『ノーベル平和賞を受賞した西アフリカの女性リベリア大統領、再選との今後の課題』2011.12.12
『ノーベル平和賞を受賞した西アフリカの女性
リベリア大統領、再選との今後の課題』
駐ガーナ大使 二階 尚人
今年のノーベル平和賞を3人の女性が受賞することとなりました。そのうち2名が西アフリカのリベリアのエレン・ジョンソン・サーリーフ大統領と女性平和運動活動家のリーマ・ボウイーさんであります。リベリアは14年にわたる内戦が2003年に終結し、ようやく平和が訪れた国です。内戦を通じ、人口約400万人のうち23万人あまりの国民が亡くなり、大量の難民が生じ、経済社会が疲弊し、一人当たり国民所得も200ドル以下に減りました。内戦が終了後2005年に大統領選挙が実施され、アフリカ最初の女性民選大統領としてジョンソン・サーリーフ大統領が選出されました。
首都モンロビアの風景
同大統領のもとでリベリアは国際社会の強力な支援を受けて平和構築、民主化、国家再建の道に努力してきました。私兵化していた軍、警察その他の組織が解散され、治安維持の任を担う当初15,000人規模の国連のリベリア・ミッション(UNMIL)の支援を受けて基本的人権、民主主義にのっとった新たな軍、警察の組織化、治安改革が行われました。経済社会の復興も国際社会の協力を得て、インフラ、学校、病院等の建て直し、資源分野等の産業の復興、開発が進められました。わが国も同国に対して、内戦中の人道支援、緊急支援、そしてその後、保健、インフラを中心に国家再建への支援を行ってきました。
選挙期間中警戒中のUNMIIL部隊隊員
(写真UNMILより)
その中で今年10月に大統領選挙、上下両院議会選挙が行われました。大統領の任期は6年で、国民の直接選挙制です。再選を図るジョンソン・サーリーフ大統領を含め16の候補者が選挙戦に臨みました。前回2005年の選挙は国連のリベリア・ミッションが中心となって準備したものでしたが、今回の選挙はリベリア人が内戦後自ら実施する初の選挙でした。現在8000人規模の国連リベリア・ミッションも黒子に徹しました。そして国際社会は選挙が民主的、平和裏に行われ、またその結果が同様に受け入れられるかを注目しました。選挙運動は与党の「統一党」(UP)、第一野党の「民主変革会議」(CDC)をはじめ活発に行われ、大きな混乱もみられませんでした。選挙はリベリア選挙管理委員会が準備を進めましたが、リベリアの将来にとっての今回の選挙の重要性にかんがみ国際社会も積極的に協力を行いました。わが国も投票箱供与をはじめ民主的な選挙が実施されるよう国連を通じ500万ドルの協力を行っております。
8日の選挙当日首都モンロビアは、雨季のためもあり、雨の中でしたが、多くの人々が各投票所に向き、なかには4時間も並んで投票を行った人もあったそうです。リベリア全国で多くの有権者が平和裏に投票を行いました。多くの国、国連、アフリカ連合(AU)、西アフリカ経済共同体(ECOWAS)など国際機関、NGOの人が選挙が民主的に行われるかを見守りました。リベリアを兼轄している在ガーナの日本大使館館員も出張し、監視団に加わり、4WDで投票所を回りました。選挙および選挙開票はいずれも基本的に平和裏、民主的に行われました。その結果、ジョンソン・サーリーフが44%、次にCDCのタブマン候補が33%等それぞれ票を獲得しました。
いずれの候補者も半数以上の票を確保できなかったため、リベリアの憲法に従い、11月8日に上位2者間で決選投票が実施することが決定されました。しかしその後CDCのタブマン候補が選挙開票過程での不正を訴え、決選投票に参加しないことを表明し、急遽雲行きが怪しくなってきたのです。これに対し、アフリカ諸国などより、第一回選挙は基本的に公正に行われたとの認識からタブマン候補に態度を翻意するよう働きかけがなされましたが、タブマン候補は決戦投票をボイコットするよう支持者に呼びかけを続けました。その過程で与党、野党CDC支持者との間で緊張が高まり、野党支持の放送局のいくつかが警察、司法当局により閉鎖され、また決選投票前日には野党支持者のデモと警察との間で衝突がおき、警察側が発砲し死傷者がでるという事態に至りました。
与党の選挙運動の看板
