『ベオグラードの鹿威しと「塞国救難会」』2012.5.24



『ベオグラードの鹿威しと「塞国救難会」』

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       駐セルビア大使 角崎利夫

セルビアの首都、ベオグラードの観光名所のひとつカレメグダン要塞跡公園の一角に、鹿おどしを模った噴水がある。そしてその脇に「日本国民に感謝する泉」と日本語、英語、セルビア語の3ヶ国語で書かれたプレートが置かれている。それは2010年、ベオグラード市が日本からのこれまでの支援に感謝するモニュメントとして設置したのである。同公園には、第1次世界大戦の際に同盟国としてセルビアを支援してくれたフランスに感謝する銅像が以前からあるが、感謝の泉はそれに並ぶ公園内の記念碑となった。

セルビアで最近行われた複数の世論調査で「どこの国(EUを含む)がセルビアに対する最大の支援国ですか?」という質問に対して、日本と答える国民が1番か2番に多いという結果が出ている。しかし実際にはEUの毎年の支援額は日本の過去10年の累積支援額に匹敵し、USAIDの支援額も日本をはるかに上回る。金額的に日本は7番目ぐらいだと思う。

このように日本の支援が非常に感謝され、また「過大に」評価されている理由は、セルビアが2000年に民主化の道を歩みだした直後から、同国の必要に応じた支援を目に見える形で実施してきたことが挙げられよう。代表的な例が今でもベオグラード市内を走る黄色いバス93台である。日本とセルビアの国旗と「DONATION FROM PEOPLE OF JAPAN」という文字が車体に大きく描かれており、それらのバスは「ヤパナッツ(日本人)」という名で今でも市民に親しまれている。しかも日本はバスだけでなく、バスを毎日掃除するという労働倫理までセルビア人に教えてくれた、ということが神話みたいに語り継がれている。タクシーの運転手が、セルビアをこれまで大変支援してくれた国の大使から料金は取れないと言って代金を受け取らなかった例が私に2度起きた、そういったセルビア人の親日性の背景にはこういった神話がある。

ところで最近私は日本が20世紀初めにもセルビアを支援していたことを知った。きっかけはベオグラードの大使公邸のサロンに掲げられた一枚の古い写真である。セルビアのバレーボール協会から前任の長井大使に寄贈されたそうだが、スポーツに関係する写真ではない。日本のどこかの港の倉庫の前に「タオル」「毛布」などと表に書かれて荷造りされた物資が山積みになっており、その前に和服姿の多数の日本人女性が3列に並んで写っている。ところがその前列真ん中当たりに3人だけ白人女性が帽子をかぶって椅子に座っている。更に良く見ると、最後列中央に一人だけ白人男性が見える。バレーボール協会関係者から聞いたところでは、第一次世界大戦のさなか、多くのセルビア人が避難民となり、フランスに逃れたが、この写真は彼らを支援する物資が日本の港で船積みを待っているところの写真だと言う。しかしこの写真に写っているのは誰だろうと疑問に思っていたところへ、ムルキッチ前駐日セルビア大使から、彼がまとめた「セルビアと日本――両国関係史概観」をいただいた。その著書には、第一次大戦が勃発した後、日本でロシア語を教えていたセルビア人、トドロビッチ教授が日本市民から寄付を集めるためセルビア救難会設立に協力したことが記されている。

更に最近になって、ベオグラードの古文書館に勤務するセルビア人から「塞国救難義損募集」と題した1915年の文書のコピーを入手した。これは日本においてセルビアを救援するための募金活動を行う「塞国救難会」を立ち上げる設立趣意書である。そしてこの募金の首唱者には、当時のマレフスキー・ロシア大使の令嬢と並んでトドロビッチ教授が名前を連ね、賛助者として侯爵夫人・鍋島栄子、伯爵夫人・小笠原貞子、子爵夫人・花房千鶴子らの名前が並んでいる。公邸の写真はこの「塞国救難会」が物資を送り出す光景の一コマであって、写真の中心に写っている方々はこの会の首唱者や賛助者だと確信している。

カレメグダン要塞跡公園の「鹿威し」の竹筒を模った金属筒が、水の重みで反転し快い響きを出すのを聞いていると、このセルビア国民の感謝の気持ちは「塞国救難会」が送り届けた毛布やタオルに対するお礼も含まれるに違いないと思われてくるのである。
(2012年5月3日寄稿))(※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。)



『ティムール生誕記念日雑感』2012.4.23



『ティムール生誕記念日雑感』

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       駐ウズベキスタン大使 黒田 義久

CIS(独立国家共同体)の中でも「ロシアの柔らかい下腹」と言われることもある中央アジア、中でもウズベキスタン近辺地域については、我々日本人は、この地域がシルクロードの中央部であるとか、そこを辿って三蔵法師が孫悟空と共にインドへ往還したということをまず第一に思い浮かべるのでしょう。

一方、私は去る4月9日、ウズベキスタンの首都タシケントの中心部の公園で、「多くの日本人も子どもの頃から、おそらく中学生の頃には、ティムールの名前を知り、14世紀から15世紀に中央アジアに帝国を建設した人物であることを習って知っている。」と挨拶する機会がありました。日本の室町時代の始めにティムールがモンゴル襲来後のこの地域を世界史の表に一時的にしろ浮かび上がらせたことを我々ももう一度思い出してもよいだろうと思います。

この4月9日はティムール生誕676年の記念日で、私はその頌徳団体からの依頼を外国大使にとっては大変名誉なことだと考え、挨拶をしました。この旧ソ連圏の国は独立20年の今日においても、私と同世代の者ですらよく記憶しているような「ソ連的なもの」を思い出させるところもある市場経済化移行国、「昔に、ソ連時代に戻ることはない」と強調している国なのですが、かなり率直に、私は次のように言いました。

まず第一に、歴史的存在としてのティムールについて、私が最も心を引かれたのは、ティムールの同時代人が同人を評して、「逆境にあっても悲しまず、栄華のうちにも冷静を失わず」、「活気にあふれ、勇敢であり」、ひとたび口に出した命令は「決して取り消すことのない」人物であったと言っていることです。私はこれに深く感動し、鳴かないホトトギスを、鳴かないのなら殺してしまえと言った者、鳴かせてみようと言った者、鳴くまで待とうと言った者、これら16~17世紀の日本の歴史上の3人の英雄の、強い精神と智恵と忍耐をアミール・ティムールは一人で備えていた軍事指導者であったのではないかと思います。彼は女性を愛することのできる人でもありました。

そして、これに続いて、次のように言いました。

加えて、このような、もしかすると私は間違っているかもしれませんが、歴史的存在としてのティムールの他に、600年後の現代によみがえったティムールという、二人目のティムールが存在します。彼は、独立ウズベキスタンの「現代の英雄」でもあるように思えます。私はこの点にも、日本大使としての私の任地であるウズベキスタンの、目には見えないけれども、力と誇りの源泉があるのではないかと感じています。

特に、この第2パラグラフは、現在のこの国の政治の基本的背景の一つに関係する事柄なので、私はこれ以上踏み込むことはしませんでした。例えば、北方にロシアという大国があり、そのロシアはこの中央アジアとの関係をプーチン次期大統領が標榜するユーラシア同盟の対象地域の一つに位置づけているわけですし、特に最近ではウズベキスタンにとって安全保障上の重大事であるアフガニスタンからの欧米諸国の軍隊の撤収が具体的に議論される中で、ウズベキスタンの現在の国内情勢は、この独立後20年のいくつかの時期に比べても、当事者にとっても観察者にとっても看過できない一般状況にあるからです。

 ティムールは1405年の2月に中国への遠征途上で亡くなりました。タシケントから列車で2、3時間のサマルカンドには、愛妻の廟をはじめとする、600年後の現代によみがえってなお影響を持ち続けていると私には思える、中道で倒れた彼の栄華の跡が青い空の下に今も広がっています。蛇足ながら、ウズベキスタン側の新聞第一面に掲載された私の挨拶テキストでは、上記の「彼は女性を愛することのできる人でありました。」の部分は何故か削除されていました。(2012年4月17日寄稿)(※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。)




『「メキシコに残るサムライの足跡・・・つわものどもが夢のあと」』2012.3.10



『「メキシコに残るサムライの足跡・・・つわものどもが夢のあと」』

   前駐メキシコ大使 小野正昭

皆さんはご存知ですか。400年前の江戸時代はじめ、最初の侍使節が自前の木造船で太平洋を渡り、メキシコはアカプルコに上陸、メキシコ市に入城した際、一人のアステカ先住民が一行の行動を克明に記録していたことを、また、1897年(明治30年)メキシコのチアパス州に入植した日系移民は、その後勃発したメキシコ革命で被った損害の賠償を受けるのを潔しとせず、一切の賠償請求権を放棄したことを。メキシコとの交流史に埋もれたこれら二つの出来事を現地に残された資料によりご紹介します。

メキシコの魅力               「小野正昭氏写真集より」 スミデロ渓谷の奇観 千尋の谷(スミデロ渓谷) 足すさまじく肝を冷やす(スミデロ渓谷大樹と共に老いる サント・ドミンゴ教会 チアパスにみる家族の絆 サトウキビ談義に花が咲く 古代信仰と素朴な十字架 マヤ遺跡・トニナの番人 天体観測マヤの塔



1.慶長遣欧使節団(支倉常長)のメキシコ訪問

「1614年3月4日火曜日、本日、このメキシコ市にはじめて日本の侍が我らと親交するためにやってくる。太陽は真上にあって12の鐘の響きわたる中を、彼らは馬上姿で市に入ってきた。徒歩の従者は先に立ち、細長い黒い棒を手に高く掲げていた。見たところ槍のように思うが、日本ではこのようにして主君を先導するのであろうか。侍たちは長いガウンを羽織、その上に帯を締め、髪をうなじの所で結い上げていた。
日本の偉大な君主により派遣された特派大使は立派な人物であった。彼らの目的は、メキシコからスペイン経由ローマに赴きローマ法王パウロ5世に拝謁し、いかに多くの日本人がキリスト教徒になることを願っているかを報告するだろう。スペインでは偉大な君主フェリペ3世に会って、互いに尊重し合い、決して戦わないこと、メキシコと交易することを提案するであろう・・・」

ここで“日本の偉大な君主”とは仙台藩主伊達政宗を、“派遣された立派な特派大使”とは支倉常長を指しています。この引用文は古代アステカ族の貴族の末裔で、詳細な日記や歴史記録をナワトル語(アステカ語族)で残したチマルパインによる日記(パリ国立図書館蔵)の抜粋で、ナワトル語の権威レオン・ポルティージャ氏のスペイン語訳に基づきます。
アステカ先住民のこの記録者は、彼自身の目で観察した日本からの珍しい客に心惹かれて次の点も明らかにしています:侍が市に入った後、1614年3月17日、月曜日のセマナ・サンタ(聖週間)に、支倉使節団長が他の日本人を連れて市に現れたこと、日本人の宿舎は、市の中心に現存するサン・フランシスコ教会の側にあったこと、日本使節は平和と通商を進めるのが目的であると表明したこと、20名の日本人が洗礼を受けたこと、マドリッドとローマに行くというニュース。日記にはこれら全てが書かれています。
当時35歳のこの先住民の記録は正確で客観的です。遠い島国から初めてやってきた侍たちの一挙手一投足が多くの市民に強い印象を与えたであろうことは容易に想像がつきます。レオン・ポルティージャ氏が指摘するように、日本人の衣装や立ち居振る舞いの記述は日本文化に対する理解と両国の文化交流促進に特別な意義があったと思います。それにしても伊達政宗の構想である未知の太平洋航路を学び取り、メキシコとの貿易を開き、宣教師を受け入れるといったグローバルな戦略がメキシコ先住民の日記から間接的に読み取れることは興味深い。

このチマルパインの日記は、支倉使節団より約4年前、メキシコを訪問した最初の日本人についても記録しています。1609年マニラからアカプルコに向かっていたフィリピン代理総督ロドリゴ・デ・ビベロを含む317名は台風により千葉県御宿沖で遭難、御宿の海女の“肌のぬくもり”に助けられ、一年間日本に滞在した後1610年、徳川家康提供の船で、メキシコに帰還しますが、その船に田中勝介という京都の商人など日本人21人が同乗していました。

チマルパインは、メキシコ市にやってきたこれらの日本人の入城についても細かく描写すると共に、その多くが商人であり、彼らの目的は平和と相互の尊重、そして通商を求めたことを明らかにしています。徳川家康は難破船の救助の機会をとらえて、メキシコとの貿易とメキシコから鉱山技師を招き、銀の精錬技術を導入しようとしたといわれています。このように家康も政宗も大航海時代の国際情勢の動きに敏感で、初めて大きな木造船を作り使節をメキシコやスペイン、イタリアに派遣したその雄大な構想と実行力には感心させられます。

尚、支倉常長一行を乗せたサン・ファン・バウティスタ号(500トン)は1613年
10月28日に仙台藩領牡鹿郡月の浦をメキシコに向け出帆しています。来年2013年
10月は支倉常長が月の浦の港を出帆して四百年目を迎えることとなり、メキシコをはじめスペイン、イタリア等関係国との間で様々な記念行事が行われることが期待されています。また、今回の大津波にも拘わらず石巻にあるサン・ファン・バウティスタ号(等身大の復元船)は大破を免れましたが、マストの破損等の修復事業が今後順調に進むことを願って止みません。

2.チアパスの榎本移民―“つわものどもが夢のあと”

2007年の秋、私はグアテマラとの国境に近いメキシコ南部チアパス州のアカコヤグア村を訪問しました。その村の公園にある記念碑の前で、110年前に入植した先駆者の足跡を偲んで黙祷を捧げました。記念碑の正面には「榎本植民記念」、裏面には「夏草やつわものどもの夢のあと」(植物学者松田英二筆)、その定礎に35名の移住者名が刻まれていました。

その多くが二十歳代の35人の青年がメキシコの熱帯僻地で幾多の挫折を味わいながらも、メキシコに踏み止まり、例えば宮城県宮城農業学校卒業生の活躍など現地社会に多大の貢献をし、ここに顕彰されることになったものです。(彼らの奮闘記は上野久著「サムライたちのメキシコ」(京都国際マンガミュージアム)に詳しく、一読をお勧めしたい。)彼らの残したサムライ魂の元をたどれば、やはりあの幕臣、函館戦争を起こした榎本武揚の植民思想にたどり着きます。

