[論壇コラム2] of [霞ヶ関会HP]

「人間の安全保障」の発展 (後編)2011-6-4

『「人間の安全保障」の発展 (後編)』


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上田 秀明  前駐オーストラリア大使

5. ミレニアム・サミットと人間の安全保障委員会
(1) 日本が人間の安全保障を打ち出している折に、2000年秋の総会をミレニアム総会とし、世界の首脳が世界の課題について討議することが予定されていた。
そこで、日本としては、人間の安全保障をこの総合の議題として国際的にさらなる推進を図る方針を立てた。佐藤大使以下の国連代表部がロビー活動を行ったが、中国、インド、ブラジルなどの途上国から「概念があいまいである、先進国による途上国への干渉を招く恐れがある、発展の権利を損なう」などとして懸念が出され、議題にすることは簡単ではない事態であることが分かった。カナダも人間の安全保障を議題とするよう提案したが、結局、人間の安全保障は議題としては採用されなかった。
  日本としては、ミレニアム宣言の内容についての議論の課程で人間の安全保障が有益なアプローチであるとうったえたが、貧困撲滅、開発促進を重視する途上国側(G77)と民主化、人権、地球規模の環境問題などを重視する先進国側の主張との間で首脳宣言案をめぐる議論がまとまらず、日本も宣言に文言として人間の安全保障に言及することは断念して、内容的に取り入れを図った。そして、ミレニアム宣言の「価値と原則」(とくに5、6、)に人間の安全保障の考え方が含められた。すなわち、開発・貧困撲滅で途上国の主張をいれた「ミレニアム開発目標」が設定されると共に、人権・民主主義・良い統治と弱者の保護で先進国の主張が入れられた。

(2) カナダはアクスワージー外相が、対人地雷禁止条約を提唱したのに続き、人間の安全保障の重要性をうったえた。当時、コソボでの悲惨な事例が注目されており、カナダは、人間の安全保障として人道的介入が必要となるようなケースを重視していた。アナン事務総長が、いかなる時に人道的な軍事介入が行われるべきかをより明確にすることを呼びかけたのを受けて、カナダの提案で「介入と国家主権についての国際委員会」が設置され、2001年12月に報告書が出された。主要な点は、国家主権は責任を伴い、国民を保護する主要な責任は国家にある:内戦、騒乱、抑圧、国家破綻の結果、人民が甚大な迫害を受け、国家が迫害を止め、または避けさせようとしないか、その能力に欠ける際は、国際的な保護を行う責任が内政不干渉の原則に優先する:軍事的介入は最後の手段だが、大規模な虐殺、ジェノサイド、民族浄化の脅威の場合、安保理か(緊急特別総会も)決定するとして、予防の重要性を指摘し、総会に保護する責任について決議採択を提案した。カナダは、総合での採択を目指し、活発な外交を展開した。

(3) 日本としては、カナダのようなアプローチを前面に出すと途上国の反発をかうので、よりひろいアプローチをとるべきであるとの議論を行ったが、平行線をたどった。そこで、日本としては、人間の安全保障の理解者を増やす努力を継続し、事務総長の「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」の2つの目標達成の呼びかけに対して報告を行う目的で、ミレニアム総会で森総理より提案し、「人間の安全保障委員会」を2001年1月に設立した。緒方貞子UNHCR(現JICA理事長)とアマルティア・セン教授(ノーベル賞受賞者、ケンブリッジ大学・トリニテイ・カレッジ学長)を共同議長とし、ブラヒミ・アフガニスタン問題担当事務総長特別代表、ジンワラ・南ア下院議長、スリン・前タイ外相、ゲレメク元ポーランド外相、サザランド・元GATT・WTO事務局長など12名の有識者を委員とするこの委員会は、人間の安全保障の概念構築と国際社会の取り組むべき方策について提言する目的で会合を重ね、2003年5月に最終報告書を事務総長に提出した。
報告書は、人間の安全保障は、「国家の安全保障の考え方を補い、人権の巾を広げると共に人間開発を促進し、多様な脅威から個人や社会を守るだけでなく、人々が自らのために立ち上がれるようにその能力を強化することを目指す:個人と国家、国家と国際社会を結ぶ制度や政策を改善し、世界規模の連携をはかる:人間の生にとってかけがいのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現する:人間の安全保障なしに国家の安全保障は実現できず、その逆も同様である:人間の安全保障実現のためには強靫で安定した制度が必要であり、その裾野は一定の現象に焦点を当てる国家の安全保障よりも広い:暴力を伴う紛争・テロ、犯罪、戦争からの犠牲・難民と困窮、貧困、環境汚染、病気、教育(特に女性)の双方に統合して対処する」、と指摘し、国際社会に次の10項目の提言を行った。
すなわち、暴力を伴う紛争下にある人々を保護すること:武器の拡散から人々を保護すること:移動する人々の安全確保を進めること:紛争後の状況下で人間の安全保障移行基金を設立すること:極貧下の人々が恩恵を受けられる公正な貿易と市場を支援すること:普遍的な生活最低限度基準を実現するための努力を行うこと:基礎保健サービスの完全普及実現により高い優先度を与えること:特許権に関する効率的かつ衡平な国際システムを構築すること:基礎教育の完全普及により全ての人々の能力を強化すること:個人が多様なアイデンティティを有し多様な集団に属する自由を尊重すると同時に、この地球に生きる人間としてのアイデンティティの必要性を明確にすること:である。
この報告書は、人間の安全保障についての国際社会の共通認識となり、その提言を後押しし、人間の安全保障基金の運用に助言するために、人間の安全保障諮間員会が設けられている。

6. 国連首脳会合成果文書と人間の安全保障フレンズ
(1) 人間の安全保障委員会の報告を受けて、日本としては、2005年の国連首脳会議
(ミレニアム総会のレビュー)の成果文書に人間の安全保障を盛り込むべく運動した。日本の人間の安全保障とカナダの保護する責任の概念整理が課題となった。カナダは2つを連続したものとみなしているのに対し、日本は途上国からの保護する責任への反発を踏まえ意図的に2つの概念を分けて対応してきたところだが、この際お互いの考えの相違はそのままで、とりあえず共同戦線を張ることとなり、結果的には、両概念とも成果文書に含められた。

  人間の安全保障には依然としてブラジル、キューバなど途上国から概念があいまいとして疑問がだされたが、パラグラフ143で、「我々は、人々が、自由に、かつ尊厳を持って、貧困と絶望から解き放たれて生きる権利を強調する。我々は、全ての個人、特に脆弱な人々が、全ての権利を享受し、人間としての潜在力を十分に発展させるために、平等な機会を持ち、恐怖からの自由と欠乏からの自由を得る権利を有していることを認識するめ、我々は、総合において人間の安全保障の概念について討議し、定義づけを行うことにコミットする。」として明確に言及された。

(2) 2006年日本は、人間の安全保障に関する共通理解の構築及び国道の諸活動におけるこの理念の主流化に向けた協力を模索するために関心国・機関と人間の安全保障について議論する場として、ニューヨーク・ベースの非公式・自由なフォーラムである「人間の安全保障フレンズ」の立ち上げを主導した。これには、メキシコなど10数ヵ国が参加し、その後累次4回目まで開催されている。もっとも、カナダもノルウェイなどと「人間の安全保障ネットワーク」を設立して同様の活動を行っている。
  国連における最近の動きとしては、2007年に人間の安全保障基金に日本以外の国では初めてスロベニアが2万ドル、タイが3万ドルを拠出した。また、2008年5月には総会のテーマ別討議で人間の安全保障が初め議題とされて各国が議論に加わった。これらの動きは、これまでの人間の安全保障の分野での日本の努力が国際社会で認められた証左といえる。

(3) 人間の安全保障については、エヴィアン・サミット議長総括で言及され、同年のバンコクおよび2004年のサンチャゴのAPEC首脳会議の宣言に盛り込まれるなど、国際的に認知されてきた。また、日本とEU、メキシコ、ベトナム、インド、豪州、モンゴル、英国との間の2国間の共同文書で言及されている。

7. 日本外交にとっての意味合い
国家安全保障は、近代国際政治の歴史を踏まえた上で理論化されており、各国はそれぞれの置かれた安全保障上の現状認識を行い、ハード面、ソフト面の政策を決め、実施してきた。しかし、冷戦中は、各国の国家安全保障はなんといっても米ソ両大国、せいぜい他のP-5を加えた国々の意向、動向によって左右されてきていた。日本は、敗戦後米国との同盟の下で「軽武装・経済立国」の路線を採り、国内では非常にいびつな「安全保障論議」が行われてきた経緯から、この分野では国際的に「1人前」とは扱われてこなかった。この路線により、アジア諸国の日本再軍備への「疑心」を薄めてきたメリットは指摘すべきだが、日本は国際場裡では「経済大国」ではあっても伝統的な意味での大国ではない。
日本外交は、核廃絶を達成するとの政策を一貫して追求してきている。米国の核の傘のもとで国家安全保障を確保しつつ、この方針を追及するのは一見論理矛盾ともとれるが、経過措置的な現実の下にあると説明できるであろう。さらに一貫しているのはODAの実施であるが、これは「相手国の関心」に応えつつ、「情けは他人の為ならず」ともいうべき長期的視野に立った日本の国益追求の路線といえる。
ここに、人間の安全保障が外交の柱として加わった。これまでの経緯で明らかなように、人間の安全保障論は、国家安全保障論とは異なりすぐれて意図的に打ち出された「政策論」である。誰も正面切って否定できない肯定的な要素からなっており、欧米の言う「人権外交」よりもやや広範で、先進国、途上国のいずれからも「文句を付けにくい」考え方であり、いまや国連ではJapan Brandになっているといえる。
ODA予算が減額されているが、日本ブランドの人間の安全保障ODAの充実は費用対効果が高いと思われ、今後とも活用すべきと思われる。
軍事力による国際貢献の面では限界のある日本としては、ここまで発展してきた「人間の安全保障」を引き続き外交の柱の1本とし、各般の施策を展開することは、厳しい国際環境の下で存在感を示しつつ、日本への信頼感の醸成に資するものであり、長い目で国益を確保していくために有益であると考える。
米つくりに例えれば、秋により良き収穫を得るための、早春の苗代つくりと真夏の田の草取りのような作業であると考える。


「人間の安全保障」の発展 (前編)2011-5-20


『「人間の安全保障」の発展 (前編)』


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上田 秀明  前駐オーストラリア大使

 「人間の安全保障」は、近年総理や外相の演説で日本外交の主要な柱の一つとして
たびたび言及されている。ODA大綱の基本方針に謳われて、「人間の安全保障・草の根
無償協力」が実施されており、国連では2005年の首脳会議の宣言に明記され、日本の拠出による「人間の安全保障基金」が活用されている。

 日本だけでも、「人間の安全保障」のタイトルを付した学術書が何十冊と出版されており、大学や大学院の科目となっている。しかしながら、いまだに人口に膾炙したとまでは
言えず、「一体、人間の安全保障とは何だ?」との疑問や「人間の安全保障を唱えることは、さなきだに脆弱なわが国における国家安全保障をめぐる議論をゆがめるのではないか?」との疑念を有す人も少なくない。筆者は、人間の安全保障をわが国外交政策の柱の一本とした当時(1998年-2000年)に国際社会協力部長として少なからずかかわったので、この間の背景、経緯、その後の展開についてまとめて、参考に供することとしたい。

1. 人間の安全保障の考え方が出てきた背景

  • (1) 日本の外務省は、ODA中期政策で、「人間の安全保障」は、一人一人の人間を中心に据えて、脅威にさらされ得る、あるいは現に脅威の下にある個人及び地域社会の保護と能力強化を通じ、各人が尊厳ある生命を全うできるような社会づくりを目指す考え方である。具体的には、紛争、テロ、犯罪、人権侵害、難民の発生、感染症の蔓延、環境破壊、経済危機、災害といった「恐怖」や、貧困、飢餓、教育・保健医療サービスの欠如などの「欠乏」といった脅威から個人を保護し、また、脅威に対処するために人々が自らのために選択・行動する能力を強化することである。」(ODA中期政策、2005年2月4日)と説明している。
  • (2) このような考え方が出てきた背景としては、1990年代の初めころから
  • 世界各地で民族問題をはじめとするさまざまな紛争が顕在化し、武力
  • 紛争や騒動が発生し、多くの住民が殺傷され、難民となるなど悲惨な事例が多発したことがある。冷戦の終結により、米ソ両大国による各陣営の締め付けが解消したことから、蓋をされていた問題が顕在化したことや資源をめぐる利権争いが原因であろう。特に、東側では、マルクス・レーニン主義の「民族人種の平等、民族対立の解消」という建前の欺瞞が暴露され、虐げられていた少数民族に開放感と民族的アイデンティティの高揚がみられた。ソ連邦の解体により、バルト諸国、ウクライナ、白ロシア、モルドヴァ、コーカサス諸国、中央アジア諸国が独立したが、他方でロシア連邦内の諸民族の独立は認められず、コーカサスの少数民族には不満が残り、チェチェン紛争となっていく。
  • また、チトーの死後も何とか統一を保ってきたユーゴスラヴィア連邦では
  • 皮肉なことにソ連の崩壊で「敵」を見失い、連邦はばらばらになり、クロアチア、 ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボと各地でセルビア系と各民族が互いに入り乱れて悲惨な戦闘を続ける始末となった。
  •   アフリカではエチオピア、アンゴラなど社会主義政権の崩壊かおり、また資源をめぐる利権争いも絡んで、ソマリア、エリトリア、アンゴラ、ルワンダ、コンゴ、シェラレオネなど各地で紛争・民族対立が激化した。アジアでは、東チモールの独立運動が再燃した。中東では、イラクによるクウェート侵攻が起こり、湾岸戦争が戦われた。 これらの紛争により、一般市民、特に女性や子供が犠牲者となり、大量の難民、避難民が発生し、「民族浄化」というおぞましい事例までが起った。しかもこのような悲惨な状況がCNNやBBCの報道により世界中の人々の目に連日飛び込
  • んでくる事態となった。

  • (3) 冷戦の終焉は、また世界単一市場への動きを促し、情報革命を一層進行させ、グローバリゼーションという大きなうねりを加速した。これにより、世界各地で経済発展が加速され、数億人の人々が恩恵を受けることになったが、同時にこのプロセスに乗り切れなかったり、取り残される人々も出現した。
  •  ボーダレス経済が進めば、経済危機が瞬時に国境を超える危険性も増大した。
  • 1997、98年のアジア経済危機に際して、インドネシア、タイなどではソーシャル・セーフテイ・ネットが来整備であったため、職を失ったり、市場からはじき出された人々が困難に直面することになった。経済が発展すれば格差も生じ、隣の芝が青く見える心理になりがちで、経済・社会体制への不満が鬱積することにもなる。
  •  さらにヒト・モノ・カネが国境を越えて迅速に移動する裏で、不法な動きも活発化し、麻薬取引、人身売買、武器の密輸、マネー・ロンダリング、コンピューター犯罪など国際組織犯罪が横行した。国際テロ活動も各地で目立つようになり、各国は対策に苦慮する。 また、AIDs/HIVの蔓延に加えて、新型インフルエンザなどの新たな感染症の危険が現実のものとなり、人類は、SARS対応に追われた。
  •   地球規模の環境問題がますます深刻化しており、とりわけ温暖化対応が喫緊の課題となってきた。
  •   これらの脅威は、いわばグローバリゼーションの影の部分ともいうべき課題で、
  • 放置しておけばやがて人間社会を根底から覆しかねない問題であるのだが、従
  • 来の国家安全保障の課題とは必ずしも一致せず、また既存の軍事力を中心とす
  • る安全保障の対処では対応できない。また、これらの1 題は国境を超えて地
  • 球規模での対応を必要としており、一国だけでは対処しきれないものが多い。
  • そこで従来の安全保障の方法ではない新たなアプローチが必要ではないかとの疑問が出てきたのである。

2. UNDPの人間開発報告書

  新しいアプローチのロ火を切ったのはUNDPである。例年発出してきた人間開発報告
書の94年版で、「人間の安全保障という新しい考え方」が必要だとして、「原爆投下か
ら50年たった今、「私達は、あらためて考え方を根底から変える必要に迫られている。
核の安全保障から「人間の安全保障」へと頭をきりかえなくてはならない……冷戦の
ため、安心して日常生活を送りたいという普通の人々に対する正当な配慮はなおざり
にされてきた。
多くの人にとって安全とは、病気や飢餓、失業、犯罪、社会の軋轢、政治的弾圧、環境災害などの脅威から守られることを意味している。人間の安全保障は武器へ関心を向けることではなく人間の生活や尊厳にかかわることである。人間の安全保障という考え方は単純ではあるが、21世紀の社会に大変革をもたらすカギとなるのではないか。」と提起した。

  その際、基本概念を考察するにあたっての四つの特徴として、世界共通の問題、相互依存の関係、早期予防の有効性、人間中心・人々の自立重視を挙げた。その構成要
素として、国連憲章にいうところの「恐怖からの自由と欠乏からの自由」を指摘し、前者が重視されがちだったが、後者も考慮されるべきであり、「いまこそ国家の安全保障という狭義の概念から、人間の安全保障という包括的な概念に移行すべき時である。」として、領土偏重の安全保障から人間を重視した安全保障へ、すなわち軍備による安全保障から「持続可能な人間開発」による安全保障へ切り替えるように主張した。
  UNDPは、この考え方を1995年のデンマークでの社会開発サミットで採択さ際文書
の基礎とすることを企図したが、サミットで言及はあったもののこの段階ではまだ大きな支持は得られなかった。これは新しいアプローチの提案であったが、経済開発の専門家集団の理想論として扱われた嫌いあり、他方で途上国は自らの「発展の権利」を重視し、いかなるアプローチにせよ、世銀グループや国連ファミリーの勧めを「内政干渉」ととる傾向あったためである。

3. 日本の人間の安全保障政策

  • (1) UNDPの提案に対して日本は否定的ではなく、村山総理はデンマークでの
  • 演説で、「人にやさしい社会」の創造を目指すとし、「人間優先の社会開発を重視すべきである」と述べている。また、1997年の国連環境開発特別総会で、橋本総理は、地球環境問題に取り組むに当たって、「将来の世代に対する責任」と「人類の安全保障」の二つの観点を強調した。
  • しかしながら、人間の安全保障を日本外交の中心にすえていったのは、なんと いっても小淵外相(のち総理)である。小淵外相のリーダーシップで1997年の対人地雷禁止条約に防衛当局や米軍の懸念を押し切って日本も加わったとされているが、そのころアジアを経済危機がおそい、上述のように各国で弱者が困難に直面していた。1998年5月、小渕外相はシンガポールで演説し、社会的弱者に対する思いやり、人間中心の対応が重要であるとうったえた。総理に就任後の1998年12月2日、「アジアの明日を創る知的対話」で人間の安全保障をテーマにスピーチをし、「人間の安全保障の観点に立って社会的弱者に配慮しつつ、アジア経済危機に対処することが必要であり、この地域の長期的発展のためには人間の安全保障を重視した新しい経済発展の戦略を考えていかなければならない。」と述べた。 続いて、同年12月16日、ハノイでの政策スピーチ「アジアの明るい未来の創
  • 造に向けて」において、アジアにおける平和と安定、主要国間の協調関係を基盤として努力すべき分野の一つに人間の安全保障を重視するとして、「人間の安全保障基金」を国連に設置するために5億円の拠出を表明した。さらに1999年1月、施政方針演説において「人間の安全保障について内外政全般にわたる日本の責務」であると述べた。
  •  この後、小渕総理は、韓国や米国での政策演説において、またアイスランドで
  • の日北欧首脳会談においても人間の安全保障に言及し、1999年12月、国際問
  • 題研究所40周年記念シンポジウムでもこの取り組みを推進する旨述べた。
  •   小淵総理のこのような取り組みの背景には、ご自身の考え方が反映されていることはいうまでもないが、そのサポートとして、東海大学教授でもあった武見
  • 外務政務次官の貢献がある。同次官は人間の安全保障にいち早く注目し、東海
  • 大学平和安全保障研究所においてはこれをさまざまな角度から研究しており、
  • これをふまえて政務次官から小淵大臣に具申されたものとみられる。
  • (2) 筆者は、1998年の1月に国際社会協力部長に就任したが、国連を中心に国連予算や人権、難民、国際組織犯罪、気候変動などの環境問題、はたまたILO、ITOの専門機関などと大変間口の広い所掌事務に戸惑い、互いに関連のなさそうな個々バラバラの案件の処理に追われる日々を送ることになった。これらの案件に取り組むにあたっての何らかの統一されたアプローチというか定まった視点のようなものが必要ではないかと考え、部内で種々議論した際に、赤阪審議官(現国連事務次長)がUNDPのとなえる「ヒューマン・セキュリテイ」を紹介してくれた。
  • これを人間の安全保障と訳し、部内の各分野を貫く横串としてみたところ、足元
  • がしっかりする感じを得た。もちろん、過度の単純化はできないが、人間の安全
  • 保障を表看板にして日本のマルチ外交を進めていけるとの考えにいたった。そう
  • こうしている時に、武見次官のアイデアにそって準備されている小淵大臣のシン
  • ガポール演説の中味を知ることになったので、政務次官室にとびこみ、まさに事
  • 務方で人間の安全保障で行こうとしているところですと申し上げたら、政務次官
  • もおおいにやろうということになったのである。
  • 山本正氏が大臣スピーチの準備に携わったと知り、すぐに同氏とも連絡を取るな
  • どして、ここに人間の安全保障を推進するリーダーシップと実働部隊が整ったの
  • である。そこで、国連代表部の小和田大使(後に佐藤大使)にご相談し、有益な
  • 示唆を得るとともに、省内でこの考え方への支持を得ることに勤めた。実のとこ
  • ろ、これには相当苦労した。
  •  伝統的な安全保障を担当する部署からは、当然のことながら「あいまいでよく
  • 分からない」、「国家安全保障に替わるものなのか?」、「脅威にいかに対処するのか」などなどさまざま疑問、疑念が出された。これらの指摘に対して部内でもさ
  • らに、議論を進め、加藤総合外交政策局長(後に竹内局長)、大島(賢)経済協力
  • 局長ほかの理解と支援を得て、省内で人間の安全保障について理解が広がっていった。そして政策ペーパーや対外的に発表する論文を準備していく過程でこの考え方が徐々に精緻なものとなっていったのである。
  • (3) 日本の考え方として、これらのさまざまな脅威に対処するには、個人としての
  • 人間に重きを置き、自由と可能性を確保することを目指す人間の安全保障の考え
  • 方が有効である一対応は一国では困難であり、国際社会の様々な主体(国家、国際機関、NGO)の協力が必要であるI新たなルールや協力体制を創設するた
  • めの国際合意の形成が必要である:途上国に対しての人間の安全保障の考え方に基づく協力を行う必要かおり一対象はUNDPのアプローチである開発にとどめず、広範な新しい脅威を視野にいれていくべきである、ことなどの点がまとめられてきた。また、国家安全保障との関係では、人間の安全保障は国家安全保障に替わるものではなく、国家安全保障の基礎の上に実現されるものであるとして整理された。
  •   これらの考え方にたって、上述の小淵総理のハノイ演説において日本の政策として人間の安全保障が打ち出されていったのである。小淵外相の後任の高村外相は、人間の安全保障の考え方に早くから賛同され、外交演説および国運総会の一般演説で言及するとともに、ケルンーサミット外相会議の議長総括文章に含めることに成功された。
  •   このように、人間の安全保障は優れて政策論として展開されていったわけで、理論的に未成熟であったのは否めないが、日本がこれを推進することにより、日本外交の幅を広げ、国際場裡でリーダーシップをとることにつながるとの思惑があ
  • ったのである。
  •   2000年春に小淵総理が急逝されたが、続く森総理、小泉総理も引き続き人間の安全保障を推進された。
  • ちなみに、人間の安全保障を推進する体制が整うなかで、アジア大洋州、アフ
  • リカ中近東、中南米の各大使会議の際に、本省側から説明し、各大使に任地での
  • 推進を依頼した。省内での議論と同様の疑問が多く出されたが、1年目の会議では疑義を表明されたアフリカ駐在の某大使が翌年の会議では「人間の安全保障は良いアプローチだ。」と熱心な推進派になっていただいたのは心強かった。

4. 人間の安全保障基金と草の根・人間の安全保障無償

  • (1) 日本のODAはかねてよりベシック・ヒューマン・ニーズと人材育成を重視してきており、人間の安全保障を人間の安全保障の考え方を導入することにより、さらに方向が定まると考えられた。その具体的ツールとして、いわゆるマルチの協力で、国連に「人間の安全保障基金」を設けることとし、九八年秋の補正予算で5億円が計上された。これは、川田国連行政課長(現東京都儀典長のアイデアに基づくもので、国連の諸機関が(場合により、各国やNGOとの共で)実施するプロジェクトで人間の安全保障の考え方に沿う案件を推進しようというもので、実態上日本の意向にそって支出されることになっている。小淵総理は、上述のようにこの基金への拠出についてハノイで表明したのである。1999年の最初の案件は、タイにおけるコミュニテイ・ベースの社会的弱者とタジキスタンにおける医療従事者の能力強化の二案件で、さらに追加でコソボの初等教育支援を行った。その後日本は累次にわたり追加し続け、2008年までに373億円を拠出しており、プロジェクトは190に上っている。一方いわゆるバイの人間の安全保障の協力として、99年当時は、アジア経済危機の中でソーシヤル・セーフティ・ネットが不十分なために困難に直面していた経済的・社会的弱者を救済するために、インドネシアヘの緊急無償40億円などを行った。
  • (2) 1999年8月に改訂されたODA中期政策では、基本的な考え方の5.で「人間中心の考え方に基づき、後発開発途上国(LLDC)に特に配慮する。 更に、環境の悪化や飢餓、薬物、組織犯罪、感染症、人権侵害、地域紛争、対人地雷といった種々の脅威から人間を守る「人間の安全保障」の視点に十分留意していく。」とされ、人間の安全保障が重要な柱とされた。
  •   続いて改訂されたODA大綱においては、人間の安全保障がさらに重視された
  • (2003年8月29日閣議決定)。すなわち、基本方針の(2)、「人間の安全保障」の視
  • 点では、「紛争・災害や感染症など、人間に対する直接的な脅威に対処するためには、グローバルな視点や地域・国レベルの視点とともに、個々の人間に着目した「人間の安全保障」の視点で考えることが重要である。このため、我が国は、人づくりを通じた地域社会の能力強化に向けたODAを実施する。また、紛争時より復興・開発に至るあらゆる段階において、尊厳ある人生を可能ならしめるよう、個人の保護と能力強化のための協力を行う」と謳われた。
  •   さらに、新しいODA中期政策(2005年2月4日)で、「人間の安全保障」の考え
  • 方が冒頭1、のように定義され、「(ハ)我が国としては、人々や地域社会、国が直面する脆弱性を軽減するため、「人間の安全保障」の視点を踏まえながら、「貧困削減」、「持続的成長」。「地球的規模の問題への取組」、「平和の構築」という4つの重点課題への取組を行うこととする。」とされた。そして、「人間の安全保障」の実現に向けた援助のアプローチとして、「人間の安全保障」は開発援助全体にわたって踏まえるべき視点であり、(イ)人々を中心に据え、人々に確実に届く援助、(ロ)地域社会を強化する援助、(ハ)人々の能力強化を重視する援助、(ニ)脅威にさらされている人々への稗益を重視する援助、(ホ)文化の多様性を尊重する援助、(ヘ)様々な専門的知識を活用した分野横断的な援助、が重要であるとされた。
  • このようにして、人間の安全保障は、日本の国際協力の太い柱の一本となり、草
  • の根無償資金協力のスキームが人間の安全保障・草の根無償資金協力のスキームに発展的に拡充され、現在では年額150億円の規模で様々なプロジェクトが展開されるにいたったのである。JICAが人間の安全保障にことのほか熱心に取り組んでいるのは心強いところである。         (以下後編に続く)