選挙期間中の集会の模様)(写真UNMILより
幸い決戦投票当日は平穏かつ民主的に投票が実施されました。タブマン候補がボイコットを呼びかけたため、投票率は38.6%と比較的低調なものとなりましたが、投票の結果ジョンソン・サーリーフ大統領の再選が決定されました。
明年1月中旬大統領就任式が行われます。ジョンソン・サーリーフ大統領が引き続き民主主義に則りリベリアの復興、開発過程を前進させることが期待されます。同時に彼女は大きなチャレンジに応えていく必要があります。それは今回の選挙の過程で改めて明らかになった国民相互間に存在する強い不信感、そしてその背景にある内戦の傷の深さにこれまで以上に対応していく必要性です。大統領にとりリベリア国民間の和解を進め、国民の統一を図っていくことが今後一層重要な課題となるでしょう。またそれを進める上でもリベリアの経済社会の復興、貧困削減、発展を確保していくことが必要です。
決戦投票をボイコットしたCDCを多くの若年層が支持しているといわれています。これまでの復興過程は、資源分野などでの投資の増大がみられたものの、若年層に対する具体的な仕事の機会につながるものではなかったといわれています。このためジョンソン・サーリーフ大統領としては今後これまで以上に雇用機会増大に向けて努力していくことになると思います。国連開発計画の2011年版「人間開発報告」によれば、リベリアの人間開発指数は世界187カ国中182位に留まっています。このような中で、わが国を含め国際社会はこのようなリベリアの努力を今後とも支援していく必要があると思われます。11月わが国の同国に対する食糧援助交換公文署名のためモンロビアを訪問し、お目にかかった際も、ジョンソン・サーリーフ大統領は、リベリアの国づくり、和解、対話の進展に向けた力強い決意を表明するとともに、わが国の協力に対する強い期待を述べていました。
なお、本稿は筆者の個人的見解であることを付け加えます。
(2011年12月5日寄稿)
『「アフリカの角」の大干ばつとケニアのソマリア進攻』2011.12.3
『「アフリカの角」の大干ばつとケニアのソマリア進攻』
駐ケニア大使 高田 稔久
去る10月16日、ケニアは、テロリスト勢力たるアル・シャバーブ(AS)により国の安全、経済が脅かされているため断固たる措置を取らざるを得ないとして、ソマリア領内に進攻した。戦闘のために国外に軍を派遣するのは、ケニアとして独立後初めてのことである。それから一ヶ月余りが経過し、戦況はやや膠着状態にあるが、ケニア政府としては、ASの拠点たるキスマヨ攻略を目的に、そこに至るASの支配地域を徐々に解放しようと作戦を継続している。(ケニアの作戦と直接の関連はないが、現在首都モガディシュは98%が暫定連邦政府(TFG)軍とアフリカ連合平和維持軍(AMISOMA)の支配下にあるとされている。)
今のところケニア国内では政府の行動を支持する声が大勢である。TFGを始め近隣諸国も、ケニアの懸命な外交努力もあり、支持を明確にしている。ソマリアの人々の支持も獲得しているようである。欧米諸国は、人道支援活動への悪影響、報復テロの可能性、出口戦略が明らかでなく泥沼化するのではないか等の懸念を持ちつつも、暗黙の支持が大勢のように思われる。
ケニアは何故この時点でソマリア進攻に踏み切ったのであろうか。相当長い期間の準備があったのか、それとも、最近数ヶ月の事件等に短気を起こして行動したのか、良くは分からないが、答えはやはり前者の方により多くの真実があると考える。
ソマリアが不安定であることによりケニアが受けている不利益、あるいは脅威を長期(20年)、中期(過去3年ほど)、短期(過去数ヶ月)で説明したい。これは、基本的要因、脅威の顕著な増大、そして(軍事行動の)きっかけとほぼ一致すると思われる。
ソマリアと約600キロに及ぶ長い国境線を共有し(AS支配地域との国境線はエチオピアとソマリア間のそれより長いと思われる)、また国内に多数のソマリア系住民を抱えるケニアは、20年にわたりソマリアに安定政府が存在しないという事態により、直接・間接に大きな脅威を受け、また経済的に多大な損失を受けていると感じてきた。小型武器や麻薬の流入が一般治安、ひいてはケニアへの直接投資や最大の外貨収入源の一つたる観光に与える悪影響、難民受け入れの様々な負担、国境地帯での犯罪やテロリストの浸透の可能性という社会不安などである。
