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「新興国シリーズ」 第18弾 2013-12-12
『最近の新興国情勢とブラジル』

第18弾 『最近の新興国情勢とブラジル』


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          前駐ブラジル大使  島 内  憲

最近の新興国の状況(「新興国リスク」について考える)
 いよいよ、来年6月12日より7月13日にかけて、ブラジルの12都市を舞台にFIFAサッカーワールドカップが行われる。その2年後の2016年8月にはリオデジャネイロ市で夏季オリンピック大会が開催される。昨年あたりまで描かれていたシナリオでは、今頃ブラジル経済は二大イベントに向けて力強く加速しているはずであった。しかし、最近のブラジル経済は今一つ元気がなく、薄日が差してきたかと思うと小雨が降りだす、という状況が続いている。

 2013年6月には、これに追い打ちをかけるように、100万人規模の抗議デモが全国で繰り広げられるという予想外の事態が発生した。ブラジルではこの種の大規模抗議行動は非常に珍しく、内外に衝撃を与えた。その後、国内情勢は落ち着きを取り戻したものの、W杯・五輪景気からは程遠い状況にある。成長軌道に戻るのにはしばらく時間がかかるというのが大方の見方である。

 新興国で、経済が失速気味になっているのはブラジルだけではない。最近、BRICsを含め多くの新興国が経済面で問題を抱えている。成長率の低下のみならず、インフレの悪化、為替の下落、国際収支の悪化等が多くの国に蔓延している。最近の新興国経済変調の背景には、単なる景気循環的な要因だけではなく、それぞれの国固有の構造的問題や制度的問題もあるので、本格回復には時間がかかりそうである。

 ただ、最近よく使われる「新興国リスク」という言葉は誤解を招く恐れがあり、筆者は使わないことにしている。全体として見れば、新興国の台頭という大きな流れは変わらないことを見逃してはならない。豊富な資源、広大な領土等の自然条件に加え、人口動態の面でも好条件が揃っている国が多く、中長期的に見れば、まだ伸び代が大きい。これら諸国が世界経済におけるウエートを引き続き高め、新興国へのパワーシフトが引き続き進むという国際社会の方向性が変わることはないであろう。

 一口に新興国といっても、本来、一括りにすべきでない多様な国々である。政治体制・経済制度から宗教・民族構成に至るまで各国間に大きな相違があり、先進国のように民主主義、人権、市場経済、法の支配といった基本的価値が共有されているわけではない。各国は様々な課題を抱えており、将来的見通しも一様ではない。今後、新興国間の格差が拡大し、勝ち組と負け組に二極化していくことも考えられる。

 因みに、ブラジル周辺の中南米地域においては、このような二極化現象が特に顕著である。民主体制の下で、堅実に自由主義的経済政策を進めている国々は、着実に安定成長の道を歩んでいるのに対し、大衆迎合的経済政策を続けている国々は、悪性インフレや物資不足などの困難に直面している。今後、このような流れは一層鮮明になるであろう。

ブラジルが他の新興国と違うところ(新興国の安定勢力)
 それでは、ブラジルの状況はどのように位置づけられるべきか。結論から言えば、ブラジルが新興国の落伍組になることはない。引き続き、新興国の最有望株の一つであり続けるであろう。なぜならば、ブラジルは、以下で見るように、発展のための好条件が揃っている一方、社会経済の長期的発展を妨げる政治的、社会的ボトルネックが存在しないからである。最近の低成長を見て、「やっぱりブラジルをダメな国だ」と決めつける向きが一部にあるが、このような見方をすること自体リスクを孕んでいる。特に、我が国の場合は、ブラジルとの間で長年の実績に裏打ちされた友好協力関係が存在し、他国に比べて有利な立場にあるので、不作為や出遅れが非常に高くつく可能性があることをしっかりと認識する必要がある。

 今日のブラジルを論じる際、押さえておくべき基本的な事柄がいくつかある。
 第一点目は、現在のブラジルは、80年代の経済危機の時代とは全く違う国に様変わりしていることである。かつてブラジルは「永遠の未来の大国」と揶揄された。そのような時代にブラジルに関わった日本の関係者の間では、今もなお悪いイメージが根強く残っている。しかし、今日のブラジルの経済政策は、頑なまでに堅実であり、ハイパーインフレ陥ったり巨額の対外債務抱えたりすることは、まず、考えられない。今や、約3800億ドルの外貨準備を保有する純債権国であり、2018年頃には主要産油国入りが見込まれる。余り認識されていないことだが、経済規模は単独でASEANの10か国の合計を上回り、GDP世界ランキングで英国と第6位を争っている。国内市場の大きさも世界有数であり、自動車の販売台数は、中国、米国、日本に次いで第4位である。

 第二点目は、ブラジルは新興国の中で経済的のみならず、意識の上でも最も先進国に近い国の一つであるということである。一人あたりのGDPは、中国の2.5倍、インドの7倍であり、出発点が異なる。既に、民主主義体制の下で、他の新興国ではまだ手を付けていない改革や社会政策を実行に移しており、今は成長の過程で生じたひずみの是正に取り組む段階にまで進んでいる。なお、ブラジルはOECDの加盟資格を持っていると言われながら加盟しない道を選んでいる。先進国グループの末席に座るより、途上国グループのリーダーであり続けた方が国際的影響力を保持する上で得策と判断しているからではないかと思われる。

 第三点目は、ブラジルが安定的な国際環境に恵まれていることである。世界の紛争地域から地理的に遠く離れており、地政学的リスクが極めて少ない。周辺地域に国際紛争その他きな臭い問題は存在しないし、その火種も見当たらない。なお、経済分野では、近年、中国に対する資源輸出への依存度が高まっており、これがブラジル経済のリスク要因の一つになっている面がある。しかし、ブラジルの対外経済関係は、アジア、米州、欧州の地域バランスがとれており、他の新興国と比較してリスク分散が進んでいることにも併せ留意すべきである。

ブラジルの課題(2013年6月の全国抗議デモはなぜ起きたか)
 6月に全国規模の抗議デモが突如として起きたことをどのように見るべきか。まず、同抗議デモは、民衆が独裁政権に対して民主主義を求めて立ち上がった「アラブの春」とは全く性格を異にするものであることを理解しなければならない。ブラジルでは、民主主義がしっかりと根を下ろしている。近年、政府の中間層育成政策が目覚ましい成果を上げ、国民の生活水準は確実に向上している。失業率は低い水準で推移しており、賃金の大幅引き上げが続いている。一方、後述するように、交通、医療保健、教育等の整備が遅れており、これに対する国民の不満が募っている。6月の大規模抗議行動は、豊かさを知り、権利意識が高まった新中間層を中心とする国民が劣悪な公共サービスの改善や政治家等の腐敗の根絶を求めて、街頭で意思表示を行ったものである。民族的、宗教敵対立を背景とするものではなく、政治色もない市民運動である。

 次に、経済情勢に目を転じると、2010年に7.5%成長を記録した後は、低成長が続いている。2012年は0.9%、2013年も期待外れの2.5%程度に終わるとの見方が多い。今後、2014年のワールドカップ及び2016年のリオ五輪に向けたインフラ投資等の本格化により、回復に弾みがつくことが期待されるが、今のところ2014年も2%台の成長に止まるとの見方が支配的である。

 低成長からなかなか脱出できない背景には、欧州経済の停滞や中国経済の減速などの外的要因があることは確かであるが、ブラジル経済自体に内在する問題に注目すべきである。一言で言えば、これまでの個人消費に依存した内需主導型成長モデルの限界が露呈し、投資不足や改革の遅れに起因する問題が至る所で顕在化しているということである。為替レートが大幅に下落しても、期待されたほど工業生産が回復しないのは、このためである。

 ブラジル経済がその巨大な潜在力を発揮するためには、後回しにされてきた道路、鉄道、空港、港湾、電力等のインフラ整備をもっと本腰を入れて進めなければならない。更に、経済の効率化と国際競争力強化のために必要な改革、特に、企業に大きな負担を強いる税制と労働制度を改善し、財政を圧迫する公務員年金制度などにメスを入れる必要がある。教育の質的向上を図り、経済の高度化を担う人材の育成することも喫緊の課題である。これらの課題(いわゆるブラジルコストの削減)への取り組みは、予てより外国企業のみならず、ブラジル企業から強く要望されているところである。筆者も、ブラジル在勤中、ブラジル側関係者との意見交換の場で度々本問題に言及した。これに対する先方の回答は「そのような政治的コストが高くつく改革を急いでやる必要はない。現に外国から投資がどんどん入ってきているではないか」というものが多かった。

 経済が順調に拡大していた当時(2006年~2010年)は、それでよかったのかもしれないが、今は状況が違う。6月の抗議デモは、これ以上問題の先延ばしが許されないという現実を浮き彫りにした。

ブラジルの長期的見通しは明るい(先行き不透明感が少ない)
 以上ブラジルが抱える問題を概観したが、中長期的に見れば、好材料が多いことには変わりない。ブラジルは、途轍もなく恵まれた国である。農業に適した広大な国土、温暖な気候、豊富な鉱物・エネルギー資源など人間が経済社会活動を営む上で必要なものはすべて揃っている。加えて2020年までに石油生産が現在の2倍の日産400万バーレルに達し、主要産油国入りすると見込まれる。もう一つ特筆に値するのは、ブラジルが地球上の利用可能な淡水の20%を保有することである。これは、人口がブラジルの6倍ある中国の3倍を超える量である。言うまでもなく、淡水は、日常生活のみならず、農業、工業などあらゆる産業活動に不可欠であり、今後、水資源大国ブラジルの国際的立場は益々強くなるであろう。

 インフラ整備の必要性についてはコンセンサスがあり、政府も最重点施策として推進しているので、着実に進むであろうが、構造改革の進展については、既得権に抵触する部分が多いことから、短期的な見通しについては懐疑的な見方が少なくない。コンセンサス重視のブラジル政治にあまり短期的な成果を期待することはできないかも知れない。しかし、仮に100点満点の改革を実現できなくとも、ブラジルの基礎体力の高さからして、最小限の安定成長を達成することは可能である。ブラジルは最悪の場合でも、3~4%程度の成長を維持する力を持っており、下方リスクが少ないことを大きな強みとする。
なお、「ワールドカップの準備が遅れているようだが、本当に大丈夫か」という質問をよく受ける。これに対する筆者の答えは以下の通りである。
「確かに日本人の目から見れば、大会の準備はかなり遅れているかも知れないが、自分はあまり心配していない。ブラジル人は、我々のように準備の段階で完璧を期すことはしないが、彼ら特有の現場力を発揮して本番を成功させることに長けている。大会中、小さな手違いやミスは起きるかも知れないが、サッカー王国の名に恥じない素晴らしいワールドカップになると確信している。」

二国間関係の留意点(両国関係強化の好機)
最後に、我が国とブラジルの関係について3点ほど指摘しておきたい。

1.グローバルな位置づけを踏まえて付き合わなければならない国である
 ブラジルは、そう遠くない将来、経済規模で世界のトップ5入りをし、何れ我が国をも凌駕する可能性が高い。多国間外交の場でも発言権を増している。ブラジルは歴としたグローバルプレヤーであり、単なる「南米の大国」ではない。加えて、核兵器の保有を憲法で禁止し、民主主義、人権尊重等を標榜する新興国の良識派である。ブラジルとの関係はこういった事実を十分踏まえて考えなければならない。「遠すぎる」などといった悠長なことは言っていられない。ブラジルで出遅れれば、我が国がグローバル競争で一人負けする恐れがあることを銘記すべきである。

2.ブラジルは超親日的な国である
 日本人がブラジルの街を歩いていると、ポルトガル語で道を聞かれることがある。語学力を試されているわけではない。ブラジルには150万人の日系人がおり、ブラジル人から見れば、日本人の顔をしている人間は皆同じブラジル人なのだから、ポルトガル語で話しかけるのは当たり前のことである。ブラジル人は、日系人の勤勉さ、まじめさ、誠実さに対して尊敬の念を持っているが、日系人と日本人を区別しない(できない)こともあり、日本と日本人に対しても高い評価と好意を持っている。また、長年にわたる日系企業や政府開発援助(ODA)関係者によるブラジルの国造りへ貢献によって育まれた絶大なる対日信頼感がある。因みに、本年2月に在ブラジル大使館が民間の世論調査機関に委託して行った調査によれば、「ブラジルの将来にとって重要な国はどこか?」という問い(複数回答可)に対し、50%が「日本」と答え、59%の米国に次いで第二位であった。「科学技術の手本となる国はどこか?」という問いに対しては、日本が39.7%で断トツのトップを占めた(第二位の米国は19.2%)。ブラジル人の対日期待の大きさを如実に示す結果である。

3.今は我が国にとって願ってもないチャンス
 2億の人口を擁するブラジルとしては、過度の資源依存から脱却して質の高い雇用を創出することが至上命題である。そのためには、経済の高付加価値化が不可欠と考え、先端技術の導入を通じて製造業を強化育成することを国策として進めている。また、インフラ整備が喫緊の課題となっていることは既に述べたとおりであるが、その実現のためには巨額の資金を手当てしなければならない。我が国の先端科学技術分野の協力と資金協力に対する期待が以前にもまして高いのはこのためである。ブラジルから見れば、①欧州諸国とは長年の協力の歴史があるが、当面は欧州に多くを期待することはできない、②中国は重要な経済パートナーであるが、巨大な資金力をバックにした資源獲得の動きには警戒せざるを得ない、③韓国は経済規模がブラジルの半分程度しかなく、ブラジルが求める最先端技術も持っていない。結局、ブラジルにとって最重要国は日本及び米国ということになるが、米国に関しては国内世論との関係で機微なところもあり(最近例では、2013年10月に予定されていた大統領の訪米はNSA盗聴問題で無期延期された)、結局、ブラジルにとって主要国の中でパートナーとして最も居心地が良いのは日本ということになる。

 近年、欧米諸国に、中国や韓国などのニュープレヤーが加わり、ブラジルの資源と市場を巡り熾烈な争奪戦が繰り広げられている。こうした中で、日本企業は、ブラジルの短期的経済動向に左右されずに直接投資を継続する等積極的にブラジル・ビジネスに取り組んでいる。心強い限りである。
2016年のリオ五輪に次いで2020年の夏季五輪が日本で開催されることが決まったことで、日本とブラジルの間で人的往来が劇的に増え、新たな協力の機会が次々と生まれることが期待される。双方がこの千載一遇の機会を生かし、両国関係の更なる飛躍につなげることを願ってやまない。

(平成25年12月10日寄稿)

「新興国シリーズ」 第17弾 2013-8-29
『ミャンマーの変貌』

第17弾 『ミャンマーの変貌』


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          前駐ミャンマー大使  齋藤  隆志


 先日、初対面の人(30代のサラリーマン)と何となく、自分はつい最近までミャンマーに住んでいたという話をしたら、「それはたいへんでしたね、大丈夫だったですか」と言われて返す言葉がなかった。外国と関わりのない生活をしている一般の人にとっては、ミャンマーへの関心、あるいは、情報の受け取り具合はそんなものかと思ったし、一度確立した悪名を変えるのは容易なことではないと思った。また、同時に、夜も寝ずにと言ってもいいくらいハードな日程をこなしつつ、民主化への努力を重ねて来ているテインセイン大統領に気の毒な感じがした。

(民主化)
 ミャンマーの民主化は、2010年の総選挙、直後のアウンサンスーチー女史の解放、翌2011年3月の民政移管により始まった。しかし、当初、ミャンマーの一般国民の間では、どうせ何も変わらないだろうという気分が支配的だったように感じられた。また、国際社会も懐疑的であった。文民による新政府ができたといっても閣僚は軍籍を離脱したというだけで旧軍事政権とあまり顔ぶれは変わらないし、20年以上に亘る軍政の記憶がまだ新しい上、議会もアウンサンスーチー女史が選挙に出ないことを決めたために民主勢力はいない。 また、憲法上、上下両院各々の議席の4分の1は軍人議員であること等がその理由であった。これに対し、テインセイン大統領率いる新政府は、国民生活の向上と民主化の進展を政策目標として掲げ、改革開放路線を鮮明にするが、新政府は、この改革開放政策を軌道に乗せるために、まず最初に取り組まなくてはならない難題を抱えていた。つまり国際社会が長年に亘って要求してきた、政治犯の釈放、少数民族問題の解決、アウンサンスーチー女史との和解といった課題である。

民主化にせよ経済改革にせよ国際社会の支持がなければ実現は難しいわけで、そのためにはこれらの課題を解決して国際社会の理解を得ることがまず必要であった。テインセイン大統領は実に真剣にこれらの課題に対処した。まず、政治犯については、数回に分けて政治犯の釈放を実施し、2012年1月までには殆どの政治犯を釈放した。当初は、恩赦を行い、その対象にたまたま政治犯といわれる者が含まれるという形をとったが、これは政治犯はそもそもいないという旧軍事政権の立場と平仄をあわせる必要があったからであるが、最後には、あからさまに政治犯だから釈放すると言明して釈放するに至っている。ふたことめには政治犯の釈放と言っていた国際社会も最早この問題を大きな論点とすることはなくなった。

少数民族問題は、一朝一夕に解決できるような問題ではないことは誰でも理解していることではあるが、粘り強く武装勢力との話し合いを進め、カレン族武装勢力との停戦合意に至る等の進展を実現し、最後に残ったカチン族勢力との停戦も実現した。また、アウンサンスーチー女史との間では、最初は担当大臣との会談という旧軍事政権下での対応と同じことを始めたが、2011年8月に大統領が同女史を首都ネーピードーに招くという形で、会談を実現した。会談後女史はテインセイン大統領は信頼できる人であると延べ、両者間にある種の信頼関係ができたことが明らかとなった。また、二人がアウンサン将軍の写真の前で並び立つ姿が新聞に出たが、これは極めて印象的であったし、女史と旧軍事政権との関係を考えれば、まさしく歴史的な出来事であったということができる。その後も、大統領は、相互の信頼関係の樹立に努め、政党登録法の改正等同女史の要求を可能な限り受け入れ、2012年4月の補欠選挙への同女史の参加が実現した。こうした動きが米国の経済制裁解除へとつながっていったのである。

 また、新政府は、上記の主要課題への取り組みと同時並行的に、検閲の緩和から廃止、集会デモ法の制定、労働関係法の改正などを行い、表現の自由、政治活動の自由、労働者の権利擁護など、民主化自由化の根幹に関わる制度の改革を進めた。国際社会も、こうしたミャンマーの動きを踏まえ、まずかなり早い時期にアセアンが新政府の強い要望に応え、2014年のミャンマー議長国就任を承認した。その後も、テインセイン大統領の諸外国訪問また各国首脳等のミャンマー訪問など通じて国際社会の一員として受け入れられただけでなく、むしろ諸外国の方が経済的関心を背景にミャンマーとの関係正常化に向けて動いて行った。このように現在ではテインセイン大統領の新政府が進める民主化について疑いを持つ者はいないし、制度的にも、議員の4分の1が軍人であるという憲法上の規定を除けば、ミャンマーが他のアセアンの国は勿論普通の民主的な国とは異なると考える理由はない。

(経済改革)
 2010年のミャンマーの一人当たりGDP(IMF)は741ドルであり、カンボジアの752ドル以下で、現在もアセアンの最貧国である。大雑把にいえば、社会主義経済の失敗とその後の軍事政権での半鎖国政策が主要な原因といえよう。軍事政権下でのミャンマー経済は、前近代的な農業と天然ガスの輸出、近隣諸国との貿易、投資は、ほとんどが中国からという構造であった。このような偏った経済構造を多様化し、外資を導入することによって産業振興を図ろうというのが新政府の経済政策の眼目である。民主化は、それ自体新政府の政治的使命であり目標であるが、同時に対ミャンマー投資に政治的なリスクはないことを外国投資家にわかってもらうためにも必要であった。外資導入の最大の障害は、米国の経済制裁であったが、前述のように民主化の進展により2012年夏に制裁解除が実現した。これにより世界中の投資家は、米国政府の意向を気にすることなくミャンマーへの投資が可能となり、また、それまでできなかったドルでの決済も可能となった。しかしそれだけでは不十分であり、様々な制度を変える必要があった。

まずそれまで3種類あった為替レートの統一であるが、これは非常に難しいと思われていたが、結果的には混乱なく実現した。続いて、外資導入の要となる外国投資法の改正である。この法律は、20年以上前に制定されたものが、不透明な運用に委ねられていたものである。新政府は、早くからその改正に向けて検討を進めてきたが、議会の承認を得て、細則を含めて新法ができたのは、今年初めであった。この改正の過程で、議会は国内産業の保護という方向に向かったが、テインセイン大統領は、一度議会が承認したものを不十分であるとして署名を拒否し、再審議修正させた上で最終的な承認を与えた。同大統領が外資導入政策を如何に重視しているかを示したものといえる。また、金融機関の近代化、証券市場の整備、不動産所有制度の改革など様々な制度改革に投資環境の改善という観点から取り組んできている。インフラの未整備は大きな問題であるが、主要なドナーが援助を再開し、世銀等の国際機関も資金供与できるようになったので、今後の改善が見込まれる。

(少数民族問題)
 少数民族問題は、長い歴史をもった複雑な問題である。中央政府は、武力による征圧、或は、時に平和的な話し合いにより問題の解決を図ろうとしたことはあったが、成功したためしがなかった。国際社会や人権団体からは、少数民族弾圧と人権蹂躙だとして様々な非難を浴びせられてきた問題であり、新政府としては、真剣に取り組まなければならない課題であり、武装勢力との間で停戦合意を達成したことは前述した通りである。但し、最終的な解決を図るには、少数民族の自治権と経済的利益をどの程度認めるかという本質的な問題があり、簡単なことであるとは思えない。要は、武力闘争が行われていないという状況を維持することである。戦闘の過程で、殺人や人権蹂躙が起これば、国際社会からの批判の対象となってしまうわけで、そうした事態を避けつつ本質的な問題の解決策を模索して行くということになると思われる。

また、カレン族の問題だけをとっても、タイ側に難民とし避難している十数万の人達を帰還させ国内に定住させる必要があるという実際的な問題がある。和平交渉そのものに国際社会が関与することはできないが、定住問題などの周辺的な事柄で支援を行い交渉の進展を助けることは国際社会の果たすべき役割である。なお、西部ラカイン州で起こっているロヒンジャの問題は、上記の伝統的な少数民族問題とは異なる問題である。ミャンマー人にとってカレンやカチン等は自分たちの同胞であるが、ロヒンジャはそうではない。そこに問題の根幹があるが、この問題も、テインセイン大統領は、ロヒンジャにもいずれ市民権を認めるとの立場を表明する等国際社会から非難されないよう柔軟な対応をみせている。

(日本との関係)
 一度ビルマに勤務するとまた勤務したくなるという話を昔よくきいた。そういう国は他にもいろいろあると思うが、確かにミャンマーの人達は社交性に富み、気持ちのいい人達である。

 1988年に軍事政権が成立するまで日本はミャンマーにとって最大の援助国であり続けたが、その後は欧米諸国と協調して抑制的な援助にとどめた。それでも日本は、人道支援や人材育成などの形で可能な範囲で支援を続けたが、他のアジアの国に対するような大きな経済援助はできない状況であったし、民間の経済活動も低調であった。

 新政府が成立し、民主化が進展するのにあわせて、日本は早い段階から経済協力の再開を表明し、今年に入って、少数民族支援等を含めて200億円以上の無償資金、また、インフラ整備等のため500億円以上の円借款の供与に合意し、対ミャンマー支援の強化の姿勢を具体的に示した。また、これに先立ち過去の延滞債務の解消も合意し、他の債権国や国際機関の延滞債務問題の解決に指針を与え、ミャンマーがこれらのドナーから資金供与を受けることが可能となるよう側面的な支援も行った。実際、今年1月ADBが5億ドル以上、世銀が4億ドル以上の融資を決定している。民間レベルでは、個々の企業のトップや経団連他の経済団体のミッションなどが多数訪問し、かつてない活況を呈し続けているものの大きな投資はまだ実現していない。

 こうした日本のミャンマー支援の強化は、経済発展のための資金源を多様化したいという新政府の希望に応えるものであるし、民主化を進める新政府を力づけるものでもある。即ち、民主化が単に政治制度の変更というだけでなく、一般国民の日常生活の改善という形で恩恵をもたらすものであればある程、新政府としては一層強力に民主化と改革を進めて行くことができる。テインセイン大統領としても、急激な民主化を好まない一部の人々に対抗するためにも民主化の実益を示すことが求められており、そのためには国際社会からのいわば物心両面の支援が必要であるということである。

(今後の展望)
 2015年の総選挙が大きな節目となることは間違いないが、そこに至るまでの過程で現政権が国民の不興を買うような大きな失策を冒すようなことはないだろうし、引き続き民主化と改革が進められて行くと思われる。また、今年秋のアセアン競技大会と来年のアセアンサミットの主催は、国民の気持ちをひとつの方向にまとめるとともに新生ミャンマーの姿を諸外国に示すよい機会となるであろう。

 2015年に起こるべきシナリオはいろいろあろうが、最悪のシナリオ、即ち、再び軍事クーデターというシナリオはない。それは、これまでの努力と成果を無にし、世界からの完全な孤立を招き、政治的にも経済的にもミャンマーは生きて行けなくなる。教養があり誇り高いミャンマーの軍人がそのような大義名分がない愚行に走るとは考えられない。

 従って現政権が継続するか、アウンサンスーチー女史が政権を担うかのどちらかであると思われる。ミャンマーでは、世論調査が行われないから、国民の支持率を数字で知ることは難しい。昨年4月の補欠選挙では、上下両院664議席中45議席を争ったが、アウンサンスーチー女史のNLDは、得票率70%以上で43議席を獲得し、圧勝した。同女史に対する支持がどういうものであるかをこの数字は示している。しかしこの選挙は1年以上前のことであるし、総選挙までまだ2年あるということと政権側は軍人議席25%を保証されているので、この補欠選挙の結果だけみて、NLDが総選挙の結果過半数を獲得すると予想することは適切ではないように思われる。軍事政権下で抑圧された国民にとって、アウンサンスーチー女史は唯一の希望の星であったが、これだけ民主化と自由化が進展してしまうと、星の輝きがいつまでも続くと考えるのは楽観的にすぎる。これまである種絶対的な存在であった同女史も議会での宣誓の問題など国民の不評を買うようなこともあり、議員として、また、大統領候補として、さまざまな問題に注意深く対応する必要があろう。

また、仮にNLDが過半数を占めたとしても、憲法上外国籍をもった子供のいる人は大統領になれないので、同女史が直ぐに大統領になれるわけではない。同女史が憲法改正を求める理由のひとつであるが、憲法改正は両院の4分の3以上の賛成(その後国民投票)を必要とするので、憲法上4分の1を占める軍人議員の一部の支持がなければならない。この点に関しては、アウンサンスーチー女史が、国民特に軍人のゆるぎない尊敬の対象であるアウンサン将軍の娘であるということが意味をもってくる。また、議会で指導的な立場にあり、軍に対しても影響力を持つシュエマン下院議長と同女史が最近急速に接近しているというのも興味深い点である。なお、同議長は、自身次期大統領候補として名乗りをあげているが、憲法改正については国民が望むならば検討しようという柔軟な立場を表明している。

 現政権側としては、引き続き民主化と改革を進めていくが、それだけでは総選挙で勝つことはできないであろう。前述したように国民生活が改善されることが必要である。例えば、電力供給の改善により停電がなくなるとか、工業団地の造成により雇用が創出されるとか、農業補助政策により、農民が農耕機具を買えるようになるとか、といった目に見える状況の改善を、今後2年間で実現しなければならないであろう。またテインセイン大統領は、就任後自分は1期限りであると述べていたが、昨年10月に続投の可能性に言及した。これまでの民主化と改革が同大統領の強力な指導力により実現してきたものであることを考えると、同大統領の去就は国民の投票行動に大きく影響すると思われる。アウンサンスーチー女史の圧倒的な人気に対抗できる人がいるとすれば、それはテインセイン大統領だけであるからである。

 2年後の総選挙の結果を予測することはできないが、現政権であれば、テインセイン大統領であれ、シュエマン議長であれ、当然これまでの政策を継続することになるし、アウンサンスーチー女史になれば、それは一層加速されるであろう。同女史は経済政策については未知数であるが、ミャンマー経済の発展にとって外資が必要であることは認めており、この点でも基本的には大きな変更があるとは考えられない。2015年は大きな節目となるであろうが、ミャンマーが進む方向、即ち、民主化と改革という大きな流れは変わらないと思われる。(2013年7月29日寄稿)


「新興国シリーズ」 第16弾 2013-7-29
『チャベス大統領鎮魂歌』

第16弾 『チャベス大統領鎮魂歌』


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          元駐ベネズエラ大使  下荒地 修二

外務省に入省して以来、在外任地としては中国、台湾、韓国と近隣諸国が中心であったので、最終段階でパナマ、ベネズエラの在勤となったのは、自分でも驚いた。他方、それまで全く土地勘のない地域で最後の仕事ができたことは、チャレンジングであり、得難い経験となった。しかも、両地の在勤がそれぞれ3年半をこえ、7年以上どっぷりとラテンの生活に浸ることができた。

大使としての最初の任地パナマはいうまでもなく運河の国である。1903年11月に米国の後押しでコロンビアから分離独立したので、私が赴任した時はちょうど独立100周年という記念すべき時期にあたった。パナマの独立の経緯について書き始めると、それこそ本が一冊書けるほどのドラマであるので別の機会に譲ることとして、ここでは日本が新生パナマの独立を承認し外交関係を樹立したのが翌1904年1月と極めて早く、すでに100年の歴史を有しているということを指摘しておきたい。その1か月後には日露戦争が開始されるのであるが、このように承認を急いだ理由として、運河を作るためにパナマを相当強引に独立させた米国との友好協力関係を強化しておかないといけないいう配慮が働いていたということは容易に想像される。

パナマ運河は、1914年に米国により完成し、明年2014年で開通100周年を迎える。それに合わせたわけではないが、私の在勤中に運河拡張計画が策定され、その受注をめぐって激しい競争が展開されることになった。パナマ運河最大の利用国は当然のことながら米国であるが、あとは日本と中国の存在感が大きい。この拡張計画については1970年代から日本が主導してきた経緯もあり、なんとかして日本の手でと思い自分なりに努力したが、最終的には残念ながら欧州勢に敗北したのは今でも残念でならない。

さて本稿の主題であるベネズエラであるが、石油の国というのが一般のイメージである。確かにその通りであるが、石油以外にもないものはないくらいに資源に恵まれた国であることを、赴任して初めて知ることとなった。ベネズエラ人も自分の国を恵まれた国と自認している。よく聞かされた冗談に、ある時神様の前で、各国人が自分の国の説明をした。ベネズエラには、豊かな土地があり、その上に石油資源に恵まれ、他の鉱物資源もなんでもある国であると話したところ、他の人が「ベネズエラ人だけがいい目にあって不公平だ」と言ったという。そこから先はいろんな説があり、それほどベネズエラが恵まれた国だという話で終わるかと思えば、神様が「いやいや不公平ではない、あそこにはベネズエラ人を置いておいた」というオチにする話もある。いずれにしても、それほど恵まれた国であるのに、それをまだ十分に活用していないという話である。

確かにベネズエラは資源に恵まれている。もともとは農業国であったが、20世紀に入ってから豊富な石油資源が発見され、第2次世界大戦前は世界最大の石油輸出国であった。戦後は中東に首位の座を譲ったが、それでも日産200万バレルから300万バレルの生産がある中南米最大の産油国である。特に、近年いわゆるオリノコ川北岸に産出される超重質油が技術的、経済的に採掘可能になり、確認埋蔵量が3000億バレル近くになっており、今やサウジアラビアを抜いて世界最大の石油埋蔵量となった。可採年数300年というまさに石油大国である。

石油資源だけではなく、天然ガスの確認埋蔵量も192.5兆立方フィートで世界第8位とされている。他の鉱物資源も鉄鉱石、ボーキサイト、金をはじめ、それこそなんでもありという状況である。日本からも、豊富な電力を利用したアルミ産業が進出しており、世界有数の良質な鉄鉱石を利用した還元鉄生産工場が進出している(もっとも私の在任時にはこの撤退問題が大きな仕事になった)。加えてベネズエラの東部には広大な、全くの手つかずの広大な土地があるとなれば、資源に乏しい我々日本人だけでなく、だれから見ても、神様は本当に不公平だと言いたくなる国である。

このように恵まれた国であるので、中南米諸国の中では豊かな国であることは間違いない。一人当たり国民所得も1万ドルを優に超えており、首都カラカスに林立する高層ビル、世界遺産として登録されている大学都市をはじめとする建造物、整備された高速道路網などを見ると、一見すると先進国と言われてもおかしくない状況である。ただよく見ると、こうした「先進国」風は、少し古びてきており、1970年代までの石油ブームの遺産が多く、ベネズエラの発展が近年少し停滞気味になりつつあることが分かる。特に、経済発展が著しい中南米諸国にあって、その停滞ぶりは目立つ感じがする。ということで、在任中、日本との経済関係を強化することで、この国をもっと発展させることができるのではないかと一度ならず思ったものである。

加えて、ベネズエラ経済は近年、少なからず問題を抱えている。毎年20%から30%にもなるインフレ率(本年2013年は40%を超えると言われている)、貧富の格差の固定化、実勢と乖離した為替の固定相場制から来る種々の矛盾などがすぐに指摘できる。加えて、中南米でも1、2を争うとされる殺人率の高さなど治安の悪化も指摘されている。ベネズエラの重要産業国有化という急進的ともいえる社会主義路線もあって、外国からの投資も停滞気味である。

こうした諸事情を背景に、べネズエラと日本との経済関係は以前よりも低調に推移している。2011年の統計でも、日本への輸出はアルミ地金、鉄鉱石、カカオなどで31.7憶円、日本からの輸入も自動車を含む機械機器を中心に683億円である。世界最大の埋蔵量を誇る石油大国であるにもかかわらず、石油の対日輸出は、80年代には2、3億ドル程度の輸出が記録されているが、その後は全くなく、私が赴任した2007年に200万バレルの輸出があり、ここ1、2年ま100万バレル単位で日本に達しているだけである。ベネズエラの油種が、重質油がほとんどであり、日本の業界が必要としていないこと、また大西洋側にしか積み出し港がないので、輸送の問題があることなどが理由であるが、今や世界最大の石油埋蔵量を誇るベネズエラとのエネルギー面での協力関係は、もっと重視すべきではないかと思っている。

ベネズエラ側も、石油の輸出先多角化が悲願であり、近年は中国への輸出を増加させており、ベネズエラ側統計では日量60万バレルに達しているとされる。日本も乗り遅れてはいけないのではと考えてしまう。たまたま、前任地のパナマには、1980年代に建設されたパイプラインがあり、これを利用すればベネズエラからの輸送距離も半分以下に短縮される。とすれば、日本、中国、韓国など東アジアの石油輸入大国が協力することにより、ベネズエラから北東アジアのオイルチャネルができるのではと考えてしまう。
このパイプラインは、もともとアラスカ原油をアメリカ東海岸に輸送するために、パナマとコスタリカ国境地帯に建設されたものであり、1981年から93年まで使用されていた。アラスカ原油の開発が終わるとともに、ほとんど使用されなくなっているが、その後もメインテナンスもされている。しかも、もともとは太平洋側からカリブ側に輸送されていたものであるが、2009年には逆送プロジェクトが完成し、現在はベネズエラ原油の輸送にも使用が可能になっている。

日本の輸入石油の対中東依存度が90%近くになっている現在、エネルギー安全保障の観点からも、中東以外の地域からの輸入ルートの確保は重要と考えるが、どうしてベネズエラからの輸入が、もっと真剣に考慮されないのか、個人的には不思議でならない。
もちろん日本もベネズエラの石油を全く無視しているわけではもちろんなく、私の在任中にエネルギー当局間の協力取り決めが結ばれ、日本もベネズエラ石油の開発に参加できることになった。この取り決めに基づき、毎年民間の参加のもと当局間協議が行われている。また、2009年のチャベス大統領の訪日時には、ベネズエラからオリノコ川北部にある4つの産油地帯のひとつであるフニン11という鉱区を日本が獲得することになり、初めて上流部門に参加するという進展はあった。同時に、同地域のカラボボ鉱区の開発が国際入札にかけられ、日本も米国メジャーと組んで開発権を獲得することに成功している。ということで、徐々にではあるが、日本とのエネルギー関係も進展しているのであるが、在勤者としてはもっと早くという焦りの気持を抱いている。

ベネズエラ在勤中の大統領は、ウーゴ・チャベス大統領であった。1999年に初めて大統領に就任し、赴任した時にはすでに在任9年目、まさに権力の頂点にあるという感じの時期であった。92年に陸軍中佐時代にクーデターを主導して失敗、その後短期間の服役のあと98年の大統領選挙に出馬、選挙前の予想に反して当選したという経歴からもわかるように、大衆に人気のある政治家であった。信任状奉呈までに4カ月以上も待つことになったことに象徴されるように、在任中大統領との接触の機会は多くはなかったが、会ってみると非常に魅力的なオーラのある大統領であった。
チャベス大統領と言うと、反米の民族主義的社会主義者で、国連総会でアメリカ大統領のことを悪魔の匂いがすると発言するなど傍若無人な言動で、なんとなく「暴れん坊」で異端児という印象である。確かにそういう面があることは否定できないが、実際に会うと、なかなか繊細で、きめ細かい気配りのできる大衆政治家という印象であった。

2009年4月にチャベス大統領は8年ぶりに日本を訪問することになった。その背景を分析するとこれまた論文が一本書けるくらいであるが、要は日本との経済協力関係強化を求めてのものであった。駐在国大使として接遇にあたったが、そのポピュリスト政治家としての見事なまでの動き方に感心させられた。

帝国ホテルが宿泊先であったが、その出入りには日本側警備当局、ホテル側が要求したVIP用の出入り口は使用しない。正面玄関から入って、出迎えの外交団、一般宿泊客のあいさつを受けつつ、エレベーターまでの50メートルほどの距離を行くのに1時間くらいかける。予定されている日本側民間人との面会予定は全く無視される。そんなことが繰り返された。

そうした大衆政治家の一面を示しながら、同時にセキュリティへの配慮は大変なもので、4、50人に及ぶ警備陣を各所に配置し、さらに食事はすべて同行した調理担当者がホテルの厨房を借りて作ったもの(食材の買い出しもこれらの調理人が行ったと聞く)を自室で食べるという徹底ぶりであった。

とにかく時間を無視するというのも、悩みの種であった。突然の訪日であったので総理との首脳会談は当初45分という短時間しかとれなかった。ホテルの出入りに1時間もかかると言うので、さてどうなるかと心配したが、その時は時間通りに出発、それもきちんとVIP出入り口を利用してくれた。少し余裕をもって時間設定をしていたので、途中でちょうど満開の桜を見つつ総理官邸に到着したということであった。さすがのチャベス大統領も事の重要性はよく理解している、というより、時間を守らないのもきちんと計算してのことと言うことが分かる思いであった。

どうもわれわれとは時間の感覚が違うということなのであろうか、演説の長さにも驚かされた。毎年1月に国会での施政方針演説に外交団も招かれる。指定された時間に行くと閣僚、議員などはすでに来ているが、肝心の大統領はなかなか現れない。2時間以上待ってようやく大統領が到着するが、これまた入口からいろんな人に挨拶をしつつ入ってくるので、また時間がかかる。そして演説が始まると、原稿もなしに7時間、8時間と演説する。それもチャベス大統領は立ったまま、一度も中座することなく滔々としゃべるのである。外交団も半分以上が途中で退席するが、それはお構いなしである。大統領の体力には本当に感心させられたものである。

他方、このように傍若無人ともいえる態度を示されると、反感をもたれるのではないかと思うが、そこがチャベス大統領の天才的な大衆政治家としての人を引き付ける能力が発揮される。来日時も、記者会見に3時間以上も遅れて現れたが、その間記者は辛抱強く待ち続けていた。そして突然現れると、遅れたことを弁解もせず、まずカメラ記者に向かって愛想をふるまき、女性記者を抱きしめて親しく話をし、そして登壇する。待ち続けていた記者たちもチャベスマジックにかかったかのごとく、何もなかったかのように、記者会見が行われた。こういう場面を見せつけられると、チャベス大統領の人気がその天性の資質によるもと感じたものである。