その植民思想は明治初頭の北海道開拓時代の現地調査から生まれ、彼の南進論もすでにその頃形成されたとみられます。明治二十年代になると「内国植民論」から「海外植民論」への高まりが見られ、当時すでに一部始まっていたハワイや米国への契約移民(出稼移民)と異なる「模範植民」をメキシコに送るべきであるとの榎本の考えが強く押し出されます。

1891年(明治24年)8月8日付で外務省官房に移民課が設置されますがその時、榎本外務大臣は自分の意見を各紙に掲載し、「海外植民の事業は目下内外に対する一大急務なり、けだし外においては「国民の品位」を改良し、内においては社会の生計を補助するはこの事業をおいて他に其の比を見ざるが故なり・・・」と述べ、最近の出稼ぎ移民の中には無頼漢も少なくないため米国政府の移民渡航制限条例が出されるなど問題が生じている。このためメキシコをはじめ新しい移住地では今までの「出稼ぎ移民」ではなく、あらかじめ土地を確保し、日本の資本と労力を注入し、その国の経済に貢献する「定住移民」を送るべきであると主張しています。

その後1893年(明治26年)植民協会の会長となった榎本武揚は同協会の評議員である小村寿太郎、近衛篤麿、金子堅太郎等と共に「移住植民」の意義を掲げ、その中で、移住事業は日本の国是である、人口問題を解決し、海上交通及び貿易を活発化する、わが国の人心は多年の鎖国政策のため畏縮し、封建割拠が久しく行われ、各党派の間に異を立て、争いを生ずる弊なしとせず(中略)、殖民の事業は大いに対外の精神を発揮し、その志を広げ、かつ新知識を輸入して我が国の人心を一新する重大な開国政策である、としています。今から120年も前にかかる政策提言を行い実行した明治の先達の事例は、現在の閉塞感に満ちた社会、劣化した政治に直面し、畏縮しがちな我々にも大変参考になるのではないでしょうか。

さらに、なぜメキシコなのかについても榎本武揚は殖民協会創立演説において明確に説明しています。当時のメキシコのディアス政権は他のラテンアメリカ諸国の政権より安定し、農業・水産・鉱物資源が豊富、メキシコ官民共に日本からの移民を熱望し、その容貌・性格が類似、相憐れむ国民性を有するとしています。これは正しい判断だと思います。

このような大なる構想のもとに、中南米で最初の移民35名が1897年(明治30年)メキシコのチアパス州に派遣されます。しかし、現実は事前の調査不足、最終的には資金不足もあり当初の計画はことごとく挫折しますが、榎本移民の多くはチアパス或いは他の地域において再生の道を探求し、日本移民としての名誉を汚さず地域社会への貢献を通じその評価を高めてきました。例えば、照井亮次郎、高橋熊太郎、清野三郎、有馬六太郎、鈴木若、山本浅次郎は日墨協働会社を設立し、太田連二は軍医として活躍、彼等の遺志を継いだ松田英二は植物学者として活躍しましたが、これらは数ある実例の中のほんの一例であります。

現在、メキシコ全土で約2万人の日系人が活躍しています。彼等はその土地の規則や習慣を尊重し、現地の住民と協調して地域の経済的発展に貢献してきました。同時に、彼等の多くは日本人の血を引くことに誇りを持ち、身を粉にして働き、勉学に勤しみました。日系移民の歴史には、メキシコ革命、第二次世界大戦といった受難の時もあり、この時期を乗り越えるために払った犠牲の大きさは想像に難くありません。

にもかかわらず、日本人移民はメキシコ革命のような国内問題を自らの問題と捉え、外国人であるにもかかわらず、温かく迎え入れてくれたメキシコに共に暮らしているという理由から、メキシコ人と同様の自己犠牲を払う決意をしました。

ここで日本人移民がどれほど深くメキシコを愛していたかを示す史実―それは現代の我々にはにわかには理解できない行動ではありますが―を紹介したい。

1922年、10年続いたメキシコ革命が終焉を迎えると、アルバロ・オブレゴン大統領は外国人に対して革命中に被った損害の賠償を約束しました。しかしながら、チアパスに住む日本人達は前述の信念から、大統領に対し損害賠償を受ける権利を放棄する旨伝えました。その書簡の抜粋を前述の「サムライたちのメキシコ」から以下に引用したい。

  1. 在留外国人が過去10年の革命中蒙った損害を補償するため、メキシコ政府が賠償委員会を設立したことを謝す。
  2. しかし、我々の考えとしては、一国の進展のために革命をもってするのは自然の方法であり、メキシコ在留の外国人といえどもメキシコ人と同様の犠牲を払うべきは当然である。
  3. チアパス州に在住する日本人も莫大な損害を蒙ったが(時価30万ペソ)、その損害賠償を要求するのはエゴイズムと称すべきである。
  4. よって貴大統領及び公使館に対し、チアパス州の在留邦人は政府委員会が申し出た損害賠償請求権を放棄する。
  5. 損害額は零細な階級にある日本人に多くあったが、革命中、政府官軍及び革命軍のいずれよりも一度として屈辱を受けたことなかりしを感謝する。
  6. 農業、商業に従事した邦人が1910年以来10年に亘り、多くの損害を蒙ったにもかかわらず、我々コロニア自らの出資によって小学校三校を建設して町村に寄付したことで我らの感謝の真意を汲んでいただけると思う。
  7. 我らの第二の故郷であるメキシコが今後平和を取り戻し発展することのみ祈る。

更に、この事実は1922年1月22日付全国紙エル・ウニベルサル紙に報じられました。
その記事の日本語訳を以下に引用したい。

「革命の際の損害賠償請求と日本人」
タパチュラ在住の日系人コミュニティーが大統領に対して、革命中に被った被害に対する損害賠償請求を放棄するという共同レターを出したということには大変感銘を受ける。その後、チアパス州に住むほかの日本人も同様に、個人的に請求権を放棄している。
なぜ彼らはこのような態度をとったのか?それは、その根拠は共同レターの署名者達が表明している、市民戦争のような流血の惨事においては、外国人であってもメキシコに住んでいる以上、メキシコ人と同じ苦しみを味わうべきだという考えにある。
この考え方は、「酸いも甘いもともにする」(”así como están a las maduras, lo están a las duras”)というメキシコ(スペイン語)の諺が示すところである。ただし、その国民同士であればともかく、外国人が「酸い」をその国の国民と共にするという考え方は非常に変わったものである。

メキシコ政府は外国人に対して、彼らが革命的行動の結果被害をこうむった場合、その損害補償を保障している。この点、外国人に対してはメキシコ人以上の権利を保障しているのである。
日本人のこのような態度は論理性(法的根拠)に依拠するものではなく、寛大さ、高貴さからくるものである。誰が、火事や火山の噴火等の自然災害の際にその損害を請求するであろうか。政府の意思によるものでないという点で、社会現象(革命)を自然現象と同一視した場合、外国人のみに対して認められる(メキシコ人には認められない)損害請求という権利は大いに議論の余地がある。
チアパスに住む日本人は「法的」な権利を無視し、「自然」の権利を重視している。これにより、彼らはかれらの寛大さからメキシコに対し、敬意を払っているのであるが、その行為により彼ら自身が尊く見えるのである。

後日談として前述の植物学者の松田英二が「日本人メキシコ移住史」(1971)に次のように書いています。
「故伊藤敬一氏が在メキシコ公使館在勤中、チアパス州在留邦人は損害の請求権を放棄する旨決議したと連絡越したので同官は本省と連絡の上「わがチアパス州在留同胞は外国人である故をもち、メキシコ人以上の待遇を受けたることに謝意を表し、損害賠償を受けるを潔しとせず、一切の請求権を放棄する」旨をメキシコの外務大臣に公文で通報した処、頗る丁重な謝状を受けた事実を述べた。さらにその後、メキシコが外国石油会社の利権を接収してその賠償金を支払う要あった時、当時のメキシコ外務大臣は某国大使を外務省に招き賠償金を手交しつつ、日本在留民は率先して、メキシコ内乱に於ける損害賠償権を放棄した事実を語り、メキシコ官民の謝意の存する所以を述べた。と故人の旧懐談である。」

90年前チアパスの日本移民がとった行動は、榎本武揚が目指した「日本人の品位」の高さをメキシコ人に強く印象づける出来事であったといえますが、同時にその行動は、日本移民が困難に直面する度に、周りの貧しいメキシコ人が助けてくれたことに対する感謝の証でもあったのだと思います。

何度となくチアパスを訪問するうちに、私はチアパスの人々の絆の強さを感じました。それは他人への思いやり、利他の精神であり、これは世代を超えて引き継がれてきたものと思われます。この利他の精神は、おそらく、古代マヤ文明の影響が今なお残り、さまざまな民族が、ヨーロッパ、アジア、アフリカからの移民と混ざり合いながら4000年に亘り共存してきた民族的モザイクを形成するチアパスという土地が持つ自然的、歴史的、そして文化的な豊かさと無関係ではありません。榎本移民がとった行動は彼らが革命で被った損害の何倍もの恩恵をチアパスの人々から受けてきたが故の当然の結論だったのではないでしょうか。

地理的に見ると、チアパスは北をタバスコ州、南を太平洋、東をグアテマラ、西をオアハカ州及びベラクルス州と接しています。更に、チアパスの河川・湖沼の水量はメキシコ全体の水量の30%を占める。その領土は自然地理学的に7つの領域に区分され、3つの山岳地帯、2つの平野、中心部にひとつの高地とひとつの低地を持つ。これらは様々な小気候を生み出し、熱帯地域に特有の多種多様な生態系の共存を可能にしています。

これらすべてのチアパスを取り巻く環境的要因がコントラストに満ちた社会を作り出し、そのコントラストは社会以外にも、その経済、自然、価値観、宗教、文化、芸術においてはっきりと見て取れます。そして、このコントラストこそが、すべての原動力であり、美しいチアパス州に無限の可能性を与えるエネルギーの源なのです。

本稿を締めくくるに際し皆様が、将来メキシコを訪問される際にはチアパスまで足を運ばれることをお勧めいたします。 (2012年3月5日寄稿)















『アゼルバイジャンをご存知ですか、-遠い親日の人々と石油の国-』2012.1.10



『アゼルバイジャンをご存知ですか、-遠い親日の人々と石油の国-』

バクーの町並み.JPGバクーの町並み:近年、建設ラッシュが進むバクーの町並み。左側奥に広がるのが カスピ海。

   前在アゼルバイジャン大使館専門調査員 前川 恵

筆者は、2010年1月から2011年11月末迄の約2年間、旧ソ連邦諸国の一つであり、カスピ海西岸に位置するアゼルバイジャン共和国の日本大使館専門調査員として勤務する機会を得た。日本では、同国の知名度はあまり高いとは言えず、現在の在留邦人数も40名弱に留まっているが、実は日本人に良く知られている有名人も輩出している国でもある。以下では、同国についての簡単な紹介と、筆者の2年間に亘る勤務において印象に残った点を述べてみたい。

1 アゼルバイジャン共和国について
 アゼルバイジャン共和国は、ユーラシア大陸に大きく横たわるロシア連邦の南西方面に位置するコーカサス地方に属し、北海道程の面積を有する国である。コーカサス地方は、ロシアの「柔らかい脇腹」とも言われる程、ロシアの国家統治上の急所ともいえる重要な場所であり、かつロシアに対抗する欧米諸国との勢力均衡地点として、地政学的に重要な地域とみなされてきた。また、同地域の南方にはイラン、さらに西方には、近年地域大国として存在感を強めつつあるトルコがあり、それぞれ歴史も文化も異なるこれらの国々がせめぎ合う狭間で、コーカサス3カ国(アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア)はこれまで常に翻弄されつつ生き延びてきた歴史を有している。

 このような歴史的背景があるためか、特にコーカサス諸国の中でもアゼルバイジャン人は、外国人等の見知らぬ相手に対して非常に注意深く、相手の本意を伺うような気の遣い方をする。そのため、我々日本人にとっては、ある意味日本的な気配りをする国民性に、意外な親近感を持つこともある。
 日本でも特に有名なアゼルバイジャン出身の人物といえば、第ニ次世界大戦中、ソ連軍スパイとして日本で活躍したゾルゲ、また現代では、世界的に有名なチェリストであったロストロポーヴィッチ等が挙げられよう。

 また、ダイナマイトを発明し、「ノーベル賞」の創設者としても有名なアルフレッド・ノーベル、およびその兄弟が、19世紀後半にアゼルバイジャンに石油会社を設立し、近代的な石油開発・輸送事業の先駆者として同国で活躍したことも、日本ではあまり知られていない事実であろう。アゼルバイジャンは、古来より「火の国」との名称で呼ばれてきたが、これは地下から湧き出る天然ガスが自然発火で燃えている様子を称して名付けられたものとされており、同国が拝火教の聖地と言われているのも、このような独特の風土が世界史上、古くから確認されていることに因るものとの説もある。このようにアゼルバイジャンは、世界でも最も古い歴史を有する石油国でもあり、現在においても同国の経済・産業は、石油・天然ガス分野が非常に大きな比重を占めている。特に、ヘイダル・アリエフ前大統領時代の1994年に,欧米石油メジャー企業と締結した「世紀の契約」と呼ばれるACG(アゼル・チラグ・グナシリ)油田開発,および2006年のBTC(バクー・トビリシ・ジェイハン)石油パイプラインの開通を契機として,同国はエネルギー資源の輸送面における脱ロシア依存に成功し,CIS諸国の中でもいち早く,欧米市場を対象としたエネルギーの輸出を実現した。このエネルギー戦略の成功により,国の経済もACG油田の生産量と比例して飛躍的に成長することとなった。

2 日本とアゼルバイジャンの関係
 現在、我が国とアゼルバイジャンとの関係は、経済・経済協力分野が中心であり、経済協力分野については、ソ連邦崩壊後の民主化や社会的インフラを支援するという観点から、ODAによる同国の電力や上下水道等の公共インフラ整備事業を実施している。また、都市と地方の格差が依然として著しいことから、地方における学校、診療所、給水設備の整備等の草の根無償支援も実施しており、これによる日本の知名度および存在感は想像以上に大きい。