近年はこれらに加え更に海賊の脅威が加わった。海賊の根拠地はASの支配する中南部よりはプントランドが多いとされるが、ソマリア全体の不安定が根底にあることは否定できない。さらに、海賊対処活動の影響により、海賊の活動地域は拡散しており、モンバサ港という東アフリカ最大・最良のハブ港を有するケニア、そしてタンザニア、セーシェル等は物理的脅威に加え、運賃、保険料の高騰に苦しんでいる。
そこへ大干ばつである。やはり気候変動の影響か、アフリカの角における干ばつは昔は7、8年から10年に一度程度であったのが、90年代以降5年に一度、そして2,3年に一度と今や常態化しつつある。前の干ばつの傷が癒えぬうちに次の干ばつに襲われるという状況になっている。昨年末から心配されていた今回の大干ばつ(過去60年間で最悪とされる)では、ケニア自身大変な苦境に陥ったが、これに加え、ソマリアから新たに14万人を超える難民が流入した。難民キャンプのあるダダーブは周辺住民10万人に満たない所で、ここに以前からの難民30数万人とあわせ合計46万人を越えるソマリア難民が滞在している。周辺住民とあわせ合計50数万人が住むケニア第4位の規模の人間居住区である。その中にはテロリストも混じっているだろうし、食料は国際人道支援機関等が供給したとしても、では煮炊きの燃料、水はどうするのか、ケニアにとって大変な環境負荷である。(たとえが適当でなく恐縮だが、仮に我が国の周辺で何か異変が起き、我が国に150万人の難民が流入する事態をご想像いただきたい。ケニアの人口は4100万人なので、50万人の難民は人口比にすれば日本にとっての150万人ということになる。)
干ばつの発生を受けて、ケニアのダダーブ難民キャンプにはソマリア難民が
加速的に流入、正式登録を待つ難民がキャンプ周辺で生活を始めている。
干ばつの発生を受けて、ケニアのダダーブ難民キャンプにはソマリア難民が
加速的に流入、正式登録を待つ難民がキャンプ周辺で生活を始めている。
銃弾跡の残る壁の前に座る女性と子どもたち
(モガディシュ)(写真提供:UNICEF/NYHQ2011-1195/Kate Holt
)
もちろん干ばつそのものはASの責任ではない。しかし、ソマリア(中南部)に安定政府がないため、国としての干ばつへの備えは全く出来ていない。また更に悪いことに、ASは自己の支配地域での国際人道支援機関の活動を認めようとしなかった。(AS内部で意見が割れていたようであるが、いずれにしてもほとんどのAS支配地域で安全は保証されず、人道機関はアクセスできなかった。)そのため、ソマリア中南部の多くの地域が飢饉(国連の定義によれば、子どもの急性栄養失調が30%を超え、1日1万人あたり2人以上が死亡し、多くの人々が食料等の基本的必需品の不足に陥っている状態)と宣言され、多くのソマリア難民が水と食料、そして安全を求めてケニアに流入したのである。ケニア政府にしてみれば、ソマリア内部の状況を何とかすべく、今こそ断固たる措置を取らなければならないとの思いを強くしたであろうことは想像に難くない。(9月8日、9日にナイロビで開催されたアフリカの角の干ばつに関する地域首脳会議においてもソマリアの治安情勢が一つの焦点であった。)
また、ASが台頭した過去3年ほどASの分子と見られるグループにより国境付近を中心にケニア領内での攻撃事件が跡を絶たず、多くのケニア人が犠牲となっていた。そしてここ数ヶ月そのようなテロ行為や誘拐事件がエスカレートする兆しを見せ、外国人も被害に遭うようになった。(そのような行為のすべてがASによるものなのか単なる犯罪者グループの仕業かはわからないが。)また、折しもAMI SOMの活動もあり、ASがモガディシュから撤退し、干ばつの影響もあってASが住民の支持を失い弱体化しているとされる現在の機会をきっかけとして、ケニアの独立後初めての対外軍事行動に踏み切ったと考えられる。
ケニア リボイ国境付近からソマリアに向かう
ケニア軍(写真提供:Standard)
