『2016年米国大統領選挙の真の意味は何か?』
2016.07.15

『2016年米国大統領選挙の真の意味は何か?』


西村 六善

西村 六善
元地球環境担当大使


始めに…

温暖化を喰い止めようとする世界の動きに米国の保守層が強く反対しているのは何故か? これは気候変動交渉の中でも最も深刻な課題だった。私見では共和党の「小さい政府」と云う党是が災いをしていた。今でもそうだ。そしてこの党是が「トランプ現象」を生んだのではないか? 以下は米国研究の専門家ではない人間の私見である。

「小さい政府」とは(注)…

「小さい政府」は連邦政府の財政と権限の拡大を強烈に嫌悪する。兎に角、「規制」を嫌うのだ。例の「unfettered market capitalism」と云う思想だ。温暖化防止の名目で連邦政府が自由経済を規制することに反対だ。だから、連邦政府が各州にインセンティブを与えて石炭から自然エネルギーに転換しようとするオバマ政策は共和党の反対に遭遇している。温暖化のような地球規模の問題に連邦政府が行動することに反対なら、どうしたら良いのか? 結局、彼らは論点を逸らし、「温暖化は迷信だ」と強弁して切り抜けようとしている。

(注)本稿では、政府の領域を最小化し、規制を廃止し、富裕層を含めて大幅な減税を進め、財政赤字を拒絶し、福祉国家を敵視するネオ・リベラリズム的政策の全体を便宜的に「小さい政府」と呼ぶ。

「小さい政府」の生みだす問題は温暖化だけではない。「小さい政府」は「小さい福祉」だ。だから貿易のグローバル化と移民の流入で、あっという間に職を奪われた高卒レベルの労働者への「セーフティー・ネット」も小さい(1)。ロクな職業再訓練も受けられない。保守本流のクルーズ候補は医療保険(オバマケア)を「直ちに廃止する」と公言していた。経済界との関係上、最低賃金も上げたくない。労組の権利は保守に傾斜した最高裁によって恒常的に弱体化させられた。

大学の学費は非常に高額なので、せめて息子には良い将来をと願う中間層以下の親には希望すら無い。このところ中間層の貧困を論ずる記事と文献は非常に多い。最近アトランティック誌に中流層でも「急な400ドルでも用立て出来ない」ことに羞恥心を感じていると云う率直な意見が掲載され、大きな議論になった(2)。事実、白人貧困者の自殺の数も増えている。

しかし過去8年近くはオバマ政権の時代だから、貧困は同政権の責任ではないのか? 当然の議論だ。しかし、中間層の貧困化は寧ろ共和党の妨害政策の為だと云う議論が強い。2009年「ケニアの社会主義者」(保守派はオバマをこう呼んでいた)の大統領が出現した時、共和党はアメリカが福祉国家に急展開すると危惧した(3)。

それが背景で、共和党首脳は2009年1月オバマ大統領就任式典のその日の夜、会食に集合して全てのオバマ政策に全面的に反対すると云う方針を決めた(4)。ミッチ・マコネル上院院内総務は「オバマを1期4年で終わらせる」と公言した。日本では殆ど報道されていないがマコネル院内総務を主軸として、事の是非を問わず全てのオバマ政策に徹底した反対を始めた。2010年以降、議会は共和党が支配し、尚且つ戦闘的な「小さな政府」主義者の茶会派の進出もあってオバマ政権の行動を封殺した。

その結果、失業者を救済出来るインフラ整備などの公共事業も「小さい政府」だから十分出来ない。連邦政府は予算も人的スタッフも極端に縮小だ。職業再訓練予算はあるにはあるがドンドン削減された。予算不足で政府閉鎖の危機が何度もやってきた。共和党のジョン・ベイナー下院議長は「小さな政府」維持の為に一切の妥協を排除する強硬な茶会グループに呆れて辞任し、政治家をやめ、故郷に戻ったほどだ。中間層の貧困対策など共和党の中心課題ではなかった。

実は2012年の時点から共和党のこの極端で過激なネオ・リベラルな思想とオバマへの憎しみこそが「ワシントンの機能不全」の原因だとする有力な議論が行われていた。米国政治を40年間も観察し分析してきたブルッキングスとAEI所属の二人の論者が従来の「民主・共和両党ともに悪い論」を採用しないで「共和党の過激な極端主義が悪いのだ」と宣言した点は注目される(5)。

トランプ氏の登場と共和党が抱えた難問

トランプ氏はワシントンが共和党の過激な極端主義で機能不全に陥っている時に登場してきた。そして自分は全ての問題を断固、果断に切り裁くと勇ましく散々公言した。メキシコ国境に壁を作り、貿易や投資を管理して職を取り戻す…。出口がなく困窮した白人中間層は同氏に熱狂し、当初15人もいた共和党の大統領候補は全部排除されてしまった。

ところがトランプ現象は共和党に非常に深刻な問題を生んだ。同氏は伝統的な共和党の党是を破壊しようとしていることが次々と明らかになったからだ。「小さな政府」を無視し、大幅な財政出動もやりかねない。共和党員なら口が裂けても云わない「富裕層への課税」を口にしている。財政赤字を引き起こしても社会保障や医療保険を減額すべきでないと主張している。共和党が反対する妊娠中絶にも肯定的だ。

更に驚くべきことに、彼は「共和党は10年ぐらいの内に労働党になる」とすら発言している。共和党は元来移民を選択的に受け入れる立場だが1100万人の不法移民を強制送還すると云う。更に深刻なことに、共和党は自由貿易を党是としているが同氏は管理貿易を主張している(6)。友好国との同盟も軽視している(注)。

(注)日本だけの立場で云えば、共和党の不寛容な国内政策の「とばっちり」でトランプ氏による同盟弱体化が始まると云えなくもない。

トランプ現象の結果、共和党は解党の危機に…

たまりかねた党の幹部は「彼は真の共和党員ではない」と云い始めた。実際、これは共和党にとっては尋常ならざる事態だ。ここ10数年、共和党の「小さな政府」の党是が貧困化する中間層を救済できなかった。彼らの怒りがトランプ現象を生んだ。だから、同氏の出現は共和党の自損事故だ(7)。そう云う人間が事もあろうに共和党の屋台骨をぶち壊そうとしている…。ニューヨーカー誌は「共和党エリートはトランプに抵抗するのか降参するのかで懊悩している」と云う表題の論説を掲げた(8)。

更に白人貧困層はその「怒り」のはけ口として予てから反感を持っていた共和党の指導層にトランプと云う難題をワザとブン投げたと云う解釈すら行われている。そう論じているトム・フリードマンは「共和党は道義的に破産している。だから解党して健全な中道右派政党として出直すべきだ」とすら論じている(9)。

その上、トランプ氏の破天荒で深刻な失言の数々、虚言癖、露骨な人種主義と人間蔑視、政策課題に対する無知、国民を融合させるより対立させる人間性などから大統領になる資格はないと云う評価が定着してきた。共和党はこんな人間を本当に党の候補として擁立するのか? 議論が激しくなる中で共和党は当事者能力を失いつつある。党が一致団結して支援する体制にはない。このままでは大統領選挙ではクリントン氏に負けるし、議会上下両院でも敗北すると云う議論も始まっている。

実はトランプの問題ではない:共和党が変わるかどうかの問題

私見では、アメリカの真の問題はトランプ氏が大統領になるかどうかではなく(ならないと思う…)、共和党が変身するかどうかだ。この大混乱のあと、共和党は今までと全く同じ党是で行くのか? これが問題の焦点だ。

私見では共和党の「小さな政府」の党是は時代遅れだ。抑々貿易の自由化は米国全体の利益だ。しかし、自由貿易も自由経済も勝者と敗者を生む。「小さい政府」主義で敗者への手当ては殆どやらないのだから、共和党は結局「敗者切捨て政策」(10)なのだ。ネオ・リベラルの政策体系は元々米国が圧倒的に強国であった時ならまだしも、これからのグローバリゼ―ションには時代遅れだ。だから米国の本当の問題は共和党が今回の大混乱に懲りて真の変革をやり遂げるかどうかだ。トランプ騒動の背後にある問題はこれだ。

元々共和党は2012年オバマ大統領の再選阻止に失敗した時、失敗の原因を自己分析した。「共和党の死体検視書」と当時云われた。そこで共和党は既に青年層、マイノリティー、移民らから見放されているし、白人人口の減少傾向と相俟って、党は急速に限界化している…だから党改革が不可避だと分析していた(11)。

しかし、「小さな政府」に代表されるネオ・リベラル的な党是は不問に付されてきた。それどころか米国保守は、コーク兄弟や石油大資本、ルパート・マードック氏が所有するウオール・ストリート・ジャーナル紙やFOXTV、ヘリテージ財団やコーク兄弟が支援する数多くの宣伝機関、それに口汚くリベラルを罵倒し続けるトーク・ラジオ等が集団的共振盤を構成し、「小さな政府」と富裕層の減税を訴え続けてきた。

2016年トランプ現象を見た以上、共和党は党是の再検討を有耶無耶にはできないだろう。もっと中間層に配慮し、社会正義に向かって歩を進めるべきだ…。米国保守の高名な論客はそう論じている(12)。また、トム・フリードマンはトランプが共和党の改革を起爆したら彼は神の仕事を果たしたことになるとも述べている(13)。ポール・クルーグマンもほぼ同様のことを論じている(14)。

万一、共和党が今回の巨大危機のあとに党是の転換を図れば、民主・共和の両党は中道の近傍で接近する可能性がある。そうなれば国内の今日の極端な分極化に歯止めがかかるかもしれない。その結果、米国の国際的な指導性は(もしかすると大幅に)高まるかもしれない。人類社会を破滅的温暖化から救う展望も生まれるかもしれない。専制的レジームが依然幅を利かせる世界の今日的状況の中で、米国の健全な指導性が強化される可能性も出て来る。これこそ世界と日本にとって最も重要なことだ。私見では2016年の米国選挙の真の意味合いはここだと思う。

しかし、米国保守派の「小さい政府」等のネオ・リベラルへの飽くなき執着ぶりを見るととても楽観は出来ない。その上、アメリカのことだ、誰も想像できないことがこれから起きる可能性もあるし…。

参考文献 (1)”Why Trump supporters are angry and loyal” (New York Times April 6, 2016)
(2)The Secret Shame of Middle-Class American (The Atlantic May 2016)
(3)“Maybe This Time Really Is Different”(The Atlantic Aug 21, 2015)
(4) “The Republicans’ Plan for the New President”(FLONTLINE Jan 15, 2013)
(5)“Republicans created dysfunction. Now they’re paying for it” (Washington Post March 8, 2016).
(6)”How to get Trump elected when he’s wrecking everything you built” (Bloomberg Politics May 26, 2016)
(7)”The political scientist who saw Trump’s rise coming” (VOX, May 6, 2016)
(8)”Occupied Territory” (The New Yorker June 20, 2016)
(9)”Dump the GOP for a Grand New Party” (New York Times June 7, 2016)
(10)“Economists Say Trade Is Good, As Long Resources Are Refocused On Workers” (NPR radio April 29, 2016)
(11)”Occupied Territory” (The New Yorker June 20, 2016)
(12)”How to save the Republican Party” by David Frum (The Atlantic Apr. 28, 2016)
“The next conservative movement” by Yuval Levin (Wall Street Journal,April 15, 2016)
(13)”Trump and the Lord’s work” (New York Times May 3, 2016)
(14)“Wrath of the country” (New York Times April 29 2016)

『開発協力大綱を読む―規範文書としてのODA大綱、政策文書としての開発協力大綱―』
2016.04.27

『開発協力大綱を読む
―規範文書としてのODA大綱、政策文書としての開発協力大綱―』


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小島 誠二
(元外務省経済協力局調査計画課長 元駐タイ大使)


はじめに

遅ればせながら、昨年2月に閣議決定された開発協力大綱を精読してみた。まず、閣議決定文を含めると全体で12ページ、約15000語という圧倒的な長さに驚かされる。これまで使われていた「政府開発援助大綱」(ODA大綱)から「開発協力大綱」に名称が変更されたことも、特筆されるべきことであろう。本稿では、1991年4月のいわゆる「海部4指針」から、1992年6月の「政府開発援助大綱」(第1次大綱)及び2003年8月の「政府開発援助大綱」(第2次大綱)を経て、今回の「開発協力大綱」(第3次大綱)に至る過程を、規範としての性格が強かった文書が政策としての性格の強い文書へと変化していく過程としてとらえてみることとした。もう一つの特徴である名称の変更については、「日本の外交手段としてのODA」が「開発協力」という新たな名称を与えられ、「DAC統計作成基準としてのODA」の呪縛から解き放たれることとなったと評価することとしたい。

1. 大綱とは何か?

累次の大綱には、法的拘束力はなく、法律上の根拠もない。しかしながら、第1次大綱は、「我が国のODAの理念と原則を明確にするため、援助の実績、経験、教訓を踏まえ、日本の援助方針を集大成したODAの最重要の基本文書」(1999年8月の「ODA中期政策」)である。その他の大綱も、基本的には同様の性格を有し、いずれの大綱も閣議決定されている。また、一連の大綱をみると、整理の仕方は異なるものの、基本理念、重点事項、実施上の原則、実施体制等が取り上げられている。いずれの大綱も、「規範」、「政策」及び「内外へのメッセージ」としての性格を有するが、改定の過程で、規範文書としての性格が弱められ、政策文書としての性格が強められていったようにみられる。

2. 小さな大綱としての海部4指針

(内容)1991年4月の参議院予算委員会における答弁の形で明らかにされた海部4指針は400語に満たないものであり、要旨は次のとおりであった。 「我が国の援助の実施に当たって、①被援助国の軍事支出の動向、②大量破壊兵器・ミサイルの開発・製造等の動向、③武器輸出入の動向、④民主化の促進及び市場志向型経済導入の努力並びに基本的人権と自由の保障状況に十分注意を払いながら、二国間関係、被援助国の置かれた安全保障環境も含めた国際情勢、被援助国のニーズ、被援助国の経済社会状況等を総合的に判断して対処する。」 海部総理は、この答弁の冒頭、「人道的考慮」と「国際社会の相互依存性の認識」という援助理念にも触れている。

(背景)海部総理は、上記の国会答弁において4指針の内容に触れる前に、1990年8月以降の「湾岸情勢の一連の動き」が海部4指針を作成するきっかけとなった旨述べている。実際、1991年2月以降、国会審議、マスコミ報道等において援助と軍事費を関連付けるべしとの議論が繰り返されていた。4指針のうちの最初の3項目の背景には、外国からの援助が間接的であるにせよイラクの軍事大国化を助けてしまったことに対する国際社会の反省がある。最後の項目は、1989年以降の中・東欧及びソ連における変革の結果、開発途上国においても民主化、市場経済の導入、人権の尊重が推進されるべきであるという議論が援助の世界でも強まっていたという事実を踏まえたものである。

(性格)指針と言いながら、海部4指針に込められた規範としての性格は強かったように思われる。ただし、このように規範としての性格が強い海部4指針でさえ、世界の平和に貢献する日本、民主主義・人権という普遍的な価値の実現に取り組む日本というイメージを発信するものであり、また、民主化・市場経済化に向けての支援を強化していくという日本の援助政策の方向性も示していたと言えよう。

(作成に当たり留意された点)筆者を含め、この指針の作成に携わった者が恐れていたことは、開発途上国の短期的な行動に基づいて、この指針が機械的に適用されることであり、援助が様々な要因によって決定される事実が等閑視される恐れがあったことであった。そこで、開発途上国の行動は「動向」としてみること、そして援助を実施する場合に考慮されるべき様々な要因(二国間関係、国際情勢、援助ニーズ等)も含めて、総合的に判断することを明確にすることとされた。

(経済発展に対する4指針の意味)海部4指針起草当時、軍事産業が経済発展を促進するという議論も行われていたが、軍事支出が貯蓄(ないし投資)及び人的資源に大きな負担となり成長を減じることになるというのが多数説のようであった。経済発展と民主化との関係については、①民主化はある程度の発展を遂げた国においてのみ可能である、②民主主義や人権が保障されていない国において少なくとも中長期的には開発は持続不可能である、③開発と政治体制との間には相関関係はないといった考え方が存在していた。海部4指針の第4項目は、民主化と人権保障そのものの重要性に着目して採用されたと理解している。なお、第3次大綱「重点課題」の「普遍的価値の共有、平和で安全な社会の実現」は、②の考え方に立っているようにみられる。

3. 援助基本法に代わるものを目指したODA大綱

(内容・構成)第1次大綱は、1.基本理念、2.原則、3.重点事項((1)地域及び(2)項目)、4.政府開発援助の効果的実施のための方策、5.内外の理解と支持を得る方法並びに6.実施体制等から構成されている。全文で、3400字にもならない短い文書である。「原則」が「基本理念」に次ぐ位置づけを与えられている。海部4指針の4項目に「環境と開発の両立」及び「軍事的用途と国際紛争助長への使用の回避」という2つの項目が追加された(海部4指針の4項目が2項目に圧縮され、追加された2項目を含めて4原則と呼ばれることになった点に注意を要する。)。追加された2つの項目は、援助額の増減あるいは停止を決める要因ではなく、あるべき援助の内容を規定するものであり、海部4指針とは性格の異なる「原則」であると言えよう。

(作成の経緯)第1次大綱作成に至る経緯を振り返ると、1991年12月第3次臨時行政改革推進審議会によって大綱策定の答申がなされ、これを受けて、大綱の策定が閣議決定された。その後、政府から大綱の策定に関する審議を付託された対外経済協力審議会(会長:大来佐武郎元外務大臣)は、92年5月「我が国対外経済協力の推進について」と題する意見具申を提出した。この意見具申を踏まえつつ策定された第1次大綱は、92年6月対外経済協力関係閣僚会議における審議を経て、閣議決定された。

(作成の背景)1980年代後半、公明党と社会党から別々に国際開発協力基本法案が提出され、審議未了のまま廃案となることが繰り返された。1991年4月には社会、公明及び連合参議院の3会派の間で基本法の要綱案について合意が成立し、92年2月には社会党及び連合参議院が法案を共同提出した(末尾参考文献)。第1次大綱は、こうした援助基本法作成の動きに対する政府からの一つの回答としての性格を有していた。実際、第1次大綱はこれらの基本法案の内容をほぼ取り込んだものであり、残された事項は、国会による「国際開発協力計画」の事前承認と援助庁の設立のみであると言われていた。 (規範としての性格の強い第1次大綱)政府による自民党への説明をみると、党側出席者の「原則」への関心は強く、非常にあいまいである、この程度のものであれば、大綱を作った意味がどこにあるのか不明である、外務省等のさじ加減の幅を相当持たせているのではないか、軍事支出について日本が率先して物差しづくりをしてもらいたいという趣旨の発言がみられた。このことは、第1次大綱に対して、規範としての性格を持たせることに強い関心があったことを裏付けるものと言えよう。 (運用の実績)4原則の運用について、1999年に出版された研究書(末尾参考文献)は、「ODA大綱4原則が援助相手国や援助額の決定基準(配分基準)として用いられてこなかったことも事実である」としながらも、「これまでODA大綱4原則の運用を通じて、ネガティブ・リンケージの発動についての一貫した方針がまったく取られてこなかったわけではな」く、「日本政府が行ってきたのはさまざまな要素を考慮したケーズ・バイ・ケースの総合的な判断に基づく運用であって、これを直ちに恣意的な運用であると見なすのは適当ではない」との評価を行っている。また、統計的な手法を用い、「被援助国の政治的自由度は、無償資金援助の供与対象国選択段階と技術協力援助配分額の決定において一定の影響を与えていることが認められた」という結論を導いている。 これまでの運用をみると、総じていえば、民主化に逆行する事態及び大規模な人権侵害に対しては、ネガティブ・リンケージが適用されている。アジア地域において、より慎重な運用がなされているのは、「総合的に判断」された結果であろう。大量破壊兵器の開発・製造に対しては、ネガティブ・リンケージが適用されてきた。なお、援助を停止した場合、民主化復帰の日程の提示、核実験の凍結約束等が停止措置を解除する条件となってきたと言える。

4.政策文書としての性格を強める改定ODA大綱

(内容・構成)第2次大綱は、I. 理念(1.目的、2.基本方針、3.重点課題及び4.重点地域)、II. 援助実施の原則、III. 援助政策の立案及び実施(1.援助政策の立案及び実施体制、2.国民参加の拡大並びに3.効果的実施のために必要な事項)並びにIV. ODA大綱の実施状況に関する報告という構成になっている。閣議決定文を含めると約7000字と、第1次大綱の倍以上の分量となっている。主な特徴としては、理念が3つの構成要素(目的、方針及び重点)に分けて書かれていること、ODAの目的と「我が国の安定と繁栄の確保」とが間接的とはいえ、結び付けられていること、貧困削減が重点課題の最初に取り上げられていること、アジアが重点地域とされていること、「援助政策の立案及び実施体制」がきわめて拡充された形でまとめられていること等であろう。

(作成過程)第1次大綱の改定に当たっては、外務大臣の諮問機関であるODA総合戦略会議(議長代理:渡辺利夫拓殖大学学長)の場で論点整理が行われ、これを受けて作成された政府原案が再度ODA総合戦略会議で審議された。また、全国3か所で公聴会が開催され、パブリック・コメントの手続きも取られた。これらの手続きは第3次大綱策定過程においても踏襲されることになる。

(争点となった事項)ODA総合戦略会議の記録を読むと、開発に関する高い専門性を有する議論がなされたという印象を受ける。ここで、争点となったのは、目的の書きぶり、特に国益の扱い、重点課題としての貧困削減の位置づけ、アジアを重点地域とすることの是非、ジェンダーの扱い等であった。東京及び大阪における公聴会では、ODAの目的と国益との関係、民主化・人権保障・構造改革と援助を結びつけることに伴う問題(人間の安全保障の「破綻」の恐れ)、ODA基本法の作成と援助庁の設立、原則運用の在り方等が取り上げられ、国際平和活動のヴィジョンの不在、重要課題として「ジェンダー平等と女性の地位向上」を取り上げることの必要性等が指摘された。

(国益をめぐる議論)ODAの目的と国益との関係をどう整理するかという問題は、すでに第1次大綱を作成した折に存在していた。ODA総合戦略会議でも、国益という言葉を入れるべきという意見もあった。第2次大綱「目的」では、「我が国ODAの目的は、国際社会の平和と発展に貢献し、これを通じて我が国の安全と繁栄の確保に資することである」と書くこととなった。第2次大綱「目的」には、ODAを活用した我が国の取り組みは「我が国自身にも様々な利益をもたらす」とか、ODAを通じて開発途上国の安全と発展に貢献することは、「我が国の安全と繁栄を確保し、国民の利益を増進することに深く結びついている」という表現もみられる。

(「原則」の扱い)第2次大綱では、「原則」は「援助実施の原則」とされた。また、大綱の残りの部分(「理念」並びに「援助政策の立案及び実施体制」)が大幅に拡充されたことにより、文書全体に埋もれた存在になっているとの印象を受ける。第2次大綱が政策文書としての性格が強くなったことの一つの理由と言えよう。ただし、NGO関係者からは、第2次大綱策定の過程において、大綱が規範としての性格を持つことへの関心が示された。

(貧困削減)「重要課題」の最初の項目として、「貧困削減」が掲げられていることに表れているように、第2次大綱には、第1次大綱以上に「貧困削減」を重視する姿勢がうかがわれる。ただし、そのためには、途上国経済が持続的に成長することが不可欠であると付け加えられていることにも留意する必要がある。援助の世界では、定期的に貧困に焦点が当てられる傾向がある。1970年代には、BHN(人間の基本的ニーズ)の考え方が提案されたり、実際の事業に取り入れられたりしている。1990年代末以降世銀・IMFにより、HIPC(重債務貧困国)イニシアティブの対象国に対して「貧困削減戦略ペーパー」の作成が求められた。世銀が世界開発報告「貧困との闘い」を発刊したことも国際援助コミュニティの目を貧困に向けさせることに貢献したと言えよう。2000年9月に採択された国連ミレニアム宣言を基にまとめられたミレニアム開発目標(MDGs)の存在も大きい。第2次大綱にも、こうした国際的な援助潮流の影響があったと想像される。

(実施体制)様々な援助主体による連携は、大綱が取り上げるべき不変のテーマであり、時代を経るにしたがって、その内容は拡充されてきている。むしろ課題は実践にある。連携について第2次大綱の中で注目されるのは、「外務省の調整を中核として」関係府省間の人事交流を含む幅広い連携を強化するとされている点である。これは1999年8月の中央省庁等改革関連法の規定を踏まえたものである。第1次大綱では、援助庁設立に代わる一元化への対応が示されていなかったとすれば、ここで改めて政府としての対応が示されたと言うことができよう。なお、「国会による国際開発協力計画の事前承認」については、累次の大綱において評価の充実が謳われていること、情報公開が進められたこと、国会においてODAに関する審議がなされてきたこと等もあって、事前承認の議論が活発になされているようには思われない。

5.政策文書としての開発協力大綱

(内容・構成)第3次大綱は、前文(現状認識)、I. 理念((1)開発協力の目的及び(2)基本方針)、II. 重点政策((1)重点課題及び(2)地域別重点方針)並びにIII. 実施((1)実施上の原則、(2)実施体制及び(3)開発協力大綱の実施状況に関する報告)からなっている。

(有識者懇談会の報告書)ODA大綱見直しに関する有識者懇談会(座長:薬師寺泰蔵慶応義塾大学名誉教授)は、2014年3月から6月までの間に4回の会合を持ち、報告書を取りまとめた。この報告書には、開発協力に関心を有する各界の幅広い意見が集約されていると言えよう。取り上げられたすべての論点について意見の一致がみられたわけではなく、報告書には少数意見も明記されている。有識者懇談会における議論の主たる内容は、大綱のスコープを広げること、国際益と国益とはつながっていること、日本の経験を踏まえた日本らしい援助政策を進めること、貧困削減と持続的成長を統合して重点課題とすべきこと、軍人や軍組織を対象とする支援をすべてODAから排除するのは行き過ぎであること、「注意を払う」ということでは原則にならないこと、ODAは様々なリソースを動員するための触媒としての役割を果たしていくべきこと、日本は対国民総所得(GNI)比0.7%目標の達成を中長期的に目指すべきこと等の意見が出された。

(公聴会の意義)2014年9月から11月にかけて全国で1回の意見交換会と4回の公聴会が開催された。出席者からは、国益への言及、経済成長重視、軍隊や軍籍を有する者への支援、ODA予算のPKO予算への転用等への懸念が表明され、ODAと民間資金との分離、ODA基本法、大綱の運用のモニタリング等の必要性が指摘された。これに対して、第2次大綱策定の場合と同様、外務省・JICA担当者が真摯に応答し、誤解を解く努力を行った。公聴会及びパブリック・コメントで出された意見を踏まえ、社会開発、女性の参画、自治体の役割、我が国のNGO/CSOへの支援、国民との対話、開発教育等について語句・項目が追加されたり、内容が拡充されたりしている。公聴会の記録を読んで、より幅広い国民の意見を組み上げる工夫が必要であるとの感想を持った。

(「中期政策」の性格も有する第3次大綱)第3次大綱では、その下に、「課題別政策」、「地域別政策」、「国別政策」等を位置づけるとされており、これまで2度に亘って作成された「中期政策」(1999年8月の中期政策は約26000字、2005年2月の中期政策は約18000字)は言及されていない。実際、第3次大綱は、内容面でも、分量の面でも、従来の中期政策の一部を取り込んだものと言える。他方、従来の「原則」又は「援助実施の原則」は、「開発協力の適格性確保のための原則」の一部とされ、新たに「効果的・効率的な開発協力推進のための原則」が置かれることとなった。従来の「原則」又は「援助実施の原則」の第3次大綱の文書全体における位置づけは一層低いものとなっている。

(名称の変更)外務省国際協力局が作成した「開発協力大綱(案)」(平成26年11月)と題する資料には、名称の変更の背景として、①「協力のスコープの拡大(DACリストからの卒業国への協力の実施など)」、②「政府にとどまらない、オールジャパンの協力の中核、原動力としての役割(民間企業、NGOなど様々な資金・活動との連携強化)」及び③「「援助」から「協力」へ(途上国との対等なパートナーシップによる協力)」が挙げられている。有識者懇談会では、ODAのスコープの拡大が繰り返し、主張された。国際協力局作成資料の中には、開発途上国のすべての資金を開発協力に含めた図表も存在した。他方、(ODA以外の公的資金(OOF)及び民間資金を除くことを前提に)ODA以外に何があるか見えないという意見も出された。実際、開発協力が「開発途上地域の開発を主たる目的とする政府及び政府関係機関による国際協力活動」とされていることから、OOFは除外されることになり、「開発協力」の範囲とODAの範囲とはほとんど一致することとなる。そうだとすると、「開発協力」へと名称を変更することの主たる目的は、ODA以外の開発途上国への資金の流れの一部を取り込むことにはなさそうである。元々ODAというのは、DACにおいて、加盟国からの援助報告を取りまとめるに当たり共通の基準が必要として作成されたものである。このような「DAC統計作成基準としてのODA」がこれまで「政策としてのODA」を規定するような面があったことは否めない。また、「政府開発援助」の下で行われる活動の中には、一般国民には「開発」とは考えにくいような活動が含まれるようになったことも事実である。今回の名称変更の背景には、ODAを開発協力と呼ぶことで、「DAC統計作成基準としてのODA」と「政策としてのODA」を明確に分けていこうとする意図があったと言えよう。このことは、今後とも、DACに対して、DAC統計指示書に従ってODA実績等を忠実に報告すべきことも意味する。以上の点について、第3次大綱作成担当課長は次のような分かりやすい説明を行っている。

「今回「開発協力」という言葉を使ったのは、ODAという国際的定義にとらわれず、日本として必要だと考える協力は行うし、必要と思わない協力は行わないという観点から、日本自身が自らの考えで「開発協力」の範囲を設定することで、今回、名前を変えたという面があります。」 DACでは、2018年以降の実績の取りまとめに当たり、ODAの定義を「総額」と「純額」の二本立てから「総額とグラント・エレメントの積」に一本化し、途上国の所得レヴェルに応じて、グラント・エレメントの割引率と閾値を使い分けるという改定を行うこととしており、このような変更にあらかじめ対応する面もあるようである。 (「国益」への言及)第3次大綱は開発協力と国益との関係について、前文において「平和で安定し、繁栄した国際社会の構築」と「我が国の国益」がますます分かちがたく結びつくようになったという認識を示し、「開発協力の目的」において次のように述べている。 「以上の認識に基づき、我が国は、国際社会の平和と安定及び繁栄の確保により一層積極的に貢献することを目的として開発協力を推進する。こうした協力を通じて、我が国の平和と安定の維持、更なる繁栄の実現、安定性及び透明性が高く見通しがつきやすい国際環境の実現、普遍的価値に基づく国際秩序の維持・擁護といった国益の確保に貢献する。」

第3次大綱の特徴は、このように国益という語を初めて使用したことであり、開発協力の目的と国益とを2文に分けて書くことによって、開発協力の主たる目的が国際社会の平和と安定及び繁栄の確保により一層貢献することであることを明確にしたことである。ここで用いられている国益は、2013年12月閣議決定された「国家安全保障戦略」にある定義を受けたものである。開発協力の主たる目的を明確にした上で、開発協力を通じて国益の確保に貢献すると記述したことは、日本の厳しい財政状況の下で、国民からの幅広い支持を得るための正しい選択と言える。 (人間の安全保障の展開)第2次大綱「基本方針」では、「「人間の安全保障」の視点」が掲げられていた。第3次大綱「基本方針」では、「人間の安全保障の推進」となり、人間の安全保障の考え方が我が国の開発協力の根本にある指導理念であると記述されている。ただし、2つの大綱では、人間の安全保障の考え方が十分展開されておらず、支援対象となる人々の特定と支援の内容にとどまっているという印象を受ける。開発協力の理念全体の中に人間の安全保障をどう位置付けるかという大きな課題が残されていると言えよう。 (自立的発展に向けた協力)第1次大綱では「基本理念」において、第2次大綱では、「基本方針」において、それぞれ「自助努力を支援すること」、「開発途上国の自助努力支援」が掲げられていた。第3次大綱「基本方針」には、「自助努力支援と日本の経験と知見を踏まえた対話・協働による自立的発展に向けた協力」が掲げられている。具体的な協力分野について第2次大綱から大きな変更はなされていないが、第3次大綱では新たに日本の経験と知見を活用することが追加され、相手国等との対話と協働が強調されている点に特色がある。そして、相手国等との対話・協働には、日本側からの提案も含まれていることが注目される。

(「質の高い成長」とそれを通じた貧困削減)第2次大綱では、重点課題として「貧困削減」と「持続的成長」が別々に掲げられていたのに対して、第3次大綱では、「「質の高い成長」とそれを通じた貧困撲滅」としてまとめて記載されている。しかしながら、この部分をよく読むと貧困削減が基本的な開発課題とされており、貧困問題を解決するには経済成長の実現が不可欠としつつも、その成長は、「包摂的」で、「持続可能」であり、「強靭性」を備えた「質の高い成長」でなければならないと述べている。NGO関係者からは、第3次大綱が経済成長重視との批判が寄せられているが、この部分が貧困削減を軽視しているとはとても考えられない。

(普遍的価値の共有、平和で安全な社会の実現)第3次大綱「重点課題」では、「質の高い成長」を実現するため、自由、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配といった普遍的な価値の共有や平和で、安全な社会の実現のための支援を行うとしている。これは、これまでの「原則」又は「援助実施上の原則」のポジティヴ・リンケージの適用としてとらえることができる内容であり、これまでにない記述である。本項第3パラは、第2次大綱で「重点課題」の「平和の構築」として取り上げられていたものに、自然災害等の非伝統的な脅威に対する対応への支援が追加された内容になっている。

(地域別重点方針)第2次大綱作成過程においても、アジア地域を重点地域とした場合に生ずる重点地域と重点課題の不整合性が問題とされていたが、第3次大綱では、アジアが重点地域であるとの記述をやめて、地域ごとの重点方針を提示する内容となっており、その記述も大幅に拡充されている。 (効果的・効率的な開発協力推進のための原則)第2次大綱にも「戦略」や「開発戦略」という語は使われていたが、その内容は説明されていなかった。第3次大綱では、新たに「戦略性の強化」という項目を設けて、政策立案、実施及び評価のそれぞれに分けて「戦略性」の内容を説明している。政策立案について書かれていることを一言で言えば、我が国の外交政策に基づいた方針の策定・目標設定を行うということである。第3次大綱の政策立案に係る記述と第2次大綱の「政策協議の強化」の書きぶりとでは、若干ニュアンスの違いが感じられるが、要は途上国の開発政策と我が国の援助政策の調整が大切であるということであろう。なお、第3次大綱の「実施上の原則」の柱書にもあるとおり、「開発効果向上等の国際的議論」にも配慮していく必要がある。実施については、ODAとODA以外の資金・協力との連携による相乗効果を高めるとされている。民間資金との連携については、「実施体制」の「連携の強化」において、開発協力とともに実施される「民間投資」のあり方にまで踏み込んで書かれていることが注目される。評価については、政策や事業レヴェルの評価、外交的視点からの評価を実施するとしている。 (開発協力の適正確保のための原則)第2次大綱の4原則に、「公正の確保・社会的弱者への配慮」、「女性の参画の促進」、「不正腐敗の防止」及び「開発協力関係者の安全確保」が追加され、8原則になっている。また、「軍事的用途及び国際紛争助長の使用回避」の原則を「非軍事目的の開発協力に相手国の軍又は軍籍を有する者が関与する場合」に適用するに当たっては、「その実質的意義に着目し、個別具体的に検討する」ことが明記された。このことで、むしろ運用上の透明性が高まったと考えられる。

(実施体制)「政府・実施機関の実施体制の整備」については、制度・機構改革が進められた結果を踏まえた記述を除けば、第2次大綱と同じような内容となっている。第3次大綱で注目すべき点は、「連携の強化」に関する部分であり、開発協力を多様な力を動員・結集するための触媒と捉えて、多様な主体との連携や緊急人道支援、国際平和における連携について、詳細に記述している。第2次大綱では、「国民参加の拡大」として取り上げられていた諸項目が、第3次大綱では「実施基盤の強化」において「情報公開、国民及び国際社会の理解促進」、「開発教育」及び「開発協力人材・知的基盤の強化」という項目を設け、大幅に拡充して取り上げられている。

おわりに―開発協力大綱の実施の在り方

改めて一連の文書を読み、作成過程を調べてみると、そこには一連の文書の連続性と国民の信頼を得るための政府の強い決意が感じられる。今後開発協力大綱に盛り込まれた諸政策が誠実に実施され、実施体制が拡充されることにより、「開発協力」に対する国民の支持が回復することを期待したい。「開発協力」が我が国と開発途上国との共同作業とすれば、開発途上国が今後とも開発協力を活用していきたいと考えるよう諸制度の改善・柔軟な運用も必要である。また、第3次大綱において言及されている「課題別政策」、「地域別政策」、「国別政策」等が大綱の方針に従って、作成されていくことに注目していきたい。特に、MDGsに代わるポスト2015年アジェンダがどのように具体的な政策やプログラムに反映されていくかを見ていくことは楽しみである。    (3月13日記)

(参考文献)下村恭民・中川淳司・齋藤淳「ODA大綱の政治経済学」有斐閣 1999年10月

『太平洋島サミットを通して考察する沖縄問題』
2016.03.23

『太平洋島サミットを通して考察する沖縄問題』


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五月女 光弘
(元外務省参与NGO担当大使 元駐ザンビア大使)


<沖縄の目指す先にあるものは?>

「ヤマトンチュウ」と「ウチナンチュウ」

1996年4月、橋本総理とモンデール駐日大使との間で合意した「普天間基地移設条件付き返還合意」から20年、当初5年~7年で完了するはずであった返還は未だ実現していない。なぜいつまでたっても実現しないのか。 日本本土の人達にとって、琉球・沖縄問題を理解するのは難しい。本土の人達が沖縄の人達の歴史認識と心情を詳細に考察しないと真の理解と解決は出来ないと思われる。 琉球語に「ヤマトンチュウ」と「ウチナンチュウ」と云う言葉がある。日本の本土人(ヤマトンチュウ)側から考え語るのではなく、琉球・沖縄人(ウチナンチュウ)側からこの問題を考察してみたい。そうすれば見えなかった問題点が見えてくる。

 以前日本本土に留学していた諸外国からの大学生の沖縄理解ツアーが行われた。その際の学生が語った印象が衝撃的であった。ヤマトンチュウとウチナンチュウとの間に明らかにいろいろな面で差別意識と被害者意識が存在すると語っている。更に興味深い事に、ウチナンチュウの内部で、「沖縄本島のウチナンチュウ」と「島嶼地域のウチナンチュウ」との間にも同様の差別意識と被害者意識が存在するとも。これは地元の人々も認識している。

 沖縄県の160の島々の内、49の島が有人島。例えば宮古島、石垣島、与那国島、南大東島、波照間島(日本最南端の有人島)などがあり、それぞれが県内の市町村となっているが、琉球王国成立以前には8つの小さな王国が存在していた。 現在本土と沖縄との間に横たわる基地問題をはじめとする諸問題をヤマトンチュウがどのように理解し、そして解決しようとしているのか、ウチナンチュウは大いに注視している。

「独立国家」と「自由連合国家」

沖縄県名護市万国津梁館で2011年5月に開催された「第6回太平洋島サミット」は、大きな精神的・心理的影響を県民にもたらした。 特にニュージーランド(NZ)と自由連合契約を締結している「クック諸島」と「ニウエ」の存在である(共に国民はNZ国籍)。両国はサミットメンバー国の「国家」として参加していたのである(両国を国家承認している日本を含む数十か国の国々は、当然両国を独立国として対応していた)。

 自由連合国家とはいかなる国家なのか。 NZを例にとれば、同国の自治体の海外県であるクック諸島とニウエが、より自治権の強い自治体になりたいと、親元のNZの国会の承認決議を経て、自由連合契約を結びNZ傘下の準国家となる。元首はNZと同じエリザベス女王であり、知事が首相となり県議会が国会となる。各省は外務省と国防省を除き設置される(両省はNZの専管事項)。準国家であっても国際的には独立国家として受け入れられるのである。 現在日本国は「クック諸島国」を2011年6月に、「ニウエ国」を2015年5月に国家承認し、両国首相と首脳会談も行っている。世界では既に前者は約40カ国、後者は約20カ国が国家承認している。両国は国際連合の本体には加盟していないが、国連専門機関のユネスコ、WHO、FAO、ICAO、ESCAP等に加盟している。オリンピック、ワールドカップやミス・ユニバース等にも国家として参加可能である。事実クック諸島はロンドン・オリンピックに出場している。

仮の国家“琉球国”の姿

ウチナンチュウの人々の中で、沖縄が完全な独立国家になることを望んでいる人はそう多くないと思われるが、自由連合国家になることを希望している人はかなりいるものと推測される。

 沖縄が、もし宗主国日本の国会承認を経て、日本国傘下の自由連合国家になった場合の国家としての世界的なレベルはどのようなものであろうか。NZの例をもとに説明したい。 国家名称は、琉球国(または沖縄国)、元首は天皇陛下、県知事が首相に、県議会が国会に。外交・防衛の閣僚は持たないが、各部局長が文部・科学、農林・水産、経済・企画などの大臣に就任する。 琉球国(沖縄国)は国連専門機関に加盟出来るし、オリンピック、サッカーのワールドカップやミス・ユニバース世界大会などにも国家として参加可能である。

 沖縄の国家としての規模は、12の太平洋島嶼国と比較すると、人口約130万人(2010年10月1日の国勢調査)はPNG(732万人)に次ぎ第2位、 経済規模はダントツの第1位GDPで約230億ドル、因みに世界では、グアテマラ、ケニア、ウルグアイ、と同レベル、欧州のスロベニア、エストニア、アイスランドより大きい。(注:東京はメキシコ、ポーランドと同レベル。)(平成24年度統計)。2位のPNGのGDPは159億ドル。太平洋島嶼国としては立派な先進大国である。

 ウチナンチュウの人々で完全独立を求める人は多くはない。それは国際情勢(とりわけ東アジアにおける安全保障問題など)と地域経済・通商問題などが主たる理由である。 しかし自由連合としての地位を求める人、期待する人はかなり多い。 450年以上続いた琉球王国は1872年(明治5年)に日本帝国政府により琉球藩となり、1875年に帝国政府派遣の松田道之処分官により、①年号を清国年号から明治年号に変えること。②清国からの冊封を受けぬこと。③国王(藩主)尚泰を上京せしめること。の3条件を受諾させ、1879年(明治12年)琉球藩を沖縄県として正式に帝国の一部に組み込み、ここに琉球王国は完全に滅亡したのである。(注:冊封サクホウとは、清国皇帝が冊(任命書)及び金印により、王や侯に封する(爵位を与える)こと。) 言語は琉球処分(1870年代)以前は、大和語とは大きな違いのある琉球語が主体であった。しかし同化政策により、「沖縄対話」(日本語と琉球語の間の対訳辞典、和英・英和辞典的なもの)を作り日本語化を推進し、琉球語を消滅させる政策を実施。昭和時代からはテレビ等の普及も進み、現在は沖縄本島の人々の多くは日本標準語を話すが、本島南部や周辺の島嶼圏では依然として(勿論日本語は話すものの)琉球語も使われている。

 琉球王国は、独立国として国際条約を3か国と締結していた。1854年に琉米修好条約、1855年に琉仏修好条約、1859年に琉蘭修好条約。ウチナンチュウは今日に至るまでその独立国家であったとの意識(誇り)は持ち続けている。それは他の県民とは大きく違うところである。 因みに日本帝国はほぼ同時期に、日米和親条約を1854年に、日米修好通商条約を1858年に締結し、続いて日英、日仏、日露、日蘭と同様の条約を締結している。 つまり1850年代には欧米諸国からは両国共に独立国とみなされていたのである。

ヤマトンチュウとウチナンチュウの相互理解は進むのか

ウチナンチュウの人々は数百年に亘り大切に守ってきた自分達の伝統と文化をヤマトンチュウに理解し尊重してもらいたいと強く願っている。他の県とは異なる特別の県であると認識してもらいたいのである。 英連邦の一員としての豪州、ニュージーランドなどは完全な独立国ではあるが、国家元首は英国女王である。さらにそのニュージーランドの傘下のクック諸島国、ニウエ国も同様に英国女王を元首と位置付けている。 それはたとえれば、琉球国が日本国の自由連合国家と認められて、天皇陛下を国家元首とする国家となるかのごときであるが、その場合は国の名称はどうなるか。 ウチナンチュウは二つの名称を使い分ける。例えば、琉球大学(国立)と沖縄大学(私立)、琉球銀行と沖縄銀行、琉球新報と沖縄タイムス、琉球列島と沖縄諸島等など。二つの名称の内、「琉球」には歴史と伝統を、「沖縄」には日本との絆を感じているようである。 ウチナンチュウの多くの人々は、沖縄が日本国から離れて独立国家になってほしいとは思っていないし、日本国の一員として発展してほしいと思っている。

 相互に信頼と敬意を持たず、対決姿勢で行われる交渉は決して良い結果は生まれない。繰り返しになるが、ウチナンチュウはヤマトンチュウに琉球・沖縄の独自性と古き歴史・伝統を尊重し、それを踏まえて沖縄に対応し処遇してもらいたいと願っているのである。 

(了)


参考添付資料
琉球新報(平成21年12月2日付 朝刊)
「島嶼国シンポジュウムin沖縄」に寄せて
五月女光弘寄稿文

日本経済新聞(平成23年7月22日 朝刊)
沖縄主導で島嶼国支援
五月女光弘へのインタビュー

The Communicator 世界万華鏡(平成20年12月17日)
遥かなる太平洋の島国へ思いを馳せて
五月女光弘寄稿文
同上(平成22年5月17日)
琉球王国、 そして沖縄島嶼圏
五月女光弘寄稿文

『新しい日本ASEAN関係』
2016.03.01

『新しい日本ASEAN関係』


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鹿取克章
(前駐インドネシア大使)


 2015年11月21日にクアラ・ルンプールで開催された第27回ASEAN首脳会議の合意に基づき、同年12月31日、政治安全保障共同体、経済共同体及び社会文化共同体の三つの柱からなるASEAN共同体が正式に発足した。1967年8月8日のバンコック宣言に基づく発足からASEANは幅広い分野で協力関係を強化し、冷戦構造崩壊後の1990年代には6か国から10か国に拡大し、2008年12月15日のASEAN憲章発効と共にASEANとしての法人格を備えることとなった。このように着実に深化と拡大を続けてきたASEANにとって、2015年は、歴史的な節目の年となった。しかし、2015年もASEANにとっては更なる発展のための一つの通過点である。ASEANは、2025年を新たな節目として、更に高度な共同体建設に向けて努力を強化していくことを表明している。

 ASEANに対しては様々な見解が見られ、例えば昨年のASEAN関連会議に際してもASEANとしての「影の薄さ」や共同体としての「内容の薄さ」を指摘する報道が見られた。しかしながら、ASEANはEUとは歴史、環境、実体が大きく異なる。ASEANの多様性、地理的環境等を考えると、ASEANのこれまでの発展及びその果たしている役割は、いかに高く評価しても余りあるものと思われる。ASEANが歴史的な節目を迎えたこの機会に、ASEANの現状に対する評価、日本として留意すべきことなどについて、私見を述べてみたい。

1、ASEANの意義

 ASEANは、約六・二億人の人口を擁し、インド及び中国と国境を接し、重要なシーレーンを包含し、北東アジア、南西アジア、中東、アフリカ、欧州、北米、南米、オセアニア等各地域にとって地理的に極めて重要な位置を占めているが、その最も重要な意義は、アジアのみならず国際社会における「成長のハブ」、「協力のハブ」及び「安定のハブ」としての役割を強化していることである。

(1) 成長のハブ

 ASEANは、着実な経済成長を維持している。2015年は、中国経済の減速などにより、成長率は4.4%程度と見込まれているが、2016年には4.9%と回復基調に戻ることが予想されている。一人当たりGDPは4,135米ドル(2014年)に達し、中間層の一層の増加は、経済を更にダイナミックな発展に導くことになろう。また、私が在勤したインドネシアの人口構成を見ても、平均28歳と若く、人口ボーナスは2030年代後半まで続く見通しである。大きな課題は、電力、交通分野、生活関連をはじめとするインフラ整備及び格差の是正(貧困撲滅、連結性の強化)であるが、裏を返せば、大きなビジネス・チャンスの存在を意味している。また、経済統合の進展の結果、域内の関税は概ね撤廃された(域内貿易の全貿易に占める割合は2014年には24.1%に達した)。ASEANは、日本、中国、韓国、インド及び豪州・ニュージーランドとFTA等を締結しており、域内におけるサービス、資本や人の移動の一層の自由化などについても今後更に努力が継続されていくこととなることから、生産チェーンの中心としてのASEANの役割も今後一層高まることが予想される。世界の重要な成長のエンジンとしてのASEANの役割を世界は注目している。

(2) 協力のハブ

 アジア太平洋地域においては、ASEANを中心にASEAN+1、ASEAN+3、東アジア首脳会議(EAS)、ASEAN地域フォーラム(ARF)等経済、安全保障を含めあらゆる分野の協力のための枠組みが重層的に存在し、またアジア太平洋地域にまたがるAPECにもミャンマー、ラオス、カンボジアを除くASEAN諸国が参加している。ASEANは、このような諸枠組みにおいて主導的役割を担う(「運転席に座る」)ことを重視しているが、その経済的重要性及び存在感の一層の高まりと共に、ASEANは様々な協力のハブとしての機能を今後一層強めていくこととなろう。

 そもそもASEANの人々は、一般的に対応がソフトでmoderation(温和さ)を重視するが、内に秘めた誇りと闘争心は強く、現実主義的で、政治的、外交的手腕も高い。インドネシアを見ても、国際交易の要路として古くから多くの民族と交流・対立し、350年のオランダ支配、3年半にわたる日本軍の支配、4年以上に及ぶ独立戦争を経験し、誇りと闘争心及び政治的感覚は、インドネシア人のDNAに刻み込まれている。極めて大きな多様性にもかかわらず、「ASEAN Way」(コンセンサスを基本、押し付けの排除、面子への配慮等)で今日のASEANの協力関係を築き上げ、また、特有のバランス感覚及び柔軟性で、この地域の繁栄、平和及び安定のための努力を続けている。EASは、将来の東アジア共同体の礎石となることをも念頭に、ASEAN十か国並びに日本、中国、韓国、インド、豪州及びニュージーランドの計16か国により2005年に発足したが、2011年以降、米国及びロシアも参加している(なお、2010年に第1回会合が開催されたASEAN拡大国防相会議には、最初から米国、ロシアも参加している)。これは、中国のこの地域におけるプレゼンスや行動が積極化する中、勢力均衡を確保すべく米国及びロシアをこの地域に一層関与させたいとの少なくとも一部のASEAN諸国の思惑を反映している。ASEANは、日本が安全保障の分野でより大きな役割を担うことを基本的には支持しているが、これも、「勢力均衡に資することは歓迎する」とのASEANのプラグマティックな外交姿勢を反映している。ASEANは、加盟国により濃淡はあるも、南シナ海における中国の行動には懸念を有している。同時に、中国の政治的、経済的重要性は十分意識しており、中国との関係強化のための努力は今後とも積極的に継続していくこととなろう。「いかなる国とも敵対しない」(インドネシア政府は、「友は百万、敵はゼロ」と表現)とのASEAN外交の基本は、今後とも維持されるであろう。日本としては、対ASEAN関係を強化していく上でも、中国と円滑な協力関係を進めていくことが重要である。

(3) 安定のハブ

 東南アジアは民族的、文化的、宗教的に極めて多様であり、これまでの発展の歴史を見ても、また経済的にも各国間の状況には大きな違いがある。過去においては、インドネシアとフィリピン、インドネシアとマレーシアなど現在の加盟国間でも深刻な対立があり、また、ベトナム戦争、カンボジア紛争、中越戦争など長年にわたる戦争や武力衝突を経験してきた。カンボジアとタイとの間に若干の緊張は見られたものの、今日ではASEAN加盟国間で深刻な武力衝突が発生するような事態はほとんど想定できない。ASEANの多様性を反映し、個々のASEAN加盟国の外交にもそれぞれ独自の色合いが認められるが、ASEANは、全体としてこの地域の安定の維持のために今後とも努力を強化していくこととなろう。この地域における大きな不安定要因となっている南シナ海問題に対しても、ASEANは基本的には一体として中国に対処していく立場を維持しており、中国との間で南シナ海行動規範の策定に向けて協議を継続している。このようなASEANとしての連帯感は、上記協力のハブとしての役割とも相まって、この地域の安定のハブとして機能している。

 なお、ASEANは特に政治的にこの地域の安定のハブとして機能しているが、日本の役割も重要である。アジア太平洋地域の安定に大きく寄与しているのは、この地域における米軍のプレゼンスであるが、この米軍のプレゼンスを支えているのが、日米安保体制である。日本としては、今後とも日米安保体制の円滑かつ効果的な運用に努力していくことが、アジア太平洋地域の安定にとって重要である。

(4) 多様性を生かした社会の成功例

 ASEANの意義として付言したいのは、「ASEAN Way」の根底にある寛容性の価値観である。ASEANは、民族、宗教、言語、歴史、文化、国の政治形態、経済発展等様々な点で極めて多様であるため、発展及び協力のための基本的価値として寛容性を強調してきた。ASEANの標語はUnity in Diversityである。インドネシアにおいても、Bhinneka Tunggal Ika(古ジャワ語が語源。「多様性の中の統一」)は、国家の統一及び発展のための最も重要な基本的価値の一つである。特に異なる宗教の共存に当たっては、過去において様々な対立や葛藤が存在した。今後とも不断の努力を継続していく必要があるが、今日のASEANにおいては、イスラム教、仏教、キリスト教、ヒンデゥー教をはじめ多くの宗教が緊密に協力し合い、社会、国家及びASEANの発展に努力している。イスラム過激主義等宗教の過激主義が国際社会の大きなチャレンジとなっている今日、寛容性を基本的価値に据えたASEANの発展は、国際社会に様々な積極的な示唆を与えることができるのではないかと思う。

2、ASEANとの一層の協力強化に向けて

 日本にとってASEANは、経済的、政治的に極めて重要なパートナーであり、今後とも関係強化を図っていく必要があるが、その際の留意点を私なりに整理してみたい。

(1) 国際環境の変化を踏まえた対応

 日本は、50年代からはじまる戦後賠償、積極的なODAの実施、これらを背景とした民間企業の積極的進出により、東南アジア各国とは極めて緊密な関係を築いてきた。インドネシアにおいても、乗用車の95%、二輪の98%は日系であることに象徴されるように、日本は様々な分野で圧倒的存在感を示してきている。しかしながら、冷戦構造終焉のプロセスは、中ソ関係の正常化(1989年)、中国とインドネシア、シンガポールとの関係正常化(それぞれ1990年8月及び10月)、カンボジア紛争の終結(1991年10月)、ASEANの六か国より10か国への拡大(1995年ベトナム、1997年ラオス及びミャンマー、1999年カンボジア)等、東南アジアにおいても大きな変化をもたらし、ASEANに新たなダイナミズムをもたらしている。

 これまで日本企業同士の熾烈な競争が行われていたASEANは、中国、韓国等の近隣諸国はもとより、欧米諸国等の企業も一層活動を強化していく舞台となった。新たなプレイアーにとって、日本は極めて大きな存在として意識されており、彼らは今後とも、多大な努力を惜しむことなくASEAN市場に進出してくるであろう。インドネシアの例を挙げれば、通貨危機の発生した1997年、1998年には華人系住民に対する暴動が発生した経緯があるが、その後2000年には華人系住民に対する規制が緩和され(華人系住民は、名刺等に漢字を使用することが認められ、中国の伝統行事の実施も可能となった。2003年には春節が国の公式な祝日となった)、中国の経済力の高まりと共にインドネシアと中国の経済関係は拡大し、中国の存在感は大きく高まってきている。韓国も存在感を高めており、韓流も若い人々に大きな人気がある。鉄鋼、石油化学などの分野における韓国からの投資が報道をにぎわせ、家電、自動車、化粧品などにおいても韓国の存在感は高まっている。インド、豪州等その他の近隣諸国のみならず、欧米諸国も、ASEANとの関係強化に一層力を入れている。

(2) 日本の対応

 このようなASEANにおけるダイナミズムは、ASEANの求心力、ASEAN経済の成長力を考えれば自然なことである。日本にとっては、競争も厳しくなるが、様々な新たなビジネス・チャンスをももたらすものであり、このASEANのダイナミズムを日本とASEANの一層のwin-win関係につなげていくことが重要である。

(イ) 幅広い競争力の強化

 日本のこれまでの実績の蓄積は極めて重く、品質に対する信用を含め日本に対するASEAN諸国の信頼は今後とも基本的には変わらず、日本は、引き続き高い競争力を維持するであろう。しかしながら、今日のASEANにおいては、新たな多くのプレイヤーが、「極めて大きな存在である日本」と競争するために努力を惜しまず進出してくるであろう。日本としては、従来からの日本の強みを今後とも生かすとともに、ASEANにおける今日の新たなダイナミズムを踏まえ、「品質・信頼」に加え、価格面、意思決定の迅速性、制度面等において、競争力を高めるための一層の発想力と努力が必要となる。

(ロ) 様々な新たな連携の探求、ASEAN内外の優良案件の発掘

 プレイアーの増加を含め競争は厳しくなるが、ASEANを中心とする新たな成長のダイナミズムの中で協力の可能性も増加する。多国間の協力、連携はこれまでも様々な分野で進められてきた。しかしながら、今後は、ASEANの企業はもとより中国、韓国、インド、豪州等近隣諸国はもとより欧米諸国の企業とのネットワーキングを一層拡大かつ強化し、新たな連携の探求及びASEAN内外における優良案件の発掘が重要となろう。

(ハ) 人材育成、人的交流の強化

 インドネシアの大学教授や講師、政府高官、経済界幹部の中には、日本における留学、研修、滞在経験を有する者が多い。この人的関係は、「ソフトの競争力」として日本とインドネシアの緊密な経済関係の重要な支柱であった。この人的関係は相対的には低下している。今日でも、日本で勉強、研修する者は相当数存在するが、留学先としては、米国、豪州、シンガポール等の英語圏が桁違いに多く、近年は中国への留学生も増えている。韓国、英、仏、独等も努力を強化している。また、インドネシアでは、上述のとおり、特に2000年以降インドネシアと中国の経済関係が緊密化している。華人系も、実業家としてグローバルかつプラグマティックな判断を今後とも重視するであろうが、中国にとって、文化、言語、ルーツを共有している多くの華人企業家の東南アジアにおける存在は、緊密な経済関係構築にとっての大きな資産である。

 日本も、ソフト面での競争力のために、改めてASEAN諸国との人的つながりを強化することが重要である。ASEAN諸国の人口は若く、優秀な人材が多数存在する。留学生、研修生の受け入れ拡大、日本及び日本企業における就業機会拡大は、日本とASEANのwin-win関係強化の重要な柱である。

 最近の明るい傾向の一つは、ASEAN諸国から日本への観光客の増加である(インドネシアについていえば、訪日者数は2010年の61,911人から2014年には158,700人に増加している)。今後とも、各地方自治体とも緊密に連携し、訪日者数を増やしていくことが重要である。

(ニ) コミュニケーション力の一層の強化

 インドネシア及び多数のASEAN諸国においては、国営企業を除き、企業は基本的にオーナー・ファミリーが経営している。戦後起業した企業は三代目の時代に入りつつあるが、二代目も三代目も、基本的には生まれた時から将来の経営者として高い教育を受けている。多くの人は外国留学を経験し、英語をはじめ外国語に堪能である。海外生活を通じ視野を広げ、余裕を持ち、ビジネスマンとしての礼儀とともに、国際人として物おじしない洗練さを習得している。

 また、東南アジアにおいては、もともと英語国であるという面はあるが、例えばシンガポール人やインド系のように、コミュニケーション力の高い優秀な若者が多く存在する。

 これからの国際社会において日本としての競争力を強化していくためには、日本の若者も、このようなアジアの人たちと緊密に連携していかなくてはならない。このようなアジアの人たちと、心を開いた人間関係を構築できるよう、日本の若者も積極的に外に目を向け、語学及び社交センスを含めコミュニケーション力を高めていくことが重要である。

終わりに

 ASEANは、ダイナミックなシティライフ、お洒落なリゾート生活、エメラルド色のサンゴ礁、エキゾティックなジャングルと山々、静かな田園風景や多様な文化を体験し、心温かい人々と接触できる日本人にとって心癒される場所である。新しい年を迎えるにあたり、長年の蓄積により築き上げられた日本と東南アジア諸国との友情を、今後とも強化していければと思う。

『オバマ大統領最後の一般教書演説の行間から読み取る〝オバマ・レガシー〟』
2016.2.11

『オバマ大統領最後の一般教書演説の行間から読み取る〝オバマ・レガシー〟』


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大島正太郎  
(霞関会顧問) 


さる1月12日、オバマ米国大統領は連邦議会上下両院議員を前に、8回目にして最後となる一般教書演説を行った 。

その評判については、米国国内での報道等を広く見たり聞いたりしていないので、自信を持って言えるわけではないが、必ずしも高い評価を得たとは言えないようだ。後日改めてホワイト・ハウスのホーム・ページで動画を見ながら演説を聞いてみたが、時折の拍手も「しばし、鳴りやまず」には遠いものであった。どうも、演説についての一般的な評価は、大統領としての指導力について昨今良く聞かれる批判と軌を一にするようである。

世の評判はそれとして、この演説を読んだとき、これはオバマ大統領がアメリカについての信念を強く訴え、自分の大統領としての「レガシー」をどの様に考えているか語ったものであると確信した。そして、この「オバマ・レガシー」は深いところで日米関係のあり方にも関わると考えるので、強い感銘を覚えた。

そもそもこの演説の核心は通常の一般教書の様に国内経済社会あるいは対外関係についてのこれまでの成果と今後の課題を語ったところにあるのではなく、アメリカのよって立つ政治理念を語ったところにある。自分たちの将来を今まで以上に良いものにできるかどうかは国民が行う選択にかかっているとし、「この時代の変化を恐れ、国としては内向きになり、また国内では人々がお互いに対立し言い争うような道を選ぶか、あるいは、我々アメリカ人がどの様な国民であるか(“who we are, what we stand for”)に自信を以て将来に臨むか」と問題設定をしていることに彼の問題意識が集約されている。

別の言い方をすれば、彼が力を入れたのは、内外で注目された「米国は、如何にして、世界の警察官にはなることなく、自国の安全を守り、世界を指導するか」との自問に答えて対外関係を語った部分ではなく、『We the People』で始まる、「一番言いたいことを取り上げ」た最後の部分である。「我々の憲法はこの簡単な三つの言葉(WE, THE, PEOPLE)で書き出している。これらの言葉は、今や一部の人ではなく、すべての人々を意味すると理解されるに至っている(“…words we’ve come to recognize mean all the people, not just some;”。」と述べたところに彼の国民への問いかけの精髄が凝縮されている。

オバマ大統領の問題意識は、一般教書演説に先立つ12月9日に、米国憲法修正第13条発効150周年を記念して行った講演 にも表れており、一般教書はその講演と合わせ読むと彼の考えがより良く理解できる。12月の講演は、丁度共和党指名争いの中である候補がイスラム教徒の米国への入国を排除すべしと主張した直後に行われたので、大統領が暗にこの提案を批判したとして論評されたものである。

大統領は一般教書演説でも移民排斥提案について立場を明確にしている。即ち「人々を人種あるいは宗教によって(差別の)対象として狙いを定めるようないかなる政治も拒否すべきだ、政治家がイスラム教徒を誹謗することは、誤った態度である」、「(その様な行為は)アメリカと言う国のあり方を裏切るものである(“And it betrays who we are as a country.”)」。つまり、大統領は次期大統領選挙戦の中で、米国を最強にして最も繁栄していた「古き良きアメリカ」に戻そうと唱える急進的保守派の思想傾向に、人種差別的姿勢が見え隠れしていることに対し、その様な立場を明確に否定しているのである。

彼の理念については、先ほど引用した部分にある“We have come to recognize”との言い回しに反映されている。それは、「今や…と理解されている」と、時の流れを語っており、米国が今日までに辿った歴史を想起しているからである。

その歴史とは言うまでもなく、南北戦争を経て成立した憲法修正第13条、第14条、15条、さらに第二次大戦後の公民権運動の高まりによって実現した1964年公民権法、1965年投票権法、そして、2008年に、アフリカ系候補者が大統領に当選するまでに発展したアメリカ政治社会の変遷である。(筆者注。この歴史については、昨年4月の「論壇」に寄稿した、『1865年4月、もう一つの「敗戦」』をご参照。)

オバマ大統領が、150年にも及ぶ米国史を振り返っていることは、演説のこの部分でリンカーンとルーズベルト両大統領とキング牧師の名を挙げていることからも明らかであり、この3人を選んでいることに彼の米国史についての信念をうかがい知ることが出来る。彼は、自分の任期中に民主・共和両党間の相互不信が深まったことを遺憾であるとしたくだりで、「リンカーンやルーズベルトの様な才能が有る大統領であったならばこの分断の状態をうまく克服したであろう」として、最も偉大であるとの評価が固まっているこの2人に言及している。両大統領はそれぞれ米国が建国以来最も深刻な分断分裂の危機に当面していた時期に就任し、いずれもアメリカがよって立つ理念に対する信念と類まれなる政治指導力で、それぞれが当面した危機、前者は南北戦争、後者は大不況と世界戦争、を乗り切ったことで高く評価されている。このことは、オバマ大統領が、今日のアメリカの政治社会上の分断を、これまでの歴史の中でも最も深刻な分断にも匹敵する構造的な問題と見ているとも言える。

