『ソロモンと遺骨収集事業』2017-02-07

『ソロモンと遺骨収集事業』


  • 木宮 憲市


駐ソロモン特命全権大使 木宮 憲市

 ソロモン諸島は、日本から南へ約5,000キロの彼方、パプアニューギニアの東側、豪州ブリスベンから北東に飛行機で3時間 程のところに位置する。エリザベス女王を国家元首とする立憲君主国で、大小約1000の島々からなる島嶼国である。その面積は四国の約1.5倍の大きさで人口は約60万人。1978年7月7日に英国から独立した若い国家である。 1978年、ソロモン諸島が英連邦の一員として独立した時に、日本はソロモンとの外交関係を樹立した。それ以来、両国は様々な分野で友好的な協力関係を発展させて来た。 日本は、これまでソロモンに対し、無償資金協力や技術協力を中心に400億円余りの開発援助をしてきた。JICAボランティアの派遣数は約400名に上り、ソロモンからの研修員受け入れは1000名以上になる。現在、ククムハイウェイ拡充計画が進行中であるが、2018年の完成の暁には首都ソロモンの交通インフラの向上に大きく貢献するであろう。更に、現在約30名の日本人がJICAボランティアとしてソロモン各地で活躍している。そうした長年に亘る努力の積み重ねの結果、ソロモンの対日感情は極めて良好なものとなっている。


 さて、首都ホニアラがあるガダルカナル島といえば、太平洋戦争の激戦地として有名である。 1942年8月、旧日本軍が海岸付近に建設していた飛行場を米軍が上陸して奪還し、以来翌43年2月までの半年間激しい攻防戦が繰り広げられた。旧日本軍は補給と密林の厳しさを無視した作戦により、上陸した日本軍将兵は次々に飢え、ガダルカナル島は「餓島」と呼ばれた。ガダルカナル戦には3万1千人余りが投入され、2万2千がこの地で戦死したが、実際の戦闘による死者は5千人余りで、大部分は餓死か病死であったという。 戦後、政府や日本遺族会、全国ソロモン会等の民間団体による遺骨帰還事業で1万5千人余りの御遺骨を収容することができた。しかし、戦後70年以上を経た今日でも、なお熱帯の密林奥深くに取り残された7000柱を超す御遺骨が、祖国日本への帰還を待っている。 毎年、日本から多くの慰霊団の方々がソロモン各地における慰霊碑やアウステン山の平和公苑等にお参りに来られるが、それら施設の維持管理は、すべて地元の民間人や在留邦人の善意と地道な努力によって推進されてきた。 戦後長い年月を経て、遺族世代も高齢化が進み、実際に現地を訪問することも難しくなって来た。このため、遺骨収集事業を加速化して、少しでも早く戦没者に関する情報収集を行い、可能な限り遺骨収容に努めつつ、慰霊と平和祈念の活動を積極的に推進することが強く求められていた。そうした中でようやく本年4月、議員立法による「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」が施行され、一般社団法人「日本戦没者遺骨収集推進協会」が立ち上がった。今後9年間を集中実施期間と位置づけ、戦没者の遺骨収集活動に積極的に取り組むことになった。今後は、国の支援を得ながら推進協会の主体的な事業として、ガダルカナル島等の密林の奥地にて散華された戦没者の遺骨収集と慰霊の事業が一層積極的に推進されることを期待したい。 本件事業が将来に亘り持続性を維持するには、地元政府および民間の協力が不可欠であることは言うまでもないが、特にその活動が若い世代によって受け継がれていくことが極めて重要である。その点、NOP邦人「JYMA日本青年遺骨収集団」の若い青年男女が遺骨収集活動の担い手として参加していることは、心強い限りである。


 2014年9月、海上自衛隊練習艦隊が戦後初めてホニアラに寄港し、収集された御遺骨を艦隊に乗せて日本に帰還させることが出来た。そして2016年12月には、海上自衛隊護衛艦「高波」がホニアラを訪問し、当地にて焼骨した御遺骨(150柱)の日本への帰還が実現した。 現地において長年に亘り、本件事業の推進にご尽力いただいた関係者の努力には本当に頭の下がる思いがする。私達は、これを契機に更に今後とも遺骨の捜索・収容・慰霊に万全の体制をもって臨んで参りたい。そして遺骨収集及び英霊顕彰の事業が、今後とも一層円滑に推進されると共に、日本とソロモンの友好親善関係が一層堅固なものとなるよう祈って止まない。 明年2017年は、ガダルカナルの戦いから75周年に当たる。先の大戦の歴史を改めて振り返る機会であると共に、かつては敵国として戦った者同士が、戦後の価値観を共有するに至った和解の歴史を再認識し、将来に亘って二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないという不戦の誓いを新たにする重要な機会でもあると思う。 今後ともアジア・太平洋地域、更には国際社会の平和と繁栄に一層積極的に貢献して行くことを力強く発信するという観点から,日本及び関係諸国が、2017年の然るべき時期にソロモン諸島の首都ホニアラに一堂に会し、ガダルカナル戦で亡くなった将兵等の慰霊と平和祈念の催しを共同で開催することはできないであろうか。

『マーシャル諸島共和国と日本』2017-01-16

『マーシャル諸島共和国と日本』


  • 光岡 英行


光岡 英行(駐マーシャル大使)

1 はじめに

 マーシャル諸島共和国は、冒険小説「宝島」の作者スティーブンソンをして「太平洋に浮かぶ真珠の首飾り」と言わしめた大変美しい島嶼国で、29の環礁と5つの島から構成されている。環礁というのは中央部に島がなくドーナツ状に形成された珊瑚礁のことで、米国の核実験で知られるビキニ環礁や世界最大の環礁であるクワジェリン環礁もこのマーシャル諸島共和国にある。環礁の生い立ちは、先ず熱帯の火山島の周囲に珊瑚礁が形成され、その後、火山島が沈降することにより珊瑚礁のみが上方に成長、中央の火山島が完全に海面下に没すると、環状の珊瑚礁のみが海面に残り、環礁が形成されるというものである。環礁は平坦な地形をしており、その幅は広いところで500メートル程度、狭いところではわずか数十メートルしかなく、場所によっては右を見ても海、左を見ても海というちょっと不思議な光景が広がる。

 日本から首都マジュロに行くには、直行便はなく一旦グアムかホノルルで飛行機を乗り換えて向かうことになるが、グアム経由の場合であると、グアム・マジュロ間は、途中四つの島を離着陸を繰り返しながら移動していく通称「アイランドホッパー便」と呼ばれるフライトを利用することになる。マジュロも環礁であるので、飛行機が着陸に近づくと、幅の狭い陸地は視界から消え、目に映るのは右も左も海だけとなり、このまま海に突っ込んでしまうのではないかと錯覚してしまうほどである。

 また、マーシャル諸島は世界のダイバー達に知られるダイビングやスノーケリングの好スポットで、日本や欧米から多くのダイバーが訪れ、リピーターの数も多いと聞く。筆者はマジュロで初めてスノーケリングを体験したが、海中の美しい珊瑚礁、色とりどりの熱帯魚、そして紺碧の海に心を奪われる思いであった。  

2 親日的な国マーシャル諸島共和国

 マーシャル諸島共和国は大変親日的な国で、日本とは1988年に外交関係を樹立したが、その歴史的繋がりは100年以上も前に遡る。日本は1914年から約30年間(1920年からは国際連盟の委任統治)マーシャルを統治していたが、その間、日本語による教育を行っていたので、高齢者の中には日本語が堪能な人もおり、「ヤキュウ」「ゾウリ」「デンキ」「サンポ」「アメダマ」など現地語化した日本語が現在でも多数使われている。例えば、「アメダマ」はその語源が日本語に由来することを知らず、マーシャル語と思い込んでいるマーシャル人もかなりおり、日本語が自然な形でマーシャル社会に溶け込んでいる実例の一つと言える。食生活では日本人移住者によってもたらされた米食が定着し、今では白いご飯はマーシャル人にとってなくてはならない食べ物となっている。そのほか、マグロのサシミなども日常食となっており(サシミもマーシャル語化している。)、マーシャルではどこのレストランに行っても醤油とワサビは常に食卓の上に置かれている。マグロと言えば、日本のマグロ・カツオ消費量の約8割が太平洋島嶼国海域で漁獲されており、この海域は日本にとって非常に重要な漁場となっている。

 マーシャル諸島にはその歴史的経緯により日系人も多く、人口の20%程度が日系人と言われており、現内閣閣僚10名のうち5名が日系人であるなど、多くの日系人が各界で活躍している。また、マーシャル諸島共和国は日本との二国間関係のみならず、国連やその他国際機関等国際社会においても、日本の活動、取り組み、立場を支持する友好国である。

 なお、当館は1989年に開設(在米大使館兼轄)、1997年に在フィジー大使館の兼勤駐在官事務所としてマジュロに事務所を構え、その後在ミクロネシア大使館の兼勤駐在官事務所を経て、2015年1月、独立公館に格上げされ、筆者は初代特命全権大使として、2015年8月にマジュロに着任した。

3 マーシャル諸島共和国の経済状況

 国内人口5万3千人、国内面積180k㎡(東京都八王子市とほぼ同じ)、GDP200億円、予算規模200億円というマーシャル諸島は、国土が広大な海域に散らばり(拡散性)、国内市場が小さく(狭隘性)、国際市場から遠い(遠隔性)など、経済活動を行う上で地理的なハンディキャップを抱えている。主要産業としては第一に漁業が挙げられるが、その実態は外国漁船からの入漁料収入が主であり、近年同収入は大幅な伸びを示しているものの、産業としての漁業は十分には育っていない。次に、農業であるが、陸地面積が狭くかつ土壌が珊瑚質であることから、作物栽培には適しておらず、換金作物はほぼコプラ(乾燥ココヤシ)のみである。パンの実、タコの実、バナナ、タロイモ、一部の果物及び野菜といった作物も栽培されてはいるが、これらはいずれも国内消費向けの産品となっている。そのほか、観光業が潜在的に有望な産業と期待されているが、観光客は近年減少傾向にあり、インフラの未発達やアクセスの不便さなど、観光開発には種々課題を抱えている。一方、特筆すべきは、マーシャル船籍への船舶登録数(便宜置籍船)が2014年4月で3,000隻、総トン数1億トンを超え、その後も拡大を続け、2015年2月の時点で、登録数3,400隻、総トン数1億1,800万トンを超えて、パナマ、リベリアに次いで世界第3位(総トン数換算)となったことである。最新の統計(2016年9月現在)では、登録数4,000隻、総トン数1億3,800万トンに近づいており、船舶登録による収入は近年大きな伸びをみせ、漁業と共に政府歳入増への寄与が期待されている。 

 マーシャル諸島共和国は戦後約40年間、米国の国連信託統治下にあったが、1986年に米国との間で自由連合協定(通称「コンパクト」)を締結して独立した。コンパクトにより、マーシャルの国防及び安全保障は米国が権限と責任を持つ一方、米国はマーシャルに対して大規模な財政支援を行うこととなった。当初、この財政支援の期限は2001年までの15年間とされていたが、その後交渉を通じ2023年まで延長された。現在、マーシャルの政府歳入は米国からの財政支援(「コンパクトに基づく支援」と「通常の途上国支援」の二項目から成り、それらを合わせると政府歳入の約5割)に大きく依存した形となっており、この支援がこれまで多額の公共事業を可能にしてきた経緯があるが、コンパクトに基づく米国の財政支援(政府歳入の約4割)のうちの相当部分が2023年をもって終了することになっており、その後の財政運営をどのようにしていくのかが大きく問われている。なお、パラオ、ミクロネシアも米国の国連信託統治から独立する際に米国との間で同趣旨の「コンパクト」を締結しており、これにより米国はミクロネシア3か国に軍事施設を設置しうる権利を保持したが、実際に軍事施設を保持しているのはマーシャルのみである。マーシャルでは、世界最大の環礁であるクワジェリン環礁に米軍基地が設置されており、同基地はカリフォルニア等の米軍基地から発射される弾道ミサイルの迎撃実験場となっている。また、同基地では人工衛星等の監視、NASAと協力した宇宙開発支援も行われている。

4 日本の開発協力とマーシャル諸島共和国の国家開発   

 日本はマーシャルの国造りを支援するため1980年代から開発協力を開始して現在に至るが、日本の対マーシャル支援の歴史はすでに30年以上に及んでいる。この間、日本の協力が長期間に亘って実施され、マーシャルの国造りに貢献してきたことは中央政府はもちろん、地方政府や一般市民にも広く認知されており、様々な機会に日本の協力に対する感謝の言葉が聞かれる。マーシャルで実施されている二国間協力は無償資金協力(プロジェクトタイプ、ノンプロジェクトタイプ、草の根プロジェクトの3種類)と技術協力で、円借款は実施されていない。

 近年の実施案件について例を挙げると、プロジェクトタイプでは、船舶の供与、マジュロ病院屋根上への太陽光パネル設置、水産市場建設及び集魚船の供与、ノンプロジェクトタイプでは、重機(ダンプトラック、コンパクター、エクスカベーター、セーフティローダートラック等)、水質検査機材の供与、廃金属圧縮機及びペットボトル圧縮機の廃棄物公社への設置などがあり、近く海水淡水化装置のマジュロ病院への設置が予定されている。草の根プロジェクトは1995年にマーシャルに導入されて以来130件以上実施されており、近年は小学校校舎建設、スクールバス供与、貯水槽建設などのプロジェクトが挙げられる。無償資金協力プロジェクトの完成、ノンプロジェクトによる物資の調達・供与に当たっては、日本からマーシャル側への引き渡し式が挙行されるが、これには通常大統領を始め、関係閣僚、国会議長、国会議員等多くの要人が出席する習わしとなっており、マーシャル側の対日重視姿勢が窺われる。実際、11月末に行われた廃金属圧縮機及びペットボトル圧縮機の廃棄物公社への引き渡し式には、大統領、公共事業大臣、教育大臣、伝統的指導者、各省次官等多くの関係者が出席して盛会であった。また、技術協力関連では、JICAボランティア事業(青年海外協力隊員及びシニアボランティア)が1990年代から実施されており、現在18名のボランティアが派遣されている。その分野は、小学校教師、高校理数科教師、日本語教師、看護師、栄養士、コンピューター技術、廃棄物処理、環境教育、環境行政、上水道、観光、水産経営管理、青少年活動と非常に多岐に亘っており、マーシャルではJICAボランティアは日本の「顔の見える」協力として認知度は非常に高く、知らない者は誰もいないと言っても過言ではない。

 マーシャル政府は国家開発に関し、2003年に15年間の長期開発計画フレームワークである「ビジョン2018」を策定し、社会的・経済的自立の強化、人材開発、環境保全等10分野を国の重点目標とした。また、2014年には、3か年中期的開発目標計画「国家戦略計画」が策定され、開発の進捗に係るロードマップとして使用されている。そして現在、この「国家戦略計画」を基礎に2020年までに政府が対処すべき課題と制度改革を提示する「アジェンダ2020」の策定が進行中であるが、その草案においては、課題として、経済成長・雇用増大・民間セクター育成、ポスト2023コンパクト移行への準備、基礎衛生サービスの改善、教育・青年・弱者への支援、気候変動・防災、水・エネルギー・食糧安全保障の強化等10項目が掲げられている。今年1月に発足したヒルダ・ハイネ大統領政権は任期が2020年までであり、それまでの間に「アジェンダ2020」をいかに実施に移し、いかなる成果を上げることができるのか注目されている。なお、ヒルダ・ハイネ大統領はマーシャル諸島共和国初の女性大統領であるのみならず、太平洋島嶼国においても初の女性トップリーダーである。

 一方、日本は2015年5月に福島県いわき市で開催された第7回「太平洋・島サミット」において、日本の対太平洋島嶼国支援パッケージとして、①防災、②気候変動、③環境、④人的交流、⑤持続可能な開発、⑥海洋・漁業、⑦貿易・投資・観光の7分野に焦点を当てた協力の推進を表明したが、今後対マーシャル二国間協力においてもこれらの分野に焦点を当てた支援が実施されることになる。マーシャル諸島共和国では、この中でも特に防災、気候変動、漁業分野における協力への関心が高い。なお、「太平洋・島サミット」は首脳レベルの会合であり、1997年から3年に一回の頻度で開催されており、次回は第8回目で2018年開催の予定となっている。  

5 結び

 独立後30年を経たマーシャル諸島共和国は現在様々な課題を抱えているが、その中でも「ポスト2023コンパクト」問題への対応は、残された時間も多くなくまさに焦眉の急と言えよう。自国財政が米国の財政支援に大きく依存する状況の中、将来に亘って財政をいかにして健全に運営していくのかはマーシャル諸島共和国政府にとって非常に大きな挑戦であろう。「アジェンダ2020」(草案)では、コンパクト信託基金(2023年以降の歳入源とするために設立されたファンドで、元本はそのままにして運用益のみ政府歳入に計上)の強化を図ることが大きな柱とされており、そのためには歳出の合理化、船舶登録料及び入漁料の増加、他の歳入を通じてマーシャル諸島共和国政府のコンパクト信託基金への拠出を強化する等の方策が掲げられているが、この問題への取り組みが順調に進んでいくよう期待したい。

 日本はマーシャル諸島共和国の開発を支援するため引き続き開発協力を実施していくとともに、日・マーシャル両国はこれまでの友好協力関係の基礎の上に、あらゆる分野で双方にとって有益な関係を構築、推進していくことが重要であり、今後そのための協力を一層進めていく必要があろう。

(本寄稿文に表明された見解は、筆者個人のものである。)

『遠くて近い国、トンガ』2016-12-26

『遠くて近い国、トンガ』


  • 松本 盛雄


沼田 行雄(駐トンガ大使)

トンガは、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアに大別される大洋州島嶼諸国の中で、ハワイやタヒチと同じくポリネシアに属し、日本からは南東へ約8000キロと遠く離れた南太平洋に浮かぶ人口約10万人の島国である。しかしながら、我が国皇室とトンガ王室の密接な関係、ラグビーや相撲、そろばんや日本語教育など様々に温かな人々の交流が続き、我が国と深い友情で結ばれた遠くて近い国である。

昨年は、着任直後の7月4日にトゥポウ6世国王、ナナシパウウ王妃両陛下の戴冠式と言う歴史的な国家行事があり、日本から皇太子同妃両殿下が同行事に出席するため当国を訪問され、国を挙げての大歓迎を受けられた。また、9~10月に英国で開催されたラグビーのワールドカップでは、予選で強豪・南アフリカを破るなど日本チームの大躍進とそれを支えた何人かのトンガ人選手の活躍があり、トンガの国民的スポーツ、ラグビーを通じ、両国関係が大いに盛り上がった一年となった。

トゥポウ6世国王は、2012年3月、前国王トゥポウ5世陛下崩御に伴い即位されておられたが、その戴冠式が、昨年7月4日(土)首都ヌクアロファのフリーウェズリアン・センテナリー教会で、国内外から多くの参列者をお迎えして厳かに執り行われた。戴冠式には、国王陛下の御招待に応え、我が国から皇太子同妃両殿下がお揃いで参列され、ピロレブ王姉とともに最前列に御着席になり、伝統に則った儀式に間近で立ち会われ、引き続き、王宮午餐会にも御出席され、両陛下のご即位を祝福された。両殿下お揃いでの外国訪問は、2013年のオランダ御訪問以来であったこともあり、日本のマスコミの関心が高い行事となった。

7月3日朝,お召し機がファアモツ国際空港に到着した際には,タラップ下でウルカララ皇太子殿下、ポヒヴァ首相始め政府要人の出迎えを受け、妃殿下は王族の少女から花束を贈られ、また、空港周辺ではトンガ在住邦人の皆さんが日の丸を振ってお迎えした。

翌4日午前,両殿下は,トンガ国王トゥポウ6世、ナナシパウウ王妃両陛下の戴冠式にお揃いで御出席された。約1時間にわたって執り行われた式典で、聖職者から国王陛下に聖杖と王冠が授けられると,教会の鐘と祝砲が町中に響き渡り,トンガ国民の祝福の声は教会の中にも届くほどだった。モーニング姿の皇太子殿下とロングドレスをまとった皇太子妃殿下は最前列に御着席になり、時折,隣のピロレブ王姉殿下とお言葉を交わされながら,荘厳な面持ちで式典を見守られ,御即位を祝福された。引き続き、王宮で行われた公式午餐会にもお揃いで御出席になり、両陛下へのご挨拶と記念撮影に続き、午餐会でも、両陛下のお近くに着席され、お隣のピロレブ王姉、ウルルカララ皇太子両殿下と終始和やかに御歓談された。

 皇太子殿下は、6日までの御滞在中、公式晩餐会を始めとする一連の関連行事にも参加されたほか,当地で活躍する青年及びシニア海外協力隊員を御接見され、また、5日の最終日には再びお二人で、在留邦人,日系人代表,更には在日トンガコミュニティ代表のラグビー関係者ともお会いになり,一人一人にお声をかけ激励された。

両殿下の御訪問は、国王王妃両陛下を始めとするトンガ王室、ポヒヴァ首相を始めとするトンガ政府関係者より、温かい大歓迎をうけるとともに、トンガ国民も、両殿下がお出ましになられたことに一様に感激し、現地マスコミも、雅子妃殿下のお優しい微笑みや日本のマスコミの関心の高さを伝えるなど非常に好意的な反応があり、日本国内でも、戴冠式に臨まれた両殿下のトンガ御訪問の様子が、TV、新聞、雑誌等を通じ120回近くも報じられ、日本、トンガの双方でその知名度が大いに高まる機会にもなった。

こうした心のこもった接遇が行われる背景には、前述のように歴代のトンガ王室と我が国皇室との極めて親密な関係がある。現国王王妃両陛下は、皇太子同妃両殿下の御訪問決定を大変喜ばれ、万全の準備を指示されたと聞いている。その最たる証は、ウルカララ皇太子とシナイタカラ同妃両殿下が、お召し機のファアモツ空港到着時のお出迎えから御出発のお見送りまで、いつも皇太子殿下と雅子妃殿下のお側にいて、きめ細かい心遣いを示されことである。両陛下主催公式午餐会で、お二人の御席はピロレブ王姉とウルカララ皇太子の間に用意され、終始和やかに御歓談されたことや、アンジェリカ王女主催午餐会での両皇太子殿下の楽しそうなお姿が印象に残る。皇太子殿下のトンガ御訪問は3回目であり、その親密さを窺い知ることができるが、今回のこうした交流を通じて、トンガ王室と我が国皇室の関係が一層強固で親密なものになったことは明らかである。

加えて、両殿下が、トンガご訪問を終えてのご感想の中で言及されておられるように、両国間には、開発援助を始めとする政府間の関係のみならず、両国国民間の温かい交流の積み重ねがあったことが、今回のご訪問をより実りの多いものにしたことは間違いないと確信する。実際、大の親日家として有名なトゥポウ4世前々国王の意向もあり、トンガでは、日本語とそろばん教育が積極的に取り入れられており,日本語については、1993年に中等教育課程(日本の中学・高校に相当)で正規の外国語選択履修科目に認定され、国定日本語教科書も作成され、現在公立4校と私立2校の計6高校で日本語の授業が行われている。また,そろばんは、1970年代に導入され着実に全国に普及し、2011年からは,政府の新指導要領により,公立小学校での必修科目となり、毎日15分間の授業が義務づけられている。


(そろばんの授業風景)

こうしたトンガ側の要請に応え、JICAは1973年からこれまで延べ500名弱の青年海外協力隊員を派遣しており、89年から日本語教育、1989年からそろばん隊員を継続的に派遣している。そろばん普及については、NPO法人「国際珠算普及基金連盟」が長年に渡り支援をしており、地方自治体レベルでも、兵庫県小野市が中古そろばんの寄贈事業を続けている。最近では、ラグビーを通じる交流も活発で毎年、多くのトンガ人青年が日本の高校や大学にスポーツ留学し、第一線のプロ選手に成長、活躍している。昨年のラグビー・ワールドカップでは、アマナキ・マフィ、リュウ・ホラニのトンガ出身選手が、日本チームの快進撃を支えたことは、皆さんの記憶にも新しいのではないだろうか。また、かつて、ハワイ出身の外国人力士として横綱になった武蔵丸の父上はトンガ人で、当地ではトンガの力士として知られている。

今年に入ってからも、3月には、全国そろばん大会が、4月には、日本語スピーチコンテストが、トンガ教育省との共同事業として開催され、ポヒヴァ首相兼教育大臣ご自身が出席され、多くの児童生徒が元気いっぱい日頃の修練の成果を競いあったところで、その後も、7-9月にかけて来年春の全国大会に向けて、そろばんの地区大会が開催されている。 青少年の交流としては、独立行政法人・科学技術振興機構の交流事業「さくらサイエンスプラン」で、本年度は初めて太平洋地域よりも参加し、トンガからも5名の高校生と1名の引率者が訪日し、ノーベル賞受賞の日本人科学者による講義や先端技術施設の訪問など感銘を受けたとの報告があった。また、30年近く地域との交流事業をしているNPO法人「アジア太平洋こども会議・イン福岡」は、今年も7月にトンガ人の小学生5名を受け入れ、8月には日本人中高生13人が3人の引率者とともにトンガを訪れ、一週間の滞在中、ホームステイなどを通じてトンガの人々と交流した。

文化面でも、6月末、メルボルンで活動中の「和太鼓りんどう」のメンバーが4日間にわたり訪問し、トゥポウ6世陛下誕生日を祝う「ヘイララ祭り」に参加し、会場を埋め尽くした1,000人以上の人々を魅了した。 9月には、日本写真家協会と国際交流基金の共催事業として、「日本の海岸線をいく」の写真展が、トンガ観光局ビジターセンターの庭園で約2週間に亘り開催された。1950年代~現在の日本の海岸線にまつわる写真約100点を展示した本展の開会式には、ウルカララ皇太子殿下及びシナイタカラ同妃殿下が御臨席され、セミシ・シカ観光大臣,トネ外務次官を始め要人も多く盛大に挙行された。王宮に近く市中心部の海岸道路にある絶好の立地条件もあり、会期中も、授業の一環として訪れた学生や一般の観光客など、多くの参観者に恵まれて大成功を収めた。


(「日本の海岸線をいく」の写真展の様子:写真中央がウルカララ皇太子殿下及びシナイタカラ同妃殿下)

経済協力についても、4月21日に、国王王妃両陛下のご臨席を得て、首都トンガタプの「国内輸送船用埠頭改善計画」の起工式が盛大に挙行され、私も、ポヒヴァ首相始めトンガ側要人、多数の招待者とともに参列し、国王陛下に続き、工事の安全を祈願する鍬入れの儀式をさせて頂いた。本事業は、日本政府の無償資金協力事業として、約33億円(66百万パアンガ)をかけて、我が国と同じく生存の多くを海に依存するトンガの人々が、より安全で快適な生活を送れるよう2本の専用バースや乗客ターミナルなど港内港湾施設を整備するものである。そして、それは、トンガと日本の友情の証であり、同時に、両国の緊密な関係がより強固なものになるための大きな契機となることを確信している。工事は、2018年年初の引き渡しを念頭に順調に進んでおり、9月には、ポアシ・テイ公共事業担当大臣の参加得て、当地メディアを対象とするプレスツアーを行い、進捗状況を広くトンガの人々に披露することができた。


(平成27年度無償資金協力「国内船用埠頭改善計画」鍬入れ式の様子:写真中央がトゥポウ6世国王陛下)


(平成27年度無償資金協力「国内船用埠頭改善計画」プレスツアーの様子:写真中央がテイ公共事業担当大臣)

この他、草の根・人間の安全保障無償資金協力も活発に展開しており、トンガタプ本島のみならず、最北端のニウアトプタプから、ババウ、ハーパイ、エウアなどの離島部でも、学校施設の建設・整備など教育分野を中心に、給水施設、病院整備、製氷機や小型船舶の供与など、人々の生活に密着した様々な分野で、地元コミュニティと一体となった協力を行っている。


(平成24年度草の根・人間の安全保障無償資金協力「ファレハウ村給水施設整備計画」竣工式典の様子)


(平成27年度草の根・人間の安全保障無償資金協力「ベイトンゴ小学校整備計画」竣工式典の様子:写真右はファカハウ農業・食料・林業・漁業大臣)


(平成27年度草の根・人間の安全保障無償資金協力「マアマロア幼稚園バオロロア分園整備計画」竣工式典の様子:写真中央はテイ公営企業大臣)

以上、着任1年半を迎える任国大使として、このような様々な協力や交流を通じて培われてきた、遠くて近い国との素晴らしい関係を、トンガの人々と一緒に、更に前進、深化させようとの決意を、新たにしたところである。

『日本にとって重要なパプアニューギニアの魅力と課題』2016-12-05

『日本にとって重要なパプアニューギニアの魅力と課題』


  • 松本 盛雄


松本 盛雄(在パプアニューギニア特命全権大使)

パプアニューギニアは南太平洋の赤道近く、オーストラリアの北側にある島嶼国で日本ではラバウルなどの地名がややなじみのある程度でその実態を知る人は少ない。人口は762万人(2015年)、国土面積は日本の1.25倍と、南太平洋の島嶼国の中では最も大きな国である。この国には600もの異なる民族と800にも及ぶ異なる言語があるといわれ、民俗学や文化人類学の研究者にとって世界的に重要な国でもある。また、4000メートルを超える高山地域から小さな無人島まで手つかずの自然が残っていることもこの国の魅力のひとつである。以下ではこの国の魅力と課題、日本との関係について紹介する。

多様な文化と豊かな自然

成田空港からニューギニア航空の直行便で南の方向へまっすぐに向かうと、6時間30分でパプアニューギニアの首都ポートモレスビーに到着する。現在日本との直行便は週2便運航されている。シンガポールやハワイとほとんど同じか、やや近いくらいの距離ではあるが、毎年この国を訪れる日本人は3000人あまりと大変少ない。それはこの国の魅力がまだ多くの人に知られていないためかもしれない。 パプアニューギニアの魅力のひとつはその文化の多様性にあるといわれている。600を超える島からなるこの国は、最大のニューギニア島(その西半分はインドネシア領)の中央を東西に走るオーウェン・スタンレー山脈の3000メートルから4000メートル以上の急峻な高山によって寸断されたニューギニア高地、そこに点在しお互いに往来の少ない民族群、急流が海にそそいでできた沖積平野、そして沿岸の諸民族。またマングローブの森に囲まれ、サンゴ礁が取り巻く島々にはそれぞれ異なる原住民が暮らしている。これら600にものぼる異なる民族の織り成す文化的風習・伝統文化がいわば手つかずの状態で残っている。

私自身も最初は全く区別がつかなかったが、多くの地域を訪問する中で、それぞれ特徴をもった民族について、どれがどこの地域の人々なのかおぼろげではあるが徐々に見分けがつくようになってきた。それが最もよくわかるのは民族舞踊大会などで、各民族がそれぞれ民族衣装をまとい、独自の舞踊を披露する場である。パプアニューギニアの人々はこういった文化的多様性を大変誇りにしていて、毎年、多くの場所でそのような大会が催される。有名なのは東ハイランド州ゴロカ市のゴロカ・ショーや東ニューブリテン州ココポ市(ラバウル)のマスク・フェスティバルなどである。

私が毎年楽しみにしているのは、かつて日本政府が無償資金協力で施設を建設したポートモレスビーにあるカリタス技術訓練学校で行われる学生たちによる民族ダンスショーである。ここでは各地からやってきた学生たちがそれぞれの民族衣装をまとってその特徴を説明しながら舞踊や音楽を披露し、出来栄えを競うのであるが、これだけ多くの民族舞踊が一堂に会するのは全国でも珍しいことである(写真)。また、若者たちがこうやって自分たちの固有の文化に誇りを持ってそれを後世に伝えていくことはとても大切だと感じる。

もう一つの魅力はその大自然と珍しい動植物などである。道路事情がわるいため、各地へ出張する際には基本的には飛行機での移動となるが、その眼下に見える景色はほとんどが熱帯雨林か槍のように切り立った連山で、その間に蛇行する茶色がかった河川が見える。高い山の間では頂上から河まで一気に下る断崖絶壁が進路を拒んでいる。このような地形のために、奥地ではいまだに人の入ったことがないような場所が多く、こういうところでは動植物の新種が見つかることも少なくないという。

私自身が着任後まもなく出張で訪れたマダン市は海辺のリゾート地でもあるが、このホテルの庭を歩いているときに木彫りの鳥が庭の真ん中に置いてあるのを見かけた。ところが、この鳥がしばらくすると突然動き出したのにはびっくりした。それは本物の鳥であった。ホーンビルという名の体長50センチほどのくちばしの大きな極彩色の鳥で庭の中をピョンピョンと跳ね回って家屋の裏に姿を消した(写真)。

ホーンビルもさることながら、この国に生息する鳥のうち最も有名なのはやはり極楽鳥で、その長い尾羽と目を引くような色彩が見事である。極楽鳥は国章ともなっており、国旗にもその姿が写されている。また、この鳥の様子をまねたダンスや羽を使った民族衣装の飾りは、お祭りでよく使われる。動物ではワニが東セピック州などの民族にとって神聖な動物であり、自分たちの祖先を象徴していると考えられている。このため同地の有名な木彫りの工芸品にはいたるところでこのワニの象形が使われている。珍しいのは木登りカンガルー(クスクス)であろう。小型の有袋類で基本的に木の上で生活している。地方のローカル市場では生きたクスクスが売られている。クリクリした目はとても愛くるしい。初めはペット用に売られているかと思ったが、実は食用であることがわかった。実際、市場ではすでに調理済みのクスクスも売られていた。