ケニアの目的は、冒頭でも触れたように、キスマヨを陥落させ、ASを駆逐してソマリア中南部に安定をもたらすことであろう。しかしそれは容易なことではない。ASはテロリスト、ゲリラ組織である。支配地域を失ったとしてもなお様々な形で抵抗を続けるであろう。TFGやAMISOMによる解放地域の維持も容易なことではない。また、ソマリアは過去20年間安定ということを知らない、人によっては、ソマリアにおいては現在の不安定な状況それ自体が強固な利権・ビジネス構造を形成しているとさえ言う(木炭輸出やその徴税、海賊マネーの分配、にわかには信じられないが世界一安いとされる携帯電話料金(1分1セント以下だそう)など)。何よりもソマリア人は「戦士」だとされる。侵略者と見なされれば一致団結した徹底的な抵抗を受ける。だが、ひとたび安定が見え始めると部族同士の勢力争いが復活する。このような中で、私として個人的には、ケニアが泥沼に引きずり込まれずにうまくやってくれることを祈る思いである。
国際社会はどうか。ソマリアの安定化に向けて、これまで国際社会としてもなかなか妙案がなかったというのが実情であろう。過去国連や米国による軍事的な介入(平和創造努力)は失敗し、とても再度それを試みる状況にはない。TFGの体制強化、治安能力強化を通じて何とか安定した政府に育って欲しいとの思いで支援を続けてきたが、将来に向け明確な展望を持つには至っていなかった。そこへケニアが動いた。政治・外交的な支援をどうするかという問題に止まらず、AMISOMに対する増員や費用・機材支援強化の具体的要請にどう答えるのかが今後の大きな課題であろう。 (2011年12月1日寄稿)
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。
『「アラブの春」の先駆者チュニジア、民主化へ着実な一歩を進める』2011.11.30
『「アラブの春」の先駆者チュニジア、
民主化へ着実な一歩を進める』
駐チュニジア大使 多賀敏行
1. はじめに
「今まで50年以上生きてきたが,生まれて初めて投票する。こんなにうれしいことはない」。これは,今年10月23日にチュニジアにおいて初めて実施された民主的選挙において,投票所となった小学校で,自分の投票の順番を待つチュニジア人女性が私に語った言葉である。チュニジアでは本年1月14日革命が起きた。23年間強権政治を行ってきた独裁者ベンアリの政権が崩壊したのである。
その後チュニジアでは,民主化移行のための取組を一歩一歩確実に進めてきたが、憲法を制定することになる憲法制定議会の議員217名を選出するための選挙(制憲国民議会選挙)を民主的かつ平穏裏に実施することが出来るか否かが大きな注目の的となっていた。ふたを開けてみると、選挙は大きな問題もなく無事執りおこなわれた。大変良いことであった。チュニジアは中東・北アフリカ地域における民主化を求める動きの先駆者であることから,同選挙が他のアラブ諸国に与える影響は極めて大きい。そのため、同選挙には国際的にも大きな関心が寄せられた。透明で自由な選挙の実施を確実にするため、チュニジア国内の民間団体をはじめ、多数の外国政府や国際機関,国際NGOが同選挙の監視活動に参加した。EUの監視団、アメリカのカーター財団の選挙監視団などがそうである。日本も浜田和幸外務大臣政務官を団長とする選挙監視団を結成し、投票所での監視活動を行った。私もその一員となって参加した。
2. 政変から制憲国民議会選挙までの民主化プロセス
2010年12月、高い失業率、沿岸部と内陸部の経済格差に対するチュニジア市民の不満が反政府デモとして発現した。チュニスの南約300kmの内陸にあるシディブジッド県で失業中で、野菜・果物の行商を行っていた26才のモハメッド・ブアジジ青年の焼身自殺に端を発したデモは,瞬く間に全国に広まった。独裁政権下で表現の自由を奪われ,大統領や政権に対する批判はタブーとされた社会において、市民がそれまでの沈黙を破り,社会公正や自由,尊厳を求めて立ち上がったのは驚くべきことである。ベンアリ大統領には首都チュニスをはじめ国内各地で広がる反政府の非暴力デモを弾圧によって抑えることはできず,かといって市民を満足させるような譲歩の道もすでに残されていなかった。ベンアリ大統領の1月14日の国外脱出により、ベンアリ政権は崩壊した。
