『―急変するミャンマー情勢と日本―』2012.1.18
『―急変するミャンマー情勢と日本―』

元駐ミャンマー大使 田島高志
ミャンマーでは2011年3月30日にようやく民政移管が実現した。テイン・セイン新大統領の率いる新政府は、民主化、国民和解、開放化への改革を驚くほど急速に進めており、それに対応する国際社会の動きも活発化している。眞に好ましい方向への変化である。
ミャンマーは、地政学的にも重要な位置にあり、歴史的に世界で最も親日的な国の一つであり、かつミャンマー人は生真面目で慎ましく勤勉で親しみ易い等の観点から、日本にはミャンマーの民主化と経済発展に建設的な役割を果す責務があると私は主張して来た。よって最近の変化には感慨が深い。新政府成立後間もないので、不十分な理解と判断もあり得るが、ご依頼により、簡単に私の観察を記述させて頂きたい。
1. 新政権成立への経緯
1988年に国内の混乱を鎮圧した国軍は軍政を樹立し、1990年の総選挙ではアウン・サン・スー・チー(以下スーチーと略す)女史の率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したが、NLDへの不信感から政権を委譲せず、先ず新憲法を制定する方針をとり、1993年以来国民会議による新憲法草案の策定作業を進めた。経済面では自由化と開放化政策をとり、かなりの成果を挙げたが、1997年のアジア経済危機と欧米の経済制裁とにより、経済は停滞に陥った。
その後軍政は、国内の安定化を見て2003年に民主化のため7段階のロードマップを発表し、2008年の国民投票を経て新憲法を採択し、2010年11月総選挙を行い、内外の予想通り軍政側の政党USDPが圧勝した。
スーチー女史について軍政は、1989年に自宅軟禁とし、断続的に釈放と自宅軟禁措置を繰り返し、2010年の総選挙後に刑期満了を理由に3度目の釈放を行った。
このような経緯を経て、2011年1月に国会召集、2月国会はテイン・セイン首相(当時)を大統領に選出し、組閣終了後3月30日に新政府が発足し、民政移管が実現した。この段階では、民政移管は表面上であり、実権は依然裏に存在する国軍にあるとの観測が内外で有力であった。
2. 新政府成立後の変化
(1)大統領の就任演説と民主化
ところが、3月31日にテイン・セイン新大統領の行った就任演説は、「自由公正な民主国家の建設に最大限努力する」との民主化目標を言明し、「新政府は新しい政策と法律により、国と国民のために取り組む」「各政党やグループに対しミャンマーの民主主義の発展のために新政府との協力を求めたい」と国民和解への姿勢を示し、「国民生活の向上を期し、市場経済体制の構築に向けて税制、政策決定、法整備等を進める」と宣言した。外交面では「引き続き非同盟政策を維持し、全ての国との友好関係を維持する」と述べ、「国民の基本的権利の保障」「農民及び労働者の権利に関する法整備」「教育、保健分野の法整備」等を基本方針とする旨表明した。いずれも軍政時代には見られなかった表現であり、民主化政策の表明であり、実態が伴えば真に歓迎すべきことと受け止められた。
(2)政治犯の釈放とスーチー女史との対話
その後5月に政治犯約50名の釈放、7月にアウン・チー労働相とスーチー女史との対話、8月にはテイン・セイン大統領とスーチー女史との対話、9月にテイン・セイン大統領が国民の意思を理由に中国の投資案件ミッソン水力発電所建設計画の一時凍結を決定、10月に6,359名の恩赦を発表、11月に政党登録法改正法の公布、それに基づきNLDが政党登録を申請、2012年予定の国会議員の補欠選挙でのスーチー女史の立候補と当選を可能とした。テイン・セイン大統領は「NLDが政治の舞台に戻ることを喜ぶ」「スーチー女史の国会参加を歓迎する」と述べ、女史も「テイン・セイン大統領を信頼している」と述べた。
女史の地方への移動及び外国人との面会も自由化された。2012年1月には著名な政治犯ミン・コー・ナイン氏以下多数の政治犯及び7段階ロードマップの起案者キン・ニュン元首相等の服役囚651人が一斉釈放された。
(3)報道の検閲廃止とデモ行進の解禁
8月に上下両院で労働組合の結成を認める「労働組合法」が承認され、11月にはデモなど平和的抗議行動を認める「平和的集会・行進法案」が両院で承認された。海外に滞在するミャンマー人の帰国を歓迎する旨の方針が示され、著名な反政府活動家の一時帰国が実現した。
(4)少数民族との停戦と和解
テイン・セイン大統領は、武装少数民族に和平協定を呼びかけ、9月に最大の軍隊を保有するワ州連合軍(UWSA)及びシャン州武装組織と和平協定を交わした。11月には3つの武装組織との停戦に原則同意し、その後カレンの1大隊とも停戦したと伝えられ、和平が徐々に実現している。
(5)経済改革の推進
8月に政府は二重三重の為替問題解決のためIMFに支援を求め、10月にIMFは世銀を含む代表団を送り協議を進めた。9月には農民に農地を譲渡、賃貸、相続する権利を認める法案が国会に提出され、民間銀行に外貨両替窓口の開設を認め、国営銀行の東南アジアに支店開設を認めた。外国投資法を改正し、外資に国有地のみでなく民有地の賃貸を認めることとした。
3. 変化の背景
このような正に民主主義が根付き始めていると言える急激な変化の背景は何であったかを考えて見たい。
(1) ロードマップの達成感と希望
軍政は設立当初から、その目的は国家の秩序を回復し発展の基盤を構築した上で民政移管を行うことであると表明し、国内が安定化してきた2003年に民主化ロードマップを発表した。少数民族問題等の紆余曲折を経てようやく新憲法、国民投票、総選挙、新政府と予定のロードマップを仕上げ、いまや達成感に満ちているように見られる。ミャンマーのエリートである軍指導層は愛国心が特に強いことを考えれば、軍政が長引いたのも単なる権力欲からとは思われず、軍政を自力で終焉させたいま、新国家建設への自信と希望を強く持って動いているのが新政府の姿であると思われる。
(2)スーチー女史の変化
新政府は、成立後間もなくスーチー女史に対し、今後の民主化方針についてアウン・チー大臣が何度も面談して詳しく説明し、さらにテイン・セイン大統領自身も直接熱心に説明し、女史の理解と協力を得ることに努めた。それが功を奏し、スーチー女史は従来の態度を大きく変え、「自分は大統領を信頼している」と発言するようになった。
これで新政府としても安心して政治犯の釈放を一層進める条件が整い、政党登録法を改正してスーチー女史を初めNLD党員の国会への参加の道を開くことが出来た。これは、新政府側の真摯で真剣な態度により、スーチー女史の眼が現実的な方向に開けた結果によるものであり、今回の急激な変化を前進させる最大の要因になっていると言えよう。
(3)世界情勢の変化の体得
ミャンマーには、植民地時代以降の経験から強い外国人不信の傾向がある。 ネウイン時代には、他国の干渉を避け一国社会主義という極端な閉鎖政策をとった。 外交は独立当初から非同盟政策であり、アセアンにも当初は加盟しなかった。 しかし、世界はグローバル化が進み、一国のみでは発展を期し得ないことを次第に体得し、開放化による国際的な相互協力の推進が不可欠であることを理解したものと思う。
そのような中で、アセアンの仲間からさえもミャンマーに民主化を要求する声が高まっており、特に2014年のアセアン議長国就任の要請に対しては、議長国インドネシア外相がミャンマーを訪問して民政移管の真相を探り、真の民主化への変化を求めて強い圧力をかけたことが考えられる。
(4) 中国への警戒感
欧米から経済制裁を受け、日本の援助も制限的であったため、止む無く中国の支援に依存したが、ミャンマーは元来共産主義の中国には警戒心を持っていたこと、最近は中国依存が深くなり過ぎ、援助の実態にも疑念を持ち始めていたものと思われる。冷戦時代の米国からの援助、日本の製品の優秀さ等も記憶にあり、欧米及び日本との協力関係の復活への強い期待もあったと思われる。加えて、中国の海洋進出への周辺諸国の警戒心、米国の安全保障政策の対アジア重視などもあり、例えばミャンマーの国土を縦断する形のパイプラインルートの権益が中国に握られるリスクにも気づいて来たとも思われる。
上記4点の基本的要因が連動して、ミャンマー情勢の劇的な変化の背景を構成しているように判断される。
4. 国際社会の対応
(1)中国・インド
中国は、欧米諸国とは異なり、政治的経済的に徹底したミャンマー支持の政策をとり、蜜月関係を発展させた。新政府成立直後の4月には賈慶林政治局員が訪緬し、5月にはテイン・セイン大統領が最初の外国訪問国として中国を訪問した。ただ、9月新政府の突然の大型水力発電所計画凍結の決定に対しては権益の保障を要求し、人民日報も反論を掲載した。10月ワナ・マウン・ルイン外相は急遽訪中して楊外交部長、習近平副主席と会談し、適切な処理に合意した。11月ミン・アウン・ライン国軍司令官が訪中した際、習近平副主席は両国の軍事交流の強化を提案、包括的戦略的協力関係に務めたいと述べた旨伝えられた。今後の推移が注目される。
インドは、中国に対抗してミャンマーとの経済関係を進展させて来た経緯があり、6月にクリシュナ外相が訪緬し、ミャンマーからは10月にテイン・セイン大統領が訪印した。
(2) アセアン諸国
アセアン諸国はミャンマーの新政府成立に歓迎の意を表明し、11月ミャンマーの2014年のアセアン議長国就任を決定し、欧米に対し制裁解除を促す態度も示した。タイのカシット外相は、訪緬の際に外国外相としては初めてのスーチー女史との会談を行った。さらに10月タイのインラック首相はミャンマーを公式訪問した。
(3) 欧米諸国
米国のオバマ政権は、制裁が効果を挙げていないことを認め、「関与」と「圧力」を併用する政策に転じていたが、新政府成立後キャンベル次官補が「国内で劇的な変化が起きている」と述べた程の新たな動きを見て、9月以降ミッチェル「ビルマ」特別代表を頻繁に訪緬させ、11月クリントン国務長官は、「ミャンマー政府が真の改革を推進するなら米国はパートナーになる、」と発言した。
11月オバマ大統領はスーチー女史と電話会談を行い、クリントン国務長官をミャンマーに派遣した。クリントン長官は、12月1日テイン・セイン大統領及び閣僚等と会談、大統領の改革計画の説明に支持を表明、民主化の進展に応じ相応の措置を講じると述べた。2012年1月13日には主要な政治犯の釈放を見て、大使の相互派遣の意向を表明した。長官は、米緬関係の改善で緊密な中緬関係が犠牲になることはないとの配慮を示したとも伝えられた。クリントン長官はスーチー女史とも懇談し、少数民族代表とも面会した。米国は、政治犯の釈放、少数民族との紛争解決、核及びミサイルの北朝鮮との軍事協力の解消を条件として、制裁緩和へ動き出したと言えよう。
11月EUのアシュトン外交・安保政策担当代表は「政策の抜本的見直しに着手している」と述べ、英国のミッチェル開発大臣が閣僚として数十年ぶりに訪緬し「英国はミャンマーとの関係を抜本的に見直す用意がある」と表明した。また、ヤンゴンでEU主催の金融改革、貧困撲滅のワークショップが開かれ、リップマンEU大使が「EUはこの国で起きている重要な変化を支持し奨励したい」と述べた旨報じられた。
(4) 日本
日本政府は、地政学的に重要な位置にあるミャンマーとの関係を重視し、新政府の改革措置を民主化と国民和解に向けた前進として評価し、その流れが確実なものとなるよう支援して行くと表明している。6月に菊田外務政務官が訪緬し、新しいページを開きたいとして、人的交流、経済協力、経済関係、文化交流の4分野について意見交換を行い、経済協力では、今後民主化及び人権状況の改善を見守りつつ、民衆に直接裨益する基礎生活分野(BHN)の案件を中心にケース・バイ・ケースで検討の上、実施する旨新しい基本方針を表明した。
また、2007年の長井健司氏死亡事件の真相究明を要請した。
7月に超党派の若手政党関係者グループ20名を訪日招聘し、10月にはワナ・マウン・ルイン外相を招聘し、玄葉外務大臣と会談。玄葉大臣より、民主化への動きを力強く支援したい、人的交流では、NLD関係者も政党として合法化された後に招待したい、貧困撲滅に注目し「人材開発センター(日本センター)」案件、バルーチャン第2水力発電所補修案件等のため調査を行う旨述べた。
11月に首都ネーピードーで両国局長級の日・ミャンマー経済協力政策協議が開催され、開発政策と援助政策について幅広い討議が行われた。
11月野田総理は、バリ島での日アセアン首脳会議でテイン・セイン大統領と会談、アセアン議長国就任決定を歓迎、民主化、国民和解への努力を評価し、大統領の努力への日本の支援を表明し、ミャンマーの総合開発調査を実施する旨及び文化交流につき遺跡修復・保存の専門家を派遣する旨表明した。また、長井氏死亡事件についての真相究明を要請した。総理より2012年日本で日メコン首脳会議開催の際に大統領の訪日を要望したのに対し、大統領は、努力する、総理にもミャンマーを訪問して頂きたい旨の発言があった。
12月玄葉外相は日本の外相としては9年ぶりに訪緬し、テイン・セイン大統領及びワナ・マウン・ルイン外相と会談し、民主化の動きを評価し、一層の進展を促し、4分野の日本からの協力を確認し、総合開発に関しテイラワ港の調査も実施予定である旨述べるとともに投資協定の協議開始に合意し、北朝鮮との関係に注意を促し、長井健司氏事件の真相究明を要請した。さらに、スーチー女史とも会談し、日本政府の方針を説明し、女史の訪日を招請した。女史より、ミャンマーへの支援は少数民族への裨益も忘れないで欲しい、ミャンマー国内の投資関連の法整備が重要との発言があった。また、テー・ウーSPDC総書記と会談し、日本人商工会議所関係者とも意見交換を行った。12月には、JICAが主催し、経済改革支援のためミャンマーの若手行政官等約30名を招聘して経済・金融、貿易・投資、中小企業、農業に関する東京ワークショップを開催した。
2012年1月枝野経済産業大臣は、首都ネーピードーでの閣僚級経済産業対話に出席し、インフラ整備・産業育成とエネルギー・鉱物資源開発の2分野での包括的支援策とそのための2年間で5億ドルの貿易保険枠を発表した。
今後政府は人材育成等技術協力に加え、円借款の再開も検討すべきであろう。
民間の動きとしては、9月に日本アセアンセンター主催の投資調査ミッションが、政府と経団連共催の訪ミャンマー官民合同ミッションがそれぞれ派遣された。民間の商社等が個別に調査団や視察団を派遣するケースは激増している。
海外各国産業界は、ミャンマーの変化に注目し、新たなビジネスチャンスを求めて積極的に動いている様子が顕著である。在京ミャンマー大使は、ミャンマー人は日本製品や技術に憧れているが、日本の大企業は米国の制裁緩和の段階に応じて徐々にミャンマーへ進出のようであり、それは止むを得ないが、中小企業は米国に気兼ねなく今からチャンスを捉えるべきであり、美味しい所が他国に先手を打たれてしまうことが心配だ、と述べている。
5. 今後の注目点
新政府の民主化への動きは、順調に滑り出したが、今後の課題は少なくない。
紙数に余裕がないので、一つだけ指摘するならば、長年の独裁政治の直後であり、民主的国家運営は半世紀ぶりで全く不慣れのため、今後表面化する可能性のある例えば軍と政府、国会と政府、与党と野党、軍内部、政府内部、中央と地方等の意見の相違が常に平静に調整、克服されて行くかが注目される。ミャンマー人は生真面目であるために弾力性に欠けるところがあり、感情的な面もある。すなわち、今後は民主化か否かではなく、民主化、開放化のスピードや具体的政策措置の意見の相違の調整の問題が深刻になる可能性を見る必要があり、日本を初め諸外国の支援は、忍耐強く、法整備や制度構築及びその運用等のソフト面を重視しつつ丁寧に行われるべきであると思われる。
(2012年1月16日寄稿)
『満州事変、安保改定、2030年の日本』2012.1.1
『満州事変、安保改定、2030年の日本』
元欧州連合(EU)代表部大使 朝海和夫
最近、出淵勝次(母方の祖父、1931年の満州事変当時の駐米大使)、朝海浩一郎(父、
1960年の安保改定時の駐米大使)の日記を拾い読みした。昔と今とでは勿論大きな違いが
あるが、意外に変わっていないことも多く、今後の参考になることがあった。
満州事変
1931年9月に柳条湖事件が発生した時、米国に駐在していた出淵は「朝起キテ、、、夢カトバカリ驚カサレタリ、、、容易ナラザル事態、、、」と直感した(9月19日の日記)。早速「米国二於テ軽挙セサラムコトヲ希望スル旨切言」(20日)する一方、外務本省に対して「速二事件ノ真相ヲ発表スルコト、、、不然ハ米国ノ輿論硬化スヘキコト」などを意見具申する(22日)。
米側は当初、日本を追いつめすぎないよう抑制的に対応したが、日本軍が租借地からかなり離れた錦州を爆撃し遂には占領するに及び、日本の一連の行動を承認しない、という「不承認政策」を表明した(1932年1月)。出淵は「(スチムソン国務長官の)求メニ依リ面会ス、、、事件発生以来アラユル努力ヲシテ米国ヲ抑工来リタルカ、遂二今日トナリ遺憾此上ナシ。然約二反シテ錦州ヲ占領セル以上、致シ方ナシ。顧ミレバ自分ハ日本国代表トシテ余リニモ二枚舌ヲ遣ヒタルコトヲ、否、遣八ハシメラレタルコトヲ遺憾トス。」と記している(1月7日)。
歴史に「もしも」はないが、「もし」錦州占領などをしないで「不拡大」を堅持出来たならば、日米関係は全然違ったものになっていただろう。そうならなかったのは、軍部の独走のみならず日本の世論の高揚などの要素が複合的に作用していたと思う。駐仏大使ののち外務大臣を務めた佐藤尚武の回顧録(「回顧八十年」)によれば「(1931年11月に)日本に帰ってみると連盟にたいする非難轟々のありさまで、、、国際連盟が突如、日支の紛争に介入し、しかも日本の態度を全面的に否定していたのに対しては、-から十まで連盟許すべからずという空気が津々浦々まではびこってしまっていた」と驚いている。
昨今も「○○バッシング」が時々起きるが当時は「連盟バッシング」になっていたのだろうか。(もっとも、当時エジンバラ大学で研修していた朝海浩一郎(25歳)も鼻息が荒くて「連盟は仮に日本をして鉄道地域内に兵を撤せしむるに成功したりとして次で支那政府の無力により日本人の生命財産が侵犯せられたりとせば如何の責任を採らんとするものであるか」(11月7日)、「支那は連盟を、、、(租借権についての)条約侵犯の道具とし、これにより対日直接交渉によるよりは更に大なる利得を得んとする誠意なき態度、、、」(11月16日)と日記に語っている。
ちなみに、同日記によれば当時の英国の新聞は必ずしも日本非難一色ではなくタイムズ紙は概して日本に好意的で「(治安維持の)主権を効果的に行使していない中国が、主権を侵犯されたと主張出来るのか」などと述べていたようだ。)
上記タイムズ紙はともかくとして、満州事変についての日本の見方は欧米などでは理解を得られてなかったのだろうが日本は「海外広報」や「パブリックデイプロマシー」は不得手で(今も?)中国(中国人)に遅れを取ったらしい。エジンバラ大学の討論会に参加した朝海浩一郎は「大使館から資料をもらってきて、何だか余り冴えないような議論を読み上げたわけです、中国の番になって彼(中国人留学生)は、とってもはったりの利いた演説をやった。みんなやんやの喝采です。 中国側はそういう堂々たる演説をやってのけるのですね。 もう少し言葉を勉強しなければならんと反省」したそうだ(朝海浩一郎回顧録「司町閑話」)。
連盟で日本を代表していた佐藤尚武もかなりの苦戦したようで「国際世論の非難を一身に集めて悪戦苦闘、、、この時ほど苦しんだことは、およそ三十年の外務省生活の中で二度と経験したことはなかった」、「(中国の代表は)日本軍の侵略ぶりを詳細に述べたてて真っ向から日本に攻撃の矢を向け、、、挑戦してきた。この人もなかなか英語の達者な人で、支那側がこうした会議向きの数人の立役者をもっていたことは特筆しておかねばならない。」(「回顧八十年」)と述懐している。
アイゼンハワー大統領訪日招待取り消しなど60年代の日米関係
朝海浩一郎の日記には安保改定交渉については目立った記述はないが、アイゼンハワー大統領を日本に招待したものの安保反対運動で騒然となったため招待を撤回した件は度々日記に出てくる。「15、6万人もデモ隊が東京中を横行し反米的プラカードを掲げているようでは人前に顔を出す訳にも行かないので今日の英国の国際日レセプションは欠席した。」(6月11日)、「営々として積み上げた日米の友好関係にヒビが入らんとすることを思ひ、、、夜眠れざるものがあった」(6月18日)などだ。