また、先の東日本大震災後に起工式が行われたODAプロジェクトであるシマル火力発電所は、起工式にイルハム・アリエフ大統領および渡邉在アゼルバイジャン大使等が出席し、アリエフ大統領が、震災後にも関わらずプロジェクトが実施される運びとなったことへの感謝の念とともに、日本人が震災に冷静かつ懸命に対処し、復興に向けて努力していることについて真摯な言葉で日本を称え、同国のメディアでも大きく取り上げられた。(なお、同震災への義捐金として、アゼルバイジャン側から日本に対して総額100万米ドルが寄付された。)

 さらに最近では、同国が参加する国際機関「GUAM」(注:グルジア、ウクライナ、アゼルバイジャン、モルドバから構成される。正式名称「民主主義・経済発展のための機構-GUAM」)と我が国との間で「GUAM+日本」という協力枠組みを作り、観光や防災をテーマとしたワークショップも行われており、新たな切り口での協力関係が深まりつつある。
 また、民間レベルの経済活動では、同国カスピ海沖の巨大油田であるACG油田の開発・輸送プロジェクトに本邦企業2社が参加しているほか、先般2011年11月末にバクーで行われた第7回日本アゼルバイジャン経済合同会議では、両国から多数の官民関係者が参加し、石油分野のみに留まらず、省エネや水関係、および観光等の非石油分野における両国の経済関係の可能性について活発な協議が行われた。

 なお、同国では、柔道、合気道、空手の愛好者が意外に多く、2008年の北京オリンピックでは、柔道の金メダルおよび銅メダルも獲得している。街では、これらの競技に関連する日本語(および日本語もどき)を知る人にも出会うことがあるほか、そのような日本の伝統的文化・精神に、強い関心や親近感を持つ人も多い。さらに、車や技術製品に対する日本ブランドの威力も、いまだ健在である。
 このような背景もあって、同国における日本のイメージは、非常に良好であるといえよう。

3 在任中の主な出来事
 筆者の在任中は、同国をも巻き込む世界的な大きな事件が相次いだ時期であった。一つ目は、チュニジアに端を発する「アラブの春」であり、二つ目は、前述の東日本大震災である。アゼルバイジャンは、シーア派ムスリムが多数派を占める国であり(但しイランとは異なり、同国のイスラムの戒律はかなり緩やかである)、同国にも何らかの影響が及び得るのではないかとの懸念もあったが、この1年間程の間に、同国の少数野党等が何度か街頭デモを決行したものの、一般民衆を巻き込む大規模デモには発展せず、現時点においては大きな変化は見られていない。

国民の大部分は、権力と闘うことよりも平穏、安定を志向しており、実際、現アリエフ政権は、比較的安定した政策を実施していることもあって、国民から一定の支持を得ている状況であるといえる。他方、同国の隣国であるロシア、イランでは、国内・対外的に、アゼルバイジャンにも影響が及び兼ねない政治的な緊張感も見られた時期であったことから、アゼルバイジャン国内のみならず、今後むしろ隣国における社会的・政治的変動の可能性が、同国に対して如何なる影響を及ぼし得るかという観点から、引き続き注視していく必要があるものと思われる。

 また、二つ目の東日本大震災については、これに伴う福島原発事故によって、特に欧州諸国を中心とした脱原発への動きが強まり、このようなエネルギー環境の変化を受けて、原子力に代替するエネルギーとしての天然ガスが再注目されていることから、天然ガス産出国としての同国の存在感が高まりつつある。折りしも2010年から2011年にかけては、カスピ海沖アゼルバイジャン領域のウミド鉱床およびアブシェロン鉱床において、新たに大量の天然ガスが相次いで発見され、従来石油産出国として経済を発展させてきた同国が、天然ガス産出国としても新たな注目を浴びた時期であった。

ロシアへの天然ガス輸入依存度の高い一部の欧州諸国にとって、アゼルバイジャンのガスは追加的供給源として期待されており、今後2020年以降は現在の生産量の約2倍から3倍に拡大することが見込まれ、主にトルコや欧州諸国を中心に供給されることになる計画である(なお、2010年の同国の天然ガス生産量は年間約167億立米)。

陸上油田の風景.JPG陸上油田の風景: バクーで石油採掘が始められた当時の面影を残す、 陸上油田の採掘現場の様子。陸上油田からの生産量は、 減少傾向にあるが、現在でも生産が続けられている。燃える山(ヤナルダウ).JPG燃える山(ヤナルダウ): 地下から湧き出る天然ガスが自然発火で燃えているとされる 「ヤナルダウ」の風景。

4 同国の課題および展望
 このように、豊富なエネルギー資源を武器として、欧州やロシア、トルコ、イラン等の大国を相手に、したたかな外交政策を実施し、国内的にも比較的安定した状況にあるアゼルバイジャンではあるが、旧ソ連時代の負の遺産は、独立後20年を経過した現在でも、大きな障壁として立ちはだかっているのも現実である。特に、隣国アルメニアとの間のナゴルノ・カラバフ紛争は、旧ソ連政権が異民族間の対立を意図的に煽る政策を実施した結果、ソ連邦崩壊末期にかけて、同連邦各地で発生した紛争の一つであるが、ナゴルノ・カラバフ地域の領有問題をめぐり、80年代後半から90年代前半にかけて、両国民に多くの死傷者をもたらしたこの紛争によって、現在でも両国の間には、容易には埋めることの出来ない深い溝が横たわっている。

アリエフ大統領や政府高官が国内・対外的に行う政治的スピーチや、同国の新聞の中心的話題は、必ずこの問題で占められており、この話題が取り上げられない日はない。領土問題が、どれ程民族のナショナリズムを高揚させ、民族間の対立をエスカレートさせる根源となり得るものであるかということを改めて実感させられ、翻って、我が国の領土問題の解決の難しさについても再考させられるテーマであった。

 紛争が停止している現在においても、アゼルバイジャンとアルメニアは、互いにほぼ「敵国」とみなされていると言っても過言ではなく、国境間の往来も断絶している。同紛争の解決に向けて、米国、フランス、ロシアから構成されるOSCE(欧州安全保障協力機構)ミンスクグループや、特にロシアのメドベージェフ大統領が、この数年間に積極的な和解活動を行ってきたが、残念ながら大きな成果は現時点で得られていないのが現状である。

 また、国の主要産業の利権が、一部の財閥関係者によって抑えられ、これらの者たちが政治経済の要職に長年就いていることも、今後、中長期的な社会経済の発展を阻害しかねない構造的問題であり、この問題が国民の不満の起爆剤となり得る可能性もゼロではないと思われる。さらに、経済面では都市と地方の格差や非石油分野の育成も課題となっている。

 以上、筆者が2年間同国に勤務した経験および感想を簡単に述べたが、概してアゼルバイジャン人は、一度心を開いた相手には非常に情に厚く、どちらかというと心情的には西洋人よりも東洋人に対する親近感を抱いている者も多いように感じられる。筆者と同国との縁は、同国で石油開発事業に参加する本邦企業に勤務していた約6年前に遡るが、同バクー事務所の現地スタッフはいずれも若手ながら非常に優秀で、どこか日本人に通じるものを感じさせる人々であるというのが、同国に対する第一印象であった。またその当時、在京アゼルバイジャン大使館の参事官としてお会いしたことのあったイスマイルザーデ・現アゼルバイジャン大使は、今年40歳の若さで大使に抜擢された日本語の堪能な親日家であり、現在両国関係の強化に向けて精力的に活動している。

同国は、民族的に最も近いトルコの「兄弟国」を自称し、政治的・経済的に緊密な関係を築いている一方、外交的にはEUやNATOとの協力関係を有し、エネルギーや経済面における欧米資本の積極的な導入によって、これまで発展を続けてきた。他方で、旧ソ連圏の「盟主」としての影響力を現在でも保持しようとするロシアに対する配慮も決して忘れない。

またムスリム国家でありながら、イスラエルとも良好な関係を有しており、同国の主要な石油供給国ともなっている。このような「付き合い上手」とも言えるアゼルバイジャンは、距離は遠く離れていても親日的な国であり、不思議とまたいつか訪れたいと思う魅力のある国である。近年の首都バクーの町並みの変化は目覚しく、現在は、2012年に同国で開催予定の「ユーロビジョン」に合わせた、ホテルや会場施設の建設が着々と行われているところである。コーカサス諸国を訪れる観光客の特徴は、世界中の主要な国や地域を一通り訪れた旅慣れた人が、最後の未開拓の地として訪れるケースが多いとのことであるが、読者の方々で、この国に関心を持たれた方がおられれば、是非一度訪れてみられてはと思う。 
(2011年12月27日寄稿)





『赤坂離宮七不思議』2011.12.15


『赤坂離宮七不思議』



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   前迎賓館長 小林 秀明

3月11日の東日本大震災が発生した時、私は迎賓館長在職中で、迎賓館(正式名は「迎賓館赤坂離宮」です)本館の横にあるプレハブ建ての事務所で、大きな揺れを体験しました。揺れが収まった後、私は、迎賓館の前庭に避難し、15分程様子を見た後、余震の発生が気になりつつも、建物の状態を調べるため、迎賓館の中に入りました。建物内部では、廊下の机の上に置かれていた陶器製の電気スタンドがいくつか床に落ちて壊れていた他は、殆ど被害らしいものは見当たりませんでした。(後に詳しく調べたところ、壁や天井の塗装が数か所、はげたりヒビが入ったりしたところが見つかりました。)
私が屋内で調べているうちに、大きな余震が起こり、天井のシャンデリアが大きく揺れました。身を隠す場所もなかった私は、呆然としていましたが、建物が壊れるのではないかという心配は全くしませんでした。それは、迎賓館の壁の厚さが1.88メートルから0.65メートルもある頑丈なものであることを知っていたからです。なぜ迎賓館の壁がそれほど厚いのか、これが迎賓館にまつわる不思議の一つと言って良いでしょう。

もともと迎賓館は、明治42年(1909年)に東宮御所として建てられたものです。しかし、実際には時の皇太子殿下がお住まいになることはなく、その名称も「赤坂離宮」(一時「東宮仮御所」)に変わりました。そして、昭和49年に「迎賓館赤坂離宮」に生まれ変わったわけですが、以下本稿では特別の場合に除いて、この建物を「赤坂離宮」と呼ぶことにします。
現在、建設後102年を経た赤坂離宮には、その歴史にまつわる不可思議な事柄が少なくありません。本稿ではそのうちの7つを取り上げて、「赤坂離宮七不思議」としてまとめてみました。(なお、以下に書くことは、私の迎賓館長在職中に職員の方々の調査により判ったことですが、その後の調査で更に詳しいことが判っているものと思われます。)


1. どうして赤坂離宮の壁はそれほど厚いのでしょうか。

明治10年代に、現在、迎賓館和風別館のある場所(本館の東側)に、煉瓦造りの謁見場の建物が造られていました。その建物が、その後東京を襲った地震のために、修復ができない程壊れてしまいました。このため赤坂離宮の設計者は、煉瓦造りの建物の耐震性に特別の注意を払いました。そのために上述のように、壁を厚くしたのです。総床面積の約30%が壁になっています。なお、同じく耐震性の見地から屋根の構造の大部分が木製で、軽くなっています。

因みに、大正12年8月28日から、当時の摂政宮殿下(後の昭和天皇)が赤坂離宮にお住まいになりましたが、その4日後の9月1日に関東大震災が発生しました。しかし、赤坂離宮の建物は、この地震により殆ど被害を受けませんでした。なお震災発生当時、摂政宮殿下は御執務のために明治宮殿(明治21年に完成した明治天皇の宮殿。木造建築)におられ、ご無事であられました。



2. 明治宮殿が木造建築だったのに、東宮御所として建てられた赤坂離宮が煉瓦造りとなったのはなぜでしょう。

明治宮殿は、当初、ジョサイア・コンドル(英国人建築家。明治10年お雇い外国人として来日。政府関連の建物を設計し、また創生期の日本人建築家を育成した。)の設計による石造りの西洋風の宮殿建築として計画されていました。しかし、その後この計画は変更され、京都御所を模した和風の外観に、椅子やシャンデリアのある洋風の内装の木造建築となりました。こうした計画変更の背景には、予算上の制約の他、上述のように煉瓦造りの謁見場が地震により破壊されたこともあったものと思われます。
このため西洋宮殿風の明治宮殿の建設を提唱し、挫折した人達が、その後計画された新東宮御所においてその夢を実現しようとしたものと思われます。その中心人物がジョサイア・コンドルの4人の直弟子の一人、片山東熊でした。彼は、長州出身で、若い時に高杉晋作の奇兵隊に属していた勤王の志士でした。その後、建築の道を志し、工部大学校(現在の東京大学工学部の前身)に入学して、ジョサイア・コンドルの門下生となりました。

しかし、片山東熊一人では、その夢を実現することはできなかったでしょう。煉瓦造りの西洋風宮殿の建設に対しては、費用や耐震性の見地から、反対論も強かったからです。ところがそこに強い味方が現れました。平成22年のNHK大河ドラマ「竜馬伝」にもあらわれた田中光顕(みつあき)です。土佐藩士の彼は、武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒し、後に脱藩して長州に逃れ、高杉晋作の弟子となりました。こうした経緯から、田中光顕と片山東熊の間には親交があったと思われます。

田中光顕は、その後明治政府に出仕し、内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した後、明治31年2月に宮内大臣に就任しました。田中宮内大臣は、同年8月に宮内省の中に東宮御所造営職を設置し、その技監に片山東熊を任命しました。こうして、西洋宮殿風の東宮御所を建設するという片山東熊の長年の念願が実現するに至ったのです。




3. 赤坂離宮が建設された当時(明治32-42年)は、日露戦争(明治37-38年)のため財政がひっ迫しており、また明治天皇が華美を嫌っておられたにもかかわらず、どうしてあのような多額の予算と外貨を使った華麗な建物が造られたのでしょう。