しかし、彼は冷静にして現実的な政治家らしく、アフリカ系米国人である自分が大統領であること自体にこれまでの歴史的成果が体現されていることを理解し、他方、自分が大統領であるが故に、さなきだに存在する国論の分断分裂が人種的対立を包含している米国人の深層心理を感じているに違いない。そして、最近の米国では差別的発言は公然とはしないというのが「政治的常識」であるにも拘らず、急進保守派の候補が敢えてこの『常識』を打ち破り、過激な発言を繰り返すことに留意しつつ、自分の演説においては国民に米国の理念・信条を改めて確認するに当たり、相手と同じ次元の感情論に陥ることを避け、「大統領らしい(presidential)」発言に留めていることが印象的である。また、急進保守派が米国を〝あるべき姿に戻す〟ことを主張し、これまでに達成された多様性の受け入れという政治的現実を否定しようとしているのに対し、大統領は苦難の歴史を経て獲得された現実を守るべきとする側に立っている。この立場からすれば、挑発に乗せられ徒に対立をあおることは得策ではないので、いわば戦略的抑制を行っているともいえるであろう。

大統領は演説で「(国民が政治参加を諦めると)金と権力がある人々が政治上の決定権を持ち、若い兵士を戦争に送り出しかねず、あるいは再び経済的危機をもたらし、あるいは、何世代にもわたるアメリカ人がその為に闘い、死んで漸く確保した平等権や投票権が再び奪われかねない」と述べ国民に政治への無関心を戒めている。(米国が世界の警察官となると言うことが、若い兵士を戦地に送り込むことであれば、一般国民が受け入れるところではない、と述べているとも言えよう。) そして、さらに自分が大統領職を離れても一市民として、「あなた方」と一緒に活動する(”when I no longer hold this office, I will be right there with you as a citizen”)としつつ、その際自分を導くのは「われわれ(アメリカ人)を、黒人、白人、アジア人あるいはラテン系とみる前に、あるいはゲイかゲイでないか、移民か生まれながらの市民か、民主党系か共和党系かでみるのではなく、共通の信条で結ばれたアメリカ人としてみる『声』に導かれる。まさに(公民権運動の指導者)マーチン・ルーサー・キング師が述べた『武力に頼らない真実と無条件の愛』に導かれる」と述べている。

オバマ大統領が政治活動の第一歩を踏み出したのはシカゴのサウスサイドでのコミュニティー活動であること、大統領退任後慣例になっている記念施設を彼が生まれ育ったホノルルではなく、サウスサイド・オブ・シカゴに設置することを既に決めていることを想起すれば、彼の視線の先にある「あなた方」アメリカ人がどのような理念を信奉する人達であるかは明らかであろう。

要するに、オバマ大統領の最後の一般教書演説のさわりの部分は、通常の一般教書とは大きく異なり、バラク・オバマと言う政治家が、自分が大統領になれたことは、リンカーン及びルーズベルト両大統領そしてキング牧師のレガシーの結果であり、米国の政治社会がアフリカ系アメリカ人を大統領に選ぶことが当然視されるまでになったことを示したものである。同時に、その歴史を後世に繋ぐべく、一方で急進保守派の主張が今日のアメリカのよって立つ理念に反することを指摘し、一般国民にアフリカ系大統領が実現していることこそアメリカのレガシーを体現しているのであり、この歴史と理念が継承されるようにすることが自分のレガシー、オバマ・レガシー、であるとの信念を語ったものと理解するべきであろう。

(あとがき)  急進保守派の候補の中に日米安保条約を否定する発言を行う者が居ることは日本から見て懸念されることである。しかも、その様な思想傾向は、今日のイスラム教徒移民排斥論にとどまらず、1924年の移民法で日本人移民が排斥された時に米国議会の主流を占めていた思想傾向と一脈を通じているので、日米関係のあり方を考慮するに当たり無関心ではいられない。

そのような問題意識で、1920年代の日本人移民排斥が今日の米国内政上の議論に関連することを憲法解釈論議の観点から述べた「1920年代の排日移民措置の今日的意義」、(原題“Why the 1920s U.S. Ban on Japanese Immigrants Matters Today”)と題する卑見を昨年末米国the Huffington Post系インターネットメディアであるThe WorldPost上に掲載したので、ご参照いただければ幸甚である 。

(平成28年1月27日記)

Remarks of President Barack Obama – State of the Union Address As Delivered
https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2016/01/12/remarks-president-barack-obama-%E2%80%93-prepared-delivery-state-union-address
“Remarks by the President at Commemoration of the 150th Anniversary of the 13th Amendment”
https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2015/12/09/remarks-president-commemoration-150th-anniversary-13th-amendment
“Why the 1920s U.S. Ban on Japanese Immigrants Matters Today”
http://www.huffingtonpost.com/shotaro-oshima/1920s-us-ban-japanese_b_8858260.html

『日中外交の展望』
2016.1.21

『日中外交の展望』


宮本 雄二

宮本 雄二
(元駐中国大使)


1.中国の動向をどう判断するべきか
 
経済が最重要の課題となってきた
 
 中国の動向は、大きく次のように総括できよう。19世紀以来、近代中国知識人にとり「富強の中国の実現」および「中国主導の秩序の回復」が宿願であった。習近平の中国は、その強い影響を受けながら、今後も進んで行くであろう。だが中国の現状は、難しい内外政策のかじ取りを迫られており、基本的には試行錯誤を続けながら進んで行くと見ておくべきである。
 最大の挑戦は国内問題であり、当面は経済にある。30有余年にわたる経済の高度成長が、この国のあらゆる面において大きな改革を求めている。だから「改革の全面的深化」(2013年第18期中央委員会第三回全体会議決定)になる。そのカギが経済改革だ。そのまたカギが国有企業改革(+財政・税制改革+金融体制改革)である。
 経済改革は、一方において2008年のリーマンショック対策である4兆元の財政出動がもたらした経済のひずみ(不良債権の増大による地方財政の弱体化と国有企業の過剰生産能力)を是正しようとするものだ。同時にそれは、経済の持続的成長を可能にするための改革をも意味している。「中進国の罠」を避けるための改革でもあるのだ。
 これを2020年までに達成しようとしている。中国共産党の創設百周年を記念するこの年に「小康社会」を作るのが国民との公約である。これが「第一の百年」奮闘目標と呼ばれるものだ。しかも2020年に、2010年のGDPおよび一人当たりGDPの倍増を具体的に約束している。その実現のためには、第13次5ヶ年計画(2016~20)において年率6.5%の成長を確保することが不可欠なのだ。
 中国共産党の統治も、中国の国際的地位の向上も、基本は経済の成功にある。経済をうまくやれなければ、とりわけ国内の諸矛盾のコントロールが困難となる。故に中国共産党にとり、「発展」、つまり経済成長は国策の「カナメの中のカナメ」になるのだ。
 
習近平は政権基盤を確立したのか
 
 この大改革のためにはトップに権力を集中させる必要がある。これはどのような組織にも不可欠なことだが、中国共産党においては特にそうだ。共産党の仕組みがそうなっているからだ。汚職摘発などを通じて反腐敗を強力に行っている主要な目的の一つが、この習近平への権力の集中にある。現時点において、基本的には習近平に権力は集中したと見て良いであろう。
 この反腐敗の動きの山は、昨年の6月から7月にかけて2頭の大トラ(徐才厚と周永康)を捕まえた時に来た。この二人は、空前の高位経験者(前者は中央軍事委員会副主席、後者は政治局常務委員)であり、その捕縛を就任2年足らずでやり遂げたのだ。これは習近平とそれを支える王岐山(政治局常務委員、中央規律検査委員会書記)の力量を示すと同時に、江沢民の影響力を排除しトップに権力を集中させるべしとの、一種の党内世論が存在したから可能となったと推論すべきだ。
 だが作用は必ず反作用を呼び込む。中国国内が平穏無事になったというには、聞こえてくる雑音がまだ多すぎる。官僚機構への打撃も大きく、消極的抵抗の動きは続いている。また人民解放軍にも、明らかに党中央の意向に反すると思われる動きも散見される。習近平は引き続き、さらなる権力の掌握につとめ、慎重な国政運営を行っていかざるを得ないのである。
 
 協調的な対外政策に回帰するが、大きな課題は残る
 国内の必要、とりわけ経済の必要から、中国は当面は、基本的には協調的な対外政策にさらに回帰していくであろう。2012年以降に顕著になった対外強硬姿勢の代価は大きかったのだ。それは同時に中国経済が、グローバル経済に完全に組み込まれてしまった結果でもある。最近決定された『第13次5ヶ年計画に関する党の建議』においても、「国内と国際の二つの大局を統一的に把握する」ことを明記している。
 同時に「富強」と「中国中心の国際秩序」の実現という19世紀以来の宿願をどういう風に表に出すかという課題は依然として残っている。これは、中国共産党が掲げる「第二の百年の奮闘目標」とも直接関係してくる。この目標は、新中国建国百年、すなわち2049年までに「富强の、民主的で、文化的な、調和(和諧)のとれた、社会主義の、現代化された国家」を作るというものだ。
 この目標と国際社会との関係に関する確定した具体的なビジョンはまだないようだ。国力のさらなる増大と国際社会、とりわけ米国の反応を見ながら決めてくるであろう。現時点においては、一時期、中国の論調にあった国際秩序に対する挑戦者的な言辞は影を潜めている。習近平は、戦後国際秩序の根本に挑戦することはしないという姿勢を明確にしつつ、その補完と改善には遠慮はしないという姿勢を強めている。無条件の国際協調ではなく、国力に見合って必要な世直しはしますよ、ということだ。一帯一路構想やAIIB等、経済面での動きはすでに表に出てきた。将来、政治面での自己主張の動きが出てくることも、当然想定しておくべきであろう。
 中国の軍事力の増強は、今後も確実に進むと想定しておくべきだ。それは中国の宿願でもあるし、経済にもまだ余裕があるからである。また中国の自己主張は強まり、それは大体において対外強硬姿勢と連動する可能性があることも覚悟しておくべきであろう。
 
2.これからの日中関係を考える論点
 
 以上のような中国に対し、どのように対応すべきであろうか。どうなるかではなく、どうするべきかという観点も入れて考えてみよう。明確な自分の意思を持つことにより、ものごとは変えることができるからである。いくつか論点が見えてくる。
 第一に、中国の台頭は、主要国間の力関係を変え、その結果、中国との関係においても地政学的なパワーポリティックスが強く意識されるようになった。つまり軍事安全保障のロジックが、より大きな役割と影響を及ぼす東アジアが出現したということである。
 第二に、中国は多くの面で生成過程にあり、われわれは中国に対し一定の影響を及ぼすことは依然として可能である。お互いに影響し合う(互動)関係にあり、一方の対応が相手の類似の対応を呼び込むアクション・リアクションの関係が顕著となった。
 第三に、グローバル経済は基本的に生き残り、地域的な経済統合は進む。理性的な論理および戦後の米国の経験に照らせば、「超」超大国が存在しなくなれば、軍事力の役割は自国の防衛と国際秩序の維持に対する国際協力に集約されていくであろう(下記第七の理由により、こういう理性的議論が錯乱される可能性はある)。
 第四に、中国経済の成長は確実に鈍化し、中国の軍事力が米国を越える日が来ることを想定することは難しい。少なくとも今日の米国が享受している地位を占めることはないと想定しておくべきであろう。
 第五に、中国経済は、にもかかわらず相当の期間にわたり世界経済を引っ張ると想定しておくべきであろう。いかなる国の成長戦略も、その事実を組み込まざるを得ないであろう。
 第六に、日本と中国の物理的力(経済および軍事力)の格差は、今後も拡大していく。日本が、それを補うソフトパワーを不断に強化していかない限り、日本が中国に対し有効な影響力を保持し続けることはできないであろう。
 第七に、人類は合理的計算と判断に背馳した決定をすることがままある。主観的判断は常に付きまとうし、感情や心理にかかわる問題においては特にその傾向がある。そういう「非合理の世界」に対する備えは常にしておく必要がある。
 
3.現時点における対中戦略
 
 これらを前提にして、現時点の対中政策を想定すれば、2008年に日中間で合意した戦略的互恵関係を基本にし、それに軍事安全保障の柱を加えた、対中二重アプローチを基本的な短期的対中戦略とすべきであろう。
 遠い将来を見通すことは容易ではないが、当面の間は、安定した協力関係を築くことが日本の明確な国益であることが分かる。中国も国政運営の必要から日本との関係改善を考えざるを得ない。日中は、外交と安全保障上のコストを上げ過ぎてしまった。特に経済の分野においては、お互いを必要としているのに、政治が必要以上に経済に影響を及ぼしている。中国の抜本的な経済改革のためには日本企業の積極的参加は極めて望ましい。日本経済の成長戦略に中国経済を組み込み、そこから最大の利益を得る戦略は正しい。さらにグローバル経済の前提である世界の平和と安定を強化する日中協力も正しい。これが経済に重点を置いた第一のトラックである。
 第二のトラックが、安全保障に重点を置いたアプローチだ。中国の軍事力が増大し続けることを前提に日本の主権と領土、アジアの平和と発展を考えれば、当面は、先ず日中の危機管理体制を強化し、次に日本の自衛力を強化し、さらに日米安全保障関係を強化し、ひいては東南アジアの自衛力の増強、豪等との協力関係の強化等を図ることは、正しい。中国軍の動向を、従前以上に注視し、必要な措置を適時適切にとることも正しい。
 つまり「硬い手」と「柔らかい手」をともに持って、対中政策を進める必要がある。安全保障がらみの「手」が硬ければ硬いほど、対話という「柔らかい手」をさらに強化する必要がある。同時に戦術論の次元でも「硬い手」と「柔らかい手」を持つ必要がある。
 いわゆる「外交カード」なるものは、プレーヤーに対しそれぞれのウエイトに従って同時に作用する。日米関係が強化されれば、中国やロシアに対する日本の立場を強化するし、日ロ関係が強化されれば米国や中国に対する日本の立場は強まる。故に安倍外交が地球儀を俯瞰して活発に活動していることは外交的に正しい。しかしそれを「対中包囲云々」という必要はない。なぜなら対中包囲網を完成することは不可能であり、できないことは喧伝しないことだ。黙ってやるべきことをやって行けば良い。
 したがって現時点において議論されている多くのことは、基本において戦術論であり、戦略論ではない。その戦術の次元においても、あの米国でさえ相手をよく理解して外交のテクニックを駆使した外交を試みている。ましてや日本においておや、なのだ。不必要に相手を刺激し、不必要に外交コストを引き上げる必要はない。
 
中長期的総合的な対中戦略の策定は必須
 
 この短期的な戦略は、日中の国力が今後も開くことを想定すれば(中国の国家運営が失敗する可能性もあるが、そういう「希望的観測」に国の命運を委ねるわけにはいかない)、とりわけ軍事安全保障の側面において補強が不可欠である。つまり中国の「力」に対し、わが方の「力」だけで対抗する戦略は精緻さに欠ける。ここにいくつかの支柱を設け、中長期的総合的な対中戦略を策定する必要がある。
 第一に、中国が「暴走」した場合に備え、中国対世界という構図を作れる外交力、ソフトパワーを磨く必要がある。つまり中国の「力」に対し、世界の「力」で対抗する構想力、提案力、実行力を打ちだせる人材を養成し、システムを構築する必要がある。とりわけ関係国を糾合する外交力の強化は急務である。理念を重視した東アジアのビジョンと組織を打ちだすことも重要となる。
 第二に、東アジアに安全保障の新たなメカニズムをつくる必要がある。このメカニズムは、中国の安全と自尊心にも配慮し、中国が軍拡に向かう動機を弱め、同時に全ての加盟国の安全と主権を保全するものでなくてはならない。直感的に言えば、米国、露、印といった大国の参加を確保することにより、より安定したものとなろう。
 第三に、安全保障メカニズムを補強するものとして、東アジアの経済統合のメカニズムをつくる必要がある。これはすでに動き始めたものを基礎に拡充し強化すれば良い。全体のシステムをより強固なものとするために、一体感を強めるコンポーネントを持っておくべきであり、文化や人の交流を強化する仕組みも導入すべきである。
 第四に、中国をして被害者心理を克服し、21世紀を先導する「ものの考え方」に到達させる外交努力が不可欠である。同時に現行の国際秩序や国際法システムは未完成であり欠点を持つことを正確に認識しておく必要がある。中国をはじめとする新興国、後発国との間で、まさに戦後秩序の根幹である「話し合い」と「交渉」を通じて、平和的に既存の秩序を改善し補完する作業に入るべきである。最大の挑戦は、むしろ米国が、国際社会の制約を受け入れざるを得ないという現実をいつ受容できるかという点にあるのではないか。
 第五に、米国は、「超」超大国の国力と意識をいつまで持続できるかという課題がある。米国の地位は、相対的に低下し続けることはあり得るが、米国が総合的な国力において中国やインドに抜かれる日が来ることは、予見しうる将来、想定することは難しい。つまり米国が中心となって世界を引っ張っていくことが、世界にとって必要なのだが、米国世論がいつまでそれを支持するかという挑戦に直面する。英国は、国力が低下しても、世界を引っ張る意欲はあった。英国が、階級社会であり、エリートが英国を引っ張ってきたからであろう。仏も、ある程度そうだ。米国は、これとは本質的に異なる。われわれが杞憂する米国のリーダシップの衰退は、起こり得るのである。
 
 (了)

『「万人の為の持続可能なエネルギー」(SE4All)』
2015.10.19

『「万人の為の持続可能なエネルギー」(SE4All)』


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堀江 正彦
SE4All諮問理事会メンバー
明治大学特任教授
外務省参与(地球環境問題担当大使)


 2015年は、これまで世界が努力してきた開発問題と気候変動問題に関して、世界が新しい枠組みに合意しなければならない極めて重要な年である。

 さる8月2日、「ポスト2015開発アジェンダ」を議論していた政府間交渉において、これまで策定されてきた「持続可能な開発目標(SDGs)」をベースに、「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」が採択されるに至った。

 この「持続可能な開発のための2030アジェンダ」は、9月に開催される国連サミットにおいて正式に採択されることになるが、前文と政治宣言に加えてSDGsである17のゴールと169のターゲット、そして実施手段とフォローアップ・レビューを含め、ほぼ30ページにもなる文書である。

 2001年に合意された「ミレニアム開発目標(MDGs)」が、主に途上国の開発を目的として、8のゴールから構成されていたことから考えると、極めて大部のものではあるが、地球と人類が大きな挑戦を受けている現状において、先進国も含めた持続可能な開発を実現するためには、17もの目標を同時並行して追求していく必要があることは十分に理解できる。

 また、人類と地球にとってのもう一つの大きな挑戦は地球温暖化の問題であるが、国連気候変動枠組条約の下で、2010年以来、日本が京都議定書に代わる新しい枠組みを策定すべきことを声を大にして主張し、2011年のダーバンCOP17において、「すべての締約国に適用される新しい枠組み」を策定することについて合意をみた。その後、努力が傾注されてきたが、このダーバン合意に基づいて、12月にパリで開催されるCOP21において、新しい枠組みに合意し、すべての締約国が、2030年に向けて地球温暖化ガスの排出削減を実施していく必要がある。

 まさに、この地球の将来のため、我々の子々孫々に「負の遺産」を引き継ぐことなく、世界から貧困をなくし持続的な形で開発を進め、同時に地球温暖化を食い止めることにより、人類が憂いのない形で生存して行ける環境を整えなければならない。

 本稿では、筆者が諮問理事会のメンバーを務めている「万人のための持続可能なエネルギー(Sustainable Energy for All))」が、人類の将来にとって死活的に重要な「持続的な開発」と「気候変動の抑制」という二つの大きな課題を繋いで両立させようとしている努力を紹介する。
 
「万人のための持続可能なエネルギーの10年」の発足

 2011年、国連総会において「SE4Allを2012年の国連のテーマ」とする総会決議が採択された。これを受けて、2013年の国連総会において、2014年から2024年を「万人のための持続可能なエネルギーの10年」とする総会決議が満場一致で採択された。

 これは、バン・キムン国連事務総長が2011年にSE4Allハイレベル・グループを組織する前から力を入れているイニシアティブであるが、2012年9月に諮問理事会(Advisory Board)が立ち上げられ、その目標達成に向かって努力が傾注されることになった。

 筆者も、2013年6月に、共同議長であるバン・キムン事務総長とジム・ヨンキム世銀総裁から諮問理事会のメンバーとして招請され、累次の会合に出席することとなった。
 
「万人のための持続可能なエネルギー」SE4Allとは何か?

 SE4Allとは、”Sustainable Energy for All” の略であり、次の3つの目標からなるイニシアティブのことである。

1. ユニバーサル・エネルギー・アクセスの確保

 今日世界には、家庭用電力に必要なエネルギーを得られない人々が11億人、毎日の食事を料理するためのクリーンなエネルギーを得られない人々が29億人いる。

 この人たちは、木片や石炭や家畜の糞などを燃料にして毎日の料理や暖房をとっているため、燃料確保に多くの時間を費やすだけでなく、小さな家の中で立ち上る煙によって肺疾患などの病気にかかり死亡する人々が430万人に上り、HIVによる死者よりも高いと言われている。しかもその多くが、毎日の料理を担当する母親と娘たちであることから、クリーン・エネルギーへのアクセス問題は女性と子供の問題であるとも言われている。
 また、電力エネルギーそのものが得られないため、彼らの経済活動は極めて限られた範囲に留まっており、貧困を克服しようと思ってもなかなか思うようには行かないのが実情である。

 上述した「持続可能な開発目標(SDGs)」の17の目標のうち7番目の目標としてエネルギーの確保が掲げられることになったが、これはSE4Allの努力の成果でもある。まさに、本年末をもって終了する「ミレニアム開発目標(MDGs)」には、その8つの目標にエネルギーが含まれていなかったため、貧困問題の解決の重要な要素となるエネルギーに焦点を当てたSE4Allが発足した経緯がある。
 したがって、これらの貧困にあえぐ人々のために、クリーンなエネルギーを確保し、開発を進め、貧困からの脱却を手助けすることが、SE4Allの最も重要な目標である。

2. エネルギー効率の改善率の倍化

 万人がエネルギーを持続的に享受できるようにするためには、技術革新や省エネにより世界におけるエネルギー効率を上げる必要があり、2009年までの改善比が1.2%であるのを2030年までに2.4%になるよう、エネルギー効率の改善率を倍化することが、二つ目の目標である。また、エネルギー使用量が世界的に増える中、エネルギー効率を進めることにより温室効果ガスの排出を抑制することができる。

 わが国は、1970年代の2度にわたる石油危機を経て、官民によるエネルギー効率改善の努力を弛まず継続してきたことにより、今日では世界に冠たるエネルギー高効率の経済を築きあげることに成功した。国際エネルギー機関の2011年統計をベースにはじくと、仮に世界各国のエネルギー効率が、わが国のレベルに達すれば、世界の第一次エネルギー消費量の56%もの節約が可能となる。

 また、わが国の「トップランナー制度」は、冷蔵庫、クーラー、テレビ、乗用車をはじめとする約30品目について、民間メーカーの間でエネルギー効率を向上させるための競争を制度的に導入したものとして世界でも注目されている施策である。さらに、わが国の「エネルギー管理士制度」なるものも、主に中小企業を対象に、企業体なり事業所や工場ごとに、如何にすればエネルギー効率が図られ、エネルギー節約を実現することが出来るかを助言する制度であり、大いにその実績も積み上がってきており、途上国でもその導入を整備したいと希望する国が増えてきている。
 
3. 再生可能エネルギーのシェア倍化

 ユニバーサル・アクセス実現のためには、気候変動との関係で地球温暖化ガスの排出を最低限に抑える必要があるため、万人のためのエネルギーは出来るだけ再生可能エネルギーによってカバーすることが望まれる。そのために、現在15%でしかない再生可能エネルギーのシェアを2030年までに30%まで引き上げることが、三つ目の目標である。

 開発を促進するために、万人のためのエネルギー確保が重要であるとしても、仮に11億人ないし29億人の貧しい人たちのために化石燃料が確保されるとしたならば、地球温暖化を抑制するために各国が地球温暖化ガスの排出を抑制しようと努力していることと矛盾してしまう。
 したがって、可能な限り、万人のためのエネルギー確保は再生可能エネルギーでカバーされなければならない。またこのことが、SE4Allが「ポスト2015開発アジェンダ」と「気候変動問題のための新しい枠組み」を繋ぐ役割を担うことの所以でもある。
 再生可能エネルギーの中でも太陽光発電、風力発電は、他のエネルギーに比べて競争力が低いと言われてきたが、世界的な普及に伴いコストも下がり、競争力が高まっている。このような状況下、再生可能エネルギーのシェアを倍増し、世界的なエネルギー使用量の増大比率以上に普及させていく必要がある。
 
エネルギーは『金の糸』

 バン・キムン事務総長が、よく使う表現が「金の糸」である。つまり、エネルギーは、貧困を軽減し、経済成長と社会的公正を高め、世界の繁栄を結びつける「金の糸」である、という言い回しであるが、これは的を射ている。

 エネルギーに対するアクセスがあって初めて経済成長が可能となり、貧困削減も可能となるのであり、エネルギーの確保なくして人間社会の公正な進歩は見込めない。まさにエネルギーは持続可能な開発の鍵となるものであり、それゆえに、上述の通り「持続可能な開発目標(SDGs」」において7番目の目標として掲げられることになった。

 諮問理事会のメンバーとなって、累次の会合に出席してきたが、回を経るにしたがって、SE4Allの目的とする3本の目標が大きなうねりとなり、先進国ドナー、特に欧米諸国とマルチの援助機関の重要な援助目標となっていく感を強くするようになった。

 それは、米国やデンマーク、ノルウェーをはじめとする北欧諸国がSE4Allの目標とするところを後押ししているだけでなく、バン・キムン国連事務総長とジム・ヨンキム世銀総裁がリーダーシップを発揮しており、これを地域開発銀行や国際機関がサポートしようとしているからに他ならない。国連事務総長と世銀総裁の二人が、「韓国系コネクション」として国連関係者を羨ましがらせる程に緊密な関係にあり、これほどの蜜月関係は歴代なかった、というのが国連での専らの噂である。

 また、忘れてはならないのが、実際に最前線でSE4Allを率いてきた国連事務総長代表カンデ・ユムケラーの類まれなる情熱とエネルギーであろう。ユムケラー代表は、シエラレオーネ出身の農業経済学者であるが、母国の通商産業大臣を務め、国連工業開発機構(UNIDO)事務局長を歴任し、SE4All担当CEOに就任した人物である。これまでのSE4Allの成果は彼のリーダーシップによると言っても過言ではない。

 本年5月の諮問理事会において、筆者は、エネルギーは貧困撲滅と経済開発を同時達成するための「金の糸」であるが、SE4Allそのものが「持続的開発」と「気候変動抑制」の同時達成のための「金の糸」にならなければならないと発言した。

 この発言を受け、UNIDOのリー・ヨン事務局長は、SE4AllとUNIDOとが共催で6月に開催した「ウイーン・エネルギー・フォーラム」でのキーワードを「金の糸」とすることにした経緯がある。その文脈の中、ウィーンでのフォーラムでは、エネルギーと水、エネルギーと食料、エネルギーと健康といったテーマで様々な課題について議論された。まさに、先進国をも巻き込んだ、持続可能な開発である。
 
わが国の貢献

 そもそもわが国は、世界に冠たるエネルギー関連技術を有していること、気候変動に対処するため緩和と適応の両分野でエネルギー関連の途上国支援を重点的に行っていることから、エネルギー分野の途上国支援においてトップ・ドナーである。また、SE4Allのそれぞれの分野において、多くのサクセス・ストーリーとも言うべきプロジェクトを実施してきている。

 主な例を挙げると、次のとおりである。

 (1)ユニバーサル・エネルギー・アクセス

 ブータンの地方電化事業において、JICAがブータン政府やADBと協力して2008年に54%でしかなかった家庭電化率を2013年には95%までに引き上げた。

 (2)エネルギー効率改善率の倍化

 経産省と新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)、環境省と国立環境研究所(NIES)、外務省と国際協力機構(JICA)などが、開発途上国におけるスマート・コミュニティや低炭素都市の構築を支援し、JCM(二国間クレジット制度)の導入によりエネルギー効率改善に寄与している。

 (3)再生可能エネルギーのシェア倍化

 地球温暖化に対処するための途上国支援の一環として、アフリカ大陸などにおいて、地熱発電、太陽光発電、風力発電などの再生可能エネルギー・プロジェクト支援を行っている。
 
SE4Allのエネルギー効率改善分野での貢献

 (1)「エネルギー効率促進ハブ」の東京設置提案

 特に、アジア諸国のエネルギー効率改善に寄与してきている「一般財団法人・省エネルギー・センター」のノウハウや技術を途上国に提供することにより、同センターがSE4Allの「エネルギー効率促進ハブ」となり、SE4Allの目標達成のため協力することを提案し、昨年9月の国連総会と平行して開催されたSE4Allの会合において、省エネセンターの祖川常務理事より、ユムケラー代表に対して、「エネルギー効率改善促進ハブ」となる旨の意図表明文書が手交された。

 本年10月には、この「エネルギー効率促進ハブ」の主催で、東京に世界各国のエネルギー効率改善に努力する都市の専門家を招いた「第1回エネルギー効率改善フォーラム」が開催される予定である。

 (2)富山市を「エネルギー効率改善都市」に推薦

 SE4Allでは、エネルギー効率改善率の倍加にコミットする都市を選定し、これらの都市のエネルギー効率改善を支援していく戦略を推進しているが、これまでLRTの導入などによるエネルギー効率改善に努力してきている富山市などは、これに参画するに値する都市である。かくして、昨年9月の国連総会と平行して開催されたSE4Allの会合において、森雅志市長より「エネルギー効率改善都市」として参加することを宣言して頂いた。

 (3)「SE4Allフォーラム」の開催

 わが国におけるSE4Allの知名度はまだまだである。その観点から、本年10月に、東京でのフォーラムに先立ち、富山市が「SE4Allフォーラム」を開催する。わが国としてSE4Allをサポートしていく姿勢を、富山市が率先して体現して下さることは大変喜ばしいことである。
 

SE4Allの新しい体制

 SE4Allは、政府、民間企業、NGO、国連機関などからの代表メンバーから構成されている。これは、SE4Allの3つの大きな目標に向けて、政府のみならず、民間企業、NGO、国際機関などの多くの関係者の知見、技術、資金を動員する必要があるとの考えに基づくものである。

 筆者が属する諮問理事会には、政府関係では、米国のケリー国務長官、アイスランドのグリムソン大統領、民間企業では、シェルのパウエル副社長、アクセンチャーのオラニエ社長、NGOでは、IUCNのアンダーソン事務局長、世界経済フォーラムのシュワブ会長、国際機関では、UNDPのクラーク長官、OPECファンドのスレイマン事務局長など、錚々たるメンバーが名前を連ねている。

 さて、そのSE4Allを率いるユムケラー代表は、母国シエラレオーネの大統領選挙に立候補し、最貧国たる自国の発展のために尽力することを決心したため、7月末で国連を離任することになった。現在、SE4Allの後任が就任するまでの間、コンサルタントとしての立場で、引き続き臨時にその役目を果たしている。

 後任としては、世界銀行の副総裁であるレイチェル・カイト女史が、100名を超す候補者の中から選考された。カイト女史は、現在の世銀の気候変動担当大使としての職務をパリCOP21まで勤めあげた上で、国連事務総長よりSE4All担当の特別代表に任命されるとともに、平行して立ち上げられるSE4Allの新しい体制であるSE4All Support Partnership(SSP)と称するINPO(国際的非営利法人)のCEOに来年1月1日に就任することになる。このINPOは、オーストリア政府の招請を受け、ウィーンを本拠地に定め、国連と連携協定を結び、国連本部内のSE4Allのチームと組んだ形で、2030年に向けた努力が展開されることになる。

 まさに、「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が採択されるのと時を一にして、今後のカイト新代表のリーダーシップが注目されるところである。
 
最後に

 本年12月にパリで開催される気候変動条約の締約国会議COP21では、気候変動に対処するため、京都議定書に代わる新しい枠組みについて合意しなければならない。

 SE4Allは、フランス政府と協力しつつ、COP21の機会に「エネルギーの日」を設け、世界より100の都市と100の金融機関と100の民間企業の代表を招き、エネルギー効率を改善する運動を世界的なものとするキャンペーンを展開することを企画している。

 いかなる方法であれ、地球温暖化の進行を抑制し、持続可能な開発を実現しなければ、我々人類の未来はないことを認識しなければならない。

 まさに今、地球存亡の危機にあると言って過言ではない。

(2015.9.6記)

『AIIB設立協定を読む』―ADB法務部における経験を踏まえて―
2015.9.28

『AIIB設立協定を読む』
―ADB法務部における経験を踏まえて―



小 島 誠 二
(元ADB法務部上級法律専門家)
(元駐タイ大使)



はじめに
 
 2015年6月29日、北京においてアジア・インフラ投資銀行設立協定(Articles of Agreement of Asian Infrastructure Investment Bank)の署名式がとり行われ、中国を含む50か国が本協定に署名した。AIIBについては、日本政府は不透明な組織運営や融資審査基準などを理由に参加を見送ったとされているが、日本は参加した上で、AIIBの内側から改革を行っていくべきであるという意見も根強い。ただ、AIIBに関する公開情報が限られているため、新聞などでなされている議論は、AIIBがどのような銀行になるのかを十分踏まえてなされていないような印象を受ける。署名式の挙行に伴い、設立協定の内容が明らかとなったので、筆者のADB法務部における経験を踏まえ、ADB設立協定と比較しながら、AIIB設立協定の内容を検討してみたい。
 
ADB法務部での経験
 
 (法務部への出向)筆者は1986年3月からマニラに本部を置くアジア開発銀行(ADB)法務部(OGC)に3年間勤務した。外務省からの初めての出向者であり、赴任当初は苦労の連続であったが、多国間開発銀行(MDBs)の機能と政策、開発金融政策、プロジェクトの形成と実施などについて深く勉強することができた。この経験は、その後経済協力局やJICAにおける仕事、特に開発途上国政府との政策協議、DACでの議論などで大いに役立ったと考えている。
 
 (ADB法務部)ADBの法務部は、世銀の制度を導入したもので、当時は米、豪、NZ、仏、印、韓国、日本、比などから弁護士資格を有する約20人のローヤーが様々な法律問題に取り組んでいた。なお、ADB全体では約60人の日本人を含む約600人の専門職員と約1000人の補助職員が働いていた(現在の職員数は2,990人、うち専門職員は151人の日本人職員を含む1,074人)。ローヤーの主たる職務は、設立協定解釈・適用(新規加盟、特権免除など)、貸付政策などの立案・見直しについての助言、ADBによる借入れに係る契約などの作成についての助言、貸付け・技術援助プロジェクトの形成・実施に伴う助言、貸付契約、技術援助契約などの作成、個別の調達手続きに係る法的助言、民間業者との契約の法的検討など多岐に亘るものであった。
 
AIIBについて抱いた疑問
 
 (IBRD型の銀行か、IDAとIFCの機能も付加されるか?)AIIBは世銀グループの国際復興開発銀行(IBRD)あるいはADBの通常資本財源(ODR)のような役割を果たすものと予想されたが、同時に国際開発協会(IDA)あるいはADBのアジア開発基金(ADF)のように緩和された条件での貸付けなどを行うか、さらには国際金融公社(IFC)のように民間セクターに対する投資支援を行うかが明確ではなかった。
 
 (資本規模)早い段階から1,000億ドルという資本金の額が独り歩きし、このうち払込資本金と請求払資本金の比率がどうなるかが明らかでなかった。その比率によって、加盟国の実際の財政負担の大きさが決まってくる。ただし、ADBの設立時においては授権資本の半分が払込株式であったので、AIIBの場合も払込株式の割合がある程度高くなることが予想された。なお、2014年末のADBの資本金は、約1,531億ドル(払込資本金77億ドル(払込み予定を含む。)、請求払資本金1,454億ドル)となっており、主要株主は日本(15.7%)、米国(15.6%)、中国(6.5%)、インド(6.4%)などである。
 
 (低所得国への対策)AIIBの主たる業務は、基本的には国際資本市場から借り入れた資金を準市場金利で開発途上加盟国などに貸し付けることであると想像された。しかしながら、AIIBに関心を示す開発途上国の中には、カンボジア、ラオス、ネパールなどのいわゆる低所得国も含まれており、これらの加盟国が準市場金利で行われる借入れに関心を持つとは考え難い。したがって、超長期・超低利の融資とグラントの供与を行うADFのような特別基金が設立されることが予想された。
 
 (調達適格企業)ADBでは、ADBからの貸付けなどの資金は、原則として、加盟国の物品・役務調達のためにのみ使用されることになっている。これに対し、早い段階からAIIBではそのような制限が設けられないという報道が見られ、日本の経済界からも、当初は別としてその後は、AIIB関連の調達から日本企業が排除されるおそれがあるという懸念があまり示されなくなった。もし、調達先に制限が設けられないとしたら、先進国にとってAIIBに参加する一つのインセンティヴがなくなるわけであり、このような政策がなぜ採用されようとしているのか疑問に思った。
 
 (欧米諸国がAIIBを支持する理由)現状を承知しないが、筆者がADBに在勤していた時代ADBのマネッジメントを批判する先鋒は、一般的には米国、豪州、カナダ、欧州などからの理事であったように思う。事務局職員は彼らを「ギャング・オブ・フォー」と称して恐れていた。批判の内容は、おおむね、ADBが融資する意味(民間から資金調達はできないのか)、プロジェクト自体の実行可能性(viability)、借り入れ国の経済・財政政策の健全性、プロジェクト実施主体の財務内容、補助金削減、民営化の努力、料金回収などに関するものであったように記憶している。このような経験を有する筆者には、英国などがいち早くAIIB参加の意向を表明したことは、意外であった。
 
 (毎年繰り返すバンチング・シーズン)ADBの職員にとって、会計年度末は最も忙しい時期であった。年度末までに新規プロジェクトに対する理事会の承認を得るためである。プロジェクトの質を高めるため、バンチング・シーズンをなくそうという掛け声が繰り返されていた。当時のADB職員の間では、新しいプロジェクトを数多く手がけることの方が地道に既存のプロジェクトの運営に携わる仕事よりも高い評価を得ることができると信じられていた。筆者は、新規プロジェクトの審査(アプレイザル)ミッションのチーフではなく、調達の実施、既存プロジェクトの手直しなどに地道に取り組む多くの日本人職員に出会い、ローヤーとして彼らの仕事を助けたいと常に考えていた。ADBでは、手続きに時間がかかるという批判を受けて、その迅速化が検討されている由であるが、プロジェクトの質との両立を求めていってほしいと思う。
 
AIIB設立協定を読んでみる
 
 (全般的な印象)二つの設立協定を比較して読むとその類似点の多さに驚かされる。全体の構成はほぼ同じであり、個別事項(目的、任務、資本、業務、借入権限、組織・運営、その他の事項)についても二つの協定の間にそれほどの違いはない。AIIB協定には、ADB協定を丸写しにしたような箇所さえ数多く見られる。このことは、銀行の健全性という観点からは歓迎されるべきことであろう。もちろん、設立協定は両銀行の大きな枠組みを提供するにすぎず、今後作成されるバイ・ロー、貸付規則(ローン・レギュレーションズ)、調達ガイドライン、借入規則、環境社会配慮に関する政策・ガイドラインなどを見ないと実際の姿が分からないということは言える。二つの協定に違いも見られる。ADB協定には、国連及びその諸機関への言及が数多く見られるのに対して、AIIBはむしろ国際金融機関への言及が多く、国連及びその諸機関にほとんど触れていないことに驚かされる。ADBはもともとアジア極東経済委員会(ECAFE、現在のアジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)の前身)と国連事務総長が主導的役割をはたして設立されたものであり、国連などへの言及が多いのは当然かもしれない。もう一点気が付いた点は、「アジア的性格」が一層強められているということであろう。また、当初言われていたほどではないが、「中国の主導性」が色々なところに現れている。ADBにおいて、日米が果たしてきた役割を、AIIBでは中国が一国で担おうとしているようにさえ思われる。この関連で、気になることは、ADBの場合と異なり、中国が一国で特定人物の総裁選出を阻止できることであり、理事が本部に常駐せず、また、全投票権数の4分の3の多数決で理事会の権限を総裁に移譲することができるとされていることである。
 
 (目的)ADB協定では、アジア極東地域の経済成長と経済協力及び域内開発途上国の経済発展とされていたのに対し、AIIB協定では、域内のインフラ及び他の生産部門への投資による持続可能な開発、富の生産及びインフラ接続性の改善とされている。また、AIIB協定では、もう一つの目的として多国間・二国間開発機関との協力によって地域協力・パートナーシップを促進すること掲げれれている。
 
 (地域の定義)AIIB協定では、地域は国連のアジア及びオセアニアとされているのに対して、ADB協定では、ECAFEの付託条項に規定するアジア及び極東の地域を指すとされている。
 
 (任務)二つの協定の任務に関する規定に大きな差異はないが、AIIB協定では、特に民間投資を奨励し、これを補完するとされていること(第2条(iii))が特徴的である。ADB協定では、任務に関する条項において国連及びその諸機関との協力に言及がなされているのに対して、前述のとおり、AIIB協定では、多国間・二国間開発機関との協力に言及がなされている。これは、AIIB構想が中国財務省の主導によって進められてきたことと関係があるのかもしれない。
 
 (加盟国の地位)ADBがECAFE加盟国・準加盟国及び専門機関加盟国に開放されているのに対して、AIIBはIBRD及びADBの加盟国に開放されるとしている。実際上の大きな違いは、AIIBではロシアが域内署名国であるのに対し、ADBではそもそも加盟国となっていないことである。また、ADBでは中国の加盟に伴い、「中華民国」が「台北、中国」としてADBに残ったのに対して、AIIBでは中国のみが協定に署名した。
 
 (資本)資本の構成、払込通貨等については、二つの協定にそれほど差異はない。大きな違いは、ADB設立時の授権資本への応募は、払込株式と請求払株式の割合が50:50であったのに対して、AIIBでは20:80とされていることである。また、ADBの場合は域内加盟国の保有する資本の割合を応募済資本の総額の60%以上に維持することとしていたのに対して、AIIBでは75%以上としている点である。細かな点になるが、増資について、ADBでは5年以上の間隔で検討することになっているが、AIIBでは5年以内に検討するとされている。応募額の払込みが原則として5回の分割払いとなっている点は同じであるが、ADBの場合には50%を金又は交換可能通貨で、残りを当該国の通貨で払い込むとされているのに対して、AIIBの場合には原則としてドル又は交換可能通貨とし、開発途上加盟国(less developed country、注)には5回払い(50%まで自国通貨での払い込みが認められる。)と10回払い(全額をドル又は交換可能通貨で払い込む。)から選択できるとされている。
 (注)後発開発途上加盟国を意味しているのかもしれない。ADB協定では、developing countryとless developed countryが使い分けられていた。
 
 (通常業務と特別業務)両銀行では、授権資本、借入金、貸付けなどからの回収金、収益などから構成される財源(ADBではOCR、AIIBでは通常財源)と特別基金財源を設け、それぞれの財源を使用して、通常業務と特別業務を行うこととし、二つの業務は分離して行われることになっている。
 
 (通常業務に対する制限)ADB及びAIIBによる貸付けなどの現在高の総額は、毀損されていない応募済資本、準備金及び剰余金の合計額(ADBの場合にはここから特別準備金などを差し引いたもの)を超えてはならないとされている。ただし、AIIBの場合には、総務会のスーパー・マジョリティ(後述)で現在高の総額を応募済資本などの合計額の250%まで引き上げることができることになっている。もう一つの違いは、株式・持分投資(equity investment)関するもので、ADB協定が毀損されていない払込資本並びにOCRに含まれる準備金及び剰余金の合計額(特別準備金を除く。)の10%を超えてはならないとしているのに対して、AIIB協定は単に毀損されていない払込資本及び一般剰余金の額を超えてはならないとしている。これらの制限の差異が有する意味については、筆者は財務の専門家ではないので、よく分からない。また、株式・持分投資については、世銀グループではIFCという別組織が担っているが、ADB及びAIIBの場合には、それぞれOCR及び通常財源を使用して行われるとされており、投資・持分投資の運用が両機関全体の信用格付けに影響を与える可能性があることに注意する必要がある。
 
 (業務の原則)基本的には、同様の内容となっている。AIIB協定では、主として特定のプロジェクト、特定投資プログラム、株式・持分投資及び技術支援に融資するとされている。ここからは、いわゆるプログラム貸付けが排除されているようにも見られる。ADBの場合には、同行からの貸付けなどの資金は、原則として加盟国の物品及び役務の調達のためにのみ使用するとされているが、AIIB協定の場合には調達にいかなる制限も設けないとしている。
 
 (政府保証の要否)両協定とも、借入人などが加盟国ではない場合、加盟国、その公的機関などに対して、保証を求めることができると規定している。逆に言えば、両銀行とも、政府などからの保証を得ないで貸付けなどを行うことが可能である。
 
 (技術援助)AIIB協定では、技術援助の代金の払い戻しが不可能な場合には、AIIBの収益から支出するとされている。ADBが技術協力特別基金(TASF)を使って技術援助を行う場合には、それがプロジェクト準備型、プロジェクト実施型、助言供与型又は地域協力型(セミナーの開催など)のいずれであるかによって、全額贈与であったり、全部又は一部の料金を貸し付けに含めたりすることになっていた。なお、日本特別基金を使って行われる技術援助は全額贈与であった。
 
 (特別基金)ADB協定においては、毀損されていない払込済資本の10%を超えない額を保留して特別基金を設立することができ、特別基金を使って行われる貸付けなどは、OCRからの貸付けなどより、緩やかな条件で実施するとされている。また、ADBは特別基金の管理を受託することもできるとされている。現在ADBの特別基金には、ADF、TASF、日本特別基金、アジア開発銀行研究所、気候変動基金などがある。他方、AIIB協定では、その財源として特別基金を受け入れることができるとされているのみで、具体的な財源には言及されていない。この意味では、ADB協定より弱い規定ぶりとなっている。なお、AIIB協定でも、他の当事者のために信託基金を設立し、管理できるとされている。
 
 (保有通貨価値の維持)ADBの場合には、銀行の保有するドル以外の通貨(銀行が借入れにより入手したものなどを除く。)についてドル換算価格の維持のための一般的な条項があるが、AIIBの場合には、当然のことながら、例外的に交換可能通貨以外の自国通貨で払い込んだ場合にのみこのような条項が適用される。
 
 (組織及び運営)総務会、理事会、総裁、副総裁及びその他の職員から構成される銀行の組織は、両銀行とも基本的に同じ構造となっている。総務会及び理事会の権限、手続きなども似たものとなっている。理事会については、AIIBが域内加盟国から9人、域外加盟国から3人としているのに対して、ADBではそれぞれ7人、3人とされており、ここでもAIIBにおける域内加盟国重視の政策が見られる。理事会に関する重要な違いは、AIIB協定が理事会は定期的に開催されるが、総務会のスーパー・マジョリティによる決定がない限り、理事は本部に駐在しないとし、会議への出席に要する費用を除き、理事及び理事代理には給与は支払われないとしている点である(ADB協定では、総務及び代理は報酬を受けないとのみ書かれている。)。筆者の経験では、理事会とADBのマネッジメントの間には、良い意味での緊張関係があり、このことがADBの業績に貢献していたと考える。仮に、理事が北京に常駐しないとするとこのような関係が生まれないことになる。また、理事会の権限のうちADBにおいて認められていないが、AIIBで認められているものとして、4分の3の投票権数を有する過半数の理事が業務に関する権限(第11条2項)を総裁に移譲することができるという条項(第26条)が挙げられる。総裁は、ADB協定が総務の過半数であって加盟国の総投票権数の過半数で選出されるとしているのに対して、AIIB協定ではスーパー・マジョリティによるとされており、中国の同意が得られない限り、総裁は選出されないことになる。
 
 (表決)ADBでは、各加盟国の投票権数は基本票数と比例票数とから成り、基本票数は、すべての加盟国の基本票数と比例票数との合計票数の20%をすべての加盟国に均等に分配して算出され、比例票数は、その加盟国の持ち株数に等しい数の票数とされている。AIIBの場合には、基本票数と比例票数に加え、各設立加盟国の有する600票の設立加盟国票数が追加され、各加盟国の投票権数は、この3つの合計票数の12%を均等に分配して算出される基本票、比例票数及び設立加盟国票数の合計となる。その結果、29.78%の比例票を有する中国の投票権数は26.06%となる。両銀行とも、重要事項に関する総務会の決定は、総投票権数の4分の3を有し、全総務の3分の2の多数(AIIBではスーパー・マジョリティと称する。)によって行われる。したがって、中国は単独で重要事項の改正を阻止することができることになる。
 
 (その他)①加盟国の脱退及び資格停止、②業務の一時的停止及び終了、③地位、免除、課税免除及び特権、④改正、解釈及び仲裁などに関するAIIB協定の規定は、ADBの規定をほぼなぞったものとなっている。異なる点は、ADBでは協定の寄託者が国連事務総長であったのに対して、AIIBでは中国政府となっていること、発効要件がADB協定では、当初の応募額の総計が授権資本の65%以上に達する15署名国(域内国10か国を含む。)が批准書などを寄託したときとされているのに対し、AIIBでは、当初の応募額の総計が応募額全体の50%以上に達する10署名国による批准書などが寄託されたときとされていることである。ADB協定の正文が英語テキストのみであったのに対して、AIIBでは中国語テキスト及び仏文テキストも正文とされている点にも、「中国主導性」が現れている。
 
ADB側の動き
 
 (2014年の業績)中尾総裁は、2015年5月の第48回ADB年次会合の開会演説おいて、「ADBは、2014年総額140億ドルの貸付け、贈与及び出資を行った。90億ドルの協調融資を含めれば、我々の金融支援はこれまでの記録となる230億ドルに達したことになる」と述べた。
 
 (AIIB署名式の際の中尾総裁の発言)AIIB署名式に当たり、中尾総裁は「ADBは、AIIBの創設加盟国及びその準備事務局に対し、同行の創設に向けた重要な節目の日を迎えられたことに祝意を表します。ADBはアジアにおける長い経験と専門性を活用し、同地域が直面する膨大なインフラ需要に応えるべく、AIIBと緊密に連携し、協調融資を行っていくことにコミットしています。ADBは、今後も必要な情報を共有し、協調融資によってメリットが見込まれる個別プロジェクトを探求していきます」と述べた。
 
 (ADFとOCRの統合)2015年5月ADB総務会は、ADF業務とOCRのバランス・シートの統合を承認した。これに関連して、ADBは次のように発表している。
 
 ・2017年1月以降ADFとOCRのバランス・シートを統合する。
 ・ADFは、現在のADF対象国に対するグラントに特化した形で継続する。
 ・現在ADFの融資を受けている貧困国に対する譲許的融資は、現在と同じ形で継続する。
 ・この統合により、ADBの年間の貸付け及び贈与の総額は最大200億ドル(現在のレヴェルの50%増)にまで拡大し、貧困国への支援は最大70%増大する。協調融資を含めると、ADBの貸付額は2014年の230億ドルから近い将来400億ドルに達するであろう。
 ・今回の統合により、ADBの自国資本・拠出金は、自己資本(現在約183億ドル)に拠出金(現在346億ドル)を加えることにより、現在の3倍に当たる約530億ドルとなる。
 ・統合後継続するADFグラントに必要なADFドナーの拠出は、統合なしの場合に比べ約50%程度減らせることができる。
 
 中尾総裁によれば、この動きは2013年夏から始められており、そうであるとすれば中国のAIIB構想発表(2013年10月)に先立つものである。なお、ADBでは、この統合が業務の分離を定めたADB協定第10条に反しないと解されているように思われる。また、ADBの信用格付けに大きな影響を及ぼすものではないとの判断の下に決定が行われたと推測され(実際、中尾総裁のプレゼンテーション資料によれば、2017年1月の融資資本比率は、OCRのみでは26.9%であるが、統合後は53.6%となる。)、このような動きは、AIIBにとって参考とすべき事例になるかもしれない。
 
結論
 
 (銀行としての健全性とガヴァナスの問題)設立協定を見る限り、AIIBは、IBRD、ADBなどの国際開発銀行と同じような開発銀行を目指しているように思われる。AIIBの通常業務とADBのOCRとの間にそれほど違いはないと予想される。また、通常業務が国際資本市場からの借入れによって資金を確保する以上、返済に問題のあるようなプロジェクトに貸し付けることは避けざるを得ないことになると考えられる。むしろ、注目すべき点は、AIIBの理事会運営のあり方、理事会と総裁との関係、総裁の選出方法などのガヴァナンスの問題であり、AIIBがこの問題にどう取り組んでいくかが注目される。
 
 (下部規則と実際の運用を見る必要性)具体的な運用がどのようになされるかは、バイ・ロー以下の諸規則がどのようなものとなるかを見守っていく必要がある。したがって、このようなバイ・ローなどの作成に当たり、ADBなどの助言が期待される。もう一つ重要な点は、どのような特別基金が設立されるかということであろう。おそらく中国が中心となって様々な特別基金が設立されると予想されるが、いかに魅力のある特別基金を設立するかが低所得国などの支持を得るための鍵となると考えられる。また、AIIBが人員面でどの程度の規模の組織となり、高い能力を有する職員を確保することができるかにも注目していく必要がある。
 
 (ADBとAIIBとJICAの協力)ADBは、AIIBと協調融資を進めていくとしている。協調融資については、単なるパラレル・ファイナンシングにとどまらず、ジョイント・ファイナンシング、さらには政策面での調和も期待したい。従来、日本のODAはインフラ分野に対する割合が大きく、AIIBとは関心分野を同じくしている。JICAとAIIBとは競争関係に立つことが予想されるが、関心分野を共有するということは、協力の可能性も存在するということになる。JICAがADBと築いてきたような協力関係をAIIBとも築いていくことは可能であろう。
 
 (JICAの競争力強化)筆者は、タイ駐在大使の頃、インラック政権の初代財務大臣から、国内において資金の手当ては可能であるとしてタイにとって円借款の必要性は乏しいと言われたことがある。ただし、同大臣も円借款のメリットとして調達手続きにディシプリンが持ち込まれることを挙げていた。円借款については、従来手続きに時間を要するとの批判が寄せられてきた。今後、このような批判に応えていくことがますます必要になる。円借款がJICAに移管されたことに伴うプラスの効果も出てきていると想像されるが、円借款を「つけてあげる」という姿勢ではなく、円借款を「活用してもらう」という姿勢で受入国にとって使いやすいものにしていく努力が引き続き必要である。
 
 (日本企業の支援)以前「論壇」において、大島賢三大使が「マルチ受注競争で日本企業が勝てない主な理由は、価格競争に勝てないためだと言われる」と書いておられた。世銀、ADBなどの案件は、現地調達部分が大きかったり、高い技術を要しない案件が多かったりして、日本企業にとって魅力が乏しいせいかもしれない。日本としては、相手国の真のニーズに合致したものであることを前提とした上で、日本企業がその強みを発揮できる案件を発掘・形成することが求められる。

『戦後70年:国連安保理改革の行く手』
-ビジネスクラスに乗りますか-
2015.7.31

『戦後70年:国連安保理改革の行く手』
-ビジネスクラスに乗りますか-


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大島賢三  
(元国連大使) 


 本年は国際連合とブレトン・ウッズ体制の誕生から70年になる。この機会に、
 前稿ではブレトン・ウッズ体制の変革をめぐる動きと、中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)の問題を取り上げた。今回は国連について、特に安保理保理改革の問題を見てみたい。
 どんな組織であっても長年続くと制度的な疲労がたまってくるものだが、国連組織も例外たり得ない。久しく国連改革の必要が言われ、様々な努力が続けられて一部には成果も上がっているが、重要な改革はなかなか進まない。
 例えば、重要な一分野である平和維持活動(PKO)。今般、国連創設70年にあたり、PKO改革について提言する「独立検討パネル」が、東チモールの大統領を務めたラモス・ホルタ氏を委員長に新たに設立され、本年秋の報告に向けて作業が始まっている。15年前にラクダー・ブラヒミ氏が率いた検討パネルによる「ブラヒミ報告」に続くものだ。ここも課題は山積しているが、まだ実務的に改善を見込めることが多い。
 
安保理改革への動き
 
 だが何といっても国連改革のコアは安全保障理事会である。この“奥の院”が代表性に欠け時代遅れだ、常任理事国の拒否権の存在が機能不全の元凶でなくすべきだ-といった批判は根強い。10年にわたり事務総長を務めたコフィ・アナン氏は、「安保理改革なくして国連改革なし」と常々口にしていた。しかし安保理の改革は、議論は多々あっても遅々として進まないのが現状だ。
 東西冷戦の時代には米ソ両大国による拒否権発動の応酬が続き、機能不全に陥ったのは周知の通り。冷戦後になりこの状況は変わる。嚆矢となったのがブッシュ父・大統領の下での湾岸戦争(1990-91年)、ブッシュ子・大統領の下でのアフガン戦争(2001年)であった。安保理決議が何本も採択され、武力行使に対する正当性の“お墨付き”になった。
 これに対し、イラクの核兵器疑惑に端を発するもう一つの“ブッシュ戦争”(2003年)の場合は、当初、安保理の“お墨付き”を得んと審議に持ち込んだ米国ではあったが、仏が拒否権行使を匂わせるなど十分な国際支持の見通しが立たず、決議を断念して武力行使に踏み切らざるを得なかった。(後になり、核兵器疑惑の事実はなかったことが国連調査団により判明)。
 この当時、筆者は国連事務局の人道調整オフィス(OCHA)に出向中であり、事の成り行きを至近から見守る立場にあったが、ブッシュ政権の安保理での“挫折”は、米国の政府・議会などに常々くすぶっている国連批判に火をつけることになった。「一極支配」のアメリカが、安保理が思い通りに動かなかったからと、機能不全を言い募るのは超大国の身勝手、傲慢ではないかという面も確かにあるが、それは兎も角、当時のアナン事務総長にとっては、膝元のアメリカをはじめ少なからぬ加盟国からの国連批判の高まりは、冷戦後の新たな脅威の高まりと相まって、国連改革への大きな圧力となって重くのしかかったであろうことは想像に難くない。
 
ハイレベル委員会のA、Bモデル
 
 こうした状況の下で、事務総長の諮問機関として「ハイレベル委員会」が立ち上げられ(元タイ首相を議長、有識者16名のメンバー、日本からは緒方貞子前JICA理事長)、国際社会が直面する「新たな脅威」とは何か、脅威への対処のための集団行動、そのための国連の機能と組織の改革について勧告をまとめる役割を与えられた。
 この「ハイレベル委員会」では安保理改革も議論になり、具体案として「常任・非常任理事国双方の拡大」(モデルA)と「長期任期の新理事国の創設」(モデルB)を併記した報告が出された(2004年12月)。この委員会では「モデルB」説が有力であったようだが、アナン事務総長はA、B両案併記を踏襲して自らの報告書を出し、総会での審議に付された(2005年3月)。
 
G4決議案のキャンペーン
 
 こうした流れの中で始まったのが、2004年の秋頃から本格化した日、独、印、伯の4カ国(G4)による常任理事国入りを目ざしたキャンペーンである。この時期に国連代表部に着任した筆者は、早々に代表部の同僚とともに現場でキャンペーンに没入することとなる。それから夏までの数カ月の間、G4決議案の調整、各グループ対策、多数派工作は熱を帯び、各国首都も巻き込んで、また小泉総理、町村外務大臣も時に参加されて、外務省・政府を挙げての近年では稀と言ってよい大々的な外交努力が展開された。残念ながら、G4が用意した決議案は投票まで至らず廃案に終わらざるを得なかったが、この一抹も周知のとおりである。
 このG4決議案の骨子は、次のような内容であった。

  • 議席数は25まで拡大(10の増員)
  • 増員の内訳は常任6議席(アフリカとアジアが各2、ラ米・カリブと西欧その他が各1)、非常任4議席(アフリカ、アジア、ラ米・カリブ、東欧が各1)
  • 新常任6議席についての拒否権なし(ただし、レビューの枠組みの中で見直しの決定があるまでの間)

 不発に終わったとはいえ、この時のG4による強力な働きかけで安保理改革の機運がひときわ盛り上がり、相当数の理解と支持がこの決議案に寄せられたのは事実である。またこの過程で、新しい常任理事国を選ぶとなった場合、「第一に推すのは日本である」という温かい支持表明が、途上国はじめ多くの国から内々にあるいは公に示されたことにも心強いものがあった。
 
行く手の壁-G4の天敵
 
 G4決議案の挫折の理由は幾つかある。一つは「新常任議席には断固反対する」ことを軸に集まったグループである。国連内では“コーヒークラブ”とか“コンセンサスグループ”と呼ばれるこの集団は、数は精々20カ国程度と多くはないが、うるさ型の有力なミドルパワー国が含まれている(韓国、パキスタン、伊、加、メキシコ、アルゼンチン、アルジェリア等)。それぞれの思惑や自負からか、G4が常任議席を得て自分たちのチャンスが将来封じられるのを面白く思わない。常任を狙う限り、G4各国のスポイラーであり、“天敵”のようなものだ。
 安保理改革については1990年代の後半に大きなうねりが到来したことがある。当時、マレーシアのラザリ総会議長が新常任理国の創設を含む具体的な改革案を提案し機運が高まったが、この反対グループが働き掛けを強め、ラザリ案は頓挫した(1997年)。その執拗な反対活動が今回も再現した。
 
アフリカグループの蹉跌
 
 いま一つ、決議案に多数の支持を得る上で鍵となるのは国数の多いアフリカグループ(54カ国)を取りこむことである。この働きかけ作戦もいいところまで漕ぎ着けたものの、最終段階で同グループ内の結束維持が妨害に遭い、空中分解してしまった。
 
常任理事国の消極姿勢
 
 さらに難題は、5常任理事国(Permanent Five、P5)の態度である。いずれも本音は、その既得権が薄められることを(その意味で改革そのものを)望んでいない。だが英、仏はG4への支持を表明した。米国は同盟国日本への支持を明確にしたものの、G4がプッシュするキャンペーンには消極姿勢であった。“毀れていないものを直そうとするな”Don’t try to fix it when it ain’t broken!―は当時のボルトン米国連大使が好んだ表現である。また、中国は日本をターゲットに裏で盛んに反対工作を展開した。
 
憲章改正手続きの壁
 
 言うまでもなく、安保理改革の実現には手続き面で厚い壁がある。日本国憲法の改正手続きもかなり厳しいが(衆参各議院の2/3以上の賛成で発議、国民投票に付され過半数の賛成票で採択)、国連憲章の改正手続きは“悪名高い”厳しさである。すなわち、安保理改革の決議案は、まず総会に諮られ2/3の多数支持により採択された上で、各国の批准手続きに付されることになるが、ここで「常任理事国全ての賛成を含む構成国の2/3多数の批准」を得て初めて成立する(第108条)。現在では128カ国になるこの絶対多数の支持獲得も難題だが、それ以上に、P5の1国にでも拒否権を行使されてしまえば万事休すだ。
 この21世紀の時代に、このような反民主的な、そこいらの独裁者も赤面しかねないほどの赤裸々なパワーが依然まかり通るのは時代錯誤も甚だしい-の一語に尽きるが、これが戦勝国の組織としてスタートした国際連合の今なお変わらない実体である。1945年のサンフランシスコ会議では、この拒否権制度に反対はあったが、国連創設の主役のアメリカ等が押し切った。皆が苦々しく思いながらも手がつけられない、一種の「必要悪」といえようか。
 
Eldersの提案
 
 さて、あの大キャンペーンから10年が経った。あの時の挫折の経験を総括し、これから先に向けて教訓を汲み取るものがあるすれば何であろうか。当時の“政治天気図”に、その後少しでも変化が見られるのであろうか。
 現場を離れた身にはその辺のことは分からない。識者や担当者の意見もいろいろであろう。そこで、ここでは去る2月のミュンヘン安全保障会議の場で発表された安保理改革をめぐるある提言に注目し、ヒントを探ってみたい。
 この提案者は自らを“The Elders”(長老者)と呼ぶ世界の著名人グループである。これは南アのアパルトヘイト廃止に貢献し、その後大統領を務めた故ネルソン・マンデラ氏が2007年に創始し、現在ではコフィ・アナン氏を委員長に、ノーベル平和賞の受賞者を含む10人少々の国際的著名人がメンバーに名を連ねている(元フィンランド大統領アーティサリ氏、元ノールウェー首相ブルントラント女史、カ―タ―元大統領、ブラヒミ氏など)。 “The Elders”は、21世紀の世界が直面する平和、安全、紛争、暴力などの諸問題への対処において国連安保理がより強力に、円滑に役割を果たすべきこと、国際連盟が無力化(irrelevance)に陥り第二次大戦を防げなかった1930年代の経験を繰り返してはならないこと等に留意し、安保理の構成と作業方法を改め、より民主的で今日の世界をよりよく代表する組織へと脱皮する必要があると強調して、次の4提案を発表した。

(イ)新カテゴリーの理事国
安保理に「長期任期、再選可能」の議席を導入する
(ロ)常任理事国(P5)の説明責任、誓約
特に、ジェノサイドや戦争犯罪などで多数の人命が脅威にさらされる事態において、P5は拒否権行使(または行使の脅し)を控える。もし行使する場合には、その行使が自国の国益に基づくものではなく国際の平和と安全に関わるものであることを、公開の場で明確に説明することを誓約する
(ハ)市民社会の声をもっと聞く
(ニ)国連事務総長の任期、選出手続きの改善
事務総長は安保理の勧告に基づき「総会が任命」するが、従来の慣行では、安保理は総会に対し「一人の候補者」に絞って推薦することになっているところ、これを「複数の候補者」を推薦するに改める