アイゼンハワー訪日を想定して日本に一時帰国した際メデイアに取材されたが、招待取り消し後のインタビューでは、日本の理屈は国際的には通用しないとして「最近のデモは反岸、反安保であって反米ではないと言ったところで米国人が納得しますか」などと述べ、戦後15年日本は国民の勤勉等によって漸く国際的信頼を得るに至ったのにこうなったのは残念だ、「ある人によれば日本は技術力では20世紀、企業家精神では19世紀、政治では18世紀、、、」(文芸春秋60年8月号)と憤憑を隠せなかった。(普天問を巡る事態を草葉の陰から見ていたならば浩一郎はなんと言っただろうか、、)
ただし、不満は米国にも向けられており安保条約をめぐる日本国内の状況を説明しようとしてデイロン国務長官代理と会談した際の日記には「日本の状況をかなり整理して話したが途中で欠伸ばかりしていた。この程度の関心では、と情けなくなった」(1960年8月22日)としている。1962年の大平外務大臣とラスク国務長官の会談については「ラスクはベルリン問題と、、、キューバ問題につき積極的に話したが韓国問題、沖縄問題、○○問題(注、判読不能)については話を聞くだけで韓国問題についてさへ交渉の現状を先方から聞こうともしなかった。この辺に日米関係の一方的なところがあることをマザマザと見せつけられた」(9月24日)と述べている。
当時の日本は経済規模で世界の3%程度(名目)で第二位の経済大国英国の約半分だったが、今後日本経済が相対的に縮小して行くことを考えると、将来、日本が何かを言っても「欠伸」をされたり、質問がなかったりするのではないかと気がかりだ。
2030年
2010年の内開府の予測(「世界経済の潮流」)によれば2030年の日本経済は世界の3%(購買力平価)と見込まれる。ピークだった90年代の半分程度のシェアだ。中国などが経済的にも政治的にも台頭していることは周知のとおりで、世界は欧米から中国・新興国へと「パワートランジション」が起きつつある、ともいわれる。
こうした中で日本はどうすべきか。どうしてはいけないのか。
世界経済の3%と言えば1960年代並に戻るということではあるが、2030年の3%はその頃の英国とドイツを合わせた規模に近いことを、まず、想起すべきだろう。日本は決して小さな存在ではないので、自分を小さく評価し過ぎて縮こまったり「何でも節約しなければ」と思ったりする必要はないし、適当でもない。
人口減少(少子高齢化)に直面する日本は、出産を奨励するために保育所を増やしたり助成金を給付するのが良いだろうし、一人当たりの生産性も向上させなければならない(高付加価値のモノ造りに特化、サービス産業や農業の効率化など)。財政の健全化も疑いなく重要だ。同時に、日本は「以前より余りにも、、、国際関係に無頓着」だった、と敗戦濃厚となった時期の佐藤尚武の反省次代への警告(「回顧八十年」)を忘れてはならない。
30年代に痛感したように「中国人並み」の英語力 (国際性)を身につけなければならず、首脳・閣僚レベルの国際的な会合で通訳を介している場合ではない。外国から「欠伸」されないよう日頃から「ソフトパワー」(国の魅力)を磨かなればならずパプリックデイプロマシーにも投資する必要がある。パワートランジションの時代は不確実性が増す時代でもあるので外の動きにはこれまで以上に敏感でなければならないのは当然だし、外交と内政が従来以上に密接に関係しているだけに、「政治は18世紀」と嘆かれるような事態はあってはならないことだ。 (2011年12月26日寄稿)
『起 業 家』 2011.12.22
『起 業 家』
元駐ブルガリア大使
日本カーボンファイナンス(株)特別顧問 福井宏一郎
今年も暮れになった。今年の「なでしこジャパン」の女子ワールドカップ優勝は快挙だった。澤穂希キャプテン以下の笑顔を思い起こすと気分が晴れやかになる。だが・・・全般的に日本が暗い。若い人に職がない。高齢化と人口減少でどこの地方都市も沈下する一方だ。国内では一人勝ちの東京でさえ長期的には人口が減る。将来に備えて何かを変えようにも、既得権益の壁をなかなか越えられない。加えて国難の東日本大震災だ。一方、目を転じればどこの国だって問題山積だ。連日ニュースに登るアメリカ、EU、中国も深刻な問題を抱えている。人口の多い国はどこだって国論の集約は難しいだろう。他の国も負けず劣らず問題を抱えているが、日本のように暗くはない。日本の暗さと閉塞感は独特である。
この秋の10月にサンフランシスコに飛んで、若い頃に留学したスタンフォード大学ビジネススクールの卒業35周年のクラス会に出席してきた。卒業してから5年ごとに母校で3泊4日のクラス会をやるのがこのビジネススクール卒業生の恒例になっている。一学年300人ほどのうち今回は100人ほどのクラスメートとその配偶者が集まり、学内のビジネススクール用の宿泊施設で3日間共に過ごし旧交を温めた。成功したクラスメートは校長(学校)にため息が出るほど多額の寄付をし、仲間の拍手を受ける。成功者を讃えるアメリカ文化の明るさだ。
スタンフォード大学ビジネススクール
このビジネススクールは東海岸のハーバードビジネススクールと並んで元気印の象徴のようなところだ。特にスタンフォードはシリコンバレーに立地し、昔から在学生に起業の基礎を教えるコースが充実していた。もちろん、起業家輩出は何もビジネススクールの専売特許ではない。ヒューレットやパッカードは工学部出身だし、ビル・ゲイツはハーバート大学中退だし、スティーブ・ジョブスはリード大学に半年在籍しただけだ。だが起業を目指す若者にとって同じような志を持つ仲間に囲まれて財務やマーケティングなどの広範な分野の基礎を叩き込まれる2年間は恵まれた環境だ。
今年はビジネススクールが広大なキャンパスの中のすぐ近くに新築移転された。その新校舎を案内してもらうのも今回の楽しみの一つで、さっそくツアーに参加した。前よりも敷地も建物の数も充実して美しい配置になっている。この新校舎になり、ビジネススクールの名前はナイト・マネージメント・センターとなった。総工費約4億ドルのうち最大の1億ドル強を寄付した卒業生のフィル・ナイト(Phil Knight)を顕彰したものである。そこまで多くなくても巨額の寄付をした人にはそれぞれの建物に名前がつけられて壁に名前が書かれている。新校舎建設は卒業生の寄付で十分にまかなえたようだ。
校舎に取り囲まれた広場の真ん中にはフィル・ナイトの言葉が石に彫られて埋め込んである。 ‘There comes a time in every life when the past recedes and the future opens. It’s that moment when you turn to face the unknown. Some will turn back to what they already know. Some will walk straight ahead into uncertainty. I can’t tell you which one is right. But I can tell you which one is more fun.’ 「未知の世界に踏み込め、そっちの方が面白いぞ」とは、ビジネススクールの環境で語られると「大樹の陰に寄らず起業せよ」という意だろう。大樹(既知の世界)とは、例えばウォールストリートのインベストメントバンクが思い浮かぶ。こちらの紳士たちは最近強欲すぎると評判を落としているが、これまで実際に多くの秀才たちを引き付けていた。
石に彫られたフィル・ナイトの言葉
フィル・ナイト(1938--)は現在世界最強の企業の一つといわれるナイキ(スポーツ用品)の創業者だ。ナイトは1962年にスタンフォードビジネススクールを卒業(MBA)すると日本の神戸にやってきた。オレゴン州での高校・大学時代に陸上の中距離選手として活躍したナイトは運動靴に注目していた。神戸のまだ小さい会社だった鬼塚タイガー(現アシックス)の運動靴が安くて性能がいいのに感銘を受け、鬼塚社長に面会し、その場で米国西部での鬼塚タイガー運動靴の販売権を獲得した。そしてオレゴンに帰り、自分の陸上のコーチだったバウワーマンと一緒にブルーリボンスポーツ社(ナイキの前身)を設立し、タイガー運動靴の輸入販売をする一方で自社ブランドの開発も進めていく。これがナイキの始まりである。
以降、バスケットのマイケル・ジョーダンやゴルフのタイガー・ウッズのようなスーパースターを自社ブランドの宣伝に使い、スポーツ用品にファッション性を持ち込み、ナイキは簡潔なロゴと共にスポーツ用品で圧倒的なブランドイメージを確立した。だがその過程では、恩人のはずの鬼塚タイガーから初期の段階で技術者を引き抜いたり、委託生産をする途上国の工場の過酷な労働条件が問題になったりしている。オレゴン大学やスタンフォード大学には巨額の寄付をしているが、ビジネスはビジネスで、やり過ぎと思えるくらい妥協しないという事か。
ナイキ起業に大きな影響を与えたアシックス創業者の鬼塚喜八郎(1918年--2007年)の方はどうだろうか。亡くなる前年の2006年に鬼塚が故郷の鳥取県で講演した記録を読む機会に恵まれた。鳥取県が私の故郷でもあった縁である。そこには終戦後間もない時の起業にいたる感動的な回想が語られていた。日本には日本らしい起業家の精神があり、無残な敗戦から立ち上がった起業家たちがいたのだ、そういう感慨に耽らせるような講演録だった。
終戦の年の昭和20年の暮れ、鳥取の実家にいた坂口(鬼塚の旧姓)喜八郎宛に、神戸の鬼塚という身寄りのない老夫婦から手紙が届いた。神戸は焼け野が原になり食うものがなく困っている、神戸に来て助けてくれないか、との内容である。坂口はビルマに出征する戦友から、自分に万一の事があったらいずれ養子縁組して死に水を取ってやるはずの神戸の老夫婦の面倒を見てくれないかと頼まれたのを思い出した。坂口はこの時27歳、陸軍がなくなって実家に戻ってきた末っ子である。昭和21年に汽車のススで真っ黒になりながら神戸に着いて、とりあえず戦友の生死が分かるまで老夫婦を養うために働き出した。昭和22年10月になってこの戦友戦死の公報が入り、老夫婦に頼まれて戦友との約束を果たすべく鬼塚の養子になる。僅か半世紀ちょっと前の話だが、実の家族の間でも暗いニュースが相次ぐ今の日本から見れば別の民族の精神を見るようだ。
そして神戸の焼け跡闇市で青少年が非行化しているのを見て、青少年がスポーツに打ち込めるようないい靴を作りたい、と運動靴の製造に乗り出す。最初は大変だったが、考えに考え、改良に改良を重ねて安くていい品質の運動靴を作り出していく。1960年のローマオリンピックで貧国エチオピアの無名のアベベ選手が裸足でマラソンを走り優勝して世界を驚かせたが、翌年日本にやってきたアベベに裸足のように軽い靴だと説得して自社の靴を履かせることに成功している。フィル・ナイトが鬼塚に会ったのはその翌年だ。後年ナイキ社が有名スポーツ選手を使って成功したビジネスモデルを鬼塚はそのずっと前に実践していた事になる。経営方針は家族主義と目標に向かってのスパルタ主義で知られたようだ。
最近の私の経験を契機に二人の起業家のことを考えてみた。犯罪やスキャンダルや重箱の隅をほじくるようなあら捜しの報道にうんざりしている時は、社会に価値を生み出した成功者の事を考える方が精神衛生によい。何かと暗い日本で起業が相次ぎ成功者が目に見えるようになればこれは大いに明るい要素だ。起業で話題になるのはネット関連が多いが、サービス業や農業だって変革の時だろう。長期的な人口減という厳しい環境の中では日本の各地域が危機意識を持って変革を受け入れ、新しい制度と環境を整えて起業を促す必要がある。外国から見れば日本は何といっても豊かな社会を実現した立派な先進国だ。だがそれは危機意識を持って変化する現実に対処しなければ続かない。急に大きな話の展開になってしまった。まず、小さい事例でも成功者を讃える明るい心を持つことから始めたい。そのような例をまわりで話題にして少しでも明るくしたい。
(2011年12月15日寄稿)
『ミンダナオ和平と日本の貢献』2011.10.31
『ミンダナオ和平と日本の貢献』
前フィリピン大使 桂 誠
8月4日、ミンダナオ和平に関しアキノ大統領と反政府指導者とのトップ会談が東京近郊で極秘裏に行われ、翌日、発表・報道された。「平和構築外交」が日本外交の重要な柱の一つとして打ち出される中で、日本は本件に多大の貢献をしており、それが、トップ会談の場として東京近郊が選ばれたことに繋がったことは間違いない。
1.ミンダナオ和平問題とは
スペインが来航するまでは、現在のマレ-シアから比のミンダナオ島にかけての地域は、イスラム教徒が各地にスルタンを擁して支配しており、スペインが比を植民地にした後も、この地域には統治は及んでいなかった。ミンダナオ島全域に統治が及んだのは、19世紀末に米国がスペインに替わって宗主国となった後である。さて1946年の比の独立後、ビサヤ地方(ルソン島とミンダナオ島の中間にある比の中部)から多数のキリスト教徒がミンダナオ島に入植し、イスラム教徒が次第に追いやられ土地を失っていったと言われている。イスラム教徒は比全土では人口の約5%しか占めないが、ミンダナオ島では約四分の一を占め、その一部が、同島の中部で中央政府に対し武装闘争を行うようになった。
1996年9月には、MNLF(Moro National Liberation Front)とラモス政権との間で和平が成立し、一定の地域で一定の自治権が与えられる代わりに、MNLFは武装闘争を終止したが、これに納得しない強硬派のMILF(Moro Islamic Liberation Front)は、武装闘争を継続した。1998年成立のエストラ-ダ政権は、MILFを武力で掃討しようとしたが成功せず、2001年成立のアロヨ政権は、交渉で問題を解決する方針をとった。
2003年7月には、政府とMILFとの間で停戦合意が成立し、2004年10月には、停戦監視のための国際監視団(International Monitoring Team。IMT)が、ミンダナオ島中部のコタバト市を拠点として活動を開始した。これはマレ-シア、ブルネイ、リビアの兵士約六十名からなるものであった。
和平交渉は、MILFに強い影響力のあるマレ-シアを仲介役としKLで断続的に行われてきたところ、MILFも独立を要求している訳ではなく、MNLFが1996年に得た合意よりも広い地域で、より高度の自治を得ることを要求しているものである。
2.日本の基本的考え方と貢献
ミンダナオ島は、北海道と四国を合わせた面積を持ち、土地は肥沃で豊富な鉱物資源を有し、台風が来ないという良好な自然環境にある。よってミンダナオ和平問題の解決は、比全体の開発の遅延の解消に大きく寄与する可能性が高い。また、MILFの中の強硬派は、アブ・サヤフ等のテロリスト・グル-プと親密であり、この問題の解決不調は、テロ対策にも悪影響を与えるものである。 このような考え方から、2006年7月の麻生外相(当時)訪比の際に、我が国がミンダナオ支援に大きく踏み出す旨が表明された。
具体的には、上記一.の国際監視団に、2006年10月より、非イスラム国家として始めて参加することした。この国際監視団は、国連平和維持活動(PKO)ではなく、自衛隊員を送る余地がなかったので、JICAの専門家にマニラの日本大使館に出向して貰い、更にマニラから、復興支援の担当として現地の国際監視団に送ることとしたものである。最初は一名、現在は二名が活発に活動し、現地で高く評価されている。
また日本は、対比ODAの一環として、ミンダナオ島の元紛争地域に学校、給水施設、職業訓練センタ-を草の根無償の形で建設する協力等を開始し、これをJ-BIRD(Japan Bangsamoro Initiatives for Reconstruction and Development)と称して継続、強化している。紛争終了前からこのような復興支援を開始するのは、「平和構築外交」において新たな試みである。「BIRD」は、平和をよぶ「鳥」となるよう願いを込めて、担当大使館員が考えた略称である。Bangsamoroは「イスラムの人々・国家」という意味である。既に40以上の学校等が建設され、筆者も、完成式の際に訪問する等、現地を三回訪問した。
MILF最高指導者であるムラド議長と筆者
このうち初回は、2007年10月に行ったものであり、コタバト市近郊にあるMILFの本部も訪問し、最高指導者であるムラド議長に面会した。停戦ラインを越え、筆者等の身柄が政府側支配地域からMILF側支配地域に引き渡される際には緊張したが、MILF側も、日本の前記のような支援は高く評価しているので、丁重に迎えられ、ムラド議長からアロヨ大統領への伝言を預ったりした。日本大使館の代々の政務公使、担当書記官が、比政府とMILFの間の意思疎通の円滑化に貢献している。特に2008年夏以降、停戦が崩れ戦闘が再開され、数十万人の避難民が困難な状況に置かれた際には、日本大使館の担当公使、書記官が、停戦再開のために比政府とMILFの間で大きな役割を果たした。これが翌09年7月23日の停戦再開に繋がったと考えられる。
2009年12月には、政府とMILFの間の交渉が進展せず、オブザ-バ-のような形で交渉に助言するグル-プの結成が求められた。ICG(国際コンタクト・グル-プ。International Contact Group。)と称されることとなった同グル-プには、日本、英国、トルコ、サウディと幾つかのNGOが参加を求められた。
英国の場合は、北アイルランドの和平交渉の経験に基づいて参加が求められたものであるが、英国は、国際監視団(IMT)に人を出していた訳ではないし、J-BIRDのような復興支援に取り組んでいる訳でもない。
他方、米国や豪は、復興支援は行っているが、国際監視団に人を出している訳ではないし、ICGにも参加を求められていない。特に米国の場合、キリスト教の超大国であるので、IMTは勿論、ICGに入って来ることには抵抗が強いのであろう。
中国は、このミンダナオ和平問題には何ら貢献していないし、他の主要国も前記のような状況にある中で、国際監視団に人を出し、復興支援に積極的に取り組み、ICGにも参加しているのは日本だけである。筆者は、比各地で日本のODAで建設された道路、橋等の完成式にアロヨ大統領(当時)と出席する機会が多かったが、大統領は筆者の顔を見ると、よく、ミンダナオ和平への貢献に感謝すると言っていた。アキノ氏については、昨年五月の大統領選挙で当確となった直後に筆者が表敬して日比関係につき説明を行った際、この問題についての日本の貢献に触れたところ、そこまで協力してくれているのかと驚いていた。この8月、MILF側と東京近郊でトップ会談を行うことができ、日本への感謝の念を更に深めたものと推測される。なお筆者は4月末に離任したので、このトップ会談の設定には関わっていないが、秘密が漏れやすい比を相手として、実現翌日の発表まで、よく秘密が保たれたと感心している。
3.2008年夏の挫折とミンダナオ和平の今後
さて、トップ会談が行われたからといって、交渉が前進するとは限らない。筆者は、2008年夏にアロヨ政権下でMILFとの合意が成立し署名式がKLで行われる予定となった際、米国大使等とともに招待されたことがある。しかし外相、和平担当閣僚や我々を乗せた飛行機がマニラからKLに向っている最中に、マニラで最高裁が「本件合意は違憲のおそれあり」として翌日の署名を禁じる仮処分を決定してしまった。MILF側は強く反発し停戦が崩れた。米国大使や筆者がマニラに戻ると、多くの知人から「MILFに譲歩しすぎた合意内容を知っての上でKLでの署名式に立会いに行ったのか」と難詰された。「全人口の5%しか占めないイスラム教徒の、そのまた一部である強硬派のために、憲法改正が必要となる程の譲歩はしたくない」というのがキリスト教徒である有力者たちの自然な反応であることを痛感した。また高度の自治が与えられる地域に含まれてしまう市町村に住んでいる現地のキリスト教徒の反発や、これらキリスト教徒の出身地である比中部の政治家の反発も激しかった。
いずれにせよ、この時に署名されかかった合意より不利な合意は、MILFにとって受諾困難である。他方、政府にとっては、この時の合意と同様、又は、それ以上の譲歩は、最高裁から違憲とされる危険が高い。かくして交渉の早期進展は容易ではないと考えられる。
勿論交渉の前進が望ましいが、ボトム・ラインは、交渉が決裂せず、停戦が崩れないことである。日本としては、このための環境作りに資すべく、前記の三分野での貢献を忍耐強く継続していくことが肝要と考えられる。 (2011年10月24日寄稿)
『柔道は世界の無形文化財』 2011-10-24
『柔道は世界の無形文化財』
日本はもっと国際的「経営」意識を

元駐デンマーク大使 柔道6段 小川郷太郎