日本との強いきずな

パプアニューギニアは1526年に西側諸国としてポルトガル人が初めて上陸したが、その後オランダ、ドイツ、イギリスなどにより植民地化され、第二次世界大戦時には日本がニューブリテン島ラバウルやニューアイルランド、ブーゲンビルなどの島々を占領した。戦後はオーストラリアの委任統治下に入り、1975年に独立する。

独立に大きく貢献した「建国の父」と呼ばれるマイケル・ソマレ元首相と私が最初に言葉を交わしたのは2014年12月、着任後初めて実施した天皇陛下誕生記念レセプションの席であった。それまでも種々イベントで見かけることはあったが、話をしてみるとまったく威圧的なところのない気さくな方である。翌2015年5月に同元首相は対日関係における貢献により外国人に与えられる最高位の勲章である旭日大綬章を受賞された(写真)。その祝賀会を大使公邸で行った際、親しい友人たちに囲まれて談笑する氏の姿はまさに「慈父」といった様子であった。ソマレ氏もラバウルの出身である。当時、戦争の進展とともに父親に連れられて東セピック州に移転したが、そこで日本人との歴史的遭遇を経験する。柴田中尉は当時この地域に展開した日本軍の一員として東セピック州のカウプという村に駐屯していた。彼は地元住民のために小学校を建設する。当時9歳のソマレ氏はここで学び、日本語もある程度習得する。今回、叙勲のために訪日したソマレ氏は柴田中尉の夫人と再会を果たしたが、同席した私に「いち、に、さん」と日本語で言ったのには驚いた。柴田夫人はソマレ氏が知事を務める東セピック州の学校に私財を投じて図書室を作ったという。

2014年7月に安倍総理が日本の総理大臣として29年ぶりにパプアニューギニアを公式訪問された。この歴史的な訪問を機に両国関係は新たな局面に入ったといえる。この年からパプアニューギニアは天然ガス輸出国の一つとなった。現在、年間生産量は600万トンから800万トンとまだそれほど大きな規模ではないが、その半分程度を日本に輸出している。パプアニューギニアから輸入される天然ガスの量は日本の全輸入量の5%程度に過ぎないが、今後、その生産量と輸出量は新たなガス田の開発・生産開始によって、ますます増大していくものと予想される。液化天然ガス(LNG)の対日輸出第一船が2014年6月に日本の港に到着した際には、オニール首相が訪日してこれを出迎えた。LNGの輸出開始はそれほどまでにパプアニューギニアにとって重要な出来事であった。オニール首相はその後、2年間に日本を3回訪問している。

(写真提供:内閣広報室)

日本とパプアニューギニアとの外交関係は1975年の独立と同時に始まった。日本は最も早くパプアニューギニアを承認した国の一つである。両国は2015年に国交40周年を迎えた。国交樹立以来40年にわたり、日本の政府開発援助(ODA)を中心とする対パプアニューギニア支援はこの国の経済開発に大いに貢献してきた。この間のODA総額は約15億ドルに上る。これはオーストラリア、ニュージーランドといった旧宗主国等からの援助に次いで大きな規模である。日本の援助で建設された橋梁は特にその品質の高さが評価されている。私は着任早々ブーゲンビル州を訪問したが、この島を縦断する国道には2012年に15の橋が日本の無償資金協力で建設された。実際にこれらの橋を渡ってみるとその質の良さが実感できる。あたかもつい最近できたかのように堅牢でいささかの傷もない。品質に加えて日本企業の技術とそれを現地人に教えようとする態度は他の国の援助との比較で高く評価されている。私が訪れた橋の一つは洪水により護岸の一部が壊れてしまったのだが、この橋の建設に参加した地元企業が建設中に覚えたやり方で見事に修復していた。こういった技術移転が経済協力を通じて実現し、地元企業の技術力が上がっていくのは理想的なことである。

自信を強めるパプアニューギニアとこれからの課題

近年、パプアニューギニアは政治的な自信を強めつつある。多くの国際会議やイベントの招致にも力を入れている。2015年にはこの地域のオリンピックともいえるパシフィックゲームが成功裏に行われた。また同年、太平洋島嶼国会合(PIF)首脳会議もパプアニューギニアの首都ポートモレスビーで開催された。2016年に入ってからは、アフリカ・カリブ・太平洋諸国首脳会議(ACP)を開催し、79メンバー国中50か国以上の首脳らが出席した。今年11月から12月にはサッカーFIFAU20女子ワールドカップの試合が予定されている。さらに2018年にはAPEC議長国として首脳・閣僚会合などを開催する予定である。これらの国際的イベントを通じ、パプアニューギニアの島嶼国のリーダーとしての実力と存在感がますます増大していくものと期待される。

一方、パプアニューギニアは現在いくつかの課題を抱えている。一つはその政治的な安定性と政府の統治能力に関する問題である。独立から現在に至るまで、パプアニューギニア政府は国家建設のために多大な努力を払ってきた。オニール首相率いる現政府も2012年以来4年余りにわたり、経済開発の推進、教育・医療の無償化による国民の生活環境改善、インフラの整備などの重点政策を実施し、大きな成果を挙げてきた。しかし、ここにきて財政事情が悪化し、地方レベルでの財源不足が顕在化しつつある。いかにして地方への財政支出を確保するかは政治の安定とも関連する。今後はLNG輸出による収入の財政収入における比率が徐々に高まっていくと期待されているが、それをどのように分配していくかも政府の重要な役割といえる。

また、今後の政治的な安定性を占うひとつの重要な問題がブーゲンビルの独立をめぐる動きである。かつて同島のトロキナ地区における豪州企業による銅鉱山開発により自然破壊が生じ、これに端を発した民族独立の動きが高まり、武力衝突にまで発展した。この武力衝突は長期化したが、2001年の平和条約によってようやく沈静化し、危機は一応収拾した。その平和条約によれば、今後2020年までにブーゲンビルの独立の是非について住民投票を実施することになっている。これにはブーゲンビルの民族問題、経済的自立や鉱山開発権をめぐる問題などが複雑に絡み合っているだけに、中央政府としてのかじ取りが注目されている。

第二は経済面での課題である。パプアニューギニア経済は基本的に資源輸出型の産業構造であり、従来から農林水産・鉱業資源の輸出により発展を図ってきた。伝統的な輸出品目としては金、銅、ニッケル、木材、マグロ、パームオイル、コーヒー、ココアなどがあげられる。これに加えて近年は上述の通りLNG輸出が加わった。資源輸出に依存してきた結果、国内の産業はあまり発展しておらず、特に製造業はほぼ皆無といってよい。このため消費財を含むほとんどの物資を輸入に依存している。こういった対外依存度の極めて高い経済構造を改め持続可能な成長を図るため、国内産業の育成が急務とされている。現在、政府は観光業をその一つの重点として育成を図る方針である。確かに多様な文化と自然は魅力的であり、現在でもダイビングやサーフィンそれに民族舞踊イベントなどに多くの外国人観光客が訪れているが、これらの観光資源を十分に活用するためのインフラは未だ整備されていない。また政府は農業を強化し、国内需要を満たすと同時に付加価値の高い製品を輸出することも推奨している。農産物の中ではパームオイル、コーヒーやカカオなどが有名であるが、いずれも原料輸出が主流であり、付加価値はそれほど高くない。このような製造業における技術的課題を克服するためにも海外からの投資促進が重要である。そして海外から投資を誘致するためにはポートモレスビーなど大都市における治安の改善が喫緊の課題である。貧富の格差や民族問題等様々な要因により、大都市の治安は近年ますます悪化しており、いたるところで強盗、カージャックなどが頻発している。また、この国でビジネスを行う上でのもう一つの課題はコスト高である。ほとんどの物資を輸入に頼っているうえ、国内インフラが未整備なため輸送コストなどが高く、さらに上記の治安状況に対処するためのコストも必要なため、全体としての投資コストは他の島嶼国と比べても格段に高くなる。

地域の安定と繁栄に向けた二国間協力

 日本政府はこのように日本とパプアニューギニアとの歴史的関係や政治・経済的重要性に鑑み、引き続き両国関係の進展のために協力していくとの方針を明確にしている。たとえば2015年10月のオニール首相公式訪問の際に行われた日・パプアニューギニア首脳会談における共同プレス発表には今後の協力の重点として次のような諸点を挙げている。

(1)太平洋・島サミット(PALM)プロセスを通じて地域協力を促進すべく共に取り組む。

(2)パプアニューギニアにおけるLNGプロジェクト並びに投資の促進及び保護に関する両国間の協定の円滑かつ効率的な実施等を通じて経済的なつながりを一層深化させる。

(3)防災、気候変動、環境、人的交流、持続可能な開発、海洋、海事・漁、そして貿易、投資、観光等の多様な分野において協力を強化していく。

ODAを通じた経済開発を継続しつつ、日本からの投資誘致促進のために協力し、パプアニューギニアの自律的発展を支援していくことがますます重要となってきている。

(本稿に表明された見解は、筆者個人のものである。)

『最近のフィジー情勢』2016-11-14

『最近のフィジー情勢』



         花谷 卓治(駐フィジー大使)

金メダル

 フィジーにとって初めてのオリンピックメダルは金色だった。リオオリンピックで初めて競技種目に採用された7人制ラグビーでの殊勲だ。これはフィジーのみならず、太平洋諸島全体にとっての快挙だ。なぜなら、これが太平洋の島国にとって初のオリンピック金メダルとなったからだ。

 もちろん、英連邦諸国間の競技大会ではいくつかメダルを獲得しているし、前回ロンドンパラリンピックでフィジーは金メダルを獲得している。子供の頃事故で片足切断したイリエサ・デラナ氏は、障害種別F42というクラスでハイジャンプに挑み、174センチメートルを跳んで優勝した。凱旋帰国のときは国家元首級の栄誉で迎えられたという。そのデラナ氏はJICAの帰国研修員でもある。2008年に「障害者のスポーツを通じた社会参加」コースに参加していた。現在はバイニマラマ政権の青年・スポーツ省の副大臣を務めている。太平洋島嶼国にとっては、これがオリンピック、パラリンピックを通じて初の金メダルとなる快挙だった。(JICA東京・人間開発課・定家陽子氏「JICA東京の帰国研修員がロンドンパラリンピックで金メダルを獲得!」参照) 

 このようにパラリンピックではすでに金メダルを獲得していたが、オリンピックではまだメダルがなかった。

 ラグビーはフィジーの「国技」と言ってよい。7人制ラグビーでは世界ランキング1位、15人制でも現在10位だ(日本は7人制では15位、15人制では12位)。子供たちは小さい頃から至る所でラグビーボールを持って走り回っている。こうした環境で育つフィジーのラグビー選手は豪州、ニュージーランドのみならず、欧米諸国、日本など世界各地で活躍している。

 2013年秋に英国からベン・ライアン氏をヘッド・コーチに迎えたフィジーの7人制ラグビーチームは、2014-15年のワールドシリーズで見事に優勝を果たし、初のオリンピックメダル獲得を目指してリオに乗り込んだ。予選リーグ3戦全勝でグループAの1位で決勝トーナメントに進むと、準々決勝戦でニュージーランドを12対7、準決勝戦で日本を20対5で下し、決勝戦では英国を43対7と突き放して優勝した。

 英国のアン王女から金メダルを受けるとき、表彰台のフィジー選手たちはみな跪いてメダルを首にかけてもらっていた。英国王室に対する敬意を表す作法が印象的だった。

 日本は予選リーグ初戦で強豪ニュージーランドを14対12で破る歴史的大金星をあげた。英国には19対21で惜敗したものの、ケニアを31対7で下してCグループ2位で決勝トーナメントに進むと、準々決勝では12対7でフランスを倒した。準決勝でフィジーに敗れた後、3位決定戦では南アフリカに14対54で敗れ、惜しくも銅メダルを逃したが、世界の強豪を相手にベスト4入りは立派な成績だ。世界ランキング15位の日本がここまで健闘すると予想した人は少なかったのではないか。 そして、この日本代表チームの選手12人の中にはフィジー出身選手が二人いて、チームの躍進に大いに貢献したことも忘れてはならない。副島亀里・ララボウ・ラティアナラ選手とトゥキリ・ロテ選手だ。二人とも日本国籍を取得しており、今後とも日本代表チームの一員として活躍が期待される。

 2015年ラグビーワールドカップで日本が強豪南アフリカを倒す歴史的大金星をあげたとき、「ラグビーの歴史を変えた」として世界中から称賛されたことは記憶に新しい。昨年の大金星に続き、今年はリオでニュージーランドを倒す大金星をあげたことで、日本ラグビーを見る世界の目は変わってきている。ラグビーを「国技」とするフィジーで日本の株が大いに上がったことは言うまでもない。昨年のラグビーワールドカップの日本代表チーム主将リーチ・マイケル選手はニュージーランド生まれだが、母親はフィジー出身だ。だからフィジー人は彼のことを半分フィジー人だと思っており、日本の勝利を自分たちの勝利のように喜んでくれるのだろう。

 昨年のラグビーワールドカップ後、15人制ラグビーの世界ランキングは日本10位、フィジー11位と日本がフィジーの上位にいた。このことを天皇誕生日レセプションで紹介したとき、フィジー人たちは驚き、大いに悔しがったものだが、同時に日本の活躍を喜び祝福してくれた。

 2019年ラグビーワールドカップと2020年東京オリンピック・パラリンピックでは、日本代表チームはさらに強くたくましくなっているだろう。フィジー代表チームを迎えてどのような活躍を見せてくれるのか、今から大いに楽しみだ。

国旗

 選手たちがリオから凱旋帰国した日の翌8月22日(月)は急遽国民の祝日とされ、国中がお祭り騒ぎとなった。首都スバでも凱旋パレードが行われ、競技場では盛大な歓迎式典が催された。競技場の大スクリーンでは、リオでのフィジーの全試合、全得点の場面が流され、国民は改めて勝利の美酒に酔った。代表選手12名とコーチ陣には大統領から勲章と金一封が授与された。国民たちは大小多数の国旗を振って、国のヒーローたちを称えた。競技場の観客席はオーシャン・ブルーの旗で埋め尽くされ、大波小波がうねっているように見えた。車も国旗をひるがえして走り、町中に国旗が溢れかえった。国民たちがこれほど国旗を振り喜びを爆発させたのは、国民的ヒーローたちの凱旋に加え、その数日前にバイニマラマ首相がリオデジャネイロから声明を発表し、フィジーの国旗変更方針を取下げたことも関係していたに違いない。現在の国旗に愛着を持つ国民が、この国旗を当面維持できることに安堵し、正直に喜びを表わしているようだった。

 2013年1月の段階でバイニマラマ首相は国旗変更方針を発表していたが、その翌年の総選挙や新たな議会制度発足などで多忙を極め、国旗変更の話は一時わきに置かれたように見えた。しかし、2015年になり、新しい国旗の図案の公募や選定方法など具体的手続きが示された。やはり新しいフィジーには新しい国旗がふさわしいというのがその理由だ。確かに共和国であるフィジーの国旗に旧宗主国である英国の国旗を残す必要はない。英国女王はもはやフィジーの国家元首ではない。1970年に英国から独立したフィジーは、1987年の2度にわたる軍事クーデタを経て共和国となった。それから30年近くも国旗にユニオンジャックが残されてきたのは不思議と言えば不思議だ。新しいフィジーにふさわしい国旗に変えたいという理屈はもっともだ。しかし、公募で集められ国民に紹介された新しい国旗の図柄の評判はどれも今一つだった。何より国民は独立以来慣れ親しんだ国旗に愛着を感じていた。国民はこの旗を振ってフィジーのチームを応援し、この旗で初の金メダルを祝福したばかりだ。その国旗を変更しなくてよいことになったのだから、国民の喜びは倍化したに違いない。

 フィジー人はもともと(豪州ではなく)英国の統治を受けたことに誇りを持っている。だから共和国となっても国旗にユニオンジャックを残すことは全く気にしないし、むしろ誇りに思っているくらいだ。

英国との歴史的関係

 そもそもフィジーが英国の統治下に入ったのは、1874年、当時のフィジーの大酋長(王)ザコンバウが英国のヴィクトリア女王に自ら進んで移譲したことによる。フィジー人にとって、当時のヴィクトリア女王は自分たちを保護してくれる大酋長の一人に思えたのではないか。

フィジーは伝統的酋長制社会の国だ。小さな村の酋長から、国全体を3つの地域に分けて君臨する3人(注:現在1つは空席)のパラマウント・チーフ(大酋長)に至るまで、階層的な酋長社会ができている。英国君主制度への親近感が高いのは、このようなフィジーの伝統的社会構造とも関係があるのだろう。

 現在でも大統領官邸の壁には英国のエリザベス2世女王陛下の肖像画が掛けられている。議会で財務大臣(現在は経済大臣)が3時間近くかけて政府予算案を読み上げるのも英国の伝統らしい。モーニング・ティーやアフタヌーン・ティーの習慣がある。最近見かけることが少なくなったが、つい最近まで紙幣や硬貨には英国女王陛下の肖像が使われていた。フィジー陸軍の最大の駐屯地は現在でもクイーン・エリザベス・バラックという。クィーン・ヴィクトリア・スクール(QVS)にアルバート・パーク、キングズ・ロード、クイーンズ・ロードにクイーン・エリザベス・ドライブなど植民地時代の名称はあちこちに残されている。

 英国軍が1961年に英連邦諸国から兵士を募集し採用を初めて以来、フィジーは英国軍に兵士を送り続けている。現在約1400名のフィジー出身者が英国軍で勤務しており、これは英連邦諸国からの兵士全体の過半数であるというから、フィジーの占める比重の大きさがわかろうというものだ。約3500名のフィジー国軍と比較しても相当な人数だ。

『パラオの現状と日本・パラオ関係』2016-10-24

『パラオの現状と日本・パラオ関係』



         田尻 和弘(在パラオ大使)

パラオと聞いて日本人は何を思い浮かべるだろうか。若い年代であれば、太平洋に浮かぶ常夏の楽園、美しい珊瑚礁、ダイビングのメッカ等、また、年配の方であれば、日本の委任統治領、南洋庁、ペリリュー島の玉砕等であろうか。しかしながら、多くの人は、パラオの正確な位置、現状、最近の日本とパラオの関係等について、ほとんど知らなかったのではないだろうか。「知らなかった」と書いたのは、2015年4月の天皇皇后両陛下のパラオ御訪問以降、日本におけるパラオの理解が非常に高まったと思われるからである。

 両陛下は、戦後70周年の節目の年である2015年の4月8、9日、戦没者の慰霊と日本とパラオとの友好親善関係の増進を目的とされて、パラオを御訪問になった。24時間あまりの短い御滞在であったが、ミクロネシア3国(パラオ共和国、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国)の大統領夫妻と面会になり、ペリリュー島を訪れて日本と米国の慰霊碑に献花され、また、多くのパラオ人及び在留邦人とも御挨拶を交わされた。御訪問の様子は、テレビや新聞を通じて日本でも大きく報道され、それを通じて、多くの日本人がパラオの現状、日本とパラオの関係、ペリリューやアンガウルでの日米間の戦闘、現在も行われている遺骨収容や不発弾処理について知るところとなった。

遺骨収容・慰霊分野における功績により, 旭日双光章を受章したシゲオ・ペリリュー州酋長

パラオを訪問する日本人観光客は最近数年間、減少傾向にあるが、両陛下の御訪問後、忘れ去られた島と言われたペリリュー島を訪れる日本人が増え、研修のためパラオを訪問する小中学生、高校生、大学生も増加している。高齢の両陛下の慰霊の様子をテレビで見て、中断を決めていた慰霊団の派遣を再開した団体もある。また、環境保護等の面でパラオに協力しようとする日本の大学やNGO関係者の来訪も増えている。本年8月には、日本の海上自衛隊の輸送艦「しもきた」がパラオに入港し、米国、豪州及び英国の軍関係者と共に、約10日間にわたって、医療(白内障の手術、歯の治療等)、補修(小学校・高校の屋根のペンキ塗り等)、スポーツ交流活動を行い、パラオの人々に日本の存在を強く印象づけた。

日本の南方約3000キロメートルに位置し、歴史的な経緯もあって大変親日的なパラオは、現在、大きな変化の途上にあるのではないかと感じている。パラオの持続的な発展、日本・パラオ関係の強化・発展のためには、日本はパラオに対して、今後どのような協力をしていけばよいのであろうか。そのことを考える上でも、昨年の両陛下のパラオ御訪問により、日本及びパラオでそれぞれ相手国に対する関心が高まり、相互理解が進んだことは重要であると考える。

パラオは、1994年に米国の信託統治領から独立したが、米国・パラオ自由連合盟約(通称「コンパクト」、有効期限は50年間)によりパラオの安全保障については米国が責任を持ち、米国はパラオに対して当初、15年間、経済援助を行うこととなった。経済援助は2009年までの15年間で5億6千万ドルが支給され、2010年に修正コンパクトが結ばれて財政支援は2024年まで15年間延長された(但し、修正コンパクトは米国議会で未承認のため、臨時措置として、毎年1314万ドル余りの直接財政支援のみが支給されており、信託基金等への支払いは行われていない)。コンパクトによる財政支援はパラオ財政収入の20%強を占めているが、2024年以降の財政支援継続の有無等については、未だ具体的に検討されていない。

パラオの最大の産業は観光業であり、観光収入のGDPに占める割合は50%以上となっている。2014年から中国人観光客が激増し、2015年には外国人観光客全体の54%、約8万7000人を占めるまでになった。これは2013年の約9倍である。他方、日本人観光客は2013年までは第1位であったが、2014年には中国に抜かれ、更に、2015年は対前年比で約7000人減の3万1000人となっている。 パラオは、観光業の持続的発展のため、環境・資源保護に力を入れており、その一環として2015年10月、「国家海洋保護区設置法」を成立させた。同法により、2020年よりパラオEEZの80%で商業漁業が全面禁止されることとなった。残り20%のEEZでも外国船の商業漁業は認められなくなる。また、同法において、2016年10月1日より、米国、ミクロネシア、マーシャル等を除いて外国人訪問者に対して査証手数料50ドルを課すこと及び外国人訪問者から100ドルの環境影響税を徴収することが規定された。

パラオは、外国人観光客、特に中国人観光客の急激な増加を踏まえて、査証手数料や環境影響税を徴収し財政基盤を強化しようとしているが、将来の受け入れ可能な観光客数や観光客数の安定性については、様々な意見が出されている。また、中国人観光客のみに頼る観光業は危険で、日本、台湾等とバランスを保つ必要があるとも指摘されている。上記、査証手数料の徴収については、観光客の減少につながるとして、日系を含めた旅行代理店やホテル・レストラン関係者からの反対が強く、パラオ政府は本年7月、その適用を見送った。また、環境影響税についても、諸準備を整えるための時間が必要として、その実施を明年4月1日からに延期した。

諸費用の高騰が観光客に及ぼす影響は無視できない。有名な世界遺産であるロックアイランドに行くツアーは、旅行代金約150ドル以外にロックアイランド許可証の取得に50ドル、人気スポットであるジェリーフィッシュレイクに行く場合には更に100ドルの支払いが必要で、1人当たりの合計額は約300ドルとなる。来年4月からはパラオ出国時に環境影響税100ドルが徴収されることになり、パラオ旅行は高いと感じる人が更に増えるのではないだろうか。

パラオ指導者は、観光客1人当たりの収入が多い日本人観光客の増加を期待しているが、旅行代金の高さ、主要ホテルの予約難等により減少傾向が続いている。日本人観光客の減少は、そのほとんどが観光関連ビジネスに従事するパラオ在留邦人(約380人)の生活に直接、影響する。

パラオ側としては、コスト高に配慮するとともに、観光客の満足度を高める努力が必要となる。筆者の3年間の在勤中、海や陸地に捨てられているペットボトルやプラスチックバッグが目立って増えた。ゴミの不法投棄の取り締まり強化が必要で、また、観光客が立ち寄る離島のトイレの整備や、新しいツアーの開発・導入等も必要と思われる。

パラオとしては、環境への負荷、受け入れ可能な外国人労働者数、インフラの整備状況、ホテル数の増加等を勘案しながら、適正な観光客数の上限を考える必要があろう。素晴らしい環境を維持しながら観光業を発展させていくことは容易ではないが、この分野で日本が果たすべき役割は多い。日本は、これまでもODAによりパラオのインフラ整備に協力してきており(橋、道路、空港、発電所、ゴミ処理等)、今年8月からは無償資金協力によるコロール等の上水道改善計画の工事が開始された。民間主導の空港ターミナルビルの改善計画も検討が進められている。また、ADBのローンによる下水道整備とインターネット環境の向上を目指す海底ケーブル敷設工事も始まろうとしている。これらは、いずれもパラオ市民の生活水準の向上のみならず、外国人観光客の快適な滞在にも資するプロジェクトであり、観光客の増加につながることが期待される。最近は、笹川平和財団によるエコツアーの開発等の分野での協力も進みつつある。バランスのとれた観光業の発展における日本の役割は大きく、パラオ側の期待も大きい。

アンガウル州への消防車供与 (草の根・人間の安全保障無償資金協力)

日本は、1979年以来、パラオ海域でマグロ、カツオを漁獲しており、2012年には29隻の我が国漁船が1841トンを漁獲している。日本政府としては、国家海洋保護区法により2020年以降、外国漁船による商業漁業が禁止される予定であることに対して、2020年以降も我が国漁船の操業が可能となるようにパラオ側に要望している。パラオの対日輸出の大宗をマグロ類が占めているが、2020年以降の両国貿易関係はどのようになるのであろうか。パラオの広大な水域には周辺国から違法操業漁船が多数入り込んでいるが、パラオの取り締まり能力には限界がある。日本政府は、違法漁業関連情報のパラオ政府への提供等の協力を行っており、また、日本財団・笹川平和財団は、パラオの取り締まり能力強化のため、パトロールボートを供与したり、関係者の研修を実施したりしている。パラオは、EEZの80%における商業漁業全面禁止導入の際、同措置はパラオの伝統的な休漁措置である「ブル」に基づくものであると説明を行っていたが、適正な資源管理と有効な違法操業取り締まりによりマグロ資源が回復すれば、2020年以降も外国漁船による商業漁業が認められる可能性はあるとの示唆であると理解している。

2024年以降のコンパクトによる財政支援の継続が不明瞭な中で、パラオは観光収入以外の分野での収入の確保等、バランスのとれた経済発展を図ることが求められている。そうした中で、2016年11月1日、パラオで総選挙(大統領、副大統領、上院議員、下院議員)が行われる。明年1月19日(予定)には新大統領の就任式が行われ、パラオの新しい体制がスタートする。日本としては、率直な対話を通じてパラオとの間でウィンウィンの関係構築を目指して引き続き協力していく必要があろう。

セブンティ・アイランド

ロングビーチ

(平成28年9月記)

『ミクロネシア連邦での素晴らしき日々』2016-10-03

『ミクロネシア連邦での素晴らしき日々』



         坂井 眞樹(前駐ミクロネシア大使)

1 はじめに

 昭和56年度に農林水産省に採用され、35年余の勤務を終えて本年6月に退職した私にとって、公務員生活最後の2年間は思いもかけず拝命した駐ミクロネシア連邦日本国大使として正に得難い経験ができ、幾多の思い出に満ちた日々だった。私にこのような機会を与えてくれた方々、在任中お世話になった方々に改めて感謝するとともに、3つの言葉を紹介する形でミクロネシア連邦での素晴らしき日々を振り返ってみたい。

2 日本との強い絆を持つ国ミクロネシア連邦  

まず、日本と縁が深い国ミクロネシア連邦を簡単に紹介したい。ミクロネシア連邦は第二次世界大戦終結までの30年間日本による委任統治下で日本語教育が行われていたところで、先生、運動会、自動車等多くの日本語が現地語の中で使われている。人口の約2割が日本人の血を引くと言われており、初代ナカヤマ、第7代モリと二代の日系人大統領を輩出している。米国による信託統治時代を経て、現在は独立国家として米国との間で自由連合協定を締結、米国が国の防衛を担い財政援助を行っている。その援助額は国の予算の半分を超え、GDPの3分の1程度を占めてミクロネシア連邦の経済の根幹を支えている。

3 Water Salute

 離任の日2016年5月26日は私達夫婦にとって生涯忘れることができない日となった。週に4便しかないグアム行きに搭乗するために向かった空港では、Kalahngan Oh Kaselehlie Ambassador Masaki Sakaiと書かれた垂れ幕が迎えてくれた。Kalahnganは首都のあるポンペイ州の現地語でありがとう、Kaselehlieは最もよく使われる挨拶の言葉、人と会った時別れる時どちらにも使える便利な言葉で、別れる際も単なるさようならではなく、また会いましょう、それまでお元気でといったニュアンスを持つ、ミクロネシアの人々の穏やかでやさしい気質にふさわしい言葉だ。

私達のために垂れ幕を準備してくれたことに感激し、見送りに来て頂いた方々と多くの写真を撮影してから向かったVIPルームでは、さらに大きな驚きが待っていた。伝統的リーダーが私達を送るSakauセレモニーを主宰してくれたのだった。Sakau(南太平洋ではカヴァと呼ばれる。)は胡椒科の木の根を砕いて作る沈静効果を持つ飲み物で、玄武岩の上で根を叩いて砕くところから始まるセレモニーは主要な行事では必ず行われる。上半身裸の若者達が作法に則って作ったSakauはまず伝統的リーダーのもとに運ばれる。主宰者であるリーダーは、セレモニーの趣旨や伝統的なランクに応じて、一杯ずつゲストが飲む順番を決めていく。彼の指名により最初の一杯が私のもとに運ばれてきた。当地で最初にSakauを飲むことは大変な名誉で、このような機会を得るができるとは夢にも思っていなかった。VIPルームには、シャンパンやワイン、多くの食べ物が用意されていて、ゲストの到着時ではなく出発に際してSakauセレモニーを行うのは今回が初めてとのことであった。在任中現場の視点で援助の実現に努力してきたことがミクロネシアの人々に伝わっていたことがわかり、これまでの苦労が報われた思いだった。

最後に待っていたのがWater Saluteだった。搭乗した飛行機が滑走路に向かう際、2台の消防車による放水が行われた。機長から、この飛行機で日本大使が離任するので特別のセレモニーが行われる旨のアナウンスがあり、機内の人々から暖かい拍手を頂いた。ミクロネシア連邦が国として私達を暖かく送ってくれていることに感激し、苦労も多かったが2年間頑張ってきてよかったという思いがこみ上げてきた。

4 Development Partners

米国を始め多くの国や国際機関が援助を展開するこの国でよく聞かれる言葉である。与える者と与えられる者との上下関係ではなく対等の立場で成長を目指す、耳ざわりの良いこの言葉には実は深刻な問題が隠されている。1986年に独立して以降、道路、電力、上下水道や医療教育分野で多額の援助が行われているが、こうした基礎的分野のレベルは依然として低く、米国の信託統治時代に整備された道路等のインフラは更新期を迎え劣化が進んでいる。独立国家である以上人材を育成し国づくりの責任を負うのはミクロネシア連邦の指導者たちであるが、Development Partnersという言葉の陰に隠れてこうした現実を直視しようとしない、また援助側も指摘しない。いくら援助で道路、電力といったインフラを整備しても、自分たちの力でメインテナンスを行い運営することができなければ、老朽化すれば一から援助で作り直すという同じことの繰り返しに終わる。ミクロネシア連邦は言葉も文化も異なり、東西3000キロ以上隔たった独立性の高い4州で構成されている。直前にキャンセルされたが、約半分の人口を擁するチューク州では独立の是非を問う住民投票が昨年の連邦議会議員選挙と併せて予定されていたくらいで、国家運営が大変難しい国である。そういう困難はあっても、国や州の運営はミクロネシア人が責任を持って進めなければならない。そして、それを担う人材の育成は、ミクロネシア連邦の人々の自覚と努力なくしては決して実現できない。

国内人口10万、GDP300億円のこの国で多くの国、国際機関、NGOが実に多様な援助を展開している。その全容は連邦政府を含め誰も把握していない。Development Partnersの数が多すぎて連携を取ることは容易ではない。米国による財政援助が開発計画の策定、更新を要件としていることから、インフラ整備、産業育成等に関するあまたの計画が作成されてきたが、現実を見ればインフラの劣化と入漁料収入への依存が続くだけで何も実現していない。経済開発に関する計画では広大な排他的経済水域を活用した漁業振興がメインに据えられているが、太平洋島嶼国で展開されている巻き網漁業は、大型魚槽を持つ大規模漁船を要し、搭載したヘリコプターを使って魚群を追う高度なスキルを必要とする。主要漁獲物であるカツオの太宗は 鰹節や缶詰の原料となり高い付加価値は望めない、重量にして半分程度になる残さは安価な魚粉に加工するしかなく、島嶼国で現地加工しても消費地まで赤字を覚悟で輸送するしかない。当地に1年程度滞在しただけで開発計画を書く米豪のコンサルタントや時折訪問するだけの国際機関のエコノミストにこうした話をしても、理解ができないか具体策は実態に応じて現場で考える必要があるといった無責任なコメントが返ってくるだけで、こうして何の役にも立たない計画が積み上げられ、何の手も打たれないままに沿岸資源が枯渇していく。人材不足はミクロネシア連邦に限った話ではないのだ。