 事務総長の任期は「7年、1期のみで再選なし」に改める
 “Elders”のメンバーは、委員長のアナン氏をはじめ、長くかつ深く国連に関与し、あるいは国際的経験・知見が豊富な一級の国際人であり、問題の所在と国連内の現実を熟知した上で、内容の重要性、実現可能性、バランスに目配せを効かせ、4ポイント提案を世に問うたものと思われる。(www.theElders.org/un-fit-purpose)
 
準常任理事国の考え方
 
 ここでは最大関心事である理事国数の拡大に触れた「新カテゴリーの理事国」の問題にフォーカスしてみたい。「長期任期、改選可能」という新しい枠の理事国を設ける考え方は、上記の「ハイレベル委員会」による「モデルB」案として原型がすでにフロートされていた。また、G4決議案の大キャンペーンの過程においても、一部の関心国から「G4の要求の実現は困難ではないか」と冷静に情勢分析した上で、「合意に達するには、準常任の線で妥協を模索してはどうか」とフレンドリ-アドバイスがあったのも事実だ。「中間案」とか「暫定的解決案」などと呼ばれていた。実は、アナン事務総長も当時からその見方に傾いていたようで、退任時の記者会見ではっきり自身の考えを述べた。
 「メンバー国にとっての選択は、10年、20年かかっても完璧な解決を追求するか、準常任理事国の線でいま妥協の道を探求するかである。後者であれば合意形成は可能であろうと確信する」
 しかし、モデルAに沿ったラインで突っ走るG4にはその用意はなかった。
 
ビジネスクラスを受け入れ得るか
 
 拒否権の扱いについては、G4案では“少なくとも当面は”諦めたのも同然なので、出直し上の大きな課題は、モデルBの「準常任理事国」「事実上の常任性」に踏み込むかどうか、出来そうな所から現実的、段階的に取り組むアプローチへの転換を考えるかどうかである。
 航空機の座席にたとえて言えば、安保理の現状は「ファーストクラス」が5席、「エコノミークラス」が10席あるわけだが、ここに新しく「ビジネスクラス」の枠を設けようというのがこの考えである。ビジネスクラスが数席できれば、貢献能力の高い国で多数の国の再選支持を確保できる実力国には、100パーセントの確証はないとしても、“事実上の常任性”への道が大きく開かれることになる。
 この10年間に、G4の「願望」を「現実」に転化する上で国連内の“政治天気図”に好ましい情勢変化が見られるのであれば別だが、そうだろうか。また、我が国の願望を支える切り札である国連分担金をふくむ財政的貢献も、分担金についてはこの10年間に約20%から10%台に半減している有様である。残念ながらこれから先も、「時は我々に味方している」とは言えないであろう。
 そういう客観情勢を考えるとElders提案のように視野を広げ、加盟国多数の現実的関心に応えられるようなパッケージで、柔軟戦略で改革を迫ることとすれば、既述のいろいろな障害はかなりの程度取り払われ、広範な支持につながるチャンスが高まるのではなかろうかと愚考する。必ず成功する保証はないが、トライしてみる価値は十分にありそうである。
 戦後70年、国連組織のアンチテーゼ-旧敵国―ながら、加盟後は“優等生”に生まれ変わった日本。この辺のオチでよしとするか、あくまで当初の常任性にこだわるか-そろそろ判断のしどころではなかろうか。
 最後に、国連憲章の旧敵国条項との関連についてひとこと。これはすでに事実上“死文化”しており(1995年総会決議)、また、この条項の削除を“決意する”との了解が確認されている(国連60周年の2005年サミット文書)。幅広い合意にもとづく安保理改革案を、G4共同の出直しで、あるいはそれが難しいのであれば日本の新しいアプローチで実現できれば、その機会に併せて旧敵国条項の削除についても実現への道が見えてくる。これも視野に置いて行く手を探るのが、少なくとも日本(とドイツ)の長期利益に沿うのではないかと考えるが、いかがであろうか。
 
(了)

『戦後70年:ブレトン・ウッズ体制への挑戦』
-ペキンダックを食べますか-
2015.6.12

『戦後70年:ブレトン・ウッズ体制への挑戦』
-ペキンダックを食べますか-


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大島賢三  
(元国連大使) 


 戦後70年―大きな節目の年だ。終戦前後に生まれた世代にとっては(筆者もその一人だが)生涯をふり返るに感慨深い年である。国政レベルでは、安倍総理の施政方針演説にいう「戦後以来の大改革」、また「積極的平和外交」や「戦後70年の談話」がどうなるのか、国民も、近隣国を含め海外も注目している。
 世界のレベルでは、国際連合とブレトン・ウッズ体制の誕生から70年になる。人間も70歳になると体にいろいろとガタがくるが、この二つの代表的な戦後国際レジームが70年を経て、近年どういう変革の波にさらされているのか、概観を試みてみたい。本稿ではまずブレトン・ウッズ体制の方を、そして次の機会に国連組織の中核である安全保障理事会の改革問題を取り上げてみたい。
 米英の主導の下、連合国44ヶ国が参加して開催されたブレトン・ウッズ会議(1944年)で、戦後の経済復興・開発のための体制と、ドルを基軸通貨とする固定相場制の国際金融体制が作り上げられ、これを支える組織として国際復興開発銀行(IBRD)と国際通貨基金(IMF)ができたことは周知のとおりである。前者は世界銀行グループに発展しているが、両機関ともワシントンに本拠を置き、代々の総裁はそれぞれ米国と欧州が独占し、欧米主導が貫かれてきた。いわゆるニクソン・ショック(1971年)で固定相場制は終焉したが、ブレトン・ウッズ体制の大枠は今日まで続いている。
 しかし、この体制も近年、新興国・途上国の発言権増大の圧力にさらされ、改革が迫られている。そこで今回はこれらの動きをふり返った上で、最近話題の中国主導「アジアインフラ投資銀行(AIIB)」設立の問題を見てみたい。

新興国・途上国の投票権拡大

 さて、次稿で見るように、国連は基本的に政治組織で、一国一票(総会)と拒否権(安保理)の制度で成り立ち、極めてハードルの高い憲章改正規定でガッチリ固められているため、大きな改革(なかんずく安保理改革)の実現は至難である。他方で、所詮はカネの力がモノをいう世界である世銀・IMFは、投票権の配分、理事会の構成といった組織ガバナンスには、加盟国の経済力や貢献度の適正な反映が求められる。すなわち、新興国・途上国に経済力、出資力がついてくれば、いずれ彼らの「声」すなわち発言権の増大要求(Voice reform)は必然で、無視しえなくなる。
 アジア通貨危機(1997-98年)でIMF批判が高まり、また、世銀貸付に付される“コンディショナリティ”に対し途上国側に不満が多いことは周知の通り。しかし、強い批判や不満が発言権(投票権シェア)の拡大要求に昇華していくには、新興国・途上国の世界経済におけるウェートの拡大を待つ他ない。2000年頃までは目立った動きにはならなかったが、21世紀に入り新興国の経済力の向上が目覚ましくなり、状況が変わる。
 転機は2002年の国連開発資金サミット(モントレー)であった。ここでIMFと世銀に対し、「その意思決定において途上国の意見をより一層反映する」ことが要請され、議論が本格化した。プッシュした主要プレーヤーが中国、インド、ブラジル等で、ロシア、サウディアラビアも続いた。
 投票権の増減をめぐる綱引きは、途上国の投票権増は先進国の投票権減というゼロサム・ゲームであるので交渉は容易ではないが、まずIMFで2006年以降、投票権の変更が実現した(途上国シェアは、39.4%から40.5%、08年に42.1%、10年に44.8%へと漸増)。少し遅れて、膠着状態にあった世銀の投票権改革も動き出し、08年にアフリカの理事数を2名から3名に増員し、途上国シェアは42.6%から44.06%へ、10年に47.19%へと拡大する合意が成立した。この2010年の世銀・IMF改革案が最新のものである。

米国のもう一つの拒否権

 ところが、これに米国のストップがかかる。IMF改革案には理事選出方式と出資比率の変更が含まれているが、その正式発効のために必要な米国(議会)の承認が得られない。ブレトン・ウッズ体制には、重要な決定は「総投票権数の85%以上の賛成による」とするルールが仕組まれており、米国のIMF投票権シェアは現行16.7%なので、米国一国だけで重要決定をストップできる。改革案が通れば16.5%へと微減するが、「拒否権」の存続が脅かされるわけではない。それでも米国議会はそっぽを向いた。
 議会内では、とくに共和党の保守強硬派(Tea Party)の反対が効いているとか。米国のシェアが下がる一方で中国やロシアなどの投票権シェアが上がることを面白く思わないことなどが主な理由らしい。
 要するに、国連安保理であれ、ブレトン・ウッズ体制であれ、「拒否権」という特権を固守したい米国。安保理では特権をしっかり守りつつ、国際金融面では現状変革を図りたい中国-こういう覇権構図が浮かび上がる。日本の立ち位置はといえば、中国とは逆になるのであろう(安保理は現状変革、国際金融面では現状維持)。
 この構図を念頭に置いた上で、以下ではAIIBにつき、まず中国の狙いを探り、日本のとるべき態度について観察してみたい。

中国の戦略的狙い

 日本を抜き世界第二の経済大国へと台頭著しい中国は、一方で都合よく途上国リーダーとしての看板を掲げながら、他方でその金満ぶりを遺憾なく発揮し、グローバルな影響力の拡大に乗り出している。アジア、アフリカ、中南米、大洋州の各地域におけるバイラテラルの投資・援助の急増に加え、矛先はマルチ対策にも向けられている。   
 「AIIB」、「BRICS銀行」、「シルクロード基金」と、相ついで打ち出されるマルチ型の対外経済戦略は、「中国版マーシャルプラン」だとか「米国へのあからさまな挑戦」といった論評も目につく。これが欧米主導の既存国際レジームに対する“挑戦”で、中国共産党政権による(軍事力増大も含めた)高度な対外戦略の一環であろうことは疑いえない。
 中国の狙いについては幾つかのポイントが指摘されている。
 第一は、年間90兆円規模とも見積もられるアジアの膨大なインフラ資金ニーズには、二国間ODA、世銀やアジア開発銀行(ADB)だけでは応じきれない。そこで、中国マネーパワーの登場である。ここでリーダーシップを発揮して影響力を強め、同時に、国内の過剰生産、過剰労働、過剰在庫のハケ口にもなれば一石二鳥になる。
 第二に、AIIBが多数の国の参加形式になれば、マルチ機関としての正統性も、中国の権威も高まる。既存の国際金融レジームに不満を抱く多数の新興国・途上国を味方に引きつけることもできる。あわよくばアジアにおけるADBの(従って、日米の)影響力を相対的に低下させることも望みうる。
 第三に、AIIBの成功と、「BRICS銀行」、陸上と海上の「アジアシルクロード経済ベルト」など、他の中国主導のツールとの合わせ技で巨大な中華経済圏をめざす(人民元の国際通貨、SDR通貨の仲間入りなどを含めて)-という長期戦略が視野にあるとしても不思議はない。
 目前の関心は、AIIBの出資比率、議決権、管理運営、人事、透明性の担保といった点であるが、将来は1000億ドル規模の投資銀行出資金の内、中国が圧倒的な出資比率と議決権をもつとなれば影響力は巨大になる。ちなみにADBにおける議決権は、日本12.8%、米国12.7%、中国5.4%であり、日米を足しても25%だ。果たしてAIIBは、世銀やADBとは異質の、“特異なマルチ金融システム”として誕生するのであろうか。

アジアDACとペキンDUCK

 周知のように、既存の国際金融・開発制度は、世銀・IMFやOECD/DAC(Development Assistance Committee)に代表され、米・欧・日が主導する。アジアには、世銀と同列の国際スタンダードに沿ったADBがある。そのADBを仮に“Asian DAC”と呼ぶとした場合、この“特異なマルチ金融システム”は何と呼んだらよいのであろうか。
 日本(と米国)が大株主のADBは、代々の総裁ポストと最大出資国は日本、しかし本部はマニラという分散配慮がある。他方、AIIBでは、中国の出資比率が過半数、本部は北京、総裁は中国人ということになれば、中国色は濃厚だ。
 問題はこれから先、中国色をトーンダウンし、開放性・透明性を確保し、多かれ少なかれ国際スタンダードに沿った制度を組み立て、ADBのパラレル版のようなもの-いわば“第2 Asian DAC”とでも呼びうる組織になっていくのか。それとも、中国は“ブレトン・ウッズ弱体化”と“中国標準の導入”をあくまで目ざし、その結果、ダックはダックでも“Peking Duck”と呼んだ方がよい存在になるのか。
 中国の招きに応じ、また、米国の反対説得を振り切って、それぞれの思惑や打算からAIIBへの参加を決めた、欧州勢を含む60近い参加国は、果たして“第2 Asian DAC”の設立に寄与できるのか、それとも“北京ダック”の饗応にあずかるだけなのか-見ものである。

日本の対応:受注メリット

 さて、中国が投げかけてきた“変化球”に日本はどう対応すべきか。日本の経済利益(受注メリット)、中国との向き合い方、対米配慮、アジア経済発展へ貢献といったいろいろな視点が絡んでくる。
 アジアインフラ市場において日本企業の受注競争が不利にならないよう、参加すべきだとの意見がある。だが参加すればその通りになるのか、やや疑わしい。マルチ受注競争で日本企業が勝てない主な理由は、価格競争に勝てないためだと言われる。最新のデータによると、ADBでは日本は出資比率トップだが(15.67%)、案件受注は約2億ドル、全体の2.3%、順位は11位にとどまる。これに対し、中国の出資比率は3位(6.47%)ながら、受注額だけは24億ドルで第1位、実に日本の12倍である。年により変動はあるが、大筋に変わりはないようだ。ADBにしてこの実態であればAIIBにおいてをや、である。受注利益説だけでは説得力に欠けるし、視野が狭い。

中国との向きあい方-協働・協力、大人の知恵

 より本質的な問題は、台頭著しい中国との向きあい方だ。尖閣問題、歴史認識など摩擦が絶えない日中関係だが、隣国同士、アジアのリーダー国として相互の関係は多面的で複雑である。
 今後、中国の経済成長は下降に向かうであろう、外貨準備は減少している、未だ国際開発金融組織をリードできる人材や実力に欠ける-だからAIIB参加は慎重にとか、中国の野望や戦略に加担するようなことは控えるべしといった意見がある。他方で、中国の台頭、対外伸長は好むと否とにかかわらず厳然たる現実であり、これを見据えた上で、日本の長期的利益を踏まえた“大人の対応”を熟考すべしと説く意見もある。どう処するか。
 一つの道として、インフラ開発協力の分野で日中間の協働・協力のチャネルを築き、両国間の「戦略的互恵関係」に肉付けをしていくことができれば素晴らしい、日本のAIIB参加をその試金石とすべし-そんな考えも当然あり得る。日中間で協働・協力が容易に進み、それが両国関係の大きな改善に結びつくであろうと期待するのは単純・楽観的にすぎるかもしれないが、食わず嫌いであってはならないことも確かである。
 結局のところ、「日中双方が対立を乗りこえて協力関係を築くための大人の知恵を出せるか。世界が見ていることを忘れてはならない」(福田康夫元総理)ということになるのであろう。優れて政治判断に帰することになる。

対米配慮

 米国はAIIB構想に反対し、日本はじめアジアや欧州の主要国に不参加を働きかけたと伝えられる。IMF改革に反対する米議会が、AIIBへの米国参加を容易に認めるとも考えられない。中国との覇権争い上、分からないではないが、今回は目算が外れ、「特別関係」の英国の脱落を端緒に、「想定外」のナダレ現象が起きてしまった。
 従来、アメリカが経済金融問題でアジア内部からイニシアティブが出るのを嫌って反対や牽制を仕掛ける、日本が同調して動くパターンは珍しくなかった。マハティール・マレーシア首相が「東アジア経済会議、EAEC」構想を提唱したとき(1994年)や、東アジアの通貨危機を契機にアジア統合の動きが頭をもたげる中で「アジア通貨基金、AMF」構想を日本がリードしようとしたとき(1990年代後半)など、いくつかの事例が想起される。
 しかし、21世紀に入り、アジア地域では大きなパラダイムシフトが起きている。米国も、アジア回帰をめぐり対中関係を含めて是々非々のアプローチ(リバランシング)を始めている。日本としては、日米関係の重要性を踏まえつつも、アジアの一国であること、対アジア経済開発協力分野では日本の立ち位置は同じではないこと、アジアの経済発展に寄与することは日本外交の重要な柱であること等を踏まえ、取るべき態度を再吟味することが必要になっているのであろう。

AIIBへの対応

 中国の提案に対する世界の食らいつきぶりは、我が政府当局にも予想外であったようだが、「バスに乗り遅れるな」式の性急な対応を政府はとっておらず、これはこの際適切である。米国との意思疎通、新銀行の設立協定や管理運営方針等の成り行きをしっかり見極めることがまず重要だ。
 しかし、世界の60カ国近くが参加を決めた事実には重いものがある。「外から働きかける」のには限界もあろう。いずれ日本は決断を迫られようが、その決定とタイミングは、アジアの経済大国としての日本の参加が、AIIBの“ペキンダック化”を抑える上で効果的であるか、また、ADBとAIIBの両方に軸足を確保しておくことが、日本の受注メリットを含む総体的利益の見地から有利かどうかの見極めに帰するのであろう。
 参加の場合、オプションとしては、お付き合い程度に抑えた“マイナー参加”と、第二位の出資比率をも厭わない“メジャー参加”が考えられる。日本の参加の有無は、中国にとっては、他の国のそれとは自ずと重みが違うはずである。だとすれば、まずは“マイナー参加”で臨んで席を確保しておき、その後種々の状況を見計らい適当と判断されれば“メジャー参加”にシフトする柔軟性、段階的アプローチがあって良いであろう。

最後に

 長年にわたり、日本は、アジア諸国に対する経済インフラ支援ではODAおよび非ODAの手段を動員して大きな実績を重ね、誇りと自信を持つべき貴重な外交資産を築いてきた。最近設立された半官半民の新会社「海外交通・都市開発事業支援機構」(通称“国交省ファンド”)がインフラ支援の新手段として加わったことにも期待がかかる。
 他方で、近年アジアのインフラ市場では、すでに中国、韓国、インドなどとの競争が激しくなってきている事実もある。そこに、アジアの膨大なインフラ市場に惹かれて欧州諸国等がAIIBに加盟することで、「欧州企業のクオリティ+中国国営企業の安価」、「欧州のコンサルタントの参入」といった新型競争が加わり、より厳しい状況に直面する可能性も予測しておかねばならない。
 だとすれば、日本としては、過去の実績に安住することなく、また「量」の確保だけでなく、JICAやJBICを含めオール・ジャパン体制を強化して、上記のような新型競争に負けないために、案件決定のスピード化などを含め「競争力」と「質」の向上に努めることが益々必要になってくる。さらに、第三国市場での日中企業協力の拡大、「日本企業のブランド力+中国企業のコスト競争力」の連携といった新アプローチも臆せずに探求されるべき時代になってきているのではなかろうか。
 戦後70年、米国主導でできた国際レジームが“中華”の台頭で揺さぶられている。この変革期に当たって、現政権が打ち出す「積極的平和外交」が、どんな総合戦略を打ち立てていくのか、注目しておきたい。

『1865年4月、もう一つの「敗戦」』 2015.4.20

『1865年4月、もう一つの「敗戦」』 


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大島正太郎  
(霞関会理事長) 


 今から150年前の1865年4月9日、南軍のロバート・E・リー将軍は北軍総司令官ユリシーズ・S・グラント将軍にヴァージニア州アポマトックスにおいて降伏し〝南北戦争〟が終結した。
 四年間にわたるこの戦争は「アメリカ合衆国(the United States of America)」を正統に代表しているとする立場の北部諸州から見れば一部国内勢力の「叛乱」であった。これに対し、南部諸州からすれば、「アメリカ合衆国」と言う連邦国家から分離独立して樹立した国家連合としての「アメリカ諸国連合(the Confederate States of America)」の独立戦争であったが、結果は南部の敗北に終わった。
 敗戦後の南部諸州の辿った軌跡は、その郷土の人々から見れば、国家間の戦争に敗れた「敗戦国」の「国民」がその敗戦をどう受け止めたか、と言う問題であった。屈辱的な全面降伏により、「戦勝国」たる「連邦」軍隊による「国」土の占領、「改憲」の強行による「体制変革」の試みを経験した南部諸州の人々が、今日までの150年の間に、どのようにこの「歴史」と立ち向かってきたか、そしてそれが米国全体の歴史をどう規定してきたかを見ることは、今日の米国を歴史的文脈の全体像の中で理解する上で大事であると考える。
 
 南部諸州の敗戦から66年後に同じ相手(「アメリカ合衆国」)を「敵」として戦い、同じく四年後の1945年に降伏した日本の戦後70年の歳月を振り返り、将来を見据えるに当たって、米国の南部の「国民」がその後今日までの間に辿った歴史には、時には反面教師として、学ぶべきものであると思う。以下はその歴史を大枠で把握しようとする試みである。
 
「敗戦」とは敗北を受け入れ降伏すること
 
 『1865年4月~アメリカを救った一か月(April 1865: The Month That Saved America --Jay Winik, 2001)』と言う南北戦争の歴史書の存在をアメリカの親友から教わったのは、偶々、自分が角田房子著『一死、大罪を謝す』を読んでいる最中であった。早速入手しこの本の論旨に接し、タイミングのみならず、二つの本の内容における偶然の一致に驚かされた。
 
 いずれも、それぞれの戦争の幕引きに軍の最高責任者が戦(いくさ)の敗北を受け入れる際に、毅然とした負け方をすることによって、戦後の民族の再起の可能性を残すことに貢献したとの一点に絞り込んだものである。リー将軍と阿南陸軍大臣がそれぞれ、何を考えどういう決断をしたかはここで取り上げるものではないが、戦争に於いては、開戦の決断もさることながら、敗北の認め方、自国が敗戦を受け入れられるように国内を纏める方途が、和平後の帰趨を左右することから、開戦時と同じ程度あるいはそれ以上に困難な決断であることを改めて認識させられた。
 
 此処で言う決断とは、日本については「ポツダム宣言」を拒否し本土決戦で最後の一人まで戦い続けようとする立場が聖断で拒否されたことで最終的には「宣言」受諾の閣議決定に署名した決断である。また、南軍については、投降することなく軍隊を事実上解散し、各地でゲリラとなって北軍を泥沼に引き込み、北側から和平を求めてくるのを待つべしとの提言を受け入れずグラント将軍に降伏すると言う決断である。それぞれ最終的には、降伏を受け入れることで国民の将来を確保しようとしたものであった。
 
占領と占領下の改憲
 
 日本の占領は、9月2日の降伏文書署名で敗戦が法的に確定したときから始まり、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効して終わった。これに対し、南部諸州に対する『連邦軍』の占領と占領行政は「1877年の妥協」と言われる前年の大統領選挙結果の混乱収拾の一環として最後まで駐屯していた2州からの撤退をもって最終的に幕引きが行われた。結局最長で見て十二年も続いたことになる。
 
 この間の期間を米国史上では「(南部)再建reconstruction」の時代と言われる。「再建」と言う表現に一般的には肯定的な意味合いがあるが、戦勝国から見れば肯定的な事態の推移であるからである。他方、その対象とされた当時の南部諸州の人々にとって見ればこの時期は敗戦と一体となった受け入れがたい歴史上の一齣である。彼らから見れば言わば「南部の根性をたたきなおす」と言わんばかりの「上から目線」の響きがあり、忌々しさが伴って理解されている感がある。占領も終わり、「再建」と言う時代も終わると、南部は戦前の時代への逆戻りを志向することになる。
 
 それは、南部諸州の戦争理由が、北部諸州の一部の政治勢力が進めた奴隷制度廃止に反対すると言う単純なものではなく、各「州state」には連邦に参加する裁量があったと同様に連邦から離脱する自由が権利としてあると言うことを基本とする、「ステーツ・ライツState’s Rights」を根源的権利とみなす理念にあったこととも関連する。(上記『1865年4月』では、戦争の末期、「(南部)国家連合(Confederacy)」でも奴隷解放法が成立したことを詳述し奴隷制度維持が必ずしも南部の戦争目的ではなかったことの傍証としている。)
 
 南部にとって枢要な「ステーツ・ライツ」の概念を「州権」と訳した途端に「ステート」と言う主権国家を表す用語を埋没させてしまい、南部連合の戦争目的が奴隷制度堅持ということに矮小化されてしまうので本来の政治的意義を奪う誤訳であると言えよう。もちろんこの理念の本質は、奴隷制度と表裏一体をなす経済社会のあり方に関わる国家理念であるので,短絡的に言えば奴隷制度維持のために戦ったと言わざるを得ない。さりながら、南部の人達が奉じた戦争目的(the Cause)を彼らの意識、認識において正しく理解しないと、その後の南部諸州の人々の生き様が理解しにくくなる。
 
 南部では、この戦争のことを「内戦」と規定した北部と異なり、自らの歴史認識を反映し「複数の国家間の戦争(the War between the States)」との定義にこだわり続けた理由もここにある。北部から見れば「叛乱の鎮圧」であった武力行使は、南部から見れば自らの独立を侵す侵略であったことを忘れまいとする気概がこもっている。(この関連で、映画にもなり日本でも良く知られている米国のマーガレット・ミッチェルの小説『風と共に去りぬ』も描いている様に、北軍は南部において焦土作戦を敢行した結果、長い間南部の記憶から消すことのできない怨嗟の念を人々に植え付けたと言える。)
 
 南北戦戦争後、「連邦」(当時は「ユニオン(Union)」と言うことが多かった)、つまり合衆国中央政府、は「叛乱rebellion」を起こした南部諸州(ここは「州」と訳するべきであろう)の主権的権限を事実上停止し、これら敗戦「州」を自らの軍政下におき、奴隷解放、黒人差別撤廃を中核とする「国家」改造に相当する政治・社会の「体制変革」を押し付けた。そして、連邦憲法修正第14条と第15条を南部諸州が批准するよう強行し、連邦憲法の下で、黒人も法の下で平等に扱い市民権を与え(修正14条)市民権を持った黒人が代表制民主主義の基本である投票権を確保できるようにした(修正15条)。
 その際、占領下の軍政で、叛乱に加担した南部諸州の上層部は「公職追放」とも言える手段で投票権を停止され、あらたに投票権を与えられた黒人と北部に忠誠を誓う白人のみを有権者として州議会を選出、その占領下の州議会が連邦憲法の規定に従い、憲法修正条項の批准に必要な各州の承諾を採択した。
 
 従って憲法修正第14条、15条は南部諸州から見れば、占領・軍政下の「改憲」であった。しかし、軍政下では、秘密結社KKKによる黒人迫害等非合法の抵抗はあったものの、公の抵抗は敗戦者のなしうることではなかった。
 なお、戦後処理政策として、リンカーン大統領は寛大な、融和的な方針を以て南部の連邦への再統合を図ろうとしていたと言われる。彼の1864年3月の二期目の大統領就任演説で、戦勝を確信しつつ、戦後の方針として、「何人にも悪意を抱かず、すべての人に善意で接しよう。」云々と語ったことは有名である。それが、1865年4月14日に起こった大統領暗殺事件(狙撃が14日夜、死亡確認は15日朝)により、以後の北部の政治指導が、連邦議会の共和党急進派に握られ、南部にとり一層厳しいものとなった結果が上記のような「体制変革」の強行に繋がったと言われている。
 
占領の終結と憲法修正条項のその後の行方
 
 1877年に南部に基盤を持つ民主党(注、当時の南部の民主党保守派は、1970年代に転向し今日では共和党支持者である)が北部に基盤を持つ共和党との大統領選挙結果を巡る政治的取引の結果、『連邦軍』の占領が終了し、南部は、北部の軍政下から最終的に解放された。
 
 軍政から「解放」された南部諸州は、その後体制変化の試みをはねのけ、憲法修正条項の骨抜き化を進めた。そして、奴隷から解放され自由人なった黒人を差別し、二級市民としての地位に押しとどめる後戻りが進められ、修正第14条、第15条は骨抜きにされてゆく。所謂「ジム・クロウ “Jim Crow”」と呼称される、法令上にも直接間接に規定されもした制度としての黒人差別である。
 
 その結果、「再建期」には南部からも黒人の連邦上院議員、下院議員が選出されたにもかかわらず、軍政終了後は実際上白人優位社会が復活し、多くの黒人は文盲等様々な理由で投票権を失い、以後長い間黒人議員をワシントンに送り出すことはなかった。(因みに、オバマ現大統領が2005年にイリノイ州選出の連邦上院議員として登院した際、100人中唯一のアフリカ系議員、かつ、「再建期」後から数えて(つまり120年余りの間に)三人目のアフリカ系上院議員であった。)
 
 南部でのアフリカ系市民を差別し、投票権も事実上はく奪する「ジム・クロウ」の仕組みは、1896年に連邦最高裁が、公共施設における黒人を隔離し差別する制度を合憲としたプレッシー対ファーガソン事件の判決で、「隔離すれども平等(separate but equal)」の原則が確立する。この原則は1954年の「ブラウン対トペカ教育委員会事件」の最高裁判決で「(黒人児童のための)別途の教育施設は、そもそも平等とは言えない」との理由で覆されるまで、長年にわたり南部諸州における公共施設における「隔離すれども平等」を容認することとなった。
 
差別撤廃を百年遅延させた「隔離すれども平等」原則
 
 十九世紀最後の二十年間、南部が北部主導の差別撤廃を覆し、古き良き時代の「南部精神」に拘り続けている間に、米国の北部・中西部・西部地域は目覚ましい経済発展が実現した。その間、南部は自らの自己満足の中でまどろむような時代を過ごして行った。
 その間、「隔離すれども平等」原則により南部で人種差別が公然と行われたことは、北部等での「建前」としての平等の維持を可能とした側面があり、一種の地域間の隔離と差別にも繋がっていたと言える。他方、「本音」の世界では、南部以外でも白人優位思想が広く受け入れられており、アフリカ系を中心に有色人種に対する潜在的差別が現実として行われていた。その様な北部等における建前と本音の二重基準は、南部における公然とした差別に裏から支えられていたと言える。
 
 二十世紀の初頭、西部諸州における日本人移民排斥運動が激しくなり、日米間で大きな外交問題となったことは良く知られている。その発端は、1906年にサンフランシスコ市教育委員会による日本人学童隔離事件に見出される。この日米間の深刻な対立は1924年の移民法で事実上日本人移民の受け入れ拒否が法律上規定されると言う最悪の結果により、一つの時代が画された。
 戦前の日米関係悪化の一端となったこの事件を、米国全体を視野に入れて見てみると、サンフランシスコ教育委員会が、日本人の学童を白人学童から「隔離」し、別の施設に通学させようとしたものであり、「隔離すれども平等」原則に背馳していないことが分かる。つまり、当時の米国社会では、1896年の最高裁判決で示された原則に照らせば、憲法上合憲となる措置であった。
 対日関係への深刻な影響を懸念した当時の連邦政府は積極的に関与しようとするが、教育は州権に属することによる制約に加え、「隔離すれども平等」原則が隠然と効力を有していたので、ワシントンからの働きかけは容易に奏功しなかった。当面は日本側が移民を自主的に規制したこともあり、サンフランシスコ市の当初の動きが撤回され収束するが、日本人排斥運動はその後も続くのみならず、波状的に深刻化した。日本側は、人種の平等を法制上明示的にすること、少なくとも不平等を法律的に規定されることを回避すること、に努力を傾注するが、徒労に終わり、1924年移民法でアジア人の移民が法的に排斥され差別されることを阻止することは出来なかった。問題の核心が西部諸州のアジア人差別に留まらない、米国全土に関わる、人種差別を巡る二重基準に係るものであったからである。
 
 この様な歴史の流れの中に、1954年にカンサス州トペカ市「教育委員会」の差別的措置が最高裁で違憲とされ「隔離すれど平等」原則が否定されたことを位置づけると、世紀の変わり目から1920年代にかけて西部諸州で導入された日本人差別措置は、これ以後は連邦憲法によって正当化されることはありえないと言うことを意味している。そしてこの判決はその後、日本人を含むアジア人に対する「法の下の平等」が確保されていくきっかけであり、実際に1965年の新移民法によって1924年法に規定されていた日本人を含むアジア人に対する差別も撤廃された。
 
 第二次大戦までの歴史はさておき、その後の米国社会全体を概観すると、まず第二次大戦戦時下において戦争遂行上の必要による人種差別撤廃(例えば軍隊における人種統合)などの動きがみられるようになって来る。その後、戦後1950年代の後半にもなると、前述の最高裁判決にも勇気づけられ、人種差別撤廃に正面から取り組む政治的社会的運動が盛り上がりはじめた。そして、マーチン・ルーサー・キング牧師の活動等アフリカ系市民の運動が、白人進歩主義者に支えられ、「公民権運動」として徐々に政治的な勢いを持つようになり、やがて1964年の公民権法、1965年の投票権法の成立という成果を上げることに成功した。
 
 つまり、南北戦争終結からちょうど100年を経て初めて、憲法修正第14条、第15条それぞれが改めて法律として定められ、憲政史上の大きな転換点を画することになった。60万人の犠牲者を出したと言われる南北戦争を以てしても、実現しえなかった人種差別撤廃が100年の歳月を経てようやく現実化の第一歩を踏み出し、まさに、米国史上の地殻変動が起こったわけである。
 勿論、憲法修正条項の理念が連邦議会によって改めて実定法として効力を与えられただけでは政治社会が変わるわけではないが、この分岐点を境に、米国政治社会が白人優位社会から多民族多文化社会を志向することになった。前述の1965年の新移民法も人種・民族による移民排斥、数量制限を廃止することで時代の精神に対応していることも併せ理解することが重要である。それから40年余りを経て2008年の大統領選挙で史上初めてアフリカ系が大統領に選出されるまでに至り、そのオバマ大統領の下で南北戦終結とリンカーン大統領暗殺の150周年を迎えたことは、米国が既に一種の「歴史の終わり」を経験していることを示すものと言えよう。
 
戦争理由(the Cause)へのこだわり
 
 アメリカの南部において、さらに、建前はともかく本音においては全国的にも、実態上甘受されていた人種差別が、何故徐々に崩れて来ているのかの歴史を辿ることはこの論の範囲を超える。しかし、何故南部においては100年も人種の平等と言う建前の体制に正面から挑戦する事態が続けられたか、また米国の他の地域の発展から取り残されたかについては、彼らが、「戦争理由(the Cause)」を「抱きしめて」生きていたことにその鍵があると理解している。従って、この150年間の米国社会の歴史的変遷を理解するためには、敗戦後の南部の人々の心中を察しようとすることが必要であると思われる。
 
 南部の輩出した小説家ウィリアム・フォークナーの小説に『征服されざる人々(The Unvanquished)』と言うのがある。その昔米国で公民権運動が盛り上がっていた当時読んだのであるが、細部はともかく読後感と小説題名の持つ意義は、今でも心に残っている。「アンヴァンックウィッシュドthe Unvanquished」とは、平たく言えば、「敗けてはいません」と言う心の叫びを表現していると言える。敗戦を事実としてはともかく、心の中での受け入れを拒否して、南部魂を維持した人たちの話である。その様な南部の人たちの孤高の姿に一種の誇りに近いノスタルジアを持ちつつ同時に慈しみをもって書かれていた。
 
 米国南部の人たちが150年前の「叛乱」の失敗・「敗戦」と言う歴史をどのように受け止めて来たか、誇り高く「戦争理由」を堅持した人々がその後どの様な未来を持ったか、南部を巻き込む地殻変動が始まるまでに100年も待たざるを得なかったのは何故か、その時点からさらに50年を経た今なお現実として米国社会に存在する黒人差別・有色人差別を初のアフリカ系大統領はどう見ているのか、等今日の米国社会を理解するための課題は枚挙にいとまがない。
 そして、同じ「敵」と戦い、同様に敗戦、占領、憲法の改訂、を辿った我々日本人として、米国南部の敗戦後の歴史から学ぶべきものがあるのではないかと考える。
 2015年4月、リー将軍降伏・リンカーン大統領暗殺から150年目の今月はその様な事を考える良い切掛けであると思う。
 (4月14日記。~150年前にリンカーンが狙撃された日~)

『地球環境保全の重要性』 2015.1.23

『地球環境保全の重要性』 


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               明治大学特任教授 堀江正彦
               IUCN (国際自然保護連合)理事
               元駐マレーシア大使



絶滅が危惧されるウナギくん
 昨年6月12日、世界の科学者を擁して自然保護に努力する国際自然保護連合(IUCN)が、ニホンウナギをレッドリストに掲載した。レッドリストとは、ご存知のとおり、世界で絶滅またはその恐れのある野生動植物を載せたリストであり、世界で最も権威のある絶滅危惧種の評価資料とされている。
 我々日本人がこよなく愛するウナギが絶滅危惧種として指定されることは、夏バテを乗り越える土用の蒲焼に言及するまでもなく、我々日本人の食卓を直撃する強烈なパンチであり、IUCNの名前もニホンの津々浦々にまで結構知れ渡ったのではなかろうか?
 ウナギが、この半世紀にわたって、親ウナギのみならず稚魚も大きく激減しているのは、IUCNが悪いのではなく、ウナギの生態が把握しにくいこともあって、卵からの完全養殖に成功していないにも拘らず、日本人をはじめとするグルメにウナギがコヨナク愛され続けているからに他ならない。
 我が国の環境省は、一昨年すでにニホンウナギを日本のレッドリストで絶滅危惧種に掲載している。IUCNは世界に対して科学的にこれを裏付けるとともに、絶滅しないよう手を施すべきことを警告しているに過ぎない。この警告を真剣に受け止め、持続可能なかたちでの種の保全を確保することこそが、将来にわたって土用の丑の日を楽しむために必要になる。
 更に言えば、このレッドリストには、既にミナミマグロやクロマグロ、そしてトキやパンダも入っているわけで、ウナギに限らず多くの野生動植物を保護していかなければならない。そうした努力は、IUCNをはじめとして世界で行われている。

IUCNとは一体何か?
 IUCNの話から入ったのは、実は、一昨年4月にこの国際自然保護連合の理事に選出されたからである。対抗馬は、その道10年以上も自然保全に携わってきた韓国人候補1名と、同じく経験の長い中国人候補2名の計4名の戦いであったので、一時はどうなることかと心配はしたが、結果的には多数の理事の支持を得て無事当選した。
 過去には、千葉県知事や参議院議員を歴任された堂本暁子氏、駐タイ大使であった赤尾信敏氏、駐オランダ大使であった小池寛治氏、そしてジュネーブ代表部大使であった北島信一氏が、このIUCN理事として歴代活躍されてきている。
 ところがである。「IUCNの理事に当選しました」と話しても、自然環境保護の関係者を除いて、IUCNが何なのか知っている人は少ない。極めて少ない。ご近所で知っている人などは誰もいないのが現実である。
 IUCNは、「野生生物の国際取引を規制するワシントン条約」や「生物の多様性の保全やその構成要素の持続可能な利用に関するCBD条約」さらには「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地の保全に関するラムサール条約」などの国際約束の科学的根拠を提供している世界最大の自然保護組織であるにもかかわらず、IUCNが人口に膾炙されていないことは、実に残念なことである。
 更に言えば、ユネスコの「世界遺産条約」に基づく世界遺産委員会の諮問機関として、自然遺産としての記載の可否について勧告するのもIUCNなのである。一昨年6月に富士山が「信仰の対象と芸術の源泉」として、世界遺産一覧表に文化遺産として記載されたことは快挙であったが、それは20年にも及ぶ関係者の努力の賜でもあった。初期の時点では、果たして富士山を「自然遺産」として評価すべきか、「文化遺産」として評価すべきかの議論が行なわれた。
 その詳細はここでは省略するとして、「文化遺産」の評価はICOMOS(国際記念物遺跡会議)が行い、「自然遺産」はIUCNがそれぞれ担当することになっており、仮に富士山について「自然遺産」として申請していたならば、日本においてIUCNの名はもっと知られたかも知れない。

イルカさんのご登場
 世界には多くの国際機関が存在するが、IUCNの知名度が低い理由として、一つ考えられることは、UNESCOは「ユネスコ」、UNICEFは「ユニセフ」と片仮名でも表記することができるのに対して、IUCNは「アイ・ユー・シー・エヌ」と4つの頭文字を発音するしかないことにある。これは自分でも「アイ」のあとが「ユー」だったのか「シー」なのか分からなくなることもある。問題ではあるまいか。
 そこで思いついたことは、その名前を変更することは無理なので、IUCNを捩って、最後は「自然を見守る」ことを強調し、「アイ・ユー・シー・ネイチャー」“I, You See Nature” とする、それをイルカさんに ♫ 私と、貴方とで、自然を見守ろう ♫ と歌って貰うことだった。
 イルカさんは、勿論「なごり雪」で有名なあのイルカさん。実は、今から丁度11年前に赤尾大使がIUCN理事であったとき、イルカさんに依頼してIUCNの親善大使になって頂いた。IUCNの親善大使は、今日でこそ世界で6人も任命されているが、イルカさんは初めてのIUCN親善大使として任命された。それはイルカさんの名前故ではなく、イルカさん自身が自然保護に関心が深く、そのための活動も大いにされて来られたからに他ならない。
 一昨年7月、イルカさんに、IUCNの世界における知名度を上げるために「IUCNの歌」を創作して欲しいとお願いしたところ、快く受け入れて下さり、住友生命保険相互会社に資金協力を依頼されて、僅か半年ばかりで「We Love You Planet!~ひびけ!惑星に。」 と題した素晴らしい作品を創作された。ぜひ読者の皆さんにも一度聞いて頂きたい。イルカさんの描く自然の素晴らしさとその保全の必要性がひしひしと伝わって来て、感動されることを保証します。(http://www.iucn.org/about/union/iucn_ambassadors/iruka/)

 昨年5月のIUCN理事会において、この「IUCNの歌」を披露したところ、会場にいたIUCN関係者全員が喝采。委員長や理事から「自分たちのホームページに掲示したい」「子供たちを対象にしたイベントで披露したい」「素晴らしい作品で感激した、IUCNとしても大いに広報して行きたい」などの反響があった。
 実は、これに先だつ4月に明治大学のアカデミーコモンの7階にオープンした、小生のアンバサダーズ・ラウンジでは、学生たちに自然保護の重要性を知って貰おうと、イルカさんのこの歌をBGMとして、いつも流している。また、イオンが店舗で環境映像を流すときに、この歌も活用してくれているが、日本のみならず、世界中で、多くの人たちにこの歌を口ずさんで貰えるようになって欲しいと考える。
イルカさんの歌声とともに、ウナギくんの保護や、富士山の環境保全も含め、世界で自然保護の運動が身近なものになり、盛り上がりを見せてくれることを期待している。 
                               
後日談
 昨年、イルカさんが親善大使就任10周年を迎えたのを契機に、岸田大臣にお願いして、外務大臣表彰をして頂いた。その後の園遊会では、イルカさんはご自分のデザインで創作された着物姿で臨まれた。丁度、春頃から取りかかっていた狸のデザイン「秋のさとやま」という着物が出来上がった矢先であったので、それを召されて出席したところ、天皇陛下が狸の研究をされていたこともあって、両陛下のお目に止まり、しばし狸と自然保護の談義に及んだ由で、新聞やTVニュースでも報道されてちょっとした話題になったのは、偶然とは言え、嬉しいことであった。
 また、これと平行して、昨年の文藝春秋11月号の巻頭随筆に「イルカさんとウナギくん」の題名で、イルカさんにIUCNの歌を創作して頂いた際の顛末記が掲載された。これをご覧になった先輩方からも反響が有り、「あれは、なかなか良かった。霞関会会報に、もう少し長いものを寄稿してはどうか」との有り難いお話があった。そこで、巻頭随筆では割愛せざるを得なかったところや、書けなかったこと等を含め、少しばかり違った角度から、今回書き下してみた。ご笑読頂けると幸いに存じる次第である。     2015年元旦

『「混沌の時代」に思う』 2014.12.26
カミ・正義が乱立し、暴力が乱舞する世界

『「混沌の時代」に思う』 


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         杏林大学客員教授・文明論考家
               元駐バチカン大使  上野 景文


イスラム国(IS)の登場やウクライナ情勢が示すように、今日の国際社会は、20-30年前までの時代、特に冷戦期に比し、不透明感を増し、先を展望することが格段に難しくなっている。それだけに、これからの外交官の仕事は、私の時代に比しより厳しいものになると見込まれる。というのは、世界の多くの地域で宗教、ナショナリズムなどの「正義」を巡る対立や、そうした対立に起因する緊張や暴力が常態化する過程で、国際社会の秩序に揺らぎが生じているからだ。この国際社会の混沌化、不透明化を考究すると、国際社会が4つの「歴史的挑戦」にさらされていることが、その底流にあるように思えてならない。そこで、本稿では「4つの挑戦」につき、文明論的観点から拙見を提示する。

4つの挑戦

挑戦1:「個別的カミ」の台頭と「大きなカミ」の後退

かねてより筆者は、「宗教」抜きに現在の世界を語ることは出来ない、と考えている。それも、イスラムなどの「伝統的な意味の宗教」だけでなく、「広義の宗教」、すなわち、「カミ抜きの宗教」をも含めてのことだ。筆者はまた、「カミ」と言う補助線を使うと、世界の実情理解が容易になる、とも考えている。この補助線を持ち込むと、近年の国際社会では、実に多様な「カミ」が跋扈している――「宗教的カミ」に加えて、「世俗的カミ」が―――姿が浮き彫りになる。なお、「世俗的カミ」なる用語に抵抗感のある方は、「正義」もしくは「原理」と読み替えた上で、本論に目をお通し願いたい。

そこで、先ず「宗教的なカミ」について言えば、多くの宗教が近年復権を遂げている――イスラムから(スラブ系)正教、ヒンズーに至るまで。特に、イスラムの復権は、文明論の観点から見ても、国際政治論や地政学的観点から見ても、歴史的な大転換と言えよう(拙論、「『宗教復権』潮流直視を―外交力強化の条件」、読売新聞「論点」、2011年1月25日)。

同時に、「世俗的カミ」も、健在ないし重みを増している。大雑把に言えば、2つの流れがある。ひとつは、西洋モダニズムの申し子とも言うべき「民主主義教」や「自由教」の系譜、もう一つは、ナショナリズムの台頭に伴う「民族教」の系譜だ。

前者(「民主主義教」など)について言えば、啓蒙思想の所産といえる自由、人権、民主主義への西洋社会のこだわりや、自由市場主義への(米国での)あくなきこだわり(注1)は、共に「信仰の次元」に達している。加えて、西洋世界では、「動物にも可能な限り人権を与えるべきだ」、「動物を殺傷することは正義に反する」といういわゆる「動物権」擁護(注2)を標榜する人が増えているが、その言動にも宗教的パッションが看取される。西洋が標榜するこれらの「世俗的カミ」は、どれも、「普遍的文法」を志向している「大きなカミ」であるところに、特色がある。

次に、「民族教」の台頭について一言。ソ連崩壊(1991年)以降国際社会でナショナリズムの台頭が顕著になっていることは周知のことであるが、これは、冷戦の終焉を迎えた多くの国が、イデオロギーに代えて「民族(という価値)」をベースに自国のアイデンティティーの再定義を進めるようになったことに由来する。その結果、自分たちの「民族」そのものを「カミ」として神聖視し、崇める「民族教」が目立つようになって来ている。この「民族教」が奉る「カミ」は、特定の民族や地域を対象にした「個別的カミ」――個別性、地域性が高い――であり、西洋が広めて来た普遍志向の「大きなカミ」とは、好対称をなす。

以上のように、冷戦崩壊後の国際社会では、「大きなカミ」だけでなく、「個別的カミ」を奉る信仰が繚乱している。しかるに、イスラム、「民族教」のような「個別的カミ」を奉る信仰が元気をつけて来た結果、「大きなカミ」は押され気味だ。特に、「民主主義教」など「大きなカミ」の存在感は低下し、もって、国際社会の風通しは悪くなりつつある。

挑戦2、3: イスラムからの挑戦 + 「民族教」からの挑戦(中国、ロシア)

つまり、西洋的な「大きなカミ」は、2つのグループからの「ダブルの挑戦」にさらされている。

まずイスラム圏からの挑戦。近年、イスラムの復権が進む中、イスラムは民衆レベルでの影響力を強め、(イスラム圏では総じて)イスラムに対する自覚が格段に高まって来ている。ところが、イスラムには本来、西洋的なリベラリズム、モダニズムと相容れないものがある(注3)ため、イスラム社会では、イスラムとしての自己主張が強まるにつれ、「民主主義教」のような西洋的な「大きなカミ」とは距離を置く、或いは、これに公然と挑戦するような事態が起きつつある(注4)。

特に、シリア内戦を通じて実力を蓄えた「イスラム国(IS)」の登場は、その暴力性には眉を潜めるものの、英仏が百年前に勝手に引いた国境線に異を唱えるなど、肯ける面もある。もっとも、かれらの主張は、既存の文明観、国際秩序観では把握し難いものが少なくなく、西洋的モダニズムを旨とする国だけでなく、伝統型のイスラム国家にも、大いなる戸惑いを与えているにもかかわらず、ISは、テロ団体であることを超えて既に社会的に根を張っているものの如くであり、かれらを壊滅させることは困難、むしろ、何らかの形で生き残る可能性があると見てよかろう。

次いで「民族教」からの挑戦。特に経済で自信をつけた中国、ロシアは、近年、独自の「民族教」を前面に押し出すことにより、「民主主義教」をはじめとする西洋的な「大きなカミ」に挑戦し、もって、国際的緊張を高めている。ウクライナを巡るロシアの強硬姿勢や、海洋法への中国の挑戦的姿勢が好例だ。しかも、その底流に西洋への積年の怨念があることを見逃してはならない。

両国だけではない。第三世界の多くの国が、経済力に裏打ちされた自信をベースに、西洋に対し強気に転じている。すなわち、「民族教」(個別的カミ)をこれまた前面に押し出す中で、西洋的な「大きなカミ」から距離を置く事例が増えつつある(注5)。もっとも、まだ未整備なカミ、無理矢理創ったカミが少なくないが。なお、特に日本との関係で強気に転じつつある韓国であるが、「民族教」が原理主義に陥っていることは、要注意だ。

挑戦4:正義の乱立、暴力の横行

同様に悩ましいのは、ISをはじめ世界各処で、民族や宗教を巡る緊張が物理的抗争に発展し、多大の犠牲者を出していることだ。多くの殺戮が、宗教、宗派、民族、国家などの「正義」の名のもとに行われている。そこに、「正義の乱立が過剰な暴力を招く」という逆説を見る。多民族、多宗教が矛盾を抱えながら混在している地域が多いからと言う面もある。この多民族、多宗教の混在を解消する(注6)ために、或いは、正義と正義がぶつかり合って、かつては欧州で、現在は中東などの第三世界で、「過剰暴力」がまかり通り、国際秩序を揺さぶっている訳だ―――20年前にはバルカン半島で、現在はシリア、イラク、パレスチナ、ウクライナなどで。

思うに、「正義」については誰もが論ずるが、「暴力の文化」、或いは、「暴力に寛容な文化」の問題性につき指摘する人は少ない。先ずは、深刻さを増す「暴力の問題」に国際社会の関心を向ける必要がある。

結び――2つの提言

では、「4つの挑戦」にどう向き合ったらよいのか。本稿では、最も緊急性の高い「暴力の問題」に絞って提言する。この暴力の問題については、ただダラダラと議論していたのでは駄目で、理屈は棚上げしてでも直ちに行動しなくてはならない。その際の眼目は2点だ。先ずは、「正義を相対化」すること、そして、もうひとつは、「暴力を管理」することだ。以下、具体策を提示する。

(1)正義の相対化
今日における「過剰な暴力」は、「小さな正義」、「個別的正義」が乱立していることに加え、個別の「正義」を唱えている人達が、自己の「正義」にこだわるあまり、妥協を拒み、100%主張を貫こうとする結果として、他の「正義」との相克を深めているところから来るものだ。「過剰な暴力」を絶つためには、各プレーヤーに夫々の主張を3-4割抑えて貰うほかない。

ところで、この「主張の相対化」、「正義の相対化」をはかるとなると、仏教的な知恵から学べるところが多いはずである。しかも、この「相対主義的アプローチ」は日本人が最も得意とする「技」である。私の手許に、「仏教、本当の教え」(植木雅俊著、中公新書)なる本がある。原始仏典に戻って仏教の教えを見直すべきと説いた好著であるが、その中に次のようなくだりがある(p.43)。

(原始仏典では)神様は出てこない。・・・神様・・・を介在させるならば、「神様のために人を殺す」と言うことは正義・・・と考える人が出て来ないとも限らない・・・神様が目的で、人間が手段化される・・・人間が目的だ・・・・。

そう、現在必要なことは、原始仏典が説くかような精神を、世界標準に発展させることであり、そのために、「相対主義に強い」日本人がなし得ることは決して小さくない、と確信する。甚だ茫漠とした提言であるが、仏教関係者をはじめ、相対主義に強い人たちの知恵を結集して欲しいものだ。

(2)暴力の管理

そうは言っても、「正義の相対化」がたやすく進む筈がない。そうである以上、「暴力を管理」することも死活的に重要だ。言うまでもなく、実践的課題は、国連常任安保理事国(P5)を中心に取り組まれることが期待される。他方、文明論の観点からは、特に宗教者の役割が重要だと考え、2点提言する。

最も重要なことは、暴力に馴れっ子になった国際社会に対し、宗教者から「暴力の文化」追放の緊急性を大声で訴えて貰うことだ。宗教は紛争の源になることもあるが、本来は「暴力の文化」を排することにこそ、宗教者の大きな役割があるだけに。

より具体的に言おう。宗教界のスーパーリーダーが世界に向けて「暴力(戦闘、殺戮)の即時停止」を共同宣言することを強く期待したい。その際、既に共同で声明を発出した経験を有するグローバル自由ネットワーク(GFN)を通じることが実際的であろう(注7)。キーワードは「即時」だ。既にローマ法王は、たとえばシリアとの関係で、「戦闘の無条件、即時停止」を累次にわたり訴えて来ている。紛争各当事者の言い分を聞いている間にも、多くの犠牲者が出ると言う痛ましい現実に思いを致せば、「即時」というのは当然の主張だ。そのような危機感を持つ宗教者によるイニシアチブが待たれる。更に、宣言には、「残虐な殺戮を続ける限り、それは宗教の名前に値しない」との視点が盛り込まれることが望まれる。ローマ法王やスン二派の高位聖職者は、「宗教の名を語った殺戮」を夙に非難しているが、この点は何度繰り返しても、やり過ぎと言うことにはならない。

宗教者の役割はまだある。宗教のスーパーリーダーには、世界的規模での「刀狩」実現を提唱して貰いたい。「刀狩」には、国際レベルのもの(国際的軍縮)と、各国レベルのものがあるところ、私は、「暴力の文化」をグローバルに後退させるためには、(前者に加えて)後者が不可欠と考える。その意味からは、4世紀前に「刀狩」を秀吉により実現した日本の知恵――世界歴史遺産に認定されても良い(実現性は低いが)程の先見性があった――が役に立つ、と考える。

(注1)30年前NYにあって経済問題を担当していた時に感じたことだが、多くの米国人は「自由(市場)主義」という絶対的な「カミ」を信じ、奉っている。日本人が「自由のカミ」を受け入れる一方で、「農業のカミ」、「中小企業のカミ」、「地域振興のカミ」なども大切にするのを目の当たりにした時のかれらの反応は、「自由のカミ」を信奉すると言いつつ、他のカミも大切に扱う(日本人の)多神教的アプローチは、不愉快だ」と言うものだ、と直感した。その意味で、日米経済摩擦は、文明摩擦、端的に言えば宗教摩擦であった。

(注2)特にEUでは、「動物権」に基づく新しいEU指令が次々と生み出されている。かれらは、この「正義」に反する営為に強く反発する(反捕鯨論もその一環)。

(注3)イスラムはキリスト教より6世紀ほど後に出てきた宗教であるが、類似の構造を持っている。この6百年の差を考えれば、現在のイスラムは、キリスト教になぞらえれば、西暦1300年頃、すなわち中世の終わり頃に相当すると見ることができる。と考えると、イスラム世界が西洋的モダニズムに馴染むことはまずない、と考えるのが自然だ。一例を言おう。一昔前には、まともな国家では政治と宗教は分離するもの、との「常識」があった。この常識は、イスラム圏の国々には当てはまらない。これら諸国では、政教未分離、或いは、密着している場合が多いだけに。そして、近年イスラムの復権が進む中で、イスラム世界では「非世俗化(de-secularization)」が進行している。

(注4)「アラブの春」には、大きな欠陥が2点あった。ひとつは、性急な「民主化」によって、結果的に大きな混乱が引き起こされたこと。国内全体を抑えてきた強権を倒して「民主化」が行わたのだが、結果的に「権力の空白」が生じた。強権と言う「重石」がなくなったことで、異なる民族間、宗派間の抗争を招来し、過剰暴力を通じて多くの犠牲者が出た。特にシリア、イラクの現在の大混乱は悲劇的であるが、実は、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアなど旧ユーゴスラビア諸国で1990年代初めに同様のことが既に起きており、予見性は皆無ではなかった。もうひとつの問題は、「民主化」を「煽った」西洋の人達の姿勢だ。かれらの中には、「民主化(大きなカミ)」の実現という宗教的パッションに引きずられて、犠牲の規模を冷静に見つめる視野と冷静さを持ち併せなかった向きが少なくないようだ。大きな犠牲が予見されるような場合、「民主化」プロセスを一時サスペンドするくらいの覚めた視点が必要であるにもかかわらず。以上の2つの理由から、近年アラブ圏では、民主主義の信用は低下した(拙論、「『覚めた目』で民主化を捉えよ―――『アラブの春』が宗教対立を再燃させるジレンマ」、毎日新聞、2012年5月17日)。

(注5)第三世界の諸国は、従来であれば、西洋から、「『民主主義教』に帰依するなら、援助するよ」と言われれば、資金がなかったこともあり、従わざるを得ない時代が続いた。ところが、今日においては、中国が援助外交を活発化させており、西洋に頼らなくても、「ひも付き」でない援助が得られるため、強気に転じたと言う面もある。

(注6)イラク、シリアなどに関わる国境線の再定義、或いは、(宗派の違いをベースとした)分離、分割統治は不可避との見方が、米国を含め、出て来つつある。

(注7)この12月2日にローマ法王フランシスコをはじめイスラム、ユダヤ教、仏教など世界の12人の宗教指導者が、「グローバル自由ネットワーク(GFN)」を通じて、「現代の奴隷制撲滅」を求める宣言を出したことにより、このGFNはにわかに脚光を浴びるようになった。

『「イスラム国」の攻勢』 2014.12.5 

『「イスラム国」の攻勢』 


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          元駐シリア大使・中東調査会副理事長  鏡 武

中東で急速に拡大しつつあるイスラム過激派の組織「イスラム国」は、最近は中東だけでなく、アジアのイスラム圏など、世界の他地域にも直接、間接の影響を及ぼしつつある。この組織は、一五年ほど前に中東で結成されたが、この一,二年の間に、またたく間に勢力を拡大してきた。メディアでも伝えられるように、斬首など非人道的で過激な言動もあって、今や国際社会の強い注目を引く存在となっている。そうした活動を通じて、この組織が最終的に何を狙っているのか、またその急速な拡大の背景は何か。ここではこういった諸点を中心に述べてみたい。

イラクからシリアへ
二〇〇〇年前後に、アフガニスタン帰りのヨルダン人でイスラム原理主義思想を持った人物、アブ・ムスアブ・ザルカーウィが、一つのイスラム過激集団を結成した。「タウヒードとジハード団」と称するこの組織が、現在の「イスラム国」のそのそもの前身とされている。この組織は、二〇〇三年の米英によるイラク侵攻の後、混乱したイラク国内で活発なテロ活動をくり返していた。
ザルカーウィは、その後二〇〇六年に米国によるイラク空爆によって命を落とし、この世から姿を消したとされている。その後二〇一〇年からこのジハード団の指導者となって、現在までグループを率いているのがアブー・バクル・バグダディである。
このグループは、二〇〇六年にはその組織名を「イラクにおけるイスラム国」と改名し、引き続きイラクを中心に活動を行っていた。だが、この集団の活動振りは、イラクで戦闘していたイスラム過激派の中でも、一段と好戦的で残虐性を見せていたため、多くの支持者を集めることもできなかった。しかし二〇一一年三月から始まったシリア紛争が、イラクで低迷していたこの集団の活路を大きく開くこととなった。

シリアで「IS国」を育てた国々
シリア紛争は周知のように、「アラブの春」を契機として、二〇一一年に国内の反体制派グループによる政権打倒運動として始まった。だが「アラブの春」の影響を受けた他のアラブ諸国と異なり、シリアについては、時が経つにつれてその戦闘の基本的性格が大きく変わっていった。紛争は、一方でロシアやイランなどアサド政権を支援する側と、他方で欧米諸国やアラビア湾岸産油国などによる反体制派を支援する側に分かれ、双方が武器や資金を積極的に援助し介入してきた。これによってシリアの内戦は、同国を舞台にした外国勢力の代理戦争とも言うべき姿に大きく変化した。
こうしたシリア情勢の質的転換がますます鮮明になるにつれて、その変化を巧みに利用し力を伸ばしていったのが、イラクで低迷していた前述のバクダディの組織だった。彼の組織は、シリアに前線組織を置いて、自らを反体制派の一員と位置づけ、欧米などから供与される寛大かつ豊富な武器や資金の受け皿となった。これによって、この集団の戦闘力は、短期間のうちにみるみる増強していったが、このときのバクダディ・グループの目的は、必ずしもアサド政権の打倒ではなく、むしろ反体制派の中の他の集団との戦闘を通じて、自分たちの支配地域を拡大していくことであった。
バクダディは、組織名を「イラクとシリアのイスラム国(ISIS)」などと変えたり、それまで関係を維持してきたアルカーイダとも、二〇一四年二月に袂を分かったりしながら、支配地域を広げて行った。彼はその後、イラク国内における活動を強化していって、モスル市などイラク北部の諸都市を支配下に入れて、首都バグダードにも迫る勢いを見せた。こうして二〇一四年六月には、名称を「イスラム国」(以後、「IS国」と略)と変えた。その上で、バグダディはイスラム教世界において、イスラム共同体の指導者であるカリフとして頂点に立つ「カリフ国」の創設を宣言した。

「IS国」の狙いと特徴
「IS国」の基本的な狙いとして、まず手始めは欧州諸国が第一次大戦中に合意したサイクス・ピコ協定による国境を無視ないし消し去ることである。英仏によるこの協定は、それまでオスマン帝国が支配してきた領土を分割し、イラク、シリア、トルコなどの一帯に英仏の思惑によって国境を画定したものである。「IS国」は欧州諸国が「恣意的に」策定し現在まで続いているこの国境を抹消し、そのあとにそれと無関係で、既存の国家も否定したイスラム共同体を設立しようとしている。バグダディは、そうして創設されたイスラム共同体を世界のイスラム世界にまで拡大するという遠大な目標を掲げている。
「IS国」は、いまやシリア、イラクに広大な支配地域を有し、その面積は英国に匹敵するまでになっているとも言われており、その地域に住む六百万人の住民に影響力を与えている。

急速な発展の背景
「IS国」にこの急速な成長を可能にさせた背景には、この集団が持つ次のようないくつかの独特の性格があると見られている。
急成長を可能にした第一の特徴は、「IS国」が持つ資金及び武器の豊富さである。前述のように、彼らはまず、シリアの反体制の一部として欧米など海外諸国から潤沢な支援を獲得している。それに加えて、増強されたその戦闘能力を用いて、イラクにおいて石油施設の占拠や都市部への攻撃および徴税活動も展開して行った。特に石油収入では、密売によって一日当たり一億円相当の収入があるとも言われた。また武器は、イラクにおける戦闘で敗走したイラク軍が残していった米軍等の武器、弾薬をかなり手に入れていると言われる。こうして「IS国」は世界で最も資金力のある過激派と言われるまでになった。
急成長したこの過激集団は、かつてシリアで援助を受けた欧米やアラブ諸国に対し、今や敵対姿勢を向けている。アフガニスタンの対ソ連戦闘の際にも、米国はムジャヒディーン援助の一環としてゲリラ組織を育成した。そこにはアラブ諸国から参集した多くの志願兵が含まれており、彼らの一部が後にアルカーイダとして反欧米グループとなったが、「IS国」の成長経緯もそれに酷似している。
「IS国」の第二の特徴は戦闘員の獲得が巧みであるということだ。現在 「IS国」の戦闘員は約三万人に膨れ上っていると言われ、しかもその数は日々増加していると伝えられる。参集している若者の約半数がイラク及びシリア以外の国から参入している多国籍集団と言われ、その戦闘員の国籍は八〇ヶ国に上っていると見られている。欧米からの人間も多数含まれているが、中心は、周辺アラブ諸国からの若者であり、彼らが全体の約八割を占めると言われる。
参入者は母国における経済的な格差、差別、貧困などにより、自国の将来に希望を失って移って来るものも多い。また欧米など先進国組の場合、自国において期待できない自己実現といった人生目標を中東の戦闘地域でつかみたいといった考えで渡航してくる者も多いとされる。そこには先進国特有の社会的病理が反映されている面もある。
「IS国」はその言動に示されるように、宗教的にも急進的で行動も過激であるが、そうであればあるほど、むしろそれが現世に希望を失った人間の心を惹きつける要因になっているとも見られる。
このような過激さは、イスラム教に本来内在していないとは必ずしも言えないが、IS国がインターネット上で流した人質の斬首などの衝撃的な行為は、宗教的な信条に由来すると言うより、むしろ対外的な脅迫手段としての行動であって、宗教との結びつきは希薄と見られている。
さらに構成員の確保の手段として、ISはインターネットという極めて近代的手法を駆使し、世界の広範な地域から戦闘予備軍を集めている。彼らは、こうした戦闘員の確保だけではなく、自分たちの信条や活動の広報などでも積極的にインターネットを活用し、自己宣伝を進めており、極めて新時代的な宗教集団とも言えよう。
第三の急成長の要員としては、彼らがその支配地域を拡大するため地域の政治的土壌を効果的に利用していることがある。特にシリア紛争で現出した国内の無法地帯は、自分たちの勢力拡大に極めて有益である。またイラクにおける政治体制から生じたスンニ、シーア両宗派間の対立も、「IS国」には有利に働いており、その拡大の裏でスンニ派住民の反政権感情を広く利用してきた。