このチャベス大統領は、長期政権を目指し、就任以来2回の憲法改正を行って大統領の再選制限を撤廃し、2021年の独立200年を自分の手で迎えることができるようにした。プロ野球選手を目指したこともあるという立派な体格、圧倒的な人気から見て、この夢の実現はそれほど問題ないのではないかと思われた。しかし、今年の3月に亡くなった。私の在任中にはすでに病魔に侵されていたようで、離任直後には自身が癌治療を受けていることが公表された。今から思いだすと、赴任1年目の2008年には10キロの減量に成功したということで、見るからに精悍な感じがあったが、その後また太り始めていた。キューバでの病気治療は順調ということであり、昨年10月の大統領選挙前後には元気な姿を見せ圧勝したが、本年1月の大統領就任式にも帰国がかなわず、結局58歳の若さで亡くなるとは、全く予想外の出来事であった。

憲法の規定により、大統領の再選挙が行われたが、チャベス大統領が後継者に指名したマドゥーロ副大統領が勝利した。この再選挙では当初の楽勝予想を覆し、公式発表では  1.59%という僅差の勝利であったため、選挙の有効性をめぐって紛糾が続いている。敗れたカプリレス候補は開票再集計を求めて選挙結果を認めていないが、新大統領は頻繁に外遊を行うなど、政権基盤の確立を着々と進めている。今後についてはなかなか予想しがたい。はっきりしていることは、チャベス大統領と言うカリスマ性のある指導者が亡くなったことは、チャベス主義路線をめぐり与野党の対立が激化せざるをえないということであろう。特に大きな困難に直面している経済では、主要産業の国有化推進に象徴的に見られるような急進的ともいえる社会主義路線にも何らかの政策変更がありうるであろう。外交的にも、これまで同様の対米強硬路線が貫かれるか、またいわゆるアルバ諸国と呼ばれるベネズエラとの関係が深い諸国との関係にも少なからず影響が出てくることも避けられないであろう。ベネズエラ離任以来、中南米情勢にはあまり注意を払ってはこなかったが、改めて注目している次第である。 (2013年7月20日記)

「新興国シリーズ」 第15弾 2013-6-6
『カンボジアからの報告』

第15弾 『カンボジアからの報告』


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          元駐カンボジア大使  篠原勝弘


1.日々変貌するカンボジア
ここ数年のカンボジアの発展は目を見張るものがある。都市人口は急増し、首都プノンペンでは、至るところで建設工事が行われており、40階以上の高層ビルもいくつも建設されている。市内の目抜き通りには瀟洒なブランド物を売る店が目立ち始め、日本製の高級車が走り、人口数に匹敵する携帯電話が普及し、モダンなカフェがあちこちで店を開き、繁盛している。どの店にもWi-Fiが無料で利用可能で、IT環境は日本より便利なほどだ。

最近現地で話題になっているのは日本の投資額が昨年第3位に躍り出たことである。長らく10位以下に低迷したことを思えば隔世の感がある。現役時代フン・セン首相はじめ多くの閣僚から、日本は、援助はするが投資は極めて少ない、発展の種を蒔いてくれたが、成果は他国に横取りされていると嫌味を言われた。カンボジアは経済の自由化度がシンガポールに次いで高く外国の投資家にとって有利な点がたくさんある。他方、1960年代から70年代の高度経済成長期に積極的に企業進出を行った日系企業勢いは今の日本にはない。当時一線で活躍した世代もほとんど引退した。東南アジアが中国と並んで世界の成長センターになっている時に日本は企業が老成し、長期の不況でリスクを恐れる体質が顕著となった。ASEANとの平和共存を謳った1977年の福田ドクトリンも色あせる。日本は東南アジアの安定と発展のために官民あげて支援してきた。このアセットを活用しない手はない。ASEAN諸国の日本対する信頼度は極めて高い。1967年に外務省に入省した時、メコン流域諸国の開発が外務省内では熱く議論されていた。勿論日本が開発の主導権をとるという意気込があった。当時外務省の良き伝統で、課内で熱い政策議論が行われた。若い事務官はこの課内会議で問題意識に目覚め、仕事の進め方を学んだ。しかし、インドシナ紛争の長期化で開発が遅れていたこの地域の開発が漸く本格化してきた。メコン流域諸国の中でも既に中進国として立場固めたタイを除き、ミャンマー、カンボジア、ラオス及びベトナム四カ国はいずれも若々しく、活力に溢れており発展の可能性は高い。

幸い、安倍政権は企業の海外進出に前向きだ。特に国内で苦境に立っている中小企業の海外進出には当初資金の不足、多少のリスクに耐える体力がない。これには政府の適切な中小企業支援策と低利の公的資金が必要だ。また、経済が急速に国際化し,英語が公用語化しつつある時代に日本の英語教育はマッチしていない。当面、元日本留学生を活用するなどの方法があるが、海外で単独ビジネスを行い、現地で生き抜いていける若者の育成は急務だ。 それしても、日本におけるカンボジアのイメージだ。一昔前のイメージのままだ。曰く、国中に地雷がまだ埋まっており危険である。相対的に治安が悪く、大半の人々の生活は貧しく、衛生環境は劣悪とのイメージだ。すべてが間違いとは言わないが、実態にはほど遠い。特に都市部の発展ぶりは一見、日本の地方都市とさほど変わらない。最近カンボジアに赴任や、出張で訪問した邦人は例外なく、日本で描いていたイメージと現実の発展ぶりの差に戸惑っている。

2.退官後、教育支援のNGOの世界に
2009年9月に長い間お世話になった外務省を退官し、請われて教育支援財団公益財団法人CIESFの現地代表に就任した。形は違うが5度目のカンボジア勤務である。財団創立者で理事長大久保氏はベンチャービジネス界の旗手で、予てから温めていた社会貢献への意志を実行すべくカンボジアでの教育支援を始めた人物だ。同氏は5年前カンボジアの教育事情を視察し、教育レベルの低さと基礎教育の欠如、特に理数科の基礎教育の必要性を痛感した。そこから、波及効果の高い教員の質の向上のために日本からベテラン理数科教員の派遣を思い立った。私も氏の熱い思いに感じるところがあり、過去の経験が生かせるのであればと思い現地代表の職を引き受けた。

カンボジアは日本のNGO のメッカといわれる。1979年のタイ・カンボジア国境における大規模な難民が発生。当時日本政府はUNHCRによるインドシナ難民支援計画予算全体の半分を負担し、WFP(世界食糧計画)、ICRC(国際赤十字委員会)などによる手厚い支援を行った。これ自体歓迎され評価されたが、難民支援の現場では、日本は資金は出すが、現場で汗を流す日本人がいないとの声が上がった。こうした批判にいち早くタイ在住の邦人が立ちあがった。日本でも呼応する動きが澎湃として起った。JVC、難民を助ける会、幼い難民を考える会、SVAなどである。これらのNGOは今でもカンボジア国内で人道支援を続けており現地の評価は高い。

ポル・ポット時代の後遺症の一つは多くのインテリが革命の敵とばかりに粛清されたことである。多くの教師がその中にいた。ポル・ポット派が追放された後、ヘン・サムリン政権は教育の復興に手を焼いた。多くの校舎が老朽化し、何よりも教える先生が極度に不足した。1991年の和平後多くの日本のNGOがカンボジアでの教育再建に乗り出した。支援者の中には遺産を全額学校建設資金に充てた方もいる。日本人の多くが自国の戦後復興における教育の重要性を認識し、カンボジアを始め途上国の教育再建に支援を行っている。日本のNGOが手がけた学校建設は800校以上に上る。この中には外務省の民間援助資金も活用されているが、圧倒的多数は民間の方々からの浄財だ。CIESFの援助はこの延長上にあり、校舎ができれば次に必要なのは良質な教員の確保であり、質の向上である。

1970年の政変以前、カンボジアでは大学は9つの国立大学が存在した。仏の教育制度を踏襲し、高等教育はエリート養成機関の色彩が濃かったが、教育の質は高かった。ポル・ポット政権は既存のすべての国家制度を破壊し、革命後の後継者は農村出身の青少年が担う予定であった。同政権下では革命教育のみで通常の学校教育は 廃止された。一握りの指導者と無知な青年が一国を牛耳り、国民は恐怖と餓えとの戦いであった。

 現在、カンボジアには全国で68の大学が設立され、うち、専門学校を含む国立の大学は24校で、学生数は約4万人、私立大学が44校で学生数は約6万に上る。大学が開かれ、少数エリート養成機関ではなくなった。1991年の和平後のこの20年余で雨後の筍のごとく大学が設立されたが、教育の質の問題が問われている。新卒を雇用した日系企業からも理数科の基礎的な学力がないため応用力のない者が多いと聞く。就職先も待遇の良い外資系の企業や金融機関人気が高い。教育省も学生のレベルを上げるためにはその前の小・中学校での基礎教育が重要なことを認識し始めており、教員の質の向上が先決としている。従来の中学校卒でも教員養成学校で2年間の教育訓練を受ければ小学校の先生に、高卒でも同じく2年間の教育訓練を受ければ中学校の先生になれる制度を改め、この5年以内に教員資格はすべて大卒に引き上げる考えだ。最大の問題は教員の給与があまりにも低いことだ。1960年代の後半に知り合った現地の教員の給与は平均8人構成の家族養うに十分な給与であった。今、教員はアルバイトや補習講義に追われ、本来の授業に身が入らない状態だ。地方の教員は別収入の機会は殆どなく、学校近くの畑を借りて野菜等を作り、生活に足しにしている有様だ。これでは教える意欲も教師としての誇りも持ち得ない。

3.シハヌーク前国王の死
昨年10月に前国王が89歳で亡くなった。カンボジア独立の父、国父と言われて国民から深く敬愛されていた。葬儀は数カ月続き、王宮前は毎日地方から弔問に訪れる市民で溢れていた。カンボジアの近代史はこの人無くして語れない。前国王の足跡を辿ると波乱の生涯と卓越した才能を感じさせる。
 19歳の若さで国王の地位についた時、すでに第二次大戦が始まっていた。宗主国仏では対独宥和のヴィシー政権が成立し、日本軍はインドシナ進駐を始めていた。当時、シソワット・モニヴォン王の後継者として長男のシソワット・モニレット殿下が有力視されていたが、仏は改革派の同殿下に抗仏の気配を感じ取り、サイゴンのリセに留学し、気ままな生活をしていたノロドム・シハヌーク殿下に白羽に矢を立てた。シハヌーク殿下はモニヴォン王の孫でノロドム、シソワット両王家の直系の血を引いており、後継者として申し分ない上に、その一見プレボーイ的な性格が仏に刃向う人物とは到底思えなかったのであろう。1945年敗色の気配を感じた日本は仏印処理を仏軍の武装解除を行い、空かさず国王は独立宣言を行ったが欧米社会はこれを無視した。日本軍の敗戦とともに、アジアには独立を志向する民族主義が台頭した。カンボジアも例外ではなく、国内には武力による独立獲得派とシハヌーク国王主導する仏との交渉による独立獲得派に分かれたが、結局は国王の粘り強い外交努力が功を奏し1953年平和裡に完全独立が達成された。

シハヌーク前国王と日本との出会いは日本軍の進駐が始まった直後であり、文化的に馴染んでいた仏から日本軍の影響下に移行した自国の行く末に大いに不安を抱いたに違いない。その当時の事情に詳しい今川元大使によれば、サイゴンの大使館から派遣された戸田書記官(仏語官補)が王宮で国王に拝謁、流暢な仏語で挨拶されると忽ち国王の不安は吹き飛んだ様子であった。戸田書記官は音楽の素養が深く、国王は戸田氏を王宮に招きクラシック音楽を楽しんだと言われている。因みに戸田氏はその後外務省を早期に退職し、音楽大学の教授に転身された。

また、当時司令官としてカンボジアに赴任した真名木中将は、軍規を徹底し現地での摩擦は極めて少なかった。1954年シハヌーク国王はいち早く対日賠償請求権を放棄した。翌55年国賓として日本を公式訪問した国王に対し国会は全会一致で感謝決議を行った。その後、シハヌーク前国王は1990年6月のカンボジア和平のための東京会議に参加した際の記者会見で、日本とカンボジアとの関係に触れ、これまでの両国関係には一点の曇りもないと述べ、歴史的に日本との間で問題が生じたことがないことを明確にした。
シハヌーク前国王は生涯を通じて、非同盟・中立、国際政治における均衡政策を掲げ、領土の保全と国家の安全を図ってきた。1970年政変を招いた中国寄りの仏教・社会主義政策の破綻を見ると、真の中立政策の維持の困難さを感じる。最近カンボジア政府の中国寄りの外交政策を見るにつけ、カンボジアが短期的な利益を超え、本来の非同盟・中立・均衡外交に立ち戻ることが望まれる。(了) (2013年5月31日寄稿)



「新興国シリーズ」 第14弾 2013-5-9 
『「新興国」フィリピンについて』

第14弾 『「新興国」フィリピンについて』




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前駐フィリピン大使  桂  誠


はじめに
筆者はフィリピン(以下「比」とする)に、最初は1990年代中盤に次席公使として、次に2007年秋から2011年初夏まで大使として駐在したところ、「最初の駐在の頃と比べ比は変わったか」という質問を受けることが多い。今般、霞関会から比について何か書くようにとの御話があったので、何が変わらず、何が変わったかを念頭に置きながら、比の特色等を数点、以下に記すこととした。
なお筆者は、二回の比駐在、2004年から3年間のラオス駐在の経験等を踏まえ、「中国が急進する中での日本の東南アジア外交――フィリピン、ラオスの現場から」という拙著を、かまくら春秋社から五月下旬に出版することとなった。その大半は比に関する部分であり、下記の1.から4.までは、拙著の比関係部分から、かなりの部分を割愛し、残りを大幅に要約したものであるので、ご関心のある方は、拙著をご笑覧頂ければ幸甚である。

1. 米国との同盟関係。中国の海洋進出に対する警戒感。
米比間の相互防衛条約は引続き有効であるが、1991年に米軍基地存続協定が比の上院で否決されたため92年に米軍がス-ビック海軍基地から撤退したところ、1995年に中国が、比が領有権を主張する南沙諸島のミスチ-フ岩礁に「台風の際の中国漁船の避難所」を建設してしまった。更に、1996年には台湾海峡危機があり、比は、米国との同盟関係を再構築する必要に迫られたが、米軍基地を再び認めることは政治的に不可能であるので、米軍の「訪問」を受け入れることとし、「米軍の訪問に関する協定(Visiting Forces Agreement。略称VFA)」を1999年に締結した。このVFAに基づき、数百人の米軍が常に比を「訪問」し、合同演習を行う等の関係が開始された。2001年の9・11以降は、テロ対策のためもあって、このような協力関係が強化された。

さて、筆者の最初の在勤の頃は、比にとって、安全保障上の同盟国である米国、ODAのトップドナ-であり投資・貿易面でも米国と並んで最重要相手国である日本の両国が特に重要なパ-トナ-であったが、2001年から2010年までのアロヨ政権時代には、中国との関係が経済分野を中心に緊密になり、「比に決定的な影響を与えるのは中国、日本、米国とその間の関係」と言われるようになった(順番は、米国が最後になっていることからアルファベット順と思われる)。他方、南シナ海の領有権問題に対する中国の出方が強硬になってきたことから、中国に対する警戒心が強まり、特に2011年春に親米派のデル・ロサリオ氏が外相となってからは、米国との同盟関係を強化する方向に向かっている。日米と同様、「2+2」(外相・国務長官、国防相・国防長官の4閣僚の協議)が開始され、合同演習も強化された。
筆者は、ASEANの中で比較すると、中国に対する警戒心が強いのは、ベトナム、インドネシア、シンガポ-ルであると見ていたが、最近の比は、これら諸国を通り越し、最も強く中国を警戒するようになり、中国を牽制する上で米国のみならず日本とも協力するとの姿勢を明らかにするようになってきたと思われる。

2. 華僑系が多い経済界。中国の急速な経済成長の魅力。
 故コラソン・アキノ元大統領(アキノ現大統領の母)の実家であるコファンコ家を含め、比の富豪20家族をとれば、その大半が華僑系であるが、彼らは自らをフィリピン人と認識しており、中国政府や中国共産党に対し特別の親近感を有している訳ではない。日本の企業と深い関係を結んでいる華僑系富豪も居る。他方、近年の中国の急速な台頭に伴い、華僑系であることへの誇りを強めており、またビジネスの上でも、中国との関係を深めている。なおインドネシアの場合と異なり、華僑系でない国民から反感を持たれることはない。
 いずれにせよ、華僑系であるか否かを問わず、中国の経済面での急速な台頭は、海洋進出の問題を除くと、開発途上国である比にとっては憧憬の対象であり、また、中国との関係の強化を通じて経済上の利益を追求したいとの意識が強くなってきていると見られる。但し、中国からの「援助案件」については、問題が生じていることが大きく報じられることがある。アロヨ前大統領は種々の容疑で逮捕されているが、その中の一つが、中国の援助案件に関する収賄容疑である。

3.日本と比は戦略的パ-トナ-。
 第二次大戦によって、約二千万人であったフィリピン人のうち約百十万人が犠牲になったと言われており、戦後の対日感情は非常に悪かったが、現在では、BBCの国際世論調査によると、インドネシアと並び最も親日的な国となっている。種々の原因、背景があるが、日本政府が多大のODAを供与しインフラの整備等を行ってきたこと、日本企業の直接投資が大量の雇用を生み、製品を輸出するものにあっては多大の外貨を獲得して比の経済を支えてきたことが、対日感情の好転に大きく寄与したものと考えられる。
 2008年には日比経済連携協定(EPA)が発効し、直接投資のみならず、輸出、輸入についても日本は米国を抜き、第一位の相手国となった。

 更に日本は、比にとっての「アキレス腱」であるミンダナオ和平問題に対し、米国等に比しても圧倒的な貢献を行い、アキノ大統領から感謝されている。2011年8月に同大統領と反政府指導者が最初の直接会談を行う場所として成田近郊が選ばれたのも、それまでの日本の貢献が背景となっている。
 2009年6月のアロヨ大統領(当時)の訪日の際に、両国の関係を戦略的パ-トナ-シップとして育てていくことが合意されたところ、最近の海洋に関する問題もあって、かかる関係が益々強化されている。

4.アジアの中で最もアジア的でない国、英語を話す「ラテン・アジア」。
比は、スペインの植民地であった関係で、カトリックが9割近く、プロテスタントと合わせると9割を越すキリスト教国である。19世紀末からスペインに代わった米国の統治は、圧政的ではなく、英語教育をはじめとして恩恵的なものであったと認識されており、米国、米国的なるものに対する尊敬の念、親和度が高い。
日本人を含め、比以外のアジア諸国の国民は、自国への帰属意識を有するのは勿論、更に、アジアにも属していると意識していると思われるが、比人は、アジア、アジア的なるものに対する帰属意識が低い。筆者は、比人と親しくなると「あなたは、アジアに属していると思いますか」と質問していたところ、「自分は、比の国民である他には、キリスト教世界に属していると感じており、アジアに属すると意識したことはない」という趣旨の反応が返ってくることが多かった。筆者は、比は地理的にはアジアにあるが、宗教的・文化的にはラテンの世界に属するという意味で、比は「ラテン・アジア」であると感じてきた。

その関係からか、比人は性格が明るく、過去の恨みを深く持ち続けるよりも現在を楽しむといったところがあり、更に、米国による統治の経験から殆どの国民が英語に堪能であることもあって、比は日本企業が投資をする相手国として適していると考えられる。比に進出した日系の工場の責任者の殆どが、このような比人とのコミュニケ-ションの取り易さが進出を決める際の決定的要素となったと語っていた。

5.好調な経済状況
最近、比はベトナム、インドネシアとともに「VIP」と呼ばれ、好調な経済状況が注目されるようになった。現に2012年の実質GDP成長率は、関係国際機関や比政府自身の予想を上回り、前年比6.6%とASEAN主要国の中で最高の伸びを記録した(タイ:6.4%、インドネシア:6.2%、マレ-シア:5.6%、ベトナム:5.0%)。その背景として、需要面では、GDPの約7割を占める個人消費が、OFW(Overseas Filipino Workers。海外出稼ぎ労働者)からの送金に支えられて引続き堅調であったことの他、同年に入って輸出が回復し、また、政府支出も増加したことが挙げられる。供給面では、GDPの約6割を占めるサ-ビス産業が7.4%と高成長を維持したことが大きい。インフレ率については、本年3月の消費者物価指数が、前年同月比3.2%となり、中央銀行が設定するインフレ目標圏(3%から5%)の下限付近で推移している。

かかる状況を受けて、本年3月、Fitchは、比の外貨建て債務格付けをBB+からBBB-に引き上げた。比が、このような投資適格級の格付けを得るのは初めての由である。
 さて、筆者の記憶が正しければ、次席公使をしていた十数年前は、比の人口は約6400万人であり、そのうち約400万人がOFWとして海外に出ていた。十六分の一であり、大きな割合であると感じていた。ところが2007年に10年ぶりに比に赴任する際に調べてみると、その割合は更に高まり、OFWは、約9千万人の人口の一割を越し、OFWの海外からの送金額も、GDPの一割近くに相当するとのことであった。それが国の発展の姿として良いことであるか否かは別にして、上記のとおり、OFWからの送金が国内の個人消費を支え続けている次第である。
他方、最近は、上記のとおり高成長をとげるサ-ビス産業の中で、比国内でBPO(business process outsourcing)産業が発達し、インドも上回った由である。 英語が堪能で優秀な国民が、国外に出なくても国内で良い仕事に就ける機会が増えたという意味で、比にとって好ましい進展と考えられる。

6.政治家は「世襲」が多く、政策の相違は殆どなし。
特定の地元に独占的な政治的基盤を有する名家が多く、下院議員(大部分が小選挙区)、州知事、市長は3年の任期を3回務めると4選が禁止されるので、親族の間で「たらい回し」をしながら一族でこれらポストを独占し続ける例が多い。

これに対し、上院議員(24議席のみ)は全国区であり、全国的に人気のある俳優、テレビのコメンテ-タ等が上院議員、更には大統領となったりする例があるが、多くの上院議員も親族が政治家である。更に大統領についても、アキノ現大統領の父は、マルコス独裁政権下で暗殺されたニノイ・アキノ氏であり、母はコラソン・アキノ元大統領である。母が2009年夏に逝去してアキノ家に対する国民の思慕の情が爆発することがなければ、翌年の大統領選に立候補し当選することは、あり得なかった。アロヨ前大統領の父は、1960年代前半に大統領であった故マカパガル氏である。

2010年の大統領選では、アロヨ大統領の「腐敗」を最も明確に批判したアキノ候補が、上記のアキノ家に対する国民の思慕の情を基盤として勝利したところ、各候補の間で政策の相違は殆ど感じられなかった。本年5月には中間選挙があり、24名の上院議員の半数改選、二百数十名の下院議員全員の改選、すべての州知事、市長の改選等が行われるが、各候補者の所属政党は、政治状況によって変化する。これは、政党による政策の相違が殆どないからであり、選挙は、人気投票の要素が強い。これは、比政治において変わらない点と思われる。

7.不正等に関する改善。ミンダナオ和平。
 アキノ現大統領は、就任後3年近くなるのに高支持率を維持している。最大の世論調査会社の3月下旬の調査によれば、支持率は74%、不支持率は15%であった。その理由は、経済が好調であることもあるが、3年前の大統領選の際に強く訴えたとおり、アロヨ前大統領とその周辺が行ったとされる不正を訴追する努力を続けていること、入札手続きの見直し等を行ったこと、現大統領が、腐敗とは遠い存在であるとの信頼を国民から得続けていることにあると考えられる。さて、開発途上国の「腐敗」には、最高権力者周辺の腐敗の他に、税関、入管、警察など末端で権限を有する行政官の「日常的」腐敗があり得る。最高権力者周辺の腐敗は、政治的意思が強固であれば、権力者周辺の自制によって減少させていくことが可能であるが、末端の行政官の腐敗は、開発途上国の場合、公務員の給与が低く家計を支えていくことができない状況では、一朝一夕には改善しない。それでも、アキノ政権になってから、末端の腐敗が次第に改善されてきたという話を聞く。

治安の問題については、比の経済発展が他のASEAN諸国に比して遅れた原因の一つと言われてきたところ、その中で特別の問題は、ミンダナオ和平問題である。比全体では人口の5%しか占めないイスラム教徒が、ミンダナオ島では四分の一を占め、その中の一部の急進派が一定の地域において大幅な自治を要求して武器を捨てない状況が続いてきたところ、アキノ政権になって、日本の仲介努力もあり、和平に向かって交渉の進展が見られるようになったことが注目される。

8.おわりに
日本と比は、ともに米国の同盟国であり、自由、民主主義、人権尊重等の価値観を共有し、上記3.のとおり経済的にも緊密である上、比はASEAN諸国の中で地理的に日本に最も近く、日本に滞在する比人は、外国人登録者の中で、中国(台湾を含む)、韓国・朝鮮、ブラジルの国民に次いで、4番目に多いという関係も有する。
以前は、他のASEAN主要国との関係で比の停滞が目立ったが、上記5.のとおり、ようやく経済状況が好転してきた次第であり、日本からの投資が更に増大する等の動きが進むことにより、比の発展が加速化するとともに、昨今の地域情勢に伴い、戦略的パ-トナ-としての日比関係が更に深化することを期待している次第である。 (2013年4月29日に記)



「新興国シリーズ」 第13弾 2013-4-4
『「新興国」バングラデシュについて』

第13弾 『「新興国」バングラデシュについて』



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元駐バングラデシュ大使 堀口松城



1.バングラデシュとバングラデシュ人について
バングラデシュ人はその9割弱がモスレムであり、人種的にはモンゴロイド、性格は人懐っこく謙虚で、日本人には大変親しみやすい人々である。インド人やパキスタン人とは異なる謙虚な国民性の理由の一つは、ベンガルが紀元前4世紀から12世紀まで仏教を信じていた王朝の支配下にあり、仏教の影響が今でも一部残っているためと思われる。

 バングラデシュは大変親日的な国である。それはバングラデシュが1971年パキスタンからの独立戦争の時から今日に至るまで、日本の政府と民間がともに親身の援助を続けてきたからであり、また、長い間、日本がアジアで唯一、欧米に伍す国であったことが同じアジア人として大きな誇りになっていたためであるという。この親日性は、バングラデシュのどこへ行っても誰と会っても見ることができる。
 バングラデシュの国民は、日本人同様のモンスーン型農業の下で培われた勤勉性をもち、ビジネスマンは国際性と企業家精神を持ち、エリート層は本来優秀な資質を持っている。ノーベル賞受賞者のラビンドラナト・タゴールも、アマルティア・センもムハマッド・ユヌスもみなベンガル人である。民族として優秀であるだけでなく、人種、宗教が同質で言語も一つのこの国は、韓国やベトナムのように、民族国家として急速に発展しうる十分の条件を備えている。

しかるに独立以来この国は、日本を含む国際社会から優先的な援助を受けてきたにもかかわらず、40年たっても依然最貧国(LLDC)にとどまったままである。この発展を阻んでいるのは第一に、歴代政府のガバナンスの問題、すなわち、政治家・政府関係者の汚職、不安定な法と秩序などの問題であり、さらに同問題の根底にある二大政党による不毛な対立的な政治のためである。第二に、政府や国民の間に、国全体ないし国民全体の発展を実現しようとの強い決意ないしコミットメントが十分でないためであり、さらにその理由として、国家ないし国民としてのアイデンティティが確立していないことが挙げられる(注)。

2.脚光を浴びるバングラデシュ
(1)「ネクスト・イレブン」に挙げられたバングラデシュ
2007年、米大手投資銀行ゴールドマン・サックスが経済予測レポートの中で、BRICsに次ぎ急成長が期待されるとして11の国を挙げ、韓国、ベトナムなどとともにバングラデシュを挙げたことから、にわかに世界の注目を浴びることとなった。現にここ数年の実質GDP成長率を見ると、2008年5.7%、09年6.1%、10年6.7%と目覚ましいものがあり、11年度についても世銀、アジア開発銀行(ADB)は6.4%から7.4%と予測し、堅調な成長が予測されている。

 多くの日本人にとってこれまでのバングラデシュは「自然災害の多い貧しい国」とのイメージしかなかったが、2006年に前述のように、ムハマッド・ユヌスがマイクロ・クレジットの業績でノーベル平和賞を受賞し、さらに、2008年に「ユニクロ」がバングラデシュで委託事業を始めたことをきっかけに、にわかに注目されることとなった。「ユニクロ」は「チャイナ・プラス・ワン」戦略により、中国の生産を減らして徐々にバングラデシュに移管したが、他の日系アパレルメーカーもそれに続くことになった。
その結果、2012年末時点でバングラデシュにおける日系企業進出数は130社余に急増し、日本企業による投資額は、2007/08年度は24.8百万ドル、2008/09年度は5.8百万ドル、2009/10年度は22.1百万ドルに達した。日系企業の投資先はアパレルの生産基地としての投資が多いが、その他にはソフトウェアー開発事業、ネット接続サービスへの投資などが見られる。

(2)投資先としてのバングラデシュの魅力
バングラデシュの投資先のメリットの第1は、安価で豊富な人材にある。最新の統計でみると、人口は1億6千万人、一人当たりGDPでは、この国とよく比較されるベトナムは1374米ドル、カンボジアは912米ドル、ミャンマーは702米ドルに対してバングラデシュは755米ドルであり、ミャンマーを除けば賃金の安さでみた優位は明らかである。

IT産業について、携帯電話の普及は8000万台と人口の半数を超えており、今後予想されるインターネットの普及もあいまちIT市場の今後の発展が期待される。現に、民間レベルではインドから帰った留学生など数十人のIT技術者を集めて、日本の病院の運営、患者情報に係るデータベース化のための事業などを進めている企業もあり、IT能力に秀でたベンガル人との協力は積極的に探求される余地がある。
なお、中国と並んで新興国の代表とされるインドに隣接するバングラデシュの地理的近接性に着目し、インド市場におけるインフラ未整備、繁文縟礼、理屈好きな国民性などのやりにくさから、むしろ隣のバングラデシュに輸出基地的な生産拠点を作って巨大なインド市場に輸出するといったモデルが考えられる。今後、南アジア地域協力連合(SAARC)の「SAARC自由貿易協定」が軌道に乗れば、バングラデシュからインドのみならずパキスタン、スリランカ、ネパール、ブータン、アフガニスタンへの輸出も可能となる。さらに情勢が落ち着けばアフガニスタンから中央アジアへの進出の可能性も考えられる。

3.バングラデシュの投資を阻むもの
(1)工業用地の不足とインフラの未整備
 ガンジス、ブラフマプトラ、メグナの3つの大河が運んだ堆積物で形成されたバングラデシュは国土全体が低く、雨期になって大雨になり、また上流からも大量の水が流れてくると国土は広範囲にわたって冠水する。このような国に工場を建てようと思えば、大きな洪水があっても工場施設が冠水しないで済み、外部とつながる道路も使える用地を確保する必要があるが、この確保が必ずしも容易ではないという問題がある。 
バングラデシュのインフラ整備はなかなか進まないが、その理由にはいくつかある。1つは地理的特徴にあり、先に述べたような大河の水勢は、乾季の比較的水量が少ない時でも近くで見ると滔々と流れており治水工事は大変な仕事である。また、せっかく作った道路も、雨期のたびに道路の表面が削られ雨期が終わると舗装しなければならず、既存道路の維持だけでも相当のコストを要し、新たな道路網の建設は容易ではない。

護岸のためコンクリートブロックを作ろうにも、そもそもバングラデシュには石は地質的に全くなく、全量インドから輸入せねばならず、また、砂も北のシレットから運ばなければならないので、インフラ整備はいくら資金があっても追いつかない大きな問題である。
さらに、産業活動を支える電力の供給も円滑ではない。バングラデシュのほとんど唯一のエネルギー資源である天然ガスは、現在、日産約13億立方フィートで、その約50%が発電、約40%が肥料原料に、残り約10%が個人用、商業用に消費されている。このうち個人消費はこのところ年率10%で上昇しているが、肥料工場への供給同様、必要量が確保されていない。これは歴代政府が生産拡大の投資を行なってこなかったためであるが、この国の天然ガス埋蔵量が多くはないとの見通しと合わせ、今後の供給に不安を投げかけている。

(2)インフラ整備の遅れの理由である財政難の背景には経常収支の赤字がある。バングラデシュの経常収支は、貿易収支の赤字を出稼ぎ労働者送金と海外からの援助で充当しているが、輸出の約8割を占める縫製品、ニット製品の多くが「委託加工」であり、原料、中間財、加工機械、デザインなどを輸入に依存し、その結果、「純利益」は見かけほど大きくない。輸出拡大のためには産業構造の多角化が求められるが、一方、税収は国家収入の10%強にすぎず、税制も徴税制度も自助努力に立ったさらなる改善努力が求められている。

(3)川の国バングラデシュにとって、水は多すぎても少なすぎても困る大きな問題である。雨期は洪水対策が問題になり、乾季になると飲料水、生活用水とともに農業用水、工業用水の確保が問題になる。とくに人口が集中する都市では水不足が顕著となり、進出する企業にとって水の確保は大きな問題となっている。
とくにガンジス川の水配分問題をめぐって、東パキスタン時代から歴代のインド政府と大きな問題となっているが、インド自身、水不足が国の大きな問題となっているだけに解決は容易でない。インドはガンジス川のバングラデシュとの国境に近いファラッカにダムを作って水を取り込んでいる結果、乾季になるとバングラデシュ側の河川の水位が下がり、水路交通が支障を受けるだけでなく、ベンガル湾から海水が逆流して農業が塩害の被害を受け、また、工業用水としての利用が困難となる。さらに灌漑用水および飲料水として地下水を大量に汲み上げたことから、飲料水としての地下水のくみ上げとともに、地下に眠っていたヒ素を汲み上げる結果となり、皮膚ガンなどの問題が国内各地に発生し大きな問題となっている。最近は日本の援助プロジェクトとしても水処理施設が取り上げられているが、需要の増大に対応できていない。

(4)バングラデシュ固有のリスクとして、二大政党による長い対立的な政治から、政権が代わると、前政権が外国企業と取り決めた契約をキャンセルすることがある。大使館が介入し、長い折衝の末、最終的に契約を元に戻しえた場合でも、その間の膨大な付随経費を外国企業側が負担を余儀なくされるなど影響は少なくない。その被害を避けるためには、同一政権の任期5年の間に終了するような規模のプロジェクトを作成し、同期間内に終了しうるタイミングで実施するなどの配慮が必要となってくる。

もう一つのバングラデシュ固有の大きな投資リスクとして「ハルタル」の問題がある。ハルタルの起源は、インド独立戦争においてガンジーが始めた非協力運動にあり、1971年の独立戦争や1990年のエルシャド政権を倒した際はそのゼネスト的効果によって大きな役割を果たしたが、1991年選挙による民主主義政治が始まったあとも、野党が与党の政策等に反対する手段として頻繁に用いられている。ハルタルは政策目的を達成するには非効率的であるが、企業や個人の経済活動や人々の日常生活に大きな影響を与えている。また、将来のバングラデシュを支えるべき若者の教育への影響も深刻なものがある。ハルタルのたびに公立学校は休校となり、多くの若者が十分な教育が受けられないだけでなく、必要な単位を4年間でとれずに卒業時期が遅れ人生設計を狂わされている。ハルタルは2011年だけで計10回発生し、国民の経済社会活動に年間GDPの3~4%といわれる甚大な損害を与えている。このような状況に対し、ハルタルにおける言論、集会の自由は無制限の権利ではなく、他人の財産権、行動権、労働権、教育を受ける権利が尊重さるべきであり、法律による規制を設けるべきであるとの点は、国民のみならず援助国や国際機関の間でもかねてより指摘されているが、改善のきざしはあまりない。

4.バングラデシュの可能性
以上にみたように投資先としてのバングラデシュには解決さるべき多くの問題がある。しかし注目すべきは、これらの多くの問題にもかかわらず、バングラデシュ経済は近年、年率6%前後の成長を続けるなど目覚ましい発展を遂げてきた事実である。

その主な担い手である縫製産業について、2004年末に多角的繊維協定(MFA)が失効し、これまでMFAによって一定枠の輸出が保護されていたバングラデシュの縫製品、ニット製品が、国際競争力のある中国などの製品とハンディなしの競争にさらされ、大幅な輸出減となることが危惧された。ところが2005年に入って縫製品輸出は減少したもののニット製品が健闘し、繊維品全体としては12.9%も増加したことがあった。これは危機意識を持った繊維業界の経営者、労働者による懸命の努力の結果であった。また、出稼ぎ労働者の海外送金も、2005年の42億ドルから、2008年のリーマン・ショックによって大幅な減額が危惧されたものの引き続き増加を続け、2010年は116.5億ドルに増加したが、これも海外で働く労働者一人一人の必死の努力の結果であった。

これらの実績は、政府のガバナンスが少し改善すればバングラデシュが最貧国から中進国入りするのは時間の問題であることを確信させるものであり、投資候補地としてのバングラデシュのもつポテンシャルの高さを雄弁に物語るものといえよう。
日本など国際社会は、バングラデシュの政府と国民が公共利益を追求する国民合意の形成、規制や制度における恣意性の排除、健全な市民社会の育成などを実現できるよう、政府及び民間の協力をつうじて協力することが期待されている。

(注:バングラデシュ人がベンガル人とモスレムとしてのアイデンティティに葛藤している状況とその背景については、拙著『バングラデシュの歴史』の中で詳しく述べたので、関心のある方は参照願いたい。) 2013年3月3日寄稿




「新興国シリーズ」 第12弾 2013-3-4
『タイを学びなおす』

第12弾 『タイを学びなおす』


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前駐タイ大使 小島誠二




1.はじめに
この原稿を書いている時点で、タイから帰国して4ヶ月が過ぎた。当然のことながら、タイに行って初めて分かったことは多い。タイにいるときは分からなかったが、日本に帰って勉強しなおして改めて納得したこともある。しかし、依然としてよく分からないことも多い。タイに限らないが、制度や規範が実際にどう運用され、適用されているかは外国人の目には見えにくい。タイの場合は、その傾向が一段と強いようにも感じる。英語による情報入手が限られているせいであろうか。タイが自らの手で近代的な制度を取り入れたせいであろうか。タイへの理解をさらに深めることはこれからの課題として、本稿では、2年間のタイ在勤を回顧し、政治・経済・外交における最近の動きを眺めて、これからの方向を決めるものを抽出し、最後にこれまで築かれてきた日タイ関係を維持し、さらに発展させる方策を論じてみた。

2.回顧
筆者は、2010年10月から2012年10月までの丸2年間タイに在勤した。ほぼ中間点で、アピシット民主党連立内閣からインラック・タイ貢献党連立内閣に政権が移行し、また、2011年には日タイ両国が未曾有の自然災害を経験し、相互に支援し合うこととなった。

筆者が着任したのは、日本人カメラマン村本博之氏を含む90名以上の死者を出したバンコク騒乱から数ヶ月が経過した後であり、アピシット政権がこの事件の刑事捜査と真相究明・和解の努力を続け、多くの犠牲者を出した反独裁民主主義統一戦線(UDD)の側がしばしば追悼集会を開く状況が続いていた。アピシット政権の努力は、インラック政権によっても継続されているが、同政権下では、アピシット前首相とステープ前副首相に対して刑事責任を問うことができるかどうかが争点となっている。

筆者は、着任直後、当時のカシット外相自身が各国大使のために企画したタイ・マレーシア国境県の視察旅行に参加し、同地域における平穏を取り戻すための政府による様々な取り組みを視察する機会があった。両政権とも、優先課題として、分離独立主義過激派とみられるグループによるテロ活動の沈静化に努めているが、状況は必ずしも改善していない。

インラック政権は、成立早々1942年以来最大の大洪水の被害拡大阻止と被災者救済にまず取り組まなければならなかった。その後、短期の洪水対策を実施し、中長期の洪水対策の策定に取り組んでいる。また、選挙公約である最低賃金引き上げ、コメの担保融資制度等を実施していったが、憲法改正案及び恩赦法案については、2006年のクーデタ後成立した暫定政権のとった措置を無効化しようとするものとか、タクシン元首相の早期帰国を狙ったものとして、国内に反対論が強いことに配慮し、議会審議を棚上げすることにした。このこともあって、この時期は政治的には比較的に安定した時期であり、経済面でも、大洪水の結果2011年のGDPはほとんど成長しなかったものの、タイ中銀によれば2012年には5.9%まで回復する見通しである。


外交面では、一時期領土問題を巡ってカンボジアとの関係が悪化したが、総じて近隣国との関係は良好であり、インラック首相は、就任後短期間でアジア諸国、中東諸国及び欧州諸国を歴訪している。インラック政権の外交も、タイの経済利益の伸長を主眼とするもののようである。