私は、大学でやっていた柔道を外務省入省後も続け、在勤地のフランス、フィリピン、旧ソ連、韓国、ハワイ、カンボジア、デンマークのいずれでも、稽古、試合、デモンストレーションなど様々な形を通じて柔道と関わってきた。退官した今も週1回程度ではあるが稽古を続ける一方で、ホームページを立ち上げてフランス語と英語で柔道に関する日本の考えや取組みを世界に発信するなど、「口技」にも手を出すようになった。それには訳がある。
若い頃は、結構辛い練習をやり遂げることに肉体的快感と精神の爽快感を覚えたりした。本省勤務時代にはまだ真っ暗な真冬の早朝に大学の寒稽古に通い現役の学生と一緒に汗を流したあと外務省に登庁すると、仕事にも「やるぞ」という闘志が漲ってきたものだった。数多くの怪我や体型の変更を伴う柔道を半世紀余り続けてきたことを振り返ると、やはり鍛錬を通じて、忍耐力や冷静さが身に付き、また、あまり外見や格好に拘らない質実を重んずる生活姿勢が養われた気もする。
若かりし頃の小川郷太郎氏(1969年フランス・ツール市にて)
海外勤務で気が付いたのは、柔道の世界への凄い浸透ぶりであった。世界で柔道が最も盛んな国であるフランスは、私が研修を始めた1969年の時点で全国どこに行ってもどんな小さな町にも道場があり、老若男女が稽古に励んでいた。ポルポト時代に柔道人口も壊滅的に減少したカンボジアでも2000年前ごろから柔道が復活し、青年海外協力隊員が指導に当たっていた。北欧の小さな国デンマークでも、片田舎に行った時でさえ武道を学び練習する多くの人々に出会った。世界の非常に多くの道場で柔道創始者である嘉納治五郎師範の写真や「精力善用」「自他共栄」の文字が正面に掲げられていて、小学生など小さな子供も練習の始めと終わりには正座して「先生に礼」という日本語の号令で礼儀正しく礼をする。
現在、国際柔道連盟(IJF)に加盟する国や地域の連盟数は国連加盟国数より大きい200を数える。アフリカも含め世界中に柔道が浸透しているのはなぜか?様々な国の人々と柔道を通じて交流してきた経験からすると、柔道の持つ、理に適ったダイナミックな技の魅力と礼節を含めた精神性に世界の人々が惹きつけられるからだと考えている。嘉納師範は体育と知育の両面を目的として柔道を創始した。フランスでは、大人たちが柔道を楽しんでいるが、その大人たちが自分の子供に規律や礼節を身につけさせようとして道場に子供たちを連れてくる。それが柔道人口の大きさにも繋がっている。
東北大震災の後、フランス柔道誌の L’Esprit du Judo は第1ページ全面に「我々は皆日本人だ」と題する異例の特別社説を掲げた。その中で、「柔道を通じて我々は日本に親近感を抱いている。(中略)日本は我々の一部であり、我々の日常や夢の一部である。我々は日本人と兄弟であり、彼らの苦しみは我々のものである。我々は皆日本人である。」と述べ、日本に同情と連帯のメッセージを送ってくれた。
「
2003年 日・カンボジア外交関係樹立50周年記念式典にて」
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また、かつてプーチン前ロシア大統領(現在首相)を単独インタビューした元NHK解説委員の小林和男氏によると、大統領が自邸にある道場に氏を招き入れ「柔道は日本の伝統と文化に根差す哲学である」旨述べて柔道への傾倒を熱く語ったそうである。世界にスポーツは数多くあるが、肉体と精神の修養を同等に重要視するものは殆どない。単なる格闘技とは違う、柔道の精神修養的側面こそ、世界の多くの人が「柔の道」に進む背景の重要な要素である。この意味で、柔道は「世界の無形文化財」と考えるべきものである。
柔道がこれだけ浸透したのは日本にとって喜ばしいことであるが、国際化に伴って柔道も当然ながら変化し、問題も生じてきた。ルールが変更を重ねて試合の内容も変わってきた。最近まで、足取りやタックルが増え一時は「ジャケットを着たレスリング」とまで揶揄されるに及んで、ルールが改定されてかなりまともな姿に戻ってきたが、まだ課題が残る。オリンピック以外に世界選手権が毎年行われるようになり、「世界ランキング制度」のもとで柔道の競技志向傾向が強まり、また、国際大会の様相にも商業主義的色彩が目につくようになって来た。その副次的結果として、勝った選手が派手なガッツポーズをするなど、選手の礼節が失われてきた。競技柔道志向の強まりに押されメダル獲得に注力するあまり、日本選手の行動にさえ礼節に欠ける面も出てきた。
国際化の過程でルール変更とか競技重視や商業主義の強まりによって柔道の本質的側面が損なわれる場合には、日本が主導的に各国とも協力してこれを本来の姿に戻すことが重要だ。しかしながら、柔道に関しては最も経験や知見を備えているはずの日本は国際的なルール作りや大会の運営方針についてこれまで主導権を発揮してこなかった。2007年のIJF の理事選挙では山下泰裕氏の再選が阻まれ、アジア柔道連盟の会長選挙では日本の候補者で柔道の実績、識見とも立派な佐藤宣践氏がクウェートの候補に完敗するなど、国際柔道界での選挙で日本は敗北が続いた。
日本のスポーツ界はおしなべて国際的発言力に欠けていると言われるが、少なくとも日本発祥の柔道についてはやはり日本が指導力を発揮してもらいたいものだ。本来の理念や特質を維持して柔道を発展させることが重要であり、それには日本の役割が極めて重要である。柔道衣や畳にも事欠きながらも柔道の精神的側面にも惹かれて世界の隅々で一生懸命稽古をしている貧しい国の何百万の柔道家たちの支援にも思いを致す必要がある。日本は、自国で始まり世界に発展している柔道の国際的「経営」に力を入れて関与すべきである。「世界の無形文化財」を適正に管理するのは日本の責任でもある。最後の海外勤務となってデンマークから帰国後、私は日本の柔道界に対し、国際的発信や行動の必要性を唱えてきたが、まだ大きな変化は見られない。
一昨年、Judo International : Voice of Japan というサイト( www.judo-voj.com )を立ち上げたのは、少しでも柔道に関する日本の考えを世界に発信したいとの思いからである。サイトを立ち上げてから徐々に各国から反応も出てきた。フランスの柔道誌はよく読んでくれて、同誌の1ページ大のコラムに毎回日本の立場から書くことを求められもした。今年の8月にパリの世界選手権を見に行ったとき、会場内を歩いていると多くの人から笑顔や声を掛けられた。柔道雑誌への私の寄稿が顔写真入りで行われているからだろう。フランス人の柔道への高い関心や日本の見解に関心がもたれていることを感じた。
本来の理念を生かして柔道を国際的に発展させていくには、同じ志を持つ世界の柔道関係団体とも連携していく必要がある。日本はメダルの数も大事だが、柔道の健全な発展のために柔道の国際的運営にもっと力を入れるべきだ。そのためには、ともすれば実績重視傾向のある柔道界に内外の多くの人材を加えて「オールジャパン」で国際的な発言力や行動力を強化してほしい。
(2011年10月23日寄稿)
『国際的に注目されるロシア農業の動向』
2011-10-3
『国際的に注目されるロシア農業の動向』

道都大学名誉教授 元駐ソ連大使館参事官 柴崎 嘉之
1. はじめに
ロシアは、2010年8月15日から2011年6月まで、穀物の禁輸措置をとり、同年7月に解除した。ここでは、国際穀物市場に与える影響の大きいロシアの農業動向をみることとする。なお、主要な参考文献は「エコノミスト」(露文)(①)と「農工コンプレックス」(②)である。
2. 穀物禁輸とその解除
ロシア政府は、2010年8月15日から同年末まで穀物(小麦、大麦、ライムギ、トウモロコシ、小麦粉等)を禁輸すると発表した。その後、禁輸(小麦粉を除く)を2011年6月末まで延期した。しかし、2011年産の作柄回復により、同年7月からは、禁輸が解除された。
ロシアの穀物生産は、2008年に1億820万トン、2009年に9,710万トンと連続豊作の後で、2010年には6,100万トンへと大きく減産した。2010年は、130年の観測史上初めての暑く、雨の少ない天候のために、穀物の作付面積(4,800ヘクタール)のうち、25%が壊滅するという被害を受けた。このため、冬穀物、春穀物の種子不足が1,440万トン、飼料不足が1,330万トンと見込まれたことから禁輸措置に踏み切った(②10・9)。禁輸措置がなければ、家畜の大量と殺を余儀なくされたであろうとしている(①10・10)。
ロシアの禁輸措置は、世界的な穀物価格高騰の一因となったとみられる。ロシアの小麦は、安価で中東諸国で輸入されていた。小麦の輸入の半分がロシア産であったエジプトにおいて、トン当たりの食用小麦の価格は、2010年8月9日のフランス産が285ドルであったが、2010年7月のロシア産は184ドルであった。このような急激な小麦価格高騰は、「中東の春」をひきおこす原因のひとつとなったとも考えられる。禁輸後において、小麦のトン当たり価格は、ロシアにおいて、国際水準より100~120ドルも低かった。
3. 世界の穀物貿易の変化
旧ソ連は1987~91年の期間に、平均してネットで35,00万トンの穀物を輸入していたが、2009年には旧ソ連合せてて5,500万トン近い輸出をした。この違いは、往復で9,000万トンの穀物が世界市場に供給されたのに等しい。なお、2010/11年における世界の穀物貿易量は2億7,754万トンと見込まれている。
ロシアは2000年頃にはほとんど穀物の国際市場に登場していなかったのが、2005年以降穀物の輸出大国として出現した。スクルイニキ農相は、「長い年次においてロシアは初めて世界の食料市場でかなりのプレーヤーとなり、穀物輸出が2008年に2,400万トンと世界第三位の輸出国となった。今後10~15年のうちに穀物生産1億2,000万~1億2,500万トン、輸出3,000万~4,000万トンを安定的に行うことを可能にさせるであろう。」(①10・4)と述べている。
米国農務省は、2019年までに、世界の小麦の生産や貿易で大きな変化が起きると予測している。すなわち、第二次世界大戦以来世界最大の小麦の輸出国であった米国が、第一位の輸出国の地位を2019年までにロシアに譲り渡すと見込んでいる。
ロシアは、2008年および2009年には、北アフリカや中東向けに小麦の輸出量を著しく増加させるとともに、インドネシアやマレーシアにも輸出を開始するとともに、日本、韓国、ブラジルまで輸出することを視野に入れるようになった。
ロシアの穀物輸出増大の野心は、今回の禁輸によって試練を迎えたが、2011年の作柄好転により、2011年7月からは穀物輸出を再開することになった。
4. ロシアの農業生産動向
最近におけるロシアの穀物輸出増大の動きの背景には、改革年次において畜産部門が急激に縮小したため、飼料穀物の需要が減り、国内で余剰が生じたために、これを輸出しようとしたことがある。
対比価格でみたロシアの農業生産は、1990年を100とすると、1995年は66.9、2000年は60.7と大きく落ち込み、その後、回復に向かったものの2005年に68.1、2010年に71.3にとどまっている(①11・6)。
改革年次において、農業生産が低迷している理由を若干指摘しよう。
第一は、価格関係が農業にとって不利になっていることである。すなわち、1991年から2008年の間の上昇率は、農業生産物の販売価格が8,000倍だったのに対し、農業が必要とする生産物やサービスの価格が4万6,000倍となった(②10・4)。この結果、農業機械、化学肥料、農薬等の購入量は急減した。
第二は、農業に対する国家支援が急減したことである。現在価格水準でみて、連邦政府の農業・漁業向けの支出は、1989年において約1兆125億ルーブル(②10・4)だったのに対し、2010年には353億ルーブル(1,000億円)へと減少した。
第三は、農村インフラが未整備なことである。例えば、農業組織(2008年における平均規模は、播種面積が2,800ヘクタール、従業員128人)のうち、舗装された経営内道路を有していたのは47%にすぎなかった(②09・6)。
播種面積は、1990年の1億1,771万ヘクタールから2010年の7,484万ヘクタールへと4,252万ヘクタールも減少した。この減少面積は、ドイツ、フランス、イタリアの耕地面積を合わせたものに相当する。これらの耕作放棄地には、雑草、低木樹林などが繁茂し、病害虫の巣となっている(②10・5)。
家畜の頭羽数(年末)は、改革年次において、牛およびそのうちの乳牛の頭数は一貫して減少し、いまだに減少に歯止めがかかっていない。豚や家きんは、大きく減少したものの2005年以降は増加傾向にあり、羊・山羊も急減した後で、2006年以降は、ほぼ横ばいの状況にある。この結果、頭羽数は、1992年から2010年の間に、牛は61.7%減、うち、乳牛は56.4%減、豚は45.4%減、羊・山羊は57.6%減となり、家きんは、2009年までに33.9%減となっている。
食肉生産は、牛肉および子牛肉は、改革年次を通じて一貫して減少したのに対し、豚肉、家きん肉、山羊・羊肉は、減少の後、2005年以降は2010年までに、豚肉は47%増、家きん肉は約2倍、山羊・羊肉は22%増となった。この結果、2010年の1992年に対する生産の比率は、食肉全体で14%減、うち、牛肉および子牛肉が53%減、豚肉が17%減、羊・山羊肉が43%減に対し、家きん肉はほぼ2倍となった。
肉牛、豚、羊の飼料要求は、先進国の1.5~2倍(①09・4)となっているが、飼料が量的にも不足し、たんぱく不足など質てきにも問題があるためである。
2005年以降、生産が増加している養鶏部門は、専門企業に生産が集中し、家きん肉の87%、鶏卵の76%を占めている。ブロイラーは約3億羽の人工孵化の鶏および6,200万羽のハイブリッドのひなが輸入されている(②10・8)。同じく、2005年以降に増産が進む豚肉は、主として工業タイプの生産設備によって達成されている(②10・5)。なお、肉牛の生産性は、先進国の2分の1から3分の2と低い(①10・8)。
5. 深刻化する農村問題
世界経済が示していることは、所得上位10%層と下位10%層の所得格差が1:10を超えると危機的な社会的緊張の状態にあるとされるが、ロシアは1990年に1:4.5だったのが、現在1:18である。なお、欧州連合は1:6である。
農業組織の平均労働報酬(2010年には、月額で1万573ルーブル:3万133円)の国民経済全体に対する比率は、1990年の95%から2010年には49.9%に低下した。これは、燃料部門の23%、金融部門の22%にしかすぎない(②11・5)。
2010年の農村住民の失業率は、10.8%で、都市部の住民の5.8%を大きく上回っている。全人口に対する農村人口の比率は27%なのに対し、農村に貧困者の42%が集中している(②11・6)。居住者100人以下の農村集落には商業や生活サービス(理髪等)の店舗のなく、移動販売車もやってこない。農村集落の約3分の1は、舗装した道路へのアクセスをもたない。(①11・4)。
6. おわりに
世界での人口増加と途上国を中心に所得向上に伴う穀物需要の増大に対し、穀物生産を増大させる可能性の大きい国としてロシアが期待されている。ロシアに存在する4,200万ヘクタール超の耕作放棄地と自然条件の類似したカナダに比べ穀物の単位面積当たり収量は3分の2である(②11・4)ことから、作付けの増大、単位面積当たり収量の上昇の可能性がある。2006年の1人当たり穀物生産量は、欧州連合が550キログラム、ロシアが533キログラムであった。欧州連合は穀物と畜産物の主要な輸出地域であるのに対し、ロシアは穀物を輸出することはあるものの、畜産物は大量に輸入している(①10・12)。ロシアは穀物の利用効率を上昇させ、余剰を生み出す余地が大きい。
ロシアの良好な営農条件にめぐまれた地域では穀物を中心に生産、加工、流通(輸出を含む)、販売などの垂直的な統合を図るホールデングが出現し、傘下の企業の機械・設備などの近代化投資を積極的に進め成果をあげているものがある(②10・12)。また、既にみたごとく、最近年次において効率的な養鶏工場や養豚コンプレックスの建設が進められている。
ロシアが穀物輸出を推進していくためには、穀物の保管、輸送、港湾施設などの改善を必要としている。
輸出が軌道にのり、その恩恵を穀作農民が受けることができ、穀物増産とその利用効率向上に積極的に取り組むようになれば、穀物の輸出大国になる可能性もあろう。豊凶変動、自国の利益優先の政策など不確定なありながらも、穀物輸出大国の地位を高める可能性もあるであろう。ロシアの今後の動向が注目される。 (9月27日寄稿)
『日本の近隣国との関係』2011-9-26
『日本の近隣国との関係』

元国際情報局長、元駐イスラエル大使、元国際テロ対策担当大使 茂田 宏
日本の近隣国の国際法を含むルールへの姿勢〔領土問題を中心として〕
領土問題は国家の基本に関する問題であり、法と歴史に基づき正当な主張はこれを堅持していくべきである。安易な妥協は我々の前の世代、後の世代に対する責任を考えれば出来ない。 その上、わが国と領土問題を抱えている国々のしている主張は、歴史や国際法を含むルールに照らし、根拠薄弱といわざるを得ない。わが国の主張とこれらの国の主張は国際法を含むルールに照らして、等価値のものではない。そのことを認識することが必要であると考えているので、近隣諸国の国際法を含むルールへの姿勢についての私の感想を述べておきたい。
- 1. ロシア外務省は9月8日、玄葉外務大臣がロシアには北方領土を領有する『法的根拠』がないと述べたのに対し、遺憾の意を表明するとともに、「南クリル諸島は第2次大戦の結果としてわが国の一部になった。国際法的には、ヤルタ協定、ポツダム宣言、サンフランシスコ条約及び国連憲章第107条がある」と述べた。
- このロシア外務省声明は、ロシアが北方領土問題について解決済みというブレジネフ時代の最強硬姿勢に立ち戻ったことを示している。 そもそも戦争の結果と言うものは平和条約により最終的に確定されるものである。そんなことは常識中の常識である。ヴェルサイユ条約の締結がないのに、第1次大戦の結果が決まるというようなことはない。第2次大戦についても同様である。日ロ間には、1945年から65年以上経つのに平和条約が結ばれていない。そしてその理由が両国間に領土についての係争があるからに他ならないことは、厳然たる事実である。 そういうことを無視して、第2次大戦の結果が出ているかのような言説は常識に反する主張である。
- ソ連、ロシアもこの主張があまりに常識外れであるとの意識があるので、日ロ国境には未確定な部分があると述べたことがあるし、日ロ平和条約交渉の必要性を認めてきた。
- ヤルタ協定について言うと、これは米英ソの首脳が、ソ連が対日参戦をする条件として秘密裏に、戦後処理の中で千島のソ連への引渡しと南樺太のソ連への返還を行うことを約束したものである。これは領土不拡大の宣言をしておきながら、日本の領土をソ連に併合させることを約束したものである。ある国の領土をその国の同意なしに処分する行為は、国際法に反する行為である。たとえば日米中が、ロシアの沿海州は1860年の北京条約と言う不平等条約でロシアに割譲されたものであるから、中国に返還すると約束した場合、ロシアはそれを認めるであろうか。不法な取り決めとして断罪するに決まっている。ヤルタ協定について、日本は当事国ではないから拘束されないという議論を日本側はして来たが、この協定の問題は上記のようにより根本的なところにある。 その上、戦後、冷戦が始まる中で、米国はヤルタ協定を実施することを拒否した。サンフランシスコ条約批准の際に、ダレス国務長官は上院で、米国はヤルタ協定を正式に拒否すると述べている。ソ連からすると、これは米国の裏切り行為に他ならない。しかしその結果として、ヤルタ協定ガ実施されなかったのは事実である。 ポツダム宣言について言うと、日本の領土は本州、北海道、九州、四国と「われら〔注:連合国〕の決定する諸小島」とするとされているが、主として冷戦が始まったがゆえに、連合国のここに言う決定は明確な形でなされなかったし、今なおなされていない。それがないから、領土問題があるのである。
- サンフランシスコ条約について言うと、グロムイコはこの条約を採択した会議で、南樺太・千島を日本に放棄させるだけで、日本に南樺太、千島へのソ連の主権を認める義務を課していないと論難し、署名をせずに帰国した。南樺太、千島の問題が未解決であることをグロムイコは自身認めている。これら領土の帰属は未定である。ロシアは自分ガ署名していない条約を援用する権利はないし、更にサンフランシスコ条約は、署名しない国には条約から出てくる利益を与えないと明記している。日本の領土放棄に伴う利益も、ソ連・ロシアは主張できない。ロシアの南樺太、千島領有も国際法上の根拠を欠いている。