有志連合とその戦略的むずかしさ
問題はこうした「IS国」の台頭に対し、米国主導により組織された有志連合および国際社会がどの程度効果的に対抗できるかであろう。米国は、本年八月八日にイラクにおける空爆を開始し、さらにサウジアラビア、ア首連、ヨルダン、バハレーン、カタルといったアラブ諸国も参加した有志連合によって、九月二二日には、シリアへの空爆も始めた。「IS国」への武器や戦闘員の供給源となっている拠点を叩くためである。
この作戦遂行に制約を加えている第一の問題は、「IS国」 がイラク及びシリアにおいて確立している支配地域には、一般住民が居住する都市部も含まれており、その中に戦闘員も紛れ込んでいる点である。また逆に、彼らの支配地域には、国境も不鮮明な砂漠地帯も広く含まれ、そこを彼らは自由に移動して拠点を移している。こうしたことから、空爆作戦のみでは彼らの組織を壊滅させることは極めて困難であり、いずれかの時点での地上軍の投入が不可避の要件である。
だが、二〇一一年末にイラクから撤退し、二〇一六年末までにアフガンから完全撤退を予定している米政府としては、この段階で再度イラクやシリアに地上軍を派遣することは、軍事的ニーズはともあれ、政治的リスクが極めて大である。従って、地上軍については地域対応を基礎とすることとし、イラクやシリアにおけるクルド族の治安軍ペシャメルガなどの活用や、自由シリア軍などシリアの反体制派グループを急遽訓練する案が進められている。しかし、前者のクルド族の軍事力強化はトルコ政府との関係で微妙な問題を有しており、また後者のシリア反体制グループについては、種々の点でその信頼性に疑問が投げられている。地上軍の投入については、このような諸困難を克服しつつ行わざるを得ないが、「IS国」壊滅のためにはその困難に背を向けることは出来ない。
第二に、基本的に「IS国」を弱体化するためには、こうした軍事的手段によるだけでは十分でない。石油の密売や武器売買の阻止、その他広範な非軍事的手段による対応が要求されている。九月二五日、国連安保理でも、「IS国」に参画しようとする人員の移動を阻止する国内法を制定するよう加盟国に義務づける決議が採択された(決議2178号)。また「IS国」がメンバーのリクルートのために利用しているインターネット上でも、対抗措置を講ずる必要があり、そうしたことは既に欧米諸国が検討しているとされる。
こうした国際的な協調行動は今後も拡充していく必要があるが、それにはオバマ大統領も指摘するとおり、数年単位の時間がかかるであろう。 その間、「IS国」としては当面の目標である中東域内での支配の拡大を推し進めようとするだろうが、いずれは、その攻撃対象を欧米先進諸国にも拡大していく可能性も排除されない。そうなる前に、国際社会がどこまで体制を整えて、効果的な「IS国」との戦いに対処できるようになるか。その点が今後の鍵となろう。

『ウクライナ情勢と世界のガバナンス』 2014.6.13 

『ウクライナ情勢と世界のガバナンス』 


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          元駐ウズベキスタン・タジキスタン大使  河東 哲夫

今回のウクライナ情勢は、白昼夢を見ているように、今ひとつ解せないところがあった。それは、21世紀のこの世の中に、それも文明世界と目される地域で、切った張ったの大騒ぎの末、領土の乗っ取りまでが行われ・・・それを世界はどうしようもなかったからである。戦後世界のガバナンスはもう限界を迎えたのか、それともこれは一時的な現象なのか、その意味を考えてみたい。


「ソ連帝国」の雲散か再結合か――ウクライナは天王山

 1991年ソ連が崩壊して以来、旧ソ連圏は「帝国崩壊後の過程」にあった。かつてオスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国などが崩壊した時と同様、周縁諸国は力の真空地帯と化していた。その中でバルト三国はNATO、EUに加盟できたのだが、2000年代の原油高で力をつけたロシアは「帝国」の更なる分散に抵抗を始める。ロシアはNATOと国境を接したくないし、また競争力のないロシアの企業は「帝国」の外では市場を持てないからである。抵抗の典型例は2008年のグルジア戦争であるが、ウクライナはその人口(4千5百万。ロシアは1億4千万)、技術・経済力(ソ連軍需産業の中心地。GDPでロシアに次ぐ)から、その去就はロシアの今後の命運を定める、まさに天王山なのである。

この国では2008年の世界金融危機で経済が悪化し、ヤヌコーヴィチ政権はEUと連合協約を結びIMFからの救済融資を実現することで、立て直しをはかろうとした。しかし昨年末にはロシアから猛烈な圧力を受け、EUとの連合協約仮署名を直前に撤回してしまう。西欧の民主主義に共感するリベラル層はこれを許さず、首都キエフで反政府集会を組織した。リベラル層はどの国でも弱体なものだが、キエフの反政府運動も下火になったところで、予想外の事態が起きる。西欧やロシアと同じようにウクライナにも存在しているネオ・ナチの「右翼」にウクライナ西部の反ロシア分子(西部は第2次大戦後、初めてソ連に併合され、その後10年間血なまぐさい反ソ・ゲリラ活動を展開した歴史がある)、ロシア寄りと言われる東部諸都市の青年不満分子が蝟集し、暴力で政府施設を占拠する挙に出たのである。

その結果、ヤヌコーヴィチ政権は反政府側に譲歩する。2月21日には、年末までに大統領選挙を前倒しで実施すること(ヤヌコーヴィチ退陣を意味する)、但し反政府側は政府施設から撤退すること等を合意するに至ったのだ。ところが「右翼」は右合意を認めず、政府施設占拠を拡大し、議会はヤヌコーヴィチ大統領の「解任」と大統領選挙の5月25日挙行を一方的に決めてしまう。身の危険を感じた大統領は2月23日にはキエフを脱出し、ロシアで保護される身となった。そして2月21日の合意が反故にされたのは西側の差し金によると思い込んだプーチンは、同27日にはクリミアで親ロ勢力による政府施設の占拠を始めさせ、3月16日の住民投票、同18日のクリミア編入まで電光石火の早業でもっていく。このあたり、西側が押してきたのを巴投げで破ったような、柔道仕込みのプーチン外交の冴えをまざまざと見せている。

次の焦点となったウクライナ東部・南部は、クリミアに勝るとも劣らない戦略的意味を有する。黒海に突き出てロシア海軍の基地も擁するクリミア半島は、「これを失うと黒海の制海権を失ってしまう」(プーチン)要衝であるのだが、東部、南部をNATOに抑えられると、ロシアは長大な国境線でNATO軍と直接対峙を迫られるばかりでない。クリミア半島、そしてウクライナ南西部に接するモルドヴァ共和国の中でロシア人同胞が作る「沿ドニエストル自治区」へのアクセスを抑えられてしまう。そして東・南ウクライナ(同国GDPの過半を生産)を半分独立させて、ロシア主宰の関税同盟、更に「ユーラシア経済連合」(ロシアを中心に数カ国が5月に発足させる予定)に入れなければ、旧ソ連圏復活というプーチンの野望は画餅に帰するのである。

東・南ウクライナはクリミア半島よりははるかに人口が大きく(2千百万)、ここを丸抱えした場合のロシアの負担は厖大なものとなる。クリミアのように編入してしまうより、ウクライナを「連邦」化(実体的には国家連合)し、西側にも経費を負担させつつ、NATOとの間の緩衝地帯として中立化させることが、ロシアにとっては最も合理的なやり方であろう。


空洞化する世界のガバナンス

 現在の米国は、経済がまだ回復途上にあるばかりでなく、イラク、アフガニスタンからの撤退がようやく終わるところで、基本的に内向きになっている。また米国がそのNGOを筆頭に、途上国の独裁政権を「レジーム・チェンジ」しようとする動きを続けていることへのそれら諸国からの反発も強まっている。米国の指導力は落ちているのである。

そのことが如実に表れたのは、3月27日国連総会でクリミアでの住民投票を無効とする決議の採択が行われた時である。賛成百、反対11で、「西側」の圧勝であったかのように報じられたが、実際には82もの国が棄権するか欠席したのである。棄権した中にはアフガニスタン、ブラジル、エジプト、インド、イラク、ジャマイカ、モンゴル、ミャンマー、パキスタン、南アフリカ、ベトナム、欠席した中にはボスニア・ヘルツェゴビナ、イスラエル、モロッコ、セルビア、ア首連等、米国と少なからぬ縁を持つ国も入っていた。こうした国々が様々な心算から米国の呼びかけに加わらない、そうすると米国の指導力がますます減退する、そうなると米国の呼びかけに応じない国が更に増えていく――世界のガバナンスは、メルト・ダウンの手前にあるのだろうか。

そして先進国の外交にも、メルト・ダウンの兆候が顕著である。ウクライナの場合、米共和党の傘下にあるInternational Republican Instituteや民主党傘下のNational Democratic Instituteが長年にわたって活動し、民主主義・市場経済を標榜する野党勢力を育成してきた。他の諸国でもこれら勢力は選挙における不正等をきっかけに反政府運動を先鋭化させては、「レジーム・チェンジ」を指南する。このような動きは、米国の大統領や国務長官が音頭を取って実現したものではなく、米国政府は起きたことを追認、支援することを余儀なくされているのである。ウクライナの場合は、反政府運動が「右翼」に一時は簒奪され、コントロールの利かないものになった。そしてロシアはこの右翼の暴力を口実にして、クリミア編入の挙に出た。米国政府は自らの外交のコントロールを失って、失点を蒙ったのである。

ロシア側が指摘しているように、この「右翼」に西側の傭兵会社(米国のGreystone社等)が参画しているのが事実なら、事態は更にグロテスクなものとなる。諸団体・個人は、自由や民主主義といった大義より、自身の組織維持、収入源確保といった利己的欲求に動かされているのである。そしてワシントンでも、「オバマは『独裁者プーチン』に対抗できているかどうか」だけが争点になった政治ゲームが繰り広げられ、プーチンが本当に独裁者かどうか、そして肝心のウクライナ国民の生活は二の次になってしまう。ドルが国際通貨として使われているように、今やワシントンでの政治ゲームが世界全体を覆うようになっているのである。


日本は主流をつかまえて

 この中で日本は世界の変化の本質をうまく把握して、歴史の主流についていないといけない。日本はまず、自国を含めたいわゆる先進国の有する経済的地力をよく認識する必要があろう。世上、購買力平価のGDPでは中国が米国を既に上回った等の謬論が喧伝されるが、中国の輸出の50%は外国企業によるもので、しかも輸出はもう頭打ち、現在の経済成長の殆どは土地再開発・インフラの建設によって実現されている現状で、経済の過半を占める国営企業はダイナミックな成長力を欠いている。購買力平価では日本のGDPを抜いたとされるインドに行ってみても、ここでは民主主義と所有権の保護が過剰であることが、規制緩和やインフラ建設を妨げているという皮肉な現象に遭遇する。ロシアは政府歳入の60%近くを原油等資源関連に依存するばかりでなく、労働力の3分の1は公務員、経済の50%は国営・公営企業という体質で、成長率は既にゼロの領域に近づいている。

先進国がこれまで蓄積してきた資本の力は大きい。UNCTADによれば、2007年世界で行われた対外直接投資合計約2・1兆ドルのうち、実に約75%は先進諸国によって行われている。そして先進国は互いに投資し合うことが最も多いのである。また米国は製造業の生産額では戦後一貫して世界一の座を維持していて、日本にも中国にもこの座を譲ったことがない。

世上一部で言われているように「資本主義は終焉」を迎えているのではない。それは資本主義の一面だけを見て言っているのであり、社会主義計画経済の流れを汲むロシア、中国の国家資本主義こそその限界を露呈しつつある。資本主義は利潤と資本の増殖を自己目的とするが、そのことが生産面では常に新しい技術、新しいビジネス・モデルを生んでいく。その果実を公平に分配し、金融の過度の膨張を抑制できれば、資本主義・市場経済は最も効率的、かつ自由な経済モデルであり続けよう。
現在の世界の課題は、イラク戦争と金融危機を乗り切った米国がまだ回復途上にあり、対外介入を避けている時期に、世界の安定をどのように確保していくかにある。米国はこれまでそのNGOを先頭に、旧ソ連・中東諸国等の「民主化」運動を支援することで勢力の維持を図ってきたが、それは混乱を生むだけでなく、米国に対する失望感と警戒感も生んでいる。やはり産業振興による中産階級の創出と、それを基盤とした民主主義の醸成をはかることが王道なのである。


米国は頼りになるのか

 それでもウクライナの現実を見ていて、その無法ぶりに違和感、得体のしれない不安感を拭うことができない。それは尖閣・南西諸島がクリミアのように外国に「編入」されても、米国は助けてくれないのではないか、日本は米国の目からはアジアで二義的なものに落とされてしまっているのではないかという惧れに根差すものだろう。しかしよく考えてみれば、それは米国への依存心が高いからこそ感ずる不安なのではないか。日本の自衛隊の戦力は大きく、さらに拡充されている。TPPのような大きな枠を描く話しも、日本が参加することなしには成立しない。日本という同盟国を失えば、東アジア、東南アジアにおける米国の地歩は大きく低下する。米国にとっての日本の価値は大きく、また日本にとっても米国との同盟関係は外交、安全保障、経済、価値観の諸面でかけがえのない力となっている。

 来年は、終戦70周年である。日米中韓関係の現状に鑑みて、これは決定的に重要な年である。過去の恨みを思い出すより、これからの世界を前向きに構築していくために、知恵を出し合い、実行していくべき時である。米国が軍事介入に及び腰であるだけに、世界の安定と繁栄実現のため日本が提言・実行できることは多いだろう。ウクライナ情勢で怯んでいるより、この機会をむしろ活用して日本の立場を向上させていきたい。 (2014年5月9日寄稿)

「近著『米中ロシア―大国に怯えるな』」

『ミャンマー政治とスーチー女史』 2014.5.13
 ―四半世紀を母国に捧げてきた道徳的政治家 ―  

『ミャンマー政治とスーチー女史』 
 ―四半世紀を母国に捧げてきた道徳的政治家 ― 


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     元在ミャンマー大使館参事官  熊田 徹

「選挙ボイコット」発言 
テインセイン大統領の指導下、国際社会の後押しをも受けて政治経済改革が急展開中のミャンマーで、昨年末少々気がかりな兆しが現れた。2年後に実施予定の総選挙を控えて、スーチー女史がそのボイコットを口にした。また、同大統領が昨年末までには成立させると公言していた反政府少数民族武装組織との和平協定交渉が物別れに終わり、独立運動期以来の民族間対立の根深さが改めてクローズアップされた。

 スーチー女史は、以前から現行憲法には「私が大統領になれないようにしている部分がある」と語っていたが、「ボイコット」発言は今回が初めてである。憲法第59条f項が大統領の身分上の資格として、その配偶者や子供が外国籍者でないことを条件としていることが問題の「部分」の由だが、同条項は同女史の亡父アウンサンが1947年の独立準備中に憲法とともに設けた選挙法における、外国からの影響力防止のための規定がずっと引き継がれてきたものである。だが、民主化運動を経た今日では同女史の亡夫が英国人であったことと2人の子息が現在英国籍者であることから、内外世論の多くが同女史排除のための条項とみなしている。一方、同条d項は大統領の資格要件として、「連邦の行政、政治、経済、軍などに関する諸事項に十分通じていること」もあげている。

 同女史は「選挙ボイコット」の理由について、「(対立候補の)一方にのみ有利な地位を与える不公平な制度」の下では「道徳的矜持を有する政治家は投票に参加すべきではない」と説明している。「不公平な制度」とはd項を含めてのことだろうが、それは不公平というよりは、同憲法が独立運動期以来内戦状態が続いている同国の歴史的経緯を反映した、「危機管理憲法」だからである。同国では、植民地制以来の民族間対立が外部介入により、武力抗争を伴う「国家国民間の分裂状況」を構造化してしまった。そして、四半世紀にわたる民主化運動と国連安保理をもまきこんだ国際社会からの制裁介入の圧力とが、同国首脳部にいっそう厳しい危機意識を植え付けた。現行憲法前文は、その成立経緯について要旨次のごとく記している。

忽卒のうちに起草された1947年憲法下での民主制は効果的には機能せず、国民投票を経て一党制に基づく社会民主主義を定めた1974年憲法は1988年の事件で停止された。恒久的憲法の必要にかんがみ1993年に国民会議が設置され協議が始まったが、幾多の困難と障害に遭遇した。国民会議は2003年のロードマップに従い2004年に再開し、2007年9月23日に草案を採択した云々。それは同年8月中旬に発生した「サフラン革命」のさなかであった。


モラリズムと法秩序 
どのような背景があるにせよ、国際社会の一般常識からすれば、第59条の規定はたしかに異例かつ不公平である。そして、スーチー女史の「道徳的矜持」云々との主張は1988年にミャンマーの政治舞台に登場して以来一貫して非暴力主義を唱えてき、ノーベル平和賞を受賞したモラリストたる同女史の面目躍如たるものがある。だが、政治的正統性や法秩序の観点から見た場合、この主張は重要な問題点を含んでいる。また、昨年12月末に同女史欠席のまま開かれたNLD中央執行委委員会がこの問題に関する憲法条文改正を選挙参加の条件としない旨を決議したことは、同党での同女史の指導力のかげりを露呈している。

いずれにせよ、同女史にとっても民主主義の原理からしても、現行憲法に修正すべき点が多いのはたしかで、昨年7月に憲法改正準備のため議会に設置された「109人委員会」には、昨年末までに30万件の修正意見が寄せられており、与党も野党も少数民族側(議会内のFDA=連邦民主主義連合)も、大規模な改正案をまとめている。憲法改正についてテインセイン大統領は、今年初頭の国民向け放送で「国益や国家主権は守られるべきであり、政治危機は避けねばならぬ」とする一方、「憲法は必要に応じて随時修正を加えるのが健全な行き方で、大統領には市民の誰でもがなれるようにすべき」と説明した。改正の範囲を大統領候補の資格問題を含め、幅広く認める反面、過去に経験した外部介入や少数民族武装反乱組織への対応に必要な諸規定の撤廃は時期尚早ということであろう。

スーチー女史とBCP 
さて、和平交渉では、11の少数民族勢力で組織する統一民族連邦評議会(UNFC)が、その兵力の自律性を保持したままで国軍と一体化した「連邦軍」の創設を主張した。だが政権側はこれを認めず、今後の和平交渉を現行法の枠内で国会において進めることを主張した。注意すべきは、「連邦」の意味が双方で大きく異なることである。政権側にとりそれは、1947年の独立準備期以来目標としてきた強固な統一国家(Union)であり、少数民族側にとっては緩やかな結合体(Federation)である。もう一つの要注意点は、スーチー女史のモラリスト的対応が、連邦問題の根源にある前述の「国家・国民間の分裂状況」において果たしてきた役割如何である。

女史の亡夫マイケル・アリスによれば、彼女は、母国ではまだ耳慣れない人権について政治家や学生達に縷々説明することによって、ミャンマー政治への門をくぐり、1988年8月26日の演説で人権と民主主義のための闘争のリーダーシップをとるにいたった由である。一方、母国の実際政治に疎い同女史は、女史宅の一室に指南役として住み込んでいた亡父アウンサンの同志で当時70歳台の旧BCP(ビルマ共産党)長老をはじめとする、BCP系のインナーサークルから助言を受けていた。そして、ミャンマー独立直後から政権と武力対決していたBCPが、彼女の善意をその政治戦術に利用したことが、しばしば彼女の意図に反して「国家・国民間の分裂」傾向を助長する一因となった。

この辺の事情については、1989年9月13日の米国議会公聴会で、国務省政務局次長が、前年のクーデーは「騒乱(upheavals)の取締り(crackdown)であって弾圧(repression)ではなかった」と証言し、「国軍は、政党や外国人による国軍分裂化扇動により、1988年同様の騒乱が再発することを回避するため必死である」と述べている。 同証言はまた、「(ミャンマーでは独立期以来の内戦ゆえに)人権侵害が行われてきたが、米国は過去においても今後も、介入を行う意思を一切有していない。同国に対しては麻薬撲滅対策協力という重大関心事があり、友好関係の復活を期待している」とも述べていた。

この「政党」が麻薬生産者でもあるBCPを、「外国人」がスーチー女史を指すことはいうまでもない。だが、女史自身はBCPとの関係を、1988年9月12日付英国紙インデペンデントへの寄稿文で、次のように述べている。「私を貶めようとしている人々は私が共産主義者に囲まれている、と非難しています。私がさまざまな経歴の多くのヴェテラン政治家から助言を得ているのは事実です。けれどもそれは、これらの人々が将来の政治的利益への期待や個人的利得とはまったく無関係に、民主主義の大義のために働いているとの前提にもとづいてのことです。私自身は、国民の福祉よりも個々人の政治的信条やイデオロギーを優先することには強く反対しています」。

義務として反抗せよ 
BCP戦術の具体例として、女史は1988年2月10日から10日間、山岳部で遊説旅行を行った際の集会で、「NLD声明第9号が連邦に関するNLDの考え方だ」と述べた。だが、同声明は「諸民族全てを含めた全国民と手を携えて、民主的な体制を確立するための革命に勝利するまで闘う」とうたい、新憲法の協議・制定を革命達成の後に順序付けていた。女史はまた、同年6月の平野部での演説では、「不当な権力や悪法には従わず、義務として反抗せよ」と呼びかけて、軍事政権が選挙準備のために告示した各政党の具体的政策内容の発表頒布令に非協力の方針を示し、来るべき選挙での政策論争という難しいハードルを回避した。

そもそも、NLD声明第9号の政策綱領で選挙戦を展開することは、大多数が反マルクス主義の仏教徒で少数民族反乱組織を警戒している平野部では事実上不可能であった。同女史はさらに、「ネウィンは国軍をほしいままにして国民を圧迫してきたが国軍は誰のものか、それを作ったアウンサンのものだ」とも述べて、国軍分裂作戦に出、これらが因となって自宅軟禁処分となった。軍事政権は連邦制や憲法問題を改めて協議するため1993年に国民会議を開いたが、NLDはこれをボイコットした。 3年後、NLDは総会を開き、自宅軟禁を解かれていたスーチー総書記出席のもと、遅ればせながら少数民族問題に関する政策を検討し、「少数民族問題に関するNLDの政策」をなんとか採択した。だがその中の一項目は、「党はかつて選挙の前と後において国民に示した誓約を決して棄てない」と記している。つまり、NLD声明第9号の「憲法は革命後」との政策綱領は依然維持されたのである。

2015年の選挙に向けての憲法改正がどのような結果となるにせよ、スーチー女史が今度またボイコット戦術を用いるならば、たいへん不幸なことといわねばなるまい。それは、すくなくとも女史個人の問題として、逡巡の末とはいえ2012年に議会で公式に誓約した憲法の手続を無視し、自らが主張する「法の支配」を破るに等しいこととなろう。 (2014年3月18日記) 2014年5月10日寄稿


『法王フランシスコ、歴史に挑む』 2014.1.31

『法王フランシスコ、歴史に挑む』


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     杏林大学客員教授 元駐バチカン大使  上野 景文


1. はじめに

  昨年3月に就任した新ローマ法王フランシスコは、初めてのラテンアメリカ出身の法王として、また、初めてのイエズス会出身者として―――「王朝風のバチカン文化」とは対極にある清貧、無私を旨とする(カトリックの)「前線文化」を体現した人物として、就任直後から、バチカン、カトリック世界全体に、多大なインパクトを与え、世界の耳目を引いて来ている。その言動は多数の心を捉え、世界の善男善女による「バチカン詣で」は3倍に急増、昨年末には米国のタイム誌により「今年の人」に選定され、オバマ大統領からも共感を示されるなど、高い存在感を示した。そのような状況は、今日なお続いている。

この「フランシスコ効果」(注1)には目を見張るものがあるが、新法王登場の真の意義は、実はもっともっと深いところにある、と私は見る。スキャンダル続きのバチカンを立て直すと言う喫緊の課題も重要ではあるが、私は、法王がより遠大なテーマに挑もうとしている点に注目したい。すなわち、新法王は、世界各地の実情や現代人の意識を十分汲み入れていない(そのため、中南米ですら、カトリック離れが進行している)バチカン、カトリック世界の体質、文化、意識を変容させ、カトリック世界全体の現代化をはかることを目しており、まさに、文明的、歴史的挑戦を仕掛けつつある、と見る。

2.3つの挑戦

  では、バチカン&カトリック世界に文化革命、意識改革を引き起こすことにこだわる新法王が、仕掛けようとしている挑戦とは何か。主眼は3点だ。

  第1は、教会の使命の再定義。清貧、無私を旨とする修道会的「前線文化」の申し子である新法王は、従来の「聖職者中心主義」を戒め、こう説く、
(イ)教会は、聖職者ではなく、信徒のためにある。信徒に尽くすことが聖職者の本
分だ。
(ロ)その本分は、現場に出向き、貧困者や弱者に献身的に寄り添うことで初めて達
成(教会にこもって、祈るだけでは駄目)される。
(ハ)すなわち、教会自体、貧しくなければならないし、貧しい人達のためのものであるべきだ、と。
 これらの中でも、(ハ)の「貧しい人々へ寄り添え」との主張は、フランシスコ改革の中核を占める(下記4.参照)。

  第2は、集権構造から分権型構造への転換。法王は説く、法王庁中心主義(過剰な集権構造)を改め、各現場の実情を踏まえた分権構造確立が急務だ、と。「現場のことは現場で」という「現場中心主義」への転換は、「中央は現場のことがわかっていない」という現場の声を汲んでのことと想われる。
法王が分権化を具体的にどこまで進めようと考えているかはまだ明らかではないが、法王は、「東方正教会の在り方」が一つの示唆を与えてくれるとしていることから見て、ローマ法王の権限縮小、並びに、(法王の権限の)世界司教会議(Synod)への移譲を含むものと思われる。

  第3は、「排除の文化」から「包摂の文化」への転換。法王は説く――教会は、従来、「教義の番人」であることにこだわる余り、同性愛者や離婚者などを「排除」して来たが、神の愛は万人に遍く向けられる以上、かれらや無神論者をも、胸襟を開いて迎え入れるべし、と。


3.イエズス会士ならではの視点

(1)「前線文化」の持ち込み
  以上のような視点、すなわち、「信徒に仕えることに、聖職者の本分はある」、「『聖職者(clergy)』意識を捨て、『羊飼い(pastor)』に戻れ」、「聖職者中心主義から脱皮せよ」、「バチカン中心主義を改め、現場の声に耳を傾けよ」と言った一連の発言からは、カトリックの聖職者に意識改革を求めた法王の強い思いが看取される。ズバリ言えば、法王は、バチカンを頂点とするカトリック世界全体に、「前線文化」、露骨に言えば、「イエズス会風の文化」を持ち込み、浸透させようとしていると、私は見る。

  すなわち、ブエノスアイレスの時代から一貫して、教会は貧困者をはじめとする世間の弱者に寄り添うべきとの点を再三にわたり説いて来た新法王は、バチカンに乗り込んでからも、教会は、教義や教理をいじくると言った「小さな枠組み」に閉じこもっていたのでは駄目だと明言の上、「教会の外に出て、貧しい人、疎外された人、差別された人達に寄り添い、彼らと共に祈ることが重要だ」と説き続けている。

(2)「包摂の文化」へのシフト
  昨年夏以降になると、更にトーンを高め、「これまで教会は、離婚、同性婚、避妊、中絶などの諸問題に神経質になっていたが、神の愛はそれらの人々にも等しく注がれるものであり、これらの問題を抱えた人たちを『排して』来たこれまでの頑なな姿勢は改めなくてはいけない(注2)」、「教会は、こうした人たちに加え、疎外された人達、貧困に苦しむ人達に(出かけて行って、直接)手を差し伸べなければならない」、「(すなわち、)教会は、(貧しい人、弱者などのための)『野戦病院』となるべきだ」と言った発言を繰り返している。別の機会には、「神の愛は、無神論者にも、あまねく注がれる」との発言すらあった。「排除(exclusion)の論理」から「包摂(inclusion)の論理」にシフトせよ、と言うことだ。

ここで、下線を付した部分に注目して頂きたい。この発言は、教理、教義の変更を迫るものではないにせよ、従来の教会の保守的な姿勢に疑問を呈したもの――明言こそ避けているが、ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世を含む従来の姿勢に対する批判となっていることは明らか――であるだけに、既に保守派の一部からは反発の声が聞かれる。しかしながら、生命倫理・家族倫理に関わる教会の保守的かつ頑なな姿勢が、西欧や中南米で「カトリック離れ」をもたらしている一因であることに照らせば、カトリックに嫌気がさした多くの信徒、すなわち、カトリック離れ予備軍とも言える人々は、法王の発言をむしろ好感している(=教会再認識に繋がるかもしれない)ものと推測される。カトリックの信徒だけではない。広く一般の現代人から見ても、法王の言動は(従来カトリック教会が説いて来たところに比し)ずっと理解しやすいものであり、だからこそ、「世間」における法王の好感度、注目度は高いレベルにある訳だ。近年スキャンダル続きでイメージを損ねたカトリック教会であるが、「フランシスコ効果」、「フランシス・コマジック」が続けば、何れ失地の何がしかは回復出来るかもしれない。


4.中南米出身者ならではの視点――貧困問題への強いこだわり

次に、法王の「貧困」問題に関する強いこだわりにつき、補足する。法王は、累次にわたり、貧富の格差拡大と、その背後にある抑制のきかない利益優先思想を批判し、世界の指導者が倫理的観点から国際金融制度改革を手掛けるよう求めたが、その際、「(資本主義は)貨幣信仰に堕してしまった」、「(メディアは)株価が2%下落しただけでも大きく報じるのに、ホームレスの老人が野垂れ死にしても歯牙にもかけない。これは一体どういうことなのか?」など、舌鋒鋭い指摘を繰り返して、それら発言は大々的に報道された。

  法王の一連の発言に対しては、「市場主義信仰」の強い米国で反発が少なくなく、「法王の口からマルクスの思想が発せられた」と毒づいた人すらいた。他方、同じ米国で真逆の反応もあった。特に、下線を付した法王の発言が、或る政治家の心(ハート)を――他ならぬオバマ大統領の心を――しっかりと捉えたことを見過ごす訳にはゆかない。大統領は、フランシスコ法王の社会哲学にいたく共感しており、昨年11月末に法王が、それまで発表したメッセージを集大成した「使徒的勧告」を発表した際には、大統領はしっかり自分で文書に目を通した模様だ。更に、12月に行った経済問題に関する演説の準備段階で、スタッフが草案を提示すると、一読後「ローマ法王に言及せよ」との指示を下したと言う(LAタイムス)。どうやら、貧困問題、社会問題、移民問題に関しては、二人の思想はかなり近いと言えそうだ。因みに、大統領は、3月下旬に法王に謁見する。

  実は、市場主義への批判は、フランシスコ法王の専売特許ではない。前任のベネディクト16世も、前々任のヨハネパウロ2世も、「荒削りの資本主義」では駄目だと、舌鋒鋭く繰り返していた。二人とも、格差の問題についても警鐘を鳴らしていた。そこまでは、フランシスコと同じだ。だが、従来の法王は、「教会の使命は、家族倫理などへのこだわりにではなく、貧困に寄り添うことだ」とまでは言わなかったし、そうは考えなかった。それは、彼ら(二人とも欧州人)が「本物の貧困」、「本場の貧困」を直接「肌で知らない」ことによるものだ(と、私は見る)。

  そう、私の経験から言っても、中南米の貧困は、欧州の貧困とは比べ物にならない、つまり、一桁違う貧困、「凄み」に溢れた貧困だ。中南米出身で、本場の貧困を熟知したフランシスコ法王にとっては、この貧困の問題を放置したまま、教義、教理の問題を、「安全が確保され、貧困から隔絶された室内」で論じることは、偽善以外の何ものでもない、と映っている訳だ。新法王は、政治運動としての「解放の神学」にこそ組さなかったが、その精神だけはしっかりと継承した人物なのだ。ここに、新法王と先任諸法王を分ける鍵がある。要するに、フランシスコは、既にして、「欧州出身者は持ち併せない新たな観点」、「中南米的な持ち味」をバチカンに持ち込みつつある。



5.改革への布石――人事面で法王色

  言うまでもないことであるが、諸改革を本格化させるためには、要所要所に、法王のめざすものに共鳴する人材を配置することが先決だ。最重要人事は、首相(注:原語を直訳すると国務長官となるが、私は、実態を反映させるべく、敢えて首相と訳している)の人選だ。法王は、昨年10月に、このポストに、諸先輩を飛び越して、若手のホープ、駐ベネズエラ大使パロリン大司教を呼び戻して、各方面をあっと言わせた。多くの人が、この人事から法王の「本気度」を感得した。

  その後も、法王は独自色の強い人事を継続している。特に重要と言えるのは、司教省長官の人事(昨年12月16日)及び16人の新枢機卿の発表(1月12日)だ。

  まず前者について。同長官は、キリスト教圏の司教のお目付け役(注:非キリスト教圏の司教は、福音宣教省が担当)であり、各国の教会のあり様に強い影響を有している。法王は12月に、イデオロギー的に保守的と目されているバーク枢機卿(米国出身)を外し、より穏健色と言われているウァール(Wuerl)枢機卿(ワシントンの大司教)を据えて、注目された。やがて、ウアール長官を通じて、法王の考えに共鳴している司教が、世界各地で登場することになるだろう。即効性はないかもしれないが、じわーっと効いてくると言うことだ。

  次に、16人の新枢機卿の人選について。(コンクラーベで次期法王選出に参画できる80歳未満の)枢機卿は、法王に次ぐ枢要な聖職者である。で、投票権を有する枢機卿(120名弱)に占める欧州出身者の割合は、これまでは、50-55%と、世界の信徒数に占める欧州信徒数の割合24%を大幅に上廻って来たのに対し、「南」(中南米、アジア、アフリカ)出身枢機卿は全体の35%前後と、信者数割合68%を大幅に下廻って来た。右を念頭に入れて、今回昇格する16人について見ると、「南」は9人で56%と、現行レベル(35%前後)を大幅に上廻った反面、欧州は6人で38%と、現行レベル(50-55%)を大幅に下廻ったことが、特筆される(注3)。

  つまり、「教会は、清貧を旨とし、貧しい人たちのためのものであれ」と説く新法王は、枢機卿人事の面で、「北」から「南」、富裕国から貧困国へのシフトを始めたものと解せられる。当然、欧州優遇策が放棄されることになろう。このような形で人事が繰り返されれば、5-10年後には、全枢機卿に占める「南」の割合は目に見えて増加し、逆に、「北」の割合は低下し、もって、南北格差は是正されることになろう。カトリック世界に、欧州中心主義から多角多元主義への転換が根付くか、注目を要する。

枢機卿人事との関係で付言すれば、日本では4年余にわたり枢機卿がいない状態が続いている。そのようなことは、この半世紀間なかったことであるだけに、新法王により、この状況にストップがかけられることが期待される。



6.結び

  旧来の「中央」中心の文化へのかくなる挑戦は、「中央」を体現した人からは出て来難い。イエズス会士、中南米人と、二重に「周辺」を体現した人物ならではのものだ。特に、貧困問題へのこだわりは、中南米の凄まじい貧困の実態を知るが故のことであり、バチカンのメッセージの幅は、中南米的視点を汲み入れ、確実に広がった。

  欧州中心主義が強かったバチカンだが、中南米、更には、アフリカ、アジアの多様な文化や実状にも十分配慮した多角主義(注4)をベースとしたカトリック教会の確立に向け、「一皮むける」ことになるか、注視したい。とは言え、新法王によるこの歴史&文明への挑戦、まだ具体像はおぼろげなところが多い。今後具体策が示される段階に移るに従い、保守層の反発は必至だと目されるが、法王の決意は固い。

(注1)法王の人気度につき、データを交え、紹介する。一般信徒と同じ目線に立って、交わることを身上とする法王フランシスコは、その行動と発言を通じ、実に多くの信徒を惹きつけている。その結果、就任(昨年3月13日)以降の10か月間にバチカンに詣でた信徒数は実に660万人と、前年(前任のベネディクト16世の治世)の水準(230万人)に比し、3倍近くに著増した。増えたのは、「バチカン詣で」だけではない。世界各地において、カトリック教会のミサに参加する信徒の数も軒並み増加した模様だ。特に、法王の出身国であるアルゼンチンでは、「信者だ」と自認する人の数が(前法王の時代に比し)1割強増えたと伝えられている。これらの「フランシスコ効果」、「フランシスコ・マジック」は、カトリック信者だけでなく、他の宗派・他の宗教の信徒、更には、無宗教の人達にも及んだようだ。すなわち、これらの人達の中には、「自分は法王フランシスコのために祈るのだ」と言って憚らない人が出て来ているとか。

  以上のような次第をも踏まえ、昨年12月に米国のタイム誌は、恒例の「今年の人」として法王フランシスコを選定した。その理由として、同誌は、「法王フランスコは、教会への希望を失った多数の人々の心を、あっという間に掴んだこと」、「旧来の教義重視の姿勢から、(教会の)癒しの役割を重視する姿勢にギアをシフトしたこと」などを挙げている。因みに、これまでに、この「今年の人」に選ばれたローマ法王としては、他に、ヨハネ23世(1962年)、ヨヘネパウロ2世(1994年)の2人――何れも、格別人気が高い法王――がいたが、何れも就任後多年を経てからのことであり、就任直後にいきなり選ばれた今回の事例は「異例」だったと言える。つまり、フランシスコは、歴代法王の中でも、カトリック世界での人気が特に高いことに加えて、世界の注目度もひときわ高いことが、タイム誌を突き動かした訳だ。

(注2)バチカンは、避妊、中絶、同性婚など家族倫理、生命倫理の問題についての一般信徒の受け止め方を調査するべく、現在世界大の規模で、アンケート調査を実施中だ。その結果を踏まえ、本年10月には、バチカンで世界司教会議(Synod)が開催される。このアンケートの実施は、「理念(イデオロギー)より現実を重視する」と明言する法王のリアリストとしての姿勢(昨年11月の「使徒的勧告」)が如実に示されたものと言えよう。

(注3)新法王の姿勢は、毎回枢機卿の人選をするたびに、半数以上を欧州出身者から選んだ前法王ベネディクト16世の欧州中心主義と、好対照をなす。

(注4)法王フランシスコは、(前任のベネディクト16世が、8年間の治世に一度もアジアに足を踏み入れなかったことに照らし)自分は、アジア訪問を優先するとしている。多角主義化の観点から評価したい。本年については韓国、来年はスリランカとフィリピンが対象となる公算が高いとされている。法王が既に公私両面で、日本への関心を示していることもあり、日本のカトリック教会には、訪日の早期実現をめざして、働きかけを強めて頂きたいものだ。

【参考】上野景文著「バチカンの聖と俗(日本大使の一四〇〇日」(かまくら春秋社)
(2014年1月30日寄稿)

『国際宇宙ステーションと日本外交』 2013.12.12

『国際宇宙ステーションと日本外交』


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     宇宙航空研究開発機構 調査国際部参事
     前在イタリア大使館公使      星山 隆


 若田光一宇宙飛行士を乗せたロシアのソユーズ宇宙船が11月7日国際宇宙ステーション
(International Space Station、以下「ISS」という。)へ向けて飛び立ち、6時間後にドッキングに成功した。これまで2日間かかっていたのが2013年からはかくも短時間で到着できるようになり、宇宙がますます近い時代になった。若田氏は約6か月間宇宙に滞在し、来年
3月から2か月間アジアで初のISS船長(コマンダー)を務めるという快挙も決まっている。

 本稿では、この機をとらえてISSという人類にとって初めてとなる「国境のない場所」での国際協力プロジェクト※(1) が日本外交にとって如何なる意味合いをもつかにつき紹介したい。結論を先に述べると、ISSは①日米関係の強化に役立っている、②価値を共有する国々と共に好ましい安全保障環境を醸成する一翼を担う、③日本の防衛力向上にも資する基幹技術を涵養している、④国際平和や宇宙探査といった国際公益に貢献することで日本のソフトパワーを高めている、といった多様な外交・安保上の意義をもっている。

 一言で宇宙研究開発といっても、宇宙の広大さ、深遠さに比例するように多様な意義、目的を包含していることから見る視点により評価が異なりやすく、そのため各プロジェクトの全体評価を行うのが大変むずかしいという特徴をもっている。とりわけISSプロジェクトは多面的である。主なものを挙げれば、(ⅰ)医療や素材産業に役立つビジネスの視点からの研究成果、(ⅱ)人類の起源、宇宙の神秘を解明する宇宙科学分野での成果、(ⅲ)人類による火星探検への一里塚としての技術成果、(ⅳ)宇宙の神秘に夢を抱き未来の科学技術を担う日本の若者への教育効果といった顔である。これ以外にも外交・安保の顔があり、本稿ではここをフォーカスする。現在の数ある宇宙活動の中でも、国際平和に貢献している最たるものがISSであるというのが筆者の見方である。

1. 日米関係の強化
 よく知られるように宇宙開発は戦後すぐ米ソの軍事競争として始まったが、この国際宇宙ステーション構想も同じ東西対立の脈絡のなかで、冷戦も終盤の1984年1月レーガン大統領によって打ち上げられた。欧州、カナダと時を同じくして、日本では中曽根総理が参加を表明した。そこには、ロン・ヤス関係のみならず、西側の結束誇示の必要、日米経済摩擦の緩衝材としての期待、宇宙先進国に名を連ねることへの矜持があった。宇宙開発は巨大な予算を伴うものであるが、ISS計画は特に巨額で、予算不足を主たる理由として進捗は大幅に遅れた。1998年にようやく建設が緒に就き2011年に完成したが(宇宙飛行士の滞在は2000年から開始)、その間に冷戦が終結したことにより、ロシアの参加を得てその経験・技術を取り込むという大きな方向転換があった。東西対立から生まれたはずのISSが今や宇宙先進国による国際協力活動の場として国際平和を体現する象徴となったのである。構想立上げから完成、そして現在の活動に到るまで、このプロジェクトのキャプテンは米国である。あまり知られていないが、日本は年間約400億円の予算を使って、EUやカナダ以上にこの米国主導のプロジェクトを支えてきた。

 1990年の湾岸戦争で宇宙の衛星群とIT技術の飛躍的発展が相伴って軍事技術革命が起きたことはよく知られているが、その後も宇宙の軍事利用は進展し続けている。日本でも北朝鮮による1998年のミサイル発射実験がきっかけでその年中に情報収集衛星の保有が決定され2003年には2機が打ち上げられた(現在4機体制)。そして2008年には防衛目的の宇宙利用が解禁されるに至り、米国との共同で研究・開発が進む弾道ミサイル防衛システムも今や我が国防衛にとって欠かせない。去る9月には日米外務・防衛閣僚による安全保障協議委員会(2+2)の場では日米が宇宙状況監視や宇宙からの海洋監視の分野において協力を行っていくことを確認した。宇宙状況監視というのは、稼働中の人工衛星などが宇宙ゴミ(debris)と衝突し損傷することがないよう日米が情報共有により宇宙空間を共同監視しようという試みであり、秩序ある宇宙空間の形成につながる。海洋監視は文字通り、海洋上の船舶の動きを日米が宇宙技術を利用して共同してトラッキングすることをめざす。

 実は宇宙技術というのは軍民両用技術であるというところに最大の特徴があり、軍事面での協力に未だ制約が多い日本にとって、宇宙分野は貴重な日米協力強化の場となっており今後の協力潜在性が高い。もとよりISSにおける協力は軍事目的でないが、技術を基盤とする協力の場として日米関係強化の重要な一翼を担っている。こうした国家の基盤技術の開発と運用にあたり中核的役割を果たしているのが文科省の独立行政法人であるJAXA(宇宙航空研究開発機構)であり、関係の製造企業である。

※(1) 米国、日本、カナダ、欧州各国(イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、スペイン、オランダ、ベルギー、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン)、ロシアの計15ヶ国。

2.望ましい安全保障環境の構築
 日米間の宇宙協力が進む中、日本がISSプロジェクトに創設メンバーとして参加している事実は、宇宙という重要な安全保障環境における国際ルール作りに我が国が参画していく上で貴重な足掛かりを与える。というのは、宇宙は陸、海、空に次ぐ第4の戦場であると言われ軍事上重要な空間になるに至っているからである。因みに第5の戦場はサイバースペースで、現在は直近の懸案としてサイバー対策の必要性がクローズアップされている。宇宙とサイバーの違いは「戦死者が出る戦場かどうか」と言われるが、どちらも国民生活に深刻な影響を与える点では同じである。2007年に中国が自国の気象衛星を破壊する実験を行い人工衛星の破片などからなる宇宙ゴミ(debris)を急増させたが、宇宙活動の危険を高めたとして国際的非難を浴びた。同時に、有事に際して敵国の衛星を破壊すれば、軍事的にも、民生上も大きなダメージを相手方に及ぼし得るという現実を世界に改めて知らしめ、「宇宙活動に関する国際行動規範」と呼ばれる国際ルールの制定を急がせる一契機ともなった。宇宙空間を平和的に利用するためのルール作りは、多聞にもれず軍事的考慮や南北対立の様相を含んで難航してきた。他方、宇宙空間の利用が急速に進む中、迫りくる危険を回避するため関係国の妥協を探る動きが強まっている。EUのイニシアティブの下、日本、米国というISSメンバーが協調し、国連の枠外における協議が進んでいる(本年5月にはウクライナのキエフで、11月にはタイのバンコクで会議が行われた)。

 安倍総理が3月にTPP交渉参加決定を発表するに当たり、「TPPの意義は、我が国への経済効果だけにとどまりません。日本が同盟国である米国とともに、新しい経済圏をつくります。そして、自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった普遍的価値を共有する国々が加わります。こうした国々と共に、アジア太平洋地域における新たなルールをつくり上げていくことは、日本の国益となるだけではなくて、必ずや世界に繁栄をもたらすものと確信をしております。さらに、共通の経済秩序の下に、こうした国々と経済的な相互依存関係を深めていくことは、我が国の安全保障にとっても、また、アジア・太平洋地域の安定にも大きく寄与することは間違いありません。」と述べた。冷戦終了に伴い散乱の度合いを強める国際秩序を新たに形成しなおすこと、そしてそのためのルール作りは21世紀に入った国際社会にとって最重要の課題になっているが、安全保障に直結する宇宙秩序もその重要な一部分をなすことは間違いない。

 ISSの主目的は、宇宙先進国が共に英知を絞り宇宙空間に宇宙開発の前進基地を作って活動するというものであるが、そのメンバーは宇宙の安全保障環境を形作る上で大きな影響力をもつ。しっかりした宇宙の行動ルールができなければ、自らの生命が宇宙デブリとの衝突の脅威に晒されるという意味で宇宙飛行士は最前線のステークホルダーであるし、有人宇宙開発を先導する米国、ロシア、EU、カナダ、そして日本にとり人命と宇宙資産双方の維持は大きな関心事である。宇宙開発分野において世界第4位の座を日本と争っている中国も、ISSとは独自の有人宇宙活動を行っており、いずれはポストISSの国際プロジェクトに参加する可能性もあることから平和な宇宙環境を形作ることに共通の利害を有していることは間違いない。日本はISSの創設メンバーとして、宇宙のルール作りの一翼を担う義務があり、また応分の発言権をもっているという意味で宇宙空間の秩序形成に参画し、国際平和に貢献している。冷戦時代は敵対国の軍事衛星を破壊する行為はしないという暗黙のルールが米ソ間にできていた。※(2) このようなタブーを作っていくための象徴的存在がISSにおける有人宇宙活動なのである。

※(2)「Space Policy Primer」(Lieutenant Colonel Michael O.Gleason,Ph.D. ;Eisenhower Center)

3.日本の防衛力向上にも資する先進技術を涵養する場
 宇宙における国際協力は原則ギブ・アンド・テイクである。給付(貢献)した分だけ、見返りがあるということだが、日本のISS年間予算の400億円のうち、半分以上がISSに必要物資を運ぶ輸送船である通称「こうのとり」(HTV)の製作とその打上げのためのロケット(HⅡ-B)経費に使われている。ISSには常時6人の宇宙飛行士が滞在しており、「こうのとり」が、ESAの欧州輸送機「ATV」、ロシアの「プログレス」、米国の「ドラゴン」等とともに彼らの食料や実験機材を運ぶ役割を担っている。日本の宇宙飛行士はこれまで11人誕生しており(宇宙滞在経験のない若手宇宙飛行士も含む)、若田宇宙飛行士は今回4回目の宇宙滞在である。日本人の搭乗権利も日本の貢献度に比例している。国際プロジェクトである以上約束した責務を果たすことはもとより、今後400億円に見合った便益が得られるのかという視点がより重要になってこよう。6トンに及ぶ物資を運べる「こうのとり」を打ち上げ、それを地球から400キロ離れたISSまで運ぶロケットを開発・実行する過程で日本は様々な技術を習得してきたが、これもISS参加によって得られた特筆すべき成果の一つである。今後さらに何を期待できるのかを熟慮しなくてはならないだろう。

 ロケット技術はミサイル技術と同じであるとされ、それをもつのは世界で10カ国に過ぎない。日本は国際協力という機会を利用して、さらにロケット技術を向上させてきた。「こうのとり」をISS本体にドッキングさせるには高度な誘導制御技術が必要であり、その正確・安全な技術は米国からも称賛を浴びている。「こうのとり」本体は物資輸送というミッションを終え大気圏に戻る際にほぼ燃え尽きるが、空力加熱に耐える素材を開発したり、定められた地上に帰着することを目指す実験試みられてきている。また、日本による有人飛行に向けた将来準備という側面もあり、日本が未だ成功していない少なからぬ基幹技術を開発・実証する場になる。この6月中国が有人宇宙飛行船の地球帰還を成功させたニュースが繰り返し世界で報じられ、中国の宇宙技術の進捗を印象付けた。日本では人命安全を最優先する文化から独自の有人飛行を追及することは現状なかなか難しいようであるが、それでも国家の基幹技術を世界最先端レベルに保つプロジェクトの実施機会は大切にしたい。ISSで生まれる技術は民生技術として開発されているが、宇宙技術が本質的に軍民両用技術であることから、コインの両面として間接的ながら我が国の防衛力及び関係企業の技術力を涵養していることになる。安保にも資する技術的成果はISS参加の副次的成果ではあるが、一種の抑止力としての効果を持ちうる。

 日本政府も宇宙技術の重要性を認識し、安全保障・防災、産業振興、宇宙科学等のフロンティアという3つの課題に重点を定めたが、いずれも発展が強く期待される分野であり数あるプロジェクトのプライオリティ付けは容易ではない。※(3) 北朝鮮のミサイル実験以来日本でも宇宙の安全保障利用が事実上始まり2008年には防衛目的での利用が解禁されたことは既に述べたが、本来その分宇宙開発予算が増加して然るべきところが厳しい財政状況の下予算増が進んでいないからである。防災・減災面でも宇宙技術がなせることは多い。そうした中、以上に述べたISSがもつ安保・外交面での特性をどう評価するのかが日本の宇宙活動の方向性を見定めていくうえで一つの注目点となる。その際、日本のISS予算は現状米国、ロシアよりははるかに低いものの欧州を上回っていることとの関連で、冷戦後に欧州をめぐる安保環境が著しく改善し、逆に日本のそれが悪化している点はISS発足時と異なる事情として留意していいだろう。

※(3)日本の宇宙政策の現状については、拙稿「宇宙基本計画における安保インプリケーション」に
 詳しい(世界平和研究所ホームページ)。

4.国際公益への貢献を通じた日本のソフトパワー向上
 冒頭で述べたように、東西対立から生まれたはずのISSは今や宇宙先進国による国際協力活動の場として国際平和を体現している。ISSの存在とそこでの国際協力の実態が宇宙空間の平和利用につき一定のよき相場観を与えてきた。その相場観に反するような軍事的利用は慎まれるべきとの規範化が進むことが今後期待されるところでありその意味でISSは国際平和に貢献してきた。日本もその意味で国際公益の一翼を担っている。

 また、日本がISSへの参加を通じて得ている成果は、有人宇宙探査、天文・地球観測における知見の獲得、無重力環境を利用した成果の医療への応用、新規素材の創製など多様であり本来こうした有為な宇宙利用にこそISSの真骨頂がある。他方、こうした革新的な成果は科学技術という顔としてのみならず、同時に外交・安保の顔としてみると人類のフロンティアを広げることで国際社会全体に貢献している事実がある。日本の各種観測衛星が、気象メカニズムの解明や温暖化ガスの測定に成果を出すことで国際公益に役立っている点はわかりやすいが、ISSが生み出す価値は宇宙先進国のみに実行可能な人類への貢献なのである。宇宙探査でいえば、ISSでの活動は人類の次なる有人宇宙活動へのステップであり、人類が直接宇宙に赴き活動する限界を拡げる場ともなっている。次世代の国際協力プロジェクトが火星の有人探査なのか、小惑星の探査・捕獲になるのか国際的議論は始まったばかりであるが、後者になれば、先般ロシアに落ちた隕石による甚大な人的被害といった事態を防止する足掛かりになるかもしれない。そのための閣僚級会議(国際宇宙探査フォーラム)が翌2014年1月にワシントンで開かれることとなっており、その2年後には日本で第二回開催が決まっている。人類が壮大な宇宙に共同で挑戦していくための会議開催は、まさに日本が主要プレーヤーとして国際公益の一翼を担っていることの証左である。こうしてISSという宇宙の舞台における諸活動を通じ、我が国は科学技術立国、平和国家としてのイメージを高めてきた。宇宙先進国間の宇宙コミュニティで積み上げられてきた信頼関係も一つの財産である。相対的国力が落ちてきている日本にとって宇宙活動で培われたソフトパワーの意味は、外交上も、経済上も看過できないものといえよう。アジア諸国をはじめ世界の多くの国が宇宙分野における日本との協力を望んでいるとの事実もそれを裏書きしている。

 外務省による世論調査によれば※(4) 、一般のアメリカ人の84%が日本を「信頼できる友邦である」、64%が日本のイメージを「民主主義、自由主義など米国と価値観を共有する国」、また97%は日本が国際社会で重要な役割を果たしているのは「科学分野」、とみている。このように日本は米国内で貴重なソフトパワーを有している。ロケット打上げや宇宙飛行士の活躍は日本国内でも大きな話題になるが、アメリカ人の宇宙熱ははるかに高く日常的なものであり、例えば、アメリカ人のNASA(米航空宇宙局)への好感度は73%の高さである(5) 。これらの数字をみると米国において享受している日本のソフトパワーの高さは日米宇宙協力が寄与していると考えてもいいだろう。こうした望ましきイメージは米国に限らず、アジアを始め他の地域にも広がりうる。日本のソフトパワーを宇宙からアピールする視点につき今一度考えてみてもいいのかもしれない。

※(4)米国における対日世論調査(外務省による委託調査、2012年2,3月実施。
 外務省ホームページ)

※(5) 2013年10月21日付Pew Research Center “IRS viewed least favorably among federal agencies”

なお、本稿記述は個人の見解であり、現在所属する宇宙航空研究開発機構(JAXA)や前職である外務省の見解ではない点をお断りしたい。 (了)  (2013年12月3日寄稿)










『富士山が世界遺産になったことで考えたこと』 2013.9.12

『富士山が世界遺産になったことで考えたこと』


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          前ユネスコ事務局長 松浦晃一郎

「田子の浦ゆ打ち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」。これは、私の大好きな万葉集にある山部赤人の詩である。本栖湖近辺にある私の山小屋から見る富士山は田子の浦から見る富士山のちょうど反対側になるが、同じような風景を秋に良く見かける。また、この詩は百人一首にも入っており、学生の頃かるたとりが得意であった私は色々な試合に出場したが、この詩に対しては絶対に他人に取らせることはしなかったほど好きである。従って今回富士山がユネスコによって、世界文化遺産に認定されたことは、大変嬉しい。

今回、富士山は信仰の対象および芸術の源泉として世界文化遺産に登録されたが、世界遺産についてかなりの知識を持っている方は、富士山はなぜ文化遺産と自然遺産の双方の要素を持った複合遺産として登録されなかったのか、という疑問を持たれるであろう。現にニュージーランドのトンガリーロ山や中国の泰山は、まさに複合遺産となっている。私がユネスコの事務局長になってから両者とも訪れているが、双方ともまさに複合遺産として「顕著な普遍的価値」を持っていると断言できる。泰山は、1987年に万里の長城等々あわせて中国の最初の世界遺産として登録された。泰山は、長年道教の聖地として信仰の対象となっており、頂上には道教の一連のお寺もあるので、なんらの異論も出ず登録された。他方、トンガリーロ山は、ニュージーランドの先住民であるマオリ族が崇拝する山であるが、山そのものが信仰の対象であり、泰山のように頂上にお寺があるということはない。従って、トンガリーロ山が複合資産の候補として提案された時に自然遺産としては理解できるが、文化遺産としては、認定できないというのが世界遺産委員会での結論であった。

当時は、世界遺産委員会はまだ西欧的な思考が支配的であり、山そのものを信仰の対象にするという慣習が西欧にはなかったのである。従って、トンガリーロ山は1990年に自然遺産としてのみ登録されたが、ニュージーランド、中でもマオリ族は大変不満であり、トンガリーロ山を文化遺産としても認定するよう繰り返し求めた。その結果、世界遺産委員会では専門家会合を繰り返し開き、新たに「文化的景観」という概念を認め(日本が世界遺産条約を批准したのは1992年で、これらの一連の議論には参加していない)、そのもとで信仰・芸術の対象に適用される評価基準(ⅵ)に当てはめることにし、1993年に世界遺産委員会により正式に文化遺産としても認定された。これでトンガリーロ山はようやくマオリ族が望むような複合遺産になった(ちなみに泰山は文化遺産に適用される評価基準(ⅰ)から(ⅵ)までの全ての基準が適用されている)。私がユネスコ事務局長としてニュージーランドを訪れた時、トンガリーロ山の麓でマオリ族の幹部7, 8名と懇談する機会をもった。その際、マオリ族の各幹部はトンガリーロ山がマオリ族にとって信仰の対象としていかに重要であるかを強調していた。

私は1999年11月ユネスコ事務局長に就任しその翌年の2000年に日本に一時帰国する機会が3度ほどあった。その際に、色々な方からぜひ富士山を世界遺産に登録したいので、今後どういう手順で進めるべきかという相談を受けた。中でも中曽根康弘元総理より「富士山をぜひ世界遺産として登録したいので協力してほしい。これからいろいろ専門的に検討していく必要があると思うので電通会長の成田君(先方の発言のまま)にその指揮をとってもらうように頼んである。近いうちに成田君をパリに派遣するので君の考えをよく説明してほしい」旨の依頼があった。私より喜んで協力したい旨を直ちにお答えした。その後、成田会長がわざわざパリのユネスコ本部まで来られたので次の様な趣旨のお話をした。私は、ユネスコの事務局長になる1年前の1998年11月から1年間世界遺産委員会の議長を務めた経験があり、私自身も一日本人として日本の象徴になっている富士山を早く世界遺産に登録すべきと思っている。しかし、富士山をトンガリーロ山、泰山のように複合遺産として登録できるのかどうか専門的に検討する必要がある。富士山は、海岸近くにそびえ立つ非常に美しい活火山であるものの、本当に自然遺産として「顕著な普遍的価値」をもっているのかどうか。もしそうでないということであれば、文化遺産としての登録を目指すことになるが、富士山としての文化遺産としての「顕著な普遍的価値」をどこに求めたらいいのか等々、専門家の間でしっかり検討する必要がある。

2010年1月、ユネスコの事務局長として10年の任期を終えて日本に帰ってきてから、日本の各地において地域活性化の見地から文化を大いに活用したいとの気運が盛り上がっているのを知り、嬉しく思った。そういう動きを側面から支援するために五十嵐敬喜、岩槻邦男、西村幸夫の三氏と一緒に「逞い文化を創る会」を設立した。
富士山については信仰の山、芸術の山として提案する方向で準備が進んでいることを知った(その中核を担っている専門家が西村幸夫氏)。右を踏まえ「逞い文化を創る会」が中心となり、他の専門家の協力も得て「富士山、“世界遺産へ”」という本を出版した(2012年2月 ブックエンド社)。さらに右出版物をふまえて2012年2月23日富士山の日、静岡市で静岡・山梨両県の協力を得て「逞い文化を創る会」が中心となって大々的なシンポジウムを開いた。

その後、更に専門家の間で検討が進み、富士山周辺の浅間神社、霊地・巡礼地である風穴・湖沼、湧き水等、信仰の山として登る時に訪れる場所や葛飾北斎の「富嶽三十六景」等の対象になった場所合わせて25箇所を文化遺産候補富士山の構成資産として選んで、ユネスコ事務局に提案することになった(富士山の山麓は開発が非常に進んでいるので「文化的景観」という概念は適用しないことにした)。これで1993年にトンガリーロ山が信仰の山として世界文化遺産に既に登録されているので富士山が世界文化遺産になることは確実になったと思った。

ユネスコでの審査手続きの第1段階は、文化遺産の世界的な専門家集団であるICOMOSが技術的な審査をすることになっている。そのICOMOSの専門家が2012年秋に日本の専門家達と一緒に現場を訪れた。同行した日本の専門家たちの印象では、同専門家は非常にポジティブな印象を持ったようである。第2段階は現場を訪れた専門家がICOMOSに意見書を提出し、それに基づいて20名以上の国際的な専門家が議論をし、ICOMOSとしての最終的な意見書を纏める事になる。ICOMOSの全体としてポジティブな結論(構成資産の1つであった三保の松原が富士山から物理的に45キロも離れており、富士山と一体として捉えることは無理であるとコメントしている点を除いて)を日本側に対し、2013年5月初めに連絡してきた。

ユネスコの第3段階は、世界遺産委員会の審議である。世界遺産委員会は6月中旬カンボジアの首都プノンペンで開かれ、世界遺産委員の各主要委員は富士山は日本の象徴であり、もっと早く世界遺産に登録すべきであった、また三保の松原も物理的には富士山から離れているものの信仰の上でも芸術の上でも富士山と一体として捉えられているので、富士山の構成資産のひとつとして認めるべきである(日本側より主要委員に対し繰り返し日本側の考えを説明したことを踏まえての発言)と指摘し、全員一致で三保の松原も含めて富士山が世界文化遺産として登録されることになった。信仰の山・芸術の山ということでトンガロリーロ山と同じように評価基準(ⅵ)が適用され(トンガリーロ山は信仰の山であり、芸術の山であるということにはなっていない)、加えて、日本の文化的伝統を示す稀有な物証であるということで評価基準(ⅲ)が適用されることになった。ちなみに、トンガリーロ山については、評価基準(ⅲ)が適用されていないが、私は富士山と同様同基準が適用されてしかるべきであると考える。
私は、カンボジア政府の招待で同委員会の冒頭は出席したが、富士山は後半に取り上げられたので、私は既に日本に帰っていた。富士山の登録が伝えられたときは、大変嬉しく受け止めた。しかし日本の多くの方は、富士山が世界遺産になるのは当然のことと考えていると想像していたが、私の予想に反し日本全体で非常に大きな反響を呼んだ。 他方、富士登山客の数はほぼ例年並みにとどまったようである。

ひるがえってユネスコで世界遺産条約が採択されたのは1972年で、昨年11月には日本が京都でその40周年記念行事を世界各国から大勢の専門家を招いて開催し(私の後任であるイリーナ・ボコバ事務局長も出席)、そして、世界遺産になった資産の「顕著な普遍的な価値」をしっかり保全していく為に、関係地域社会が演ずる役割の重要性を強調した「京都ビジョン」を採択した。候補案件が世界遺産に登録されるとそれで最終目的が達成されたと思われがちであるが、そうではない。世界遺産委員会は、すべての世界遺産についてその「顕著な普遍的な価値」がしっかり保全されているかどうかを定期的にチェックすることになっている。日本には現在世界遺産は、今回の富士山を加えて17あるが(文化遺産13、自然遺産4)、関係地域社会がこれらの遺産の「顕著な普遍的な価値」を保全していく義務を負っていると言えよう。富士山についても同様で、富士山の場合は、富士山の位置する静岡県および山梨県の県という関係地域社会の方々のみならず、大げさに言えば日本国民の全責任と言えよう。とりあえず、3年後に改めて富士山の構成資産25全体の管理保全計画を提出し、それに基づいてユネスコ側が管理保全状況を審査することになっているので、これにしっかり答えることが当面の最大の課題と言えよう。(2013年9月2日 寄稿)  