日本との関係に触れれば、2012年6月タイを訪問された皇太子殿下が国王・王妃両陛下より特別な接遇を受けられたことに現れているように、皇室と王室との御関係はますます緊密であり、また、インラック首相の2度にわたる日本への公式訪問は、政府レベルの関係の深さを示すものであった。さらに、両国が見舞われた自然災害に当たって、お互いが支援することによって、両国の絆は一層深まり、幅広い国民層に広がっていった。2013年1月になって、安倍総理がタイを公式訪問され、11年ぶりに日本の総理大臣による二国間訪問が実現した。

3.紆余曲折を経ながら辿ってきた民主化への道
タイでは、選挙によらない手段(クーデタ及び憲法裁判所の判決)によって、しばしば政権の交代が行われた。また、国民各層、学生等による街頭行動もタイ政治において大きな役割を果たしてきた。

2001年以降の政治過程を見ると、1997年憲法(注)に基づいて行われた2001年の総選挙で、この憲法が志向した「強い首相」としてタクシン首相が誕生した。その後、2006年9月のクーデタの結果、タクシン政権が瓦解した。憲法裁判所の動きをみると、クーデタに先立つ2006年5月タイ愛国党が大勝した総選挙を無効とし、2007年5月に選挙違反を理由に同党の解散を命じ、2008年にはサマック首相の失職、タイ愛国党の後継党である国民の力党等与党3党の解散及びソムチャイ首相を含む国民の力党幹部の政治活動禁止を命じる判決を次々に出した。2008年12月国民の力党の一部勢力が民主党に参加し、アピシット民主党連立政権が誕生するに至った。

(注)それまでの中選挙区制に代え小選挙区・中選挙区比例代表並立制を採用した。選挙制度は、その後中選挙区比例代表並立制に戻され、再度現在の小選挙区・比例代表並立制が採用された。

街頭行動を見てみると、2008年9月のサマック首相の失職判決に先立つ同年5月、民主化市民連合(PAD)がサマック政権退陣等の主張を掲げて街頭活動を再開し、また、2010年3月から5月には、アピシット政権に対して早期解散総選挙を求めるUDDの大規模デモが発生し、最終的には軍・治安部隊による鎮圧行動により終焉を迎えた。なお、2010年のGDP成長率は、7.8%となっている。 2009年の成長率がマイナス2.9%であり、2010年の高い成長率はその反動という要因もあるが、騒乱がマクロ経済に大きな影響を与えたようには見られない。

2011年7月の総選挙後で、タイ貢献党は、下院議席の過半数を獲得し、連立参加政党の議席を含めると6割の下院議席を背景として、元官僚、元軍人、元警察官僚、民間、経済人等を主要閣僚におく実務型内閣を発足させた。インラック政権は、インラック首相の高い人気に支えられ、王室に敬意を示し、軍に十分配慮し、国内対立を巻き起こすような問題には早急な結論を求めないという慎重な姿勢をとってきている。インラック政権の安定性を決定する要因は、タクシン元首相の帰国時期・手段、2007年憲法の改正への取組み、選挙公約として掲げた経済政策の効果、汚職問題の回避、憲法裁判所の動き等であると考えられる。

このようにタイでは2001年以降、タクシン元首相を支持する国民とこれに反対する国民の間に大きな亀裂が生じている。一般的には、タクシン元首相に反対する勢力には、都市富裕層及び中間層に属する者が多く、タクシン元首相支持者には都市部及び農村部の貧困層に属する者が多いと言われている。実際、タイ貢献党は2011年の選挙で、東北タイ及び北部タイで多数の議席を獲得している。このような亀裂を解消するため、大きな所得格差、資産格差、地域格差等を緩和し、解消する努力が求められている。

4.農業経済から高付加価値産業への道
タイのGDPは、日本の約6%(約10.5兆バーツ(約3,456億ドル))であり、したがって一人当たりのGDPは日本の約12%となる。60年代以降、産業構造は大きな変化を遂げており、60年には付加価値ベース(名目)で、約3分の1を占めていた農林水産業は、2010年には11%弱を占めるにすぎなくなっており、製造業と逆転した位置づけとなっている。

このような産業構造の変化にも関わらず、タイでは農林水産業の就業者数の割合は依然約40%から50%程度を占めている。しかしながら、筆者がたまたま目にした資料でも、すでに90年代中頃には、全国及び東北タイの農業世帯の非農業所得は、全所得のそれぞれ約60%及び約80%となっており、そのうち賃金・送金は全所得のそれぞれ約40%及び約60%を占めるに至っている。

タイ経済は、87年から95年まで8%を上回る経済成長を続けたが、その後は5%前後にとどまっている。プラサーン中銀総裁の報告によれば、2000年から2009年までのタイの労働生産性の伸びは、中国の8.8%に対し、1.9%にとどまっている。

2012年4月バンコク都を含む周辺の7県において、最低賃金が一日当たり300バーツとされた。これは、それまでの水準に対して約40%の上昇に当たる。残る70県でも、本年の
1月1日より300バーツに引き上げられた。後者の引き上げが特に中小企業の競争力に与える影響に注目が集まっている。

少子高齢化も、急速に進展しており、合計特殊出生率は、2005/06年の時点で全国及びバンコクでそれぞれ1.47及び0.88となっている。65歳以上の人口の割合は、2001年の7%から2023年には14%に達すると予想されている。

タイは、高・中所得国のカテゴリーに属するが、上述の通り、すでに経済成長と労働生産性の伸びの鈍化がみられる。今後少子高齢化に伴う負担も急速に増大すると予想される。これらの問題に対処するため、歴代政権はすでに様々な政策をとってきたが、経済政策にとどまらない総合的な対策が求められる。その中には、産業の高付加価値化、中小企業の競争力強化、国営企業のあり方の見直し、公務員制度改革、インフラの整備(高速鉄道、都市鉄道の整備等)、R&D投資の拡大、高等教育を含む人材育成等が含まれよう。

産業高付加価値化政策の一環として、タイ投資委員会(BOI)は、外国投資優遇策を抜本的に見直すことを考えているようである。報道によれば、その内容は、地域別に与えられていた優遇策を産業別に切り替え、自動車、電機、社会インフラ、医療、環境、代替エネルギー等を含む10グループを対象に優遇措置が取られ、地域別優遇策の地域振興策の側面は産業クラスター形成促進策として残すというものである。2015年、タイ経済は、2.1兆ドルのGDPを生産し、6億人の人口要するASEAN経済共同体として、統合されるわけであるから、産業配置を変化させていくことは必要である。その際、日本からすでにタイに進出している企業への影響にも目を向けて欲しい。

人材育成もきわめて重要である。タイの失業率は1%以下で、完全雇用に近いと言われるが、上述のとおり、依然農村部に居住する人口の割合が40%以上を占めている。おそらく、これらの多くの者がバンコク等に出稼ぎに来ているものと思われる。タイ人は家族を大切にし、出生地に戻りたいという意識が強いようであるが、これらの農村居住者とされる者を熟練労働者として育てることができれば、産業の高度化が実現するのではなかろうか。

5.経済利益追求を重視した外交
タイの外交は、実利(プラグマティズム)の原則に基づいた現実外交と言われてきた。風にしなう竹になぞらえ、「バンブー外交」と呼ばれることもある。(もっとも、1988年12月チャートチャイ首相は、風にしなう外交の時代は終わったと述べている。)最近のタイ外交については、「マイ・カオ・カング・クライ」(誰にも近づかない)とか、ユーン・トロング・クラーング(真ん中に立つ)とかが原則であると言われる。説明の違いは、タイ外交の色々な側面に着目した結果であるような気がする。

タイ外交は、大まかに言えば、安全保障関係を中心とする米国との関係、貿易・投資を中心とする日本・中国との関係及び近隣諸国との関係(ASEAN等の地域協力を含む。)という3つの要素で構成されているように見られる。もちろん、力点の置き方や意義付けは、政権の性格、国内政治・経済、タイを取り巻く国際環境により変化してきた。

例えば、米国との関係は1962年のタナット・ラスク共同声明以来安全保障面での協力が重要であったが、最近ではテロとの戦いのような非伝統的安全保障や災害救助の分野がより重要になっているように思われる。2011年11月には、スカムポン国防大臣とパネッタ国防長官の間で、21世紀安全保障パートナーシップに関する米タイ共同声明が採択されている。米国は、タイにとって中・日に続く第3番目の輸出相手国であり、経済面での結び付きも強い。

中国との関係では、チャートチャイ首相の時代以降、それまでの対ベトナム配慮からの緩やかな軍事的な結びつきから、経済機会を求めることに重点が置かれている。タイには、約1000万人の華人系の国民がいる。かつては中国語の学習は禁じられていたが、最近で中国語学習者は多く、華人系国民の中国への関心は高い。日本との関係では、かつて協力関係の中心であった経済・技術協力から貿易・投資がより重要な地位を占めるようになっている。

タイが90年代初めAFTAやARFの設立に当たりイニシアティヴを発揮したことはよく知られているが、昨年のASEAN関連会議でASEAN+3の連結性パートナーシップ首脳声明の採択についてイニシアティヴをとったことは、今後のタイの対ASEAN政策を考えるに当たり興味深い。

タイにとって、近隣諸国との関係はきわめて重要である。このことは、インラック首相が就任後最初に外遊を行ったのがこれら諸国であったことに現れている。2015年末のAEC設立を控え、ASEAN諸国、特に近隣諸国との連結性を高めることがタイの利益になることは言うまでもない。タイとしては、日本を含む域外国の参加も得て、ソフト及びハードのインフラ整備の努力を行う考えである。

近隣諸国との間に懸案はあるが、総じて良好な関係にあると言える。ただし、カンボジアとの間のプレア・ビヒア(タイ国内では「カオ・プラビハーン」と呼称される。)寺院を取り巻く地域の帰属をめぐる問題は、1962年の国際司法裁判所(ICJ)判決の解釈問題として改めてICJに提訴されており、今年後半にも見込まれる解釈判決がどのようなものになるかを注目する必要がある。

6.タイの持つ潜在能力を引き出す日タイ協力
筆者の在勤中、ミャンマーの民主化が急進展し、投資先としての同国への関心が高まった。同様に、インド、インドネシア、ベトナム等が投資先として、また、輸出市場として引き続き注目された。その結果、日本の投資先としてタイの有する圧倒的な地位と将来の潜在能力が等閑視されがちであり、この意味では、タイは「新興国」とはみなされていないようである。

日タイ関係を考えるに当たって、タイには約7000社の日系企業があり、これらの企業による巨大な産業集積が存在すること、日本がタイにとって最大の貿易国であり、最大の投資国であること(2012年の直接投資申請額の58%を占める。)、本在留邦人も約5万人(そのうちバンコクに約3.6万人)に至っていること等に目を向ける必要がある。日本が今後このような地位を維持し、高めていくためには、日本側官民の相当の努力が必要である。

タイについては、近年、政治的な安定性について、懸念を持たれることがあったが、インラック政権は長期政権を予感させるものであり、また、ASEANにおけるタイの位置づけから言っても、二国間問題は当然として、国際問題、地域の問題、地球規模の課題等について首脳・外相レベル及び事務レベルで頻繁に政治対話を行うに値する国である。

タイの国内問題、具体的にはタイにおける民主化の定着、ガバナンスの向上、マレーシア国境深南部問題の解決等について、日本ができることには限度があるが、引き続き、日本の憲法学者の派遣、腐敗防止政策についての対話、日本における研修等を通じた貢献はできるであろう。

インラック政権は、今後ASEANを含む地域協力においてより重要な役割を果たそうとしているように思われる。昨年3月のインラック首相訪日時に発出された日本との間の共同声明においても、日タイ両国は両国の戦略的パートナーシップを地域の平和と繁栄にも貢献するレベルに高めるとされている。具体的には、ASEANの枠組み内での日タイの協力を一層発展させることは重要である。タイは、ASEANの連結性、特にメコン地域の東西経済回廊及び南部経済回廊の建設計画を熱心に推進している。日本は、日メコン協力を進めるに当たり、周辺国がタイに対して有している複雑な感情に配慮しつつ、タイのドナーとしての役割に期待することができる。ミャンマーのダウェイ開発プロジェクトは、日本にとっても、関心を有すべきプロジェクトである。

タイ国民の間には、環境、人権、開発、不拡散等の地球規模の課題への取組みの重要性に対する意識が高まっており、タイは、国際社会において日本がイニシアティヴをとるに当たりアジアにおける有力なパートナーとなり得る。日タイには、開発や環境の面で協力の歴史があり、人権についても日本と類似のアプローチをとってきており、このような共通の経験・アプローチをミャンマー等において生かしていくことができる。

タイは、産業の高度化・高付加価値化と社会保障制度の拡充という二つの課題に同時に取り組む「モデル国」であり、タイ産業が一層高度化するためには、そのための政策や制度の導入、インフラの拡充、科学技術投資の拡大、人材育成等が必要である。日系企業の側にも、タイ産業の高度化に協力していくことが求められている。また、医療、年金、介護等の政策・制度の導入・拡充が急務となっている。

インフラの拡充については、大洪水後、タイ政府はインフラ整備に2.27兆バーツを充てていくと発表している。特に、高速鉄道、都市鉄道、洪水対策、地球観測衛星といったインフラ、医療機器等が日本にとって有望である。また、日タイ防災協力は、日本によるインフラ整備への貢献にもつながる可能性がある。インフラ整備に要する資金についてタイ政府は、借入れを含む自己資金で賄うとしているが、日本のODAには、技術移転を含む様々な効果が期待できることを説明していくことも大切である。また、日本としては、インラック首相が提案したWGにおける情報交換、関係省・機関への直接的な働きかけ(日本技術の優位性への理解、競争制限の回避等)といった努力をする必要がある。日本企業の側でも、情報収集、当地の仕様に合わせた提案、適切な当地企業との連携等の努力を期待したい。

産業構造の高度化については、日本としては、関係各省、JICA、JETRO、JST、民間企業等を通じて、日本の経験の紹介、幅広い政策助言(マクロ政策、金融財政政策、知財保護政策、腐敗防止政策等を含む。)、技術協力等を行うことができる。日タイ官民の間で、タイと周辺諸国との間の産業配置のマスター・プランを描いてみることもできよう。賃金の急速な上昇もあり、日系企業の側でも、工場の近代化、アジア全体における工場立地等について検討していく必要がある。

医療、年金、介護等の社会保障制度の導入・拡充に当たり、日本は政策的な助言を行うとともに、モデル・プロジェクトの実施を通じて経験を共有することができる。コミュニティにおける高齢者向け保健医療・福祉サービスの統合型モデル形成プロジェクト(CTOPプロジェクト)に続き、本年1月からは、要援護高齢者等のための介護サービス開発プロジェクトが開始されたところである。このようなプロジェクトで得られた成果は、他のASEAN諸国や他の途上国でも生かすことができよう。

タイにおいては、所得格差及び資産格差が大きく、社会の流動性も大きいとは言えない。このことが政治的な対立の一因にもなっており、経済発展の制約にもなっている。日本は、ODA及び直接投資を通じて、タイの経済格差の是正に貢献してきたが、今後とも、政策対話、セミナー開催、社会保障関連プロジェクト、草の根・人間の安全保障無償資金協力等を通じて貢献していくべきである。

バンコクの一人当たりのGDPは、名目為替レート及び購買力平価でそれぞれ約1.5万ドル及び2.6万ドルとなっており(2010年)、これらの高所得層は、日本への観光客として、日本の高級製品の顧客として、また、日本のアニメ、漫画、日本食等日本文化の深い理解者として、重視すべき存在となっている。実際、昨年のタイからの訪問者は25万人を上回り、これは韓国、中国、台湾、米国、香港に次ぐ数字となっている。

タイでは7.8万人が日本語を学習し、日本で約2400人の学生が学んでいる。日本のポップカルチャーは、若者を中心に幅広く浸透し、上述のとおり日本への旅行者数も拡大してきている。日系企業への就職機会は、日本語学習・日本留学へのインセンティヴとなりうる。タイおいては、元日本留学生を含む親日層の老齢化が進んでおり、このような若者層を親日家に育成していくことが急務である。多様な日本関係プレーヤーが活発に活動するタイ(バンコク)の特性を活かした広報・文化活動の強化・拡大が期待される。

今年の日・ASEAN友好協力40周年に当たっては、日タイ両国が協力しつつ、幅広いテーマについてイヴェントを開催し、日・ASEAN関係の一層の発展に協力するとともに、そのことを通じて、日タイの相互理解が増進されることが期待される。

7.おわりに
タイ在勤中、以上に記述した多くのドラマの当事者にお会いし、食事を共にする機会があった。ご自宅に伺うこともあった。その中には、元首相や元軍人も含まれており、1932年の立憲革命以降、タイ政治を動かしてきた人物の評価を伺うこともあったが、ドラマの当事者として自らについて多くを語ることはなかった。この時代の歴史の評価は固まっていないとの印象を受けた。2001年以降の歴史もいまだ進行中であり、本稿では事実を中心にできるだけ評価を加えないで既述したため、平板なものとなったことは否めない。

タイでは、憲法がしばしば改正され、短期間で、選挙制度、執政と議会との関係、司法制度等に変更が加えられてきた。本稿では、これらの改革が政治過程に及ぼす影響を十分分析するには至らなかった。さらに、タイでは、まず都市中間層の台頭があり、その後都市及び農村の貧困層が政治過程に参画するようになっている。本稿は、政治過程における伝統的なプレーヤーと新しいプレーヤーの役割、影響力、相互の関係等を生き生きと描いているとは言えない。いずれも、将来の課題としたい。

本原稿を取りまとめるに当たり、内外の研究者の文献を参照するとともに、在タイ大使館館員、外務省タイ専門家から貴重な示唆をいただいた。感謝申し上げたい。なお、以上に展開した見解は筆者個人のものである。 (了) (2013年2月15日寄稿)

「新興国シリーズ」 第11弾 2013-2-7
『マレーシアという国について』

第11弾 『マレーシアという国について』


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 堀江正彦  明治大学特任教授
外務省参与(地球環境問題担当大使)
マレーシア工科大学MJIIT担当大使   
 前駐マレーシア特命全権大使

1.はじめに
マレーシアという言う国が最近注目を集めている。その理由は何か、説明してみたい。
まずは、ASEANにあって、政治的に極めて安定していることであろう。マレーシアが独立して今年で56年になるが、その間にマレーシアの首相が交代したのはわずか5回、僅か6名首相のみである。日本では、最近5年間で何と6名もの総理がめまぐるしく交代したが、これに比べると、マレーシアでは圧倒的な長期安定政権が続いてきたと言える。
経済的に見ても、2020年までに先進国入りするという「VISION2020」が実現する見込みは現実味を増してきている。その中にあって、マレーシアにおける我が国からの直接投資はストックで見てもフローで見てもNO.1である。現在約1,400社の日系企業が進出しているが、更に増加傾向にある。

また我が国の年金生活者の間で行われている、第二の人生を世界のどこで送りたいかという人気投票では、過去6年間連続してマレーシアが第一位である。物価が安く、ゴルフがしやすいだけでなく、インフラが整備された暮らしやすい国であり、また多人種・多宗教・多文化国家としてのマレーシアの人々が、日本人を温かく迎えてくれるからである。
本稿では、そのマレーシアの首相であるナジブ首相を紹介すると共に、首相に就任して以来、どのような政策を発表し、自国経済をどのように知識集約型産業に浮揚させ、先進国入りを目指しているかをご紹介したい。

2.ナジブ首相
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ナジブ首相は、アブドゥラ前首相・UMNO総裁の後を承け、2009年3月に与党UMNO総裁に、4月初めに第6代マレーシア首相に就任した。ナジブ首相は1953年にラザク第2代首相の長男としてパハン州で生まれ、1974年に英国ノッティンガム大学(産業経済学)を卒業後、マレーシアの石油公社ペトロナスに入社した。1976年に父親のラザク首相(当時)が急死したため、ナジブは23歳にして父親の地盤を引き継ぎ、下院補選に出馬し当選した。また1982年の総選挙ではパハン州議会議員に当選し、パハン州首席大臣に任命される。その後、1986年の総選挙で下院議員に当選し、文化・青年・スポーツ相に就任した。20代で副大臣を務めて以来政務・党務の経験も豊富、1990年以降は国防相、教育相、蔵相の主要閣僚ポストや副首相を歴任したナジブ首相については、問題把握能力と実務的処理能力に優れ、若く活力に溢れた指導者であるとの見方が定着している。

リーマン・ショック後の世界不況の厳しい環境の中で発足したナジブ政権は、政策面で、短期的には国内景気の早期回復、中期的には中所得国の罠からの脱却と高付加価値経済への脱皮が求められ、また政治的には、2008年3月の総選挙で失われた地歩、殊にマレー有権者のみならず非マレー有権者の支持の回復と民族間融和という容易ならざる課題を背負っての登板となった。ナジブ政権発足当初の厳しい状況について、さる与党関係者が「岩壁を直登するに等しく、一挙手一投足の過ちも許されない。」と評するのをきいたことがある。しかしながら、そうした状況のなかであっても、これまでナジブ首相が余裕のない態度を見せたことはなく、常に冷静かつ落ち着いていて、しなやか且つ柔軟なリーダーシップを発揮しつつ政権運営に臨んでいる姿がみられる。

3.ナジブ首相による新政策の導入
ナジブ首相は、首相就任直後に「1 Malaysia, People First, Performance Now」のスローガンを掲げ、「民族融和、国民第一、成果主義」の政治を打ち出すと共に、就任後1ヶ月内にサービス27分野の自由化を発表し、首相の自由主義的経済運営志向と実行力を印象づけた。

政権発足1年目は、政策手法の面で、今後の行政における目標分野(Key Result Areas, KRAs)とその達成度を国民に示すための業績指標(Key Performance Indicators, KPIs)を定め、各閣僚・政府機関の成果を数値目標化して管理・評価する考え方を導入した。この連邦政府のKRAs、KPIs(Nationalの「N」を付してNKRAs、NKPIsと称される)では、①治安改善、②腐敗防止、③良質・適正価格の教育、④低所得家庭の生活向上、⑤地方基礎インフラ改善、⑥都市部公共交通の向上という、人々の暮らしに密着した6つの民政分野で具体的な数値目標が掲げられている。

さらに各分野のKPIsを実現するための向こう3年間のロードマップである政府変革プログラム(Government Transformation Program, GTP)を作成して、具体的成果を追求する姿勢を首相として明確にした。NKRAs・NKPIsは今日まで継続的に評価され、当地主要紙でも頻繁にその取り組みが報告されて、政府の着実な取り組みを国民に印象づけている。またKRAs・KPIsによる成果管理手法は、NKRAs・NKPIsに止まらず、連邦政府各省、また与党議員や支部長の活動についても導入されている趣であり、政府機関・党機構のチャネルを通じた成果主義運動として浸透しつつある観がある。
こうした取り組みは、また、アブドゥラ前政権が比較的短期の任期内に政策の成果が必ずしも目に見える形で発現するに到らず、国民に物足りなさが残ったと言われることとの対比で、ナジブ政権の有言実行姿勢を端的に表すものとも言える。これはナジブ首相自身の実務主義的志向を反映すると共に、発足後、総選挙によるマンデート更新を経ずに国政を担当するナジブ首相として政権の実行力を印象づけることにもなっていると考える。

 就任2年目の2010年は、マハティール首相の掲げた「2020年ビジョン」の実現に向けた最後の10年間(2011-2020)の指針を示す節目の年であり、ナジブ首相は第10次マレーシア計画(2011-2015の経済運営の指針となる五カ年計画)を策定し、ナジブ政権としての中期的ビジョンの予算的裏付けを示した。
折しも2010年は、キリスト教徒コミュニティーの出版物の中で「主」を表すマレー語に「Allah」の語を宛てることを認めた司法(一審)判断を巡り、キリスト教会に対する放火・破壊行為が起きるなど、年明け早々から騒然とした雰囲気となった。宗教問題や民族問題を巡る国内の意識が高ぶり、各政党や社会団体もそれぞれの立ち位置を探る状況の中で、一連の中期的ビジョンの嚆矢として2010年3月末に、首相の経済諮問委員会の起案による「新経済モデル」(NEM)の第一部が報告された。

10th malaysian plan.pngこうしたNEMを含むナジブ政権の諸政策の全体像について、ナジブ首相が2010年4月に我が国を公賓として公式訪問した際、夕食会のテーブルにおいてナジブ首相が小生に対して一片の紙に描いてくれた図は左記の如きものであった。
すなわち、この絵で示そうとしていることは、これらの政策を着実に実現することにより、マレーシアという国家を民族融和の下、強固なものとして築いていく戦略に他ならない。

4.新政策に対する反響
NEM第一部の発表後、民族別の是正政策からニーズ・ベースの是正政策への転換を掲げた同報告についてマレー系の保守団体や中小企業者が不安・懸念を表明し、これをきっかけとしてその後、非マレーの政党・団体からも意見表出があり、民族間格差是正政策の調整における所謂「マレーの権利」問題の取り扱いが、2010年のマレーシアの政策・政治シーンの大きなテーマの一つとなった。ナジブ首相は、2020年までの一人当たり国内総生産の倍増・経済の高付加価値化という中期政策課題に応える道筋を示すことと併せ、民族間バランスの舵取りと民族融和のための処方を求められたといえる。これはマレーシアの歴代首相が時代毎に悩み、解を導こうとしてきた問題でもある。

ナジブ首相は、8月末の独立記念日やラマダン明けのイスラム新年に併せて、国民に対して、過激・極端な言説を控え、多民族が協力・相和してマレーシアの多民族社会の強みを発揮するよう呼びかけを強めていった。同首相が9月末の国連総会の演説で国際社会に対して過激主義を排し「穏健派のためのグローバル運動」を呼びかけたことは首相の国内におけるメッセージと機を一にしており、国連演説は10月下旬の与党UMNOの党大会の冒頭でも紹介された。そのUMNO党大会等で首相は、マレーシアの市民権は国の現実を踏まえて「調整された市民権」であり、「マレー人の特別の地位」(憲法第153条)については議論の余地がない旨述べて党員・支持者の心情に手当てしつつ、それに相応しい指導的存在であれるようマレー人は奮励努力すべきことを求めた。

それと共に、12月に発表された「新経済モデル(NEM)」最終版では、貧困対策を民族ベースからニーズ・ベースに転換すると共に、資本保有に関する「マレーの割当枠」の考え方自体は残しつつも、その運用については、6月に発表された第10次マレーシア計画にも述べられているように、政府が定めるマレーの資本所有率目標(30%以上)を企業各社が個々に達成する必要はなく、マレーシアの民間部門全体としてマクロレベルで達成できればよいとするなど、事実上ブミプトラ優遇政策を緩和する案配を行った。

10月、UMNO党大会の翌週にはナジブ首相は2020年の先進国入りに向けたロードマップとも言うべき経済変革プログラム(ETP: Economic Transformation Program)を発表し、総プロジェクト経費の8%にあたる政府資金呼び水として、政府関連企業や民間企業の投資を促し国内総生産を引き上げる計画をスタートさせた。これは、総額1.4兆リンギに上る総投資額の92%を民間投資で賄う壮大な経済浮場策であるが、まさに2020年までに先進国入りするための大いなるビジョンを国民に力強く示し、成果を挙げようとする姿勢を印象づけている。従って現在では、ナジブ首相が描いた前頁の図の右柱(NEM)はETPによって力強く補強されるに至っている。ナジブ首相は、国内の政治的現実の中でマレー・非マレーの双方に配慮して微妙なバランスをとりつつ、経済高付加価値化・国内総生産倍増に向けた一大計画を示すことで、国民の力が民族間の配分ではなく、国家建設に向かうよう導こうとしたものと考える。

5.「民族融和の父』ナジブ首相
政治面では、 ナジブ首相は「1 Malaysia」スローガンの下に民族融和を呼びかけ、華人、印人など非マレーのコミュニティーにも積極的に直接のアウトリーチを行ってきた。非マレー・コミュニティーに対しても、マレーに対するのと同様に、或いは街々で直接、或いはソ-シャル・メディアを通じて率直に対話する姿勢は民族を越えて好感されている。マレーシアの現状に問題意識を懐く有権者も、首相は懸命に是正努力を行っていると好意的に見ており、首相の個人的人気は極めて高い水準で推移している(2010年末時点の世論調査において約70%)。与党連合「国民戦線(BN)」内の非マレー政党の党勢回復にしばし時間を要すると見られる中で、首相の個人人気と「1マレーシア」スローガンの人気が牽引する形となっている。ナジブ首相の民族融和に向けた努力からすれば、ナジブ首相は将来『民族融和の父』と称されることになると考える。

 外政面では、近隣のASEAN諸国との実務的関係の進展を重視していることが伺われる。隣国であるシンガポールとは、従来、水の供給や、マレー鉄道保有地の処理問題、架橋問題等の難問が長年両国の愛憎関係を彩ってきた。ナジブ首相はリー・シェンロン首相とのリトリートと呼ばれる会合プロセスを通じて実務重視の関係を構築しており、2010年5月にはマレーシア鉄道会社のシンガポール域内の保有地の交換処理に合意したことをはじめ、その手腕は際立っている。

ASEAN域外では、父君である故ラザク第二代首相がASEAN諸国に先駆けて国交を開いた中国と政治・経済両面で良好な関係を築く一方、米国、インド、豪州、韓国、中東・欧州諸国等との関係の充実も見られ、バランスの良い外交を行っていると見られる。ことに米国との関係の深化は顕著であり、2010年4月の首脳会談の成功に続き、同年11月の国務・国防両長官のマレーシア訪問などハイレベルの往来が活性化している他、包括的輸出管理法の制定、アフガン復興支援要員の派遣、TPP交渉参加などアジェンダも進展している。インドとは「戦略的パートナーシップ」を謳っている。

6.我が国との関係
我が国についても、2010年4月の訪日の折に「新たなフロンティアに向けて強化されたパートナーシップ」が発表された。ナジブ首相個人は「生活の中で様々な修練を経て規律を身につけている日本人」を高く評価しており、日本が東アジア地域で建設的な独自の存在感を発揮することへの期待は高いものがあると考える。折しも、マハティール首相時代から長年の懸案となっていたマレーシア日本国際工科大学構想(MJIUT)も、ナジブ首相の下で、マレーシア工科大学(UTM)の下にマレーシア日本国際工科院(MJIIT)を設立する構想として遂に実現の運びとなった。我が国としても、長期的な視点からMJIITを通じて、二国間の教育面での協力関係を更に拡大し、地域における協力を深化させていくべきと考える。MJIITは、まさに「東方政策」に新たなる地平線を拓くものである。

7.結び
ナジブ首相は2009年4月の発足から4年近くが経過したところであるが、以上説明したとおり、その成果は徐々に見えはじめている。行政の変革を目指して成果目標を数値化したNKRAs・NKPIsをはじめ、そのためのロードマップとしてのGTP、マハティール政権時代に発表された2020年先進国入りに向けたロードマップとしてのETP等からは、ナジブ首相の実務的で成果重視主義の面が窺える。民族融和を謳う「1マレーシア」を旗印として掲げ、NEMやETPにより民族にとらわれることなく高付加価値経済を志向する姿勢には、マレーシア社会の特徴である多文化・多民族性を前向きの力に転化していこうとする努力がみられる。また外政面においては、ASEAN諸国の他、米国との関係深化や経済成長著しい中国やインドとの関係充実も見られ、その他諸外国ともバランスのよい外交を行っていると感じる。

ナジブ首相は、前任のアブドゥラ首相より政権を引き継いだが、選挙を経て首相に選ばれたわけではない。これまで、今か今か、まだかまだか、と巷で言われてきた総選挙も、これまで大いに引き延ばしてきた背景には、与党の政治家による選挙民に対する努力を最大限引き出し、新しく打ち出した一連の政策が実施され国民にその成果を実感して貰うことが目的であったと推測される。いずれにしても、引き延ばし作戦もそろそろ限界であり、満を持して、今春には総選挙を行う必要がある。
独立以来56年間にわたって保守政権が続いてきたことから、政権交代を望む選挙民が増加していることも確かである。それ故に、前回の総選挙では「政治的津波」が押し寄せたのであり、マレー系を優遇するブミプトラ政策も挑戦を受けている。まさに、今春に予想される総選挙において、政治・経済の変革を目指した様々な諸政策を発表し、精力的にそれらを実施に移してきたナジブ首相の政策実行力が評価されることになるであろう。
(2013年2月4日寄稿)

「新興国シリーズ」 第10弾 2013-1-24
『インドネシアで考えたこと』

第10弾 『インドネシアで考えたこと』


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 元駐インドネシア大使   飯 村  豊





Ⅰ はじめに
  2001年8月から約3年半、私はインドネシアに大使として勤務した。もう10年も前のことになってしまったがインドネシアについて何か書いて欲しいとの要請が霞関会よりあったので、インドネシア勤務を終えるに当たって、2006年2月外務省の職員、それもインドネシアのことをよく知らない人々を対象に書いたエッセーを微修正して提出させて頂くことにした。その後インドネシアについて勉強する機会はなかったので、本稿よりレベルアップできる自信がなかったからである。

近年インドネシア経済の急速な成長と日本企業の積極的な進出、民主化の進展、更には中国の一層の台頭に伴い、日本の対外関係におけるインドネシアの重要性は飛躍的に高まってきている。また、インドネシアの人々の自分の国力についての自信も深まってきているようである。従って、ここで描かれているインドネシア像や日本・インドネシア関係の見方は少し古くなっていると云わざる得ないが、基本的な認識は現時点においても妥当と思われ、現在のインドネシアと日本を考える上で、参考にして頂ければ幸いである。
  なお、インドネシア内外に係る事実関係の記述も本稿執筆の時点のものであり、その後大分変化が生じていることも付言したい。敢えて言えば、かかる記述をそのまま残すことにより現在の状況をよりよく理解する視点も得られるものと思われる。

Ⅱ  インドネシア人の気持ち
1.日本への期待感
(1)インドネシアについて、また日本とインドネシアの関係について何点か所感を申し述べたい。私自身インドネシアについては全く白紙の状態で着任し、在勤中もこの国について余りアカデミックな勉強はしていないので、勤務をしながら感じたこと、特にインドネシアとの関係に少しでも携わる人々が念頭に置いた方が良いと思われる点を3点程述べてみたい。

(2)第一点目は、この国の人々の日本への期待感の大きさである。
着任直後、ジャカルタ在住の邦人特派員の方が、「飯村さん、この国から見る日本はとても大きいですよ。」と言われたことをよく思い出す。

   確かに多くの日本人の方々にとってインドネシアを意識する時間は極く僅かなものであろう。私が在任中、新聞にインドネシアのことが大きく出たのは、バリやジャカルタでのテロ事件とかアチェの大地震、津波、あるいは大統領選挙、ジェンキンスさんと曾我ひとみさんの再会といった機会位であった。大方の日本人の方は、インドネシアについて殆ど知識を持っておられないし、バリに来られる日本人観光客の多くはバリがインドネシアにあることすら知らないと、在留邦人の方々は半ば冗談半ば残念そうによく言う。

  それに比して、現代インドネシアの営みの中で日本が果たして来た役割は重要なものがある。特に、経済面での日本のプレゼンスは大きく、今でもこの国の人々は経済的に困った時には日本が何とかしてくれると直感的に思うのではないかと感じられる程の期待感を持っているように思われる(もっともこのような日本への期待感も中国の台頭とインドネシア自身の国力の向上に伴い少しずつ色あせてきているようであるが、この点はあとで触れたい)。

(3)日本の役割につき歴史的な考証をする程の力を私は持っていないが、これを象徴的に示すものとしてスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領がメガワティ政権下で政治治安担当調整大臣の任にあった頃、訪れた日本の国会議員団に述べられた言葉がある。外交辞令的な側面もあろうが、同大統領がその後も時々同趣旨のことを述べられているので、彼の対日感を示しているのではないかと思われるので、ここで引用させて頂く。
同大統領は会談の冒頭、「本日、日本を代表する皆様に改めてインドネシア建国史上3回お世話になったことを御礼申し上げたい。1つは独立の時であり、2つ目は経済開発を通じて、3つ目は97年、98年の経済危機の際、日本政府・経済界はインドネシアを支えてくれた。心から感謝している。」と言われ、アジア諸国の指導者からこのような言葉を聞くことが少ない我が国の政治家の方々に感銘を与えた。

   第1点目の独立の時とは、日本軍政下で独立の準備を始められたことを指しているのか、あるいは第二次大戦後オランダに対する独立戦争に日本軍兵士1000人以上が自らの意思で参加したことを指しているのか、真意は良く分からなかったが、第2次大戦と日本・インドネシアの関係につき、インドネシアの人々がその「明暗」双方感じているという意味では、中国や朝鮮半島と事情を異にしていると言えるかもしれない。
   特にイスラムの復権においては日本軍政が一定の役割を果たしたようで、アジュマルディ・アズラというイスラム学の大家は、我が国軍政下でインドネシアのイスラムがオランダ植民地時代の抑圧された状況から国のメーン・ストリームに置かれたことを評価する発言をしている。

(4)大使として任国の政権中枢に食い込むことは、どの地においても大きなチャレンジであるが、インドネシアにおいては、このような日本の存在感、日本への期待感に助けられて歴代の大使は大統領とのパイプを作り上げることに成功してきた。
   私の場合は、着任早々、メガワティ大統領のお誘いで東部ジャワ州ブリタールにある故スカルノ大統領の墓参りに同行して以来、2回旅行にお供する機会があったし、公邸にも食事等で4回来て頂いた。

   また、ユドヨノ大統領は対日外交重視の姿勢を2004年の大統領選当選後直ちに明確にされ、当地在任大使のうち日本大使の表敬を最初に受けてこれを明確にしたいとされたことを思い出す。同大統領とのアポイント取り付けは、政治治安担当調整大臣時代と違って決して容易ではなかったが、それでもアチェ和平のための会議を協力して東京で2回(2002年、2003年)行ったことは大統領になってからのコミュニケーションに大きな助けとなった。
    このようなことを述べるのは自分の手柄自慢をしたいのではなく、インドネシアにおける日本への好感度の高さを指摘したいからである。現に世論調査を行っても
ASEANの中で対日期待感が一番良いのがインドネシアである。

2.インドネシア人のプライド
(1)この国の人々がすぐに意識する外国は、日本の他にも、ASEANの隣国であるマレーシアやシンガポールを別にして、米国や豪州、中国等何ヵ国かあるが、日本が主要なプレーヤーの1つであることは間違いないであろう。しかしながら、これはインドネシアの人々が外国から支援してもらう事への期待感のみを持っているということではない。どこの国の人々も同様であるがプライドも大変高い。この点はインドネシアと我が国の間に円滑な関係を築くことを目標にするのであれば忘れてはならない点である。これが第2点である。
   インドネシアの多くの人々は人なつっこい美しい微笑で我々外国人を迎えてくるが、一部の日本人が言う「援助してやっているのに」といった傲慢さはすぐにかぎつける。特に、自らの力で植民地勢力と争って独立を勝ち取ったことは、インドネシア人の気持ちを理解する上で忘れてはならないことだと思う。また、インドネシアは人口2億人を越える東南アジア最大の大国であり、かつては第3世界の指導国家の1つ、ASEANの盟主と見なされてきている。

   インドネシアに援助する外国の人々にとってなかなか容易なことではないが、相手側の自主性(最近の言葉で言えばオーナーシップでしょうか)を尊重しつつ、支援するとのバランス感覚が必要であり、この道を踏み外すととてつもないシッペ返しを受けることになる。これが大変に忍耐のいるプロセスであることは、例えば最近のアチェ地震・津波時の緊急援助、復旧・復興に関わった人であればすぐにでも分かることであるが、74年1月の反日暴動のようなとは言わないまでも、この種の排外意識の噴出はいつでも起きる可能性があるということを忘れてはいけないと思う。

(2)その点で私が不安を感じたのは、我が国政府が国連安保理改革のためのG4決議案を全力で推進していたときに、「G4決議案を支持しない場合は我が国援助についてマイナスの影響ありうべし」とのいわゆる「ネガティブ・リンケージ」の考え方が日本国内にあったことである。これはインドネシアに対してのみでなく、日本の援助を受けているすべての国々についての考え方であり、少なくともインドネシアの人々は「ネガティブ・リンケージ」の背後に日本の大国主義を感じ取ったであろう。長い眼で見てこのような日本人の意識は国益に沿わないものと思われた。政治的には、途上国を「敵か、見方か」に色分けるような行動は外交上マイナスが大きいものと考える。