- 国連憲章107条はいわゆる旧敵国条項であるが、その文言からして、ソ連の北方領土併合を合法化する効果などもちえない。 戦前、ロシア革命後、日ソは1925年に日ソ関係の基本法則に関する条約を締結し、国交正常化を行った。このとき、ソ連は南樺太を日本に割譲した日露戦争後のポーツマス条約について、否認はしないとしつつ、それについての政治的責任を負わないとの声明を出した。その後、スターリン、モロトフはポーツマス条約を否認する主張を行い、日本に南樺太を返還するように要求した。
- さらに、平和裏の交渉で出来た千島・樺太交換条約で合法的に日本に帰属していた千島の返還を主張し続けた。これがヤルタ協定につながり、現在の北方領土問題につながっている。
- 要するに条約を無視した要求を行い、なんら恥じなかった。それで終戦後、ドサクサにまぎれて千島を占領して、今に至っている。 ソ連崩壊後ロシアが成立し、国際法を尊重する国になったかと思ったが、このロシアもスターリン外交の戦果を保持することを対日外交の眼目としている。日本は北方領土について、国際法上日本に属することを主張して来たが、それを馬耳東風と聞き流し、今日に至っている。
- ソ連は1946年2月に、樺太、千島、北方領土を併合する最高会議幹部会令を発出して、日本の領土を自国に併合した。戦争中に敵国の領土を占領することはあるし、そういう軍事占領は合法である。しかしそれを平和条約を待たずに併合するのは明らかに国際法違反である。赤軍は戦時中ベルリンを占領したが、併合などしていない。併合はあるとすれば、平和条約を通じてでしかありえない。
- 私はこういう国に対しては、サンフランシスコ条約2条C(樺太・千島放棄条項)を度外視する主張を、日本としても展開していくことが最も適切である気さえする。
- 日ロ間の領土問題は、よく言われるように4島か2島かの問題などではない。北方領土だけの問題でもない。4島の日本帰属を決めると共に、ロシアが法的な根拠なく占拠している千島、南樺太の帰属を決める問題である。
- ロシアは国際法違反行為をすること、又はその違法行為の結果を保持することに、何のためらいも持たない国である。
- 2. 中国政府は2011年版外交白書「中国外交 2011」に「釣魚島(注、:尖閣列島)は中国固有の領土であり、中国は争いのない主権を有している。日本側による中国の漁民と漁船に対する拘束や調査、司法措置は違法で無効であり、謝罪と賠償が必要である」と記述していると報じられている。
- 9月22日、程永華駐日中国大使は、尖閣諸島付近で海洋活動を活発化している中国の動きについて、「釣魚島は中国の領土なので、中国の関係機関が色々と活動している。海洋進出の問題ではない」と述べたとされている。
- 中国は過去において、尖閣諸島が日本領土であることを何度も認めている。1960年代の中国の公式地図にも日本領と記している。
- 中国の尖閣諸島への領有権主張は、いわゆるエストッペル(禁反言:既に言ったことに矛盾する主張は認められないとの法の一般原則)だけでさえ認められないことである。然るに、そういうことは全く無視して、尖閣に対する領有権主張を、何の恥じらいもなく主張し続けている。
- 北方領土問題については、1964年、毛沢東が佐々木更三社会党委員長〔当時〕に、ソ連は千島を日本に返すべしと述べた。その後、何度もソ連帝国主義批判のなかで、ソ連の千島占領はソ連の拡張主義の表れであると主張してきた。
- 然るに昨年のメドヴェージェフ訪中の際には、核心的利益の相互支持は中露戦略的パートーナー関係の重要な一部であるとして、これまでの立場を変え、ロシアの北方領土に対する主張を支持する姿勢を明らかにした。
- 中国は前言を尊重しない国であると断じざるを得ない。
- 日中関係を「戦略的互恵」にするとの共同声明での文言や、日中平和友好条約にある「覇権反対条項」を、中国が尊重すると考えるのは間違っているだろうし、それを対中政策の基本におくことは間違いにつながるだろう。
- 要するに、その時々の都合で中国は前言や条約の規定をいつでも平気で反故にする、あるいは反故にするに等しい主張をする国である。
- 3. 中露の今の政権は、国内でも法の支配からは程遠い政治をしている。国際的な場で、同じ傾向を示すのはある意味で当然であろうかとも思われる。
- 韓国は民主化された国で、法の支配もそれなりに確立している。
- しかるに竹島については、日本が国際司法裁判所への提訴を求めても応じず、竹島は日本の朝鮮侵略の第1歩であったとの事実に裏付けられない議論を振り回している。
- 韓国はサンフランシスコ講和条約で、日本の領域から外される地域に竹島を入れるように米に要求した。しかし米は調査後、竹島は日本領土であるとした。このような経緯、歴史を全く無視している。
- 当時、米は朝鮮戦争中であったこともあり、李承晩政権に極めて好意的であった。韓国はサンフランシスコ条約に戦勝国として署名したいという要望を米にした。ダレスはそれに好意的な配慮をしようとまでした。英がいくらなんでもそれはないだろうと主張してそうはならなかった。そのときに韓国は、波浪島という島も自国領にすることを要求したが、米が調べて見たら、そんな島はどこにもなかった。
- 韓国との関係では、朴大統領時代に金大中拉致事件があった。主権侵害ではないかと抗議したら、35年間主権を侵害しておきながら、何をいうのかと反論してきた。
- 歴史問題を理由に、自分の国際法違反を正当化しようとする行為であった。竹島についても、おなじ傾向がある。
- 4. 北朝鮮の国際法無視については、もう論じる必要もない。
- 5. 日本は、国際的なルールや法を尊重しない諸国に囲まれている。そのことを今一度、認識することが必要である。
- 憲法前文にいう『諸国民の公正と信義』は、ここでは存在しないのではないかと考えざるを得ない。
- 私はもちろん近隣諸国との関係の改善を切望している。しかし前に言ったことを翻して恥じないことや、国際法やルールを無視してくることに対しては、厳しく対応していくことが必要であり、それが東アジアの情勢の健全化に役立つと信じている。
- また、こういうルールを尊重しない国に対しては、力のバランスをわが方に不利なように変えさせてはならないし、変えさせないことが平和を維持することになると考えている。
- 東アジア共同体を共通の価値観ではなくとも、ルールに基づくものとして構築しうるのではないかとの議論があるが、日本の近隣諸国には未だルール尊重の気持ちに欠けるところがある。
(9月24日寄稿)
『体験的アフリカ協力論2011-9-14
『体験的アフリカ協力論』

前ウガンダ大使 加藤圭一
1.歴史に翻弄されたアフリカ
アフリカの人々は、元来、農耕、牧畜を生業とした部族社会を形成し、自給自足の生活を営んできた。その後、植民地支配、1950年代から70年代にかけて殆どの国が独立を果たしたものの、東西冷戦に巻き込まれ、今またグローバル化された世界の中で生きていかなければならないという大きな変化と挑戦の時代にさしかかっている。部族社会の運営経験はあっても異なる部族を国民とする国家の運営経験を有せず、独立を果たして国家として国際社会にデビューしても紛争、独裁政権、度重なるクーデター、腐敗、更には蔓延するエイズ等の感染症などが重なり開発にも暗い影を落としてきた。
21世紀初頭(2004年)のアフリカは、人口が8.762億人で全世界の13.8%、国数が53カ国で28%、面積が3,000万平方キロで22.4%、GDPは9,260億ドルで2.1%、輸出額が2,645.41億ドル3%、輸入額は2,454.85億ドルで2.7%、ODAは821.3343億ドルで30.1%、HIV/AID感染者数は2,490万人で64.5%、難民・避難民は486万人で25%などとなっており、一日1ドル未満で生活する人が全人口の46%にも達していている。
2.アフリカの時代へ向けて
アフリカは、本年7月に新たに独立した南スーダンを含め54の国家があるもののナイジェリアなどのごく限られた国を除けば人口が数百万人から数千万人といった国々が殆どで市場規模が限られている。過度な首都への人口と富と近代化の集中、貧しく・安全な水・基本的な医療へのアクセスもままならない農村社会の地方、近代的な交換経済と自給自足経済が混在し、一部の資源国を除けば基本的には農業が主要な産業となっている。多くのアフリカ諸国の経済基盤である一次産品の国際価格は概ね低水準にあり貿易収支は恒常的に赤字となっている。外国企業はアフリカに投資するにはリスクが大きいとして投資を控え、民間資本に変わる資金源として援助に依存せざるをえないといった現実に直面している。貿易と投資、これらを補完する援助が程よいバランスで援助が国家発展の触媒として機能したアジアのモデルは、アフリカの現状に照らして明らかに異なる対応を求められていることに気づかされる。 それでもアフリカは、アフリカ連合(AU)を中心とした政治的な統合、東アフリカ共同体(EAC)などに見られる地域の経済連携の動きの加速、複数政党制による選挙を通じた民主化の進展、ソマリアなど依然として紛争が続いているものの、多くの地域や国内で平和と安全の取り組みが進んでいること、域内の貿易の活発化、2050年には10億人を超え世界人口の20%にも達すると推定され潜在的な巨大市場となる等その歩みは遅いものの着実に国際社会における存在感を増してきている。
3.ウガンダの歩み
(1)1962年に独立、以来、政治・経済的な混乱を経て、1986年にムセベニ現大統領が
政権を掌握して世界銀行・IMFの構造調整を受け入れ適切・堅実な経済政策を
実施して、この25年間6-6.5%、最近の5年間は年平均8%以上の経済成長を続け
マクロ経済は安定している。2009年の政府統計によればGDPが162億ドル、一人
当たり国民総所得460ドル、外貨準備24億ドル、貧困率31.5%、基礎教育の充実、
安全な水へのアクセスの向上など着実な成果を挙げると共に、20年来の懸案で
あった北部の治安も回復して復旧・復興がはじまっている。1997年、貧困と不公平
の削減、人的資源開発の改善、経済成長を目指す貧困削減行動計画(PEAP)を
策定、2000年及び2004年にそれぞれ改定を行って貧困削減を更に加速させること
にした。2010年には、海外からの投資を呼び込み持続的な経済成長を通じた貧困
削減を目指して、民間主導型の成長と雇用創出に重点を置いて社会・経済変革を
図ることを骨子とする新たな中期国家開発計画(NDP:2010-2015)を策定して実
施に移している。2009/2010年の国際社会からの援助は7.818億ドル、国家予算に
対する援助比率は27%、EU、英国等のヨーロッパ諸国が主体の財政支援は48.7%
となっている。2008/2009年の主要な援助国・機関は世界銀行(2.66億ドル)、EU
(2.06億ドル)、米国(1.42億ドル)、英国(1.23億ドル)、アフリカ開発銀行
(1.05億ドル)、中国(86.4百万ドル)、アイルランド(79.3百万ドル)、デンマーク
(61.8百万ドル)、オランダ(56.9百万ドル)、日本(51.8百万ドル)などとなって
いて、アフリカではエティオピア、スーダン、タンザニア、モザンビークに次いで
5番目の援助受取国となっている。欧米諸国はウガンダを大湖地域の政治・経済的
安定の要と位置づけている。世界銀行は水力発電所などのインフラ、教育、保健
医療、農業などに、EUは道路整備などのインフラ、農業、法整備などに、米国は
エイズ、マラリア対策などの保健医療分野に、英国は教育、法整備、民主化支援
などを重点分野として支援を行っていて援助協調の最も進んでいる国ともなって
いる。日本はウガンダの国家開発計画の優先度の高い、理数科教育・学校の整
備などの教育・人材育成、農業(ネリカ米の普及)、病院建設などの保健医療、地方
電化、北部国内避難民支援、道路、橋梁、送電網整備などのインフラ、100名を
超える青年海外協力隊員が地方に派遣され村落開発などの分野で活動するなど
幅広い支援を行っている。
過日、西部地域で行われた地方電化プロジェクト(電化率は12%であるが、地方の
電化率は4%で、電気を供給する為の電柱・電線を敷設するもの)プロジェクト
の引渡し式典に出席したところ、電気のひかれる村々から大勢の人々が駆けつけ、
「私たちはこの工事が始まってからずっとその模様を目のあたりにしてきた。
日本から来た技術者はウガンダの人々と共に汗を流し、我々の声にも耳を傾けて
くれ、予定よりも早く工事が終了した。この地域には道が通じるところまで開発の手
がさしのべられるという言い伝えがある。今まではケロシン・ランプを使っていたが
電気が通じれば子供達が夜に本を読むことが出来るなど生活の質が変わる、明日
への希望の光を遠くのアジアから来た日本人がもたらしてくれた」と語ってくれた
言葉が印象的であった。このように、アフリカ諸国のオーナーシップを尊重し、経験
や技術をアフリカの人々に移転すること、常にアフリカの人々と同じ目線で現場で
共に汗を流すなど欧米諸国とは一味違う日本の援助に対する評価は高いものが
ある。 インド及び中国もウガンダにおいては他のアフリカ諸国同様に大きな存在
である。実質的にウガンダ経済を支配し、アミン元大統領時代(1971年-79年)
に追放された6万人ともいわれたインド人移住者は、3万人ほどが帰還し、現在
では砂糖やお茶の大規模なプランテーションを所有し、卸小売業などの流通を
事実上支配してインド本国からの投資も増大している。在住中国人は、2500-3500
人と言われているが、建設業、電気通信、卸小売業、最近では石油事業、金融部
門にも進出している。また、中国とアフリカ諸国との協力の一環として2009年に
7,600万ドルの援助を表明して学校建設、病院建設、農業協力、インフラ整備事業
などを行っている。
(2)ウガンダは、独立後の政治・経済の混乱をこの25年間で漸くにして解消し、国家
開発の第二の出発点に立っている。投資環境整備のための道路、鉄道、電力な
どのインフラ整備、インフレ抑制、国家歳入の多角化、財政赤字の削減、マイクロ
ファイナンスの普及、民間投資の促進、輸出の多様化、EACや近隣諸国との経済
連携の強化、西部地域で発見された石油(現在の推定埋蔵量は25億バーレル、
日産10万バーレルで未開発地域の探査が進めば更なる埋蔵量の増が見込まれ
ている)収入の有効活用などを通じて民間主導・輸出主導型の持続的な経済成長
を目指している。各援助国・機関ともこのような政府の政策を後押しする支援を活発
化させている。課題は、年率3.3%と世界最高水準にある人口増加率(毎年約100万
人ずつの人口増)、主要生産品である一次産品(農産品)の生産性向上、農業に付
加価値をつけて農家所得の向上を図ること、青年層の雇用確保などである。
ここ数年、EAC諸国のみならず、コンゴ(民)東部、南スーダンを含む国境貿易が
急激な伸びを見せており、アフリカでも数少ない食糧自給国として周辺国に対する
食糧の供給拠点ともなっている。
(3)最近でこそ石油が発見されたものの、めぼしい資源も有しない小国ウガンダが何故
堅実な発展を遂げることが出来たのか、その背景にあるのは何なのか、いくつか
気付きの点をあげてみたい。かねてより、ムセベニ大統領は、アフリカの弱点は、
天然資源の輸出依存と技術力の弱さ、政治的な混乱による市場拡大の限界、政治
的・経済的な統合力のなさに起因する国際交渉力の脆弱さ、民間セクターへの投
資の少なさ、そして、文化的な分断にある。アフリカが21世紀の国際社会の中で
生きていく為には、地域の政治経済的な統合、インフラの整備、政策・法律の整備・
調和化、人材育成、人・物・金の自由化、科学技術の振興、地域紛争・テロなどに
対する防衛の強化などを通じた政治・経済・安全保障が重要であると説いてきた。
農産物価格の自由化、輸出品の公社による独占廃止、国営企業の民営化、公共
部門の縮小、万人の為の教育政策(初・中等教育の強化)、基礎医療の強化、万人
の繁栄政策を通じた地方農民の所得向上、地方向けマイクロファイナンスの創設、
投資環境整備のためのインフラ整備、北部ウガンダの紛争に終止符を打ち復旧・
復興計画を策定・実施、人口約1.2億人を擁する東アフリカ共同体(EAC)の関税
同盟の導入、共通市場などを通じた政策を国民に明示し、強力なリーダーシップの
下で実施に移してきた経緯がある。このような一連のウガンダの歩みを通じて見え
てくることは、第一に、北部地域で反政府組織「神の抵抗軍(LRA)」の活動に
よって国内紛争の被害を受け約180万人にも及ぶ国内避難民の大部分が帰還し
て情勢が改善し全土に平和が到来したこと、第二に、この25年間政治が安定し
大統領の強いリーダーシップのもと重要政策が次々と実施に移されたこと、第三
に、貧困削減行動計画(PEAP)や中期国家開発計画(NDP)が策定され実施
されていること、そして、これら政策の実施を担う人材もある程度育ってきている
こと、第四に、累次にわたる大統領・議会・地方選挙を通じて国民の支持を得て
きたことがあげられる。
4.おわりに
アフリカは、市場経済、民主主義、基本的人権などを共通の価値観とする今日的な国際社会に遅れて登場してきたが、それぞれ状況は異なるものの、ウガンダの例で見られるように、①平和・安全、②政治的な安定・強力なリーダーシップ、③適切な開発計画と人材及び④国民の支持といった一定の要件がそろえば、発展が著しい諸国に加えて、次なる国々が続く可能性を秘めている。
アフリカにおける協力の基本は、アフリカの人々が持続的な経済成長を通じた貧困削減に取り組めるような環境整備を支援すること、具体的には、紛争の予防・終結、民主化支援、法の支配の確立、人材の育成、教育・保健医療・農業の効率化等それぞれの国の実情に応じて行われることにある。
(9月5日寄稿)
『サイバー戦争」は戦争か 2011-9-8
『「サイバー戦争」は戦争か』
国連代表部公使 前情報通信課長 中前隆博
最近「サイバー戦争」という言葉をよく見かけますが、コンピューターが近年どういう形で国際政治や安全保障に結びつけられるようになったのか大雑把ながらまとめてみたいと思います。なお本稿の中で主観的な記述にわたる部分は私の個人的な意見です。
歴史
他人のコンピューターに侵入しその機能に障害をもたらす行為は、パソコンがインターネットに接続して使われるようになった1990年代前半からみられました。その頃は他人の機器を壊したりデータを消したりする「愉快犯」が中心でしたが、やがて企業のネットワークから営業データや個人情報などを盗み出すなどして不正な経済的利得をねらう、経済犯罪の手段にもなりました。
国際関係に連動して大規模に展開され世界的な関心を呼んだのは、2007年5月エストニアの政府や銀行のサイトが攻撃を受けたケースです。これは、エストニアの旧ソ連兵顕彰碑を移動する計画に反感をもったロシア系の人々が、ロシア人ハッカーの支援を受け約3週間にわたり攻撃を行ったとされています。また、2008年、グルジアとロシアが対立した際に、グルジアの政府のサイトが多数の攻撃を受けました。特に、大統領府のサイトが改ざんされ、サーカシビリ大統領の画像がヒトラーと並べて掲載されるようなことがありました。
高度さと規模の大きさで世界の耳目を引いたのは、2009年 7月に韓国と米国の政府機関に行われた攻撃です。この場合、攻撃者はあらかじめ韓国内の不特定多数の個人用コンピューターにウイルスを埋め込み、自らの思い通りに動くロボットのように支配しておきます(これをボット化と呼びます)。その上で、指定した日時に特定のサイトに対して一斉に通信を行わせる(一秒に数十万回)ことで、攻撃対象のシステムをいわばパンク状態にしてしまうものです(一般にDDoS攻撃(Distributed Denial of Service)と呼ばれます)。
コンピューターの侵害行為が社会的に大きなインパクトを持つようになった背景には、「情報処理・管理」と「通信」の一体化がすすみ、かつこれが日々の生活に不可欠な道具として普及してきたことが重要です。今日人々はLANの中に蓄積したデータやインターネット上の様々な知識を使いながら文書を作成したり取引したりします。サイバー上の脅威は、毎日の仕事や生活が情報通信技術なしでは成り立たない経済・社会インフラの変貌を前提に増大してきたものと見ることが大切です。
しかし、これらの侵入行為や情報窃取が「サイバー戦争」と呼ばれることはあったものの、実体上の「戦争」として認識するには抵抗感があったようです。
