかった。その後、開発連合党(PPP)が政権側に移行する姿勢を示し、政権側議席数は246となったが、依然として全560議席の半数に達していない。
 当面、最も注目されるのは、91議席を有するゴルカル党の動向である。党首はプラボウォを支援してきたアブリザル・バクリであるが、党内にはバクリ派と反バクリ派の熾烈な抗争が進行中である。バクリは、大統領選挙前にジョコ陣営に協力を申し入れたが拒否され、直ちにプラボウォ陣営に鞍替えした経緯があり、今後とも反大統領勢力としての立場を維持することとなろう。自らの政治的影響力保持のため、党首の座を死守すべく財力にまかせあらゆる努力を傾注していくことが予想される。他方、反バクリ派は、新たな党首を選出し、ゴルカル党として与党連立政権に参加することを視野に入れている。抗争が継続している中、ゴルカル党大会が急遽11月30日より12月3日に前倒し開催された。本来は、2015年1月の定期党大会において党首選が行われることとなっていたが、状況は不利と判断したバクリは、地方への根回しと共に他の候補が出にくいようにルールを変更し、党大会のタイミングを早めた。その結果、党首候補はバクリ以外には擁立され得ず、バクリは12月3日に無投票で党首として信任された。報道によれば、党大会参加者の大多数は、党籍はく奪等の報復を恐れてバクリへの信任を表明した趣であるが、ゴルカル党内の亀裂は一層深まった。反バクリ派は、この党大会決定の違法性を主張すると共に、12月7日及び8日に別途党大会を開き、アグン・ラクソノ前社会福祉調整大臣を党首に選出した。ゴルカル党は分裂の様相を呈しつつあり、同党の政治闘争を今後とも注視していく必要がある。またゴルカル党の動向と共に、民主党等他の政党の動き、新大統領に対して好意的な世論の今後の動向も見守っていく必要がある。


5. 日本とジョコ新政権

 (1)日本とインドネシアの友好協力関係を一層強化
日本は、ジョコ新政権と緊密な関係を築いていかなくてはならない。インドネシアの安定は、日本及び地域全体にとって重要である。ジョコ新大統領及び政権関係者の多くは、メガワティ元大統領やカッラ副大統領を含め、日本に親近感と関心を持っていることが感じられる。新政権関係者の中には日本と関係の深い多くの友人がいる。彼らとの関係を更に強化しつつ、新たな友人との関係を構築していくことが重要である。インフラ整備、工業化・物造り、環境・エネルギー、防災、農業・水産、人材育成等の分野をはじめ、新政権の重視している「海洋インフラの整備・発展」についても、日本はインドネシアとのwin-win関係を強化していくことができる。
(2) 留意点
今後とも対等のパートナーとしての視点を維持(すなわち「上から目線」の排除)すると共に、相手の立場を十分に理解して対応することが重要である。これは当然のことではあるが、感情・認識のギャップは常に発生する危険があるので、今後とも十分留意していくことが肝要である。
 時折、「インドネシアは、経済的には発展しているが、行動は良く理解できない」、「インドネシアは、急に輸入制限的措置をとるなど、民族主義的傾向を強めている」等の声を聞くことがある。インドネシアは近年経済的に大きく躍進しているが、インドネシアから見れば先進国に比べ課題は依然大きく、そのために一層の発展を図り、できるだけ早く追いつきたいという気持ちは当然存在する。そのようなインドネシアの気持ちは、ナショナリズムと呼ぶか否かは別として、極めて自然なものである。未加工鉱物資源の輸出を原則禁止する新鉱業法の背景にも、このような感情がある。
 更に、インドネシアではメディアや議会を含め、「自分たちの方が損をしているのではないか」という感情がある。パプア州で金などを採鉱している米国フリーポート社は、毎年相当額の税金をインドネシア政府に支払い、CSR活動も行っているが、インドネシアおいては、利益をインドネシアにより還元すべきであるとの論調が見られる。中国へのLNG輸出の長期契約に関しては当初合意された価格は低すぎるとの問題が提起され、両国の懸案となった。マレーシアやシンガポールの銀行はインドネシアで自由に活動できるのに対し、インドネシアの銀行は制約を受けている等の問題提起も行われている。日本とのEPAに関しても、この5年間を見ると日本の方がインドネシアより恩恵を受けている等の指摘が聞かれる。インドネシアの人は、相手を慮ることを重視し、誇りも高い。したがって今後とも、インドネシアの人の心情や背景にある事情をよく考えながら行動する必要がある。
以上を踏まえ、日本のブランド(「誠実」、「信用」及び「謙虚さ」)を生かしつつ、「一層のスピード感」にも配慮することができれば、日インドネシア関係は今後とも一層発展するであろう。