(3)また、我が国において大きく報道されたジェンキンスさんと曽我ひとみさんのジャカルタにおける出会いは、我々日本人にとっては人道的なエピソードであり、ジャカルタは出会いの地であり、インドネシア政府に何か仲介を期待するといった性格のものではなかったが、この出会いの場所の提供を快諾したハッサン・ウィラユダ外相にとっては、日本と北朝鮮の間の「橋渡し外交」の一環であったようである。
   この出会いを成功裡に終わらせるため、同外相は国内のどこが、またどのホテルが好都合か様々のアイディアを出され、また、警備に万全を期すため自ら治安当局にも依頼するほどの熱の入れようであった。

97、98年の経済・政治危機を克服して、かつてのインドネシア外交を復活させることを目指すインドネシアの外交当局にとっては、「橋渡し外交」は自国のプレスティージを上げるための1つの手法になっており(ミャンマー外交ももう1つの例である)、日本のマスコミの報道合戦が過熱化する中でジェンキンスさん一家の日本行きのフライトにつき特定の期日を日本のプレスから確認を求められ、日本政府から事前に十分に情報提供を受けていなかったと感じた同外相の怒りは相当なものであった。

我々として随分とこまめにインドネシア側に状況をブリーフしていたつもりであったが、時に日本のメディアが我々大使館員が知っているよりも先に情報を入手していることもあり、そのような瞬間を突かれたエピソードであった。メガワティ大統領(当時)は、出発前のジェンキンスさん夫妻に会ってくれたが、その場に日本政府の関係者が同席することを拒絶し、またハッサン外相は数ヶ月に亘り私との会話を拒絶し続けて不信感を表明したが、これらの例は、我々が傲慢であるのかどうかは別にしても、余程我々が神経を使わないとインドネシアの人々の気持ちを逆撫ですることとなる好例かと思われる。

3.新しい国インドネシア―形成途上多民族国家
(1)第3点は、インドネシアを少しでも知っている人にはあまりにも当然のことであるが、この国が新しい国であり(建国60年を祝ったところである)、また本来であれば一つの国を構成するのが不思議な程の多数なエスニック・グループを抱える中で、国家の統一性を維持する努力を行っていることである。

   「一つの祖国、一つの民族、一つの言語」をスローガンに掲げた「青年の誓い」が行われ、オランダの統治下にあった様々な伝統と文化を有する人々が1つの近代的な「国民国家」を形成する意志を示したのは1928年、つまりわずか80年弱前のことである。このようないわば人工的国家は古くはアメリカ合衆国、新しくは第2次大戦後独立を達成した国々に多数の例が見られる訳であるが、日本のように「歴史の深奥」からいつしか生まれてきた民族国家の構成要員にはその苦労一つまり個人レベルでは異民族・異文化の人々と日常的に生活を共有すること、国家レベルでは放置されれば遠心力が働き国家が解体していく可能性の中で、国の一体性を確保しつつ運営していく苦労―がなかなか肌身で分からない。対インドネシア外交に当たっては、この原点をどうしても理解する努力を払う必要があると思われる。

(2)この関連で申し上げれば、インドネシアに勤務したことのある方は誰でも御存知のことであるが、出身のエスニック・グループによって気性が大いに違うことで、この国との関係に携わる方々はこの点にも留意する必要があるかと思われる。
  インドネシアの6割を占めるジャワ人であるユドヨノ大統領は、人を傷つけることを好まず、正面切って「ノー」と言うことを避ける傾向があるように思われ、その真意はなかなか見極めがたいが、ユスフ・カッラ副大統領はスラウェシ島に住むブギス人らしくアウト・スポークンであり、またビジネス感覚に富んでいると言われている。

   また、非ジャワ人のジャワ人への反撥も強く、カッラ副大統領はアチェ紛争の和平合意(2005年8月)について、非ジャワ人である自分であったからこそアチェ人と話し合いをうまく進めることができたのだと、私に述べたことがある。
   この点で思い出すエピソードが1つある。何の機会であったか忘れてしまったが、東京からの指示でユドヨノ大統領に直接無理なお願いごとをしなくてはならないことがあり、カッラ副大統領の助けを得て面会の運びとなった際、その直前にカッラ副大統領より私に電話があり「大統領に直談判するときは、ソフトにアプローチするように。」とのアドバイスをもらった。その時ハビビ元大統領(カッラ副大統領と同じギブス人)が、かつて自分がスハルト大統領から学んだ最大のものは「ジャワ人の政治」の特質についてであり、折に触れて取っていた記録は大学ノートの数冊にもなると述べていたことを改めて思い出した。

(3)更に、インドネシアは多数の途上国と同様、国民の意識の面でこれから長い年月をかけて達成しなくてはならない課題を抱えている。特に重要なことは国民レベルで「勤労の倫理」を形成していくこと、「社会的正義」の観点を育て上げ、「法の支配」を確立することであると思うが、これらは言う程に容易なことではない。日本においても、このような意識は、おそらく武家支配の数百年を通じ形成され、これが一般庶民のレベルに共有されるようになったのは江戸時代のことであろうと推測される。これらの倫理は一朝一夕に形成さるものではないようである。ユドヨノ政府は成立以来、汚職撲滅キャンペーンを熱心に進めており、それなりに成果を上げてきているが汚職がなくなるための1つの前提条件である「公」の精神が国民全般に行きわたるためには長い時間をかけた努力が必要と思われる。

このような状況にあることは、何もインドネシアの人々にとって個人の責任ではないのであるが、先進国の人々は「上からの視線」でものを言いがちである。インドネシアの心ある人は自分の国の現状を憂いており、気の遠くなるような課題を前にして真剣に悩んでいるのではないだろうか。先進国の人々の「上からの視線」は民族の歴史が与えてくれたものを自分が努力して得たものと勘違いしているという傲慢さ以外の何ものでもないと思えてならない。
インドネシアに限らない。先進国が途上国援助を行うに当たって時々見られる大国意識は、折角の援助の意義を台無しにするものとしか思えない。もちろん日本の場合、国内経済が困難に逢着している時に国民の援助への支持を集めるためには「日本の旗」をあらゆるプロジェクトに掲げることが必要であろうし、また性急に成果を求めようとするのも理解できる。同時に「上からの視線」「押しつけがましい姿勢」とは逆方向の努力、つまり日本国民に途上国の人々の苦しみを分かってもらう努力も必要ではないかと思われる。

4.日本外交に求められる謙虚さ
(1)以上は私自身が対インドネシア外交の一翼を担うに際して念頭に置いていた何点かであるが、最も重要な点は、日本とインドネシアはお互いに必要としており、この点を十分に認識することは、中国の台頭に伴い東南アジアのパワー・バランスが変化していく中で益々重要になっていることである。

(2)海洋東南アジアの要衝を占め、豊富な天然資源を有する地域最大の大国が政治・経済的に破綻する、或いは他の域外大国の影響力が強まる事態が生じた場合の東南アジア全体への影響を考えると、対インドネシア外交は日本のアジア外交の柱の1つであることは自明であると思う。インドネシアとの関係は決して日本の一方的な持ち出しなのではなく、お互いに必要としているのであり、そのような気持ちでインドネシア外交を進めていくことが大切であると思う。援助国対被援助国の関係ではなく、外交の対等なパートナーとして二国間関係を見ていくことが必要ではなかろうか。

Ⅲ.インドネシアで今何が起きているか。
1.グローバル化の経済的影響
(1)さて、次に、このようなインドネシアで今何が起きているのか、大使として何をしようとしていたのか、これから何がなされなければならないのか、述べてみたい。

(2)私が在勤した2002年8月から2006年初めの3年半は、まず第1にインドネシアが97年、98年の経済・財政危機を克服して、経済再建の途上にある時期であった。マクロ経済の安定を達成し、2003年12月末にはIMFプログラムから卒業し、更なる成長を目指すユドヨノ政権が2004年10月成立したが、国際経済環境の変化、特に石油価格の高騰がこのような努力をさらに困難なものとする可能性をも見せ始めている。

   政治的には、私の着任直後に1945年憲法の4次改正が成立し、これに基づき2004年には議会総選挙、大統領・副大統領の直接選挙が実施された。また、着任直後の10月バリ島爆弾テロ事件で豪州人を中心とする200名以上の死亡者が出、その後毎年1回位の間隔でジャカルタのマリオットホテル、豪州大使館、そして再びバリ島の観光地と次々に大きなテロ事件が発生し、インドネシアにおけるイスラム過激派テロが国際的な注目を浴びるに至った。

   また、明るい話題もあり、インドネシア国家の一体性維持にとって重要なアチェの独立を巡る問題で、2002年12月には和平・復興東京会議、GAM(アチェ独立運動)とインドネシア政府間の停戦協定の成立、更には翌年5月の東京における和平交渉の挫折というユドヨノ政治治安担当調整大臣(当時)による和平イニシアティブの失敗を経て、2005年8月にはカッラ副大統領の主導でヘルシンキ合意が成立した。
   更に、この国は予測しえない不運にも襲われてきた。その最大のものが、ユドヨノ政権成立直後の2004年12月26日アチェ州を襲った地震・津波大災害であり、現在は鳥インフルエンザがパンデミックとなった時のダメージの大きさにおののいているところである。

(3)このような様々な現象の背後にどういう大きな力が働いているのか、やや単純化のそしりを受けることになるかと思うが、3点述べてみたいと思う。
   まず、世界の隅々まで大きな変化を与えつつあるグローバル化がインドネシアにも押し寄せており、この国が少なくともグローバル化の負け組にならずに生き残れるか否かおそらくここ数年のうちに明らかになると思われる点である。
そもそも、97年・98年のアジア危機が急激な経済面でのグローバル化の中で起きたことは定説であるが、マレーシアやタイ等他のASEAN主要国が経済の再建に成功しつつある中で、この国が本当に危機を克服し、ASEANの盟主としてのかつての地位を再び手に入れることができるのか否かは現段階では不透明と言わざるを得ない。特に特徴的なこととしては、経済危機がスハルト体制の崩壊、すなわち開発独裁から民主主義体制への移行にもつながったことから、政治的混乱が経済再建のためのリーダーシップを阻害してきたことがあげられると思われる。メガワティ政権下でマクロ経済の安定を曲がりなりにも達成したことが同政権の業績としてしばしば挙げられるが、これはやはりIMFのモニタリングの下にあったからと言えよう。

  ユドヨノ政権はスハルト政権崩壊後初めての本格的政権とも言え、同政権が民間投資の促進、そのための環境整備を通してより高い経済成長を達成することを政策課題のトップに置いていることは、この国がグローバル化の下で東アジア地域での経済統合が進む中で落ちこぼれ組とならず、むしろ勝ち組となるために極めてまっとうなことと思われる。問題は、投資環境整備のためには、インフラ整備から始まって、税・関税制度や労使関係に係る制度の整備、すそ野産業の育成、更には汚職の撲滅、司法制度の確立等気の遠くなるような課題を着実にこなしていかなければならないことである。ユドヨノ政権が成功するか否かは、これをどの程度実行に移せるかにあると思われる。この意味では、改革への抵抗勢力と化している官僚組織の近代化、効率化も大きな課題である。

2.グローバル化の政治的影響
(1)第2点目は、すでに触れたとおり、経済のグローバル化が政治面にも影響を及ぼしていることである。これは、インドネシアが政治面でも国際社会から孤立して変化しているのではなく、国際的な大きなうねりの真っ直中にあることを示すものであろう。
   その一つが民主化の進展である。その結果として生まれてきた議会の役割の強化や地方分権の進展は政策決定に関与するものの飛躍的増大をもたらしており、当面行政の停滞と混乱を招く結果にもなっている。これは、健全な中産階級が十分に育つ前に開発独裁から民主化へ移行したため、国民の側のエトスが民主化の進展についていないことを示すように思われる。

   また、国軍の政治的役割が劇的に減少したが、国民の間には国軍が政治的安定を担保していた時代へのノスタルジアも根強く、その組織力、また何よりも最大の武装勢力であることから、ひとたび危機が再来すれば、政治の前面に再登場する可能性を排除することはできないと思われる。その意味では、国軍を民主化プロセスにがっちりと組み込んでいくことが重要であり、改革派軍人出身のユドヨノ大統領のあまりに表に出ない功績としては、民主派の軍人を次々に戦略的ポストに任命し、軍の掌握を進めていることがあると言えよう。

(2)もう一つは、インドネシア・イスラムの変容と影響力の増大である。インドネシアの国民の9割がイスラム教徒であり、またそのイスラムも伝統社会に根ざした穏健なものであることは良く言われるところであるが、このようなイスラムもグローバル化の直接・間接の影響から逃れることはできない。例えば、キャンパス・イスラムからPKS(福祉正義党)という政党設立にまで影響をのばしてきた都会の学生層を中心にしたイスラム改革運動。この運動は既存のナフダトゥール・ウラマやムハマディアという巨大なイスラム団体とは断絶したところに90年代から急激に発展してきたと言われ、インドネシア経済社会の都市化を考えずして説明でいないと言われており、インドネシア政治において無視し得ない勢力になっている。
   また、相次ぐテロ事件で有名になった「ジュマー・イスラミア」(イスラム共同体)。一時アル・カイダとのリンクがあるか否かも注目されたが、どの程度の連携があるのかは別にしても、インドネシア・イスラムが、それもジャワの片田舎のイスラム寄宿塾が国際的なイスラムの在り様と無縁でないことを示している。

   同時に、このような政治的イスラムの動き以上に顕著な変化をもたらしているのは、文化・社会面のイスラムルネッサンスとも言うべき面であろう。女性で「ジルバブ」をかぶっている人の数、或いはメッカ巡礼者でモスクに行く一般の人々の数は、近年飛躍的に増大している。政府の当局者もこのような国民レベルの動きを直視して内外の施策をとることが必要になっている。

(3)グローバル経済への適応にしろ、政治の安定化にしろ、このような課題は当事国のやる気がなければ達成できないのであるが、ユドヨノ政権はこういった課題に正面から取り組む意識を示している。この国の将来を考えれば、日本を含む国際社会はこのような努力を支援して行く以外には方策はないと思われる。インドネシアに対する欧米の多くの国々の政策は、人権問題や環境問題、民主化等に個々に焦点を当てた

  single issue-orientedなものとなっており、この国のことをグローバルに捉え、その発展を支えることが自らの利益でもあると考えて行動する国は極めて少数であるように見受けられる。その意味で日本としては米国、豪州や世界銀行などとしっかりとしたパートナーシップを形成して主導的な支援国としての役割を果たしていく必要があると思う。このような努力がまた、以下に述べるインドネシアへの中国の影響力伸長を防ぐ最大の武器になるのではなかろうか。

3.中国の進出
(1)第3点目は、中国の台頭が東南アジア全体の国際関係に及ぼしている影響である。インドネシアにおいても私が着任した2002年の当時と比べると格段に中国の存在感が増してきた。
   1965年の9.30クーデター事件まで親中国のインドネシア共産党が強大な政治力を持っていたことへの反撥もあり、中国との外交関係を回復したのは90年代になってからと、インドネシアは中国との間に距離を置いてきた。また反華僑感情も強く、98年5月の反華僑暴動ではジャカルタでも数千名の華僑が殺されたと言われている。そのようなインドネシアであるが、ワヒッド政権の頃から華僑の権利の回復が始まり、例えば今ではジャカルタだけでも8紙のローカル華字紙があるようになった。これまでロー・プロファイルを保ってきた華僑達も大っぴらにホテルなどでパーティをやるようになってきた。中国政府は、このような華僑達との関係強化に努めており、華僑の中には中国と協力してインドネシア国内における中国の影響力を強めることに喜びを感じる人々も増えているようである。

   また、中国はインドネシアに対する外交攻勢を強めている。メガワティ政権時代もメガワティ大統領の夫君タウフィック・キーマス氏を中国・インドネシア友好協会のヘッドにすえていたが、ユドヨノ政権になってからの中国からの働きかけは極めて活発で、大統領就任式前に早くも政治局代表団が当選祝いを述べるために派遣されており、2005年には胡錦濤国家主席、ユドヨノ大統領がそれぞれ国賓として相手国を訪問している。また、低金利の借款等経済協力の供与、天然ガスの輸入等経済関係の強化にも努めてきている。

(2)このような状況を見ると、すでに大陸における東南アジア諸国において影響力を強化してきた中国が、ASEAN諸国の中で格段に日本との関係の深かったインドネシアにも外交攻勢をかけ始めたと見ざるを得ないと思う。その背景としては、―つには、すでに自らの影響力を伸ばしてきた大陸東南アジア諸国に加え、これまで中国と距離感を保ってきたインドネシア、シンガポールに一定の影響力を確立すればパワーバランスを自らに有利な方向に持って行けると考えていると思われることがあげられるであろうし、また経済的にはインドネシアに天然資源の供給先、中国産品の輸出市場のとしての価値の見いだしていることがあると思われる。

   東南アジアにおける影響力を強化せんとの中国政府の意図は東アジア共同体をASEAN+3だけで構築しようとする動きからも明らかである。できるだけ外部の勢力を排除し、中国が支配的な力を発揮できる地域ブロックを作ろうとしていると思われる。このような動きに明確にブレーキをかけようとしてきたのはASEANのメンバー国のなかではインドネシアとシンガポールだけである。そのインドネシアに影響力を強めれば、東南アジア外交を進めやすくなるだろうと中国政府が考えることは不自然ではないであろう。
  (注:2012年時点では、南シナ海の領有権をめぐる争いもあり、両国に加えヴェトナム、フィリピンも中国に対する警戒心を強めている。また、ミャンマーの改革の動きは、これまで中国の影響力の下におかれているとされてきた同国が西側世界にも門戸を開き始めていることをしめしていると言えよう。)

(3)インドネシアの指導者達、特に外交に携っている人々がよく述べる考え方は、「中国が台頭する中で、地域に新しい均衡(new equilibrium)を作っていくことが望ましい。そのためには日本等が引き続き主要な役割をこの地域で果たしていくことを期待する。」と言うものである。これは少なくとも現段階ではインドネシアが中国の強すぎる影響力を嫌い、地域に大国間の均衡が形成されることを望んでいることを示すものと思われる。しかるが故に、インドネシア政府は、将来の東アジア共同体の構想にASEAN+3以外の国々(具体的には豪州、ニュー・ジーランド、インド)が関与することを確保するための外交努力を重ねてきているのである。2005年12月のクアランプールにおける東アジアサミットを準備する過程の中で、我が国とインドネシアの間でこのような戦略的利益が合致していることがはっきりと示された。

  (注:更に、最近では東アジア・サミットには、米国、ロシアも招かれるようになっていることは、地域のパワー・バランスを維持するために更に幅広い域外大国を引き込んでいくことが必要とのASEANの一部諸国の意識を反映していると思われる。)
現在の日本のアジア外交は、対中関係、対朝鮮半島関係で外交的エネルギーを費やしている間に、また日本経済が停滞を続けている間に、これまで自ら影響力が強かった東南アジアに中国がしっかりと根付き始めていることを発見して愕然としている、今や失地回復の努力が始まりつつあるといったところではないか。
(注:安倍新政権が東南アジア外交に重点を置いているように見受けられることはその意味で心強い。)

(4)インドネシアの指導層の多くは自国経済の発展にとってまだまだ日本と協力していかなくてはならないことを良く知っていると思う。製造業に対する外国からの投資を支えているのは日本の民間セクターであり、ODAにしても日本がトップ・ドナーの地位を占めており、中国の援助は端緒についたばかりであることも広く認識されている。しかし、中国にはニュー・カマーとしての魅力があり「チャイナ・ユーフォリア」が起きつつあることも事実である。また中国経済の成長が続き、政治・軍事的にも更に力を付けてくれば、まだまだ中期的な展望ではあろうが、これまで中国に異を唱えることができたインドネシアの立場が変化するのか、しないのか注目すべき点であろう。

Ⅳ.日本は何をなすべきか
  このように、インドネシアにおいてもグローバル化の影響が、経済的にも政治的にも様々な形で現れつつあり、また、中国の台頭による東南アジアの国際関係の再編の中で、地域の大国としての自らの位置づけが問われる状況になっている。
  最後に、インドネシアとの協力関係の強化が日本の国益にかなうものと考えた場合
一体何をなすべきなのか、また、我が国として何をしてきたのかも含めて簡単に申し述べたい。

1.戦略的パートナーシップの構築
   まず、第1には、当然のことながらインドネシア外交を東南アジア地域全体に対する我が国外交の関数として、しかも地域最大の人口を要し、戦略的要衝を占める大国に対する外交として考える必要があるという点をあげたい。特に中国が地域に支配的な力を確立せんとの動きを見せている中で、日本とインドネシアはこのような支配的な力を望まないとの観点から戦略的利益を共有している。先に述べたように、インドネシアにとって対華僑政策と対中政策は密接に関連を持っており、中国の影響が強まれば国内の華僑勢力のコントロールが難しくなるとの内政上の理由からも、本来インドネシアの指導層の多くは対中政策に慎重な姿勢をとってきた。しかし、このような慎重な姿勢も中国の影響が伸びるにつれ、今後徐々に変わっていく可能性がある。日本としては早い機会からしっかりとした戦略的パートナーシップを築いていく必要があると思う。
外交面では東アジア共同体構築のプロセスにおいてこれが開放的なもの(inclusive)になるように共同歩調をとることが重要であり、また、同じように民主主義的価値観を有し、国際社会における穏健な勢力として軍縮や人権等、或いは対中東・アフリカ支援等様々な分野で共同の努力を展開していくことも考えられる。

2.経済関係の強化―投資の促進と経済連携協定(EPA)交渉の推進
(1)しかしながら、インドネシアにおいて日々の外交政策に関与しまた関心を寄せているのは極く僅かな少数の外交エリートのみであり、インドネシアの国の方向性に影響を与えるためには、この国の人々が最も関心のあるその経済発展や政治的安定達成の分野で支援を行うのが本命と思われる。このような努力を通じ、インドネシアにおける日本の存在感を維持することが、ひいては東アジア地域に戦略的均衡を築き上げ、日本が行動の自由を確保しうる空間を維持することにつながるものと思われる。

(2)その意味では、なんと言ってもインドネシアの現政権の最大の政策目標である「民間投資の促進を通じ、雇用を増大し、貧困を削減する」ことを助けていくことが重要である。そのためには、特に民間投資を促進するような環境整備が大切であり、2004年11月ビエンチャンにおける両国首脳会談で設置につき合意を得た「官民合同投資フォーラム」を通じ、両国の官民が力をあわせてこのような努力が行われることが期待される。
また支援国会合(CGI)においても、我が国の提唱で日、米、世銀の3共同議長の下(追ってEUが加わり4共同議長)、「投資ワーキング・グループ」が設けられており、このようなマルチの場を通ずる努力も組み合わせ、インドネシア側に働きかれていくことが必要である。特にユドヨノ政権の一つの問題が、同大統領のかけ声にも拘わらず官僚組織がこれに暗に抵抗して、ものが動かない状況にある中で、我が国としては積極的な働きかけを続けていくことが重要である。同時に、このような努力において日本のみが突出することはナショナリスティックな感情が日本に向かうことになり得るので、その意味でバイ・マルチの場を組み合わせることが望ましい。

(3)二国間の経済連携協定も、インドネシアとより緊密かつ広範な経済関係を築いていく上で重要である。国内の民族主義勢力の反発に懸念していたことがあると思うが、メガワティ政権では対日EPAに殆ど関心を示さなかった。ユドヨノ政権になるやいなや、バクリー経済担当調整大臣(当時)、ヒダヤットKADIN(インドネシア商工会議所)会長、ソフィアン・ワナンディAPINDO(インドネシア企業家連合会)会長がイニシアティブをとり、あっという間にEPA交渉入りに政権としての意思をまとめてしまった。ユドヨノ政権は、財界出身、若しくはこれをサポートする人々を官僚として抱えており、我が国としては財界、就中KADINと上手に連携しながら、できるだけ早く妥結に持っていくことが望ましいと思われる。同時に、インドネシア国内でナショナリスティックな保護主義勢力がEPA反対の声を挙げる可能性に目配りをしておく必要性もあると考える。
  (注:本稿執筆後、2007年8月に、日本・インドネシア経済連携協定が署名された。)

3.ODA外交の強化
(1)ODAについては、日本政府として特に円借款をこのような投資環境整備のためのインフラ整備に集中的に投入する方向性を2004年から明確にしたところであるが、2005年に石油価格高騰に伴い燃料価格補助金の削減が焦眉の急になったことから貧困問題が急速にクローズアップされるに至っている。この政権が成功裡に経済成長を達成していくためには、人口の半数を占めるといわれる貧困層への配慮を行い、政治的安定を確保する必要が更にはっきりとしてきていると思われる。その観点からは、我が国のODAの支援も貧困削減を主要な柱の一つとすることが求められるに至っていると考える。特に、保健・教育や地方のインフラへの十分な配慮を行っていくことが重要と思う。

(2)また、インドネシアが抱える大きな困難の一つが司法・行政・立法の多分野における統治能力の欠如にある中で、我が国としては大海の一滴ではあってもODAを通ずる努力を行い、改革の方向性をインドネシア国民とともに考えているとの姿勢を示すことも必要であろう。警察改革プロジェクトで行われてきたような努力が各分野で実施されることが望まれる。司法においては人材育成のための司法研修所設立のための協力がすでに現実的課題ともなっており、また立法では改正憲法の下で設立された地方代表議会への支援も緒についている。また、行政の分野では地方分権制度確立のための支援をJICAが始めていることは周知の通りであるが、世銀等がプロジェクトづくりを始めている公務員制度改革分野においても日本のODAが貢献できるのではないかと考えている。

(3)なお、ODAの関係では、他の多くの途上国も同様であると思うが、世論が債務問題に敏感であり、先進国への借金でインドネシア国民が苦しめられている、外国からの借款の少なからぬ部分が富裕層の懐に入ってきたとのイメージが一部国民の間に根強くあることを指摘したい。国内の政治、経済の困難があると、このような気持ちが政治的に利用されることもあり、あっという間に政治問題化する可能性を常に秘めている。インドネシアの対外債務のGDP比がコンスタントに減りつつある事実などは、このような荒波の中で消し飛んでしまう。アチェ津波の直後に見られた債務キャンセル・削減を求める一部世論は好例であり(英国ゴードン・ブラウン蔵相(当時)の無責任な提案にあおられた面が多々あるが)、また最近では2005年12月BAPPENAS長官に就任したパスカ・スゼッタ氏(ゴルカル党幹部)が、円借款の金利問題でこのような感情に火をつけた。ブディオノ経済担当調整大臣、スリ・ムルヤ大蔵大臣は学者出身のテクノクラートであるだけに、このような政治的動きの前ではやれることに限界がある。その意味では、ユドヨノ大統領、カッラ副大統領が世論形成に極めて大切な役割を果たすことが期待されている。
また、マスメディアに対して、円借款の原資の一部は日本国民の血税であること、いずれにしろインドネシアは開発のため借款を必要としているのであり、これをマーケットで調達しようとすれば大変に高くつくこと等を引き続き説明していくことが必要であろう。また、日本のODAが貧困削減や民主化支援を重視しているとの認識を深めてもらうことも重要である。債務問題で反日感情に火がつくようなことだけは避けなくてはならないと考える。

4.インドネシアの一体性維持への支援 
(1)また、政治的安定を達成するためには、インドネシアの一体性の確立を支援していくことが重要であり、そのためには各地域の紛争、特にアチエ紛争の解決を側面支援していくことが重要である。特にアチェは我が国にとって戦略的利害のかかっているマラッカ海峡に面しているだけになおさらである。
   アチェ和平プロセスの支援については、2002年着任早々の私にユドヨノ政治治安担当調整大臣(当時)から東京で和平・復興会合を開催して欲しいとの要請があった。その背景にはボイス・アメリカ大使(当時)がアチェ和平に向けて様々な努力を行っており、日本をパートナーとして求めていたことがあり、アチェ和平東京プロセスはCGI投資ワーキング・グループと並び、インドネシアにおける日米協力の好例となった。我が国において2002年12月和平・復興会合を、また翌2003年5月には崩壊の危機に瀕した和平プロセスを救う最後の試みとしてGAM側とインドネシア政府側の双方を集めた会合が日本連携の下に行われた。残念ながら、このプロセスは失敗に終わったが、ユドヨノ大統領は「東京プロセスがあっだからこそヘルシンキ合意の成立に導かれた。日本政府の支援に感謝している。」と述べている。

(2)このような外交努力は、インドネシア国内における日本の存在感を強めることに間違いなく貢献しているものと思う。また、アチェ津波災害の際の日本の緊急支援は日本の存在感を強く示したと言えよう。
   外交とは因果なものと時々思うが、このような努力は自転車をこぐように常に続けていなければならない。我々がこぎやめれば、できた真空に他の勢力が入ってきて別の形で存在感を示すであろう。その意味でも、当面のアチェ和平プロセス(へルシンキ合意)が円滑にとり進められるために日本の支援が望まれている。 GAM兵士の社会復帰や、紛争で荒廃した地区の再建、更にはアチェ全体の経済・社会の底上げへの支援を検討していく必要があると思われる。


5.人的交流の強化
  インドネシアにおいて気になっており、我々としてこれまで攻めあぐねてきたのは、大学分野、更には国民レベルでの日・イ関係の強化である。日本には現時点でインドネシアの留学生が文部科学省留学生、私費も含め1,500人程滞在しているが、日本留学組が米国や豪州留学組に比し、指導層に余り見あたらないことは否定しえない事実と思われる。日本政府奨学金など無償のスキームのみでは、どうにも量的に限界があり、留学生の拡大、大学間の研究交流などに円借款を活用するなどODAの一層の活用を図ると共に、プルサダなどの日本留学生の組織やインドネシア・日本友好協会の活性化を通じて有識者層を両国協力の輪により強力に巻き込んでいくことが必要と考える。このような努力がまた、現在華僑ビジネス層を通じて世論工作を精力的に展開し始めた中国外交への対応にもなるはずである。

日本とインドネシア間の関係の強化に大変な役割を果たした一人のインドネシア政治家が「自分の政治生命もあと数年であることは十分自覚している。今急速に伸びつつある中国の影響力にどうやって対応して日本との絆を維持していくのか、自分として日夜心配している。この残りの政治生命を通じて何とかお役に立ちたいと考えている。特に国民レベルでの交流の強化なくして中国の進出に対抗できないと考えている。」と述べていたが、日本とインドネシアの関係が重要な局面にきているとの判断には共感を覚えたので紹介させて頂く。 ※本寄稿は著者の個人的見解を表明したものです。 (2013年1月22日寄稿)



「新興国シリーズ」 第9弾 2012-11-19
『アフリカの模範生、ボツワナの魅力』

第9弾 『アフリカの模範生、ボツワナの魅力』

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            前駐ボツワナ大使
            兼南部アフリカ開発共同体(SADC)日本政府代表 松山良一

日本から見るとアフリカは遠く、紛争、難民、貧困、飢餓、感染症の蔓延といった、「可哀想なアフリカ」のイメージが強い。アフリカのニュースの多くが暗い話題であることが一因ではあるが、未だアフリカは幾多の問題を抱え、援助を求めているのも厳然たる事実であり、人間の尊厳を守るため、貧困対策等の援助をしっかりやる地域ではある。
一方、90年代以降、東西冷戦が終焉し、国連による平和維持活動も奏功し、内戦が収まり各地に平和が訪れている。最近彼らにも自立心が芽生え、「援助は要らない、我々も自助努力で自立するので、民間の投資と貿易を促進して欲しい」と訴える国々も増えている。
南アフリカの北側に位置するボツワナもそうした国の一つである。ボツワナは日本では無名の国だが、英米では、ダイヤモンドと高級なサファリロッジで名声を博しており、一度は観光に訪れてみたい憧れの国の一つである。

(ボツワナの歴史)
ボツワナは、英国より1966年に独立したが、独立当初は舗装道路が全土で6キロ、産業は牛肉の輸出のみという、世界最貧国の一つだった。
独立の翌年、ダイヤモンドが発見された。鉱物資源の収益を為政者、あるいは部族が独り占めし、貧富の差が生れ内紛となった例が多い中で、ボツワナは幸運にも立派な歴代大統領に恵まれ、ダイヤモンドの収益を教育、医療、社会インフラの整備に投資し、国の発展に寄与して来た。
その結果、独立以来内乱は一度もなく、政治は安定し、治安も保たれ、汚職も少なくアフリカでのグッドガバナンスの模範生となっている。
今では、舗装道路は1万1千キロを超え、一人当たりGNIも7000ドルを超え、堂々たる中進国の仲間入りを果たした。

(建国の父、三長老)
ボツワナは、19世紀初頭からボーア人(オランダ系移民)の侵略に悩まされ、英国に保護を求めたが、カラハリ砂漠に覆われた不毛の地であり、英国は協力しなかった。1884年に、ドイツが西岸のナミビアを植民地とした事により、地政学的に状況が一変した。仮にドイツがボツワナを支配した場合、英国にとり肥沃な植民地であるローデシア(現ザンビアとジンバブエ)が、東岸のタンガニーカ(現在のタンザニアの一部)と西岸のナミビアを既に傘下に収めたドイツに直接取り囲まれることになり、漸く英国も重い腰を上げ、1885年ボツワナを保護領とした。このときに活躍したのが、代表的部族の長であった、バトエン、セベレ、カーマ三世(カーマ現大統領の曾祖父)の三長老だった。
英国の保護領となった後も、セシル・ローズ率いるローデシア、あるいは南アフリカとの併合問題が持ち上がった。その都度、三長老は知恵を絞り巧みな外交術で併合を免れ、1966年、英国からの独立を勝ち得えた。
この三長老の働きがあったからこそ、独立国家としてのボツワナが存在している訳で、今でも三長老は、ボツワナ国民から感謝と尊敬を集めている。

(ボツワナの国民性)
ボツワナは国土が58万平方キロと日本の約1.5倍だが、人口は202万と小さな国である。アフリカには54ヵ国あるが、部族の数は6000を越し、未だに部族の力が強い。ボツワナも20の部族から成り立っているが、大半は温厚なツワナ族である。国土の75%をカラハリ砂漠に覆われている厳しい自然環境で育ったお陰で、国民は我慢強い。恭順な態度を保ち、父兄長老を敬うという美徳もあり、彼らの拠り所は家族であり、部族である。伝統的文化にも恵まれ、兎に角陽気で元気だ。困った事があれば一人で悩むことなく仲間に相談し、軽やかに人生を楽しんでいる。
部族の長をコシと言うが、コシが各村落を治めている。コトラーという村の集会所で物事を議論の末、コシが裁決し、それに皆が従うという民主的な手続きを取っている。これがボツワナの民主主義の原点だと思う。
歴史的に英国の保護領であったが植民地ではなく、征服され搾取されたことはない為、国民は高いプライドを保持している。もっとも最近豊かになり生活に余裕が出てきたせいか、多少怠慢になっている面もある。

(ボツワナの魅力)
ボツワナの魅力は民主主義、人権尊重、法の支配を徹底させグッドガバナンスを享受していることである。国際機関が出している、投資環境ランキング、汚職度指数等々で、いずれもアフリカでトップクラスに位置しており、外国資本が安心して投資できる環境が整っている。日常生活で身の危険を感じることはまずない。
二番目の魅力は、太古の昔から自然のままで手付かずの鉱物資源と、観光資源である。
鉱物資源ではダイヤモンドの他にも石炭、銅、ニッケル、ウラン、白金、メタンガス、レアメタルが豊富に眠っている。ダイヤモンドは、金額ベースで世界最大の生産国であるが、ボツワナで研磨、加工も行い、原石だけでなく宝飾品も取扱うダイヤモンドの一大産業集積地を目指している。
観光資源は雄大な自然そのものである。国土の五分の一を動物保護区に指定し、環境保全にも熱心に取り組んでおり、まさに動植物、鳥類の楽園だ。世界最大規模の内陸湿原デルタのオカバンゴ(四国と同じ面積)、12万頭の野生ゾウが生息するチョベ国立公園、見渡す限り何もないマカディカディ塩湖等々ここでは、動物の自然のままの生態が身近で観察でき、俗世間を忘れ無我の境地になれる。
三番目の魅力は、首都ハボロネに南部アフリカ開発共同体(SADC)の本部がある事である。人口2億6千万人を有するSADCは地域統合の動きを強めており、ブラッセルのように、ハボロネに人と金が集まる仕組み作りに成功すれば、ボツワナは南部アフリカの中核として大きく飛躍する可能性を秘めている。ボツワナ政府は交通、教育、医療、新技術、農業分野での南部アフリカに於ける産業集積地を目指している

(ボツワナの課題)
ダイヤモンドのお陰で豊かになったが、カーマ大統領がいま最も力を入れている課題は、ダイヤモンド依存経済から脱却し、産業の多角化と民間部門の育成を如何に図るかである。
内陸国であり人口も少ないため、輸送コストが嵩み大きな阻害要因となっている。
電力、鉄道、橋梁等の社会インフラの整備も必要だ。
HIVの感染率も23%と高く、貧困削減と共に問題となっている。ボツワナ政府はHIVに感染しても発病を抑える薬ARVを無料で配布し、懸命に感染抑制に取り組んでいる。

(アフリカでの中国の動き)
中国は13億人の民を養うために資源確保と消費市場確保を狙い、積極的にアフリカへ進出している。資源の狙いは、原油、銅、ニッケルが中心であったが、最近はウラン、石炭、鉄鉱石まで関心を広めている。
中国の強みはトップ外交と社会インフラ整備だ。トップ外交では、日本の首相は戦後アフリカの6ヵ国のみを訪問したのに対し、台湾を承認している4ヵ国を除く殆どのアフリカ諸国を中国の国家主席、首相は訪れている。習近平も2011年に、副主席就任後最初の外遊でアンゴラ、南アフリカ、ボツワナを訪問した。
アフリカは道路、鉄道、病院、学校等の多くの社会インフラ整備を必要としている。これに対し中国は、インフラの見合い資金を融資し、資金を鉱物資源で回収している。この結果、中国人も多く進出しアフリカ全土で85万人が滞在している。(日本人は8000人)ボツワナにも12の建設会社が進出し、2万人の中国人が滞在している。
中国のアフリカ進出に伴い、国際社会の耳目をアフリカに集めたとか、道路等の社会インフラ整備が進んだ反面、コンプライアンス上の問題も散見されている。今後はOECDなどの国際ルールに沿った経済協力支援をどのような形で実施するかが課題ではなかろうか。この面での根気強い日本の貢献が期待されている。

(日本の貢献)
中国のアフリカでのすさまじい展開力に対する、日本の強みは人材育成、技術移転、産業振興である。共に汗をかき地道に相手国の経済発展に貢献することである。
こうした強みを生かし、アフリカ開発援助として、1993年から5年毎に開催しているアフリカ開発会議(TICAD)は、アフリカ諸国の好評を得ている。
但し最近中国、韓国、インドが同じ様な援助スキームを打ち出しており、TICADも新たな展開を求められている。鍵となるのは、官民が如何に効率良く連携するかである。即ち、社会インフラの整備を公的なODA資金で賄い、具体的な事業を本邦の民間企業が執行しうる仕組み作りである。これを実現する為には、多くの克服すべき課題がある。一例をあげれば通常7年要するODA案件形成の時間短縮、円借款案件の本邦企業のタイド化の工夫、アフリカの市場ニーズに見合った製品開発(高価格・高機能製品から低価格・低機能・高耐久性製品への転換)等々である。ボツワナとザンビアの国境を流れるザンベジ川を跨ぐカズングラ橋への円借款供与が決まったが、官民連携のモデルケースとなることを願っている。

また、鉱物資源は、資源を確保するだけでなく、アフリカにも何らかの付加価値をもたらす、Win-Winの発想が大切だ。
人材育成や技術移転は、日本が大いに貢献すべき分野である。ボツワナでも人材育成の観点で、関係各位の協力を得てNHKによるボツワナ教育テレビの立ち上げ、秋田大学による鉱山学部の立ち上げ、JOGMEC(石油天然ガス・金属鉱物資源機構)による宇宙衛星を使った資源探索技術の移転等々を手掛けた。
アフリカは10億の民を養い、今後人口が最も増える地域であり、人類最後のフロンティアとして、大きな可能性を秘めている。内向き志向をマインドセットして、多くの日本人がアフリカに挑戦してもらいたいと願っている。 (2012年11月12日寄稿)



「新興国シリーズ」 第8弾 2012-9-27
『メキシコと日本』

第8弾 『「メキシコと日本」』

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              前駐メキシコ大使 小野正昭

帰国して1年以上になるが、メキシコに滞在した者のご多聞にもれず、この国への関心は高まることはあっても衰えることはない。以下に、メキシコの国柄と日本との歴史的なつながりについて私的感想を述べてみたい。

