『「アラブの春」の先駆者チュニジア、民主化へ着実な一歩を進める』2011.11.30
『「アラブの春」の先駆者チュニジア、
民主化へ着実な一歩を進める』
駐チュニジア大使 多賀敏行
1. はじめに
「今まで50年以上生きてきたが,生まれて初めて投票する。こんなにうれしいことはない」。これは,今年10月23日にチュニジアにおいて初めて実施された民主的選挙において,投票所となった小学校で,自分の投票の順番を待つチュニジア人女性が私に語った言葉である。チュニジアでは本年1月14日革命が起きた。23年間強権政治を行ってきた独裁者ベンアリの政権が崩壊したのである。
その後チュニジアでは,民主化移行のための取組を一歩一歩確実に進めてきたが、憲法を制定することになる憲法制定議会の議員217名を選出するための選挙(制憲国民議会選挙)を民主的かつ平穏裏に実施することが出来るか否かが大きな注目の的となっていた。ふたを開けてみると、選挙は大きな問題もなく無事執りおこなわれた。大変良いことであった。チュニジアは中東・北アフリカ地域における民主化を求める動きの先駆者であることから,同選挙が他のアラブ諸国に与える影響は極めて大きい。そのため、同選挙には国際的にも大きな関心が寄せられた。透明で自由な選挙の実施を確実にするため、チュニジア国内の民間団体をはじめ、多数の外国政府や国際機関,国際NGOが同選挙の監視活動に参加した。EUの監視団、アメリカのカーター財団の選挙監視団などがそうである。日本も浜田和幸外務大臣政務官を団長とする選挙監視団を結成し、投票所での監視活動を行った。私もその一員となって参加した。
2. 政変から制憲国民議会選挙までの民主化プロセス
2010年12月、高い失業率、沿岸部と内陸部の経済格差に対するチュニジア市民の不満が反政府デモとして発現した。チュニスの南約300kmの内陸にあるシディブジッド県で失業中で、野菜・果物の行商を行っていた26才のモハメッド・ブアジジ青年の焼身自殺に端を発したデモは,瞬く間に全国に広まった。独裁政権下で表現の自由を奪われ,大統領や政権に対する批判はタブーとされた社会において、市民がそれまでの沈黙を破り,社会公正や自由,尊厳を求めて立ち上がったのは驚くべきことである。ベンアリ大統領には首都チュニスをはじめ国内各地で広がる反政府の非暴力デモを弾圧によって抑えることはできず,かといって市民を満足させるような譲歩の道もすでに残されていなかった。ベンアリ大統領の1月14日の国外脱出により、ベンアリ政権は崩壊した。
中東・アフリカ地域の専門家も現場で外交に携わる者も殆ど誰も予想することができなかったこの政変は、たちまちエジプトやリビア、バーレーン、イエメン、シリア等の政治的、社会的に似通った状況下に置かれた市民を勇気付け、いわゆる「アラブの春」と呼ばれる民主化の波をアラブ地域に引き起こした。
チュニジア革命はチュニジアを代表する花になぞらえて「ジャスミン革命」とも称されるが、チュニジア人自身はこの呼称を好んでいないようだ。ジャスミンの花からイメージされるような穏やかなものではなかったこともあろう。彼らは「自由と尊厳の革命」と呼んでいる。
政変後の民主化プロセスの中で最初の一番大きなステップとなったのは冒頭で触れた10月23日の制憲国民議会選挙であった。
3. 日本選挙監視団の活動
2011年10月23日は多くのチュニジア人にとって特別な日となったことは間違いない。チュニジア新憲法を制定する議会を選出するため、同日、チュニジア史上初の自由で民主的な選挙がチュニジア国内において無事実施されたからである。この選挙では認可された112の政党のうち約80が参加し、選挙方式は,選挙区ごとの議席数と同数の候補者が名を連ねたリストに投票する拘束式比例代表制で行われた。国内の27選挙区だけで 候補者総数は1万1000人以上になった。