まず、主体の問題があります。これまでのケースでは攻撃を仕掛けたのは個人またはその集団で、背後に国家の関与や支援が疑われる場合も、名指しされた国はこれを否定しています。また、これまでのケースはいずれも単発的で比較的短期間のもので、軍による組織的で継続的な作戦・戦闘行為と同視することは困難でしょう。また、確かに政府や主要企業のサイトが一時的に止まったり内容が改ざんされたりすれば社会的な影響は認められますが、少なくとも経済を破壊したり人命を奪ったりするものとまでは考えられません。むしろ「サイバー暴徒であり騒々しい示威活動」(ルイスCSIS技術公共政策部長)という認識が主流だったといえます。
しかし、過去2年ほどの間に関係者の認識は大きく変容を余儀なくされてきました。
中国に対する注目
国際政治上の動機によるサイバー侵害や情報窃取が中国を発信地として行われたとされる例は以前から指摘されてきました。最近では、尖閣諸島をめぐって日中間の緊張が高まる中、中国のハッカーグループの呼びかけで日本の政府や団体のサイトに改ざんなどの攻撃がありました。大抵は侵入者の発信元や情報流出先の割り出しから中国の関与が疑われますが、個人の行為によるものであるのか、政府の後ろ盾があるものかについては明らかになりません。
そういう中で、2009年10月、米議会の米中経済安全保障委員会に「中国のサイバー戦およびコンピューター侵害遂行能力」という報告書が提出されました。この報告書は、中国が軍事上の目的を実現する手段としてサイバー空間を利用する意思と体制を持ち、具体的な作戦行動が実施されつつあることを88ページにわたって具体的、実証的に示したもので、国際的に大きな注目を集めました。
特に注目される点を抜粋すると以下の通りです。
- 中国人民解放軍は「統合ネットワーク電子戦」と銘打った
- 戦略を策定し、総参謀部第3部がネットワーク防衛と諜報、
- 第4部がネットワーク攻撃と電子戦を担当。
- 同戦略は、紛争の初期段階の作戦あるいは先制措置とし
- て、敵の指揮命令・情報などのネットワークを攻撃するもの。
- 米国との紛争が生じた場合、米国防総省の非機密系
- (unclassified)ネットワークや補給業務に従事する民間
- 業者のシステムなどが優先的な標的となる。その目的は
- 米軍の展開の遅延と戦域に駐在する部隊の機能低下で
- ある。
- 中国が米国の保秘ネットワークを攻撃する場合、その目的は
- 暗号通信の解読よりもその妨害である可能性が高い。
- これに対して中国外務省は、この報告は「ねつ造」であり
- 「冷戦思考に基づくもの」であると厳しく批判しています。
米国の対応
2009年5月、オバマ大統領はサイバーセキュリティに関する政策スピーチを行い、サイバー上の脅威を「国が直面する経済上、国家安全保障上もっとも深刻な課題のひとつ」としました。その上で、同年12月にはサイバーセキュリティ調整官を指名し、また、翌年米軍中央司令部にサイバー・コマンド(US Cyber Command)が設置されました。
2010年8月、リン国防副長官は「フォーリン・アフェアーズ」に論文を発表し、その中でサイバー空間を陸、海、空、宇宙に次ぐ新たな戦争領域であると規定しつつ、「サイバー戦争」の特徴について以下を指摘しています。
- 非対称性。少数の個人が全米のシステムを脅かし得る。
- 高額の武器は不要。
- 攻撃側に圧倒的に有利。インターネットでは安全確保や
- 個人情報管理の優先度は低い。
- 確証破壊理論に基づく抑止は機能しない。まず攻撃元の
- 特定が困難。また攻撃のコスト引き上げでは抑止は不可能。
- サイバー脅威の対象は軍事目標に限らない。電力、交通、
- 金融も含まれる。これらは米軍の展開に不可欠なインフラ。
- さらに2011年7月、米国防省は「サイバー空間での展開戦略」
- を発表し、①サイバー空間を(軍の)展開領域とする、②国防
- 省の情報通信を保護するための新たな運用コンセプトの採
- 用、③国内官民との連携、④同盟国等との関係強化、
- ⑤体制整備と技術革新、という5つの戦略方針を打ち
- 出しました。
破壊兵器としてのコンピューター
サイバー攻撃は人命を奪ったり軍事標的を直接破壊したりすることはないという従来の見方を大きく覆すことになったのが、スタックスネット(Stuxnet)の一件です。
スタックスネットはコンピューターウイルスの一つです。2010年6月に発見されました。
当初これの正体は不明でしたが、9月になって、イラン政府は核開発施設が未知のウイルスに汚染されたことを発表しました。その後イラン自身は認めていませんが、ナタンズにあるウラン濃縮プラントの遠心分離機が機能障害を起こし、その原因がこのスタックスネットであることが次第に明らかになりました。
スタックスネットは、これまでのウイルスに比べ格段に複雑で高度な機能を持ちその全容は明らかではありませんが、USBメモリなどを媒介として目標施設のネットワーク(LAN)を経由して制御システムに感染し、遠心分離機のモーターを撹乱、誤作動させるとされています。
しかもこれは、特定の対象(この場合、イランの核施設に設置されたシーメンス社製の遠心分離機制御システム)のみに働くことが特徴です。これによってイランの核開発計画は少なくとも数年の遅延を余儀なくされたとも言われています。
このスタックスネットでは2つの点で大きな飛躍があります。一つは、インターネットに接続されない閉鎖系ネットワークを狙ってくること、もう一つは、その目的が情報資産の攪乱や窃取などではなく、プラントを動かす制御システムの破壊であることです。
スタックスネットは、その作成にきわめて高度な技術を必要とし、攻撃対象の詳細な情報の収集と莫大な開発資金が必要であることから、個人やハッカー集団が開発することは不可能といわれます。どこかの国の政府が作成したものと強く疑われている所以です。
今日、各国の政府機関や軍がスタックスネットの研究にしのぎを削っていると想像されます。もしもこれに類似のウイルスが、原子力発電、航空管制、高速鉄道などの制御システムを攪乱し、機能障害を起こすことに成功すれば、これは事実上これらの施設を爆撃することと類似の軍事的効果が期待されます。スタックスネットはサイバーセキュリティの考え方を根本的に変えた、とされるのもこのためです。
「サイバー戦争」と国際法
「サイバー」が戦闘行為の手段として相当現実的なものとなる中、果たして国際法は「サイバー戦争」を規律できるのか、ということが問題になります。
この点についての議論はまだごく初歩的な段階ですが、2010年に英王立国際問題研究所のヒュー研究員がある程度踏み込んだ検討を試みています。「サイバー戦争」を従来型の武器による武力行使と比較する観点からはなかなか興味深いので、以下に概要をご紹介します。
- 現時点ではサイバー戦は大抵「非正規戦(irregular warfare)」と認識され、戦時国際法の適用についてはコンセンサスがない。既存の国際法における「武器の使用」で規律することは困難。
- 軍事的必要性の原則(military necessity)では、直接戦争活動に寄与しない民間人や民間財産は、これを攻撃しても軍事的優勢を確保することは期待されないから、故意の攻撃の対象にはならないとされる。しかしサイバー戦においては、通信施設の軍事・民事目的の区別が非常に困難。その結果民間の情報インフラが敵対行為の対象となる可能性が高い。
- 現行の国際法では、区別原則(distinction)により戦闘員と非戦闘員は区別される。しかし、ネットワーク上の攻撃は遠隔の地から隠密要員により行われることが多い。攻撃者が非戦闘員、民間人である場合、この原則の適用が更に難しくなる。
- 均衡性の原則(proportionality)は軍事目標達成に必要な程度を超える武力の使用を禁ずる。しかし数千マイルの遠隔地からエネルギー網や通信網に対し行なわれるサイバー攻撃での軍事的成果は不明確である。
- 無差別兵器(indiscriminate weapons)の禁止との関連では、例えば、公共のウェブサイトに埋め込まれた悪質なコードによる被害が戦闘員よりも非戦闘員に対して大きい場合、無差別兵器の使用と判断されうる。しかし何がサイバー兵器であるかについてのコンセンサスが殆どない現状では、この原則の適用が意味のあるものとすることには困難がある。
- 法的な保護施設と歴史上認められたもの(赤十字、赤新月など)に対する攻撃は規制され、軍がこの識別を悪用することは背信行為(perfidy)として禁じられる。サイバー空間では軍の補給システムに民間の商標を使ったり指揮命令の伝達に学界ネットワークを利用したりするような場合がこれにあたる。病院や学校などのシステムはサイバー攻撃の対象となることを回避するよう明確に識別される必要がある。
- 境界のない空間におけるサイバー戦においては領土に密接に関係する中立(neutrality)の適用はきわめて困難である。
結び
「サイバー攻撃」とその防御においては、技術的なイタチごっこが延々と続きます。そのなかで、ふと、不用意に外から持ってきたUSBメモリを差し込む、ウェブで不適切なサイトを閲覧する、受け取ったメールを無分別に開く、などといった行為が、システム全体を壊す原因になります。またこのことは、個人のパソコンの使用においても何ら変わりません。注意を怠ると「ボット化」されて、サイバー攻撃の片棒を担ぐことになるからです。
サイバー空間においても、あるいはそこにおいてこそ、個々人の「防衛意識」というのが重要、ということのようです。
『日本のアフリカ農業支援二題(その2)』
2011-8-18
『日本のアフリカ農業支援二題(その2)』

元国連大使、JICA副理事長 大島 賢三
― 日本・ブラジル・モザンビークの三角協力 ―
前号では、日本がアフリカの食料安全保障のため稲作振興に着目し、国際機関などを巻き込んで「コメ生産10年倍増」に向けたイニシアティブ( CARD )をスタートさせた取り組みを紹介した。本号では、東南アフリカのモザンビークで、日本とブラジルが組んで大掛かりな「三角協力」型の農業協力を始めようとしていることを取り上げたい。
セラード農業開発
この背景には、日伯間の「セラード農業開発」がある。ブラジルに勤務経験のある人や農業関係の開発協力に携わった人には、「セラード農業開発」は、なじみのある言葉であろう。首都ブラジリアを中心にブラジル中西部に広がる“Cerrado”と呼ばれる地域は、面積にして207万ha(国土の24%、日本の5.5倍)に及ぶ広大な熱帯サバンナ地帯である。ポルトガル語で「閉ざされた、密集した」という意味合いのこの地域は、灌木林など特殊な植生が覆い、強酸性土壌で、農業には不向きの「不毛の地」とされていた。
今日、最大の農産物貿易黒字額を計上し「世界最強の農業国」の地位を誇っているのはアメリカではなく、ブラジルである。国運FAO統計(2007年)によれば、意外にも「世界のブレッド・バスケット」アメリカは4位(180億ドル)で、ブラジル(369億ドル)の約半分にすぎない。ちなみに、同統計によれば、日本はランキング最下位で(184位、輸入超437億ドル)、中国よりも赤字額は大きい(182位、同270億ドル)。
しかし、そのブラジルも約半世紀前には「飢餓社会」を抱えていた。それが今日の有数の農業国へと大変貌を遂げたのが、1970年代半ばからの農業の急速な発展であり、その中心が「セラード開発」であった。そして、日本はこのセラード農業開発に20余年に亘って技術協力と資金協力を投じ、少なからぬ貢献をしたのである。「緑の革命」の最大の功労者とされ、ノーベル平和賞を受賞した故ノーマン・ボーローグ博士(米国)は、セラード農業開発は「20世紀農学史上最大の偉業の1つ」と絶賛を惜しまなかった。最近の英誌エコノミストは、世界の食料価格高騰のコンテクストでブラジル農業の発展を特集し、「セラードの奇跡」を称賛した(ただし、この記事では、遺憾ながら日本の貢献のことに触れられることはなかった)。
大豆禁輸のショック
日本がブラジルのセラードに関心を寄せる直接のきっかけとなったのは、1973年のアメリカによる大豆禁輸措置である。第1次オイルショックのあおりで禁輸措置が取られると、大豆など穀物輸入先をほぼアメリカ一国に依存していた日本は大きな衝撃を受け、食料輸入先の多角化、開発輸入、食料安全保障といった議論が本格化した。こうした中で、セラード地帯が大豆の供給基地になりうるとの期待が高まり、農水省を中心に対ブラジル農業協力事業の構想が生まれたのである。
そして、1974年、ブラジルを訪問した田中角栄総理とガイゼル大統領との共同発表を契機に、両国政府間でセラード農業開発事業の実現に向けて検討が始まり、基本構想が固まっていった。すなわち、この事業はODAとして、①ブラジル国内の地域開発(地域益)への貢献となる、②世界の食料供給増大(国際益)にかなう、③日本の食料安全保障(国益)にもなるという3つの“win”である。
日本の貢献
その上で、事業具体化のため、(a)技術協力と(b)資金協力を「車の両輪」として組み合わせ、今日では「プログラム・アプローチ」と称される総合的な協力計画へと進んだ。一方、この時期(1970年代半ば)、ブラジル政府は農業開発に向けて「セラード農牧研究所、CPAC」を創設したほか、農業金融制度を整え、社会・経済インフラ(道路、農村電化、港湾、貯蔵施設など) の充実に着手する。このブラジル側の努力に呼応して、日本は1977年に始まった(a)の技術協力で、CPACへの支援として研究機材を潤沢に供与し、人材育成を通してその研究能力向上に多大な貢献をした。これによりセラード農業に係る研究論文は飛躍的に増加し、CPACは一流の研究機関へと発展した。温帯原産である大豆の熱帯性品種が育種され、また土壌改良技術、各種作物の栽培技術、環保全技術が向上する。
そして5年の準備期間を経て、1979年には(b)の資金協力(日伯セラード農業開発協力―PRODECER)も始まった。その後、22年間にわたり684億円が投入され、8つの州において21もの入植地の造成が進められた。この成果そのものは、ブラジル側が4半世紀にセラード地帯において新たに耕地化した全体面積約1000万haの3.5%に過ぎないが、その規模が示唆する以上に、事業地が開発拠点として周辺地域農地造成の先導役となり大きな開発インパクをもたらした。さらにPRODECERの開発方式は環境保全にも大きく寄与したと評価されている。
日系人の活躍
セラード開発の初期過程で忘れてならないのが、日系人社会の果たした役割である。早くも1973年、日系のコチア産業組合がミナス・ジェライス州と共同で入植地事業を計画し、これがセラード農業開発の嚆矢となった。翌年にコチア農業協同組合員89名により、「無謀としか言いようのない」未開地への集団入植が始まり、数々の困難を乗り越えながら24000haの造成など、「特筆すべき大計画」への取り組みが進んだ。
こうして1990年代になるとセラード農業開発は軌道に乗り発展期を迎える。その農学上のリスクは大幅に軽減されて民間(農家、アグリビジネス)の進出が促進され、農業生産量と輸出量が急速に増大し、営農形態や作物も多様化、農産加工業の進出も盛んになって今日へと至っている。
セラード開発の牽引車となったのが大豆生産である。それまで大豆はセラード地帯でほとんど生産されていなかったが、農業開発が本格化し大豆が導入されると、その栽培面積は爆発的に拡大し、4半世紀でセラード地帯での大豆生産量は約3300万トン(2006年)(ブラジルの大豆生産量の63%)におよび、ブラジルはアメリカに比肩する世界第2位の大豆生産国となった。この結果、日本へのインパクトとして、アメリカからの大豆輸入依存度が95%(1977年)から71%(2010年)へ減少し、一方、ブラジルからの輸入比率は2.0%から16%へと増加し、輸入先の多角化につながった。
今日、セラード地帯は大豆以外にも、綿花、トウモロコシ、果実、牛肉、コーヒー、野菜等の一大生産地帯となり、多くのアグリビジネスが興隆している。ODAによる協力に日本側が乗り出すに当たって描いた当初構想の目的は、こうしてほぼ達成されたと言ってよい。
セラードの経験をアフリカヘ
さて、この2国間の大がかりな農業協力を通じて、ブラジルと日本は相互に多くのものを学び、信頼関係が生まれたが、この貴重な経験と知見を「地球最後の農業フロンティア」とされるアフリカで生かせないか、「アフリカ緑の革命」に役立てられないか、アフリカの需要を賄うだけでなく世界の食料供給増にも貢献できないか―という発想がどこからか出てきても不思議ではない。事実、先述のノーマン・ボーローグ博士は、われわれより以前に「セラードを開発した技術は、サハラ砂漠以南の広大な地域(や、インドネシアと中国南部)のかなりの地域に応用できると確信している」と予言的に述べている。
日本とブラジルの間には、このセラード開発以外にも、日系移民に対する各種の支援、ブラジルを根拠地とした周近国への技術移転支援(南南協力、三角協力)などの日本からのODA協力実績があり、相互信頼の積み重ねがある。例えば、JICAの支援によりアフリカ諸国からブラジルに農業研修生などを受け入れる「三角協力」は1989年に始まり、その後10年間に400名以上のアフリカ研修生が参加した。
日伯パートナーシップ
こうした実績を基礎に、2000年になり「日伯パートナーシップ」が両国政府間で署名された。そして2007年、JICA緒方理事長とアモリン外相の間で、このパートナーシップをアフリカでの共同事業に広げる可能性が話し合われ、その具体化の第一号大型案件として浮上したのが、このモザンビークにおける農業開発協力である。
世界植生地図を広げると、赤道直下に熱帯雨林が帯状に広がり、その両側に熱帯雨林を挟むように熱帯サバンナ地帯が広がる。このうち、アフリカの熱帯サバンナの面積は約7億ha、そのうち4億haが農耕適地とされる(世銀資料)。この多様性に富む熱帯サバンナの中で、現在までのところブラジル・セラードのみが世界有数の農業生産地帯に変貌を遂げたわけである。
北部モザンビークヘの展開
さて、モザンビークは、東南アフリカに位置し、面積は80万k㎡(日本の2.1倍)。国土の7割を熱帯サバンナが占め、経済開発ポテンシアルは大きいが、17年続いた内戦の影響もあり貧しい脆弱国の1つである。日本とブラジルの専門家による基礎調査によれば、北部の「ナカラ回廊地帯」と呼ばれる一帯は、ブラジルのセラード地帯とほぼ同緯度で、比較的雨量もあり、耕作地に転換できる広大な未耕地が広がっている。その地域を東西につなぐ道路と鉄道は流通インフラとして重要で、日本、韓国、アフリ力開銀がその道路改修に資金援助する方針も決まっている。その東端のインド洋側には天然の良港ナカラ港が位置する。
こうしてナカラ回廊地帯を「三角協力」の対象地として選ぶことに決まったが、一方でモザンビークとブラジルでは経済社会の相違も大きい。モザンビークは欧米からの財政支援なくして国家財政が成り立たない最貧国であり、技術レベルも低い。従って、ブラジル・セラードの開発モデルを右から左へとそのまま移植できないが、それでもブラジルとの三角協力に期待できることは多い。ブラジルには、零細農民の入植事業、大型農業の導入によるフロンティア開発、アグリビジネス、環境保全、衛星システムの技術にも優れた知見があり、モザンビークヘの応用が可能である。日本には農業分野の技術協力と資金協力の手段かある。
こうして2009年7月、「世界の食料安全保障」が主要テーマの1つとなったG8のラクイラ・サミットにおいて、麻生総理とブラジルのルーラ大統領(いずれも当時)の間で「日伯セラード開発協力の経験を活かして、日伯連携でモザンビークでの農業開発協力を実施する」ことが合意された。実務的には、同年9月、モザンビークの首都マプトにて、JICAを代表して筆者、ブラジル国際協力庁長官、モザンビーク農業大臣の三者間で大枠合意が署名された。
三角協力の実施プラン
この“ProSAVANA”と称される事業計画によれば、全体の計画を第一の準備段階と第二の事業化段階に分け、まず、第一段階では日伯共同でモザンビーク側の研究・普及能力向上を支援し、地域全体の農業マスタープランの作成、農村レベルでの実証調査、農産物増産支援、農村組合活動促進を行う。その上で第二の事業化段階では、ODA有償資金の投入、日伯民間企業の参入、国際機関(世銀など)との連携などにより本格的農業生産に入ることが計画されている。
こうして始まった日・伯・モザンビークの「三角協力」は今後、恐らく10年以上は続く息の長い取り組みが必要になるであろう。これが成功すれば、同じくポルトガル語系で潜在可能性の高いアンゴラその他のアフリカ諸国における農業開発のモデルにもなりうる。
新しい農業開発モデルに向けて