中東・アフリカ地域の専門家も現場で外交に携わる者も殆ど誰も予想することができなかったこの政変は、たちまちエジプトやリビア、バーレーン、イエメン、シリア等の政治的、社会的に似通った状況下に置かれた市民を勇気付け、いわゆる「アラブの春」と呼ばれる民主化の波をアラブ地域に引き起こした。
チュニジア革命はチュニジアを代表する花になぞらえて「ジャスミン革命」とも称されるが、チュニジア人自身はこの呼称を好んでいないようだ。ジャスミンの花からイメージされるような穏やかなものではなかったこともあろう。彼らは「自由と尊厳の革命」と呼んでいる。
政変後の民主化プロセスの中で最初の一番大きなステップとなったのは冒頭で触れた10月23日の制憲国民議会選挙であった。
3. 日本選挙監視団の活動
2011年10月23日は多くのチュニジア人にとって特別な日となったことは間違いない。チュニジア新憲法を制定する議会を選出するため、同日、チュニジア史上初の自由で民主的な選挙がチュニジア国内において無事実施されたからである。この選挙では認可された112の政党のうち約80が参加し、選挙方式は,選挙区ごとの議席数と同数の候補者が名を連ねたリストに投票する拘束式比例代表制で行われた。国内の27選挙区だけで 候補者総数は1万1000人以上になった。
同選挙に参加するため,朝早くから大勢の市民が投票所を訪れ、自分が投票する番を長蛇の列に並んで辛抱強く待ち続けた。
ブルギバ通りに面する 内務省 (ベンアリ時代の民衆弾圧の象徴的存在)
1月14日の昼頃、この前に一万人を超えるチュニジア市民が押しかけた。午後4時半ころ ベンアリは国外脱出した。
チュニス市随一の目抜き通り(例えて言えば、銀座通り)である、ブルギバ通りの東端に聳える時計台の広場 を背景にして 本使
我々日本監視団はチュニス市内及び近郊の8箇所の投票所を訪れたが、投票所で出会った市民の中には,投票するまでに2、3時間は普通、4時間以上待った人も稀ではなかったようである。もちろん、10月末でもまだまだ強いチュニジアの日差しの下で長期間待たされることに不満をもらす市民の姿もあった。しかし、全体としてどの投票所(小学校である)も,自分の声が新しい国づくりに反映されることに対する市民の喜びと熱気,高揚感であふれていたように感じる。まるでお祭りのような雰囲気でさえあった。翻って日本のことを考えた。市民の政治参加が当然のこととみなされていて、そのための準備やインフラが確実に整っている日本の状況がいかに恵まれているか、改めて実感した。
ブルギバ通りにある 「アル・キタベ書店」
1月14日の革命後、言論の自由が認められ、それまで発売禁止であったベンアリ政権批判の書籍が店頭に並ぶこととなった。
この書店を言論の自由回復を報ずるメデイアが好んで取材した。
ブルギバ通りの歩道にある喫茶店
パリのシャンゼリゼ と雰囲気が似ている。チュニジアは1881年から1956年までフランスの保護領であった。
4. 選挙結果と今後の見通し
制憲国民議会選挙では、選挙前の世論調査で最も有力視されていたイスラム主義政党「エンナハダ」が89議席(全217議席の約41%)を獲得して第一党となった。
選挙前の世論調査結果や有識者の見方では、エンナハダが第1党になることは想定内であったが、同党がもともと支持基盤を持つ貧困層の多い内陸部だけでなく、苦戦をするとみられていた海岸部や都市部においても多数の票を集め、ほとんど全ての選挙区で首位となったのは驚くべきことであった。
今回、エンナハダが市民から幅広い人気を集めたのは、信教の自由を含む個人の自由の尊重や女性の地位の向上を前面に掲げ、改革開放路線を取ったことが大きい。今後、エンナハダがイスラム主義の傾向を強め、例えばアルコール販売の規制や一夫多妻制の復活、女性のヒジャーブ着用の義務などを提案したとしても(同党はこれらを提案しないと宣言しているが)、ブルギバ政権及びベンアリ政権時代に多分に西欧化したチュニジア社会において,これらの提案は簡単には受け入れられないだろう。また、チュニジアでは1956年に公布された個人身分法により,他のアラブ諸国と比較して女性のための権利の保障が格段に進んでおり、女性の社会進出も顕著である(大学生の56%、医者の約半数が女性)が、これらの分野で後戻りをするような政策を有権者が支持するとは考えにくい。