1.メキシコの魅力
5百年前エルナン・コルテスの入植以来、メキシコは世界中から多くの探検家、宗教家、学者、芸術家等を惹きつけ、多数の紀行文、調査報告、絵画、写真を残している。 日本からは4百年前、最初のサムライ使節、慶長遣欧使節団支倉常長一行がローマ訪問の往路(1614)と帰路(1618)、二度に亘ってメキシコを訪問し、一行の多くがメキシコで洗礼を受けているが、同時に一行から離脱しメキシコに残った者も少なからずいたといわれる。その後、わが国は、最初の平等条約(日墨通商修好条約)をメキシコと締結(1888)、中南米で初めて日本移民がメキシコに入植した(1897)。以来、植物学者の松田英二、野口英世、イサム・ノグチ、藤田嗣治、北川民治、岡本太郎、三島由紀夫、三船敏郎、バイオリニストの黒沼ユリ子氏等メキシコに刺激を受け活躍してきた。

青のタイルの家-のコピー.jpg「青のタイルの家 メキシコシティ」
世界中の人を惹きつけるメキシコの魅力の源泉は何か。それはこの国の自然と民族の多様性にあると考えている。日本の5倍以上の国土の中に、北は砂漠乾燥地帯、南東部の熱帯雨林低地、5千メートル級の山が聳える広大な中央高原地帯に恵まれ、そこから多種類の動植物相が生まれた。

毎年、ベーリング海から2千頭のコククジラがビスカイーノ湾に子育てのために集まり、カナダから1億羽ものオオカバマダラ(モナルカ蝶)が4千㌔を飛んでミチョアカン州で冬を越すメキシコならではの自然の驚異(人々はクジラに触り、森は蝶の色に変わる)が見られる。

yuruginais.jpg「ゆるぎない信頼感」

メキシコは加害者(スペイン人)と被害者(先住民)との間に、痛みをもって生まれた国といわれる。また、大西洋のみならず太平洋に面していることからヨーロッパのみならずアジアの影響を受けてきた。三島由紀夫はマヤ神話「ポポル・ヴフ」の林屋永吉氏による日本語訳に「讃」を寄せて、「マヤ民族には幼児の尻に蒙古斑があるようで、これがわれわれにふしぎな民族的親近感を与えるが…」と述べているように、メキシコ先住民のDNAはモンゴロイドのそれと類似しているらしい。その後、スペイン人は銀鉱山開発のため黒人も動員したため、様々な混血が進んだ。メキシコは世界中から民族、宗教、文化を受け入れてきた開放的で懐の深い国柄だ。限りなく単一民族に近い日本の対極にあるたくましい国である。

国名と同名の首都メキシコ市はこの国の象徴と言える。30年前に都市学者ピーター・ホールはメキシコ市を「その規模において究極であり、その麻痺と混乱において究極である」と指摘したが、今日のメキシコ市は麻痺と混乱は、相当程度改善してきている。私はアステカの古代都市の上に世界中の文化が集積し、超富裕層と貧困層が混在する世界都市として究極だと考えている。あらゆるものを飲み込むメキシコ市は、活火山の名峰ポポカテペトル(5465m)の山麓に広がり、古代アステカの文化を継承しつつ様々な外来文化と混り合い、日常生活の中に独自の文化を生み出している。(この点は一橋大学、落合一泰教授の説く「世帯を超えた“柔らかな文化”の継承」が参考になる)

メキシコ政府は、普遍的な欧米の文明とは一線を画すメキシコ文化の独自性を積極的に世界に向けて発信している。私はメキシコ市のように世界に開かれたアメリカ大陸の交差点で、官民協力してメイド・イン・ジャパンを発信すれば期待以上の効果が得られることを実感してきた。メキシコ人は日本の文化や技術に強い関心がある。(他方、最近、中国や韓国政府も孔子学院や文化センターなどを通じメキシコ市における文化・広報活動を活発化している。)

2.北米にあるが中南米の国
メキシコ外務省の幹部にメキシコは北米の国か中南米の国か質問したところ、次のような説明があった。「メキシコは北米にあるが中南米の国だ、とよく言われる。確かにNAFTAは期待した以上の効果をメキシコに与えている。依然メキシコの輸出の8割は米国向けであり、一日100万の人が国境を通過し、米国の人口の10人に1人はメキシコ系である。米国との経済協力を通して、時間厳守といった生活習慣にも影響がある。米国を脅威ではなくパートナーとみるメキシコ人が増えた。オバマ政権になり中南米に対する米国の姿勢は以前ほど高圧的でなくなり、中南米の声に耳を傾け、交渉によって問題を解決しようとしている。」私は、今後、米国におけるメキシコの存在は、ますます増大していくものと考えている。
何度となく国境の町ティフアナから歩いて米国側に渡ったが、国境線が一本引かれているだけで見事に違う国だ。米国は秩序、清潔、無機質だ。メキシコは多様で柔軟、有機質だ。どちらを選ぶかは個人の好みだ。

太平洋戦争の暗雲が立ち込める中、メキシコのカリフォルニア湾を旅した米国の作家ジョン・スタインベックは「コルテスの海」の中で「メキシコ人がわれわれより幸福かどうか分からない。たぶん五分五分だろう。ただし、幸、不幸のチャネルが違っているのは確かだ。時間感覚が違うようにどちらも我がものとはできないが、異なっているということを知るだけでも得るものはある。」
さすが、あの「エデンの東」を書いた作家の洞察力だが、この指摘は今日でも通用する。

3.ブラジルとの関係
メキシコの外交官にブラジルをどう見るか訊いたことがある。彼は「ブラジルは中南米のリーダーになるべく外交努力を継続している。ブラジルにとってメキシコは中南米における唯一の競争相手だ。また、ブラジルの覇権に対抗できる唯一の国はメキシコだ。しかし、メキシコは地域での覇権を求めず、ブラジルと競争するつもりはない。ブラジルはメキシコの四倍の国土、倍の人口、豊かな天然資源と高い技術力を有する国だ。ブラジルは極めて実利的に物事を考えているのに対し、メキシコは原理原則に基づくという違いがある。それはメキシコが米国との国境を有し、外国の介入を受けてきた経験があるからだ。
メキシコは中南米の地域統合を目指し、その中にブラジルを含めるが、ブラジルはメキシコを外そうとした。NAFTAに署名した際もメキシコは中南米に背を向けたと批判された。しかし、今や、メキシコはこうしたブラジルの態度を黙ってみているわけではない。」と述べていた。今後ともメキシコとブラジルが中南米の牽引車になることは間違いない。

4.多角化への努力
カルデロン大統領は2010年ブラジルとの間でFTA交渉を開始し、また、本年6月にはペルー、コロンビア、チリの大統領との間で、物品、サービス、資本、人の自由な移動、及びアジア太平洋諸国との関係強化を目指す太平洋同盟(-Aliance de Pacifica-)の枠組みに合意した。更に6月17日のロス・カボスG20サミットにおいてメキシコはTPP交渉に正式招請を受けた。
リーマンショックのあとメキシコは多角化への動きを加速化させている様だ。他方において最近、ブラジルはメキシコとの自動車に関する経済補完協定(ACE55)の再交渉を求め、新たに輸入割り当てを設ける形で合意に至った。更に右を受けてアルゼンチンもACE55の一方的破棄を通告するなど自由貿易を原理原則とするメキシコとブラジル、アルゼンチン等国内産業保護に傾注する諸国との差は鮮明になっている。(右動きに対し、メキシコに進出している日系企業も迅速な対応を見せている。)

5.ペニャ・ニエト次期大統領の課題
本年7月1日の大統領選挙で与党、国民行動党(PAN)のバスケス・モタ女史が敗退し、野党、制度的革命党(PRI)のペニャ・ニエト氏が勝利した。前評判ほどの差はつかず、また、両院で過半数に至らないこともあり、かつてPRIが70年以上政権を維持した独裁的専制時代に戻ることはないとみられる。特筆すべきは、大方の予測に反してメキシコ連邦区で圧勝した民主革命党(PRD)をはじめとする左派が善戦したことである。
次期大統領のペニャ・ニエト氏は1966年生まれで、前メキシコ州知事。美男、財力を備え、アストロ・ボーイ(鉄腕アトム)、また守旧派の中の若手として「若い恐竜」と通称される。メキシコ州知事時代に姉妹都市のさいたま市を訪問し、トルーカ市で日系の人間国宝、ルイス・西澤画伯他の顕彰式を主催し、昨年の東日本大震災に際しては、自ら、見舞い金(1億円相当)を大使館に届けてくれた知日派である。新大統領の下で更なる日墨関係の進展を期待したい。

カルデロン大統領の果たした成果として特筆すべきは、2010年、日墨交流400周年を記念して訪日し、両国の戦略関係をグローバルなレベルに引き上げたことである。その結果、日墨科学協力が開始され、日墨EPA改定議定書が合意され、両国間の自由貿易が一層促進されることとなった。多国間の成果としてCOP16、G20の議長国として国際的発言力を高め、先進国と途上国をつなぐ役割で成果を上げた。
他方、現政権が次期政権に引き継ぐ課題は多く、エネルギー改革(元来エネルギー分野はPRIと深い関係があるとみられることから次期政権に期待する専門家は多い)、労働法改革はその中で重要なものとしてニエト次期大統領の手腕が注目される。対米関係ではメキシコ経済はリーマンショックから比較的短期間で立ち直りはしたものの、依然米国経済の行方は不透明であり、メキシコにとって引き続き経済の多角化は重要な課題となろう。麻薬組織との戦いは、連邦警察の整備、拡充等検討されようが早期の改善は難しいとみられる。また、アリゾナ等一部の米州における反移民法の問題は、今後とも重要なテーマとして引き継がれる。これらの問題は年末の米大統領選挙の帰趨に左右されよう。

6.「みなさんの兄弟であるメキシコ国民」
本年7月から8月にかけて福島県相馬市の子供たち22名がメキシコ政府・民間の招待により、メキシコで夏休みを過ごし、現地の子供たちと交流の輪を広げた。

gakuinseito.jpg「400年の友好を祝う支倉常長と日墨学院生徒」

国家間の関係の基礎は国民と国民の交流の積み重ねにある。私は常々そのように考えている。1609年に千葉県沖で難破したガレオン船を御宿の漁民が救った史実に端を発した日墨両国民の交流は、太平洋を挟んだ隣国として、はるか4百年以上前から「互いを助け互いを利する」という善意の交流によって形作られてきた。両国はともに地震国であり、これまでも関東大震災、メキシコ大地震、阪神淡路大震災でお互いに支援して来た。

「支援できることがあれば皆さんの兄弟であるメキシコ国民に遠慮なく声をかけてください。」これは東日本大震災直後、在メキシコ日本大使館の記帳簿に中学生マリアさん(カルデロン大統領の長女)が書いたメッセージである。「皆さんの兄弟」という呼びかけは、メキシコ国民議会の日本支援決議にも「兄弟国日本との連帯」という表現で一度ならず発せられた。このことは日本に兄弟のような親しみを感じているメキシコ人が少なくないことを示している。この親しい関係は一朝一夕で出来るものではなく、両国の国民の息の長い努力の賜である。ここで、あまり知られていない両国の歴史的なつながりを紹介したい。

7.日本とメキシコを結ぶ米国の存在
近代史における日本とメキシコの関係を振り返る時、米国の存在が、いかに両国の命運を左右してきたか、また、同時に米国が両国の絆を強める役割を果たしてきたかが見えてきて興味深い。以下はそのごく一例である。

時期は異なるが、両国ともに米国と戦い、そして敗れた屈辱の歴史がある。
1845年独立後の混乱期のメキシコは、マニフェスト・デスティニーを掲げる米国にすきを突かれテキサスを失い、米墨戦争をしかけられ、国土の半分を失った。この時、対メキシコ戦で戦果を挙げた米軍人の一人が、それから6年後に日本を開国させたペリー提督である。ペリー提督は幕府との交渉においてメキシコ戦での体験を積極的に活用したのだ。1852年、日本遠征の途次ペリーは、ポルトガル領マデイラからケネディ米海軍長官あての書簡の中でメキシコでの経験をもってすれば「日本は米国の圧力に屈服した後、いずれは、かつての敵、米国を友人とみなすようになる」と自信のほどを述べている。

ペリーは、自ら監督として建造に携わった最新のフリゲート艦ミシシッピ号で1847年ベラクルス砦を攻撃、4日後にはメキシコ軍を平定せしめた。この時の戦略は、敵に必要以上の圧倒的戦力を見せつけて戦意を失わせ、降参させたのちに懐柔する戦法である。まさに、1853年に江戸湾で同じミシシッピ号が示した恫喝し、屈服させた後懐柔する戦法である。幸いこの時は、ベラクルス砦を攻撃したペクサン砲(炸裂弾)は火を噴かずに済んだ。日本側との交渉において、ペリーは、林大学頭に対し「最近、米国は、メキシコとの戦争に勝利し、メキシコ市まで占領した。戦争の準備はできている。事と次第によっては、日本も同じ苦境に立つであろう。」と威嚇し、幕府側に、念のため必要な時に使用するよう白旗二流を差し出したり、老中阿部正弘にケンダルの絵入り書「米墨戦争」を贈呈したり、と徹底したゆさぶりを掛けた。ペリーは、対メキシコ戦争の勝利を対日圧力の梃にしたのである。(因みに幕府側はペリーが来る前、既に米墨戦の顛末は承知していた由。)

司馬遼太郎は、「日米間の尽きざるゲームは、この1853年から始まる・・・幕末の騒乱はペリーのドア破りから起こり、15年後に明治維新が成立した。」(「アメリカ素描」)と書いている。1867年が日本の近代化の始まりであるとすればメキシコもまさにこの年にマキシミリアンの帝政が倒れ、フアレス大統領の近代化が始まる年であった。この時、仏国が支援するマキシミリアン軍に対し、守勢に立ったフアレス軍に資金と弾薬を提供し、挽回を可能にしたのが米国であった。まさに「昨日の敵は今日の友」が歴史の現実だ。しかし、メキシコ人の反米感情が消えたわけではない。

尚、それから80年後の日米開戦に際し、メキシコはやむなく米国と共に対日宣戦を布告したが、多くのメキシコ人は、心の中では米国よりも日本を応援していたという話は、今でも語り継がれている。また、戦後、メキシコは1948年の国連総会で、日本との講和条約締結を提案し、日本の国際社会への復帰を積極的に支援してくれたのである。

8.科学の黒船の来日
記憶に新しいことであるが本年6月6日、金星の太陽面通過が話題となったが、そのめったにない機会の一つが約140年前、1874年(明治7年)12月9日に訪れた。メキシコ政府は、自らの科学技術の高さを国際社会に示す絶好の機会であるとして、国内的には苦悩の時代ではあったが、観測に最も適したアジアに観測隊を送る英断を下した。当初、ディアス・コバルビアスを団長とする金星観測隊は、中国での観測を予定していたが、移動の途次、サンフランシスコで日本の領事の話を聞き、領事から横浜市への紹介状も得たことから中国行きを急遽変更して日本で観測することになった。開国直後の明治ほど日本が、海外から学ぶことに熱中した時代はない。メキシコの天体観測隊を乗せた船は、日本にとって200年に亘る鎖国後初めて迎える科学の黒船であった。

一行が横浜に到着した際、横浜税関長柳谷謙太郎氏は、即座に全面協力を約し、観測機器の船荷をほどくどころか一切検査せずに個人の荷物までその日のうちに通関の取り計らいをしてくれた。(「ディアス・コバルビアス日本旅行記」大垣貴志郎・坂東省次両氏訳)尚、柳谷謙太郎氏は柳谷謙介元外務次官の祖父にあたり、横浜税関長の後サンフランシスコの領事として条約改正に尽力された。明治政府は、外国人居留地外の滞在を認めなかった当時の政策にも拘らず、横浜野毛山に観測所の設営を認め、海軍士官らの応援を送り、できるだけの便宜を図った。開国後間もない新政府が、在外公館、外務本省、横浜税関等国内官庁間で示した迅速な連携プレイは見事というほかはない。

日本の対応にメキシコ側は深く感銘を受け、帰国後コバルビアスは日本人の優れた国民性を讃えて、日本との外交関係の樹立、日本人移住者の受け入れを政府に進言する等、後のメキシコの親日政策の伏線となった。観測隊が成功裏に観測を完了した後、田中不二麿文部大輔は「西欧列強が武力でアジアに進出している時、メキシコは科学の手を差し伸べてくれた」と感謝の辞を述べている。

9.メキシコから学ぶ
在メキシコ日本大使館が最近、対日世論調査を実施した。調査は回答を選択する方式で行った。その中で「あなたが有している日本人のイメージ如何」という質問に対する回答の選択肢に、肯定的な回答のみならず否定的な回答を入れて、より本音を聴取する試みを行った。結果は、「創造性がある、勤勉である」、といった肯定的評価に加えて、「理解困難、頭が固い、自己中心的」との否定的回答が少なからずあった。兄弟であるメキシコ人からの率直なコメントである。

今日まで我が国は、「島国であること」と「限りなく単一民族に近いこと」をその発展のよりどころとしてきたが、同時にこのことが対外的に「理解困難な日本人」のイメージ形成に繋がっているのではないかと思う。日本及び日本人をより良く理解してもらうため一層の努力と工夫が必要である。特に新興国との間で、こころざしのある多くの若い人材が積極的に交流できるよう、日本を外国人の住み易い社会に変えていかねばならない。前述したように我が国の対極にあり、また、共に非西欧の国として近代化の歴史を有するメキシコとの間で学び合うことも多いと考えている。(2012年9月18日記)






「新興国シリーズ」 第7弾 2012-8-23
『ナイジェリアからの四通の手紙』

第7弾 『ナイジェリアからの四通の手紙』

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   前駐オーストリア大使 元駐ナイジェリア大使 田中 映男


ウドマ・ウド・ウドマの手紙
懐かしい手紙ありがとう。ボクは約束通り2期で上院議員を退いて弁護士事務所に戻っていたが、昨年頼まれて民間企業の会長を引き受けた。ナイジェリア最大の製造業のコングロマリットだけど、無論無報酬だ。此の国に大規模製造業を根付かせて雇用を生み出したい。そういう大きな方針を打ち出した。まずナイジェリアの今を君に伝えよう。オバサンジョ大統領が2期で退いた後に、国外に不安を与える大統領が続いたから君は心配しただろうね。

経済成長と過激派
経済成長率は2003年から2010年まで年平均7.6%で、インフレは13%、2ケタの下の方だけど、失業率は残念ながら相変わらず3割を超える。   
人口は1億6千7百万人まで増えたが青年の職は増えていない。国民の平均年齢が19、1歳だというのに!事務所の所在する南西部ラゴス州でも、選挙区のある南東部アクワ・イボム州でも、教育を終えず、機会を得ないまま犯罪に手を染める若者が多い。

上院議員時代に議員歳費を基に始めた貧困家庭への奨学金はまだ続けているよ。父が始めた企業弁護士事務所の仕事で十分やっていける。
貧困は犯罪の温床だけれど、南部石油産地で武装した少数民族の若者が石油企業と外人を誘拐する問題、更に昨年から目立つ北部各州のボコ・ハラムの跋扈はそれだけでは説明がつかないと思う。デルタ州など南部諸州には30年来多額の公的資金が流入しているのに、電機や水など基礎インフラも無い。原理主義者がカノなど北部の回教州で調教している少年と若者は全寮制のイスラーム学校でリクルートされている。そこには誇りと尊厳の問題があると思う。

今では国民の半分が街に暮らし、派手な西欧文明に引き寄せられているのに、貧乏な若者の手には入らない。例え大学を出ても職がない。見せつけるだけで消費文明をピシャリっと拒絶されている。人間の心理はそれならこちらから願い下げだ、となる。ボコ・ハラムは北の村々に伝わるイスラーム信仰ではない。教条主義的で、理屈っぽく、個人主義的で、遠く親元を離れて寄宿舎暮らしで長老の言う事も利かぬ。神のみが絶対の権威であれば、自分は何でも神と決める、選ぶという思い込みが強い。

「西欧風の教育はハラームだ(神聖にあらず)」と決めつければ、(西欧文明を)全否定するようで耳に心地良いのだ。シェイク・ハッサン(君と食事した全ナイジェリア回教徒連盟会長の大学者だ)は、コーランのどこにも「自爆すれば永遠の命が約束される」とは書いてないと言った。少年達を心酔させ、学校や警察、教会を爆破して廻ったユスフという男は、4人の妻たちと贅沢に耽ってベンツを運転していた。これでは回教を利用したビジネスだ。彼は死んだが後継者たちが集団を乗り回している。アルカイーダとの関係は判らないが一部の回教国から資金が流れている、と言うのが恐らく真相だろう。

石油と経済改革
 1960年独立直後タファワ・バレア首相は、枕元に、初めて採掘した茶色の液体の入った小瓶を置き、これでこの国の将来は安心だと息を引き取ったけれど、石油が経済を振り廻しここまで政治と社会を難しくするとは予想もしなかったろう。石油採掘に依存する国家運営を続けて農耕意欲が衰え、耕作率は3割まで下がった。どこに行っても見渡す限り平坦な土地が放置されている。独立までの穀物輸出国が今では輸入国だ。

原油生産量(日産2,2百万バレル)は、少数民族のパイプ破壊や誘拐など問題は山積していても、実は英米蘭企業が「国有化を一度も口にした事の無いナイジェリアを評価」しているから増産が続くだろう。随伴ガスの生産と液化では日本企業も参入の機会はあるのでは。石油産業は、透明化と製品自給率向上が課題だが、民政移管12年でどれだけ進捗したか、といえば遅いとしか言いようがない。非石油産業について言えば、助成策の効果と外資導入のお陰で、或る程度成長し多様化した。しかし連邦政府も州政府もまだ石油に依存している。連邦政府は36ある州政府と収入を折半している。

36州を更に6つのゾーン(政治利益地域配分)に分け、予算だけでなく大臣ポストも大使ポストも公平に分けている。何と言うか、パイの大きさ(GDP10年で倍)より分配の方に関心が集中するんだ、此の国の国民性は。ビアフラ戦争で3百万人の犠牲を払った国民は、地域配分の「公正さ」を憲法より重視する。

今ボクに出来る事は実業家として国の経済の基盤を築くことだと思う。経済インフラ整備と改革の続行については現政権の努力を注視する。5年前ボクは議会に居てオバサンジョ大統領の経済改革、民営化を助けた。あの頃アベオクタの大統領の私邸で君やエル・ルーファイ首都圏相と良く出逢って、三人でいろんな事を相談したネ。君は外交団の窓口だった。北部の貧しい出だけれど節を曲げないルーファイが、オバサンジョの参謀として政治配慮を外して容赦なく立案した改革パッケージだから、ボクも議会で政府を支えた訳だ。

ンゴジ(オコンジョ・イウエアラ蔵相)やオビ(エゼクウエシリ教育相)など世銀がUNDPの資金で送りこんだ経済改革チームの女性達も、献金を受け取らないから政治家に嫌われた。選挙資金はいらないからね。勇気のあるドラ(アキュンユイリ食品薬品規制庁長官)など、全国の市場でニセ薬の山を燃やしたから、追い詰められた企業から自宅に放火されヒットマンを送りこまれた。娘の手を引いて屋上に逃げたら、そこに「突然現れた警官に射たれた」ほどだ。当時流通する薬の8割までがニセモノで、ドラの妹もそれで死んだそうだ。ドラは妥協せず腐敗せず業者に憎まれたのだ。ボクは君も知る通り、政治活動は自分で賄うから、一切金を受け取らない。現金を詰め込んで膨れた麻のガーナ・バッグを全議員宿舎に配って廻る政治家も、ボクの宿舎の前だけは「疫病神の如く」避けて通っていた。

かつて、シラック大統領とブッシュ大統領を説得して2006年にパリ・クラブから公的債務のライトオフ120億ドルを取り付けた手腕を持つ、ンゴジがジョナサン大統領に請われて蔵相に戻ったよ。ビアフラ内戦の時、高熱の妹を背中に縛り付けて病院まで20キロの路を走り抜き、(待合室に数千人の患者が寝ていたので)4階の医者の部屋まで外壁を登攀して医師に直訴した逸話を持つ程の彼女の強い意志と、世銀副総裁の時の国際金融界人脈が再び役立つよう祈る。彼女の率いる改革チームを大統領がどこまで支えるかに今後は掛っているね。エル・ルーファイはハーバードで学位を取った後戻って政策を批判的に分析する研究所を立ち上げた。与党はボコ・ハラム跋扈を汚職事件の隠れ蓑に利用している、と近頃批判しているよ。

オバサンジョは自ら選んだ後継ヤラドゥアが病死して、政治基盤を持たないジョナサンが継いだ時汗をかいたが、昨年4月の選挙で彼が当選して安堵したようだ。ボクは2007年の時、大統領の取り巻きが憲法を改正して三選を目論んだのに強く反対して以来与党から声がかからないね。大統領より、州知事が問題なんだ。取り巻きは自分が三選したかったんだ。二選した現職に敵う対立候補などいない。憲法を変えてオバサンジョの経済改革を続けたとしても、国庫の5割を分配する特権を握る州知事が三選されて個人的な富を一層増大させるような事があちこちで起きれば、社会の不満はとても尖鋭化しただろう。
30年間で8回に及ぶクーデターの後で、12年間のオバサンジョの民主主義定着の実績は認めるけれど、これからは正に政治家が国民に民主主義の配当を分配しなくてはいけない。

ナイジェリアの今後
君はボクに此の国の将来を聞いた。当時君の公邸で日本の財務省のエライ人に紹介された時にも言ったけれど、ボクは断然オプティミスティックな見方を取る。アフリカ大陸の中の地政学的な状況を見れば、人口でも経済力でも、ナイジェリアがリーダーシップを取らなくて誰が取るのかね? 西アフリカ共同体から始めて大陸全体に経済的影響力を及ぼして利益を与え、大陸全体の発展を図るんだ。他にアフリカが希望を持つシナリオは描けない。
見るべきポイントは、軍事的安定とエネルギー、それに食料供給でナイジェリアが自給を達成し、西アフリカ共同体と協力出来るかだ。ナイジェリアは近隣国、周辺国の兄貴分として自覚と責任がある。これはどの政党も共通している。

プロフェッサー・ボゴロの手紙


 地方政治の実態
バウチ州ではあなたの友達だったムアズ前知事が去って、多くの事が変わりました。農場から町まで彼が舗装した道は崩れ、代わりに新知事の友人の路が建設されています。政治にも雨季と乾季があって、その改善には年数が必要なようです。北の貧しい暮らしに変わりはありません。子供は裸足で畑仕事、遠くの河や沼から片道二時間かけて水を運んで親を助けます。食べ物はあるのですが、学校に行けません。自分も貧しく育ったムアズは、タファワ・バレア初代首相を尊敬して、教育に力を注いで呉れました。オバサンジョ大統領の力を背景にして経済改革を州レベルで進めて業績を上げました。大統領後継者に擬せられた事もありましたね。多数の学校と住宅を公費で建設しました。公設市場も整備しました。他の州知事のように豪華な私邸を各地に立てて妻たちを住ませる事はしませんでした。それはわたしの目から見れば、立派でしたが、残念ながら二期で退いて、彼の選んだ後継者は選挙で現知事に敗れました。現知事の方が満遍なく食べさせたからだと言われます。有権者はここでは、目の前の一椀の粥、一枚の紙幣に忠実を誓うのです。食べさせてくれる人がご主人です。南部イバダンの政治ボスとして高名なラミドゥは、文盲で高齢ですが、毎朝自宅で二千人に粥を振る舞うから、人望があります。イバダン・マーケットを歩けば声が掛り、贈り物の鶏が降ると歌われます。だから彼の決めた候補が市長や議員に当選するのです。

教育と政治改革
あなたはわたしに此の国の将来を聞きます。わたしは楽観的です。ボゴロ族は人口50万に満たぬ北部の少数民族です。全国に200以上ある主要民族とは比べるべくもありません。だから部族の皆が少しづつ、食事を節約して力を合せ私を大学に送ったのです。初めての大卒です。だからこそ教育の持つ社会的インパクトが実感できるのです。ムアズの功績が見えたのです。わたしは今もバウチ州立大学で教えています。教員養成です(神の御加護で新知事はわたしの教え子にも教職を与えてくれます)。英国の残した遺産のうち、教育と司法は質が良かったと言えるでしょう。わたしの先生も立派な方でした。でも40年経つと待遇が変わり、給料も遅配して質が劣化したのです。毎年わたしの教え子はバウチ州の小学校に散って行きます。そこで読み書きに加え、国民意識を教えています。もう南北の利益分配の時代を終わらせなければなりません。

加えて私は、ナイジェリア人の政治意識を育てる運動を始めたのですよ!選挙の時だけでなく、その前から意識して候補者と政党の主張、活動をウオッチする習慣を付けるのです。去年の選挙の際、本物の自由で、自主的な選挙を体験させたいと決意して、ボランティア組織『穏やかな選挙をナイジェリアに国民連盟』(NAPANナパン)を立ち上げました。百ナイラ札と棍棒でなく、自分の頭で考えてから投票所に向かおう、投票した後も結果を見届けようと呼び掛けています。昨年の選挙の後、野党が利益誘導で切り崩されて政権党ばかりが肥大するのに反対の論陣を張っています。多少効果はありました。反響は小さくなくて、欧米紙の特派員のインタビューを受け、新聞にナパンの活動が取り上げられました。

水の問題
最後に農業用水と生活用水の件ですが、どちらもあなたのイニシアティブは活かされて、ナイジェリア人のNPOが活動を続けています。稲作をするヌペ族の田では日本式の簡易灌漑農法が普及しています。北朝鮮の農業専門家はもう居ないようです。飲用水についてカーター財団に照会したところ、寄生虫が流行する村落内に井戸を掘り、沼に薬を散布し続けた結果、飲み水を媒介にするギニア・ワーム寄生虫はここ2年ナイジェリアでは症例が無いそうです。

ワンリ・アキンボボイエの手紙

ナイジェリアの可能性とベンチャービジネス
街は雨季で下水溝が溢れ、道は茶色のプールみたいだ。車が通るたび頭から水を浴びる。アキオの知っているラゴスは全然変わらない、残念だけど。尤も、君は40年前のラゴスを知っていて、空港までの路も橋も雑踏も変わらないと言ってボクを驚かせた。もっと驚いたのは無論三年前君を訪ねて日本を見て回った時の事さ。ショックを受けた。人はここまで完璧に、綺麗に出来る!

さて、君の質問に答えよう。この国の将来を聞かれたが、ボクは、輝く様な可能性に満ちていると確信しているね。ラゴスの街の雑踏を見てくれ。路肩で、人ごみで、空き地で、あらゆる場所であらゆる物が、ピストルから便座まで売られ、盗まれ、追い掛けられているじゃないか。人の汗と怒号と駆け足の音がもしGNPの先行指標だとしたら、ラゴスは世界一だ。ボクは米国留学から帰国してナイジェリアをじっくり見て考えた。何をしようか。可能性があって、国民に合っているのが観光と芸能と警備だ、これからのビジネス・チャンスだと判断して会社を立ち上げた。ラゴスのプライベート・ビーチにホテルを、市内にクラブ・レストランを建てた。そこで客に演劇と音楽ショーを見せるために劇団と楽団を作った。メンバーは全員(歌手を除いて)ボクがラゴスの路上で見付けて、厳しく躾けてから音楽と演劇を修練させた若者だ。

昨日までは家もない乞食でも今じゃ礼儀正しいだろう?地面に顔を付け、両の拳で胸を支え、つま先だけで体を支え、キミの言う「腕立て伏せがつぶされたような格好」でグッドモーニングと挨拶しただろう。あれが南部の伝統的な最高のお辞儀で、王族への挨拶だ。あれが出来るから、彼等は座っても立っても見事な挨拶をする。何処へ出しても恥ずかしくない連中で、ぼくの自慢だ。日本からもツアーが来ると思う、いつか。警備会社は別に創業した。益々多くの銀行から現金輸送を委託されている。政治家の防弾車の改造も利益を出す。警備員は軍隊の秩序で訓練し昇進させている。要人警備と現金輸送では強盗団と銃撃戦を交わすから、最高の防弾設備を施した車両に、催涙弾ミサイルを発射出来る床下機銃座を付けて運転させる。惜しまず実弾射撃訓練を繰り返し、射撃戦なら「絶対に勝つ」水準まで腕を磨いてあるから、街の不良共から一目置かれている。昇進は給与に反映して、雇用年数に応じた住宅資金の低利融資制度も作った。皆が制度があると知っている事、いつかは自分も恩恵に与ると思う事が大事なんだ。士気が高いだろう。

ところで女性歌手のアラを日本に連れて行きたい。とてもスピリチュアルだろう。伝統楽器トーキング・ドラムを女性で初めて、長老から学んだことがキッカケだな。ラゴス大学の法学部卒なのに、ヨルバ族の魂を歌いたいという。有名になってユネスコにパリまで呼ばれたり、米国で有名歌手とレコーディングしてるけど、何故かどんどん謙虚になるんだ。舞台で伝統の音に浸るほどそうなるらしい。日本人の心に通じる何かがあると思わないか?

ナイジェリアと日本の文化の共通点
そこでボクはアラが主演する戯曲を作った。君は見たね。史実に基づく奴隷王子の流離譚だ。ヨルバ族に伝わる伝統や芸能には日本と似たものがある。日本のお祭りに似た祭りもある。「イファ占い」は左手の中に握りこんだナッツを右手で八回掴み、そこに現れる偶数奇数の八位置を記し、64種類のパターン毎に伝わる詩章を術者が歌いながら占うから、日本の筮竹八卦に似ていると思う。年功序列が重んじられる日本では今でも村の長老が若い者の話を、祭りの夜などに聞く、というがナイジェリアでも同じだ。相談でも、取り調べでもない、唯長老が集まって茶を飲みながら、ゆっくり時間をかけて耳を傾けると、いつの間にか村の揉め事は皆解決しているんだ。

三重県で見た上げ馬神事は、その結果でその年の豊作凶作を占うけど、ナイジェリア北部では伝統的首長エミールの王宮の前で3、4百頭の馬を責めてダーバという馬比べ神事をして占う。似ているね。そんな類似点が多いから、日本の長島温泉で見た七色の温泉と遊園地の複合観光施設をぜひラゴスにも作りたいと計画している。最後に、ボクの娘ニフェは7歳になった。君さえ良ければいつでも第二夫人として嫁に出すつもりで磨いているのを忘れないで欲しい。

プリンス・ジェリーの手紙

ナイジェリアの暮らし
わたしの暮らしは相変わらずです。火事で家が燃えてしまった後、アブジャ郊外に掘立小屋を建て、妻と赤子の3人、汲んで来た水で米を炊き、干し魚と少しの野菜で汁を作り親子水入らずの暮らしです。俳句や詩では食べられないけど、広告宣伝の方で時折収入があります。

小学校訪問と俳句コンテスト
あなたと小学校を廻って英語俳句コンクールを開催したことは今でも嬉しい記憶です。警備に神経質な小学校を12も廻れた事が驚きでした。校門で待ち受けて国旗を振り、歌と踊りで歓迎してくれた生徒たちを思い出すと、この国もまだまだ捨てたものではないと思えます。耳を澄まし、一言も聞き逃さないと食い入るような瞳を大使に当て、一心にメモを取る姿は、努力をすれば報われるんだ、という信仰を感じさせました。一体何歳であの子らが、人生に希望を捨て世の中は運とコネだと思ってしまうのか、残念な気がしてならないのです。

コンクールで第一席に入選した句は、砂粒の混じるじゃりじゃりした粉食や硬い玉蜀黍を常食にする子が、たまに食べる米飯の満足感を素直に表現したものでした。

eating a plate of rice/コメ食うて
makes me feel/ボクは世界の
I own the world/親方や(ビクター・テヒルメン)

ナイジェリア・ハイク・ソサエティはお陰で会員が増え、日本俳句協会からも認定を受ける事が出来ました。感謝しています。それから立て替えて頂いた、日本俳句協会の入会費については今しばらく待ってください。どうぞお元気で。 (2012年7月30日寄稿)



「新興国シリーズ」 第6弾 2012-8-2
『共に歩む地震兄弟国、日本とチリ』

第6弾 『共に歩む地震兄弟国、日本とチリ』

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     前駐チリ大使 林 渉

はじめに
中南米の優等生と呼ばれるチリはこの地域では政治的、経済的に最も安定した国と言って良い。治安もよい。今やOECDメンバー国である。また、日本とは1世紀以上の友好関係にあり、これといった懸案もない。強いて挙げれば日本の調査捕鯨に明確に反対していることぐらいである。他方、日本とチリのネガティブな類似点の一つとして両国とも地震・津波の多発国であることが挙げられる。この50年だけでも1960年に東北地方を襲ったチリ津波を始め両国を巻き込んだ地震と津波が多数発生している。在勤中にも両国で大地震が発生し、津波が多くの人々の命を奪った。チリで経験したこと、感じたことを略述したい。

1. 中南米の優等生チリ
(安定した政治経済情勢)
南米の優等生として引き合いに出されるのは常にチリである。ピノチェット時代の人権抑圧という暗いイメージが完全に払拭されたわけではないが、安定した政治経済情勢、汚職の少なさ、透明度の高さ、治安の良さなど、確かに優等生と言われるにふさわしいというのが実感である。アメリカにとりチリは特に経済的に重要というわけではないが、中南米における民主主義のモデル国という意味で重要国と位置付けられており、米国にとってもチリは優等生である。ピノチェット後の中道左派政権が20年続いた後、2010年3月に中道右派の現ピニエラ大統領にバトンタッチされたが、本質的な政策の相違点は見いだせなかった。2010年の建国200周年記念式典にピノチェット後の5人の大統領がそろい踏みしていたのは圧巻であった。

チリの経済は発展しており、2011年の経済成長率は6%で、2012年は4~5%程度と予想されている。好調な経済の背景には一貫した市場重視の開放的な自由主義経済政策がある。銅価格が基本的に高めに推移しているのが強みである。しかしこのことは、銅への依存度が高いという脆弱性も示している。

「安くて良いものを世界から」という貿易開放政策は、奇しくも2010年に世界の注目を浴びた33名の鉱山労働者の救出にも貢献したと思う。ピニエラ大統領は、救出に最も効果的な機器や技術を世界中から調達した旨述べたが、日頃の実践がものをいったと言える。例えば、同僚オーストリア大使によれば、テレビ画面によく映っていた大きな滑車と救出用カプセルを吊るすワイヤーは、ケーブルカーの機器や技術に優れているオーストリアのものである。救出劇を実況で見ることが出来たのは日本の技術のおかげである、とチリの新聞が書いた。
前々任地コロンビアも、そのネガティブなイメージにかかわらず優等生になる素質は十分備えていると思うが、治安問題(最近の改善は目覚ましいが)の他にも透明性などにやや疑問符が付くし、インフラの整備状況でもまだかなり差をつけられている。チリとコロンビアは補完的に発展していける関係にある。互いに貿易や投資が盛んであるのみならず、コロンビアはチリから合理性、透明性、計画性等を学んで発展に役立てることができるし、チリはコロンビア人の親切さ、サービス精神、文化の香り、情熱等を感じ取って生活を更に豊かにすることができよう。最近注目を浴びている太平洋同盟(チリ、コロンビア、ペルー、メキシコ)にあってこの両国は指導的役割を演じており、今後の展開が楽しみである。

(治安の良さ)
優等生的要素の中でも特筆すべきは治安の良さである。行きたいところには特別の安全対策なしでどこへでも行ける。ただ、一般犯罪は結構起きる。日本よりずっと多いのは勿論、コロンビアよりむしろ多い印象である。従って十分注意する必要があるのは他の国と変わらないが、誘拐は無に等しい。コロンビアでは防弾車に乗り、かなりの人数の警護がついてくれたが、チリではかかる治安対策は全くのゼロであった。私用車で自由に行動できた。象徴的だと思ったのはアメリカ大使ですら私用車を一人で運転していることがあったということである。コロンビアでは想像だにできない。

(それでも残る貧富の差とその問題)
このような優等生チリではあるが、他の殆どの中南米諸国と同様に貧富の差は大きく、社会問題の背景をなしている。確かに大きなスラム地域は見かけないし、極貧の割合は低く、全体が底上げされているが、格差の程度は南米諸国の中でも大きい方で、感じとしてはコロンビアよりむしろ大きい。また、人口の40%が集中する首都サンチャゴと地方の格差も大きい。サンチャゴの近代的な高層ビル街やよく整った高級住宅街に比べ、地方は一部の観光地を除き一昔前の様相である。2010年のチリ大地震の際、震源地に近く被害が最も大きかったコンセプション市などで略奪行為が発生したが、その背景には貧富の差に対する日頃の不満があると言われる。