わが国の新興国外交の在り方』2011-4-28


『わが国の新興国外交の在り方 -ブラジルの視点から』

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島内 憲 前駐ブラジル大使

平成18年9月より昨年9月まで丸4年ブラジルに在勤した。39年6か月の外務省生活で最も充実感、時には緊張感のある期間であった。ブラジルでの経験の詳細については、是非、別の機会に紹介させていただきたいと思っているが、ここでは、ブラジルから見た我が国の新興国外交の現状及び在り方について現場で考えたことや感じたことをご紹介したい。あくまで、ブラジル在勤経験者の視点からの素朴な「体験的新興国外交論」であり、新興国全般に関する十分な知見に基づくものではないことを予めお断りしておく。なお、本稿を執筆中、我が国は東日本大震災に襲われ、筆者はしばらくの間、他のことが全く頭に入らない状態に陥ってしまった。投稿を辞退させて頂こうとも思ったが、この未曾有の危機を受けて、我々として、強くて輝きのある日本を再建するためにも、新興国の活力を取り込むことが、今まで以上に避けて通れない重要テーマになるのではないかと考え、最後まで書き上げることにした。
本稿の結論は極めて月並みなものである。一言で言えば、我が国外交において、①新興国という新しい切り口からの外交に取り組み、高い優先度を与える一方、②新興国を十把一からげにすることなく、各国の特徴、相互の関係などを踏まえて、今まで以上にきめ細かい対応をすることが求められている、ということである。

1.新興国の台頭をどのように見るべきか
(新興国台頭による国際社会の構造的変化)
 新興国の台頭は、我が国にとってある意味で試練であるとしても、大きな機会であることを忘れてならない。否定的にとらえる必要はない。最近、「新興国における軍備増強が急速に進んでいる」、「新興国の資源食料の供給源として重要性が高まっているのは好ましくない」などといった新興国に対する警戒感をいたずらに煽る論調が増えているような気がするが、「もう少し勉強してもらいたい」と言いたくなる。
勿論、新興国台頭現象を絶対に過小評価してはならない。新興国経済の潜在力について色々な試算がなされているが、これらは決して誇張ではなく、むしろ控え目すぎる見積もりが多いのという印象さえ受ける。例えば、2003年時点のゴールドマン・サックス・レポートは、BRICs諸国は2039年までにG6(米日独英仏伊)を合計GDPで追い越す、としていたが、実際の経済規模の逆転はもっと早く起きるであろう。因みに同レポートは、ブラジルがGDPでイタリアを追い越すのは2025年としていたが、昨2010年に、この予測は現実のものとなった。
新興国の台頭によって出現する世界はG8中心の世界とは似ても似つかぬ姿形のものになるであろう。すでにG20が経済分野の主要フォーラムとしてG8に取って代わろうとしている。将来的には、米国プラス日欧という「白雪姫と7人の小人」のような世界ではなく、経済規模のみならず、人口、面積が大きく、かつ資源にも恵まれた、あらゆる尺度から見て大国と言える国々が世界の主導権を握る形になるであろう。その中で、米国、中国、インド及びブラジルが突出した存在になるであろう。

(新興国相互の関係)
現在のところ、新興国、とりわけ主要国の間に一定の範囲で共通の利害や目標が存在する。これまでも、G8サミット・アウトリーチにおけるG5(中国、インド、ブラジル、メキシコ、南アフリカ)、気候変動交渉の文脈におけるBASIC(ブラジル、南アフリカ、インド、中国)、ブラジル、インド、南アフリカからなる民主主義国グループのIBSA、またゴールドマン・サックス・レポートに触発されてつくられたBRICs諸国会合(注:2011年4月より南アフリカが参加。名称も「BRICs」から「BRICS」に変更)など、特定の目的を追求するためのグループが新興国の間で結成されている。これらの場は、新興国側が、国際場裡において自分達の声が反映されるよう、或は、国際社会の現状変更という共通のアジェンダの実現に向けて、結束することを主たる目的とするものである。逆に言えば、それ以上の共通目標は見えてこない。
一口に新興国と言っても、一枚岩のグループを形成しておらず、また、形成すべき必然性もない。極めて多様性のある国々からなっており、G7のように価値観を共有しているわけではないし、経済発展の度合いにおいても大きな差異が存する。更には、政治体制、経済構造、文化、人種、宗教等多くの面で大きな相違が存在する。OECD加盟国やその候補国もあれば、政治体制が全く異なる国もある。先行き不透明感の高い国も少なくない。BRICsだけを見ても、将来的見通しを含め、根本的なところで構成国間に大きな相違があることは明白である。
新興国にとって自国の社会・経済発展が至上命題であるが、このことは対外的な緊張を高める要因にもなりうる。今後、先進国との関係においてのみならず、新興国相互間の安全保障上或いは経済的な不協和音が多くなる可能性もある。現に新興国間の対立の火種は少なくない。新興国の中にはガバーナンスが必ずしも良好でない国もあり、新興国間の対立は、先進国間のものと比較にならないほど、制御困難で厄介なものになる可能性がある。いずれにせよ、今後、新興国間の結束のみならず、摩擦や対立が国際政治の動向を左右する重要な要因になりうることを十分想定しておく必要がある。
因みに、ブラジルは地理的な要因もあり、他の新興国と深刻な安全保障上の問題を抱えていない。しかし、関係がすべて順風満帆かというと、そうではない。カルチャーの違いから協調がうまくいかなかったり、経済関係が狭い分野に偏っていたり、一方が裨益する非対称な関係であったり、また、近隣諸国とは、貿易や投資をめぐるトラブルが後を絶たなかったり、いろいろ課題や懸案がある。

2.我が国の新興国外交は如何にあるべきか
(総論-欧米に後れを取ってはならない)
我が国は、新興国外交への取り組みを抜本的に強化すべきである。新興国へのパワーシフトは、かなり以前から始まったことであるが、在外から見て、我が国としてこの事実を正面から受け止めるのが少々遅れたように思えた。筆者がブラジルに赴任したころは、「BRICsはゴールドマンサックスのエコノミストが頭の中で考えたことに過ぎない」という見方が日本国内で少なくなく、「そもそも、BRICsの中に「B」が入っているのはおかしい」などとで言って憚らない人もいた。しかし、その後、BRICs諸国間の協調の制度化が見る見るうちに現実のものとなり、外務次官級会合、外相会合、首脳会議へとアップグレードされていった。BRICsの中における「ブラジル株」も相対的に上昇した。しかし、こういった動きに対する我が国の対応は、他の先進国に比し必ずしも機敏なものではなかった。
もとより、BRICs自体は基本的価値観をはじめ構成国間で根本的な相違が多すぎ、かつてのG7に匹敵するような役割を果たしうるフォーラムではない。新興国相互間の錯綜した関係は先に述べたとおりである。しかし、BRICs、IBSA等の新興国のフォーラムは国際社会の中で、グループとしても一定の重みを持った存在であることを正しく認識する必要がある。このような国際社会の新しい流れをいち早く読み、対応を考えるのが我が国外交の重要任務である。そういう意味で、現在、我が国が新興国外交に本腰を入れて取組んでいることを大変心強く思う。今後の我が国の対新興国外交において、横断的な取り組みと同時に、新興国間の相互関係を踏まえたきめ細かい国別の対応を期待したい。

(新興国との経済関係―無限の可能性と山積する課題)
新興国が世界経済の牽引車となっていることは先に述べたとおりであるが、その大きな理由はこれら諸国が大型プロジェクトの宝庫だからである。この点については、その質はともかくとして、日本国内でも情報が氾濫している。事実、新興国のインフラ・プロジェクトは途轍もなく規模の大きいものが多く、我が国のみならず各国の垂涎の的となっている。例えば、ブラジル石油公社(ペトロブラス)の向こう5年間の投資計画は何と20兆円に上る。1000億円単位の案件は、数えきれない。
新興国、特に、主要国は市場規模が大きく、自動車、エレクトロニック等耐久消費財では、既に、生産、販売で欧州G7諸国を上回りつつある。因みに、2010年の自動車販売台数は、中国が世界第一位、ブラジル、インドがそれぞれ第四位、第五位を占めた。エレクトロニックス関係でも多くの品目で中国、ブラジル、インドが世界のトップ5に入っている。
このような状況の中で、我が国経済が活力を維持するためには、新興国への展開が不可欠であることは明白である。しかし、新興国において外国企業が活動するのは容易なことではない。極端な官僚主義、理解に苦しむ不合理な諸制度、法的安定性の欠如、透明性の不十分さ等は多くの新興国で見られる障壁である。このような問題に対しては、粘り強く二国間、場合によっては、他の関係国と連携して改善を働きかけていくほかないが、経済連携協定(EPA)ないし自由貿易協定(FTA)体制の整備もビジネス環境整備の有力なツールになりうる。我が国は既に新興国とのEPA/FTAの締結を進めているところであるが、今後、実質的ニーズを反映した優先順位に基づき、より一層積極的な協定網整備を期待したい。
新興国における科学技術協力は日本として優位を発揮しうる最有望分野である。新興国は、単なるマーケットとしてではなく、日本が共同して技術開発を推進し、もって、ガラパゴス化を脱却するためのパートナーとしても有望である。日本の技術力は、多くの新興国において憧れの的であるが、ブラジルとの協力を一つのモデルとすることができるのではないかと考える。ブラジルは単なる技術の移転先としてだけでなく、科学技術分野における海外展開のパートナーとしても重要な位置を占めている。両国の緊密な協力が結実し、南米を中心に多くの国が日本のデジタル・テレビ技術を採用したことは周知のとおりである。抜群の技術吸収力と独創性に富むブラジルと組むことによって途上国のニーズに的確に応えるプロダクトを完成し、更に、新興国のトップリーダーとしてのブラジルの底力を借りて、第三国へ売り込むことができたわけである。現在、モザンビークで進められている農業分野の日本・ブラジル三角協力も、日本の資金協力と技術協力が契機となってブラジルで開発・蓄積された高度の熱帯農業技術をアフリカに移転しようというものであり、責任ある農業開発を通じたアフリカ及び世界の食糧安全保障への両国の共同貢献として極めて重要な意義を有するプロジェクトである。

(政治分野における対応~「G7対新興国」という構図を作ってはならない)
新興国、特にG20諸国は、国際社会における発言力を急速に高めているが、依然として、その新たな地位と影響力をどのように使うべきか模索している段階にある。新興国の国際社会における役割はまだ明確になっていない部分が多い。これまでは、G8体制に対する批判を声高に行うだけで、その振る舞いは責任あるプレイヤーのものとは言い難いこともあった。新興国同志の「お付き合い」、或いは、開発途上地域における主導権争いがこのような動きの背景にあったという面もあろう。例えば、権威主義的体制の諸国のみならず、一部民主的体制の国おいても、他国の人権問題を見て見ぬふりをすることがある。自国内の問題を意識して他国の人権侵害への言及を差し控えている国のみならず、脛に傷をもたない国にもそのような傾向がある。また気候変動問題でも、新興国の間で基本的利害が大きく異なるにもかかわらず、同一行動をとることがある。
ブラジルで強く感じたことは、我が国が「G7対新興国」という構図で国際関係をとらえるのは得策でない、ということである。このような発想で新興国に接すれば、結果として良識派諸国を含め、新興国を結束強化、新グループ形成の方向に追いやりかねない。過去においても、新興勢力の台頭は、現状維持勢力との対立を生み、戦争に至った例もある。我が国として、国際社会の基本構造が大きく変わる中で、民主主義、市場経済等の基本的価値を守ることが国益上最重要事項であるはずである。然りとすれば、新興国の中で、我が国と価値観、利害の一致が多い国々はどこか、という点を念頭に置いた外交努力をもう少し意識的に展開すべきなのではないか。これらの諸国が国際社会の平和と繁栄に責任ある立場から取り組むことを支援するためにも、首脳外交や大臣、高級事務レベルの政策対話を拡充することがとりわけ重要と考える。

(我が国の新興国外交とアジア)
アジアが世界の成長センターであり、我が国としてアジアの活力を取り入れながら、我が国自身の成長を実現すべきことは言を俟たない。しかし、我が国がアジアの中に引きこもってしまうようなことがあれば、その目的を達することはできない。アジア自体、域内で自己完結的に繁栄を持続することはできない。域外にアジアにはない強みを持つ諸国が存在し、アジアとしてもこれら諸国のポテンシャルを取り込む必要がある。アジアの新興国(特に中国及びインド)の旺盛な需要が世界的な資源価格高騰の大きな原因とされているが、ブラジルは「中国が持っていないものをすべて持っている」と言われる国であり、資源・食糧の需給緩和に貢献しうる余力を持つ国である。中南米やアフリカ諸国の資源・食糧、更には、ブラジルの技術力と資金力に裏付けられた資源開発力がアジアの将来の繁栄に密接に関わっていることに目を向けるべきである。また、政治面でも、アジアとして中南米の民主化の経験から学ぶ点が少なくないのではないか。このことは、中東・北アフリカの現状と中南米地域の政治的経済的な安定を対比すれば明らかであろう。

3.外務省に期待すること
今後、国際社会におけるG7諸国の影響力の相対的低下は避けられない。しかし、国際社会の安定と繁栄のために、現在の新興国に責任あるリーダーシップを発揮することを期待することができるかというと、当面十分な役割を期待することはできないと言わざるを得ない。まだこれら諸国から、新国際秩序に関するヴィジョンは見えてこない。かといって、これら諸国を異質な国として、距離を置くのは適切でない。我が国としては、新興国が今後、国際社会全体の利益ためにもっと汗をかくよう、積極的に国際社会の本流に取り込む、との発想で付き合うことが必要である。我が国は、開発途上国の間で広く尊敬を集め、アジアの一部以外では「負の遺産」を抱えていないという、主要先進国の中でユニークな立場にある。新しい国際秩序の中で我が国として果たしうる役割は非常に大きいものがあるということを正しく認識する必要がある。
新興国におけるビジネス機会は無限にある。我が国が優位を発揮できる分野も広範に及ぶ。しかし、インフラ輸出をはじめ海外での売り込みを成功させるためには、優れた技術をアピールするだけでは不十分である。官民連携により、トータルパッケージを魅力的なものにし、効果的に売り込むことが不可欠である。そのためにはトップセールスが決定的な重要性を持つ場面があることは言うまでもない。
現在、我が外務省が取り組んでいる新興国外交推進体制の抜本的強化は非常に時宜に適っている。新興国という切り口から、政治、経済、経済協力等各分野を含め横断的な対応を積極的に進めていただきたい。従来の機能局、地域局のみによる縦割りの対応では不十分である。十分な外交的効果を上げるためには、首脳外交及び閣僚外交が不可欠である。また、戦略性をもって高級事務レベル(次官級)対話を組織的に展開することが望まれる。その際、相手国の国際社会における位置づけを踏まえて優先度を決めるべきである。なお、これまで、多くの国との間で「戦略対話」の名を冠した場が設けられているが、この言葉は、いささか使い古されている感があり、空虚な響きすら持つようになっているような気がする。我が国にとって真に優先度の高い国はどこか、今一度見直すべきではないか。
さらに、我が国は、人材、予算をはじめ外交的リソースを速やかに、かつ、思い切った形で新興国にシフトしなければならない。大型プロジェクトなど魅力的なビジネス機会の相次ぐ出現に伴い、我が国企業の活動の新興国シフトは急ピッチで進んでおり、官民連携による我が国の利益確保の必要性が高まっているからである。特に、インフラ輸出案件は在外公館として片手間でできる案件でないことを十分理解していただきたい。各在外公館として取りこぼしが許されず、総力を挙げて取り組まなければならない分野である。今後のニーズの急増を先取りして大胆な人員増を実行するとともに、現地語と現地事情に精通した人材の活用及び育成に優先的に取り組んで頂きたい。現状では、人員不足、予算不足のため、本来やるべきことが十分できないことがままある。残念でならない。
最後に、外務省の現役時代に感じたことを付言したい。役所も職員も海外勤務に関する固定観念を捨てなければならない。外務省職員の間に「先進国は好ましい任地」、「途上国はご苦労様ポスト」という考え方が根強く残っているように思う。その原因は情報・知識不足にあるのではないか。現実には、現在の新興国には仕事のやりがいのある任地が多く、医療環境や治安の問題はあるにせよ、総合的な生活の質の面で、先進国に遜色がないところが増えている。新興国への人材配置を検討するにあたっては途上国勤務に関する基本的考え方を改め、大胆な傾斜配分を実現するよう引き続きご尽力願いたい。 (2011年4月25日寄稿)




『東日本大震災と地球環境問題』2011-4-21


『東日本大震災と地球環境問題』



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                    西村六善(元地球環境問題大使)

目の前の事態を鳥瞰してみよう…エネルギー資源を他国に依存するのはそもそも危険だ。地球環境を守る為にはエネルギーの脱炭素化が必要だ。再生可能エネルギーを軸とするグリーン投資はこの双方を実現する…のみならずグリーン投資こそが21世紀の世界成長を起爆し、第二次産業革命の旗手になる…こう云う信念から世界はグリーン投資に驀進している。先進国も新興国も。

香港上海銀行(HSBC)の最近の分析ではグリーン・エネルギー投資は今後10年間で現在の3倍になり、最大の推進者、そして受益者は欧州、中国、米国の順だと述べている。原子力は今日全球電力の15%を占めているが、水力と再生可能エネルギーを合体した自然エネルギーは既に20%を占めている。世界中が温暖化防止とエネルギー安保にコミットして膨大な投資をしている事実からして、今世紀の後半には自然エネルギーが世界の電力生産の主流となるだろう。その結果、原子力は限界的な存在となろう。要するに原子力は推進派の「強い思い」に拘わらず「将来性のないつなぎ」でしかないのだ(注)。人類のエネルギー問題の最終解決は原子力ではなく再生可能エネルギーか核融合なのだ。

(注)2011年4月6日、小宮山三菱総研理事長は日本記者クラブで「原子力は20世紀後半から21世紀前半にかけてのつなぎのエネルギーであり、自然エネルギーが中心になる。今回の福島原発事故は自然エネルギー加速のきっかけになる」と述べている。

「つなぎ」であるにも拘らず既に深刻な問題を将来の人類に課している。放射性廃棄物の管理はこれから数千年以上、10万年も続く。将来の人類は自分たちには必要のない原子力エネルギーの後始末を10万年にわたりやっていく必要がある。地中深く埋めたガラス固化体は安全だとされている。しかし15メートルの津波は想定外であった。どうして10万年間ガラス固化体には絶対に想定外のことは起こらないと断言できるのだろうか?

21世紀の人類が少しばかり「まとも」ならば、後世に迷惑をかける放射性廃棄物の量を最小限に押さえて行くべきだ。日本でも全電力の30%近くを賄っている以上、原発は当面は維持しなければならない。安全を徹底して強化し、老朽原発は順次退役させ、天然ガスなどで急場をしのぎ、省エネに更なる努力を傾け、再生可能エネルギーの急速で大規模な導入へ舵を切るべきだ。

日本では今まで再生可能エネルギーの大量導入は忌避されて来た。安定的電力供給が出来ないと云う理由だ。しかし真の理由は明治以来日本の「電力の供給は中央で集中管理し支配する」と云うDNAだ。原子力はこのDNAに合致するのみならず「クリーン・エネルギー」だった。だから政・産・官・学・一部メディアの5者複合体によって強い熱意で推進されて来た。これに対して分散電力である再生可能エネルギーは電力の地産地消を促し、地域経済開発を促し、地域振興と地域主権を推進するものであって、中央統制体制を弱体化させるものであった。分散電力は文字通り中央管理を分散させるものだった。

福島原発事故以降、本来的に問われているものは原子力を継続するかどうかではない。原子力をどうするかは最早地域の国民が決着をつけるだろう。本質的問題は寧ろこのDNAだ。このDNAが生き続け、電力のような社会システムの基礎部分に独占体制が居座り続けるのかどうかだ。電力自由化問題が再度俎上に上るかどうかだ。日本の電力料金は海外に比して2倍だ。電力自由化が進んでいないことが日本の高コスト体質を生んでいる。最も重要な電力と云う基礎商品に産業も家計も選択の自由がない。だから計画停電のような計画経済が罷り通る。国民の大多数は「そこそこの品質」でも安ければそっちを買いたい所を、0.1秒たりとも電流が断絶しない世界最高の品質の電力を国際価格の2倍も払って受忍してきた。

要するに電力の中央管理DNAの周辺にも上記の5者利益複合体が存在している。日本はとどのつまりこのDNAに背馳しない範囲内でしか行動して来なかった。石炭等の化石燃料への依存もそうであったし、原子力への傾斜、自然エネルギー忌避もそうであった。その過程でエネルギー自給率は僅か4%に低迷し、日本経済の高コスト体質を温存し、日本企業の収益機会を奪い、地産地消で地域振興を目指す動きに背を向けてきた。国際的には温暖化問題で不自然な消極姿勢を取り、グリーン技術産業革命で主要競争国に後れを取るに至った。

以前からこのDNAに風穴を開け、電力の自由化を実現しようとした官僚は存在した。しかし彼らは敗退した。高コストへの批判は結局国民的議論にならなかった。国民は従順であった。メディアが気候変動防止や電力自由化への正論を論じようとすると電力を貴重なスポンサーとする広告局から横やりが入った。これが紛れもない現実だった。今回のような歴史的悲劇を経ても日本のような国際国家が懲りずに電力部門での非市場性を温存して行くのか?これが真の問題だ。

ところで、再生可能エネルギーをそれ程急速に且つ大量に導入できるのか?今日ドイツの再生可能エネルギー由来電力は全電力供給の17%を占めている(2010年の実績。ドイツ環境省BMU 2011年3月16日発表)。今後10年以内に35-40%にする計画だ。米国でも2010年実績で自然エネルギーは一次エネルギーの11%を占めた。米国エネルギー省はこの趨勢からして原子力を2011年内に追い抜くと推測している(米国エネルギー情報庁の2011年3月付エネルギー月報)。世界で7番目のGDPを有するカリフォルニア州のブラウン知事は2011年4月12日、2020年までに同州の電力の1/3を再生可能エネルギー源とする州法案に署名した。これにより、2010年までに20%の目標が2020年で33%になる。

日本はどうなっているのか? 現状では日本の総発電量のうち再生可能エネルギー由来分は僅か1%だ。水力を加算した自然エネルギーではやっと10%になる。これに原子力を加算して「ゼロ・エミション発電」と云う日本独自のカテゴリーを新設し、これを現状の34%から2030年に70%に引き上げることにしている(2010年6月「エネルギー基本計画」)。この内、原子力は50%を占めることになっているので、自然エネルギーだけなら、2030年にやっと20%になると云う「穏健な」目標だ。原子力は急速に伸ばすが自然エネルギーは「程々に」と云う姿勢がはっきりしている。中央が日本のエネルギーを差配しようとするDNAが依然底辺で効いている。

これだけ出遅れているから日本が欧米に伍して急速に再生可能エネルギーを大量導入することは難しいだろう。その上、他国の顕著な実例を引用すると国情が違うからと反論が来る。然り…ドイツは原子力忌避、エネルギー安保、国際競争力強化という国策に立脚して、再生可能エネルギーへの最も先進的な固定価格買い取り制度から始まり、炭素市場の開設、大規模なグリーン投資、カネのかからない多様な誘導法制の実施に至るまであらゆる努力をしている。ドイツは日本より国土が広いとか大西洋に面する風況が良いといったことは視野狭窄の議論だ。エネルギー安保と温暖化防止を促すグリーン投資はコストではない…それどころか それは「成長と雇用を生む自己利益」だという信念。それに基づく政治意志と賢明な政策手段。透明な国民議論。こう云うものがあるかどうかが問題だ。然り。国情は明らかに違う…

しかし、我が国にも希望の萌芽はある。大規模な洋上風力発電は原発に代置できる発電能力がある。日本発の先端技術も存在する。太陽光発電は中国メーカーの巨大投資などを背景にコストが大幅に低下している。日本の休耕田を太陽光パネルで敷き詰める構想もある。昨年6月に閣議決定した「新成長戦略」は並々ならぬ用語を使って再生可能エネルギーの急速拡大を謳っている。たった1年前に唱えたお経に魂を入れる時だ。再生可能エネルギーの急速導入なんぞは出来る筈がないと冷笑する時でなく、昨年6月に唱えた熱意を思い出し断固行動する時だ。

東日本大震災と原発事故は日本の外交に大きな示唆を与えている。それは日本がエネルギーの外国依存を脱却する可能性を開くものだ。近世史初めて日本は独自の価値観で外交を進める機会が訪れようとしている。自然エネルギーを主流として持続成長を保障して行くことは、単に地球の温暖化の悲劇を回避するためだけではない。


(2011年4月21日寄稿)



「イラクの現状と将来」 2011-4-11

『イラクの現状と将来』


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  前駐イラク大使 現在イラク関連ビジネスコンサルタント 小川 正二



1. イラクへの関わり
筆者は昨年11月に駐イラク大使を最後に外務省を退職しましたが、外交官生活の最後の期間、イラクの戦後復興に深く関わってきました。最初は2004年から5年にかけてイラク、在サマーワ外務省連絡事務所長として自衛隊と共に南部イラクの人道、復興援助に関わり、そして2008年から約2年4か月に亘り駐イラク大使として首都バグダッドにおいて勤務しました。
両方ともイラク戦争後の混乱時期であり、不安定な治安状況の中、厳しい勤務環境下での勤務生活でしたが、イラク戦争と戦後の復興という歴史的事業に携わるという高揚、準戦時下での勤務、生活という特別な緊張感、そして外交官としてやりがいのある仕事をやっているという充実感を感じながら任務を全うすることが出来、一種の達成感を持って外交官としての最後の期間を終えることが出来たことは幸せなことだったと感じています。