同選挙に参加するため,朝早くから大勢の市民が投票所を訪れ、自分が投票する番を長蛇の列に並んで辛抱強く待ち続けた。
ブルギバ通りに面する 内務省 (ベンアリ時代の民衆弾圧の象徴的存在)
1月14日の昼頃、この前に一万人を超えるチュニジア市民が押しかけた。午後4時半ころ ベンアリは国外脱出した。
チュニス市随一の目抜き通り(例えて言えば、銀座通り)である、ブルギバ通りの東端に聳える時計台の広場 を背景にして 本使
我々日本監視団はチュニス市内及び近郊の8箇所の投票所を訪れたが、投票所で出会った市民の中には,投票するまでに2、3時間は普通、4時間以上待った人も稀ではなかったようである。もちろん、10月末でもまだまだ強いチュニジアの日差しの下で長期間待たされることに不満をもらす市民の姿もあった。しかし、全体としてどの投票所(小学校である)も,自分の声が新しい国づくりに反映されることに対する市民の喜びと熱気,高揚感であふれていたように感じる。まるでお祭りのような雰囲気でさえあった。翻って日本のことを考えた。市民の政治参加が当然のこととみなされていて、そのための準備やインフラが確実に整っている日本の状況がいかに恵まれているか、改めて実感した。
ブルギバ通りにある 「アル・キタベ書店」
1月14日の革命後、言論の自由が認められ、それまで発売禁止であったベンアリ政権批判の書籍が店頭に並ぶこととなった。
この書店を言論の自由回復を報ずるメデイアが好んで取材した。
ブルギバ通りの歩道にある喫茶店
パリのシャンゼリゼ と雰囲気が似ている。チュニジアは1881年から1956年までフランスの保護領であった。
4. 選挙結果と今後の見通し
制憲国民議会選挙では、選挙前の世論調査で最も有力視されていたイスラム主義政党「エンナハダ」が89議席(全217議席の約41%)を獲得して第一党となった。
選挙前の世論調査結果や有識者の見方では、エンナハダが第1党になることは想定内であったが、同党がもともと支持基盤を持つ貧困層の多い内陸部だけでなく、苦戦をするとみられていた海岸部や都市部においても多数の票を集め、ほとんど全ての選挙区で首位となったのは驚くべきことであった。
今回、エンナハダが市民から幅広い人気を集めたのは、信教の自由を含む個人の自由の尊重や女性の地位の向上を前面に掲げ、改革開放路線を取ったことが大きい。今後、エンナハダがイスラム主義の傾向を強め、例えばアルコール販売の規制や一夫多妻制の復活、女性のヒジャーブ着用の義務などを提案したとしても(同党はこれらを提案しないと宣言しているが)、ブルギバ政権及びベンアリ政権時代に多分に西欧化したチュニジア社会において,これらの提案は簡単には受け入れられないだろう。また、チュニジアでは1956年に公布された個人身分法により,他のアラブ諸国と比較して女性のための権利の保障が格段に進んでおり、女性の社会進出も顕著である(大学生の56%、医者の約半数が女性)が、これらの分野で後戻りをするような政策を有権者が支持するとは考えにくい。
5. おわりに
チュニジアは1月14日政変以降,着実に民主化の道のりを歩んできた。制憲国民議会選挙が成功裏に終わって、最初の大きな山場は越えた感があるが,これから1年以内に実施されることが期待されている新憲法制定や議会選挙、大統領選挙など,これから待ち受けている関門はまだまだ多い。最終的に安定した民主主義政府が樹立されるまでの道のりはまだ長いが、23年間続いた独裁政権を倒すほどの強い意志力を見せたチュニジア国民であれば、この目標を達成することも難しくないと今回の制憲国民議会選挙の成功を見た多くの人達は改めて思ったに違いない。私もその一人である。