先ず、財政との関係について述べますと、赤坂離宮の当初の総工費予定額は250万円で、実際の所要経費は511万円でした。上述の通り、赤坂離宮(新東宮御所)建設が決定されたのは、明治31年でした。この少し前の明治29年に、日清戦争(明治27-28年)の賠償金として、清国から2億両(当時の日本円で約3億円相当)が外貨で支払われました。賠償金の大部分は(83.5%)は、日清戦争の戦費手当と軍備拡張に使われましたが、5.5%に当たる2千万円は「帝室御料」に編入されています。この2千万円が赤坂離宮建設に直接当てられたかどうかは定かでありませんが、いずれにしても、この賠償金由来の外貨と予算が、赤坂離宮建設に当たっての当時の政府の方針に少なからざる影響を与えた(いわば賠償金の「資産効果」)ものと思われます。

なお、赤坂離宮の正式の落成は明治42年とされていますが、建物の建設自体は明治39年にほぼ完了しています。従って、日露戦争勃発(明治37年)までには、建設資材等の諸外国からの調達の大部分終わっていたものと思われます。このため、日露戦争の勃発は、赤坂離宮本体の建設には大きな影響を与えなかったと考えられます。
なお、赤坂離宮建設の当初の計画では、洋風建築の本館に加えて、同じ敷地内に「和館」と呼ばれた和風建築の居住用宮殿と事務所棟が建設される予定となっていました。しかしこれらの建物は、実際には建設されませんでした。その原因は、日露戦争による財政逼迫と推定されます。

次いで、明治天皇のご意向との関係について述べますと、よく知られているように、明治天皇は、日常生活において質素を旨としておられ、新東宮御所(赤坂離宮)建設に当たっても華美なものをお望みになっていなかったと言われます。他方、前述の通り、西洋風の新東宮御所建設を強力に支持したのは、田中光顕宮内大臣でした。彼は明治31年から42年の長きにわたり宮内大臣の職にあった実力者でした。従って、同大臣の意向が明治政府全体の方針となっていたものと思われます。

明治天皇は、明治10年代には、自ら政治の主導権を握ろうとする姿勢もみせておられましたが、明治19年に天皇と内閣の間で「機務六条」という契約が交わされ、天皇は、内閣が要請しない限り閣議に出席しないことなどを約束され、天皇親政の可能性を放棄されました。こうした結果、明治天皇のご長男である皇太子殿下(明宮嘉仁親王)のための宮殿についても、政府の方針が実施に移されたものと思われます。



4. 赤坂離宮が東宮御所として完成したのに、当時の皇太子殿下が赤坂離宮にお住まいにならなかったのは何故でしょう。

従来の定説では、設計者の片山東熊が明治天皇に新東宮御所(赤坂離宮)の完成をご報告したところ、「贅沢すぎる」とおっしゃられたために、皇太子殿下はお住まいにならなかったとされています。しかし、最近の調査によれば、より直接的な原因は、「和館」ができなかったことではないかと考えられるようになりました。
すなわち、煉瓦造りの赤坂離宮は、湿気が高く、また日当たりが悪いなど、快適なお住まいとは言い難い面がありました。特に、ご健康に優れなかった皇太子殿下には不向きの建物でした。そのため、和館の建設が計画されたわけですが、上述の通り、予算の制約などの理由により実現しませんでした。このため、皇太子殿下が赤坂離宮にお住まいになることは、そもそも困難だったと考えられます。

他方、巨額の予算を投じて建てた東宮御所に皇太子殿下がお住まいにならないことについて、当時においても対外的説明が必要だったと思われますが、予算の不足で和館ができなかったことを表に出すよりも、明治天皇のご意向を表面に出した方が説明しやすかったとも考えられます。
なお、仮に明治天皇のご意向が主要な原因であったとすれば、その建物の建築責任者である片山東熊が責任を問われたはずです。しかし彼は、その後明治天皇葬祭場の建設等の重要な事業に携わり、また勲一等旭日大綬章という建築家としては最高の叙勲にあずかっており、特に責任を問われたような形跡はありません。



5. 赤坂離宮に東宮殿下用の東玄関と東宮妃殿下用の西玄関があるのは何故ですか。

実は、この建物で皇太子殿下用と皇太子妃殿下用に別々に造られているのは、玄関ばかりではありません。創建当時の赤坂離宮の建物には、東側と西側にほぼ対称形に、それぞれ皇太子殿下用と皇太子妃殿下用の玄関、御寝室、御座所、御学問所、お居間(3室)等が設けられていました。つまり、建物の東側と西側に、皇太子殿下用及び皇太子妃殿下用の完結した住空間が造られていたわけです。(昭和40年代に赤坂離宮を迎賓館として改装した際、これらの部屋の多くは別の形に変更されて現在に至っており、現在は対称形ではありません。)

このような対称形の部屋の配置は、当時の皇太子殿下(明宮嘉仁殿下、明治33年ご成婚)ご夫妻のお住まいとして、適しているとは考えられません。(上述の通り、皇太子殿下が赤坂離宮でお住まいになることはありませんでしたが。)なぜ、設計者は、このように部屋を対称形に配置することにしたのでしょうか。
その理由は、片山東熊ら設計担当者が赤坂離宮のモデルとして参考にしたヨーロッパの宮殿の一つであるヴェルサイユ宮殿にあるようです。同宮殿の中心部分は「コの字」型になっています。二階の右側が「王のグラン・アパルトマン」、左側が「王妃のグラン・アパルトマン」となっており、それぞれに、寝室を含む各種の部屋からなる完結した住空間が造られています。(但し、各アパルトマンを構成するそれぞれの部屋が同じになっているわけではありませんが。)片山東熊らは、こうしたヴェルサイユ宮殿の部屋の構成を基本的に採り入れたものと思われます。

しかし、なぜ片山東熊らが、当時の皇太子殿下ご夫妻の生活スタイルに適しないヴェルサイユ宮殿の部屋の構成を取り入れたのかは、謎と言わざるを得ません。赤坂離宮設計に先立って行われた部屋の配置に関する検討記録が現在も残されているので、このあたりの謎は、今後解明されるかも知れません。




6. ヴェルサイユ宮殿など西洋の宮殿の壁には、所狭しとばかり絵画が飾られていますが、赤坂離宮の壁に絵画が少ないのは何故でしょう。

赤坂離宮の壁に架かっている絵の数が少ないことは確かです。主な絵画としては、2階大ホールの「朝日の間」の入り口の両側の壁に架かっている小磯良平画伯の「音楽」「絵画」という2つの大型作品だけです。この作品は、昭和40年代に赤坂離宮を迎賓館に改装した際に、同画伯に依頼して作成して頂いたものです。それ以前は、赤坂離宮に絵画は殆ど飾られていなかったと思われます。
(但し、絵画ではありませんが、七宝焼きの花鳥の絵30枚が、「花鳥の間」(饗宴の間)に赤坂離宮創建以来、現在も飾られています。また、創建当時は、二階の二つのお居間に「古武将山狩の図」「孔雀に牡丹、文鳥に櫻の図」と呼ばれた大型の京都西陣綴織が架けられておりましたが、戦災で傷んだりしたため、現在は架けられておりません。)

 赤坂離宮に絵画が少ない理由は、幾つか考えられます。第一は、この建物は東宮御所として建設されたのですが、実際は皇太子殿下がお住まいにならず、また、その他の用途にもあまり使われなかった(国賓として訪日された英国皇太子や満州国皇帝の宿舎として、或いは皇族のお集まりの場として時々使われただけだったようです)ため、この建物のために絵画の調達する必要がそれほど感じられなかったものと思われます。

 第二の理由は、赤坂離宮の公的に使用される部屋の壁の多くが、大きな鏡や京都西陣織などの芸術性の高い裂地(きれじ)で飾られており、また玄関ホールや二階の大小のホールの壁は、極めて上質なヨーロッパ産の大理石でできているため、絵画を架けなくても体裁を保てたことでしょう。

 第三に、西洋的な建物である赤坂離宮の内部を飾るのに適した絵画を入手するのが容易でなかったことも考えられます。というのは、赤坂離宮の中に飾る絵として、純日本的なものは雰囲気にマッチしないし、他方、余り西洋的なものも、日本の迎賓施設あるいは皇族のお集まりの場にはふさわしくないと感じられたことでしょう。因みに、上述の小磯良平画伯の二枚の絵に描かれている人物は、男女とも日本人とも西洋人ともつかない顔になっています。

 他方、欧州の宮殿に絵画が多いのは、歴代そこに住んでいた王族や貴族が一族の肖像画や好みの絵を次々に飾っていったためであり、本格的に皇族のお住まいとして使われたことがない赤坂離宮とは事情を異にすると言えましょう。



7. 赤坂離宮は、平成21年12月に国宝に指定されたそうですが、明治期に建てられ、日本独自の様式でなく、しかも現在も国の迎賓施設として使われている建物が国宝に指定されたのは何故ですか。

 確かに、明治期以降に建設された建物としては、赤坂離宮が初めて国宝に指定されました。これは赤坂離宮が「明治期の建築界において、意匠的にも、また当時の先端技術を導入している点でも、日本人建築家の設計による建築の到達点を示して」いることから「明治期以降、昭和戦前に建設された我が国建築を代表するものの一つ」として認められたためです。

なお、国宝の建造物というと、非常に古い建物というイメージがありますが、必ずしもそうではなく、例えば、長崎県の大浦天主堂のように江戸時代末期(1864年)に建てられた建物がすでに国宝に指定されています。因みに、国宝の一段階前とも言うべき「重要文化財」には、現在既に、明治期以降に建設された多数の建物(例えば早稲田大学大隈記念講堂、国立西洋美術館本館、高島屋東京店など)が指定されています。赤坂離宮の国宝指定がきっかけとなって、今後更に明治期以降建造の建物が国宝に指定されることも考えられます。

 建築の独自性の面では、赤坂離宮が「本格的な西欧の建築様式を採用しつつ、彫刻等には我が国独特の主題を用い、精緻な工芸技術が駆使されており、意匠的に高い価値がある」ことが認められたものです。
また赤坂離宮が現在も国の施設として使われていることについては、既に国宝に指定されている建物でも、現在引き続き使用されているものが多数存在する(例えば東大寺金堂、善光寺本堂など)ことから、国宝に指定される上で特に問題となるものではありません。
(2011年11月30日寄稿)



『アフリカの真珠・ウガンダの交通事情:活躍する日本車と歩く人々』2011-10-6

『アフリカの真珠・ウガンダの交通事情-活躍する日本車と歩く人々-』

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   前駐ウガンダ大使 加藤圭一

ウガンダはアフリカ大陸のほぼ中央に位置し、赤道直下の緑豊かな国です。
面積は日本の本州とほぼ同じです。タンザニア、ケニアとの3ヶ国にまたがる広大なビクトリア湖は日本の琵琶湖の100倍、九州の2倍の大きさです。
かって、英国のチャーチル元首相が植民地担当大臣時代にウガンダを訪れ、ビクトリア湖をはじめとする多くの湖、緑に覆われた大地、ナイル河の雄大な流れや山々の美しさに魅了され、ここは「アフリカの真珠」であると語ったとされています。

時を経て今日のウガンダは人口が3200万人ほど、地方の主要都市への道路が整備され車が交通の主役となっています。飛行機や鉄道もありますが、飛行機は小型(10人から20人乗り)で地方の飛行場はエアーストリップと呼ばれる土の滑走路を利用していますが便数は限られています。鉄道は英国の保護領時代に建設されたケニアのモンバサからウガンダの首都カンパラまでの鉄道をそのまま利用していますが設備が旧式で維持管理も十分ではなく平均時速は20キロ/時となっており貨物輸送以外には殆ど利用されていません。

トラックやバスなどの大型車両は、ガソリン、日用品、食糧、長距離旅行者の輸送手段です。国内の主要都市間のみならず、ケニア、タンザニア、南スーダン、コンゴ(民)、ルワンダとの往来も盛んです。ウガンダ国内ではこれら周辺の国々のナンバープレートをつけた車両が目につきます。
日常生活の中で活躍しているのはタクシー、自家用車、バイク、自転車、そして徒歩です。ウガンダ国内の車の80%以上は日本の中古車です。中には日本で走っていたベンツも見かけます。タクシーは通常のタクシーとマタツと呼ばれる乗り合いタクシーがあります。

市場など大勢の人々が集まる場所での主役は、マタツとボダボダと呼ばれるバイクタクシーです。大きな荷物を抱えた人々が利用するマタツはワゴン車を改良して10人ほどの乗客をぎっしり詰め込んで走ります。降りる場所はお客しだいです。ボダボダはバイクの後ろに座席を取り付けたもので通常は乗客は1名ですが3名を載せて走っている光景も頻繁に目にします。ボダボダは運転者、乗客共にヘルメットの着用が義務付けられていますがあまり徹底されていません。首都カンパラの朝夕は子供達を学校に送り迎えする自家用車で込み合います。いつもは5分ほどのところを1時間近くもかかったりします。混雑時には車の合間を縫って走るボダボダが人々の足代わりとなっています。
地方に行きますとマタツ、ボダボダ、自転車そして徒歩が主役です。
マタツは主要道路以外は舗装されていない山間を走る道路を土埃をあげながら村人の大事な生活の足となっています。山奥の村々までは道も狭くボダボダの出番です。地方の多くの町には自転車タクシーも活躍しています。後ろの荷台にお客を乗せたり、荷物を積んだりしています。

地方では徒歩も忘れてはなりません。大きな荷物や洗濯物を頭に載せて黙々と歩く女性、水を運ぶ子供達、学校の行き帰り赤、白、黒、緑などさまざまな色鮮やかな制服を着て数人から数十人ほどかたまって歩き、雨が降れば大きな木の葉っぱを起用に頭に乗せて歩く、歩く、そして、ひたすら歩く子供たち。山間の小学校では家から4キロの距離を毎日歩いて通学する子供達も珍しくありません。学校は8時半から始まりますので、子供達は朝7時前には家を出て山道を歩き始めます。首都カンパラと地方の主要都市を結ぶ良く整備された幹線道路は、カンパラからはケニアから輸入されたガソリン、機械製品、日用品など(内陸国であるウガンダの輸出入の85%はケニアのモンバサ経由となっています)が、地方から大消費地であるカンパラへはウガンダの主食であるマトケと呼ばれる食用バナナ、野菜などの食料品、牛などが運ばれてきます。大型のタンクローリーがガソリンを運んだ帰りにマトケを屋根や横の部分にいっぱいに積んでいる光景も珍しくはありません。