2. サマーワにおける経験
日本の自衛隊は2004年2月より南部イラク、ムサンナ県の首都サマーワにベース
キャンプを設け、南部イラクの人道・復興援助に従事しました。同時に外務省も在サマーワ連絡事務所を同キャンプ内に設置、外務省員5名が常駐し自衛隊と協同して人道・復興援助の実施に従事しました。
  自衛隊と外務省の協同作業による援助の企画立案、実施という初めての試みであり、また極めて緊張した、特殊な環境の下でのオペレーションでしたが、全般的には非常にうまく成功したオペレーションだったと感じています。
  その第1の理由は自衛隊が地元の関係に非常に気を遣い、県政府、治安当局、メディア、そして有力部族、住民一般と良好な関係構築に努めたことです。このことは、駐留中一人の人的被害も無く、無事に復興援助の使命を完遂することを可能にした最も重要な理由であったと考えます。筆者も記憶しているのは、定期的に地域の部族長や幹部を招いた昼食会の開催、地元メディアへの定期的ブリーフィング、地元住民との交換会等への出席でした。
  第2には自衛隊と外務省との密接な情報交換、意思疎通体制の構築、維持がありました。具体的には、原則として毎晩その日の作業が終わった時間に復興支援部隊幹部と外務省連絡事務所要員との打ち合わせを行い、お互いの情報をシェアーするとともに、行動計画の打ち合わせ、新しい案件についての協力について話し合いました。また、イラク側との各種協議や援助関係の行事にも共同で参加しました。このようにして、自衛隊の有する人的な資源と外務省の有する資金力(ODA)を組み合わせてユニークな協力が出来たと思います。
  上記のようなイラクにおける軍民の協力は戦争後のイラクという特殊な状況の中で行われたものであり、どこでも可能というわけではありませんが、紛争地における復興援助、ネーション・ビルディング一つのモデルとして参考になるように思われ、外務省としても貴重なinstitutional memoryとして引き継いでいくべきものと考えます。


3.大使としてのバグダッド勤務を通じて見たイラクの現状と将来
大使としてのバグダッド勤務を通じイラクに010年10月までバグダッドに駐在しました。2005年~2007年中旬まではイラクの情勢は最悪の状況にありましたが、2006年の終わりから始められた米軍増派、一部スンニー派部族の米軍、政府への協力への転換、シーア派民兵組織への政府軍の攻勢という3つの要因により、2008年には漸くイラクの治安情勢は改善に向かい、筆者が勤務を開始した2008年半ば以降は普通の外交活動が出来る状況になっていました。筆者が大使として在勤した2年4か月を通して観察したイラクという国の現状と将来の見通しは次の通りです。
(1)イラクの現状  
一言で言えば、イラクは今本格的な安定化へ向かう正念場に差し掛かっているものと思われます。2009年には統一地方選挙、2010年には国政選挙を無事に成功裏に実施しました。筆者も国際オブザーバーとしてこの2つの選挙現場を視察しましたが、民主主義の歴史が浅いことを考慮すれば極めて立派な選挙だったと考えられ、各国国連も同様な評価をしています。事実不正な投票が行われた様子はほとんどありませんでした。また、この数年の傾向として、宗教色、宗派色を薄めた政党乃至政治グループ化が顕著となりつつあります。勿論シーア、スンニー、クルド系という主要グループの色分けはイラク政治における基本的なファクターとして厳然として存在することは事実ですが、これを超えてのグループ化が徐々にでも強まりつつあることも事実であり、イラク式民主主義の成熟にとって好ましい傾向であると言えます。
昨年の国政選挙のあと新政府の樹立までに約9か月の長期間を要し、政治の不安定化が危惧されましたが、12月に漸くマリキ首相の再任で合意が成立、主要政治グループが全て参加する形での新政権が発足し、イラク人自身の手による政権移行が実現しました。新政権の課題は色々ありますが、何と言っても電力、水などの民生の向上と雇用の促進のための経済開発です。これが今後のイラクの政治、治安の安定に決定的に重要です。
イラク戦争後、イラクの政権はシーア派が主体となり、宗教色の強化、イランの影響力の強まりが心配されましたが、筆者の見るところでは、これはそれほど心配ないとみています。イラクのシーア派の人々、政治指導者は基本的に穏健かつ現実的な人たちであり、イラクの政治がイランのような宗教色の強い原理主義的なものになる可能性は小さいように思います。外国との経済関係についても基本的にオープンな考え方を持っています。また、イランの影響についても、イランが一定の影響力を持っていることは否定できませんが、イラクがイランの属国化するようなことは近い将来ありえないでしょう。イラクのシーア派はアラブ人であり、ペルシャ人のイランとは民族的な違いからくる強い対抗心が存在しています。
(2)イラクの将来
  米及び多国席軍のイラク進攻によるサダム・フセイン政権のレジーム・チェンジは進攻の理由とされた大量破壊兵器が発見されなかったこと、更に当時のイラク政権とアルカイダ等のテロ集団との関係が立証されなかったこと、そして戦闘とその後の混乱による多大な人的、物的被害により、その判断が厳しく批判されているのはご承知の通りです。当時のブッシュ政権の政策判断が正当化されるか否かは今後の歴史の判断に委ねられると思います。然し、戦争の是非は別にして、現在のイラクの状況を見れば、イラクがそこそこに安定した穏健なそして経済的にも発展した国になる希望が漸く見えてきたように感じられます。
勿論イラクにおける民主主義はまだまだ完全なものではなく、政治も治安も問題がなくなった訳ではありませんが、少なくとも少しずつ前進する可能性があり、今後2~3年が極めて重要に時期、言わば正念場になるでしょう。
現在、中東においてはチュニジア、エジプトに続きリビア、シリア、バーレーン、イエーメンなど多数の国において民主化や政権交代の要求を中心にした民衆の運動が広がっていますが、イラクにおいては政権交代ではなく政府の実績に対する要求であり、イラクは現在の中東地域において最も民主化が進んだ国となっていることが伺えます。


(3)日本との関係
  このような情勢の安定化に伴い、外国企業のイラク進出への機運も高まり、日本企業も徐々に活動を開始、日本政府もこれを後押しするための種々の活動を行いました。2回にわたる経済フォーラムの開催、経済ミッションのイラク訪問、投資セミナーの開催等、イラクとのビジネス関係強化のためのイベントを行い、イラクの現状と今後の経済・ビジネス関係強化に向けての布石を打つ努力を行いました。これまでのところ、他国の企業に比べ、日本の企業は治安状況に対する不安感が強く、イラク進出について慎重な姿勢を取っています。イラクにおいては戦争前の1980年代に多数の日本企業が電力、建設、製造等の分野で活発な経済活動を行った実績を通じ、日本企業に対しては高い評価があり、戦後の復興についても日本企業からのより積極的な貢献を期待しています。今後、日本の企業がイラクの情勢をより正しく認識し、イラクの市場としての将来性とリスクを冷静に評価してビジネス活動が本格的に動き出すことを期待しています。


                                        (2011年4月5日寄稿)

『2011年の全人代の主要報告を読んで』 2011.4.04

『2011年の全人代の主要報告を読んで』


                          元駐中国大使 國廣道彦


私は1995年に退官しましたが、その後も毎年全人代の三つの主要報告書を全文読んで印象を まとめて来ました。中国語ができない元大使の定点観測のようなものです。今年の感想文は次の通りです。中国の日々の変化が余りにも大きいので私ではついて 行けないと吐露もあるかと思いますが、最近霞関会報で中国が話題になることが少ないように思いますので、あえてご参考まで。

1. 5カ年計画について
(イ) 中国は今年から「第12次五カ年計画」に入る。そこで先ずこれまでの5年間の

  • 回顧をしているが、GDPが年平均11.2%伸びて、昨年39.8兆元に達したのは確かに偉業である(1元=12.34円)。
  • その間に有人宇宙飛行や世界一高速のスーパーコンピューターなど先端技術の目覚しい進展があ り、軍の近代かも著しかった。食糧生産は7ヵ年連続の増産で、「三農」に累計3兆元近くの投入を行なって農民一人あたりの純収入も5、919元(都市住民 の可処分所得19,109億元)になったと言う。5年間で鉄道を1.9万キロ、道路を63.9万キロ(うち高速3.3万キロ)新規開通したという実績も目 覚しい。
  • 5年間でGDP単位当たりエネルギー消費量を20%削減するという目標は19.1%の達成に終ったがこれも悪くない実績である。

(ロ)三報告は、同時に発展のアンバランス、持続性などの反省点も簡単に指摘し、

  • 所得分配の 格差、住宅価格の急騰、農地や土地の違法収用、腐敗汚職などにも触れている。しかし、5年間の成果に対する賛辞は、我々が平素聞いている中国社会の問題を 考え合わせると、かなり白々しさを感じるところもある。

(ハ)今後の5年間の成長目標は7%と前期より1%低めに置いている。

  • 過去5年間は8%の目標に対し11%の実績であった。これからの5年間も目標を上回る成長を達成するかもしれないが、次のような具体的な計画内容を考えれば楽観してはいられないだろう。

(ニ)発展パターンの転換と経済構造の調整を急ぐとしている。例えばサービス業の

  • GDPに占 める割合を4ポイント引き上げる。自主イノベーションを推進するために研究開発費をGDP比2.2%に高める(2010年は1.75%)。都市部の新規就 業者数を5年間に4500万人増やす。都市と農村の住民の収入をそれぞれ7%超増やす。社会保障のレベルを引き上げる。計画出産と言う基本政策を堅持す る。そして、インフレ率を4%程度にとどめる、等々を掲げている。

(ホ)これらの政策をうまく実現することはこれからの中国には容易なことではあるまい。

  • なお、「改革開放を全面的に進化させる」と言う中で、一言「社会主義的民主主義を拡大」させ ると言っているが、これが何を意味するのか分からない。昨年末から温家邦首相が政治改革なくしては経済発展なしと何度かの機会に意見表明したが、大きな支 持は得られなかったようであり、彼の政治改革もその内実は党内民主化ないし行政改革を意味しているようである。

2. 今年について
(イ)今年については、GDP成長率の伸びを実質8%前後と程度と想定している。

  • 昨年と同様である。しかし、注目されるのは財政の支出構造の変化である。中央の歳出総額は5兆4360億元で前年度比12.5%の増である。その主要項目を見ると次の通り。

① 教  育 2964億元  +16.3%
② 科学技術  1300億元 +12.5%
③ 文化・スポーツ
    ・メディア 
374億元 +18.5%
④ 医療・衛生  1726億元 
+16.3%
⑤ 社会保障雇用対策  4414億元 +16.6%
⑥ 住宅保障  1293億元 +14.8%
⑦ 農業林業水産関係  4589億元  +18.3%
⑧ 国土資源気象関係 4455億元 +22.9%
⑨ 資源環境保護 1592億元  +10.3%
⑩ 交通運輸  3867億元
             +10.3%             

⑪ 資源探索・電量・情報等 

744億元 +10.0%
⑫ 食糧・食油等備蓄 1130億元  +13.9%
⑬ 商業サービス等 706億元 +3.3%
⑭ 国防  5830億元 +12.6%
⑮ 公安安全 1617億元  +9.6%
⑯ 一般公共サービス 1119億元  +4.3%
⑰ 国債利払い  1840億元 +21.7%





(ロ)教育や医療、社会保障など大衆の生活に直結する支出は1兆510億円で

  • 18.1%の伸びである。また「三農」にたいする中央財政の投入も9885億元で、民生の向上のための財政投入政策をかなりはっきりと示している。
  •  「三農問題」に対しては政府の投資は2006年以来3517元、4318元、5956元、7353元、8560元と確実に増やしている。
  • (注)1996年の分税制の導入以来、地方財政が疲弊したといわれてきたが、昨年度を見る と、中央の歳入総額は4兆5973億元で、それから地方へ租税還付金と移転支出を3兆2350億元支払っている。他方、地方レベルの収入は4兆610億円 あり、これと中央からの支出を加えると中央の歳入総額は7兆259億元であった。(もっとも、地方の歳入のその半分前後が土地売却であったとも伝えられている。)

(ハ) 中国の経済成長は投資の増に依存しすぎと基本的問題を抱えているので

  • 消費を増やすことは経済構造転換の大きな眼目である。今年度都市住民の収入増を経済発 展と同じ率にし、都市住民の一人当たりの過分所得と農村住民の純収入の伸び率をいずれも8%以上にするとしている。公平の見地からも好ましい(因みに昨年 農民の収入増加率が歴史上始めて都市住民の可処分所得の伸びを上回った)。しかも小麦、米の買い付け価格を引き上げ、都市・農村の最低生活保障基準を引き 上げ、低家賃住宅を1000万戸新築する(農村の老朽家屋150万戸を改修)、都市、農村の医療補助を一人当たり120元から200元に引き上げる、企業 定年退職者の養老年金の月額を一人当たり140元程度増やす、等々民生向上の政策を打ち出している。これでインフレを4%程度の抑えうるのだろうか。

(ニ)今年の社会消費財小売総額の伸びを16%と想定しているが、全社会の固定

  • 資産投資は18%伸びる見込みだと言う。投資主導型の経済構造は変わりそうにない。(ここでも小売売上高の半分近くが不動産購入だと言う事実がある。)

(ホ) 国防支出は5836億元で、12.6%増と、再び二桁の伸びに戻った。昨年の

  • 7.3%増は一年限りの例外であった。軍隊の現代化建設と将兵の生活待遇改善 に当てると説明しているが、ステルス戦闘機の配置や空母建設などに向けて、今後も二桁増が続くのであろう。因みに中央の財政支出における国防支出の割合は 10.3%で、このほかに公共安全支出が3.0%ある。(ただし、公安関係は地方の支出が圧倒的に大きくそれと合わせると今年は国防支出より大きくなっている)。

  政務報告の国防に関する部分に、「軍隊を法律に基づいて厳格に納めることを堅持する」 という一文がある。これは昨年もあったが、それまでにはなかった。何を意味するのであろうか。昨年はこれに続いて、「軍隊の正規化のレベルアップに取り組 んでいく」というわかり難い文章が続いていた。思い出すのは2001年の朱鎔基の政務報告の中で、「軍隊に対する党の絶対的指導および軍建設の正確な方向 付けを確保する」と言う文章があり、それは1997年の第15回党大会の江沢民の「軍隊は党の絶対的指導を堅持し、積極防衛と言う軍事戦略方針を堅持し」 という発言に呼応するものだと解していただが、その後姿を消していた。人民解放軍は党の軍であって、国の軍ではないとしながらも、「法律に基づいて厳格に 治める」と言うのは党の指導を再強調するものであろうか。または軍の中の腐敗を抑えようとするものなのだろうか。

(ヘ)今年の全人代は北アフリカの「ジャスミン革命」発生の中で開催された。

  • 閉幕後の記者会 見で温家宝首相は中東民主化の波及を強く否定したが、党内序列第二位の呉国邦全人代常務委員長がこのようなことが中国で起きれば内乱になると言う異常な表 現を使って警告した。その後も中国のネット規制は厳しさを加えている。指導部は内心強い警戒心を持っているのであろう。

その前から、中国は民主活動家の取締りを強化し、マスコミに対する報道規制の強化が目立って いた。中国の法制度に詳しいロジャー・コーエンは昨年の党大会で明らかに大きな政策転換が行なわれたと見ている。今年の予算の民生関係の大盤振る舞いもその裏面だと言うことなのであろう。「和諧社会」を標榜してきた胡錦濤政権は目下瀬戸際に立たされているという感じがする。 
(2011年3月23日執筆)



福島原発事故から何を学ぶべきか2011.3.31

『福島原発事故から何を学ぶべきか』


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        元原子力委員会 委員長代理 遠 藤 哲 也


原発事故への対応は現在進行中であり、筆者の観察、評価等は現時点でのとりあえずのものであること、かつ全くの私見であることを予めことわっておきたい。

(何が起こったのか)

 日本時間2011年3月11日14:46に起った日本史上最大のマグニチュード9.0の巨大地震と大津波は日本の東北及び関東地方に壊滅的な被害を及ぼした。又、この地震と津波は東京電力福島第一原子力発電所も襲い、深刻な被害を引き起こした。これは近年では1986年のチェルノブイリ事故に次ぎ、1979年のTMI事故に匹敵するあるいはそれ以上の規模で、IAEAの国際原子力事象評価尺度(International Nuclear and Radiological Event Scale-INES)上、8段階のうち上から三番目の深刻な「レベル5」と暫定的に評価されている。(レベル「6」ではないかとの意見が出ている。)
 福島第一原子力発電所には6基の原子炉が有るが、そのうち四基が壊滅的な被害をこうむった。原子炉自体は、近年補強された耐震性強化のおかげで地震の衝撃には何とか耐えたが、続いて襲って来た大津波によって電気系統が破壊された。津波の高さは、14mを超えるこれまでの想定(最高4m)をはるかに上回るもので、これによって外部電源が切断されて、外部からの電気の供給が途絶し、緊急冷却装置は作動せず、又バックアップのための冷却用ディーゼル発電機が全て破壊されて、原子炉は電気のない裸同然の状態になった。又、冷却用海水ポンプのモーターも破壊されてしまった。
 原子炉事故への対処には、「止める」、「冷やす」、「閉じ込める」の三つが鉄則といわれているが、このうち原子炉を「止める」ことには成功したので、チェルノブイリ事故のような原子炉の暴走は避けることが出来た。しかし原子炉、使用済燃料プールを「冷やす」ことについては、電源喪失のため注水及び冷却水の循環が出来ず、外部からの海水あるいは真水の注入により目下悪戦苦闘している。放射性物質を「閉じ込める」については、原子炉建屋の水素爆発などにより、よう素131やセシウム137などの放射性物質の外部への流出が続いている。
 目下、「冷やす」「閉じ込める」の対応に懸命に努めており、事故の最悪の事態は一応回避したと考えるが、事態の収拾についてはまだはっきりした目途が立っておらず、長期戦を覚悟しなければならないだろう。

(事故から何を学ぶべきか-―評価と気付きの点――)

1、 原子力政策への影響
・今回の事故は原子力技術の先進国として定評のあった日本で起こったということもあって、世界中で非常に大きな関心を呼んでいる。「外国メディアの関心は、地震・津波災害に対してより、はるかに大きい。(アジア諸国の中には、事故の特集号を出したところさえあった)当初は、特に地震と津波については、秩序を乱さない日本、団結力の強い日本、冷静な反応等と評価する向きもあったが、原発事故については懸念を示す声も出てきている。
 反応や影響は国によってかなり違うが、一般的に言って原子力発電に慎重になって来ている。特に、これから新たに原子力発電を立ち上げようとしている国に慎重さが目立つ。このことはTMI事故やチェルノブイリ事故の後遺症を想い出せば想像できるであろう。折角の「原子力ルネッサンス」は影をひそめ、当分の間は「冬の時代」を迎えることになるかもしれないし、日本の原子力輸出にも冷水をかけることになるかもしれない。
 「どこかで事故が発生すれば、それは地球全体の事故となる」のである。
・日本の原子力政策に対して、厳しい打撃を与えることは間違いない。現在、定期検査などで停止中の原発の再開さえ容易でないし、建設中の原発についても今後の作業進捗に困難が予想される。ましてや新規建設については少なくとも当分の間は悲観的にならざるを得ない。核燃料サイクル、特に第二再処理工場、実証高速炉については、民間の財政負担能力の観点からも本格的な検討を行うことにさえ抵抗があるかもしれない。
 だが、日本にとっては、エネルギー安全保障、地球環境対策の観点から原子力の平和利用は不可欠である。省エネに努め(関東地区は相当長い間計画停電が続くであろう)、再生可能エネルギーの開発に邁進しようとも、原子力発電なくしては日本経済と日本社会はやってゆけない。原子力発電は、すでに総発電量の約30%を占めており、原子炉の増設、稼働率の向上こそ期待され、原子力発電の縮減は直ちに経済活動と生活水準の低下につながることは必至である。
 従って、傷ついた原子力発電をどうしても立て直さればならないが、それには何よりも失われた国民、特に地元の人々の信頼を取り戻さなければならない。それにはどうすれば良いのか。

2、原発の安全の根本的な見直し
「安全」は、「核不拡散(保障措置)」、「核セキュリティ」とともに原子力平和利用にとって最も重要な要素であり(「3S」)、根本的な見直しを必要とするのではないか。
・これまでの地震等による事故について、関係者はいつも想定外であったという説明で対応して来たが、悪く言えば、これは言い訳、責任逃れ、専門家としての立場放棄ともとられかねない。想定をどのレベルまで上げるかは、コストとのからみもあって難しいところがあるが、念には念を入れよとの観点から再検討すべきである。
・すべての電源が切れたことが今回の事故の大きな原因とされているが、これは原発安全の基本である深層防護(defense-in-depth)の失敗を示しているように思われる。根本的な再検討の対象とすべきではなかろうか。
・政府の原子力安全規制体制を整理、強化すべきである規制機関である原子力安全・保安院が原子力の推進を所管する資源・エネルギー庁と同一の大臣の下に置かれていることは問題であるし(規制と推進の分離)、又内閣府の原子力安全委員会の役割は中途半端である。一本化し、独立行政機関とすべきである。
・安全神話を捨て初心に帰るべきである。日本の原子力界は、いつの頃からか自信過剰、換言すれば優等生意識に毒されていて(本当の優等生は自分を優等生と言わないものである。)IAEAをはじめ第三者の意見に耳を傾けない嫌いがある。(旧ソ連についてはそういうような批判があったが、日本についてもそのような声があることを知っておくべし。)常に謙虚な態度が必要である。
・今回の事故は、核セキュリティ上の原発の根本的欠陥を露呈したといえる。安全の根本的見直しに際して、核セキュリティの観点を十分に配慮すべきである。
3、情報の伝達
 適格な情報の迅速な伝達が絶対に必要であり、かつ日本国民及び国際社会に不信感を抱かさないことである。
・原子力は素人が理解するのに極めて難しい分野であるが故に、出来る限りやさしくかつ誤解を招かないように説明すべきである。今回の事故についてのこれまでの報道、解説をみると、局部にやたらにくわしく、全体と関連づけられていないケースが多いようにみうけられる。
 放射性物質流出については、市民に不必要な不安感を与える報道が少なくない。
・情報の伝達では政府関係及び、直接当事者である東京電力の一次情報が最も大切であるが、果たして上記の期待に答えていたであろうか。情報の伝達が適切に行われていたとは思えないし、大切な情報が共有されていなかった事例も少なくない。政府関係の情報は、いつも不透明であり(disturbingly opaque)、影響を過小評価しているとの先入観があり、特に外国筋にその傾向が強いので十分に留意すべきである。
・国際社会の物心両面でのすばやい援助には感謝の言葉もない。他方、日本はその援助を適切に受入れたであろうか。又、今回の事故に対する在日外国人社会の反応(外国人の大量離日、在京外国公館の引き揚げなど)はいささか異常であった。その理由の一つは、適確な情報の不足、外国メディアから入ってくる誇張された情報などのせいではないかと思われるが、外国人への情報提供には一層の意を用いるべきである。


(2011年3月31日執筆)

平成21年8月末の衆議院総選挙に係る選挙無効請求事件について3月23日に言い渡された最高裁判決の意味するもの2011-3-31

『平成21年8月末の衆議院総選挙に係る選挙無効請求事件について
3月23日に言い渡された最高裁判決の意味するもの』


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     元外務省外務審議官、元最高裁判所判事、現在弁護士 福田 博 氏   