アフリカやアジアを舞台に今、中東湾岸諸国や、インド、中国など新興国、韓国などが潤沢な資金を投じて、広大な農地を借り上げる「農地争奪、Land grab」と呼ばれる熾烈な農地獲得競争が展開しつつある。その幾つかのやりかたは、零細農家を駆逐する「第二の植民地主義」だと批判を招いている。そういう風潮が広がる中で、この「三角協力」のモデルが、ホスト国の農業基盤の強化に貢献するだけでなく、大規模農場と小規模零細農場の双方に調和のとれた農業開発の可能性を開き、責任ある海外農業投資の行動規範を示すことになれば、3つの“win”を実現する極めて意義のある事業となるであろう。その意味で、 三国がInnovativeなアイディアを試み、日伯連携で相乗効果を実現していくことが期待されている。
幸いなことに、日本側には、JICA・OB職員で現役時代にセラード開発に専門家として通算17年間にわたり直接に関わった本郷豊氏のような人物が健在で、引き続いてこの「三角協力」に携わることになっている。本稿も同氏の論稿を参考にさせていただいた部分が多い。ブラジル側には、政府のバックアップのほかに、前述のCPACを傘下に持つ強力な中核組織である「ブラジル農牧公社(EMBRAPA)」の人材など、セラード協力で鍛えられた専門家が数多くいて、この事業に全面的に参加することになっている。
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世界最大の食料輸出国たるブラジルと世界最大の食料輸入国たる日本が組み、アフリカで農業共同事業を展開することになったと言えば、あるいは皮肉のように聞こえるかもしれないが、既述のように、これは偶然ではない。近年、勢いが衰えてきているとはいえ、日本は、(アフリカではTICADプロセスなどを通じて)ODAを中心とする国際協力では、着実で信頼できるパートナーとしての地位・名声を得ているので、ブラジルにとりそういう日本と組むメリットは大きい。日本にとっても農業大国ブラジルと組むことのメリットは大きいので、まさに双方にとり“win-win”である。
加えて、二国間関係で言えば、ブラジルは世界最大の日系社会を擁し、大の親日国である。G20の一員、食料、エネルギー、鉱物資源の安定的な供給国でもある。国連安保理改革ではG4の一員として日本の仲間だ。ブラジルと組むことで、「地デジ・システム」は南米と一部の南部アフリカで日本システム導入に効果を挙げたことも記憶に新しい。代表的な新興国、マーケットとしても日本と世界にとり益々重要性を増す国、ダイナミズムにあふれた複合民族国家、そして民主体制を整えた国でもある。
アフリカの地で日本とブラジルが農業分野で大型の連携協力を進めることは、日伯両国にとり新たな、大きな資産になるに違いない。世界の食料安全保障のためにも一石を投じることになれば、なお幸いである。 (会報5月号より転載)
『日本のアフリカ農業支援二題(その1)』
2011-8-01
『日本のアフリカ農業支援二題(その1)』

元国連大使、JICA副理事長 大 島 賢 三
世界的な食料価格高騰が再び表面化し懸念を生んでいる。6月のG20農相会合で対策が話し合われる予定もあるようだ。筆者には農業や食料危機の問題を真正面から論じる資格はないが、開発協力の視点から、現在日本が関わっているアフリカに対する二つの大きな農業協力計画について紹介したい。本号では「コメ倍増計画」について、次号で日本とブラジルが協力してモザンビークで進める「三角協力」を取り上げたい。
この前に食料危機が世界を騒がせたのは2008年春から夏のころ、ちょうどリーマンショック直前のことであった。5年ごとに日本が主導する「第4回アフリカ開発会議、TICAD4」が丁度、この時期(2008年5月)に横浜で聞かれていた。折からアフリカをふくむ30以上の国で食料暴動が発生し、政権崩壊につながる例も出ていただけに、横浜での会議に参加していたアフリカ40ヵ国以上の各国首脳や国際機関の関係者には、深刻な課題として頭上に重くのしかかったに相違ない。アルゼンチン、ウクライナ、ロシア、インドなど少なからぬ穀物輸出国が輸出規制に訴えたことも、パニックを広げた。
そのような経験から「食料安全保障」に対する意識が各国に強まり、日本など輸入国側を中心に、価格抑制や輸出規制に関する国際的ルール作りへの関心も高まった。その後、食料価格の方は少し落ち着きを戻したものの、高止まり傾向は続いてきた。そして、今の危機再来の兆しである。
世界的な食料高騰を招く元凶として、最近の豪州やロシアなど穀物大生産国における(気候変動による影響を含め)干ばつや洪水など天候不順の激化、〝膨らむ胃袋″(人口増と中国など新興国での消費増大)、バイオーエタノール生産との競合、さらには農業セクターへの投資不足、投機マネーの流入といった数々の要因が指摘されている。多くは中長期的、構造的な要因であり、将来的な影響の広がりは大きい。つまり、安い食料、カネさえあれば世界から食料を輸入できる時代は当然視されなくなりつつある。日本のように食料自給率が低く、大量の穀物輸入に頼る国は安閑としておれなくなる。こうして、日本でも一部商社は海外での食料権益確保へと動き、湾岸産油国や韓国など一部の食料輸入国の政府や企業が逸早く、世界各地の優良農地、遊休地をめがけて農地争奪(Land grabとかLand rush)と呼ばれる動きに走っている。
農業軽視への反省
開発の観点から見るとどうなのであろうか。農業や農村開発はODAの伝統的分野の1つではあるが、ここ2、30年間を見ると、特に多くのアフリカ諸国においては、独立以来、生産から流通まで公的セクターで管理していた農業セクターの効率悪化が顕著になる中、また余剰農産物や〝安い食料価格″を背景に、先進援助国による農業分野への資源配分は減少を続けてきた。ことに80年代から90年代にかけて流行した世銀・IMF主導の「構造調整政策」の下で、アフリカなどでは農業関連案件の予算はバッサ、バッサと削られた。その中で、日本は比較的に農業・農村開発を重視したドナーであるが、世界全体的には農業軽視は否めなかった。最近の2、3年こそ、こうした減少に歯止めがかかり増勢に転じているが、はっきりと警鐘を鳴らしたのは2008年版の世銀の「世界開発報告」である。この年の報告は農業を特集し、(一般に誤りを認めたがらない)その世銀が、「過去の農業軽視は誤りであった」と率直に認め、政策転換をアピールしたのである。
いったん食料危機が起きると、最も脆弱な国や地域は飢餓や貧困の多いところ、特にアフリカ(サブサハラ・アフリカ地域)だ。同時に、(見落とされがちであるが)農業生産性を上げる余地、農地開発の余地が大きいのも、実はアフリカである。危機と潜在可能性が同居するこのアフリカの農業・食料問題の改善に向けて、日本が力を入れて協力できること、比較優位があるとすれば、それは何であろうか。数力月後に追っていたTICAD4への準備として、世銀報告のメッセージをくみ取りながら、JICAではこれにいかに対応すべきか検討を進めていた。
その答えは、(常識的ながら) コメである。日本はキャッサバ、大豆、トウモロコシ、小麦などについては特段の比較優位はないが、コメであればアフリカでも数力国で協力実績の積み重ねがある。西部アフリカにおけるコメ専門の地域機関であるWARDA(後に
「アフリカ稲センター」に改称) への資金援助・専門家派遣や、東部のケニア、タンザニアなどでも協力を続けてコメ増産に貢献している。DACの先進援助国グループの中で
コメ専門家派遣などにより稲作協力ができるのは、日本くらい(あと若干ではあるがフランス、研究支援などでアメリカ)である。ただし、コメに特化するにしても、従来の二国間協力タイプの稲作プロジェクトを少々増やすだけでは新味はなく、インパクトも限られる。新しいイニシアティブを打ち出す以上は、従来の実績を活かしつつも少々大胆な発想、ちょっとした戦略アプローチが必要である。
こうして、TICAD開催までの数力月の間に新しいアイディアの太枠を固め、それに基づきアフリカをはじめとする関係機関・団体等への周到な根回しが始められた。その上で、2008年5月の横浜会議の機会に打ち上げられたのが、以下に概略を述べる。〝CARD″と略称される「アフリカ・コメ生産10年倍増計画」である。
10年倍増計画の打ち上げ
コメを主食とするアジアには及ばないが、アフリカでもコメは多くの国で主要穀物の1つになっている。日本人のコメ消費量は漸減して、最近では65キロ前後/年であるが、インド洋に浮かぶマダガスカルが最も消費が多くて日本の倍近く(120キロ以上)、西アフリカの象牙海岸、セネガル、ギニアなどでは日本以上の80キロ前後を食べている。東アフリカのケニア、タンザニア、ウガンダなどはまだ10キロ以下に留まるが、ここでも近年消費量は急速に伸びている。(貧困層にはまだ手が届きにくいが)コメは保存が効き、調理が簡単、栄養価が高いので、とくに都市部を中心に消費の伸びが大きく、都市化の進行が全体の消費を押し上げる構造になっている。特に1990年代後半以降に、アフリカの多くの国でコメ需要が急速に増大し、主に耕作面積の拡大により生産増が図られてきたものの需要に追いつかず、アジア等からの輸入に頼っているが、このため多額の貴重な外貨が使われている。サブサハラ・アフリカ全体のコメ生産量は、推定約1,400万トン (自給率は全体で60%) で、これはフィリピン一国の生産量に過ぎない。また、コメは、アフリカにおける主要穀物のうちで唯一、低湿地の適切な開発や媽灌漑の拡大、栽培技術の改良による生産増大のポテンシァルが高く、一般に農民のコメ生産意欲も高いとされている。
稲作振興のための共同体立ち上げ
そこで、アフリカのコメ生産を画期的に増やすとして、その目標をどのように設定するか、その目標実現に向けて国際協力の仕組みをどうするか、JICAとしてアフリカ側の、どのパートナーと組むのが適当か―これらが最初の検討課題であった。
まず目標設定は、専門家の意見も良く聞いて、向こう10年間を目途にサブサハラ・アフリカ全体で生産を「倍増」することを目指すことにした(1,400万トンから2,800万トン次に協力・連携の仕組みとして、まずドナー側では、①アフリカの農業・稲作に関心を持つ二国間ドナー(米、仏など)、②マルチ援助機関(世銀、アフリカ開銀など)、③農業関連の国際機関(FAO、IFAD、WFPなど国連機関)、④マニラに本部を置く国際稲研究所(IRRI)、農水省傘下の国際農業水産研究センター(JIRCAS)、⑤アフリカ地域機関・研究機関(WARDAなど)を出来る限り広く巻き込んだ上で、これを協議グループとして組織化し、情報の共有を進め、個々のプロジェクト活動の調整と調和を図ることを目的とする「共同体」を立ち上げることにした。
こうして生まれたのが、「アフリカ稲作振興のための共同体、Coalition for African Rice Development’ CARD」である。CARDは、コメという単品作物に特化し、幅広い参加機関のそれぞれの比較優位を活かしながら、「緩やかな援助協調」を目指すというユニークな位置づけの仕組みと言えるであろう。
JICAはこの「共同体」の中で主導的役割を果たすが、アフリカの〝オーナーシップ″を担保する意味でアフリカ側にも主導的なパートナーがあった方が良いとの考えから、「アフリカ緑の革命のための同盟、Alliance for a Green Revolution in Africa’ AGRA」という民間組織をこれに選ぶこととした。アジアでは1960年代から70年代にかけて小麦とコメ増産に画期的成果を挙げることで「緑の革命」を成功させたが、アフリカ版の「緑の革命」を実現させようと数年前にスタートしたのがAGRAである。アメリカのゲーツ財団、ロックフェラー財団などがこれを強力にバックアップしており、その会長には国連事務総長を退いたコフィ・アナン氏が就いている。ケニアの首都ナイロビに本部事務所、アフリカの数力所に支部を置いて、コメをふくむアフリカ農業振興全体のために活発な支援活動を展開しており、頼りになるパートナーである。
AGRA会長のコフィ・アナン氏は、かつて筆者が国連事務局に勤務していた時のボスであった。それも助けになったか、アナン氏を訪ねて「共同体」の構想を説明しその同意を取り付けることは、幸い比較的簡単に進んだ。また、AGRAの本部事務局の一角にCard専任の小さな事務局を設置することについても快諾を得た。
CARDの活動
こうして立ち上がったCARDは、2008年10月にナイロビで第一回の本会合を開いて本格的活動を開始した。ここで①支援対象国が正式に決定された(コメの重要性が相対的に高い「第1グループ」としてマダガスカル、ナイジェリア、ガーナ、ギニア、セネガル、ケニア、タンザニアなど12力国、これに続く「第2ダループ」としてエチオピア、ザンビア、コンゴなど11力国の合計23力国)。②また、「共同体」の総会を2年に1度のペースで開くこと、コア・メンバー(JICA、AGRA、世銀、IRRI、JIRCASなど11機関)によって構成される運営委員会が最低毎年1回会合して全体の連携・調整にあたること、③CARD事務局を設置して日常業務の運営にあたること等が合意された。さらに、④「第1グループ」と「第2グループ」の支援対象国は、各国それぞれの「稲作振興戦略」を策定すること、それを基礎に各国の自助努力と国際支援が相まって振興策が進むよう努力を傾注していくことも合意された。
それから、約2年半、CARDの枠組みの下での活動は徐々にではあるが、着実に進展を見せているこの間に、上記の[稲作振興戦略]ペーパーは各国により作成され、その着実な実施に向けての動きも具体化しつつある
ドナー側の投入計画も次第に強化されつつある。日本は、世銀に設定している「開発政策・人材育成基金」の中からCARDの下でのアフリカ稲作支援に向けて1億ドルを振り向けることを決定し、コメ生産性向上のための研究強化、人材育成等の支援に充てられる。
JICAは、コメ関連技術者・普及員など人材育成のための研修、コメ専門家の派遣、濯漑計画などを強化してCARD達成への貢献を主導する。モンティ・ジョーンズ博士(シエラレオーネ出身)がアフリ力種とアジア種を交雑させ、両者の長所を発揮させることに成功した「ネリカ米」の普及にも日本人専門家が大きく貢献している。
上述のAGRA、世銀・アフリカ開銀、FAOやIFADなど国連機関も、それぞれ投入計画を増やして協力を強化している。オバマ政権下の米国(USAID)は新援助政策の下で、「食料安全保障」を主要な柱に据えているが(“Feed the Future” 計画)、CARDを今後の日米援助協力の一つに柱に育てていこうとする流れも出てきている。
アジア・アフリカ協力の芽
さらに、今後注目されるのは、稲作を軸とした「アジア・アフリカ協力」の進展可能性である。コメであれば、アフリカとアジアの間で「南南協力」「三角協力」を進める「入り口」になり易い。現にその方向で幾つかの動きが出始めており、JICAとしても、東南アジア諸国がCARDに参加することを奨励していくこととしている。現に、インドネシア、フィリピン、ベトナムなどは、JICA支援の下に自国のコメ専門家をアフリカの稲作国に派遣し、あるいは研修員を受け入れることに積極的で、今後拡大していく可能性が大いにある。韓国(JICAのカウンターパートであるKOICA)のCARD参加の話も出ている。エチオピアのメレス首相など、一部のアフリカのリーダーは「アジア経済発展の経験から学ぼう」と熱心に提唱しているが、CARDを通じる支援・交流が一石を投じることになれば面白い。
勿論、CARDの前途には数々の難題が山積しているのも事実だ。稲作に限らずアフリカの農業は、低い生産性、無駄の多い収穫後処理、肥料・農薬などの低投入、灌漑施設や農村道路などインフラ不備、農業技術や品種改良の後れ、マーケティングの溢路など課題は多い。生産から市場への流れ全体をにらんだ対策(いわゆるバリュー・チェーンーアプローチ) に取り組む必要性が高いことも強調されている。ただ、アフリカの多くの政府は農業重視へと舵を切りかえ始めており、政府予算の10%を農業に振り向けようと言う目標も設定されている。コメはアフリカ農業全体からみればごく一部に限られるが、CARDを通じてアフリカ農業の改善・発展に良いインパクトが生まれることになれば幸いである。
(会報4月号より転載)
(会報4月号より転載)
『宗教や過去の軽視からの脱皮(バチカンを通して日本を見る)』2011-7-21
『宗教や過去の軽視からの脱皮(バチカンを通して日本を見る)』

杏林大学外国語学部客員教授・前駐バチカン大使 上野 景文
昨秋帰国するまでの4年間、バチカンに勤務している間に---と言っても、実態はと言えば、ローマ市にいたのだが---「見えるようになった」ことが幾つかある。特に、世界各国の事情を観察する際、宗教と言う「補助線」が有用な場合があることや、バチカンは「過去」に徹底的にこだわる処だと言うことを見出だして、新鮮に感じた。しかも、これらの点は、日本の現状に関し「このままで良いのか」と振り返る材料を提供してくれているようでもあるので、右の二点を取り上げ、そのインプリケーションを探ってみることとした。
1. 宗教から逃げるな
先ず、第1点--「補助線」の話---について。バチカンでの仕事を通じて、宗教や信仰という「補助線」を持ち出すことにより、世界各地の事情の理解が容易になる場合がある、或いは、それまで見えなかったものが見えてくる場合がある、と言う点が分かるようになった。然も、近年宗教の「復権」がグローバルに進む(注1)中で、宗教と言う補助線の有用性は当然のことながら、高まって来ている。
たとえば、バチカンとイランの間にはしっかりとしたパイプがあると言う、日本からは見えにくい意外な事実があるのだが、両国とも宗教が政治の上に立つ「宗教国家」であるという共通性を掴(つか)んでおきさえすれば、「さもありなん」ということになる。ジャスミン革命、ナイル革命後の中近東で、イスラムの「復権」がどこまで進むかを見極めないと、5-10年先の地域の姿は占えない。米国が「宗教国家」の顔を持つことは周知のことだが、その点を押さえておかないと、同国はすっきり理解できない。米国と比べると「世俗化」、どぎつく言えば、「脱キリスト教化」が進んだ西欧北部ですら、「宗教の気配」を感じさせることがある。といっても、「神無き信仰」の台頭の話だが。たとえば、自然を神聖視する「動物権」信仰の影響下、薬品開発実験に動物を使うことを規制する、或いは、家畜の屠殺法を規制するEU指令が次々と制定されている。同時に、動物権信仰の徒等は、反捕鯨キャンペーンを含め、あちこちで摩擦を生じている。これらは「宗教摩擦」だと位置付けないと、有効な対応策は立て難い。
「宗教の復権」がグローバルに進展しつつある中、日本がやがてその波をかぶることになることは必至なのだが、昨秋久方ぶりに戻った日本は、世界の潮流に無頓着であり、宗教は何と「部屋の片隅に追いやられている」風ではないか!! 内外のギャップは歴然。おまけに、学者であれ、ジャーナリストであれ、政治家、行政官であれ、この国では宗教に「触れよう」としない。露骨に言えば、「逃げている」。
クジラの問題を例にとろう。反捕鯨運動家は、「鯨を殺すことは正義に悖る(=不正義である)」と言う教理を掲げた信仰に突き動かされており、これにきちっと反論するためには、日本人の宗教・信仰の観点は絶対に避けては通れないのだが、現状はと言えば、その観点は素通りしている。昨年神戸新聞に書いたので、ここでは詳細には立ち入らないが、水産庁の役人に宗教論に踏み込むことを求めるのが無理であるのならば、せめて、宗教者、あるいは、宗教に詳しい人材が、国際的論戦に参画することが期待される(注2)。ということで、さる神社関係者に論戦への出馬を奨めてみたりもしたが、消極的反応しか得られていない。
宗教を避けんとする風潮に関連して、もう一点指摘しておく。大震災であれだけの犠牲者が出たのに、「国民全体が一丸となって、喪に服そう」との声はついぞ聞かれない。政府はもとより、学者、メディアからも。宗教的ニュアンスのあることは、誰も触れたがらないと言うことなのだろう。欧州であれ、北米であれ、今度のような悲劇があったら、「国民の総意として、一緒になって喪に服す」のが普通であり、自然だ。誰もそう言い出さないという事実そのものに、私は違和感を覚える。勿論、震災後多くの国民が自発的に哀悼の意を示し、また、「自粛」と言う形で、各層より連帯の意思が示された。それはそれで、極めて貴重なことだと思う。が、それだけでよいのだろうか。やはり、国民の総意であることを示すために、公的な形を整えて、つまり、「国家として弔う」ということがあって良いのではないか。その際、政府がイニシアチブをとるべきことは言うまでもない。救出、瓦礫撤去が一段落したところで、宗教色を含めなくても良いのだが、国民的な形で「喪に服して」はどうだろうか。