5. おわりに
チュニジアは1月14日政変以降,着実に民主化の道のりを歩んできた。制憲国民議会選挙が成功裏に終わって、最初の大きな山場は越えた感があるが,これから1年以内に実施されることが期待されている新憲法制定や議会選挙、大統領選挙など,これから待ち受けている関門はまだまだ多い。最終的に安定した民主主義政府が樹立されるまでの道のりはまだ長いが、23年間続いた独裁政権を倒すほどの強い意志力を見せたチュニジア国民であれば、この目標を達成することも難しくないと今回の制憲国民議会選挙の成功を見た多くの人達は改めて思ったに違いない。私もその一人である。
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。 (2011年11月24日寄稿)
※本稿は、12月末発行の社団法人アフリカ協会機関誌『アフリカ』に掲載される同筆者のダイジェスト版です。チュニジア情勢のより深い分析は、同協会の機関誌『アフリカ』を併せてご覧下さい。
※お申し込みは、アフリカ協会HPまで:http://www.africasociety.or.jp/
革命の興奮と倦怠―エジプトの場合2011.11.21
『革命の興奮と倦怠―エジプトの場合』
駐エジプト大使 奥田紀宏
今年初めに18日間のタハリール広場の青年活動家を中心とした抗議運動によりムバラク大統領が退陣してから8ヶ月余りが過ぎたが、現状では、革命は依然として進行中である、と言わなければなるまい。今月末には4ヶ月間に及ぶ日程で国会選挙が開始される。エジプトの報道機関は、革命がもたらした数少ない具体的な成果である報道の自由に戸惑いながら、政党間の合従連衡の動き、現在のエジプト支配者である国軍最高会議と新旧雑多な政治グループとの間の今後の民主化スケジュールを巡る鍔迫り合い、全国各地におけるデモやストライキ、その他の次から次へと続く異議申し立て行動につき喧しく報じ、論ずる。
毎晩10時頃から放映されるテレビのトークショウでは、活動家や知識人が文字通り口から泡を飛ばしてあるべき政治の姿について討論している。10月9日には国営放送局前でキリスト教徒と国軍との衝突事件があった。選挙前の微妙な時期に25名を越えるキリスト教徒の死者と300名以上の負傷者の発生は政治的にも治安の面からも深刻な影響をもたらしうる。宗教間の対立抗争やキリスト教徒の増大する不満を抑えるために、国軍幹部は宗教関係者と頻りに会談し、その模様が写真付きで大きく新聞に報道される。一年前には国軍が国家統治の前面に出てきて国民との対話を行うなど、全くの「想定外」であった。確かに今年エジプトで大きな政治的社会的変化が生じ、それをもたらした革命は、今も進行中なのである。
しかし、どこに向かって「進行中」なのか。勿論、民主化という大きな目標はある。デモも各地で行われている。しかし、最近のデモは以前のデモとは違ってきた。今年の初めからこの夏まで盛んに行われていたタハリール広場を中心とする政治デモは、「国民の自由、平等、尊厳」、「国軍と国民は一体」、「イスラム教徒とコプト教徒の連帯」、「エジプト第一」等の標語に現れているように政治的理想を訴えるものが主だった。ところが、最近では、賃上げ、雇用の要求、個別の組合や会社組織の幹部批判を目的にするものが多くなり、その規模も次第に小さくなっている。9日の国営放送局前衝突事件の直後に懸念した大規模な抗議行動は比較的短期間の内に収まってしまった感がある。
奇妙なことだが、このことに何かすっきりしない感情を覚える。第三国の大使館の立場からすれば、情勢が沈静化の方向に向かうことに文句はないはずだ。しかし、あの1月25日に青年活動家により華々しく開始された抗議運動が新たな秩序の形成に繋がらないまま、中途半端な混乱状況をもたらしているように感じられ、それに何故か満たされない気持ちが残るのだろう。