 3月23日最高裁判所は、一昨年8月に行われた総選挙のうち選挙区制で行われた部分については違憲状態にあるとの判決を下した。判決言い渡しの際、裁判長(最高裁長官)が口頭で述べたところによれば、投票価値の平等に関する判決理由の骨子は、「本件選挙当時において、いわゆる区画審設置法3条2項の一人別枠方式に係る部分は、憲法の投票価値の平等の要求に反する状態に至っており、この基準に従って改正された公職選挙法に定める選挙区割りも、憲法の投票価値の平等の要求に反する状態に至っていた。(中略)。衆議院議員選挙における投票価値の平等の要請に鑑み、事柄の性質上必要とされる是正のための合理的期間内に、できるだけ速やかに一人別枠方式を廃止し、区割り規定を改正するなど、その要請にかなう立法的措置を講ずる必要があるところである。」という内容である。
 裁判所の用語はなかなか難解であるが、要するに、衆議院議員の選挙区選挙において小選挙区制が導入された際、あわせて導入されたいわゆる「一人別枠方式」(注:都道府県にあらかじめ議員定数を1議席ずつ配分し、残余の議席数を都道府県の有権者数に応じて配分する方法。結果として有権者人口の少ない県の有権者の投票価値が高く評価される。平成6年の公職選挙法改正で導入され、平成8年の総選挙から実施された。)は、憲法の定める投票価値の平等を損なう違憲状態をもたらしているので、出来るだけ早く「一人別枠方式」を使わない選挙区割りに改め、総選挙を行えというのが今回の判決である。
 「違憲状態」という考えに賛成した裁判官は15名中12名、それより厳しく「違憲」と決めつけているのが2名、「国会の裁量の範囲内の問題」であるから憲法違反の問題は無いという裁判官が1名という構成からすると、実質14対1の圧倒的多数の意見でもあり、最高裁のこのような考え方が近い将来変わるとは思えないように見える。その意味では、従来の考え方からの大転換である。しかし、この判決で、民主主義制度の基本である「投票価値の平等」をめぐる問題は全て解決されたのかということになると、かなり問題は残っているというのが私の感想である。
 投票価値の平等の問題についてはこれまで最高裁判所は常に「国会の広い裁量」の存在を前提とする判決を出し続けてきた。現に、今回違憲状態という判決を出す前にも、最高裁は「一人別枠方式」を合憲とする大法廷判決を3回出している。前回の大法廷による合憲判決からまだ丸4年も経っていない。そうであるにも拘わらず、今回、それを違憲状態にあるというためには、何か新しい理由が無ければならない。判決文を読むと、「憲法は・・投票価値の平等を要求している・・。しかし、(それは)選挙制度の仕組みを決定する絶対の基準ではなく、国会が正当に考慮することができる他の政策的目的ないし理由との関連において調和的に実現されるべきものであり、国会・・の裁量権の行使として合理性を有するものである限り、(それ)が一定の限度で譲歩を求められることになっても、やむを得ない・・。(中略)一人別枠方式の意義については・・我が国の選挙制度の歴史、とりわけ人口の変動に伴う定数の削減が著しく困難であったという経緯に照らすと、(小選挙区制度)を導入するに当たり、直ちに人口比例のみに基づいて各都道府県への定数の配分を行った場合には、人口の少ない県における定数が急激かつ大幅に削減されることになるため、国政(の)安定性、連続性の・・必要、・・この点への配慮(がないと)選挙制度の改革(注:小選挙区制度の導入)自体が困難であった・・状況下で採られた方策である・・」という長い前置きの後、「そうであるとすれば、一人別枠方式は、おのずからその合理性に時間的な限界があ・・り、新しい選挙制度が定着し,安定した運用がされるようになった段階においては、その合理性は失われるものというほかはない。・・・加えて、本件選挙区割りの下で生じていた選挙区間の投票価値の格差・・が2倍以上の選挙区の数も増加し・・ており、一人別枠方式が・・その主要な要因・・であ・・る。そうすると、・・一人別枠方式は・・立法時の合理性を失(って)おり、それ自体憲法の投票価値の平等の要求に反する状態に至ってい(るのみならず)、本件選挙区割り・・も、その・・方式を含む区割り基準に基づいて定められている以上、これもまた、憲法の投票価値の平等の要求に反する状態にいたものというべきである。・・」と書いてある。
 平たく言うと、いわゆる一人別枠方式に基づく選挙区割りは、導入当初にあっては、国会の裁量権を梃子に、何とか合理性があるという説明が出来たが、投票価値の平等の関係で見ると今や、許される「有用期限」を過ぎてしまったので、違憲状態になっているというのが、今回の判決を支える理由である。これまで合憲と言い続けたのでいきなり違憲と言うことも言い難いが、大分時間も経ったので事情が変わったという理屈をつけて、今や「違憲状態」になったと言う論法を使えば、過去の最高裁における度重なる合憲判決も正当化できるし、国会や選挙制度審議会の顔もつぶさないで済むというわけである。
 私は、平成7年9月から平成17年8月まで10年間最高裁判事として奉職し、その間機会あるごとに代表民主制にあっては投票価値の平等がきわめて重要であるという意見を表明してきたが、率直に言うと一顧だにされなかった。どこかに書いたこともあるが、そのような意見を書くことについて明らかに妨害を試みる担当調査官もいた。定年退官後、知ったことであるが、かって「ミスター最高裁」と呼ばれ今日の最高裁判所を形作った故矢口洪一最高裁長官(平成18年逝去)は、最高裁が違憲審査権の行使(憲法81条に明文で定められている。)に消極的過ぎるのではないかという質問(明らかに投票価値の平等に関連して発せられた質問である。)に対し、「二流官庁がいきなりそんな権限をもらっても出来やしないです。」と答えた記録があることを知るにいたり、「そうか、僕は10年間、二流官庁で働いていたのか」、「憲法に定められた職責を果たさないのは、公務員の職務怠慢に当たるのではないか」、という感慨を持ったことを今日でも昨日のことのように思い出す(注:ちなみにこの発言記録は政策大学院大学のオラルヒストリーシリーズにあり、閲覧出来る。)。我が国の司法は長年にわたりドイツ司法から強い影響を受けているが、今のドイツには通常の裁判所とは別に憲法裁判所が存在し、ドイツの民主主義体制を維持する上で大きな力を果たしている。矢口さんの発言を知ってからは私は、日本にも通常の司法とは別に独立した憲法裁判所を作るべきだと明確に思うようになった。今回の判決は、我が国の最高裁判所にとって確かに大きな転換といえるかも知れないが、この私の考えは変わらない。
 どうしてそう思うのか?理由は簡単である。判決を子細に読むと、代表民主制において投票価値の平等がいかに基本的に重要かという認識が未だ基本的に希薄であるように見えるからである。最高裁判所から違憲審査権が無くなれば(勿論そのためには、憲法改正が必要であり、実現までには大分時間がかかる。)、それは憲法裁判所の下位に位置づけられ、名実ともに二流官庁になるであろう。10年間もそこで働いた一員としては残念にも思う。しかし、我が国の民主主義体制の将来を思うと、やむを得ない。
 民主主義体制とは突き詰めていくと、国民の多数決で決める制度であるということが出来る。議員を選挙するときも、議員が法案や予算を決めるときも多数決で決めるのである。何が多数か?投票価値が平等でないと何が多数かは分からない筈である。民主主義体制を標榜するのであれば、投票価値の平等は全てのことに先立つ大前提である。しかしこれまでの最高裁判決には、今回の判決を含めその基本的認識がない。あってもきわめて希薄である。若干具体的に見てみよう。
 今回の判決理由を見ると、第一に気になる点は、憲法の求める投票価値の平等は、国会の考慮する政策的目的理由と調和的に実現されるもので国会の裁量権との関係で一定の譲歩を迫られることもやむを得ないという考え方が依然として底流にあるということである。何でも合憲という結論を導き出すために、「国会の広い裁量権」を振りかざしてきたこれまでの判決と比較すると、大分ましな書き方になっているとも云えるが、本質は変わらない。同じことは、いわゆる「一人別枠制」は、導入当初は憲法上許される範囲のものであったが、もはや違憲状態になったとの下りについても云える。前回の大法廷判決(一人別枠制を合憲とした。)から丸4年も経っていない。これまでの大法廷判決を正当化しつつ判決の方向を大きく変えるための苦肉の策かもしれないが、基本的な考え方を変更するときには、率直に「改める」と言った方が良い。(過去の判例を全て無視するという方法もあるかも知れないが、中々そこまでは踏み切れないであろう。しかし、過去の大法廷判決を見ても判例変更は理論的に可能であり、その実例もある。)匙加減的な理屈で方向を修正しようとするのは、「法解釈の安定」、「法の支配」といった概念そのものを損なう可能性無しとしない。「国会の裁量」というとき、その国会は時の選挙法、選挙区割りで当選してきた議員で占められており、基本的に自分たちの当選に有利な選挙法や選挙区割りを変えたいとは思わない。そういう問題について是正を迫る権能を持つのは我が国では憲法81条で違憲審査権を与えられている司法のみである。いわば利害関係の当事者(利益集団)で占められている国会に解決方法を「丸投げ」して、自分たちの責任は果たしているというのがこれまでの最高裁判決であるから、正しい方向にようやく第一歩を踏み出すときは、妙に過去を正当化しない方が良い。余談ではあるが、この点について参考になる一冊の本がある。故ジョン・H・イリー ハーヴァート大学教授の著作「デモクラシー・アンド・ディストラスト」(1980年刊)がそれで、民主主義体制の中でどうして選挙で選ばれてもいない最高裁判所が違憲審査権を持つのだろうということを探求した名著である(注:米国の連邦最高裁判所は判例法によって違憲審査権を獲得しており、これにチャレンジするものはいない)。米国の法科大学院の学生であれば、憲法を勉強するときには必ず目を通すと言われている。邦訳もあるが、ディストラスト(不信)の部分が「司法審査」と訳されていて、原タイトルの持つ意味が大きく薄められている。この本を読むと、国会といえども全国民を代表する議員が投票価値の平等を軽視し続けることは許されず、その是正の役割が司法にあることがよく分かる。
 もう一点気になる点を上げて見よう。今回の判決理由を通読して感ずることは、総選挙の選挙区選挙においては、選挙区割りの基本を都道府県に求め、かつ、「格差」(裁判用語では較差という。)2倍未満なら合憲であると言うことが暗黙の理解になっているように見える点である。これまでの最高裁判決では選挙区選挙にあっては、衆議院議員は3倍までの格差、参議院議員は6倍までの格差は合憲という判決を出し続けてきた。今回の判決以降は衆議院については格差2倍未満であれば合憲であるという判決が出ることになりそうである。都道府県という行政区画(総務大臣の認可があれば、県境を変えることが出来る。近年、その実例もある。そもそも、地方自治法第6条で都道府県そのものの存廃も法律で決めることが出来る。)を選挙区割りの基礎にすることにも、これまで通り違和感を感じないようである。民主主義体制の国で、一番重要な有権者の投票価値をこのような気楽なやり方で決める国は中々いない。
 投票価値の平等という命題にアプローチするのに「格差」という算定方法を採用する国が他にあるかどうか、私は寡聞にして知らない。この方法は、最小の有権者数の選挙区と最大の有権者数の選挙区を比較してその倍率を出して選挙の時に投票価値の平等が担保されているかどうかを決めようとする。いわば、外側から問題にアプローチしようとする方式で、外縁的アプローチとでも云えるかも知れない。そこから、3倍(衆議院議員)6倍(参議院議員)以内であれば合憲といった妙な判決がまかり通ることになる。理論的には説明不能で、私は、あるとき、ラーメン屋の親父(最高裁判所)が塩加減をみて「これはラーメンのつゆ」(合憲)、「これは漬け物汁」(違憲)というようなものだと言ったことがある。要するに投票価値の平等という重要な問題は,我が国の裁判所にあっては匙加減の問題に帰着することになる。我が国で独自の発展を遂げた手法である。他の国にあっては、有権者の総数を選挙区の数で割って平均の有権者数を算出し、そこからの乖離が各選挙区においてどれだけ存在するかという尺度で投票価値の平等を実現しようとする。米国を例に取ると、連邦制の国であるから投票価値の平等の実現は中々難しいのでは無いかと思われるかも知れないがこれを厳密に実行している。それを支えるのは1960年代前半に下された幾つかの連邦最高裁判決で、「投票権は民主主義社会の基本的地位を占めるものでその価値を薄めることは許されない、投票価値の平等は全ての市民を代表する公正な選挙を行うための必須の条件である」との考え方を鮮明に打ち出している。私が米国連邦最高裁判事(今でも現職である。)から直接聞いたところでは、現実に誤差の範囲(平均からの乖離は最大で4%未満ではないかと述べていた。)を超えたら必ず直さなければならないということを聞いたことがある(ちなみに、乖離4%を格差の計算方式で引き直すと1.08倍になる。)。今回の判決によっても、憲法判断は格差2倍未満か否かの問題に留まるのではないかという疑念が残る我が国とは大差がある。米国の話をもう一寸続けると、選挙区割りは国勢調査を10年に一回行いその結果を反映させる。昨年4月に行われた国政調査の結果は本年1月からの区割りに反映された。これでも現職の有力議員に有利な選挙区割りを行うことまでは防ぐことは出来ない。いわゆるゲリマンダリングというやり方で、投票価値の平等を厳守しつつ支持者の多いところをつなぎ合わせる方法である。今回の選挙区割り改正でどうなったかは知らないが、昨年までのイリノイ州第17選挙区はまさにその典型の一つであった。飛び地は許されないのでつなぎ合わせた選挙区の格好は「スケートボードに乗るウサギ」という名前がついた。今までのところ、ゲリマンダリングまでは米国司法の手が届かない。地位の保全に知恵を絞る議員はどこの国にもいるのである。我が国では、都市部と地方の格差是正の美名の下に現職議員の地位保全が公然と続けられている。
 いずれにせよ、格差というアプローチでは基本的な投票価値の平等実現は極めて難しい。今回の大法廷判決後も問題が色々残っているという私の考えの一端をご理解いただければ幸甚である。
 せっかくの機会であるからこの問題を全く違う視点から見てみたい。その一つは、近年我が国の政治について漠然とした閉塞感をお持ちになっている人が増えているのではないかと思うが、私は確かに閉塞感が増しており、かつ、その大きな原因の一つは、投票価値の不平等に根ざした部分が大きいのではないかと思っているので、まずその点について私見を述べたい。
 代表民主制とは、有権者が国の運命を一定期間託す政治家を選挙で選ぶシステムのことで、多数決で行われるのが本来の姿である。しかし長い間、投票価値の平等にさほど意を用いることもなく選挙区割りを定めてきた結果、多くの選挙区割は長年にわたって固定化し、いわゆる世襲議員ないし側近的縁故議員の急増を招く結果となったという現実は統計上も否定出来ない。その中には優秀な人もいるが残念ながら全体としてみると国ないし国民の運命を一定期間預けて良いと思う人々の数は相対的に減ってきているのではないかと私は思っている。有権者数に応じて議員を選出する選挙区割りを厳密に行えば、選挙区割りもある程度変わってくるわけで、今よりも少しは事態はましであったろうと思う、それが可能で無くなったことについての責任から最高裁が逃れることは出来ないのではないか?システムとして代表民主制が本来持っている良さが大きく失うことに力を貸し続けたからである。冷戦終了から早20年余、いわゆる新興国のめざましい台頭などに比して我が国の相対的地盤沈下は著しい。新人の登場が長年にわたって妨げられた結果、新たに登場した人々を見ると、評論家的行動を執る人も少なからず存在するように見える。勿論、評論家の存在は民主主義制度にとって決定的な重要性を持ち、その役割を過小に評価してはならない。多数決で物事を決めていく民主主義国家にあっては、色々なものの見方の存在が不可欠で、これによって有権者はその運命を預ける候補を選択する見方を広げることが出来る。しかし評論家が自由に評論できるのは、結果について責任を負わなくても良いことが大きく寄与している。言論の自由や報道の自由は民主主義制の優れた面を確保するために絶対的と言っていいほど重要であるが、自分の言動に結果責任を負わなければならない政治家とは役割が全く異なる。政治家の言動がすぐ変わる、軽い、と思うのは私だけであろうか?もちろん、重大な事態が生じたときなど、適切かつ果敢な行動を執ることも国民の運命の将来を担う政治家に求められることは当然である。そのような能力と識見を持つ人は世の中にそう多くは無い。それを見出し政治家として育てていくシステムがないと民主主義制の利点は大きく損なわれる。
 もう一つの視点は、近年の我が国の国家財政の状況である。国家の債務は今やGDPの200%を超え、先進国の中でもずば抜けて多い。長年にわたるバブル後の不況から脱出するための費用も少なからずあったが、不要不急の公共工事、色々なばらまきがその増加に貢献したことは否めない。ツケは次世代にくることが確実であるのみならず、その時期も早まるかも知れない。格差是正と言いつつ実際には地方の振興に役に立たない支出を増やす政治家の誕生とその人たちの存続を許した選挙制度の存在は、これまた代表民主制の持つ良さ(新たな事態に即応できる政治家を生み出すシステム)が無くなっていることを示している。      

後注:この論考はあまり字数を増やさないよう心がけて大急ぎで執筆したため、説明不足の点が多々あることをお許し願いたい。もし時間があれば下記についても目を通していただくと、若干お役に立つかも知れないと考える。
1.2009年3月23日出版:福田 博著  世襲政治家はなぜ生まれるのか?
 (日経 BP社刊)
2.2009年11月出版:Why Are There So Many Hereditary Politicians in Japan? by Hiroshi Fukuda Asia-Pacific Review: Volume 16 Number 2 . November 2009 Routledge: Taylor&Francis Group ISSN 1343-9006
3.2010年5月14日講演:日本の民主主義 (福田 博) 西村高等法務研究所(西村あさひ法律事務所付属の研究所です。ホームページ<http://www.jurists.co.jp>で全文ごらんになれます。)
                      2011年03月29日執筆

北方領土問題、ロシアの「ソ連化」を許さず、じっくりと2011.2.24

『北方領土問題、ロシアの「ソ連化」を許さず、じっくりと』

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                     元在ロシア大使館公使 河東 哲夫

元在ウズベキスタン・タジキスタン大使、早稲田大学客員教授


昨年11月、メドベジェフ大統領が国後島に上陸して以来、北方領土問題が久々の関心を浴びている。これについて論じようと思うのだが、その前に今のロシアの状況、ロシアをめぐる国際情勢を復習しておきたい。相手を知ることがまず外交の第一歩であるので。

ロシアの「ソ連化」現象
専制政治・計画経済のソ連が倒れて、はや20年も経った。ロシアは当初、エリツィン大統領の下で自由化と民主化に着手したが、60~70年もの間やってきた計画経済――政府がほぼ全ての企業・農園を直接経営し、軍需と広く薄い福祉の重荷で投資は手薄、競争・革新のマインドを備えた経営者は育たない――のつけはあまりにも大きかった。ほぼ全ての富を国家が管理してきた中で、無数の国営企業を明日から民営化しろと言っても、その株を買う金がどこにあると言うのか? だれがその「民営化」された企業を、これまで見たことも聞いたこともない「市場」で経営していけると言うのか? 企業の全てが国営である国家では、急激な自由化は大混乱を生みだす。皆がカネと暴力に訴えて、国家の資産・特権の分け前を確保しようと走り出すからだ。そこでは、国民とか従業員とかへの配慮はない。ただむき出しの欲と暴力があるだけだ。 

ロシアの混乱の極みは1992~94年、街頭では撃ち殺されたマフィアの死体がころがり、「価格自由化」後のインフレは3年間で6000%、人々は不用品を売って日銭をかせぐため、零下20度の街路にずらっと並び、一日中立ち尽くしていたのだ。「改革」は混乱・困窮・屈辱と同義語になってしまい、大衆はエリツィンを今でも憎悪、「秩序」をもたらしたプーチンを支持するようになった。だから今ロシア政府は「改革」という言葉を使えずに、「近代化」という表現でごまかしている。

つまり、一度専制集権経済を築いてしまうと、自由=無法=混乱か、さもなければ秩序=締め付け=専制か、どちらかの選択になる。選挙による政権交代を伴う民主主義と市場経済に基づく中庸の運営は、不可能なのである。

それにロシアは、自立した市民を形成するに足る歴史を持たなかった。西欧と異なり、ロシアではルネッサンスも宗教改革も起きていない。19世紀半ばまで国民の大半が農奴であったために、産業革命の開始も日本と同時期であった。ロシアでは、そのような不幸な歴史が生み出した大衆が、権利よりも安定とパンを求めがちである故に、改革を実行するのが難しい。投資よりも消費、蓄積より分配が優先される。だから当局は、強権支配の下で石油収入を分配しては政権を維持していくという、安易なしかし長期的には破綻が確実な政策に終始せざるをえなくなる。

90年代、西側の善意と援助に期待したロシアは、逆にNATO拡大などの冷厳な現実に直面し、西側や日本にすっかり猜疑心を持つようになった。今ロシアは、経済・社会が行き詰まる――製造業の大半は外国からの直接投資なしでは改革不可能であり、石油・ガスの輸出収入に依存していくしかない――中での無力感と、世界のなかで致命的に遅れてしまったのではないかという秘かな劣等感・被害者意識のなかで神経をとがらせている。

そしてゴルバチョフ元大統領が批判し、メドベジェフ大統領自身が何度も指摘しているように、上層部、官僚による横領と収賄はひどくなる一方で、与党「統一」はたとえば大学の学部長クラスのポストにまで浸透してソ連時代の統制・管理マインドを蘇らせている。このような状況で、意欲と能力のある若者ほど外国への移住を考え、実行に移す――というのは、最近のロシアのマスコミも報じているし、ロシアの友人からも直接聞く話でもある。

にもかかわらず、大統領選挙を1年後に迎える当局は、軍事力の大幅増強(2011年、装備費、将校の数とも数十%の増加を見込む)の構えを示すなど、外交面ばかりでなく経済・財政政策としても危険な道に踏み込もうとしている。北方領土問題も、このようなロシアの「ソ連化」の文脈のなかにある。ソ連時代のアプローチがまた前面に出てきたのだ。

ソ連崩壊後、前進してきた日ロ関係
ソ連で保守クーデターが失敗した1991年8月以来、浮き沈みはあったが、日ロ両国政府は北方領土問題解決に前向きに取りこんできた。世上言われるところと異なって、日本政府も解決のためには柔軟なアプローチを取る用意があることを、数度にわたって具体的な提案としてロシア側に示したのである。そうした上向きの時代の最後はおそらく、2001年3月森総理(当時)がプーチン大統領(当時)とイルクーツクで行った会談だろう。この会談で発表された「イルクーツク声明」 にはこんなことが書いてある。

●1956年の日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言が、両国間の外交関係の回復後の平和条約締結に関する交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であることを確認した(注:平和条約を結べば、ソ連は歯舞と色丹を日本に「引き渡す」と書かれてある)。

●その上で、1993年の日露関係に関する東京宣言に基づき、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の帰属に関する問題を解決することにより、平和条約を締結し、もって両国間の関係を完全に正常化するため、今後の交渉を促進することで合意した。
・・・・・・・・・・・・
上記は、歯舞・色丹だけでなく、国後・択捉の帰属も「東京宣言」(1993年 「歴史的経緯、法と正義の原則に則って4島[注:歯舞は群島の総称であるが]の帰属問題を解決する」という合意)に則って交渉していく、ということを意味している。つまり、択捉島の北に国境線(と言うか海上の境界線)を引くことをロシア側が認めれば(4島の主権が日本に属することを認めることになる)、島の復帰のタイミングなどについては柔軟に対処する用意があるという、1998年4月橋本総理がエリツィン大統領に行った「川奈提案」も反映されているのだ。

だがロシア側は、右イルクーツク会談の直後発足した小泉内閣の田中真紀子外相が「4島一括即時返還」の立場に戻ったこと、その翌年には同外相と(別件で)対立した鈴木宗男議員(当時)が逮捕されたことを、「北方領土問題解決[ロシア側に都合のいい形での]を日本の保守層が妨害した」と捉えている節がある。彼らは、歯舞群島と色丹島だけを返せばそれでもう最終解決、平和条約が結べるのだと思いこんでいたらしい。日本政府がそのような提案をしたことはないのだが。

その後ロシアは、鳩山内閣にまた淡い希望をいだいた。だが鳩山首相は対ロ関係に手をつける前に退陣を迫られたため、ロシアは大変な失望感を味わわされたらしい。日本政府はかねて、北方領土はソ連に「不法占拠」されたとの表現を使っていたが、この頃からロシア政府はこれに初めて気がついたかのごとく問題視する姿勢を示し、それをマスコミが大きく報じたから、ロシア国民は日本があたかも最近になって要求を強めてきたかの印象を持つに至った 。ロシアは日本の立場が後退したと思い込み、自分も用心のために交渉ポジションを1段階、ソ連時代の昔に戻そうとしているかのようである。

ロシアはソ連時代の立場に戻るのか?
昨年11月1日メドベジェフ大統領の国後上陸は、対日戦略の一環として周到に計画されたものと言うより、地元利権者のロビーイングの結果という面が大きいようだ。だがこれに対して日本が強い反発を示したことをロシアのマスコミは書きたてて、ロシアの世論を逆切れさせ、メドベジェフ大統領等はそれに乗じて日本に対する圧力を強める一方である。外国の圧力に屈しない強い男、というイメージを作って、来年の選挙の役に立てようとしているのだろう。2009年5月来日したプーチン首相が、「ロシア国内には領土問題を解決しないまま進もうという考え方もあるが、自分はそうは思わない。全ての障害を取り除く必要がある」と述べたことに、彼らは明らかに反しているのである。

その背景には、ロシアなりの国際情勢分析があろう。ロシアは、強い、弱い、大きい、小さいで国際関係を見る。「日本は今、組みしやすい相手だ。日本をたたいて、ポイントをかせぐことができる」というわけだ。ロシアは米国とは「リセット」と称して関係が良い、NATOとも昨年11月の首脳会議でグルジア戦争以来のしこりを解消したばかりだ、そして中国とロシアは少なくとも表面上は緊密な協力関係にある、それに比べて日本は・・・こう考えているのだろう。

メドベジェフ大統領は最近、全国の時間帯を11時間から10時間に短縮したり、冬時間を廃止して一年中を夏時間にする、というような、抵抗の少ない「改革」を手掛けては業績にしようとしている。日本も時間帯と同じくらい、安易な相手に見えたのだろうか? 

と書くと、だんだん感情的になってくるので、今回前原外相の訪ロ結果を見てみよう。ロシア側は最近、「北方領土はロシア固有の領土」という念仏を繰り返しているが、前原外相訪問結果についての日本外務省発表を見ると 、「領土問題をめぐり,日露間の立場に大きな開きがあることが確認されたが,これまでの両国間の諸合意に基づいて双方にとって受入れ可能な解決策を模索する必要があり,静かな環境下で協議を継続していくことで一致した」とある。ロシアは四の五のと言うかもしれないが、この「諸合意」の中には東京宣言もイルクーツク声明もみんな入っている。

ということで双方とも、ひとまずここで頭を冷やすべきだ。ロシア大統領選挙が1年後に迫った今は、北方領土問題を動かすに適した時ではない。ロシアの政治家はこの問題で譲れば、それが選挙で致命傷になりかねない。そのくらいの民主性はロシアにもある。だから今、日本が無理に動かそうとしても、ロシア側は立場を後退させていくだけだろう。
日本側は、大幅に譲ってまで、この50年の努力と費用に足で砂をかけてまで、この問題の解決を今ここで急がねばならない事情がなにかあるのか? 今ここで解決しないと、問題は永久に解決できなくなるのだろうか? 戦後60年以上経ったが、日本の立場は国際的にも理解を得ている。今すぐ動かないと、不法占拠が既成事実化してしまう、というものではない。ロシアと組んで中国に対抗する? ロシアが日本と組んで中国に対抗してくれるはずがないではないか。両方とも組んで米国と対抗したいのだから。

前原外相訪ロの際の「話し合いを静かに進める」という合意が守られないようであれば、日ロ関係は売り言葉に買い言葉で悪化して経済関係にまで響くだろう。日本は、簡単に変えることのできる時間帯のような安易な対象ではない。日本の力はロシアの理解を超えたところにある。日本がカタールに輸出した天然ガス液化プラントが大量の液化ガスを世界に氾濫させ、シェールガスとともに天然ガス価格の急落を招いた(ロシアの収入も急減する)ことなどはその一例だ。

なお訪ロした前原外相に対してラヴロフ外相は、「日ロ双方の歴史専門家による委員会を設置して議論を行う」ことを提案したが、それはもう1980年代末、日ソ双方の外務次官級で詳細に議論が行われ、共通認識に達した結果が日ロ双方言語の「共同資料集」として公表されている。ロシア側はなぜかこれが公衆の目に触れるのを嫌がってきたから、もしかするとラヴロフ外相もその存在を知らないのかもしれない 。

この共同資料集の1(7)には、1855年の「日魯通好条約第2条」が掲載されている。これは、1855年日ロが初めて外交関係を設立した際、国境線は択捉とその北方のウルップ島の間に引くことを明確に述べたものなのだ。それ以来、北方4島は1945年8月15日以後ソ連軍に占拠されるまで一貫して日本領であり、それに対してロシア帝国もソ連も異議を申し立てたことはない。戦争の結果、領土が占領されることは今でもあるが、平和条約締結とともに占領は停止されるのが当然である。日本はまさにそれを求めているのであり、エリツィン時代はロシア政府も、北方4島における国境は法的に未確定であることを明確に認めていたのである。

ロシア側は最近、「第2次世界大戦の結果の見直しは認められない、歴史の歪曲は許されない」との趣旨を欧州諸国に強調し、今同じことを日本にも言っているが、歴史の歪曲を行っているのはロシア側の方だろう。
なおロシアは北方4島に中国、韓国の投資を誘致すると言っているが、利益のあがる案件があるのなら、ロシア人がとうの昔に手掛けているだろう。甘言に乗せられて投資して、それをロシア側の合弁相手に奪われた日本人は枚挙にいとまがない。それに、ロシアが軍備を増強しようとするほど緊迫した状況にある北方4島に、どの外国人があえて投資したがるというのだろう?