ビクトリア湖から北上し、さらに西に流れ、コンゴ(民)との国境の湖アルバート湖に流れ込み、更に、南スーダン、スーダン、エジプトを経て全長6500キロにおよぶ世界最長のナイル河、東部や西部の国立公園、5000メートルを超える山や多くの湖、ゾウ、キリン、カバ、ゴリラなどの動物、そして、野鳥など観光資源に恵まれた景勝地には年間を通じて主に欧米から多くの観光客が訪れます。最近は日本からも1週間のツアーが組まれ日本人観光客の姿も目にするようになりました。これら観光客の主要な交通手段もバス、ツアー会社のミニバスなど車が主要な交通手段です。
このように、日本から遠く離れたウガンダで日常生活に欠かせない存在となっている日本車が、第二の人生を人々に頼りにされ今日もあちこちを走り回っている姿を想像してみてください。
            (10月1日寄稿)


「ミャンマーからモロッコへ:民主化運動を垣間見て」 2011-7-28

『ミャンマーからモロッコへ:民主化運動を垣間見て』

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元赤十字国際委員会ミャンマー支部勤務
           在モロッコ大使館専門調査員  億 栄美


ミャンマーでも民主化運動に遭遇し、モロッコでも民主化運動に遭遇するとは夢にも思わなかった。私の赴任するところでは民主化運動が起こるのではないかと言う友人もいるほどだ。二国間の共通点を探すのに苦労した。敬虔な仏教国ミャンマー、敬虔なイスラム教国モロッコ。アジアとアフリカ。アラブ人とアジア人。お米の国、パンの国。全く共通点のない二国間において私が見た唯一の共通点は「民主化運動」だった。

ミャンマーは日本人にとって身近な国。ミャンマーというよりもビルマと言った方がピンとくる世代の方も多いであろう。敬虔な仏教国であり、微笑みの国として知られるミャンマー、そのミャンマーで日本人ジャーナリスト長井氏も銃弾に倒れた民主化運動からはや3年以上の月日が経過した。テレビの映像などから赤紫色のサフラン色の袈裟をまとい政府に抗議する僧侶の姿を思い出す人も多いであろう。2007年9月22日から本格化した民主化運動の5日目、国軍は一般市民に発砲した。徐々に膨らんだ僧侶を中心とする民主化運動はその袈裟の色からサフラン革命と呼ばれるが、その民主化運動は単なる運動で終わってしまった。
ちょうどその頃私は赤十字国際委員会(ICRC)ミャンマー支部所属でありながら、溜まっていた4ヶ月の休暇を取りヤンゴンの自宅にいた。2006年からICRCの要の活動である刑務所訪問の許可が下りなくなっており、ついに、2007年6月、守秘義務を貫くICRCとしては非常に珍しい「公開告発Public denouncement」という手段に出て、軍政を名指しし、ミャンマー政府は国際人道法に違反していると発表した。ミャンマーはジュネーブ条約(通称:国際人道法)に署名している。以来、仕事がほとんどなくなり、強制的に取らされた休暇である。その頃は一時期53名いた外国人職員が3名になっていた。ほとんどが、アフガニスタンやイラクに飛ばされた。とりあえず、CRC事務所に電話をする。「出勤しようか(したい)」「できることは限られているからいいよ。ただ、デモを見に行ったりして、テレビに映ったりするのはやめろ。ICRC職員がデモに荷担したって言われるからな。」とスイス人所長の冷たい返事。内線をミャンマー人職員に繋げてもらう。職員たちは次々と拘束される僧侶たち・一般市民の家族の訴えを聞いていた。行方不明になった人たちの名前をリストアップし行方を追うのがICRCの仕事だ。大抵は家族からの情報が早く、ICRCの出番と言えば、留置所にいる家族に会いに行けるように旅費を提供することにあった。家族訪問プログラム(Family Visit Program)と呼ばれるものである。できることは非常に限られている。話は前後するのだが、私は2001年から2007年まで赤十字国際委員会(ICRC)のミャンマー支部でビルマ語、フランス語、英語の通訳としてミャンマー全国の刑務所、労働者収容所を転々としたのち、離散家族再会事業部(Tracing Department)に配属された。守秘義務があるので刑務所の状況などについて言及することは控えさせていただくが、ICRCの任務は紛争国においての捕虜(ミャンマーの場合は政治犯)の人権を確保することにある。具体的には受刑者(政治犯および一般受刑者)と「単独インタビュー」を行い、数百人のデータを纏めた後、彼らの生活改善を目指して、政府側に改善点を提言していくのが主な仕事である。ここで言う人権は国際人道法の範囲の人権である。拷問を受けない権利、生きるための衣食住を受ける権利という人としての最低限の権利である。政治犯の中から時間があるので英語の本が読みたいという要望がよくあり、刑務所所長に許可を得た上で寄付をするのだが、そのインタビュー中に「読書の要望に関しては、国際人道法に則っているICRCのマンデート以外ですよね。こういった贅沢な要望は国連に言うべきですかね」とスイス人の班長を驚かせた者もいる。政治犯の中でも通称VIP政治犯と呼んでいるアウンサンスーチー女史の国民民主連盟の幹部である。まだ獄中にいる彼らはどうなっているのか。ICRCの活動は制限されたままだ。
刑務所訪問、政治犯との対話、もう二度とすることはないのだろう。公開告発に出たICRCの痛手は大きい。「サフラン革命」の一週間後に日本に帰国した。

 日本に帰国し、心機一転、全く違うことがしたくなった。外務省をインターネットで検索。「在モロッコ大使館専門調査員、モロッコ経済の専門家募集」と記載してある。「日本にモロッコの経済専門家はいないだろう、途上国で勤務経験があり、フランス語で仕事をした経験もある。いちかばちか履歴書を送ってみよう」と一連の書類を送付。3週間後にはモロッコに行くことになっていた。契約ベースではあるが「にわか外交官」として大使館勤務となった。日々の仕事が楽しい。専門調査員の中でも私は非常にラッキーな方だろう。人間関係はすこぶる良く、在モロッコ大使館は若手外交官の集まりで大学のサークルを思い出させるような雰囲気がある。そんなモロッコで経済と広報文化を担当しているのだが経済的に変化のある時期に着任できてこれまたラッキーだった。ここ数年モロッコは経済の自由化を図り、石油・ガスなどの天然資源がないモロッコは巧みな外交政策を展開している。
また、この北アフリカ地域がこんなにも注目されるとは思わなかった。湾岸諸国と欧州の間で今までそれほど目立たなかった存在が、チュニジア、エジプトから始まった民主化運動から「アラブの春」と称され世界がその動きに注目している。この「アラブの春」であるが、モロッコと常に比較対象国であったチュニジアとエジプトの二カ国で始まったことは注目すべきである。北アフリカ諸国の中でもアルジェリア、リビアといった産油国は別格の存在で、その他チュニジア、エジプト、モロッコは比較的類似した点を共有していた。治安も良く観光立国であり産業の多様化を進め人件費も安く外国企業誘致に積極的な国。汚職が蔓延し、若者の失業率が高いところまで同じである。違いと言えばモロッコは王国であり現在の国王は相対的に人気があり国王を政治の長、宗教の最高権威、国軍の最高指揮者とする君主制に異義を唱える声は小さく、日頃から大統領への不満が募っていたチュニジアとエジプトと大きく異なることだ。また、モロッコで比較的安定した民主化運動が展開された理由の一つとして物価上昇率が直近5年平均2%に抑えられていることもが挙げられるだろう。補助金を投入し、庶民の丸パンの価格を1.2DH(約12円)に抑えるなど、モロッコ政府の押さえるところは押さえておいた経済政策が功を奏した。モハメッド6世国王は前国王との比較で言えば、かなりリベラルで経済の自由化を進める国王なのだが、現在のところ専ら恩恵を受ける者は富裕層であり貧富の差は依然として激しい。モロッコは二人に一人しか字が読めない。教育費に回すお金がない、食べるだけで精一杯の貧困層が多く存在する。
そんな状況の中、モロッコにも「民主化運動」がやってきた。チュニジアでのジャスミン革命の英雄が焼身自殺で死亡した後、モロッコでも5名が焼身自殺を図り、2月12日には1名が死亡した。そういった状況の中、15日、財政を圧迫している補助金の削減を目指すモロッコが異例のほぼ倍増となる追加補助金を決定。その後、2月20日に予測していたよりも大きな規模で民主化運動が起こったのだが、治安部隊の出動もなく平和裡に終わった。ただ、国民が一体となった「元首打倒」を目指す性質のものではなく、あくまでもモロッコの場合は国王を元首とし、さらなる民主主義国家を目指すもので「国王は君臨すれども統治せず」といったプラカードが見られた。フランスの労働組合の流れも受け継ぐモロッコでは従来からしばしば各地で労働組合を中心とした「労働改善要求」の類のデモは展開されていたが、今回はデモの要求に国王の権限の縮小が加わったのが「アラブの春」民主化運動の流れで起こったデモと従来のデモとの大きな違いである。
その2月20日以降、毎月20日を大規模デモの日と位置づけ運動家たちはフェイスブックなどで民主化運動への呼びかけが続いていた。そんな中、3月9日、国王は突如として「憲法改正」の発表といった予想外の決断に踏み切った。6月17日には国王が自らの権限を一部縮小した憲法改正案を発表。二週間後の7月1日には国民投票で是非を問うという国民は短期決断を強いられた。結局、投票率73.46%の賛成票大多数の98.5%(7月2日発表の暫定結果)で憲法改正案が採決される見通しで、一連の民主化運動が終結する形となった。
他方、デモの方はと言うと、現在もあちこちで小規模で繰り広げられているが、デモの規模は労働組合、所属機関などで細分化されており、あくまでも労働条件改善、失業者対策などといった従来のデモに戻っている。革命はモロッコ国民の望むところではない。せめて改善してほしいというのがモロッコ国民の願いである。

 「民主化運動」。。。思い出せばまだあった。1992年にタイでFacebookならず携帯電話で連絡を取り合ったという中産階級主導の民主化運動「プッサパー(5月)革命」が起こった時、私はバンコクにいた。国軍が民衆に発砲し、プミポン国王自らが収束に乗り出したあの流血の革命である。国内放送は軍にコントロールされ、CNNニュースの録画ビデオが出回った。インターネットなどなかった頃である。
それにしても本当に不思議である。モロッコの次はどこに行こうか。

(以上は個人的な見解で在モロッコ大使館を代表するものではありません。)
                       (寄稿日2011年7月19日)

「モロッコの想い出」 2011-4-07


『モロッコの想い出』

2011407.jpg

   --フェズの水時計--



    元駐モロッコ大使 広瀬晴子


2008年のある日BMCE(モロッコ輸出入銀行)基金理事長から、ラバトの日本大使あてに依頼状がきました。曰く、“フェズ1200年祭の本年の記念にカラウィン・モスク前にある水時計を修復して動くようにしたい、ついては日本から専門家を派遣していただけないだろうか、費用はこちらでお払いする”というのです。

早速どんなものか見に行ってみると、これはモスクの入り口の前というか、お向かいの建物の壁の上の方に取り付けられていた13個のタジン鍋からなる水時計で、約400年前に作られたけれど、200年前位から壊れていて動かないと言うのです。
更に水時計が取り付けられていた建物事態が傾いてきて危険なので修復作業に入っている。水時計は取り外して文化省に保管してあると言うので、文化省に問い合わせてみたら、それでは次の委員会が開かれるときにお招きしますと言ったきりでした。BMCE基金の理事長によると時計なら日本かスイスという訳で依頼状が届いたと言うわけでした。

面白い話だし世界最古の学校(マドラッサ)を持つ歴史の古い町フェズ、ユネスコの世界遺産にも指定されている古くは王朝が置かれていた、日本で言えば京都に当たるような町フェズ。不思議な迷路のような旧市街を持つ、何度行っても新しい発見のある町からの不思議な依頼でした。

今、北アフリカ、中東はチュニジアに始まった民主化の嵐が吹き荒れており、珍しく日本のマスコミでも毎日この地域のニュースが流れていますが、やはり日本からは遠い地域、分かりにくい地域というニュアンスでなんとなく北アフリカも一くくりのような扱いです。モロッコでもデモはありましたが、穏やかな非暴力的なものでプラカードを掲げて行進する程度のデモだったとの事です。いろいろ不満はあるけれど、1000年以上続いた王室で、現国王は47歳で貧困撲滅、家族法の改正等改革に努めているし、自身も婚約者を初めて公表し、一夫一婦制を実践していてなかなか人気の高い王様で、打倒王室という声は聞こえません。そういう点では極めて安定していて日本に住んでいるモロッコ人たちは北アフリカは危ないといわれて困惑している様子です。

モロッコの王室は、最初の王朝(イドリス朝)が開かれたのが西暦788年、アッバース朝中央での勢力争いに敗れ逃げてきた、イスラム教の預言者モハメッドの血を引くムーレイ・イドリスによります。その後808年にフェズに王宮を定め、その後イドリス朝以降紆余曲折はありながらもモロッコは独立王国として続き、1666年にアラウィー朝が誕生し今に至っています。

そしてアラウィー朝第二代のイスマイル王が鎖国政策をとり、1912年にフェズ条約でフランスの保護領となるまで鎖国を続けたのです(その鎖国時代の終わりごろ1867-8年のパリ万博にモロッコも始めて参加し、これも始めて参加した日本幕府の代表と会った写真がモロッコの歴史の汎に残っています)。鎖国をしていたことにより、オスマントルコ等の侵略をふせぎ、またモロッコ独自の文化様式が発達したのです。ヨーロッパとアフリカを結ぶ地理的要所であること、豊かな農業国であることから、古くはフェニキア、ローマ時代から人々を引き付けながら、1912年から1956年の間、フランスの保護領だった時を除いて長い間独立を保っていたためもあると思われる、穏やかで誇り高い国民性を持つ国となっているのです。

そして1956年にマダガスカルに追放されていたスルタンを担ぎ戦った独立戦争に勝利し、近隣のマグレブ諸国が王制を廃止して民主化路線を取り独裁政権や軍事政権に苦しんでいる中で、王制をとり続けています。良くも悪くも王制による古い体質が残っている面もありますし、王制と言うとなんとなく古臭いイメージがありますが、政治的には安定しています。在位12年目の若いモハメッド6世は、積極的に外国投資を誘致する政策を取ったり、貧困問題に取り組んだり、女性の権利を認めるイスラム教国では進んだ家族法に改正をしたりとモロッコの経済開発、近代化・民主化に力を入れています。