在任中、多くのDevelopment Partnersの中で日本がリーダーシップを取ってミクロネシア連邦の人々の生活の向上と連邦及び州政府の人材育成を進めることができる分野として、廃棄物処理・リサイクルを援助施策の重点分野とした。JPRISM(JICAが太平洋島嶼国で展開している廃棄物処理プロジェクト)の専門家が数か月に一度程度ではあるが4州を訪問しダンプサイトの整備やごみの収集方法について技術指導を行っている。これに呼応する形でノンプロ無償や草の根事業でごみ収集車やダンプサイト用のエクスカベータを供与し、できるだけ丁寧なトレーニングを実施した。海辺や森への投棄を根絶し、ごみの収集システムを築き上げるためには地域住民の理解と協力が不可欠であることから、伝統的リーダーに住民の意識向上を図ってもらうよう働きかけた。最初は日本大使が地域住民の生活に関与しようとしていることに驚かれたが、輸入されるペットボトルやプラスチック容器は200年たっても分解しない、このままでは美しい島もごみで埋もれてしまうことを粘り強く説明して理解を得た。空き缶やペットボトルのリサイクルは緒に就いたところで州によって進捗状況は州によってもかなり異なっている。首都パリキールのあるポンペイ州ではデポジットの徴収が販売時点で行われることとされているため、未納が多くあってリファンドに必要な資金が常に不足しシステムが機能していない。100%徴収できるよう輸入時点での課金に変更するための改正案を作って知事や州議会議員に州法の改正を働きかけた。離任する数日前にピーターソン州知事が州議会で可決し知事が署名して成立した改正法を大使館に持ってきてくれた。万事ゆっくり進むこの国で1年余りで法改正ができたことに驚くとともに地道な努力が実ったことに大きな満足感を覚えた。

5  Subsistence Affluence

市場経済の導入により希薄化したとは言え、自給自足の豊かさを意味するこの言葉がこの国の原点であり、この国の人々の生活を支えその優しさを生み出している。赤道に近い強烈な日差しの下でヤム、タロイモ、パンの実がみのり地先で獲れる魚も豊富で、こうした自然の恵みを平等に分け合うことで、ミクロネシアの人々は平和な暮らしを営んできた。狭い地域で自己完結的な生活が可能なことから、各コミュニティの独立性は高く、人口3万人程度のポンペイ島では5つの市が残されており、独自の憲法を持ち毎年自分たちのコミュニティの建国記念日を祝っている。Sakauセレモニーのマナーも異なっているという。各コミュニティの伝統的リーダーは人々の上に君臨する王ではなく、Sakauセレモニーを主宰し権威に基づいて収穫物を住民に平等に分配する司祭なのであり、彼らを精神的支柱として人々は日々の生活を営んでいる。

こうした伝統社会も米国の財政援助で公務員に給与が支給され消費経済が形成されるとともに大きく変容しているが、Subsistence Affluenceに支えられた伝統社会はまだまだ人々の生活に力強く息づいている。この国にはホームレスはいない、肉体的あるいは精神的なハンディキャップを負った人も大家族制の下で誰かが面倒を見る。東京を訪れ聳え立つビル群に圧倒されたミクロネシアの人々に、その下にはホームレスがいる、アパートの一室で誰にも看取られることなく死んでいく高齢者もいるという話をすると、一様に信じられないという顔をする。私に対して、日本に帰って一人になってしまったら自分のところにきて一緒に住んだらいいという人もいる。所有するアパートに住んで1年にもならない日本人が亡くなった時自分の庭に手厚く葬ってくれたポンペイ人 がいた。当地では家族を庭に埋葬するのが習慣であり死に対する考え方も日本とは異なっているが、どのような事情があったかはいざ知らず、自らの死に際して血の繋がった兄弟や子供から何ら顧みられることのなかったこの日本人はミクロネシア人のやさしさに救われたのだと思う。今後予想される米国の財政援助の減少は人々の生活に少なからぬ影響を与えるであろうが、彼らがこうしたやさしさを失わないでいてほしいと願う。そして援助する側に立つできる限り多くの人々がSubsistence Affluenceに支えられた伝統社会の素晴らしさを理解し、まっとうな方法で外貨を獲得する手段が入漁料以外には存在しないこの国において一般的な経済開発理論が通用しないこと、Subsistence Affluenceをフルに活用し伝統社会と折り合いをつけた形でしか真の意味での社会の発展や人々の生活の向上を図ることができないことをわかってもらいたいと願う。

6 結び

これまでの公務員生活と同様、ミクロネシアでも山もあれば谷もあった。一昨年10月、11月に日本の巻き網漁船4隻が相次いで拿捕され,日本漁船がミクロネシア連邦水域から全て退去する事態となり,これまで順調であった両国の漁業関係は最悪の状況に陥ってしまった。十分な証拠もないのに拿捕し司法当局から示談を持ちかけるという当時の米国人司法長官による前代未聞の拿捕ビジネスが展開されたのだった。司法当局は8月に行われた違反を拿捕の理由としていたが、拿捕までの2,3か月で4隻分の証拠を収集し拿捕の準備をすることは先進国の司法当局でも困難である。こうした事情はあっても拿捕されたと聞けば何か違反をしたのだととらえられるのが普通で、ミクロネシアの人々の間での日本漁船、ひいては日本の評判も悪化し暗澹たる思いの日々を過ごしたが、昨年5月に発足した新政権の下で強力なリーダーシップを発揮したクリスチャン大統領と協力して急ピッチで関係を改善できた。司法長官もポンペイ人に代わり日本漁船が安全に操業できるようになった。その過程で農林水産省勤務時の経験や知見を活かすことができ、今ではこうした活躍の場を与えられた幸運に感謝している。この他にも、雨の多い当地で我が国が供与した体育館が地域コミュニティでフルに活用され住民に大変感謝されたり,更にはサメ保護法の改正など多くの分野での仕事に取り組むことができた。

 2年間の在任中、4州を訪ね州議会から小学校まで約50か所で両国間の絆と題する講演を行った。昨年11月に訪ねたコスラエ州のワラン小学校では,帰り際に全校の子供たちが講演のお礼にと校歌を歌ってくれた。コスラエ語で歌われた校歌の歌詞は全く分からなかったが、最後が日本語の「頑張れ」という言葉で結ばれていて大変感動したことを今でもよく覚えている。得難い経験ができたことに感謝し、これからも子供たちの激励の言葉を胸に一歩ずつ前に進んでいきたいと思う。

『情けは人のためならず』2015-3-27

『情けは人のためならず』
ボリビア・日本消化器疾患研究センター



         椿 秀洋(駐ボリビア大使)


 2014年4月13日、日本とボリビアは外交関係樹立100周年を迎えました。第二次世界大戦時の1942年からサンフランシスコ講和条約が結ばれた1952年まで10年間の断絶がありましたが、この100年間概ね良好な友好協力関係を発展させてきています。1960年から日本のボリビアに対する経済協力が始まり、ボリビアは中南米地域における我が国の無償資金協力の最大の受益国となりましたが、それまでは1899年に始まる移民や1954年に始まる戦後移民の受け入れ等、むしろ日本がボリビアから多大な恩恵を蒙ってきた経緯があります。

 日本のボリビアに対する経済協力の主要分野のひとつには医療・保健分野が挙げられます。無償資金協力や技術協力のスキームを通して,多大な支援を行ってきていますが、中でも1979年以降ラパス市(事実上の首都),スクレ市(憲法上の首都),コチャバンバ市(第3の都市)の主要3都市に無償資金協力を通して順次建設された「ボリビア・日本消化器疾患研究センター」が特筆されます。

ボリビア日本消化器疾患研究センター設立35周年と日本ボリビア外交関係樹立100周年のロゴマークを掲示した同センター正面入り口
 ラパスに建設された「ボリビア・日本消化器疾患研究センター」は2014年4月27日に設立35周年を迎えました。同センターに対しては,技術協力の一環として,長期に亘って技術指導や日本での研修等が行われています。したがって同センターの医師には日本で研修を受けた者が多く,東邦大学大森病院の専門医達との交流を通じて覚えた日本語で挨拶する等,非常に親日的な雰囲気に包まれています。センター内には日本の協力で建てられたことを示す資料も多く展示されていて、来訪者が日本の協力によって建設された施設であることを自然に理解するようになっています。また、設立当時から今日までに供与された機材は全て大事に使用されあるいは保存されています。

 同センターは「ボリビア日本病院」の愛称で親しまれ、2001年にはボリビアの最優秀病院に選出されていますが,2004年には「世界消化器疾患機構(WGO: World Gastroenterology Organisation)」から,中南米地域では初の「消化器疾患・内視鏡研修センター」の認定を受けました。現在では内視鏡研修をはじめとする中南米屈指の消化器疾患関連の研究・研修施設として,毎年開催される研修コースに、北はメキシコから南はアルゼンチンまで、中南米各国から多くの専門医が参加するまでになっています(2005年から2014年までの10回の研修コースにJICAの第三国研修135名、右以外の個別研修274名の計409名が参加)。また長く院長を務め、現在も研修センター長を務めているビジャ・ゴメス博士は世界的にも著名な消化器医として高名を馳せていますが、2014年秋の叙勲でこれまでの功績と日本ボリビア両国間の関係強化に果たしてきた多大な貢献を讃えられて旭日双光章を叙勲されました。同博士自身、自らの言葉で日本との医療協力について発信し、日本とボリビアの友好の架け橋としても大いに活躍されています。

 南米は胆嚢結石の疾患が多いと言われていますが,ボリビアは,南米の中でもチリと並んで発症数が多い国だそうです。上記3センターがこれまでに多くのボリビア人の方々に治療を行ってきたことは言うまでもありません。これに加えて,2013年8月にはコチャバンバで総胆管症を発症した家内が,2014年4月にはラパスで急性胆嚢炎を発症した私自身が,それぞれコチャバンバとラパスで腹腔鏡による胆嚢摘出手術を受けました。家内の手術を担当した医師は、平均すると年間400例の手術を行っているそうで、手術に立ち会った消化器外科医の大使館の伊藤医務官は「完璧な手術でした」と感嘆していました。私の手術はビジャ・ゴメス博士が自ら陣頭指揮を執りました。思いもよらぬ形で,日本の大使夫妻が揃って日本のボリビアへの長期に亘る一貫した経済技術協力の恩恵を受けることになりましたが、まさに「情けは人のためならず」だと痛感している次第です。

左から JICA調整員、本使妻、ロサ院長、本使、ビジャ・ゴメス博士、大使館医務官
 ボリビアには閣僚等の要人をはじめ胆嚢摘出手術を受けた人が多くいます。私共の胆嚢摘出の経験を話すと、「実は私も胆嚢を摘出した」と答える人があまりにも多いので吃驚します。そこで、勝手に「無胆嚢クラブ(Club de Sin Vesicula)」と命名して、術後の経過や注意すべきこと等をお互いに話し合いながら会員同士の親交を深めています。

 私のボリビア在勤は2年半を越えました。できるだけ長く勤務できればと希望していますが、離任する日が来た時の挨拶の締め括り部分は既に決めています。


 「今般、我々夫妻はボリビアを離れることになりました。しかし、家内と私の二つの胆嚢は永遠にボリビアに残ります!」


『中国と韓国で勤務して―さて日本は?』2014-6-13

『中国と韓国で勤務して―さて日本は?』


  • 道上尚史.jpg


     駐韓国大使館総括公使  道上 尚史

1.中韓2カ国の日本大使館で公使を務めたという自己紹介をすると、「中国!韓国も? いやあ大変でしょうね」と憐れみ、同情ないし苦笑が返ってくる。「とても重要な隣国ですね。苦労は多いでしょうが」という反応はもはやなく、「あきれた」と言わんばかりだ。  外交世論ないし外国へのイメージについて、何か行き過ぎがあり、それを修正する社会の力が働いて別の行き過ぎになることがある。韓中に問題が多いのと同時に、日本自身のあり方について考えさせられることも多い。

2.1984年から2年韓国で研修を受けた。当時の日本での韓国イメージは「軍部独裁、抑圧、拷問」等暗いものだったが、明るく率直でダイナミックな人たちが多かった。反日的言辞の背後に、文化、技術、社会の規律等、豊かな日本への強い関心とあこがれがあった。北との厳しい対峙、安保面での日米韓の結束の必要を教えてくれる韓国の方がいた。当時の日本は、韓国の歴史、経済、ことば、いや韓国自体への関心が非常に薄かった。日本人は歴史を含め韓国のことをもっと知ったほうがいいと思った。誰かへの配慮や譲歩でなく、日本自身のためである。

 98年からソウルの大使館(政治部)で勤務した際、毎月韓国の新聞に寄稿し、講演もし、韓国側の日本観、歴史観、民族主義の問題点を指摘した。異端とまでいわないが、大使館員としては珍しかったようだ。日本政府というより日本社会が、隣国の誤解や偏見をなぜここまで沈黙してきたのだろうかとのいらだちが私にあった。

 今回(2011年~)、2つの変化がすぐ目についた。まず、前回勤務が「古き良き時代」に見えるほど、外交面での日本観は悪くなっていた。日本への関心とあこがれは大幅低下。メディアも政治・行政も、中国に重きを置く方向に進んでいた。「東アジアのトラブルメーカーは(中国でなく)日本」であるかのような見方もある。私は、講演・寄稿・TV・ラジオでの発信(100回超)に加え、新聞社幹部(編集局長、論説委員等)に会って先方の誤解や偏見を指摘する作業が増えた。もう1つの変化は生活・社会面だ。駅や電車に日本語の表示と音声案内が広がり、居酒屋が繁盛して日本語の看板がかかり、韓国人が電話で照会する時も「はい〇〇です」と日本語が返ってくる。一昔前は考えられなかったことだ。

 韓国の政治学者いわく、「韓国は反日だと、ばかり見るのは日本の誤解だ。韓国の反日は観念的抽象的なものであり、実際の生活面では抵抗感なく、大人は日本旅行や居酒屋が好き、子供は日本の漫画が好きだ。こちらを重視してほしい」。 私の答。「韓国も中国と同じように、反日デモで日本人が危険にあうとの誤解がたしかに一部にある。でも、観念的抽象的な反日だから構わないだろうというのは通じません。事実に反する理解、国際社会で韓国だけというゆがんだ日本観、中国観が多い。それを日本の一般国民が知るようになりました」。

3.さて、中韓での勤務を通じ日本が学ぶべきと思ったこと2つを紹介したい。1つは、「ソフトパワーもハードパワーも必要」という世界の大半の国の常識である。「国防を固めると同時に、諸外国と協力交流を深めるべきだか」との質問に、大学生も高校生もイエスと即答する。日本では、一方だけわかり、もう一方の意義をわからない人が多いようだ。1990年頃までの日本は安保認識が不足し、近年やや改善しつつあるが、逆にソフトパワーの重要性を忘れがちだ。ビジネスや文化を通じ各国に積極的に人的ネットワークを築き、諸外国の人を大勢日本に招待して理解を深めてもらう、それは日本の国力、影響力、ダイナミズムの基盤だ。昔は日本の得意科目だったのに、この十数年中韓に比べ怠り、力の基盤が薄くなっているのでないか。中韓とも、人権弾圧、政治混乱というきわめて否定的な国家イメージから、官民力を合わせ泥水をすするような「発信・交流」努力を進めてきた。50年前にすでに高い「国家ブランド」評価を得た日本は、あぐらをかいてしまったのかもしれない。

 次に、愛国心と国際性の両立だ。ナショナリストという「骨」と、開かれた国際性という「翼」をあわせもつ人が中韓のエリート層に多い。自らの短所を知り、外国から学び吸収し働きかけようというどん欲な姿勢もある。中国の各界の伝統エリートは、世界での評判の悪さを含め自分の短所をよく認識し、文化と情報の発信を大幅に強化している。「民族主義を掲げあらゆる日本人の悪口を言う人、政治スローガンだけで歴史を知らない人がいる。世界の潮流に反し中国の根本利益に反する」と当時の党機関紙。「中国をよく言ってくれる国より悪く言う国との交流を重視し、人を大勢招きます」と役所の幹部。

韓国のサムソン、LGが諸外国で成果をあげている背景には、旺盛な語学熱と海外志向、各国マーケットの徹底研究がある(80年代までの日本を想起させる話だ)。多くの死者を出した4月の旅客船(セウォル号)事故。目先の利益や効率を重視して基礎作業を怠る自分の欠点が大写しになり、深刻な反省がある。「いつまでこういう人命軽視、安全軽視が続くのか。IT先進国などとんでもない、韓国は三流国だ」という自己批判が新聞に連日踊った。

このへんは日本であまり報道されないのかもしれない。中韓の問題点、夜郎自大な傾向をメディアが伝えるのは結構なこと。だが、中韓が、勉学好きな青少年を育て、世界でネットワークを築き人を呼びという地道な努力をし、真摯な自己批判があることは忘れがちだ。相手の短所だけが目に入り、国際化やソフトパワーを迂遠なものと見ると、かえって日本が夜郎自大になる。誰が仕組んだのでもない罠に日本がはまっているようだ。日本は愛国心も国際性も弱い、ということでは困る。

アジア、中南米、アフリカ等、艱難辛苦を経てなんとか軌道に乗ってきた国が多い。世界ががむしゃらに進む中、悟ったような顔で小さくしぼんでダイナミズムを失えば、次世代の日本人は、親ほどの生活ができず、中韓はじめ世界で軽んじられるおそれがある。競争からおりたらアウトだ。人間、精一杯がんばっても期待の半分もいかず、現状維持感覚では下り坂。次世代に無責任な選択をしてはなるまい。

4.はっきりものを言わない日本の傾向に、私は昔からいらだってきた。だが、いらだちが昂じて、「相手につばをはくことが毅然たる外交だ」という錯覚に陥っていないだろうか。しっかりした知識で冷静に地道に発信していく王道を行くべきだ。乱暴な言動は、折角の日本の値打ちと説得力を損なう。日本への偏見・誤解を広めたい政治キャンペーンと同レベルの泥試合と見られ、誰かの思うつぼだ。

 韓国にある日本文化院、日本にある韓国文化院、中国にある韓国文化院を訪れたそれぞれの客が、「日本(韓国)に文化があるとは知らなかった」と言う。本当の話だ。ネットや雑誌に情報があふれる今日、「隣国にりっぱな文化がある」という平凡で常識的な認識も不十分なのが現実だ。自分にも偏見がありうる。

 小学1年のわが子が「日本は悪い国」というのを聞いた韓国女性が、子供を連れてソウルの日本文化院を見にきて、偏見を改める効果があった-という話がNHKで放送された。文化院だけで年5万人、戸外関連行事(「日韓交流おまつり」含め)を含めればその倍の韓国の方が来てくれる。
近隣国とくに日中韓の相互理解は難しい。戦争や植民地支配という重い歴史があり、価値観も受けた教育も歴史観も大いに違う。遠い国なら無関心でも近隣国には反感が高まりやすい。外見や習慣が似ているとかえってその差に神経がいらだち「許せない」こともある。

北京やソウルは、日本とは巨大な認識ギャップがあるアウェー。積極的に発信してきたが、国内の尺度を振り回し強く言いつのるだけではうまくいかない。人間関係と同じで、ぴしっと指摘はしても、普段からよくつきあい、相手の話にも耳を傾け、心と信頼をつかむことが大事だ。かつて私も若気の至りで、「それは間違い。理由を言おう。理由1、2、3…。わかりますか」とやったことがある。日本嫌いの人を増やしただけかもしれない。発信は説教でなく、傾聴と交流の中でこそ何倍もの成果が上がる。

5.全能感と無力感は外交の最大の敵だ。2つは似通ってもいる。歴史、教育に根ざす深い認識ギャップの中、相手を完全に日本の立場に同調させなければという極端さは、「そんな相手に言っても仕方ない」という試合放棄に通じる。いらだちが昂じてこっちが乱暴になる自爆も同類だ。不利な状況では40点でも0点よりましと、しぶとく食いさがって相手の心をつかみ一つでも偏見をただす作業と、その基盤としてのソフトパワー強化を10年続ければ構図も変わり、チャンスが出てくる。

日中韓は互いの距離感を取れず、隣国がよく見えなくなっている。今こそ日本が、積極的な発信・交流を進めソフトパワー拡充の地道な努力を進めたい。自信を持ち、傲慢と怠慢を戒めつつ。国民の理解と支持があることを願う。 (本稿は筆者の個人的な見解である)(2014.5.13寄稿)


『最近の日本・ドミニカ共和国関係』2013-7-4

『最近の日本・ドミニカ共和国関係』


  • satousouichitaishi.jpg


     駐ドミニカ共和国大使 佐藤宗一

ドミニカ共和国勤務約2年半が経過、これまでに見聞したことを中心に、最近の日本とドミニカ共和国の関係について御紹介したい。

1.移住記念碑の建立
 当国の邦人移住者が「移住者としての尊厳を形にし、後生のために残したい」として切望してきた邦人移住記念碑の建立が実現し、本年1月17日、邦人移住者、地区住民代表、両国政府要人(若林外務大臣政務官及びトゥルジョールス当国外務次官等)などの出席の下、その落成式が盛大に執り行われた。この移住記念碑は、移住当時(1956年~59年)の邦人農業移住者の姿をブロンズ像にしたものであり、移住船が接岸した港が見渡せるサントドミンゴ市内の海岸通り(通称マレコン通り)に面した小公園内に建立された。ユネスコ世界遺産に登録されている旧市街の縁にあるので、当国を訪問される方は是非お立ち寄りいただきたい。因みに、この移住記念碑は富山県高岡市所在の彫刻会社が製作したものである。また、外務省とJICA(国際協力機構)が移住記念碑建立計画を全面的に支援した。

 当国の邦人移住者は、移住事業を巡る当時の日本政府の対応により、筆舌に尽くせぬ苦労をされ、2000年には日本政府を相手取り訴訟を提起するまでに至った。その後、邦人移住50周年に当たる2006年7月、当時の小泉内閣は総理談話により邦人移住者に正式に謝罪するとともに、日系社会に対する各種支援を実施して行くことを表明したという経緯がある。前述の邦人移住記念碑落成式において、嶽釜移住記念碑建立委員会委員長(ドミニカ日系人協会会長)が挨拶の中で「ドミニカ共和国及び日本両国の友好親善と発展のための架け橋となり活躍し続けなければならない」と述べたのが印象的であった。

 当国日系社会の人口は2世・3世等を含め推定1千人弱であり、当国の人口約1千万人の0.01%に過ぎないが、邦人移住者の当国農業発展への貢献はよく知られており、その存在感は大きい。ドミニカ日系人協会は、日系社会の発展と日本文化の継承のため、日本語学校の運営のほか、運動会・盆踊り・ソフトボール大会など様々な行事を開催している。近年、多くの非日系人も参加するようになった盆踊りは、現地社会との交流の場にもなっている。   

2.経済関係
 近年、日ド両国の経済関係は盛況とは言い難い。どちらかと言えば低調である。当国の2012年貿易統計によれば、両国間の貿易総額は約2億ドルに過ぎず、日本はドミニカ共和国の輸出相手国としては25位、輸入相手国としては10位である。両国貿易はドミニカ側の大幅赤字であり、当国政府の関心は果物など農産物の対日輸出拡大である。因みに、主な対日輸出品はフェロニッケル(対日輸出額の約35%)、コーヒー、カカオなどであるが、最近はフリーゾーンで生産している医療品や靴などの工業製品も日本に輸出されている。
 日本からの輸入品の大部分は自動車であり、ほとんどの日本メーカーの自動車が輸入されている。最近発表された車両登録統計によれば、登録車両の約75%は日本車である。一方、近年、当国でも韓国車の躍進が著しく、2012年型新車の登録台数では、とうとう韓国車が日本車を抜いて第一位となった。メーカー別でも第一位が現代、第二位が起亜と韓国車が占め、トヨタは第三位に後退した。最近の円安傾向の下、今後の日本車の巻き返しが期待される。

 当国では日本製品の評判が良い。特筆されるのは、サタケの精米器のシェアが80%を占めることである。また、当国では縫製業が盛んであるが、これらの工場で使用されている工業用ミシンの大部分は日本製(JUKI)である。事務所ビルやショッピングモールに設置されているエレベーターやエスカレーターも日本製が目立つ。一方、直接投資は少なく、主な進出企業はワコール1社である。フリーゾーンで米国向けの女性用下着を製造しているが、業績は順調である。

3.文化交流
(1)野球と剣道
 最も人気のあるスポーツは野球である。当国が2013ワールド・ベースボール・クラシックで優勝したのは記憶に新しい。日本で大活躍中のトニー・ブランコ(DeNA)とエクトル・ルナ(中日)はドミニカ人である。また、広島東洋カープは当国で野球選手養成所を運営し、選手の育成を行っている。近年、同養成所の選手育成は投手中心であったが、近く野手の育成も再開する由。現在、身長2メートルの有望な投手がおり、同投手を今年中に日本に送り込む計画とのこと。乞う御期待。

 この野球王国には剣道愛好家もおり、JICA派遣の師範(シニアボランティア)の指導の下、熱心に稽古に励んでいる。邦人移住者の笠原氏(故人)が自宅に剣道場を開いたのが始まりであるが、現在ではサントドミンゴ自治大学でも授業の一環として剣道が実施されており、2012年には草の根文化無償資金協力により「体育教員養成施設整備計画」として同大学に本格的な剣道場が建設された。師範によれば、これほど立派な剣道場は中南米には見当たらないとのこと。

(2)音楽
 ジャマイカはレゲー、キューバはサルサであるが、ドミニカ共和国はメレンゲである。2010年に国際交流基金の招待で訪日したメレンゲの大御所チチ・ペラルタは、当地在住日本女性とのデュエット曲「アモール・サムライ」を制作した。2011年12月には、訪日経験をまとめたビデオ・ドキュメン「インサイド・ジャパン」の発表式が、モラレス外相主催により当国外務省で実施されたが、その際、チチ・ペラルタは「アモール・サムライ」も披露した。リズミカルで綺麗なメロディーのメレンゲであり、是非一度聞いていただきたい。(蛇足:メレンゲを聞きながら仕事をすると、能率が上がるらしい。以前、JUKIミシンを使っているGAPの縫製工場を視察した際、「工場でメレンゲを流すようになってから、生産性が2~3割向上した」との話を聞いた。)

4.経済技術協力
 当国経済において観光産業は重要な地位を占めているが(当国を訪れる観光客は年間四百数十万人)、JICAは観光分野でユニークな技術協力を実施中である。大西洋に面した当国北部のプエルト・プラータ県で実施している「官民協力による豊かな観光地域づくりプロジェクト」というものであり、施設内完結型で観光客がホテルの外に出ることがほとんどないという当国観光を改善するため、地元に裨益する観光の仕組み作りに取り組んでいる。日本の一村一品運動のように、同県内の9つの市ごとに、自慢の一品の開発を行っている。「マナティ」、「琥珀」、「良質のコーヒー」、「地元の海鮮料理」、「伝統音楽メレンゲ」、「ヨーロッパ人が築いた中南米最初の町」など、興味深い観光商品があるので、当国訪問の際は是非足を伸ばしていただきたい。
(本稿に記載している内容は個人的見解に基づくものです。)(2013年6月27日寄稿)


『カリブの国々』2013-5-23

『カリブの国々』


  • 顔写真.jpg


     駐トリニダード・トバゴ大使 手塚義雅

 カリブのトリニダード・トバゴにある大使館に赴任し、1年あまりが過ぎた。この在トリニダード・トバゴ大使館はトリニダード・トバゴと周囲のカリブ諸国9カ国(セントクリストファー・ネーヴィス,アンティグア・バーブーダ、セントルシア、セントビンセント及びグレナディーン諸島、グレナダ、バルバドス、ドミニカ国、スリナム、ガイアナ)を兼轄している。これらの国は、季候がよく風光明媚な国が多いので、欧米からの新婚旅行先になっていたり、退職者が永住したり、また、世界の有名人が別荘を持ち避暑に来たりしている。

近代的なビルのあるウォーターフロント地区(トリニダード・トバゴ).jpg近代的なビルのある
ウォーターフロント地区(トリニダード・トバゴ)

 これらの国はラテン系の中南米諸国と違い、英連邦加盟国で英語を公用語としている(オランダ語を公用語とするスリナムを除く)。南米大陸にある面積の大きいガイアナ、スリナムを除いた島嶼国8カ国に限れば、面積は約8万4千平方キロメートル(東京都と群馬県を合わせた面積とほぼ同じ)、人口は約213万人(長野県の人口とほぼ同じ)で東京都と群馬県を合わせた土地に長野県の人たちが住んでいるイメージになる。なお、ガイアナとスリナムを合わせると面積は約38万平方キロメートル(日本の面積とほぼ同じ)で人口は約340万人(静岡県よりもやや少ない人口)となる。

ダウンタウンの独立広場(トリニダード・トバゴ).jpgダウンタウンの独立広場(トリニダード・トバゴ)
 大陸にあるガイアナ、スリナムを除く島嶼国は、回りが海に囲まれているためか、極端に暑くはならない。回りが海に囲まれているという点では沖縄とも似ている。沖縄には独自の琉球文化や美しい自然があるが、この点でも似ているかもしれない。これらの国々ではアフリカ系、インド系、その他ヨーロッパ系、中近東、中国系の人達が互いに影響し合いながら、独自の文化を創り出しており、首都から少し離れれば美しい海岸や自然を見ることができる。音楽に目を向ければ、スティールパンというドラム缶から作られた「20世紀最後にして最大のアコースティック楽器」があるが、この楽器はトリニダード・トバゴで作られ、カリブの人々に愛されている。何回もこの楽器の演奏を聴いたことがあるが、繊細で美しい音色である。


モービー2.jpg「MAUBY」
(モービー)
これらカリブ諸国はいろいろな面で共通点が多いが、違いもある。そのような共通点や違いを、各国を訪れながら見つけていく楽しみもある。たとえば、「MAUBY」(モービー)という庶民の飲み物はカリブ諸国の共通の飲み物だ。これは木の皮を煎じたものに、甘いシロップを加えたこの地域独特の飲みものである。飲むと苦みとともに甘みを感じる表現の難しい飲み物だが、慣れてくるとやみつきになる。
高血圧などにも効能があるとのことである。カリブの国であれば、どこのスーパーマーケットでも手に入るが、庶民の飲み物なので、高級なレストランで注文すると変な顔をされる。

ダブルスを食べている人.JPGダブルスを食べている人ダブルスを売っている店.JPGダブルスを売っている店もう一つ、ダブルスという、これも庶民の食べ物がある。独特のパン生地を使っていろいろな種類の豆を包み込んだ、トリニダード・トバゴ版豆ハンバーガーのようなものだ。トリニダード・トバゴでは簡単に見つけられるが、他のカリブ諸国ではなかなか見当たらない。主に朝食として食べるもので、売っている店によって味が異なる。このダブルスもやみつきになった。いろいろな店を歩き回って、おいしいダブルスを見つけるのも楽しみの一つになっている。


 カリブの人たちは連帯意識が強く、強い人的ネットワークがある。A国高官の夫人がB国籍の人だったり、B国大臣のクラスメートがD国大臣だったり、C国ビジネスマン夫人は医師でもあるE国大臣の病院で出産したと言うようなことはざらにある。また、現在国連加盟国は195カ国あるが、10カ国と言う数はその5%以上に当たる。それぞれの国は小国ではあるが、各種の政策をとるにあたっては共同歩調をとることも多い。このため国際場裏におけるその発言力は増加している。

 カリブの人達は日本について、高い技術を持っている国、礼儀正しい国民というように良いイメージを持っているが、残念ながら具体的な情報となると、知らないことが多いようだ。また、親日的ではあるが、同じ島嶼国である南太平洋諸国とくらべると、まだまだ関係を深める余地は大きいと思う(たとえば、日本と姉妹都市関係を持っている国はまだない)。発言力を高めているこれらのカリブの国々との関係強化は重要であり、このためその関係強化に努めているところである。(本稿に記載している内容は個人的見解に基づくものです)(2013年5月14日寄稿)




『山中 京都大学教授のノーベル賞受賞余話』2013-4-4

『山中 京都大学教授のノーベル賞受賞余話』


  • 渡邉芳樹.jpg


     駐スウェーデン大使 渡邉芳樹
毎年9月ともなるとどこか何となく落ち着かない日が続く。それというのも翌10月上旬から始まるノーベル賞の発表に向けたノーベル委員会各分野の決定会合が9月下旬にかけて内々に行われているからである。
近年は日本人受賞者が多くなっているため日本国内での下馬評が盛んになり、iPS細胞を開発した山中伸哉京都大学教授はここ数年受賞の噂の絶えない注目の的であった。当地でもよく言われたことは、山中教授はまだ若くiPS細胞もその応用はこれからなのでノーベル賞受賞には早すぎるのではないかという見方であった。2010年には根岸・鈴木両教授がノーベル化学賞を受賞したが、そのときから様々な御縁があってノーベル医学生理学賞(正式には生理学又は医学賞)の審査に当たるカロリンスカ研究所を統括する理事長のハリエット・ヴァルベリ・ヘンリクソン女史との接触機会が多く、その中でノーベル賞から見ると際どい時期だが、毎年10月に京都で行われる某フォーラムへの出席を依頼していた。ただ2011年はどうしても叶わなかった。

それが、私が事故でカロリンスカ病院に入院し急遽中止となった経緯もある同女史を招いての夕食会が仕切り直しということでようやく2012年9月中旬に我が家で実現した。その席上、同氏の口から今年は京都のフォーラムに参加しようと思うと問わず語りの言葉が出たので、話題は自然に山中教授に及び、彼女が山中教授を高く評価していることが感じられた。それでも実際に受賞につながるのか、しかもその年に受賞することはあるのか正直疑心暗鬼であった。同じく毎年噂となるが実現していない村上春樹氏のノーベル文学賞の話もある。ただ彼女は2012年末には任期を終えると聞き及んでいたので、ひょっとするとと思いながら発表を心待ちにしていたところであった。
そのような中で10月8日にノーベル医学生理学賞が発表され、山中教授の受賞が決まったときには、正直言って我が事のような喜びが湧きあがって来たものである。