上記プーチン首相が言っているように、この問題を避けずに、しかし静かに話し合いを続けていこう。ロシアが解決したくないというのだったら、日本は要求を続けながら時を待てばいい。ソ連時代も、周囲の国際情勢がソ連にとって不利なものとなると、グロムイコ外相が日本に来て微笑をふりまいたものだった。歴史が生んだ問題を、日本の負担とするのではなく、ロシア外交にとっての負担にしていこう。ロシア人は、何か得べかりしものを失うことに大変な恐怖心を示す人たちであることを念頭に置きながら。
民主主義の国は息の長い外交というものはなかなかできないものだが、ロシアのような国を相手に性急なアプローチは、自分の立場を悪くするだけだ。但し、息の長い外交と言う場合には、何の補償も受けずにソ連に追い出された(数千名の)旧島民の方々の事情と要望、そして4島返還が遅れるゆえに経済的な不利益をこうむる北海道の沿岸地方の方々に、十分配慮していく必要がある。

注1:
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2002/gaikou/html/siryou/sr_03_02.html

注2:北方4島は1945年8月15日、日本が戦闘を停止したあとソ連軍が無血占領し、数千人の日本国民を補償もなしに追放し、代わりにソ連人を入植させ、ソ連領に併合したと一方的に宣言しただけだ。その「併合」は何ら国際条約や日ソ、日ロ間の条約で認められていない。サンフランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島に北方4島は含まれておらず(1855年、日ロが下田条約を結んで国交を樹立して以来、一貫して日本領である)、その千島列島も別にソ連に与えたとは書いてない。そもそもソ連はサンフランシスコ条約に入っていないのだ。

だから、北方4島の地位が国際法上決まっていないことは(いやそれどころか南サハリン、千島へのロシアの支配も、国際法的にはあやふやなものなのだ)ロシア外務省も認めて、それを何度も公言している。だからそれは不法占拠なので、そのことは日本はこれまで数十年にわたって言い続けてきた。それをなぜ、ロシアが今になって、その言い方はけしからんと言ってきたのか、奇怪なことである。

注3:http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/g_maehara/russia1102/kekka.html
注4:http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/ryodo.html


「インド官僚制度に思うこと」2011.02.18


「インド官僚制度に思うこと」

前駐インド大使 榎 泰邦

はじめに
 今回のインド在勤を通じいくつかインドを羨ましいと思うことがあった。1960年代の高度成長時代の日本を彷彿とさせる経済活力と横溢する将来への楽観主義もその一つであったが、ちょうど日本で官僚バッシングが時代風潮とも言うべき時期に当っていただけに、国を支えているとの強烈な自意識とそれを可能にする制度的枠組みを持つインド官僚制度に対しては心から羨ましく感じた。
そもそも、官僚に強大な権限が与えられるのは、絶対王政下での「国王の勅任官」を除けば、昔から植民地統治と社会主義統制経済下と相場が決まっている。インドは、英国植民地時代とネルー政権後の社会主義政策と双方とも経験するなかで、ICSとIAS(インド高等文官)制度を育ててきた。その意味では、インド官僚制度は歴史的所産であって、経済自由化の進展とともに変革を余儀なくされる運命にあるとも考えられる。天皇の官吏および戦後統制経済下で大きな権限を与えられた日本の官僚制度が変革を迫られたのと同じ道をいずれは歩まざるを得ないとの見方もあり得よう。
しかし、私にはそう簡単に決めつけられないのではないかとの思いがある。インドは、古代インド・マウリア朝の名宰相カウティリアが書き残したと言われる「アルトシャストラ」(実利論/君主論)の国である。この国家統治論は、「国家経営の要諦は、法秩序の維持と十分な行政機構にあり」から始まる。因みに、カウティリアはチャナキャプリとも呼ばれ、現在、日本大使館も所在するニューデリーの大使館地区の名称として残っている。5千年という長い歴史の中で数多くの王朝の興亡を経験し、16~17世紀には明、オスマントルコとともにユーラシア大陸を三分したムガール帝国興隆の歴史を通し、また英国植民地統治の経験から、インドには「国家統治には、優秀な官僚制度という背骨が必要不可欠である」との確固たる政治哲学が根付いているように観察される。そうであるならば、我が国の官僚制度を考える上でも、時代の要請に応じて変革を試みることは当然としても、インドの歴史の知恵に学ぶところもあるのではないか。
こうした思いから、私がインド官僚制度の如何なる点に興味を持ち、また羨ましさを感じたかについて主観を交えて書いてみることにした。従って、本稿はインド官僚制度の詳細な解説を意図したものではない。この点は、拙著「インドの時代」(出帆新社)をご参照頂ければ幸いである。

1.社会的敬意と高い期待
インドで名刺交換をすると、肩書きの代わりに単に「IAS」と刷り込んだ名刺に出会うことが多い。IASはIndian Administrative Serviceの略であり、「インド高等文官」とでも訳せばよいであろうか。この肩書きは、時として、IFS(Indian Foreign Service、外交職)であったり、IPS(Indian Police Service、警察職)であったりする。会社社長といってもピンからキリまであるし、政治家も次の選挙で落選するかもしれない。それに対し、IASは、全国統一ブランドであり、かつ、一度IASに採用されれば、一生使用できる肩書きとなる。その意味で、IASはインドでもっともブランド力の高い肩書きであり、IASブランドに対する社会的敬意と期待には極めて高いものある。
それでは、かかる高いブランド力の背景には何があるのであろうか。私は、インド植民地官僚制度以来の歴史的伝統、及び超エリート選抜制度としてのIAS制度に対する社会的信頼度、の2つであると観察している。
先ず、英国植民地官僚制度(ICS、Indian Civil Service)であるが、ここでは制度そのものの解説は省く(ご興味のある方には、講談社選書、本田毅彦著「インド植民地官僚~大英帝国の超エリートたち」をお奨めする)。インド亜大陸のほぼ全域を統治した例は、歴史上、アショカ大王のマウリア朝、ムガール帝国そして大英帝国の3度しかない。英国は、現在のビルマ、パキスタンを含む広大なインド亜大陸を、1千人の官僚群と1万の陸軍で統治した。インド副王を勤め、後に外相になったカーゾン卿は、「我々は、インドを支配する限り常に世界最大の強国たりうる。もし、インドを失えば、残った植民地は何の価値もなくなり、英国はたちどころに三流の小国に転落する。」と述べた。このインドを統治するために、英国は優秀で野心に溢れる人材を投入した。そして、人材選抜のために用意されたのが、ICS制度であった。ICS制度の導入は1855年であるが、英国本国で有力者推薦による情実人事がまかり通っていた時代に、一切の情実人事を排し、試験結果によってのみ選抜した。試験合格者は、採用後10年、30歳前半で県知事として地方行政の一切を委ねられ、更には州総督への道も開かれていた。給与面でも恵まれ、インド政庁の局長レベルで、現在価で年収2~3千万円を支給され、25年間勤務すれば700万円相当の年金が保証されていた。当初は、英国人に受験資格が限定されていたが(合格者の80%がオックスフォードないしケンブリッジ大学出身)、次第にインド人にも開放され、インド独立前夜にはインド人がICS構成の半分を占めるにまで至っていた。
1947年の独立後、新政府として如何なる官僚制度を設計するかが重要課題となった。種々の経緯を経て、新政府は、基本的にICS制度を継承しつつIAS制度として発足することに決定した。但し、ICSと異なり、(イ)IAS文官は中央政府と地方政府の双方に奉仕する「二重任務」とする、(ロ)そのため、採用後、IAS文官には退官まで一貫して担当する州を特定し、中央政府と担当州勤務とを往復させる、(ハ)中央政府と地方政府による制度の共同管理体制を敷き、中央が一元的人事権を有する一方で、地方は給与などの経費を負担する、等の制度設計を行った。「二重任務」という形で、変革は行われたが、インド官僚制度にはICS以来の1世紀半に亘る歴史の裏付けがあり、この伝統が現在のIAS制度に対する評価を支えている。

次に、超エリート選抜メカニズムとしてのIAS制度に対する信頼度がある。伝統だけでは、風化するだけである。制度として機能しているとの実績の裏付けが必要である。インド高等文官に採用されるためには、高等文官試験(CSE、Civil Service Examination)という共通試験に合格する必要がある。CSE試験合格者は、毎年、概ね400~500人であり、1番からビリまで成績順位が発表される。2006年度はこの試験に38万人が応募した(実際の受験者数は20万人)。CSE合格後に用意されているのは、税関、国税庁、国鉄採用など28職種に細分化されている。このうち、中央省庁幹部用に用意されているのがIASで、これに外務IFS、警察IPSを加えた3職種が御三家としてもっとも権威があり、上位合格者のみが採用される。毎年、IASが90人前後、IFSとIPSが各10名前後、御三家合わせて110名前後と狭き門である。即ち、御三家に限れば、受験申し込み者総数38万人から100名余のみが採用される訳で、実に競争率4千倍近い厳しい選抜となる。因みに、我が国の国家公務員第一種試験の場合は、概ね14倍前後の競争率になっている(2010年度は、申込者総数26,888人に対し、合格者数1,314名と20倍の競争率)。
過去の試験例題を見ると、足切りの一次試験では「ランゲルハンス島の所在地いかん」(答;「膵臓」)、と言った奇問の類があるかと思うと、「プロゴルファーのビジェイ・シンの出身国は?」(答;フィジー)などの一般常識までまことに幅広い。但し、本試験で実際に点差がつく論文試験では、受験者の思考能力と論理構成力が評価の対象となる。例えば、数年前の例では「最近のSAARC首脳会議については、何の成果も生まなかったとの評価がある一方で、画期的な成果を挙げたとの評価もある。それぞれの評価について解説せよ。」が出題された。そうかと思うと、「インド/パキスタン分割は不可避であったと考えるか。また、本問題に対するマハトマ・ガンディー、ネルーおよびマウラナ・アザドの立場について論ぜよ。」との出題もあった。
最終関門の面接試験では、高等文官としての適正が評価される。加えて、30歳未満との年齢制限が課され、かつ受験回数も4回までと制限されているので、苦節10年型の受験生が入り込む余地は無い。結果として、優秀な頭脳と幅広い常識、バランスのとれた判断力を有する人材が選抜されることになる。また、採用後も若くして州政府で要職につき、リーダーシップと調整力が厳しく問われることとなる。一定年齢までは、中央と地方とをほぼ均等に往復するが、ふるいにかけられる中で、中央政府での出世組と地方政府滞留組とに分かれてくる。

2.政・官間での明確な役割分担
 インドは世界最大の民主主義国家、とはよく引用される言葉である。歴代米国大統領の訪印では必ずこの言葉がスピーチに入る。独立以来、一度もクーデタ騒ぎがなく、選挙による民主的手続きを経て政権交代が行われてきた。2004年総選挙で、よもやの大敗北を喫したBJP党のバジパイ党首は、「BJPは負けたが、インド民主主義は大勝利した。」との名言を吐いて下野した。従って、「政治」が政策決定に責任を持つとの原則が確立している。そもそもインドの独立達成そのものが「政治」の勝利であり、独立後の「国のかたち」を決したのも「ネルー政治」であった。実際、言葉達者との特性もあるが、自らの識見と力量でダボス会議や国際会議で中心的役割を果たす政治家リーダーも少なくない。
 その一方で、行政の執行は官僚に全面的に委ねるとの原則が確たるものとなっている。もとより、政治家と官僚との接点は明確に線を引けるものではなく、実際の政・官の関係は現場に身をおく者にしか分からない。しかし、大使としてインド政府と接する限りにおいて、インドの官僚は実に自信に溢れ、かつ明確な責任意識をもって職務を遂行していることが看取された。任国によっては閣僚クラスと直接やり取りしないと相手国の判断を確認できない場合も多い。インドにおいては、儀礼上の理由から閣僚を表敬することはあっても、こと実務に関する限り次官、局長レベルの高官との遣り取りで全てことが足りた。2004年5月総選挙を経て、BJPからコングレス党へと政権交代する前日、懇意にしていた首相経済顧問(財務次官経験者)を訪問し、これまでの協力に感謝するとともに新政権への対応ぶりにつきアドバイスを求めたことがある。経済顧問は、政権は変わっても自分の席に座るものは、同じ思考方法と論理(the same language)で与えられた課題に答えを出すので何ら心配するには及ばない、と述べていた。首相経済顧問ポストは歴代、原則、財務次官が就任している(但し、経済政策通のマンモハン・シン首相は経済顧問を任命せず)。政権は代わっても、官僚として担うべき責務は、官僚としての論理で淡々と遂行していく、との気概を感じ取った次第である。
 こうしたインド官僚の確固たる職務権限を担保しているのが、憲法による公務員の地位保障である。即ち、インド憲法第309条~第312条で、高等文官の地位につき、(イ)大統領によって任命される、(ロ)大統領の意思に反しない限りその職を保持し、任命権者たる大統領以外から罷免または解任されることがない、(ハ)問責の理由を告げられ、その問責に関して弁明する機会が与えられた調査の後でなければ、罷免、解任または降任されることはない、等々が規定されている。平易に言えば、刑事訴追によって有罪となる等特別の事情による場合を除き、ひとたび高等文官として採用された以上、罷免、解任、降任されることはない、ということである。即ち、大統領でない限り、首相、閣僚、州首席大臣といえども、高等文官を解任できない。インド大統領は原則として政治的権限は行使しない立場にあるから、インド高等文官は、身分保持に関する限り政治からは完全に独立していることを意味する。
 ここで、インド官僚制度が少数精鋭主義を取り、一人一人の高等文官の職務権限が広いことに付言しておきたい。中央省庁幹部候補生数につき、日印を比較すれば、わが国の国家公務員第一種試験合格者数が毎年1,500人前後(2010年度は1,314人に減少)であるのに対し、インドのIAS、IFS、IPS御三家採用数は100名余である。圧倒的に少ない官僚数で国家行政を支えているわけである。インド政府各省庁の規模につき、単純に公務員数だけで捉えると間違えを犯すこととなる。例えば、インド外務省であるが、職員数3,340人と、わが外務省の20年前の規模に相当する。しかし、この大部分は、お茶くみ、案内係、秘書であり、実務に携わる外交旅券保持者に限れば、本省、在外合わせ約1,000人でしかない。本省に限れば、全体1,400人のうち、外務省プロパー250人、他省庁出向者150人の僅か400人となる。こうした少数精鋭で全インド外交を支えているので一人当たりの責任と権限がそれだけ大きくなる。インド外務省の対日外交ラインとなると、東アジア局長、北東アジア課長、日本担当の3人しかいないので、偶々この3人のいずれもが不在となると、訓令の執行すらできなくなる。外務省以外の省庁では、概して全職員数に占める高等文官数のシェアは更に低くなる。大部屋主義をとるわが国の行政は、どうしてもグループで職務と責任を分担するとの意識が勝る。これに対し、インドの高等文官は一人一人がそれぞれの職責を担い、国家行政に全責任を負うとの意識が強い。

3.十分な経済的保障(手厚い年金)
 インド公務員の給与水準は、公務員給与審議会という独立機関の諮問によって閣議決定されるが、2009年、同審議会は高等文官給与を概ね3倍に引き上げる勧告を提出した。さすがに、国民の間でも関心の的となったが、政府は、同年3月勧告をそのまま受け入れる閣議決定を下した。これにより、例えば、各省次官クラスの給与は月額2.6~3万ルピーから8~9万ルピーへと引き上げられた(1ルピーは約2円)。
 本来、インド官僚制度の設計にあったては、高等文官が安心して公務に専念できるように、身分保障とともに安定した経済的保障を確保するとの原則が前提になっていた。しかるに、経済的保障の方は、予算措置を伴うだけにそう簡単には運ばない。民間経済の発展が停滞していた1980年代までは、経済界の給与水準も低く相対的に高等文官給与も見劣りしなかったが、90年代に入り自由化政策の下で経済発展が急速に進むとIT企業などを中心にして民間給与水準が大幅に引き上げられていく。特に、2000年以降はこの傾向が著しく、高給による優秀な人材の引き抜きが活発化してきた。しかるに、財政緊縮下で給与改善が遅れていたことから、当時、高等文官の給与水準は低く抑えられたままで、局長レベルで月額2万ルピー(約4万円)前後、次官クラスで3万ルピー(約6万円)でしかなかった。高等文官には、公務員宿舎提供、専用車の提供など給与以外の特典が与えられてはいるが、20年の職歴を経て漸く局長職に就いて、IT企業の初任給と同じレベルと言うのでは志気にも影響してくる。現に、優秀な人材が官から民に流れ、以前ほど優れた人材がIASに集まらなくなるとの傾向が出てきていた。今回の措置は、かかる傾向への危機感の表れであり、また、高等文官制度を護るとの政府の強い意志の表明であろう。
 確かに、必要ならば一挙に3倍もの給与引き上げ措置を採るとのインド政府決定は、特筆に値する。しかし、考えようによっては、わが国の人事院勧告と同様の制度があれば、毎年調整すべきであった給与水準見直しを、過去手が付けられなかったために一挙に調整を図っただけとも言いうる。むしろ、私が率直に羨ましいと思うのは、高等文官に対する手厚い年金制度である。現役時代には年金制度には関心を寄せる時間的余裕もなかったが、いざ、退官してみると、現役最終給与の5分の1程度という年金額の低さに唖然とし、せめて現役時代給与の半額は欲しいと思うのは私だけではなかろう。
 インド高等文官が退官後、60歳から受領する年金額は「現役最終ポスト給与額の50%」となっている。ご注意頂きたいのは、現役最終給与ではなく「現役最終ポスト給与」となっていることである。この心は、退官後、最終ポスト給与が引き上げられれば、年金もそれにスライドして引き上げられる、との点にある。今回のように現役の給与が3倍に引き上げられれば、年金も自動的に3倍に引き上げられる。引き下げも同様ではあるが、高度成長期のインドで給与引き下げは考えられない。日本からみれば、50%という水準は羨ましい限りであるが、国際的にみれば、何ら驚くには値しない。ブラジルの高等文官は、最終給与の100%の年金が保証されているし、フランスのENA出身官僚も75%前後が保障されていると聞いたことがある。
 現役時代給与の50%が保障されれば、多くの場合、退官後、無理して職を求める必要もなかろう。実際、インドでは天下りという慣行はない。もとより、需要・供給の関係で、人材を求める要請に応じ民間に新たな活躍の場を求めるケースも多いが、これはあくまでも個別的現象であり、官側が組織的にOBを民間に押し込むものではない。それでは、多くの退官者はどうして時間を過ごしているのであろうか。インドの平均寿命が63歳と低いのは、農村での高い幼児死亡率を算入するからであって、都市の富裕層の寿命は長い。菜食主義者で、毎日ヨガで体調を整えていれば、長生きをしようと言うものである。首都デリーには、60歳での退官後も、気力、知力、体力が十分な元局長、元次官がうじゃうじゃしている。多くは、シンクタンク入りしたり、仲間内で勉強会を組織しては、大学教授、ジャーナリスト等とともに巨大な知的コミュニティーを形成している。特に、外務省出身者や軍将官退役者に多い。かくして、ニューデリーは世界でも有数の知的交流の場となっており、特に、外交、安保関係のセミナー、シンポジウムとなると論客が次から次へと繰り出してくる。こうした知的コミュニティーは、政府に対する提言とりまとめ等を通じ天下のご意見番をもって任じるとともに、重要な人材プールを形成し、政権交代があるたびに、首相顧問や計画委員会委員など新政権のブレーンとして人材を提供している。

終わりに
 独立直後から1970年代、80年代と基本的にインドは統制経済体制下に置かれ、企業の設立、事業範囲の拡大、必要物資の輸入、原料の確保、輸出、等々経済活動の殆ど全てに政府の許認可を必要としていた。当然、許認可を司る官僚が絶大なる権限を行使し、こうした体制はLicense Raj(許認可統治)と称されていた。1991年から導入した経済自由化が進展するとともに、許認可行政の範囲は次から次へと縮小されてきた。わが国官僚制度と同じ道を、20年ほどのタイムラグで辿りつつあるとも考えられる。
 しかし、変革期を辿りつつも、この国では優秀な官僚制度の維持が国家統治に不可欠との基本思想が広く共有されていると考えられる。イラク戦争後の米国による占領政策の失敗は、軍とバース党という2つの統治機構を完全に除去したため国家統治の骨格が崩壊してしまったことにある、というのが定説である。インドの場合には、IASに代表される官僚制度と文民統制の徹底した軍の存在、この2つが国家の背骨を形成している。民主主義体制下、総選挙によって政権という頭の部分が入れ替わっても、背骨が支えているから国家の形が維持され、脊髄を通る神経系統が正常に機能する。
 戦後60年を経て、わが国の国のかたちにつき大いに論じ、疲労を起こしている諸制度に改革を加えることは確かに必要である。しかし、国家が国家として存続していく以上、どうしても護るべき枠組みと背骨という中枢器官への人材確保は不可欠である。政治判断を司るべき頭脳部分が十分機能を果たさず、加えて背骨部分に骨粗鬆症状況が進行し、脊髄損傷が生じているのであれば、植物人間化が不可避となる。わが国も、優秀な官僚制度の維持は国家統治に不可欠である、との原点に立ち戻って新たな制度設計に取り組む必要があるのではないか。


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米軍基地問題に対する沖縄県民の意識 2011.02.10




米軍基地問題に対する沖縄県民の意識    



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                  元沖縄担当大使 橋本宏

 目次

   はじめに
   県民意識調査
   比喩の中の県民意識
   ウチナーンチュとヤマトーンチュ
   ウチナーンチュへの語りかけ
   アメリカーナへの語りかけ
   政府関係者への助言

はじめに

昨年鳩山内閣の下で米海兵隊普天間飛行場の移設問題が取り上げられた際、同総理の口からしばしば「県民意識」という言葉が発せられた。小泉内閣時代に2年間にわたり、沖縄担当大使として那覇の外務省沖縄事務所(下記注参照)に勤務した経験のある筆者は、鳩山総理の言われた「県民意識」が現実とは相当大きく異なっているのではないかと、当時感じていた。現在に至るも、普天間飛行場の移設は政府にとって最重要の政治課題の一つとして残っていることもあり、沖縄勤務経験を踏まえ、ここで改めて米軍基地に対する沖縄県民の意識について、筆者の私見を開陳してみたい。筆者の意図は、普天間飛行場移設問題そのものを議論することではなく、今後同問題について沖縄県民の理解を深めていくに当たって、政府として留意すべき対話の在り方について論じることにある。

(注)1995年に沖縄県で発生した少女暴行事件は、政府が在沖米軍基地問題への取り組み方について改めて包括的に検討を加える契機となり、それ以後数々の政策が展開されていった。そうした中、1996年橋本龍太郎総理大臣は沖縄訪問中、基地所在市町村長と懇談をした際、日米地位協定の運用など米軍に関する地元の意見や要望よく聞いて政府に報告する大使を長とする、外務省の出先機関を沖縄に設置するとの意向を示した。こうした経緯を踏まえ、1997年2月に初代沖縄担当大使が那覇に着任し、その後筆者は第三代目の沖縄担当大使として2001年2月から2003年1月まで沖縄に在勤する機会を得た。
筆者の沖縄在勤時代の県知事は稲嶺恵一氏、また、四軍調整官(脚注)は、2001年7月末までがアール・ヘイルストン海兵隊中将、その後はウオレス・グレグソン海兵隊中将(現米国国防省アジア太平洋担当次官補)であった。

(脚注)沖縄には米国の陸、海、空軍及び海兵隊の四軍が駐留しており、全体の調整役は在日米国海兵隊基地司令官(海兵隊中将)が兼任していてその正式な肩書きは「Okinawa Area Coordinator(沖縄地域調整官)」であるが、ここでは通称の四軍調整官に従った)。

1.県民意識調査

総理府及び内閣府は下記のようにこれまで累次にわたり在沖米軍基地問題をめぐる県民意識調査を実施してきた(筆者の沖縄在勤時である2001年以降は新たな調査を行っていないようである)。2001年までの推移を見ると、長期間にわたって、米軍基地の存在を肯定する人の割合は、それを否定する人の割合より少なかったが、2001年の調査で初めて肯定する人の割合は否定する人を上廻った。しかし、その割合は過半数には達していなかった。

政府による県民意識調査結果の推移
 年
割合(%) 1985 1989 1994 2001
肯定する人 34.0 29.5 38.8 45.7
否定する人 53.9 60.7 54.3 44.4

2001年以降政府が県民意識調査の実施や結果について何の発表もしていないため(沖縄県が5年ごとに実施している県民選好度調査は、「米軍基地対策の優先度」を調査の対象にしており、「米軍基地に対する県民意識」そのものを対象とはしていない)、その後の県民意識の推移を客観的に論じるための具体的なデータは存在していない。従って類推せざるを得ないが、2001年の調査結果に示された「基地の存在を是認する人の割合が否認する人の割合より多い」という傾向は、その後も数年間にわたって継続していたことと思われるものの、恐らくは、2009年秋の民主党連立内閣の発足以降、その傾向は逆転しているのではないか。
仲井眞弘多県知事は、“県民に米軍基地の存在に賛成か反対かと直接的に聞くならば、誰でも反対と答えるものだ”、といった趣旨をメデイアを通じて発言しているが、これは米軍基地問題を巡る県民の微妙な意識をよく表現しているものと筆者には思われる。即ち、ここで本土の我々が理解しておくべきことは、2001年の調査においてすら、基地肯定派と否定派はほぼ同数であって、そのどちらも過半数を占めていないということ、沖縄県民の多くは米軍基地の存在に根強く反対しているということである。

2.比喩の中の県民意識

筆者が沖縄在勤当時の県知事は稲嶺恵一氏であった。同氏の口からしばしば出て来た比喩は、「点と線」、「マグマ」、「温度差」といったものであった。
“米軍は一つの事件・事故を「点」として捉えているかもしれないが、県民は戦後57年間に発生した「線」の中で捉えて見ており、その一つ一つが県民の「マグマ」となって蓄積されていくのである。今回の一連の事故を「点」として捉えて欲しくない。米軍は小さな事故として見ているかもしれないが、県民は小さな事件・事故に対しても「線」の上で関心をもって見ていることを理解して欲しい”と言った具合である。

「マグマ」という比喩は筆者も積極的に借用させて頂き、“今県民の「マグマ」がここまで来ているので要注意である”といった説明を在沖米軍幹部によくしたものだった。

「温度差」という比喩については、“県外の人たちは沖縄県民の基地過重負担を自分の身になって考えようとしない。沖縄県民との間に温度差があると言わざるを得ない”といった形で、使用されていた。
こうした比喩に示された県民意識について、角度を変えて更に考えていきたい。

3.ウチナーンチュとヤマトーンチュ

「温度差」については、ウチナーンチュとヤマトーンチュという沖縄の方言によっても表わされる。
 筆者の経験では、沖縄の人たちと米軍基地問題について話が進み、あるところ迄来ると、突然“ウチナーンチュ(沖縄の人たちの意)以外には分からない”とさえぎられ、”ヤマトーンチュ(本土の人たちの意)には理解出来る筈がない”といった彼らの強い感情を接することがある。このように、在沖米軍基地問題に関しウチナーンチュとヤマトーンチュの間には、あたかも越えがたい大きな壁があるように思われる事態に遭遇し得ることを覚悟しておく必要があろう。

故西銘順治元知事は、県知事時代に「沖縄の心とは」と聞かれて、「ヤマトーンチュになりたくてなり切れない心」と答えたというのは、県内で有名な話しである。かつて琉球王国であったことへの誇りと、現在の日本の中での経済的な低い位置付けへの苛立ちが、今でも沖縄の人たちの心の中に同居していると言われている。ましてや戦中・戦後から復帰の時期に、沖縄県民がヤマトーンチュに対して持っていた感情は、さぞかし複雑なものであったに違いない。
本土の我々は、故西銘元知事の言葉の背後に秘められたウチナーンチュの「複雑な思い」に気を配っていかなければならないと考える。

4.ウチナーンチュへの語りかけ

沖縄勤務時代、県民と在沖米軍人との間の相互認識の差異から生じる緊張関係に直面し、それを出来るだけ縮め、両者の間にもっと合理的な「是々非々の関係」を促進出来ないものかと、いろいろ悩んできた。そうした中から、筆者のささやかな経験を以下に紹介したい。
 筆者は2001年6月11日、沖縄経済同友会の6月例会で講演をする機会を得、在沖米軍基地問題に関する県民と県外の人たちとの間の認識の差異、県民と在沖米軍人との間の相互認識の差異に焦点を当て、日頃から考えていることを次のように述べた。