日本との関係でいうと、1956年に独立したモロッコを日本はいち早く認めたこと、日本の皇室とモロッコ王室の関係も良好なこと、日本の経済協力等も感謝されていて大変友好的で親日的です。
とは言ってもやはり遠く離れていることから関係はそれほど深くなく、一般的にはお互いにあまり良く知らないと言うのが実情だと思われます。

特に日本人の目からはモロッコというと映画カサブランカの舞台となったエキゾティックな国、砂漠ややしの木に象徴される美しい景色、スークの珍しい工芸品(バブーシュというスリッパや最近流行しているタジン鍋等)といったところが一般的イメージではないでしょうか。

実際には日本は経済協力では2007年まではフランスに次ぐ第二の拠出国として、基礎生活インフラを始め地道な協力を進めてきており、モロッコには大変感謝されています。2000年代に入り平均成長率5パーセント以上の経済発展を続けている元気なモロッコですが、貧富の差は大きく、地方と都市部の差も大きいこと、識字率が低いこと、出産時の母子死亡率が高い等の問題をかかえているのです。わが国の対モロッコ経済協力は青年海外協力隊員・シニアボランティアを始め定評があり、また分野別には漁業、生活基本分野のインフラ整備(水道、電気、道路、鉄道)、母子保健、教育、環境等多岐にわたり、有償援助、無償援助、技術協力などを組み合わせて相乗効果を生んでいます。また、サブサハラ・アフリカの国々を対象とした研修を日本(JICA)とモロッコが(研修所)がパートナーを組んで実施する三角協力も様々な分野で行われています。

経済分野では中進国に脱皮すべく、経済に力を入れているモロッコは、外資導入、外国企業誘致に熱心で、道路、鉄道,大規模港等の大型インフラ整備(中でもタンジェー地中海港は貨物取扱量300万TEUの第一期工事分が2007年に開港し、他の北アフリカの国をうならせました。現在工事中の第二期工事が終わるとマルセイユ、バルセロナを抜いて地中海一の貨物港となる予定です)。また、太陽光発電等、自然エネルギーや水のプロジェクトにも熱心ですし、日本企業のアフリカへの進出の拠点としての可能性も大なので日本企業にとっても魅力のある国でしょう。

国際会議などでもモロッコはいつも日本を支持してくれています。IWC(国際捕鯨委員会)、国連の安保理の選挙でも常に日本に一票を投じてくれているのです。

そんな日本の友好国モロッコから頼まれたフェズの水時計の修復、果たせないままになっています。時計といってもカラクリ細工の技術が必要なのかなと思うのですが、どなたかいい人を紹介して頂けないでしょうか。詳しい御説明をします。

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「時間あれこれ」 2011-3-17

『時間あれこれ』

元カナダ大使 溝口 道郎



若い時は金(カネ)も時間もない、中年になると金はあるが時間がない、高齢になると時問はあるが金はない、といわれる。私も「金持ち」ならぬ。「時間持ち」になった今、時間について考えることがある。
 日本人は時間を守るということを我々は詩りとしている。約束の時間に遅れる人はまずいない。
新幹線はじめ我が国の交通機関は時問表通り正確に運転される。外国人観光客などは舌を巻く。
しかしながら、である。大分昔であるが、東京で会った駐日アメリカ大使は私に、「公邸でパーティーを開く時、多くの日本人は開会時間のずっと前に到着する、家内はまだ支度もできていないのに、とぼやいている。」と言った。ちよっとしたショックであった。
そういえばデンマークではバーティーに遅く来る人はもちろん、早く来る人もいない。
招待した時問にぴったり呼び鈴が鳴る。扉をあけると招待客全貝が二列縦隊で並んでいるではないか。ある人に早く来たらどうするの、と聞いたら、車の中で待っているのだ、と答えた。厳しい冬季でもそうする。

 そう見ると日本人は時間を守るという神話もやや怪しくなる。確かに東南アジアや中東などに比べると我々のほうが時間に神経質といえるが、北欧程ではないのかもしれない。
 昔クウエートの外務大臣が東京に来て我が国の外務大臣と会談した。会談中、日本の大臣は度々時計を見て、会談が終わるや否やすぐ姿を消した。クウエートの大臣は激怒し、日本との外交関係は一年間断絶となった。私は当時サウジアラビアに勤務していたが、アラビアの高官に「東京は忙しいところだ、外交断絶は行き過ぎではないか。」とのべたところ、「金持ちも貧乏人も時間は持っている、それを惜しむことは許されない。」という変な返事か返ってきた。

 フィリッピンに勤務した時もそうであったが、サウジでも時間に無頓着にならないとすごしにくい。ラマダン(断食月)の時は特にそうである。ある時、私はジェッダの豪商に面会を申し込んだところ、午後11時半に来なさい、という。その時間にお伺いしたら大広間に先客が20人ばかりいるではないか。ソファに座って次々と出されるガホ(アラピアコーヒー)、紅茶、コカコーラ、などを飲みながら順番を待つ。結局ご本人と面談できたのは2時間後であった、「よく待ってくれた。貴方の知りたいことは何でも話しましょう」と喜んでくれたのは幸いであった。

 アラビアと言えば、刑罰がかなり重い。今でもそうかもしれないが、当時アルコールを飲むと鞭打ち、泥棒をすると左手を切り落とす、殺人をすると首を切られる。当時処刑は町の中心にある広場で公開で執行された。ある時、知人のアラビア人に、「泥棒をしただけで手を切るのは残酷ではないか。」と聞いたところ先方は、「西洋では泥棒を10年、20年と牢屋に入れる、一度しかないその人の人生の貴重な時間を奪うほうがよほど残酷である。」と言うではないか。私は、なるほど、それも一理あるのかな、と考え込んでしまったものだ。

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「氷と火の国」徒然随想2011-02-17

「氷と火の国」徒然随想
--親日的な島国、環境大国アイスランドから--



               在アイスランド臨時代理大使 夏 目 勝 弘

1.溶岩で濾過された美味な水と息を飲むような大自然
2008年3月14日深夜、人口わずか32万人弱、北海道と四国を合わせた程度の大きさの島国、アイスランドのケフラビーク空港に降り立つと、雲間の星々が寒々とした顔で出迎えてくれた。赴任前の情報では冬は長く2~3ヶ月は日照時間が3~4時間ほどしかない、太陽も低く出て低く沈む、鬱病患者も多い陰鬱な国であるとのことであった。また、後述の金融危機で状況は変わるものの、物価は超がつくほど高いという。誠にショッキングな国への赴任であった。米国等一部G8諸国はアイスランドをハードシップの国と分類し、給与、休暇等の福利厚生面で他の先進国より手厚くしているという。OECD加盟国、先進国ということで、一律の対応をとるのではなく、我が国も米国等のように当該国の事情に応じたきめ細かい対応があっても良いのではないだろうか。なお、2年前にポーランドが当地に総領事館を開設したが(当時3万人余りのポーランド人が在住)、鬱病になり自殺するケースが増えたことが主たる理由であると聞いた。
他方、良い面も多々ある。電気料金、光熱費は日本の10分の1程度で、24時間の温水暖房、室内は年中半袖で過ごすことができる。しかもこの電気はほとんどが水力発電と地熱発電によるグリーンエネルギーである。環境大国と言われる所以でもある。
海洋学者によればメキシコ暖流の影響で欧州大陸の平均気温と比べ年間をとおして約15度高いとのことだ。確かに北極圏に近い割にはかなり暖かい。真冬の平均気温もマイナスにならない。かつて在勤したニューヨーク、スイスのジュネーヴ等の方が遙かに寒いと感じる。
また、長い冬の後迎えるアイスランドの夏は大変美しい。
飲料水は地下数百メートルの溶岩が「自然の大濾過装置」となって浄化されるため大変美味しく我が国を含め世界に輸出している。おそらく世界一美味しい水ではないだろうか。
更に、息を飲むような大自然があり夏には1940年代に輸入したアラスカ・ルピアが一面に美しく咲き誇る。漁業国アイスランドでは、魚は種類も豊富でレストランの料理も一般に大変美味である。シシャモ、甘えび、アークティック・チャー等を我が国に輸出している。
世界中から観光客が後を絶たない。観光業は漁業、アルミ精錬、農業等と並ぶ主要産業の一つとなっている。JNTO(日本政府観光局)によればアイスランドを訪れる日本人は過去4、5年間毎年1万人以上にのぼる。今年はそれも後述の火山噴火で状況が一変する。

2.白夜とオーロラと温泉の軍隊を持たない世界一平和な国
アイスランドは6月から7月にかけ24時間明るい「白夜」が続く。オーロラが大変美しく見える国でもある。また、地熱発電所の余り湯を使った世界一ともいわれる温泉「ブルーラグーン」は大変有名で、シリカという成分で温泉の色は確かにブルー。太陽光線によってはグリーンに見える時もあるという不思議な温泉だ。コンピューターで温度調節をしており、やや熱めが好きな日本人団体客が希望すれば熱く設定してくれるという。
アイスランドはかつては貧しい漁村の国であったが、一時は一人当たり国民所得が世界で5位か6位の豊な国になり、2年前には「世界一生活し易い国」、「世界一平和な国」とも評価された。NATOの一員として、また米国との安全保障条約により自国防衛を行う軍隊を持たない希な国である。
アイスランドでは過去四半世紀以上にもわたり毎年8月、広島、長崎の原爆記念日にアイスランドの市民グループが中心となり原爆犠牲者慰霊の「灯籠流し(ろうそく流し)」を行っている。このように長期に亘り原爆犠牲者の慰霊を行っているのは日本以外では世界でも例がないのではないかと思う。筆者も参加したが市長や国会議員などが核兵器の悲惨さを訴え、「原爆許すまじ」と挨拶を行っている。

3.日本はアイスランドの真の「同盟国」
着任半年後の2008年10月、アイスランドは金融危機に陥り世界の焦点になってしまった。
金融立国を目指して来たアイスランドはその金融部門で破綻した。当時ゲイル・ハルデ首相は邦字紙のインタビューにおいて「もう大きな金融セクターを持つことはないだろう」と述べ、80年代から目指していた「金融立国」という国家目標を断念した。2009年2月1日、社会民主同盟と左派緑運動の左派連立政権が誕生、4月25日の総選挙で同政権は歴史的な勝利をした。91年から18年間続いた独立党中心の政治の終焉であった。以下彼我の報道等に基づくが、2008年10月、ワシントンDCでのG7蔵相・中銀総裁会議、その後の緊急金融サミットにおいて、日本政府代表はアイスランドのような国を念頭におき「金融危機に陥っている中小、新興国はIMFをとおして支援すべきである。」「日本はこのためIMFに1、000億米ドルの追加拠出を行う用意がある。」と発言。この額は日本の外貨準備高の約10%に相当するが、この発言がIMFを取り巻く環境を大きく変え、IMFはアイスランドへの融資を決定したと言われる。日本外交の久々の大きな得点であると感じた。事実これを受け、ドミニク・ストロスカーン国際通貨基金(IMF)専務理事は、次のような声明を発表した。「日本はIMFに対して最大1、000億ドルの資金提供を実施する用意があるとした。これは、金融・資本市場の安定維持に大きく貢献するものであり、また日本のリーダーシップと多国間協調主義への強いコミットメントを明確に示すものである。」
アイスランドでは、国会議員のクリストゥルン・ヘイミスドッティル外務大臣政治顧問(当時)は国営テレビのインタビュー番組で『日本は今やアイスランドの真の同盟国になった。国際社会で大胆にも最初に「アイスランドの問題は世界経済の問題である」と発言した。』と述べた。勿論この同盟は、安全保障上のそれではなく、いわば精神的、経済的友邦とでも言うべき意味合いである。筆者はこの後、アイスランド大学を始め3つの大学で講演、この発言を引用して「日本、アイスランドの真の同盟国」と題し、拝金主義から人道主義、人道的競争へのパラダイムシフトの重要性等を訴えた。

4.日本と多くの共通性を持った親日国
今年はそれに追い打ちをかけるかのように、エイヤヒャトラユークルトという舌を噛みそうな名前の火山の爆発・噴火で世界中を騒然とさせた。この噴火による自国の経済への打撃は農業、観光業を始め甚大であったが、世界的にも航空業を中心に大きな損害を与えた。有毒物質の含まれた火山灰を浴びながら国民はいつ大規模な噴火があるかも知れないと不安に駈られながら毎日を送っている。
筆者が理事を務める日本アイスランド協会の脇田会長の呼びかけでアイスランドの被災者のための義援金を募集し、既に一定の大台に乗せる義援金が集まり、在京大使をとおして贈呈することになっている。
そんなアイスランドをオノ・ヨーコ女史のイマジン・ピースタワー(注:2007年10月、故ジョンレノンの遺志を汲みレイキャビク港のビゼー島に建設された。)が、アイスランドに、世界に、平和と幸多かれと昼夜見守っている。日本人として誇りに思う。オノ・ヨーコ女史とは08年10月、ピースタワー点灯式と第4回レノンオノ平和賞(注)授賞のために来氷された際、会食会を主催して懇談したが、年齢を感じさせないエネルギーと人間性の溢れた美しさを感じた。(注:副賞は5万米ドル。2002年の第1回より毎回2名づつ、2年毎に授賞している。)
アイスランドと我が国は多くの共通性、類似性を有している。世界一、二を争う長寿国、温泉好き、火山国、地震、漁業、捕鯨、また、両国ともOECD加盟国の中で数少ないサマータイムを採用していない国である。長寿を反映してか、アイスランドの定年は67歳である。我が国は世界一の長寿国であり、アイスランドのように定年を伸ばせば、天下り問題の解決に大いに貢献するのではないだろうか。
また、興味深いことに家に入る時靴を脱ぐ習慣もある。しかし最も基本的な共通点は、双方ともユーラシアプレートとアメリカプレートを共通の支えとしてその両端に浮かぶ島国であるということだ。筆者は講演等で「アイスランドが悲しんだり、地震で揺れると日本も悲しみ、揺れる」と半ばユーモアを交え両国の共通性を述べている。いみじくも上述のとおり、『日本は国際社会で大胆にも最初に「アイスランドの問題は世界経済の問題である」と発言した。』のはアイスランドの痛みを感じている証左であろう。