山中教授夫妻と一緒に.JPG山中教授夫妻と一緒に

実は、受賞者が出た時には主催者ノーベル財団からの依頼に基づき大使主催の祝賀レセプションを市内ホテルで開催するのであるが、12月上旬のノーベルウィークには年末クリスマス行事で予約が殺到するため、ノーベル賞発表とほぼ同時に受賞者に相談するまでもなく大使館として会場の仮予約を入れている。山中教授の場合も同様であって、本人に意向を確認する前から祝賀レセプションの場所は確保されていたのである。ただ、この祝賀レセプションは受賞者にとって多くの参加者から切れ目なく挨拶され食事もできずに疲れ果てるおそれが強い鬼門でもあった。そこで大使館内の知恵を絞り山中教授の御意向も踏まえて窮余の策とでもいうべきレセプション進行上の工夫をして何とか無事にお疲れにならずに乗り切っていただいた。

ノーベル財団は毎回受賞者御夫妻のお世話をするためスウェーデン人のノーベル・アタッシェを配するのであるが、聞くところでは日本人受賞者に配されるアタッシェが一番大変なのだそうだ。理由は日本からのメディア各社の取材陣からの度重なる取材依頼の処理に苦労するということである。山中教授のように特にメディアが注目する受賞者の場合はなおさら気が張った毎日であったと聞き及んだ。ここで付言するが、山中教授の記者会見等のメディアとのやりとりは実に見事なものであった。一言一言、誠意を尽くして応対し、しかも随所に飾らないユーモアを混ぜた応答を聞くだけでも誰もがその人柄と研究への熱意に敬服してしまうであろう。にもかかわらず一部のメディアが山中教授にノーベル賞のメダルを口で噛んで見せるよう求めたという報に接したときには残念な思いをしたものである。

ノーベル賞行事はノーベル財団がその責任で執り行うものであって、受賞者の本国政府や出身機関などが祝賀するためのものではない。ストックホルムで祝賀行事を行いたいという出身機関などの希望はノーベル財団によって例外なく拒否される。本国に戻ってから自分たちの祝賀行事を行えばよいという論理である。国籍や出身にかかわらず最も相応しい人物に授与するというアルフレッド・ノーベルの遺言に沿った強い責任感の表れでもある。また、これまで日本人受賞者が出たときは、所管閣僚が用務を前提にノーベル賞授賞式典及び晩餐会に招かれるよう働きかけ結果的に招かれてきたが、山中教授の受賞については諸般の事情により担当閣僚が来瑞できずに終わった。しかし、振り返ると受賞者が出たからと言って所管閣僚が行事に出席するというのはどうも他の国の場合にはないことのようである。今回も中国からノーベル文学賞受賞者が出たが、中国の閣僚は参加していなかった。米国等の常連国でも担当閣僚を送って来ると言うことはない。今後の検討課題であろう。
(※本稿のうち意見にわたる部分は筆者の個人的見解である。)2013年3月12日寄稿


『ミクロネシアの今昔』2013-3-4

『ミクロネシアの今昔』


  • suzukitaishi.jpg


         駐ミクロネシア大使  鈴木 栄一


ミクロネシアは、正式にはミクロネシア連邦というが、この国はかつて他の島とともに南洋群島と呼ばれていた。当時の日本政府の南進政策もあり、積極的な移民政策がとられ、1940年には、南洋群島は、現地人5万人に対して、日本人は、それを上回る8万人が住んでいたという。日本大使館のあるポンペイ島コロニア・タウンの当時の写真を見ると、洋服店、クリーニング店、タクシー、歯科医院、土木建築請負業、料亭等日本名で書かれた看板が建てられ、さながら日本人町の様相を呈している。しかし、太平洋戦争の終戦とともに、日本人が激減し、現在のミクロネシア連邦における在留邦人の数は、約110名である。日常生活では、米国の影響力が強く、英語が公用語となっているが、それでも、デンワ、モシモシ、ヤキュウ、ウンドーカイ、ガンバレ、サルマタ(男性の下着)等の日本語の語彙(ごい)がミクロネシアの人々の日常生活で使われていることに驚かされる。

昨年6月、成田発チャーター直行便がポンペイ国際空港に到着した。一見当たり前のように思える光景だが、これは日本とミクロネシアにとっては、初めてのチャーター直行便であり、歴史的な出来事であった。通常、日本からポンペイに来るには、成田空港から約3時間半かけてグアムまで来て、グアムで乗り換えた後、チューク州の空港に立ち寄り、ようやくポンペイ空港に到着するのである。待ち時間も入れ、2日がかりとなる。それが、直行便で約5時間半で到着するのである。このUA便には、森元総理やミクロネシアから親善大使に任命された滝沢秀明氏(ジャニーズ事務所所属)、人間国宝の中川氏をはじめ、大正時代に91トンの帆船でミクロネシアにやってきた土佐出身の森小弁、初代大統領となったトシオ・ナカヤマ、戦後の日本のプロ野球草創期で投手として活躍し、その後トラック島(現在のチューク州)で伝統的大酋長となったススム・アイザワ等の親族も含め、ミクロネシアにゆかりのある方々約120名が搭乗していた

1.jpgチャーター直行便UA1864便のポンペイ空港到着 撮影:杉浦章造


この日本からの訪問団は、レインボーネシア計画と名づけられた企画で訪問したものであるが、ミクロネシア側、とりわけ在京ミクロネシア連邦のフリッツ大使のイニシアティブにより、日本およびミクロネシア両国の多くの関係者の支援と協力により実現したものであり、日本の無償資金協力によるポンペイ国際空港改善計画(同空港の到着ターミナル建設および出発ターミナルの改修さらに滑走路の延長工事)の完工式に合わせて実施された。

2.jpg空港での歓迎式と完工式                              撮影:浦隆文

訪問団の一行は、ポンペイ州とチューク州(訪問団の一部)を訪問したが、ミクロネシア側は、モリ大統領をはじめ文字通り国を挙げて歓迎した。到着した夜のモリ大統領主催歓迎レセプションでは、森元総理が挨拶の中で、成田空港で出発便を知らせるアナウンスを聞き、そして「ポンペイ行きUA1864」と表示された掲示板を見て感無量であったこと、さらに、自分(森元総理)の父親が戦時中、チューク州の水曜島で守備隊長をしていた時、同島の島民が兵士の窮乏を見て食事を用意してくれたことなど大変お世話になったことを少年時代からずっと父親から聞かされてきて、いつか父親が受けたご恩に報いなければならないとの思いを語り、出席した人たちの胸を打った。

3.jpg歓迎の踊り      撮影:杉浦章造             
一行は、緑におおわれた木々、山々、青々とした空、美しい海に囲まれた太平洋に浮かぶ島の自然の美しさを楽しみ、現地の人々との交流会に参加し、友好親善の役割を十分果たし、喜々として帰国した。また、チューク州を訪れた一行の森元総理、モリ・ファミリー、ナカヤマ・ファミリー、アイザワ・ファミリー等の人たちは、チューク州に住むそれぞれのファミリーの末裔の人たちと初めて対面したり、再会を喜び合う等の光景があちらこちらで見られた。

4.jpgナン・マドール遺跡 撮影:杉浦章造

ミクロネシアは親日国であるとともに、日本にとって大切な国である。日系人の政界、経済界での活躍も目立つ。現在の第7代ミクロネシア連邦大統領のエマニュエル・モリ大統領は、森小弁を先祖とするファミリーの出身である。日本にとっての重要性は、ミクロネシアが、国連などの国際場裏では、わが国の立場を常に支持する信頼できる基盤となっているのみならず、カツオおよびマグロについて日本の漁獲の80%は中西部太平洋地域からのものであり、ミクロネシアはその中でも有数の大きな排他的経済水域(EEZ)と豊富な資源量を有していることから、わが国の国民の食にとり重要な漁業資源国となっている。

今年は、日本とミクロネシアの外交関係が樹立して25周年の節目となる年である。これを記念して、2月16日、ポンペイ島で、日本大使館主催のジャパン・フェスティバルが開催された。若い人たちを中心に、会場に入りきれないほどの多くのミクロネシア人が来場し、日本文化のさまざまな催し物を肌で感じ、体験することができ、大盛会であった。モリ大統領もお孫さんとともに来られていた。同大統領は、常日頃より、日本はこのミクロネシアにおいてプレゼンスを示し続けて欲しいと述べており、日本は、ODAの世界でこの国の社会経済開発に貢献してきているが、今後、さまざまな分野、レベルでの交流が盛んになることが望まれる。   ※本稿の内容は、筆者の個人的な見解である。
(2013年2月22日寄稿)

5.jpgジャパン・フェスティバル会場 撮影:TOM矢橋6.jpgお茶と琴のデモンストレーション 撮影:TOM矢橋7.jpg海苔巻き寿司のデモンストレーション 撮影:TOM矢橋8.jpg沖縄のエーサ踊り 撮影:TOM矢橋 



『日・オマーン外交関係樹立40周年記念事業』2013-1-27

『日・オマーン外交関係樹立40周年記念事業』


  • photo_amb.jpg


        駐オマーン大使 久枝譲治

 2012年は我が国とオマーンの外交関係樹立40周年に当たることから、在オマーン日本大使館は、次の基本方針に基づいて種々の記念事業を実施しました。

1. 日本の伝統文化のみならず現代文化の魅力をも伝える
  内容とする。
2. 日本文化の発信にとどまらず、双方向の交流が行われる
  ことを目指す。
3. 公的予算の支出を最小限にとどめ、可能な限り民活を
  導入する。

 両国官民の協力、及び、メディアの高い関心もあって、40周年を飾るに相応しい充実した内容となり、両国間の相互理解と友好親善の促進に多大な成果を収めることができたと思います。以下、その主なものを紹介します。

1. 大型展示事業
大型展示の分野では、①「日本の広告写真展」(2月)、②「森田りえ子絵画展」(2月)、③「日本人形展」(11月)の三つを実施しました。特に①は、日本広告写真家協会が毎年本邦で主催する公募展「APAアウォード」の優秀作品約70点を展示するもので、我が国の優れた写真・印刷・広告技術のみならず、災害復興に向けての力強い取組みやモノ作りのパワーを強くアピールするものとなりました。

01 広告写真展開会.JPG01 広告写真展開会式で主賓のスルタン・アル・ハーティ=マスカット市長(左)を迎える筆者。 03 森田りえ子展.JPG02 森田りえ子絵画展開会式の模様。左からスポンサーのモハメッド・バフアン=バフアン・グループ会長、森田画伯、主賓のハイサム・アル・サイード殿下、筆者。20121125-01.jpg03 日本人形展

2. 伝統音楽公演
 伝統音楽の分野では、④「林英哲和太鼓公演」(3月)、⑤「ジャパン・ミュージック・プロジェクト」(6人の日本人演奏家による公演)(10月)、⑥「東儀秀樹コンサート」(10月)を実施しました。いずれも、知名度の高い超一流のアーチストによるもので、⑤は、昨年落成したロイヤル・オペラハウスを含む2会場で計3000名を超える聴衆を集めたこと、オマーン人演奏家とのコラボも行われたこと、⑥は、日本人音楽家の中に中東の伝統弦楽器ウードの奏者が含まれていたこと、⑦は、宮中雅楽、及び現代音楽の二つの魅力を紹介すると共に、宮中雅楽の煌びやかな衣装が話題となったことなどが特筆されます。


04 林英哲和太鼓公演.JPG04 スルタン・カブース大学における林英哲和太鼓公演。05 JMPコンサート.JPG05 ジャパン・ミュージック・プロジェクト公演。06 東儀秀樹コンサート.JPG06 東儀秀樹コンサート。

3. 若者を対象とする事業(Jポップ)
 5月にマスカット市内の大学で⑧「日本文化祭」を開催し、漫画コンテスト、漫画展等の他、⑨「May J.のポップ・コンサート及びファン・ミーティング」を実施しました。May J. は、NHKワールド番組「J-MELO」の司会者兼歌手で、国際的知名度が高く、一連の行事は大人気を博しました。特筆されるのは、NHK取材チームが当地での彼女の活躍をロケして放映したことでした。
 更に、10月には、アニメ「NARUTO」などの製作で知られるプロデューサーの青木訓之氏,ディレクターの川崎博嗣氏を招き、市内の二つの大学で、⑩「日本アニメ祭」(ワークショップ、レクチャー、映画上映)を実施しました。オマーンには漫画やアニメが大好きという若者が多く、また、幼少時にテレビで「NARUTO」などのアニメに親しんだという大人もいて、このアニメ祭にも多くの人々が参集しました。

07 日本文化祭開会式.jpg07 日本文化祭開会式でリボンカットをするMay J.。隣は筆者夫妻。08 May J コンサート.jpg08 コンサートで熱演するMay J.。 09 May J ファンミーティング.JPG09 May J. ファン・ミーティング。 10 日本アニメ祭り.JPG10 日本アニメ祭開会式でリボンカットをするファイサル・アル・サイード殿下。

4. クラシック音楽公演
 オマーンは、中東諸国の中でもクラシック音楽が盛んなことで知られていますが、我が国にはクラシック音楽の分野においても優れた才能があることを紹介するという観点から、⑪「日本人アーチストによるクラシック公演」を実施しました。当地を訪問した宗本舞(フルート)、鬼一薫(ソプラノ)及び城沙織(ピアノ)の3人は、いずれも海外で実績を有する有望な若手音楽家で、3回にわたる公演は、地元メディアの高い評価を得ました。

11 クラシック音楽公演.JPG11 クラシック公演。左から城沙織、宗本舞、鬼一薫。

5. スポーツ交流
 両国サッカー協会の協力を得て、5月にラモス瑠偉監督率いるビーチ・サッカー日本代表チームをマスカットに招き、⑫ビーチ・サッカー親善試合「日本対オマーン」を実施しました。試合は、2対1で日本が惜敗しましたが、オマーンはビーチサッカーが盛んでファンも多いことから、大いにメディアの関心を集めました。この試合はまた、11月14日のサッカーW杯アジア最終予選「日本対オマーン」を盛り上げる効果もありました。更に、11月のW杯予選では、スタジアム内の特設会場で、オマーンのスポーツ大臣、情報大臣、両国サッカー協会会長他の出席を得て、⑬「両国外交関係樹立40周年記念ケーキ・カット及びレセプション」が実施されました。
 更に11月には、⑭「オマーン・センチュリーライド2012」(自転車ロード・レース)を実施し、アテネ・オリンピック銀メダリストの長塚智広選手を始め両国、及び外国から計120名を超えるサイクリストが参加して健脚を競い、友好を深めました。
12 ビーチサッカー ラモス監督.JPG12 ビーチサッカー ラモス監督13 サッカー・40周年ケーキカット.JPG13 サッカー・40周年ケーキカット14 Oman Century Ride.JPG14 Oman Century Ride









『第一次大戦百周年:中国の台頭と日・ベルギー関係の展望』2012-11-10

『第一次大戦百周年:中国の台頭と日・ベルギー関係の展望』


  • 1535.jpg


        在ベルギー大使館次席公使  片山和之



(ベルギーのイメージ)
 ベルギーと聞いて一般の日本人は何を思い浮かべるだろうか。人口、面積ともに日本の約1/12のこの国のイメージは、小便小僧、チョコレート、ワッフル、ビールにムール貝、あるいは、アントワープのダイヤモンド取引や童話「フランダースの犬」(19世紀後半に英国人作家によって書かれた悲話のせいか未だに地元ではほとんど知られていない)、漫画のタンタン、歌手のアダモといったところか。筆者も、2010年8月にベルギーに赴任するまでは正直なところこの程度の認識しかなかった。

  ベルギーを歴史的、政治的に眺めてみると、中世以降約千年にわたって欧州の中心に位置し、フランク王国や、十字軍の遠征、繊維産業、北方ルネサンスにおいて絶えず重要な位置を占めてきた。現在は、EUやNATOの本部が首都ブリュッセルに置かれており、統合欧州の中心に位置する。ファン・ロンパイ欧州理事会初代常任議長(大統領)は元ベルギー首相で、俳句を愛する文人である。EUの舵取りを任される指導者を輩出している一方で、北方のフランドル地域(蘭語圏)と南方のワロン地域(仏語圏)の確執は、歴史的には古代ローマ帝国のラテンとゲルマンの境界線にまで遡る。ベルギーという連邦国家を構成するフランドルとワロンの関係は、言わば既に冷え切ってしまったものの、「親権」(ブリュッセルの帰属)と「借金」分割(財政負担)問題の結論が出ず離婚しようにもできない夫婦といった見方も出来ない訳ではない。連邦、共同体及び地域に計6つの政府が存在し、2010年6月の総選挙以降翌年12月まで実に541日間正式な政府が存在していなかった。しかし、暫定政府の下で予算は粛々と執行され、NATOの対リビア作戦にベルギー軍の戦闘機や機雷掃討艇を参加させるといった重要な政策決定が行われてきた。17世紀のウエストファリア条約以降続く主権国家を基本とする国際関係の枠組を変容しようという壮大な実験を行っているEUの本部がある一方で、日本の1/12の小さな国内が分裂の可能性すら孕んでいる実に興味深い国なのである。ベルギーという国は、欧州の過去と将来、ひいては世界を眺めるのに絶好の場所とも言えるかもしれない。

(近代史における日・ベルギー関係)
  近代日本外交におけるベルギーの位置づけには、実は大きなものがあった。日・ベルギー関係は、1866年、修好通商航海条約を締結して以来、約150年の外交関係がある。裕仁皇太子が初めて外遊されベルギーを訪問された1921年に、両国の公使館は大使館に格上げされている。この時点で、日本が有していた大使館は10カ国にも満たなかったのではないだろうか。この時期、両国が相手を「一等国」として認識していた証左でもある。歴代大使や公使、領事(戦前は、ブリュッセルの大(公)使館の他、アントワープに領事館が設置されていた)を調べてみると、西園寺公望、青木周蔵、幣原喜重郎、芦田均、有田八郎、来栖三郎、下田武三といった後に首相や外相、外務次官、駐米大使になる日本外交史になじみの深い外交官が勤務していた。

  両国皇室と王室のつながりも深い。上記の裕仁皇太子の御訪問の他、1971年には、昭和天皇が天皇として初めて外国訪問された際にもベルギーを欧州最初の地として公式訪問されている。ちなみに、この時、昭和天皇は50年前の訪問時にワルツをご一緒に踊られたベルギー首相令嬢と劇的な再会を果たされている。ボードワン1世は1989年の大喪の礼及び翌年の即位の礼出席のために訪日されているし、今上天皇は1993年に国王の葬儀及びもともと予定されていた公式訪問と同じ年に二度ベルギーを訪問されるという異例の対応もされている。皇太子どうしも共に1960(昭和35)年生まれということもあり、緊密な関係を維持され、最近では2012年6月にはフィリップ皇太子が200名を越す経済代表団を率いて王妃とともに訪日された。

  日・ベルギーの近代の関わりを見ると、意外なつながりがあって非常に興味深い。江戸時代、杉田玄白が訳した「解体新書」のネタ本は、15世紀に創立されたベルギーのルーヴァン・カトリック大学の学者の著作である。明治初期、岩倉遣欧使節がベルギーを訪問(1873年)しているが、独立(1830年)してまだ40年ほどしか経過していない小国ベルギーの経済発展ぶりに注目している。久米邦武の「米欧回覧実記」によれば、九州くらいの国土でありながら大国に伍して自主独立を全うし、大国以上の経済力を発揮しており、これは皆、その国民の勤勉努力と協力の賜である、国の盛衰は、このような国民の自主性と団結力に負うところが大きいと、開国を迫られた小国日本のモデルとして一行はベルギーの国家運営のあり方に強い関心を寄せている。もっとも、その後の日本は、プロシア型の国家建設を目指すことになる訳であるが。更に、日本銀行は、当時大蔵省にいた松方正義が部下をブリュッセルに派遣しベルギー中央銀行を模範に1881年に設立されたものであり、また、一橋大学(東京高商)はアントワープ商業学校をモデルに1885年に創立され、草創期にはベルギー人教師がその発展に寄与している。

  第一次大戦時には、ドイツの侵略に苦しみながら奮闘しているベルギーに対し、同じ連合国の一員として日本国内では大きな同情が集まり、義援金募集活動も行われた。朝日新聞社はベルギーを勇気づけるため備前の名刀を時の国王アルベール1世に献上するため、1915年、使者を派遣したほどである。他方で、1923年の関東大震災の際には、ベルギーから米、英に次ぐ260万フラン(現在価値で約330万ユーロ)を超える義援金が寄せられた。

(近づく第一次世界大戦100周年)
第一次大戦は、周知の通り、1914年の6月28日にオーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の後継者フェルディナンド皇太子が、ボスニアの首都サラエボでセルビア人民族主義者によって暗殺されたことを直接の契機に、複雑な関係にあった欧州諸国が二分して7月末に戦端が切られたものである。短期戦で片付くとの楽観的な見通しも大きくはずれ、以来4年有余にわたり壮絶な戦闘が繰り広げられた。1918年11月11日にドイツが連合国と休戦協定を結び、翌年6月28日にヴェルサイユ条約が調印されてやっと終結した人類がかつて経験したことのない未曾有の総力戦であった。毒ガスや戦車、戦闘機といった新しい兵器が登場し、非戦闘員を含めた戦死者が2千万人に達する前例のない世界戦争であった。そして、敗戦国ドイツへの報復的な戦後ヴェルサイユ体制は平和をもたらすどころか、ナチスという徒花を生んでしまうこととなり、20年後、人類はもう一度悲惨な世界大戦を経験させられることになる。

この第一次大戦勃発から、まもなく100年を迎えようとしている。日本は、日英同盟のよしみから、連合国の一員として参戦し、ドイツ東洋艦隊を撃滅、その根拠地であった中国山東省青島及び膠州湾を攻略占領、また、ドイツの植民地であった太平洋の南洋諸島を手中にした。更に、連合国の要請を受け、帝国海軍は、英国やフランスの植民地から欧州へ向かう輸送船の護衛の任務を請け負い、地中海には巡洋艦明石及び駆逐艦等計18隻を派遣し、任務遂行の過程で約80名の将兵の犠牲を出している。

  今後、第一次大戦開戦から終戦100周年を順次迎える欧州各地では、各種の記念行事が企画され、催されるものと予想される。日本として、第一次大戦時の「貢献」を積極的にプレイアップし、100周年を祝賀乃至追悼するような性格のものではないかもしれないが、若干気にかかることがある。中国の動きである。

(中国と第一次大戦)
  当時の中国も連合国側に参戦している。では、欧米列強に蚕食された清朝が1911年、辛亥革命によって倒され、長い王朝の歴史に幕を閉じ、翌年共和制国家である中華民国が成立してわずか数年のまだ十分な国家運営のできていないこの時期に、中国は、第一次大戦でどういう戦いをしたのか。実は、中国は軍隊による戦争をした訳ではない。それではどうしたのか。14万人にも上る主に山東省出身の農民を欧州に派遣し労働力不足を補ったのである。彼らは前線近くで働き命を落とした者も少なくなかった。最近になって、この歴史を掘り起こす中国人研究者の作業が始まっている。中国政府の目的は、連合国側について参戦することにより、戦後の国際秩序形成過程に主体的に関与することにあった。即ち、日本がドイツより奪い21ヵ条要求で中国に承認を強要した山東権益を回復することであった。
結局、ヴェルサイユ講和会議は日本の山東権益を承認したため、中国は結局講和条約調印を拒否、この不満は1919年の「五四運動」へつながる。ベルギーは、第一次及び第二次世界大戦時、悲惨な戦場になったこともあり、各地に記念碑や墓地が散在する。英国コモンウエルスの共同墓地もいくつかあるが、イープルの近くにあるポペリンゲの英軍基地には、犠牲者となった中国人労働者も眠っている。ちなみに、イープルの市中心にある戦争記念館の売店には中国人労働者の歴史について書かれた異なった3種類の書籍(仏語、蘭語、中国語)が置かれてあった。第一次大戦と日本の関わりに焦点を当てた書籍はやはりない。欧州においても、中国の台頭が、良くも悪くも種々の局面で関心を持たれ焦点が当てられることが多くなっている。そのような中、中国人が欧州のために汗や血を流した歴史を欧州の人々に想起させることは、中国のイメージを高めるためのパブリック・リレーションの好材料ともなろう。

一方、我が国の上記のような貢献やベルギー国民への暖かい同情の歴史は現在では殆ど記憶されておらず、当国有識者の間でさえ、日本が第一次大戦の連合国であった事実すら十分認識されていない状況である。ややもすれば、中国人労働者の貢献が中国によって強調される影で、わが方の貢献は埋没する危惧もなしとはしない。もちろん、歴史に埋もれた中国人労働者の貢献の事実が掘り起こされ、中国近現代史あるいは欧州との関係史の中で正当な位置づけが歴史学者によってなされていくことの意義を否定するつもりは毛頭ない。また、第一次大戦の結果は、日中関係においては山東権益、五四運動等その後の不幸な日中関係を暗示する側面もあり、慎重に取り扱われるべき微妙な性格を有していることも認識しておく必要はある。他方で今後、2014年から2018年にかけて、ベルギーを含め欧州各地で大規模な各種行事が企画されることが想定されるところ、日本として、上記中国の動きなども注視し、歴史が政治的な宣伝に利用されることがないか注意深く見守っていく必要があろう。

(現在の日・ベルギー関係と中・ベルギー関係)
  現在の日・ベルギー関係を見てみると、日本の貿易相手国としてベルギーは欧州では独、蘭、仏に次いで第4位(2008年)、ベルギーにとり日本は9番目の貿易相手国である。日本の対欧州直接投資残高(2009年)は、蘭(6.52兆円)、英(2.94兆円)、仏(1.35兆円)に次いでベルギー(1.26兆円)は第4位である。ベルギーの規模を考えるとその重要性が浮き上がる。日本大使館の調査によると、2011年10月現在、ベルギー進出日系企業数は265社、在留邦人数は5335名である。代表的企業としては、トヨタが欧州本部を置いている他、ダイキン、カネカ、旭ガラス、パナソニック等が進出している。在日ベルギー人は685名である(2009年、法務省調べ)。
しかしながら、ここベルギーもご多分に漏れず、最近は中国の経済進出が勢いを増しており、日本経済の相対的な地位は低下気味である。例えば、貿易額で言えば、既に日・ベルギー貿易は中・ベルギー貿易に額においては凌駕されている(前者が、61.53億ユーロ、後者は100.89億ユーロ(2010年))。ベルギーにとりEU域内貿易が7割を越えている中で、中国はアジアの中での最大の輸入相手国となっている。伸び率も二桁である。投資や当地社会への根付き方においては、まだ日本企業に一日の長があるが、中国の追い上げの勢いと速度は激しい。ユーロ危機や債務問題で苦しむ欧州にとり、中国経済の存在は益々重要になっている。
  留学生の差は圧倒的である。ルーヴァン・カトリック大学の留学生6千人あまりの内、中国人は約500名でEU域外では最大である。日本人留学生数は出てこないので分からないが10名前後ではないだろうか。ブリュージュには知る人ぞ知る欧州大学院大学(カレッジ・オブ・ヨーロッパ)がありEU官僚の中で隠然とした学閥を構成しているが、ここにも現在3名の中国人留学生が学んでいる。ちなみに、日本人学生は2012年現在ゼロである。

(今後の展望)
日本にとって勇気づけられる数字を最近聞いた。当地の東アジア研究の中心であるルーヴァン・カトリック大学の日本学担当教授によれば、2011年秋入学の新入生の内、日本研究専攻118名に対し、中国研究専攻は70名と、日本研究が根強い人気を得ている。日本への関心はジャパン・クールの影響等純粋に日本が好きな学生が多い一方、中国専攻は中国経済の台頭から自分のキャリアに繋がることへの期待感を持っており、ある意味、日本への関心の方が根が深く流行に左右されない人気とも言えると分析していた。
最近では、パリにならって、ブリュッセルでもJapan Expoのような日本文化の催し物がファンの力で実施され、多くの入場者を集め活況を呈している。漫画・アニメは言うに及ばず、コスプレをした青い目の少女がおにぎりを頬張り、日本の将棋や囲碁、ゲーム、歌曲にファンが興じ、キティちゃんをはじめ日本のキャラクター・グッズを求め、日本料理や日本酒の人気は高く、茶道・華道、武道に日本文化の洗練さ・礼儀正しさを感じている。そして、東日本大震災時に示された日本人の規律正しさと落ち付きに感銘を受けているベルギー人は多い。

このようなソフト・パワー、スマート・パワーも活用しながら、人権、民主、自由や法の支配といった基本的な価値観を日本と共有するベルギーにおいて、日本が中国との関係で如何に差別化を図っていくか、量ではなく質において中国が代替することのできない日本の独自性と存在感を如何に高めていくか。このことが今後の日・ベルギー関係ひいては日欧関係において問われていくことになろう。
※本寄稿は著者の個人的見解を表明したものです。
(2012年10月1日寄稿)




『親日新興市場・スリランカ』2012-10-11

『親日新興市場・スリランカ』


  • 6544.jpg


              駐スリランカ大使 粗 信仁 


 2009年に内戦が終了してからのスリランカの経済・社会の変貌の早さには驚かされます。 2010年、11年の経済成長率は8%以上、一人当たり所得は2,877ドルになりました。減速が見込まれている今年でも中銀は6.8%の成長を予想しています。コロンボの市街では、植民地時代の病院を改装し洒落たカフェやレストランの入った新観光スポットが登場し、インド洋を望む緑地帯を前にした一等地では新しい5つ星ホテルの建設が始まりました。

経済発展の原動力の一つが東部・北部の戦後復興需要です。我が国もODAの重点として積極的に支援していますが、各種インフラの整備が急ピッチで進み、これら地方の都市の景観もまた大きく変化しています。

これと同時に、スリランカが取り戻した「平和」に敏感に反応したのが観光です。もともと史跡や自然に恵まれたスリランカには世界遺産が8つあり、治安が改善したことで、世界各地から訪れる観光客が年率30%を超す勢いで伸びました。日本からの観光客はそれを上回る勢いで、昨年は43%も増えました。

途上国のなかでは医療・教育の水準が高く、スリランカは、もともと潜在力のある国です。長く続いた内戦のため、エアポケットのような注目度の低さに甘んじていましたが、それもどうやら終わりつつあるようです。7月に発売したドル建てのスリランカ国債(10年債)10億ドルに対しては、米など世界中から10.5倍の応募がありました。格付けは決して高くないのですが、経済の勢いが評価されての人気でした。また、出足が遅れていた産業分野への海外直接投資も観光分野から製造業へと広がりを見せつつあります。

このようなスリランカ経済への世界の認知度を調べてみると、ダウ・ジョーンズ他1社の新興市場リストにはスリランカが登場しています。まだ多数派の認知というわけにはいきませんが、目下の勢いを見ていると、スリランカへの注目度はますます高まると予想されます。ちなみに、成長力に着目したシティグループの分析(Global Growth Generators)ではスリランカは、途上国中10位とされています。

同時に、スリランカは、知る人ぞ知る大の親日国です。スリランカ人と日本人の心情が似ているという声を良く聞きますが、日本ブランドへの信頼も高く、街を走る車の7割以上は日本車です。驚くのが、日本が発祥の「5S運動」が根付いていることです。全国規模のコンテストが17年続いており、「5S運動」で成功した企業が多いのは、「欧米より日本の経営手法がスリランカの社会に合っているから」とのことです。こんなお国柄から、官民ともども「日本からの企業進出は大歓迎」です。平和を取り戻したスリランカの将来に向けて、日本が果たせる役割は大きいと期待されています。 (2012年10月1日寄稿)

※本寄稿は著者の個人的見解を表明したものです。









『パラグアイから見る南米の風景』2012-9-10

『パラグアイから見る南米の風景』


  • 神谷 武(カミタニ タケシ).jpg


              駐パラグアイ大使 神谷 武

本年5月、フェルナンド・ルゴ大統領(当時)が、「パラグアイは三国同盟戦争の敗戦から未だに立ち直れないでいるが、日本は、敗戦からも、度重なる自然災害からも、復興を遂げている。その日本の伝統の力が何処にあるのか知りたい」と、日本などアジア諸国への歴訪を前に、その思いを述べていたことがある。

 三国同盟戦争とは、1864年から1870年まで、パラグアイがブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの三国同盟との間に戦った熾烈な戦争であり、この戦争により、パラグアイは、国軍が全滅、領土の大きな部分を失い、人口は、1/3、男性人口は、1/10に減じ、国力は衰退した。その後、140年余を経た今も、その影響があると言うのである。

 因みに、三国同盟戦争を率いたパラグアイの第2代大統領、フランシスコ・ソラノ・ロペス元帥は、英雄廟に祀られ、その戦死の日(3月1日)は、英雄の日の祝日となり、その名は、大統領公邸や日本大使館などの並ぶ大通りに冠せられている。アスンシオンは、1537年に創設され、17世紀初頭まで、南米南端まで広がるスペインの総督領の中心であった。パラグアイは、1811年に独立宣言を行い、1861年には、アスンシオンから南部のエンカルナシオンまで蒸気機関車が走り、その鉄道は、ブエノスアイレスまで通じるなど、国威を発揚していた。なお、三国同盟戦争では、戦勝国側の消耗も激しく、ブラジルは、奴隷解放から帝政崩壊への道を辿ることとなった。

大統領官邸(ロペス宮).jpg大統領官邸(ロペス宮)