『スー・チー女史の新たな挑戦=ミャンマーの国づくりと大統領選挙』 2013.7.11

『スー・チー女史の新たな挑戦=ミャンマーの国づくりと大統領選挙』




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元在ミャンマー大使館参事官 熊田 徹

二重のハードル
ミャンマーの最大野党党首スー・チー女史は、27年ぶりに来日滞在中の4月17日、東京での記者会見で2015年の総選挙と関連させつつ、「現行ミャンマー憲法規定には私が大統領になれないようにしている部分がある」と語った。昨年の議員就任以前から現行憲法の非民主性を理由に主張していたその改正を、自らの願望達成の政治的手段としても位置づけたのである。

テイン・セイン大統領は既に憲法改正についても同女史の大統領就任希望についても、それぞれ別の機会に民意次第として容認していたから、この発言自体は予期どおりといえる。だが、同女史のこの政治意思実現には、「国家危機管理体制」維持を第一義とし、そのため大統領に権限を集中する現行憲法の特異な性格ゆえに、
二重のハードルを乗り越える必要がある。

先ず、現行憲法規定上、大統領就任資格はその身分のみならず、政治、行政、経済ならびに軍事に精通した資質を含み(59条)、その変更は議員総数の20%の賛同による改正法案発議(435条)を経て、議員総数の75%の賛成とその後の国民投票による過半数の賛成を要する。したがって与党と軍人票とで約80%を占める政権側に対して、議席数約8%のNLDは、仮に無所属議員や反ビルマ族的(つまりは基本的に反NLD)とされる少数民族諸政党を引き込む戦術をとるとしても、改正法案提出に必要な議席数を満たし得るかさえ微妙である。要するに、軍人・与党の票田切り崩し策が鍵となる。

次に、改正法案の内容も、同女史を大統領と想定する以上、必然的に第11章「国家非常事態」の合計33の諸条項と、少数民族問題に関する政治的・軍事的問題や経済開発関連の諸条項との調整など、他の多くの重要問題にも波及する大作業となろう。それは、すでに進行中の各種法制改革や外国投資などを遅らせかねないうえ、植民地時代以来ミャンマーの国家社会が抱えてき、現行憲法体制の最大目標ともなっている、「国民間和解」達成の過程を混乱させかねないとのディレンマを含んでいる。

「国家・国民の分裂の排除」と「つなぎの憲法」 
 2008年の国民投票で採択された現行憲法は、国軍と軍人の圧倒的権限を中核とした「危機管理中心主義」的な性格ゆえに、米欧主要諸国政府や国際社会の多くとスー・チー女史のNLDとから、軍政延命のための反民主的憲法として非難された。同憲法下で2年後に行われた選挙も不正だらけの茶番劇としてその正統性を否定され、ミャンマー新政権に対する国際制裁はそれまでどおり続けられた。だが一方、サイクロン・ナルギス被害に際してASEAN 諸国による対ミャンマー援助の「非政治化」主張や、米国の政権交替による外交政策の変化などを機に、対ミャンマー政策についても制裁はかえってマイナスとの見解も現れはじめた。

米国の対ミャンマー制裁政策は、2011年9月中旬のミッチェル米国政府特別代表兼政策調整官(現駐ミャンマー米国大使)がネピドーを訪問してミャンマー新政府・議会首脳部や野党議員、少数民族代表を含む政界人等と行った「極めて親密で建設的な会談」を機に、現政権下での民主化改革支援へと、明確に方向転換した。同調整官は訪問成果に関する記者会見で、この点を「(改革努力の真摯さについての)懐疑派の誤りを証明する」とか両国関係の「パラメーターの変更」などの表現を用いて説明した。現在では、対同国制裁継続を唱えるごく少数の国際NGOを別として、すべての国が対同国改革政策支援に転じている。しかも、この方向転換はかつて非難罵倒の対象とし制裁政策の根拠としていた、現政権と現行憲法の改変を条件としてはいない。

このようにみると、スー・チー女史・NLDは従来とは異なり、単なる反政権や憲法改正論だけでは内外の支持を受けられそうもなく、改革プロセスの推進に役立つための政策形成能力を示して軍人中心の与党側の政策と優劣を争うしか選択の道はなさそうである。 
現行憲法前文は、過去の憲法について次のように述べている。独立を急ぐあまりに慌しく起草された1947年憲法は効果的な民主主義を実現できず、1974年憲法も1988年の事件で停止された後、広範な公民的熱望に応じてSLORC(国家法秩序回復評議会)が複数政党制民主主義と市場経済制の採用に向けて努力した。そして将来の国民のための恒久的憲法の必要にかんがみ、SPDC(国家平和開発評議会)が1993年に国民会議を召集した。同会議は幾多の困難と妨害に遭遇したが、2003年の「7段階のロードマップ」に沿って2004年に断固として再開し、憲法の基本原則と細部原則とを採択できたので、2007年9月に任務を終えた。前文はまた、国民の決意として、国家と国民的連帯の分裂の排除、主権の維持、正義、自由、平等に基づく「永遠の真理」、人種的平等などに触れている。

国民会議は本来「恒久的憲法」の制定を目指していたのだが、結局「危機管理憲法」の採択でもってその任務を完了したというのである。注目すべきは「国家・国民的連帯の分裂の排除」という、「国民和解」とは裏返しのこの表現が、本文でも繰り返し用いられていることで、それがこの憲法の根本命題であり、同憲法の基本原理となっていることである。
つまり、現行憲法は、従来からの「国家・国民間連帯が分裂する危機」が依然続いているがために、「7段階のロードマップ」が目指していた恒久的憲法を制定する時期が到来するまでの、「つなぎの憲法」なのだということが理解できる。とするならば、改革政策の形成と実施には、その前提として、現在のミャンマー国家社会自体がその歴史的展開の中で占めている過渡期的な位置如何を確かめておく必要があろう。

「複合社会ビルマ」からの脱却としての「改革」
植民地ビルマの行政官僚として数十年の経験を有し、同国の政治経済問題の権威でもあるJ. S.ファーニヴァルは、1957年の著作で、「ビルマの議会制度は軍事力と(レッセ・フェール的な外僑支配の)経済とにより支えられていたに過ぎない」とし、同国社会を「数々の民族が隣り合って住んではいるが、それぞれがバラバラで共通の福祉や目標によって結ばれてはいない複合社会」と定義した。そして、「(ビルマでは)多数決原理に基づく民主主義は幻想に過ぎないのに、彼らは歴史的に類例を見ない不利な条件下で壮大な民主主義の実験を行っている」と指摘した。また、翌1958年には、次のような分析をしている。

・・・・・*・・・・・ 

「ビルマの自然と歴史は、その統治者が誰であれ、住民の統一と変貌する内外情勢への適合とを、統治上の主要課題として科した。だが、歴代ビルマ国王はこの課題をついに達成しえなかった。英国の統治は国民統一促進のためには何一つなさなかっただけでなく、逆に分派主義を助長した。ビルマ・プロパーを直接統治下に、辺境地諸住民を間接統治下に置いて両者を隔離したうえで、後者をそれぞれの土侯の支配に任せて、互いに離反せしめた。 さらに特定少数民族のみを軍隊に採用してビルマ人との間に種族的敵対感情を醸成した。・・・英国の統治目的は、ビルマの物的資源を全世界の自由企業に平等に開放してこれを開発することにあり、・・・自由主義的企業制度の結果、工業と商業および科学的職業は外国人の手中に帰することとなった」。「経済勢力が支配する『複合社会』において、ビルマ人は自らを広い外部社会に適合させる機会を持ち得なかった。なぜなら、近代世界に通ずる道であるところの工業や商業、科学的職業への門戸がビルマ人には閉ざされていたからである。経済的勢力は教育の場においても、近代世界における最も近代的な2本の柱である経済と自然科学の科目からビルマ人を遠ざけていた。かくして外国の支配はビルマを広い外部世界と経済的に接触せしめはしたが、ビルマ人はその敷居際で立ちどまらざるをえず、広い世界の中で暮らす術を学び得なかった」。

              ・・・・・*・・・・・     

 アウン・サンはこのような「経済的真実」ゆえに、「われわれの民主主義」のためとして社会主義的な1947年憲法体制を選んだのだが、ミャンマーは翌年の独立直後から共産主義者や少数民族の反乱と東西冷戦の荒波に飲み込まれ、「植民地的複合社会」からの脱却努力を実行に移そうとした矢先に、「KMT工作」の打撃を受ける。KMTとは1949年に中国人民解放軍に追われてミャンマー北部に逃げ込んだ中国国民党軍とその残党のことで、彼らはその軍事作戦用資金源として、英国植民地制以来の北部少数民族の麻薬産業を簒奪発展させた。カチン族などの武装反乱組織は、今でもその経済基盤をこの麻薬あるいはその他の不法産業に依存している。1962年のクーデターは、この麻薬産業を軍資金源とする「シャン州独立軍」やワ族などがラオス問題に関与して、ヴェトナム・ラオス戦争に巻き込まれる危険を避けるためだった。これには、ウ・ヌ首相の仏教国教化政策が非ビルマ族を連邦離脱運動に走らせてしまったという、信じがたい失政も絡んでいた。ミャンマー最大の麻薬生産者で長らくビルマ共産党の支配下にあったワ族は、ごく最近は民族自衛のため、中国から武器援助を得ている由である。
注意すべきは、宗教対立は英国がインド植民地運営に際して用いた分割統治手段の一つ
だったことである。第二次大戦後インドから離れて独立した東パキスタン(現在のバングラデシュ)と植民地時代には事実上一つの経済単位として運用されていたミャンマー西北部ラカイン州での民族間関係は、今日でもその名残をとどめている。 

一方、ミャンマーの国民も諸政権も、1960年代以降は外部介入からの防衛のため、1988年以降は人権民主化問題に起因する国際制裁により、つい最近までの半世紀間にわたって、外部世界から孤立化し、主として中国との関係強化によりその空白を埋めてきた。
そして今日、新首都ネピドーの議会で、ミャンマー史における賢王3人の巨大な立像が見守る中、国際社会の後押しを受けつつ、同国史上最重要の改革が議せられている。
                               (2013年6月9日 記)(2013年7月10日寄稿)





「五輪東京招致と日本外交」 2013.6.13

「五輪東京招致と日本外交」



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                  オリンピック・パラリンピック
                  招致委員会評議会事務総長
                  元駐フランス大使  小倉和夫
 2020年のオリンピック・パラリンピック(五輪)大会を東京に、という招致活動は、今やゴール直前というか、8合目にさしかかった。9月7日、ブエノスアイレスで開催される国際オリンピック委員会(IOC)の総会での決定まで100日を切った。 対抗馬のマドリード、イスタンブールと比べて東京の強みと弱みは何かが改めて問われ、また最終局面での工作、働きかけが強化されつつある。

 100人前後のIOC委員の賛同を得るためには、個別の工作も必要であるし、また、国によっては、政府への働きかけも有効だろう。さらには、各種の競技団体、スポーツ関連団体との連携も重要だ。 しかし、あらゆる選挙が、「作戦」だけでは勝てないように、五輪東京招致も、理念と大義名分がしっかりしてこそ成功へ導くことができる。そうした大義名分や理念とは何なのだろうか。 それを説明するには、まずそもそも五輪精神とは何かが問われねばならず、その上で、そうした五輪精神をどのようなかたちで、東京は実現してゆくのか、そのビジョンが問われねばなるまい。


五輪精神とは

 オリンピック・パラリンピックというと、多くの人は、4年毎の五輪「大会」をもってオリンピックと見なしがちである。しかし、4年毎(あるいは冬季五輪をいれれば2年毎)の「大会」は、世界に五輪の各種競技が観戦される、大きな機会あるいはイヴェントではあるが、五輪精神からいえば、「大会」は、ハイライトではあっても、全部ではない。五輪の本質は、五輪運動であり、それは、準備段階、あるいは、聖火リレー、あるいは青少年のユースオリンピック(次回は2018年)など、オリンピック精神を普及、強化する全ての活動という意味での五輪運動にある。いってみれば、五輪招致活動もすでに五輪運動の一環である。それだからこそ、通常の選挙とは違って、対抗馬に対するネガティヴ・キャンペーンは許されない。ここにも、スポーツ特有のフェアープレイ精神がながれているとも言えるが、同時に招致活動そのものも一つの五輪運動であるとの考え方が秘められている。
 そこであらためて、五輪精神(オリンピズム)とは何かということになると、それは、かならずしも明確ではない。オリンピック憲章は、身体の調和ある発展や、スポーツと教育や文化の融合を五輪精神としてあげているが、これらは、むしろ究極的な、いわば理念的目標であって、五輪が実現すべき、具体的目標とは言い難い。
 では具体的な目的としての五輪精神とは何かといえば(とりわけ国際社会での意義を考慮すると)、やはりスポーツを通じての国際平和の実現、そして、スポーツ活動への「参加」の拡大ではなかろうか。


五輪と平和

 五輪と平和、というと、とかく人々は、ギリシャ時代のいわゆるオリンピック休戦を思い出すかもしれないが、現代の国際政治の次元で考えると、五輪と平和の関係は、すくなくとも、三つの異なる次元で考えることができる。
 一つは、国際あるいはそれに近い紛争と五輪との関係である。第二次大戦後の五輪の歴史をたどってみると、五輪大会は、国際紛争への抗議の機会として利用されてきたことがわかる。スエズ紛争時のエジプトの動き、ハンガリー事件の際のスイスやオランダの不参加、さらには、アフガン紛争とからんだ61ヶ国のモスクワ五輪不参加などがあげられよう。 したがって、外交的観点からみれば、東京招致にあたっては、五輪が、国際紛争の抗議の場に利用されないよう配慮する事がまず一番大切なことといえよう。

 第二の次元の「平和」は、五輪が、分裂国家間の緊張を緩和する触媒となったり、内戦からようやく立ち上がったばかりで国家形成が十分でない「国家」の選手が何らかのかたちで国際的に活躍する場をあたえる機会となることであろう。たとえば、かつて、東西ドイツが、統一に先がけて、合同チームで五輪に参加したり、リビヤの選手が、オリンピック旗のもとで参加を許されたりしたことが想起されよう。
 日本としては、東京大会開催への過程において、たとえば、南北朝鮮の和解を促進することに五輪を活用できないか、検討できるのではあるまいか。

 第三の次元の「平和」は、いわゆる平和構築と五輪との関係である。IOCと国連との協力のもとに、アフリカで、青年スポーツセンターが、紛争地域の平和定着と開発促進への触媒として開設されている。日本は、こうした試みに一層積極的に協力すべきであろう。また、イスラエルとパレスチナの少年が、日本の山下コーチの下で、初めて柔道の共同練習を行ったことに見られるように、五輪運動の一環として、スポーツを紛争地帯での和解の触媒に活用することも、日本外交の一つの要素であってしかるべきだろう。 


「参加」の精神

 五輪は参加することに意義があるとは、あまりにも有名な言葉だが、現代においては、この「参加」は、単に、競技者のみならず、観客をふくめた、広い意味での「参加」と解すべきである。 五輪大会は、老若男女、障害者も健常者も共に「参加」し、楽しめる大会たることが、五輪の精神に他ならない。近年、女性の参加が特に重視され、また、身体障害者の大会、パラリンピックにも大きな注意が払われるようになったのは、まさに、五輪における「参加」精神の重要性がますます認識されてきたからにほかならない。 そうとすれば、高齢化社会に突入しつつある日本として、高齢者、身障者、女性をふくめ、できるだけ多くの人々が、五輪大会に「参加」できるようとりはかるべきである。東京のバリアーフリー化をさらにすすめることや、青少年のみならず高齢者のスポーツ振興に五輪を活用することも考えねばなるまい。
 また、被災地の子供たちの招待や、青少年のための特別割り引きなど、いろいろな工夫がこらされねばなるまい。

五輪の課題と東京招致

 五輪は、その高い理念にもかかわらず、近年、いくつかの重要な問題、あるいは課題を抱えている。 その一つは、肥大化である。五輪参加者の数は年を追って増大し、それにともなって運営のコストも増加している。もはや、メガ都市しか五輪を開催できないという声も聞く。そこから、近年、簡素化の流れが生じて来た。
 東京の場合、選手村から8キロ以内に多くの競技場を集中し、選手、観客の便宜をはかることが計画されているが、これも、いわば簡素化の流れにそったものといえよう。 肥大化とも関連して、近年、いわゆる安全確保のためのコストが急増していることが問題となっている。東京招致に当たっては、世界の大都市のなかで安全安心の面では、最高水準をほこる東京の強みを生かした、効率的な安全対策を実施できるであろう。

 第二の問題は、メダル至上主義やナショナリズムの過度の高揚といった問題である。 五輪東京招致は、それによって日本だけのスポーツの振興をはかり、メダルを多く獲得するという考え方ではなく、広くアジア・アフリカ、中東地域などのスポーツ振興に役立たせる姿勢か必要である。 たとえば、新しく、世界の選手が訓練、練習できる高度の訓練センターを開設することも考えてしかるべきだろう。 また、先年の東北大震災からの復興の過程でスポーツが果たした貴重な役割など、日本の体験を世界と共有し、そういう形で国際的に貢献したいという態度を日本は強く打ち出すべきである。

 第三に、薬物使用や賭けの横行の問題がある。こうした問題は、五輪にかぎらす、スポーツ界全体の問題であり、いわゆる体罰問題もふくめ、現代スポーツの歪みを直してゆく触媒として五輪とそのための活動を活用してゆくとの態度が大切だろう。とりわけ、グローバリゼーションの結果、競技が国際的となり、選手の国際的移動が激しくなった結果、薬物検査の実施には、緊密な国際協力が必要となっていることを忘れてはなるまい。


五輪のための五輪?

 以上を総合すると、五輪の理念を十分体現しつつ、東京大会を実現すべく招致活動を行うのであれば、東京、そして日本全体は五輪精神ないし理念を十分理解し、それに忠実な大会を実現したいという、意欲と決意をもっていることを世界に訴えることこそが、(一見当たり前のように響くが)実は、真のアピールであり、キャンペーンなのではあるまいか。オリンピックをなぜ開催するのか、それはオリンピックが素晴らしいからだ。それこそが、真の五輪精神ではあるまいか。 もとより、現実には、裏舞台でのかけひきや虚々実々のやりとりも必要である。選挙キャンペーンである以上、票をとるための努力は、理念や理屈だけでは到底済まされない。
しかし、いつの世でも、国際世論を最期に動かすのは、理念と情熱であることもまた心しておかなければなるまい。このように、国際世論を動かす上で、各国の要人や世論指導者に働きかけることは(個々のIOC委員への工作を有効なものとするためという次元をこえて)とりわけ重要である。

 そこまで考えると、五輪東京招致活動はIOC委員票の獲得と招致成功のためのものであるのみならず、日本の国際的イメージの改善や、東京への観光客誘致、日本経済の再生といった、「間接的」目的もふくまれたものであり、オリンピック・パラリンピックは、実は、スポーツの祭典を越えた別の次元の目的を達成するための手段であることが一層明かになる。

  五輪招致活動は、したがって五輪招致の実現をこえた目的をもち、招致のための外交活動も、実は、招致の成功をこえた次元の目標をもつものと言って過言ではなかろう。  (2013年6月11日寄稿)




「日本のガラパゴス化について考える」 2013.5.20

「日本のガラパゴス化について考える」







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                 元外務事務次官  薮中 三十二

一時期、日本でガラパゴス化が様々に指摘された。その際たる例は携帯電話だと言われた。日本は他国よりはるかに進んだ技術を持っていたにもかかわらず、日本でしか通用しない凝りに凝った携帯電話を作り上げ、結局、世界市場で負けてしまった。これではいかん、とばかりにグローバル化が改めて叫ばれ、そのためには、何としても英語が大事だ、というのが合言葉となった。その結果、何が起きているかと見てみると、またまた、新たなガラパゴス化が進行中のようだ。

世はあげてTOEICの点数アップに血眼になっている。企業は600点とか700点を要求し始め、大学でも授業とは別にTOEIC対策に力をいれている。この結果、テスト会場では学生に交じって年配のサラリーマンが必死の様相で受験している。本屋にいくと、TOEIC対策本がぎっしり本棚を占めている。そのなかのベストセラー本の帯をみると、「英語が下手な私が800点取る勉強法」とある。どうやら、受験テクニックがものをいうようである。笑ってしまったのは、知り合いの子がアメリカに一年留学していて、同じ日本の大学から来た学生が集められアメリカでTOEICの試験を受けさせられたとのこと。そして結果は一番英語をしゃべるのが下手な子がトップの成績だったとのこと。

調べてみると、TOEICは日本で開発された英語のテストのようで、日本以外では韓国でも企業が広く採用しているようだ。もちろん実施者のうたい文句のように、日本初のシステムが世界スタンダードになれば素晴らしいことだが、なかなかそういう実態とはほど遠く、日本と韓国以外ではほとんど知られてないようだ。このテストのための勉強に高い授業料を払い、テスト代を払っている。その結果、世界で通用する英語力が磨かれれば問題はないが、得点アップのテクニックばかりが上達し、肝心の英語会話力がさっぱりではグローバル化とほど遠い。グローバル化のため英語の必要性が叫ばれながら、新たなガラパゴス化の危険が孕んでいるのではないかと危惧する。

グローバル化時代に必要な人材とは、はっきりとした考えを持ち、その考えやアイデアを自分の言葉で表現できる人材だ。その際、英語力は当然必要とされるが、多少の文法の誤りは全く問題ではなく、いかに堂々とロジックをもって発言するか、その勇気を持つことだ。国際会議に行ってもさまざまな英語が飛び交っている。誰も英文法に気遣って発言などしていない。また、できるだけ平易な単語を使い発言することも理解してもらう上では有効だ。いま、大学ではそうしたグローバルに通用する人材養成を目指して、学部一年生に英語での授業を行っている。日本人は初めのうちはおとなしく、なかなか発言しようとしない。欧米の学生だけではなく中国人の学生も活発に発言する中で、日本人の学生は沈黙を守りがちだ。これを叱咤激励し、回数を数えるうちに彼らも発言機会を増していく。慣れること、勇気を持つことが大事だ。なかなか日本社会では人前で発言をする機会が少なく、むしろ口数が多いと軽蔑されかねない。ましてや「ロジックを持って発言をするように」と学生には指導するが、そんなことを日本社会ですれば「あいつは理屈っぽいやつだ」となるのが落ちである。こうしたことを打ち破るのがグローバル化への道だと学生に説いていて、彼らの成長を見るのがとても楽しみである。

いま一つ気がかりなのが、最近の中国との向き合い方である。グローバル化時代にあって、世界の状況を正確に把握することが重要なことは言うまでもない。日本が独りよがりになり、世界の動きに関係なく、あるいは世界の動きに逆行して進んでしまっては、ガラパゴス化以上に危険である。いま、東アジアでは世界史的に見ても大きな出来事が進行中である。そのど真ん中にいるのが中国であり、中国の台頭、大国化が進行し、世界の注目を一手に受けている。好き嫌いは別にして、世界中のどの国も、この中国と向き合わざるを得ない状況に置かれている。理由はいたって単純、どの国にとっても中国との貿易が大きくなり、しかも変化、つまり増え方が尋常ではない。日本の試練はこの中国が隣国にあり、しかも戦前の経緯から格別に敏感な関係にあることである。日本はこの百年以上、中国との関係で優位に立ってきた。日清戦争で勝利をおさめ、1930年台には中国に侵攻し、第二次大戦の敗戦はあったものの、中国も世界的に大きな力ではなく、日本が戦後、あっという間に世界第二位の経済大国に発展し、中国を下に見てきた。ところが2000年台に入って中国の力が大きく増大、ついには日本を追い抜いてしまった。この変化を日本が冷静に受け止め、中国を世界の大国として受け入れる心の準備が出来ていなかった。そして中国の発展の裏には成熟していない中国があり、ルール違反が目にあまり、日本人の多くはそうした中国を嫌悪することになった。それが今日の日本と中国、そして世界の状況である。

そして、尖閣をめぐって事態は一気に深刻さを増し、一触即発の状態となった。そこに安倍政権が誕生し、中国と厳しく向き合い始めた。新聞紙上では、価値観を共有する国々との連帯と中国包囲網の構築、このため、とりわけ米国との同盟関係の強化が叫ばれている。
ところが、この状況をグローバルな視点で見ると全く違った景色が見えてくる。前にも指摘したように、世界のどの国も中国との関係緊密化が進行し、米国も例外ではない。しかも肝心の米国が若干自信を喪失し、自国の経済立て直しを最優先にし、世界のさまざまの厄介な問題には関わりたくない、そんな雰囲気が米国を覆っている。そこにきてオバマ大統領と言う人の性格もあり、実力以上に米国の世界でのリーダーシップが落ちてしまっている。この米国を頼りとし、中国と対峙するという日本の戦略、中国包囲網を築こうとする試みは残念ながら成り立ちがたい状況にある。それが今日の世界の姿である。

今日、日本の立ち位置は決して悪くない。世界はアベノミックスの衝撃で日本を再発見した。そして世界がこぞって注目する中国と向き合う日本、いやおうなしにそうした日本への注目が高まっている。20年以上にわたって忘れ去られた感のあった日本が世界の注目を集め、日本がこれからどこへ行こうとするのかに関心が払われている。世上、安倍総理はナショナリストと言われ、このことも日本への注目を大きくしている。日本は本当に中国と対決するのではないか、過去の謝罪外交とも決別しようとしている、こんな懸念が国際的に出始めている。これは何も韓国の新聞だけでなくアメリカの新聞でも指摘されている。

こうした時に安倍総理が世界も納得する正しい政策を打ちだせば、とても高い評価を得ることのできる土台が出来上がっている。これを上手く活用しない手はない。最小限のコストで最大限の利益を得る、まさに国益を増進することが出来るのだから上手い話しである。何をすべきか、答えは簡単である。日本がリーダーシップを発揮する形で中国との建設的な関係を構築する姿勢をアピールすればよい。世界の大半の国は中国との関係緊密化を図らざるを得ないが、同時に中国への警戒心、あるいは抵抗感は多かれ少なかれ持っている。そこで日本の出方一つでは日本への信頼感と評価が大いに上がることになる。アベノミックスが世界で市民権を得、経済面で日本への関心が高まっている今日、外交面でも大きなチャンスが巡ってきている。

具体的な方策は①尖閣を巡り中国との間で危機管理システムを構築するイニシアテイブ、②米国やASEAN、豪州との連携で海洋問題についてのルールつくりを提議し、中国に働きかけ、中国の横暴を防ぐ、③その関連で2008年の日中東シナ海のガス田合意を世界に宣伝し、中国にその実施を迫る(注:この合意は東シナ海を事実上、中間線で線引きするという日本の年来の主張を反映したものである。中国は従来から大陸棚の延伸を主張し、沖縄トラフまでの水域を自らの経済水域と主張してきたため、この合意は中国国内で評判が悪く、条約化がなされていないが、両国の首脳会談では合意は有効なことが毎回確認されてきている)、④この間、静かに、かつ、しっかりと尖閣の守りを固める、といった政策を実行し、⑤その一方で河野談話や村山談話の見直しには触らず、いたずらに近隣国との摩擦を作らない、という対応である。そうすればアメリカ国内でも日本への期待感は高まり、オバマ政権も安倍政権に一目を置き、自然と同盟強化の道も開けていくことになる。
これがグローバルな視点に立った日本の進路ではないかと思う。 (2013年5月17日寄稿)




「外交官と桜」 2013.4.15

「外交官と桜」



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                 前駐米大使 藤崎 一郎

桜の季節が近づいてきた。 ポトマックの桜は有名だが、これに先輩の外交官たちが果たした役割を知っていますか。
私たちは、小学生の頃からポトマックの桜は尾崎東京市長が贈ったと教えられてきた。ところが米国で桜についての本や新聞記事を見て驚いた。東京市長の寄贈というのは表の話で実際にはアドレナリン、タカジアスターゼで有名な高峰譲吉博士が費用を負担したと1920年代頃から書かれている。昨年の植樹百年の機会に、いったい本当のところはどうだったのだろうかと調べてみた。本省北米一課の岩森事務官はじめ多くの人に世話になった。米国、外務省、東京都、東京市の資料を読み込んでいくうちに真相が浮かび上がり、また当時の日本の外交官たちが、ときにはお互いに競いながら裏で大きな貢献してきたことが分かった。これを外務省員に知っておいてもらいたく霞関会報に記すこととした。

 桜寄贈のきっかけをつくったのは紀行作家シドモア女史だということは知られている。この人のお兄さんは明治から大正にかけてなんと40年間も日本で領事館に勤務した。女史はその関係で何度も日本に滞在している。 向島の桜を見て感激してワシントンの当局に20年にわたり日本の桜をポトマック河畔に植えるように働き掛けた。しかし風土の違うアジアから木を持ってくることについて当局者は消極的で、「サクランボをとりに子供が木に登って河に落ちたら危ない」と難癖をつけてまで反対した。女史が「これはサクランボがならない種類の木ですから」と答えると、「そんな役に立たないものを植えてどうするのか」と言ったらしい。洋の東西にかかわらず、いかにもこうした役人が言いそうなセリフを女史が回顧している。ところがタフトが大統領に就任すると状況は一変する。大統領夫人がワシントンの街の美化に乗り出しポトマック河畔に植樹したいとの希望を表明する。知り合いだったシドモア女史が桜の木を勧めると、訪日経験もあったタフト夫人は直ちに同意する。ちょうどそのころニューヨークからワシントンに旅行中の高峰博士と水野幸吉ニューヨーク総領事が一緒に旧知のシドモア女史を訪問した。

高峰博士はニューヨーク日本人社会のリーダー的存在だった。水野総領事は、日露戦争時、旅順攻撃の支援や在留邦人保護で貢献した快男児タイプだったといわれる。3人が会ったのは1909年4月8日のことである。シドモア女史が、タフト夫人は日本の桜の植樹に同意したと打ち明ける。 

高峰博士は、かねがね移民排斥など米国内の反日感情の高まりを懸念しており、日米友好のシンボルとしてニューヨークのハドソン河畔に桜を植えることについて長年同市の当局者の説得を試みていた。そこで、ただちに1000本を贈りましょうと申し出たらしい。途中で2000本に増やしたとシドモア女史は書いている。
これに対し水野総領事は、せっかくの機会であり、個人からではなく日本の首都、東京市長の名で贈るべきであると主張し、高峰博士も同意したようである。

 シドモア女史は2日後の4月10日には、タフト夫人に取り次ぎ、タフト夫人は喜んで東京市長からの贈り物を受けると述べた。20年間も進んでいなかった桜植樹の話が、大統領夫人の鶴の一声のおかげでとんとん拍子に進むことになった。米国内で調達できる桜の本数が限られていたし、予算面もあり、渡りに舟ということだったようだ。

 水野総領事は高平小五郎駐米大使にもこの経緯を報告するとともに東京の小村寿太郎外務大臣に東京市長から寄贈することを6月2日に進言する。報告の中ではもし東京市長において寄贈の予算を工面できなければ、名義は市長とするがニューヨークの日本人社会で費用負担しようと高峰博士が呼びかけ、賛同を得ているとも記している。このいきさつから東京市長は、実は名義だけの関与だったとシドモア女史が思い込んだようで、高峰博士の死後、新聞にその旨寄稿している。その後ほとんどの米国の本、記事は桜の当事者であるシドモア女史の書いたことを検証することなく孫引きしてきた。ちなみにある米国の関係者が1930年代はじめに尾崎市長に対し桜寄贈についての高峰博士の関与について照会し、同市長がこれは東京市がやったもので博士は関与していないと答えた書簡も残っているが、シドモア説の権威が高かったためか、とりあげられなかったようである。

sakuraspeach.jpg満開の桜の下で開かれた石灯籠の点灯式で、東日本大震災からの復興を誓う挨拶をする著者(2011.4.3)
次は高平小五郎駐米大使の出番である。高平大使は、水野総領事がシドモア女史から桜の話を聞いたのとほぼ同じ頃に、直接、タフト夫人に会った。大使は、大統領夫人が桜植樹に関心があれば種苗の日本からの寄贈について「周旋」に尽力しましょうかと持ちかけた。タフト夫人はまずは米国内で探してみましょうと答えたので、大使は押しつけになってもいけないと思い、引きさがったと記している。

 高平大使は、水野総領事がシドモア女史からの話に基づき、外務大臣に東京市長からの寄贈を進言したと聞き、納得しない。管轄外のニューヨークの総領事がワシントンのことに口を出すことは不適当だし、一私人であるシドモア女史からの話だけで公の寄贈にかかわる話を本国につなぐのはおかしい、まず駐米大使である自分がノックス国務長官に確認すべきであるので東京にいましばらく動くのは待ってもらいたいと進言する。水野総領事はちゃんと大使には報告した筈だし、そもそも木の寄贈の話しぐらいで管轄を云々するのは大げさだと考える。この間の大使、総領事それぞれが大臣に行なった報告を見るとああ役人というものは変わらないなあとの感慨を憶える。 高平ノックス会談が行われ、同長官から、大統領夫人に確認の上、日本に寄贈をお願いするとの確認が7月12日に得られた。これにより、寄贈は正式に国と国のルートに乗ることになった。これには重要な意味がある。すなわち、植樹が行われた後、樹木の専門家集団を擁する米国立公園局が100年後の今に至るまで丁寧に維持管理することになったのである。ノックス長官の返事を待っていた高平大使は、さっそくいろいろ経緯はあったが今回は水野総領事の進言の通りで差し支えないという7月13日付けの意見を小村大臣に送る。

sakura_maturi.pngワシントン恒例の桜祭りで、咲き誇る桜を愛でる人々、米国ワシントンDC(2010.3)

タフト夫人が高平大使の「周旋」の申し出にはあまり反応を示さず、シドモア女史からの取り次ぎには前向きだったのはなぜだろうか。高峰博士に端を発する1000本単位の寄贈という気前の良さが効いたのではないかと思われる。ちなみに水野氏は1914年、北京で参事官として勤務している時、突然、読書中に客死した。一方、高平氏は枢密顧問官などを歴任し1926年亡くなった。

ワシントンおよびニューヨークから進言を受けた外務省は石井菊次郎外務次官から、東京市に検討を依頼する。石井次官はのちに駐米大使、外務大臣を歴任するが、駐米大使時代にランシング国務長官と結んだ対中権益についての石井ランシング協定で有名である。尾崎行雄東京市長はポーツマス条約締結につきアメリカに世話になったという気持から何かしたいと考えていた。そこで東京市参事会に諮り、1909年8月25日の決議で予算支弁にこぎ着けた。細かい支出明細が残っている。しかし東京市は桜の輸送費までは持てなかったので外務省が日本郵船に働きかけ、同社の近藤廉平社長の裁量でシアトルまで無料で輸送した。近藤社長と外務省の萩原通商局長の間の書簡が残っている。陸路の費用は米側が負担した。シドモア女史は喜びのエッセイをセンチュリーという雑誌に寄稿した。

 しかし、桜の寄贈は、失敗に終わる。ワシントン到着後、検疫で害虫が大量についているのが発見されたからである。 米側責任者のコスビー大佐はすべて焼却せざるを得ないと1910年1月26日に尾崎市長に書簡を発出した。米国は、日本が面子を失い反発するのではないかと危惧したようだ。しかし、米国から通知を受けた際、日本の関係者が、「貴国では大統領自ら桜を処分する伝統がありますからね」と幼少時のジョージ・ワシントンが桜を切ったことを父親に告白したという話を引いてユーモアを交えて応じ、米側が安堵したという話もある。いずれにせよ、急ぎすぎて自らきちんと検査しなかった日本側の落ち度であった。

 ここからが大事である。国務省から在京米国大使館へ、日米の学者が研究し、こういうことがないような
しっかりした体制ができるまで、日本側が再度このような試みをしないように働きかけよ、またニューヨークに桜を持ち込もうとしている高峰博士にも事の顛末を知らせ、同じことが起こらないようにすべきであると指示する書簡のコピーが残っている。 アジアの国から新種の害虫がくることに米国内で心配、反発があることへの配慮があったのだろう。

図1.jpgミッシェル・オバマ大統領夫人が出席して行われた桜寄贈100周年記念植樹式(2012.3.27)
ところが日本側は、ただちに再送に着手するのである。これを主張したのは、高平大使の後任の後任にあたる内田康哉大使であった。彼の名は外相時代に国を焦土にしても満州国権益を守るべきであると国会答弁した「焦土外交」とすぐ結び付けられるが、外相就任期間は7年余と最長記録を保持している。内田大使は、米側が焼却したのはもっともであり、もう一度試みるべきである、その際、害虫がないようにすべきであり、また米国内の運賃も米側でなく日本側が持つべきであると、早くも1910年1月31日に本省に進言している。

 この大使の進言が効いて東京市は早速、特別に栽培した桜をつくることにしたと東京都の資料に書かれている。もし、1回であきらめていれば、日本は、ヘンな贈り物をしようとしてうまくいかなかったということだけが残ってしまっただろう。 第1回の寄贈に携わった造園業者は、当初は自らの責任を否定していたが、結局1000本の無償提供を申し出た。しかし、東京市は受け取らず、1910年4月21日、あらためて市参事会決議で運送費用を含め予算を措置した。桜の権威、船津静作翁、三好学東大教授などの指導を得て農商務省の農事試験場で特別に虫がつかないように丁寧に栽培が行われた。

sakura_monument.JPGワシントン記念塔と桜、米国ワシントンDC
こうしてワシントンにあらためて3000本余の桜が届き、1912年3月27日、記念の植樹をおこなったのは、タフト大統領夫人と当時の珍田捨巳駐米大使の夫人いわである。そこでポトマックの桜に携わった外交官というと珍田大使の名がでてくるが、実は同大使は植樹の前月に着任したばかりだった。

 もちろん、表舞台の役者は、あくまでタフト夫人、シドモア女史、高峰博士、尾崎市長である。タフト夫人とシドモア女史が知己であったこと、同女史と高峰博士の間に親交があったこと、高峰博士が周旋でなく寄贈を申し出たこと、東京市長が国際派の尾崎氏であったことなどが鍵となった。個々人の強い意思といくつかの偶然が重なって成功に結びついたのである。なかでも尾崎市長は贈り主として有名で、まだ占領下の1950年、米議会に招かれ桜寄贈について感謝の決議を受けた。自らもポトマックの桜にずっと強い思い入れを持ち、「ポトマックの 桜をながめ 月に酔い 雪をめでつつ 我が身終へなむ」とまで詠んでいる。同時に「議会の父」「憲政の神様」とよばれるほど国会議員として長く活躍してきた自分の名が、結局はポトマックの桜との関係だけで人の記憶に残ることになってしまうとすればさびしいと述懐したという話もある。

 しかし、世上、あまり名前は出てこなくても、私ではなく公の寄贈とすべきであると主張した水野総領事、きちんと国と国のルートに乗せた高平大使、1回の失敗に懲りるべきではないと進言した内田大使の存在がなければ、私たちが今日見る美しいポトマックの桜はなかったろう。また公文書の中には松井慶四郎臨時代理大使(後の外務大臣)、埴原正直書記官、斎藤博外交官補(いずれも後の駐米大使)などの名もでてくるが、これらの人も現場の折衝でいろいろ腐心したのであろう。 毎年、満開の桜の下を歩きながら私は、往時の先輩外交官の先見の明、苦労に思いをいたし、敬意を新たにする。

もうひとつ外務省と桜の話で締めくくりたい。と外務省の桜並木が、東京の春の名所のひとつになって久しい。これは東独、ポルトガルなどの大使を務めた谷盛規氏が、昭和30年代末に官房の会計課長だった時、植えたものと聞いた。谷氏は、この仕事にたいへん打ち込んで、課長室に机も置かず、自ら千葉や埼玉の造園業者に足を運び、苗木を選んだということである。そういう仕事ぶりが必ずしも尊ばれない霞ヶ関の中では異色の存在だったらしい。私もこの話をはじめ聞いたとき、なぜ官房課長が桜の植樹にそこまでと感じた。しかし、思えば当時の多くのことがすでに歴史のかなたに霞んだ今日、桜は、毎年見事に咲き続けている。目に見えない遺産を残してくれた先輩は多い。しかし、このような楽しい心が弾む財産を残してくれた先輩にも感謝を捧げたい。 
(霞関会会報4月号より転載 2013年2月21日寄稿)

「The Golden State」豪州との固い絆 2013.3.4

「The Golden State」豪州との固い絆








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                          在シドニー総領事 小原雅博


過去21年連続で経済成長を続けている国家がある。中国のことではない。私の勤務する豪州のことである。失業率や物価上昇率など他の経済指標を見ても、豪州は先進諸国の中で数少ない優等生である(豪州の四大銀行を合わせた利益率は先進国中トップ)。リーマン・ショック後の世界経済危機の中で景気後退を回避し、総崩れとなった先進諸国の中で唯一力強いファンダメンタルズを見せる豪州を、英誌「エコノミスト」(2011年5月26日付け)は、「The New Golden State」と賞賛し、こう述べた。

“Imagine a country of about 25m people, democratic, tolerant, welcoming to immigrants, socially harmonious, politically stable and economically successful; good beaches too. It sounds like California 30 years ago, but it is not: it is Australia today. Yet Australia could become a sort of California—and perhaps a still more successful version of the Golden State.”

ここで、これら諸点を日本と比較しつつ、少し検証してみたい。
①二大政党制の下で政権交代をしつつも、過去30年で首相は5人(日本は19人)という
  安定した民主主義政治
②「多文化主義(Multiculturalism)」を推進し、毎年12万人以上の移民と約1万3千人の
  難民を受け入れてきた多様で寛容な社会(2011年の日本の難民認定者数は21名、
  他に人道配慮で在留を認めた者が248名)
③1時間当たり最低賃金約1500円(東京は850円)など「労働者天国」と言われるほど
  恵まれた労働環境
④エネルギー自給率は238%」(日本は4%(原子力を含まず))、食料自給率は187%
 (日本は39%)という世界で最も豊かな鉱物・農産物資源に恵まれた先進国(豪州が
  日本のエネルギー・食料安全保障を支えている)
  そして、シドニーでは市内中心部から20分足らずで白砂のビーチを満喫できる。
  昨年、シドニーを始め4つの豪州の都市が「住みやすい世界の都市(Economic
  Intelligence Unit, 2012年)」トップ10に選ばれた。豪州は、OECDの幸福度指標
  でも第一位にランクされた。

そんな豪州には7万人以上の邦人(シドニーには3万人)から在留届が提出され、その過半が永住者として「the Golden State」の暮らしを楽しんでいる。シドニー勤務が長くなった私にも、英誌「エコノミスト」の豪州賛美が決して誇張ではないと感じられるようになった。 もちろん、そんな「the Golden State」にも問題がないわけではない。

① 上下両院で二大政党いずれもが過半数を取れない「ハング・パーラメント」
② アボリジニ(先住民)への政策の不徹底や一貫性の欠如、白人豪州人による
  法律・政治・経済トップの占有(「白豪主義」の残滓との指摘もある)、密航船に
  よる難民(「asylum seekers」)流入などを背景とする移民政策や永住権付与の
  厳格化
③ 賃金上昇と熟練労働者不足に加え、頻発する労使紛争
④ 資源セクターの高成長とそれ以外の製造業などの低成長という二極化を呈する
  「Two-Speed Economy」

こうした問題が新聞紙上を賑わし、政治の行方を左右する(今年の9月14日には総選挙が行われる予定で、政権交代の可能性がある)。日本企業も無関心ではいられない。
そんな豪州は、よく「ラッキー・カントリー」と呼ばれる。1964年にドナルド・ホーンが著した本のタイトルに使われたこの言葉は、その後豪州の俗称として国際的に広まった。ホーンは、地下資源という幸運に身を任せ、努力をしないで繁栄を謳歌する豪州人への皮肉を込めた警鐘として使ったが、いつの間にか言葉だけが独り歩きしてしまった。近年、中国による資源需要の急増がこの国に再び「資源ブーム」を巻き起こす中で、ホーンの警鐘を取り上げる識者もいる。豪州屈指のコラムニストのピーター・ハーチャー氏(シドニー・モーニング・ヘラルド紙記者)はその一人だ。

彼は、近著「Sweet Spot」で、私が彼との懇談で述べた言葉(I think of Australia as “a man lying on a bed of treasure.”)を引用して、「ラッキー・カントリー」病の悪弊を戒める。それは、別名「オランダ病(グレゴリーの仮設)」とも言われる。すなわち、鉱物資源輸出の増大が、①豪ドル高(米ドルとの為替レートは一昨年よりパリティーを上回る状態が常態化)につながり、同時に、②鉱業セクターの賃金を上昇させて、それが産業全体の賃上げに波及することで、製造業部門の国際競争力を低下させる。資源ブームの陰で進行する「Two-Speed Economy」は、ここ豪州で大きな経済・政治論争になっている。

豪州で販売台数トップを走り続けるトヨタ・オーストラリアは車生産工場を豪州国内に持ち、その生産の6割を中東市場に輸出するが、豪ドル高や賃金上昇などで経営環境は厳しい。それでも、年々拡大し、昨年110万台を突破した豪州乗用車市場はトヨタのグローバル展開において重要であり、生産拠点を維持するためにも昨年は350名の人員削減に踏み切った。これに反発した労組が労働党政権も巻き込んで政治問題化し、法廷闘争にまで発展したが、トヨタへの激励や支持の声も少なくなく、豪州トヨタの安田社長は豪州経済への貢献が認められ、昨年末、豪州で数少ない日本人叙勲者となった。

苦境の製造業だが、ブームの鉱山業も世界の成長センターとなったアジア、就中、中国の景気に大きく左右される。昨年夏、ファーガソン資源大臣が「資源ブームは終わった」と発言して騒ぎとなった(公邸で懇談した同大臣は資源分野での日本企業との信頼関係を強調した)が、その背景に中国の資源需要増加の鈍化による鉄鉱石や石炭の価格低下があった。営業利益の過半を資源事業で上げてきた日本の商社も大きな減益に見舞われた。ところが、昨年秋頃から中国の鉄鉱石需要が回復し、鉄鉱石価格が再び上昇に転じ、豪州の資源関連企業の収益や税収にも明るい見通しが戻ってきた。まさに中国様様である。

新聞紙面には中国記事が溢れ、あらゆる場所で中国経済が話題となる。報道量の多さで豪州にとっての重要性を計るなら、中国は日本の10倍は重要だということになる。永住者の方々からよく耳にするが、豪州でも日本の存在感が薄れてしまったことは否めない。

そんな情勢の中で、豪州政府は中国一辺倒ではなく、アジア太平洋国家としての立ち位置を重視する。昨年10月、豪州政府は「AUSTRALIA IN THE ASIAN CENTURY」白書を発表し、優先外国語に位置付けた中国語、ヒンズー語、インドネシア語、日本語の教育をすべての学生が受けられるようにするなどアジアの成長を取り込む国家戦略を明らかにした(学生の多くは英語しか話せない)。英国から遠く離れて地理的孤立(「距離の暴虐」)に苦しんだ豪州は今やアジアとの「距離の優位」を活かして「The Golden State」を目指す。

また、中国への警戒感も根強い。豪州史上初めて最大の貿易相手国が自由や民主主義を共有しない国家となったことの意味は小さくない。
昨年、私は「チャイナ・ジレンマ」という書を出版した。その中で、日本のみならず、豪州を始めとするアジア太平洋地域の多くの国が「大復興」する中国の経済チャンスと政治・安全保障リスクのジレンマに直面していることについて述べた。同時に、日本と豪州は超大国化する中国と冷戦後唯一の超大国としてこの地域の平和と繁栄に大きな役割を果たしてきた米国との狭間に位置する「境界国家」であり、日豪両国は米国との同盟関係を維持・強化しつつ、最大の貿易相手となった中国との関係も安定的にマネージしていかなくてはならないということを別の近著「境界国家論」で取り上げた。

その意味で、日本と豪州は似たような戦略環境に置かれていると言える。また、豪州は日本の重要な資源供給国であり、共に米国の同盟国として基本的価値を共有する。現在の日豪関係は日米関係や豪米関係と並び日豪両国にとってアジア太平洋における最も緊密な二国間関係であると言えるが、それに満足することなく、日本も豪州も互いを戦略的パートナーとして位置付けて一層の関係強化に努める必要がある。

幸い日豪間では幅広い分野で深く成熟した関係と交流が続いている。当地に勤務していて、豪州が色んな意味で大変に重要な友好国であることを日々感じさせられる。
日豪の外交関係は、一世紀以上も前に遡る。最初の外交使節は1896年タウンズビルに開設された領事館(1908年閉館)である。翌年には、横浜―シドニー間の定期航路が開かれ、シドニーに領事館が置かれた(最初の総領事は1906年に任命された)。豪州のカー外相は歴史好きで知られるが、ある時、私にこの日本との外交関係の始まりを語ったことがある。

100年を超える日豪外交関係史においては、戦争という不幸な時代もあった。しかし、時に日豪間の歴史を困難な時代を含め振り返ることが、連邦制宣言により一つの国家となって100年余りの国家にとっては必要であり、特別な意味を持つのであろう。
昨年は、日本軍のシドニー湾攻撃から70周年を迎えた。シドニー湾に侵入した日本の小型潜水艇が発射した魚雷がクッタバル号(兵の宿舎として使用されていたフェリーの船名であり、現在は海軍基地の名前となっている)に当たって、21名の犠牲者が出た。昨年幾つかの記念行事が行われ、多くのメディアが取材する中で私も招かれ出席したが、そこに日本への批判めいた言辞や雰囲気はまったく感じられなかった。
国境を越えて人間の高潔さや勇気を称え、家族の絆を見つめ直し、国家とは何かを問い、平和の大切さを噛みしめる時間的空間があった。私は、そうした場で次のような思いを述べた。

“At that time, great kindness and integrity was demonstrated by Australians when the Japanese sailors who died in the attack were treated so honorably and given funerals with full naval honors. I myself was very moved when I learnt of this fact.”
“As this commemoration makes us reflect on the past, it also makes us reevaluate the importance of personal integrity, the preciousness of family ties, the meaning of nation, and the value of life and death. I believe that our two nations can share these deep thoughts and convictions.
This belief drives me as Consul―General of Japan to work ever more closely with our Australian friends to build even stronger ties between our two nations.”

 1942年の日本軍の空爆を受けたダーウィンや1944年の日本人捕虜集団脱走事件が起きたカウラなどでも毎年慰霊式典が行われ、管轄地域の総領事として出席する。
移民の国豪州は多文化主義を掲げる多民族国家であり、様々な顔と文化を持つ人々が豪州人としてのアイデンティティーを模索する若い国家である。だからこそ長い歴史を持つ日本の伝統や文化に強い関心を示す人が少なくないし、自らの歴史を豪州の証として大切にする。

そんな機会に立ち会う度に、世界の中での日本という国家の存在、そして歴史の流れの中での日本人としての関わりが問われているのだと感じ、それにどう答えるべきかと煩悶する。
東日本大震災では豪州の多くの方々から激励や支援を頂いた。ギラード首相は、被災地を訪れた最初の外国首脳となった。NSW州の救助隊は氷点下の中で懸命な捜索活動に当たった。様々なチャリティー・イベントでお礼を申し上げたが、震災1周年に際して感謝の気持ちを表すべく主催したレセプションは日豪の心が一つになった素晴らしいものであった。

昨年は、もう一つの重要な記念行事がシドニーで開催された。50周年を迎えた日豪経済合同委員会である。豪州でも中国やインドの目覚ましい経済成長が世間の目を引きがちであるが、会議には双方から計330名の経済人が集い、ギラード首相やオファーレルNSW州首相の力強いスピーチもあって、日豪関係が相互信頼を基礎とする成熟した関係にあることを印象づけた。選挙公約であった中国とインドへの訪問を先行させたオファーレル州首相も、スピーチの中で私の勧めで今年訪日することにしたと発表してくれた。中国やインドの市場が拡大する中で、日本への関心をどう繋ぎ止め、そして新たな経済関係をどう切り開いていくか、今能動的な経済外交が求められていることを痛感する。日豪経済連携協定(EPA)の速やかな締結はその一つである。

過去半世紀のほとんどの期間、日本は豪州にとっての最大の貿易相手国であった。そして、日本との貿易は今も豪州に最大の貿易黒字を計上している。また、日本は他のアジア諸国を遙かに上回る対豪投資を行ってきた。在シドニー総領事館が管轄する北部準州には、一昨年、在豪日本商工会議所に声をかけて30数名が参加する官民合同経済ミッションを立ち上げ、北部準州政府との経済対話を行った。昨年には、その州都ダーウィンにおいて国際石油開発帝石(INPEX)が日本企業の対豪投資として(そして恐らく対世界投資としても)最大となる340億米ドルに上るLNGプロジェクトを立ち上げ、私もその署名式に出席した。日本と北部準州との関係は経済を中心に急速に進展しつつある。 昨年末には、真珠業を通じて歴史的に日本との関係が深いパスパレー社の御曹司が名誉総領事に就任した。国際交流基金シドニー事務所の協力も得て文化行事にも力を入れている。アジア太平洋の戦略環境が変化する中で、オバマ大統領が「米豪同盟深化のために最適の場所」と呼んだダーウィンに、日本はしっかりと足場を築きつつある。

人口が増加し、経済が成長を続ける豪州への日本企業の投資とビジネス活動は多様化している。資源分野での投資は続いているが、近年は食品、飲料、機械、発電、水、工学、住宅開発、保険、不動産、金融など広い分野で積極的な投資活動が展開されており、一昨年は第一生命の豪州保険会社買収が話題となった。私もキリンの飲料品工場、積水ハウスの住宅開発エリア、三菱電機の電車及び発電設備工場などを視察させて頂いたが、製品の質やサービスの高さは豪州の日本企業への信頼につながっている。また、BISの調査では、2012年上半期だけで、日本の銀行はユーロ危機に喘ぐ欧州の銀行の撤退を穴埋めする形で137億米ドルもの融資を実施し(INPEXの投資はまだ含まれていない)、存在感を高めている。国有企業を中心とする(「国家資本主義」)中国の投資への警戒感がある中で、基本的価値を共有し、半世紀に亘る企業人同士の信頼関係に支えられた日豪経済関係は旺盛な需要のあるインフラ、消費財、及びサービス分野への日本企業の投資を促すとともに、中間層の増大による市場拡大が続くアジアにおいて日豪企業の共同プロジェクトの模索も始まっている。

また、日豪両国は重要な経済パートナーであるのみならず、戦略的パートナーでもある。それは、中国台頭によるアジア太平洋地域のパワーバランスの変化の中で重要性を増している。日本が外務・防衛閣僚協議(2+2)を開催している相手国は米国と豪州だけであり、昨年シドニーで開催された日豪2+2では、対中関与政策や南シナ海問題から共同訓練や国際協力など協力内容の具体化まで積極的な戦略対話が行われた。安倍政権成立後の外相の初外遊先には、戦略的重要性を増すASEAN諸国と並んで、豪州も選ばれ、シドニーで外相会談が開催された。平和維持活動や災害援助を含めた安全保障分野での協力も強化されてきた。

国会議員や防衛関係者間の相互訪問も積み重ねられてきており、既に大きな信頼関係が築かれている。こうした日豪両国のパートナーシップは、日豪にとって「win-win」であるのみならず、アジア太平洋地域の平和と繁栄にも資するという意味において、「win-win-WIN」である。多国間主義に力を入れる「創造的なミドルパワー」(2012年5月の日本記者クラブでのカー外相の発言)豪州と共に、同盟国たる米国と連携・協力しながらこの地域の平和で繁栄する秩序作りに汗を流さなければならない。EAS、RCEP、APEC、TPPをそうしたパートナーシップを体現する枠組みとして活用すべきである。

そうした中にあって、捕鯨やイルカ漁の問題が豪州の国民感情に絡む微妙な問題として両国関係に影を投げかけてきたことは残念でならない。先般の日豪外相会談でもカー外相から話が出た。捕鯨問題が日豪関係全般に影響を与えないようにするとの基本的認識は共有しつつも、豪州側としては捕鯨に対する厳しい国民感情を背景にこの問題にまったく言及しないというわけにもいかないのであろう。また、豪州はこの問題を国際司法裁判所に提起しており、本年後半にも口頭弁論の審理が行われる予定である。日本の調査捕鯨は国際捕鯨取締条約で認められた正当な科学調査であり、合法的な活動ではあるが、豪州政府はそれが国際的な義務に反すると考えており、世論も反対一色である。先日、本官公邸でJET(外国語青年招致事業)の同窓会を開催した際に、日豪間の交流や課題について率直な意見を求める無記名アンケートを実施した。

出席者全員が親日家であることは疑問の余地がなかったが、こと捕鯨については厳しい意見が多かった。当地の日本企業の一部からは、捕鯨がビジネスにも微妙に影響しているとの声も届く。情報化の時代、国家や国民のイメージが相手国の消費者の行動に影響を与えることもあるだろう。中国との差別化において基本的価値の共有を強調すればするほど、捕鯨の問題をめぐる対日世論にどう向き合うべきか、理屈を超えた手探りのパブリック・ディプロマシーが続く。

それでも、基本的には豪州国民の一般的な対日感情は良好である。その基礎には、長年に亘り積み重ねられてきた人と人の交流がある。日豪間には、6つの姉妹州県と103の姉妹都市があり、その第1号となったNSW州リズモア市と奈良県大和高田市の姉妹都市交流50周年を迎えた本年は、「日豪観光交流年」として位置付けられている。8月の50周年に向けて、CLAIR(財団法人自治体国際化協会)やJNTO(日本政府観光局)のシドニー事務所と一緒になって記念行事を行うべく準備している。また、姉妹校は数え切れないほど存在し、驚くほど色んな場面で日本語を流暢に話す豪州人に出会う。日本の高校に交換留学して青春の一時期を日本で過ごした親日家達である。ちなみに、日本語を学ぶ豪州人の数は、人口比で世界トップクラスである(但し、近年中国語や韓国語の勢いに押されており、日本語教育支援要請の声も高まる)。個人的信頼関係に支えられた日豪経済関係の成熟度はこうした半世紀に亘る人と人の絆の蓄積にあるのだと知って、心が熱くなる。

昨年秋、日本サッカー界をリードしてきた小野伸二が豪州の創設1年目のプロサッカーチーム・ワンダラーズに移籍してきた。下馬評の低かったワンダラーズであるが、小野の加入によってあれよあれよという間に優勝戦線に躍り出た。シドニー西部地区をホームとするワンダラーズのサポーターを中心とする熱狂ぶりは大変なものである。チームの司令塔としての小野伸二のプレーがここ豪州において多くのファンを魅了し、日本のイメージをも高めていることは間違いない。先日、公邸でのバーベキュー・パーティーに招いて異国での活躍を労った本官に対し、小野選手は「日本人のすごさを感じてもらえるようなプレーができるよう頑張りたい」と答えた。その時の爽やかな笑顔がとても印象的であった。

重層的に発展してきた日豪パートナーシップは、その成熟度において他のアジア諸国の追随を許さない。しかし、それも先人たちの弛まぬ努力があったからであり、この先も変わらず続いていくと当然視してはならないと思う。日本にとって大切な友邦である豪州との関係を磐石なものとしておくことが日本を取り巻く内外情勢に鑑みても極めて重要であることは論を待たない。新興国重視が叫ばれる中で、豪州は往々にして欧米先進国と一緒くたに取り扱われてしまいがちである。今こそ豪州の経済的・戦略的価値を改めて評価し、日豪関係の強化に高いプライオリティーを置いて取り組まねばならない。
3年足らずの勤務では豪州を十分に理解したとは言えないかもしれないが、以上の「豪州便り」はシドニーの地から日本とアジアを見つめる中で豪州との関係に携わってきた者の思いを書かせて頂いた(本稿は筆者の個人的見解であることをお断りしておく)。
(了)  (2013年2月18日寄稿)


『モザンビークのプロサバンナ農業開発計画―戦略的経済協力』2013.2.7

『モザンビークのプロサバンナ農業開発計画―戦略的経済協力』



瀬川進.jpg


                         前駐モザンビーク大使 瀬川 進

―はじめにー
筆者は、2008年9月から約3年間、モザンビークに在勤した。主な仕事は経済協力であったが、ブラジル勤務の経験があり、ブラジルのセラード農業開発とアフリカ熱帯農業開発プログラム(ProSAVANA-JBM:プロサバンナ計画)には特別の思いがある。

 プロサバンナ計画は大成功したセラード開発を手本とする事業であり、対アフリカ経済協力を象徴する長期の戦略的プロジェクトであるが、プロサバンナ計画の詳細については、政府、JICA等から既に多くの報告書が出されているので、本稿ではその骨子を紹介し、断片的ではあるが、現地から見た同計画、その形成と日本とブラジルの協力関係、プロサバンナ計画の課題につき述べてみたい。

(注)本寄稿文にある日本の政府機関名、ソ連・東独等の国名は当時の呼称を使い、特に政府名を記載しない大臣等はモザンビーク政府の役職である。また、地名(州、都市、回廊等)もモザンビーク国内の地域である。

1.モザンビークとの出会い、セラード開発からプロサバンナ計画へ
1971年から2年余り、ポルトガルのコインブラ大学に語学研修のため留学した。その時の下宿先でモザンビーク人留学生と友人になった(当時のモザンビークはポルトガル領、1975年に独立)。彼から自然に恵まれたモザンビークにつき何度か聞く機会があったが、当時は、40年後に同国の農業開発に携わるとは思わなかった。

ポルトガルでの勤務を終え、1976年に外務省へ戻りアメリカ局中南米第一課に配属になり、経済協力局(技術協力課)から引き継がれたセラード開発研究協力補足取極(1977年9月署名)を担当した。この取極は、第1段階のプロサバンナ計画と同様に技術協力(土壌、気象観測、品種改良等)と研究機材の供与、専門家派遣、人材育成に関する協定であった。この取極については条約課、大蔵省から何度か説明を求められたので、今でもその条文の幾つかを覚えている。

セラード開発が本格化した1979年にブラジル大使館の勤務になったが、その後30年間に3回に亘りブラジルの5つの総領事館(サンパウロ、リオ、ベレン、ポルトアレグレ、マナウス)に勤務した。この間、セラード開発に何度も関係することがあり、外交における農業開発協力の重要性を学び、また、農業開発に従事するブラジル人、日系人に多くの友人を得ることができた。
その後2008年にモザンビークの勤務になったが、プロサバンナ計画を通じて彼らとの旧交を再び温めることもできた。

2009年9月にモザンビークに来訪した大島賢三JICA副理事長(当時)が、首都マプトでニャッカ農業大臣(同)、ファラーニABC(ブラジル協力庁)長官とプロサバンナ計画の合意書に署名した。この署名式に同席し、セラード開発が懐かしく思い出されたが、自分もこの二つのプロジェクトに縁で結ばれていた気がする。

2.アフリカ熱帯農業開発プログラム(プロサバンナ計画)
―アフリカ開発会議(TICAD Ⅳ)―
日本は、2008年5月の第4回アフリカ開発会議(TICAD Ⅳ)でアフリカにおける食料問題解決のため、協力を強化すると表明した。このため、日本、ブラジル、モザンビークが一体となり取組むのが「プロサバンナ計画」である。
同計画はモザンビークとブラジルの自然環境(熱帯サバンナ気候、未開発の広大な土地、土壌、水資源)の類似する点に着目して形成された。両国が1970年代後半から20年以上に亘りセラード地域(不毛の熱帯乾燥地、約2億ヘクタール(ha))の農業開発を行い、大きな成功を収めている。その結果、セラードで穀物生産、畜産、養鶏等が可能になり、ブラジルは1960年代の穀物輸入国から大輸出国に変貌した。

―プロサバンナ計画の目的-
プロサバンナ計画は、セラード開発で培われた熱帯農業の技術と経験を活かして熱帯サバンナ地域を穀倉地帯にする事業であり、世界の食料安全保障への貢献も含まれている。
この計画は、モザンビークの農業生産力の増強、零細農民の所得と雇用の増加、生産基盤の確立、農業の技術移転、環境保全等に貢献する。また、将来は、その成果をサブサハラ・アフリカに拡大することも想定されている。
(注)モザンビークは、ポルトガルを旧宗国として言語、文化(国民性)、人種(アフリカ系)等ブラジルと共通する社会構成を有する。

―アフリカの現状、絶対的な貧困、食糧不足、農業の低い生産性-
世界に10億人を超える絶対的な貧困層が存在する。アフリカがその大半を占め、サブサハラ・アフリカには3億人がいる。その中のモザンビークは22百万人を抱えている。
「今日のアフリカ問題は何か」、それは世界の食料価格が高騰する中で、アフリカは依然として食糧輸入国であり、食糧輸入の依存と貧困が低開発の負の連鎖になっている。更に貧困問題が深刻化した背景には人口増加と農業の低い生産性がある。
(注)モザンビークの人口増加率は2.26%、GNP112億ドル(2011年世銀統計)、1人の国民所得570ドルで186カ国中172位(2012年IMF統計)

―モザンビークの可能性、広い国土に低い人口密度―
アフリカ熱帯サバンナには農業が可能な4億haの土地があるが、農耕地は全体の10%程度に過ぎない。また、モザンビークでは、熱帯サバンナが国土(日本の約2.1倍、80万平方キロ)の68%は占め、その農耕地の利用は僅か4%弱に留まっている。
また、全国に3,600万haの耕作の可能な土地があるが、その利用率は10%以下である。内330万haが灌漑の可能な農地であるが、灌漑施設のある農地は12万haに留まり、更に実際の利用は5万haにすぎない。一方、南北に約2500kmの海岸線を有し、気候は沿岸低地の多湿な熱帯と北部内陸の乾燥性亜熱帯気候に分かれ、雨量があり農業に適する土地もあるが、住民、集落が分散、人口密度の低さが開発の障害になっている。他方、就業人口の約8割が零細農業に従事しており、農業開発は貧困削減を可能にする手段である。(注)農業部門はGNPの約27%、総輸出額の約10%