『モディ政権発足後のインド事情』(第1回)
2015-02-12

『モディ政権発足後のインド事情』(第1回)


  • 八木毅

駐インド大使 八木 毅


 2014年4月から5月にかけて行われたインド総選挙においてインド人民党(BJP)が歴史的大勝を納め、5月26日にナレンドラ・モディ氏(西部のグジャラート州の州首相を2001年から2014年まで務めた)を首班とする新政権が発足して半年余りが経過した。10年振りの政権交代として内外の大きな注目を集めたモディ政権のこの間の内政、経済、外交を振り返ってみたい。(なお、本稿は筆者の個人的見解である。2015年1月5日脱稿。)


【連邦下院総選挙】

 既に旧聞に属することではあるが、5月の総選挙でのインド人民党(BJP)の躍進とコングレス党の惨敗は大方の予想をはるかに上回るものであった。その勝ちっぷり、負けっぷりを列挙してみる。
①BJPは総議席数543のうち単独で過半数の282議席(166議席増)を獲得。協力政党(11の多数を数える)の議席54議席を加えると下院の6割を占める。単一の政党による過半数獲得は30年振り。
②BJPは支持基盤であるインド北部・西部で圧勝。特に最大州のウッタルプラデシュ州(人口2億人)で80議席中71議席を獲得し、また、モディ氏地盤のグジャラート州(26議席)、ラジャスタン州(25議席)、首都ニューデリー(7議席)などでは全議席を独占。
③10年間政権の座にあったコングレス党は党史上最低の44議席(154議席減))に激減。選挙に出馬した閣僚18名のうち、外相、内相を含む15名が落選したほか、下院議長も落選。ウッタルプラデシュ州ではソニア・ガンディー総裁とラフル・ガンディー副総裁が出馬した2選挙区以外は全敗。
 BJPの勝因、コングレス党の敗因はコインの裏表であり、ここ数年の経済の落ち込み、汚職疑惑の続出、これらに伴って蔓延した停滞ムードが反現職に強く働く一方、「経済再生」「ガバナンス強化」を掲げたBJPに追い風となった。何よりも、2013年9月に首相候補に指名されて以降、精力的に全国キャンペーンを展開してきたモディ氏個人に対する人気の高まり(「モディ・ウェーブ」)が大勝の大きな要因であり、対照的にコングレス党の選挙戦を指揮したラフル・ガンディー副総裁は精彩を欠いた。
 このように下院では「一強多弱」の様相であるが、BJPにとって不安な要素が皆無という訳ではない。すなわち、
①上院では、2014年末現在、243議席中、BJPは協力政党を含めても58議席しか有しておらず(コングレス党とその友党が82議席、残りは「その他」勢力)、過半数にはほど遠い。「その他」勢力がすべて反BJPという訳ではなく、案件毎の協力取り付けも可能であるため、厳密な「ねじれ」とは異なるとも言えるが、上院議員は6年任期(2年ごとに3分の1ずつ改選)で、州議会議員による選挙で選出されるため、与党が過半数に達するのは早くても数年はかかるとの見方が強い。
②BJPは北部及び西部で圧勝したが、東部から南部にかけての州(西ベンガル、オディッシャ、タミル・ナドゥなど)は有力地域政党が大きく議席を伸ばし、これら3州の地域政党の議席数合計は下院で約90議席、上院で約30議席に上る。
③得票率ではBJP31%(前回2009年選挙では19%で116議席)、コングレス党20%(同29%で206議席)であり、議席数ほどの大差がある訳ではなく、小選挙区制が今回選挙ではBJPに有利に働いた面が大きい。