 6月、ルゴ大統領(当時)がアジア諸国歴訪から帰国したが、その後、まもなく、「三国同盟戦争」の文字が新聞の見出しに躍ることとなる。
 6月15日、パラグアイにおいて、不法侵入の土地なし住民の警察による強制退去が流血事件に発展し、これを契機に、議会が、ルゴ大統領の任務遂行不手際を理由に、弾劾裁判を行い、22日、圧倒的多数の賛成を以て、大統領罷免の判決が下され、フェデリコ・フランコ副大統領が、大統領に就任する。他の南米諸国は、これを議会によるクーデターであると見、一斉に、パラグアイにおいて民主主義秩序が断絶したと非難した。29日、アルゼンチンにて開催された、南米南部共同市場(MERCOSUR)の首脳会議には、パラグアイの参加が拒否され、MERCOSURの他の加盟国(ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの3カ国)は、民主主義的秩序が回復するまでの間、MERCOSURのすべての会議へのパラグアイの参加を停止すると宣言した。そして、同時に、2006年の議定書署名以来、パラグアイ1国のみが批准しないために棚上げとなっていたベネズエラのMERCOSURへの正式加盟が、パラグアイの参加停止のまま、他の3カ国により決定された。

 パラグアイは、議会による弾劾裁判と大統領の罷免は、憲法に従った措置であり、民主主義秩序は維持されているとし、3カ国による決定は、MERCOSUR設立条約(アスンシオン条約)及び関連議定書の明白な違反であり、不法、不当と反発したが、他の諸国の認めるところとはならなかった。パラグアイと他の3カ国との間には、電力取引や貿易障壁など種々の問題が燻り続けているが、その対立が一層際立つに至った。そして、マスコミは、これを「三国同盟戦争」の再発と報じた。「歴史は繰り返す」と言うことであろうか。

 ベネズエラのMERCOSUR加盟については、パラグアイでは、ウゴ・チャベス大統領の下での非民主的体制と人権抑圧を問題とする議論が強く、議会での批准手続きが成立しなかったが、逆に、パラグアイが民主主義秩序断絶の烙印を押されることとなったのである。

 南米では、1980年代以降、多くの国が民主的体制に移行するが、新自由主義政策は格差拡大をもたらし、多数の低所得者層を支持基盤とする政権が生まれ、社会主義的傾向が強まることとなる。そして、ベネズエラの石油資源と経済力を背景に、ボリバリズムと21世紀の社会主義の影響が広がってきた。パラグアイにおける2008年のルゴ大統領の下での左派連合政権の成立、それによる61年ぶりの政権交代も、こうした流れに沿うものであった。それだけに、パラグアイ議会による大統領罷免に、ベネズエラを始めとする他の南米諸国が、直ちに、強い反発を示した。

 ベネズエラのMERCOSUR加盟が認められると、MERCOSURは、カリブ海から南米南端のパタゴニアまでの広大な経済ブロックとなるが、その保護主義的傾向は、一層強まるとの見方が多い。これに対して、2011年4月に設立された太平洋同盟は、メキシコ、ペルー、コロンビア、チリによって構成され、より自由な貿易体制を指向している。南米に保護主義圏と自由主義圏が形成され、その間に新たなトリデシリャス・ラインが引かれようとしていると、15世紀のトリデシリャス条約によるポルトガルとスペインの領土分割に擬える論調も見られる。パラグアイには、今回の事態を機に、MERCOSURへの依存を見直し、太平洋同盟諸国への接近を強めようとの動きが出ている。そして、8月23日、パラグアイ議会は、ついに、ベネズエラのMERCOSUR加盟議定書の批准を正式に否決した。

 MERCOSURへのパラグアイの参加停止の決定は、民主主義秩序の回復(即ち、来年4月21日の大統領選挙、議会選挙による新体制成立)までの間の時限的なものであり、経済制裁は加えられず、実体的な経済関係に影響はないとされている。しかし、パラグアイとしては、不法、不当な決定に甘んじることは、国家の主権と尊厳に関わる問題でもあろう。米州機構(OAS)では、対パラグアイ制裁は不成立に終わっている。南米特有の政治の流れの揺れ動く中で、どう折り合いをつけるのか、外交的取り組みが図られようとしている。

ラパッチョ.jpgラパッチョ

 折しも、パラグアイでは、ラパッチョが咲き乱れ、季節は、冬から春に移ろいつつある。
※本稿の内容は、筆者の個人的見解である。 (2012年9月4日寄稿)


『ユニークな中規模高品質国家を目指すコスタリカ』2012-7-12

『ユニークな中規模高品質国家を目指すコスタリカ』


  • 並木芳治.jpg


               駐コスタリカ大使  並木芳治

コスタリカは多種多彩な分野で世界や日本の模範となるべき優れた資質を有する国である。
コスタリカ憲政史上、女性初のチンチージャ大統領から着任時の表敬訪問で、「コスタリカは小さな国ですが、世界でもユニークな国ですので在任中は旺盛な好奇心を持たれて全国津々浦々を視察されてください。そして二国間の関係強化に向けてお互いに努めていきましょう」と激励された。確かに大統領が言われるようにコスタリカほど世界の斬新さを先取りしている国も少ない。国のイメージ作りやそのアピールに長け、中規模高品質国家を目指すコスタリカのプレゼンスを象徴する言葉や形容辞句は数尽きない。

ROBERTO RAMOS - COSTA RICA022.JPGPhoto by ROBERTO RAMOS - COSTA RICA022

平和、環境、ハイテク産業が三位一体となって見事な調和を醸し出している。既に1949年に軍隊の廃止を明記した平和憲法を制定し、平和愛好と人権尊重の先進国として非武装中立を堅持しながら国際社会において確たる地位を築いてきた。不要の軍事予算は教育、社会福祉、自然環境保護に充当し、近年ではハイテク産業の育成振興、はたまたロボット技術や宇宙開発に至るまで浸透する勢いを示している。こうした独自の国家発展パターンを遂げる姿は、あたかも21世紀の理想国家像を垣間見る思いがする。

 コスタリカの人口は僅か430万人、九州と四国を合わせた程度の国土(世界の面積の0.03%)に地球上の全動植物種の約5%が生息し、世界の蝶類の約10%、鳥類に至っては米国とカナダを合わせた種よりも多い850種が原生林で息づいている。生物多様性という言葉はコスタリカの代名詞のようなもので真に「生物の宝庫」を思わせる。

ROBERTO RAMOS - COSTA RICA031.JPGPhoto by ROBERTO RAMOS - COSTA RICA031

 コスタリカは平和愛好国家であると同時に民主主義が早くから定着した法治法制国家といってもよい。主要な分野で数値を設定して国民共通の努力目標にしているのも特異である。例えば、女性の社会進出も画期的で次回の国政選挙からは各政党の立候補者拘束名簿で男女を交互に並べながらその比率が完全に同等となるよう義務づけられている。教育費のGDP比6%論も典型で97年の憲法改正で定めている。内戦の歴史もなく他の中米諸国に比べ各分野で高評価を得ているのは、この「教育」最優先の考え方であろう。

ROBERTO RAMOS - COSTA RICA019.JPGPhoto by ROBERTO RAMOS - COSTA RICA019

98年成立の生物多様性法では自然環境保護のために森林の伐採や乱開発を禁止し、併せて国土の25%以上を国立公園や自然保護区に指定して環境破壊を防ぐ方策を採用している。他方で、自然を観光資源に活用しながらエコツーリズムを世界に先駆けて取り入れ、今日では年間200万人を超す外国人観光客で風光明媚な各地は賑わう。ビーチ優先型やグリーンエコー観察型の伝統的なツーリズムに加え、近年では高水準・低コストで付加価値の高い医療観光が脚光を浴び始め、口腔外科や肥満治療、美容整形を求めて米欧から年間5万人の治療客が訪れる。他の中南米ではあまり見られないコスタリカならではの経済効果の高い将来有望な成長産業だ。

ROBERTO RAMOS - COSTA RICA035.JPGPhoto by ROBERTO RAMOS - COSTA RICA035

 コスタリカは、「自然との共存」をスローガンに独立200周年となる2021年までに温室効果ガスの排出量を森林のCO2吸収量と相殺する「カーボン・ニュートラル」という崇高な目標に向かって国家計画を推進中だ。水力、地熱、風力による発電を重視し、再生可能エネルギーの発電比率は世界随一の93%を占める。水力や地熱発電では日本が資金や技術を提供し、太陽光パネルを利用した発電施設の竣工も間近で日本の貢献はトップクラスにある。環境に優しいエネルギーといえば国民生活に欠かせないのが自動車産業だ。日本の大手メーカー2社が中米で初となるエコカーや電気自動車を発表し大統領にも試乗して喜んでもらった。親友のカストロ環境エネルギー通信大臣によれば、今後はタクシーやバスなど公共交通手段として環境対応車を順次導入していきたい考えという。市場は小さいが日本車参入の一大商機でもある。

 コスタリカは中米諸国の中でいち早く地上デジタルテレビ放送の日本方式採用を決定し、2017年末の地デジ完全移行を目指している。大雨大洪水や地震の自然災害が発生する国では緊急警報をテレビや携帯電話で受信できる日本方式は人命救助にも役立ち経済性のみならず技術面でも優位性が高い。コスタリカ人の「新しいモノ好き」は枚挙にいとまがないが、次世代送電網の効率的な電力需要を実現するスマートグリッドやスマートシティ構想にも関心があると聞く。日本のこうしたハイテク技術がコスタリカ国民の生活向上に資することを期待したい。

 2010年は日本とコスタリカの修好75周年の佳節を迎え、昨年には秋篠宮同妃両殿下が皇族として初めてコスタリカを公式に訪問され、続いてチンチージャ大統領がアジアで最初の訪問国に日本を選ばれ公式実務訪問するなど両国間の友好協力関係を象徴するような画期的で歴史的な年となった。東日本大震災に際しては、チャリティ・イベント「アリガトウ・デー」に1万人を超す市民が集まり、被災者や日本国民への連帯の念を示して暖かい支援を頂いた。改めて感謝したい。日本のこれまでの協力に対する当然の恩返しであるという。

 中米の重要なパートナーであるコスタリカは、小国ながら平和愛好、環境保護と経済発展の両立によるグリーン成長、ハイテク産業推進など世界の模範となるべき多くの要素を具備した国で、ニューヨーク・タイムズ紙が報じたように幸福指数や環境指数が世界第1位と評価するのもあながち誇張ではないであろう。(了) (2012年6月25日寄稿)

『アフリカのちょっと変わった国「ルワンダ」』2012-6-18

『アフリカのちょっと変わった国「ルワンダ」』


  • taishi.jpg


          駐ルワンダ大使  畑中邦夫


 ルワンダという国を知っている日本人にとって、まず、最初に出てくるのは、「ジェノサイドの国でしょう?」という言葉だと思います。1994年4月から7月までの約100日間に80万人~100万人(1日1万人)が殺されたと言われる、第2次世界大戦以降の組織的民族大量殺戮(ジェノサイド)のなかでも最悪のケースのひとつです。

 例年の通り、今年も4月7日に第18回目の慰霊式典が開かれました。そして1週間後の4月13日までを「ジェノサイド週間」として、ルワンダ国全体が喪に服したのです。本稿では、ジェノサイドを語るのではなく、古くからの日本との関係、ルワンダのちょっと変わった面、18年前のすべてが破壊された状態から今日のルワンダに如何に発展してきたか、今後どの方向に向かおうとしているのか、などについて個人的な見解を述べてみたいと思います。


2010年12月3日 天皇誕生日レセプション(カレガ・インフラ大臣との乾杯2011年8月17日 東部地方給水事業(第2期)起工式(ルハムヤ水・エネルギー担当大臣と) 2011年9月6日 EN調印式(蒸し器和簿外省都) 2011年9月11日 東日本大震災6カ月追悼式  (小林JICA所長、ルハムヤ水・エネルギー担当大臣、バイネ外務省次官と) 2012年1月18日 カヨンザでの道の駅説明会(ウワマリア東部地方知事(右)と) 2012年3月14日 東日本大震災レセプションでの説明 2010年6月11日 カガメ大統領への信任状捧呈式 キガリタワービル キガリ郊外の風景 大使館の入るビル(5階と6階の一部に入居)
1. ルワンダにとっての日本の友人
ルワンダにとって友人中の友人である日本人がふたりおられます。一人目は(故)服部正也さんで、ルワンダ独立後間もない1965年から1971年まで、国際通貨基金(IMF)の専門家として日本銀行から派遣され、金融はもちろんのことルワンダの諸制度の基礎作りを手伝われました。私が学生の頃夢中で読んだ「ルワンダ中央銀行総裁日記」をご存じの方も多いと思いますが、いまでも2代目総裁としてルワンダ国立銀行に写真が飾られています。二人目は先日まで国際協力機構(JICA)の理事長を務められていた緒方貞子さん(現外務省顧問)で、ジェノサイドの当時、国連難民高等弁務官(UNHCR)として多くの難民の救済にあたられました。現カガメ・ルワンダ大統領の信頼も篤く、国際会議等でご一緒される場合には、必ず言葉を交わされる仲です。また、いくらお忙しい時でもルワンダからのお客様には必ず会って頂けるので、大使としてはいくら感謝してもしきれない方です。
私は、2年少し前に初代大使として着任しましたが、これらおふたりの偉大な先人のお陰で、日本人に対するルワンダ人の感情はすこぶる良好なため、既に仕事の半分以上をおふたりに片付けてもらったのではないかと考えています。

2. ちょっと変わった国「ルワンダ」
 アフリカのなかでルワンダは少し変わった国ではないかと考えています。北部アフリカのマグレブ諸国はともかく、サブ・サハラのなかで朝や夕方に女性がひとりでジョギングできる国はそうそうありません。警察国家だと悪口をいう人権団体もありますが、外国人が安心して安全に暮らせるのは大変有り難いことです(注)。また、街中にはゴミが余り落ちておらず、清潔な感じがします。我が国に近い某国の田舎のトイレ経験者が、ルワンダのトイレの清潔さに驚いていました。もともと清潔好きな国民性に加え、独立以前から毎月第4土曜日の午前中は、地域コミュニティの仕事として道路の清掃や村の共同作業を行うという伝統があり、今もこれが続いています(これをウムガンダと呼びます)。更に、ルワンダは我が四国の1.4倍ほどの小さな国とはいえ、ほぼ全域が緑豊かな国で、これも砂漠やサバンナの多い他の国との違いを際だたせています。

 「千の丘の国」と呼ばれるルワンダは伝統的に農業の国で、2.63万平方Kmの狭い国に1,062万人の人口(世銀:2010年)を抱える極めて人口密度の高い(平方Kmあたり400人)国です。このように日本よりも高い人口密度でありながら、食糧はほぼ自給できるという点でも、穀物輸入を余儀なくされている多くのサブ・サハラ諸国と異なっているといえるでしょう。

 (注)とは言っても、2010年始めから今年3月末までに、総計14回の手榴弾事件が起こっており、これらは外国人を対象としたものではないものの、大使館では人混みをさけるなど「十分注意してください」との安全情報を出しています。 次ページへ







『沸騰都市シンガポールの悩み』2012-5-28

『沸騰都市シンガポールの悩み』


  • about_ambassador.jpg


   駐シンガポール大使  鈴木 庸一
つい最近まで、沸騰するアジアの象徴のような存在に今、変化が起きようとしている。開放と成長の路線をひたすら突き進んできたシンガポールが悩んでいる。しかし、シンガポールらしいのは、その悩みにすぐ答えを出そうと動き始めているところだろうか。

第一の変化は成長から分配への変化である。
経済成長率は2010年14.8%、2011年4.9%。急減速をしている。
これまでなら、政府が何とかして、成長目標に掲げている5%を維持しようとした。ところが、今年は政府は成長見通しを1~3%に設定し、目立った景気浮揚策を取らないといっている。

経済界には不満が見られるが、政府は成長より分配を重視するので、低い成長率を受け入れるよう、国民を説得している。代わって、今年度の予算の特徴は、低所得者対策、高齢者対策といった分配である。

もうひとつの変化は外国人労働力の流入規制である。
興味深いのは、失業者が増えて、外国人に職を奪われているというのではないことである。失業率は2%であり、完全雇用状態で、求人をしても労働力を確保できない状態にありながら、外国人労働者の流入を規制する措置を去年の秋から段階的に導入していることである。結果として、労働コストが上がり、生産レベルも押えられるため、成長率はこの面でも低下している。また進出している日系企業も影響を受け始めている。

理由は昨年5月の総選挙の結果にある。与党人民行動党は87議席のうち、81議席を確保したのであるから、圧勝と普通は受け止められる結果であるが、実は建国以来の後退である。しかも外務大臣をはじめ、現職の閣僚が二名落選するなど、厳しい結果であった。

政府は、この原因を、一つには、中低所得者がシンガポールの経済発展から取り残され、社会的格差が拡大したことに対する不満、もうひとつが外国人労働者の急速な流入で社会に一体感がなくなったことと、賃金が低めに押えられ、シンガポールのかなりの人たちが豊かさを実感できなかったことに対する不満の表明であると分析をした。その分析に従って、さっそく政策を転換してきた。

経済効率優先、高度成長、能力主義から、生活の質重視、一体性を強化する包含的社会の実現、量ではなく一人ひとりの生産性をあげて外国人労働者に過度に依存せずシンガポール人の能力で成長を維持する経済運営に転換し、来るべく少子高齢化に備える、シンガポールは昨年の総選挙を受けて、方向転換への社会的実験に着手した。(寄稿2012年4月19日)

※本寄稿は著者の個人的見解を表明したものです。


『伸び盛りの国カタールと日本』2012-5-14



『伸び盛りの国カタールと日本』


  • IMG_9472.JPG


   駐カタール大使 門司 健次郎 

 日本では、「ドーハの悲劇」や「アルジャジーラ」は知られていても,それがカタールと結び付けられることは滅多にありません。2022年ワールドカップの開催決定と昨年のサッカーアジア杯での日本の優勝により、ドーハがカタールの首都であることを初めて知った方も多かったのではないでしょうか。カタールは日本の主要なエネルギー供給国で、LNG(液化天然ガス)、原油とも日本の輸入の12%を占めています。また、日本はカタールの最大の貿易相手国です。両国のこの密接な関係も日本では余り知られていません。
ところが、カタールには、現在、世界中から熱い視線が注がれているのです。世界で最も輝いている国の一つと言っても過言ではありません。そのようなカタールについてご紹介するとともに、日本との特別の関係についても触れたいと思います。

1 伸び盛りの国
 カタールは、アラビア半島からペルシャ湾に突き出した小さな半島の国です。秋田県ほどの広さに170万人が住んでいますが、カタール人は25万人から30万人程度。埋蔵量世界3位の天然ガス田を有し、LNGの生産、輸出とも世界一。そのおかげで、驚異的な経済成長を続けています。ドーハを訪れた方は,湾沿いに奇抜なデザインの高層ビルが林立する未来都市のような姿に驚かれることでしょう。私が最初にドーハを訪ねた2004年秋にはビルは本当に疎らでした。2010年の1人当たりGDPは世界一で,何と日本の2倍半の9万ドル弱。しかも、これは出稼ぎ労働者を含む全人口についての数字なのです。
 また、カタールは、2022年のワールドカップに向けて、今後10年間で1400億ドルを各種大型インフラ整備に投入する予定です。更に、豊富な資金を国内の開発に充てるだけでなく、海外での事業や外国企業の株式取得(ポルシェの17%、ロンドンのハロッズ他)等にも投資しています。昨年からバルサのユニフォームの胸にはスポンサーの「カタール財団」の名前が記されています。

Q (0).jpg2004年10月撮影のドーハ
Q (1).JPG2010年12月撮影のドーハ
Q (2).JPG高層ビルのハウジングセンター (2010年10月)

世界が注目しているのは,カタールの経済力だけではありません。小国ながら積極的な外交を展開しているのです。海外でも最大級の米軍のプレゼンスを維持しながら、ガス田を共有するイランとも良好な関係を築いています。中東和平、レバノン、イエメン、ジブチ・エリトリア関係、ダルフール(スーダン)等の紛争解決に力を入れ、豊かな資金も用いて一定の成果を挙げてきました。昨年の所謂「アラブの春」の後,カタールは、これまでの中立を維持する方針から一歩踏み出し、自らの立場を明確に示し始めました。リビアについては、アラブ諸国として初めて軍隊を派遣し、あらゆる手段で反体制派を支援しました。また、シリアについても、アラブ内部で解決すべく確固たる対応を取るようアラブ連盟議長国として議論をリードしてきています。大型国際会議も多く主催しており,本年には国連貿易開発会議総会、万国郵便連合大会議、気候変動に関するCOP18と190カ国以上の参加する会議が3件も開催されます。いずれも会場は,磯崎新氏が建物正面を設計した国際コンベンションセンターです。
Q (3).JPGドーハ国際コンベンションセンター (2011年11月)   (砂漠の木シドラが全体を支えている建物正面の設計は磯崎新氏によるもの) Q (4).JPG正面ロビーにはルイーズ・ブルジョワ作の蜘蛛が。(2011年11月)

経済、外交で目立つカタールには、先進国,開発途上国,地域を問わず、多くの国から首脳・閣僚レベルの訪問が相次ぎ、まさに「カタール詣で」の様相を呈しています。

 しかし,私が着任後に最も印象付けられたのは,カタールが教育、文化,スポーツ、科学技術等に極めて高い優先度を付していることでした。「天然資源はいずれ枯渇するが人材は残る」との考えに立つものです。目黒区ほどの広さの「教育都市」に、ジョージタウン、コーネル、ユニヴァーシティ・カレッジ・オブ・ロンドンといった欧米の錚々たる大学を数多く誘致しています。男女共学で、半分がカタール人、半分が約90か国からの外国人学生です。また、ブルッキングス、ランド等の欧米の主要シンクタンクもオフィスを構え、活発な活動を行っています。

 文化面では、イスラム芸術美術館(2008年)、アラブ現代美術館(2010年)始め13の美術館・博物館を新築・改修する予定です。2月には、過去最大規模、かつ、中東初の村上隆EGO展が開幕しました。村上氏に候補の展示場を見せたら狭すぎる,次に広大な国際展示場を示したら広すぎるとのコメントがあり、それでは新たに建てようということで今の展示館が出来たとの噂が広まっています。恐らく事実なのでしょう。何しろ、全長100mもの五百羅漢図を展示するスペースがあるのですから。6月24日まで開催のこの展覧会のためだけにでもドーハ訪問の価値があるでしょう。
また、東京ドーム28個分の広さの文化芸術コンプレックス「KATARA」(2011年)では、世界中から芸術家を招いてコンサート、展覧会、講演会、祭り等が頻繁に行われています。

t2RIMG3966[1].JPG村上隆展EGOの会場 (2012年2月)Q (6).JPG正面の巨大な村上隆像 (2月)Q (7).JPGクワーリ文化相、村上隆氏、マイヤーサ美術館庁総裁と (2月)Q (8).JPG展示場内部 (2月)

スポーツ面も驚異的です。2006年にアジア大会を主催し、一昨年末には2022年ワールドカップ招致を勝ち取りました。また、2020年五輪にも立候補しています。あらゆる種類のスポーツの国際大会が数多く行われており、世界のトップレベルの選手の参加も目立ちます。日本選手の出場したフェンシング、フットサル、射撃、ビリヤード、ハンドボールの試合やオートバイ耐久レースを初めて観戦しました。卓球では日本チャンピオンの愛ちゃんや石川選手、水谷選手、岸川選手も常連です。

Q (9).JPGハンドボール日本代表(1月)
(カタールとの親善試合に勝ちました。)
Q (10).JPG卓球日本選手団を招いての意見交換会レセプション(2月)

メディア面では、1996年開設のアルジャジーラ衛星放送が,アラビア語放送と英語放送の他、ライブ、子ども,ドキュメンタリー、スポーツ等25チャンネルで発信しており、アラビア語圏のみならず世界中で視聴されています。その他、世界の一流企業の進出する科学技術パーク等、カタールの発展を示す話は枚挙に暇がありません。

Q (11).JPG震災後アルジャジーラ英語放のニュースに出演(2011年3月)

何がカタールをここまで駆り立てるのでしょうか。これらの活動は、ハマド首長、モーザ首長妃、ハマド・ビン・ジャーシム首相兼外相ら,開明的なリーダーの指導力によるものです。世界におけるカタールの存在を高めたいとの思いが感じられます。この国は明確なビジョンとそれを実現するだけの資源を有しています。どちらか一方しか持っていない国又は両方とも持たない国が圧倒的に多い中で、群を抜いて光り輝いています。
 私は、カタールの国のあり方を見て、日本国憲法前文の「われらは...国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う。」という文言を思い起こします。  2. 日カタール関係へ


『石油大国アンゴラ』2012-4-19



『石油大国アンゴラ』


  • myouitaishi.jpg


   駐アンゴラ大使 名井 良三

かつてブラック・アフリカと呼ばれたサブサハラは豊富な資源に恵まれた地域です。近年、リーマン・ショックにより一時苦境に見まわれたものの、地域経済は5%前後という堅実な成長を続けています。
アンゴラはそのサブサハラに位置し、資源大国として海外からの関心が高まっている国です。しかし、日本ではまだまだ知名度は低い国です。日本の人から「アンゴラはウサギが有名ですね。」と言われたことがあります。セーター等に利用される良質の毛を持つアンゴラ・ウサギ(Angora rabbit)は有名ですが、アンゴラ国(Angola)との関係はないのです。

アンゴラのことを少し紹介すれば、先ず、新大陸に多数の奴隷が送り出された国です。そして、近年まで内戦を続けていた国でもあります。更に、OPECにも加盟する石油大国でもあります。
アンゴラは大西洋を挟んだブラジルの隣国です。大航海時代のあとポルトガルの植民地となり、新大陸への奴隷の主要供給源となるという不幸な歴史をもつ国です。アンゴラの奴隷博物館には、奴隷の数、約300万と記されています。音楽「サンバ」は有名ですが、その発祥地はアンゴラで、奴隷となったアンゴラ人が伝統音楽「センバ」をブラジルに根付かせたものです。

アンゴラは長年の内戦により国民同士が戦い合うという悲惨な経験をしました。東西冷戦の中で、旧ソ連、キューバ、米国、南アフリカ等が関わった内戦で、海外からの武器が多数使われ、地雷も国内各地に埋設されるという状況でした。内戦終了から10年経つ今日でも大きな問題として残存するのが地雷です。千万個と言われる数の地雷が埋設され、アフリカ最大の地雷埋設国となってしまい、国内各地に残存する地雷は内戦後の経済発展を妨げる大きな要素となっています。

日本のNGO「JMAS」はその地雷除去に尽力しています。日本政府からの資金提供を受け、アンゴラ政府機関と一体となった活動を行っています。更に、住商、トヨタ、コマツといった日本企業も支援する官民一体の事業であり、単に地雷除去活動に留まらず地域振興にも尽力する活動はアンゴラ社会から高い評価を得るものになっています。

②Jmas.jpg写真:JMAS

経済面に目を移せば、アンゴラは有力な原油生産国です。リーマン・ショックの時期にはOPEC議長国として采配をふるいました。ナイジェリアと並ぶアフリカの2大産油国であり、大量の原油生産とその価格上昇によりアフリカの新興国として飛躍的な発展を遂げつつあります。

2002年、私は初めてアンゴラを訪れました。当時は、約30年にわたる内戦が終了したばかりであり、訪問したウアンボ市では銃弾の痕が至る所に残っていました。それから10年、現在のアンゴラはその姿を変えています。首都は建設ラッシュでビルが立ち並び、道路は自動車であふれています。物価高も際立っています。単に物価が高いという程度ではありません。世界一なのです。国際調査会社ECAインターナショナルは、2007年及び2008年の世界生計費調査においてアンゴラの首都ルアンダを世界で最も物価の高い都市とのランク付けを行いました。

ビジネスマンが頻繁に往訪する欧州直行便は常に満員の状況で、彼らが利用するホテルは300~400ドルが普通であり、長期滞在する場合には月額1万ドルというアパート家賃を払うことも稀ではありません。建設資材は高騰し、生活物資や食料も他の国に例をみない価格です。高物価国としての地位は経済発展ととともにこの先も当分続いていくことになるでしょう。

③首都ルアンダ市の様相.JPG写真:ルアンダ市の様相

目覚ましい経済発展がある中で我が国の進出はまだまだです。在留邦人は僅か50人程度です。中国、インド、ベトナム、韓国というアジア諸国と比べても桁が違うくらい少ない数です。しかし、日本との関係は高っており大きなプロジェクトも始まっています。本年2月には丸紅のプロジェクトの署名式に立ち合いました。総額650万ドルの砂糖きび・エタノール・プロジェクトです。原油依存からの脱却を試みるアンゴラの意向にも合致するものです。その他にも、日本企業による大きなプロジェクトが進められつつあります。双日・住友商事等による肥料工場や丸紅の繊維工場は、上記エタノール・プロジェクトを大きく上回る規模のものになっています。

最後に、アンゴラのコーヒーのことを紹介します。アンゴラは、以前、コーヒー大国だったのです。赴任する前に在京アンゴラ大使館を訪問しましたが、そこで「ジンガ」という名のコーヒーを飲みました。まろやかで飲みやすいコーヒーでした。アンゴラがポルトガルの植民地だった1960年頃には、コーヒー生産は世界第3位を記録する一大産業でした。ポルトガルからの独立、そして内戦を経て国内経済は疲弊し、コーヒー生産も激減することになってしまいました。国内のスーパーに行けば、大量のネスカフェに混じって細々ながら「ジンガ」も売られています。原油依存の経済から脱却を試みるアンゴラにおいて、いずれ有力な産品としてコーヒーが再登場することを期待したいものです。(寄稿21012年4月12日)


coffee.jpg写真:「ジンガ」コーヒー

※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。



『リトアニアからの熱い思い』2012-4-2



『リトアニアからの熱い思い』


  • 3834.jpg


   前駐リトアニア日本国大使 明石美代子

私はこの2月、3年8カ月にわたる任務を終えリトアニアから戻ってまいりました。残念ながら日本では一般的に言ってリトアニアという国はまだまだ知名度が高くありません。ですから私がリトアニアの話を始めるときには、バルト海に面した旧ソ連邦の国、「日本のシンドラー」杉原千畝領事代理がリトアニアの当時の首都カウナスにあった日本領事館で執務していたこと、そしてナチのユダヤ人迫害から多くの在欧のユダヤ人を救ったことなどについて話したりしています。また最近日本ではユネスコの世界遺産に対する関心が高まっていますので首都ビリニュスが世界遺産に指定されていると付け加えることにしています。中にはベルリンの壁崩壊の年の8月23日に起こったバルト三国の『人間の鎖』をテレビ報道で見たという方々もおられます。その『人間の鎖』とは当時まだソ連邦の一部であったリトアニア共和国市民がエストニア共和国、ラトビア共和国の市民とともに、時間をあわせ北はタリンからリーガを経てビリニュスを結ぶ全長650キロの高速道路に集まり手をつなぎ文字通り人間の鎖を作り独立を訴えたのです。当時、この3つの共和国間の交信はソ連当局の厳しい統制下にあり、特に反体制運動は更に厳しく制圧されていたことを考えれば『人間の鎖』の完成は奇跡に近いこととして世界中に報道されました。当のバルト3国自身にとってはこの『人間の鎖』の成功は大きな自信となり、連帯して独立回復を勝ち取る運動へと向かうきっかけになったことは間違いありません。

baltic-way,23August1989.jpg600キロに及ぶ人間の鎖600キロに及ぶ人間の鎖.png
Baltic Way, 23 August 1989.                        600キロに及ぶ人間の鎖
Photo–Jonas Juknevičius (Lithuanian Central State Archive)


リトアニアの人口は約320万人、首都ビリニュスは約55万人、西はバルト海に面し、北にラトビア、南はポーランドとロシアの飛び地カリニングラード、東・南東はベラルーシに囲まれた国で我が国の6分の1、北海道よりやや小さい領土をもつ国です。

1991年エストニア、ラトビアと共に長いソ連支配から独立を回復した国ですが、13世紀には大公国として出現しバルト海に面する一帯を支配,最盛期の15世紀はバルト海から黒海に至る広い領土を持ち、バルト三国の中では最も長い独立の歴史を持っている国です。しかしその後はポーランドとの連合を経て、三度の領土分割の結果18世紀末から1918年までおよそ120年に及ぶロシア帝国支配が続きました。そしてロシア革命後の1918年に達成した独立は1940年のソ連侵攻によりわずか20年強で奪われ、その後ドイツに、そして再びソ連に支配・編入されるという複雑な歴史を歩んできました。それゆえ独立回復を果たした1991年以来今も自らの歴史を振り返りながら独立国としての誇りと自信を忘れまいとする努力があらゆる分野で続けられています。

実は我が国とリトアニアとの関係は1921年にさかのぼります。 しかし、1940年のソ連編入から1991年10月の外交関係再開までの間は両国関係は断絶しておりました。1997年首都ビリニュスに日本国大使館を設置、大使は駐デンマーク日本国大使が兼轄し、臨時代理大使が駐在していましたが2008年大使館を格上げし、私が初代本任大使として常駐することになりました。天皇陛下からの信任状奉呈式では、当時のアダムクス大統領は歓迎スピーチの中で天皇皇后陛下のご訪問に続いた日本からの初代本任大使着任を高く評価し深い感謝の気持と両国関係の未来に大きな期待を表明しました。そして式典に続く懇談ではたいへん暖かく私の手を握り「貴使のおいでを本当に長い間待ち続けていました。お目にかかれて喜んでいます。ようこそ」と述べられました。失礼ながら私はそのような歓迎の言葉は儀礼上の言葉と淡白に受けとめていました。しかし必ずしもそうではないことをその後離任の時まで折に触れ改めて思い起こさせられることになりました。リトアニアとしてはそれほど日本からの駐在大使を待ちわびていたということなのでした。