―プロサバンナ計画の形成、日本とブラジルの協力―
セラード開発の成功は、両国政府の強いイニシアティブに基づき日本(資本と技術)とブラジル(資源、労働力)の補完関係に支えられた。また、同国の農業発展に貢献した日系人(約150万人)も重要な役割を果たしている。日本は、ブラジルの農業の分野以外でインフラの整備(港湾等)、製鉄、紙パルプ、アルミ等大型ナショナル・プロジェクトに協力して同国の基幹産業の構築に貢献した。プロサバンナ計画が形成された背景には、この両国の歴史的な協力、信頼関係がある。
以前に、筆者が大型プロジェクトのブラジル側調整責任者であったシゲアキ・ウエキ元鉱山エネルギー大臣(任期1974-79年)に何れの大型プロジェクトが最も成功したか尋ねた際に「セラード開発!」と即答した破顔が今でも忘れられない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

―日本の支援、食糧増産と貧困の撲滅―
モザンビーク政府は、経済成長を図り、貧困率を54.7%から2014年に42%まで削減する目標を掲げ、農水産業の生産拡大に努めている。
日本は、地方開発・経済振興、人的資源開発、ガバナンス、気候変動等の分野に協力を行っており、中でも食料安全保障と貧困削減に力を入れている。
トウモロコシ、キャッサバの自給は可能になっているが、主食米の8割、小麦は殆ど輸入に依存しており、慢性的な食糧不足の問題がある。このため、2009年9月に食料価格の高騰により首都マプト市で暴動が発生している。 日本は数年間に毎年10億円程度のコメを中心に食糧援助を行い、1977年より2011年までの累積援助額は約155百万米ドルに達している。(なお、マプト暴動の収拾を指揮したパシェコ内務大臣(党中央委員)は、現在、農業大臣に転じてプロサバンナ計画の陣頭指揮にあたっている。)

3.プロサバンナ計画の概要と問題点
―セラード開発のモデルと異なる経済社会構造―
プロサバンナ計画の拠点地域では労働人口の85%が農業に従事しており、農業が数少ない就業機会である。セラード開発地域より低い就学率と高い非識字率が占め、農業組合等農民組織が未発達である。政府の農業支援制度(農業融資、普及機関、研究機関)が限られ、社会主義の残滓が見られる社会構造がある。マクロ経済からの問題は、国家予算の半分を欧米からの一般財政支援に依存している。

―低い農業生産―
農業用トラクター、牛馬の利用は僅かで、原始的な生産技術と人力に依存している。
また、農業生産資材は高価格で零細農民には購入が困難であり、灌漑栽培の習慣も企業や集約的な畜産業も殆どなく、収穫物の貯蔵施設がないため、そのロスも多く、販売量の減少になっている。

―協力の形態等― 
プロサバンナ計画は、日本・ブラジルのパートナーシッププログラム(JBPP)に基づき、第一段階では、研究の能力向上の支援、地域総合農業開発計画の作成、村落開発モデルの構築等の協力を行う。JICA、EMBRAPA(ブラジル農牧畜開発公社)は、2010-11年に基礎調査行い、モザンビーク及びセラードの農業情報、研究の能力向上の支援、土壌改良、作物選定、適品種選抜、村レベルでの実証調査、環境配慮ゾーニング、農産物増産の支援、組合活動の促進、バリューチェーンの構築(2013年度実施予定)、マスタープラン作成、対象地域のナカラ回廊沿線地域の絞り込み等の開発計画を策定した。
また、第2段階の2013年以降は、プロサバンナ計画モデルの構築後に円借款、民間資金を導入する農業開発事業を予定している。

なお、モザンビーク政府は、国土の開発には政府資金だけではなく、農業分野への民間投資を積極的に誘致したいと表明しているが、土地国有制の中で、如何に民間投資を呼び込むかがプロサバンナ計画の事業化にとり重要な課題である。(土地国有制の問題は後述する)

―3か国の協力分担―
(1)プロサバンナ計画では、東地域(リシンガ)と北西地域農業試験場(ナンプラ)
  の研究体制の強化、対象地域の自然資源と社会経済状況の評価、土壌改善
  技術と作物の適正栽培技術の開発、パイロット農家で新農業技術の実証を行う。
  (注)東地域はブラジル側の要請で追加され、既に同地試験場にはEMBRAPA
  技術者が常駐している。また、東地域を調査した愛媛大学農学部もリシンガの
  高い農業生産性に着目している。

(2)日本は、チーフアドバイザー、土壌分析、施肥技術、土壌保全、栽培、土地
   利用計画、土壌微生物、水資源等の短期専門家派遣と機材供与を行う。

(3)ブラジルは、研究・普及技術、インフラ技術(ラボラトリー、パイロット活動、
  種子調整など)、種子増産システム技術、家畜生産技術、自然環境分析、
  技術普及等の専門家派遣と機材供与を行う。

(4)モザンビークは、専門家のカウンターパート配置、農業試験場の執務スペース
  の提供、展示圃場設置場所の確保、追加人員の配置、人件費等ローカルコスト
  を負担する。

4.プロサバンナ計画と戦略的経済協力―
(1)三角協力の象徴
JBPPは、三角協力(プロサバンナ計画)を日本政府の開発援助方針及びブラジル
政府の外交方針に合致する事業を規定しており、同計画はこれを実践する大型の
パイロットプロジェクトである。このため、同計画は対アフリカ協力を戦略的に進める
試金石であり、その成功は、国際的に日本のODA、官民連携の先例になる。

(2)CPLP(ポルトガル語諸国共同体)へのアクセス
アフリカのCPLP加盟国にはモザンビーク(石炭・石油ガス)、アンゴラ(石油等地下
資源)、カーボ・ヴェルデ(漁業資源)等5か国があり、同計画の成功は、CPLP諸国
との協力関係を強化し、アフリカ外交の幅を広げることができる。これは、アフリカ諸
国では英仏等旧宗主国の影響力が大きく、日本、新興援助国ブラジルがこれらの
諸国に進出することは容易ではないが、ポルトガルの経済的影響力が相対的に
小さいCPLP諸国との協力を通して資源の確保等にチャンスがある。

(3)ブラジルとの連携の重要性
日本は、欧米の援助国、新興援助国(中国、ブラジル、インド、ベトナム等)の間に
あり、独自の協力(特にJICA等のきめ細かな協力等)をアフリカで実施している。
ブラジル、ベトナムは、自国の発展に貢献した日本の協力(特に農業等)を高く評
価しており、現在、ベトナムとも三角協力(米増産、灌漑)を行っている。 中国、
インドの南南協力は、先進国や日本とは異なる彼らの独自の価値観で行っている
ので、日本と連携可能なブラジル、ベトナムとの協力は重要である。

因みに、日本デジタル・テレビ方式をアフリカに導入する分野では、ブラジルとの提携による効果が実証されてきている。

(4)JBPP技術協力の活用
現在、日本は、セラード開発の時の様に長期専門家の派遣が困難になっているの
で、JBPPの活用が重要である。日系人(ブラジル国籍)専門家が既にモザンビーク
に派遣されている。また、ブラジルでの第三国研修(野菜生産、キャッサバ等熱帯
産品の加工・利用コース等)に参加したモザンビーク人をプロサバンナ計画に活用
できる。

5.ナカラ回廊開発
政府が国家的事業とするナカラ回廊開発の周辺がプロサバンナ計画の対象地域に含まれており、同地域は総合開発事業になっている。同回廊の開発は、産業開発、民間投資を促進し、地域全体の成長と貧困削減を目的とし、道路改修は、農作物を都市の市場へ、海外への輸送を可能にする。現在、日本は、インフラ整備(道路改修、橋梁建設、港湾)を無償・有償により協力している。

TICAD V(本年6月に横浜開催)を準備する官民連携協議会は、アフリカの農業復興、生産性向上、市場整備、ビジネス環境整備、官民の連携を提言している。また、最近、第2サハリン並みの海底石油ガス田(三井物産)が相次いで発見されているが、昨年は2回に亘り両国の投資保証協定の交渉が行われており、同協定の締結は地下資源開発のみならず、農業投資の促進にも貢献しよう。

6.日本とモザンビークの出会い
(プロサバンナ計画への理解を深めるために両国の歴史的な出会を紹介したい。)

―天正遣欧少年使節―
16世紀に来日したイエズス会士ザビエル、渡欧した天正遣欧少年使節が、18世紀末まで首都であったモザンビーク島(プロサバンナ計画の対象地域(州))に滞在している。また、日本は、世界文化遺産であるモザンビーク島ポルトガル砦の修復にユネスコ信託基金を通じて協力している。

―交換船―
日米開戦後の1942年7月に、両国の外交官を交換するために横浜から浅間丸、香港からイタリア船籍の船が、また、ニューヨークからスウェーデン船籍の船が、モザンビーク(中立国ポルトガル領)に来て、野村吉三郎大使、来栖三郎特派大使、石射猪太郎ブラジル大使(途中に寄港したリオから乗船)等日本外交官とグルー大使等米国外交官を交換した。

―日本の国連PKO(ONUMOZ)―1993-95年―
1975年の独立後に内戦が続いていたモザンビークでは、1992年、冷戦の終焉に伴い和平が成立した。日本は、和平後の総選挙支援のため総司令部と全国を南部、中部、北部(プロサバンナ計画の拠点ナカラ回廊のある地域)の三つに分けて司令部(自衛官5人)と輸送調整業務(同48人)分野にPKOを派遣した。モザンビークは4回に亘る総選挙の結果を全て受け入れ、安定したその内政、経済運営は内戦復興のモデルケースになった。

(柳井俊二元(総理府)国際平和協力本部事務局長(元外務次官、元駐米大使)が、日経新聞(2009年7月7日付夕刊)「明日への話題―モザンビーク再訪」のコラムで日本のPKO派遣とその帰結につき卓見を述べられているので、その要約を引用させて頂く。)

「1993年、我が国は、モザンビークでの国連平和維持活動(PKO)に48名の自衛隊員を派遣した。
このPKOは、最も成功した国連のPKOの一つである。国連は・・日本のPKOを打診してきた。国際平和協力本部の事務局長として、若葉マークの我が国PKOに失敗は許されないと考え、成功の確率が高そうなモザンビークへの参加を提案した。・・自衛隊の貢献は高く評価された。この国連PKOは成功し、平和が定着した。我が国の政府開発援助(ODA)も再開され、日本の民間投資も始まった。理想的な形の進展である。・・(同コラムの末尾で)父親が駐コロンビア公使だった時に日米開戦となり、私達は南米各地の在留邦人と共に米国に移送され、抑留された。・・北米から船に乗り、モザンビークに行き、日本から移送された米国人たちと交換された。横浜まで約4カ月の長旅であった。私は5歳半であったが、この異常な旅の記憶は鮮明である。51年後にモザンビークを再訪し、この国の再建を手伝うようになったのは不思議な運命だ。」)     

7.プロサバンナ計画の課題
―セラード開発の反省―
プロサバンナ計画の第2段階(2013年以降)では、同計画の事業に民間投資を想定している。現在、カーギル等欧米企業、中国、ポルトガル、ブラジル、インド、ベトナム等の企業が同計画地域での土地確保に乗り出しているが、日本企業は出遅れている。
セラード開発では、土地、商品作物の流通機構を掌握したカーギル等国際企業が開発の利益を得たが、汗水を流した日本、日本企業はその果実を得られなかった。生産・流通段階から市場を押さえないと食糧安全保障の将来の確保が困難である。プロサバンナ計画で再び汗水を流す日本は、官民が協力してアグリビジネス用地の取得を始める必要がある。 

―土地国有制の問題―
社会主義国として建国されたモザンビークでは、土地が国有化されている。但し、これは、イデオロギーよりも資本蓄積のない同国が土地取引を自由化すると外国資本に買収される恐れから採られた措置であった。個人住居から開発プロジェクトまで政府から利用権(最長50年間までで延長可能)を得る必要がある。利用権は譲渡可能であるが、利用権の不動産市場が整備されていなく、利用権を担保にして金融機関から融資を得られない問題がある。また、相当規模の農耕地の利用権を確保する場合は地域住民の居住地、部族の入会地等の取得につき公聴会等を開いて当事者間で補償等を含めて合意する必要がある。

―政府のコミットメント―
農業投資は回収するまで長期間を要し、また、政府の政策に左右されるリスクがあるので、権利関係が複雑な土地利用権の取得については、その裁量権のある政府のコミットメントが重要である。 

―農地争奪戦争―プロサバンナ計画の批判―
一部のNGO・マスコミからは、プロサバンナ計画が内外の企業のために零細農民から土地を奪うと批判をする動きがある。この中で、2011年6月にパシェコ農業大臣が「農地への技術移転を促す民間投資を歓迎する、6百万haの土地を必要に応じて徐々にブラジル農業者にコンセッション方式の低価格で提供する用意がある。」と発言しためマスコミで騒がれた。筆者から農業大臣に土地問題につき質した際に「モザンビークが農業分野への民間投資を必要とする考えに揺ぎは無い、未開発地に投資と新技術を導入して生産性の向上を図る。」と繰り返し述べていた。

―社会主義型開発の失敗―
ソ連、東独が、1977年に社会主義を選んだモザンビークで集団農場の建設、農業の機械化、化学肥料の投入を行い、農業生産の支援を行ったが、これは、農村共同体を破壊し、採算を無視した生産材の投入により数年で失敗に終わった。

土地国有制は、一見、民間投資の阻害要因に見えるが、政府は、ソ連、東独主導の農業開発の悲惨な結果により、援助国の政府資金だけではなく、民間投資による農業開発が重要である教訓を骨身に沁みて学んでいる。これを別の視点から見れば、土地利用(国有)制度を活かして民間投資が纏まった農地を確保できるビジネスチャンスの可能性もある。  実際、プロサバンナ計画の地域では、相当規模の土地を取得して大農場を経営する会社が既に数社あり、その数も増加している。
1989年にモザンビークはマルクスレーニン主義を正式に放棄、国有企業を相次いで民営化し、多くの欧米諸国と投資保証協定を既に締結している。今や、ベトナムを手本とするビジネスの国である。

―日本の役割― 
 日本政府は、国際場裏で途上国の農地取得に関する国際ルールの策定を主張しているが、日本はセラード開発等を通じて世界の食糧安全保障に貢献した実績と信用があり、今後のプロサバンナ計画のために国際ルール作りの日本の役割に期待したい。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

8.中国の農業協力、食糧基地とアグリビジネス
中国は、2006年の「北京サミット」でアフリカ農業開発の支援、食糧安全保障の強化を宣言し、中小規模ビジネスに対する10億ドルの特別融資基金を設定した。  
中国は、モザンビークにおいて2000-09年の間に米作地帯ガザ州の農業会社(1万ha規模)等5社を設立し、農地の取得に乗り出している。また、2009年に首都郊外に中国農業技術センター(55百万ドル、52ha)を開設し、米、トウモロコシの生産、技術及び生産管理の人材育成、機材供与を行っている。現地中国大使は、筆者に「中国の食料問題は優先課題である。センター試験農場で中国の豆の試験栽培をした結果は芳しくなかったが、米は肥料を使わずに給水の調節だけで周辺農家より5倍の収穫を得られた。中国はモザンビークを将来の食糧供給地として着目し、農場を更に拡張したい。」と述べている。

9.無形の財産
―国民の相性―
 モザンビーク人は人種偏見がなく、貧困問題と戦うブラジルに共感を持っており、また、アフリカを植民地支配したことのない日本に信頼を寄せている。プロサバンナ計画は、今後10年、20年と長期の事業であり、その根幹にある技術移転、零細農民の農業指導、農業組合の育成等何れも人間関係を通じた根気のいる協力である。言語と文化を共有するモザンビーク人とブラジル人が互いに気が合うのは当然だが、日本人も彼らとは自然と相性が合うのだ。この相性と信頼関係は、同計画の成功の鍵を握る無形の財産である。

―日系人農業者の現地指導―
 ブラジルで農業に成功する日系人は、自ら農耕地を耕すノウハウ以外にも農場で農業従業者(数十人から数百人)を指導、労務管理の技量を持っている。JICA、EMBRAPAを通じた専門家派遣だけでは「何十万の零細農民のキャパシティ・ビルディング」を到底カバーできない。零細農民に必要とされるのは高度の農業技術ではなく、草の根レベルの農業指導であるが、モザンビーク人と相性のあう日系人の力量は、マプト郊外の試験農場で既に実証されている。

終わりに
今後、10数年以上を要するプロサバンナ計画の将来を予見するのは難しいかもしれない。2008年のモザンビークに着任間もなく、筆者は畠中篤元JICA副理事長(元南アフリカ大使、当時モザンビーク大使を兼任)から「(内戦で荒廃した)モザンビークには、恵まれた水と国土があるので、日本が協力すれば、必ず豊かな国になろう」とのお便りを頂いた。現在もこの言葉を信じている。プロサバンナ計画がモザンビークの将来を約束していると思う。

                              (2013年2月5日 寄稿)


『「30年後の日本外交」に関する一考察』2012.12.17

『「30年後の日本外交」に関する一考察』



谷内正太郎.jpg


      元外務事務次官 谷内 正太郎


1. はじめに

私が外務省に入ったのは1969年(昭和44年)、今から43年前のことである。
入省直後に、ある事務次官経験者との懇談の席が設けられた。私は、その際、「30年後の日本外交はどのような国際環境の下で展開されることになると予想されますか」と質問してみた。答えはただ一言、「30年後のことなんか判らないよ」であった。大先輩が何を言われたかったのか、私には判らなかった。ただ、当時の日本外交に対する“その都度外交”や“受身の外交”という批判の背景には、「長期的展望の欠如」というようなことがあるのかなあという感慨を覚えた記憶がある。

2. 歴史に学び、未来に備える

30年後の世界を正確に予想することはもとより不可能である。しかし、30年という1つの世代に相当する比較的長い期間をとってみると、その間に相当大きな変動(変化)が起きることは間違いない。特に今日のITを中心とする技術革新の目まぐるしい発展を見れば、思い半ばに過ぐるものがある。現に振り返って見れば、冷戦下の2極構造の1極をなしたソ連は崩壊し、ソ連「帝国」は15の共和国に分散、安価なエネルギー源であった石油は2度の石油危機を経て高騰、世界経済の動向を左右する力を持つに至った。更には、冷戦後は唯一の超大国ともハイパー・パワーとも言われた米国も、アフガン、イラクに足をとられ、リーマン・ショックで経済も大きく、つまずき、「財政の崖」に直面して苦吟しているのが現状だ。BRICsと言われる新興大国は急速に台頭し、特に中国やインドの勢いは、もはや「アジア的停滞」という表現を死語化している。

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言われる。重要なことは、歴史に多くのことを学びながら、これからの国際社会がどのような構造的変化を遂げていくのか、」その主要な骨格が長期的にどのように形成されていくかを推察し、それと同時に日本外交の基本的なあり方を考えていくことが肝要である。

3. 国際社会の地殻変動

今日の国際社会は大きな地殻変動に見舞われており、新しいパワー・バランスが形成されつつあるように見受けられる。
まず第1に、冷戦下の二極構造から冷戦後の一極構造を経て、多様構造ないしは無極と言われる現状が現出しつつあると言われる。1つの大国が「極」と言えるには、グローバル又はリージョナルな一定の支配力や影響力、説得力、求心力を有することが前提となるが、米国以外にそのような国があるかと言えば答えは消極的にならざるを得ない。中国政府は、主として軍事力の視点から、今日の国際政治状況を「一超多強」と表現している。米国の軍事力の水準は突出しており、他国が、いくら頑張っても2-30年は追いつけないという状況を見れば、これはより現実に即した見方と言えよう。ジョセフ・ナイ教授は、軍事的には、一極、経済的には米、中、EU、日、印等が大国として存在すると見ている。

いずれにしても、米国の国力や国際的地位が新興大国との関係で相対的に低下していることは否定しがたいところである。問題はこの傾向がこのまま続くのか、それとも米国は力強く復活するのか、あるいは同盟関係の再構築、強化により、中国との間で一種の勢力均衡を図るのかという点にある。

第2に、世界の経済成長センターは欧米から、アジアに移行しつつあるということである。巨視的にみると、紀元500年から1500年にかけて中国の技術力、経済力は圧倒的に強かった。その後ヨーロッパは大航海時代、産業革命を経て、特に産業革命の成果をフルに活用して世界経済を主導した。「西洋の没落」とともに米国主導の時代が来るが、これが今大きく変わりつつあるように見える。

2010年のIMF報告によれば、EAS16ヵ国の貿易総額は9.3兆ドル、EUは10兆ドルである。近く前者は後者を追い抜くであろう。東アジアの人口は既に世界の約半分。ASEANプラス中国、インドの過去10年の経済成長率は、世界平均の2倍以上になる。英国最大手の銀行HSBCによれば、2050年には、中国のGDPは25兆3,300億ドル25兆3千300億ドル、米国は22兆2千700億ドル、インドは8兆1千600億ドル、日本は6兆4千200億ドルと予測される。2050年になればGDPのトップ・テンは米国を除くとすべてアジア諸国になるともいわれる。

第3に、新興大国の台頭、とりわけ中国の経済発展と海洋進出である。中国は今や世界第2位の経済大国にして軍事大国である。過去30年以上、平均経済成長率が9%台、過去20年以上、国防費は二桁成長。2010年の米国のQDR(4年毎の防衛見直し)は、「中国は米国に対し脅威を与える存在」と断定した。
中国は、南シナ海(恐らく東シナ海も)を核心的利益と位置づけ、第一列島線、第二列島線の西側においてA2/AD(接近阻止、領域拒否)能力を確立しようとしている。これは、これら水域における公海の自由・航行の自由に脅威を与えるものに他ならない。更に進んで中国には、ハワイ以東を米国、以西を中国が管理するという太平洋折半論が冗談ではなく、真剣に検討されているようである。

これに対し、米国は、オバマ政権になって「アジア回帰」を明確にし、2010年7月のハノイでのARF(アセアン地域フォーラム)では、H・クリントン国務長官が「米国は、南シナ海でのアジアの海洋公共財の自由なアクセス、航海の自由、国際法の順守について国益を持っている」と明言し、同じく十月には「尖閣は日米安保条約の適用対象である」ことも明らかにした。オバマ大統領自身も2011年11月には、オーストラリア議会で「アメリカはこれまでもずっと、これからもずっと太平洋国家である」と述べ、更に記者会見では、史上初めてダーウィンに米海兵隊2,500名を駐在させることを明らかにした。中国が南シナ海や東シナ海に「核心的利益」があるとして、これらの海域を「内海化」することは、日本や米国をはじめとする海洋国家は決して容認することはできない。
これ以外に、いわゆるグローバル・イッシューズ(核の拡散、〝新しい脅威〟たる国際テロ、環境、エネルギー、資源、感染症等)の拡大と深化、更には社会的ネットワークをインターネット上で構築するソーシャル・ネットワーキング・サービスの同じく拡大と深化が益々進んでいくと予測される。これらの大きな変動・変化がもたらす国際政治、経済、社会への影響がいかなる形で現れてくるか、まことに予測し難い面がある。紙数の関係でこれ以上は述べないが、これらの大きな動向を踏まえて、次に中国との関係について特に考えてみたい。

4. 中国といかにつき合うべきか
                                  ・・・・
中国は一説によれば、過去2000年間、世界のGDPの3%近くを占めてきた老超大国である。阿片戦争後の約140年、屈辱の歴史を経験したが、前述の通り、今や力強く復活した。中国人は自信を深めている。このことは対外的には傲慢ともいえる言動をしたり、安易に強硬策をとる姿勢に示されるようになってきている。それと同時に中華人民共和国(1949年成立)という若い国が右肩上がりの急速な成長を遂げる過程で、生硬なナショナリズムは激しく盛り上がっている。これは歴史上、日本も経験したところである。しかし、それにしても昨今の尖閣を巡る中国側の対応は、ほとんど常軌を逸したものに見える。
日本にとって、そして米国にとっても、このような中国といかに付き合うかという問題は、今世紀最大の外交課題である。

中国は、2027年にはGDPで米国を追い抜くという見通しがある(ゴールドマン・サックス)。それよりもっと早いタイミングを予想する者もいる。中国がアジアにおいて覇権を目指していることは明らかであるが、中国はかつてのソ連のように、米国とのグローバルな対立の道を選ぶのであろうか。中華民族は世界の中心に位置して、世界を支配するとの歴史的、地政学的意識を持つ中国が、将来のいつかの時点で米国の世界における覇権的地位を認めないとの姿勢を明確に打ち出してくる可能性はかなり高いように思われる。米国が恐らく望むように、米中関係が経済的には相互依存、政治・軍事的には競争という形で一応の「共存共栄」が維持されるか、甚だ疑問である。

他方で、中国には国内に深まりゆく巨大な格差を有しており、人権の侵害、腐敗、暴動に加え、三農問題や少数民族問題があり、中国という国家からの遠心力の原因となっている。求心力と言えば、もはや社会主義や毛沢東思想のイデオロギーではなく、「明日は今日より良くなる」という希望を抱かせる経済発展である。これが停滞に転じた時、中国共産党による一党独裁体制は深刻な危機に直面することになろう。歴史的に見ても、独裁体制が永遠に続くと想定することは現実的ではなかろう。
言うまでもなく、中国がいかなる道を選択するかは、中国国民が決めるべき問題である。我々としては、中国が自由で民主主義的な国になって欲しいと望むものであるが、いずれにしてもわれわれの対中政策は、基本的には関与(エンゲージメント)とヘッジング(保険をかけること)であるべきである。中国にはどのような関与を求めるべきか。それは「自由で開かれた国際秩序」を追求するということである。その国際秩序とは、自由で開かれた海洋秩序であり、国際貿易・経済体制である。アジアの地域的機構も排他的でないものにすべきである。

中国がそのような関与政策に乗ってこない事態も当然あり得る。そのような事態に備えてわれわれは体制を整えておく必要がある。海洋秩序に関して言えば、航行の自由を確保し、暴力や武力による領土の現状変更を許さないことが重要である。そのためには、海上保安庁や海上自衛隊の能力、体制を強化し、志を同じくする米国を含む海洋国家との協力を緊密にしていくことが肝要である。これがヘッジングである。
国際貿易・経済体制で言えば、TPP(環太平洋経済連携)や日中韓FTA、そしてRCEP(東アジア地域包括的経済連携)を同時並行的に進めるべきである。TPPは、ある意味で中国に他の2つのEPA・FTAに積極的に関与させる刺激になるし、逆に中国が関与してこない場合のヘッジングにもなりうるものである。

6年前に成立した安倍政権は、自由、人権、民主主義、法の支配等の普遍的価値を尊重する外交を展開する姿勢を強く打ち出した。実は2008年5月の「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」で、日中双方は「国際社会が共に認める基本的かつ普遍的価値の一層の理解と追求のために緊密に協力する」ことを「決定」した。中長期的に見て、日中両国が本当に「緊密に協力」できる状況ができれば、国際社会の地殻変動は画期的な展開を見せることになろう。

5. おわりに
残念ながら日本の国際的地位や国力は相対的に低下し、存在感は薄くなっている。バブル崩壊後の日本は坂道をズルズル落ちて行く感じがする。閉塞感、内向き、縮みの傾向には歯止めが無い。もとより日本国民が危機に臨むと底力を発揮することは歴史が証明している。しかし、尖閣を巡る日中間の緊張した状況、北方領土、竹島に対するロシア、韓国の挑発的行動にもかかわらず、国民の危機意識はまだ決して強いとは言えない。
このような状況を打開するためには何をなすべきか。それは過去の成功物語に安住せず、各分野で思い切って突破口を開いていくことである。外交については、限られた資源と手段を厳しく認識した上で、知恵を絞って戦略的な外交を展開していくことである。
これからの30年を展望して、普遍的価値観を共有し、海洋国家としての地政学的な利害関係が重なり合い、かつ、先の大戦から一転して同盟関係に入った両国民の信頼感と友情は、日米両国の国益の定義づけにおいて、まず間違いなく最重要の位置を占めることになろう。   (2012年12月3日寄稿)





『光明が見え始めたミャンマーに期待する』2012.11.26

『光明が見え始めたミャンマーに期待する』







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      アジア・アフリカ法律諮問委員会委員  
        元駐フィンランド大使 石垣 泰司



1.はじめに-ミャンマーと私のつながり
本年8月中旬、私は、久方振りにミャンマーを訪問した。
これは、私が初めての在外勤務地ワシントンで2年余勤務後、東京勤務を経て、2度目の在外勤務地として1970年代半ば(74~76年)ビルマ(当時名)に2年間次席館員として勤務して以来36年振り、その後タイに勤務中休暇を取り最後に同国を訪問して以来26年振りであった。

私のビルマ勤務時仕えた最初の大使は、本省調査部長当時、愛知揆一外相から赴任先の希望をきかれた際、望んでビルマ行きを希望し、ビル狂(キチ)を自任されていた鈴木孝大使(「ビルマという国―その歴史と回想」を著作)で、2人目は、有田武夫大使であった。当時は、1962年軍事クーデターで権力を掌握し、やがて大統領に就任したネー・ウイン政権最盛期で、古くからの親日政治家、識者も多く、我が国は、賠償時代に始まった相当規模の経済協力を実施し、ビルマ全土で最後とされた遺骨収集を行っていた時代であり、田中角栄総理が東南アジア歴訪の一環として来訪した。私は、若輩ながら次席の立場から館務全般にわたり両大使を補佐しながら、大使館ビルマ語専門家(奥平龍二氏、その後東京外国語大学教授)の助けを得つつ人脈を広げるよう努め、当時外交団は首都ラングーンからマンダレイにかけての限られた地域にしか旅行を許されていなかったが、遺骨収集団に同行との名目で、アラカン地方や中緬国境に近い辺境にも出張する機会を得ることができた(現在の大使館事務所建物の建設も開始)。私の私用運転手は、戦後外交活動再開後間もなくの頃と思われるが、同国に参事官として在勤した牛場信彦氏運転手をつとめたことがあることを誇りにしていた。

ビルマ離任(後任高野紀元氏)後の勤務ポスト(豪州、タイ、本省アジア局地域政策課首席、南西アジア課長を含む)にあっても、同国(ミャンマーに改名)のその後の状況については常に気になり、できる範囲でフォローにつとめるようにしたが、1990年私が国連局審議官として政務次官に同行してニューヨークで開催の国連麻薬問題特別総会に出張した際、以前の在豪州大勤務時にビルマ大使館の次席として勤務していて、親しくなったミャンマー代表のウー・オン・ジョウ外務次官(その後外務大臣に昇格)と再会した折、日本との関係については人権問題等につき当時の駐ミャンマー大鷹大使に厳しく批判されており、日緬関係はもはや以前のように親密ではなくなっている旨聞かされたこともあった。

私の今般の上記ミャンマー訪問は、ASEAN+3国の官民学関係者が参加する1.5トラックの会議出席が目的で、主として新首都ネーピードーに数日間滞在し、往路、帰路ヤンゴンに立ち寄り、新首都以外では若干の現地視察(ヤンゴンおよびバガン)と大使館専門家との意見交換をしただけにすぎないが、これらをも踏まえ、ミャンマーの現状況および今後に関する幾つかの重要な点について、私なりの見方を述べてみたい。

2.ミャンマーの民主化、対外開放に向けた変貌の姿は、実体を伴った本物か
ミャンマーが親日国で、人材、エネルギー等資源に富み、潜在的可能性は限りないところから、その将来における政治的経済的発展を大いに期待し、日緬関係を強固なものとすべきであるとの想いは、私をはじめ歴代の在ミャンマー大使館勤務者なら誰しもこれまで数十年にわたり抱き、その将来に期待してきたことである。しかし、これまでの鉄壁化した歴代の軍事政権下では一時的な民主化への口約束等がなされたことはあっても、現実には実質的進展への期待はことごとく裏切られ、逐次欧米諸国の制裁措置は強化され、中国等非民主国勢力の深い浸透を許す結果となった。

従って、先般来のミャンマーの民主化、アウン・サン・スーチー(以下スーチーと略称)女史との関係改善の動きもやはり一時的なもので、2014年におけるASEAN議長国の任期終了するまでにすぎないとか、今後国内で一層の民主化を求める勢力が強固になりすぎて、抑えきれなくなくなれば、直ちに軍事政権が復活し、再び以前のミャンマーに戻ってしまう恐れがあるとの見方も絶えない。
しかし、私としては、次のような理由から、最近のミャンマーの変化は、実体を伴った本物であるとの見方を強めている。
第一に、テイン・セイン大統領の進めている民主化路線は、真剣なもので、着実に進められていると考える(その具体的動きについては本欄に掲載されている先の田島大使のご論考を参照)。

もとより今後の民主化のスピードと深度は、不透明である。依然軍人出身者がコントロールする政権および議会が憲法の大改正により真に民主化され、比較的近い将来に自由な選挙の実施により非軍人民主勢力が議会で多数を占めるとの可能性はまだ見えていない。
とはいえ、テイン・セイン大統領は、個人的にも行ける限度まで民主化をすすめてみようとの決意を抱いていることは確かのようで、欧米諸国にも認知され始めており、これら諸国による累次の制裁解除措置となって実を結んできている。
さらに、テイン・セイン大統領の民主化路線は、独り本人のみがその気で進めているわけではなく、軍人層、スーチー女史を含め国民の多数から支持を集め、次第に広がりつつあることも事実のように思われる。軍部としてもそろそろ軍人による政治支配の時代を終焉せざるをえないと認識し始めていると見ることもできるかもしれない。
第二に、ミャンマー政府の国連その他国際機関に対する基本姿勢が従前に比し、一変しており、できるだけ重視、協調につとめようとしていることが看取される。これは、長期的視点からミャンマー政府の姿としては非常に大きな変化である。

私が同国に在勤していた1970年代当時、ビルマ政府の国連等国際機関に対する態度は最悪(有能な人材の左遷先化)で、自国民のウー・タント氏がアジア人として最初の国連事務総長という最高ポストに就任した(1962-71年)にもかかわらず、ネー・ウイン軍事政権は、国連を軽視し、同氏には敬意を表することなく、1974年12月、同氏がニューヨークで癌により死去し、遺体が同国に帰ってきた際、丁重に扱わず、不相応な墓地に埋葬しようとしたため、激怒したラングーン大學学生らが相応しい霊廟に埋葬すべく遺体を奪取し、多数の市民もこの動きに参加して、警官隊と衝突するという大きな騒擾事件が発生した。

また、私の在勤中、我が国が経済協力のプロジェクトとして支援し、JICA専門家を派遣していた 「東南アジア漁業開発センター」(SEAFDEC)という国際機関所属の最新式公船が同国近海を航行中ビルマ治安当局により沿岸情報収集という「スパイ活動」の疑いで拿捕され、日本人船長以下東南アジア諸国乗組員が刑務所に収容され、私もインセイン刑務所出かけ、大使館がビルマ政府とその釈放を交渉せざるをえないといった信じられない事件が発生したことすらあった。
 その後も歴代の軍事政権は、再三同国を訪問した国連特使の民主化、人権問題の改善の呼びかけに何ら答えようとせず、軟禁されていたスーチー女史との面談さえ渋る時代が長期間続いたことは周知の通りである。

 しかるに現在は、ミャンマー政府と国際機関等との関係は、著しく改善され、スーチー女史が改めてノーベル平和賞の授与式に臨んだことも周知の通りである。
第三に、国民の側においても、民主化、対外開放の進展による新しいミャンマーの到来を感知して、敏感に反応をみせている。これは、欧米人を含む外国人の訪問者増、ビジネス・チャンスや文化教育面での機会増を歓迎するさまざまな反応に加え、端的にミャンマー人のライフスタイルの注目すべき変化としても現れてきている。今般の私の同国への出張前に、本邦テレビ特集で、最近ミャンマー人が伝統的衣装のロンジーをつけず、今様の西洋式服装を好む者が増えてきているとの記者報告を聞き、これはミャンマー人の保守的性格にかんがみ、驚くべきことと感じたので、現地で注意して観察したら、まさしく事実のようであり、大使館の専門家もこれを首肯していた。ネーピードーからバガン寺院群観光地に向かう途中で見た地方の若い女性や子供達は、やはり伝統的タナカ化粧をしていたが、ヤンゴンでは上記服装の変化は顕著に認められた。
上記のように、ミャンマーにおいては、テイン・セイン現政権下で、政府および国民の双方に旧来の殻から抜け出し、新しい国造りを目指す姿が実体としてしっかり見え始めていると云えよう。 

3.ミャンマーの直面する主要課題
他方、ミャンマーは、依然多くの問題、課題を抱えており、同国が真に国際社会に評価される民主化を成就し、他のASEAN国に負けない有数の国家に発展しうるかは、これらの諸問題、課題の解決にどれだけのスピードで成功するかにかかっているが、前途は必ずしも楽観を許さない。

(1)最大の課題は、真の民主化を遂げるには、軍人が議会で多数を占めることが制度的に確保されている現行憲法を大改正する必要があるが、これが一気に実現するとは思われない。 テイン・セイン大統領等少数の開明的政治指導者が個人的に徹底した改革が必要との決意を抱いても、実際の民主化に向けた憲法改正や政治改革は、段階的に慎重に進められると見るべきであろう。

軍事政権下で中央諸官庁の首脳部や幹部に多数送り込まれた軍人が有能なテクノクラットや文民指導者に入れ替わる必要もあるが、このプロセスも一挙には進まず、徐々に行われ、憲法改正を進めることについて軍部の理解を得るためも軍人の既得権益を一定期間容認せざるを得ないとされることも考えられる。

(2)指摘されるように、現在なお戦闘部隊を擁し、辺境地域で軍事的抵抗を続けるカチン、カレン族等ミャンマーの少数民族との政治折衝を成功させ、同国において国民和解を実現することは、至難であり、その早期実現は、まず無理と見るのが現実的であろう。ミャンマーの民主化の進展とともに、テイン・セイン政権下でこれら少数民族との政治折衝の努力は鋭意続けられているものの、はかばかしい成果はあがっていない。むしろ少数民族側においては、民主化の動きに乗じて欧米諸国の理解、支援を求める動きが活発化しているので、今後のミャンマー政権が少数民族側の不満、軍事的抵抗をどれだけ抑えられるかが問題であり、ミャンマーの民主化の進展や軍事政権復活への懸念にも直結している。ただ、最近同国の民主化、欧米諸国との関係改善の動きとともに、ミャンマーよりの我が国を含む先進諸国への難民申請数が減少に転じていることは、同国の民主化や対外開放、少数民族との関係の改善が実体的に進みつつあることを示すものといえよう。

(3)ミャンマーの経済および投資環境も我が国経済協力の本格的再開、債務問題等への積極的対応により好転してきており、2012年11月政府と議会間の意見の相違により難航した新外国投資法がついに成立した。新投資法は、従前の投資法より外国の直接投資に対し優遇的な諸規定を設け、その促進に資することは疑いないが、政府と議会間の折衝過程で曖昧となった点が少なくないとされるので、今後の実際の運用ぶりがどうなるかが注目される。

(4)ミャンマーのASEANへの加盟はかなり遅く、ベトナム等旧インドシナ3国とともに、後発ASEAN諸国(LCMV)として、ASEANの原加盟国に比し、発展段階、貧困率、国際化等の面で水をあけられ、立ち後れており、できるだけ早期に他のASEAN諸国に追いつき、国際社会における地位向上が急務となっている。 従って、2014年に就任が確定しているASEAN議長国として、ASEAN+3や米露、インド、豪州等を含む東アジアサミット(EAS)、北朝鮮、EUを含むASEAN地域フォーラム(ARF)など多数の関連した重要国際会議を成功裡に取り仕切ることが求められており、これが差し迫った重要課題となろう。
ミャンマーは、第2次大戦前は、英連邦の有力な一員としてタイに勝るとも劣らない所得水準を有し、ラングーンは、国際交通のハブとして栄え、戦後独立後も、1962年のネー・ウインによるクーデターに始まる軍事政権時代に入るまで、ECAFE(ESCAPの前身)の事務局長(1959 – 1973)を務めたウー・ニュン等多数の国際人を輩出した民主国家であった。しかし、爾来50年近くに及ぶ長期の軍事政権下でミャンマーは、事実上國際的孤立状況下に置かれ、政府当局がミャンマー人の海外渡航にも厳しい制限が付した結果、國際場裡で活躍するミャンマー人は、極めて少数となってしまった。

このような状況下で、ミャンマー政府も、国際会議の開催準備および運営に関与する職員の養成、とくに語学力の強化にしっかり取り組んでいるものと考えていたが、私が今般参加した前記ASEAN+3の関係者の国際会議の実際の準備および運営振りを目撃した限りミャンマー政府担当者および関係職員の不慣れや拙い英語力が目立ち、以前の自分の在勤中日常的に接していた英語力抜群のローカル職員や外務省若手職員は、どこにいってしまったのだろうと寂しい思いがした。

4.結語
以上述べたように、ミャンマーの民主化、対外的開放に向けた変貌は、実体を伴う本物であるとの実感を抱くに至っているが、他方、その前途に困難な諸課題も横たわっていることも事実である。私の今回の同国訪問は、新首都ネーピードーを中心とし、ヤンゴン滞在はごく限られたものであったが、ネーピードーを初めて訪れて、新首都として機能し始めた実際の姿をみることができたのは大きな収穫であった。中央官庁職員の移転もほぼ完了し、ミャンマー外務省も、今後ともヤンゴンにとどまることとなる1部局(調査・研修関係)を除き、ネーピードーに移転を完了したと聞かされたが、外交団の中で大使館を新首都に移転させた国はまだどの国もないという。

一方、ミャンマーに強い関心をもつ我が国商社、企業がネーピードーに次々と事務所を開設する動きが活発化していると報じられている。外交団の中には、実際的必要から、我が国も含め新首都に分室的オフイスを設ける国も多くなっているようであり、私は、新首都を実際に見て、建物等施設は一応整えられたが、フルに機能するのは、まだまだ先のように思われた。莫大な人的資金的投資がすでに行われているので、将来どんな政権になっても、ネーピードーを廃都にし、首都をヤンゴンに戻したりすることはまずないとみられるので、ミャンマーの民主化、対外開放の進展と並行して、ネーピードーの首都機能も順次充実、整備が進み、現在ヤンゴンから新首都に毎日僅か1、2便しか飛ばないという国内航空便数も需要に応じ増大し、今後外交団の中にも大使館を徐々に新首都に移転するところが次第に増え、半数以上が移転を完了する頃にミャンマーの民主化、対外開放による経済発展も一定の目標を達成することになるのかなと勝手に推測している次第である。その頃になれば、現在米国やEU諸国が頑固に固執している「ビルマ」の呼称も改まり、すべての国がミャンマーと呼ぶ日が到来し、国際社会における同国の地位も著しく向上しているものと強く期待している。 (2012年11月7日寄稿)

『太平洋同盟:中南米とアジアの出会い』2012.11.1

太平洋同盟:中南米とアジアの出会い
『中南米の親日国・FTA先進国による未来指向型経済共同体の創設』




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                駐コスタリカ大使 並木芳治


日本では昨年来より環太平洋パートナーシップ(TPP:環太平洋経済連携協定)への交渉参加を巡って国論を二分するかのように侃侃諤諤の賛否両論が湧きあがっている。他方、米国は昨年11月、ハワイで開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)サミットでオバマ大統領が「米国は太平洋国家」と宣言し、TPPの拡大を目指したい意向を鮮明にした。オバマ大統領のこうした野心的なアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)構想に呼応するかのように中南米においても既存の自由貿易圏の統合深化に向けた動きが活発化し、新たに「太平洋同盟」が誕生した。

メキシコ、コロンビア、ペルーおよびチリという中南米の自由貿易協定(FTA)・経済連携協定(EPA)の先進4カ国からなるこの経済ブロックは、米州統合の流れを大きく変化させる潜在性を秘めている。同時に日本との関係でも太平洋両岸を結ぶ経済連携の動きの中で重要な役割を果たす可能性がある。

◆太平洋同盟は対アジア通商戦略ブロック
 6月6日、南米チリの北部アントファガスタ州にあるパラナル天文台にFTA先進4カ国の大統領が一堂に会して第4回太平洋同盟サミットを開き、「太平洋同盟」設立を祝った。      
ラテンアメリカと太平洋の弧(アーク)を包括的に結び付ける「太平洋同盟」は、メキシコのカルデロン大統領の発想によるもので、これに2度目の政権担当でペルーの存在感を一躍高めたガルシア大統領(当時)が太平洋の米大陸側に「深化した統合地域」を創設したいとの構想を打ち出して具体化した。言うなればメキシコとペルーの協働合作による対アジア包括的戦略である。 2006年に当時の麻生太郎外相が提唱した北東アジアからバルト諸国を包含する「自由と繁栄の弧」なる発想に似たラ米・太平洋版と言ってもよい。また先般、日本政府が取りまとめた「高いレベルの経済連携」の概念と共有する政策理念でもあり、中南米と日本の21世紀の新たな創造的関係を確立する原動力として潜在性を秘めた興味深い構想である。

 「太平洋同盟」の創設文書をなす「パラナル宣言」と「枠組合意」に署名した4カ国は、既に各々二国間相互で締結しているFTAを統合し、更に、人・サービス・資本の移動を促進することにより、経済共同体を形成することを目指している。(注:コロンビアとペルーはアンデス共同体の枠組によるFTA)。

6月6日の署名式には原加盟国の各大統領のほかに、オブザーバー国を構成する中米のコスタリカとパナマ、更に特別招待により日本、カナダ、豪州の各代表が参列した。
「パラナル宣言」では、太平洋同盟設立の動機として、4カ国間の域内貿易促進による関係の緊密化とともに、同盟と第三の市場、特にアジア太平洋地域との連携を推進する目的で貿易・協力の深化と投資の流れを強化したいと謳っている。即ち、太平洋同盟は環太平洋の地政学的利点を活用した対アジア通商戦略に主眼を置き、世界経済の牽引力として持続的成長が最も堅実で将来性に富むアジア太平洋地域に絞って関係の強化を狙ったラ米太平洋諸国側の積極的なアプローチであり、包括的な統合戦略と要約できよう。4カ国は民主主義、自由貿易、開発構想などで共通の価値観を持ち、中南米の中でも将来大きく経済成長を遂げることが期待される諸国である。

 太平洋同盟に加盟するためには、原加盟4カ国とFTAを締結し、かつ同4カ国のコンセンサスを得ることが条件となる。オブザーバー資格で参加が認められたコスタリカとパナマは、原加盟国すべてとFTAが完結すれば、正式な加盟を実現することになる。

◆同盟域内の貿易総額は中南米全体の55%
IMFのデータ(2011年の指標)によれば、オブザーバーを含めた太平洋同盟6カ国の総人口は、2億1500万人、国内総生産(GDP)の総和は1兆9800億ドルに達し、これは中南米全体の35%に相当する。このGDP総和は国別ランクに当てはめると世界第9位の経済規模となり、アフリカ全体、ロシア、カナダ、インドよりも大きい。貿易総額(2010年の指標)も1兆ドルを超えて中南米全体の約55%を占め、メルコスール(南米南部関税同盟)の約1,5倍である。変則的な比較になるが、この総額はメルコスール、アンデス共同体、中米統合機構の計16カ国の貿易総額に匹敵する規模である。

◆未来志向型の経済統合体
太平洋同盟は、従来型のFTA/EPAを更に深化させ、より包括的かつ刷新的な要素を盛り込んだところに特徴があり、未来指向型で野心的な目標への移行を定めている。メキシコのカルデロン大統領は、「2010-20年はラ米の10年」と豪語し、太平洋同盟は参加国間の既存の貿易協定の総和以上に大胆にして革新的なイニシアティブと自画自賛してやまない。

4カ国は、原加盟国間の財・物品、サービス、資本およびヒトの自由な移動往来を効率化すべく既に発効済みのFTAをグレードアップし、域内の輸入関税の撤廃を目指し、デジタル原産地証明制度を導入するほか、ラ米初となる株式証券取引所を統合して「ラ米株式統合市場」(MILA)の創設や、加盟各国が有する貿易投資振興機構を統合してアジア等の主要国に共通の通商事務所を開設し、将来は東南アジア諸国連合(ASEAN)との多国間FTA締結も視野に入れていると言われている。また、4カ国間で入国に必要な査証を廃止して各国民の自由な往来を可能にする。通商面に限らず文化や学術交流でも新たな計画が規定され実にユニークで幅広い。例えば、アジア太平洋地域でのプレゼンスを高めるために4カ国が所蔵するマヤやインカ文明の文化財や世界遺産を用いた移動展覧会を開き、双方の文化交流を深めたいとしている。加盟国の研究者や学生の指定大学間での学位相互取得を可能にする交換留学や奨学金の制度も採り入れ、知識・文化統合の一面もある。ほかに太平洋協力プラットフォームと称し、気候変動問題に関する科学技術ネットワークの構築に着手する。通商分野での関係深化を第一義としつつも、地域を超えてここまで進歩した合意は中南米に前例がなく、今後の履行実践が期待されるところである。

◆太平洋同盟の予期される効果・真の狙い
太平洋同盟の結成は、近年の中南米地域における最も大きな動向の一つであり、それ故に同盟内部のみならず対外的なインパクトについても論じる必要があろう。
 同盟の存在は、新たなブロックとしての経済力や競争力のシナジー効果にとどまらず政治的な紐帯強化に資する意義があろう。同盟諸国に共通する戦略構想は、アジアの有力国との連携強化であり、この目標を達成するためには、APECやTPP等、アジアとの間における主要な枠組への加盟も重要な要素となる。また、「先進国クラブ」と別称される「経済協力開発機構」(OECD:本部はパリ)への加盟協力もアジェンダにある。メキシコとチリは、既にAPECとOECDのメンバー、ペルーはAPECのメンバーであるが、近年、著しい経済成長とともに国際場裏での発言力を高めているコロンビアは、APECとOECD加盟を目標に掲げており、他の同盟国から既にコミットメントを取り付けている。同盟オブザーバーのコスタリカとパナマも同様に太平洋同盟に加盟することで、APECやOECD加盟につき、原加盟国の支持を確保できるメリットがある。

 筆者が勤務するコスタリカは、既にメキシコ、チリ及びペルーとFTAを締結し、コロンビアとの正式交渉を8月に開始した。コスタリカが強く希望するAPEC参加とOECD加盟について、同盟当該国は既に支持をコミットしている模様であり、これらは太平洋同盟の存在を梃子にしたコスタリカの外交戦略の一環と位置付けられる。コスタリカと太平洋同盟との貿易総額が全体の僅か7%に過ぎないことは、実態経済よりも同盟諸国との政治外交関係を優先したいコスタリカの立場をよく示している。いずれコスタリカとパナマが同盟に加わって6カ国になれば同盟相互間の連携協力効果が一層高まることは疑いを入れない。

◆中南米の二極構造が鮮明化
 太平洋同盟の結成をして中南米の太平洋圏と大西洋圏の二分化ないしは差別化が浮き彫りになった。前者は、経済自由化政策の推進を金科玉条にAPEC、TPP、そして今般の太平洋同盟によりアジア太平洋市場への積極的参入に関心を強める国家群であり、後者は、各種資源の国際価格高騰の恩恵に浴して、より魅力的な貿易圏へのアプローチを強く意識しないグループである。
 同盟4カ国が中南米域内に留まらず「外向き志向」で積極的に動き出した背景には、米国と反米諸国の長期にわたる対峙した関係やメルコスールの停滞と閉塞性に加え、最近アルゼンチンやブラジルで見られ始めた経済の保護主義的な傾向、「内向き志向」に対する憂慮も考えられよう。

また、別の視点から見れば、メキシコが外交指導力を発揮して太平洋同盟創設の立役者となり、中南米における劣勢挽回の足掛かりを築いたことであろう。もとよりメキシコはG8アウトリーチ国、G20構成国として応分のステータスを維持するが、過去15年余り、北米自由貿易協定(NAFTA)に象徴されるように米国にシンクロナイズされて中南米における政治影響力が相対的に低下したことは否めず、代わってグローバル・プレーヤーとして急成長したブラジルの後塵を拝してきた背景もあろう。メキシコが今回の同盟結成でラ米の主要な経済国を陣営に取り込んだ意義は大きく、したたかさが売り物の伝統的なメキシコ外交の真髄を再び見る思いがする。中南米でいち早くAPEC参加とOECD加盟を果たし、経済自由化路線を一貫して踏襲してきたメキシコの外交資産が今回生かされたわけで、今後はこの太平洋同盟をいかに有効に活用しながら外交の舵取りを進めていくか注視する必要があろう。

◆ブラジルの今後の対応に注目
 メキシコが実質的に牽引する太平洋同盟の発足でブラジルの今後の出方が注目される。太平洋同盟とアジア太平洋諸国との経済交流が将来さらに深化し、同盟国の競争力が高まる中でメルコスールの盟主ブラジルが構造改革に積極的に着手せず、保護貿易主義に走り、内向き志向の政策に傾倒すれば、地盤沈下は避けられまい。太平洋同盟の成立は、百年に一度と言われる一次産品ブームを謳歌してきたブラジルやメルコスールに経済統合戦略を見直す機会を与え、これに呼応するかのようにメルコスールの今後のあり方を巡って、最近注目すべき幾つかの動きが看取された。メルコスールの対外通商戦略は、2000年の内部決定である「メルコスール4カ国は、“共同で”域外諸国及び経済ブロックと最恵的通商協定を締結しなければならない」というブロック重視の対応に基礎を置くが、パラグアイにおける大統領の弾劾問題に端を発した同国のメルコスール加盟資格停止(6月)やベネズエラのメルコスール正式加盟決定(7月)とともに流動化に拍車がかかり、結束力に微妙な亀裂が生じ始めた。従前より独自路線を行く小国ウルグアイが、メルコスール加盟国は今後域外国との二国間FTA締結に道を開くべしとし、

また、同国は太平洋同盟へのオブザーバー参加に関心がある表明(注:ウルグアイは8月に入り太平洋同盟に対しオブザーバー参加の正式な申請手続きをとった)、果てはメルコスールがアンデス共同体を吸収した合体論まで飛び交い始めた。ウルグアイのこうした動きに対してブラジルとアルゼンチンがいかなる対応をもって臨むか大いに注目されるところである。他方、ベネズエラのメルコスール加盟に刺激されたエクアドルも同枠組に希望を表明し、これにボリビアが加わり仮に3カ国がアンデス共同体を脱退してメルコスールに乗り換えるような事態に発展すれば、96年の創設以来存続してきたアンデス共同体は体をなさなくなる可能性もある。「パンドラの箱」が一度開けられ、メルコスールが柔軟な政策路線へと転換を図る場合には、日本の経済界が強く要望してきたブラジルとのEPA締結が近づく可能性も否定できないであろう。

 (注:ベネズエラの加盟により、メルコスール5カ国の総人口は、2億7500万人、GDPの総和は3兆3250億ドルになり、米国、中国、日本、ドイツに次ぐ世界第5位、EUも対象にすれば同第6位の規模を有する経済圏となった)。

◆米国は「米州繁栄の道」政策を継続
 米国との文脈から見れば、1994年の第1回米州首脳会議(マイアミ開催)で当時のクリントン大統領が提唱した「米州自由貿易圏」(FTAA)構想が、その後の南米左派反米政権の相次ぐ成立や米国とブラジル間の農業補助金を巡る対立などで頓挫したのを受け、米国は次善の策としてラ米諸国と結ぶFTAグループを統合した「米州繁栄の道」(アラスカからパタゴニアまでの米州太平洋岸南北自由貿易圏。15カ国が参加。ブラジルはオブザーバー)というプラグマティックな政策重視の対応に転換した。米国は太平洋同盟への関心を表明しているが、既に全加盟国との間でFTAを締結しており、太平洋同盟との間で新たな枠組を模索するというよりは、今後もTPP交渉を最優先する姿勢に変わりはないであろう。米国は、メキシコと長年にわたり移民問題という大きな政治課題を抱えているため太平洋同盟への正式加盟はハードルが高いと見られるが、他方で環太平洋地域における重層的な連携強化の観点から同盟にオブザーバー資格で参加する可能性は十分ある。なお、この脈絡で言えば、開放的な移民受入れ政策をとるカナダや豪州の同盟への接近はあり得よう。

◆国際政治場裡における連帯強化
太平洋同盟諸国間の連帯は、中南米域内での強力な連携関係の構築に留まらず、広く国際社会における諸活動、特に各種選挙や決議採択時に発揮されることになる。この点、国連など多くの国際機関のポストを求めて候補を立てる日本との関係においても油断は禁物で苦戦を強いられる状況が増すことに留意すべきである。特にメキシコが立候補して日本の候補と競合する場合には、日本は他の太平洋同盟国からの得票は必ずしも当てにできず、困難な状況にならざるを得ない点を覚悟しておくべきであろう。同盟4カ国、将来的には6カ国が国際場裡において共同戦線を張り、一枚岩で固まった時には手強い政治ブロックになることは自明である。

◆日本と太平洋同盟の連携強化に向けて
 太平洋の弧を形成するすべての国々に門戸を開放している太平洋同盟と日本は今後ともいかなる関係を構築していくべきか、筆者の個人的な卑見は次の通りである。
 第一に、中南米の主要国主導による太平洋同盟は、1世紀を超える日本と中南米の長い友好協力関係の歴史の中で前例のない環太平洋自由貿易経済圏の創設を目指すものであり、今後の発展いかんではFTAAPと複合重層的な関係に発展し得るであろう。しかも同盟4カ国は、いずれも開放経済政策以外にも日本と価値観を共有する伝統的な親日国かつ中南米で大きな潜在力を秘める国々であり、共通の経済的利益が多いことから対話を積極的に促進しながら一層の関係強化を図るべきことは当然であろう。

 第二に、こうした関係を立証するように日本は既にメキシコ、チリおよびペルーの3カ国と各々二国間EPAを締結し、その経済効果には著しいものがある。コロンビアとは投資協定に次ぐ段階としてEPAが視野にあろうが、ここは太平洋同盟との関係いかんにかかわらず、先ずは早期に同国とEPA交渉を開始すべきであろう。近年、政治的安定度を増し経済成長が顕著なコロンビアは、早晩、アルゼンチンを凌駕してブラジル、メキシコに次ぐ中南米第三の経済大国にまで躍進するポテンシャルがある。市場規模ひとつを取って見てもコロンビア一国だけで中米統合機構(SICA)に匹敵し、同様に経済規模では2倍の大きさである。将来、コロンビアとのEPAが実現すれば、日本は太平洋同盟への正式加盟条件を満たすことになるが、これは未だ当分先の話であろうから、日本は「オブザーバー」として同盟に関与することを検討すべきではなかろうか。日本は今日、中南米の数ある地域機構の中で中米統合機構とラ米統合連合(ALADI)の2つにオブザーバー参加するが、実態面を考えれば太平洋同盟が持つ重要性はこれらの比ではない。国連各機関の活動把握を例示するまでもなく、必要かつ迅速な情報収集には内部に座席を確保することが重要で、同盟との連携を図る上でも政治的効果も高い。オブザーバーのメリットは、内部にあって柔軟な対応を可能にし、「適度な快適さ」を享受しながら日本の関心の高さを維持する場を提供し、ステータス・シンボルにも繋がるものである。

今回の太平洋同盟設立に際して日本とともに招待されたカナダと豪州、「米州繁栄の道」を主導する米国、アジア勢では中国と韓国など域外各国が同盟の動きを注視しだした。これら太平洋の有力国は、各々の思惑からいずれはオブザーバーとして参加を求める可能性が高いと見られる。日本はパラナル首脳会議にアジアで唯一特別に招待された意味をよく考慮し、同盟側の期待を込めたこうした政治的シグナルをポジティブに受け止めるべきであろう。日本が仮に同盟へのオブザーバー参加を申請すれば、全会一致で快く歓迎されることは間違いない。

 第三に、「枠組合意」は、太平洋同盟で有効の二国間、地域間及び多国間の経済、通商、統合に関する各協定に影響するものではないと規定していることから、既存のEPA/FTAの取極めが優先されると解釈される。太平洋同盟では原加盟国と新規加盟国間の条項の「平準化」は検討の対象にならない見通しから再交渉の余地がないことも大きなメリットであろう。同様に既存のEPA/FTAを基礎に置くため今日のTPPのような難しい議論に発展することも日本国内において想定されない。

 最後に、今後は太平洋同盟、そしてGDPで英国を抜いて世界第6位まで躍進してきたブラジルとの関係増進に一層の優先度を置くべきであろう。日本の対中南米貿易において太平洋同盟とブラジルを合わせた貿易額は、全体の約85%に達することからも明白である。この対太平洋同盟との関係と対ブラジルとの関係を密接に関連付けて取り組むことが今後の対中南米外交の大きな課題であろうし、中長期的観点に立てば日本の国益に資する外交の姿ではないかと考える。

 日本には他のアジア諸国にはない中南米との伝統的な友好関係、特に太平洋同盟諸国やブラジルとは長年にわたって蓄積されてきた大きな外交資産があることを改めて想起したい。こうした財産をいつでも有効に活用できる政策環境を整備しておくことが、対中南米外交を積極的に推進する上で重要であろう。

※本文に記載している内容は、筆者の個人的見解に基づくものです。




『荒波の中を漂う日中関係』2012.10.4

『荒波の中を漂う日中関係』

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               公財 日中友好会館顧問・元駐中国大使
                              谷野 作太郎
1.「不惑」の年を迎えた日中関係
昨今、日中(中日)関係を語る際、日本でも中国でも、「不惑」の年を迎えた日中(中日)関係という枕言葉をもって始めることが多い。
 今年は日中国交正常化40周年。孔子流に言えば、「四十而不惑」(論語 為政篇)、日本と中国の関係は、今年「不惑」の年を迎えたということになる。すなわち、日本も中国もともにお互いの関係において、惑うことなし、つまりは、両国は相互の関係において大局を知り、小局にとらわれることがなくなる年頃になった、ということか。
 しかし、そう話を始める人たちも急いで言葉を継いで、現実はそれとは程遠いとして、暗い面持ちで昨今の日中(中日)関係を語るのが常である。

 尖閣諸島をめぐっての両国の間の攻めぎ合い、その後、中国各地で起こった日本(人)を標的とした中国人による乱暴狼藉。孔子は「五十にして天命を知る」とも言っているが、今10年先の日本と中国の関係について、自信をもってそのように見通しうる状況ではない。昨今の両国関係の状況を見るにつけ、中国の人たちがよく口にする「両虎相争えば、いずれか一方が傷つく」、「和すれば双方に利益、戦えばともに傷つく」という言葉が思い起こされてならない。40年前、両国の政治指導者たちが、様々な困難を乗り越え、国交正常化を実現したあの時の気概、あの時の心意気はどこに行ってしまったのか。

2. 中国各地での反日デモ
それにしても、先に起きた中国人による乱暴な行動は論外である。状況は鎮静化の方向に向かいつつあるものの、その残した傷跡は大きい。日本大使館、各地の日本総領事館への投石などの破壊行為(道路に面した多くの窓ガラスが破損された)、日系企業、販売店、日本食レストランに対する破壊、放火、略奪行為、日本人への暴力沙汰等。その後、北京では、たまたま通りがかった米国の大使車をも襲うという事態にまで発展した。
また、いつものことであるが、今回も日中青年交流など、多くの意義ある交流事業が日本でとり行われるものも含め、中国側の意向で、一方的にキャンセル、或いは延期された。

 領土問題は、双方のナショナリズムに火がつくだけに厄介な問題ではある。従って、この問題について、それぞれが強い形で意思表示に及ぶということも自然なことかもしれない。しかし、その場合においても、自らを文明国家(「文明」・・・中国語では、秩序を守る、礼儀正しいという含意をもって、国政の指導者たちがよく使う言葉である)として認めるのであれば、越えてはならぬ一線があるはずである。ましてや、政府のスポークスマンが、「民意」なるものにおもねり、「原因はあげて日本側にあり」として、そのような行為を容認する発言をくり返すなどは論外である。

 私は、今、かつて(2006年)、中国で歴史教科書論争が繰り広げられた時、広東の中山大学の某老教授が、あれは「愛国の壮挙」でも何でもなく、各地で主として外国(人)を対象に破壊、殺人行為に及んだ義和団民は「盲従の愚民」であり「文明にもとる行為」であると決めつけ、大いに論争を呼んだことを思い出している。そういえば、日本に対しては。しばしば厳しい言葉を並べたてるあの唐家璇氏(前国務委員、元外交部長、現在、中日友好協会会長)も、過日、北京で開かれた公開のシンポジウムにおいて、多数のテレビ・カメラの放列を前にして、丹羽大使車への暴力沙汰にふれ、あのような行為は「愛国」ではなく「害国」だと言い切った(もっとも、そこは中国らしく、翌日の中国のメディア報道で、唐氏の発言のこの部分を報道したところは全くなかったが)。

 私は、義和国事件については、くだんの老教授が断じるような(あれは、「立派な反帝国主義的行為」などというものではなく、「盲目的な排外の極端にして愚まいな行為」)そんなに単純なものとは考えないが、日本(人)を標的にとしたというところ、そして、政府のスポークスマンのこれを容認するような発言を聞いていると(義和国事件の時、これを裏であおったのは西太后だった)、その部分を見る限り、今回の事態は、正に日本を対象とした21世紀版小型義和団事件(あの老教授が言うところの)ではなかろうかとすら思った。

 これと比較して、一昨年、尖閣沖での中国漁船の衝突、拿捕事件を契機として中国において繰り広げられた反日デモに対抗して、東京で数度にわたって行われたかなりの規模の対中抗議デモ(不思議なことに、日本では中国における反日デモは大きく報道されたが、東京でのデモの方はCNNなどが大きく取り上げる中、ほとんど報道されなかった)。この方は行進中のゴミの収集も行うなど、何と整然と秩序立ったものであったことか。