2. 「過去」へのこだわり
では第2点に移ろう。「過去へのこだわり」の話だ。欧州は、過去の否定の上に建国され米国とは異なり、おしなべて「過去」に強いこだわりを示す。中でも「過去」へのこだわりが強いのがバチカンだ。それを強く感じたのは、江戸時代初期に処刑されたキリシタン百八十八人をバチカンが長崎で顕彰(「列福」と言う)した三年前だ。日本人の感覚では、江戸時代初期は今日からは「完全に隔絶された世界」なのだが、彼らは「昨日のこと」のように扱っていた。
それだけにとどまらない。キリスト教はこの二千年間、五百年ごとに分裂を繰り返して来たが、バチカンは、二千年前に別れたユダヤ教とも、千五百年前別れた中東系正教とも、千年前別れたギリシャ・スラブ系正教とも、更には、五百年前別れた英国国教会とも、この五十年、関係を修復している。また、カトリック教会が依拠している典礼、しきたり、衣装などには、古代~中世から継承されて来ているものが少なくない。
つまり、バチカンにとっては、五百、千年はもとより、千五百年前ですら「過去」になりきっていないことがあると言うことだ。「過去」はしばしば「現在」として扱われる。「過去」にこだわるバチカン文化ほど、日本とのギャップを感じさせるものはない。何しろ、こっちは数十年前を「切り棄てる」ことすら逡巡しないのだから。
振り返ってみれば、近~現代を通じ、日本人の伝統・過去への眼差しは「冷ややか」なものであった。明治になると、江戸時代は「遅れていた」と言ってこれを切り棄て、戦後になると戦前は「暗黒だった」と切り棄てた。そのたびに、外来を中心とする新しいシンボルに飛びついた。だから、明治初期、日本人が見棄てた浮世絵は二束三文で手放され、海外に流出した。明治政府は、「なんば歩き」と言う旧来の歩行法すら切り棄てた。文部省は、明治以来つい数年前まで、学校教育の現場から邦楽を一貫して締め出して来た。だから、文部省唱歌はすべて「和製洋楽」だ。戦後も、「古い」の一言で切り棄てられた「過去」は少なくない。たとえば、半世紀前、新住居表示導入のため、古い町名を全国的に放逐するという文化的暴挙が敢行された。この結果、明治期、或いは、江戸期を対象とした小説のリアリティーが半減するところとなった。然も、さしたる反対や抵抗なしに。郵政当局だけでなく、国民の意識も「過去を棄てる」ことに躊躇がなかったということだ。
その点を改めて感じさせられたのは、震災前、古文書を紐解き、貞観津波など幾つもの事例から、巨大津波につき警鐘した学者がいたのに、原発専門家や担当する官僚は十分アテンションを払わなかったと聞いた時だ。ひとつには、既定の施策を大幅に改定させられることへの抵抗感がそうさせたということだろう。だが、それだけか。国民が総じて「過去に冷たい」という日本的状況、より正確に言えば、日本の文化的状況が、専門家の「心をも縛っていた」のではないか。だとすれば、問題の根は深い。そのような空気が充満する日本だから、千年前の地震のことを持ち出しても、実務家は、「そんな大昔の研究につきあっている暇はない。学者の間で議論を続けるのは構わないが。」と相手にしなかったのではないか。
「過去を棄てる」という日本のこれまでの生き様であるが、西洋的モダニズム導入のためには「仕方なかった」との弁明はあるのだろう。一般論としてはそうかもしれない。が、日本の場合度を越しており、「ほどほど」を遥かに超えている。勿論、何もかも「棄てず」に守り通すことは、全て「棄てる」のと同じくらい、愚かなことだ。要は、新たに取り入れた「現在」と、棄てずに堆積した「多様な過去」との間に見られる矛盾に耐えるだけの精神的強靭さを持つことだ。時間とともに、堆積した「多様な過去」の間で、習合作用が働き、新たなアイデンティティーが生まれるのだが、それまでの間、耐え忍ぶ「強さ」がなくてはならない。今の日本には、その強さが欠けている。何はともあれ、国民の多くが「棄てる」ことに「痛み」を感じない現状は文化的疾患というものだ。このたびの震災を奇貨として、「過去軽視」の生き様を改めることを呼びかけたい。何もバチカン並みを求めるつもりはないが、「過去に敬意を払う文化」への転換は不可欠だ。
3. まとめ
以上お示しした二つの見解を読者はどう受け止められたであろうか。中には、「筆者はバチカンにかぶれやがって」と反発された方もおられよう。念のために付け加えるが、私は、バチカンの真似をせよと言っている訳ではない。ただ、バチカンから観察した「世界の潮流」に照らすなら、日本はかけ離れていると言う事実をお伝えしたかっただけだ。陳腐なレトリックを使えば、宗教面でも日本は「ガラパゴス化」の危険があると言うことでもある。そう、「宗教」及び「過去」に「正当な地位」を与えることが、まずもって必要だ(注3)。
(注1) 拙文 「『宗教復権』潮流直視を」 (讀賣新聞、2011年1月25日)
(注2) 拙文 「反『反捕鯨』論を深めるには」(神戸新聞、2010年8月23日)
(注3) 拙著 「バチカンの聖と俗 :日本大使の一四〇〇日」(かまくら春秋社)
(2011年7月19日寄稿)
『脱原発、減原発は日本の国益に適うか』
2011-7-21
『脱原発、減原発は日本の国益に適うか』
元原子力委員会 委員長代理 遠藤 哲也
今回の「脱原発、減原発は日本の国益に適うか」掲載にともない3月31日論壇掲載 「福島原発事故から何を学ぶべきか」と5月9日時事コラム掲載の「福島原発事故の国際的な影響-原子力の安全には国境はない-」も合わせてご覧ください。 (霞関会編集部)
(日本にとっての原発の重要性)
エネルギーと食料は国家の経済活動と国民生活の根幹であるが、日本はその自給率が非常に低い。 特にエネルギーについては、自給率はわずか4%と先進国の中で最低の水準にある。それに島国であるから、近隣国から電力の融通を受けることが出来ない。このような状況の中で、原子力は日本のエネルギーの安全保障に大きな貢献をしている。原子力発電は準国産的なところがあり、原子力を入れると、エネルギーの自給率は20%近くになる。他方、アジアを中心とする新興国の経済発展は目覚しく、化石燃料の需要が急速に増えて来ることが予想されるので、原子力の重要性は一段と大きくなって来るであろう。
今一つは、世界喫緊の課題である地球温暖化防止であり、CO2を排出しない原子力の重要性である。鳩山首相(当時)は、2009年9月の国連気候変動首脳級会合で、2020年の中期目標として、CO2の排出を1990年比25%の削減(2005年比30%減)するとの宣言を行った。これは条件付宣言ではあったが、事実上国際公約として数字が一人歩きしている。この削減を達成するために原子力分野では原子炉9基の増設、稼働率を80%以上とすることが期待されていた。
(日本の原発の危機)
ところが、福島事故は世界中に大きな衝撃を与えた。(原発事故に国境なし)原発の安全規制を国内的及び国際的に強化すべし、IAEAがその中心的な役割を果たすべしとの点については、各国の一致した反応であったが、原子力発電そのものをどうするかについては各国様々であった。多くの国は、安全に一層留意しつつ今後とも開発を進めるという姿勢をとっているが、ドイツ、イタリアなど一部の西欧諸国は市民感情に押されて脱原発へと舵を切った。
事故当事国の日本では、市民の反発感情が盛り上がり、それを一部のマス・メディア、政権の一部などが個人的にせよ煽るようなところがあって、原発は一種の岐路に立っている。現在、54基の原子炉のうち18基しか稼動しておらず、定期検査後の再稼動が政治的に難しい状況にあり、最悪のケースでは来年3月には日本全国の原発がすべてストップすることにもなりかねない。
2010年6月に閣議決定されたばかりのエネルギー基本計画と、それによる原発の積極推進の方針は白紙とされ又、新成長戦略の一環と位置づけられた原発のプラント輸出もその行方がはっきりしなくなっている。日本が新しい輸出ターゲットとして考えていたベトナム、トルコ、ヨルダンなどは福島事故以降も日本との協力に積極的な姿勢を示しているのに対し、日本の方の反応は今一つという感じである。目下国会に承認を求めて提出されているロシア、ベトナム、ヨルダン、韓国との原子力協定の帰すうもはっきりしないし、トルコ、ブラジルなどとの原子力協定交渉も事実上中断状態である。いずれにせよ、日本の原子力に対する姿勢は、国内、国外共に甚だ消極的になっている。
(日本は脱原発、減原発でやってゆけるのか)
それでは、日本は脱原発、減原発(原発の規模を縮小すること)でやってゆけるのだろうか。
・ 日本の総発電量の約30%を占める原発がなくなる、あるいは大幅に減少される場合、何でそれを代替するのか。短期的には、おそらく化石燃料だろうが、輸入経費がかさむし、CO2排出を伴うので排出権購入費が必要となり、発電コストを引き上げる。しかも化石燃料は今後上昇することが予想されるので尚更である。中・長期的には自然エネルギー(風力、太陽光、地熱、バイオマス等)であり、一見大衆向けするが、日本は先進国の中でも開発に立ち遅れ、現在総発電量の1%程度に過ぎず、今後開発に努力すべきだが自然エネルギーそれ自身少なからぬ問題を抱えている。供給の安定性(例えば、太陽光発電の日本での平均利用率は約12%、風力は年間の利用率26%など)、量的拡大の難しさ、経済性、発電される電気の質(系統安定の問題など)などである。
従って、自然エネルギーは分散電源、補充電源としては役に立つが、大規模経済のベースロードの基幹電源とするには無理がある。原発の代わりに自然エネルギーをあてるには、単に掛け声だけでは駄目で、定量的な分析、工程表、制度設計が必要である。いたずらなエネルギー政策の変更あるいは変更への掛声は、国の経済活動、国民生活に大きな混乱を招きかねない。日本経済に致命的な打撃を与えかねない。
・ 国際的にかかわりのある原発のプラント輸出はどうするつもりなのか。地球温暖化防止対策としてのCO2排出に関する事実上の国際収束はどうするか。
――force majeure(不可抗力)を主張するか。
これらは、日本の国際信用の問題である。
・ 脱原発は、資源に乏しい日本にとって最も重要なエネルギー政策と原子力発電の黎明期から一貫して位置づけられた「核燃料サイクル」からの撤退を意味する。核燃料サイクルは経験の蓄積と人材の育成から成り立つもので一旦撤退すると再び立て直すのは極めて困難である。本当に撤退してよいのか熟慮すべきであろう。
(おわりに)
筆者は、かつて原子力委員会委員をつとめたため、我田引水ととられるかもしれないが、日本のおかれた地政学的条件や経済規模などを冷静に考えるとき、又、定量的に物事を考えるとき、日本の脱原発は多くの問題を抱えていると思う。日本は、安全面を根本的に見直しつつ、原発を推進してゆく(むしろ原子力の拡大)、それとあわせ自然エネルギーの開発も積極的に進め、各エネルギー間のベスト・ミックスをはかってゆくのが最も国益にかなう現実的な政策であると思う。脱原発や減原発は日本がとるべき途ではない。
(2011年7月21日寄稿)
『保護する責任とリビヤ決議』2011-7-7
『保護する責任とリビヤ決議』

人権人道担当大使 上田秀明
1、アラブの「民主化」のうねりが続く中で、リビヤのカダフィ政権に対して国連安保理決議に基づく空爆が継続している。3月17日に採択されたこの決議1973号は、東日本大震災の直後であったため、日本での注目度はさして高くはなかったが、国際社会が「保護する責任」(responsibility to protect, 略してR2P)の観点から行動をとった事例として国際的には注目されている。
国際社会(といっても欧米先進国)は、1990年代初めの旧ユーゴの紛争での民族浄化やルワンダの虐殺などに際して無力感を味わい、90年代末にコソヴォや東チモールで再び同様の事態に直面した際に、「人道介入」について議論を活発化した。
アナン国連事務総長(当時)が、いかなる時に人道的な軍事介入が行われるべきかをより明確にすることを呼びかけたのを受けて、カナダの提案で「介入と国家主権についての国際委員会」が設置され、2001年12月に報告書を提出した。
その要点は、「国家主権は責任を意味し、人々を保護する主要な責任は国家自身にある。しかし、内戦などにより民衆が深刻な被害を受けている際に、当該国家が被害を回避したり防止しようとせず、又はすることができない時には、国際社会による『保護する責任』が不干渉原則に優越する。」とするもので、その根拠を国連憲章や人道法、世界人権宣言などに求めていた。これについて先進国側は介入の決定は安保理決議に求めるとの前提で支持する国が多かったが、伝統的国家主権を尊重する中国をはじめとする途上国から強い反発があった。
2、 カナダは、この課題を2000年の国連ミレニアム総会および2005年のフォロウアップ首脳会議での合意事項にすべく活発な外交を展開した。そのころ日本は、人間の安全保障を打ち出しており、カナダの目指すところが人間の安全保障の一側面ともいえることは理解しつつも、途上国の反発を考慮して、意識的に2つの概念を分けて議論した経緯もある。様々な議論を経て、2005年の首脳会議の成果文書に、保護する責任と人間の安全保障がともに含まれた。
保護する責任については、パラ138で、「 各々の国家は、大量殺戮、戦争犯罪、民族浄化及び人道に対する犯罪からその国の人々を保護する責任を負う。・・・国際社会は、適切な場合に、国家がその責任を果たすことを奨励し助けるべきであり、国連が早期警戒能力を確立することを支援すべきである。」とされ、139 で、「国際社会も、・・・憲章第6章及び8章にしたがって、適切な外交的、人道的及びその他の平和的手段を用いる責任を負う。・・・仮に平和的手段が不十分であり、国家当局が(上記4つの)犯罪から自国民を保護することに明らかに失敗している場合は、適切な時期に断固とした方法で、安全保障理事会を通じ、第7章を含む国連憲章に則り、個々の状況に応じ、かつ適切であれば関係する地域機関とも協力しつつ、集団的行動をとる用意がある。」とするものであった。
これを踏まえ、2009年1月に事務総長報告が発表された。これは、上記成果文書の合意を説明するもので、国家に保護する責任があることを強調し、その能力向上のために国際社会が協力すべきであると指摘した上で、国際社会の対応については、国家が明らかに保護を提供できない場合に、適切な時期に断固とした方法で、集団として対応するのは加盟国の責任であるとしている。 そして、対応振りについては、何もしないかあるいは武力行使かという二者択一の選択である必要はなく、憲章第6章の平和的手段、第7章の強制的な手段、および/あるいは第8章の地域的取極との協力を含むとしている。
3、この論議は、グローバル化が進む世界において、国家主権、とりわけ内政不干渉原則と人類普遍の原則たる人権・人道の理念とのコンフリクトを浮き彫りにし、グローバル・ガヴァナンスの観点からも厄介な課題である。国際法がここまで発展しており、国家の基本的な権利義務とされるものも絶対的なものではないことを示しているわけだが、R2Pの適応は「言うは易く、行うは難し」とみられてきており、現にスーダン情勢をめぐっては、中国が難色を示していた。
ところが、チュニジア、エジプトに続き、リビヤで民主化を求める民衆の運動が起きた際に、カダフィ政権が空軍力をも用いてこれを弾圧するに及んで、安保理は、2月26日の決議1970号において、カダフィ政権により「一般市民に行われている広範かつ組織的な攻撃は人道に対する罪と同然でありうると考慮」するとし、「国民を保護するリビヤ当局の責任を想起」するとした上で、リビヤ当局に暴力の停止を求め、同国の状況を国際刑事裁判所の検察官に付託することを決定した。
さらに、事態が悪化するのを見て、3月17日の決議1973号では、「国民を保護するリビヤ当局の責任を繰り返し表明し」、依然として続く弾圧行為が「人道に対する罪と同然」でありうると考慮し、「事態は国際の平和および安全に対する脅威を構成すると認定して」、「憲章7章に基づいて行動する」と前置きした上で、加盟国に「文民および文民居住地区を守るために・・・必要なあらゆ措置を講じる権限を付与」するという決議を採択したのである(そのほかにノーフライ・ゾーンの設置、貨物検査の実施などを決定)。
英、仏が主導し、米が賛成し、中国、ロシアは棄権に回った。カダフィにはあまり奇矯な振る舞いが多く、アラブ連盟も見限った感があり、このような介入を支持したので、中、露も拒否権を行使しなかったのだろうと見られている。
潘基文事務総長は、3月18日付で声明を発表し、「安保理は歴史的決定を行った。1973決議は、その政府によって犯された暴力から市民を保護する責任を果たすとの国際社会の決意を明々白々に確認した。」と指摘している。
これに基づき、米、英、仏、伊など各国空軍(現在はNATOの責任で)による空爆が頻繁に行われて、反カダフィ政権側を支援している状況にあることは周知のところである。
4、この決議は、確かに保護する責任に言及した画期的な決議である。ただし、安保理が係る根拠として、国際の平和及び安全に対する脅威であるためであるとしている点は伝統的アプローチもとっている。そして決議の目的は、「停戦の即時確立、暴力ならびに文民に対するあらゆる攻撃および虐待の完全な終焉を求める」ものであり、「リビヤの主権、独立、領土保全および国の統一については安保理が公約」するとしており、カダフィ政権の打倒ないし排除は直接には言及されていない。また、リビヤ領域内への外国軍の占領は排除するとしているので、地上部隊によるカダフィ軍の排除は考えられていない。
しかしカダフィの態度からみて、政権交代が無くては保護する責任も果たせないのではないかと考えられ、いったいどこまで国際社会が介入すれば目的が達成できるのか、いかなる事態になったら平和と安全への脅威にならなくなるのかなど、終結点の見極めには微妙なものがあり、予断を許さない。ただし、国連人権理事会ではリビヤの理事国資格が停止されている。また、国際刑事裁判所の検察官がガダフィに対する逮捕状を発出している。
保護する責任の概念を擁護する人々は、このようなケースに適用できなければR2Pの意味がなく、ここが正念場であるとしている。批判する者は、欧米の価値観に基づく安易な介入を許すことになるし、武力諸勢力が国際社会の支援を得るためにむしろ衝突をおこすとの見方まである。
今やリビヤと同様の事態になりつつあるシリアについてはどう対応するのかという喫緊の問題があり、さらには、北朝鮮の状況、中国やロシアの少数民族「弾圧」はどうかという問題がある。後者について、P-5の国内問題にはR2Pが適応されないのであれば、途上国からは、ダブルスタンダードだと非難されるであろう。
なお、R2Pは、人間の安全保障の1側面であると見ることができようが、人間の安全保障に関する事務総長報告(2010年3月)においては、「武力行使は人間の安全保障の適用には予想されていない」としてR2Pと区別している。 日本としては、R2Pのための武力行使に参加することには制約があるが、今後の国連活動への参画の観点から検討を要するところであり、少なくとも関連する難民支援などには人間の安全保障の観点から一層の協力が求められると考える。(2011年7月3日寄稿)
『強大化する中国との関係を考える』2011-6-10
『強大化する中国との関係を考える。』

国広道彦(元駐中国大使)
はじめに
私か対中外交の第一線を退いてから16年経った。それなのにこれからの日中関係について正面から議論を試みるのはいささかおこがましさを感じる。
しかし、小泉政権の問靖国問題のために政治関係が不安定に過ぎ、その後は日本側で短期政権が続いて、安倍総理の時代に折角「戦略的互恵関係」に合意しながらその実現に弾みがつかなかった。他方、中国は旺盛な経済発展を続け、軍車力も強化して、世界における存在感を強めてきた。民主党政権は国内問題の処理に追われているうちに、千年に1度といわれる大地震と大津波に襲われ、復興の道筋をつけるのに苦労している。こういう状況の下でわが国の外交は世界の潮流の中を漂流しているように思われる。特に中国との関係では、中国が湧きおこしている大きな渦の中に巻きこまれてしまいそうな気がする。
勿論、外務省の現役は日夜奮闘しているであろう。しかし、中国が米国に比肩する存在になりつつある今日、日本は対米関係でやっているように、あらゆる分野の人々の力を糾合して、中国との関係を健全に維持していかなければならない。そこで、私のような老兵が蛮勇を奮って大雑把な意見を披露し、それをたたき台にしていただきたいと思う次第である。
これからの中国をどう見るか?