*沖縄に来てすぐに言われることは、本土の人は県民の痛みに対する同情の念が薄い、痛みを理解しようとしないということである。

*沖縄県外の人が、日米関係や日米安保体制について質問される場合には、「第二次世界大戦は遠い過去のことであり、日米同盟は今ではアジア・太平洋地域の平和と安定の基礎となっている」、「日米関係の幅と広さは他の二国間関係に見られないほどまでに発展している」、「お互いに重要なパートナーと認識しており、対立、対決すべき相手とは捉えていない」といった認識を示すのが一般的であろう。

*他方、多くの沖縄県民は、沖縄戦争、米軍占領、米国施政権等々の歴史的体験を現在でも鮮明に記憶しており、日米関係を未来志向に置くという気持ちにはなりにくい。稲嶺県政の下で日米安保体制は是認されるようになったが、基地負担の軽減を求め、米軍基地の整理縮小を求める声は同県政以前と変わっていない。米軍を「対立軸」、「対決軸」で捉える傾向にあり、米国を重要なパートナーとして捉える認識はあまりない。

*米国の有識者は、多くの米軍基地を抱えている沖縄の県民が日米安保体制の維持に「貢献」してくれていると考えている。米国側はこの「貢献」に対し「感謝の気持ち」を持っており、在沖米軍、特に幹部はその気持ちから、県民に出来るだけ迷惑をかけてはならないとの基本姿勢を示し、兵隊の教育にも当たっている。他方、県民側の意識からすれば、これは「貢献」というよりも「負担」ということになるのであろう。

*その上で、「客として沖縄にいる以上、ホストである県民に対して礼儀正しく振る舞う必要があると兵士達に教育している」と当時在沖米軍関係者から何度となく聞いていた話しを紹介しつつ、“この論法は私にはよく理解できるが、恐らく県民側からすれば、在沖米軍は日本政府の招いた「客」であったとしても、自分たちの招いた「客」ではないという意識の方が強いであろう。

*日米は友好関係にあり、沖縄においても米国、米国人と幅広く深い関係を築き、県、米軍、国の三者間が「是々非々の関係」となることを可能にしようではないか。

講演に続いて行われた質疑応答の際に、同友会会員から次ぎのようなコメントが寄せられた。

*日米安保体制は日米両国政府の問題である。県内の苛立ちは、県民の要求や要望に対して両国政府から目に見えた形が示されないことである。

*日米安保条約は西洋の契約という対等の
概念で結ばれているが、沖縄県民は米軍に対して対等という概念を持っていない。米軍は招かざる客と言わざるを得ない。

*県民としては例えば米国の政治家と軍人
を同じように見ることは出来ない。政治の論理と軍の論理は異なる。

(注)ここで述べた「県民の貢献に対す
る感謝」を巡る相互認識の差異の問題は、翌2002年5月の沖縄復帰30周年記念式典におけるベーカー駐日米国大使の祝辞に関連して表面化し(下記5の脚注参照)、この問題の深刻さを印象づけた。

5.アメリカーナへの語りかけ

筆者は、2001年8月3日に沖縄米国商工会議所の月例昼食会で講演を行う機会があり、出席者した米国関係者から次のような多くの質問やコメントが行われた。
(注)アメリカーナとは沖縄方言でアメリカ人のことを言う。

*県民は昔の記憶が強すぎるのではないか。

*地元メデイアに米軍非難記事が多く掲載されるのは編集局の方針によるものと思う。県民一般は、本当は友好的ではないのか。

*特定の地元政治の影響で米軍非難が強まるのではないか。

*在沖米軍人が沖縄の人たちに支配者意識を持っているというのは全くの誤りである。

*かつては政治的不適切性(要するに犯罪行為のこと)があったことは認める必要がある。

*米軍は事件事故の再発防止に真剣に取り組んでいる。

*再発防止にはもっと真剣に取り組む必要がある。

*良き隣人政策こそ最も重要なことである。

*日本政府は日米安保体制の本質を県民に説明しようと努力していないのではないか。

*米軍関係者による事件・事故が発生すると、日本政府は米軍に綱紀粛正ばかり求め、自ら動こうとしないのはおかしいのではないか。

筆者は、こうした率直な意見表明の中から、在沖米軍人の間にも「点と線」の気持ちがあることを感じ取った。つまり1995年の少女暴行事件を契機として在沖米軍幹部の意識は変化し、爾後事件・事故の再発防止に努めるとともに、その努力を客観的に評価して貰いたいという気持ちを強く持つようになったことが感じ取られた。しかし、沖縄県民は米軍幹部のこれまでの努力を評価する気持ちには乏しく、今更ながら、沖縄県民と米国関係者の間の大きな相互認識の隔離を前に、苦い気持ちを味わった。

 (脚注)「ベーカー発言」

 2002年5月19日、日本政府と県共催の沖縄復帰三十周年記念式典に出席したハワ 
ード・ベーカー駐日米国大使は、祝辞の中で、「沖縄は、第2次世界大戦後目覚ましい繁栄を遂げた地域の中心にいます。強固で効果的な日米同盟によってもたらされた安定が、非常に重要な要因となってアジア太平洋地域の平和的発展が可能となりました。日米同盟は、私たちの誰もが願う持続的な平和と安全保障を確保する上で、極めて重要な役割を果たしてきました。また、沖縄は米軍の前方展開にとって、長年にわたり重要な役割を果たしてきました。その事実に対して、沖縄以外の日本国民や米国そしてアジア太平洋諸国の人々は、沖縄県民に大きな感謝の念を抱いています。私は本日ここで、米国はこうした事実すべてを直視していくことを強調したい。私は米国政府を代表し、皆様に感謝の意を表します。米国の兵士やその家族を温かく迎え入れて下さったことや、日本と米国の友好関係、そして米国や米国の軍人と、沖縄県との間の友好関係に対して感謝申し上げます」と述べた。
 翌20日付地元紙は稲嶺知事がベーカー大使の祝辞について記者から質問を受けて“いろいろな意味の温度差がある。私どもが思っていることを必ずしもそのまま取り上げては頂けない”と答えたとして「ベーカー大使の発言、知事が批判」と報じた。
 続いて5月21日付地元紙は前日知事のもとを訪れた在日米国大使館員に対して、稲嶺知事が“温度差を感じる。普通は感謝されると喜ぶし、言った方も喜んで貰えると思ったのだろうが、沖縄は違う”と述べたとして、「稲嶺知事ベーカー発言に抗議」、「“感謝望んでいない”、あらためて不快感示す」といった見出しで記事を掲載した。
 これは県民と米国人との間の大きな認識の相違を現実に見せつけたケースであった。

6.政府関係者への助言

上述したことから、一口に米軍基地問題に対する沖縄県民意識といっても、その深層心理は複雑であり、単純化した判断は当てはまらないことが、読者にはお分かりいただけると思う。政府は普天間飛行場移設について県民の理解を深めることが重要と述べているところ、こうした複雑な県民意識及び筆者の沖縄勤務経験を踏まえ、今後の沖縄との対話を行うに際し、政府関係者に心得て貰いたい点の幾つかを以下で説明したい。

(1) 沖縄県民は米軍基地問題を「線上」で捉えつつ、色々な機会を通じて、政府の「本気度」を試している。その中でも総理大臣の「本気度」が最も真剣に試されている。同時に、総理大臣の確固たる指導の下、政府が一体となって同問題に取り組んでいるかが厳しく試されている。歴史的経緯を無視或いは軽視した「思いつき」発言、基地周辺住民に対する「にわか」同情論、関係大臣、関係省庁間の「不協和音」や「ちぐはぐ」な言動などは、県民の不信感を増大させ、政府の「本気度」を損なうだけである。政府関係者はこうした点に常に留意していくべきである。

(2) 沖縄県民の深層心理は極めて複雑であり、本音と建前の違いを見分けるのはなかなか難しい。特に日頃温厚な県民が基地反対の抗議行動に見せる激情に接すると、本土の我々は困惑することがある。また、基地周辺の行政や議会関係者の意見と基地に土地を保有する地主、基地内で働く人たち、経済関係者等との間には、相当大きな意見の相違があることを知って、戸惑うこともある。ましてや、同じ沖縄県内でも米軍基地が存在するところと存在しないところでは、住民の意識も相当異なる。「米軍人は嫌い、アメリカ人は好き」という多くの県民の意識に接するたびに、本土の我々はウームと、うなってしまう。
他方、政府関係者の発言の中に本音と建前の差を見出そうとする県民の方の目は厳しい。例えば、沖縄振興策を普天間飛行場の移設との取引に使うことが政府側の「本音」ではないかと、日頃疑っている県民側は、政府関係者の発言の中にそうした「臭い」をかぎとるや直ちに糾弾するという図式が厳存している。本土の我々はこうしことに十分留意する必要がある。

(3) 上記(1)のことは、言い換えると、沖縄の人たちは「結論」もさることながら、それに至るプロセスを極めて重視しているということを意味している。普天間飛行場移設問題のように、今後政府として一定の結論を模索していく際には、結論に至る過程において、沖縄との対話の在り方に十分配慮する必要がある。過去1年半の間、仲井眞知事がしばしばテレビカメラの前で、「政府がよく説明してくれないので、何が何だかよく分からない」といった趣旨の発言をする姿を見るたびに、同知事の言い方は礼儀に沿ったものであるが、そこには沖縄が政府の決定プロセスからはずされていることに対する強い抗議の念が明確に表わされていると筆者は感じた。政府関係者としては、今後こうした点に益々注意していく必要があると思う。


(4) 沖縄において、米軍基地問題に対するウチナンチューとヤマトンチューの間の「温度差」の問題がしばしば取り上げられていることから、政府としては、沖縄県民の理解を深める努力と並行して、日本の安全保障政策や日米安保条約について国民に語る際には、沖縄県民の負担軽減問題が日本全体の課題であることをよく説明していくことが重要となる。鳩山内閣時代に政府が関係知事や市町村長に対して沖縄負担の本土分担を求め、強い拒否に遭った経緯があるが、やり方の功拙は別にして、沖縄県のみを選び出してそこに多大な負担の継続を求めることの深刻さは、我々日本人全体として忘れてはならないことと思う。

(5) 普天間飛行場移設問題を巡って、政府が一定の期限を区切って解決を図ることに対する是非が、メデイアにおいてしばしば取り上げられる。筆者からすれば、期限を区切ることにも、期限を定めないことにも、大きな問題があると考える。即ち、期限を区切るとなると、“政府は県民側の意見を十分に聞かずに一定の意見を押し付けようとする”と解釈されやすい。反対に、期限を区切らないと、“政府は普天間飛行場周辺の住民を危険にさらしたまま、事態を放置している”と解釈されやすい。陳腐のように思えるかもしれないが、政府の取り得る立場としては、「出来る限り早急に解決を図る」という以外にない、と筆者には思える。

(6) 筆者は、これまで普天間飛行場の辺野古地域移設を巡る議論において、本土の関係者が「ガラス細工」のようなもの、「多元方程式の解」を求めるに等しい、といった表現を用いてきたことに対し、違和感を持ち続けてきた。そのような「腫れ物に触る」発想ではなく、もっと率直でオープンの対応が必要であると信じている。
たとえ、沖縄の人から、ウチナンチュー、ヤマトンチューとか言われたとしても、本土の人間が沖縄県民を特殊扱いすることは間違いであると思う。勿論、これまでの歴史的経緯をよく踏まえ、沖縄県民の複雑な深層心理に十分配慮すべきことは当然であるが、同時に沖縄県民が日本人でることを忘れてはならない。重要なのは、現在与えられた国内的、国際的環境の下において、政府が沖縄県民のため、日本国民のため、最大限の努力を重ねることである。問題は、いまだにそこに至っていないと沖縄県民に受け取られていることである。陳腐な言い方かもしれないが、術策を用いることなく、正々堂々とした態度で在沖米軍基地問題に向き合うことが、一番適切なやり方であると強く考える。

(7) 既述のように、過去における県民意識調査の推移を見た場合、米軍基地に対する理解度が高まった2001年においてすら基地の存続を容認する者の割合は50%に満たず、恐らく現時点で調査を行うならば、それは50%を割っていると推測せざるを得ない。従って、“不満ではあるが政府も様々な面で最大限の努力したことでもあり、現状ではこの程度で政府決定を受け入れることも止むを得まい”といった意識が県民側に生まれるまで、政府が真摯かつ一貫した努力を重ねていくしかないように思われる。
(了)

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密約問題(1) 2011.01.01




「密約」問題(一)     



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                  元駐米大使  栗山 尚一

 はじめに

 去る3月9日、いわゆる「密約」問題に関する外務省の調査チームの報告書及びその内容を検証した有識者委員会(座長・北岡伸一東大教授)の報告書が公表された。両報告書の対象とされたのは、具体的に次の四事案である。
1.安保条約改訂時(1960年)の、核持ち込みに関する「密約」
2.安保条約改訂時(1960年)の、朝鮮半島有事の際の戦闘作戦行動に関する「密約」
3.沖縄返還時(1972年)の、有事の際の核持ち込みに関する「密約」
4.沖縄返還時(1972年)の、原状回復補償費の肩代わりに関する「密約」
これら四つの事案は、いずれも従来から米国政府の公開文書や元政府高官の発言等を根拠に「密約」(日本政府の公式の説明と異なる日米間の不公表の合意あるいは了解)の存在が論じられてきたものである。
 私は、60年の安保改訂時には、当時の経済協力部(後に局に昇格)に勤務していたので、改訂交渉には傍観者であった。しかし、後に条約局(現在の国際法局)で安保条約関係の仕事を担当するようになってからは、様々な形でこの四事案に関与するようになり、その間、色々と考えたり悩んだりした。フラストレーションが溜まり、余り良い思い出が残らない経験であった。


 今回の外務省と有識者委員会の調査、検証の結果、多くの文書が公開され、かなりの程度まで「密約」問題の実体が明らかになった。事実関係の多くは、私がすでに承知していたものであるが、中には、佐藤栄作総理の遺族が保管されていた、同総理とニクソン大統領が署名した極秘文書(返還後の沖縄への核兵器の再持ち込みを許容する趣旨)のように、私が全くその存在を知らなかったものもある。各事案についての有識者委員会の評価は、概ね私も同意できる内容であるが、部分的には、私の理解と異なるところもある。


 私は、有識者委員会の要請に応え、約三時間に亘って四事案について私が知り、理解していることを説明した。本稿は、その内容を中心に「密約」問題に関する私自身の評価と若干の所感をとりまとめたものである。読者のご参考になれば幸いである。

核持ち込みに関する「密約」


 私は、1968年から条約局で安保条約担当官となった機会に、60年安保改訂の歴史を勉強し、69年からは、沖縄返還交渉に参画したが、その間に、核兵器の持ち込みに関する政府の国内説明(国会答弁)に強い疑問を抱くようになった。すなわち、政府の公式の立場は、「核兵器を搭載した米軍艦の寄港、領海通過は核兵器の持ち込みに該当するので、安保条約に基づく事前協議の対象となり、事前協議があれば、非核三原則に基づきノーと言う」というものであった。(因みに、この立場は今日も変わっていない。)
 それでは、米国は、この日本政府の立場を受け入れていたのであろうか。米国の核戦略は、1950年代後半に、核弾頭の小型化と、それに伴う戦術核の張ったにより大きく変化した。すなわち、米国は、陸海空三軍に多種多様の戦術核を配備すると共に、そのような核兵器の具体的所在(特定の艦船、航空機の核搭載の有無を含む)については、「肯定も否定もしない」(neither confirm nor deny)、英語の頭文字をとったNCND政策が確立される。(こうした米国の核政策の歴史については、有識者委員会の報告書においても触れられている。)NCND政策の目的の一つは抑止力の維持であるが、今ひとつは、海軍の機動力の確保である。核装備艦が特定されると、その寄港、通過を拒否する国が続出し、艦隊の運用が著しく制約されることになりかねない。したがって、NCND政策は、平時、有事を問わず、グローバルに維持される必要があるのである。このことから一見して明らかなように、米国が事前協議制度に同意するためには、その前提として、核搭載艦の寄港、通過を同協議の対象外としなくてはならない。(同じことは、核搭載機の一時的飛来にも当てはまる。)米国が、安保改訂に際し、核兵器の持ち込みを、NCND政策の例外として、事前協議の対象とすることに同意したのはそのような協議を必要とする事態が稀にしか生じない、と想定していたと考えるのが自然である。そして、そうした事態とは、陸上への核兵器の配備を意味すると思われる。
 寄港、通過を事前協議の対象とするとの日本政府の立場には、基本的な矛盾があった。すなわち、一方では安保改訂の最も重要な目的として、米国の明確な対日防衛コミットメントを求めながら、他方で米国の日本防衛能力の中核である海軍(第七艦隊)の行動に重大な制約を課そうというのである。これでは、米国の核を含む軍事的傘の下に入ることを選択したにも拘わらず、その傘に大きな穴をあけようとするに等しい。この矛盾は、佐藤栄作総理が、68年冒頭に国会での施政方針演説で非核三原則を宣言したことにより、一層深まった。(非核三原則は、事前に外務省が協議に与ることなく、一方的な官邸主導で総理演説に盛り込まれたものである。)
 私は、このような安保体制の基本に係わる問題についての日米の立場の食い違いがどうして生じたのかを知りたいと考えた。そこで六年に及んだ条約局在職中(68~74年)、安保改訂交渉当時の書類を調べたり、交渉に携わった経験がある先輩、上司の記憶を確認したりした。その結果、二つの重要な事実が判明した。
 一つは、58年から60年にかけての安保改訂交渉の過程で、核搭載艦の寄港通過を事前協議の対象とすべきか否かについて、日米間で話し合われたことを示す記録が日本側(外務省)に存在しないのみならず、この問題に関する政府の対米交渉方針が書かれた文書も見当たらないことである。(交渉開始前の段階で、外務省が「臨時に国内に入る」船舶、航空機も事前同意の対象とする案を準備していた記録があるが、同案は結局交渉では使用されなかった。)
 今一つは、新安保条約発効後の60年代における、この問題に対する米側の対応である。今回の「密約」問題に関する外務省の調査チームの報告書と共に公表された文書の中で、東郷北米局長(当時)が書き残した、昭和43年(1968年)1月27日付けの極秘メモがある。その内容は、前日に、返還前の小笠原視察途上の機中で交わされたジョンソン駐日大使と牛場外務次官、東郷局長との間の会話を記録したものであるが、その中で、ジョンソン大使は、核搭載艦の寄港が核の「持ち込み」に該当しないというのが米国政府の了解であり、この点については、五年前の63年に当時のライシャワー駐日大使から大平外務大臣に指摘した経緯がある旨述べている。(この大平・ライシャワー会談は、米大使公邸での朝食形式で行われ、同席者がなく、日本側に記録が残っていない。)その際に、ジョンソン大使が米側解釈の根拠として言及したのが、藤山外務大臣とマッカーサー大使がイニシアルした60年1月6日付けの「討議の記録」(Record of Discussion)と呼ばれる文書である。
 この文書は、以前から米側では公開されており、日本の研究者や報道関係者等の間では、核持ち込みの密約の根拠とされてきた。同文書は、事前協議制度を定めた交換公文の解釈について、四項目の了解事項を記録したものである。四項目(2項のA~D)のうち、核兵器の持ち込みに直接関連があるのはA項であり、同項は、交換公文にいう「装備における重要な変更」とは、「中距離ミサイル及び同兵器のための基地の建設を含む、日本国への核兵器の持ち込み(イントロダクション)を意味する」 と規定している。これは、政府がいわゆる「藤山・マッカーサー口頭了解」の一項目として明らかにしており、口頭が実は文書化されていたということを別にすれば、新しい内容のものではない。問題とされていたのは、C項である。同項には、配置における重要な変更の場合を除き、米軍機の飛来、軍艦の領海、港への進入に際し適用される現行の手続きは、事前協議の影響を受けると解してはならない旨の規定があり、これが、米側(ジョンソン大使等)により、核搭載艦、航空機の一時的立ち寄り(transit)は事前協議の対象にならないとの日米間の了解の根拠とされ、また、日本の研究者等によっても、密約の存在を示す文書であると論じられた。
 しかし、この「討議の記録」の規定をもって日米間の了解とみなすことには、幾つかの疑問点がある。まず第一は、規定の表現が曖昧で、意味がはっきりしないことである。この点は、有識者委員会も指摘しており、私も最初に条約局で「討議の記録」を読んだときには、C項は、事前協議の対象となる「配備における重要な変更」(師団規模以上の米軍の日本への新たな配備)に該当しない規模の米軍の配備、通過に伴う入港手続き等を定めたものかと想像しながら、なぜこうした規定が必要なのか、と不思議に思ったものである。疑問点の第二は、安保改訂交渉の過程で、米側がC項の意味を日本側に説明した形跡(交渉記録)が存在しないことである。そして第三の疑問点は、日本側交渉担当者の間で、C項が核搭載艦の寄港と関連がある規定と認識した者がいなかったということである。外務省事務当局の中で改訂交渉において中心的役割を担った東郷安全保障課長(当時)が作成した、60年6月付けの交渉経緯をまとめた極秘調書(今回公開)が存在し、その中で同課長は、「討議の記録」の交渉内容を記録しているが、この問題については、「米軍の日本出入の手続きには変更なきこと」で合意したと簡単に触れているのみなのである。
  東郷課長は、八年後の68年に北米局長としてジョンソン大使とのやりとりを記録したメモを残す(  頁参照)。その中で同局長は、安保改訂交渉を通じ、「我方は総ての『持ち込み』(introduction)は事前協議の対象であるとの立場をとり、艦船航空機の『一時的立ち寄り』について特に議論した記録も記憶もない」とし、さらに、ジョンソン大使が指摘した「討議の記録」の問題の規定については、「日本側交渉当事者は、(中略)『一時的立ち寄り』に関するものとは思っていなかったのが実情である」と述べ、最後に、今後の対応についての同局長自身の意見を次のように記している。
「本件は日米双方にとりそれぞれ政治的軍事的に動きのつかない問題であり、さればこそ米側も我方も深追いせず今日に至ったものである。差当たり、日本周辺における外的情勢、或は国内における核問題の認識に大きな変動ある如き条件が生ずる迄、現在の立場を続けるの他なしと思われる」
この東郷メモは、当時の三木外務大臣と佐藤総理にも回覧された旨欄外に記録されており、両者の了承を得たものであろう。
 この牛場・ジョンソン会談は、核持ち込みに関する「密約」問題では、重要な節目になった出来事である。すなわち、同会談以後米側は、「現在の立場を続けるの他なし」との東郷局長の結論を事実上受け入れざるを得ないことを認め、その結果として、日米間に次のような「暗黙の合意」が成立したのである。
日本側は、(1)核搭載艦の寄港、通過は事前協議の対象であるとの従来の国内説明を維持する(航空機も同様)が、(2)このことについて、米国政府の確認は求めない。
米側は、(1)事前協議の義務は遵守する、(2)NCND政策は維持する。
 有識者委員会の報告書は、この「暗黙の合意」をもって「広義の密約 」であるとし、そのような「広義の密約」は、「安保改訂時に姿をあらわし、その後1960年代に固まった」と述べている。しかし、私は、そもそも、安保改訂交渉時を含め、68年に米側が日本政府の国内説明の修正を求めることを諦めるまでは、日米間には、いかなる意味での合意も了解も存在しなかったと考えている。      「密約」問題(二)へ続く

i 「広義の密約」とは、余り聞き馴れない概念であるが、有識者委員会は、これを「明確な文書による合意でなく、暗黙のうちに存在する合意や了解であるが、やはり、公表されている合意や了解と異なる重要な内容を持つもの」と定義している。いずれにせよ、これは当事者を拘束する国際約束ではない。

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密約問題(2) 2011.01.01

「密約」問題(二)     元駐米大使 栗山 尚一

核持ち込みに関する「密約」(続)

 前稿のポイント
・安保改訂交渉において、核搭載艦、航空機の寄港、立ち寄り(transit)を事前協議の対象とすべきかについて日米間で話し合われたことを示す記録は日本側には存在しない。(「討議の記録」をもって、事前協議の対象外との米国の立場を日本が受け入れた根拠とするには、疑問点が多すぎる。)
・1968年以降は、この問題に関する日米の立場について、"agree to disagree" もやむなし、とする「暗黙の合意」が成立した。