【内政……ガバナンス・規律の強調】

 人口12億を抱える大国での10年振りの政権交代であり、半年くらいで新政権の評価を云々するのは難しいが、新政権らしさ、モディ首相らしさが顕著に現れているのは、閣僚,国会議員,官僚に対して規律、効率、成果を厳しく求めている点である。BJPが選挙戦において前政権を厳しく批判し,ガバナンスの強化を訴えて勝利したことを踏まえれば当然とも言える。以下にその顕著な例を挙げる。
①「隗より始めよ」ということで、政権発足に当たり閣僚・閣外相の数を大幅に削減した(前政権末の70名から新政権では45名)。ただし、この点については、2014年11月に内閣改造が行なわれ、追加的に21名の新閣僚・閣外相が任命されため、前政権との大きな差違は無くなった。
②政府機関に対し,職場の整理整頓,登庁時間の遵守から決裁の方式,報告時の資料の形式に至るまで細かく指示した。登庁時間遵守は象徴的事例であり、各省庁に順次、生体認証による出退勤記録が導入されつつあるばかりか、それがHPにアップされて、市民が誰でもアクセスできるようになっている。また、「整理整頓」との関連では、2014年10月に開始した「クリーン・インディア」キャンペーンに各省庁も参加を求められ、閣僚や次官がホウキを持って掃除する姿が報じられた。
③BJP所属国会議員に対して議員としての心得、注意事項を示し,議会出席励行,プレスやブローカーとの接触は慎むこと等を求めている。


【内政……州議会選挙での連勝とヒンドゥー民族主義の動き】

 新政権は、2014年10月に、政権発足後の最初の州議会選挙となったマハーラーシュトラ州及びハリヤナ州(いずれも大きな人口を有する重要州)で大勝したのをはじめ、その後の州議会選挙(ジャンム・カシミール州、ジャールカンド州)でも躍進し、モディ人気、BJPへの支持が引き続き堅調であることが示された。2015年にも首都デリーや大州のビハール州での選挙が予定されており、その帰趨が注目される。
 さて、モディ氏が若くしてヒンドゥー民族主義を標榜する民族奉仕団(RSS)に加わり、熱心な活動家となったこと、2013年、RSSの強い支持を得てBJP首相候補となったことは周知の事実であり、また、2002年のグジャラート州暴動(イスラム教徒1000人以上が犠牲になったとされる)に際し、州首相として十分な対応をとらなかったとの批判が国内外で根強く残っていたため、早くから、モディ氏が首相になった場合には少数派(特にイスラム教徒)に対して強硬、抑圧的な姿勢を取る可能性が取り沙汰されてきた。実際には、モディ氏は首相就任後も、経済成長・開発とガバナンス強化を最優先課題として推進しており、さらに、モディ首相は、自らの出自(後進カースト出身)にもかかわらずインドの民主主義のおかげで首相になれたことや、すべての貧困層に公共サービスを提供する方針を強調している。また、2014年8月15日の独立記念日のスピーチでの「ヒンズー寺院の建設より、まずは女性用のトイレの整備を進めるべきだ」との趣旨の発言に典型的に見られるように、女性の尊厳重視の発言も繰り返している。したがって、モディ首相自身はヒンドゥー民族主義的言動を控え、政策課題に注力しようとの基本姿勢であると思われる。
 他方、①モディ内閣におけるムスリムの閣僚が1名のみであること(前政権末には3名であった)、②首相、閣僚の公式の会談、スピーチは基本的にヒンドゥー語で行われるようになったこと、③新政権発足後に生じた宗派間対立事件に強い対応を取っていないこと、さらに、2014年11月頃からは、④閣僚やBJP議員の宗派絡みでの問題発言が続いたこと、⑤RSS関連組織がムスリムやキリスト教徒を集団的に改宗させようとする動きがあること(「強制改宗」として問題化)、等をとらえて、RSS等がヒンドゥー主義的主張を顕在化させ、政府への影響力を強めようとしているとの批判もある。


【経済面では好材料が増加】

 経済の落ち込み(特に2012年度、13年度の経済成長率が4%台にとどまったこと)が総選挙の帰趨に影響したとされるだけに、経済再生はモディ政権にとっての最優先の政策課題である。新政権が内外の高い期待に応えられているか、経済指標と政策面の措置の両面から見てみよう。まず経済指標については、以下のとおり、新政権発足後、好材料が増しつつあり、国内経済の展望に明るさが戻りつつあるが、一部には未だ弱い動きもみられる。
①GDP  
 2014年度第1四半期(4~6月)の実質GDP成長率は、前年度同期比5.7%となり、5%成長を下回った過去2年間から回復(特に鉱工業・建設業部門の回復が要因)し、第2四半期(7~9月)も同5.3%を記録した。2014年度の見通しは5%半ばから6%程度を予想する声が多い。
②生産
 鉱工業生産指数は、4月にほぼ7ヶ月ぶりにプラス成長に転じ、その後堅調な伸びを示すも、7月(前年同月比0.5%)、8月(同0.5 %)は市場予測を下回り低水準に留まった。9月(同2.5%)はやや持ち直したが、10月には再びマイナスに転じた(同▲4.3%)。製造業の伸び悩みが目立ち、投資活動の再開にはもう少し時間を要するとの見方が多い。
③消費
 自動車販売台数は5月に9ヶ月ぶりのプラス成長を記録し、その後も8月までプラス成長が継続したが、9月、10月は前年同月比微減となり、その後11月に大きく回復した(同9.5%)。
④物価
 インド準備銀行(RBI)の金融引締政策や国際的な原油価格の落ち着き等により、インフレ率は昨年度に比して大幅に下落して推移し、11月に消費者物価4.38%、卸売物価0%を記録した。
⑤金融市場
 株式市場は5月の総選挙前から株価の上昇が継続し、11月末時点で年初比35%高を記録した。また、為替市場も1ドル60ルピー前後で概ね安定的に推移、外貨準備も過去最高に近い水準(輸入の約7ヶ月分)を維持している。