ところで私の信任状奉呈のすぐあとロシア大使の信任状奉呈が予定されていましたが、正にその当日朝になってキャンセルになっていました。その理由についていろいろな憶測がありましたが、アダムクス大統領自身が昨年末出版した回想録の中で次のように説明しています。リトアニア語から英語に翻訳してもらったものを日本語に訳しますと「2008年6月30日、私は前代未聞の外交措置をとらなくてはならなかった。 本日、日本国大使とそれに続きロシア大使の信任状奉呈が予定されていたが、私は外交顧問に対しロシア大使の信任状奉呈をキャンセルするよう指示した。 ロシア人のハッカー行為により、リトアニアのインターネットはロシア語や、ロシアの国旗やロシアのシンボルであふれている、このような状況の中で外交的な会話など出来るものではない。私はこのような行為を許さないと決意した。」

信任状奉呈の記念写真を改めて見直しますと大統領の表情が幾分緊張していると言えなくもありません。結局ロシア大使の信任状奉呈は2週間後に実施されました。もともとアダムクス大統領はパルチザンとして第二次世界大戦後もソ連占領後のリトアニアからドイツにのがれ抵抗を続け、その後米国に移住してリトアニアの独立運動を支援した人ですので、その反ロシア精神は筋金入りです。


当時既にNATO、EUへの加盟を果たし独立回復後の経済発展もある程度達成し一息ついていた時にロシア側の情報撹乱の嫌がらせ、そしてロシアのグルジア侵攻はリトアニアに衝撃をもたらしたことは明らかでした。

アダムクス大統領と.jpg

実際、2008年8月のロシアによるグルジア侵攻ではアダムクス大統領は直ちにエストニア、ラトビア、ポーランドに呼び掛け現地に飛び世界に向けロシアに対する徹底的非難を発信し、その後外相をグルジアにそしてEUに向かわせEUからより厳しい対ソ非難を導き出すため速攻外交を展開するなど、ロシアに対する払拭しがたい警戒心を見せつけていました。

その年の10月総選挙で生まれた中道保守の現政権は親米、 積極的EU・NATO外交を展開し、2012年までの外交綱領では小国リトアニアの生き残る道として、自由と民主主義という価値観を共有する国々との連携強化、ベラルーシ、ウクライナ、グルジアや南コーカサス地域の民主化推進を支援して仲間を増やすこと、またアフガニスタンやイラクにおける社会復興への支援などによって国際社会での存在感を示すことなどが決められております。翌2009年アダムクス大統領が引退した後、国民は女性の大統領グリバウスカイテを選出しましたが、同大統領は財務相、財務担当EUコミッショナーを歴任し外交官としての豊富な実績を生かしながら精力的に外交路線を継続しております。

独立20年の小さな国ですが昨年2011年には民主主義共同体閣僚会議とOSCE閣僚会合を相次いで開催し、ホスト国としての役目を無難にこなし、今年はバルト三国協力、北欧バルト8カ国協力の議長国のほか、2013年後半のEU議長国としての役割を果たすため活発な外交活動を進めております。更に国連においても第67回国連総会の議長ポストへの挑戦、2013年の国連安保理非常任理事国選挙への立候補など野心的外交日程が続きます。


さてこのような環境の中、私も先ずはとにかくvisibilityを高めることを第一に、リトアニア国内の視察・巡回で可能な限り広範囲にわたり多くの人々と交流することに努めたわけですが、誰に会ってもどこに行っても予想をはるかに超えた歓待ぶり、メディアのインタビュー攻めにはうれしいと同時に戸惑いを感じるほどでした。正直なところリトアニアでは日本のプレゼンスは未だまだ小さく、進出日本企業数は僅か4社、在留邦人は58名にすぎず、地理的な距離感がそのまま人の交流の少なさに反映されているので、日本に対する関心をいかに掘り起こし高めるかが優先課題と考えていましたので、それはうれしい見当違いでした。

それにしてもなぜこれほどの親日感があるのか、日本文化に対する熱いまなざしや憧憬は半端ではありません。自己流ながら生け花や,日本庭園、墨絵を楽しんだり、生け花.jpg

日本の伝統武道を修練したり、また老若男女が俳句を作って楽しんだりしています。大統領や政府要人、国会議員,経済界トップのほとんどから「日本は私たちの夢です、あこがれです。」「日本はお手本」といわれます。何を企画しても大変な人気なので外交団の間からその秘訣を問われたこともありました。本当になぜなのか、実はそこにはきちんとした理由があったのです。

伝統武道.jpg


リトアニアの皆さんが挙げる理由は世代により多少異なり、また日本の経済力、技術力が素晴らしいからという無難な回答もありますが、驚いたことに100年以上も前の日露戦争での日本の勝利を挙げる人が多いことです。今の日本人にはぴんと来ない話だと思います。当時のヨーロッパ諸国にとっては遙か彼方のアジアの小国日本が強大なロシア帝国との戦争に勝ったことは相当のインパクトを持って受け止められたようでした。この傾向はバルト地域を含むポーランドや北欧諸国に見られるようですが、特にリトアニアでは長い間ロシア帝国の圧政に苦しんでいた若い愛国者達に大きな勇気と希望を与えたようです。なかでも愛国心に燃えるステポーナス・カイリース青年は

小冊子.jpg



日本こそリトアニアがめざす目標との思いから、当時日本関係資料が整っていたサンクト・ペテルスブルグからロシア語の資料を取り寄せリトアニア語版の小冊子3冊に書き直し出版したのです。その小冊子は今もビリニュスの国立科学アカデミー図書館に保存されています。そういうリトアニア語の書物があったからこそ「日本」に対する特別な思いがたとえ細々であっても100年という歴史の荒波を乗り越えてリトアニアの人々の心に残ったのだと思います。

ベストセラー日本論.jpg

最近ノンフィクション作家の平野久美子氏がこの「日本論」を紹介する著書『坂の上のヤポーニヤ』を出版しました。当時のリトアニアにとって日本はそれこそ“坂の上の雲”だったのでしょう。


そして次に挙げられた理由は、日本はナチスのユダヤ人迫害から在欧のユダヤ人を助けた杉原千畝領事代理の国だからということです。

当時リトアニアの首都であったカウナス市内には杉原領事代理が執務し居住していた建物が残っております。

日本領事館の内装.jpg

11年前から現地の非営利団体・杉原財団がカウナス市やカウナス大学の支援をえながら杉原ハウス(仮称)として運営しています。建物は日本領事館の内装を残した展示場とカウナス大学日本学センターからなっておりますが、展示場は我が国政府の支援もあり充実した内容となっております。

日本からの訪問者はもちろん、世界各地からユダヤ系の人々が訪問し、カウナス市の有力な観光誘致スポットとなっております。
日本に対する親日感情の根拠となる3番目の理由は、リトアニア独立回復直後に日本政府が実施した技術協力や文化無償協力への深い感謝の気持ちです。特にソ連撤退後の新生リトアニアにとって音楽アカデミーでの楽器や、国立美術館,コンサートホールなどの視聴覚装備には手が回らなかった状況でしたので、文化無償協力による日本からの支援は大きな効果をもたらしました。先の歴代臨時大使の賢明な選択に感謝しなくてはなりません。幸運にも私はその果実の恩恵に浴したわけですが、それほど日本の支援が多くの国民から喜ばれ感謝されているという点を私たち日本人は知っておかなければなりません。

もうひとつ忘れてはならない歴史的事実を指摘する人々もいます。先の大戦後ソ連のリトアニア占領がはじまると同時に大量のリトアニア人がシベリアに追放されましたが、生死をさまよっていたリトアニア人を助けたのがシベリア抑留中の日本人だったということです。私も生存者から話を聞く機会がありましたが、日本人の勇気から生きる力を得たと語っていました。今でも多くの人々がシベリア追放の暗い過去を抱えている現実を見れば、シベリアでの日本人との心の絆が日本のイメージ形成に資していると考えても不自然ではありません。


このような親日的なリトアニアにとって昨年の東北大震災は信じられないほどのショックで受け止められました。震災を知った多くの人々は大使館の前に花束を置き沢山のローソクに灯がともされました。何かしたいがどうしたらいいのかという電話が殺到しました。お見舞いの言葉や千羽鶴の束が届けられ、義捐金運動、チャリティコンサート,ミサなどが各地で開催されました。なかにはリトアニアへの移住を勧める意見も聞かれ、優秀な日本人をぜひ受け入れたいと真剣に提案する人々にも会いましたが、リトアニア市民にとっても他人ごとではない気持ちが強く伝わりました。

現在リトアニアではエストニア、ラトビアと共に原発建設計画を進めていますが、震災後の福島原発事故はむしろ日本人の技術力の高さを再評価させることとになり、日本企業(日立・GE社)と真剣な交渉を続けております。2月末クビリウス首相は日本政府からエンドースを取り付けることを目的として訪日し首脳会談を行いました。原発建設はリトアニアにとりエネルギー安全保障の最重要案件であり早い時期の契約成立を目指しています。そうなれば確かな背景に裏付けられたリトアニアの日本に対する熱い思いも日本に伝わり両国関係は急速に発展していくものと信じております。そしてこれからは日本とリトアニア両国が情緒的な関係から戦略的互恵関係に展開しながら、共に信頼するパートナーとして世界の平和と安定のために貢献することを強く願うもので、またそれは両国が描く将来像であると確信します。(3月26日寄稿) 
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。



『欧州債務危機の中で』2012-3-7



『欧州債務危機の中で』


  • shiojiritaish.jpg


   欧州連合日本政府代表部大使 塩尻 孝二郎



(EUにおける議論)

EU(欧州連合)は、ギリシャの債務問題に端を発した深刻な債務危機に直面している。この危機を乗り越えるための対応策とともに、EUの進むべき方向、統合を進めるのか、どのような形で統合を進めていくのかについて、真剣な議論が、ブリュッセルを中心にEU各国で盛んに行われている。「欧州財政連合」、「欧州財政安定連合」、「欧州財政移転連合」、「複数のスピードの欧州連合」、「欧州政治連合」、「欧州連邦」、「欧州合衆国」等々の言葉が、議論の中で行き交っている。

EUの萌芽は、14世紀に遡るとされる。第二次世界大戦後、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)発足(1952年)、EEC(欧州経済共同体)発足(1958年)、EC(欧州共同体)発足(1967年)、そして1993年にEUが発足した。通貨については、EMS(経済通貨制度)導入(1979年)を経て、単一通貨ユーロ導入(1999年)へと、深化してきた。加盟国数は、ECSC当時6ヵ国であったが、その後徐々に増え、東西冷戦終焉後は旧ソ連圏の12ヵ国が加盟し、今や27ヵ国と拡大した。来年にはクロアチアが加わり、28ヵ国になることが予定されている。

こうしたこれまでの深化、拡大の道のりも平坦なものではなく、EUは、歳月をかけ幾多の試練、困難を乗り越えてきた。その中で、これまでも統合のあり方について幾度となく議論がなされているが、今回は特に切迫感をもって議論されている。EU統合の「深化」の議論に拍車がかかっている。


(EUの原動力)

欧州委員会、欧州議会が所在しているブリュッセルには、米国ワシントンと並んで有力シンクタンクが多くあり、また、多数のロビイストが活動している。欧州委員会には、3万4千人の所謂ユーロクラット、欧州議会には、754人の議員、その議員をサポートする6千人のスタッフがいる。EU加盟27カ国は、それぞれ、大きな陣容を擁する常駐代表部をブリュッセルに置いている。また、EUの首脳会議、閣僚会議が頻繁に開催され、さらにいろいろなレベルで、様々な分野にわたり多数の会議が行われている。

そうした中で、凌ぎを削って議論し、答えを探し求め、一緒に何とか前に進もうとしている。それが、これまでのEUの発信力、影響力、付加価値をつける力に繋がっていると痛感する。今回も、深刻な危機に直面し、これを乗り越え、さらに前に進んでいくために、懸命に凌ぎを削り、知恵を出し合っている。
「危機が大きな分だけ統合の危機を克服した後の統合の度合いも大きいものになる」というEU関係者の言葉が印象に残る。



(日本とEU)

日本は、現在、EUと経済連携協定(EPA)および政治協定を結ぶための交渉に入る準備を行っている。日本とEUは、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配等の基本的価値を共有し、「豊かな、競争力のある、持続可能な、活力のある社会の構築」をそれぞれが共通して目指している。経済面では、財政の健全化、経済の活性化、少子高齢化、産業競争力の強化、新興国の台頭、資源エネルギーの安全保障といった課題に、政治面では、地域の平和・安定、民主化の推進・定着、核・大量破壊兵器の不拡散、テロの根絶といった共通の課題に取り組んでいる。

日本とEUは、世界におけるその重み、影響力、果たすべき責任にかんがみて、その関係をさらに強化することの必要性が訴えられてから久しい。日本とEUそれぞれが、立ち向かっている課題を懸命に乗り越え、前に進もうとしているこの時期こそ、日本とEUの関係をさらに強い関係にする好機である。日本とEUがEPAおよび政治協定を結び、さらに高い次元に関係を昇華する好機を逃してはならない。
※本稿は筆者の個人的見解です。 (2012年3月5日寄稿)


『大震災とサッカー「聖地」への招待』2012.2.16



『大震災とサッカー「聖地」への招待』


  • hayashitaishi.gif


  駐英大使 林 景一

大震災の後の支援活動については、世界中の在外公館で館を挙げて取り組みが行われ、様々な感動的な話があると思う。そういう「いい話」の一つとして、昨年11月24日、被災地からの16人の高校生(岩手、宮城両県から各5人、福島から6人)が、ロンドンのウェンブレー球技場に招かれてサッカーをしたというお話をご紹介したい。

gazo1.jpg(「東日本大震災復興支援 被災地高校生サッカーマッチ」 という電光掲示板も掲げられた)

私は、高校、大学とサッカー部に所属し、7年間、文字通りエネルギーと時間をこのスポーツに注いだ。そういうサッカー好きにとって、ウェンブレー(Wembley)というのは「聖地」である。私が高校一年生の時、1966年のワールドカップ・サッカーがイングランドで行われ、地元イングランドがドイツ(当時西独)を破って優勝する。その決勝戦を含め、主要試合が行われたのがウェンブレー球技場であり、その後大改装されたが、今でも、国際試合か、カップ戦の決勝など重要な国内試合にしか使用されない特別の球技場である。私も、国際試合やカップ戦を数回観戦に行ったが、9万人収容のスタジアムには独特のオーラがある。球技場関係者によれば、代表でもない普通の選手がここで試合を許されたという記録、記憶はないとのことであった。

昨年、大使としての信任状を女王陛下に捧呈して二週間余の3月11日、東日本大震災が発生し、その後、在英大使館も、館を挙げて、情報発信、弔意受付と謝意表明の手紙書き、義援金募金活動の支援などに追われた。ウェストミンスター寺院での追悼式には二千名近い人が来てくれたし、「英日婦人会」と被災児支援のために行った公邸でのバザーには五百名近くの参加者を得て、一日で25万ポンドを集めたりもした。

そういう数ある支援活動の中で、サッカーの母国から、サッカーで被災者を支援するというのは自然な発想であった。新任大使として、各方面に挨拶回りをすることになっていたが、その中に、イングランド・サッカー協会(Football Association。略称FA)のバーンスタイン会長への表敬訪問を組み込んだ。同時に、震災支援についてお願いをしたいということも申し添えた。バーンスタイン会長は、やはり新任で、ワールドカップ招致活動敗退後の協会立て直しに多忙を極めていたが、快く応じてくれた。

当日、ウェンブレー球技場の中にあるFA事務局本部での約30分の表敬は、予定時間を大幅に超過して1時間にもなった。私は、東北の被害状況を詳しく説明した。会長は、ニュースを丹念にフォローしており、細かい質問をしては、大変なことだと唸り、また、日本国民の冷静で規律ある対応がすばらしいと賛辞を繰り返した。最後に、私は、日本大使として、また一人のサッカーファンとして、世界のスポーツであるサッカーの面で、特に発祥の地イングランドから何か支援がなされればすばらしいと思うので、ぜひご協力をお願いしたいと述べた。会長は、大震災については心を痛めており、何かできないかと思っていたところであった、ハント文化・スポーツ大臣からも手紙を受け取っており、貴使来訪に合わせて何かできないかと検討してきたところである、として、その場で3項目の支援策を提案してくれた。すなわち、①イングランド代表のサイン入りユニフォームの寄贈、②近くウェンブレーで行われる、イングランド・オランダ戦という好カードのボックス席切符(12人分)の寄贈、そして、これは少し大きいが、と前置きして、③ウェンブレーのピッチの半日使用許可、という三点である。

このうち、前二者については、先述の大使公邸でのバザーに寄贈され、計4000ポンドで売れた。問題は、ウェンブレーのピッチ使用権であった。この贈物ついては、全く予想しておらず、正直なところびっくりして、どうしてよいか分からなかった。当初、私は、権利を企業や個人に買ってもらって義援金を集めるという案に傾いていた。しかし、11月24日(木)という平日の午後の日にち指定や、大勢の観客を入れないという条件がついていたこと(恐らく、観客を入れると、多数の警備、清掃要員を動員せねばならず、FAにとって多大の負担が生じるため)もあり、紆余曲折を経てお金集めのアイデアは断念した。その代わり、被災地の高校生チームを招いて、日本代表でもなかなかプレーできない「聖地」でサッカーをしてもらうという、「お金で買えない思い出」をプレゼントしよう、そして、そのことを報道してもらって被災地に激励のメッセージを送ろうというアイデアに辿りついた。しかし、これにも多々関門があった。

まず、選手の選抜である。どこにどう接触して誰が誰と試合するかを選ぶのかが皆目見当がつかず、手がかりもなかった。ところが、運のいいことに、8月末に、たまたま小倉日本サッカー協会会長の来英があった。これは、戦前にFAから、日本サッカー普及のために日本協会に寄贈された銀杯が、戦争で行方不明となったのを、同協会創立90周年に当たり、FAが復刻して再寄贈するための式典出席が目的であった。滞在中に食事をご一緒した際、大使館作成の企画書を提示して、恐る恐る協力を求めた。会長は、その場で全面的な協力を快諾、選手選抜は、被災地三県の各サッカー協会が調整してくれることになった。また、宮城県出身の元全日本代表、加藤久氏を監督として派遣していただけることになったのは、特に心強かった。これで一気に動き出した。まさに銀杯贈呈式様々であった。

gazo2.jpg復刻銀杯贈呈式 (左から筆者、サー・ボビー・チャールトン、小倉会長、バーンスタイン会長)

次は、資金の確保である。もちろん当初の予算はゼロであった。まず、在英日本商工会議所にお願いして共催を引き受けてもらい、企業に協力を呼びかけてもらった。曲折はあったが、最大の難題であった渡航費用について、全日空から、選手・役員18名の日英間往復フライトの無償提供というまことに有難い申し出があった。日本サッカー協会が、国内移動費用を負担してくれた。ロンドンでの滞在費用も大きな悩みであったが、帝京ロンドン学園との話し合いで、同校高等部サッカーチームに被災地選抜チームの対戦相手となってもらうこととし、同時に、全寮制である同校の寮に選手たちを受け入れ、宿泊と食事を無償提供してもらうことが合意された。対戦相手と滞在費問題が一挙に解決した。ロンドン観光を含むバスでの移動や昼食代などその他の費用も、他の多くの支援団体、日系企業のサポートでまかなわれることとなった。

gazo3.jpg選手・来賓の集合写真

当日、ウェンブレーは、英国の冬らしい、寒くて変わりやすい天気であったが、幸い雨は降らなかった。観客こそ、帝京ロンドン学園関係者、報道関係者などごく限られた人たちであったが、立派な来賓が来てくれた。まず、ハント文化・スポーツ大臣が多忙の中、来場してくれ、主催者側を代表する私の挨拶と、バーンスタインFA会長の挨拶に続いて、スピーチをしてくれた。それも日本語であった。若い頃日本で生活したことがあるとはいえ、5分ほどの長さの日本語の挨拶を原稿なしでやってくれた。自ら被災地を訪問したこと、実はサッカー線審のトレーニングを受けていることを明らかにし、「本当は自分がこの試合の線審を務めたかったのですが、公務で時間がなくて残念です。ただ、今日は自分の先生たちが線審をしてくれます。」と言って審判用のイエローカードとレッドカードをポケットから取り出し、「こういうカードは見たくないので、フェアプレーをしてください。」とユーモアも交えながら激励をしてくれた。ロンドン五輪を担当し、次代の首相候補の呼び声もあるだけのことはあると思わせた。

gazo4.jpg激励挨拶をするハント大臣


それから、人気チームのマンチェスター・ユナイテッド(マンU)の伝説的名選手である、サー・ボビー・チャールトンも、わざわざ当日車で3時間かけてマンチェスター市から駆け付けてくれた。サー・ボビーは、1966年ワールドカップの覇者イングランド代表チームの中心選手であり、同年の欧州最優秀選手、常勝マンUひと筋で、チームをリーグ優勝や欧州選手権など数々の栄冠に導いた人物である。同時に、彼は、1958年、ヨーロッパ選手権のためマンUの選手全員が乗った飛行機が、ミュンヘンの山中に墜落し、多数の死者が出た「ミュンヘンの悲劇」の生存者でもある。また、日本にとっても、2002年ワールドカップ招致の支援をしてくれるなど、日本サッカー普及の恩人の一人でもある。
しかし、超多忙の人気者である彼が偶然にそこに来てくれたわけではない。先述の日本サッカー協会小倉会長の来英時の復刻銀杯贈呈式に、たまたま私もサー・ボビーもゲストとして招かれていた。その際、ダメ元で、被災地高校生を招いたチャリティ試合があるので、ぜひ来賓として来てほしいと頼んでみた。彼は、趣旨を聞くと、その場で手帳を取り出して日程を確かめた上、11月24日の欄に、自らJapan/Wembleyと書き込んでくれたのだ。これまた銀杯贈呈式のお陰である。

gazo5.jpg激励挨拶をするサー・ボビー・チャールトン

さて、自らもdisasterから生還して偉大な選手となったサー・ボビーは、震災の生存者である若き選手たちに、自分は福島の「Jビレッジ」(サッカーのナショナル・トレーニングセンター)の名付け親であるとして、日本のサッカーとの絆を紹介した上で、選手たちと同じように、自分が十代でウェンブレーで初めてプレーをした時の経験を交えて、激励のスピーチをしてくれた。そして、寒風の中、試合を最初から最後まで観戦し、終了後には、自ら一頁目に署名したサイン帳を選手一人一人に手ずからプレゼントしてくれた。試合中、日本人の若い選手たちのプレーの水準が、往時に比べて高くなったことを称賛していたのが印象的であった。

選手たちを代表して、齋藤一樹主将(福島県立小高工業高校3年生)が、堂々たる英語で、臆することなく、「最後の一秒まで諦めることなく全力でプレーします。」と挨拶をしたのがすばらしかった。試合後、「最初はウェンブレーでプレーできることの実感が湧かなかったが、ピッチに立ってみて鳥肌が立った。家が壊されて避難所を転々として、サッカーを諦めかけたが、諦めなくてよかった。これからも一生続けて行きたい、」という彼の声を聞いて、私は、このチャリティ・イベントの目的は達成されたと感じた。

gazo6.jpg東北選抜チーム斎藤一樹主将の挨拶

試合では、東北選抜チームが、対戦相手の帝京ロンドン学園チームとロンドン・ジャパニーズFCチームに圧勝した。イエローカードが一枚も出ない、フェアな試合だった。最後まで誰もが力を抜かず、諦めない試合をしてくれた。彼や彼の仲間たちが、このイベントの思い出を胸に、一生サッカーを楽しみながら、力強く、そして粘り強く被災地の復興と再生に貢献してくれることを祈りたい。

gazo7.jpgGoalへ!!!


サッカーは、疑いなく世界で最も人気のあるスポーツである。ルールがもっとも簡単なスポーツであり、ボール一つでできる。だから世界共通の言葉にもなる。そうした真のグローバル・スポーツ、サッカーの発祥の地、イングランドで、多くの人の善意によって、このようにすばらしい被災地支援イベントを実現できたこと、その場に立ち会えたことを幸運に思っている。同時に、もう少し若かったら、ゲスト・プレーヤーとして、1分間でもよいので、ウェンブレーのピッチに自分も立って、東北選抜と一緒にプレーしてみたかったなと、ふと思ったのは、不謹慎であろうか。(以上は、筆者の個人的感想、見解である。)(2012年2月13日寄稿)












『2011年を回顧して』2012.1.26

『2011年を回顧して』     

kodamashi.jpg

国連代表部次席常駐代表 兒玉和夫

 2011年という年は、戦後未曾有の大災害を我が祖国日本に
齎した東日本大震災を抜きには語ることはできません。他方、小職は、その時、ニューヨークの地にあって、我が祖国の同胞がくぐり抜けざるを得なかった試練を体感することなく、申し訳ないような気持ちと、同時に、日本からの情報を毎日驚愕と鎮魂の念で懸命にフォローして来ました。まず、東日本大震災について、NYにあって考え、感じた所を記します。次に、国連という場から見た「アラブの春」を中心とする世界情勢について申し述べ、私の所感とさせて頂きます。

1. 東日本大震災について
(1) 東日本大震災は、日本のみならず世界全ての国にとって驚愕すべき大災厄(英語では、cataclysmic disaster)でした。質量共に国際情勢を報じる世界第一級の新聞、NYタイムズ紙は、小職がフォローした限りでは、3月12日から4月23日までの一ヶ月半の間、一日たりとも途切れることなく震災、津波災害及び東京電力福島第一原子力発電所事故放射能汚染災害に関する記事(論説、解説を含め)を掲載し続けました。恐らくNYタイムズの歴史上、これほど長期間に亘って徹底的に日本について報じたことは未だかつてなかったに違いありません。

(2) そうした報道において、世界は、大災害に直面した日本人被災者が、苦難の真只中にあっても礼節を重んじ、人間としての品格を保持し続け、ストイックなまでに悲しみに耐え、互いを支え合い、復旧/復興に立ち上がる姿を賞賛しました。また、日本人は、世界中の人々がこれほどに被災した日本人のことを気遣い、寄り添ってくれていることに感動し、そこに「絆」の大切さを身にしみて感得したに違いありません。

(3) 同時に、国連の場においてひしひしと感じたのは、そうした日本への支援/共感は、人道的考慮からだけではなく、日本政府、日本人自身が戦後営々として実践してきた途上国の開発/国造り支援、更には、アチェ沖地震・津波大災害、四川省大震災、ハイチ大震災等に際しての、献身的な緊急人道支援活動を常々実践してきていることへの感謝・お礼の気持ちから発していることです。彼らは、日本による人道・開発支援への感謝の念を口にしつつ、政府、国民、NGOがそれぞれ「貧者の一灯」を日本に差し伸べるのは当然の行動であると述べてくれました。戦後日本は、世界の平和と繁栄に対し、開発援助を実践してきており、また、ここ20年間は、PKO活動への参加という形で、「徳」を積み重ねてきた歴史があります。

国連に集う150ヶ国を越える開発途上国の外交官はそのことを正当に評価してくれているのです。それだけに、平成24年度政府予算原案において、外務省のODA予算が、10年以上続いた減少傾向から反転の端緒につき、0.3%の対前年度比増となったこと、また、南スーダンにおけるPKO活動に自衛隊施設部隊が派遣されることは、震災後の日本は、決して「内向き」姿勢ではなく、国際社会の責任ある一員として責任を果たすというメッセージの表明になったと確信しております。

(4) 東日本大震災の教訓ということで、世界が最も注目してきたことは、原子力発電所事故の教訓として我々は、何を学んだか、ということです。NYタイムズ紙が報じた日本人自身による議論・反省の中で最も根源的な教訓を一つ挙げるとすれば、それは次のようなものです。

『日本における安全性確保のルールは、「決定論的」(deterministic)なものとなっている。その本質は、「決定論」の下で想定された「危険」を越える「危険」,即ち現状の津波防禦壁を越える津波の発生は、もはや「想定外」として、危険管理の範疇の外に置き去りにされてしまっていたということ』。それ故に、今後使用すべきは、「確率論的」(probabilistic)な危険管理手法ではないか、ということになります。2000年以上わたり頻繁に天変地異を生き抜き、順応してきたはずの日本人でありながら、何故、「想定外」という思考停止に陥ってしまったのか、日本再生の大きな鍵がここにあるような気がします。

2. 国連の場から見た世界情勢
(1) 2011年という年は、日本のみならず世界にとっても格別の意味をもつ年となったと思います。恐らく、この20年間というタイム・スパンで見れば、冷戦の終了という世界史的意義ある1989年に劣らない意義ある一年であったのではないか。中東・北アフリカ地域に生起した「アラフの゙春」という民主主義革命は、チュニジア、リビア、エジプトにおける専制・独裁体制の終焉をもたらし、イエメンにおけるサレハ大統領の退場も不可避となっており、シリアにおいては、アサド大統領による専制が崩壊の瀬戸際まで追い詰められています。

更に、ミヤンマーにおいては、民主化プロセスが大方の予想を上回るほどのペースで着実に前進しております。なお、北朝鮮においては、金正日国防委員長の死去により、金正恩体制に移行しつつありますが、同時に、我々は、この機を少なくとも「チャンスの窓」として活かす外交を展開すべきは当然です。

(2) こうした動きをどう理解すべきでしょうか。
第一に指摘すべきは、今年一年間世界が目撃したことは、地球上における民主主義空間が着実に拡大したということです。それは未だ全地球を覆うまでには至っていないが、アレクシス・トックビルが喝破した世界政治における「民主化」、「平等化」の契機は、強まりこそすれ弱まることはないということを示しているように思います。

(3) 第二に指摘できることは、これら民主主義革命は、本質は「内発的な」(home-grown)革命であったということです。何よりも、若者が、インターネットという情報通信革命の道具を最大限に活用しつつ、勇気を奮って立ち上がったという強い印象を持ちます。自らの国民に人間としての生きる上で必要な自尊心、尊厳を保障できない専制政治は退場を迫られるということを実証しました。かつて英国は、植民地統治に際し、二つの鉄則を自らに課し実践したといわれております。

一つは、「法治主義」(民主主義ではない)を徹底すること。それは香港統治の成功の公然の秘密でもあります。二つは、「殉職者」を出さないこと。もうお分かりでしょう。チュニジア革命は、「大学を卒業した青年が自らの将来に絶望し、自らの尊厳を自死(殉死)で贖った」ことにより突き動かされました。

(4) 第三に、「アラブの春」革命は、「イスラム主義者」主導の革命ではなく、「世俗主義」を基調にした「民主主義」革命であったということです。但し、来年以降、それぞれに合った民主主義の確立が追求される中、イスラム主義者がどこまでその主張を国政レベルで獲得するか(セキュラリズムとイスラム主義のせめぎ合い)は、全ては、各国がそれぞれに結論を見いだしていくべき課題であり、紆余曲折、時間がかかることは覚悟せねばならないでしょう。

(5) 第四に、チュニジア、エジプト、リビア、イエメン、シリアにおいて生起しつつある政治革命への国連安保理の関与についてです。関与の度合いは、個別事案ごとに様々でしたが、基本的には、「国民の民意を反映した政治体制」への動きを一貫して支持し続けたという意味で、国連は、恐らく歴史の審判を受ける際には、正しいとされる側に立ち続けてきたと思います。

これまでであれば、ロシアや中国が「内政不干渉」を理由に拒否権を行使することで国連安保理として一切行動を起こせない場合が多かったはずですが、今回は違いました。その最大の理由は、王政下の限定的な民主主義国家である湾岸諸国を含め全アラブ連盟加盟国(21ヶ国と1機構)の総意として、民意を反映した政治体制への変更を一貫して支持する動きがあったことが決定的に重要です。

それ故に、リビアに対する国連による武力介入を容認した安保理リビア制裁決議1973は、ロシア、中国としても「棄権という形で容認」せざるを得なかったのです。両決議は、「紛争下における文民保護」という大義の下に、紛争下にあって、当該国政府が自国民保護の責任を果たせない場合に、国連が武力介入することを容認した国連史上最初の事案となりました。

その後ロシアと中国は、シリアに対する制裁決議案については、頑なに反対を貫いています。シリアについては、安保理は機能不全に陥っていますが、国連総会は、安保理が採択しえなかった内容を含むシリア非難決議を採択しました。このことは、「アラブの春」が象徴したような「独裁・専制国家」における民主主義への要求を当該国の現体制が武力を行使することで抑圧しようとする場合には、国連として声を挙げないではおれなくなっている、方向としては国際社会の人道介入を阻止し得なくなりつつあると言って過言ではありません。

(6) 第五に、中東・北アフリカ民主主義革命は、イスラエルの存在、或いは、「中東和平」の進展が進んでいないことをスケープ・ゴートにすることなく達成されたことも重要です。同時に、中東世界に議会制民主主義国が複数誕生したことは、「中東和平」進展に向けた圧力はより強まることをイスラエルは覚悟する必要があります。

(7) 第六に、「アラブの春」は、国連における日本外交を強力に後押ししてくれました。拉致問題解決他、北朝鮮による人権侵害状況の改善・是正を求める「北朝鮮人権状況決議案」を日本政府はEUと共同で2005年以来毎年提出し、国連総会における賛成多数で採択を勝ち取ってきております。先月19日の国連総会において、これまでで最多の123ヶ国の賛成票(昨年比17票増加)を得て採択されました。

リビア、チュニシア両国に支持を働きかけた際、「新生リビア」、「新生チュニジア」が拉致問題解決を求める国連決議に賛成するのは当然の責務であるという回答を得たときは、「アラブの春」が日本外交への追い風になったことを実感できました。今年こそは、拉致問題解決を含め、日朝関係の歴史的打開を期待したいと思います。

3. 大変長文の2011年年末所感となってしまいました。
かつてポーロは、「災厄は、経験を、経験は、勇気を、勇気は希望をもたらす」と述べました。2012年という年が、大震災の被災者の方々を始めとして、全ての日本人に勇気と希望を感じることのできる一年になることを願います。皆様方におかれては、2012年が、何よりも健康で、充実した一年となりますよう祈念申しあげます。                                                
(本稿は筆者の個人的見解です。) (2012年1月19日寄稿)    




タイ大洪水後の日タイ関係
  ―共に目指す自然災害に強い国造り―2011.12.29


『タイ大洪水後の日タイ関係
―共に目指す自然災害に強い国造り―』



  • kojimataishi2.png



       駐タイ大使 小島誠二



南下する巨大な水の塊との戦い

今年、タイ中部を襲った洪水は、約680人の死者と440万人の被災者をもたらし、世銀、国連、JICA等の合同調査によれば、被害はタイ中部を中心に26都県(タイ全土77都県)に及び、被害額と損失額をあわせると1兆4300億バーツ(タイのGDPの約14%に相当)に上る。

タイは、これまでたびたび洪水に見舞われてきた。昨年も南部では洪水が発生している。バンコクに被害をもたらした洪水は、1942年のものがよく知られているが、近年では1978年、1983年及び1995年にも洪水がバンコクを襲っている。

内陸部の奥深くまでほとんど勾配がない平坦な大地が広がるタイの洪水は、よく盆の上の水にたとえられる。今回も、水の進行は、1日数キロ、最終段階では1日、1キロにさえ達しない程度であった。また、一旦水が浸入するとなかなか引かず、被害を大きくする傾向もある。政府の対策は、このようにゆっくりと進行する水の塊を運河、水路、河川等を使って海に流すことであった。特に、今回バンコク都近隣県が浸水した後、洪水との戦いは、さらに南下する水の塊を東西に振り分け、バンコク都に浸入させないことに移った。

今回の洪水がこれだけ規模が大きくなり、大きな被害をもたらした理由としては、今年は例年に比し1.4倍の雨量があったこと、上流ダムからの放水が遅れたこと、遊水地が減少したこと、運河、堤防、水門等の維持管理が不十分であったこと、都市化・工業化が進展したこと、森林被覆率が低下したこと、温暖化の進行により、局地的な豪雨がより頻繁に見られるようになったこと、洪水対策のための体制・調整が十分でなかったこと等が指摘されている。今後の検証が待たれる。

バンコク大学での炊き出し バンコク大学での炊き出し 

 ラカバンの洪水避難所訪問 ラカバンの洪水避難所訪問


ゆっくり進行する水は危険か?