5.「世界言語センター」の中核はアイスランドと日本
  アイスランド人は、こうした類似性、共通性からか大変親日的な国民でもある。世界初の女性大統領で今年80歳になったヴィグディス・フィンボガドッティル前大統領は現役時代も含め約10回訪日している。「日本文化の奥深さと繊細さは素晴らしく、これは他国にまねが出来ない」とキッパリと言う。同前大統領はアイスランド大学構内に世界の言語・文化の保存、研究等を主な目的とした「世界言語センター」建設プロジェクトを計画しており、ヴィグディス・フィンボガドッティル外国語研究所が中心となり同プロジェクトを推進している。数年後に完成の予定であるが同センターのコンセプトの中核にアイスランドと日本を置くべきであると同前大統領は筆者に語った。誰もが中国に注目している中、中国にはない日本文化の普遍性に目をつけた卓見である。アイスランドは欧州の、日本はアジア・太平洋の玄関口になるべきであると。
アイスランド大学では、主要言語が3年間のコース(注:アイスランドでは3年で学位を取得できる)で、大学院まであるところ、日本語コースは2年間のみのコースであるにも拘わらず英語、スペイン語に次ぐ3番目の人気コースである(現在45名在籍)。アニメ、マンガ、Jポップス、ファッション、寿司、源氏物語や村上春樹等古今の文学、ハイテク技術等日本文化や科学技術と深く結びついた分野から日本に関心を抱くようになっている。これが日本の誇るソフトパワーであろう。
アイスランド大学は、日本の13の大学と大学間取決を結んでおり活発な交流を行っているが、更に増加する見通しである。2年前、在米の日本人実業家の渡辺利三氏が300万米ドルをアイスランド大学に寄付し、日本とアイスランドの学生、教員のための奨学基金「渡辺信託基金」を設立した。これにより更に交流が拡大される見込みである。

6.「初代語学大使」として英語教師が日本に赴任
  アイスランドの若者の多くは非常に優秀で高校生ともなると立派な大人の考え方を持っている。中学、高校生の多くは放課後アルバイトに精を出す。自分の小遣いは自分で稼ぎ、必要なものは自分で稼いで買う。そこには親に対する甘えはなく自立している。また英語力はネイティブ同然の若者が多い。筆者は当地に赴任して文部科学省の研究留学奨学生や高校生プログラムの面接試験を行う中で、多くの学生の英語が母語同然と感じた。発音はもとより、内容、表現能力、作文能力等、実に舌を巻くほど素晴らしい。我が耳を疑い、当地の米国大使館の臨時代理大使と英国大使館の次席に話したところ、同様に感じていると述べた。筆者の報告を受けた日本アイスランド協会の脇田会長が、ご自身が特命教授を務める埼玉県の西武文理大学の理事長に説明したところ話が進み、当館が支援・仲介する形でアイスランドから初めてのケースとして、アイスランド人女性がこの4月から同大学傘下の西武文理学園小学校で英語教師として勤務している。筆者は同英語教師を「初代語学大使」と呼ぶことにしたが、これはJETプログラムではなく、埼玉西武文理学園の独自の予算で採用したもの。筆者はこの過程で、自治体によってはJETプログラムがそれら自治体の制度に合わない等の理由で必ずしも歓迎されていないことを、はからずも知ることになったがこの問題は別の機会に譲る。
一般の日本人の英語力はご存じのとおりで説明するのもはばかられるところ、家庭教育、学校教育はもとより何よりも国民全体の意識変革が重要と考える。社会全体で英語教育のあり方を真剣に考える必要があると痛感する。

7.日本アイスランド親善友好の桜並木 
 アイスランドでは、地球温暖化の影響のせいであろうか、桜が咲くようになった。昨年筆者がレイキャビク市内で桜が咲いているのを見かけ、アイスランド大学のクリスティン・インゴルフスドッティル学長に提案したことが契機となり、アイスランド大学は来年設立100周年を迎える機会に大学の構内に桜並木を作ることとなった。(注:アイスランド大学は人口32万弱の国にして、医学部も有する学生数約1万4千人のマンモス大学。学長は昨年秋「21世紀パートナーシップ促進招聘」で訪日している。)
学長も自宅に桜を植えており、すくすく育っているという。米国ワシントンDCの桜並木は東京市が寄贈し今年98周年を迎えたが「世界最北端の島国に咲く桜並木」として、両国の友好親善に寄与することを期待したい。オノ・ヨーコ女史のイマジン・ピースタワーと共に、日本アイスランド友好親善のシンボルとしての桜並木を世界各国の要人や観光客が鑑賞し、世界に対し平和と友好親善のメッセージを発信することができるのではないだろうか。

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ソマリアの首都モガディシュでの一泊 2011-02-01


ソマリアの首都モガディシュでの一泊 

                       官房総務課長 金 杉 憲 治 


昨今、ソマリアと言えば、同国を拠点とする海賊がアデン湾を中心に跳梁跋扈し、日本も含めた多くの国がそれぞれの艦船を派遣することで海賊問題への対処に努めていることが話題となっている。しかし、1990年代前半には違った意味でソマリアが話題となり、そこに私も些か関与することとなったので、当時を思い出しつつ事実関係を記したい。
 1992年12月、私がアフリカ第二課の首席事務官であった当時、ソマリアに対する人道支援のあり方を検討するため、野上義二中近東アフリカ局審議官(当時、現日本国際問題研究所理事長)を団長とする調査団に参加した。1992年3月に北米第一課からアフリカ第二課に異動したのだが、その際、山口壽男課長(当時、現ノールウェー大使)からの指示の第一は、翌年に開催を予定していたアフリカ開発会議(TICAD)を成功に導くことであった。 今でこそTICADといえば日本の内外で立派に認知されるようになったが、1992年3月の時点では未だ星雲状態で、予算も確保できていないし、また、どのようなコンセプトの会議にするのかも全く決まっていない手探りの状態であった。
山口課長からの指示の第二は、アフリカは色々な意味合いでの「危機」があり得るので、ともかくアンテナを高くしておくようにということであった。そして、ソマリアはその時点で既に人道上の危機を迎えていた。ご承知のように、ソマリアはアフリカ大陸北東部の「アフリカの角」と呼ばれる地域に存在し、19世紀に入るとヨーロッパの列強がこの地域に進出。ソマリアの北部はイギリスに、南部はイタリアの支配下に置かれるようになった。1960年にソマリアとして正式に独立したが、政情は安定せず、また、度重なる旱魃によって深刻な食糧不足を繰り返していた。国内でも部族間の争いが続き、1991年1月には軍事政権が崩壊、ソマリアは無政府状態に陥った。その結果、ソマリア国内には多くの国内避難民が発生し、また、隣国のケニアやエチオピアにも大量の難民が流出したが、その多くが悲惨な飢餓状態に直面していた。アフリカの問題は、こうした悲惨な状況が多くの国で見られるが故に国際社会の注目を浴びないことにあるが、ソマリアについてはエジプト出身のガリ国連事務総長(当時)が旧ユーゴスラビアとの比較においてソマリアに強い関心を示したことから、世界の注目を浴びることになった。
国際社会もこうした状況を放置はせず、1992年になってアメリカを中心とする多国籍軍がソマリアに派遣されたが奏功せず、最終的には1995年に撤退することとなった。その間の1993年には、2001年に映画化されて話題を呼んだ「ブラックホークーダウン」、即ち、アメリカの持株部隊の戦闘ヘリコプターであるブラックホークがソマリアの民兵組織に撃墜され、墜落したヘリコプターの乗務員が民兵に殺害され、その遺体が引きずり回されるシーンがCNNで世界中に配信された事件も発生した。
  1992年春の時点で外務省内でも「ソマリア支援に如何なる貢献が出来るか」が盛んに議論され、1992年夏までには2,700万ドルの人道支援と国運ソマリア信託基金に対する1億ドルの支出が決定されていた。

しかし、こうした資金協力だけでなく、目に見える貢献の一環として「日本ももっと汗を流すべきである」との焦燥感にも似た意見が外務省内には強かった。当時の外務省は「湾岸危機後遺症」とでも言うべき雰囲気があり、北米第一課で湾岸危機の物資協力や資金協力を担当していた私個人にとっても、ソマリアで日本に何が出来るかは大きな検討課題であった。そうした中で、省内での相談の結果、先ずは調査団をソマリア、そして隣国のケニアとエチオピアに派遣して、日本の人道支援のあり方について検討すべしということになった。 団長は野上審議官、そして経済協力局や医療関係者を含むJICA関係者も参加し、私も団長を補佐する立場で同行した。ソマリアの首都モガディシュは、かつては白亜の建物が並ぶ美しい都であった由で、タンザニア大使館勤務時代にこの地を訪問した経験のあった野上団長は「アフリカ大陸で一番美味しいイタリアーレストランはモガディシュにあった」と懐述されていた。
調査団は先ず、ケニアを訪問し難民キャンプでの調査を行った後、その一部が赤十字国際委員会ICRCが職員の交代や緊急物資の輸送のために使用していたものであり、ほぼ毎日運航されていた。われわれの乗ったチャーター便は、当初モガディシュ空港(南部空港と称され、かつては国際空港として機能していた)に着陸する予定であったが、この空港が国連関係の航空機により使用されて大変混雑していたため離陸後急遽、北部空港「こちらはまったく名ばかりの空港であり、モガディシュ郊外の砂浜を地均したものにすぎない)に着陸することとなった。着陸する空港が急遽変更となった事情は、その後国運ソマリアーオペレーション(UNOSOM)の関係者から聞いて分かったのだが、航空機に乗っている時点では未だわれわれに伝わってこなかった。
 いざ着陸してみると、予定していたUNOSOM本部からの出迎えもなく、武装した集団がいるだけであり、いきなり自動小銃(AK-47)を向けられ、入国審査と称する小屋に連れて行かれた。私自身、自動小銃を向けられたのは初めての経験であったため、どのように対応してよいか分からなかった。しかし、中東和平の修羅場を見てきていた野上団長は落ち着いており、おもむろにダンヒルのタバコを吸い出したのである。すると、周りに居た武装集団がタバコをねだり出し、野上団長がタバコを分け与えると態度が一変。空港にいたICRC関係者にお願いして何とか無事にモガディシュ南部にあるUNOSOM本部に移動することが出来た。その移動に際しても、モガディシュ北部と南部の境界線であるグリーンラインを越える際には、人質交換のようなやりとりを経験した。私はタバコを吸わないのだが、この時だけは「タバコも役に立つ」ことを実感させられた。その後、半日をかけてUNOSOMやアメリカ軍関係者と意見交換をして、その日のうちにケニアのナイロビに戻るはずであったが、予定していた国運関係機関のフライトがキャンセルされたため、やむなくモブディシュに一泊することとなった。因みに、アメリカ軍関係者を訪問し、入り口で待っていた際、フル装備のアメリカ軍兵士が近くに寄ってきて、何かと思っていたら、「日本人か。自分は沖縄に長く滞在していたが、日本には大変良い思い出がある。懐かしくてつい声をかけてしまった」と述べていた。日本に滞在したアメリカ軍の関係者が日本に良い思い出を持って世界で活躍していることは日本にとって大変なアセットである。
 モガディシュでは、200ドル弱を支払って国連児童基金(UNICEF)の関係者が定宿にしていたコンパウンドに急遽泊めてもらい、食事も提供してもらった。缶詰のスープに簡単な肉と野菜、そしてパン。ワインもグラスー杯飲んだ記憶がある。
その夜、UNICEFが所有していた四輪駆動車を盗みに来た武装集団とUNICEF側の警備との間で銃撃戦が展開させられた。野上団長はすぐに気が付いた由だが、私は最初全く気付かず、銃撃戦の最後の方になって窓越しに見ると、真っ暗な中で自動小銃が発射される度に光の筋が飛び交っているのが見えたので、「これは危ない」と思って慌ててバスタブの中に身を潜めた。これは出発前に東京で読んだアメリカ国務省発行の安全ガイダンスの冊子の中で「家の中では、何層にもわたってガードされるバスタブの中が一番安全」との記述があったことを思い出したからであった。本当にそのような対処方法で良かったのかどうかは今も分からないが、幸いそれ以上大事とはならずに、無事朝を迎えることが出来た。
 翌日は空港に向かう道筋を見て回ったが、モガディシュ市内は社会秩序もインフラもすべて破壊尽くされていた。地中に埋められていた電話線さえも掘り起こされて何かに利用されている由で、電話網もすべて破壊尽くされていた。当時、携帯電話は未だ普及していなかったので、連絡はすべて携帯無線に頼らざるを得ないものの、これもチャンネル数に限りがあり、回線の混雑や混線が生じるので、連絡を取り合うだけでも相当な労力を要する。そのような状況なので、その日のフライトの予定は分からなかったが、ともかく空港で待っていれば何とかなるであろうと期待して空港で待つこと約三時間、何とか座席を確保して無事にナイロビに戻ることが出来た。
 外務省やJICAの多くの先輩や同僚が厳しい勤務環境の中、危険が伴う任務に従事されてきている中で、私のモガディシュでの一泊などは取るに足らない経験であろうが、それでも私にとっては大変貴重な体験であった。結局、ソマリアに対する人道支援については国際機関を通じた支援を強化するぐらいしか出来なかったし、また、現在の日本に置き換えてみてもわれわれのとり得る選択肢は少ないのではないかと思う。しかし、このソマリアヘの調査団の派遣を通じて、顔の見える対アフリカ支援を進めるには何をするべきかという議論が外務省の中で活発になったことは事実であり、私個人にとっても考えさせられることが多かった。
 その後、冒頭にも述べたように、1993年10月には千人以上の参加者を得て、第一回TICADを何とか成功させることが出来たし、それ以降TICADがプロセスとして脈々と続いているのは大変喜ばしい限りである。また、カンボジアに続く本格的な国連平和維持活動への参加として、1993年5月に国連モザンビーク活動(ONUMOZ)に輸送調整部隊を派遣することも出来た。こうした日本の国際貢献に外務省員の一人として些かなりとも貢献できたとすれば大変名誉なことである。
それにしても、ソマリアという国の名前を聞く度に、モガディシュで出会ったアメリカ軍の兵上が今頃どこでどうしているのかと気になっている。これも外交官としての「一期一会」であろう。