 経済政策の面ではどうか? 2014年7月に発表された予算案において,新政権は前政権時代の財政赤字目標(対GDP比4.1%)を堅持して財政規律に配慮する姿勢を示しつつ,インフラ支出や国防費(特に資本支出)の積増し(ともに約20%増),モディ首相肝いりの施策(高速鉄道、スマート・シティ、ガンジス浄化等)への配慮によって,可能な限り新政権色を打ち出そうとした。予算案発表と同時に,投資(FDI)促進のため,保険及び防衛分野での外資出資比率上限を現行の26%から49%に緩和する方針も示された。他方で、内外ビジネスの期待が高かった統一物品サービス税(GST)導入スケジュール,遡及課税廃止,各種補助金削減の具体策等が明示されなかったことから、「『ビッグバン』と呼べるような思い切った改革が打ち出されていない」との批判、不満も一部にあることは否定できない。
 注目すべきは、重要州であるマハーラーシュトラ州及びハリヤナ州で10月に行われた州議会選挙で大勝する頃から、モディ政権が燃料価格制度の改革など、重要な経済改革に一層本格的に取り組んでいることである。特に長年の懸案であったGSTについては、冬期国会末の12月19日に法案が国会に提出されるまでに漕ぎつけた。保険法改正法案(上述の外資出資比率上限を引き上げるもの)についても、冬期国会中には野党の反対で上院審議を完了できなかったが、国会会期終了直後、政府は大統領令により外資比率引上げを実施することを決定した(次期国会で承認される必要がある)。また、11月の内閣改造ではプラブー鉄道相、パリカール国防相等、実務能力に定評のある閣僚を起用しており、各省庁次官・局長クラスの人事異動により官僚機構への掌握を強めていることと併せて、モディ政権は体制固めも着々と進めつつあるものと考えられる。今後は、GST法案の帰趨に加え、2015年2月に発表される予定の2015年度予算案で更に踏み込んだ政策や措置を導入できるか、といった点が焦点である。