革命は何故一挙に力強く進まないのか。それは第一に、生活者としてのエジプト人が革命の基本的メッセージである民主主義や自由などの様々な価値よりも安全で安定した生活を求めている、ということではないか。9日の衝突事件における国軍の対応に問題があったとしても、これを追及することで治安維持の最後の砦である軍の権威を崩壊させたくない。元来、エジプト人は他のアラブ人とは異なり、定住民族で、性温厚にして、安定を好むと言われるし、筆者の聞いたところでも、多くのエジプト人自身がそう考えている。前政権がまさにこの点につけ込んで30年以上にわたる独裁と腐敗を意のままにしたのであれば、問われなければならないのは、エジプト人における「我が内なるムバラク」なのかもしれない。
第二に、現在のエジプトには国中を興奮させる国民的ヒーローもアンチヒーローもいないということを挙げなければならないだろう。
1952年7月26日革命は、自由将校団、ナセル大佐というリーダーがいて、これがまさに革命のヒーローとなった。他方、1月25日革命は個別のリーダーのいない所謂民衆革命と言われている。8ヶ月後の現在も、8000万のエジプト人の心を鷲掴みにする政治的指導者はまだ出現していない。病床のまま獄に繋がれているムバラク前大統領にはもはやアンチヒーローとしての価値はない。タンタウィ元帥は勿論アンチヒーローではないが、他方で、国民的リーダーという訳でもない。これはエジプトという気候風土から生ずるものなのか。或いは、個々人が瞬時に情報を共有することを可能にしたグローバライゼーションやIT革命が伝統的意味でのヒーローの誕生を困難にしたということであるならば、歴史的必然なのか。いずれにしても、革命の理想を掲げて国中を圧倒する強い個性は今のところ見あたらない。
この革命はまだ先が長いと覚悟しなければならない。現時点では興奮と倦怠の間にある1月25日革命の成功を、しかし、願わずにはいられない。
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。 (2011年11月16日寄稿)
西アフリカの援助の現場から 2011.11.17
『西アフリカの援助の現場から』
ダカール中心街にて
駐セネガル大使 深田 博史
その1. JICAの青年協力隊
先般、同じ西アフリカのニジェール、ブルキナ・ファソで活動していた海外青年協力隊員が、治安悪化の理由からセネガルに配置換えとなり、これで当地で活動する海外青年協力隊員の数は現時点で103名を数え、遂に世界で一番多く隊員が派遣されている国となりました。これはセネガルが日本の対アフリカ経済協力の最重点国のひとつであるという事情の他に、セネガルの国民が温厚・親日的で、また、国が安定していて、治安も良好であるといったことが背景にあると思いますが、セネガルの日本大使としては嬉しい限りです!
彼らとは、着任直後や離任の前に大使館に挨拶に来てもらったり、年に4回に分けてのダカールでの中間報告会の際、大使公邸に招いて夕食を振る舞うなど直接接する機会が何度となくありますが、私が彼らから最も感銘を受けたのは、離任前に挨拶に来てくれた隊員諸君の目が皆生き生きと輝いていることでした!
ダカールのような大都市で活動する隊員もいますが、殆どの隊員は地方の都市や農村部で、生活面でも気候面でも非常に厳しい環境のもとで活動しています。それにも拘らず、彼らの目が生き生きとしているのは、厳しい環境も厭わない彼らの持ち前のバイタリティに加え、やはり2年間の活動をやり遂げた充実感がその目に表れているのだと思います。そして、皆着任時よりも一段とたくましく成長したように感じます。
彼らの活動をすべて紹介することは出来ませんが、少しだけ例を挙げると、サラリーマンを辞めて協力隊員に志願したある男性隊員は、野菜作りなどしたこともない僻地の村で、現地語を覚えながら住民とコミュニケーションを図り、徐々に野菜作りに関心を持たせて覚えさせ、そしてそれが定着すると、今度は違う村に行って同じ事を繰り返す、という活動を2年間続けました。また、ある女性隊員は、ダカールで行われた青年協力隊員(セネガル)派遣30周年の記念式典で、現地語のひとつであるウォロフ語で原稿も見ないで堂々たるスピーチを行い、出席したセネガル人を驚かせました。 決して生半可ではなく、途上国のコミュニティーに溶け込み、一生懸命努力している彼らの姿がそこにあります!