今回の洪水がバンコク都及び近隣県を襲う可能性が高くなったことを受け、10月7日、大使館では緊急対策本部を立ち上げ、その後休日を含め、毎日、洪水の現状を分析し、今後の動きを予想し、在留邦人保護のあり方、日系企業支援の方策、さらにはタイのニーズに応じた援助内容を検討した。そのため、公開情報の分析及び洪水の専門家との意見交換に加え、大使館員が毎日バンコク都及び近隣の同一地点に赴き、溢水の有無・状況を確認することにした。結局、緊急対策本部は11月21日まで、38回の会合をもつことになった。

緊急対策本部での検討結果、バンコク都が発出する危険情報等をふまえ、メールによる大使館のお知らせの送付、スポット情報と渡航情報の発出、海外邦人安全対策連絡協議会の開催、邦人の状況確認、避難支援等を行った。また、今回は大使館ツイッターとウェブ・アルバム(地図上に洪水写真を表示)も活用した。

今回緊急対策本部を悩ませた最大の問題は、洪水の危険をどう評価するかであった。今回の洪水は、津波や鉄砲水と異なり、直ちに生命に危険を及ぼすものではなく、冠水した地域で普段とあまり変わらない生活を送っている方もおられる。他方、水道水の汚染、断水、停電、さらには感染症蔓延のおそれも排除できず、在留邦人にとっては、生活に困難を来すおそれがあった。結局、在留邦人の皆様には、バンコク中心部で溢水のおそれが高まった極めて短期間のみ(10月26日から11月16日まで)、国外を含め安全な場所の確保・移動の検討をお願いすることとなった。



タイ政府・国民も日系企業の被災に同情

今回の洪水に対して、日本で急速に関心が高まったのは、10月に入り、アユタヤ県及びパトゥムターニー県にある7か所の工業団地や個別の工場が次々と水没していったことによる。日系自動車メーカーの完成車が水の中に取り残された光景は、その後毎日のようにタイ及び日本の新聞の紙面に掲載されることになる。結局、7か所の工業団地では、約800社が被災し、そのうち450社が日系であった。

工業団地の被災に大きく焦点を当てる日本での報道のあり方に対して、特に日本の報道関係者の中からタイの被災民にもっと目を向けるべきではないかという声が上がった。日本政府としても、迅速な復旧と被災者支援のため、後述の通り、様々な緊急援助を行ってきている。また、地方自治体、タイ在住邦人の間にも、支援の輪が広がっている。ただ、日系企業の被災に対しては、タイ国内に強い同情があり、また、日本企業はタイから投資を引き上げるのではないかという強い懸念が生じたのも事実である。私も、インラック首相や関係副首相等との意見交換を通じて、このことを強く感じている。

日本政府としては、工業団地の被害の最小限化、生産活動の早期再開に向けた支援、特に中小企業に対する救済措置、抜本的な洪水対策等を申し入れてきている。他方、浸水で操業できなくなっている日系企業のタイ人労働者を半年間日本に受け入れることにし、すでに約3000件の査証を発給している。



時間との戦い(救済から復興へ)

緊急援助では、日本の存在は圧倒的であり、タイ政府も受入れに前向きで、インラック首相及びヨンユット副首相兼内相を始め、閣僚の皆様に供与式典等に出席する労をとっていただいた。タイのマスコミも積極的にこれを報道してくれた。日本は、これまで、ポンプ、船外機、仮設トイレ等の緊急援助物資の供与、治水分野を始め各種インフラ分野、遺産修復分野等の専門家を含む様々な調査団の派遣、NGOを通じた緊急支援物資の提供、航空機搭載型レーダーを用いた観測データの提供といった幅広い支援を行ってきた。10億円を上限とする緊急無償資金協力も実施している。ユネスコと共同でアユタヤ遺跡保存のための協力も始める。

インラック首相によるバンケン浄水場視察 インラック首相によるバンケン浄水場視察 

 国際緊急援助隊専門家チームの排水ポンプ車 国際緊急援助隊専門家チームの排水ポンプ車

特筆されるのは、初めて10台の排水ポンプ車と専門家とからなる国際緊急援助隊が派遣されたことである。11月下旬から約1ヶ月にわたり、工業団地、住宅地、アジア工科大学院(AIT)等で排水活動を行っており、その高い性能と機動性がタイ国民に強い印象を残している。

排水前のアジア工科大学院(AIT)排水前のアジア工科大学院(AIT)

img6.jpg

タイ政府には、海外の投資家の信頼を取り戻すためにも、短期と長期の水管理計画を作成することが求められている。実際、タイ政府は、インラック首相を委員長とする水資源管理戦略委員会とウィーラポン元副首相を委員長とする洪水復興・未来建設戦略委員会を立ち上げて、早期に結論を得るべく努力している。次の雨期は、来年5月に迫っている。

JICAは1999年にチャオ・プラヤ川流域洪水対策マスタープランを作成しており、JICAに対するタイ政府の信頼は絶大であり、このマスタープランの見直しを含め、日本としては大きな貢献ができる。洪水対策へのJICAの関与は、タイで生産活動を続ける日系企業の信頼を得ることにも繋がる。さらに、長期計画の下、洪水に強いインフラの建設・改修が行われる際、円借款等の財政的な支援も検討できよう。このような支援を通じて、日本の高い防災技術を提供することができる。


共に目指す自然災害に強い国造り

今回の洪水は、日本とタイが投資・貿易を通じて、いかに緊密に結びついているかを改めて示すものであった。タイは、日本、さらには世界の製造業のサプライ・チェーンの中核に組み込まれているし、タイの製造業は日本の存在なしには、発展することができないと言っても過言ではない。

経済面のみならず、日タイ間の精神面の絆も極めて強い。東日本大震災後、当地日本人社会は、タイへの感謝を表し、力強い日本の復興を見てもらうため、「ありがとうタイ・がんばろう日本」キャンペーンを続けてきた。今回の洪水被害を受け、今後は「ありがとう、がんばろう。日本・タイ」キャンペーンとして、継続していくことにしている。

img7.jpg

日本とタイは、不幸なことに今年、歴史的にも例を見ない規模の自然災害に見舞われた。日タイは協力して、自然災害に強い国造りを進めていくことが期待される。そして、この協力の経験をASEAN関連会議、国連等の場で共有していくことができる。タイが洪水問題を克服できれば、国際社会、特にメコン流域諸国にとってモデルになるであろう。

本稿は筆者の個人的な見解です。 (2011年12月15日寄稿)


『メコン河第3国際架橋とジャパン・フェスティバル』2011.12.19


『メコン河第3国際架橋と
          ジャパン・フェスティバル』



  • 横田順子.jpg



      駐ラオス大使  横田 順子

 2011年11月11日11時11分、メコン河にかかる第3の国際架橋の開通式がラオスの中部タケークとタイの東北部ナコンパノムの間で行われました。第1番目の国際架橋(タドゥア・ノンカイ間)は1994年にオーストラリアの援助で、2番目(サバナケート・ムクダハン間)は2006年に日本の援助で、そして今回はタイの援助で建設されました。2012年12月には中国とタイの援助で第4の橋(フアイサーイ・チェンコーン間)が南北経済回廊上に架けられる見込みです。また、中国雲南から遠くシンガポールまで続く高速鉄道プロジェクトが動き出せば、その鉄道のためにもう一つの橋がラオスの首都ビエンチャンとタイのノンカイ県の間に架けられることになるでしょう。

メコン河第3国際架橋 メコン河第3国際架橋
        (写真提供 Sisay Vilaysack氏)


開通式の式典日に先立つこと数日間、私はやきもきしていました。もしこの式典に招待されれば、片道4時間をかけても出席すべきと考えていたからです。他方、その日の夕方6時までにはビエンチャン市内に戻り、国立文化ホールで11日~12日の2日間開催の「ジャパン・フェスティバル~ありがとうラオス、ともに歩む未来~」のオープニングに駆けつけ、トンルン副首相兼外相を始めとする多くのラオスの要人を迎えて、スピーチをしなくてはなりません。

ジャパン・フェスティバル・復興写真展.JPGジャパン・フェスティバル
      東日本大震災復興写真展



11時11分の開通式が終わるのは何時なのか、ビエンチャンに戻るのにラオス側とタイ側のどちらのルートがより短時間で走行できるのか、どんなに遅くとも夕方6時までにはフェスティバル会場にいなくては、着替える時間はあるのかなど詰めなくてはならないことだらけです。しかし肝心の招待状がまだ来ません。

在ラオスのタイ大使からは招待状は出るはずと言われているものの、招待者がタイ大使なのか、タイの交通大臣なのか、あるいはラオス政府なのかもはっきりせず誰に聞いても明快な答えがないまま前日になりました。突然タイ大使から携帯電話に連絡が来ました。彼はすでに開通式の現地に向かっている途中の由で、ラオス外務省には他の外交団はともかく日本の大使だけは呼んでほしいと要請した旨を電話の向こうで説明していました。それを聞いて、外交団は今回の式典に招待しないことになったことが判りました。他の外交団が呼ばれない中、日本だけが出れば、ラオス側もどう扱うか苦慮するだろうことは容易に想像できます。即座に私はタイの大使に特段の配慮に感謝しつつも、迷惑をかけるつもりはないので、心配しないでほしい旨伝えました。

なぜ私が出席すべきと考えていたか。それは、タイ王国を代表して出席されるシリントーン王女殿下にお出迎えの礼を取らねば申し訳ないと思っていたからでした。28年前、最初に同殿下にお目に掛かって以来、常に何かとお心配りをいただき、タイ北部のチェンマイの総領事時代には2度も公邸に足を運んでくださるなど過分のご配慮をいただきました。その王女様がラオスに来られるのにお出迎えの列に加わらないわけにはいかないという心情だったのです。しかし、招待状がないのに勝手に行くわけにはいきません。

11日、シリントーン王女殿下とブンニャンラオス国家副主席による開通式をテレビの生中継で見つつ、ビエンチャンで初めて開催されるジャパン・フェスティバルの最後の準備にとりかかりました。東日本大震災の被災者にと全国で募金活動を展開し、100万ドル以上の義捐金を寄せてくれたラオスの政府と人々に対し、現地の日本人コミュニティーが一体となってお礼の気持ちと元気な日本人の姿を伝えるためのフェスティバルです。東北の日本酒や北海道のワイン、スナック菓子、香川の讃岐うどん、丸亀うちわ、大正琴演奏の他、カンボジアからは芽魂太鼓グループ、バンコクからはパントマイム役者が駆けつけてくれています。被災地の復興を示す写真展、ビデオ上映、最後はラオスと日本の盆踊りで盛り上げます。5月に発案して以来、毎月実行委員会を開催して準備が進められました。経費の負担や人手不足などいろいろな課題が出てきましたが、みんなの知恵と意欲と献身で当日を迎えました。大きな櫓も据えられ、提灯に灯がともり、太鼓が鳴って浴衣を着たラオス美人となでしこ美人達がドラえもん音頭を一緒に踊る姿はとても素晴らしいものでした。
関係者の皆さん、本当にお疲れさまでした。

(2011年12月9日寄稿)
 ※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。

『ノーベル平和賞を受賞した西アフリカの女性リベリア大統領、再選との今後の課題』2011.12.12

『ノーベル平和賞を受賞した西アフリカの女性
   リベリア大統領、再選との今後の課題』



  • nikaitaishi.jpg

      駐ガーナ大使 二階 尚人


今年のノーベル平和賞を3人の女性が受賞することとなりました。そのうち2名が西アフリカのリベリアのエレン・ジョンソン・サーリーフ大統領と女性平和運動活動家のリーマ・ボウイーさんであります。リベリアは14年にわたる内戦が2003年に終結し、ようやく平和が訪れた国です。内戦を通じ、人口約400万人のうち23万人あまりの国民が亡くなり、大量の難民が生じ、経済社会が疲弊し、一人当たり国民所得も200ドル以下に減りました。内戦が終了後2005年に大統領選挙が実施され、アフリカ最初の女性民選大統領としてジョンソン・サーリーフ大統領が選出されました。


首都モンロビアの風景首都モンロビアの風景



同大統領のもとでリベリアは国際社会の強力な支援を受けて平和構築、民主化、国家再建の道に努力してきました。私兵化していた軍、警察その他の組織が解散され、治安維持の任を担う当初15,000人規模の国連のリベリア・ミッション(UNMIL)の支援を受けて基本的人権、民主主義にのっとった新たな軍、警察の組織化、治安改革が行われました。経済社会の復興も国際社会の協力を得て、インフラ、学校、病院等の建て直し、資源分野等の産業の復興、開発が進められました。わが国も同国に対して、内戦中の人道支援、緊急支援、そしてその後、保健、インフラを中心に国家再建への支援を行ってきました。


選挙期間中警戒中のUNMIIL部隊隊員(写真UNMILより)選挙期間中警戒中のUNMIIL部隊隊員
(写真UNMILより)



 その中で今年10月に大統領選挙、上下両院議会選挙が行われました。大統領の任期は6年で、国民の直接選挙制です。再選を図るジョンソン・サーリーフ大統領を含め16の候補者が選挙戦に臨みました。前回2005年の選挙は国連のリベリア・ミッションが中心となって準備したものでしたが、今回の選挙はリベリア人が内戦後自ら実施する初の選挙でした。現在8000人規模の国連リベリア・ミッションも黒子に徹しました。そして国際社会は選挙が民主的、平和裏に行われ、またその結果が同様に受け入れられるかを注目しました。選挙運動は与党の「統一党」(UP)、第一野党の「民主変革会議」(CDC)をはじめ活発に行われ、大きな混乱もみられませんでした。選挙はリベリア選挙管理委員会が準備を進めましたが、リベリアの将来にとっての今回の選挙の重要性にかんがみ国際社会も積極的に協力を行いました。わが国も投票箱供与をはじめ民主的な選挙が実施されるよう国連を通じ500万ドルの協力を行っております。


 8日の選挙当日首都モンロビアは、雨季のためもあり、雨の中でしたが、多くの人々が各投票所に向き、なかには4時間も並んで投票を行った人もあったそうです。リベリア全国で多くの有権者が平和裏に投票を行いました。多くの国、国連、アフリカ連合(AU)、西アフリカ経済共同体(ECOWAS)など国際機関、NGOの人が選挙が民主的に行われるかを見守りました。リベリアを兼轄している在ガーナの日本大使館館員も出張し、監視団に加わり、4WDで投票所を回りました。選挙および選挙開票はいずれも基本的に平和裏、民主的に行われました。その結果、ジョンソン・サーリーフが44%、次にCDCのタブマン候補が33%等それぞれ票を獲得しました。

いずれの候補者も半数以上の票を確保できなかったため、リベリアの憲法に従い、11月8日に上位2者間で決選投票が実施することが決定されました。しかしその後CDCのタブマン候補が選挙開票過程での不正を訴え、決選投票に参加しないことを表明し、急遽雲行きが怪しくなってきたのです。これに対し、アフリカ諸国などより、第一回選挙は基本的に公正に行われたとの認識からタブマン候補に態度を翻意するよう働きかけがなされましたが、タブマン候補は決戦投票をボイコットするよう支持者に呼びかけを続けました。その過程で与党、野党CDC支持者との間で緊張が高まり、野党支持の放送局のいくつかが警察、司法当局により閉鎖され、また決選投票前日には野党支持者のデモと警察との間で衝突がおき、警察側が発砲し死傷者がでるという事態に至りました。

与党の選挙運動の看板与党の選挙運動の看板


選挙期間中の集会の模様)(写真UNMILより選挙期間中の集会の模様)(写真UNMILより



 幸い決戦投票当日は平穏かつ民主的に投票が実施されました。タブマン候補がボイコットを呼びかけたため、投票率は38.6%と比較的低調なものとなりましたが、投票の結果ジョンソン・サーリーフ大統領の再選が決定されました。
 明年1月中旬大統領就任式が行われます。ジョンソン・サーリーフ大統領が引き続き民主主義に則りリベリアの復興、開発過程を前進させることが期待されます。同時に彼女は大きなチャレンジに応えていく必要があります。それは今回の選挙の過程で改めて明らかになった国民相互間に存在する強い不信感、そしてその背景にある内戦の傷の深さにこれまで以上に対応していく必要性です。大統領にとりリベリア国民間の和解を進め、国民の統一を図っていくことが今後一層重要な課題となるでしょう。またそれを進める上でもリベリアの経済社会の復興、貧困削減、発展を確保していくことが必要です。

決戦投票をボイコットしたCDCを多くの若年層が支持しているといわれています。これまでの復興過程は、資源分野などでの投資の増大がみられたものの、若年層に対する具体的な仕事の機会につながるものではなかったといわれています。このためジョンソン・サーリーフ大統領としては今後これまで以上に雇用機会増大に向けて努力していくことになると思います。国連開発計画の2011年版「人間開発報告」によれば、リベリアの人間開発指数は世界187カ国中182位に留まっています。このような中で、わが国を含め国際社会はこのようなリベリアの努力を今後とも支援していく必要があると思われます。11月わが国の同国に対する食糧援助交換公文署名のためモンロビアを訪問し、お目にかかった際も、ジョンソン・サーリーフ大統領は、リベリアの国づくり、和解、対話の進展に向けた力強い決意を表明するとともに、わが国の協力に対する強い期待を述べていました。

 なお、本稿は筆者の個人的見解であることを付け加えます。
(2011年12月5日寄稿)

『「アフリカの角」の大干ばつとケニアのソマリア進攻』2011.12.3


『「アフリカの角」の大干ばつとケニアのソマリア進攻』


  • AmbasssadorTakataToshihisa.jpg


      駐ケニア大使 高田 稔久


 去る10月16日、ケニアは、テロリスト勢力たるアル・シャバーブ(AS)により国の安全、経済が脅かされているため断固たる措置を取らざるを得ないとして、ソマリア領内に進攻した。戦闘のために国外に軍を派遣するのは、ケニアとして独立後初めてのことである。それから一ヶ月余りが経過し、戦況はやや膠着状態にあるが、ケニア政府としては、ASの拠点たるキスマヨ攻略を目的に、そこに至るASの支配地域を徐々に解放しようと作戦を継続している。(ケニアの作戦と直接の関連はないが、現在首都モガディシュは98%が暫定連邦政府(TFG)軍とアフリカ連合平和維持軍(AMISOMA)の支配下にあるとされている。)

 今のところケニア国内では政府の行動を支持する声が大勢である。TFGを始め近隣諸国も、ケニアの懸命な外交努力もあり、支持を明確にしている。ソマリアの人々の支持も獲得しているようである。欧米諸国は、人道支援活動への悪影響、報復テロの可能性、出口戦略が明らかでなく泥沼化するのではないか等の懸念を持ちつつも、暗黙の支持が大勢のように思われる。

 ケニアは何故この時点でソマリア進攻に踏み切ったのであろうか。相当長い期間の準備があったのか、それとも、最近数ヶ月の事件等に短気を起こして行動したのか、良くは分からないが、答えはやはり前者の方により多くの真実があると考える。
 ソマリアが不安定であることによりケニアが受けている不利益、あるいは脅威を長期(20年)、中期(過去3年ほど)、短期(過去数ヶ月)で説明したい。これは、基本的要因、脅威の顕著な増大、そして(軍事行動の)きっかけとほぼ一致すると思われる。

 ソマリアと約600キロに及ぶ長い国境線を共有し(AS支配地域との国境線はエチオピアとソマリア間のそれより長いと思われる)、また国内に多数のソマリア系住民を抱えるケニアは、20年にわたりソマリアに安定政府が存在しないという事態により、直接・間接に大きな脅威を受け、また経済的に多大な損失を受けていると感じてきた。小型武器や麻薬の流入が一般治安、ひいてはケニアへの直接投資や最大の外貨収入源の一つたる観光に与える悪影響、難民受け入れの様々な負担、国境地帯での犯罪やテロリストの浸透の可能性という社会不安などである。

 近年はこれらに加え更に海賊の脅威が加わった。海賊の根拠地はASの支配する中南部よりはプントランドが多いとされるが、ソマリア全体の不安定が根底にあることは否定できない。さらに、海賊対処活動の影響により、海賊の活動地域は拡散しており、モンバサ港という東アフリカ最大・最良のハブ港を有するケニア、そしてタンザニア、セーシェル等は物理的脅威に加え、運賃、保険料の高騰に苦しんでいる。

 そこへ大干ばつである。やはり気候変動の影響か、アフリカの角における干ばつは昔は7、8年から10年に一度程度であったのが、90年代以降5年に一度、そして2,3年に一度と今や常態化しつつある。前の干ばつの傷が癒えぬうちに次の干ばつに襲われるという状況になっている。昨年末から心配されていた今回の大干ばつ(過去60年間で最悪とされる)では、ケニア自身大変な苦境に陥ったが、これに加え、ソマリアから新たに14万人を超える難民が流入した。難民キャンプのあるダダーブは周辺住民10万人に満たない所で、ここに以前からの難民30数万人とあわせ合計46万人を越えるソマリア難民が滞在している。周辺住民とあわせ合計50数万人が住むケニア第4位の規模の人間居住区である。その中にはテロリストも混じっているだろうし、食料は国際人道支援機関等が供給したとしても、では煮炊きの燃料、水はどうするのか、ケニアにとって大変な環境負荷である。(たとえが適当でなく恐縮だが、仮に我が国の周辺で何か異変が起き、我が国に150万人の難民が流入する事態をご想像いただきたい。ケニアの人口は4100万人なので、50万人の難民は人口比にすれば日本にとっての150万人ということになる。)

干ばつの発生を受けて、ケニアのダダーブ難民キャンプにはソマリア難民が干ばつの発生を受けて、ケニアのダダーブ難民キャンプにはソマリア難民が 加速的に流入、正式登録を待つ難民がキャンプ周辺で生活を始めている。 干ばつの発生を受けて、ケニアのダダーブ難民キャンプにはソマリア難民が 加速的に流入、正式登録を待つ難民がキャンプ周辺で生活を始めている。


ディシュ)銃弾跡の残る壁の前に座る女性と子どもたち
(モガディシュ)(写真提供:UNICEF/NYHQ2011-1195/Kate Holt )


 もちろん干ばつそのものはASの責任ではない。しかし、ソマリア(中南部)に安定政府がないため、国としての干ばつへの備えは全く出来ていない。また更に悪いことに、ASは自己の支配地域での国際人道支援機関の活動を認めようとしなかった。(AS内部で意見が割れていたようであるが、いずれにしてもほとんどのAS支配地域で安全は保証されず、人道機関はアクセスできなかった。)そのため、ソマリア中南部の多くの地域が飢饉(国連の定義によれば、子どもの急性栄養失調が30%を超え、1日1万人あたり2人以上が死亡し、多くの人々が食料等の基本的必需品の不足に陥っている状態)と宣言され、多くのソマリア難民が水と食料、そして安全を求めてケニアに流入したのである。ケニア政府にしてみれば、ソマリア内部の状況を何とかすべく、今こそ断固たる措置を取らなければならないとの思いを強くしたであろうことは想像に難くない。(9月8日、9日にナイロビで開催されたアフリカの角の干ばつに関する地域首脳会議においてもソマリアの治安情勢が一つの焦点であった。)

 また、ASが台頭した過去3年ほどASの分子と見られるグループにより国境付近を中心にケニア領内での攻撃事件が跡を絶たず、多くのケニア人が犠牲となっていた。そしてここ数ヶ月そのようなテロ行為や誘拐事件がエスカレートする兆しを見せ、外国人も被害に遭うようになった。(そのような行為のすべてがASによるものなのか単なる犯罪者グループの仕業かはわからないが。)また、折しもAMI SOMの活動もあり、ASがモガディシュから撤退し、干ばつの影響もあってASが住民の支持を失い弱体化しているとされる現在の機会をきっかけとして、ケニアの独立後初めての対外軍事行動に踏み切ったと考えられる。

ア軍ケニア リボイ国境付近からソマリアに向かう
ケニア軍(写真提供:Standard)


 ケニアの目的は、冒頭でも触れたように、キスマヨを陥落させ、ASを駆逐してソマリア中南部に安定をもたらすことであろう。しかしそれは容易なことではない。ASはテロリスト、ゲリラ組織である。支配地域を失ったとしてもなお様々な形で抵抗を続けるであろう。TFGやAMISOMによる解放地域の維持も容易なことではない。また、ソマリアは過去20年間安定ということを知らない、人によっては、ソマリアにおいては現在の不安定な状況それ自体が強固な利権・ビジネス構造を形成しているとさえ言う(木炭輸出やその徴税、海賊マネーの分配、にわかには信じられないが世界一安いとされる携帯電話料金(1分1セント以下だそう)など)。何よりもソマリア人は「戦士」だとされる。侵略者と見なされれば一致団結した徹底的な抵抗を受ける。だが、ひとたび安定が見え始めると部族同士の勢力争いが復活する。このような中で、私として個人的には、ケニアが泥沼に引きずり込まれずにうまくやってくれることを祈る思いである。

 国際社会はどうか。ソマリアの安定化に向けて、これまで国際社会としてもなかなか妙案がなかったというのが実情であろう。過去国連や米国による軍事的な介入(平和創造努力)は失敗し、とても再度それを試みる状況にはない。TFGの体制強化、治安能力強化を通じて何とか安定した政府に育って欲しいとの思いで支援を続けてきたが、将来に向け明確な展望を持つには至っていなかった。そこへケニアが動いた。政治・外交的な支援をどうするかという問題に止まらず、AMISOMに対する増員や費用・機材支援強化の具体的要請にどう答えるのかが今後の大きな課題であろう。 (2011年12月1日寄稿)

 ※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。

『「アラブの春」の先駆者チュニジア、民主化へ着実な一歩を進める』2011.11.30

『「アラブの春」の先駆者チュニジア、
       民主化へ着実な一歩を進める』


  • tagataishi.jpg

      駐チュニジア大使  多賀敏行




1. はじめに
「今まで50年以上生きてきたが,生まれて初めて投票する。こんなにうれしいことはない」。これは,今年10月23日にチュニジアにおいて初めて実施された民主的選挙において,投票所となった小学校で,自分の投票の順番を待つチュニジア人女性が私に語った言葉である。チュニジアでは本年1月14日革命が起きた。23年間強権政治を行ってきた独裁者ベンアリの政権が崩壊したのである。

その後チュニジアでは,民主化移行のための取組を一歩一歩確実に進めてきたが、憲法を制定することになる憲法制定議会の議員217名を選出するための選挙(制憲国民議会選挙)を民主的かつ平穏裏に実施することが出来るか否かが大きな注目の的となっていた。ふたを開けてみると、選挙は大きな問題もなく無事執りおこなわれた。大変良いことであった。チュニジアは中東・北アフリカ地域における民主化を求める動きの先駆者であることから,同選挙が他のアラブ諸国に与える影響は極めて大きい。そのため、同選挙には国際的にも大きな関心が寄せられた。透明で自由な選挙の実施を確実にするため、チュニジア国内の民間団体をはじめ、多数の外国政府や国際機関,国際NGOが同選挙の監視活動に参加した。EUの監視団、アメリカのカーター財団の選挙監視団などがそうである。日本も浜田和幸外務大臣政務官を団長とする選挙監視団を結成し、投票所での監視活動を行った。私もその一員となって参加した。

2. 政変から制憲国民議会選挙までの民主化プロセス
2010年12月、高い失業率、沿岸部と内陸部の経済格差に対するチュニジア市民の不満が反政府デモとして発現した。チュニスの南約300kmの内陸にあるシディブジッド県で失業中で、野菜・果物の行商を行っていた26才のモハメッド・ブアジジ青年の焼身自殺に端を発したデモは,瞬く間に全国に広まった。独裁政権下で表現の自由を奪われ,大統領や政権に対する批判はタブーとされた社会において、市民がそれまでの沈黙を破り,社会公正や自由,尊厳を求めて立ち上がったのは驚くべきことである。ベンアリ大統領には首都チュニスをはじめ国内各地で広がる反政府の非暴力デモを弾圧によって抑えることはできず,かといって市民を満足させるような譲歩の道もすでに残されていなかった。ベンアリ大統領の1月14日の国外脱出により、ベンアリ政権は崩壊した。

中東・アフリカ地域の専門家も現場で外交に携わる者も殆ど誰も予想することができなかったこの政変は、たちまちエジプトやリビア、バーレーン、イエメン、シリア等の政治的、社会的に似通った状況下に置かれた市民を勇気付け、いわゆる「アラブの春」と呼ばれる民主化の波をアラブ地域に引き起こした。

 チュニジア革命はチュニジアを代表する花になぞらえて「ジャスミン革命」とも称されるが、チュニジア人自身はこの呼称を好んでいないようだ。ジャスミンの花からイメージされるような穏やかなものではなかったこともあろう。彼らは「自由と尊厳の革命」と呼んでいる。
政変後の民主化プロセスの中で最初の一番大きなステップとなったのは冒頭で触れた10月23日の制憲国民議会選挙であった。

3. 日本選挙監視団の活動
2011年10月23日は多くのチュニジア人にとって特別な日となったことは間違いない。チュニジア新憲法を制定する議会を選出するため、同日、チュニジア史上初の自由で民主的な選挙がチュニジア国内において無事実施されたからである。この選挙では認可された112の政党のうち約80が参加し、選挙方式は,選挙区ごとの議席数と同数の候補者が名を連ねたリストに投票する拘束式比例代表制で行われた。国内の27選挙区だけで 候補者総数は1万1000人以上になった。
同選挙に参加するため,朝早くから大勢の市民が投票所を訪れ、自分が投票する番を長蛇の列に並んで辛抱強く待ち続けた。


ブルギバ通りに面する 内務省 (ベンアリ時代の民衆弾圧の象徴的存在)ブルギバ通りに面する 内務省 (ベンアリ時代の民衆弾圧の象徴的存在) 1月14日の昼頃、この前に一万人を超えるチュニジア市民が押しかけた。午後4時半ころ ベンアリは国外脱出した。


チュニス市随一の目抜き通り(例えて言えば、銀座通り)である、ブルギバ通りの東端に聳える時計台の広場 を背景にしてチュニス市随一の目抜き通り(例えて言えば、銀座通り)である、ブルギバ通りの東端に聳える時計台の広場 を背景にして 本使



我々日本監視団はチュニス市内及び近郊の8箇所の投票所を訪れたが、投票所で出会った市民の中には,投票するまでに2、3時間は普通、4時間以上待った人も稀ではなかったようである。もちろん、10月末でもまだまだ強いチュニジアの日差しの下で長期間待たされることに不満をもらす市民の姿もあった。しかし、全体としてどの投票所(小学校である)も,自分の声が新しい国づくりに反映されることに対する市民の喜びと熱気,高揚感であふれていたように感じる。まるでお祭りのような雰囲気でさえあった。翻って日本のことを考えた。市民の政治参加が当然のこととみなされていて、そのための準備やインフラが確実に整っている日本の状況がいかに恵まれているか、改めて実感した。


ブルギバ通りにある 「アル・キタベ書店」ブルギバ通りにある 「アル・キタベ書店」 1月14日の革命後、言論の自由が認められ、それまで発売禁止であったベンアリ政権批判の書籍が店頭に並ぶこととなった。 この書店を言論の自由回復を報ずるメデイアが好んで取材した。


ブルギバ通りの歩道にある喫茶店ブルギバ通りの歩道にある喫茶店 パリのシャンゼリゼ と雰囲気が似ている。チュニジアは1881年から1956年までフランスの保護領であった。