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イラクで見栄を張った話  2011-01-01


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イラクで見栄を張った話   

情報通信課長 中前 隆博  

私の直近の在外赴任地イラクでの経験をもとに、小噺のようなものをいくつかご紹介させていただきます(登場人物の役職は全て当時のものです)。

【ドレスコード】
現在、バグダッドの日本大使館はインターナショナル・ゾーン(IZ、通称グリーン・ゾーン)内の施設に全館員を収容し構えていますが、私が赴任した当初は、大使館の本館は市街地にあり、私はIZ内にある「別館」の担当で、ひとりで灯台守のような生活をしていました。米、英をはじめとする「同盟国」の大使館や国連のミッションなどはIZの中にありましたので、私の仕事はこれらとの日頃のリエゾンを務めることでした。従って、これらの大使館での各種行事にも、本館におられる我が大使の代理で出席することがしばしばありました。

10月のある日、アスキス英国大使の秘書からメールが届き、11月30日に聖アンドリュース祭のパーティーを開催するので招待したいとのこと。聖アンドリュースはスコットランドの守護聖人で、アスキス大使はスコットランド出身とも聞いておらず、なぜ取り立ててこの日を祝うのか、そのときはちょっと腑に落ちませんでした。しかし、日頃レトルトカレーや米大使館の食堂などで凌ぐ腹には、この手のお誘いは何よりと、二つ返事でお受けしたのでした。
その後、用務帰国で東京にいた私のところへ、聖アンドリュース祭レセプションの招待状がメールに添付されて届いたのですが、これを見て目を疑いました。
ドレスコードが「ブラック・タイ」と指定されていたのです。
当時のバグダッドに貸衣装屋があるはずもなく、スペイン語サービスの私は入省以来ブラック・タイなどとは縁のない職業人生でしたので持ち合わせもありません。そもそもクウェートからバグダッドへは、身ぐるみに荷一つでC-130輸送機と米軍のブラックホークを乗り次いで赴任するわけで、礼服を携行することなど考えられず、軍の支援で大規模なロジ体制の敷ける米や英などの外交官にのみ許される特権でしかありません。現地の外交団がブラック・タイなどバグダッドに持ち込めないだろうことを見越した、悪い冗談か、挑発とさえ思われました。

しかし、今さら出席を取り消すのも、いかにも癪です。たまたま東京にいたのを幸いに、持って行くことにしました。
百貨店で一番安いタキシードとシャツや腹巻、ボタンなど、店員に教わるままに一通り買い揃え、着付けの手引書ももらって、自宅で一度予行演習をして、帰任の荷物に加えました。くれぐれも皺にならぬようタキシードは防弾チョッキの上から抱えてC-130に乗り、余計な荷物を何より嫌う米兵の白眼視を無視して、バグダッド空港からIZまでのヘリに乗せてもらいました。
いよいよ当日、新調のタキシードに身を固め英国大使館に乗り込みましたが、会場に着いてみれば豈図らんや、ブラックタイに身を固めた御仁はごく一部で、大多数は思い思いの衣装で着ておりました。米国人も、大使等ごく一部を除き殆どはダークスーツか、あるいは職場からそのまま来た風な格好の人もいました。さすがに軍人には日頃の迷彩色の戦闘服ではなく軍礼服を着こなしている高官もいましたが。かなり目立つことになってしまった私は、招待状の指定を真に受けたことを後悔しましたが時すでに遅し。
アスキス大使は挨拶で、「スコットランドは国の北部、山岳地帯にして風光明媚、その住民は高貴にして質実の気風を持ち…」とスコットランドを持ち上げたかと思うと、「クルド地方はまさにイラクのスコットランドである」としてひとしきりクルド地方の賛辞を述べたのです。

なるほど、今日のパーティーはバルハム・サーレハ副首相の出身地へのオマージュだったというのがようやく分ったわけです。サーレハ副首相は亡命時代にクルド愛国者同盟党の在ロンドン代表を務めた人で、副首相である当時も流暢な英語を駆使し政府のスポークスマンとしても活躍していました。アスキス大使とは亡命時代からの友人であった由で、英国にとってはイラク政権に持つ最大の人的資産といえましょう。亡命時代に相当着こなしていたのかブラックタイが決まっているサーレハ副首相は御満悦この上ない表情でありましたが、あるいはこのドレスコードも、茶目っ気あるサーレハ副首相のリクエストなのかもしれません。これに付き合わされたにしては、エラく高くついたな、と思わずにはいられない私でした。
あと何回着てもらえるか分らないまま、そのタキシードは我が家の押入れにつり下がっています。
【寿司バー】
バグダッドにあっても、「食の外交」の例外ではありません。
大きなロジスティクス手段と警備手段を持つ米国や英国の大使館は、国祭日や要人の訪問などの折には大々的に会食やレセプションを開催します。英大の例は既述のとおり。またイタリア大使館は本館が市街地にあるためIZ内の施設は質素でしたが、それでも大きな石窯を構え、警備担当の兵士が焼いて振舞ってくれるピザが美味しく、案内があれば必ず押しかけたものです。
当時IZ内の大使館分館は、私一人で起居していて料理人も手伝いもいません。IZは外界から隔離された、長崎の出島のようなところで、内にはコンビニはもちろん、八百屋も肉屋も、いわんや魚屋などもありません。したがって設宴といっても和食は望むべくもありません。惜しくも日本通の海兵隊中尉殿に応えてあげられなかったリクエストは「ツキミソバ」。蕎麦と乾燥ネギは持ってきていましたが、生で使える卵がありません。
アメリカ人にはちょっとイジワルな人がいて、筆者が赴任の挨拶に回ったときに、「それで、お宅でスシ・パーティーはいつやるの?」とニヤニヤしながら聞いてきます。
平成18年8月、麻生外務大臣がバグダッドを訪問しましたが、その準備の段階で、ハリルザード米大使と会談を行う話がもち上がりました。結局先方の都合がつかず会談は実施しなかったのですが、会談の準備を米国大使館と打ち合わせていた時、先方が「会談の議題その一は、なぜバグダッドに寿司バーがないのか、これでいこう」と言ってきました。

ヤツらに一泡吹かせてやりたい。
かくして日本のソフトパワー外交の危機を感じた私は、バグダッド寿司バー創業事業にとりかかりました。
目標は、「せめてコンビニ寿司のレベルを」。
ヨルダンに立ち寄った際、加藤大使にこの計画を明かしたところ、大使は「止めておいたほうがいい」と、あくまで優しく諭してくださいました。大使には申し訳ないのですが、私の中ではこれが逆作用を起こしてしまったようです。
まず、この話を聞いた父が、取材と称して馴染みの寿司屋に通い詰めました。ねばり強い諜報活動の結果、ついにこの寿司屋の主人は、実は市販の粉末すし酢をつかうと握りにも使える結構おいしいシャリができると白状したのでした。
ネタは、寿司屋の助言をもとにいろいろ試行錯誤しました。
刺身は論外なので、何とか保存食で品数をそろえなければなりません。ツナマヨやオイルサーディンは、私は好物なのですが、どうせ米国の友人から安易であるとなじられそうなので、検討からはずしました。ウニも何とかしたかったのですが、瓶詰めはあまりに塩辛いので諦めました。

結局、日本のスーパーで、アワビの姿煮とタラバガニの缶詰を買い、ドバイ空港の免税店でキャビア(これが最も財布にこたえました)、イクラ、スモークサーモンを買って、これらをピクニック用のクーラーバッグに保冷剤とともに詰め込んでバグダッドに持ち込みました。他に海苔と粉ワサビ、醤油、ガリ、それに特別にコシヒカリを2kg持っていきました(重かった)。そのころバグダッドでは外気温が40度を超えており、途中で保冷剤が融けてしまわないかと、外は暑いが肝は冷えひえの移送オペレーションでありました。また、このときも米軍ヘリの兵隊さんには冷たい視線を浴び、これも大いに冷却効果がありました。
シャリ玉は、回転寿司屋が使うような機械を持っていくわけにも行かないので、プラスチック製の型容器を持っていきました。
以上の結果、握りと軍艦巻き合計60貫による「戦後バグダッドの寿司バー第1号」を実現し、招客に振舞うことができました。
米大の友人は、例によって「どうしてチグリス川の鯉を使わないんだ」などとイジワルを言ってくれるのですが、彼らも、毎日プラスチックの食器でアメリカ風の食事に漬かっているものだから、最後には「あぁー、今日は文化的な晩だったあ」と白状しながら帰っていきました。

思わず胸の内でガッツポーズです。
イラク人の友人は、人に会うたびに「こいつと仲良くしておけばキャビアのスシが食えるぞ」と紹介してくれました。キャビアはちょっと「持続可能性」に懸念を持っていたので、これには嬉しいながら少し困りました。
アル・ジュマイリ在京イラク大使は頭脳明晰で負けず嫌いの方でしたが、筆者が寿司の並んだ写真を見せたとき、とっさに「なるほど、たいしたものだが、この写真の場所がバグダッドであるとの証拠がない。」と応じました。
しかし、この写真を目にした同大使の表情に一瞬悔しそうな表情がよぎったのを、私は見逃していません。
(この話は、帰朝後提出した在勤報告の末尾に余談として入れたものですが、提出先の各位からはもっぱらこの部分のみ褒めて頂いたので、再掲載するものです)

【単騎突入】
某日、私は警備員の運転する車でアドナーン・パレスに向かいました。IZのはずれにあるアドナーン・パレスは現代的な意匠を凝らした壮大な建物で、財務大臣がオフィスを構えています。実はもともと内務大臣の執務所でしたが、内閣改造で蔵相に横滑りしたバキール・ジャブル内務大臣が、この場所が気に入ったと言って居座ったため、内務省がそのまま財務省になってしまったものです。ちなみにこのジャブル蔵相は、マーリキー政権シーア派の有力者で、政治的野心も持った大物政治家です。フセイン時代はイランに亡命して政治活動を行っていたとのことで、私も大使のお供で何度か御一緒させていただきましたが、体格は小柄ながら周囲を威圧する風格をもつ方でした。
当時日本はイラクに対して総額35億ドルの円借款の供与を表明し、既にいくつかの案件についてE/Nの署名を終えていました。イラクでは、フセイン政権の崩壊後亡命者を中心に新政権が成立しましたが、官僚手続きはかなり成熟した伝統を引き継いでいます。首相のひと声で手続は無視、というわけにはいきません。署名した円借款のE/Nも、議会の批准を得る必要があり、またその前に法制局の審査を経る必要があります。ただ、イラクにとって円借款は1990年の経済制裁以来実績がなく、ましてや新政権の人たちにとってはまるで初めての経験です。法制局の審査なるものも、2ヶ月経ち、3ヶ月を過ぎても全くなしのつぶてで見通しが立ちません。

その日の私のミッションは、財務省にアジズ・ジャアファル大臣顧問を訪ね、審査手続きの状況につき情報収集するとともに、その迅速化に向け引き続き働きかけを要請する、というものでした。
建物に着くまでにいくつもの検問所があり、そこにも、周囲の塀や屋根の上にも、カラシニコフを持った「兵士」が大勢います。皆制服を着ていますがシーア派の民兵出身だろうと察しがつきます。居所の武装の程度も、その主の政治力を測るバロメータになります。私が車中から手を振ると、彼らもにこやかに手を振ってきます。
アジズ・ジャアファル顧問とは何度も会ってきましたので、「勝手知ったる他人の家」で、守衛に用向きを告げ、さっさと待合室に入って待っていると、スタッフが迎えに来ます。ここまではいつもと同じです。

ところが今回、スタッフは顧問の執務室を素通りし、奥へ奥へと私を案内します。行き着いた先は、かつて大使と来たことのある、ジャブル大臣執務室のドアです。一瞬「大臣不在中の執務室を使って打ち合わせかな」とも思いましたが、そうではないことはやがてわかりました。
荘重な仕草で扉が開くと、正面には幹部を従えたジャブル蔵相がにこやかに私を迎えようとしているのです。
訳のわからぬまま入っていく。蔵相との握手。カメラのストロボが光る。大臣に促されて独り長椅子に座り、ジャブル蔵相は中央の安楽椅子に悠然と着座します。またストロボの嵐。

先方は財務省幹部が5名もいたでしょうか。当方は当然私ひとり。アジズ・ジャアファル顧問は、何故かこの場にいません。
力いっぱい想像力を働かせましたが、わかりません。円借の謝意表明?新規案件要請?それにしては大げさすぎる。もしかして10億ドルくらい裏金で出せ、と?しかしどうして大使と談判しないんだ。オレには何の権限もないぞ。拉致?イヤまさか。ここは政府だ。そんなことをするはずがない。一体ナンなんだこれは。
カメラマンが去り、コーヒーが供されたところで、ジャブル大臣は、いつもの流暢な英語で朗々と語り始めました。

「来訪を歓迎する。我が国と貴国は伝統的に友好的な関係を維持しているが、新政権においても良好な協力関係が維持されており極めて欣快に思う。貴国はアジアの大国であり、我が国は貴国との友好関係を戦略的に極めて重視している。今後とも両国関係が一層強化されることを願っている。近々私自身、中国を訪問したいと思っており…」
やっとわかりました。ジャブル大臣は中国大使の表敬を受ける予定が、スタッフが間違えて別の控え室にいた私を引きあわせてしまったのです。
さて、どうしようか。最後まで中国大使を演じて情報を頂いてしまう器量はないし、大臣の発言を遮って退出する度胸もない。
仕方がないので、大臣の発言が一通り終わり発言を促されたのをまって、私は正直に素性を明かし、何かの間違いでここに案内されたらしいことを説明した上で、しかし折角ですからと前置きして、円借款の進捗状況、E/N審査の迅速化について協力要請、我が国の円借プロジェクトにかける思いなどを一通り説明し、貴重な時間を頂いたことを謝して辞を乞いました。
ジャブル蔵相は、最初こそ鳩に豆鉄砲の面持ちでしたが、その後は寛容に私の発言を聞き、円借款に対する謝意を表明し、門司大使への挨拶を託して、許していただきました。
冷や汗をかきましたが、その晩の報告電作成が大変楽しい作業であったことは、お察しの通りです。


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