大きな貧富の差がもたらしている最大の今日的課題は大学教育をめぐる問題である。あの優等生のチリがどうして、と思ってしまうほどの乱闘シーンがテレビで盛んに報じられていた。教育改革を求めてデモ活動、破壊活動をする大学生・高校生と警察との間で繰り広げられる光景である。チリにおける大学教育費は高いといわれる。豊かな家庭にとっては何の問題もなかろうが、チリの大学生の7割はそれぞれの家庭で初めて大学進学を果たした子弟と言われている。このことはチリでは大学教育が急速に普及したことを意味し、それ自体は賞賛すべきことであるが、他方では多くの家庭が高い教育費を追加的に支出する余力に乏しく、奨学金に頼ることとなる。チリではこの奨学金貸付がいわばビジネスで、銀行が奨学金を貸し付け、年率6%で回収する。めでたく卒業して高給にありつければ問題ないが、現実はそういかないケースも多い。年率6%の利子を含む奨学金の取り立てが深刻な社会問題を引き起こしている。学生を中心に教育改革を求める人々は、教育を収益活動の対象とするのは許せない、政府は教育を市場経済に任せるべきでなく大学教育を無償化せよなどと主張している。この問題解決の見通しは未だ立っていない。中南米の優等生チリが名実ともに優等生国家として質的にレベルアップするためには、この教育問題の克服、ひいては貧富の格差問題への対処は避けて通れない課題であり、近隣国もチリの対応ぶりを注目している。

1. 恒久的な友好関係
(日本海海戦をめぐるエピソード)
日智関係を語るとき、ほぼ必ず言及されるのが日露戦争における日本海海戦で活躍した巡洋艦和泉である。チリ海軍は、19世紀後半の南米での太平洋戦争(チリ対ペルー・ボリヴィア)で失ったエメラルド2世号の後継艦を英国に発注し、エメラルド3世号とした。チリ海軍が10年ほど使用した後、日本海軍のたっての要請に応じ売却し、日本で和泉と命名された。和泉は信濃丸がバルチック艦隊を最初に見つけたあと同艦隊をフォローし続け、その勢力、陣形、進路などを詳細に東郷提督に報告して日本の勝利に多大の貢献をしたとされる。東郷提督は同巡洋艦の働きを大いに讃えるとともにチリ海軍に感謝状を贈っている。「坂の上の雲」では残念ながら和泉とチリとの関係は記されていないが、このエピソードを知れば日本人はチリに対し友情を感じること間違いないであろう。東郷提督はチリにおいても偉大な提督と評価されている。日智両国が恒久的友好関係にあると思う歴史的所以である。

(日智関係の「顔」)
今日の日智関係にある程度関心を有する人であれば必ず思い浮かべるのがチリ随一の鉄鋼会社CAPの会長アンドラーカ氏である。同氏は日本の某大手商社と40年を超える緊密な付き合いがあり、日本を80回以上訪問している。いわばパーマネントな「日本大使」みたいな人であり、同氏を知らずして日智関係を語るのはモグリと言って良い。着任後間もなく、日智関係における人脈の強さとその効力を思い知ったのは日智EPA発効のためのチリ側手続きに関連してのことであった。チリ国会による日智EPAの承認が議事日程等の関係でなかなか進まず、バチェレ大統領訪日時における発効が風前の灯になった最後の最後でアンドラーカ氏は猛然とロビーイングを行い、その他の協力者のおかげも有り上院はわずか1日でこれを承認した。バチェレ大統領自身が「最善を尽くすが大変難しい」と筆者に述べていた案件であった。更に憲法裁判所の承認も必要ということとなり、もはや間に合わないと思われるに至った際も、同氏による旧知の憲法裁判所長官への働きかけが奏功し(筆者はそう信じている)、数時間で承認手続きを終えることが出来た。このような迅速さは前代未聞と聞いている。

(日本は好感度ナンバーワンの国)
2008年6月、国際捕鯨委員会(IWC)総会がサンチャゴで開催された際には、我が国による調査捕鯨への反対キャンペーンが活発に行われ、大使館や公邸にもデモ隊が押し寄せる状況であった。たまたまその時期に、チリ人に対し諸外国への好感度調査が行われ、調査捕鯨反対キャンペーンのネガティブな影響が懸念されたが、日本はドイツと並んで好感度ナンバーワンの国であったことは特筆に値しよう。

(補完的経済関係)
日本とチリの貿易バランスは圧倒的な日本の入超であり、日本はチリの最良のお得意様といったところである。日本とチリは輸出入品目の観点から、また季節的にも補完的関係にある。今や中国がチリの貿易相手国としては断然一位を占め、韓国も日本に迫っているが、アジアからの対チリ直接投資では日本からの投資が抜きん出ている。その大半は銅鉱山の開発関係であり、日本にとっての銅輸入に占めるチリの重要性を物語る。チリの安定性、治安の良さ、透明性の高さ等から、日本の企業関係者は異口同音にチリの投資環境の良さを高く評価し、特に2007年9月のEPA発効後、日本からの対チリ直接投資は大きく増加している。

3. 地震兄弟国
(2010年のチリ大地震)
20年続いた中道左派政権からピニエラ大統領率いる中道右派政権への交代を間近 に控えた2月27日の深夜、サンチャゴの南500キロのコンセプション市付近を震源とするマグニチュード9.2の大地震が発生、その後大きな津波が沿岸部を襲い600人以上が犠牲となった。日本はすぐに緊急医療チームを派遣することとしたが、チリ側の受け入れ態勢が整わず、結局医療支援ニーズの調査を主たる目的として活動した。鳩山首相(当時)からバチェレ大統領への見舞いの電話で、自らも医師である同大統領から要請のあった病院建設を支援することとなった。緊急支援物資・資器材供与の他、地震被害の評価ミッション等々、数多くの専門家が日本から派遣されるとともに、チリからも早期警報システムの構築を念頭にミッションが訪日する等、様々な技術協力が実施された。

また同じ地震国として、被災者の気持ちがよく分かる我が国の国民からは、チリとビジネス上の関係を有する日系企業を中心に多額の義捐金が寄せられるとともに、個人ベースやNGOによる支援活動も活発になされ、日本は最大支援国のひとつであった。   特記すべき協力プロジェクトの一つとして学校の児童生徒のための防災教育プロジェクトが挙げられる。これは、すでに日本語では作成されていた「津波は怖い」の教本をチリでの津波被害の写真とともにスペイン語で出版するものであった。右教本はコンセプション大学の地震・津波専門家等の協力も得て2011年の初めには完成した。

(東日本大震災)
2011年3月11日に、上記「津波は怖い」教本の出版式がコンセプション市で開催されることになり、筆者は前日から同市のホテルに宿泊していた。11日の午前3時頃、同じく出張していた館員から連絡があり、日本は大変なことになっていると言うではないか。あわててテレビをつけると、まるでSF映画のような光景が飛び込んできた。チリ時間では1年ばかり前のチリ大地震とほぼ同時刻に発生した東日本の巨大地震とそれによる巨大津波であった。それ以降はサンチャゴの我が方大使館との連絡、チリ政府要人や各国の同僚大使からの見舞いの電話への対応に追われた。そして、チリの各放送局が東日本大震災の津波の模様をテレビで流し続ける中、チリ報道関係者も多数出席して出版式は実施された。かくして「津波は怖い」の教本はこれ以上ない注目を浴びることとなったが、出席したJICA所長や筆者としては非常に複雑な気持であった。

前年のチリ大地震の際に多大の支援をしてくれた日本国民に対し少しでも恩返しをしたいとの強い気持ちから、原子力発電所の重大事故を含む激烈な東日本大震災の被災者支援のため、チリ官民の間で様々な支援活動が展開された。

(絆の強化)
地震・津波そのものは決して歓迎されるものでないが、日本とチリとは互いに地震・津波の被災国として痛みを分かち合い、助け合うことを通じて絆を更に強めることができる言わば地震兄弟国の関係にある。例えばチリからは既に1960年のチリ大津波の主たる被災地の一つである現在の南三陸町に対し、見舞いとして約6メートルのモアイ像とコンドルの彫刻が贈られチリ広場となっていた。今般の東日本大震災でこのモアイ像は頭部が破壊され、コンドルは「飛んで行って」帰ってきていない。そこでチリ側は緊急支援物資の供与に加え、南三陸町を再び重点的に支援することとし、新たなモアイ像の贈呈や学校支援プロジェクトを進めている。南三陸町での支援活動において中心的役割を演じているのが前述の日智関係の[顔]であるアンドラーカ氏である。

この他、地球規模問題対処のための技術協力として今後4年間にわたり「津波に強い地域づくり」を主たる目標にするプロジェクトが実施されることとなった。このプロジェクトでは被災コミュニティーの単なる復興ではなく、省エネや環境にやさしい地域づくりもテーマになることが期待される。昨年8月には既述の日本の支援になる病院の完成式典が大統領夫妻の出席のもと開催され、町中が日本への感謝の言葉と日の丸の旗で埋めつくされた。式典の模様はチリの全国紙でこれまでになく大々的に報じられた。

4.更なる関係緊密化に向けて
優等生チリとの関係は、放っておいても発展していくだろうとの思いもあってか注意を引きにくいという、ある意味贅沢な悩みがある。特に2007年9月の日智EPA発効以降は日本との経済関係強化のための新たな枠組み協定のようなものは成立していない。この間、近隣のコロンビアやペルーではいくつかの条約が進展しており、日本との関係で良い意味での競争がチリとこれらの国の間で高まっていると言えよう。そういった中、日本と「太平洋同盟」との関係強化という観点からも、経済的な日本とのバイ関係で先行してきた日智関係を更なる高みに持って行きたいものである。

その意味で、一つには日本の企業関係者の強い要望があり、チリ側もこれを欲している租税条約の締結が両国間の経済関係をさらに強めることは確実であり、ポストEPAの目玉として実現を期待したい。二つ目として、日本とチリの間では既に天文学や医学の分野で本格的な協力活動が行われているとともに、環境、エネルギー、防災・減災の分野でも更なる協力が期待できる。経済が発展しているチリでは、これらの協力をもはや政府間の技術協力に留めるのではなく、日本企業のビジネスチャンスに繋げるべきである。そのためにも両国間で科学技術協力の枠組みを作り、ビジネスチャンスをも念頭に置いた戦略的アプローチが肝要と考える。三つ目に留学生事業を含む人的交流の重要性は強調しすぎることはない。特にチリでは、グローバル時代を見据えて銅モノカルチャーではない国家建設の必要性を唱える識者の意見を取り入れ、建国200周年事業の一つとしてBecas Chleという奨学金制度が設けられた。この制度の下、主に理科系の分野で毎年数千人のチリ人研究者や大学院生を先進国に派遣しているので、日智両国でその有効活用を図らない手はない。日本がこの制度をどう活用できるかは、日本の大学の国際化が声高に叫ばれる中での試金石の一つに思える。(了)(2012年7月26日寄稿)




「新興国シリーズ」 第5弾 2012-7-5
  『アルゼンチンーその光と影』

第5弾 『アルゼンチンーその光と影』

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  前駐アルゼンチン大使  石田 仁宏

アルゼンチンという国名を聞いた時、皆さんはどのようなイメージを想い浮かべられるだろうか。サッカーの強豪でタンゴの盛んな南米の国というのが大方の反応だろうと思う。もう少しこの国に馴染み付き合いのある人は、日本とかなり古くから関係を有し、日本人移住者の数も相当多数に上る友好国であるが、近年は、融資したお金の返済が行われず、日本を含む債権国との関係が滞っている国ということを付け加えられるかも知れない。私は今年2月までほぼ4年間在勤した。だが、アルゼンチン勤務を命じられた時点での自分の認識も、凡そ皆様の抱く認識と大差はなかったといっていい。スペイン語を専門とし、本省、在外とも中南米地域を主たる仕事の対象としてきた身として、内心忸怩たる思いがあるとはいえ、それが偽らざるところである。それだけアルゼンチンは、日本と日本人にとって遠くて遠い国であるということかも知れない。本稿では、勤務を通じて得た印象をお伝えする事により、少しでも皆様にとってアルゼンチンが身近に感じられ、遠いけれど近い国と思って頂ければ幸いである。

長く友好的な両国関係
 1898年に締結された「修好通商条約」以来、我が国とアルゼンチンは110年以上の長きにわたり友好関係を維持してきている。加えて1907年に日本人の同国への集団移住が開始してからでも、既に1世紀を超える歳月が流れている。この間、日露戦争時、アルゼンチンは自国がイタリアに発注していた2隻の軍艦を我が国に有償譲渡し、それが「日進」「春日」と命名され、ロシアのバルチック艦隊との日本海海戦で活躍して日本の勝利に貢献したこと、また、第二次大戦後、物資欠乏に苦しむ我が国に、エバ・ペロン大統領夫人が救援物資を満載した船を派遣したこと等両国間の友好関係を示すエピソードも少なくない。

アルゼンチンはその当時(その後も日本が高度成長を達成するまでは)経済的に我が国を上回る豊かさを享受していたことから、我が国に対し寛大な措置をとったこともあろう。しかし、それ以上に両国の間に培われた友好の情がそれらの措置の根底にあったと考える。そして、同国に在住する日系人の存在が、「友好の情」を築く重要な要素であったことを、私は、在任中のアルゼンチン要人の言葉から、また、日系人の方々の色々な活動から身をもって実感した次第である。

1. 恵まれた国アルゼンチン
このアルゼンチンは色々な面で恵まれた国である。我が国の7.5倍の広大で肥沃な国土を有し、南極に近い南部を除けば、気候も温暖である。ブエノスアイレス州を含む中央部の肥沃で平坦な穀倉・牧畜地帯であるラ・パンパ地域だけで、日本の1.6倍の面積がある。極端な話、種を播いて放っておけば作物は実るし、牛は、その辺の草を食べて育つと言っても過言ではない。時々、干ばつに見舞われて穀物、家畜に多大の被害をもたらすことはあるけれども、台風、大雨、大雪、冷害、水不足等々、季節毎に日々生産管理に気を使わなければならない我が国に比べれば、その気苦労には雲泥の差があるであろう。事実、このような利点を生かし、アルゼンチンは、大豆、トウモロコシ、小麦等穀物の大生産国、大輸出国である。また、その生産力には十分な余力がある。このことから、アルゼンチンは、将来世界の人口が増加し食糧不足が懸念される際に、供給力のある国の一つとして言及されている。

 鉱物資源にも恵まれている。 銅、金、銀、鉛、亜鉛等が産出され、石油、天然ガスも生産されている。尤も、前述の通り、農業大国で輸出競争力があり、それだけで経済を支え外貨の太宗を稼ぐ事ができるため、鉱業に関心が向けられたのは1990年代中頃と比較的日が浅く、従って、探査、開発とも未だ十分には行われていない状況である。政府はこの分野のみならず工業、インフラなど様々な分野での投資不足を認識し、経済界・財界に投資を呼び掛けているものの、政府の経済・物価政策に対する信頼感の不足等の要素もあり、効果を挙げるには至っていない。それでも現状でかなりの資源大国振りであり、探査が十分になされれば、隣国チリ、ボリビアとの地理学的近似性に照らし、鉱産物の埋蔵量に大幅な上積みがあっても不思議ではない。因みに、アルゼンチンは、近年注目を浴びているリチウムについてもチリ、ボリビアと並んで主要な保有国であり、最近我が国の企業がその開発権を獲得したことは記憶に新しいところである。

 自分の国が恵まれているということは、アルゼンチン人自身よく認識している。私は着任直後外務大臣にお会いした際、次のようなエピソードを教えられた。いわく「アルゼンチンは、広大で肥沃な領土、温暖な気候、豊かな農産物・牧畜資源を神様から授けられた。ただ、神様は公平の見地からアルゼンチンに恵を与えなかったものが一つある。それは、アルゼンチン人である」。その後も在勤中、アルゼンチンの方から何度かこの話をきいたことから、これは、相当知られた、アルゼンチン人の好きなエピソードなのだろうと思う。

しかも、話し手は、いかにも楽しそうに話してくれるので、話の重点は前段の「恵み」のところにあり、後段の「アルゼンチン人」のところではないという察しがつく。我々からすれば、アルゼンチンは、我々の持っていないものを有する、ある意味でなんとも羨ましい国であるけれども、とても真似できないなと思わざるを得ない。

2. 力を生かしきれていない国
 20世紀の初頭アルゼンチンは、既に相当豊かな国であった。多数のヨーロッパ人が職を求めてこの新天地に移住した。第一次大戦中は中立を維持し、豊富な農産物の輸出によって多大な外貨を獲得し、大戦後は世界の富裕国の一つに数えられるようになった。その当時金持ちによって建設された建物は未だ沢山残され、美術館、博物館、官庁、外国の大使館・公邸或いは普通のオフィスとして使用され、往時の豊かさを偲ばせると同時にブエノスアイレスの街に趣を添えている。

 しかし、その後の同国の歩み、現在の状況を見ると、アルゼンチンは、少なくとも経済的観点からすれば、当時を頂点として趨勢的になだらかな下降曲線を辿ってきているとの感を持つ。例えば、政府統計局によれば、2010年上半期の貧困率は12%である。統計局のこの数値はインフレ率とともに改ざんが指摘されており、民間エコノミストの中には、実際はその2倍程度であると指摘する者もいる。また、世銀のデータによれば2010年のGDPは、約3700億ドルで世界第27位、一人当たりGDPは、約9100ドル,第59位、一人当たりGNIは、約8600ドル、第53位となっている。これらの数値は、改ざんの有無はともかく、中南米諸国の中で比較すれば決して悪くはない。しかし、過去の実績に照らし、また、同国の保有する豊富な天然資源、教育水準の高い労働人口を考慮すれば、物足りないと言わざるを得ない。では、その原因をどこに求めればよいのだろうか。以下に自分の考えを述べたい。

 (イ)恵まれた者のゆとり
 既に指摘した通り、アルゼンチンは、豊かな国である。大して一生懸命働かなくても飢え死にすることはまずない。そこが、しゃかりきに働かなければ食べていけない国との大きな違いといえる。このような環境に置かれれば、長い年月を経て人は基本的に生きていくのに十分なだけ働くことで満足するようになるであろう。それだけに満足せず、より大きな富や満足を求めて努力する人は勿論沢山いる。そのような努力家が成功する可能性は、この国では高いだろう。在勤中、親しい人から時々、アルゼンチン人と日本人を入れ替えたら、この国は大きく発展するのではと半ば冗談で聞かれることがあった。それに対しては、確かに当初はそのようなことが起こるかもしれない、しかし、時が経てば導入された日本人もそれほど働かなくなるのではないかと思うと答えたものである。同国に実際に住んで、その豊かさを体験した者にとって、偽らざる実感である

 (ロ)政治あるいは政策的要因
 上記(イ)のような国においては、政治及び政治家の役割や市民が政治に期待するものも違ってくると思う。単純化していえば、そもそも政治に求められるのは、まず国民を食べさせること、そのための環境を整備することである。そうであるとすれば、アルゼンチンでは、国があれこれ手を出さなくても、換言すれば、国民のイニシアチブに任せておけば、人々が食べるに困ることはまずない。政府が民間の自由な経済活動に介入するとろくなことはない、無論余りに自由放任を貫けば弱肉強食の論理がまかり通り社会的ひずみが大きくなるので、そのような場合は国が役割を果たせばよいと多くの人が考えているように思われる。過去に経済変動の荒波に何度も翻弄され、多くは政府の政策の失敗に起因することを経験的に知っているアルゼンチン人の生活の知恵といえるかもしれない。かかる土壌の下第二次大戦後大統領となったフアン・ドミンゴ・ペロンは国家社会主義思想を持ち、その政策の重要な柱の一つは政権を強く支持する労働者の保護、換言すれば労働者に対するバラマキ政策であった。

この政治思想は“ペロン主義”と呼ばれ、現在までのアルゼンチン政治において最も重要な政治潮流となっている。2003年に成立したネストル・キルチネル政権、その後を継いで2015年まで任期を有する、夫人であるフェルナンデス・キルチネル大統領政権もペロン主義を標榜する政権である。そして、キルチネル流政治の最も重要な政策手段は財政黒字を用いた電気・ガス・水道料金及びバス・鉄道・地下鉄料金を低く抑えるための補助金の供与である。このようなバラマキ政策は自由放任主義からの逸脱、アルゼンチン人が本来求める政治ではないではないかと思われるかもしれない。しかし、先述した“ひずみ”が特に労働者階級に重くのしかかり、労働者を主要な支持基盤とするペロン主義政権としては選挙対策上もそのような政策を採らざるを得ないということであろう。

ただペロン主義はその中に左から右まで幅広い思想を含む政治潮流であり、同じペロン派政権でも大統領によって政策が大きく異なってもなんら不思議ではない。

90年代に政権を担ったメネム大統領はキルチネル政権とは逆に国営企業の民営化を推進した。また現在キルチネル派に反対するペロン主義政治家は相当数に上る。昨年10月の大統領選挙では現職のフェルナンデス大統領が54%を超える得票率で圧勝したが、反キルチネルのペロン派の票を含めればペロン主義は約三分の二を獲得している。アルゼンチンではペロン主義は常に30%超の基礎票を持つと言われており、極めて強固な政治勢力なのである。同時にこれまで中長期的国家目標・政策目標に欠け(これはペロン主義政権に限らずその他の政権にも当てはまることであるが)、また大統領が代わると同じ政治潮流であっても政策が180度変わることが多く政策の継続性に欠けることなど、国家の発展のために足かせの要素となっている。

3. 将来の展望
 私が中南米局にいた2002年秋、ブラジルは大統領選挙に向け選挙戦の真っただ中にあり、結果として昨年1月まで二期務めたルーラ大統領が当選した。同大統領の任期8年の間にブラジルは、所謂BRIC`Sと呼ばれる新興経済大国の一つとして台頭し、またG20のメンバー国として国際経済分野での存在感・発言力を増している。私は、2002年の時点ではブラジルとアルゼンチンの間に経済力、国際的影響力に違いがあったとは思わない。その当時までは両国とも南米の大国として潜在力は高いがそれに見合った経済的実績、例えば一人当たりGDPの数値であるとか、国際経済分野での貢献・発言力は低いといった評価を共有していた。しかしこの10年ほどの間に両国には大きな差がついたと言わざるを得ない。アルゼンチン自身そのことをよく認識していると思う。

誇り高く負けず嫌いな国民性であるから、表立って認めることはない。国連安保理の理事国の拡大に関する議論のような国の威信に直結するような問題では、仮に中南米から一カ国しか常任理事国に選定されない場合、アルゼンチンがブラジルに自発的にその席を譲るようなことはないだろう。アルゼンチンにとってブラジルは、政治的にも、また経済的にも最も重要な国となっている現在でも、胸の奥底に秘めたライバル意識、優越意識が消えることはなかろう。にもかかわらず報道などから判断する限り、最近ではブラジルに対する配慮は色々な問題で目につくようになっていると自分には感じられる。やはり客観的に見てブラジルの発展が顕著でアルゼンチンにとって重要性が増しているということなのだろう。同時にブラジルのアルゼンチンに対する配慮、気の使い方も相当なものであることも事実である。

 それではアルゼンチンは今後どのような道を歩むのだろうか。これまでと同様ブラジルの後塵を拝し、その差がますます開くばかりなのだろうか。因みにアルゼンチンもG20のメンバーであるが、そのパフォーマンスについて一部メンバーから疑義が呈されているとも側聞している。私はアルゼンチンを直接知る者として、また可能性に期待する者として、いずれはこの国も隣国ブラジルが辿ったのと同じ道を歩むことができると考えている。既に述べた通り、アルゼンチンは資源・食糧に恵まれた国でありこの面ではブラジルに遜色ない。人口は4000万に過ぎず1億9000万の隣国よりはるかに少ないものの、労働者の質の観点からはむしろ勝っていると言っても過言ではない。

ブラジルはこの10年で急速にのしてきたのであり、これは決して追いつくことができない距離ではない。そうはいってもそれ程容易な道ではないこともまた事実である。そのためにはなんといっても政府が明確な中長期的国家目標を提示し、オープンな議論を通じて国民各層と共有し、政権が代わっても国家目標をしっかりと維持・継続することが不可欠である。この国の現在の政治状況、政治風土からすれば簡単な課題ではないけれども、まずそのことを政府と国民が合意することが出発点である。(6月1日記)(6月8日寄稿)
                                   以上


「新興国シリーズ」 第4弾 2012-6-7
  『南アフリカ今昔物語 』

第4弾『南アフリカ今昔物語 』

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  元駐南アフリカ大使  古屋昭彦

南アフリカ今昔物語 

その1.
南アフリカは、今多様な人種、民族の共生を目指すこの国は、レインボー・ネーションとも呼ばれ、1991年のアパルトヘイトの撤廃後、94年の初の民主的な選挙を経て、ネルソン・マンデラ新生南アフリカの初代大統領の就任を見、対話による紛争解決と人種融和の象徴ともいえる国です。
94年の後も、99年、2004年、2009年の総選挙を実施し、マンデラ、ムベキ、に次いで、現在は、ズマ氏が、3人目の大統領になっています。与党アフリカ民族会議(元々、アパルトヘイト抵抗団体が政党になったもの)が、圧倒的な力を持っており、国内政治は安定しています。立法は、ケープタウンに、行政は、プレトリアに、司法はブルームフォンテインにと、三権が、物理的にも分散されているのが特徴的です。

 貧困、エイズ問題を抱えていますが、アフリカ大陸の全GDPの約20%を占め、金、ダイヤモンド、希少金属など豊富な鉱物資源を持つアフリカ最大の経済大国です。貧困層の黒人をいかに能力のある人材として育てるかが重要な課題です。日本にも人材育成の面で協力が求められています。
 日本との関係は、1918年、アフリカ大陸で初めての公館がケープタウンに設置されたことから始まります。1937年には、プレトリアに日本国公使館が、設置されたが、大戦のため、1942年、国交断絶となり、同公使館は、閉鎖された。戦後、アパルトヘイト体制のため、領事関係のみにとどまっていたが、上記のごとくアパルトヘイトの撤廃を受け、92年に外交関係が再開し、
今に至っています。それから、わずか20年ですが、人的往来は活発です。まず、政府間では、閣僚級の政策対話である日・南ア・パートナーシップ・フォーラムがあり、民間企業間では、日・南ア・ビジネス・フォーラムがあり、更に、最近、大学間協力のためのフーラムも生まれ、両国関係発展のための3本柱となっています。

 南アフリカにとって、日本は米、英、独、中国と並んでトップの貿易相手ですが、とりわけ、南アの輸出相手として、1-2位の大事な国です。南アから日本への輸出で面白い点は、レア・メタルに次いで、完成品の自動車が第2位だということです。これは、右ハンドルのBMWやベンツのある車種のものが南アで生産され、日本へ輸出されているのです。
 南アフリカは、面積で日本の約3倍、人口で半分弱というさほど大きな国ではありませんが、石油以外は何でもあるといわれる豊富な鉱物資源は日本にとって極めて重要な点でしょう。また、2010年に、アフリカで初めて、FIFAワールドカップ・サッカー大会を開催したことからも注目を集めました。今後も、南アフリカは、我々にとって、大事な国です。

南アフリカ今昔物語  その2
歴史を振り返る――日本との接点は?

1.序  歴史的背景
 (1)15世紀の終りころから、ヨーロッパの列強は、香辛料等を求めて、インド洋航路へと向かい出しました。これは、大航海時代と呼ばれています。まず、オランダが、東インド会社を設立し、インド洋航路の中継地として、喜望峰付近にあるケープタウンに寄港し、その後内陸のケープ地方に入植します。次いで、英国が、アジア貿易に参画します。以上の様な当時の世界の動静を踏まえた上で、南アフリカと日本の歴史を表にしてみました。



南アフリカ
日 本
1488年 ポルトガル人 デイアス喜望峰発見         
1467年 応仁の乱
-
1543年 ポルトガル人種子島漂着
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1603年 徳川家康 江戸に幕府を開く
1652年 オランダ ケープを植民地化
-
1867年 ダイヤ発見 1867年 大政奉還
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1868年 明治維新
1880年 第1次ボーア戦争
1886年 金発見
1894年 日清戦争
1899年 第2次ボーア戦争 -
1902年 第2次ボーア戦争終結  
1902年 日英同盟


(2)1850年代のアジア
 まず、中国は、1851年以降15年間、太平天国の大農民革命があり、混乱しており、加えて、英仏の侵攻を受け、いわゆる1856-1860年には、第2次アヘン戦争が起き、敗れた中国は、北京条約により、中国市場を欧米に全面開放せざるを得ず、いわば、半植民地化されました。また、インドでは、
1857年、東インド会社のインド人傭兵であるセポイの大反乱が起きましたが、英国軍の前に敗退、1858年、ビクトリア女王が、インド皇帝になり、ここに、英国の植民地化が完成します。

(3)1860年代の日本
  徳川幕府末期の1860年代、特に、その前半は、生麦事件に代表される尊王攘夷派が台頭し、国内は混乱の中にありました。他方、1864年には、英、仏、蘭、米の4国連合艦隊が、17隻の軍艦と兵員5000人以上の大軍で下関に進軍、長州藩は、あっさり降伏しました。日本は、国内も混乱し、国外も欧米列強に狙われるという危険な状況にありました。1865年、長州では、高杉晋作、木戸孝充が、薩摩では、西郷隆盛、大久保利通が、倒幕の指導者になり、土佐の坂本竜馬らの仲介もあり、薩長連合を結成し、更に、攘夷どころか、英国に接近し、英国も薩長に新しい日本の政権を樹立させ、英国の影響下に置こうとした。他方、仏は、幕府側を支援した。1866年、至る所で、農村の百姓一揆が起こり、ここに至って、有力大名の考えに変化が起こります。

  1867年、将軍徳川慶喜は、形だけの<大政奉還>を願い出ます。薩長連合側は、それでも武力で幕府を倒す準備をします。

――――ここで、南アフリカで、ダイヤモンドが発見――――
  1868年、薩長連合側のクーデターが成功し、将軍制が廃止。明治元年となる。
  1869年、東京へ遷都、近代化への出発!

2. 本論
  上記の背景からも、おわかり頂けるように、19世紀後半、欧米列強は、アジア貿易の主導権を握ろうと競い合いました。特に、英国は、インドや中国を植民地化していき、最後の目的地は、金の産出する国と考えられていた日本だったのです。その意味で、英国にとって1860年代前半は、インド、中国を治め、いよいよ、<日本侵攻の時>だったのです。

(1) 英国の日本植民地化への歯止め
1860年代、日本は、幕府と維新軍の勢力が二転三転する混乱の真っただ中にありました。この頃、英国は、インドや中国での民族闘争の経験から教訓を学び、<日本を軍事的に圧迫して勝っても、決して日本人を服従させることはできず、いかなる融和も不可能>と判断し、対日圧力を緩和し始めます。むしろ、その外交・軍事政策を考え直して、明治維新政府の後ろ盾となって、新しい日本の指導権を握ろうと考え、明治維新軍を応援します。

(2) 英国の南アフリカへの侵攻
同じころ、南アフリカでは、1867年に、ダイヤモンド、1886年には、金が発見されました。英国は、これらの貴重な資源を獲得しようと、当時ボーア人と呼ばれたオランダ系の移民と2度にわたり、大戦争をします。この時、英国は、40万人以上の軍隊を南アフリカに派遣し、相当な被害をこうむります。それゆえ、英国は、疲弊し、日本への侵略のために、本格的な戦争をする状況ではなかったと言えます。ちなみに、当時、横浜にいた英仏のパトロール隊は、わずかの2000人だったのです。

(3) 結論
日本と南アフリカの当時の状況を一緒に考えると、こうなります。
英国は、明治維新政府を応援し、維新後の日本と友好関係を形成しました。他方で、南アフリカでは、ボーア戦争が長期化し厳しい損害を受けた英国は、名誉ある孤立政策を捨て、アジア進出を断念し、最終的に日本と同盟関係を結びました。これは、正に、ボーア戦争が終結したのと同じ年、1902年の事だったのです。2度にわたるボーア戦争の激しさを見ても、英国の政策変更の背景に日本より近い南アフリカで発見されたダイヤモンドと金の存在があったと考える方が、極めて自然だと思います。この英国の政策変更と支援の御蔭で、日本は、順調に近代化へと歩み出し、植民地化をまぬがれたわけですから、ひいては、南アフリカのダイヤと金にお世話になったと(明治の日本人も現代の我々も)感謝してもいいのではないかと思うわけです。この視点から考えれば、日本が現在もレア・メタルなどを輸入していることからも、<南アフリカのダイヤ、金、プラチナなどの貴重な鉱物資源>とは、150年もの長きにわたり、重要な関係を維持し続けているのです。(2012年4月20日寄稿)

「新興国シリーズ」 第3弾 2012-5-19
  『トルコについて』

第3弾 『トルコについて』

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  前駐トルコ大使 田中信明

トルコについて公平に書くのは難しい。各種制約、タブーがあるからである。ここで述べるのは全くの個人的意見である。


トルコを理解する
2007年、大使として赴任する前に日本にいるトルコ人と日本の友人からトルコ料理を御馳走になった。彼曰く「トルコ料理は世界の三大料理ですよ。」自称グルメの私は当時、無知を恥じたものだった。任期を終えた今、そのような流言飛語に動じなくなったが、彼の言葉はトルコ人の気質を良く表している。彼らは、多分に「自己中」の気の良い人達が一杯いる地中海、エーゲ海、黒海という美しい3つの海と、「ノアの箱舟」が漂着したとされるアララット山に囲まれた「島国」(その理由は後で述べる)に暮らす人達なのだ。敢えて「島国」と書いてみたのは、トルコ共和国のあるアナトリアの地が、アジアとヨーロッパ、中東とロシア・コーカサスが交差する要路にあって、最古の文明時代から「文明の交差点」として、今日に至るまで一貫して主要な役割を演じてきたにも拘らずとの意味合いが込められている。

この「島国と文明の交差点」という矛盾は外から中々理解し難い。ここ日本においてトルコに関する知見は乏しく、殆ど白紙と言って良い。世界的に見てもトルコについて今は余り良く知られてない。その理由の一つは、この地は長い歴史の中で主役を演じて来たにも拘らず、今では偶々、最も些細な脇役に甘んじているからだろう。日本がトルコに関して知見不足である事は、日本がグローバルプレーヤーではなく、リージョナルプレーヤーに過ぎない証左でもある。それはさて置き今、グローバライゼーションという世界的流れの中で、全ての民族と国家が国境とイデオロギーの縄縛から解放され、歴史と文化、宗教そして経済活動といった古来の要素が世界政治の主軸となって現れてきている。そうなると、この地が近い将来、再び主役に躍り出ないとも限らない。長い歴史から見ると、トルコが脇役であることは「異常」である。時代の流れと歴史に裏付けられた明日への希望があるゆえ、今アナトリアの地に新興国というレッテルが張られたのであろう。

この国は、「文明の交差点」であったが故に余りにも多くの事が起き、「歴史の頚木」に挟まれた状態にある。そのため、この国を理解するには幾つもの切り口を探さねばならない。トルコの知識人から何度となく「トルコを理解するなんて、無理ですね。日々、次々と不可解な事象が沸き起こるのですから」と釘を刺されてきた。確かに、トルコを理解した、と思った次の日に理解しがたい不可解な事象に御目にかかる事が多かった。民族が交差し、文明が何重にも重なったことで、その気質は「複雑骨折」を起こしているのだ。

大使としての仕事は、先ずトルコを理解したいという強い衝動から始まった。

エルトルール号遭難事件
私の任期中に120年前の「エルトルール号遭難事件」を記念する「トルコにおける日本年」を企画、実施するという至上命令が与えられたため、赴任する前から、この事件が日土関係において重要になっている背景に関心を持った。「日本年」自体は、小泉首相訪土の折にエルドアン首相との間でエルトルール号事件120周年を記念して合意されたことに端を発している。日土関係に携わってきた人々と話していると、彼らの口から必ず「エルトルール号」が飛び出してくる。何故其れ程重要なのかなという思いがぬぐえなかった。

「エルトルール号」は美談である。しかし、120年も昔の話である。私も日米関係に長年携わってきたが、日米の関係者が事ある毎にペリーの黒船来襲に言及する事は無い。色々調べていくと、要は、 (イラン・イラク戦争の時のトルコ航空機による日本人救出劇もあるが)、「エルトルール号」の他に日土関係について語るべき新しい物語がこの120年の間、何も無かったのである。その時私は、大使としての最大の使命は、グローバル化したこの時代に、日土両国民の間に「エルトルール号」事件に代わる新たな物語の誕生を助ける事だと直感した。日土関係の新たな章を開かねばならない、そのためにはもっと良くトルコを知る必要がある。これがその後の私の原動力となった。

複雑な歴史認識
  最初の疑問は「トルコにおける歴史の断絶」であった。私はビザンティン文化に惹かれてトルコに行った。ひょっとしたら栄華を極めたビザンツの遺産が此処彼処に残っているのではないかと想像していた。アヤ・ソフィアは流石に圧巻であるが、美術史的にも貴重なはずのモザイクの多くがその漆喰壁の中に埋もれたまま放置されている。周辺にはビザンティン帝国の首都が誇った宝の山が眠っているはずだが、発掘されることなく放置されている。トプカプ宮殿の下にも想像を超えるような美術品、遺跡が山と埋もれているに違いない。ローマ遺跡の傑作であるエフェソスは、未だに世界遺産に登録されていない。聖母マリアが亡くなった場所であるがゆえに、キリスト教の聖地とされる事を恐れているかのごとくだ。

あれ程の遺跡が世界遺産に指定されてない事について国内では批判の声は上がってこない。ビザンツへの一般的歴史観は、ビザンツ皇帝は江戸時代の悪代官のようでいつもトルコ人を苛めている、というものであり、これがソープオペラの代表的筋書きにもなっている。ローマ・ギリシャの遺跡は「彼ら」が作ったものでトルコ人が作ったものではないのだ。それではオスマン帝国に対してはどうか?国民の世俗派はアタテュルクの教えに従い、オスマン帝国は負の遺産だと考えている人が多い。他方でAKP政権は宗教保守政権らしく郷愁を持ってオスマン帝国を眺めており、その栄光を復活させようと努めている。ヒッタイト文明に対しては、血は繋がっていないにも拘らず全ての人が誇らしげに見ている。

 着任当初、メルシン(地中海に面した南部の港町、エルトルール号記念碑がある)の座談会で「あなた方は長い世界史に輝くビザンツを始めとする諸帝国を作り上げた。あなた方の血は素晴らしい遺伝子を持っている」と賛辞のつもりで述べたところ、杖を突いた老人が立ち上がり「自分の中にはビザンツのような汚れた血は流れていない!」と叫んだのには驚かされた。これは一体どういうことだろう。日本では、歴史は万世一系の天皇制の下、この島国の全ての歴史を自分のものとしてきた。

王朝、帝国が何度も入れ替わった中国においても、中国の地にあるものは全て中国人の歴史として誇りにしている。それなのに何故トルコでは、アナトリアを中心に五千年以上に亘り繰り広げてきた世界有数の歴史を自分のものと考えないのだろうか?矢張りモンゴル平原から駆け抜けて来た遊牧民の血が、途中イスラム教を吸収してきた魂が、そしてヨーロッパ文明の中心を征服したとの自尊心が、キリスト教・ヨーロッパ文明の過去を拒絶しているのではないだろうか。

ある時、トルコ外務省の局長が、「ヨーロッパは長らくオットマン帝国(トルコ)の事を「欧州の病人」と呼んできたから其の論理からしても、当然トルコはヨーロッパに属する」と言うので、「ではあなたはヨーロッパ人ですか」と尋ねると「自分はトルコ人だ」と答えた。ここにトルコ人の内枷があるのであり、だからトルコのEU加盟は遅々として進まないのかも知れない。

 歴史の断絶は文字の分野にも明確に表れている。アタテュルクはオスマン帝国時代に使われていた文字(アラビア文字)を強制的に廃止し、ローマ字へと変更させた。明治時代の文明開化時に漢字・仮名をローマ字で書けと命ぜられたようなものである。ローマ字で教育を受けて来た大部分のトルコ人はオスマン帝国の書物を読めない。歴史と言うものは常に継続性を持って流れていると思いがちな日本人の私にとって、(パキスタンも同様であったが、)トルコの経験は新鮮であった。日本は例外的存在であり、文明の十字路に位置する大陸国家においては、長い歴史の中で、異民族のせめぎ合いによって文化の断続が起こる事を思い知らされた。