4. 選挙結果と今後の見通し
 制憲国民議会選挙では、選挙前の世論調査で最も有力視されていたイスラム主義政党「エンナハダ」が89議席(全217議席の約41%)を獲得して第一党となった。
 選挙前の世論調査結果や有識者の見方では、エンナハダが第1党になることは想定内であったが、同党がもともと支持基盤を持つ貧困層の多い内陸部だけでなく、苦戦をするとみられていた海岸部や都市部においても多数の票を集め、ほとんど全ての選挙区で首位となったのは驚くべきことであった。

今回、エンナハダが市民から幅広い人気を集めたのは、信教の自由を含む個人の自由の尊重や女性の地位の向上を前面に掲げ、改革開放路線を取ったことが大きい。今後、エンナハダがイスラム主義の傾向を強め、例えばアルコール販売の規制や一夫多妻制の復活、女性のヒジャーブ着用の義務などを提案したとしても(同党はこれらを提案しないと宣言しているが)、ブルギバ政権及びベンアリ政権時代に多分に西欧化したチュニジア社会において,これらの提案は簡単には受け入れられないだろう。また、チュニジアでは1956年に公布された個人身分法により,他のアラブ諸国と比較して女性のための権利の保障が格段に進んでおり、女性の社会進出も顕著である(大学生の56%、医者の約半数が女性)が、これらの分野で後戻りをするような政策を有権者が支持するとは考えにくい。

5. おわりに
 チュニジアは1月14日政変以降,着実に民主化の道のりを歩んできた。制憲国民議会選挙が成功裏に終わって、最初の大きな山場は越えた感があるが,これから1年以内に実施されることが期待されている新憲法制定や議会選挙、大統領選挙など,これから待ち受けている関門はまだまだ多い。最終的に安定した民主主義政府が樹立されるまでの道のりはまだ長いが、23年間続いた独裁政権を倒すほどの強い意志力を見せたチュニジア国民であれば、この目標を達成することも難しくないと今回の制憲国民議会選挙の成功を見た多くの人達は改めて思ったに違いない。私もその一人である。

※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。 (2011年11月24日寄稿)

※本稿は、12月末発行の社団法人アフリカ協会機関誌『アフリカ』に掲載される同筆者のダイジェスト版です。チュニジア情勢のより深い分析は、同協会の機関誌『アフリカ』を併せてご覧下さい。
※お申し込みは、アフリカ協会HPまで:http://www.africasociety.or.jp/


革命の興奮と倦怠―エジプトの場合2011.11.21


『革命の興奮と倦怠―エジプトの場合』


  • Amb_Okuda1.jpg

       駐エジプト大使  奥田紀宏


今年初めに18日間のタハリール広場の青年活動家を中心とした抗議運動によりムバラク大統領が退陣してから8ヶ月余りが過ぎたが、現状では、革命は依然として進行中である、と言わなければなるまい。今月末には4ヶ月間に及ぶ日程で国会選挙が開始される。エジプトの報道機関は、革命がもたらした数少ない具体的な成果である報道の自由に戸惑いながら、政党間の合従連衡の動き、現在のエジプト支配者である国軍最高会議と新旧雑多な政治グループとの間の今後の民主化スケジュールを巡る鍔迫り合い、全国各地におけるデモやストライキ、その他の次から次へと続く異議申し立て行動につき喧しく報じ、論ずる。

毎晩10時頃から放映されるテレビのトークショウでは、活動家や知識人が文字通り口から泡を飛ばしてあるべき政治の姿について討論している。10月9日には国営放送局前でキリスト教徒と国軍との衝突事件があった。選挙前の微妙な時期に25名を越えるキリスト教徒の死者と300名以上の負傷者の発生は政治的にも治安の面からも深刻な影響をもたらしうる。宗教間の対立抗争やキリスト教徒の増大する不満を抑えるために、国軍幹部は宗教関係者と頻りに会談し、その模様が写真付きで大きく新聞に報道される。一年前には国軍が国家統治の前面に出てきて国民との対話を行うなど、全くの「想定外」であった。確かに今年エジプトで大きな政治的社会的変化が生じ、それをもたらした革命は、今も進行中なのである。

しかし、どこに向かって「進行中」なのか。勿論、民主化という大きな目標はある。デモも各地で行われている。しかし、最近のデモは以前のデモとは違ってきた。今年の初めからこの夏まで盛んに行われていたタハリール広場を中心とする政治デモは、「国民の自由、平等、尊厳」、「国軍と国民は一体」、「イスラム教徒とコプト教徒の連帯」、「エジプト第一」等の標語に現れているように政治的理想を訴えるものが主だった。ところが、最近では、賃上げ、雇用の要求、個別の組合や会社組織の幹部批判を目的にするものが多くなり、その規模も次第に小さくなっている。9日の国営放送局前衝突事件の直後に懸念した大規模な抗議行動は比較的短期間の内に収まってしまった感がある。

奇妙なことだが、このことに何かすっきりしない感情を覚える。第三国の大使館の立場からすれば、情勢が沈静化の方向に向かうことに文句はないはずだ。しかし、あの1月25日に青年活動家により華々しく開始された抗議運動が新たな秩序の形成に繋がらないまま、中途半端な混乱状況をもたらしているように感じられ、それに何故か満たされない気持ちが残るのだろう。

革命は何故一挙に力強く進まないのか。それは第一に、生活者としてのエジプト人が革命の基本的メッセージである民主主義や自由などの様々な価値よりも安全で安定した生活を求めている、ということではないか。9日の衝突事件における国軍の対応に問題があったとしても、これを追及することで治安維持の最後の砦である軍の権威を崩壊させたくない。元来、エジプト人は他のアラブ人とは異なり、定住民族で、性温厚にして、安定を好むと言われるし、筆者の聞いたところでも、多くのエジプト人自身がそう考えている。前政権がまさにこの点につけ込んで30年以上にわたる独裁と腐敗を意のままにしたのであれば、問われなければならないのは、エジプト人における「我が内なるムバラク」なのかもしれない。

第二に、現在のエジプトには国中を興奮させる国民的ヒーローもアンチヒーローもいないということを挙げなければならないだろう。
1952年7月26日革命は、自由将校団、ナセル大佐というリーダーがいて、これがまさに革命のヒーローとなった。他方、1月25日革命は個別のリーダーのいない所謂民衆革命と言われている。8ヶ月後の現在も、8000万のエジプト人の心を鷲掴みにする政治的指導者はまだ出現していない。病床のまま獄に繋がれているムバラク前大統領にはもはやアンチヒーローとしての価値はない。タンタウィ元帥は勿論アンチヒーローではないが、他方で、国民的リーダーという訳でもない。これはエジプトという気候風土から生ずるものなのか。或いは、個々人が瞬時に情報を共有することを可能にしたグローバライゼーションやIT革命が伝統的意味でのヒーローの誕生を困難にしたということであるならば、歴史的必然なのか。いずれにしても、革命の理想を掲げて国中を圧倒する強い個性は今のところ見あたらない。

この革命はまだ先が長いと覚悟しなければならない。現時点では興奮と倦怠の間にある1月25日革命の成功を、しかし、願わずにはいられない。

※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。  (2011年11月16日寄稿)

西アフリカの援助の現場から  2011.11.17

『西アフリカの援助の現場から』


  • fukadataishi.jpgダカール中心街にて 

      駐セネガル大使 深田 博史


その1. JICAの青年協力隊

先般、同じ西アフリカのニジェール、ブルキナ・ファソで活動していた海外青年協力隊員が、治安悪化の理由からセネガルに配置換えとなり、これで当地で活動する海外青年協力隊員の数は現時点で103名を数え、遂に世界で一番多く隊員が派遣されている国となりました。これはセネガルが日本の対アフリカ経済協力の最重点国のひとつであるという事情の他に、セネガルの国民が温厚・親日的で、また、国が安定していて、治安も良好であるといったことが背景にあると思いますが、セネガルの日本大使としては嬉しい限りです!

彼らとは、着任直後や離任の前に大使館に挨拶に来てもらったり、年に4回に分けてのダカールでの中間報告会の際、大使公邸に招いて夕食を振る舞うなど直接接する機会が何度となくありますが、私が彼らから最も感銘を受けたのは、離任前に挨拶に来てくれた隊員諸君の目が皆生き生きと輝いていることでした!

ダカールのような大都市で活動する隊員もいますが、殆どの隊員は地方の都市や農村部で、生活面でも気候面でも非常に厳しい環境のもとで活動しています。それにも拘らず、彼らの目が生き生きとしているのは、厳しい環境も厭わない彼らの持ち前のバイタリティに加え、やはり2年間の活動をやり遂げた充実感がその目に表れているのだと思います。そして、皆着任時よりも一段とたくましく成長したように感じます。

彼らの活動をすべて紹介することは出来ませんが、少しだけ例を挙げると、サラリーマンを辞めて協力隊員に志願したある男性隊員は、野菜作りなどしたこともない僻地の村で、現地語を覚えながら住民とコミュニケーションを図り、徐々に野菜作りに関心を持たせて覚えさせ、そしてそれが定着すると、今度は違う村に行って同じ事を繰り返す、という活動を2年間続けました。また、ある女性隊員は、ダカールで行われた青年協力隊員(セネガル)派遣30周年の記念式典で、現地語のひとつであるウォロフ語で原稿も見ないで堂々たるスピーチを行い、出席したセネガル人を驚かせました。 決して生半可ではなく、途上国のコミュニティーに溶け込み、一生懸命努力している彼らの姿がそこにあります!

正直なところ、私自身、外務本省で経済協力の仕事に携わっていた時は、海外青年協力隊の意義について「本当に途上国の役に立っているのだろうか」と懐疑的に見ているところがありました。しかし、今や自分の不明を恥じています! 隊員の活動もさることながら、私が嬉しかったのは、日本の若者がますます内向き傾向を強めている昨今にあって、このような逞しくも魅力的な日本の青年達がいるということを直に確認することが出来たことでした。このような若者を育ててくれる、それだけでも、JICAの海外青年協力隊事業は存在意義がある今では本当にそう思います。

問題なのは、彼らの多くが帰国後、職探しに苦労していることです。職が見つからず、JICAや外務省、地方自治体の所謂「短期契約職員」として何とか「食いつないでいる」諸君もかなりいます。私は彼らこそ社会の様々な方面で活躍できる潜在能力を秘めていると思います。それにも拘らず、そんな彼らを積極的に評価して、採用しようとする企業があまりにも少ない!私は日本の企業こそ内向きなのではないか-そう思わずにはいられません・・・。



その2. マラリア予防として

こちらは雨季も終わりに近づき、海風も吹き寄せるようになって、これからは夕方、庭ですごすのが心地よい時期を迎えられると期待しています。
ただ、気をつけないといけないのは、雨季の間に水溜りで繁殖した蚊によってマラリアにかかる危険性が高まるのがこの9月から12月の間で、特に11月は一気に患者数が増えます。もっともダカール地域を例に取ると、これら患者の多くはダカール近郊の治水が行き届いていない、衛生環境が悪い(雨季に水が溜まり易い)地域に住む住民で、ダカール中心部でのマラリア罹患率はここ数年著しく改善されており、少なくとも過去3年の間に館員・家族でマラリアに罹った者はいません。しかし油断は禁物です。
実は、こちらに赴任する際、ベープマットや蚊を寄せ付けないスプレーなどを大量に持ってきたのですが、どういう訳かこちらの蚊には殆どきき目が無いことが判明し(!)、現在では専ら蚊用の殺虫スプレーを常に手元に置き、蚊と見れば、「プシューッ」と吹きかけています。これは効果てき面です。ただ、虫を見るとやたらとスプレーで殺したくなるのはちょっと危ない兆候かもしれません(笑)。

洪水対策を含めたダカール近郊の衛生環境の改善は喫緊の課題であると私も認識しており、日本の経済協力においてもこの分野での協力を強化していきたいと思っているところですが、その一環として、日本の無償資金協力による洪水対策用の機材(ポンプ、発動機、輸送用トラックなど)が8月に到着し、これらの機材は既にダカール近郊で活用されており、大いに効果を上げています。


ダカール中心街001.jpgダカール中心街007.jpgダカール中心街008.jpgダカール市内

また、同じ協力プロジェクトによる機材の第2弾が先般到着し、その引渡し式が大統領官邸で、ワッド大統領及び(たまたま閣議が官邸で開かれていたこともあり)全閣僚参加のもとで行われました。その際の大統領のスピーチの一端を紹介しておきます。

このような強力なポンプをかってセネガルは手に入れたことはない。
(大使が述べられた通り)日本からいただいたポンプは既に稼動しており、そのお陰で滞留していた水を排水することができた。
絶え間なくセネガルに対して寄せられる日本の支援に対し、自分の深い感謝の念を上手く表現する言葉が見つからないほど感謝している。
先般の災害によって日本は甚大な被害を受け、経済的にも大きな打撃を受けている。それにも拘わらず、こうしてセネガル及びセネガル人のことを考えていただいていることに対し、自分が感謝の極みにいることをすべての日本の人々にお伝えいただきたい。こうした(日本の)人々の意思、支えがなければ、このような支援は実現されなかったと思う。だからこそ、私の感謝の念を日本の政府を超えて、すべての日本国民にお伝えしたい。
一国の援助のために、大統領がその国の大使を脇においてこのようなスピーチをするというのは極めて異例のことであり、また、この引渡し式の様子は、当日夜の国営TVのニュース番組でトップ・ニュースとして7分間に渡り伝えられました。

このTV報道のお陰で、翌日は土曜の休みだったのですが、買い物に出かけた市場の店員、路上を歩く人々、ゴルフ場のキャディ、カフェのマスターなどあらゆる人々から握手を求められ、日本への感謝の言葉が伝えられました。

日本の援助について日本の新聞はあまり取り上げてくれませんが、当地で日本の援助がどれだけ国民の間に浸透し、どれだけ感謝されているか、その一端をお伝えできれば幸いです。

※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。

(2011年11月11日寄稿)


ページトップへ

在ソロモン大使館

面積:2万8,900平方キロメートル(岩手県の約2倍) 人口:583,591人〈2015年 世銀〉 首都:ホニアラ 民族:メラネシア系(約94%)、その他ポリネシア系、ミクロネシア系、ヨーロッパ系、中国系 言語:英語(公用語)の他、ピジン英語(共通語)を使用 宗教:キリスト教(95%以上) 詳細はこちらをご覧ください。

在ソロモン大使館HPへ

在マーシャル大使館

面積:180平方キロメートル 人口:52,898人(2014年、世界銀行) 首都:マジュロ 言語:マーシャル語、英語 宗教:キリスト教(主にプロテスタント) 詳細はこちらをご覧ください。

在マーシャル大使館HPへ

在トンガ大使館

面積:720平方キロメートル 人口:105,586人(2014年、世界銀行) 首都:ヌクアロファ 民族:ポリネシア系(若干ミクロネシア系が混合) 言語:トンガ語、英語(ともに公用語) 宗教:キリスト教(カトリック、モルモン教等) 詳細はこちらをご覧ください。

在トンガ大使館HPへ

在パプアニューギニア大使館

面積:46.2万平方キロメートル(日本の1.25倍) 人口:7,619,321人〈2015年、世界銀行〉 首都:ポートモレスビー 民族:メラネシア系 言語:英語(公用語)の他、ピジン語、モツ語等を使用 宗教:主にキリスト教。祖先崇拝等伝統的信仰も根強い。

在パプアニューギニア大使館HPへ

在フィジー大使館

面積:1万8,270平方キロメートル(四国とほぼ同じ大きさ) 人口:約88万6,500人(2014年、世界銀行) 首都:スバ 民族:フィジー系(57%)、インド系(38%)、その他(5%)〈2007年、政府人口調査〉 言語:英語(公用語)の他、フィジー語、ヒンディー語を使用 宗教:フィジー系は、ほぼ100%キリスト教、インド系は、ヒィンディー教、イスラム教、全人口に占める割合は、キリスト教52.9%、ヒィンディー教38.2%、イスラム教7.8%

詳細はこちらをご覧ください。
在フィジー大使館HPへ

在パラオ大使館

面積:488平方キロメートル(屋久島とほぼ同じ) 人口:21,097人(2014年、世界銀行) 首都:マルキョク(2006年10月、コロールより遷都) 民族:ミクロネシア系 言語:パラオ語、英語 宗教:キリスト教

詳細はこちらをご覧ください。
在パラオ大使館HPへ

在ボリビア大使館

正式国名 ボリビア多民族国 総面積 109万8,581平方キロ (日本の約3倍)人口 1,005.9万人(2014年7月・国家統計局)首都ラパス(憲法上の首都はスクレ)民族は先住民41%、非先住民59%、言語はスペイン語及びケチュア語、アイマラ語を中心に先住民言語36言語。宗教は国民の大多数(95%以上)はカトリック教。政体は立憲共和制で議会は二院制(上院36名、下院130名)元首はエボ・モラレス・アイマ大統領。2009年1月、新憲法が制定され、国名を「ボリビア多民族国」に変更した。2010年1月、モラレス大統領の第2期新政権(任期5年)が発足した。主要産業は、天然ガス・鉱業(亜鉛・銀・鉛・錫)、農業(大豆・砂糖・トウモロコシ)、一人当たりのGDPは3,035米ドル(2014年・国家統計局)。在留邦人数2,897人(2014年10月)2009年に日本人移住110周年を迎えた。ボリビアは、南米の中心に位置するという地理的理由から、CAN及びメルコスールが大きな役割を果たしている南米統合プロセスにおいて中心的役割を果したいと考えており、具体的には、南米のエネルギー統合、光ファイバーを中心とする通信網及び道路網の中枢となりうると考えられています。(外務省HPより)

詳細はこちらをご覧ください。
在ボリビア大使館HPへ

在韓国大使館

面積 約10万平方キロメートル(朝鮮半島全体の45%,日本の約4分の1)・人口約5,000万人(2012年現在)・首都 ソウル   在大韓民国日本国大使館は1965(昭和40)年6月22日東京で日韓基本条約が調印されたのを受け同年6月30日在ソウル在外事務所が開設されたのが始まりです。その後同条約の発効日である同年12月18日前田利一臨時代理大使を長とする在大韓民国日本国大使館が正式に業務を開始しました。(外務省HPより)

詳細はこちらをご覧ください。
在韓国大使館HPへ

在ドミニカ共和国大使館

・面積48,442平方キロメートル(九州に高知県を併せた広さ).人口約1,006万人(2011年:世銀).首都 サントドミンゴ ・主要産業 観光、農業(砂糖、コーヒー、カカオ)、鉱業(フェロニッケル、金、銀)、軽工業(フリーゾーンにおける繊維、縫製業)ドミニカ共和国はカリブ海で2番目に大きいイスパニョーラ島の東側3分の2を占め,九州と高知県を合わせたほどの面積で,西側はハイチと国境で接しています。気候は亜熱帯海洋性気候に属し,サントドミンゴの年間の平均気温は26℃前後,最高気温の平均は30℃前後,最低気温の平均は23℃前後,湿度の平均は約80%という高温多湿の環境です。5月~11月は雨が多く6月~11月はハリケーンシーズンとなります。
詳細はこちらをご覧ください。
ドミニカ共和国大使館HPへ

在トリニダード・トバゴ大使館

面積5,128平方キロメートル(千葉県よりやや大きめ).人口135.1万人(2012年 ECLAC)首都ポート・オブ・スペイン 南米大陸に近く、亜熱帯と熱帯の境に位置する。6~12月にかけての雨期は毎日スコールに襲われる。年間平均気温は28℃。 経済については独立以降、石油・石油化学部門が輸出収入・政府歳入の5割強を占めてきた。しかしながら、狭小な市場という構造的要因に加え、1980年代半ばには石油価格が急落するという外的要因によって深刻な経済危機に見舞われ、1980年代後半、輸出振興、規制緩和、民営化推進等経済の構造調整を余儀なくされた。1993年以降、石油部門に加え、天然ガス・天然ガス関連部門が拡大し、構造調整政策の効果が現れはじめ、成長はプラスに転じ、2008年前半までは、石油・天然ガスの価格高騰等により輸出収入が急増し、15年連続のプラス成長を達成した。(外務省HPより)
詳細はこちらをご覧ください。
トリニダード・トバゴ大使館HPへ

在スウェーデン大使館

面積:約45万平方キロメートル(日本の約1.2倍) 人口:約950万人
首都: ストックホルム(市人口約86万人、都市圏は約209万人)(2011年)
スウェーデンにおける日本文化への関心は近年高まってきており、茶道、華道、日本文学(特に俳句)等伝統的文化、武道等に対する関心は都市圏を中心に高く、各分野において、大規模ではないものの、関連団体が組織されている。また、日本関連友好団体も活発に活動を行っている。一方で、近年ではアニメやマンガなどの我が国のポップカルチャーや日本食に対する関心が高まっており、関連イベントの数、規模ともに拡大傾向にある。日本への観光客数も増加している。(外務省HPより)
詳細はこちらをご覧ください。
在スウェーデン大使館HPへ

在ミクロネシア大使館

陸地面積:701平方キロ(奄美大島とほぼ同じ) 人口:ミクロネシア連邦全人口は、102,624人(統計・財務・海外開発援助・コンパクト管理局、2010年国勢調査)
首都: ポンペイ州パリキール (Palikir)
ポンペイ州は、最大のポンペイ島と周辺の25の島のほか、ヌクオロ、カピンガマランギ等137の環礁島から成る。  気候は海洋性熱帯気候で、気温は年間を通じほぼ一定である(平均気温27度)。多くの島で乾季(1月から3月)と雨季(通常4月から12月)がある。2006年の年間降雨量は、ヤップ州で2,946ミリ、チューク州で3,632ミリ、ポンペイ州で4,369ミリ、コスラエ州で5,083ミリである。
ポンペイ州の年間平均降雨日は304日で、世界有数の多雨地帯である。

(外務省HPより)詳細はこちらをご覧ください。
在ミクロネシア大使館HPへ

在オマーン大使館

面積 約30万9千500平方キロメートル(日本の約4分の3)人口約274万人(07年末)
人口の大半は、北東部の幅10キロ、長さ300キロに及ぶバーティナ海岸と、オマーン湾に沿って走る標高2,500mを越える山々をもつハジャル山脈の周辺地域に集中しています。この地域は、海から来た湿気が山脈にあたって、雨を降らすことにより若干の降雨があり、天水、井戸水及びファラジュと呼ばれる灌漑システムによる農業の適地です。また、南部のドファール地方もカラ山脈の南側にはわずかながら耕作地帯。
気候 マスカット及び北のバーティナ海岸地方の気候は、夏は高温多湿であり、雨は冬季に少量降るに過ぎません。4月から10月までが夏季で、特に5月から8月にかけては一日の最高気温が40度~50度以上(マスカット近辺、以下同じ)、最低気温が30度以上という酷暑が続きます。湿度は6月~9月が高く、平均80%以上にも達します。12月から2月までは快適な季節で一日の気温は10度台から30度程度までの間を推移し、内陸部では夏の気温はこれより高く、冬の気温は若干低くなり、総じて湿気は少ないといえます。雨量も少ないが、ハジャル山地では冬季及び夏季にかなり頻繁に降雨があります。

(外務省HPより)詳細はこちらをご覧ください。
在オマーン大使館HPへ

在ベルギー大使館

面積30,528平方キロメートル(日本の約12分の1)人口1,109.8万人(2012年5月)首都ブリュッセル主要産業化学工業、機械工業、金属工業、食品加工工業一人当たりGDP46,878.36ドル(2011年 IMF)経済成長率1.893%(2011年 IMF)二国間関係日本国皇室・ベルギー王室関係は極めて緊密で伝統的に友好関係を維持。 
(外務省HPより)詳細はこちらをご覧ください。
在ベルギー大使館HPへ


在スリランカ大使館

面積6万5,607平方キロメートル(北海道の約0.8倍)人口約2,063万人(2010年央推計).首都スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ。 スリランカは非同盟の立場を維持しつつ、歴史的、文化的にも関係が深い隣国インドとは,政治・安全保障上極めて重要な国として良好な関係維持に努めている。また経済社会開発の観点から日本を含む先進諸国との関係強化を重視しており、内戦終結前後から,中国との関係も強化されてきている。また、南アジア地域協力連合(SAARC)の加盟国であり、発足当初よりその発展に積極的に関与し、2006年にはアセアン地域フォーラム(ARF)にも加盟するなど,域内及び東南アジア諸国との協力関係強化にも力を入れている。 外務省HPより
(外務省HPより)詳細はこちらをご覧ください。 在スリランカ大使館HPへ

在パラグアイ大使館

面積40万6,752平方キロメートル(日本の約1.1倍)人口657万人(2011年、世銀)首都アスンシオン(人口約51万人)言語スペイン語、グアラニー語(ともに公用語)
我が国とパラグアイは、1919年に国交を開始し、今日に至るまで、 パラグアイに居住する日本人移住者の活躍、及び、パラグアイの社会経済開発に資する我が国の経済・技術協力、相互の経済・文化交流により、両国関係は強化されてきました。
(外務省HPより)詳細はこちらをご覧ください。 在パラグアイ大使館HPへ

在コスタリカ大使館

コスタリカは南北アメリカ大陸を結ぶ地峡地帯に位置する面積約5万1,000k㎡(ほぼ日本の九州と四国を合わせた大きさ)の国で、北緯10度(日本の最南端は北緯20度)の緯線、西経84度の経線が国の中央を通っています。人口は2010年において約456万人(国家統計局)気候は、北緯10度に位置する当国では、低地のカリブ海側や太平洋側の低地部は年平均気温摂氏30度の熱帯ですが、サンホセ市を中心とする中央盆地の平均気温は摂氏25度前後で年間を通して大きな変化はありません。
(外務省HPより)詳細はこちらをご覧ください。 在コスタリカ大使館HPへ

在ルワンダ大使館

面積 2.63万平方キロメートル人口 1,090万人(2011年,UNFPA)
首都 キガリ 言語 キニアルワンダ語,英語,仏語
現在、ルワンダは開発主導の政府の下に、あらゆる面で目覚ましい発展を遂げています。この国が1994年のジェノサイド後の何もない状態から立ち上がったことを考えると、これは奇跡的な再興であると言えるかもしれません。日本とルワンダは、山がちな地形であり人口密度が高い点、また天然資源が限られている点など幾つかの類似点があります。(外務省HPより) 在ルワンダ大使館HPへ


在シンガポール大使館

正式国名 シンガポール共和国
面積704.0k㎡ 総人口 448.4万人(2007年度)
日中最高気温平均30.9℃ 公用語 マレー語、中国語(北京語)英語、タミール語(外務省ホームページより)
詳細につきましては在シンガポール大使館HPをご覧ください

在シンガポール大使館HPへ

在カタール大使館

正式国名 カタール国(State of Qatar) 首都:ドーハ(Doha)
面積:11,427㎡(日本の約3%。秋田県よりやや狭い。) 人口 約170万人(2011年:カタール統計庁)
カタールはペルシャ湾の南岸、アラビア半島から突きだした半島で、クウェートの南東約560㎞、北緯24度27分から26度10分、東経50度45分から51度40分に位置し、緯度上沖縄本島の南端から台湾北端の位置に、また経度上ではカスピ海と同じ位置に当たる。 
(外務省ホームページより)詳細については在カタール大使館HPをご覧ください。
在カタール大使館HPへ

在アンゴラ大使館

面積124.7万平方キロメートル(日本の約3.3倍)
人口 1,850万人、人口増加率2.6%(2009年:世銀)
首都 ルアンダ(約450万人、2009年:EIU)
日本とアンゴラは、1976年に外交関係を樹立していますが、その後長引いた内戦の影響もあり、政治・経済・文化的な関係を緊密化するのに時間を要し、まさに現在もその関係は発展途上にあると言えます。ただアンゴラの内戦終結後、政治的にも安定してきたアンゴラは、世界でも屈指の急成長を遂げており、特に経済分野を中心とした日本との繋がりも日々強まりを見せつつあります。 (外務省ホームページより)詳細については在アンゴラ大使館HPをご覧ください。

在アンゴラ大使館HPへ

在リトアニア大使館

面積6.5万平方キロメートル ・人口319.9万人(2012年1月現在)(リトアニア統計局)・首都ビリニュス(人口約54万2900人) ・言語リトアニア語
1997年1月に首都ビリニュスに在リトアニア日本大使館が開設された。一方、リトアニアは、1999年3月、東京に大使館を開設した。2008年6月に明石美代子大使が初代特命全権大使として着任。2011年には日リトアニア間の新たな外交関係開設20周年を迎え、様々な記念行事が行われた。同年10月にリトアニア国会で行われた東日本大震災復興写真展には、ディグティエネ国会議長が出席し、日本側からは20周年を祝う玄葉外務大臣のメッセージが発出された(外務省ホームページより)

詳細については在リトアニア大使館HPをご覧ください。

在リトアニア大使館HPへ

欧州連合日本政府代表部

加盟国 27か国 総面積423.4万平方キロメートル(日本の約11.3倍)
総人口(2011年)5.25億人(日本の約3.9倍)
欧州連合(EU)の概要
経済的な統合を中心に発展してきた欧州共同体(EC)を基礎に、経済通貨統合を進めるとともに、欧州連合条約に従い、共通外交・安全保障政策、警察・刑事司法協力等のより幅広い協力も進展している政治・経済統合体。(外務省ホームページより)

詳細については欧州連合日本政府代表部HPをご覧ください。
欧州連合日本政府代表部 英文
欧州連合日本政府代表部

在英国大使館

面積:24.3万キロメートル(日本の約3分の2)人口6,180万人
首都:ロンドン(人口約758万人、2010年)言語:英語(ウェールズ語、ゲール語等)

日英両国は、1600年に英国人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)が、豊後(現在の大分県)にオランダ船で漂着して以来、約400年にわたる交流の歴史を有する。1858年の日英修好通商条約締結により外交関係を開設し、1902年には日英同盟が結ばれた(1923年失効)。第二次世界大戦中の一時期を除き、両国は良好な二国間関係を維持している。2008年は外交関係開設150周年。
詳細につきましては
大使館HP(外務省)をご覧ください。
在英大使館HP
UKdataHP

国際連合日本政府代表部

【国連加盟国】
2011年1月現在,国連加盟国は192。日本の加盟は
1956年12月18日。

2006年6月23日,第一回組織委員会会合が開催されて以来,組織事項や戦略的な議論を行う組織委員会,個別の検討対象国(現在,ブルンジ,シエラレオネ,ギニアビサウ,中央アフリカ共和国,リベリアの5か国)の平和構築戦略を議論する国別会合,過去の平和構築活動からの教訓を検討する教訓作業部会が,それぞれ活発に活動している。(外務省ホームページより)
詳細については国際連合日本政府代表部HPをご覧ください。
国際連合日本政府代表部HPへ

在タイ大使館

面 積51.4万平方キロ
( 日本の約1.4 倍)
人 口約6,387 万人(2010年末現在 タイICT 省統計局発表)日本・タイ両国は伝統的に友好関係を維持。皇室・王室間の交流も親密。近年、両国は二国間関係にとどまらず、東南アジア地域及び国際社会の諸問題についても緊密な対話と協力を実施している。
2011年3月に発生した東日本大震災においては、タイから支援物資、義援金の供与、医師の派遣等国を挙げて大規模な支援が行われた。

在タイ大使館HPへ

在ラオス大使館

面積約24万平方㎞日本の本州の面積に相当。人口約612万人(2009年、ラオス統計局)首都ビエンチャン  東をベトナム、西をタイ、南をカンボジア、北を中国とミャンマーに囲まれており、タイとの国境の大部分は、メコン河が成す。熱帯モンスーン気候に属し高温多湿であり、雨期(5月~10月)と乾期(11月~4月)がある。3月~5月がもっとも暑い時期で日中の気温は40度前後に達する。ビエンチャンの平均気温は乾期が摂氏22.1度、雨期が28度である。 年間降水量:1630㎜

在ラオス大使館HPへ

在ガーナ大使館

面積238,537平方キロメートル(日本の約3分の2)人口約2,422万人(2010年国勢調査)首都アクラ(ACCRA)日本とガーナの関係は、野口英世教授のガーナにおける黄熱病研究に端を発し、正式な国交樹立以来50年以上の時を経ました。その間、カカオ豆の取引をはじめとする良好な貿易経済関係、我が国のガーナに対する様々な開発援助、また、海外青年協力隊等による草の根レベルでの交流を通じ、両国間関係は順調に発展しています。

在ガーナ大使館HPへ

在ケニア大使館

ケニアはアフリカ大陸の東海岸に赤道をまたがるように位置しており、面積は約586,600平方キロメートル、内水域はおよそ10,700平方キロメートルで、この大半はビクトリア湖およびトゥルカナ湖が占めています。また、 東はソマリア、北はエチオピアとスーダン、西はウガンダ、そして南はタンザニアと隣接しています。

在ケニア大使館HPへ

在チュニジア大使館

チュニジアは3000年の悠久の歴史を有し、地中海地域の諸文明の発展に大きな役割を果たしてきました。アラブ・アフリカ・ヨーロッパが交差する地点に位置し、国土は小さくとも大変ユニークな国です。

在チュニジア大使館HPへ

在エジプト大使館

エジプトは、アフリカ大陸の北東端に位置し、北は地中海、東は紅海、西はリビア、南はスーダンに接するほぼ正方形の部分とシナイ半島より成る。南北の最長距離は1,024キロメートル、東西1,240キロメートルである。
面積は約100万平方キロメートルで、日本の約2.7倍であるが、国土の95%以上が砂漠である。

在エジプト大使館HPへ

在セネガル大使館

セネガル共和国 セネガルは、西アフリカ、サハラ砂漠西南端に位置する。 首都ダカールはパリ・ダカール・ラリーの終着点として知られている。

在セネガル大使館のHPへ