 もっとも、私は、昨今の中国各地における事態、あのような立ち振る舞いが、中国の国際的イメージを大きく傷つけているということについて、内々深く悩み、心を痛めている多くの良識ある中国人が居ることを知っている。また、昨今の状況を深刻に心配しながら、できるだけそこから距離を置き、歯を食いしばりながら懸命に日々の勉強に励む多くの在日中国人留学生たちのことも知っている。(2005年の反日デモの時は、彼ら、彼女らが寄宿する中国人学生寮の前を通る街宣車から“貴様ら、とっとと中国に帰れ!”といった罵声があびせられた)。


3. これからのこと
いずれにせよ、今回の事態が日中関係にもたらした傷は決して浅くはない。両国の国内政治状況(中国では政権交替、日本では党首選、総裁選を経て、いずれ総選挙)と相まって、日中(中日)関係は、残念ながら、傷を癒すためにも、しばらくの間は「冬ごもり」ということか。特に中国は、このような時には、上から下まで塹壕の中にこもって、なかんずく、中日関係のようなやばい仕事には手を出さない。

 そのような状況の下においても、少なくとも日本側は、売り言葉に買い言葉、目には目を、歯には歯をといった言動に走らず、中国に対して、さらには世界に対して、中国とは一味違った日本(人)の国柄、人柄を見せつけてゆきたいものである。
 「尖閣」については、中国との間では、政・官・学それぞれの間で今後とも大いに議論してゆかなければならない。しかし、その場合も、お互いに一呼吸おき、過度に感情的にならず、言葉を正した上で・・・という風格を身につけたいものである。あの吉田松陰も「言葉ツキ丁寧ニシテ、声低カラザレバ、大気魄ハ出ズルモノニ非ズ」と言っている。

 中国側の議論で、最近気になることは、このところ中国側の一部の学者たちが、「尖閣」の問題を「歴史」の問題にからませて議論を仕掛けて来ていることである。ある向きは、「中国(中華人民共和国)は度重なる要求にもかかわらず、サンフランシスコ講和会議の参加をみとめられなかった」、とし、つまりは、「そのような中国を排除した形で定められた戦後の国際社会の姿、形については、領土問題の処理も含め異議あり」と言わんばかりの議論を展開し、ある向きは、「日本のファシズム、軍国主義」に言及しながら、この問題についての中国側の主張を述べるなど。

 なお、この点に関して言えば、サンフランシスコ平和条約の後に結ばれた日本と中華民国との間の日華平和条約(1952年)の第2条の領土事項においては、「日本国は・・
台湾及び澎湖諸島並びに新南群島(現・南沙群島)及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが確認された」とあるだけで尖閣諸島(釣魚島)への言及はないことを想起したい。更には、戦争が終わり、台湾及び澎湖諸島などが中華民国に返還されたにも拘らず、尖閣諸島(釣魚島)などは米軍の日本占領下の一部として扱われていた、そして中華民国政府は、このことに全く異議を唱えなかった。要は、国交正常化当時、周恩来総理が田中角栄総理に正直に述べたように、すべては、あの海底に豊富な石油資源がある(らしい)(1968年のECAFEの調査)ということが分かってから、台湾、ついで中国が手を上げはじめたことから始まったのである。

 第二に最近の日中・日韓関係を見ていて、往年と違って彼我の間における政治のパイプが極めて細いものになってしまった、ということをつくづく感じる。私たちが現役時代、例えば、日本の歴史教科書問題、或いは台湾をめぐるいくつかの戦後処理案件について政府間の交渉が行われるのと並行して、日中、日韓、日台の間で、これらの分野で一家言を持つ大物政治家の方々が往来を重ね、先方に対し説得に努めるかたわら(これに対応して、先方にもしっかりした受け皿があった)、それぞれの国内を治めていったものだ。

今回の件について、中国の筋から聞こえて来るのは、①中央政府(国)にどうして
一地方自治体(東京都)の動きを抑えられなかったのか②実は、国と東京都の間で、あらかじめシナリオができ上がっていたのではないか ③東京都がひきとるというのと、国がひきとるというのでは、重みが全く違うというものである。この辺のことについて、日本側は政官あげて、中国側に十分時間をかけて説明し誤解を解く努力をしえていたのか、若干のうらみが残る。いずれにせよ今後、それぞれの側が落ち着きを取り戻した上は、少なくとも中、韓などアジアの主要国との間では、あらためてそのような政治のパイプ造りに心がけなければならない。

そのような状況の下、肝心の「尖閣」の方はどうするか。日本側としては、尖閣を特定の勢力の下に置くより、これを国が購入することの方が、あの島々を平穏かつ安定的に維持管理してゆく上で最良であり、日中関係の大局からも、その方が良いということを、引き続き中国側に説明し理解を求める、ということであろうが、その上で、当分の間(何年、何十年?)、やはりかって鄧小平氏が言ったように、「(この問題については)、我々の世代の人間は知恵が足りない。次の世代は、我々よりもっと知恵があろう。その時はみんなが受け入れられる良い解決法を見いだせるだろう」ということだろうか。

そして、そのような「知恵」のひとつとして、いずれ、台湾の馬英九総統、或いは日本国内においても少なからぬ向きがつとに主張している、あの辺の海底資源の日中台による「共同開発」ということがあるのかもしれない。もっとも、これとても、昨今のそれぞれの国内状況に鑑みれば、そこに至るには、それぞれの側において島の領有権問題への対応も含め、大いなる知恵(日本について言えば、領有権の問題は譲れない。そのことと、「共同開発」をどう両立させるかという大難題がある。)と、大きな政治力が必要とされよう。

いずれにせよ、今は状況の鎮静化を期待するばかりであるが、問題が片付いたわけではないので、今後のことははなかなか見通せない。今後、日本側としては、①海上保安庁による警備体制の強化、②中国側との間における、海上における危機管理メカニズムの構築(彼我の間の議論は相当煮詰まって来ていると承知。なお、私の中国の友人からは、今の解放軍の幹部たちは、戦争の経験がなく、昨今、とくに海軍の一部筋に「オレ達は戦勝の味を知らない。日本との間で、イッパツやったろうか!」といった気運が出て来ているというブッソウな話も聞く)などの面で努力すべきことは勿論であるが、その間にあっても、尖閣諸島(釣魚島)について、できれば、日中両国政府の支持の下、例えば、すでに存在する「日中共同歴史研究」の場を利用して、双方の側からこの問題を熟知した複数の有識者を集め、できれば、第三国からの有識者の参加(オブザーバー)も得て、静かな雰囲気の中で、それぞれの主張のベースとなっている資料、古文書の類を持ち寄り、突き合わせること位はできないものだろうか。そして、その中で議論すべき一つの点は、中国側(そして日本の側の一部の人たちも呼応して)が、つとに主張している「尖閣問題について棚上げについて日中間の合意」なるものについてである。私自身は、そのような「合意」は存在しないと承知しているが、他方、この点については、過去において日本の外務大臣も日本の国会で、「(この問題については)今のままじっとしておいて、20年、30年そのままの方がよいと思う」と述べたこともある(1979年7月30日の衆議院外務委員会における園田外務大臣の答弁)。

もっとも、このような会合を立ち上げることについては、早速、日本の一部からは「あの島を巡り領有権の問題など存在しないのに、そのような会合などとんでもない」という声が聞こえてくるような気がするが、いつ迄もそのような棒を呑んだような硬い言い方は止めるべきだ。この問題は、今や日中間、日台間の外交問題としては明らかに存在するのだから。我々は、そのことは認めた上で大いに日本側の主張を展開すればよい。   
なお、このことに関し、竹島、北方領土と違い、尖閣諸島については(問題が存在しないのだから、従って)、日本政府の側において、しっかりした広報資料も存在しない。この点も改善すべきである。ちなみに、「独島」(竹島)について韓国政府は、「領有権問題は存在しない」(故に日本政府による国際司法裁判所への提訴にも応じない)としながらも、韓国側の主張のついては、世界の隅々において(驚くなかれ、あのブータンにおいてすら)活発な広報活動を行っている。
 最後に、冒頭に「両虎相争えば、いずれか一方が傷つく」と述べたが、昨今の日中関係をめぐる一番の問題は、今や日本は中国から「虎」とは見なされていないということである。同様なことは、日韓関係についても言える。李明博大統領はこのことをあからさまに述べた。

 日中関係、日韓関係を今一度しっかりした基盤の上に乗せること、そこへ至るには、迂遠なことではあるが、わが日本が、政治、経済などの面において日本が往年の力、存在感を取り戻すことこそが一番大切なことである。

―これから冬にかけて、尖閣周辺は、漁期の最盛期を迎える。そのような状況の下、不測の事態が起こらぬことを念じつつ―             (平成24年9月20日記)

 昨日の日本女子オープンで、中国人プレイヤーのフォン シャンシャンが優勝した。
観戦していた日本人は皆 彼女に対し、大きな拍手をもって祝意を表した。私は、この光景を見て、大変うれしく思い、あらためて日本人として生を得たことを誇りに思った。
                               (10月1日追記)

『ドイツからみたユーロ危機とEUの展望』2012.9.18



『ドイツからみたユーロ危機とEUの展望』




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                     前駐独大使
                     関西学院大学副学長 神余隆博


1.ドイツから見た欧州統合

地政学の重要性
欧州の分裂とユーロの崩壊を回避する上でドイツが果たす役割は極めて重大である。そこでドイツとは何か、ドイツは欧州をどう見ているかについて私見を述べてみたい。
筆者はこれまで、ドイツに4回勤務した(研修も含めれば5回)。そのうち2回がボン、1回がデユッセルドルフ、そして最後の一回がベルリンであった。ベルリン以外はいずれも旧西ドイツ地域のそれも西端に近く、ドイツの東端にあるベルリンよりもフランスやブラッセルへの距離感覚が近く、ベルリンは遠い存在に感じられた。この地域ではドイツは西欧に属するという意識は自然である。しかしベルリンに勤務して感じたのは、このドイツの東端のプロイセンの首都であったベルリンは実は東欧や旧ソ連のウクライナあたりまで含めた欧州全体でみた場合の中心に位置するということであり、ベルリンではドイツは中欧という感覚が自然である。ドイツ統一後の日本外務省の組織改革でそれまで西欧第1課でドイツを担当していたのが、現在では中・東欧課で担当することとなっているが、それは統一ドイツの置かれた地政学的な観点からは適切な仕分けであったと思う。ドイツは西欧であると同時に中欧であり、感覚的に東欧はドイツの裏庭なのである。地政学が政治と外交の運命を左右するということはドイツについてはよくあてはまる。

 また、ドイツの置かれている地理的位置関係について言えば、ドイツには現在、シェンカーとかDHLとかの世界的なロジスティックスの会社が集積しているが、これもドイツの地政学的な特徴を生かしたもののようだ。すなわち、ドイツから見れば、ニューヨークも北京も時差が同じ6時間であり、この21世紀の2つのスーパーパワーから同じ時間差にあるということが、ビジネスのみならず外交面でも、世界政治の動きをにらんでグローバルな対応を行う上で極めて有利な地政学的な環境にあるということである。

不安と抗議とロマン主義の弁証法 
さらに、ドイツを理解する上で鍵となる地政学的な要素は、ドイツが9つの主権国家に取り囲まれているという事実である。欧州でもこれほど隣国の多い国は他にない。日本も海を挟んで4つの国(と1つの地域)と向かい合っており、領土をめぐる外交問題や不法侵入の事態を抱えているが、陸続きでしかも9つの国と接するドイツは日本の比ではない。このため、ドイツ人は絶えず周囲の国への警戒心があり、「不安」を抱えて生きているということである。この不安(ドイツ語ではアングスト=Angst)は、ドイツ人の国民性と政治・社会行動を規定する鍵となっている。何事につけ、常にアングストがあるのでドイツ人は見た目とは異なり憶病で慎重な面が多い。福島の原発事故が起こって、EU諸国の先陣をきって東京のドイツ大使館が大阪に一時避難したのもそうだし、他のEU加盟国と相談することもなく単独で原発脱却に踏み切ったのもそうである。すべて、不安が物事を規定する。そして、その不安に立ち向かおうとして抗議(プロテスト)する。このプロテストがドイツを理解する第二の鍵である。ルターの宗教改革も核兵器や原発への反対もこの抗議が物事を前に動かす誘因となる。そして、不安と抗議のジレンマ状態から抜け出して新たなステージに導いてくれるのが、ドイツを理解する第三の鍵である「ロマン主義」(ロマンティシズム。ドイツ語ではロマンティク)である。

これは自然への憧れとか、美と調和とか純粋性といった形而上学的なものであるが、ロマンティクこそドイツ人の誰もが憧れる精神であり、これに導かれて対立はやがて止揚されて、新しい歴史段階に至る。まさに、原発問題も不安と抗議を経て緑の環境思想というロマンティクによって原発脱却決定という状態に止揚され、そこから世界は新しい歴史が始まるのである。このヘーゲル流の弁証法的な史観がドイツ人をそしてドイツを規定する古くて新しい行動原理であり、ドイツが抱える困難な事象はほぼすべてこれで説明がつくといってよい。おそらくユーロ危機もこの弁証法的アプローチでいずれ政治的な解決が図られると思われるが、その場合のロマンティクは何なのか。かつてユーロを導入した際は「欧州における戦争と分断の克服」がそれであったと思うが、今回のロマンティクは筆者の見るところでは、「政治統合」あるいは「欧州のドイツ」の考え方ではないかと思われる。

2.「ドイツの欧州」か「欧州のドイツ」か 

戦時中ナチを嫌って米国に亡命したトーマス・マンが戦後1953年にハンブルクで行った講演の中で問いかけたのは、ドイツの将来は「ドイツの欧州」なのか「欧州のドイツ」なのかということであった。ドイツ再統一に向けての長い道のりの中で、戦後ドイツは西ドイツの時代から、ドイツが欧州をそしてドイツ自身を不幸に陥れさせたあの「ドイツの欧州」を求めるのではなく、欧州の中で統一を夢見、欧州とともに発展する「欧州のドイツ」を追い求めてきた。アデナウアーもブラントもシュミットもコールも、党は異なれど、戦後の偉大な業績を達成したドイツの歴代首相はみな欧州主義者であった。
それは、ドイツ再統一後のシュレーダー首相もメルケル現首相も同じであるが、再統一後のドイツの「普通の国」化とベルリンへの首都移転による西欧との距離感(ドイツにおける地政学の復権)により、欧州主義には若干の揺らぎが出てきている。2004の年シュレーダー政権の「ドイツの道」(イラク戦争に反対して、「ドイツのことはドイツで決める」として反英米的態度を鮮明にした)路線が、その嚆矢ではなかったかと考える。また、現在のユーロ危機に際し、メルケル首相がギリシャ支援とユーロ危機に対し優柔不断の立場をとり、ドイツの国益を優先的に考える立場が見え隠れしたこと等からメルケル首相に対し「欧州のドイツ」路線を放棄しようとしているのではないかとする、長老たち(シュミット、コール元首相、ヴァイツゼッカー大統領等)の警鐘が乱打されたのである。

ドイツは再び特別な道を歩み始めているか
 メルケル首相は、これまでギリシャ支援とユーロ危機への対応において頑ななまでにノーを言い続けていることがある。それは、ECBによる債権の直接買い入れとユーロ共同債である。特に後者のユーロ共同債については、「自分の目の色が黒い内は決して実現しない」とまで言い切っており、これと財政規律・緊縮財政とはセットになって頑として譲らない(その意思は鉄より固いので「テフロン・メルケル」と揶揄される)。この点については、ドイツはユーロ圏の中で孤立しており、ドイツが独自の道を歩み始めているかのような印象を与えている。その一方で、メルケル首相は「ユーロが失敗すれば欧州も失敗する」とも言っており、ユーロを何とか再建したいし、ギリシャもユーロ圏にとどまることが望ましいということではフランスはじめ他の国々と歩調を合わせている。

メルケル首相が頑なな態度をとるのは何故だろうか。ドイツが自国の国益を何より重視し、独自の道を歩むことを内心決意しているとみるべきものかそれとも、「地中海連合」に譲歩を迫り、ドイツ流の経済思想を共有させるための戦術的な抵抗なのか。筆者にはドイツの内政を見据えた上での戦術的なものだという気がする。ギリシャが国家破産し、ユーロから離脱するならそれはユーロ全体の信用問題に発展する。他の南欧諸国への連鎖反応が考えられるし、その影響は当然にドイツにも及ぶ。ギリシャの脱退は最悪の場合、ユーロの崩壊を招く危険性とドイツ、オーストリア、オランダ、フィンランドという北のユーロ圏(いわばカロリングのフランク王国ではなくドイツ民族の神聖ローマ帝国)に縮小する可能性が有り得る。後者は実質的なマルク圏の復活であり、そうなればそのような優等生国だけに縮小したユーロは切り上がり、輸出を中心とするドイツ経済は苦しめられることになるだろう。そのようなリスクをドイツが犯すとは思われないので、最後は必ずドイツも妥協するとみるのが自然であろう。これが欧州の智恵で、ドイツが真に孤立することはドイツにとっても他のEU諸国にとってもためにならないことは歴史の教訓である。

「ラッパロ」の警告
仮に、ドイツが追い詰められ、孤立を貫いた場合に何が起こるか。その場合ドイツは地政学的な観点から、ロシアと手を組むこともあり得る。歴史は過去にそのようなケースがあったことを教えている。それは1922年4月16日のラッパロ条約である。当時ベルサイユ条約で多額の賠償を強いられ、政治的にもさまざまな制約を課せられていたドイツは、ジェノヴァで行われた米、英、仏、独、ソ、伊、日等が出席した欧州経済会議を抜け出し、ソ連と二国間会談を行い、秘密の合意を含め互いに支援しあうことを約束し、世界を驚かせた。ドイツはロシアをパートナーとみる傾向があるので、このような歴史も繰り返さないとは限らない。

もはやユートピアは存在しない?
 ドイツ人がロマン主義を信奉する民族であることはすでに述べたとおりである。このロマン主義自体は、キリスト教が世俗化していたドイツにおいては宗教に代わる代償的な精神となってきたとの見方もあるが、ナチスなどはこのロマン主義を悪用したと言われている(ヘルムート・プレスナー『ドイツロマン主義とナチズム』、フリードリヒ・マイネッケ『ドイツの悲劇』)。ヒトラーは大衆社会の欲望と幻想を利用し、ドイツを破滅に導いたのであるが、ドイツ民族が持つ「不安」(アングスト)がロマン主義と結びつく場合に、予期せぬ増殖作用を持つ危険があることもドイツの特徴である。 

ここで注意しておかなければならないのは、ドイツの国民の現在の精神状況である。ロマン主義はエトスではなくパトスの問題だからである。そしてパトスは国民の精神から発するものであるからだ。ドイツ国民は統一に満足している。ユーロ危機にあっても唯一ドイツの経済は現在まで混乱もなく、好調でドイツ人はユーフォリア(陶酔感)に浸っており、なぜほかの国はドイツのようにできないのかと説教を垂れている。そしてドイツに更なる負担を求める目論見には断固として反対するメルケル首相に対しては、国益をよく守っているとして支持率が高い。このようにドイツ国民にとってはベルリンの壁が崩れてドイツ再統一が達成され、ユーロが導入されたことで、この20年の間にユートピアは実現したのである。そして、このユートピアを越えるユートピアが見つからない現状では、精神的には目標喪失状態にあるので、ユーロ危機のハンドリングを誤れば社会が右傾化する危険もはらんでいる。このことを早くから指摘していたのはドイツ政治学者の仲昌樹氏であり、仲氏は1996年の『アスティオン』誌秋季号に掲載された論文(「脱幻想化するドイツ」)の中で、「これまで戦後社会をリードしてきた既成政党、批判的知識人たちが統一後の具体的な目標を提示できず、消失したユートピアへのノスタルジーに浸って無力化しているため、相対的に右のほうに吸引力が生じている」と指摘している。


政治統合とドイツのジレンマ
 この目標喪失状態の中でユーロ危機に喘いでいるドイツが追い求める次なるユートピアそしてロマン主義の目指すものは何であるのか。おそらくそれはドイツとEUを統合を更なる高みに導く欧州政治統合を目指すということであろうが、これは容易なことではない。その第一歩として財政同盟があるが、税制の統一はまさに徴税権という主権そのものにかかわる問題であるので、ドイツもさることながら主権の問題に敏感なフランスにとっては微妙な問題であろう。ドイツが強く拒否するユーロ共同債や財政移転について、ドイツは表向きこのようなことは政治統合が完成した暁のことであるとして、入り口ではなく出口論として処理しようとしているが、本音は政治統合などできないと踏んでいるのであろう。その限りにおいて政治統合推進のお題目は、レトリックの範疇のものであり、現実政治(レアールポリティーク)の目標ではない。これには主権の移譲に伴うドイツ連邦議会の関与低下の問題、すなわち「民主主義の赤字」と呼ばれる議論を惹起し、連邦議会議員や国民から憲法裁判所に違憲訴訟が提起され、基本法の改正や国民投票の実施の議論も噴出して収拾がつかなくなる恐れがある。政治統合はあくまでユートピアとして理想主義の中に閉じ込めておくことが現実的な対応と言う他ない。
 ポピュリズム政治の横行する民主主義社会においては、右傾化し国益を重視する国民意識と理想政治の間で常に呻吟するのが為政者の常であろうが、ユートピアを喪失したドイツは今後ますますその間のジレンマに悩まされ続けるであろう。

3.ドイツはなぜ指導力を発揮できないのか

「中ぐらいの国」症候群
ドイツはユーロ危機においてなぜもっと積極的にリーダーシップをとれないのかとの疑問を抱く向きは少なくなかろう。ギリシャ危機以降ドイツの決定の遅さ(慎重さ)と小出しにする対策は、かつてのバブル崩壊後の日本の金融危機における対応を彷彿とさせる。ギリシャア問題が起きてこの方、欧米のメディアではメルケ首相の優柔不断をあてつけたタイトルが散見する。「メルケルはどこにいるのか」だとか、「マダム・ノー」だとか、はたまた、アイアン・レディのサッチャー首相よりもさらに強硬ということで「テフロン・メルケル」というあだ名がつけられたこともある。

 歴史的な経緯もあり、普段ドイツが強くなることに慎重な隣国ポーランドのシコルスキー外務大臣までが、ドイツは今こそリーダーシップをとるべきだと公に発言してもなかなかドイツの慎重さと消極的態度が改まらないのはどう理解したらよいのであろうか。その答えの一つは日本と同様、第二次世界大戦の敗北と歴史問題のトラウマがドイツをして大国外交をすることができない「ミドルパワ―」メンタリティ(「中ぐらいの国」症候群)を作り出さしめてきたことにあると思われる。リーダーシップをとるということは、当然に重い責任を伴うことであり、中小国にはできない大国の特権でありかつ義務である。ところが、日本と同様ドイツには自国を「大国」だと思っている国民は少ない。ドイツは「中ぐらいの国」だとみているのである。ドイツの戦後外交は、国民の自信と国家の名誉をどう回復するかという「修復外交」であり、リーダーシップを極力とらない外交であった。そして再統一を果たしてして「普通の国」になってまだ20年にすぎないのである。この「中ぐらいの国」メンタリティと大国外交の経験不足がメルケル首相をしてさらに慎重な態度をとらせているものと思われる。

 第二に、これも日本と相通じる面であるが、1990年のいわゆる湾岸戦争以降、ドイツや日本が直目した国際秩序維持のための「国際貢献」論議において、求められたのは資金協力と人的貢献であった。そして両国ともtoo little, too late と酷評する国際的な非難を克服し国際秩序維持のためにどうすれば国の在り方を変えていくことができるか、いかにすれば「普通の国」になれるのかが90年代のテーマであった。

英国の役割はあるのか?
英国の歴史家のティモシー・ガートン・アシュが2012年2月9日のロサンジェルス・タイムスやドイツのシュピーゲル誌に書いている通り、「デメジエール・ドイツ国防大臣は、アングロサクソンがドイツにもっとリーダーシップをとるように要求する場合は、それが普通意味するところはリーダーシップではなくカネなのだと言う。彼は間違っているが、多くのドイツ人が感じるところを正確に反映している」ということになる。ガートン・アシュは続けて「ドイツのエリートはフランスのエリートと違って、欧州においてリーダーシップの役割を果たすことに慣れていない、フランス人はその役割を果たしたいができない、ドイツ人はできるがやりたくない」と指摘し、「それに加えて、ドイツの中途半端な国の規模についての恒常的なジレンマが存在する。キッシンジャーが言うように、ドイツは『欧州には大きすぎ、世界には小さすぎる』ということである」と紹介する。ガートン・アッシュの結論はドイツはやればできる、英国もそれを助けるべきだというものである。正論ではあるが、政治的にはそうならないと筆者には思える。それは、こと、ユーロの問題については金融パワー英国とドイツの考え方は水と油ほど違い、ドイツを助けることはロンドンのシティにとっては致命的な結果をもたらしかねず、国益に真っ向から反するため、英国にとって最大の協力は何もしないことであり、名誉ある孤立を守り、ユーロ諸国がまとまることを邪魔しない(ビナイン・ネグレクト=悪意のない怠慢)ことがベストと考えているように思われる。

決断できない政治の伝統
 「決断できない政治」は日本の専売特許ではない。ドイツも戦前からそのような傾向があり、有名なドイツの公法学者のカール・シュミットが指摘しているように、「政治的活動が始まるところで、政治的ロマン主義は終わる」ということであり、革命的な場合は別としてそうでない普段の政治においてはドイツの政治家の心情である政治的ロマン主義は、決断しないこと、そして他人の決断に従属するという受動性すら持っているとシュミットは見ている。このような政治的伝統がドイツに存在するとすれば、ドイツはこれからも一人でリーダーシップをとることはできない。決断のできる頼りになるパートナーを見つけるしかないが、そのパートナーとして最もふさわしいのは、フランスであろう。フランスの場合は啓蒙主義の影響で様々な価値対立の下でも個人に決断を行わせている。このように決断できないロマン主義のドイツと決断できる啓蒙主義のフランスが協力することこそ、ユーロと欧州を救う道であり、2013年に50周年を迎えるエリゼ条約(独仏協力条約)の精神の下で、独仏がリーダーシップを発揮することができるようになることが期待される。

「ポリティシズム」より「リーガリズム」の国民性
 これは日本と共通する国民的傾向であるが、ドイツにおいては政治よりも司法的な判断が、優先されることが多い。本来は政治が判断し、決めるべきことがすでに紹介したような事情で決められないことが多く、憲法裁判所の判決等の司法的な決定に容易に従うのがドイツ的リーダーシップの現状なのである。アングロサクソンあるいはフランスのように、政治的な決定が優先される政治優先主義(ポリティシズム)ではなく法治優先主義(りーガリズム)の国柄である。すでに連邦議会で審議し可決された条約ですら、憲法裁判所に訴えられた場合は、大統領はその判決が出るまで批准書に署名をしない。たとえば6月29日に連邦議会で可決したユーロ加盟国の財政規律の強化を求める財政協定条約と資金難に陥った国への資金供与を行う欧州安定メカニズム(ESM)のケースがそれであり、反対する連邦議会議員等の訴えで、連邦憲法裁判所で審理が行われ、9月12日に判決が言い渡された。

 この判決を一言でいうならば、条件付き合憲(Ja, aber=Yes, but)判決であり、ガウク独大統領も批准書に署名を行った結果、これでひとまずESMの発足は確実になった。ドイツがストッパーになり、ユーロが不安定化する最悪のケースは脱した。しかし、この判決が付している条件とは、第一にESMにおいてドイツが負担すべき上限の1900億ユーロ(約19兆円)を超える保証を行う場合は、ESMの理事会においてドイツ政府代表の同意が必要であること、第二に、ESM関係者はその守秘義務に拘らず、連邦議会と連邦参議院に包括的に状況説明を行うことである。しかし第一の条件については、今後の状況如何によっては、ドイツの負担は1900億ユーロを優に超えることも予想される。その場合にドイツ政府が議会の同意なしに増額負担の決定をESMにおいてできるかは未知数であり、同意なしに増額に応じれば憲法違反に問われるという袋小路に入り込むことになる。

 日本では憲法解釈については内閣法制局が憲法裁判所の役割を事実上代替している。尖閣への中国漁船の侵入の場合もそうであるが、大きな政治的決断を避けるために小さな法律問題として処理することで、事態を非政治的に、冷静にコントロールしようとするのが、尖閣事案を含む危機管理におけるいつもの日本の処理の仕方である。「法に従って厳粛に処理する」ということは、政治的判断を避けるということとトートロジーであり、ここにカール・シュミットのいう政治的ロマン主義(決められない政治)を日本にも見る思いがする。

4.メルケルの憂鬱は続く

 ドイツとユーロ圏諸国にとって今年の9月から10月にかけてが、1つの山場になるだろう。夏休み明けのメルケル首相はすでに精力的な外交を開始している。8月23日には、オランド仏大統領とベルリンで会談、翌24日にはギリシャのサマラス首相がベルリンを訪問、29日にイタリアのモンティ首相とベルリンでの首脳会談、30日からは訪中、9月6日にはマドリッドでスペインとの首脳会談、同12日には連邦憲法裁判所がESM等の合憲性につき判断、その後10月にかけてトロイカがギリシャについて報告書を出す予定である。スペインとの関係ではECBによる国債の買い入れにつき、9月6日の理事会が、ドイツのヴァイトマン連銀総裁の反対を押し切って(一時辞任を考慮したとの報道もある)、ECBによる国債の無制限購入を条件付きではあるが決定したこともあり、一時ユーロは100円台に回復した。

しかし、ECBによる国債購入の条件は、当該国がESMの救済を要請し、厳しい管理を受けることであり、スペイン政府がそれを要請するかは予断を許さない。かくして引き続き難問山積である。鍵を握るのはメルケル首相であるが、下手な妥協をすれば姉妹政党のCSUや連立与党のFDPから突き上げを食い、今後の法案審議に影響を与えかねない。ユーロをとるかそれとも政権の安定をとるかの厳しい選択を迫られるであろうが、双方を両立させる綱渡りを演じなければならないメルケル首相の悩みは深い。

オランド大統領になってからフランスとの共闘も以前ほど期待できず、仏、西、伊等の「地中海クラブ」の国の結束が強まった結果、ユーロ圏におけるドイツ包囲網は狭まりつつある。だが、ドイツの次回連邦議会選挙(2013年9月)までにはなお1年あるので、選挙をにらんだ内政上の考慮がメルケル首相の政策オプションを狭めるにはまだ早い。ユーロが崩壊すれば政治的にも経済的にも最も困るのはドイツであることは、他のユーロ諸国からも見抜かれており、地中海諸国が結束して当たればドイツは最後は妥協せざるを得ないとみられている。メルケル首相の憂鬱は増すばかりであるが、メルケル首相がレッドラインとしている、ユーロ共同債は債務の自動負担になるのでその点は譲れないであろうが、ドイツの議会が関与できる範囲でESMその他を活用した新しい支援メカニズムにつき妥協ができるギリギリの攻防が今後も繰り広げられていくのではないかと思われる。  (2012年9月17日寄稿)

(参考資料)

欧州支援メカニズム(ファイアー・ウオール)の概要
 第一次ギリシャ支援(1,100億ユーロ)
 欧州金融安定ファシリティ(EFSF)創設
 欧州安定メカニズム(ESM)の前倒し設置(2012年7月)
 欧州中銀の長期資金供給(2011年12月~)
 ESM設立条約、財政協定条約の署名(2012年2~3月)
 第二次ギリシャ支援の決定、ユーロ圏のファイアー・ウオール 
 の強化(2012年3月、EFSFとESMの総融資能力を
 7,000億ユーロ引き上げ。第一次ギリシャ支援等を合計すると
 ファイアー・ウオールの規模は約8,000億ユーロ(1兆ドル超))
 独、仏、伊、スペイン4か国首脳会議で成長促進のために
 1,300億ユーロ(約13兆円)合意(2012年6月22日)

解説(シュピーゲル・オンラインの記事より)
 ESM(欧州安定メカニズム)は、EFSF(欧州金融安定化基金)を引き継ぐ恒久的メカニズムで、2013年半ばまでにEFSFは解消される。ESMは7000億ユーロを原資とするが、トリプルAの格付けを確保するために、5000億ユーロまでの信用供与が行われる。

ユーロ圏17か国は、総額800億ユーロをESMに拠出し、残りの6200億ユーロは、信用保証を供与。ESMが発足すればこれに加えてEFSFの資金の2000億ユーロが使用可能になる。
ESMに対してドイツはECB(欧州中央銀行)の原資参加率の27%を適用して拠出。具体的には、220億ユーロの資本参加と1700億ユーロの信用供与の合計1920億ユーロがドイツの限度ということになる。すでにドイツが同意し、すでにその一部供与が行われているアイルランド、ギリシャ、ポルトガル、スペイン向けのドイツの援助額は3000億ユーロ(約30兆円)を優に超える。

問題は、ユーロ各国がESMの中から支援を行う際の基本方針である。各国はESMの決定に当たり拒否権を持っているか否かということが判然としない。ドイツの財務大臣は、ESMの理事会で、ある国へのESMの支援を決定する前にドイツ連邦議会に報告しなければならないとされている。他方で、法律家はESM理事会加盟国は、EU委員会とECBの勧告により緊急融資は直ちに決定できるとESM設立協定を解釈している。
 不確実性が支配しているのは、ECBによる国際購入と被支援国のESMへの支援要請との連携である。この点に関し、ドラギECB総裁は、9月6日に支援を要する国がまず(EFSFやESM等による)厳しい(緊縮財政の)条件を受け入れて初めてECBはこれらの国の国債購入を行えると述べている。ECBのドイツ人理事のラスムセン氏は支援を受ける国は自ら厳しい改革義務を課する必要があると言っているが、ドラギ総裁によればその義務はそれほど厳しいものでもない。支援を受ける国は、EFSFやECCLと呼ばれる基金の拡大融資計画に参加すればその条件は満たすとされている。また、EU外交筋によればその条件は、EU委員会とすでに合意している予算目標を厳守すると約束さえすればECCLの融資は受けられるとのことである。その場合当該国は2年間にわたり、その国のGDPの10%までの融資額を請求できるとされている。スペインの場合であれば、それは約1150億ユーロとなる。

ドイツの連立与党が心配しているのはESMにおいて確定されているドイツの負担分1900億ユーロを優に超えるのではないかということである。すなわちECBの国債買い付けと支援基金への要請の連携というのは単なる幻想であり、ドラギ総裁は自己抑制を効かせることができないのではないかいう不安がある。事実、イタリアもスペインも更なるコントロールを受けるのは嫌だと公言している。ラホイ首相は「どのような部門で予算を縮減するのかしないのかの指図を受けたくない」と言っているし、モンティ首相は「支援を受ける場合でもトロイカのローマ訪問は行われない」と言っている。 



『日中国交正常化40周年と激動の中国』2012.8.23



『日中国交正常化40周年と激動の中国』




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               前駐中国大使 宮本 雄二

日中関係に何が起こっているのか
 1972年の秋に日中国交正常化が実現し、今年は40年目に入った。私は、小泉総理時代の国交正常化30周年の時は日本を離れており、よく知らないが、5年前の35周年は、大使として直接関係した。安倍訪中に続き日中関係が再度活気づいた時期だったので、25周年の時と変わらず、相当に盛り上がったことを記憶している。それまでの日中関係の大枠の中で、日中関係を前に進めるべきであり、前に進めることができるのだ、という気持ちが日中双方にあった。そういう気持ちが通じ合う一連の記念行事であり、雰囲気であった。
ところが本年の国交正常化40周年は、どこか違う。とにかく気持ちがお互いに盛り上がらないのである。直接の関係者はいざしらず、それぞれの社会において本気で日中関係を進めようという雰囲気は、どこかに消えてしまっている。
日中の間でもめ事が続き、日中関係が緊張することは、これまでいつもあった。もめ事がない時期の方が珍しいくらいだ。しかし、現在の情況は何か異質なものを感じる。この間、いったい何が起こったのであろうか。あるいは何が顕在化したのであろうか。
 私は、このことと、この40年の間に日本も、中国も、そして何よりも世界が変わり、われわれが大きな変動期に入ったことと関係している気がしてならない。

その象徴的な出来事が、2008年に起きている。一つは、同年9月、アメリカの投資銀行リーマン・ブラザーズの破たんに端を発する世界金融危機である。もう一つが、同年12月、中国の国家海洋局の公船が初めて、尖閣の日本領海を9時間侵犯した事件である。前者は、中国がいち早く経済を回復させたことにより、中国の世界大国としての地位を見せつけ、中国社会も自分自身が真の大国なったと思った。後者は、今日の主流の世代にとっては“他人事”であった歴史や台湾ではなく、自分自身の問題である主権や領土がらみの問題について、それも政府が直接対峙する形に変えてしまった。

私は、その大きな背景として、われわれが大きな変動期に入ったことと関係していると感じている。もちろん私の限られた知見では、現在直面している変化が、第二次世界大戦がもたらした変化を超えるものであるかどうかはわからない。しかし相当に大きな変動が起こっており、それが2008年のリーマンショック以来、われわれの視野に入ってきた気がする。

何が変わったのか?
 本論の主題ではないので結論だけ述べれば、第二次大戦も東西冷戦も、地政学的な抗争ではあったが、最も本質的な部分をとらえて考えれば、価値観ないしイデオロギーの抗争でもあった。少なくとも価値観ないしイデオロギーを口にしなければ戦えない時代となった。そして自由民主主義(リベラル・デモクラシー)が勝利し主流の座を確保した。さらに第二次大戦後、アメリカの圧倒的軍事力が平和をもたらす、いわゆるパクス・アメリカーナの時代を迎え、東西冷戦時代は東側ブロックを除いた残りの世界が、またソ連崩壊後は全ての世界が、世界経済の一体化、つまり経済のグローバリゼーションの大波にのみこまれた。

このような背景の下で、今日、われわれが知覚する世界全体を覆う地殻変動的なものの中心に、中国が位置していることは間違いないと皆、感じている。ここで問われるべき本質的な問題は、一つは、はたして「中国の台頭」が、第二次大戦や東西冷戦を経て世界秩序の基本となったもの、すなわちリベラル・デモクラシーや経済のグローバリゼーションに対しどのような変化をもたらすかどうか、という点であろう。もう一つは、地政学的に中国がアメリカの地位にどこまで挑戦できるかという点にある。

結論的に言えば、前者に関していえば、私は、中国はかなりの間、世界の基本秩序の部分的修正は求めることはあっても根本的変化を迫ることはないだろうとみている。なぜなら、経済について言えば、中国が経済のグローバル化から最大の利益を得た国であり、既存の枠組みの修正は部分的なものにとどまらざるをえない。また価値観についても、リベラル・デモクラシーは、今日においては人類の“普遍的”な価値を代表しているのであり、その基礎の上にさらに発展させる可能性はあっても、それと全く異質のものが人類の普遍的な価値になるとは、考えにくい。

それでも「中国の台頭」は、これまでのアメリカを中心としてきた世界の構造を、少しずつ重心を中国に移す形で変えようとしている。つまり後者の論点である、地政学的なバランスの変化である。それが中国のアメリカへの挑戦ということになるのかどうかは、正直分からない。私は、中国がかかえている国内問題の深刻さ、中国の経済成長が必ず限界を迎えるという事実、またアメリカ社会の懐の深さやアメリカの軍事力のもつ先進性、を考えるとき、中国がアメリカに正面切って挑戦する可能性は、あまり大きくない気がしている。

このように「中国の台頭」は、文明史的なロジックとしては大きな限界を抱えている。アメリカに対しても、それにとってかわるほどの力はない。だが、中国は巨大である。その巨大な中国が、自分たちの価値観ないし理念、つまり何に導かれ何をやりたいのかということが探し出せず、漂っている。このことが、とりわけ中国と地理的に近い日本との関係に大きな影響を及ぼさざるをえないし、実は日本を含む世界にとっての、現時点における最大の挑戦ではないだろうか。

中国共産党は、形式的には、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論の政党ということになっており、“中国の特色ある”社会主義をめざしている。マルクス・レーニン主義は、哲学も歴史観も著しく西洋的である。ところが毛沢東思想も鄧小平理論も、この西洋的なものを放棄していないどころか、むしろそれを基本に置いている。そのような毛沢東思想や鄧小平理論が、今度は“中国の特色”を出す上で大きな貢献をしたことになっているのだ。そして、中国の伝統的な価値観の居場所は、中国共産党の理論体系の中においてまだ定まっていない。こうなると価値観や理念という面で“中国の特色”が何であるのか、曖昧にならざるを得ない。中国が漂う大きな理由の一つである。

中国の変化と不確実性の増大
中国が漂うもう一つの大きな理由は、中国の急激な変化と、それがもたらす不確実性にある。
急激な変化の帰結として、中国は、ますます複雑で管理の難しい国になってきたと思う。社会全体が、“走りながら”考えている。しかも短距離のスピードで中距離を走っている。制度も、それを運用する人材も、そしてそれを支える考え方自体が、中途半端にならざるを得ないことになる。あまりに速すぎるのである。
おかげで中国共産党は、国内問題に対処するのに膨大なエネルギーを割かざるを得なくなっている。社会の価値観が多様化し、社会が自己主張を始めると、中国共産党は、それに対応せざるを得ない。その結果が、“社会の安定”を確保するために、「科学的発展観」に基づき人間を中心に据え(以人為本)、協調し睦み合う社会(和諧社会)を作り上げる、という政策である。

しかし、この動きは緒に就いたばかりであり、定着するには程遠い状態にある。「和諧社会」に対する挑戦は各方面からくる。江沢民が「三つの代表」論で資本家をも共産党員にした結果、中国共産党は、要するに社会の構成員全員を代表する政党ということになった。多様な構成員の多様な利益を調整して全員を満足させなければならなくなったのだが、それは実際上至難の業である。しかも「和諧社会」は平等を求めるが、 それは中国共産党の国家運営のもう一つの絶対的要求である“経済成長”と矛盾する。“経済成長”は、平等よりも競争を重視し、結果は不平等だからだ。「和諧社会」は“経済成長”の要求と常に妥協を強いられているのである。

これを突き詰めれば、鄧小平理論の限界でもある。鄧小平は、生産力の増強を主題とする経済の現段階を「社会主義初級段階」と名づけた。最終目標は、共産主義の理想社会であり、人々は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。それには生産力の増強が不可欠であり、だから「社会主義初級段階」をやらざるを得ず、生産力の増強という目標を達成するためには、そのやり方を資本主義から学んでも、何の差支えもない、ということにした。

ところが鄧小平によれば、この「初級段階」の期間は100年以上もかかるというのだ。このように鄧小平は、100年以上先の理想や理念は語ったが、現在を生きる社会の理想と理念は語っていない。つまり中国共産党は、現在および近い将来の、自分自身の国内社会の価値観や理念をもっておらず、それは未完成のままなのである。
それ以外の、たとえば世界の将来像、つまり世界をどう持っていくかについては、さらに遠い目標となる。胡錦濤は“和諧世界”を口にしたことがある。これも鄧小平理論の延長線上の、至極まともな結論である。ところが、中国国内のナショナリズムや愛国主義は、対外強硬姿勢を求め、この傾向は、2008年以来強まっており、しかも国内の「安定」に影響を与えるまでになった。“和諧世界”は、ナショナリズムとの間に厳しい緊張関係を強いられており、その中身は、いまだに十分な発展を見せてはいない。現時点をとれば、中国に世界全体のことを必死になって考える余裕は、まだないように見受けられる。

その結果、“台頭した中国”は、世界の中で自分自身をどのように位置づけ、どのような将来世界を構想し、そのために何をしようとしているのかが、全く見えてこないのだ。本年7月12日のニューヨークタイムズに、中国の国家安全部系のシンクタンクである中国現代国際関係研究院の Zhao Minghao の、中国の「力」のもたらす難しさに関する意見が掲載されている( The Predicaments of Chinese Power)。中国の知識分子の苦難は続くということである。

さらに言えば“ものを言う国民”と“雰囲気の支配する社会”の登場である。理性的に考えれば、中国にとっても『日中戦略的互恵関係』しかいない(詳細については、拙著「これから、中国とどう付き合うか」を参照願いたい)。しかし日中間で問題が頻出すると、中国においても日中関係の重要性を説く理性的な結論を口に出せなくなる社会の雰囲気は、日ごとに強まっている。

その背景に国民社会の不満の蓄積がある。7月28日、久しぶりに中国のネットを2時間ほどのぞいてみた。2時間で一つの書き込み場所の4時間分の書き込みしか読めないので、ネットをフォローすることはとうの昔に諦めている。だが、それでも社会の瞬間的な雰囲気は分かる。国民の社会に対する不満、党や政府に対する不満が大きいことは読んでいてすぐに気が付く。

中国において中国共産党と国民、党指導者と国民との力関係において、国民に有利な方向に確実に進んでいる。その中国において、党に国民社会を引っ張る確固とした理念と理想はなく、国民社会も価値観の多様化と多元化に悩んでいる。中国は漂っているのである。

変化する日中関係
中国が大きく変化した間に日本社会も変わった。日中両国が変化の途中にあることが、日中関係をさらに分かりづらいものにしている。世界そのものが変化してきている中で、力関係が日本に有利な時代から、日本に不利な時代に変わってきているのである。この力関係の変化のなかで、日本社会は中国をどう位置付けたらいいのか分からずにいる。情けをかけて助けてやる相手なのか、平等のパートナーなのか、恐るべき敵対者なのか、決めかねている。この相手の位置づけ、つまり相互位相の点で、日本も漂い始めた。

理性的に考えれば、私は日本にとっても『日中戦略的互恵関係』しかないと考えている。ところが、もともと日本は“雰囲気の支配する社会”である。日本においても中国を理性的に眺め、語ることが、ますます難しくなってきている。そして日本においても国民感情や「世論」(「輿論」ではない)が、外交を牛耳る時代が来ているのだ。

日中国交正常化は、基本的には台湾問題を処理するものであった。それでも台湾問題は、いつも日中間の火種として残った。90年代の台湾の民主化と、李登輝、陳水扁の登場で中台関係は著しく緊張したが、「中国は一つ」を唱える台湾国民党の馬英九政権の登場で、事態は比較的沈静化した。民進党が天下を取るには、その大陸政策を調整する必要があるというのが、台湾のコンセンサスだ。当面、台湾問題はローキーで推移するであろう。

歴史認識問題は、80年代初めの「第1次教科書問題」で表面化し、小泉総理の靖国参拝問題で、最高潮に達した。中国共産党指導部は、小泉時代の経験を踏まえ、日本側が問題を起こし、中国側が対応を迫られる場合を除き、歴史認識問題は基本的には解決済みということにした。だが「南京で虐殺はなかった」などという発言が、日本で飛び出し報道されると、それはネットが普及した中国社会の雰囲気を変える。

中国では、依然として「愛国主義教育」(決して反日を主目的にしたものではない)の手綱は緩めてはいない。複雑化し、価値観が多様化している今日の中国社会において、社会の求心力を維持する方法は多くはない。その一つとしてナショナリズムは捨てがたい手段となっている。「愛国主義教育」の一環として、日々、抗日のテレビ番組や映画が流し続けられている。結果として、中国人の日本と日本人を見る目は自然と厳しくなる。「80后」、「90后」と呼ばれる若い世代の間の反日感情が特に強いといわれることが、そのことを示している。

党中央が、一方で『日中戦略的互恵関係』の強化を求め、もう一方の宣伝工作で日本と日本人のイメージを悪化させているのは、明確な政策の矛盾である。私は、中国が真に『日中戦略的互恵関係』の構築を望んでいるかどうかは、抗日戦争のテレビや映画の放映の度合いで判断できると考えている。

日中の尖閣諸島をめぐる問題は、最近とみに重要性を増してきている。この問題は、日中間の緊迫した課題となっているし、さらに言えば南シナ海の諸問題とともに、中国が世界との関係をどうしようとしているかを判断する重要なテスト・ケースとなってきているからである。
中国が海洋に対する関心を強めたのは、中国が国連海洋法条約の研究を始めてからではないだろうか。そのことを通じ、資源や安全保障にとって海洋の持つ重大な意味を理解し始めたのであろう。1992年に『領海法』を制定し、尖閣を中国領と明記した。その後、海洋に関する中国の法令と体制の整備は進んでいく。中国共産党の制度化が進んだように、中国政府の制度化も進んだのだ。そのことは、とりもなおさず管轄する組織や機構が、マニュアル通りに事務を進める仕組みが出来上がったことを意味する。

このような大きな変化の中で、どちらが先に始めたとはあえて言わないが、尖閣の実効支配を強めるそれぞれの動きが、確実にエスカレートし始めている。そして、それらの動きは、それぞれの法体制の下ではすべて正しいのである。2008年、尖閣問題が質的な転換を遂げ、両国政府を対立と衝突に導く新たな段階に入ったことは、すでに述べた。
かくして“領土問題は棚上げして共同開発”という鄧小平の大政策でさえ、中国において挑戦を受けることになった。なぜなら、その背景には中国の大国化に伴う、ナショナリズムが存在するからである。歴史問題とともに領土がらみの問題は、簡単に国民感情を刺激するからだ。

私は、尖閣をめぐる日中の問題は、安全保障の問題とも絡んで、日中の最大の争点に浮上したと思っている。この問題は、今や、一方の対抗措置が、もう一方の対抗措置を呼び込む新たなサイクルに入っている。論理的な行き着く先は海上自衛隊と中国海軍の登場である。
『日中戦略的互恵関係』に代表される複合的で重層的な両国の国益を考えれば、個別具体的な事案により日中の基本的関係を損なういかなる行為も、結果的には日本だけではなく中国の国益をも大きく損なう。それはアジアのみならず世界にとっても大きなマイナスとなる。そういう時代にわれわれは生きているのだ。

日本の基本的立場を守り、かつこの地域の平和と安定を担保する仕組みを作り上げるのが、政治と外交の本来の仕事である。中国においても全く同じことだ。そのためにはこの問題を念頭に置きつつ、広くこの地域の海洋に関する問題を話し合う必要がある。昨年12月の野田総理の訪中時に合意された『海洋に関する日中協議』が正式に始まったことは同慶の至りだ。

さらに言えば、この問題を日中の全般的な危機管理メカニズムの中に位置づける必要がある。この全般的な危機管理メカニズムは、4つの構成部分からなる。1つは、漁船の操業に係わる危機管理の仕組みである。2つ目は、法執行機関同士、軍同士の緊急連絡体制の整備である。3つ目は、尖閣がらみの諸問題を危機管理としてとらえ、問題を悪化させない、周辺化させるためのメカニズムである。そして4つ目が、日中の意思疎通の強化であり、そのための非公式チャネルの強化である。

だが日中双方ともに、この問題をいかなる形で処理しようとも、そのためには、構想力とともに強力な政治の指導力が必要なことだけははっきりしている。またそれらが発揮されるべき時期は、そう遠いものであってはならないと強く感じている。
この具体的案件処理の局面でも、中国がどういう理念と価値観を持つ世界を作り、その中でどういう役割を果たそうとしているのか、という根本的な問題と深くかかわっていることがわかる。同時に日本自身、どのような東アジア秩序を作ろうとしているのかについて、さらに掘り下げた思考を避けて通ることはできない。国家のあり方、安全保障観等々、日本自身、社会の大きなコンセンサスを作る必要があることを痛感している。日本の宿題も大きいのである。

過渡期にある日中関係をどう導くか
 変動期にある世界。薄希来事件で見えてきた中国指導部内の亀裂。行方定まらぬ日本の政局。そして悪化する両国の国民感情。そのなかで中国の軍事力は、ますます存在感を強めている。それに呼応するかのように、日米の同盟関係も強化されている。これに領土がらみの問題がからまり、日中双方において相手の敵性度は高まっていると認識され始めた。
だが、果たしてそうなのだろうか。われわれが『日中戦略的互恵関係』の中で認定したわれわれの多くの巨大な『国益』は、もう消えてなくなったのだろうか。そういうことはない!それらの『国益』は、依然として牢固として存在している。

中国は突然変貌を遂げ、外に向かって自己主張をし、自分の利益を飽くことなく赤裸々に追及する国になったのであろうか。そうではない!中国は自分自身を探しあぐね、自分の問題に悪戦苦闘し、時に外に対し強硬に出ているにすぎない。
日本は、無能なか弱い国となり、国際関係においても周辺化され、影響力のない国に成り下がったのであろうか。そうではない!日本は依然とし大国であり、世界に好影響を与え続ける国である。

 われわれは、この原点を踏まえて、『日中戦略的互恵関係』の強化に取り組む必要がある。同時に『日中戦略的互恵関係』の唯一の弱点である、安全保障問題が突き付ける課題を克服する思想とメカニズムを構築する必要がある。それにはアメリカの参画が必要にして不可欠である。日米中で、この地域の安全保障問題を考え、新たなメカニズム構築に向けて知恵を出し、汗をかく時代は、すでに到来している。 (了) (2012年7月31日寄稿)


『米大統領選挙戦と共和党の過激化』2012.8.2

『米大統領選挙戦と共和党の過激化』



            元在ウィーン代表部大使 池田 右二


民主党の景気・雇用回復策をはばむ共和党

来たる11月の米大統領選挙および上下院議員の選挙については、経済対策、とりわけ景気・雇用回復策が当落を左右するメイン・イシューであり、メイン・イシューほどではないが選挙の帰趨に影響をおよぼしうるサブ・イシューとして、医療保険法、移民対策、同性婚などの社会問題があげられている。サブ・イシューの中では、とくに医療保険法が、6月28日の連邦最高裁による個人加入義務条項合憲判決を受けて、今後どの程度重要性を持つことになるかが注目される。

オバマ大統領は、ブッシュ前政権が進めた二つの戦争による巨大戦費、08年の金融危機による大量失業など負の遺産を引き継いで、09年就任直後の二月、総額約8,000億ドルにのぼる金融救済、自動車産業救済、雇用創出などの景気回復パッケージを実施ししたのち、歴代民主党政権の永年の課題であった国民皆医療保険法の制定に政策優先をあたえて意欲的に取り組み、10年3月に医療保険法を成立させた。他方、失業、景気対策については民主党が上下両院において多数を占める09年、10年秋までの間に追加的刺激策を議会で通す機会を逸した。しかし、そのようにして成立させた医療保険法が多くの国民から評価されず、経済回復も進まないことから、オバマ政権への国民支持率が低下することになった。

このような状況を受け、共和党は、2010年秋の中間選挙において下院で多数党となり、その後オバマ政権の「雇用法」などの景気対策を下院においてことごとくつぶし、オバマ政権の経済対策の手を完全に封じてきた。
本来オバマ政権は、大不況下にあっては、公共事業推進など財政出動による景気刺激策は、たとえ短期的に負債を増やしても、長期的には景気改善による税収増をつうじて負債を減少させるとのいわゆるケインズ政策を目指している。しかし、下院で多数党となった共和党の過激な妨害策によりこの政策を実施できないのみならず、富裕層増税などの租税提案も議会でタナざらしにされ、結果的には共和党の主張する「増税なしの緊縮策」を実施させられている状況にある。オバマ政権としては、なんとか本来の景気・雇用回復策を進めたいと考えるが、共和党にはばまれて打つ手に窮している。



共和党の右傾・過激化

そもそも共和党の保守本流は、中心思想に「小さな政府」を掲げながら、実際の政策としては、福祉国家のアイディアも受け入れ、柔軟に対応してきた。「政府は問題を解決するのではなく、政府が問題である」と言ったレーガン大統領も、法人税の脱税抜け穴の解消、キャピタル・ゲインと一般所得の税率を同じくすべきなどの政策を考えたし、レーガン政権下のいかなる時期をとっても国民の連邦税負担率はオバマ政権下と比べ高かった。また同大統領は二期目選挙前の景気後退に対しては財政出動策を実施し再選を果たした。ニクソン大統領も、医療保険に入れない所得層対策が必要と考え、環境対策、労働者安全対策も必要と考えた。

アイゼンハウアー大統領は軍事費の過度な増大は「飢えて食べ物に困る人々からの窃盗」と言った。G.W.ブッシュ大統領もイラク・アフガニスタン戦争の推進と富裕層減税を含む「ブッシュ減税」により財政事情の悪化と中間層の没落に加担しながらも「思いやりある保守主義(compassionate conservatism)」の持ち主とも言われる側面があった。ところが「小さな政府」を掲げながら、共和党保守本流の柔軟な政策遂行の伝統は、下院で多数党となってから約二年間にすっかり失われ、共和党は今や「歴史的健忘症」にかかっているかのような状況である。

このような共和党の議会における過激ともいえる妨害主義は、オバマ政権による政府の役割の「行き過ぎ(overreach)」に対する共和党本流の危機感を背景とした選挙戦略の一環ではあろうが、より直接的には、2010年秋の中間選挙によるティー・パーティーの議会進出を契機としている。共和党が下院において多数党になれたのは、ティー・パーティーのエネルギーを利用できたことが大きかった。そのため、共和党はその後の議会運営においては、ことあるごとにティー・パーティーの主張に配慮し、一切の増税反対、財政緊縮策至上主義を貫き、前記のとおり、オバマ政権の租税対策、不況時景気刺激策をことごとくつぶしてきたのである。このような共和党の右傾化・過激化は、あたかもティー・パーティーに「乗っ取られ」たかの状況である。

国民の多くが、変革をもたらすと期待したオバマ大統領がワシントンの党派主義に巻き込まれて思ったほど成果をあげえないことに失望したのと同時に、共和党の過激な議会運営にも愛想をつかせている。共和党もこのような状況はこの秋の選挙のため好ましくないとの考え、7月の独立記念日連休前、6月末ぎりぎり29日に「高速道路法」の延長による運輸インフラストラクチャー事業推進と奨学金返済利子率据え置きを合体した法案に賛成し、秋の大統領選挙と上下院選挙における自党候補の選挙区の声に対応した。



「ティー・パーティー」の由来と政治信条

さて、前記のように共和党の過激化をもたらしたティー・パーティーは、evangelicals (キリスト教右派)と同様の政治社会的基盤を持ち、反政府イデオロギーに立って「小さな政府」を推進し、白人中心、反移民・反黒人主義、徹底した緊縮策、オバマ政権の医療保険法撤廃などを目指し、同性結婚反対など社会問題についての保守主義、政教不分離(キリスト教右派を指導者とする政権の実現)を目指す。国際政治についてはアメリカ至上主義(エクセプショナリズム)の推進と軍事力の積極行使を主張する。

ティー・パーティーと成員、政策についてほとんど重なり合うキリスト教右派は、アメリカの福音主義運動に由来するが、アメリカの福音主義は、20世初頭、新約聖書、中でも福音書の教えと説教を重視し、救いはキリストの贖罪を信じることによりもたらされるとのファンダメンタルズに立ち返るべしという立場に立ち、バプティスト、メソディスト、プレスビタリアン、ペンタコスタ派のクリスチャン、あるいは無教会派などの真摯なクリスチャン達の運動であった。1930年代、40年代に、一部の者が世界恐慌を背景に、反政府運動を推進する右派政治グループに発展した。

彼らは、当時のヨーロッパ、アメリカの指導者は強力な中央政府を作り、見かけ上世界平和を唱えつつその実は反キリスト教政策を推進する「反キリストないしは贋キリスト」(The Antichrist )であり、このような「反キリスト」の出現は、終末期のキリスト再来時に起こる「大決戦(ハルマゲドン)」を予告する現象であると考えた。彼らは、ムッソリーニ、ヒットラー、スターリンのいずれもが「反キリスト」であり、F.D.ルーズベルト大統領も3期にわたる政権により強い政府を実現し、国連構想を抱くなど「国際性」(彼らにとってはマイナス概念)を持ち備えており、ヨーロッパ指導者と連携して世界的独裁者に加わろうとしていると警戒した。その結果、これらキリスト教右派は、当時の右派的リバタリアン政治団体と連携してルーズベルト大統領の弱体化をはかった。
現在(2010年代)の状況は、国際的混乱、不況の継続などの点で1930年代と似かよっているが、ティー・パーティー(キリスト教右派)のある者達にとって、オバマ大統領は、違和感のある存在であり、彼らの信じるところによれば、オバマ大統領の出生は疑わしく(オバマ大統領は、ハワイ州によるホノルルでの出生証明書を公表している)、彼の国際社会への傾斜、イスラエルに距離を置く(と彼らが考える)政策、ノーベル賞受賞などの国際性と平和主義、あるいは医療保険法の制定による個人の自由侵害と大きな政府の推進などはまさに「反キリスト」を髣髴させると考える。そして、オバマ大統領再選をはばむことが至上命令と考える。

70年代のキリスト教右派指導者であるビリー・グラハム氏などは、ジョンソン大統領、ニクソン大統領などとも親交があり、今のキリスト教右派には見られない一定の節度があった。共和党予備選挙中大統領候補であったRick Perry(テキサス州知事)、Michele Bachmann(ミネソタ州下院議員)、Rick Santorum(元ペンシルヴァニア州上院議員、ぎりぎりまでロムニー候補と争い、将来の大統領候補への野心を残した形で予備選を撤退した)など、ティー・パーティーに支持された共和党政治家たちは、予備選挙中過激なティー・パーティーの主張をそのままくり返す状況であった。共和党本流においても今のところティー・パーティーへの政治指導力の空白状態が見られ、今後に問題を残した形になっている。



「大分離」(富裕層と中間層以下の経済格差拡大)

ところで、79年から始まり、国民もメディアも気がつかないほど徐々に進行したといわれるアメリカの富裕層と中間層以下の「大分離」(格差拡大)は、最新統計の存在する2007年時点で、人口(約3億人)のトップ1%に当たるグループが国民所得の実に24パーセントを取得している。米国より格差の大きな国は、OECD加盟24ヶ国中でもポルトガル、トルコ、メキシコしかない状況である。

現在、元は中産階級にも属した高卒者の実に4人に1人が定職を得られない状況である。梯子に例えると、所得格差の拡大により梯子全体の高さが急激に高くなった結果、横木の数が不変のため横木間の距離が大きくなり下の横木から上の横木に容易に上がれなくなった。その結果今の米国は、モビリティーのない階級社会化しつつある。こうして富裕層と中間層の二つの異なるカルチャーが形成されお互いに疎外感を強めている。これに反し、50年代、60年代、70年代末までつづいたアメリカ全盛期には、トップ1%の所得シェアがほぼ9%に固定され、かれらの収入はインフレ率すれすれの上昇率にとどまっていたのに対し高卒を含む中間層の所得が大幅に増大しアメリカン・ドリームを可能にする黄金時代を確立した。現在の不公平状況(2008年金融危機の結果おそらく07年よりさらに格差は広がっていると思われる)は、来る選挙でどちらが勝つかにしても、是正されなければならない国家的課題と思われる。



米国の当面する課題と民主・共和両党

昨年8月の連邦債務上限交渉で上積みされた上限枠の期限切れ、同じ交渉の際の暫定合意である歳出一律削減の発効、「ブッシュ時代の減税」(富裕層減税を含む大型減税)の期限切れ、年金拠出金(給与税)減税措置期限切れなどが集中して、いわゆる「財政の崖(大きな山場)」となる来年一月には、国として対応を誤れば米国債の再度の評価きりさげなど市場の手痛い反撃を呼ぶのみならず、実体経済の一層の不況をもたらしかねないと見られている。いずれの党が政権をとっていても、民主、共和両党が国家的見地に立った「大合意(Grand Bargain)」を作り出して、財政再建と経済再建をはかることが国家的課題となる。共和党としては、過激主義を改めて保守本来の伝統に立ち返り、中間層以下の困窮に目を向け、民主党としては、中間層以下の減税などにより中間層の復活を図るとともに、社会保障上の受給権(entitlement)を柔軟に見直し、政府の役割の「行き過ぎ」を修正して、財政削減をどれだけ実現するかがカギとなると思われる。

医療保険法に関しては、個人加入義務条項を合憲とする最高裁判決のフォローアップとして、共和党は、同法成立直後から掲げていた同法撤廃方針をここで再確認し、総選挙の目玉イシューとして戦うことを改めて明らかにし、7月11日には下院において同法撤廃を決定した(上院で数を握る民主党が反対するので議会としての議決はない)。

今後共和党およびロムニー候補が具体的代案を示さず、単に同法の撤廃のみを訴えつづける場合、これまでのティー・パーティーの主張と何ら変わりないとして、中道無党派層(Idependents)(2008年の選挙ではキャスティング・ヴォートを握った)等の票を失い、医療保険法により実際に恩恵を受ける多くの人々の支持も失うことになる。他方、共和党が民間保険中心、国家財政にとり低負担、未加入者の加入促進などを兼ね備えたもう一つの医療保険法を提示し、多くの国民の共感を呼ぶような場合には、オバマ政権は、未加入者の加入を促進し医療費の国家的削減をはかるという同法の基本目的の意義を国民に平易に説明するとともに、同法の実施に当たり手続きの簡素化と可能な財政削減の具体案を示して同法に対する多くの国民の不安感をぬぐうことが必須と思われる。万一、同法の運用振りと今後の経済対策の展開があいまってオバマ大統領の支持率が上がらず、自らの再選と上院における多数与党の地位の確保が危ぶまれるようなことになれば(下院については、現時点では共和党が大幅にリードし、多数を維持する勢いであり、今後の展開により民主党が多数党の地位を奪還できるかが注目される)、同大統領にとって容易ならざる事態になると思われる。六月の非農業民間セクター雇用増が八万人と三か月連続で一桁台にとどまった(通常現職大統領は選挙前の月間雇用増が二五万人を越えていれば再選が安泰と言われている)ことはオバマ大統領にとり有利な材料ではない。(7月12日寄稿)

『OECDに試されるGlobal Relevance』2012.6.28

『OECDに試されるGlobal Relevance』





OECDシャトー.jpgOECDシャトー



           上武大学ビジネス情報学部講師
           前OECD日本政府代表部専門調査員

                 藤 田  輔 


私は、本年4月より、秩父山地や赤城山に囲まれた埼玉・群馬県境にある大学で教鞭を執っており次世代を担う若き学生相手に、世界経済やアジア経済の理論や現状について講義を行っているが、講義やゼミの中で「OECD」という言葉をしばしば発したり、それはともかく、不覚にも、研究室のすぐ近くを流れる利根川をセーヌ川に、さらに近くにある森をブーローニュの森に準えたりしてしまっている自分に気付く。