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。 (2011年11月24日寄稿)
※本稿は、12月末発行の社団法人アフリカ協会機関誌『アフリカ』に掲載される同筆者のダイジェスト版です。チュニジア情勢のより深い分析は、同協会の機関誌『アフリカ』を併せてご覧下さい。
※お申し込みは、アフリカ協会HPまで:http://www.africasociety.or.jp/
革命の興奮と倦怠―エジプトの場合2011.11.21
『革命の興奮と倦怠―エジプトの場合』
駐エジプト大使 奥田紀宏
今年初めに18日間のタハリール広場の青年活動家を中心とした抗議運動によりムバラク大統領が退陣してから8ヶ月余りが過ぎたが、現状では、革命は依然として進行中である、と言わなければなるまい。今月末には4ヶ月間に及ぶ日程で国会選挙が開始される。エジプトの報道機関は、革命がもたらした数少ない具体的な成果である報道の自由に戸惑いながら、政党間の合従連衡の動き、現在のエジプト支配者である国軍最高会議と新旧雑多な政治グループとの間の今後の民主化スケジュールを巡る鍔迫り合い、全国各地におけるデモやストライキ、その他の次から次へと続く異議申し立て行動につき喧しく報じ、論ずる。
毎晩10時頃から放映されるテレビのトークショウでは、活動家や知識人が文字通り口から泡を飛ばしてあるべき政治の姿について討論している。10月9日には国営放送局前でキリスト教徒と国軍との衝突事件があった。選挙前の微妙な時期に25名を越えるキリスト教徒の死者と300名以上の負傷者の発生は政治的にも治安の面からも深刻な影響をもたらしうる。宗教間の対立抗争やキリスト教徒の増大する不満を抑えるために、国軍幹部は宗教関係者と頻りに会談し、その模様が写真付きで大きく新聞に報道される。一年前には国軍が国家統治の前面に出てきて国民との対話を行うなど、全くの「想定外」であった。確かに今年エジプトで大きな政治的社会的変化が生じ、それをもたらした革命は、今も進行中なのである。
しかし、どこに向かって「進行中」なのか。勿論、民主化という大きな目標はある。デモも各地で行われている。しかし、最近のデモは以前のデモとは違ってきた。今年の初めからこの夏まで盛んに行われていたタハリール広場を中心とする政治デモは、「国民の自由、平等、尊厳」、「国軍と国民は一体」、「イスラム教徒とコプト教徒の連帯」、「エジプト第一」等の標語に現れているように政治的理想を訴えるものが主だった。ところが、最近では、賃上げ、雇用の要求、個別の組合や会社組織の幹部批判を目的にするものが多くなり、その規模も次第に小さくなっている。9日の国営放送局前衝突事件の直後に懸念した大規模な抗議行動は比較的短期間の内に収まってしまった感がある。
奇妙なことだが、このことに何かすっきりしない感情を覚える。第三国の大使館の立場からすれば、情勢が沈静化の方向に向かうことに文句はないはずだ。しかし、あの1月25日に青年活動家により華々しく開始された抗議運動が新たな秩序の形成に繋がらないまま、中途半端な混乱状況をもたらしているように感じられ、それに何故か満たされない気持ちが残るのだろう。
革命は何故一挙に力強く進まないのか。それは第一に、生活者としてのエジプト人が革命の基本的メッセージである民主主義や自由などの様々な価値よりも安全で安定した生活を求めている、ということではないか。9日の衝突事件における国軍の対応に問題があったとしても、これを追及することで治安維持の最後の砦である軍の権威を崩壊させたくない。元来、エジプト人は他のアラブ人とは異なり、定住民族で、性温厚にして、安定を好むと言われるし、筆者の聞いたところでも、多くのエジプト人自身がそう考えている。前政権がまさにこの点につけ込んで30年以上にわたる独裁と腐敗を意のままにしたのであれば、問われなければならないのは、エジプト人における「我が内なるムバラク」なのかもしれない。