要するに歴史の作り方が違うのであって、トルコの地では異なる文化、民族を積み重ねていくことによって歴史が作られている。継続性が大切なのではなく、必要に応じ変化させ、変化に適応していくことが大切なのである。

トルコ人の定義
第二の疑問は、トルコ人とは一体誰かということであった。トルコ人は強烈なナショナリズムを持つ。小学生からの暗唱させられる朗読文には、アタテュルクの「トルコ人として生まれて何と幸せなことか!」というセリフが登場する程である。そこで彼らのルーツを知るべく、多くの友人に其々の生い立ち、家系を問うてみたところ、おじいさん、ひおじいさんの代に旧オスマン帝国の各地域から移住してきた人たちが多いことに気付く。人々の顔を見てもイギリス人のような顔立ちから中国人のような顔立ちまで無段階に変化しており正に人種の坩堝である。遊牧民のせいかもしれないが土地を移動することに対して抵抗感が少なく、まるで移民の国アメリカ人のようだ。

旧帝国の各所から集合した人たちだから、時たま、出身の民族を意識することがある。未だ独立運動を続けているクルド人は例外的にトルコ(人)への帰属を拒んでいるが、それは後述するとして、「自分はチェルケーズ(コーカサス)系のトルコ人」とか「アラブ系、アルメニア系、ユダヤ系、ブルゲール(ブルガリア)系、ラズ系」等々、30余の民族の名前が出てくる。 

  実はオスマン帝国にはその30余の民族が雑居し、彼らは税金さえ払えばかなりの(宗教的にも、文化的にも)自由を享受出来たのである。それが20世紀初頭、ナショナリズムの嵐となり、帝国の末期には、各民族が列強と組んでオスマン帝国に反旗を翻した。その辺の事情を描いたのが、ご存じの通り「アラビアのローレンス」である。このため一時期、帝国は虫食い算のように分断、寸断され、いわば「清朝末期」の中国の様相へと陥った。この様な歴史的背景の下、トルコ人は中国人同様「領土一体性、内政干渉」に対して過剰なまでに神経質なるのである。

 この国土分断状態を跳ね除けたのがアタテュルクであり、その原動力が「トルコ民族主義」であった。トルコは他民族の血が無数に流れる混血文化である事を十分に意識しつつ、アナトリア(と若干のヨーロッパ部分であるトラキア)にいる人たちは皆、トルコ人と再定義した上で、そこにナショナリズムを植え付けたのがアタテュルク革命であった。(憲法前文、同第66条)。オスマン帝国末期までに所謂「少数民族」とローザンヌ条約(注;1923年にトルコ共和国が日本を含む列強と結んだ平和条約)で定義された「異教徒(キリスト教徒)」については、実のところその殆どは、(民族交換、殺戮、追放等により)その前後に浄化されており、残った殆どの人はイスラム教徒だった。

トルコを取り巻く異教徒の列強と戦うには、イスラム教徒が団結する必要があった。そして残った人々は殆どがトルコ人を自負していた。その中には同じイスラム教徒であるクルド人、アレヴィー教徒なども含まれており、彼らも同朋意識を持ってトルコ人と共に列強と戦ってきた。ところが革命の後、現在までの80年余の間にトルコ・ナショナリズム教育が(私に言わせればアタテュルクの思いとは必ずしも合わない形で)強烈に進んだ結果、クルド人は疎外感を感じ、自分たちの文化が失われつつあると危機感を募らせた。またアレヴィーはスンニ派の教義を押し付けられることで閉塞感を感じ始めた。クルド人もアメリカの対イラク戦争が起こりあわよくば宿願の独立が出来るのではないかとの幻想を抱いた事もあろう。

  現在、彼らはトルコへの同化政策に抵抗している。ローザンヌ条約で規定された3少数民族は例外的に今でも極少数存在するものの、トルコにはトルコ人しか住んでいないし、住み得ないのが憲法上の建前である。トルコ人からすると、トルコに住んでいながら、自分達はクルド人だからその帰属(たとえば独立)をはっきりさせてくれと言う主張は、憲法にある「民族の一体性、不可分性」に背く言語道断、あり得ない主張と言う事になる。此処にクルド問題を解決するにあたっての根本問題がある。トルコ人とはいかなる人を言うのか、「トルコ人であるべきクルド人の文化を尊重しつつ、トルコ人の一体性を損なわない」という命題に新たな解を与えなければクルド問題の解決策は見いだせない。これが現下の憲法改正論議の中核となっている。 

鮮烈な愛国心
  第三の疑問点はトルコ人の愛国心の強さである。どこの国でも愛国心はある。しかしトルコ人のそれは凄い。自画自賛とはこのことかと思う。ネムルート山と言う世界遺産の巨大石像が残るトルコ東部の、アデュヤマン市の市長さんは、車中ラジオを聴きながら「トルコ音楽は本当に素晴らしい。世界で一番美しい音楽だ。」と旋律を口ずさんでいた。ローマ時代の浴場は旧オスマン帝国の時代にハマムとして引き継がれているがこれもトルコ人の発明ということになっている。上述の通り、トルコ料理は世界三大料理であるというのもトルコではしばしば耳にする。友人の一人は可なり国際人だが、私に「トルコ料理は好きか?」と聞くのに「Do you LOVE Turkish food?」と聞くほど情熱的だ。

トルコに赴任して、同僚の各国大使から異口同音に助言されたのは「トルコ人に対して批判的なことを言っては絶対にだめだ。トルコ人は、おだてなければいけない。煽てればトルコ人は一生懸命やるようになる気質だから注意するように」ということであった。実際彼らの一人は、ちょっとしたトルコ批判を展開したところ「嫌ならトルコから出て行ってくれ」と言われたと嘆いていた。トルコ批判が許されないのは、外国人だけではない。トルコで唯一のノーベル賞受賞者(文学賞)のオルファン・パムークは、アルメニア人虐殺に関し、2005年の外国メディアとのインタビューにおいて、「100万人のアルメニア人が殺害されたことをトルコ政府は認めるべし」と発言したためにトルコ国内に猛烈な反発を招き、一時は国家侮辱罪で起訴される騒動も起きた。彼は今もってトルコに戻れない。これほど強烈な愛国心の源は矢張り歴史と教育の違いであろう。

 中等教育の歴史の授業において、半分は1923年のアタテュルク革命以降の歴史を教えられ、後の半分弱はオスマン帝国について教えられる。それ以前のビザンティン帝国、ギリシャ・ローマ文明、あるいはヒッタイトと言った歴史は殆ど出てこない。アンカラのアタテュルク廟を訪れると献花するのだが、この愛国心を良く理解できるコーナーがある。全体主義時代の巨大建造物の一角には戦争博物館があり、巨大なスペースを割いてアタテュルクがいかにして列強を撥ね退けたか、その武勇伝が「光と音」と人形で展示されている。これを沢山の小学生が熱心に見ている。トルコにとってオスマン帝国崩壊時に列強に侵略されながらも、偽善と欺瞞に満ちた列強との外交の中で、血で勝ち取ってきた領土と安定こそ、最も崇高で死守しなければならない財産なのであり、その歴史と戦闘魂を未来永劫受け継ぐ事がトルコ国民に課された使命なのである。それゆえ、日本人のように血で手を染めることなく天から与えられた土地に住み、無意識に育まれた愛国心を持っている人たちとは愛国心の鮮烈度が違うのである。違いは両国の国旗にも象徴されている。日の丸の朱色は太陽の赤であり、明日の、希望の赤である。これに対しトルコ国旗の赤は血染めの赤である。トルコの土地は血で購った国土なのだ。これほど過酷な環境にありながら、トルコの現実をより客観的に直視できるトルコ人は実に勇気がある。私の経験では、そういう人達は概して海外でのトルコに関する議論を熟知している人たちだった。

世界に遍在するトルコ人
 この様に日本とは正反対ともいえる国家の生業であるにも拘らず、トルコは、親日的で日本外交の宝である。歴史上一大帝国を築いた国民は矢張り大した資質を備えている。日本は戦前大帝国を構築しようとして失敗した。戦後は経済力で伸長しようとしたが、高々20年程のささやかな「Japan as No.1」であった。其れに引き換え、例えヨーロッパ列強のバランス・オブ・パワーの産物ではあったものの、広大な領土を、500年の長きに亘り、つい最近まで支配しえたのだから、其の底力には目を見張るものがある。各国に散ったトルコ人の末裔にもその一端を見る事が出来る。

トルコ人の元と言えば突厥及びその祖先に辿り着く。そこからイラン、アフガニスタンを含みアナトリアの土地辺りまでにはトルコ系が非常に多く存在するのは当然としても、ロシア、ウクライナ、ブルガリア、北アフリカ等々にもトルコ系民族広がっている。それらを勘案すると、トルコ共和国内の7400万人と同等以上のトルコ系民族が広範囲に存在する。在京トルコ大使館の臨時代理大使は、次のポストはロシアのカザンの総領事とのことで、「トルコ系が数10万人いてその世話が大変だけれど次の任地が待ち遠しい」と嬉しそうに話していた。友人のカザフスタンの前トルコ大使は、イスタンブールが最も落ち着き、ロンドン、NY以上に魅力のある都市だと言っている。モスレムとしてエザンの調べが耳に心地よいそうだ。彼はイスタンブールを甚く気に入ったために大層な邸宅を構えて、他国に赴任しても年の半分近くはそこに居る。トルコ語とカザフ語は標準語と方言のような関係にあるため、流ちょうに操れる。

 親類縁者や同じ民族同士で、また言葉も通ずる関係にあれば外交やビジネス上大きなメリットがあり、自ずと上手くいく。近年、ダヴトール外相が主導している「近隣ゼロ・プロブレム政策」は正にこれを地で行く政策である。

トルコを取り巻く外交事情
 トルコは、オスマン帝国盛衰の歴史と新共和国建国の経緯を引きずっている関係上、周辺諸国とは仲が悪い。これは日本を含めて版土を拡大しようとした国には共通して言えることである。(ヨーロッパだけはそうした敵対の時期を乗り越えつつある人類史の例外である。) トルコにとって、ギリシャは宿敵、ロシアは露土戦争以来の敵で、アルメニアは独立を画策する反乱分子の国、シリア、イラクは反乱分子クルドを匿う毛叱らぬ国である。そしてオスマン帝国が作り出したバルカン問題は今でも旧ユーゴ諸国の紛争の種であり、当事国からは旧宗主国トルコが胡散臭い存在と見られている。イランとは国境線が500年間変わらない比較的安定した仲ではあるが、スンニ派とシーア派だけに関係が良い訳ではない。モッテキ前イラン外相(前駐日、駐トルコ大使)は、トルコ大使時代に宗派対立を煽った角で国外退去にあっている。

 此の様な四面楚歌の中にありながらも、建国以来、キプロス侵攻、クルドとの衝突を除けば周囲と余り武力紛争がなかった。それは、冷戦の時代にはNATOの枠組みにガッチリと組み込まれており、それが接着剤となっていたからであった。国内的にもいわゆる世俗派の代表格である軍部が権力の中枢に常にいたため、米国をはじめとする西側との関係は良好に保たれていた。経済的にもEUに依存していた。しかし頼みの米国との関係は、湾岸危機、イラク戦争を機に急速に悪化していく。対イラク経済制裁で最も対米協力をしたにもかかわらず、最も被害を受けたのはトルコであった。世論調査によると、80年代までは8割近いトルコ人は米国が好きという結果が出ていたが、最近は一割を切って、世界で最も嫌米国民の一つとなった。欧州に関してもEU加盟交渉が始まった当初の欧州観は良かった。

しかし加盟交渉の大幅な遅延、加えて仏、独といった域内大国の首脳から露骨な嫌トルコ発言が繰り返された事により、ここ五年程で嫌仏、嫌独感情がかなり高じて来た。但しイタリア、スペイン、イギリスと言った西欧の幾つかの国は大好きな国となっている。イスラエルとも中東では珍しく仲が良い。国民の個人的感情はさて置き、欧米からするとトルコは安全保障体制に組み込まれているため素直な頼もしい同盟国だったので、外交上の問題は少なかった。

冷戦後における外交の変化
しかし、こう言った図式は変わった。冷戦の軛から開放されたトルコは行動の自由の範囲が格段に増した。今まで注意を払ってこなかった地域に対し目が開いたのである。それを可能にした内部からの変化は、第一にトルコ経済の急速な発展、第二に自由選挙で出て来たAKPの宗教保守志向である。詳細には後段で述べるが、この結果トルコ外交は欧米偏重から全方位へと変わって行った。これを理論的に主導したのがダヴトール外相である。AKP政権になって首相補佐官となったダヴトールは2009年に外相に就任した。それ以前から、AKPの外交は、エルドアン首相、ギュル大統領(元外相)そしてダヴトールの3者で主導されていると言われてきた。彼の持論は、「トルコが東西の架け橋とか、イスラムと西欧の架け橋とか、他国の道具として行動するのは御免だ。トルコは中東だけの国ではない。ヨーロッパ、バルカン、コーカサス、中央アジアの一国でもある。オスマン帝国と言う遺産を引き継ぎ、「戦略的深度」(分りやすく言えば戦略的遺産)を持っている。これらのソフトパワーを利用して主体的外交(紛争予防解決等々)を展開すべし」と言うもので、近隣諸国とのゼロ・プロブレム政策を謳っている。これは巷間、「ネオ・オットマン主義とか外交」とか呼ばれており、「昔の栄華よ、もう一度」と夢見ているとも言われている。外相となったダヴトールの活躍は目覚ましく、アンカラを殆ど留守にするぐらいの飛び回り方をして、あっという間にトルコをこの地域(上記の諸地域)の主要外交プレーヤーにしてしまった。中東情勢に関しては、米国、イスラエル、石油、パレスチナと確かに世界戦略の大枠は固定している。しかし、その中で実に速い動きが起こっており、あっという間に主要プレーヤーは変わっている。今やエジプト、サウジと言った国よりトルコ、カタールと言った国の動きが目立つ。そうは言っても、その成果や如何に、となると多分に疑問符がつくと言うのが大方の見方だ。ダヴトールはアルメニアとの和解、シリア、イランとの関係改善、イラクとの蜜月、EU加盟交渉の進展、ロシアとの協調等を目指しているが、中々うまくいかない。「ゼロ・プロブレム政策を目指して、ゼロ・フレンド政策になってしまった」とトルコの評論家が嘆いていた。成果のほどは兎も角、外見にはその外交が目立つ事は確かである。

  ネオ・オットマン外交と評されるように旧帝国版土への関心を以前より飛躍的に増大させた。これら諸国はイスラムの地でもあるので、言ってみればトルコの国民感情からは親和性が高い。この心理現象を私は宗教保守指向と名付けている。こうして相対的にではあるが従来の欧米依存外交から脱却したように見える。欧米の核心的利益のミサイル防御では配備を認めて西側に立ち、その一方でイラン制裁決議では欧米と袂を別った。イスラエルとの関係を決定的に悪化させたが、アラブ民衆の中ではエルドアン首相は随一の英雄となった。欧米からはイスラム回帰と警戒心を持って見られつつも、アラブの春ではトルコ・モデルという民主化路線が持て囃された。G20の一員としての存在感を増すトルコは相対的に欧米軽視の様相を深めているにも拘らず、米国は、内心では兎も角、表面上はこの路線を支持している。そもそも欧米一辺倒というのが異常だったのであって、トルコのように各地域に跨っている国が四方八方に関心を広げることは、特にそれらが旧領土であれば尚更、至極当然のことである。独自外交と言えば独善的響きがあるものの、外交において主権的判断を下すのは独立国として当然である。

  もし日本がトルコの様な外交路線の転換を図ったならば米国は最大限の圧力をもって翻意を促したであろうし、国内では其れを持って倒閣運動に転化していたであろう。そもそも日本人の中に、独立の外交政策を模索する人は多くない。昔は「東西の架け橋」「米中の架け橋」と言った荒唐無稽な標語が日本の役割として外交場裏を飛び交ったが、今や「寄らば大樹の陰」で米国に擦り寄る他は無い有様では到底トルコ外交の足元にも及ばない。何故日本においてこの様な外交が取れないのか?何故、国際情勢判断が斯くも無邪気で微細に拘り、大局的判断が出来ないのか?何故、決断が下せず延々と議論で失われた時を過ごさざるを得なかったのか?何故、トルコは可能なのか?そこには500年の長きに亘り一大帝国を築き上げたトルコ国民の矜持が見て取れるのである。

トルコと言う「気配りのない国」「猪突猛進の国」「妥協は弱き者のする事と言う国」「夜郎自大の国」において、その「変化を恐れない勇気」、「機敏な判断」、「強いリーダーシップ」を始めとする尊敬すべき、素晴らしい長所を見て取る事が出来、羨ましく思った。日本の弱点を補ってくれる国と組むことこそが真のパートナーシップではあるまいか。日本には日本外交の長所がある。忍耐、コンセンサス、資金・技術力、有言実行等々。それらを持ち寄ってユーラシアの東西の端に位置する国家同士がパートナーシップを築くことこそ日本の明日を開く一つの扉であろう。   

トルコの経済事情
 冷戦後からの全方位外交を支え、推進してきた内なる背景は、何といっても経済力の飛躍である。G20入りを果たし、2023年の建国100年祭にはG10入りを目指している。今世紀に入ってから、年成長率は実質平均5%を上回り、実にGDPが4倍(2001年$196Bから2011年の$821B)へと膨れ上がった。南アの2倍の経済規模である。この五年の成長率をみると中国、インドには及ばないが、ブラジル、ロシアと肩を並べている。1人当たりのGDP(PPP)は14,000ドルを超え、ロシアに匹敵する。人口は7千4百万人で、国民の平均年齢は29歳(日本は43歳)だ。エルドアン首相は一家に子供3人を呼び掛けている。離任挨拶の際、ユルマーズ中央銀行総裁に、トルコ経済躍進の秘訣を問うと「財政規律、財政規律、財政規律」と語っていた。2001年の経済危機の反省からAKP政権はIMFの下ではあるが財政規律を保ち、IMF監視の離れた後もその路線を維持してきた。この5~6年の財政赤字は対GDP比で(リーマンショックを含む)平均3%以下に抑えられており、日本の8%、独4%に比しても、増してやポルトガル9%、ギリシャ10%、スペイン9%に比して優秀である。公的債務もGDPの42%と比較的マネージしうる範囲に抑えて来た。銀行の数も前世紀末の79行から現在の46行まで減らし、BIS基準も19%と日独の12%、14%を超えている。この努力の結果、リーマンショックを乗り越え、2010年にはGDPが9.2%増と反転した。

  トルコ経済の強みは、1996年のEUとの関税同盟を生かした輸出拠点としての優位性と中間層の台頭による旺盛な内需である。トルコの世界の輸出入に占める割合は、90年の0.5%から2010年には1.1%へと倍増し、その存在感を高めつつある。欧州が圧倒的に大きな貿易相手であり、数年前まで対欧州輸出が対世界の半分以上を占めていた。トヨタ、ホンダと言った企業が対欧州輸出の拠点としてトルコを活用しているが、その反面、未だ裾野産業が育っていないために中間財、資本財の輸入が総輸入の7割を占め、トルコの経常収支を制約してきた。(勿論、エネルギー非産出国としてエネルギー輸入も制約要因になっている。)この経常収支の慢性的赤字体質(概ねGDPの1割)がトルコ経済の脆弱性となっていることは間違いない。また貯蓄率の低さも投資のボトルネックになっている。素晴らしい地中海性気候の下でエメラルド色のエーゲ海、地中海に囲まれていれば貯蓄するより消費の方に気が向くだろう。その御蔭で国内消費が他国と比しても大きく、景気の牽引車となっているのだから痛し痒しと言うところかもしれない。

  リーマンショックはトルコの対欧州偏重を是正する機会となった。時を同じくしてダヴトール外相の全方位外交が活発化した。リーマンショックの前後の2年間で世界に占める対欧州輸出は約55%から約45%と実に10ポイントも激減した。その代わりに中東、中央アジア、マグレブ、ロシア、中国と言った地域への輸出ドライブがかかり、同時に、中東のオイルマネーがトルコに一層流入し始め、これらの地域からの対トルコ投資も増加した。多国籍企業もトルコにこれらの地域の統括支店を設けるケースが多くなっている。コカコーラ、マスターカード、ユニリーバ、マイクロソフト、DHLと言った企業が上記の地域をイスタンブールから監督している。不思議な事に米国の経済上の存在感は其れ程大きくは無く、輸出入の数%を占めるにすぎない。そのことも米国の対トルコ外交の梃子を小さくしている。米国との関係は安全保障、戦略的なものへと偏っている。この事実は、イラン制裁安保理決議へのトルコの反対投票を止められなかったことが物語っている。

  トルコの経済攻略は性急果敢であり、ギュル大統領、エルドアン首相が外国訪問する時には必ず数百人の経済人が同行して商談を活発化させている。リビアと、ロッカビー制裁からカダフィ政権制裁に至る短い期間にトルコの投資が50億㌦、在留トルコ人が2万人にまで拡大したのにトルコの勢いを感じる。イスタンブールから4時間の飛行距離圏内に人口12億の大市場がある。欧州を除けばその大部分がオスマン帝国の版土であった。トルコ経済の力が此処に及ぶのは歴史の必然であろう。

  もう一つトルコ経済を考える時、交通の要所、文明の交差点といったトルコの地政学的位置が特筆に値する。マルコ・ポーロの昔に遡ればアナトリアの地を経由せずして東西の交易は成り立たなかった。しかしその後のオスマン帝国は東西交易の妨げになってしまった。これを回避するためヴァスコダ・ガマが喜望峰経由の海上輸送路を発見し、それ以降、アナトリアの地が交通の要路と言う意味合いは薄れたと言って良い。しかし一産品だけはこの地を通過することを今でも必要としている。それはカスピ海周辺や、ロシアからの石油、天然ガスである。これだけは最終消費地の西欧に運送するにはどうしてもトルコを通過する必要がある。その事実は、既存のBTCパイプラインの他にナブッコとかサウス・ストリームと呼ばれるパイプラインがアナトリア経由であることからも明白である。この地におけるエネルギー回廊の争奪戦こそ21世紀経済の中核であり、トルコはその帰趨に大きな影響力を持っている。 次のページ 政治情勢

「新興国シリーズ」 第2弾 2012-4-19
  『変貌するインド消費経済』

第2弾 『変貌するインド消費経済』

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  元駐インド大使  榎 泰邦

はじめに
 退官してはや5年目に入るが、相変わらずインド講演を求められることが多いし、私自身が代表取締役を務めるコンサルタント会社からして、対インドビジネスを主たる業務としている。しかし、一度任地を離れると、急速に現場感覚を失っていく。特に、インド経済のように変化の激しい場合は、尚更である。現在でも、年に1~2回は現地を訪問するが変化についていくのが難しい。在勤時代は場末の空港そのものであったニューデリー国際空港は、英連邦大会に合わせて2010年7月に新ターミナルを正式オープンし、50万平米と乗客専用ターミナルとしては世界第8位の広さを誇っている。

かつて、空港に向かう牛が寝そべる渋滞著しい道は上下8レーンの高速道路に変わり、市中からは空港まで地下鉄が時速135kmで走る。大使着任後1年目の2004年12月に初めての地下部分が開通したデリーメトロは、昨年8月第2フェーズが完成し、6路線、総延長190kmに達し、年間乗客数180万人を運んでいる。2021年に第4フェーズが完成すると、8路線、総延長411kmに達する予定である(東京のメトロ総延長は現在301km)。街を走ると至る所でメトロの駅が目に付くようになった。

 もっとも、一歩大都市を出れば、道路、鉄道、港湾等々インフラの未整備は相変わらずで、供給不足による停電も相変わらずである。一国が大変貌を遂げる過程というものは、旧態依然たる部分と変貌する部分が混在したまま、化学変化を起こしていくものなのであろう。インド離任後の5年間に生じた変貌については、様々な切り口からの解説が可能であるが、ここでは「インド消費経済の急拡大」に絞ってご紹介することとしたい。

ファッション・センターEmporioの登場
 ニューデリー南部、バサント・クンジと言えば、在勤時代には灌木が生い茂る荒れ地で、独りグランド・ホテルが建つだけの地であった。昨年、久しぶりにこの場所に行ってみると、延べ床面積3万平米に170のブランドショップが軒を連ねる一大ファッションセンター、Emporioに変じていた。出店のほぼ半分は、Cartier, Dior, Armani, Gucci, Burberry, Louis Vuitton等々ヨーロッパの一流ブランドであり、店内には購買意欲満々のお客で溢れている。

 5年前にも5つ星ホテルのロビーにはヨーロッパの老舗がブティークを出してはいたが、およそ店内に客が入っているのを目にしたことはない。マネジャーに同情半分に尋ねると、「ホテルの店はショーウィンドーであり、実際の商売は超富裕層の自宅に訪問販売をして、しっかり儲けているからご心配無用。」との答えが返ってきた。この5年間で、ごく一部の富裕層への訪問販売から、小金持ちがファッション・センターに繰り出してレジの前に列をなすまでに変貌した訳である。実際、インドの高級品市場は年平均20%で拡大しており、2015年には58億ドル市場にまで成長するとの報道もある。関係者は、高級品市場の拡大はまだ本格化段階にほど遠く、奢侈品に対する高関税(30~40%)の引き下げと、小売り分野に対する外資規制の緩和の2つが措置されれば、爆発的に拡大すると解説する。

 かかる高級品市場の拡大の背景には、富裕層の増大がある。富裕層の定義は、2001年度価格で年間世帯所得100万ルピー以上~170万円弱(1ルピーは約1.7円)~で、日本人の感覚からすれば違和感を覚えるが、インフレ率の高さと購買力を勘案すれば、そんなものなのであろう。この富裕層は、絶対数は少ないものの、所得別グループの中で年平均22.3%と最も増大化が著しく、2001年度に僅かに400万人であったものが2009年度には2,000万人に拡大している。

自動車とカラーテレビ
 高級品市場を支えるのが富裕層であれば、耐久消費財市場の主な担い手は中間層である。年間世帯別所得20万~100万ルピー(01年度価格)の層を言うが、2001年度に6千万人弱(総人口の6%)であったものが、年平均13%で成長し、2009年度には1億5千万人(総人口の12.8%)となっている。この層が、今や乗用車、エアコン販売市場の50%を占め、クレジットカード新規契約の50%を構成している。耐久消費財市場の花形が自動車とカラーテレビである。かつてインド人口が富裕層と貧困層に二分化されていた時代には、国民の大多数には全く無縁の商品であった。在インド日本大使公邸に隣接して料理人、運転手、給仕人たちの居住区があるが、ここでも中古車、カラーテレビ、エアコンが備えられている。以下、自動車とカラーテレビを取り上げて消費生活の変貌を観察してみよう。

(乗用車)
 1980年代初め、第1回在勤時代には、市中を走る自動車は、政府専用車、大使館や外国企業関係の乗用車、トラックなどの商業車の3つに限られていた。自動車・輸入関税が200%の時代である。2004年、大使として着任してみると大使館の裏手にはクラーク・クラス現地職員のマイカーが所狭しと駐車している。約3分の2がマイカー通勤という。乗用車販売台数は、ちょうどこの2004年度に初めて100万台の大台を超え、本格的なモータリゼーション時代に入る。その後、2010年度には252万台と初めて200万台に乗せた。インド自動車市場の特徴は、MUVを含めた乗車車の販売シェアが79%(2010年度)と高いことにある。商業車を含めた自動車全体の販売規模は2010年度で320万台に達している。

 過去5年間の変化を一言すれば、台数の急増もさることながら、車種が多様化していることである。5年前には、道路を走るのは、中古のミニカーとオートリキシャ(三輪車)ばかりの感があった。現在でも、全長4,000mm以下のミニカー、コンパクトカーが販売市場の60%と中心を占めていることには変わりがないが、20万円台のタタ自動車ナノが話題をさらう一方で、絶対数はまだ少ないがベンツ、BMWといった高級車が、2010年度40%増、2011年度50%増と急速に売り上げを伸ばしている。2006年には、市場の将来性に目を
つけたBMWが現地生産に踏み切り、AUDIがこれに続いている。

かくして、1993年以前には、マルチ、ヒンドゥスタン、プレミアなど僅か5社であった乗用車メーカーは、今や17社がひしめき合っている。2~3年後に乗用車販売数が300万台に達するのは確実であり、日本市場を追い抜くのは時間の問題である。JDパワーは、2020年に約1,200万台と、中国、米国に次ぐ世界第3位の販売市場に発展すると予想している。

(カラーテレビ)
 1980年代初めの在勤時代にはカラーテレビ(CTV)は高嶺の花で、転勤内示を受けるとどこで聞きつけてきたのか、業者が自宅に押し掛け、大型の高級カシミール絨毯と交換しろと迫るほどであった。耐久消費財の世帯別普及率統計には信頼できるものが少なく引用に苦労するが、大雑把に言って、CTV普及率は、2005年で全国平均で20%、都市部で40%であったものが、09年に入るとそれぞれ30%と60%に5割増になっている。かつ、カラーと言っても、05年頃はブラウン管TVが中心で、この傾向は相当長く続くと見られていた(この頃、わが国某メーカーがブラウン管CTV製造でインド進出をしている)。

それが、2011年には、都市部でのCTV普及率は66%となり、かつ、主戦場は液晶TVに移っている。この分野はサムソン、LG、ソニーの外国勢3社がしのぎを削り、それをインド企業Videocon、最近ではパナソニックが追う展開となっている。ソニーは2004年に現地生産から撤退をし、タイからの輸入商製品で捲土重来を期してきたが、その甲斐あって2010年には販売シェア22.1%と首の差で韓国勢を押さえ、第1位になった。

 都市部でのカラーテレビ普及率(2010年)を、他のアジア諸国と比較すると、中国96.6%、マレーシア98.4%、タイ92.7%、ベトナム91.8%と軒並み90%以上に達しているなかで、63.6%と画然と遅れている。しかし、ビジネスの目からみれば、それだけ成長潜在力が大きい訳で、CTVに限らず世界の耐久消費財ビジネスの関心が集まっている。

FMCG(日用雑貨)市場
 FMCGというのも聞き慣れない言葉であるが、Fast Moving Consumer Goodsの略である。石鹸、洗剤、シャンプー、生理用品、タバコ、スナックなど幅広い商品を対象とする。耐久消費財に対し、一般消費財ないしは日用雑貨と言ったらよかろう。BOP(Bottom of Pyramid)という言葉もよく聞くようになったが、普通サイズの市場では経済レポートの柱立てにもならない事項が、人口12億の巨大市場となると立派なビジネス分野になる。FMCG市場は、年平均10~12%で成長しており、今やインドGDPの2.15%を占め、第4位の産業分野と称されている。

 所得階層別に分析すれば、富裕層が高級品市場を、中間層が耐久消費財市場を支えるのに対し、FMCG市場は中間層に加え新中間層が支えていると言いうる。しかし、FMCGにつき最も重要な視点は、所得階層別の議論を超えてこれまで殆ど無視されてきた「農村市場」が主な舞台として登場したことにある。

 まず、新中間層であるが、世帯別所得9~20万ルピーの層であり、中間層予備軍である。この層が、2001年度で2.2億人(全体の22%)であったものが、09年度には4.1億人(34%)へと拡大している。中間層と新中間層を合わせると、09年度で5.6億人と全人口の46%を占めるに至っている。この6億人弱の人口が、シャンプーやスキンクリームを日常的に使い始めたことにより、FMCG市場が拡大しているわけである。

農村に話しを転じよう。2005年当時は、わが国経済界リーダーにインド経済をブリーフするにあたっては、「人口の7割が住む農村市場は取りあえず忘れて下さい。それでも3~4億人の巨大市場になります。」と説明していた。それが、最近の講演では「農村市場こそが、これからのビジネスの主戦場です。」と変わった。今や、農村は中間層の3分の1、新中間層の3分の2を擁するに至っている。なぜ、農村が豊かになってきたのか。詳細には立ち入らないが、第1に、出稼ぎ送金などにより都市の繁栄が農村にも波及してきた。第2に、政府による農村支援プログラムが一定の効果を収めてきた。特に、コングレス政権によって導入された農村雇用保障法により、公共事業などを通じ家族当たりで年100日間の雇用を保障する支援策が大きい。第3には農村信用の発達がある。そして、第4に、緑の革命、灌漑整備、備蓄制度などを通じ、農業生産が安定化してきた。

大手で最初に農村市場を開拓したのは、ユニリバーである。購入しやすいように、シャンプーを一袋づつのばら売りにし、農村主婦を販売員にリクルートして農村に入り込んだ。それまで泥で洗髪していた農村婦人が購入し始め、今や同社シャンプー販売の50%が農村である。この商法で成功した同社は、2008年に農村販売員5万人、対象農村10万村であったものを2010年にはそれぞれ10万人、50万村に拡大している。インド全体で64万村であるからほぼ全土をカバーする体制と言ってよい。ユニリバーの成功を受けて、ネスレ、キャドバリー、P&Gなど各社が農村市場にどっと進出した。07年インド商工会議所報告では、FMCG市場浸透度は、練り歯磨きで38%、シャンプー32%、インスタントコーヒー3%、消臭剤0.6%でしかない。要するに、農村8億人市場で無尽蔵の販売余地がある。農村市場を狙うのは、日用雑貨ビジネスだけではない。オートバイのヒーローは年間販売の60%を、自動車のスズキ・マルティは12%をそれぞれ農村で販売しており、携帯電話最大手ののバルティエアテルは新規契約の60%を農村で稼ぎ出している。

結語
 インド経済の大きな特徴は、家計消費がGDPの60%と内需中心の経済発展モデルを有するところにある。投資がGDPの40%、輸出の対GDP比が同じく40%と、投資、輸出を牽引役とする中国と対照をなしている。なるほど、リーマン・ショック後、輸出に期待できなくなった中国は、内需拡大策を取っているが、これは4億元(58兆円)の財政出動などに依存するものである。これに対し、インド経済は、財政出動の結果ではなく、経済構造それ自体が内需中心になっている点が異なる。昨今の国際経済不況の中で、北米、欧州市場の内需が縮小し、世界のビジネスは今や必死で巨大内需を求めて、生き残りをかけている。勿論、インド経済も減速は余儀なくされているが、巨大内需は健在である。

 インドの巨大内需は、元来は独立以来のアウタルキー志向経済にあって消費需要に合うだけの製品供給を欠くなかで蓄積したタンス預金が、経済自由化後、一気に消費に向かって吹き出たことにある。しかし、それが一過性の消費として終わらなかったのは、ITソフト産業という牽引役を得て、経済自由化とうまく歯車が合って高度経済成長が実現し、中間層の拡大、農村市場の成長を通じて内需の自動拡大プロセスが機能してきたことによる。以上、インド消費経済の発展ぶりに長々と字数を費やしてきたのも、こうしたインド経済のメカニズムを知って頂きたいからである。 (了)

 
          付表「インドの所得別構成  出典;NCAER、所得は2001年価格


2001年度 2009年度

年平均成長率


年間世帯別所得

億人(対全人口比%)

億人(対全人口比%)


貧 困 層 9万ルピー
7.3 (72%)             6.2  (51.6%)    

 -1.8%

 新 中 間 層    9~20万ルピー 2.2  (22%)    4.1  (33.9%)  

 7.9%

中   間   層  20~100万ルピー   
0.58 (6.0%)  
 1.5  (12.8%)  

 12.9%

富   裕   層 100万ルピー以上

0.04 (0.4%)   

 0.2  (1.7%)   
 22.3%
全        体  
   10.14   

 11.95




「新興国シリーズ」 第1弾 2012-3-15
  ベトナムと云う国―「日越自然の同盟関係」 



第1弾 『ベトナムと云う国―「日越自然の同盟関係」』

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  元駐ベトナム大使 前OECD大使 服部則夫

 1973年4月に約2週間南ベトナムのサイゴンに滞在した司馬遼太郎は、その著書「人間の集団について」(中公新書)の中で、「・・・ベトナム人というのは堪えられぬ程にいいやつである。」「ベトナムは懐かしい。一度そこに滞留した人は誰もが言う。私もこの稿を書き終えるに当たって,溢れるような感じでそれを思っている。それは丁度野末で自分の知らなかった親類の家を見つけたような気持ちに似ている。いつか又帰れると言う、たとえそういうことが無いにせよ、その思いを持つだけで気持ちが救われると言うそんな人々がいる国である。」とベトナムについての想いを記している。

 ベトナムを知る日本人も、日本人を知るベトナム人も、お互いに良く似ていると言う。勿論、日本人ならこんなことはしないだろうにとか、何でこの程度のことに気付かないのだろうというような点は決して少なくないし、日本人と異なる面も多い。そういうことでは無く、人間関係の間合いの取り方、何かに反応する時の顔つき、目つき、雰囲気など、同種の文化的、歴史的、民族的体験あるいはDNAを持っていないと到底ありえないような同質性を有しているのである。私は他のいくつかのアジアの国々(比、中国、インドネシア)でも勤務した経験があるが、ベトナムでのこのような体験は特別である。

 私は2002年から2008年まで約5年半の長きに亘り、駐ベトナム大使を務めたが、その間の経験の一端を語ることにより、私の見たベトナムと云う国、ベトナム人と云う人々
を御紹介したく、皆様のご参考にしていただければ幸いである。

1. 「大使着任に際して」
 わが国とベトナムは2013年に外交関係樹立40周年を迎えるが、ベトナムがカンボジアに出兵していた1989年までは、日本は西側民主主義国家の一員として、ベトナムに対し厳しい政策を取っていたこともあり、日越関係は良くなかった。カンボジア和平が成立した後、1992年にわが国はベトナムへのODAを再開し、そして1995年にベトナムがアセアンに加盟したことなどを契機に、漸く日越関係は少しずつ発展することとなった。


IMG5.bmp日・北ベトナム外交関係樹立交渉妥結の歴史的写真 (1973年於パリ 中山賀博代表とヴォーバンスンベトナム代表)

私が大使として着任した2002年11月当時、日越関係はすでに良好であったがこれはわが国がODAをもって対越重視の姿勢を示していたことが大きく貢献していた。しかし投資あるいは貿易額はいずれも未だ非常に低いレベルに止まっていた。

私は1994年経済協力局審議官として、ベトナムへの初の大型経済協力調査団の副団長(団長は木内元大使)として始めて訪問し、そのとき得た印象から、後に「石川プロジェクト」と呼ばれ、同国の経済開発政策に大きな貢献をした「ベトナム経済総合開発調査」を発案し実施した他何度か世銀の対越年次協議に代表として参加した経験はあったが、大使として赴任するに当たり、改めて日本にとってのベトナムとは如何なる位置付けかを考えた。そして達した結論は両国間は「自然の同盟関係」が成り立ちうる稀有な関係にあるのではないかと言う事であった。

つまり政治、経済、文化等あらゆる面で基本的利害の対立は無く、一方にとっての利益は同時に他方にとっての利益でもあるような関係、地政学的にも歴史的にも東アジアで両国の置かれた立場(特に対中国大陸)の類似性に加えベトナムにとって日本からのODAは当時全体の三分の一を占め、その経済社会開発に於いて極めて大きな役割を果たしており、又わが国とのFDIや貿易もその潜在的重要性は大きいこと、人口8600万で近い将来1億に達するアセアンの大国としてのベトナムの持つ重み等、そして何よりも同質性の高い両国民性等、政治体制の違いを乗り越えて最も近しい関係になる多くの理由がある。私はこれを「自然の同盟関係」と呼び、大使としての最大の任務はこの関係を実のある実質的なものにし、ベトナム人にも同じ認識を持ってもらえるようにすることに有った。

 私は大使着任に当たり、自らにいくつかのノルマを課し、又着任後のベトナム人記者との懇談でそれを敢えて明らかにもした。そのいくつかを挙げる。


IMG1.jpg2003年着任挨拶ヴォ グエン・ザップ将軍と夫人、ヴォディン・ビエン氏 と

(1)ODA
先ずODAの増額である。ベトナムほど日本のODAが効果的かつ真面目に使われている国は無く、いわば日本のODAのショウウィンドーでもあり、ニーズも高くそして何より、その感謝度は並ではない。(日本のODAプロジェクトには必ず日本とベトナムの国旗をあしらった大きな看板が立てられている。日本のODAである事をひたすら隠す国もお隣にある)私はこのODAの大幅な増額を図るべく最大限の努力をする旨、またインフラ建設のみならず人造り特に日本への留学生の数が飛躍的に増加するような方法を考えたい(インドネシアとマレーシアに対する円借款留学生と同じやり方が念頭にあった)等約束した。