【ダイナミックな外交】

 外交面では、2014年5月26日の就任宣誓式にSAARC(南アジア地域協力連合)諸国首脳を招待したのを皮切りに、6月にモディ首相最初の外国訪問としてブータン訪問、8月にインドの首相としては17年ぶりとなる二国間会談のためのネパール訪問を行い(注:2002年にヴァジパイ首相(当時)がSAARC首脳会議のため訪問)、近隣国重視の姿勢を明確に打ち出している。ただし、パキスタンとの関係は、8月下旬に予定されていたパキスタンとの外務次官協議を,在インド・パキスタン高等弁務官がカシミール分離主義勢力との会合を持ったことを理由にしてインド側からキャンセルした後、進展しておらず、11月のネパールでのSAARC首脳会議でも、印パ首脳会談は行われなかった。
 域外との関係では、8月末から9月にかけてモディ首相訪日、習近平国家主席訪印、モディ首相訪米が相次いで行われた。まず、就任後、最初の域外二国間訪問となった訪日では、モディ首相は東京に先立って京都を訪問した。京都での映像は広く報道されたのでご記憶の読者も多いと思われるが、京都、さらには東京でのモディ首相と安倍総理の交流は両首脳の強い個人的きずなを内外に強く印象付けた。9月1日の首脳会談では、政治・安全保障、経済、人的交流、地域情勢やグローバルな課題について幅広く議論が行われ、会談後,両首脳は「日インド特別戦略的グローバル・パートナーシップのための東京宣言」と題する共同声明に署名した。これによって、これまでの「戦略的グローバル・パートナーシップ」が「特別な」戦略的グローバル・パートナーシップへと強化された。特に経済分野では、①日本の直接投資額及び進出日系企業数を今後5年以内に倍増するという共同で達成すべき目標を設定し、②安倍総理は、官民の取組により今後5年間で、ODAを含む3.5兆円規模の投融資を実現するとの意図を表明し、③これに対しモディ首相は、税制や行政規制、金融規制を含むビジネス環境の更なる改善の決意を表明する、との成果があった。初めての主要国訪問ということで、内外の関心も非常に高いものがあったが、内容、広報の双方で大きな成功を収めた訪問と言える。
 中国は、モディ政権発足直後に王毅外相を習近平国家主席特使として派遣、次いでアンサリ副大統領を平和共存五原則60周年記念式典に招くなど積極的に新政権に働きかけ、9月半ばに習近平国家主席の訪印が実現した。訪印はモディ首相の地元であるグジャラート州から開始され、習近平夫妻とモディ首相がサバルマティ河岸(モディ首相が州首相時代に整備された)を散歩する姿が大々的に報道されて、友好ムードが演出された。デリーでの首脳会談では、経済面で①今後5年間で200億ドルの中国からインドへの投資の意図表明(ただし、日本の3.5兆円との差を指摘する報道も多かった)、②中国による2つの州での工業団地設立の意図表明、③既存鉄道の準高速化や高速鉄道プロジェクトに関する協力への検討、が打ち出され、一定の成果があったとされる。他方で、習主席訪印の直前に発生したジャンム・カシミール州での中国軍侵入事件がインド国内で強い反応を惹起し、首脳会談でもモディ首相から習国家主席に対し深刻な懸念を表明した模様であり、全体としては、この問題が習主席訪印に大きな影を落とすこととなった。
 米国との関係では、米国が2001年のグジャラート暴動との関連でモディ州首相に査証を発給していなかったことや、2013年12月に在ニューヨーク印総領事館女性館員が逮捕・身体検査された事件を巡る軋轢などから、新政権と米国との関係が関心を集めていたが、インド総選挙の結果が明らかになった直後にオバマ大統領がモディ氏に電話で祝意を伝えるとともに訪米を招請し、モディ氏もこれに応じる意向を示したところから、一気に関係改善ムードが高まり、ケリー国務長官(7~8月)、ヘーゲル国防長官(8月)の訪印を経て、9月に、一連の主要国外交の締めくくりとしてモディ首相の米国訪問が実現した。訪問の結果、両国間の貿易(現在約1000億ドル)の5倍増の目標が合意され、また、米国からの対印投資400億ドルの見通しが示される等の成果があったが、何よりも、両首脳間の個人的関係が深められ、両国間の雰囲気が大きく改善したことが最大の成果であったと言えよう。また、モディ首相訪米時の共同声明に、「地域全体、特に南シナ海における海洋の領有権問題に関する緊張の高まりについて懸念を表明し、海洋の安全を守り、航行や飛行の自由を確実にすることの重要性を確認した。」との今までより踏み込んだ表現が盛り込まれたことも注目される。その後、11月には、2015年1月26日のインドの共和国記念日にオバマ大統領が主賓として出席することが発表され、今後、関係強化はさらに勢いを増すと見込まれている。
 この他、ロシアのプーチン大統領が2014年12月に訪印し、欧州やASEANの主要国からも主要閣僚が続々と訪印していることと併せ,新政権は、最大の政策課題である「開発」に沿って、貿易投資等の実利志向のダイナミックな外交を展開しつつあると言える。ただし、中国、パキスタン等との関係に見られるように、国境問題、テロ問題等の安全保障面では強硬姿勢も辞さないことには留意が必要であろう。


【結び…2015年はモディ政権の実行力が問われる年】

 冒頭にも述べたとおり、大国インドでの10年振りの政権交替であり、半年くらいで新政権の評価を云々するのは難しく、今しばらく時間をかけて見ていく必要がある。特に経済面を中心に、政権発足前からの期待値が非常に高いだけになおさらである。これまでのところ全体としては、新政権が政治的勢いを維持し、徐々に改革政策を加速させているとの印象が強い。2015年は、モディ政権が、高い期待に応えることができるか、中でも、これまでに表明した約束、方針、キャンペーン等々を具体的な政策として実行(deliver)していくことができるか、が問われる年となろう。