 私は、1974年の春に条約局での勤務を終えて、在米大使館に赴任したのであるが、この事前協議に関する「暗黙の合意」がいつまで持つか、薄氷を踏む思いであった。
 ワシントンに着任して間もなく、私は、信頼できる旧知の米国政府職員某に、絶対にソースを明かさないとの約束の下に、「安保改訂交渉の過程で、核搭載艦、航空機の寄港、飛来を事前協議の対象とすべきかという問題について、日米間で話し合われた記録が存在するか調べてくれないか」と頼んだ。しばらくしてから彼がくれた返事は、該当する交渉記録は見当たらなかった、というものであった。このことから、私は二つの結論を得た。一つは、安保改訂に際し、この問題に関する「密約」(不公表の政府間合意)は存在しないという事実であり、今一つは、その結果生じた日米間の解釈の相違については、米側にも一半の責任があるということである。
 しかし、当然のことながら、密約の不存在だけでは、真相が解明され、問題解決の緒が見つかったことにはならない。
 そもそも、岸総理は、新安保条約の下で事前協議制度を導入することにより、「核兵器の持ち込み」問題をいかに処理しようと考えていたのであろうか。私は、「平時はノー、有事は別」というのが同総理の基本的考えであったと思っている。すなわち、平時の持ち込みは認めないが、日本の安全に重大な脅威が生じた状況の下では、別の判断があり得るということである。同総理の考えを示す確証がある訳ではない。しかし、これは、国の安全を与る最高責任者としては当然もたなくてはならない常識であり、すぐれて現実主義の政治家であった同総理が、「持ち込みは常にノー」という絶対反核(核の抑止力否定)の考えを持っていたとは考えられない。また、「平時、有事を問わず常にノー」というのでは、事前協議は制度として成り立たないことは、同総理も理解していたと思われる。
 それでは、「平時はノー」という場合に、岸総理は、核搭載艦の一時寄港もその対象に含まれるべきと考えていたのであろうか。常識的に考えれば、同総理が、外務省あるいは防衛庁の事務当局からの説明を受けずに、当時の米国の核戦略(戦術核の配備態勢とNCND政策)についての必要な知識を有していたとは思えない。他方、説明を受けていれば、平時においても横須賀や佐世保に随時出入りする米海軍の艦船に「平時はノー」の原則を適用することには無理があると理解したであろう。現実に同総理が、一時寄港も事前協議の対象とする方針で米側と交渉すべしと外務省に指示した証拠はない。逆に同総理は、後年(81年)朝日新聞とのインタビューで、「日米安保条約の改訂交渉の時には、核装備の艦船や飛行機による寄港、通過の問題は(日米間の)話になっていない。核を持ち込んで基地を作る(場合には、事前協議が必要になる)というような、大所高所からの議論だった」と述べているのである(有識者委員会報告書35頁、脚注44)。
 交渉の争点となることが予想されるような重要な問題に関する必要な情報を総理、外務大臣に提供し、交渉方針についての指示を求めることは、事務当局の当然の責任である。ところが、不思議なことに、この一時寄港の問題については、これを事前協議の対象にしようとすれば米国のNCND政策と真っ向から対立することが明らかであるにも拘わらず、外務省がそのような問題意識を持って政治レベルの判断を求めた形跡がない。前稿で取り上げた交渉経緯に関する東郷調書は、この問題に触れておらず、68年の東郷局長のメモも、「総ての持ち込みは事前協議の対象であるとの立場」をとったとしながらも、「総ての持ち込み」が何を意味するかは不明であり、一時寄港については、「特に議論した記録も記憶もない」と述べているのみなのである。
 ここから先は、推量するよりない。可能性としては、三つのことが考えられる。一つは、外務省スタッフの軍事知識の欠如である。しかし、50年代後半から始まった戦術核兵器の軍艦、航空機への配備と、これと密接な関係にあるNCND政策は、とくに専門知識を必要としない公知の事実であったから、外務省の交渉担当チームがこうした米国の核戦略に気づかなかったとは考えにくい。
 第二の可能性は、日本側(政治レベルを含む)が、日米の立場の相違を認識しつつも、交渉がまとまらなくなることを恐れて、敢えて曖昧な形で問題を詰めなかったというものである。これは、有識者委員会の結論でもある。しかし、この推論には、二つの点で無理なところがある。まず第一に、核の持ち込みというような、重要かつ機微な交渉上の争点について、意図的に問題を未解決なままに放置しておくことには高度の政治的リスクを伴う。したがって、政府部内において、政治レベル(総理、外務大臣)と事務レベルの間で、万一の場合の危機管理や後の政権への引き継ぎを含め、きちんと意思統一を図っておかなくてはならない。第二に、このような問題の処理は、当然日本側だけでは完結しないから、交渉相手の米側にも問題意識を共有してもらい、その協力を得る必要がある。ところが、日米間はもちろん、政府部内においても、そのための話し合いが行われたことを示す記録が見当たらないのである。
 そこで、第三の可能性として、次のようなシナリオが浮かび上がる。すなわち、日本側の事務レベル(外務省)は、「総ての持ち込み」(東郷メモ)に核搭載艦、航空機の立ち寄りを含めることに米側が同意する余地がないことを当初から認識していたから、敢えて交渉においてこの問題を提起せず、また、そのような対処方針について、政治レベルの了承を取り付ける必要もないと考えた、というものである。私は、これがこの「密約」問題の真相なのではないかと推察する。このように考えると、前稿で触れたように、外務省が準備していた、一時立ち寄りの船舶、航空機も事前同意の対象とする案をなぜ米側に提示しなかったのかとの疑問が解けるし、また、この問題が日米交渉の具体的争点にならなかった理由も分かる。
 しかし、この仮設が正しいとすれば、なぜ政府は、安保国会以後一貫して、核搭載艦の寄港も事前協議の対象になる(事前協議がない以上、核の持ち込みはない)との国会答弁を続けたのであろうか。この疑問に対する私の答えは、国民の強い反核感情を背にした野党の厳しい攻勢に譲らざるを得ないと考えた政府・与党と、これを支えざるを得なかった外務省事務当局の合作ということである。そして、実体と異なる虚構の国内説明を続けていくうちに、軌道修正が政治的に不可能になったのである。その典型的な例は、核搭載艦の領海通過の問題である。当初政府は、国際法の無害通航権を理由に、領海通過は事前協議の対象外としていたが、野党の追及に遭い、68年(佐藤政権)の政府統一見解により、通過も事前協議の対象とされるようになった。
 それにしても不可解なのは、この間の米側の対応である。NCND政策は、米国(特に米海軍)にとって、たとえ同盟国の要求であっても譲ることができない、グローバルな核戦略の重要な柱である 。それにも拘わらず米側は、安保改訂交渉において、NCND政策と事前協議制度とをいかに両立させるかについて、日本側と詰めることをしなかった。そして条約成立後も、日本政府の国内説明を知りつつ、前稿で述べたとおり、63年の大平・ライシャワー会談まで、それを問題視することがなく、その後も、68年の牛場(東郷)・ジョンソンの機中会談までの五年間、日米の解釈の違いを事実上黙認していたのである。私にとっては、これは未だに解けない謎である。
 「暗黙の合意」にとっての最初の危機は、私がワシントンに赴任してから半年後の74年9月に発生した。米海軍のラロック退役少将(当時国際情報センター所長)が、議会の公聴会において、核搭載艦が外国の港に入る際に、予め核兵器を降ろすことはないと証言したことが日本で大きく報道されたのである。事態を重視した外務省は、木村外務大臣の了解を得て、松永条約局長(当時)が中心となり、核搭載艦の一時寄港と領海通過を事前協議の対象外とする方向で従来の国内説明を実質的に修正することを考えた。11月のフォード大統領訪日の際の日米首脳会談の機会に、田中総理から問題提起を行い、大統領の理解を得た上で、新たな「イントロダクション」の定義について米側と話し合おうというのが、外務省が描いたシナリオであった。しかし、このシナリオは、田中内閣がロッキード事件が原因で12月に退陣に追い込まれ、陽の目を見ることはなかった。(この間の経緯は、有識者委員会の報告書の中で明らかにされている。)私は、当時ワシントンで、この問題に関する安川大使と米側(ハビブ国務次官補)との非公式な話し合いのために、同大使のお手伝いをしたことを覚えている。
 第二の、そしてより深刻な危機が、81年5月にやってきた。ライシャワー元駐日大使が、毎日新聞の古森記者とのインタビューで、核搭載艦の寄港は事前協議の対象である「イントロダクション」に当たらず、これについては、日米間に口頭了解が存在すると語ったことが大々的に報じられたのである。元駐日大使の発言には、ラロック証言とは比較にならない重さがあった。世論調査では、国民の80%が核兵器の持ち込みはないとの政府の説明を信用していない、との数字が出た。私(当時条約局審議官)は、強い危機感を覚えた。安保体制そのものの信頼性が失われようとしてると思われたからである。事態を放置すべきではないと考えた私は、解決策の試案(一定の条件の下に寄港、通過を事前協議の対象外とするもので、対米交渉、国内説明等についての案を含む)を起草し、条約、北米局長と事務次官に諮った 。しかし、理由はともあれ、長年に亘る国内説明を変えることに伴う大きな政治的リスクに政権が耐えうる状況ではないとの判断で、この試案は凍結ということになった。ライシャワー発言の直前に、日米同盟は軍事を含まないとの鈴木総理(当時)の問題発言に端を発し、伊東外務大臣と高島外務次官が辞任するという事態が生じていた。こうした不安定な政情では、現状維持以外に選択肢なし、との判断はやむを得ないことであった。
 こうして、日米の不透明で脆弱な「暗黙の合意」はさらに10年、冷戦が終わるまで続く。しかし、ブッシュ(父)政権によるポスト冷戦の核戦略の見直しの結果、91年9月に、平時においては、戦略核システム(SLBM潜水艦と戦略爆撃機)以外の艦艇、航空機に核兵器を搭載しないことが決定され、「トランジット」問題は、有事の場合を除き、事実上解消されたのである。それでも、有事に際し、非核三原則と「核の傘」の矛盾をどうするかという課題が残る。「平時はノー、有事は別」というのが岸総理の考えであったとの推量が正しいとすれば、私は、今一度この安保改訂時の原点に戻るべきではないかと思う。因みに、「国家の危急存亡の事態においては、最終的には、政府の責任において(事前協議に際し)諾否の判断をすべきことは当然である」というのが、私が81年の試案で提示したこの問題に対する答えである。
 最後に付記したいことがある。
 内外の情勢が大きく変わるまでは、「現状の立場を続けるの他なし」とした68年の東郷メモは、その後北米局長の手元に保管され、新任の総理、外務大臣に次官がその内容を説明することになっていた。私も、この申し送りに従い、89年8月に、中山外務大臣と海部総理に説明し、現状維持につき了承を得た。その際、説明内容の要点をメモ書きにして東郷メモに添付した(今回東郷メモと共に公表)。その結論として、「双方の立場につき互いに詰めないとの立場を了解。但し『密約』はなし」と書き留めた。最近亡くなられた村田元次官が、昨年複数の報道機関とのインタビューで、この問題に関する秘密の了解を記録した和文の一枚紙を、次官交代時に私に引き継いだと述べ、これが密約の存在を示す有力な証言と報じられたが、真相は、私のメモの通りである。
 安保改訂以来の核持ち込み問題の経緯を振り返ってみると、政府は「国民に真実を知らせなかった」との批判を甘受しなくてはならない。政治レベルは、実体と矛盾した国内説明を正す決断をなし得ず、事務レベルは、対米交渉に際して、政治レベルに適切な助言を行わず、その後は、信憑性がない国会答弁の積み重ねをもたらした責任は免れない(私もその一人である)。しかし、視点を変え、安保改訂の過程で、日米双方がより透明性がある形でこの問題を処理しようとしたら、どうなったであろうか。その場合、事前協議制度の導入を前提とすれば、日本側には米側のNCND政策を尊重する以外の選択肢はあり得なかった。岸総理がそのことを率直に国民に訴えたとしても、当時の世論は、そのような安保条約を受け入れたであろうか。60年の激しい安保反対運動を思い起こすまでもなく、私は疑問を感じざるを得ない。 (続く) 1月中旬頃に掲載予定



 現に米国は、80年代半ばに、核兵器を搭載しないことを明示しない外国艦船の入港を認めないとするニュージーランドのロンギ政権と対立し、遂に86年に、ANZUS条約に基づく米国の防衛義務を一方的に撤回した。



密約問題(3) 2011.01.17

「密約」問題(三)     元駐米大使  栗山 尚一

 今回は、残りの三事案のうち、朝鮮半島有事と事前協議及び沖縄への核兵器の再持ち込みについて考察し、三つ目の沖縄返還時の原状回復費の肩代わり問題は、次回に譲る。

 朝鮮半島有事と事前協議に関する「密約」

 安保条約と一体をなす岸・ハーター交換公文(正式には、条約第六条の実施に関する交換公文)に基づき、戦闘作戦行動発進のための基地の使用(日本防衛に対処する場合を除く)は事前協議の対象と定められている。(同様に事前協議の対象とされている、核兵器の持ち込みに関しては、日米間に重大な解釈の相違が生じたことは、拙稿(一)及び(二)で詳しく論じた通りである。)
 ところが、この事前協議制度に関する交渉の過程で、米側から難問が提起された。朝鮮半島における不安定な情勢を背景に、米側は、将来北朝鮮により停戦協定が破られ、朝鮮半島有事が再発した場合、在韓米軍(国連軍でもある)支援のために、即刻日本の基地から戦闘作戦行動を起こさなくてはならない緊急事態が生じることも予想されるので、そのための手当をしておく必要があると申し入れてきたのである。要するに、このような緊急事態下の戦闘作戦行動の発進は事前協議の対象外とすることを日米間で合意しておきたい、ということである。
 東郷調書 によれば、当初日本側は、米側の要求をそのまま受け入れることはできないとして、事前協議の例外は認めないとの原則を崩さずに、何とか交換公文の表現上の工夫で妥協の余地がないかと折衝に努めた。しかし、この問題を重視した米側は譲らず、最終的に、新条約に基づき設置が予定されている安全保障協議委員会 の議事録(minutes)形式で、米側の要求に沿った不公表文書を作成し、これに藤山外務大臣とマッカーサー駐日大使がイニシャルすることで決着をみたのである。これが「朝鮮議事録」(Korea Minutes)と呼ばれている文書であるが、今回「密約」問題で調査の対象となった四事案のうちで、私見では唯一「密約」に該当するものである。
 米国が、緊急時における事前協議の免除にこだわった背景には、日本政府に対する不信感があったように思われる。まず第一に、日本側が、安保改訂交渉の当初から、事前協議を専ら米軍の行動を制約するための仕組み(いわゆる「歯止め」)と考えていたことは、米側もつとに承知していたから、事前協議に対する日本政府の肯定的回答は容易に得られないと予想していたであろう。また、米側は、日本政府の政策決定には時間がかかることも知っていたから、緊急事態であっても、総理大臣の迅速な返事は期待できそうもない、と考えていたであろう。そうであれば、米側が、朝鮮半島有事となれば、時間的余裕の有無に拘わらず、事前協議を省略したいと考えたとしても不思議ではない。
 沖縄返還交渉が本格化したのは69年6月の愛知外務大臣の訪米からであるが、私も、同年8月から中島条約課長(当時)の下で、11月に予定されている佐藤総理の訪米の際に発出される共同声明の準備作業に参画する形で、返還交渉に携わることになった。日本側が目指したのは、核抜き・本土並みによる返還の基本方針に米側の同意を取り付け、その旨を共同声明に明記することであった。しかし、そのためには、米側の最大の関心事である、返還後の在沖縄米軍基地の極東有事の際の使用態様(自由使用に限りなく近い態様を求める米側に対し、日本側はできる限り制約された使用)について、双方の立場の接点を見出さなくてはならなかった。
 この問題は、基本的には日本側の立場を米側が受け入れる形で交渉がまとまった。具体的には、共同声明の中で総理大臣が、極東(韓国、台湾地域)の安全なくして日本の安全は維持できないとの認識を述べ、「日本政府のかかる認識に照らせば、(本土並み)による沖縄の施政権返還は、日本を含む極東の諸国の防衛のために米国が負っている国際義務の効果的遂行の妨げになるようなものではないとの見解を表明」し、大統領がこれに同意する旨が述べられた。さらに、先に「朝鮮議事録」に関連して述べた、事前協議に対する米側の不信感を取り除くために、ナショナル・プレス・クラブでの総理演説に、韓国に対する武力攻撃に対処する必要が生じた場合には、事前協議があれば、「前向きに、かつ速やかに態度を決定する」との一方的声明を盛り込んだのである。すなわち、朝鮮半島有事であっても、事前協議でイエスと言うことを予め法的に約束することはできないが、限りなくそれに近い政治的なコミットメントは与えましょう、というのが日本政府がとった立場であり、米国政府も、この政治的コミットメントを信頼して、本土並み返還に同意したのである。
 私は、条約課で安保条約を担当するようになって、朝鮮議事録の存在と経緯を知った。そして、この文書は、単に政治的に問題がある(有事に際し、米国は、時間的余裕があっても事前協議なしで行動する可能性がある)ばかりでなく、法的にも疑義がある(国会の承認を得た交換公文の行政府限りでの部分的修正)と考えるようになった。そこで、共同声明が合意されれば、同議事録は実質的意味を失うので廃棄すべきことを上司に意見具申し、その方向で米側と交渉するよう北米局に申し入れたのである。しかし、その後総理訪米が間近に迫った頃に、北米局から、米側が同議事録の存続にこだわっているので、これ以上わが方が廃棄に固執しないことを了承して欲しいとの要請があり、条約局としては不本意ではあったが、廃棄を諦めざるを得なかった 。
 それでは、朝鮮議事録は、今日ではどのような意味を持っているのであろうか。そもそも、同議事録の正当性は、1950年に朝鮮戦争が勃発したときに、国連統一司令部を設置し、その下で韓国防衛のために参戦した米軍等の加盟国の軍隊に「国連軍」の名称の使用を認めた安保理決議に依拠しているのである。しかし、例えば94年に、北朝鮮の核開発を巡って朝鮮半島の軍事的緊急が一気に高まった時のことを考えてみよう。もし当時北朝鮮が暴発し、米国が韓国防衛のために武力を行使しなくてはならない事態になったとすれば、その武力行使の正当性を40年以上も昔の安保理決議に求めることは(現在も国連統一司令部は存続していると言っても)、いかにも説得力に欠けると見られよう。その場合、米国は、新たな安保理決議がなくとも、米韓条約に基づく自衛権の行使で武力行使の正当性を説明できると判断するであろう。そうなれば、朝鮮議事録の有用性は失われ、米国は、事前協議で戦闘作戦行動のための基地使用につき、日本政府の許諾を求めることになる。これが、同議事録の今日的意味についての私の結論であるが、この結論が妥当とされるためには、69年の日米共同声明と佐藤総理の演説に基づく日本政府の政治的コミットメントが維持されなくてはならない 。

 核再持ち込みに関する「密約」

 「核抜き」は、言うまでもなく、「本土並み」と並んで、佐藤政権が実現した沖縄返還の二本柱の一つであった。私は、朝鮮議事録問題の考察で述べたとおり、当時条約課の事務官として69年の日米共同声明の起草作業に加わったのであるが、核抜きに関する合意を盛り込んだ同声明の第八項は、私が起案したものであり、後に東郷大使から「わが方条約局苦心の作」(東郷文彦「日米外交三十年」)とのお誉めの言葉を頂いた。
 この事案の最大の問題は、「核抜き」(沖縄からの核兵器の撤去)自体よりも、返還後に生じうる有事に際し再持ち込みができる余地を確保したい、との米側(特に軍部)の固い立場にいかに対応するかということであった。実際に米側は、69年5月のNSC(国家安全保障会議)の決定により、交渉の最終段階で日本の撤去要求に応じることを内々決めていたのである。(但し、そこには、緊急時の核兵器の貯蔵と通過権の確保という条件が付いていた。)日本側は、当時そのことを知る術もなかったのであるが、後に、振り返ってみると、ニクソン政権は、すでに中国政策の転換を考え、戦略的価値が乏しくなっていた中距離ミサイルの沖縄からの撤去を、中国向けのシグナルと日本への譲歩という、一石二鳥に使おうと考えたのではないかと思われる。
 最終的に合意された共同声明第八項の全文は次のとおりである。
 総理大臣は、核兵器に対する日本国民の特殊な感情及びこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し、大統領は、深い理解を示し、日米安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく、沖縄の返還を、右の日本政府の政策に背馳しないよう実施する旨を総理大臣に確約した。(傍線筆者)
若干の注釈を加えると、まず国民感情を背景とする「日本政府の政策」とは、佐藤総理が68年1月の国会での施政方針演説で表明した非核三原則を意味するのであるが、同原則の「持ち込ませず」の内容(平時・有事の別、寄港問題)には触れていないことが重要である(本稿(一)で述べた「暗黙の合意」参照)。核兵器の撤去が明記されていないのは、NCND政策に基づき、米国は、沖縄への核配備を確認できないとしたためである。「条約局の苦心の作」は傍線部分である。
 「本土並み」とは、返還後の沖縄には、本土と同様に事前協議制度が適用になるということであるから、沖縄への核兵器の再持ち込みについては、米国は、事前協議により日本政府の許諾を求めなくてはならない。しかし、このことは、米国は、安保体制上緊要性があると判断すれば、再持ち込みのための事前協議を提起できるということでもある。これが「事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく」の意味である。したがって、この文案は、当然のことを書いたと言えるが、見方を変えれば、これは、非核三原則は「核持ち込み」の絶対的禁止(答えは100%ノーであるから、事前協議をする意味がない)ではないことを間接的に示すことにより、米国の立場に大きく歩み寄ったものなのである。
 この案は、9月の愛知外務大臣訪米の際に米側に提示されたのであるが、先方は、核は大統領の専権事項であるとして、最後まで同案に対する態度を明らかにしなかった。そのために、本省で留守番役を務めていた私は、11月19日の第一回首脳会談後、総理に同行していた中島条約課長から、第八項がわが方案通りで合意されたことを知らされ、正直ホッとしたことを覚えている。
 ところが、その後佐藤総理が京都産業大学教授(当時)の若泉敬氏をいわゆる密使としてワシントンに派遣し、外交チャンネルの交渉と併行して、核問題についてキッシンジャー特別補佐官と交渉させたという事実が浮かび上がり、そのことを根拠に「密約」説が生まれた。当時外務省は、若泉氏のこうした動きについて一切知らされることはなかったが、最近まで私は、この若泉・キッシンジャーの裏チャンネルの交渉を通じ、何らかの実質的意味がある合意が得られた、というようなことはあり得ないと思っていた。なぜならば、一方の当事者のキッシンジャー氏が79年に出版した回想録(White House Years)の中で、若泉氏(ヨシダというコードネームを用いていたとされている)とのやり取りを詳述しているのであるが、そこで合意され、「ヨシダ」が佐藤総理の了承を得たとされている案は、まさしく共同声明八項そのものだからである。
 若泉氏が、生前の94年に著した「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」において、キッシンジャー氏との間で極秘の合意議事録案を作成し、11月19日の首脳会談に際し、別室で両首脳がこれに署名したとの経緯が書かれているのを読んでも、私は、依然としてその信憑性に強い疑問を抱いていた。したがって、昨年末、佐藤家により当該議事録が保管されていたことが明らかになったときには、大きな衝撃を受けた。
 この合意議事録は、「極めて重大な緊急事態」に際しての沖縄への核兵器の再持ち込みと通過(トランジット)に関する事前協議に対する日本政府の「好意的回答を期待する」との大統領の発言に対し、総理大臣が「事前協議が行われた場合には遅滞なくそれらの要件 を満たすであろう」と答えたとしている。これは、事前協議の結果を予断していると言う意味で、そのような合意はしないとの政府の方針とは基本的に異なり、法的にも問題がある(朝鮮議事録についての拙論参照)ことは明らかである。佐藤総理がどのような認識の下で秘密合意議事録に署名したかは謎である。しかし、同総理が当該議事録を私蔵し、外務大臣はもちろんのこと、後継総理にも引き継がなかったことを見ると、少なくとも同総理自身も、この文書の正当性に納得していなかったのではないかと思われる。
 秘密合意議事録が沖縄の「核抜き」返還にどれほど役立ったかは、米側の関連記録がないので、知ることができない 。しかし、キッシンジャー氏が自らの回想録で述べているように、「核兵器の持ち込みというような重要な決定は、昔のコミュニケの文言ではなく、そのときの状況いかんによる 」と考えていたのであれば、秘密合意議事録がなくとも、共同声明第八項で米側内部(特に軍部)を説得するには十分だったのではなかろうか。
 沖縄返還の実現に政治生命を賭けていた佐藤総理が密使を使ったこと自体は、必ずしも批判されるべきことではないが、その裏には、外交当局に対する強い不信があったことは、遺憾ながら疑いようがない 。その結果、表裏二つのチャンネルを通じた交渉相互間の整合性が失われ、戦後外交の重要な節目であった沖縄返還交渉に、二元外交という深刻なゆがみを残した。有識者委員会の報告書がこの点を指摘しなかったことは残念である。  (続く)

 i東郷安保課長(当時)の調書(六月号掲載の本稿(一)参照)。
ii 日本側外務大臣と防衛庁長官、米側駐日大使と太平洋軍司令官により構成。現在は、米側も国務、国防両長官に格上げされ、日米対等な構成、2+2と呼ばれる。
iii 朝鮮議事録廃棄問題をめぐる日米交渉については、有識者委員会報告書(54~55頁)に詳述されているので、参照されたい。
iv 新聞報道によれば、岡田外務大臣は、6月15日の記者会見において、朝鮮半島有事に際して事前協議があった場合には、「適切かつ迅速に対応する」と米政府に伝えた由である。佐藤総理のコミットメントを事実上再確認したものであろう。(2010年6月16日読売新聞朝刊)
v 「それらの要件」とは、秘密合意議事録後段記載の核兵器貯蔵施設の維持をも指していると思われるが、これは専ら米側内部の基地管理の問題であり、日米合意には馴染まないように思われる。なお、同議事録全文は、有識者委員会報告書(73~75頁)に収録されている
vi 米側が同議事録をどのように保管してきたかは、同議事録が米国政府により公開されていないので分からない。また、同政府が、この文書の法的、政治的性格をどのように認識してきたかも不明である。(但し、6月16日の新聞報道(読売新聞朝刊)によれば、岡田外務大臣が前日の記者会見で、同議事録は「今は有効ではない」と米側と確認したとのことであるが、委細は不明である。)
vii Henry Kissinger, "White House Years" 334頁
viii 当時佐藤総理が外務省事務当局を信頼していなかったことは、同総理の政務秘書官を務めた楠田実氏が日記に書き残した次の事例からも明らかである(「楠田実日記」162~163頁参照)。すなわち、原子力空母エンタープライズの佐世保寄港問題(1968年1月)への対応に当たり、同空母は核兵器を搭載していないとの軍事評論家久住忠男氏の情報を信用し、同情報の信憑性について外務省、防衛庁に確認しようともしなかった。また、同時期の非核三原則の表明に際しては、専ら若泉氏の助言に頼り、外務省の意見を徴することはなかった。いずれの場合も、もし同総理が外務省の意見を求めていたならば、NCND政策と矛盾する久住氏の情報は信頼できず、非核三原則の「持ち込ませず」は、その定義いかんでは、事前協議制度と両立しないことを理解したはずである。(なお、本稿(一)、(二)で取り上げた「東郷メモ」の欄外の記録によれば、佐藤総理が同メモを閲読したのは68年2月5日であるから、非核三原則の国会での表明前に外務省が協議に与っていれば、当然同メモのジョンソン・牛場・東郷会談の争点を知り得たであろう。)

密約問題(4) 2011.01.17

「密約」問題(四)     元駐米大使  栗山 尚一



 沖縄返還時の原状回復費肩代わりに関する「密約」


 外務省と有識者委員会の検討対象の最後に取り上げられた本事案は、沖縄返還協定第四条3項で定められている、協定発効前に地主に返還された一定の軍用地の原状回復のための費用として米国政府が行う「自発的支払」 の財源を、別途の密約で日本政府が肩代わりしたのではないか、という問題である。

 そもそもの発端は、返還交渉が大詰めを迎えていた1971年4月に、米側(事務レベルの交渉責任者スナイダー公使)が日本側(吉野アメリカ局長)に対し、米行政府は、財政支出を伴わない沖縄返還を議会に約束しているので、日本政府が求めている、原状回復費の支払いができないと述べたことにある。以後6月に至るまで、見舞金の支払いを協定に明記することを主張する日本側と、財源がないことを理由に日本の要求には応じられないとする米側の応酬が続く。その間、五月の愛知大臣とマイヤー駐日大使との会談では、同大臣が、私見と前置きの上で、日本側が財源を考慮する可能性を示唆する局面もあった 。さらに日本側は、両国の財政当局間で合意されていた総額3億ドルの対米支払いに2千万ドルを上乗せし、その中から米側が原状回復費(最大限400万ドルと見積もられていた)を支払うことも提案したと言われる 。

 6月になると米側は、議会の承認を得ることなく見舞金を支出できる方策が見つかったとして、一案を出してきた。すなわち、信託基金法(1896年制定)という古い法律を利用して、同法に基づく新たな基金を設定し、同基金に日本政府が原状回復費400万ドルを拠出することとし、その旨の不公表書簡を愛知大臣からマイヤー駐日大使宛に発出するというものである。不公表書簡は、必要に応じて議会に説明するために不可欠ということであった。これに対し、日本側は、日本政府が同基金に直接拠出することは筋違い(まさに肩代わり)であり、不公表書簡の発出も受け入れられないと応じ、対案として、対米支払総額の中から400万ドルを信託基金設定のために留保することを「了知」する旨の大臣名不公表書簡を大使宛に発出することを提示した。この対案は、もともと日本政府が、琉球電力等在沖縄三公社の資産承継や核兵器撤去費等の名目で総額3億2000万ドルを支払うことになる(協定第七条)ので、その中から米国政府が原状回復費を工面しても、それは米側内部の問題であり、日本政府が関知するところではない、との議論を米側に行っていたので、その趣旨の書簡であれば発出しても差し支えないと考えられたからである。そもそも、対米支払いの3億2000万ドルについては、承継資産の評価額はともかく、その他の核兵器撤去費等の名目については、明確な積算根拠はなく、特定の使途に紐付きで支払われるという性質のものではなかったのである。