(2)投資環境改善―日越共同イニシアチブ
次にベトナムの投資環境の改善である。途上国の経済発展にとってODAは単なるその基盤整備の為であり民間投資なくして持続的経済発展は有り得ない。然るに、ベトナムの当時の投資環境はインフラの未整備は言うに及ばず、投資許可、税制等をめぐる法律や行政手続き面での問題は多く、優秀かつ勤勉で安価な労働力、政治的社会的安定等近隣のアセアン諸国よりも格段に魅力的であるにも拘わらず、ベトナムへのFDIは伸び悩んでいた。この投資環境を「飛躍的に」改善しない限り経済発展は遅々としか進まないと考えた結果、私はベトナムの投資環境改善の為の「日越共同イニシアチブ」をベトナム政府(先日引退したヴォ フォン フック計画投資大臣)に提案した。

当時日本側は外務、経産の審議官クラスでのベトナム政府との協議の場はあったが、このような事務的でルーチンなやり方では通商上の日々の問題の処理はおろか創造的なことは望めない。投資をめぐる制度上、政策上の諸問題を全てリストアップし、その一つ一つの改善の為の処方箋を出し、期限を決めて実現する、、日本側が勝手にやるのではなく、対等な立場で双方の協議、協力によりこの作業をする、そして先ず何よりもこれは自分たちの為であるという意識をベトナム側に持ってもらった上での作業で無いと意味が無い。

日本側は政府だけでなく実際に投資をし苦労している民間の参加が不可欠であることから日本経団連およびハノイ、ホーチミンの日本商工会の参加、および投資環境改善にはODAの活用が必要なことからJICAやOECF(当時)さらにはJETROにも参加してもらった、文字通りのオールジャパン体制を敷いた。当時、日本経団連のベトナム経済委員会の 宮原賢次委員長(住商会長)に私との日本側共同議長を引き受けていただいたが、口説き落とすのに苦労したのを思い出す。(引き受けて頂いた後の、力強いご協力には多いに感謝している。その後岡会長、加藤社長と歴代の住商幹部が引き継がれている。)

先方はフック計画投資大臣が議長となった。このようにして始まった作業は、約半年後に約100項目の問題点を洗い出し、その夫々に対する改善策がベトナム側の合意のもと作られ両国の首相に報告された。その多くに実現の期限が付されていた。これはいわばベトナム経済の構造改革であり、合意に達するには先方の関係省庁には強い反対があった。

どの程度の項目が実現するか、私は必ずしも楽観的ではなかったが1年後の2004年暮れに行ったレビューで、100項目中9割近くが実現あるいは実現するとの評価がなされた。法人税、個人所得税の軽減からワンストップサービスさらにはバイク部品の輸入制限の撤廃等、中には法律の改正が必要なものもあり、正直言って私には嬉しい驚きであり、このとき私のベトナム人に対する信頼は大きく高まった。

自分たちにとって何が得か、利益となるかが理解できれば柔軟にそれを受け入れ、実行するだけの柔軟性と現実性を有している。又この作業はある意味でかなりの内政干渉であったが、如何に最大の友好国の大使とはいえ私の提案を受け入れてくれたのは、日本に対する信頼と期待が如何に大きいかを示している。

尚この共同イニシアチブの有効性からその後も続けられ現在第4次の作業中である。日本側の取りまとめと先方との交渉等非常にタフな作業が上手く行ったのは、当時の日本大使館次席北野充公使(現総括審議官)に負うところ大であることを感謝と共に付言したい。
この共同イニシアチブによる投資環境の改善の効果は大きく、2005年以降の対越FDIの伸びは著しく、ベトナムの今の発展に大きく貢献したのではないかと自負している。

2.自然の同盟関係
 さて「自然の同盟関係」であるが2004年7月久方ぶりに日本の外務大臣(川口順子)がベトナムを訪問することとなり、私はこの機を捉え、「日越戦略的パートナーシップ」に外相間で合意し、共同声明に書き込むことを目論んだ。国際社会に復帰したとは言え、社会主義体制の下、全方位外交を標榜する国として、如何なる国とも「戦略的――」と言われるような関係には無かった(ロシアとだけはベトナム戦争中の恩義もあり一応そのような関係にはあったが、経済を始めとする実質面での戦略性は無かった)が、実質的には日越は戦略的な協力関係にはあることは認めつつも、共同声明で対外的に発表することには賛成が得られなかった。私が少し事を急ぎ過ぎたのかもしれない。

そして2006年10月のグエン タン ズン首相の公式訪日を前に私は再度ズン首相訪日の際、共同声明で「戦略的パートナーシップ」を謳いたいと提案した。ズン首相は私を招致し、自らこの点についての、私の考えを質した。私の発言を注意深く聞いた後ズン首相は戦略的と云うからには、日本がベトナムの経済社会開発に強くコミットしてくれることが無ければならず具体的にはベトナムにとって死活的な重要性を有する次の3つのプロジェクトに対し日本のODAを含めた協力をコミットしてもらいたい、又さらに経済面のみならず安全保障面での協力も深めていくこと等を意味するのであれば「戦略的パートナーシップ」に合意することは可能である、3つとは「ハノイーホーチミン間新幹線」「ハノイーホーチミン間高速道路」「ホアラックハイテクパーク」であると述べた。


IMG2.jpg2006年9月ズン首相訪日於奈良


ベトナムに新幹線、と云うことを聞いたのはそのときが初めてであり正直言ってかなり驚いたが、よく考えると南北に長い地形から国土のバランスの取れた開発の為には鉄道と道路の大動脈が必要なことは理解でき、又計画から実現まで最低10年以上かかることを考えれば別に大それたことでは無かった。
ズン首相の考えを聞いたあと共同声明発出に至るまでの詳しい経緯は省略するが、本省や国土交通省の理解を得るのに多いに苦労したが結果は共同声明にこれら3プロジェクト名を明記し日本として最大限の協力をする旨謳い、戦略的パートナーシップも明記することが出来た。

最高意思決定機関であるベトナム共産党政治局(14名)内には日本との戦略的パートナーシップ関係に入りしかもそれを対外的に明らかにすることには慎重論もあったとも聞くが、ズン首相としてはこれを押し切ったということでも有りこれら3大プロジェクトに日本が誠実に協力していくことがズン首相引いてはベトナムの日本への信頼を増していくことになろう。因みに調整型であまり個性を前面に出さないベトナムの他の指導者とは異なり、ズン首相は強いリーダーシップを感じさせる。

新幹線については私はズン首相に日本が協力するからには、ハード、ソフトのワンパッケジですよ、と念を押したのに対し、よく理解している、「ベトナムと云う家の鍵を日本に預けます」、と述べたことが強く印象に残った。その後、JR、国交省を含む日本側関係機関の足並みを揃えるのに多いに苦労したが、JICAの事前調査に漕ぎ着け、一昨年、ベトナム政府は国会にプロジェクトの承認を求めた。このときは国会の承認は得られなかったが、ハノイからホーチミンまでの1800キロを一挙に事業化するという非現実的な案であったことが理由であり、新幹線の必要性についての認識に変更は無く、近くハノイおよびホーチミンを両基点とした夫々ずっと距離を短くした、より現実性の高い案として、再度国会にかけられることになっていると理解している。   

南北高速道路はすでに区間を切ってADBの協力も得ながら建設が進んでいるのでいずれ完成しよう。ホアラックハイテクパークもJICAの調査も行われインフラ建設も徐々に進み、日本やローカルのハイテク企業の投資が少しずつ進展している。

 こうして日越は2006年「戦略的関係」に入ったわけだが、それ以降ズン首相は私に会う度、日本にはあらゆる面で特別の配慮をする旨言ってくれたが、実際、例えばハノイ市内のハノイ市所有の超一等地(国際会議場横)がホテル用地として外国企業の入札に付された案件があった、日本企業と韓国企業が最後に残り、正規の条件以外のオッファーの差もありハノイ市長はほとんど韓国に決めようとしていたが、そのとき私はハノイ市長のみならずズン首相に直接働きかけた、その結果急転直下日本企業が落札した。

そのほかにも例えば三菱重工のMRJ計画があるが2007年当時、どこからも大口の購入予約が取れず三菱や経産省は焦っていた、そこで何とかベトナム航空にと言うことになり、私も自ら運輸大臣や商工大臣に働きかけた、その結果しかるべき部品生産のローカライゼーシオンを条件に、何機か忘れたが将来購入の約束が取れた。2011年レアアースの開発権を日本に与えたこと、原発建設での日本への配慮等、戦略的関係だからこそであることを忘れてはならない。

3.インドシナ地域の要
 インドシナ半島では軍事政権下にあったミャンマーが民主化の方向に大きく舵を切りつつあり、漸くODAおよび民間投資による開発が進むことになろう。これによってインドシナ半島が一つの広域経済圏として発展する政治的環境が整うことになるが、すでにベトナム中部のダナンからラオス、メコン河を越え西に向かう東西経済回廊はミャンマー部分を除き完成しており東北タイのコンケンから南のバンコックまで立派な道路で一直線、さらに華南からベトナムあるいはラオス、カンボジアを夫々南に縦断する道路網も完成しつつある。(バンコックから部品をハノイ周辺の組立工場に輸送するのに以前は船で6泊7日かかったのがトラックで2泊3日に短縮)この華南を含むインドシナ地域経済圏では北ベトナムは丁度扇の要にあたり、インドシナ半島を縦に横に道路網が整備されるに伴い今後益々その重要性は増していくであろう。

4. 2005年安保理改組問題
もう一つ越の対日重視を物語る事実を紹介したい。
 2005年わが国は国連安保理常任理事国入りを目指し、G4(日、独、印、伯)で、おそらく戦後のわが外務省として最も大掛かりな外交努力を展開した。結果はご承知のとおりだが、米国の出方の読み誤り、アセアンの一致した協力が得られなかったこと等、当時日中関係が最悪だったとは言え、外務省は致命的な誤りを犯した。特に戦後ODAを中心として営々と築いてきた筈のアジアとの関係でその一致した支持が得られなかったことは、大きなショックであったが、アセアン10で最後まで日本支持を貫いたのはシンガポールとベトナムのわずか2国であったことは余り知られていない。

特にベトナムは日々、中国からの現実の脅威(1500キロの陸上国境および海上国境のトンキン湾や南シナ海での中国の実力行使)にさらされつつ、歯を食いしばってその圧力に耐えながらの日本支持であり、それがよく分るだけに大使として私は本当に嬉しかった。(当時タクシン政権のタイ、マレーシアなどはほぼ完璧に中国シフト、インドネシアは自らも安保理に色気を出していたとの理由はともかくわが国の懇請にあいまいと言うか時には敵対的な言動をしたのは許しがたい。)

5.日本語教育
 次に述べたいのが日本語教育である。
私は着任後の教育訓練大臣への表敬訪問の際、中等義務教育課程での日本語採用を要請した。ベトナムの義務教育は日本と同じく9年(小学5年、中学4年)であるが当時、外国語は英語、仏語、ロシア語、中国語からの選択であった。私は日本との関係を重視するなら日本語も加えてしかるべきである旨、全国一斉には無理だろうからハノイやホーチミンでモデル校をいくつか選び、試験的にやっては如何、教師やカリキュラム作成は日本が責任を持って協力するからと迫った。

駄目もとであったが、結局 先ずハノイの1校の課外授業として2003年から「中等教育における日本語教育試行プロジェクト」が立ち上げられ、2005年からはハノイ、フエ、ダナン、ホーチミンの計8校で第1外国語として日本語が採用されることになった。2010年時点で中学校12、高校10で約4千名が学ぶに至っているが、今後これがさらに増えるか否かは、これら日本語を学んだ者が将来日本語を生かした職業につくことが出来るか否か、日本語教師の数が足りるか否か等にかかっている。今やベトナムでは日本語は英語の次に人気があるといっても過言ではなくなってきている。

6.日越間の歴史
 さて少し歴史を遡ってみたい。

(1)阿部仲麻呂
ハノイは一昨年(2010年)、ベトナムの首都1000年祭を祝ったが、1000年以前は中国(唐)の領土で、当時ハノイはタンロンと呼ばれ唐の安南都護府が置かれていた。遣唐使として長安で長年を過ごした阿部仲麻呂は日本に帰るべく中国南部の寧波を船出したが難破してベトナム中部の港町ヴィンに漂着した。そして再び、長安に陸路戻ったが、その途次タンロンを通過したことは容易に想像できる。

その後西暦768年彼は安南都護としてタンロンに赴任したと言われる。(ベトナム文化芸術中央委員会作成資料による)2004年ASEM首脳会議出席でハノイに来られた小泉総理は到着後空港からの車の中で私に、「ここに阿部仲麻呂がいたのかーー」と感慨深げに云っておられたのを思い出す。現在、ハノイ市のど真ん中でタンロン遺跡(ユネスコ遺産)の発掘が行われているが、いずれ阿部仲麻呂の名前が書かれた木簡などが発見されることを楽しみにしている。。

(2)ホイアン日本人町
 15、16世紀には多くの日本人が東南アジアに雄飛した。タイのアユタヤ、インドネシアのバタビア、ルソン(フィリッピン)等、そしてベトナムの地にも渡り、中部のホイアンには日本人町が作られた。現在は日本の協力で修復され昔の町並みを取り戻し、毎年ホイアン日本祭りが開催され多くの観光客を集めている(ユネスコ遺産)。

(3)東遊(トンズー)運動
 1905年日本は大国ロシアを破った。フィンランド、トルコを始めとした多くの被抑圧民族を鼓舞したが、ベトナムも例外ではなかった。現在、ホーチミンと並んでベトナム民族の偉人として尊敬を集めているのがファン ボイ チャオである。彼は独立運動の指導者であったが1904年越南維新会を組織して自ら訪日しフランスの支配下にあったベトナムの青年に日本への留学を呼びかけた。これが「東遊運動」である。

留学生の数は270名にも達し東京同文書院や振武学校などで学んだ。日本政府は当初彼らに寛容で財界人、大隈重信などの政界人は財政的支援をした。しかしフランスから見れば抗仏運動と映り、1907年の日仏協商後日本政府は彼らを弾圧、取締りの対象とし、多くの留学生は日本を去った。(日本に残った数十人のベトナム人は多いに困窮したがそれを財政的に救ったのは静岡県袋井市浅羽町の医師、浅羽左喜太郎と言う人物で有った事実を付言する)

このように、同じアジア人としてベトナム人の熱い希望に応えられなかったことは、私の中では日本人の大きな「借り」と意識されている。

(4)ボーグエンザップ将軍
私は1968年大卒で所謂ベトナム戦争世代であるが、その世代にはボーグエンザップと云う名前はよく知られていた。「赤いナポレオン」と称された。彼率いるベトミン軍は1954年ヂエンビエンフーにおいてフランス軍を完膚なきまでに打ち破り、フランス統治は事実上これをもって終止符を打った。政治はホーチミン、軍はザップとベトナムの誇るべき歴史上の英雄である。着任間もない頃、ボーヂエンビエンと称するベトナム人がある人の紹介でやってきた。話しているうちにそれがザップ将軍の息子であることが判明し、彼は正に1954年生まれでヂエンビエンフーにちなんで命名された由。私は父君は何時亡くなられたかと聞いたら、まだ存命だとの事なので、是非ご挨拶したいとしたところ早速訪問が実現した。

当時すでに92歳ぐらいだったと思う。夫人と二人の息子家族そろって歓迎してくれた。私にとっては大いなる感激であったが、なぜこの話をするかと言うと、太平洋戦争終結後、数百人にも上る旧日本兵がベトナムに残留し、ザップ将軍率いるベトミン軍に加わり、教育や訓練面で多いに貢献したと言う事実を紹介したかったからである。インドネシアで日本軍がスカルノやハッタを中心としたペタを育成し、さらに戦後の独立戦争にも協力した話は知られているがベトナムでも同じような話があった。

尚ザップ将軍の夫人は日本人医師の手で白内障手術をしたとの事であとで調べたら、ここ10年間ボランチアで裸足の医者をベトナムでやっている眼科医服部匡志氏であった。又2008年私は離任の際再びご挨拶できた。(今尚存命)


IMG4.jpg2008年離任挨拶 ヴォグエンザップ将軍と夫人

(5)ベトナムの歴史教育
私は着任後ベトナムの中学、高校でどのような歴史教育(なかんずく日本について)が行われているか教科書の記述を調べた。驚くべきことに、太平洋戦争中日本がベトナムを占領していた事実などは一言も述べられておらず、他方、明治維新以降の日本の目覚しい発展に多くの記述がなされており、日本に対する大きな評価が明確に読み取れる内容であった。、しかし、日越間に所謂「過去の歴史問題」が無かったわけではない。両国関係が好転する90年代以前においては、ベトナム人はよく「200万人餓死事件」を口にした由。太平洋戦争末期敗色濃厚の日本軍はベトナム(と云うかインドシナと云うか)で米や肥料の徴用を行い、結果として多くのベトナム人が餓死を余儀なくされたという出来事である。今でこそ彼らはこれを口にすることは無いが、我々の胸の奥底にはしっかりとしまって置くべきと思う。

7.ベトナム人とは?
(1)2005年中国において
反日の嵐が吹き荒れていた頃、ベトナムの指導者は日中関係の行方に大きな関心を持ち、首相や外相などは私と会う機会には、よく日中関係についての質問をした。こちらの一通りの説明を聞いた後、ベトナムは過去よりも未来を見ている、過去について言うならば、中国にもフランスにもアメリカにもそして日本にも言いたいことは山ほどある、しかしそれでは明るい未来は築けない、と述べた。

司馬遼太郎はベトナム人を称して「川原に生える葦」と言ったが、大きな力は身体をしならせながらやり過ごし、したたかに生き延びる、言い換えれば非常に現実感覚が優れていると言うことであり、今の自分たちにとって何が損で何が得かを嗅ぎ分ける能力に優れていると言うことでもある。他方「義理」とか「恩」とか儒教の価値観をも強く持っている。以前、渡辺喜美議員は「ベトナム人は義理堅い、昔、親父(故美智雄氏で日越友好議連会長)に世話になったベトナム人が日本に来るとわざわざ栃木の親父の墓参りをしてくれる、こんなのはベトナム人だけだ」と言っておられるのを聞いた。(ベトナム語で有難うは「カムオン」と云うがこれを漢字で書けば「感恩」である)

私がベトナムを去ってほぼ4年がたつ。ベトナムの後OECD代勤務となったが、フック官房長官(現在副首相で政治局員、ズン首相の後継No.1)やニャン副首相(現在も)フン外務副大臣(現駐日大使)など、OECDメンバーでもないのに、色々理由を作ってパリまで会いに来てくれた。私は退官後度々ベトナムに出張しているが、ズン首相も副首相も大臣も会ってくれる。昨年12月にズン首相訪日の際も短い滞在にも関わらず、わざわざ私の為に時間を割いてくれた。これも彼らが「義理」や「恩」を大事にしているからであろう。
 ベトナム人は優れて受動的である、中国人のような攻撃性はその遺伝子にほとんど持ち合わせていないようだ。謙虚と言うか控えめと云うか、目立ちたがらないと言うか、バランスを大事にし極端を嫌う、例えば、優秀な企業家とか国家に貢献した経営者とかが表彰されるとする、その場合絶対に一人だけが特に優秀と言うことにはしない、必ず複数が対象になる、と言った具合に。

1979年中国は不遜にもベトナムにレッスンを与えると言って、ベトナムに攻め入った、結局中国はさんざんにやられて引き上げたわけだが、このときも先ずベトナムは北京に使節団を送り、中国の顔を立てている。これがベトナムのしたたかさである。
司馬遼太郎は日本人とかベトナム人を「植物的」、中国人を「動物的」と捕らえ全く異質であるとしている、大乗仏教徒が人口の9割でその全てが儒教徒と言っても良いベトナム人と日本人はまことに似ている面が少なくないが(私はお互いのDNAの9割ぐらいは共通では無いかとすら思う)、片やほとんど完璧に受動的であるのに比し、我々日本人は基本的には受動的だが時にものすごい攻撃性を見せる、現実性に乏しく、お調子者でノー天気ですらある、この違いはどこから来るのか?一方は大陸と接し日々揉まれてきたこと、小国であること、であるが片や日本は島国で国際的に揉まれることが比較的に希薄であったこと、大国であろうとしたこと、等が故か?しかしそれにしても、なんとよく似た肌感覚か。

(2)南北統一
1975年サイゴンが陥落しベトナム戦争は終結した。その結果今の版図になったわけだが歴史上これだけ広い国土を有するのは初めてである。統一されたが北部、中部、南部の間の違いは大きい。性格、言葉、食べ物等あらゆるものが異なる。南の人々は北に征服された、北の人々は南を解放したと思う。文化的にも北はやはり中国の影響が強く残り、中部や南はカンプチアの影響が残る。(中部のダナンではお腹を出したセクシーなヒンズー系ダンスが見れる)指導部の人事では今まで常に3地域のバランスを取ることが重要であった。
書記長、首相、国家主席を分け合った。しかし2006年の党大会で初めてこのバランスが崩された。中部がいなくなった。

これは戦後30年を経て漸く厳格なバランスを取らなくても良いくらい安定してきたとの理解が可能である。昨年の党大会でも、北は書記長だけで首相、国家主席はいずれも南。政治局員の構成を見ても南優位となっている。やはり経済重視からも必然的にこのようになるのであろう。しかし例えば新幹線を北から始めるのか南から始めるのかも依然として国内政治上配慮が求められてはいるようだ。

8. これからのベトナムは?
これからのベトナムはどこへ行くのか?社会主義の標榜を何時かなぐり捨てるのか?
ベトナムは少しずつではあるが確実に変化している。
ベトナムにも政治犯はいるし、一党独裁であり体制批判や党批判はご法度と言うようなタブーもある。汚職もあるし、その弊害も大きくなってきている。しかし中国のような党や政府官権の目に余る横暴や民衆抑圧と言うようなものは夙に耳にしない。

私は中国とベトナムは統治体制は基本的には同じだが手法は全く「似て非なるもの」と思う。片や圧政的、抑圧的、乱暴で性急であるが片や民衆を気にした「ポピュリズム的社会主義」で時間をかけて、出来るだけ穏便にゆっくりと、である。だから経済発展のスピードもベトナムは比較的にゆっくりしている。例えば開発とは土地の収用に始まる破壊と建設であるともいえるが、ベトナムでは土地の収用手続きは至って民主的でしっかり代金も払うし、時間もかける、ある朝いきなりブルドーザーが現れると言うようなことは有り得ない。あるとき私はハノイの党書記(No.1で政治局員)にハノイの町は通りが狭くていり混じっており、これではモータライゼーシオンに対応できない、あなた方の体制ではなんでもやれるのだから、今、都市計画を根本的にやっておくべきでは無いかと云ったのに対し、我々はそのような乱暴な手法で何でもやれるわけでは無い、と言っていた。

私は2006年の第10回共産党大会の際、ハノイにいたが、5年前の第9回大会に比べ指導部の選出方法に、見かけだけ、とも云えようが、例えば国家主席ポストに複数候補があるとか(党大会での選出時点では一人に絞られてはいたが)大会で指導部の意見に反論もあったとか、の新しい現象があった。この大会を前にベトナム共産党は日本を含む幾つかの国に政治体制のあり方についての調査団を派遣した。

日本に来た調査団は、帰国後、日本の政治体制は一つの参考になる、自民党の一党支配だが、自民党には幾つかの派閥があり、夫々違ったことも云っているが最終的には一つの党として機能している、と云う趣旨の報告をしたとも聞く。つまり私はベトナムはそろそろ一億人にもならんとし、しかもベトナム戦争後に生まれた35歳以下が60℅以上を占める国民の多様化する価値観を今までのように押さえ込むことの無理を敏感に認識し、何らかの方法でゆっくりと時間をかけて変わろうとしていると考える。目に見える変化が現れるにはあと何年かかるかは分らない。しかしベトナム人らしく穏便に微妙なバランス感覚で何らかの調和にソフトランヂングするであろう。

9.雑題
(1)ロータスロード
蓮は謂わばベトナムの国花である。仏の国でありベトナム航空の翼には蓮の花、5月6月ともなると、ハノイの池、湖などは蓮の花が一面を覆う。「古代蓮」又の名を「大賀蓮」というのをご存知か?戦後間もない頃、千葉県検見川で古代の木造船が掘り出され、中から数粒の干からびた蓮の種が発見された。東大の大賀一郎博士がそれを生き返らせたのがいわゆる古代蓮。自民党の二階俊博議員は、おそらくその古代蓮の故郷であろう中国にその古代蓮を里帰りさせ、蓮園(海南島)を作ったと私に言われたので、是非、蓮の国であるベトナムにもその古代蓮を持って来て頂けないか、「ロータスロード」を造りませんかとお願いした。同議員は二つ返事で応じ、種と蓮根をベトナム政府に寄贈し、農業省の協力も得て、丹精を込めたが、上手く根ずかなかったのは残念であったがそれでも日本とベトナムは蓮が内蔵しているある種の美意識を共有しているのではなかろうか。因みにホーチミンの生まれた村の名はゲアン省の「蓮の花村」である。


(2)服部匡志眼科医
「ベトナム」の赤ひげ、と称される眼科医がいる。2002年私の着任の少し前から服部医師はベトナムでの眼科治療を始めた。日本での医師の椅子を投げ打ち旅費から滞在費、治療用の器具、薬剤等すべて自己負担の行動であった。これは日本での学会で出会った一人のベトナム人眼科医のたっての要請に突き動かされての事であった由。彼は普通の眼科医がやらない、といよりは、技術的に難しくてやれない、「硝子体内視鏡手術」の第一人者で、この内視鏡手術をやれる医者は日本に数人、フランスやアメリカでもやはり数人しかやっていないとも聞く。(東京の大学病院を始め大きな眼科病院でもこの手術はやれない)

服部さんはいわば「ブラック ジャック」的存在で、時々日本に帰ってきて、彼のいくつかの拠点病院で彼の手術を待つ多くの患者の手術をして、お金を稼ぎその金でベトナムで無料奉仕をする、彼に失明を救われたベトナム人は5年前の時点で6000人を越える。前記のボーグエンザップ将軍の夫人を始め、共産党や政府の要人も多く含まれている。日本にいたら巨万?の富を築けたのに、と彼は笑っている。私は彼の志に打たれ、私のできる協力すなわち、「草の根無償」をかなりの件数使って彼が拠点とするハノイの国立眼科病院を始め地方の病院に医療器具の援助をしたり、知り合いに寄付をお願いしたり日本のテレビなどのマスコミで取り上げてもらったりして応援をさせてもらっている。

ここで余談を一つ。私はベトナムの後OECD在勤となったが2009年突如網膜剥離になった。たまたま東京にいる時で、都内のさる大学病院に駆け込み、何もわからないまま、翌日緊急手術を受けた。その3週間後パリのアメリカンホスピタルで術後の検査をしたところ、同じ目の別の個所に剥離が生じている、おそらく最初の手術の影響ではないか、自分(フランス人の女医)は内視鏡手術を専門にしており、フランスではじぶんの他にはあまりいない、自信はある、との事だったので、すぐ服部医師に電話をして、相談した。彼は帰れるなら帰ってこい、自分がやるから、しかしフランスでも内視鏡でやるのなら信頼してそちらでやっても良いのではないかとのことであった。従来の古典的術法ではまた失敗する恐れがあり、結局フランスでやった。おかげさまで上首尾で今は以前と変わらず見えている。彼との縁を感じた。(その後様々な目の難病に悩む日本人を彼に紹介している。)

(3)杉良太郎ベトナム特別大使
2005年5月杉良太郎氏は当時の町村外務大臣により「日越」親善大使に任命された。1980年代後半から、ベトナムに関わり始め、自らベトナムとの文化交流を目的とする財団を造り、日本語教育を始めとする交流を行う他、孤児や聾唖者の学校に対し慈善活動を継続的に行ってきた。(一部にはこれを杉の売名行為だと中傷する者も少なくなかったとの事だが私は全くそうは思わない、中傷する前に自分もやってみろと言いたい)これらの活動は賞賛に値し、外務省が親善大使を委嘱する事に全く違和感は無い。その後杉氏は私に対し、自分はベトナムの為にやっているのであり日本側だけの親善大使では片手落ちだから、この際ベトナム政府からも「越日」親善大使に任命してもらいたく、大使の尽力をお願いしたいとの要請があった。

これまで長く戦禍の中にあり、1975年ベトナム戦争後漸く南北統一国家を作ったとはいえ、その後もカンボジア出兵もあり、国際社会の中で孤立してきた。1986年ドイモイ政策を打ち出したとはいえ経済開発に専念し外交面では出来るだけ目立たない形で近隣国との関係維持に精一杯で、とても外国人を親善大使のようなものに任命するなどと言う事は、まず考えもつかず、勿論前例など皆無であった。

「親善」大使とは云え日本のように気軽なものではない。先方も苦労しながら各種法律、法令、慣習等に照らし検討してくれ(長く科挙制度を採用してきたベトナムは恐ろしく文書主義、前例主義である)、結局最終的にベトナムの在外大使の任命と同様、国家主席(元首)が任命する形で応じてくれた。後にも先にもベトナムが外国人をこのように任命したことは無い。杉氏が今後も無私の貢献を継続することを期待したい。

(4)コシノ ジュンコさん
コシノさんはベトナムのファッシオン デザイン分野で大きな貢献をされており、2004年からは毎年開催されるベトナムの若手デザイナーによるデザインコンクールの審査員を務め、優秀者を日本の文化服装学院に留学させていた。私は来年(2013年)日越外交関係樹立40周年記念事業として日本のオペラ「夕鶴」のハノイ公演をコシノさんのご協力(オペラ実行委員会副会長及び衣装製作)を得て、実施することにしている。

10.日越関係の現状と今後

(1)現状
ベトナムにとって最も重要な国は、日本、アメリカそして中国である。旧宗主国フランスとの関係は他のヨーロッパ諸国と大差は無い。ラオス、カンボジアなど正に生命線と言うべき関係は別である。対米関係は非常に良好、ベトナム戦争の後遺症は時々、枯葉剤の問題が出てくることは有るが、ベトナム戦争後の世代が70℅近くを占めていることもあり、余り感じられない、むしろ中国を念頭に置いた安全保障の観点および経済関係の緊密化から対米関係は極めて重要。

ベトナム人は正直に言えば中国(人)が嫌いだ。面従腹背で言葉で言わないだけだ。(こちらから水を向けても中国については余りコメントしたがらない)しかし、最近の南シナ海(のみならず余り報道されないが越中海上国境のトンキン湾での漁業問題)での中国の乱暴な振る舞いは耐え難いレベルにまで達しており、一時学生、市民は反中デモを連日行った。(当然当局の意向も受けて)私は政府直轄都市のハイフォン市人民委員会特別顧問を仰せつかっているが、昨年11月同市の人民委員長(市長)は、こちらから聞きもしないのに、最近、ベトナムは中国に弱腰だ、もっと軍備を増強し守りを固めるべきだと市民から突き上げられている旨語っていた。

これは大きな変化だ。(因みにハイフォンは漢字では、「海防」と書き、歴史的に中国に対する海の防人であった)

過去何千年にも亘って中国から何度も侵略され常に大きな脅威に晒されてきた国として如何に同じ社会主義を標榜しているからと言って、脅威感が薄れているわけではない。他方経済面では良いにつけ悪いにつけ関係は増してきている。中国との間合いの取り方は大変難しい問題であろう。因みに現在の14人の政治局員の中で明らかに親中派(あるいは反中派)と目される人物はいない。中国との微妙な関係を物語る出来事を一つ。

ベトナムは2008年頃だったかボーキサイトの採掘権を中国に与えたがその後中国はボーキサイト鉱山のあるベトナム中部のハイランド(高原都市ダラット付近)に数千名(一説によれば1万人近く)の中国人労働者を送り込み(査証も取らず)辺りを柵で囲い、あたかも租界のごときものを作ってしまった、労働者と称して人民解放軍の兵士も混じっているに違いない、このまま放置すると領土が取られかねない、等国内政治上の問題になり、大方、お引取りを願ったそうだが、昨年来日したボーキサイト鉱山所在地のラムドン省の役人によれば、依然としてかなりの中国人が残っている由。このような中国のやり方も脅威感、嫌悪感を高めている。

しかし好き嫌いに拘わらず中国との関係は重要である。一言でいえばベトナムは中国が怖い、我慢するしかない。政治指導部も腹の中はともかく、中国の怒りを買わないよう細心の注意と表面上の礼儀を尽くすと言うのが鉄則のようだ。(従って越中関係は特に、表面だけ見ても正しくない)以前からの不文律として、共産党書記長は「北」出身者が、首相は「南」出身者がなっているが(国家主席や国会議長は実務を担当するポストではないという意味で必ずしも実権を伴うポストではなく、地域間あるいは権力関係のバランスを取るとの観点から選ばれてきた)これは書記長は主に中国共産党との政治的関係を担当し、首相は主に経済問題を見るとの役割をも勘案してのことである。  

対米関係であるが、1995年外交関係が樹立されたが、この際にはベトナム戦争中空軍パイロットとしてハノイ上空で撃墜されて長くハノイ市内で収容所(当時米兵の間ではハノイヒルトンと称された)生活を余儀なくされたジョン マケイン上院議員が大きな努力をした。しかしその後もアメリカは対越ODAは行わず、又人権について時折問題にする等もありお互いにローキーであったように見受けられる。2000年代中ごろからは例えばインテルが大規模半導体工場をホーチミンに作るなどアメリカとの投資、貿易関係も緊密化しだし、又対中国の観点からのアメリカのプレゼンスの必要性の再認識もありベトナムにとって対米関係の重要性は日に日に高まっている。人口の70%近くがベトナム戦争後生まれた世代でもあり、ベトナム人一般の対米感情は、むしろ大変良いと見ていいのではないか。

 日本はと言えば、ベトナムにとっては、何らの警戒心無しに頼れる唯一の大国であり気前の良い兄貴と映っていよう。玉に瑕は腕力が無いことか?、対中姿勢が弱腰であることか?(ベトナムとしては、日本にもっと強い対中姿勢を取ってもらいたい)

ベトナム政治局総体の考え方として日本との関係を最重視すると言うのはあると思うし大国の中で最も信頼もされているのは間違いない。個々のベトナム人のレベルで見ても、私は5年半もいて、日本が嫌いだとか、悪く思っているとか日本に何らかの悪意を持っていると云うような人間にはついぞお目にかからなかった。(雰囲気でわかる)むしろほぼ全員が親日であり、日本に憧れていると言っても過言では無い。

幸いわが国の対越ODAは年々増額され、インド、インドネシアと共に3大被援助国に数えられている。昨年から中所得国になったがまだ当分ODAは必要であり、今後もこのような前向きな政策を続けるべきであり、仮にこれが減額されるような場合、日本の変節とも受け取られかねず注意が必要である。(ODAはベトナムが日本の対越姿勢を見る際の重要なバロメーター)

(2)今後
今の良すぎる位良好な関係をどのように維持し、より強固なものにするか?アセアンは中国との間合いの取り方で各国異なる、したがってわが国との間合いの取り方も違う。2020年には一億人に達し、経済規模も格段に大きくなった戦略的パートナーベトナムのわが国外交に置いて有する重要性は益々大きく、我が国の対アセアン外交の橋頭保にも成りえよう。少なくともベトナムはわが国との関係についてはすべからく前向きであり好意的である。しかし期待も大きい。

ズン首相の3大プロジェクトはもとより、まだ当分の間ODAでの最大限の協力の姿勢を崩さないこと、少なくとも年一回ぐらいはトップレベルでの交流を行うこと、安全保障面での協力(すでに大臣レベルを始め対話はある程度進んでいるが)を可能な限り具体的に進めること、わが国のポップ カルチャーなど文化面での日本からの発信に力を入れること等、ベトナムでの我が国の有形、無形でのプレゼンスの強化に努めると共に普段の努力によってベトナム側の期待が裏目に出ないようにしなければならない。特に人の交流は大切である。現在日本にいるベトナム人留学生は中国人、韓国人についで多く3千数百名を数える(その多くが私費)。

ここで特記したいのは、平成24年度からスタートする日越EPAの下での看護士、介護士受け入れを是非とも成功させなければいけないと言う点である。インドネシアおよびフィリッピンからの受け入れは見事に失敗した。日本は受け入れると言っておきながら実際は乗り越えがたいハードルを作り、そもそも入れるつもりなど無かったとしか考えられない。これが一流国のやることか?ベトナムについてはわが方の多少の反省もあり事前の日本語教育により多くの時間をかけることにはなったが基本的な制度は同じ。これも失敗したら、もう2度と誰も来なくなる。ベトナムともまずくなる。私は以前からベトナム人看護士特に介護士が日本には必要であり又儒教で年寄りを大切にすることから介護には最も向いていると考えてきた。現在、私はベトナム政府(保健省)の要請もあり、出来るだけ多くのベトナム人が日本での試験に合格できるようなベトナムでの制度構築の相談に乗っている。

11.ベトナムの問題点
これまでベトナムのどちらかと言うと良い面ばかり紹介してきた。悪い面はどうか?
最大の問題は、蔓延りつつある汚職である。ベトナム人社会は恐るべき「贈答社会」である。誰も彼も人に物をあげたがる(例えばこれを悪用しているのが、「teacher’s day」と称して先生に感謝する日がある、これは先生に心付けをする日、つまり親に子供のために先生に賄賂をしなさいと云っているようなもの、しかも以前は一年に一回だったのが最近は二回になった由)心付けが大型になり陰にこもったのが賄賂、だから余り罪意識はないのかも知れないが、数年前ズン首相自らが委員長になった賄賂取締りの委員会を作らざるを得なくなるほど、大きな問題になっているが下火になるような気配はない。

ベトナムの死亡原因の第一は勿論、交通事故(あのバイクの波を見ればうなずけよう)だが、病気ではエイズである。ベトナムの場合、薬の注射回し射ちが原因らしい。交通事故死は毎年2万人近くにも及ぶがもっと問題は死なないまでも脳をやられる者の数は定かではないが数万人にも達ししかも若者が多く、国の発展にとり大いなる損失である。このような益々増大する各種社会問題に事実上ほとんど手が回っていないように見受ける。

科挙制度の名残か恐ろしく官僚的、大使が政府の誰かに面会を申し込むときは、まず口上書をくれ、となる。電話で用事を済ませることは言葉の問題は有るがまず不可能、とても堪らない。と長く日本に住むベトナム人に云ったら、日本のほうが官僚的で手続きが大変、と言われた。まあ、あげつらえば色々有ろうが、「あばたもえくぼ」、良い面を強調し悪い面は出来るだけ目をつむりやり過ごす、これが大事だ。


12.総括
以上長々と思いつくまま、ベトナムについて語ってきた。ベトナム社会は表に出る部分だけ見ても駄目だが、隠された部分はなかなか外国人には見えて来ない。(社会主義体制である事もあるが)時々気を許したベトナム人がしてくれる裏話は表に出ているストーリーとはまるで異なる場合が多い。(昨年の党大会で決定された現指導部の人事についても、ここでは詳らかには出来ないが決してすんなり落ち着いたわけではなく、それこそ血みどろの権力闘争の結果であり、我々としてもそのような経緯をも念頭に置きながら、誰とどのような関係を持ちお付き合いをしていくか考えないと、こちらの望んだような結果にはならないこともあり得る。)

又以上は日本大使としての立場から見たベトナムとも言え、別の立場であれば又違ったベトナムが見えるであろう。我々日本人は他国あるいは他国人を語る場合、無意識に日本人は完璧で聖人君子であるとの前提に立っている、「中国人にだまされて商売乗っ取られた、ベトナム人に金を持ち逃げされた、ベトナム人は立小便をする」などなど、それじゃ日本人は騙さないのか、つい昔は立小便していたではないか。だから私は余り悪い点は敢えて見ないようにしたし今回も語らないようにもした。

ベトナム人は愛すべき人々だ。アジアで日本に真正面から(squarely)接しているのはこの国ぐらいのものである。戦後数十年日本は賠償に始まり巨額のODAをアジアに注ぎ込んだ。インドネシアの、タイのフィリッピンのマレーシアの今あるのは誰のお陰か?それも綺麗さっぱり忘れ安保理問題と言う日本にとっての一世一代の賭けに彼らはチップをはろうともしなかった。しかし他人を恨む前にわが身を反省しなければいけない。つまりわが国の戦後アジア外交を、である。「金の切れ目は縁の切れ目」にならないよう、ベトナムとも失敗したら、もはや浮かばれない。後輩諸君、知恵を出せ、汗をかけ、そして国を想え。!! (了)  (2012年3月8日寄稿)