まず、これからの中国についてどう考えるかについて述べたい。
昨年、中国のGDPは39兆2800億元(1元=12.45円)に達してついに日本を追い越した。かなり前から予想されていたことではあるが、やはり時代の変化を画するものである。日本の世論はこれを冷静に受け止めた。変にナショナリスティックな反応が起きなかったことに安堵したが、もう少し奮起する議論もあってもよいのではないかという気もした。それはともかくとして、日中国交正常化以来、中国の改革開放政策を支援してきたわが国がこのような旺盛な中国の発展に多少なりとも貢献できたのは祝福すべきことである。
中国では、今年3月に開催された全人代において、「第12次5ヵ年計画」が採択された。これで今後5年間の中国の発展のブルー・プリントが明らかになった。5年間の経済成長を年率7%と想定している(前期の目標は7.5%)。過去30年間、年平均約10%の成長をしてきたのと比べれば低めの目標であるが、中国の労働力の頭打ち、資源環境問題の将来、国際市場の先行きなどを考えて余裕を持たせた想定であろう。それでも2015年のGDPは55兆元を上回る勘定になる。10年くらいの中国経済の先行きも大よそ見通せる気がする。その頃は日本経済との規模の差は画然としてきて、経済力の強化に伴い軍事力も必然的に強化されていくだろう。
勿論、中国経済はいろいろな困難を抱えている。しかし、中国社会はその時々の困難を乗り切って、10年後には先進国のレベルに達するであろう。(最近のIMFでは購買力平価ペースで中国のGDPは2016年に米国を追い越すと予測している。)それを可能にするのは中国の大きな貯蓄(=投資の資源)であり、国内市場の大きさであり、研究開発投資の増加(毎年20%の伸び)であり、政策決定の早さである。
中国は当面の課題をインフレ抑制であるとしているが、中長期的には経済成長パターンの転換を重要課題としている。量的より質的な発展に転換しようとしているのである。投資依存型の成長から消費拡大による成長への転換である。資源の制約、国際環境の制約のみならず、これまでの発展が富の格差を増幅して大衆の不満が昂じていることを考えても必要な政策転換である。 政治的にいえば「民生」重視、成長より再分配重視と言うことになる。
去年初めて、中国の農村部の純収入の伸び率が都市部の可処分所得の伸び率を上回った。今年は都市部と農村の所得の増加を経済成長率と同率の8%増にすると言っている。具体的には最低賃金を年平均13%以上引き上げるとも言っている。農産物の価格引き上げ額も提示している。本末、経済成長を投資に依存し、国内消費加対GDP比40%に満たない低さであるのが中国経済の弱点である。労働者、農民の所得を増やすことは望ましいことではあるが、それをインフレを年4%程度に抑えながら実現できるかどうか見ものではある。
問題は30年間の高度成長が生んだ社会問題をうまく処理できるかどうかである。「和諧社会」を標榜する胡錦涛政権の最後の2年間の正念場である。
中国の貧富の格差については周知の通りであるが、これに腐敗・汚職が重なることにより、大衆の怒りが増幅されている。鄧小平が 「先富論」を唱えた頃は、金持ちが出現してもチャイニーズードリームを抱かせた。しかし、今の中国は「高幹グループ」とか「紅色一族」といわれるような既得権集団が支配して、一般大衆は住宅の人手も絶望的になり不満を募らせている。それに加えて、幹部の汚職が後を絶たないという状況では社会不安が憂慮される。
地方政府は経済発展の財源の過半を土地の使用権を開発業者に売ることによってまかなっている。そのため住民は有無を言わせぬ立ち退きを強いられる。土地を失った農民の怒りは大きい。また、地方政府は銀行融資を受けるための特別のプラットフォームを設けており、その債務(2009年末7.38兆元)を返済する目途が立たないでいる。いずれ莫大な公的資金による解決が迫られるであろう。
以上のような社会情勢にかんがみ、この数年来の予算では医療、保険、教育、「三農」対策等の民主関係予算を重点的に増やしている。胡綿涛政権が「和諧社会」に向けて最後の2年間に掉尾を振るっているとも言える。しかし、昨年7.3%の増に抑えられた国防予算の増加が今年再び2桁増(12.6%)に戻っている。これに加えて、今年は公安予算が国防予算を上回っている。 他方、最近胡錦涛政権は政策を「安定第一」に切り替えて、国内の取締りを強化している。北アフリカの「ジャスミン革命」もあり、このところ言論統制が目立って強化され、民主活動家が次々と拘束されている。 内政上の取締りの強化と並行して、昨年秋以降中国の対外姿勢の強硬化が目立った。
昨年末戴秉国・国務委員が「平和発展の道を歩むことを堅持せよ」という論文を発表したのに対して、馬暁天・副総参謀長が「戦略的チャンスの時代的意味を把握し、我々の歴史的使命と責任を明確にせよ」という論文を発表した。後者は鄧小平の「韜光養晦」を乗り越えようする発言ではないかと注目されている。(この前にも、若手将軍の中から勇ましい発言が出る傾向が生じていたが、その源は一昨年7月に開催された在外公館長会議で行なった胡錦涛の重要演説にあると言われている。その中で胡錦涛は「堅持積極韜光養晦、積極有所作為」と述べたと伝えられている。)
これは中国指導部における、いわゆる国際協調派とナショナリズム派の対立の兆候だと私には見える。中国は経済的にも、政治的にも大国になっているにもかかわらず、歴史的被害者意識を克服できず、偏狭なナショナリズムに走りやすい。これが、世界にとって中国の最大の問題である。中国が世界のステークホールダーとしての責任を果たすよう希望する。 中国は中国共産党の1党独裁の国であるが、その政策決定は党書記の専制で行なわれているのではない。いろいろな国内政治の力学の所産として生み出されているのである。その国内政治と力として昔から強いのが軍である。また最近は国有企業その他の利益集団、さらにはインターネットの圧力なども顕著になっている。中国の動向を把握しようとする場合に一筋縄でいかないゆえんである。
これからの日中関係について
以上のように中国は旺成な経済発展を遂げながら、国内的にはいろいろな不安要因を抱えているが、そのなかで両国経済の相互依存度は年々高まっている。中国の経済が下降すればわが国経済も深刻な打撃を受ける。万一中国に政治的混乱が生じればそれが日本を含め周辺国に大きな影響をこうむる。わが国としては平和的に発展する中国と安定的関係を維持していくのが国益である。
民主党政権になってからは、靖国神社のようなお互いに敏感な問題を表面化させずに来ていた。それを覆したのが、昨年秋に生じた尖閣諸島沖の中国漁船の衝突事件であった。漁船を拿捕したとき、仙石官房長官は「国内法により粛々と処理する」と当然のことをしているようなことを言ったが、これはそもそも「魚釣島」に主権を主張している中国側が最も聞きたくない言葉だった。しかも船長を2週間の拘留期限を延長したかと思えば、温家総理の強硬発言、レアアースの規制措置、日本人会社員の逮捕などが続くと、突然沖縄の地方検事が船長を処分節留にして釈放してしまった。その間の不明朗な措置に日本国民の多くは日本政府が中国の圧力に屈してしまったという感じを持った。今回の民生党政権の取り扱いが日中関係に好ましからざる悪例を残したことは否定できない。
これと前後して南シナ海での中国の強硬な姿勢にアセアンの関係国が反発を示した。4月30日、温家宝首相はジャカルタで「領土主権や領海の問題が存在するが、2国間で適切に解決しなければならない」、「中国は領有権問題で騒ぎを広げたり、緊張を高めたりすることには同意しない」と述べた。尖閣問題についてもこの方針が守られることを希望する。 日本が中国の改革開放を支援した基礎には中国の経済が発展して、生活水準が向上すれば、政治面でも民主化につながるであろうと言う期待があったが、それは幻想に終りそうである。私か中国に在勤した頃(1995年初めまで)と比べれば中国の社会は格段と自由になっている。しかし、共産党の1党独裁体制は変わらなかったし、今後もかなりの間変わりそうにない。勿論中国がもっと人権を尊重する国になって欲しいとは思うが、それも中国国内の政治的力学によって決まるものである。日本が中国の民主化を政策と掲げても中国側の反感を招くだけである。また、民主化した中国では当面反日感情が強まることが予想される。 総論はこれくらいにして、以下私の具体的提言を若干述べさせていただく。
第1に、「戦略的互恵関係」の推進は日中双方にとり利益のある方針である。中国は「戦略的」と「ウィン・ウィンの関係」という言葉を好んで使う。「戦略的」という言葉に軍事、安全保障の要素があることは、ロシア、米国との間に軍の「戦略的協議メカニズム」が構築されていることからも分かるが、多くの場合この言葉を大局的、長期的という意味で使っている。
ところが日本側では、細川政権以来、靖国問題でもめた小泉政権を除き、毎年のように政権の交代があった。その間、首脳会談や外相会談をするたびに日本側は期待を持たせる言をするが、その当事者が実行に移す前に、時には会談の直後に、政治舞台から姿を消してしまった。これでは長期的、大局的な議論はできないし、戦略的互恵関係は築けない。なによりも日本の内政をしっかりして欲しい。これは対中外交のみならず、日本の民主主義の根幹にかかわる問題でもある。
第2に、日本は中国にとり大事につきあう価値のある国であらなければならない。その要点は日本の経済力、特に技術力だと思う。中国は自主イノベーションに重大な力点を置いている。新5ヵ年計画中のR&Dを年率2.2%増やすという方針を明らかにしている。単純な比較は難しいようであるが、日本の科学技術予算が3年連続削減されてきたのとは大変な違いである。しかも、中国は莫大な輸入の力を利用して外国技術の導入を積極的に図っている。2006年に日本のMSKを買収したサンテクパワーが太陽光発電の世界的リーダーとして躍進したようなM&Aによる技術力向上の例も多い。中国は日本以外の国々からも広範な技術導入を試みているが、日本の技術に大きな関心かおることは間違いない。
しかし、新幹線のように日本が売り込もうとしている間に中国の方が日、欧の技術を摂取して国内の新幹線網を急速に拡大し、海外に進出しようと言う勢いを見せる例も生じている。風力発電でもあっという間に世界のトップクラスに躍り出た。もともと、宇宙開発のように以前から中国のほうがリードしている科学技術分野があり、これから日本が技術リードを維持する分野は狭くなって行くだろうが、ナノテクや生物化学など日本が先行しうる分野はまだまだいろいろあるだろう。技術の世界は胡坐をかいているとすぐに追い越されてしまう。資金と人材育成の両面で日本は不断の努力をしなければならない。日本は技術立国以外に生き延びる方法がない。 将来の検討課題としては自由貿易協定かある。しかし、現実には双方共に困難が多いと思う。当面は日中韓の共同研究を続けるのが妥当であろう。
もう一つ、日本が中国人の関心をひきつけ得るものとして日本社会のモデルが考えられるのではあるまいか。安全、安心で、高齢者も生きがいを感じて生活できるような社会のモデルである。日本は少子高齢化の先進国である。中国も急速に高齢化しつつある。その中国に対して高齢者も生き生きと暮らせていけるような社会造りの見本を示したいものである。この点に関し、近年社会道徳が乱れ、自殺者が年間3万人も続き、親子の殺人事件などが度々発生するような日本社会の劣化傾向は大変懸念される。しかし、国際的な比較では日本社会は安定しているし、自然の美も保たれている。社会保障も最低限のものは与えられている。言論の自由も、法の支配も定着している。このようなコミュニティを守ることが日本の存在意義を高める。
他方、経済発展の著しい中国では住宅価格が庶民の手の届かないところまで上がってしまい、土地なし農民の数が増える一方で、社会保障が整備できないうちに高齢化社会に入ってしまうのではないかと憂慮されている。また、カネ稼ぎの競争社会に嫌気がさして、カネ儲けよりも安らかな生活のほうを求める傾向が中国にも生じているという声も聞く。東日本大震災における日本社会の秩序を見て日本に対する敬意を抱いたという中国人の話も聞いた。そのような日本に対する再評価が生まれれば大地震の悲劇も少し救われる気がする。大地震の復興の中にも日本社会のモデルを示したい。
第三に「外交力」の強化である。外交関係者だけでなく、シンクータンクやNGOをふくめ、あらゆる専門家の力を結集した「外交力」の強化である。特に重要なのは政治家の議論する力、交渉する力の養成である。中国共産党は8千万人近くの党員を母体に30年くらいかけて幹部を養成し、その競争に勝ち残ったものが中央委員、政治局委員になっている。百戦錬磨の実力者が鍛え上げられている。日本の政治家にももっと組織的な訓練が必要だと思う。
歴史的にも中国人は議論を得意とする。戦前の日本人に対しては王道を説き、戦後の日本人には歴史認識などを利用して「戦略的高みに立った」議論をする。中国人は世界の秩序を守ると言いながらも、既存の秩序を自国に有利に変えようとする姿勢を崩さない。日本人は戦後のアメリカを中心とした世界秩序に安住してか日本の国家像をまともに議論してこなかったし、日本がどういう国になりたいと思っているか、どういう世界を望んでいるか世界に示す努力も真剣にはしてこなかった。敗戦の結果「出る釘は打たれる」の戒めが骨にしみたのか、大勢順応、状況対応型の外交姿勢が多かった。これは中国人には誤解を招く。日本が基本戦略について腹を割った議論をすれば、中国と立場に違いはあっても、共通するものがかなりあるはずである。そこで見出す共通の利益を拡大して行くことが日中関係を積極的に拡大することになると思う。
「外交力」は宣伝力でもある。日本は「五・四運動」以来世界世論に対するアピールにおいて常に中国に遅れをとっている。1つにはメディアの利用における立ち遅れがある。新革社の発表は直ちに7~8ヵ国語に翻訳されて世界中に配信されている。日本のメディアはせいぜい英語に翻訳される程度である。また、中国のネット発信は多様であり、日本語でも「新華網」、「人民網」などいくつかの発信が行なわれている。日本の報道機関では大分前から「共同網」が中国語で発信しているが、他のメディアも実行して欲しい。現在中国で最もヒット数が多い日本の中国語ネットは「中国経済新聞」の「日本新聞網」ではなかろうか。発行者は元日本留学生の徐静波氏である。
今やパブリック・ディプロマシーの時代である。4億5千万人を超えた中国のネット人口に日本を直接知らせたい。しかも、相手は「八十年后」、「九十年后」に世代替わりしている。アニメ以外に日本のことを殆ど知らない「新新中国人」に日本が知って欲しいことをふんだんに伝えなければならない。日本からの部品や原材料の輸入は中国経済にとって致命的に重要だということ、日本企業が中国国内でいかに多くの雇用を生み出していることなど、また、環境問題や安全保障などの面での共通の利益がいかに大きいかも知らせなければならない。
加えて、民間交流による日中関係の下支えを強化することが必要である。日中間には250を超える姉妹都市関係があり、しかもいろいろな活動を続けている。次期党主席に想定されている習近平副主席も福建省時代に姉妹都市関係を通じて長崎県と親しい関係になった。中国人の多くが日本人に会ったことがないというのが現実であり、日本を訪れた中国人の多くが日本に対する認識を改めたとも言われている。今後の日中関係における民間交流の重要性はますます高まる。
忘れてならないのはいわゆる「過去の問題」である。日本はすでに戦争中の過去についてすでに何度も謝ったし、そのことは温家宝首相も2007年の国会演説で認めている。だから、日本人としては過去の問題はすでに水に流されたと考えたいところだが、中国の国民一般の感情は違う。現在ではアニメで日本大好きと言う若者が増えていることは事実であるが、それでもこと歴史問題になると彼らの思考スイッチが簡単に切り替えられてしまう。幸い、最近はこの問題が下火になっているので、火を掻き起こすようなことはしないように日本側で言動に注意すべきである。日本人の中には、中国が強大化するのを見て何か一言強がりを言いたい衝動に駆られる人もあるだろう。しかし、大局をわきまえて己を処することが肝要である。日中の歴史共同研究の報告書は全文発表されていないが、かなりの成果を挙げたようである。台湾の文書公開から南京事件の実態が相当分かってきたそうだ。日中間でも今後さらに歴史研究を積み重ねれば事実関係が明るみに出てくるであろう。
最後に最も肝心な安全保障問題を取り上げる。先ず、日本が戦後ずっと依存している日米安保体制についてである。これを継続することは日中が国交正常化したときの前提であったし、中ソ対立の中で中国にとっても効用があった。ソ連の崩壊後に中国の日米安保に対する考え方に変化が生じたことも事実であろう。中国の中には、日米安保条約が日本の自主防衛を抑制する効果を認めながらも、中国の軍のなかには中国は米国の世界戦略により包囲されており、その要が日米安保であると言う見方もあるようだ。しかし、中国も一国の防衛に関しては理解するはずであり、米中共に今や戦争と言う選択肢はないというのが基本的考え方であるから、日米安保を現実として受け止めるはずである。 日米安保は地域安全保障の上からも重視されている。日本としては、インドやアセアンの友好国、豪州、ニュージランドなどとの関係を密にしながら、日米安保を堅持して、東アジアの平和と安全のために中国と話し合っていけばよい。
同時に、密輸、麻薬、テロ、災害援助などの「非伝統的安全保障」分野における国際協力は中国を含めて随分進んでいる。それに比して、日中二国間の防衛交流は度々滞りがちであるが、防衛当局者間の相互理解は進めなければならない。
他方、昨年秋の尖閣列島沖における漁船逮捕のときの中国側の主権の主張は強烈なものであった。この事件の経緯については今なお不明なことが多く、中国側の意図は測りがたいが、その後も中国の漁業監視船は尖閣沖に出没している。中国の尖閣列島に対する中国側の主張はいずれ表面化してくると覚悟しておくべきである。我々は先般のような醜態を繰り返さない準備をしておかなければならない。最近政府は南西諸島に自衛隊を配備し、監視船も増加する計画も発表した。当然のことである。もっと充実すべきではなかろうか。日本は中国と二度と戦争をしてはならない。しかし、国土と海域を守る強固な決意は常に明らかにしておかなければならない。
私は中国の強力な軍備拡大を大きな関心をもって注視している。それを十分に分析する専門的能力はないが、特に強い関心を持っているのは最近の「接近拒否」、「地域拒否」のミサイル能力の発達である。中国が米第7艦隊の空母が近寄れないような空母攻撃能力を持つようになると西太平洋防衛の構図が変わってくる。もう1つはサイバー戦争能力の向上である。万一宇宙通信に障害が起きたら米国の防衛機能が働かなくなる。世界中の経済活動が損なわれる。宇宙平和利用を保障する国際協力の推進は世界的課題である。
要するに、米中間ではすでに経済関係がMAD(相互確実破壊)の段階に入っているが、軍事関係でもMADの状態に近づきつつあるのではあるまいか。そういう時代における日本は米国との同盟関係を堅持しつつも、中国との間でもアジアの平和と繁栄のために協力して行かなければならない。将来構想としては東アジアの平和維持機構ができることが望ましいが、当面期待できない。私見としては昨年秋アセアンが試みた拡大アセアン国防相合議が将来上手く成長することを願っている。
2010年度の中国の国防白書を見ると、北朝鮮問題など違和感を感じるところもいろいろあるが、世界と地域の平和、国際協調について立派なことも多く書いてある。わが国にとっても、安全保障についての議論のべースとなりうると思う。
明年秋には第18回党大会が聞かれ、習近平国家副主席が党総書記長に選出されることが確実視されている。建国以来、初めて法律で決められた手続きに従って指導者が選任される。習氏についてはまだ外部に知らされていないところが多い。父親は党の有力幹部であったが、文華時代に投獄されていた間に、七年間下放生活をしたそうだ。地方の上司の推薦で北京大学に入学、党軍事委員会の秘書室に勤務の後は自分から希望して地方勤務を続けた。太子党の1人ではあるが、大変な苦労人で、党は人民のためにあるという信念の共産党人で現場主義者だと言われている。政権の座に着いた習近平党総書記が民生の向上と睦隣外交を続けることを願う。
(最近の中国関係参考資料)
「日米中トライアングル」 王緝思、ジェラルド・カーティス、国分良成編(岩波書店)
「かくて中国はアメリカを抜く」 胡鞍鋼著(PHP)
「中国は、いま」国分良成編(岩波新書)
「これから、中国とどう付き合うか」 宮本雄二著(日本経済新聞社)
「中国の新しい対外政策」リンダ・ヤコブソン、ディーン・ノックス著(岩波現代文庫)
「ネット大国中国」 遠藤誉著(岩波新書)
「中国動漫新人類――日本のアニメと漫画が中国を動かす」遠藤誉著(日経BP社)
「習近平の正体」 茅沢勤著(小学館)
「中国 巨大国家の底流」 興梠一郎著(文芸春秋)
「国の真実」(中国の技術力) 伊佐進一著(講談社現代新書)
「中国の地下経済」 富坂聡著(文春新書)
「中国 静かなる革命」 呉軍華著(日本経済出版社)
「チャイナ・アズ・ナンバーワン」 関志雄著(東洋経済出版社)
「『中国問題』の核心 清水美和著(ちくま新書)
「中国最大の敵日本を攻撃せよ」 戴旭著(徳間書店)
“Will China Rise to War?” Foreign Affairs March/April 2011
“Military and Security Developments Involving the Peoples Republic of China 2010 (Office of the Secretary of Defense)
“Capitalism with Chinese Characteristics” Yasheng Huang(Cambridge University Press)
(2011年5月15日寄稿)

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