第二に、現在のエジプトには国中を興奮させる国民的ヒーローもアンチヒーローもいないということを挙げなければならないだろう。
1952年7月26日革命は、自由将校団、ナセル大佐というリーダーがいて、これがまさに革命のヒーローとなった。他方、1月25日革命は個別のリーダーのいない所謂民衆革命と言われている。8ヶ月後の現在も、8000万のエジプト人の心を鷲掴みにする政治的指導者はまだ出現していない。病床のまま獄に繋がれているムバラク前大統領にはもはやアンチヒーローとしての価値はない。タンタウィ元帥は勿論アンチヒーローではないが、他方で、国民的リーダーという訳でもない。これはエジプトという気候風土から生ずるものなのか。或いは、個々人が瞬時に情報を共有することを可能にしたグローバライゼーションやIT革命が伝統的意味でのヒーローの誕生を困難にしたということであるならば、歴史的必然なのか。いずれにしても、革命の理想を掲げて国中を圧倒する強い個性は今のところ見あたらない。
この革命はまだ先が長いと覚悟しなければならない。現時点では興奮と倦怠の間にある1月25日革命の成功を、しかし、願わずにはいられない。
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。 (2011年11月16日寄稿)
西アフリカの援助の現場から 2011.11.17
『西アフリカの援助の現場から』
ダカール中心街にて
駐セネガル日本大使 深田 博史
その1. JICAの青年協力隊
先般、同じ西アフリカのニジェール、ブルキナ・ファソで活動していた海外青年協力隊員が、治安悪化の理由からセネガルに配置換えとなり、これで当地で活動する海外青年協力隊員の数は現時点で103名を数え、遂に世界で一番多く隊員が派遣されている国となりました。これはセネガルが日本の対アフリカ経済協力の最重点国のひとつであるという事情の他に、セネガルの国民が温厚・親日的で、また、国が安定していて、治安も良好であるといったことが背景にあると思いますが、セネガルの日本大使としては嬉しい限りです!
彼らとは、着任直後や離任の前に大使館に挨拶に来てもらったり、年に4回に分けてのダカールでの中間報告会の際、大使公邸に招いて夕食を振る舞うなど直接接する機会が何度となくありますが、私が彼らから最も感銘を受けたのは、離任前に挨拶に来てくれた隊員諸君の目が皆生き生きと輝いていることでした!
ダカールのような大都市で活動する隊員もいますが、殆どの隊員は地方の都市や農村部で、生活面でも気候面でも非常に厳しい環境のもとで活動しています。それにも拘らず、彼らの目が生き生きとしているのは、厳しい環境も厭わない彼らの持ち前のバイタリティに加え、やはり2年間の活動をやり遂げた充実感がその目に表れているのだと思います。そして、皆着任時よりも一段とたくましく成長したように感じます。
彼らの活動をすべて紹介することは出来ませんが、少しだけ例を挙げると、サラリーマンを辞めて協力隊員に志願したある男性隊員は、野菜作りなどしたこともない僻地の村で、現地語を覚えながら住民とコミュニケーションを図り、徐々に野菜作りに関心を持たせて覚えさせ、そしてそれが定着すると、今度は違う村に行って同じ事を繰り返す、という活動を2年間続けました。また、ある女性隊員は、ダカールで行われた青年協力隊員(セネガル)派遣30周年の記念式典で、現地語のひとつであるウォロフ語で原稿も見ないで堂々たるスピーチを行い、出席したセネガル人を驚かせました。 決して生半可ではなく、途上国のコミュニティーに溶け込み、一生懸命努力している彼らの姿がそこにあります!