正直なところ、私自身、外務本省で経済協力の仕事に携わっていた時は、海外青年協力隊の意義について「本当に途上国の役に立っているのだろうか」と懐疑的に見ているところがありました。しかし、今や自分の不明を恥じています! 隊員の活動もさることながら、私が嬉しかったのは、日本の若者がますます内向き傾向を強めている昨今にあって、このような逞しくも魅力的な日本の青年達がいるということを直に確認することが出来たことでした。このような若者を育ててくれる、それだけでも、JICAの海外青年協力隊事業は存在意義がある今では本当にそう思います。
問題なのは、彼らの多くが帰国後、職探しに苦労していることです。職が見つからず、JICAや外務省、地方自治体の所謂「短期契約職員」として何とか「食いつないでいる」諸君もかなりいます。私は彼らこそ社会の様々な方面で活躍できる潜在能力を秘めていると思います。それにも拘らず、そんな彼らを積極的に評価して、採用しようとする企業があまりにも少ない!私は日本の企業こそ内向きなのではないか-そう思わずにはいられません・・・。
その2. マラリア予防として
こちらは雨季も終わりに近づき、海風も吹き寄せるようになって、これからは夕方、庭ですごすのが心地よい時期を迎えられると期待しています。
ただ、気をつけないといけないのは、雨季の間に水溜りで繁殖した蚊によってマラリアにかかる危険性が高まるのがこの9月から12月の間で、特に11月は一気に患者数が増えます。もっともダカール地域を例に取ると、これら患者の多くはダカール近郊の治水が行き届いていない、衛生環境が悪い(雨季に水が溜まり易い)地域に住む住民で、ダカール中心部でのマラリア罹患率はここ数年著しく改善されており、少なくとも過去3年の間に館員・家族でマラリアに罹った者はいません。しかし油断は禁物です。
実は、こちらに赴任する際、ベープマットや蚊を寄せ付けないスプレーなどを大量に持ってきたのですが、どういう訳かこちらの蚊には殆どきき目が無いことが判明し(!)、現在では専ら蚊用の殺虫スプレーを常に手元に置き、蚊と見れば、「プシューッ」と吹きかけています。これは効果てき面です。ただ、虫を見るとやたらとスプレーで殺したくなるのはちょっと危ない兆候かもしれません(笑)。
洪水対策を含めたダカール近郊の衛生環境の改善は喫緊の課題であると私も認識しており、日本の経済協力においてもこの分野での協力を強化していきたいと思っているところですが、その一環として、日本の無償資金協力による洪水対策用の機材(ポンプ、発動機、輸送用トラックなど)が8月に到着し、これらの機材は既にダカール近郊で活用されており、大いに効果を上げています。


ダカール市内
また、同じ協力プロジェクトによる機材の第2弾が先般到着し、その引渡し式が大統領官邸で、ワッド大統領及び(たまたま閣議が官邸で開かれていたこともあり)全閣僚参加のもとで行われました。その際の大統領のスピーチの一端を紹介しておきます。
このような強力なポンプをかってセネガルは手に入れたことはない。
(大使が述べられた通り)日本からいただいたポンプは既に稼動しており、そのお陰で滞留していた水を排水することができた。
絶え間なくセネガルに対して寄せられる日本の支援に対し、自分の深い感謝の念を上手く表現する言葉が見つからないほど感謝している。
先般の災害によって日本は甚大な被害を受け、経済的にも大きな打撃を受けている。それにも拘わらず、こうしてセネガル及びセネガル人のことを考えていただいていることに対し、自分が感謝の極みにいることをすべての日本の人々にお伝えいただきたい。こうした(日本の)人々の意思、支えがなければ、このような支援は実現されなかったと思う。だからこそ、私の感謝の念を日本の政府を超えて、すべての日本国民にお伝えしたい。
一国の援助のために、大統領がその国の大使を脇においてこのようなスピーチをするというのは極めて異例のことであり、また、この引渡し式の様子は、当日夜の国営TVのニュース番組でトップ・ニュースとして7分間に渡り伝えられました。
このTV報道のお陰で、翌日は土曜の休みだったのですが、買い物に出かけた市場の店員、路上を歩く人々、ゴルフ場のキャディ、カフェのマスターなどあらゆる人々から握手を求められ、日本への感謝の言葉が伝えられました。
日本の援助について日本の新聞はあまり取り上げてくれませんが、当地で日本の援助がどれだけ国民の間に浸透し、どれだけ感謝されているか、その一端をお伝えできれば幸いです。
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。
(2011年11月11日寄稿)
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