 このように、日米のそれぞれ異なる二つの書簡案が交渉のテーブルの上に乗っている状況の下で、6月9日にパリで、愛知外務大臣とロジャーズ国務長官との外相会談 が行われた。私は 、本省から急遽出張を命ぜられ、同地の米大使館での会談に吉野アメリカ局長と共に同席した。席上ロジャーズ長官から改めて書簡発出の要請があり、若干のやり取りの後、愛知大臣はなお慎重に考えたいとして態度を留保したまま会談を終えた。会談後 大臣は、吉野局長と私に対し、ロジャーズ長官の強い要請ではあるが、書簡の発出には応じないことにしようと指示された。後日書簡の中身が明るみに出た場合の政治的リスクが大きすぎるというのが大臣の判断であった。以前から私は、この問題に関する米側の立場は、単に議会に追加支出を要求できないとの国内事情を繰り返すのみで、合理性や正当性に乏しく、妥協のために不透明な処理をすべきではない考えていたので、当時大臣の判断に「わが意を得たり」と感じたことを鮮明に記憶している。

 私は、この愛知大臣の指示で、原状回復費問題は決着したとばかり思っていた。そうであったから、71年10月からの返還協定審議のための沖縄国会あるいは翌年の予算委員会で、当時毎日新聞記者の西山太吉氏が入手し、同氏から野党議員に渡った極秘扱いの公電 コピーを材料に、野党が「密約」の存在を追及したときも、私は漏洩公電の内容は、あくまでも交渉の途中経過を記録したものであり、最終的には同大臣の判断で書簡発出に至らなかったとの趣旨を福田外務大臣(当時)に正直に説明したのである。(吉野局長も、私の説明に異見を述べることはなかった。)また、その後西山記者が逮捕され、私が東京地検で事情聴取を受けたときも、同様の趣旨を担当検事に述べた。

 したがって、最近になり、吉野局長がイニシアルした "Summation of Discussion" (有識者委員会の報告では「議論の要約」と訳されている)と題される不公表文書が、米国政府の公開文書の中から発見され、さらに、西山氏等が「密約」文書公開請求の訴えを起こしていた東京地裁の裁判(原告側勝訴、国は控訴中)で、同局長が当該不公表文書の存在を確認する証言をしたことを知り、心底驚いた。愛知大臣の明確な指示にも拘わらず、なぜこのようなことになったのか、はっきりしたことは分からない。私の推測は、あくまでも書簡の入手にこだわった米側(スナイダー公使)が、「局長レベルの文書でも良い」と吉野局長を説得し、同局長も、返還協定調印予定日(6月17日)が目前に迫っていたこともあり、自らの判断で当該文書のイニシアルに応じたのではないか、というものである。

 しかし、いずれにしても、この「議論の要約」の内容 は、先に述べた、日本側が反対提案として米側に示した大臣書簡案と大きな違いはなく、スナイダー公使の発言に吉野局長が応える形式になっているが、基本的には、日本政府が支払う3億2000万ドルの中から米国政府が400万ドルを協定に定める「自発的支払い」のために留保することを予め日本側が承知している、との趣旨であるから、「肩代わり」の密約と言うには当たらず、有識者委員会も同様に結論づけている。なお、この文書が、当時米側が説明したように、議会を説得するために実際に利用されたかは不明である。


 おわりに

 最後に、四回に亘って連載させて頂いた拙稿の結びとして、若干の所感を述べることにしたい。

 外務省と有識者委員会が「密約」問題の真相解明のための調査、検証の対象に取り上げた四事案のうち、密約(不公表の国際約束)と結論づけられるのは、朝鮮半島有事再発という緊急事態下の事前協議の免除を認めた「朝鮮議事録」(本稿(三)参照)のみと言えるが、幸い同議事録が想定したような自体が発生しなかったので、現実に国益が損なわれるまでには至らなかった。今日では、朝鮮半島有事に際し、米国が事前協議を行わずに日本の基地から戦闘作戦行動を発進させるようなことは、日米関係に与える政治的ダメージが余りにも大きく、実際問題として考えられないであろう。

 沖縄返還関連の二事案のうち、今回考察した、いわゆる原状回復費の肩代わり問題は、最終的な処理の形に不透明さが残ったとはいえ、吉野アメリカ局長がイニシアルした「議論の要約」の中味は、「密約」と呼ぶにはほど遠く(有識者委員会も同様の認識)、また、これによって、返還協定に基づき日本政府が約束した3億2000万ドルを超える財政負担が生ずることもなかった。しかし、そもそもこの3億2000万ドルという金額はどのようにして決まったのであろうか。

 有識者委員会は、当初3億ドルで合意されていたものが、その後の交渉の過程で、原状回復費見込額400万ドルと、協定第八条に基づき五年間の継続運営を認められたVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)放送局の最終的移転費1600万ドルの計2000万ドルが上乗せされた経緯があるとし、この上乗せ分については、「これらの合意や了解は非公表扱いとされ、明確に文書化されているわけでもなく、返還協定や関連取り決めにも明記されていないものであるが、両国政府の財政処理を制約するものとなる。その点では、これらは(中略)『広義の密約』に該当するであろう」と述べている 。当時在沖縄三公社の資産承継を含む対米支払いについての交渉は、原状回復費問題を除けば、専ら日米の財政当局間で行われ、条約局は、その内容を知らされることはなかった。有識者委員会の考察がそのとおりであるとすれば、外交チャンネルでの交渉とは関係なく、いつの間にか原状回復費は、3億2000万ドルの内枠で肩代わりしたことになる 。さらに、有識者委員会によれば、日本側の財政負担は、「返還協定に記載された3億2000万ドルをはるかに超え、5億1000万ドルに達することが、我部政明教授の研究(中略)や、米側資料によって確認されている」とされる 。いずれにしても、沖縄返還に伴う財政取り決めの全貌は極めて不透明で、日本側に交渉記録が存在しないために、検証は米側の資料に依存せざるを得ないのは、遺憾と言わざるを得ない。

 佐藤総理とニクソン大統領が署名した、緊急時における沖縄への核兵器の再持ち込みを許容する趣旨の秘密合意議事録は、表見的には、「密約」そのものであるが、少なくとも日本側では、後継政権に引き継がれた形跡はなく、その法的性格(国際約束とみなしうるか)は極めて曖昧と言わざるを得ない(本稿(三)参照)。有識者委員会は、同議事録の内容に着目して、「必ずしも密約とは言えない 」としているが、「密約」と呼ぶべきか否かはさておき、佐藤総理の二元外交が、沖縄返還交渉に「深刻な歪みを残した」との私の評価は、本稿(三)で述べたとおりである。

 若泉氏という裏チャンネルを併用した佐藤総理の二元外交は、核問題に止まらなかった。沖縄返還実現のためには、ニクソン大統領の対米繊維輸出自主規制の要求に対処しなくてはならないと考えた同総理は、若泉・キッシンジャーのルートを通じ、共同声明では言及しないことを条件に、年末までに包括的自主規制を実施することをコミットしたのである 。ところが、日本国内の繊維産業の反対が強く、同総理はニクソン大統領に対する約束を果たせない結果になった。裏チャンネルの一方の当事者であったキッシンジャー氏は、交渉失敗の責任は、過大な要求にこだわった米側と過大な約束をした日本側の双方が負わなくてはならないと振り返っている 。これは公平な見方ではあるが、いずれにしても、慎重さを欠いた不用意な約束が実行されなかったために、首脳間の信頼関係を損なう結果となったことは否定しがたい。外交当局を外した二元外交の危うさを露呈した若泉「密使」の役割は、決して積極的に評価しうるものではない、というのが私の率直な結論である。

 密約は存在しないことが明らかになったとはいえ、日本の安全保障政策の中核である日米安保体制に深刻な影響を及ぼしたのが、現行安保条約の誕生と共に生じた、核兵器の「持ち込み」(イントロダクション)の意味についての日米の解釈の基本的な食い違いである。「核兵器搭載艦の寄港は事前協議の対象であり、協議があればノーと言う」との政府の国内説明は、国民の目から見た安保条約そのものの信頼性を著しく損なった。また、「核の傘」を欲しながら、他方ではこれを拒む(できるだけ遠ざける)という二律背反の日本の姿勢は、「核の傘」を提供する立場にある米国にとっては、容易に理解しがたいものであった。その結果、日米同盟は、冷戦期を通じ、相互信頼が乏しい脆弱なものであり続けた。

 この事案に関する私の考察は、責任の所在の問題を含め、本稿(一)及び(二)で詳しく論じたので、ここで繰り返すことはしない。いずれにせよ、安保改訂後、九一年の米国政府の決定により(平時に関する限り)、核搭載艦の寄港の可能性がなくなるまでの三〇年間の「持ち込み」問題の経緯は、外務省事務当局(私自身を含む)にとって、忘れてはならない苦い教訓である。

 しかし、我が国の安全保障政策(その基軸となる米国との同盟関係)にとってより重要なのは、今後の問題である。すなわち、一方では、広島、長崎の惨劇を体験した唯一の被爆国として、オバマ大統領が掲げる「核兵器がない世界」を追求する姿勢に深い共感を覚えながらも、他方、今日の厳しい安全保障環境の下では、米国の核を含む軍事力の「傘」(抑止力)に国の安全を依存しなくてはならない我が国としては、安保体制と米国の新たな核戦略との整合性を確保する方策について、米国と現実的で突っ込んだ対話を始める必要がある。これこそが、現政権が唱える「日米関係の深化」に不可欠な作業である。

 なお、これに関連して私は、岡田外務大臣が去る三月に、鳩山政権(当時)としては非核三原則を堅持していく方針であるとした後に、次のように述べた国会答弁 に注目した。

「ただ、先程来議論になっておりますように、ぎりぎりの局面で内閣としての判断を迫られることが将来全くないということではない、それはそのときの内閣が判断するしかないということだと思います。しかし、そのときに大事なことは、やはり国民にきちんと説明することだと思っております。」

国の安全を与る政治の責任者の一人としては当然の発言であるが、私が知る限り、過去にこのようないわば当たり前のことを公の場で発言した総理大臣、外務大臣、防衛大臣はいなかったのではないかと思う。これを契機に、これからは、足が地に着いた日本の核政策が論じられるようになることを望みたい。


 今回の調査、検証作業は、一部になお事実関係が不明な部分は残ったが、「密約」の有無をめぐる不毛な論争には終止符を打つことができ、客観的な史実に基づく戦後の日本外交の研究の発展に資することになると思われる。そればかりではなく、現実の外交に携わる者(政治・事務双方のレベル)にとっては、学ぶべき重要な教訓を残した作業であったように思う。外交交渉では、国益のために、秘密の合意、了解を必要とする場合があることは常識である。不透明な交渉結果が、それだけの理由で、すべて非難されるべきではない。核の持ち込み問題に関しても、仮に安保改訂時にすべてを明らかにしていれば、改訂自体が不可能になったとの判断もあり得たかもしれない。しかし、民主主義国である限り、外交当局は、いずれ将来事実が公表されたときに、自らが行った交渉の正当性を自信を持って国民に説明できるかを自問自答すべきであろう。そうすることによって、安易に密約や不透明な処理に走ることを避ける外交交渉の規律(discipline)が確保されることになると考える。

 最後に、今回の作業によって明らかになった事実の大部分は、本来外交文書公開の三〇年ルールに従って文書の整理が行われていれば、当然公開されていて然るべきものである。外務省としては、予算と人員の制約に加え、国内政治への配慮から、文書公開に躊躇せざるを得なかった事情があったことは理解できる。今回、岡田大臣の判断により、大幅に遅れていた文書公開が進み、国民の外交に対する理解が深まるとすれば、極めて有意義なことであると思う。

 (本稿執筆中に、「外交文書の欠落問題に関する調査委員会」の調査報告書という六月四日付の文書が公表された。岡田大臣自身を委員長とする同委員会の作業の背景と経緯は、報告書に詳述されているので、それに譲ることにしたい。しかし、過去における新聞報道 や東郷元条約局長の国会での最近の発言で示唆されているような、意図的な重要文書の廃棄が行われたということの真否(報告書では、確認し得ずとしている)はともかく、昨年の調査、検証の過程で、少なくとも若干の存在すべき重要文書が見当たらなかったことは事実である。万が一にも意図的な廃棄が行われたとすれば、理由のいかんを問わず、正当化されない行為であり、外務省としては猛省しなくてはならない。)(完)

i 具体的には、1950年6月30日後に損害を受け、61年7月1日以降返還協定発動までの間に地主に返された旧軍用地の原状回復のための見舞金(米国は、法的には、「サンフランシスコ平和条約に基づき、支払い義務なしとの立場)を指す。これは50年6月30日以前に損害を受け、61年6月30日以前に地主に返還された旧軍用地の原状回復のために、高等弁務官布令60号に基づいて支払われた見舞金(いわゆる講和前補償)との均衡上、請求権の有無とは関係なく、衡平の見地から米国政府が支払うべきものとの日本側の主張に米側が同意したものである。
ii この愛知大臣の発言が、後に米側の資料によって公表され、密約説の根拠とされた。
iii 有識者委員会報告書84頁参照。
iv パリで開催されるOECD閣僚会議の機会を利用して、返還交渉の最後の詰めを行うのが目的であった。
v 当時私は条約局法規課長として、返還交渉に参画していた。
vi 大臣指示の正確な日時は覚えていない。当初私は、これは帰国後本省大臣室での会議の席上と記憶していたが、これでは今回の検証作業で明らかになった「議論の要約」作成の日付(米側文書によれば6月12日、愛知大臣の帰国は13日、返還協定の閣議決定は15日)と平仄が合わない。したがって、大臣指示は、外相会談直後パリでのことであったのであろう。残念ながら、その記録はない。
vii 漏洩公電中、外相会談の報告電報は私が起案したものであり、そのために、東京地検から事情聴取を求められたのである。
viii 「議論の要約」の詳細については、有識者委員会報告書87頁を参照。
有識者委員会報告書93頁
x 三公社の資産承継費1億7500万ドル、核兵器撤去費7000万ドル、労務関係費7500万ドルというのが政府が国会に説明した3億2000万ドルの内訳である。
xi 有識者委員会報告書93頁脚注51
xii 前掲79頁
xiii 若泉・キッシンジャー交渉については、Henry Kissinger, "White House Years" 332~340頁参照。
xiv 前掲339頁
xv 平成22年3月17日衆議院外務委員会議事録
xvi 2009年7月10日朝日新聞(朝刊)





NATOの新しい行動計画  2011-01-01




NATOの新しい行動計画

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-NATOの欧州回帰がもたらすわが国への影響-

                         元駐ベルギー大使  内藤昌平 


昨年11月下旬、わが国の主要紙はこぞってリスボンでのNATO首脳会議(11月19,20両日)を報道し、朝日新聞を除く全国紙はいずれも社説で「日本のNATOとの連携」を推奨した。欧州防衛のための軍事同盟であるNATOへの関心の高まりは、昨年秋のわが国世論の安全保障意識を反映したものであろう。日米安保体制とは異なり、NATOは典型的な集団防衛体制であるため、加盟各国の同盟義務は厳しい。アフガニスタンへの遠征軍派遣は、その最たるものである。しかし「歴史上最も成功した軍事同盟」と称されるNATOは、時代の変遷に応じて非加盟国との関係を定義し直して来ている。従ってわが国に有益な関係が持てる限り連携を図るのは当然であり、それにメディアが着目したのは望ましい展開であった。
 NATOにとってこの首脳会議は、10年に一度の重みを持つものであった。同盟内に向けては、NATOの向こう10年間の行動のガイドラインとなる「戦略概念(Strategic Concept)」を採択する一方で、内外に向けての象徴的イベントとして、ロシアのメドベージェフ大統領の参加を得てロシアへの融和姿勢を演出した。これ以外にもアフガニスタン国際会議を同時に開催して、治安権限をアフガニスタンに委譲するスケジュールを発表しているが、NATOのアフガニスタンからの出口戦略は既に昨年一月に明らかにされている。ここでは、
NATOの欧州回帰の方向と政治的手法を重視する姿勢に焦点を絞ってNATOの変化を追い、わが国にどのような影響がもたらされるのか考えてみる。

 ロシアへの融和姿勢
 NATOは、冷戦時代の敵であったワルシャワ条約機構が消滅した後も、軍事同盟としての存在意義を更新して来た。ユーゴー危機では欧州内の危機管理の実力部隊として働き、2001年米国を襲った国際テロリズムに対しては集団防衛条項を発動した後、テロリストの根城であったアフガニスタンを正常な国に建て直すための治安維持の任に当たっている。欧州内に敵無しの勢いが、欧州外での任務に怯まない雰囲気を作っていた。
 しかし冷戦の敗者であったロシアが、2008年のグルジア紛争で自己の勢力圏には武力介入を辞さないとの姿勢を示すに及んで、改めてロシアにどう向き合うかとの課題が生じた。冷戦時代ソ連圏の脅威に陸続きで対峙していた西欧諸国は、米の力を借りるNATOのお蔭で軍事上の抑止力を効かせることが出来たことを胆に銘じている。他方長年の伝統ある欧州文明の浸透力を活用したOSCEによる信頼醸成措置を重ねることが、ソ連圏の敵意を和らげる効果があったことも認められている。従ってNATOは冷戦後、ロシアに対しては硬軟両面でのアプローチを用意するのが常であったが、東方拡大はロシアへの圧力路線であったことは否めない。しかるにこの度採択された戦略概念の中で最も注目されるのは、ロシアへの融和的レトリックである。「NATOはロシアに対して脅威となるものではない。」と宣言した上で、共通の利益のために協調したいと呼び掛けている。
 NATOは冷戦後ロシアを特別のパートナーとして遇し、ロシアがNATO加盟各国と並列する同等の立場で(即ちロシア対NATOという図式ではなく)議論に参加できるNATOロシア理事会を設立している。リスボン首脳会議の機会に
メドベージェフ大統領の出席を得て開催されたNATOロシア理事会は、①弾道ミサイル防衛については脅威評価を共同で行い本年6月の国防相級会合で協力の進捗を評価すること、②アフガニスタンへのNATOの非殺傷物資をロシア鉄道が輸送する体制の強化、③麻薬対策での協力強化、④アフガニスタン軍のヘリコプター整備での協力等で合意している。もちろんこうした合意の実施についてはロシア側の厳しい損得勘定によって割り引かれるのが常であるが、例えば麻薬対策についてはロシア軍内部では兵士のアフガニスタンからの麻薬中毒が深刻であるため、ロシア側も切望しているとの事情がある。一方ミサイル防衛については、数年前米国のブッシュ政権の構想がロシア向けに転用され得るものとしてロシアが激しく反発した経緯がある丈に、ロシアとしては先ずは実体を見極めた上で立場を決めるとの慎重な姿勢であるし、NATO側でも最先端の軍事技術情報をどこまで共有できるのかとの疑問が大きい。
 こうした政治的動きの裏では、軍事面でNATOは加盟国の集団防衛にも備えなければならない。グルジア侵攻で見られたようにロシアは武力行使の敷居が低いので、ポーランドを代表とする東欧諸国はロシアへの警戒心を緩めていない。リスボン首脳会議の後でウィキリークスによって暴露された情報によれば、NATOは既にポーランド及びバルト3国防衛のための非常事態防衛計画を秘密裡に有している由である。ロシアのラヴロフ外務大臣がその後でNATOの二面性を批判しているが、お互い様の観がある。
 いずれにしてもリスボン首脳会議は、NATOがロシアを取り込もうと本格的に乗り出したイベントとなった。それはNATO自身にとって、ポスト・アフガニスタンでは欧州での平和と安定が政治・軍事両面で重大な課題となったことを意味している。

 欧州ミサイル防衛網構想
 次に注目されるのは、ロシアの参加を呼び掛けたNATO全域をカバーしようとする弾道ミサイル防衛網構想である。従来欧州諸国は、軍の部隊駐屯地の如く限定された地域の防衛を超える広範な領域をカバーするミサイル防衛の効果を疑問視しており、高価な投資に見合わないとして米国の独自開発に任せ、NATOとして取り上げることに消極的であった。これに対し米国は2009年秋以来、イランの脅威に対応するものとして欧州における米軍基地の防衛に始まり、次第に一般市民の居住地域をカバーするように、移動可能な迎撃ミサイルとレーダー網を2020年を目途として開発整備する計画を推進しており、欧州諸国に対してはこれに連結する手法であれば経費節約になると説得して来た。ラスムセンNATO事務局長も、連結のために必要なNATO予算からの支出は10年間で2億ユーロに満たないと強調して、合意達成に尽力した。この結果戦略概念では、「弾道ミサイルから市民と国土を守る能力を開発することを同盟の中核要素とする。」と認定した。同時にロシアに対しても協力を呼び掛けることで、欧州全域で共通のミサイル防衛網への期待を生むとの政治的効果をもたらした。

 協調的安全保障
 実は第3の注目点が、NATOが日本に協力を呼び掛けているテーマである。戦略概念は、NATO域外で発生した問題でもNATOの安全に影響を及ぼすと認められれば、域外のパートナーと協力して行動することを「協調的安全保障」と名付け、集団的領域防衛と並ぶ中核任務に位置付けた。「協調的安全保障」でのパートナーには「世界各地のパートナー」という名のグループがあり、日本はその中でもオーストラリア、ニュージーランドや韓国と共に価値観を同じくする諸国として、NATOから密接な協力関係の構築が期待されている。
 日本とNATOとの政治レベルの交流は、2007年春、当時の安倍総理大臣がブラッセルのNATO本部を訪れ、北大西洋理事会で日本のNATOとの協力への意欲を表明したことがピークとなっているが、実務的な交流と協力の実績は少しずつ積み上がっている。リスボンでのアフガニスタン国際会議には日本代表として伴野外務副大臣が出席し、自衛隊の医療・衛生要員を訓練指導員として派遣することを検討中であると発言している。長い間の懸案であった機密情報の保護に関する協定は、日米両国間のものに続くものとして昨年6月に締結され、情報共有の基盤が固められた。
 「協調的安全保障」任務の代表的なものは、アフガニスタンでの治安維持活動(ISAF)である。NATO加盟国にとっては欧州から5000キロも離れた遠隔地での長期軍事作戦であり、これまで7年半の任務でNATOからは2000人以上の兵士が死亡する厳しいものである。ISAF任務は、今後数年をかけるアフガニスタン国軍と警察の育成を経て終了する方向にある。NATOとしては将来域外の国際的安全保障問題への積極的関与を謳ってはいるが、戦略概念の中で言及されているのは、軍備管理、大量破壊兵器の拡散防止及び軍縮であり、アフガニスタンのようにNATOが遠征軍を派遣する事態はほのめかされていない。一方国際テロリズムに関するパートナーとの情報交換やエネルギー安全保障に関するパートナーとの協力には関心が表明されている。
 従って「協調的安全保障」を日本サイドから見れば、国際安全保障に関する情報交換や政治的共同行動の分野での協力がNATOによって歓迎されることになる。「協調的安全保障」の主眼は、武力紛争を未然に防ぐための国際協調の網を拡げておこうとするところにあると見られる。わが国が直面している周辺の緊張状態に鑑みれば、NATOとの協調はわが国の安全保障への政治的支援を獲得するものとして推進されるべきであろう。既にリスボンでは、イランと並んで北朝鮮の核開発が取り上げられ、戦略概念を敷衍した首脳宣言の中で、北朝鮮に対し関連する安保理決議と国際義務の遵守が訴えられている。欧州回帰といえどもNATOはわが国にとってロシアや中国の向こう側の軍事勢力であるから、その動向はわが国の安全保障政策を考える上で充分勘案されて然るべきであろう。例えばメドベージェフ大統領の昨年秋の国後島訪問は、ロシアが西方でのNATOの融和姿勢を受けて余力を極東にスウィング出来ると計算してのことかも知れない。更にNATOがロシアとの軍縮を進めるに当たって、「ロシアの欧州内の核兵器をNATO加盟国から離れた位置へ配置転換するよう求める」と戦略概念に明記していることはわが国として看過出来ない。勿論NATOはわが国と同じ価値観を共有する間柄の同志的存在ではあるが、それぞれの行動が相手にどのような波及効果をもたらすかを予見するためには、常日頃からの意思疎通が欠かせない。数年前EUが経済マインドで中国への武器輸出を解禁しようと動き出した時、加盟国はほとんど同じではあるが安全保障マインドの高いNATO内では日本の懸念に理解が示されたことが思い出される。
 「協調的安全保障」がわが国の望ましい方向に向かうためには、欧州側がわが国の安全保障政策への関心を抱き正確な理解を深める意欲を保つことが肝要となる。その点先方の動きについての情報収集もさることながら、わが国自身の政策を明確に揺るぎの無い様に打立てて置くことが大前提であることが忘れられてはなるまい。

日本のNATOとの連携
 NATOの戦略概念は、日本のように同じ価値観を持っている国との政治対話と実務協力で連携を深めることを期待している。政治対話や交渉にも力を入れようとの動きについては既に述べたが、実力組織であるNATOは実務協力を伝統的に重視している。わが国はアフガニスタンのISAFに対しては主として資金協力や民生安定への貢献で評価されて来たが、ISAF終了後NATOの活動にどのような形で実務協力を図れるかについても真剣に検討して置くべきではなかろうか。戦略概念で懸念が表明されているエネルギー供給問題に絡んでは、アフリカのソマリア沖でのタンカーへの海賊行為に対して自衛隊とNATO海軍の間で実務協力が既に進行中である。このケースは、国際海洋法上のアウトローを取り締まる法執行活動として例外的に認められているものであるが、戦闘行動に引き摺りこまれるおそれのある部隊同士の協力は、一般的にわが国の法制上容易ではない。アフガニスタンのISAFからはヘリコプターの応援を求められたが、応じられず失望させた。
国際関係はギヴ・アンド・テークの世界であり、連携も言葉だけでは力を生まない。実のある行動が伴わなければ相手も行動はしない。NATOが考えている連携関係には、相手の貢献度に応じた濃淡がある。将来先方の期待に応えられる貢献が出来るよう体制を整えて置かなければ、連携の掛け声も空しい。アフガニスタンやソマリア沖でのNATOとの実務協力は、制約の中で知恵を振り絞って考え出されたものであり、わが国の潜在力はNATOがかねてから高く評価しているが、答えを出すまでに時間のかかるところに問題がある。戦略概念で懸念されているサイバー攻撃への防御は、ミサイル防衛と並んでいわゆるハイテクの分野としてわが国の技術が生かせ得ると思われるが、これらについての協力がわが国にとって望ましい場合であっても、武器輸出三原則で自ら手を縛っていては、取り柄を生かせない事態になりかねない。安全保障政策は、広く国際情勢にも目を配って前広に体制を整えておくべきものであろう。
昨年秋の世論の危機意識はわが国の近隣国との緊張から生まれたが、同じ頃に開かれたNATOのリスボン首脳会議は、その向こうにわが国の同志が居ることを気付かせて知らせてくれた。ユーラシア大陸の視野に立って、NATOとの連携を世論と共に考える好機ではあるまいか。            (了)    


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