正直なところ、私自身、外務本省で経済協力の仕事に携わっていた時は、海外青年協力隊の意義について「本当に途上国の役に立っているのだろうか」と懐疑的に見ているところがありました。しかし、今や自分の不明を恥じています! 隊員の活動もさることながら、私が嬉しかったのは、日本の若者がますます内向き傾向を強めている昨今にあって、このような逞しくも魅力的な日本の青年達がいるということを直に確認することが出来たことでした。このような若者を育ててくれる、それだけでも、JICAの海外青年協力隊事業は存在意義がある今では本当にそう思います。
問題なのは、彼らの多くが帰国後、職探しに苦労していることです。職が見つからず、JICAや外務省、地方自治体の所謂「短期契約職員」として何とか「食いつないでいる」諸君もかなりいます。私は彼らこそ社会の様々な方面で活躍できる潜在能力を秘めていると思います。それにも拘らず、そんな彼らを積極的に評価して、採用しようとする企業があまりにも少ない!私は日本の企業こそ内向きなのではないか-そう思わずにはいられません・・・。
その2. マラリア予防として
こちらは雨季も終わりに近づき、海風も吹き寄せるようになって、これからは夕方、庭ですごすのが心地よい時期を迎えられると期待しています。
ただ、気をつけないといけないのは、雨季の間に水溜りで繁殖した蚊によってマラリアにかかる危険性が高まるのがこの9月から12月の間で、特に11月は一気に患者数が増えます。もっともダカール地域を例に取ると、これら患者の多くはダカール近郊の治水が行き届いていない、衛生環境が悪い(雨季に水が溜まり易い)地域に住む住民で、ダカール中心部でのマラリア罹患率はここ数年著しく改善されており、少なくとも過去3年の間に館員・家族でマラリアに罹った者はいません。しかし油断は禁物です。
実は、こちらに赴任する際、ベープマットや蚊を寄せ付けないスプレーなどを大量に持ってきたのですが、どういう訳かこちらの蚊には殆どきき目が無いことが判明し(!)、現在では専ら蚊用の殺虫スプレーを常に手元に置き、蚊と見れば、「プシューッ」と吹きかけています。これは効果てき面です。ただ、虫を見るとやたらとスプレーで殺したくなるのはちょっと危ない兆候かもしれません(笑)。
洪水対策を含めたダカール近郊の衛生環境の改善は喫緊の課題であると私も認識しており、日本の経済協力においてもこの分野での協力を強化していきたいと思っているところですが、その一環として、日本の無償資金協力による洪水対策用の機材(ポンプ、発動機、輸送用トラックなど)が8月に到着し、これらの機材は既にダカール近郊で活用されており、大いに効果を上げています。


ダカール市内
また、同じ協力プロジェクトによる機材の第2弾が先般到着し、その引渡し式が大統領官邸で、ワッド大統領及び(たまたま閣議が官邸で開かれていたこともあり)全閣僚参加のもとで行われました。その際の大統領のスピーチの一端を紹介しておきます。
このような強力なポンプをかってセネガルは手に入れたことはない。
(大使が述べられた通り)日本からいただいたポンプは既に稼動しており、そのお陰で滞留していた水を排水することができた。
絶え間なくセネガルに対して寄せられる日本の支援に対し、自分の深い感謝の念を上手く表現する言葉が見つからないほど感謝している。
先般の災害によって日本は甚大な被害を受け、経済的にも大きな打撃を受けている。それにも拘わらず、こうしてセネガル及びセネガル人のことを考えていただいていることに対し、自分が感謝の極みにいることをすべての日本の人々にお伝えいただきたい。こうした(日本の)人々の意思、支えがなければ、このような支援は実現されなかったと思う。だからこそ、私の感謝の念を日本の政府を超えて、すべての日本国民にお伝えしたい。
一国の援助のために、大統領がその国の大使を脇においてこのようなスピーチをするというのは極めて異例のことであり、また、この引渡し式の様子は、当日夜の国営TVのニュース番組でトップ・ニュースとして7分間に渡り伝えられました。
このTV報道のお陰で、翌日は土曜の休みだったのですが、買い物に出かけた市場の店員、路上を歩く人々、ゴルフ場のキャディ、カフェのマスターなどあらゆる人々から握手を求められ、日本への感謝の言葉が伝えられました。
日本の援助について日本の新聞はあまり取り上げてくれませんが、当地で日本の援助がどれだけ国民の間に浸透し、どれだけ感謝されているか、その一端をお伝えできれば幸いです。
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。
(2011年11月11日寄稿)
ページトップへ

HOME