そう、私は、ついこの3月まで、パリにある経済協力開発機構(OECD)日本政府代表部(以下、OECD代表部)、要はOECDに対する日本の大使館で約3年半勤務していたのだ。私は、従来,開発経済学・国際経済学を勉強してきた研究者の端くれに過ぎず,外交官でもなければ国家公務員でもなかったが、幸いにも,民間・学術界からの出身者が在外公館で勤務できるという専門調査員制度にて、経済学を研究する者なら誰でも知っているOECDを相手に仕事をさせてもらうことができた。

政府系のシンクタンクでリサーチ・アシスタントをやった経験はあるが、それは所詮調査・研究に過ぎず、在外公館で国際経済政策の「国益」まで担うという仕事は初めてということもあり、赴任当初は戸惑いもあった。 しかし、3年半もの間、国際投資・多国籍企業に関するルール構築や新興国との関係強化など、時代に合ったトピックに携わることができ、自分自身の研究活動にもプラスになったのに加えて、日本の経済・社会政策の最前線に立つ各省アタッシェの方々や、OECD事務局で勤務する優秀なエコノミストとの間で、貴重な人脈を築くことができた。そして、何よりも、グルメ、ワイン、娯楽に恵まれたパリで生活することができ、アルコール&コルステロールの大量摂取という代償はあったが、総じて満足な任務であったと振り返る。また、2008年夏の赴任直後にリーマン・ショックが起こり、その後も、世界的金融危機、欧州債務危機,新興国の台頭とG20の発足、アラブの春、福島原発事故など、国際政治経済を揺るがすショックが私の在任中に次々と発生し、そのたびにOECDが果たすべき役割について考えさせられたりもした。

連々と前置きを長くしてしまったが、3年半に渡るOECD代表部勤務に対する思い出は数数えきれないぐらいある中、紙面と時間の都合上、私が特に印象に残ったトピックとして、OECDが取り組んでいる新興国との関係強化について、気ままに思いを述べるだけに留めることをご容赦願いたい。

 OECDは、①より高い経済成長を続けること、②開発途上国の経済発展に寄与すること、③自由かつ多角的な貿易の拡大を実現すること、の3つを目的としつつ、先進諸国を中心とする、さまざまな経済・社会分野における協力のための、いわば「シンクタンク」的な国際機関である。第2次世界大戦で疲弊した欧州経済の再建を目的としたマーシャル・プランに則り、1948年に欧州経済協力機構(OEEC)が発足し、欧州経済の復興・発展に貢献し、その後、61年に世界的視野に立った国際経済機構として、OECDへ発展的改組を遂げ、その後,米国やカナダも正式に加盟し、日本も64年に加盟するに至った。

この経緯からも分かるとおり、OECDは欧州諸国の色彩がとても強い国際機関であり、2012年6月現在、加盟国は34か国であるが、そのうち、実に23か国が欧州である。経済に関係する国際機関といえば、おおよそ国際通貨基金(IMF)や世界銀行が思い浮かべられるが、その加盟国は,先進国から途上国まで幅広く、150~200か国加盟しているため,これだけ見ても、OECDは、かなり特殊な国際機関だと思われる。

1990年代初頭の東西冷戦崩壊により、世界経済の市場化が進み、いわゆる「西側諸国」のみの組織だったOECDがよりグローバルに拡大することが期待されたが、結局は、チェコ、ポーランド、ハンガリー等の旧東欧諸国の加盟が優先された。

余談だが、私は、上司とともに、「JAPON」(仏語で日本という意味)と書かれたフラッグのあるテーブル付近に座って、国際投資や多国籍企業のトピックを扱う投資委員会や、非加盟国関連のプロジェクトや新興国との関係強化について議論する対外関係委員会に関わるOECD会合に参加していたが、いつも感じるのは、OECD加盟国の中で、東アジア地域であるのは日本と韓国だけであり、そのほかはみな、欧米諸国ばかりで、アジア系の我々からすると、「アウェーな感じ」は拭えなかった。

OECD会合.jpgOECD会合(左から2番目が筆者)

 話を戻そう。ここでは,このようなごく限られた加盟国のOECDが世界に対して持つ意義を考えたい。ご存じのとおり、世界経済の構図は大きく変わりつつあり、今日では、2008年の世界的金融危機により、先進国経済が低迷する一方で、中国、インド、ブラジル等の新興国のプレゼンスが一段と大きくなっている。また、これら新興国の参加なくして、もはや世界経済を議論できないということから、G20サミット(金融・世界経済に関する20か国首脳会合)が「国際経済問題の第一の協議体」として発足し、重要な役割を果たしつつあり、先進諸国のみしか加盟国としていないOECDの意義が問われるようになった。

このような状況を受け、OECDは、2007年以降、ブラジル、中国、インド、インドネシア、南アフリカの5か国を関与強化国(Enhanced Engagement Countries)、東南アジアを戦略的地域と位置付け、これらの国々との関係強化にようやく取り組むことになった。私が担当したOECD対外関係委員会でも、例えば、投資、贈賄防止、環境、租税、コーポレート・ガバナンス、開発援助等の分野で、OECDはハイレベルな基準、知見、ガイドラインを多く有しているので、主要なOECD非加盟国にもこれらに参加させ、責任を持ってグローバルな経済・社会問題に取り組んでもらい、そして,自国の経済・社会政策の改善に役立ててもらうように、各国との関係強化に向けて、年を経るにつれて、より詳細な戦略について議論するようになってきた。

 OECDが真の意味で世界経済に対し「Global Relevance」を持ち,OECDのモットーでもある「Better Policies for Better Lives」を実現するためには、欧州諸国に偏重した体制から脱却しつつ、このような新興国との関係を強化することが急務であると思われる。例えば、投資の分野であれば、内国民待遇や企業の社会的責任(CSR)等を遵守するための「OECD国際投資・多国籍企業宣言」というインストルメントがあり、この宣言(注)にアジアを中心とした新興国により多く参加させることにより、企業が一層円滑にそのような国々に進出を図り、健全に企業活動を行えるような環境が構築されることが期待される。当然、日本としても、このことは国益上きわめて重要である。

一方、新興国側の対応はと言うと、私の経験に鑑みれば、例えば、ブラジル、インドネシア、南アフリカは、相応にOECDに対し理解を示し、部分的に委員会・作業部会にオブザーバー参加したり、OECDのインストルメントへ関心を持ったりするなど,協力的な姿勢が窺えるが、OECDに好意を持っているかと言えば、それは不明だ。中国やインドについては、OECDに対する固定観念や先入観を持ちつつ、「金持ちクラブ(rich men’s club)」もしくは「政策提言を強制してくる機関」として批判し、その影響力を排除しようとするスタンスを持っていると思われるため、アプローチが難しい。

こういう状況なので、OECDとしては、気長にこれらの国々と付き合っていく必要があるが、ここで、私は、OECDが国際金融機関でも国連関連機関でもないということを逆手に取り、OECDなりの良さをアピールしていくべきではないかと考える。そんな中、昨年冬、他用にてOECD事務局環境局を往訪した際、そのスタッフが次のような面白いことを言っていたのを思い出す。

「国際金融機関である世界銀行の場合は、開発途上国のインフラ案件に対する融資を供与するのが基本で、それ故、政策上のアドバイスがその融資実行に見合うことが条件とされることがあり、時として、それがその国の実情に合わない恐れもある。一方、OECDは国際金融機関ではないため、そのようなアドバイスが中立的であると、OECD非加盟国から評価される場合が多く、これはOECDの強みなのではないかと思う。」

これはかなり要領を得ている。OECDは、いわば「上から目線で」カネを貸し付ける機関では決してなく、対等な立場でベスト・プラクティスを追求しつつ、各国間でピア・レビューを行い、「Better Policies for Better Lives」を目指すという独特な手法を用いる「Knowledge Bank」である。したがって、「knowledge」自体も中立的にならざるを得ない。これこそ、OECDが世界経済に対して持ちうる有意義な「Global Relevance」であり、OECDに加盟していない新興国にぜひアピールしてきるべきではないか。そして、その「knowledge」をフルに活用しつつ、新興各国がオーナーシップを持って、主体的に自国の経済・社会改革を実現していくことこそ、OECDの付加価値ではないだろうか。

まだ、それほど事例が多いわけではないが、例えば、昨年、OECD対外関係委員会に出席した際、OECD事務局より、OECDはベトナムに対する行政簡素化レビューを2010年に実施したが、このレビューの中の勧告が自国の法制度構築に直接的に役立ったとの発言が、同国首相より得られたと聞いたことがある。このように、OECDが非加盟国のお役に立てている事例がないことはないのだ。こういう積重ねをぜひ大事にしてほしいと思う。

OECDが欧州中心の「金持ちクラブ」のままなのか、それとも、「Global Relevance」を持ちながら,世界中の国々の経済・社会政策に有益たりうる「Knowledge Bank」に変貌するのか、今、OECDの真価が問われる時期に来ている。

(注)同宣言は、OECD加盟国はもちろん、非加盟国の参加も容認されている。2012年6月現在,エジプト、ラトヴィア、リトアニア、ルーマニア、アルゼンチン、ブラジル、ペルー、モロッコ、コロンビア、ブラジル、アルゼンチン、チュニジアの11の非加盟国が参加している。
(2012年6月26日寄稿)

『復興発信使からの報告』2012.6.8

『復興発信使からの報告』





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           日本国際放送特別専門委員 高島肇久

はじめに
2012年2月から3月にかけて、日本から20人の「復興発信使」が世界14か国22都市に派遣された。顔ぶれは大学教授、NGOスタッフ、地方公務員、シンクタンク研究員など様々で、中には仙台を拠点とするカナダ人と日本人の J-popバンド「Monkey Majik」のメンバー4人もいた。派遣元は外務省。東日本大震災で世界から寄せられた支援に対してそれぞれの言葉で感謝の気持ちを伝えると共に、復興に向けて頑張る日本を紹介してもらおうと委嘱したものだ。

この内「Monkey Majik」の4人は仙台で大震災に遭遇したが幸い全員無事で、直後からボランティア活動を続けると共に被災者支援のチャリティ・コンサートを何回も開き、内外から高く評価されている。今回はカナダ側からも強い働きかけもあって「復興発信使」の委嘱を受けたということで、2月19日、21日にトロントとオタワで無料コンサートを行い、被災地での経験を分かち合うと共に、音楽を通じて世界との絆を強めてこられた。

本稿の筆者は日本の情報を世界に発信するテレビ国際放送の仕事に携わっている他、外務省の外務報道官として日本外交のスポークスマン役を務めたことがあるという理由で「復興発信使」の委嘱を受け、マレーシアとフィリピンを訪問した。訪れたのはクアラルンプールとマニラで、講演会、メディア・インタビュー、ラジオ・テレビ番組への出演等を通じて、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故関連の最新情報を伝えると共に、被災地での私自身の見聞をもとに、住民、地域社会、そして企業が未曽有の大災害からいかに立ち直ろうとしているかを出来るだけ具体的に話そうと試みた。その内容と現地メディアの報道ぶりを報告することで、「復興発信使」が何をしたかの一端をご紹介しようと思う。

もとより20人の「復興発信使」は、それぞれが違う場所で、各々自分の言葉で東日本大震災に関する思いと経験を各国の人々に伝えるという任務を担っていたものであり、私の報告はあくまでも私自身が担当した2か国での交流を紹介するだけで、本事業のごく一部を伝えるに過ぎないことをはじめにお断りしておきたい。

日本はどう伝えられていたか
 「復興発信使」としての仕事を報告する前段として、東日本大震災について諸外国ではどのような報道がなされたかを振り返っておきたい。

2011年3月11日午後2時46分にマグニチュード9.0の大地震が襲う前、日本は世界のメディアからほとんど忘れられた存在だった。在京外国特派員は「どんな記事を送っても本社のデスクは受けてくれない。日本のニュースはニュースにならない」とあきらめの言葉を口にし、東京支局閉鎖の動きが続いていた。そこに起きた大震災。各国特派員は被災地に飛んで津波に押し流された町や村の惨状を発信し、日本発のニュースが世界中を駆け巡った。その中で各国のメディアが注目したのは、被災地の人々が苦難の時にあっても他人への思いやりを忘れず、秩序を保ち、静かに耐える姿だった。

今、世界の多くの地域では、大きな災害が起きると略奪や暴動が頻発することが珍しくない。しかし、東日本の被災地の人々はそれとは対照的に、あたかも人間の尊厳を体現するかのような毅然さを保ち、そのことが世界の人々の共感や賞賛を呼ぶことにつながって行った。

また、今回の大震災はデジタル技術が進んだ日本で日中に起きたことから、至る所でカメラに記録され、津波が市街地を飲み込んで行く様子がハイビジョンのテレビで生中継されるなど、様々な映像が瞬時に世界中を駆け巡って自然の凄まじい力を見せつけた。こうした要因も手伝って、東日本大震災で日本に寄せられた世界各国からの支援はかつてないほどの大きさになり、外務省のまとめでは133の国と地域、国際機関から175億円を超す義援金や援助物資が送られて来ている。

しかし、外国メディアの報道ぶりは東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故以後大きく変わり、日本政府の対応の遅れを厳しく非難したり、放射能拡散の危険をことさらに強調したりするものが目立つようになった。その内の一つ、イギリスの大衆紙は「放射能禍でゴーストタウンになった東京にイギリス人女性が取り残され、水も食料も手に入らないでいる」という記事を一面に掲げ、日本在住の外国人が「事実無根で、余りにもひどい」と厳しく批判したほどだった。

こうした行き過ぎた報道が、日本への懸念や不安を海外で高め、外国人の日本からの大量脱出、中国での食塩買占め騒動(放射能被害の防止に食塩が役立つとのネット情報がきっかけ)、放射能雲が間もなく到達というフィリピンでのチェーンメール騒ぎなどの引き金になったことは否めない。また日本を良く知るアメリカの政治学者は「米国内では福島第一原発事故以後、日本政府が言うことは信用できないと思う人が増えた」と指摘している。

「復興発信使」の派遣には震災から1年たった日本の状況を一人一人の言葉で率直に語ってもらうことによって、対日不信感を鎮めたいという狙いも込められていたようだ。

マレーシア・フィリピンでの「復興発信」
東南アジアでの復興発信を担当することになった筆者は2012年3月11日から1週間の日程でマレーシアとフィリピンを訪れ、クアラルンプールの国立マラヤ大学とマニラのアジア経営研究所で筆者自身が撮影した被災地の写真や筆者が所属している日本国際放送(JIB)のテレビ番組などを紹介しながら2時間の講演と質疑応答を行った。またマレーシアで新聞、ラジオ、テレビ9社の個別インタビュー、フィリピンの新聞8紙の記者・コラムニストとの懇談を行った。この内、講演会には両国の防災行政の関係者、学生、研究者、NGOスタッフなどがそれぞれ300人以上参加した。

またマニラの講演会場は2011年12月の台風で1,000人近い死者が出たミンダナオ島のカガヤンデオロの大学とインターネットのテレビ中継で結ばれ、そこからも30人余りの学生と市役所職員が参加してくれた。

onp.gifマレーシアのスター紙が伝えた高島復興発信使の講演(2012年4月6日)

講演では最初に、震災から1年たって元気を取り戻した日本と日本人のエピソードを紹介した。その一つは国際的にも活躍する日本のシャンソン歌手クミコさんと宮城県石巻市の楽器店の物語。東日本大震災の当日、石巻でコンサートを予定していたクミコさんは公演前に地震と津波に遭遇し、何とか逃げることは出来たが、それ以来シャンソンを歌う気力を失ってしまった。しかし、津波の直撃を受けた石巻の楽器店が、外国人ボランティアの協力で店内に残ったピアノを修理してもう一度弾けるようにしようと頑張っている話を知り、そのピアノが直ったら石巻でのコンサートを開こうと決意して半年後に実現したという話だ。このコンサートには石巻のママさんコーラスも参加し、津波で亡くなった3人のコーラス仲間の写真をステージに飾って、亡き友と一緒の歌声でクミコさんの復活公演を盛り上げた。最後に大震災後に作られた「きっとつながる」という歌が披露されると、聴衆の目には涙が浮かび、会場は感動の嵐に包まれた。

クアラルンプールとマニラで多くの聴衆が興味を示してくれたのが、被災したハイテク工場がいかにして速やかに操業を再開したかの実例だった。
その一つは、宮城県大和町(たいわちょう)のデジタルカメラ製造工場。地震で生産ラインが壊れ、会社の経営陣は工場再開には数か月以上かかると覚悟した。ところが地震の翌朝になると土曜日というのに工場の従業員が続々と出勤して後片付けを始め、10日後には被害が少なかった工場内の区画に生産ラインを再建して、地震からわずか12日で生産再開に漕ぎつけてしまった。

この工場で作られるカメラは地震の1週間前に発売されたばかりの最新鋭機で前評判が高く、日本国内はもとより国外でも購入予約が殺到していた。従業員は全員が自宅に何らかの被害を受けていたが、自分たちが作るカメラの出荷を途絶えさせてはならないと、地震の翌朝、自宅を後回しにして工場に出勤してきたもので、その内の一人はインタビューに答えて「我々の職人魂には絶対にあきらめないという信念がある。それが『メード・イン・ジャパン』の『メード・イン・ジャパン』たる所以だ」と述べていた。

東日本大震災が教えたこと
一方、マニラの会場とインターネットテレビで繋がっていた台風の被災地カガヤンデオロからは「東日本大震災で日本が学んだ最も重要な教訓は何か」という質問が寄せられた。これに対して筆者は「自分は防災の専門家ではないが、日本国民は大地震の時には直ちに高台に避難することがいかに大切かを改めて学んだと思う」と述べて「釜石の奇跡」と呼ばれる以下の出来事を紹介した。

あの日、釜石東中学校の生徒222人は地震の揺れが収まるとかねてからの訓練通り500メートル先の高台に向けて一斉に走り出した。隣の鵜住居(うのすまい)小学校では361人の児童が教員の指示では校舎の3階に集まったが、釜石東中学校の生徒が走り出たのを見て直ちに後を追うことにした。両校の児童生徒は、一旦は目指す高台に集合したが、揺れの強さから更に高みを目指すことになり、中学生が小学生の手を引きながら走り続けた。二つの学校は児童生徒が避難した直後に高さ10メートル近い津波に呑み込まれたが、一人の犠牲者も出さず全員が助かり、日頃の訓練の成果が見事にあらわれた。

マニラの講演会場では津波がひいた後の釜石の写真を紹介したが、鵜住居小学校の3階の教室の窓に津波で流されて来た自動車が突き刺さっている写真が写し出されると、会場全体が息を呑んでスクリーンを見つめていた。

釜石市は2004年のインド洋大津波の現地調査をした片田敏孝群馬大学教授の指導で、小中学校のカリキュラムに防災教育を取り入れて定期的に避難訓練を実施している。その結果、今回の大震災での児童生徒の犠牲は学校を休んでいたごく僅かの子供たちに限られ、登校していた約3,000人は全員の無事が確認されている。

東日本大震災の津波は各地で想定外の高さに達し、ギネスブックに記録された世界最深の防波堤が倒れたり、万里の長城と呼ばれた巨大堤防がやすやすと乗り越えられたりして津波被害を食い止めることの難しさがいやが上にも示される結果となった。そうした中で、生命を守る上では一刻も早い高台への避難が極めて有効であることが実証されたわけで、この点に加えて、日頃の教育と訓練、速やかな情報伝達がいかに大切であるかが、大震災の教訓として改めて日本全体で共有されたように思うと報告した。

原発事故への関心
マレーシア、フィリピン両国の講演会場とメディア・インタビューで厳しく質問されたのが福島原発事故の問題だった。その根底には両国の原子力政策があった。
両国とも今はまだ原子力発電は行っていないが、フィリピンの場合、1984年に完成したまま一度も商業運転をしたことのない封鎖中のバタアン原子力発電所があり、この原発を動かすかどうかの論争が続いている。一方、マレーシアではこのところの急速な経済発展で電力不足の心配が取りざたされるようになり、最初の原子力発電所を2021年に稼働することを目標に、具体的な計画を推進し始めたところだった。その最中に発生した福島原発事故は両国で重大な関心を呼ぶところとなって、筆者の講演やマスコミ・インタビューでは「我が国の原発計画をどう思うか」という質問が相次いだ。

これに対して筆者は「福島の事故以来、日本では原発の安全性が国全体で論議されるようになり、これに伴って定期点検のために運転を停止した原発の再稼働が出来ない状態が生じている。その結果、2012年5月には日本国内にある発電用原子炉54基の全てが停まることになりそうだ」という現状を伝えると共に「日本では原発が電力需要の3割を賄ってきたが、これが全て停まるとなると電力不足の問題が深刻化する。太陽光発電や風力発電が脚光を浴びてはいるが、今直ちに原子力による発電にとって代わることは出来ず、節電の必要性がますます高まる一方、今年の夏はかなり暑い夏となることを覚悟せざるを得ない状況だ」と述べた。

 また両国の原発計画については、国連の潘基文事務総長が「福島の事故があったからと言って、原子力発電をすべて否定することにはならない。原子力発電は有用なエネルギー源であり、安全性を一層高めることが求められている」と述べたことを指摘して「エネルギー政策は各国それぞれが決めるものであり、原子力をどう位置づけるかはその中で決まるものだ。日本では福島原発事故について政府、国会、民間の三つの調査委員会がそれぞれ独自の原因究明を行っており、すでに報告書を公表したところもある。マレーシア、フィリピン両国はこれらの日本の調査結果を参照されながら、原子力政策を決めて行かれるものと思う」との考えを伝えた。

まとめ
帰国後、クアラルンプールとマニラの日本大使館からは、筆者が行った講演やインタビューを基にした新聞記事のコピーやラジオインタビューの録音が送られてきているが、その中に「日本のジャーナリストが世界に感謝」という見出しを付けたものがあった。今回のマレーシア、フィリピン訪問で筆者が一番伝えたかったことは「諸外国からの支援に日本全体が深く感謝し、励まされている」という点であったが、このた記事が出たことで多少、安堵の気持ちを味わっている。

世界各地の日本大使館では、東日本大震災から1年を機会に震災関連の広報活動を強め、元気を取り戻した日本を世界にアピールしている。その中で、日本から世界14か国に派遣された20人の「復興発信使」がメッセンジャーとしての大きな役割を果たしたことは間違いなく、派遣にはそれなりの意味があったといえるだろう。しかし、これで終わったわけではない。

前述した通り、筆者が訪れた東南アジアでは、自分たちも東日本大震災での日本の経験に学びたいという意欲が強く、特に防災と原発問題についてはその思いが切実だった。これに日本がどう応えて行くかは日本にとっての大きな課題であり、各国から寄せられた物心両面の多大な支援に対する返礼になるはずだ。筆者の講演やインタビューを伝えたマレーシアとフィリピンの新聞記事の中には、福島の原発事故を念頭に「日本が透明性を持って、すべての事実を包み隠さず公表することを強く望む」と書いたものがあったが、これこそが東日本大震災と福島原発という大惨事を経験した日本が国際的に果たすべき最大の責務であることは言うまでもない。 (了) (2012年4月27日寄稿)





『総統選挙後の台湾』2012.5.11

『総統選挙後の台湾』



           元(財)交流協会台北事務所代表
           元駐オランダ・ブラジル大使 池田 維

 台湾は東シナ海と南シナ海を扼する位置にある戦略上の要衝である。その帰趨は日本を含む西太平洋全体のパワー・バランスに重要な影響を及ぼすこととなる。また、台湾周辺海域は日本にとって石油輸送路であるシーレーンに当っている。今日、中国は台湾をチベットと並び、中国にとっての「核心的利益」を有する重点地域と位置付け、経済、軍事、政治、文化などの各種手段を用いて台湾に攻勢をかけている。

選挙結果をどう見るか
本年1月14日に実施された台湾の総統選挙は、本年中に世界で行われる主要国指導者の選出の一環としても注目された。台湾は中国に対し、より接近しようとしているのか、あるいは、より距離を置こうとしているのか。総統選挙後に台湾大学で行われたシンポジウムに出席する機会があり、その際に、台湾の関係者たちと意見交換をすることが出来た。

台湾において総統直接選挙がはじめて行われたのは1996年のことであり、その時、李登輝元総統が選出され、民主化の進展を内外に強く印象づけた。今回の総統選挙は5回目に当たる。結果は、現職・国民党の馬英九総統が最大野党・民主進歩党(民進党)の蔡英文主席を破り、再選を果たした。両者の得票率は馬氏が51.6%(689万票)、蔡氏が45.6%(609万票)、親民党・宋氏が2.8%(37万票)となった。また、総統選挙と同時に行われた立法委員(国会議員)の選挙において、国民党は8議席減らし、民進党は8議席伸ばした。

6%という得票率の差をどう見るかについて、台湾人の評価はそれほど大きくは分かれていない。選挙直前に一時、多くの人々が予測した2~3%の差というほど接近したものではなかったが、4年前の選挙において馬氏が17%の差で圧勝したことと比較すれば、蔡氏は善戦したと見られており、民進党の党勢回復ぶりを示したといえる。このような選挙結果は、勝利を収めた馬総統が今後4年間の施政を行うに当たって考慮に入れざるを得ない点であろう。

今回の選挙の決め手となったものとして、政策上の争点以外に、全般的な組織力、資金力、メディア動員力などの諸点における国民党と民進党の相違点が挙げられる。現職総統を擁する国民党が、それらいずれの点においても民進党を上回っていたと見られているが、ここでは、とくに政策上の最大の争点であった対中国政策を見ることにしたい。
対中国政策については、どの政党の政策が人々により安定をもたらすかが選挙の焦点になった。結局、台湾住民の過半数である51%の人たちが変化よりも安定を望み、現状の継続を選択したと言えよう。

馬政権はこれまでの4年間に中国との間で経済協力枠組み協定(ECFA)を締結し、観光客や学術関係者の往来の自由化など経済・人的往来面での交流を促進してきた。このような対中国宥和政策が台湾経済に裨益し、ひいては中台間の政治的安定をもたらした、との馬氏の主張が受け入れられた形となった。

国民党と民進党の対中国政策の違いは「1992年コンセンサス」をめぐって明確になった。このコンセンサスとは、92年にはじめて中台間でハイレベルの接触が行われた時、中国は「一つの中国」の原則を主張し、他方、台湾の国民党政権は「一つの中国、各自解釈」を主張した、という同床異夢の内容を持つものだ。つまり、中国にとっては「一つの中国」とは「中華人民共和国」を意味し、台湾にとっては「中華民国」を意味する。これに対し、蔡氏は、「92年コンセンサス」の存在そのものを否定し、将来、全台湾で広範な議論をしたうえで「台湾コンセンサス」を作る、と主張した。

中国は選挙期間中、陰に陽に国民党の立場を支援し、もし政権交代が行われ、「92年コンセンサス」がなくなれば、中台間の安定的基礎が失われ、関係は後退すると発言して、独立指向の民進党を牽制した。とくに選挙期間後半に中国と取引のある大企業のCEOたちが次々に「92年コンセンサス」支持を公然と表明したことは、国民党に有利に働いたと見られる。たとえば、台湾の運輸大手の長栄グループの総裁は「このコンセンサスがなければ、台湾の生存は難しい」とまで述べた。「92年コンセンサス」はあたかも「踏絵」のような役割を果たしたのである。

さらに、中国は経済活動のため中国に滞在する台湾人ビジネスマンたちが総統選挙の際に帰国し、投票できるように航空券を減額するなどの優遇措置を取り、選挙に干渉した。
また、米国の一部関係者(たとえば、元米国在台協会事務所長ダグラス・パール)まで、選挙期間中に「92年コンセンサスがあれば、米中は共に安心できる」との趣旨の「個人的」発言を行い、民進党が強く反発する一幕もあった。
振り返れば、96年の総統選挙の際には、中国は軍事演習と称して、台湾周辺海域に何発かのミサイルを発射し、2000年の選挙の際には、独立指向の「民進党にはみじめな末路しかない」(朱鎔基)などと恫喝した。その頃に比べれば、今回の中国の手法はより穏便ではあったが、総統選挙に干渉した、という点ではなんら変わりはない。今回は、経済(ビジネス)を「人質」に取ったと言えば言い過ぎだろうか。
このような選挙中のやりとりは台湾の有権者たちにかなりのインパクトを与えたに違いない。ちなみに今日、中国は台湾にとっての最大の貿易相手であり、台湾の対外投資の約6割は中国(香港を含む)との間で行われている。

今後の課題
二期目に入る馬英九総統は中国との間では、「統一せず、独立せず、戦わず」の現状維持策を続けることを明言している。これまで4年間に馬政権は中国との間では、経済を中心に種々の協議を進めてきたが、経済面での協議は、主権に直接関係しないだけに比較的容易に進めることが出来た。しかし、今後の課題は、中国が要求してくるであろう政治問題、軍事問題にいかに対処するか、と言う点であろう。
馬総統は選挙期間中の昨年10月、「再選されれば、中国との間で和平協定を結ぶことを考えたい」と発言した。これに対し、台湾内部で直ちに強い反発が起こり、支持率が10ポイント近く急落するという事態を招いたことがある。そのため馬氏は、協定締結の前提として、立法院(議会)での議決や住民投票にかけることなどを公約せざるを得なかった。

中台間の「和平協定」の意味は明確ではない。しかし、一般に、中国は台湾に対し、「台湾関係法」に基づく米国からの武器供与を停止させ、見返りに、台湾に向けられた中国のミサイルを撤去するとのアイディアを打ち出すかもしれない、と噂されている。ただし、ミサイル撤去などを検証することはまず出来ないし、また、台湾としては米国との合意なく、米国からの武器購入を一方的に停止するなどということは出来ないだろう。そして、なによりも、馬政権としては、台湾住民の極めて敏感な反応に十分な考慮を払わなければ、順調な政権運営は困難になるだろう。

今日、各種アンケートが示すように、台湾住民の85%以上という圧倒的多数の人々は独立でも統一でもない「現状維持」を支持している。「現状維持」とは、端的に言えば、国連のメンバーではなく、国際的に孤立してはいるが、中国の統治下にない、という台湾の現状の継続を意味している。また、台湾の人たちのアイデンティティという複雑な問題については、自分を「台湾人」であると考える人は92年には18%であったが、その後右肩上がりに増加し、2011年には54%になった。他方、「中国人」であると考える人は、この同一時期の間に26%から4%へと減少した。(国立政治大学の調査)。

今回、総統選挙に敗れた蔡英文氏は民進党のなかでは、台湾の主権は守りつつも独立を前面に打ち出すことなく、中国との対話を目指すことを主張した穏健派の指導者であるが、「台湾コンセンサス」は意味が明瞭ではない、と批判された。今後、民進党としては、中国との関係や距離をいかなるものに策定するかという課題に向き合わねばならないだろう。蔡自身、選挙敗北後の検討会のなかで、「今後、中国と交流する中で、中国の実体をよりよく理解する必要がある」と述べている。(なお、民進党は1991年、「台湾共和国」の建国を目指すとの独立綱領を採択し、その後、「台湾はすでに主権が独立した国家である」との決議文を採択した政党である。)
中国の対台湾政策の核心は、台湾独立を阻止し、あわよくば台湾を「第2の香港」のような地位に持って行き、将来の統一への布石とすることである。そのために、今後一層政治的、経済的攻勢を強め、台湾をさらに取り込むための方策を取り続けるだろう。そして、独立への動きに対しては、武力行使を辞さないとの構えを表明している(2005、「反国家分裂法」)。

「台湾はやがて中国に飲み込まれてしまうのではないか」という人たちは少数ではあるが、台湾の中にもいる。しかし、これまでの台湾の歴史を見てくれば、台湾の人たちが鋭いバランス感覚を持ち合わせていることがよくわかるし、さらには、今日の台湾の民主主義がそれほど脆弱なものとは到底思えないのである。台湾の人たちは中国大陸をビジネスの相手としては重視しているが、かつての戒厳令の時期(1949~87)を想起させるような一党独裁体制には全く魅力を感じていない。(逆に、中国からの台湾への来訪者たちは、台湾の選挙や政治を見て、その自由で民主的なところに衝撃を受け、羨望の念を持つのが普通である)。

今回の民主的選挙を通じ、台湾の選挙民が馬氏に与えた信任は多分、中台間の経済関係を大きく変えることなく、「現状維持」の大枠を守りつつ、中国とつきあう、ということであろう。「現状維持」がいつまでも続くという保障はないが、台湾を取り囲む国際情勢、なかんずく、中国自体の状況が大きく変わるまで、現状を維持する以外ない、と考えている台湾人は少なくない。その意味からも、馬政権の対中交渉能力が真に試されるのは、これからである。

日本と台湾との外交関係が断絶して40年になるが、今日、両者の関係は全体として良好かつ緊密である。どのアンケートをとっても、今日、台湾の人たちの「一番好きな国」は日本である。2300万人の人口を持つ台湾の一般市民からの東日本大震災への義援金は200億円という世界最大の規模に達した。もちろん、善意や同情は金額の多寡によって量られるものではない。とは言え、この動きは台湾の人々の日本人への親近感や激励の気持ちを如実に傳えるものとなった。日本人との間に歴史的にも地理的にも深く長い絆を持つ「隣人」が存在するという事実を、私たちは忘れないようにしたいものである。     (了)




『―急変するミャンマー情勢と日本―』2012.1.18

『―急変するミャンマー情勢と日本―』


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             元駐ミャンマー大使 田島高志

 ミャンマーでは2011年3月30日にようやく民政移管が実現した。テイン・セイン新大統領の率いる新政府は、民主化、国民和解、開放化への改革を驚くほど急速に進めており、それに対応する国際社会の動きも活発化している。眞に好ましい方向への変化である。

ミャンマーは、地政学的にも重要な位置にあり、歴史的に世界で最も親日的な国の一つであり、かつミャンマー人は生真面目で慎ましく勤勉で親しみ易い等の観点から、日本にはミャンマーの民主化と経済発展に建設的な役割を果す責務があると私は主張して来た。よって最近の変化には感慨が深い。新政府成立後間もないので、不十分な理解と判断もあり得るが、ご依頼により、簡単に私の観察を記述させて頂きたい。

1. 新政権成立への経緯
 1988年に国内の混乱を鎮圧した国軍は軍政を樹立し、1990年の総選挙ではアウン・サン・スー・チー(以下スーチーと略す)女史の率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したが、NLDへの不信感から政権を委譲せず、先ず新憲法を制定する方針をとり、1993年以来国民会議による新憲法草案の策定作業を進めた。経済面では自由化と開放化政策をとり、かなりの成果を挙げたが、1997年のアジア経済危機と欧米の経済制裁とにより、経済は停滞に陥った。
 その後軍政は、国内の安定化を見て2003年に民主化のため7段階のロードマップを発表し、2008年の国民投票を経て新憲法を採択し、2010年11月総選挙を行い、内外の予想通り軍政側の政党USDPが圧勝した。
スーチー女史について軍政は、1989年に自宅軟禁とし、断続的に釈放と自宅軟禁措置を繰り返し、2010年の総選挙後に刑期満了を理由に3度目の釈放を行った。

 このような経緯を経て、2011年1月に国会召集、2月国会はテイン・セイン首相(当時)を大統領に選出し、組閣終了後3月30日に新政府が発足し、民政移管が実現した。この段階では、民政移管は表面上であり、実権は依然裏に存在する国軍にあるとの観測が内外で有力であった。

2. 新政府成立後の変化

(1)大統領の就任演説と民主化
ところが、3月31日にテイン・セイン新大統領の行った就任演説は、「自由公正な民主国家の建設に最大限努力する」との民主化目標を言明し、「新政府は新しい政策と法律により、国と国民のために取り組む」「各政党やグループに対しミャンマーの民主主義の発展のために新政府との協力を求めたい」と国民和解への姿勢を示し、「国民生活の向上を期し、市場経済体制の構築に向けて税制、政策決定、法整備等を進める」と宣言した。外交面では「引き続き非同盟政策を維持し、全ての国との友好関係を維持する」と述べ、「国民の基本的権利の保障」「農民及び労働者の権利に関する法整備」「教育、保健分野の法整備」等を基本方針とする旨表明した。いずれも軍政時代には見られなかった表現であり、民主化政策の表明であり、実態が伴えば真に歓迎すべきことと受け止められた。

(2)政治犯の釈放とスーチー女史との対話
その後5月に政治犯約50名の釈放、7月にアウン・チー労働相とスーチー女史との対話、8月にはテイン・セイン大統領とスーチー女史との対話、9月にテイン・セイン大統領が国民の意思を理由に中国の投資案件ミッソン水力発電所建設計画の一時凍結を決定、10月に6,359名の恩赦を発表、11月に政党登録法改正法の公布、それに基づきNLDが政党登録を申請、2012年予定の国会議員の補欠選挙でのスーチー女史の立候補と当選を可能とした。テイン・セイン大統領は「NLDが政治の舞台に戻ることを喜ぶ」「スーチー女史の国会参加を歓迎する」と述べ、女史も「テイン・セイン大統領を信頼している」と述べた。

女史の地方への移動及び外国人との面会も自由化された。2012年1月には著名な政治犯ミン・コー・ナイン氏以下多数の政治犯及び7段階ロードマップの起案者キン・ニュン元首相等の服役囚651人が一斉釈放された。

(3)報道の検閲廃止とデモ行進の解禁
8月に上下両院で労働組合の結成を認める「労働組合法」が承認され、11月にはデモなど平和的抗議行動を認める「平和的集会・行進法案」が両院で承認された。海外に滞在するミャンマー人の帰国を歓迎する旨の方針が示され、著名な反政府活動家の一時帰国が実現した。

(4)少数民族との停戦と和解
テイン・セイン大統領は、武装少数民族に和平協定を呼びかけ、9月に最大の軍隊を保有するワ州連合軍(UWSA)及びシャン州武装組織と和平協定を交わした。11月には3つの武装組織との停戦に原則同意し、その後カレンの1大隊とも停戦したと伝えられ、和平が徐々に実現している。

(5)経済改革の推進
   8月に政府は二重三重の為替問題解決のためIMFに支援を求め、10月にIMFは世銀を含む代表団を送り協議を進めた。9月には農民に農地を譲渡、賃貸、相続する権利を認める法案が国会に提出され、民間銀行に外貨両替窓口の開設を認め、国営銀行の東南アジアに支店開設を認めた。外国投資法を改正し、外資に国有地のみでなく民有地の賃貸を認めることとした。

3. 変化の背景
 このような正に民主主義が根付き始めていると言える急激な変化の背景は何であったかを考えて見たい。

(1) ロードマップの達成感と希望
  軍政は設立当初から、その目的は国家の秩序を回復し発展の基盤を構築した上で民政移管を行うことであると表明し、国内が安定化してきた2003年に民主化ロードマップを発表した。少数民族問題等の紆余曲折を経てようやく新憲法、国民投票、総選挙、新政府と予定のロードマップを仕上げ、いまや達成感に満ちているように見られる。ミャンマーのエリートである軍指導層は愛国心が特に強いことを考えれば、軍政が長引いたのも単なる権力欲からとは思われず、軍政を自力で終焉させたいま、新国家建設への自信と希望を強く持って動いているのが新政府の姿であると思われる。

(2)スーチー女史の変化
新政府は、成立後間もなくスーチー女史に対し、今後の民主化方針についてアウン・チー大臣が何度も面談して詳しく説明し、さらにテイン・セイン大統領自身も直接熱心に説明し、女史の理解と協力を得ることに努めた。それが功を奏し、スーチー女史は従来の態度を大きく変え、「自分は大統領を信頼している」と発言するようになった。

これで新政府としても安心して政治犯の釈放を一層進める条件が整い、政党登録法を改正してスーチー女史を初めNLD党員の国会への参加の道を開くことが出来た。これは、新政府側の真摯で真剣な態度により、スーチー女史の眼が現実的な方向に開けた結果によるものであり、今回の急激な変化を前進させる最大の要因になっていると言えよう。

(3)世界情勢の変化の体得
   ミャンマーには、植民地時代以降の経験から強い外国人不信の傾向がある。 ネウイン時代には、他国の干渉を避け一国社会主義という極端な閉鎖政策をとった。 外交は独立当初から非同盟政策であり、アセアンにも当初は加盟しなかった。 しかし、世界はグローバル化が進み、一国のみでは発展を期し得ないことを次第に体得し、開放化による国際的な相互協力の推進が不可欠であることを理解したものと思う。

そのような中で、アセアンの仲間からさえもミャンマーに民主化を要求する声が高まっており、特に2014年のアセアン議長国就任の要請に対しては、議長国インドネシア外相がミャンマーを訪問して民政移管の真相を探り、真の民主化への変化を求めて強い圧力をかけたことが考えられる。

(4) 中国への警戒感
   欧米から経済制裁を受け、日本の援助も制限的であったため、止む無く中国の支援に依存したが、ミャンマーは元来共産主義の中国には警戒心を持っていたこと、最近は中国依存が深くなり過ぎ、援助の実態にも疑念を持ち始めていたものと思われる。冷戦時代の米国からの援助、日本の製品の優秀さ等も記憶にあり、欧米及び日本との協力関係の復活への強い期待もあったと思われる。加えて、中国の海洋進出への周辺諸国の警戒心、米国の安全保障政策の対アジア重視などもあり、例えばミャンマーの国土を縦断する形のパイプラインルートの権益が中国に握られるリスクにも気づいて来たとも思われる。

 上記4点の基本的要因が連動して、ミャンマー情勢の劇的な変化の背景を構成しているように判断される。


4. 国際社会の対応

(1)中国・インド
 中国は、欧米諸国とは異なり、政治的経済的に徹底したミャンマー支持の政策をとり、蜜月関係を発展させた。新政府成立直後の4月には賈慶林政治局員が訪緬し、5月にはテイン・セイン大統領が最初の外国訪問国として中国を訪問した。ただ、9月新政府の突然の大型水力発電所計画凍結の決定に対しては権益の保障を要求し、人民日報も反論を掲載した。10月ワナ・マウン・ルイン外相は急遽訪中して楊外交部長、習近平副主席と会談し、適切な処理に合意した。11月ミン・アウン・ライン国軍司令官が訪中した際、習近平副主席は両国の軍事交流の強化を提案、包括的戦略的協力関係に務めたいと述べた旨伝えられた。今後の推移が注目される。
 インドは、中国に対抗してミャンマーとの経済関係を進展させて来た経緯があり、6月にクリシュナ外相が訪緬し、ミャンマーからは10月にテイン・セイン大統領が訪印した。

(2) アセアン諸国
アセアン諸国はミャンマーの新政府成立に歓迎の意を表明し、11月ミャンマーの2014年のアセアン議長国就任を決定し、欧米に対し制裁解除を促す態度も示した。タイのカシット外相は、訪緬の際に外国外相としては初めてのスーチー女史との会談を行った。さらに10月タイのインラック首相はミャンマーを公式訪問した。

(3) 欧米諸国
米国のオバマ政権は、制裁が効果を挙げていないことを認め、「関与」と「圧力」を併用する政策に転じていたが、新政府成立後キャンベル次官補が「国内で劇的な変化が起きている」と述べた程の新たな動きを見て、9月以降ミッチェル「ビルマ」特別代表を頻繁に訪緬させ、11月クリントン国務長官は、「ミャンマー政府が真の改革を推進するなら米国はパートナーになる、」と発言した。

11月オバマ大統領はスーチー女史と電話会談を行い、クリントン国務長官をミャンマーに派遣した。クリントン長官は、12月1日テイン・セイン大統領及び閣僚等と会談、大統領の改革計画の説明に支持を表明、民主化の進展に応じ相応の措置を講じると述べた。2012年1月13日には主要な政治犯の釈放を見て、大使の相互派遣の意向を表明した。長官は、米緬関係の改善で緊密な中緬関係が犠牲になることはないとの配慮を示したとも伝えられた。クリントン長官はスーチー女史とも懇談し、少数民族代表とも面会した。米国は、政治犯の釈放、少数民族との紛争解決、核及びミサイルの北朝鮮との軍事協力の解消を条件として、制裁緩和へ動き出したと言えよう。

11月EUのアシュトン外交・安保政策担当代表は「政策の抜本的見直しに着手している」と述べ、英国のミッチェル開発大臣が閣僚として数十年ぶりに訪緬し「英国はミャンマーとの関係を抜本的に見直す用意がある」と表明した。また、ヤンゴンでEU主催の金融改革、貧困撲滅のワークショップが開かれ、リップマンEU大使が「EUはこの国で起きている重要な変化を支持し奨励したい」と述べた旨報じられた。

(4) 日本
日本政府は、地政学的に重要な位置にあるミャンマーとの関係を重視し、新政府の改革措置を民主化と国民和解に向けた前進として評価し、その流れが確実なものとなるよう支援して行くと表明している。6月に菊田外務政務官が訪緬し、新しいページを開きたいとして、人的交流、経済協力、経済関係、文化交流の4分野について意見交換を行い、経済協力では、今後民主化及び人権状況の改善を見守りつつ、民衆に直接裨益する基礎生活分野(BHN)の案件を中心にケース・バイ・ケースで検討の上、実施する旨新しい基本方針を表明した。

また、2007年の長井健司氏死亡事件の真相究明を要請した。
7月に超党派の若手政党関係者グループ20名を訪日招聘し、10月にはワナ・マウン・ルイン外相を招聘し、玄葉外務大臣と会談。玄葉大臣より、民主化への動きを力強く支援したい、人的交流では、NLD関係者も政党として合法化された後に招待したい、貧困撲滅に注目し「人材開発センター(日本センター)」案件、バルーチャン第2水力発電所補修案件等のため調査を行う旨述べた。

11月に首都ネーピードーで両国局長級の日・ミャンマー経済協力政策協議が開催され、開発政策と援助政策について幅広い討議が行われた。

11月野田総理は、バリ島での日アセアン首脳会議でテイン・セイン大統領と会談、アセアン議長国就任決定を歓迎、民主化、国民和解への努力を評価し、大統領の努力への日本の支援を表明し、ミャンマーの総合開発調査を実施する旨及び文化交流につき遺跡修復・保存の専門家を派遣する旨表明した。また、長井氏死亡事件についての真相究明を要請した。総理より2012年日本で日メコン首脳会議開催の際に大統領の訪日を要望したのに対し、大統領は、努力する、総理にもミャンマーを訪問して頂きたい旨の発言があった。

12月玄葉外相は日本の外相としては9年ぶりに訪緬し、テイン・セイン大統領及びワナ・マウン・ルイン外相と会談し、民主化の動きを評価し、一層の進展を促し、4分野の日本からの協力を確認し、総合開発に関しテイラワ港の調査も実施予定である旨述べるとともに投資協定の協議開始に合意し、北朝鮮との関係に注意を促し、長井健司氏事件の真相究明を要請した。さらに、スーチー女史とも会談し、日本政府の方針を説明し、女史の訪日を招請した。女史より、ミャンマーへの支援は少数民族への裨益も忘れないで欲しい、ミャンマー国内の投資関連の法整備が重要との発言があった。また、テー・ウーSPDC総書記と会談し、日本人商工会議所関係者とも意見交換を行った。12月には、JICAが主催し、経済改革支援のためミャンマーの若手行政官等約30名を招聘して経済・金融、貿易・投資、中小企業、農業に関する東京ワークショップを開催した。

2012年1月枝野経済産業大臣は、首都ネーピードーでの閣僚級経済産業対話に出席し、インフラ整備・産業育成とエネルギー・鉱物資源開発の2分野での包括的支援策とそのための2年間で5億ドルの貿易保険枠を発表した。
今後政府は人材育成等技術協力に加え、円借款の再開も検討すべきであろう。
民間の動きとしては、9月に日本アセアンセンター主催の投資調査ミッションが、政府と経団連共催の訪ミャンマー官民合同ミッションがそれぞれ派遣された。民間の商社等が個別に調査団や視察団を派遣するケースは激増している。
海外各国産業界は、ミャンマーの変化に注目し、新たなビジネスチャンスを求めて積極的に動いている様子が顕著である。在京ミャンマー大使は、ミャンマー人は日本製品や技術に憧れているが、日本の大企業は米国の制裁緩和の段階に応じて徐々にミャンマーへ進出のようであり、それは止むを得ないが、中小企業は米国に気兼ねなく今からチャンスを捉えるべきであり、美味しい所が他国に先手を打たれてしまうことが心配だ、と述べている。

5. 今後の注目点
 新政府の民主化への動きは、順調に滑り出したが、今後の課題は少なくない。
紙数に余裕がないので、一つだけ指摘するならば、長年の独裁政治の直後であり、民主的国家運営は半世紀ぶりで全く不慣れのため、今後表面化する可能性のある例えば軍と政府、国会と政府、与党と野党、軍内部、政府内部、中央と地方等の意見の相違が常に平静に調整、克服されて行くかが注目される。ミャンマー人は生真面目であるために弾力性に欠けるところがあり、感情的な面もある。すなわち、今後は民主化か否かではなく、民主化、開放化のスピードや具体的政策措置の意見の相違の調整の問題が深刻になる可能性を見る必要があり、日本を初め諸外国の支援は、忍耐強く、法整備や制度構築及びその運用等のソフト面を重視しつつ丁寧に行われるべきであると思われる。
(2012年1月16日寄稿)

『満州事変、安保改定、2030年の日本』2012.1.1

『満州事変、安保改定、2030年の日本』


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             元欧州連合(EU)代表部大使 朝海和夫

最近、出淵勝次(母方の祖父、1931年の満州事変当時の駐米大使)、朝海浩一郎(父、
1960年の安保改定時の駐米大使)の日記を拾い読みした。昔と今とでは勿論大きな違いが
あるが、意外に変わっていないことも多く、今後の参考になることがあった。


満州事変

1931年9月に柳条湖事件が発生した時、米国に駐在していた出淵は「朝起キテ、、、夢カトバカリ驚カサレタリ、、、容易ナラザル事態、、、」と直感した(9月19日の日記)。早速「米国二於テ軽挙セサラムコトヲ希望スル旨切言」(20日)する一方、外務本省に対して「速二事件ノ真相ヲ発表スルコト、、、不然ハ米国ノ輿論硬化スヘキコト」などを意見具申する(22日)。

米側は当初、日本を追いつめすぎないよう抑制的に対応したが、日本軍が租借地からかなり離れた錦州を爆撃し遂には占領するに及び、日本の一連の行動を承認しない、という「不承認政策」を表明した(1932年1月)。出淵は「(スチムソン国務長官の)求メニ依リ面会ス、、、事件発生以来アラユル努力ヲシテ米国ヲ抑工来リタルカ、遂二今日トナリ遺憾此上ナシ。然約二反シテ錦州ヲ占領セル以上、致シ方ナシ。顧ミレバ自分ハ日本国代表トシテ余リニモ二枚舌ヲ遣ヒタルコトヲ、否、遣八ハシメラレタルコトヲ遺憾トス。」と記している(1月7日)。

歴史に「もしも」はないが、「もし」錦州占領などをしないで「不拡大」を堅持出来たならば、日米関係は全然違ったものになっていただろう。そうならなかったのは、軍部の独走のみならず日本の世論の高揚などの要素が複合的に作用していたと思う。駐仏大使ののち外務大臣を務めた佐藤尚武の回顧録(「回顧八十年」)によれば「(1931年11月に)日本に帰ってみると連盟にたいする非難轟々のありさまで、、、国際連盟が突如、日支の紛争に介入し、しかも日本の態度を全面的に否定していたのに対しては、-から十まで連盟許すべからずという空気が津々浦々まではびこってしまっていた」と驚いている。

昨今も「○○バッシング」が時々起きるが当時は「連盟バッシング」になっていたのだろうか。(もっとも、当時エジンバラ大学で研修していた朝海浩一郎(25歳)も鼻息が荒くて「連盟は仮に日本をして鉄道地域内に兵を撤せしむるに成功したりとして次で支那政府の無力により日本人の生命財産が侵犯せられたりとせば如何の責任を採らんとするものであるか」(11月7日)、「支那は連盟を、、、(租借権についての)条約侵犯の道具とし、これにより対日直接交渉によるよりは更に大なる利得を得んとする誠意なき態度、、、」(11月16日)と日記に語っている。

ちなみに、同日記によれば当時の英国の新聞は必ずしも日本非難一色ではなくタイムズ紙は概して日本に好意的で「(治安維持の)主権を効果的に行使していない中国が、主権を侵犯されたと主張出来るのか」などと述べていたようだ。)

上記タイムズ紙はともかくとして、満州事変についての日本の見方は欧米などでは理解を得られてなかったのだろうが日本は「海外広報」や「パブリックデイプロマシー」は不得手で(今も?)中国(中国人)に遅れを取ったらしい。エジンバラ大学の討論会に参加した朝海浩一郎は「大使館から資料をもらってきて、何だか余り冴えないような議論を読み上げたわけです、中国の番になって彼(中国人留学生)は、とってもはったりの利いた演説をやった。みんなやんやの喝采です。 中国側はそういう堂々たる演説をやってのけるのですね。 もう少し言葉を勉強しなければならんと反省」したそうだ(朝海浩一郎回顧録「司町閑話」)。

連盟で日本を代表していた佐藤尚武もかなりの苦戦したようで「国際世論の非難を一身に集めて悪戦苦闘、、、この時ほど苦しんだことは、およそ三十年の外務省生活の中で二度と経験したことはなかった」、「(中国の代表は)日本軍の侵略ぶりを詳細に述べたてて真っ向から日本に攻撃の矢を向け、、、挑戦してきた。この人もなかなか英語の達者な人で、支那側がこうした会議向きの数人の立役者をもっていたことは特筆しておかねばならない。」(「回顧八十年」)と述懐している。


アイゼンハワー大統領訪日招待取り消しなど60年代の日米関係

朝海浩一郎の日記には安保改定交渉については目立った記述はないが、アイゼンハワー大統領を日本に招待したものの安保反対運動で騒然となったため招待を撤回した件は度々日記に出てくる。「15、6万人もデモ隊が東京中を横行し反米的プラカードを掲げているようでは人前に顔を出す訳にも行かないので今日の英国の国際日レセプションは欠席した。」(6月11日)、「営々として積み上げた日米の友好関係にヒビが入らんとすることを思ひ、、、夜眠れざるものがあった」(6月18日)などだ。

アイゼンハワー訪日を想定して日本に一時帰国した際メデイアに取材されたが、招待取り消し後のインタビューでは、日本の理屈は国際的には通用しないとして「最近のデモは反岸、反安保であって反米ではないと言ったところで米国人が納得しますか」などと述べ、戦後15年日本は国民の勤勉等によって漸く国際的信頼を得るに至ったのにこうなったのは残念だ、「ある人によれば日本は技術力では20世紀、企業家精神では19世紀、政治では18世紀、、、」(文芸春秋60年8月号)と憤憑を隠せなかった。(普天問を巡る事態を草葉の陰から見ていたならば浩一郎はなんと言っただろうか、、)

ただし、不満は米国にも向けられており安保条約をめぐる日本国内の状況を説明しようとしてデイロン国務長官代理と会談した際の日記には「日本の状況をかなり整理して話したが途中で欠伸ばかりしていた。この程度の関心では、と情けなくなった」(1960年8月22日)としている。1962年の大平外務大臣とラスク国務長官の会談については「ラスクはベルリン問題と、、、キューバ問題につき積極的に話したが韓国問題、沖縄問題、○○問題(注、判読不能)については話を聞くだけで韓国問題についてさへ交渉の現状を先方から聞こうともしなかった。この辺に日米関係の一方的なところがあることをマザマザと見せつけられた」(9月24日)と述べている。

当時の日本は経済規模で世界の3%程度(名目)で第二位の経済大国英国の約半分だったが、今後日本経済が相対的に縮小して行くことを考えると、将来、日本が何かを言っても「欠伸」をされたり、質問がなかったりするのではないかと気がかりだ。


2030年

2010年の内開府の予測(「世界経済の潮流」)によれば2030年の日本経済は世界の3%(購買力平価)と見込まれる。ピークだった90年代の半分程度のシェアだ。中国などが経済的にも政治的にも台頭していることは周知のとおりで、世界は欧米から中国・新興国へと「パワートランジション」が起きつつある、ともいわれる。
こうした中で日本はどうすべきか。どうしてはいけないのか。
世界経済の3%と言えば1960年代並に戻るということではあるが、2030年の3%はその頃の英国とドイツを合わせた規模に近いことを、まず、想起すべきだろう。日本は決して小さな存在ではないので、自分を小さく評価し過ぎて縮こまったり「何でも節約しなければ」と思ったりする必要はないし、適当でもない。

人口減少(少子高齢化)に直面する日本は、出産を奨励するために保育所を増やしたり助成金を給付するのが良いだろうし、一人当たりの生産性も向上させなければならない(高付加価値のモノ造りに特化、サービス産業や農業の効率化など)。財政の健全化も疑いなく重要だ。同時に、日本は「以前より余りにも、、、国際関係に無頓着」だった、と敗戦濃厚となった時期の佐藤尚武の反省次代への警告(「回顧八十年」)を忘れてはならない。

30年代に痛感したように「中国人並み」の英語力 (国際性)を身につけなければならず、首脳・閣僚レベルの国際的な会合で通訳を介している場合ではない。外国から「欠伸」されないよう日頃から「ソフトパワー」(国の魅力)を磨かなればならずパプリックデイプロマシーにも投資する必要がある。パワートランジションの時代は不確実性が増す時代でもあるので外の動きにはこれまで以上に敏感でなければならないのは当然だし、外交と内政が従来以上に密接に関係しているだけに、「政治は18世紀」と嘆かれるような事態はあってはならないことだ。 (2011年12月26日寄稿)



『起 業 家』 2011.12.22

『起 業 家』 


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元駐ブルガリア大使 
日本カーボンファイナンス(株)特別顧問 福井宏一郎


今年も暮れになった。今年の「なでしこジャパン」の女子ワールドカップ優勝は快挙だった。澤穂希キャプテン以下の笑顔を思い起こすと気分が晴れやかになる。だが・・・全般的に日本が暗い。若い人に職がない。高齢化と人口減少でどこの地方都市も沈下する一方だ。国内では一人勝ちの東京でさえ長期的には人口が減る。将来に備えて何かを変えようにも、既得権益の壁をなかなか越えられない。加えて国難の東日本大震災だ。一方、目を転じればどこの国だって問題山積だ。連日ニュースに登るアメリカ、EU、中国も深刻な問題を抱えている。人口の多い国はどこだって国論の集約は難しいだろう。他の国も負けず劣らず問題を抱えているが、日本のように暗くはない。日本の暗さと閉塞感は独特である。

この秋の10月にサンフランシスコに飛んで、若い頃に留学したスタンフォード大学ビジネススクールの卒業35周年のクラス会に出席してきた。卒業してから5年ごとに母校で3泊4日のクラス会をやるのがこのビジネススクール卒業生の恒例になっている。一学年300人ほどのうち今回は100人ほどのクラスメートとその配偶者が集まり、学内のビジネススクール用の宿泊施設で3日間共に過ごし旧交を温めた。成功したクラスメートは校長(学校)にため息が出るほど多額の寄付をし、仲間の拍手を受ける。成功者を讃えるアメリカ文化の明るさだ。

スタンフォードビジネススクール新校舎.jpgスタンフォード大学ビジネススクール


このビジネススクールは東海岸のハーバードビジネススクールと並んで元気印の象徴のようなところだ。特にスタンフォードはシリコンバレーに立地し、昔から在学生に起業の基礎を教えるコースが充実していた。もちろん、起業家輩出は何もビジネススクールの専売特許ではない。ヒューレットやパッカードは工学部出身だし、ビル・ゲイツはハーバート大学中退だし、スティーブ・ジョブスはリード大学に半年在籍しただけだ。だが起業を目指す若者にとって同じような志を持つ仲間に囲まれて財務やマーケティングなどの広範な分野の基礎を叩き込まれる2年間は恵まれた環境だ。

今年はビジネススクールが広大なキャンパスの中のすぐ近くに新築移転された。その新校舎を案内してもらうのも今回の楽しみの一つで、さっそくツアーに参加した。前よりも敷地も建物の数も充実して美しい配置になっている。この新校舎になり、ビジネススクールの名前はナイト・マネージメント・センターとなった。総工費約4億ドルのうち最大の1億ドル強を寄付した卒業生のフィル・ナイト(Phil Knight)を顕彰したものである。そこまで多くなくても巨額の寄付をした人にはそれぞれの建物に名前がつけられて壁に名前が書かれている。新校舎建設は卒業生の寄付で十分にまかなえたようだ。

校舎に取り囲まれた広場の真ん中にはフィル・ナイトの言葉が石に彫られて埋め込んである。 ‘There comes a time in every life when the past recedes and the future opens. It’s that moment when you turn to face the unknown. Some will turn back to what they already know. Some will walk straight ahead into uncertainty. I can’t tell you which one is right. But I can tell you which one is more fun.’ 「未知の世界に踏み込め、そっちの方が面白いぞ」とは、ビジネススクールの環境で語られると「大樹の陰に寄らず起業せよ」という意だろう。大樹(既知の世界)とは、例えばウォールストリートのインベストメントバンクが思い浮かぶ。こちらの紳士たちは最近強欲すぎると評判を落としているが、これまで実際に多くの秀才たちを引き付けていた。

ナイトの言葉.jpg石に彫られたフィル・ナイトの言葉


フィル・ナイト(1938--)は現在世界最強の企業の一つといわれるナイキ(スポーツ用品)の創業者だ。ナイトは1962年にスタンフォードビジネススクールを卒業(MBA)すると日本の神戸にやってきた。オレゴン州での高校・大学時代に陸上の中距離選手として活躍したナイトは運動靴に注目していた。神戸のまだ小さい会社だった鬼塚タイガー(現アシックス)の運動靴が安くて性能がいいのに感銘を受け、鬼塚社長に面会し、その場で米国西部での鬼塚タイガー運動靴の販売権を獲得した。そしてオレゴンに帰り、自分の陸上のコーチだったバウワーマンと一緒にブルーリボンスポーツ社(ナイキの前身)を設立し、タイガー運動靴の輸入販売をする一方で自社ブランドの開発も進めていく。これがナイキの始まりである。

以降、バスケットのマイケル・ジョーダンやゴルフのタイガー・ウッズのようなスーパースターを自社ブランドの宣伝に使い、スポーツ用品にファッション性を持ち込み、ナイキは簡潔なロゴと共にスポーツ用品で圧倒的なブランドイメージを確立した。だがその過程では、恩人のはずの鬼塚タイガーから初期の段階で技術者を引き抜いたり、委託生産をする途上国の工場の過酷な労働条件が問題になったりしている。オレゴン大学やスタンフォード大学には巨額の寄付をしているが、ビジネスはビジネスで、やり過ぎと思えるくらい妥協しないという事か。

ナイキ起業に大きな影響を与えたアシックス創業者の鬼塚喜八郎(1918年--2007年)の方はどうだろうか。亡くなる前年の2006年に鬼塚が故郷の鳥取県で講演した記録を読む機会に恵まれた。鳥取県が私の故郷でもあった縁である。そこには終戦後間もない時の起業にいたる感動的な回想が語られていた。日本には日本らしい起業家の精神があり、無残な敗戦から立ち上がった起業家たちがいたのだ、そういう感慨に耽らせるような講演録だった。

終戦の年の昭和20年の暮れ、鳥取の実家にいた坂口(鬼塚の旧姓)喜八郎宛に、神戸の鬼塚という身寄りのない老夫婦から手紙が届いた。神戸は焼け野が原になり食うものがなく困っている、神戸に来て助けてくれないか、との内容である。坂口はビルマに出征する戦友から、自分に万一の事があったらいずれ養子縁組して死に水を取ってやるはずの神戸の老夫婦の面倒を見てくれないかと頼まれたのを思い出した。坂口はこの時27歳、陸軍がなくなって実家に戻ってきた末っ子である。昭和21年に汽車のススで真っ黒になりながら神戸に着いて、とりあえず戦友の生死が分かるまで老夫婦を養うために働き出した。昭和22年10月になってこの戦友戦死の公報が入り、老夫婦に頼まれて戦友との約束を果たすべく鬼塚の養子になる。僅か半世紀ちょっと前の話だが、実の家族の間でも暗いニュースが相次ぐ今の日本から見れば別の民族の精神を見るようだ。

そして神戸の焼け跡闇市で青少年が非行化しているのを見て、青少年がスポーツに打ち込めるようないい靴を作りたい、と運動靴の製造に乗り出す。最初は大変だったが、考えに考え、改良に改良を重ねて安くていい品質の運動靴を作り出していく。1960年のローマオリンピックで貧国エチオピアの無名のアベベ選手が裸足でマラソンを走り優勝して世界を驚かせたが、翌年日本にやってきたアベベに裸足のように軽い靴だと説得して自社の靴を履かせることに成功している。フィル・ナイトが鬼塚に会ったのはその翌年だ。後年ナイキ社が有名スポーツ選手を使って成功したビジネスモデルを鬼塚はそのずっと前に実践していた事になる。経営方針は家族主義と目標に向かってのスパルタ主義で知られたようだ。

最近の私の経験を契機に二人の起業家のことを考えてみた。犯罪やスキャンダルや重箱の隅をほじくるようなあら捜しの報道にうんざりしている時は、社会に価値を生み出した成功者の事を考える方が精神衛生によい。何かと暗い日本で起業が相次ぎ成功者が目に見えるようになればこれは大いに明るい要素だ。起業で話題になるのはネット関連が多いが、サービス業や農業だって変革の時だろう。長期的な人口減という厳しい環境の中では日本の各地域が危機意識を持って変革を受け入れ、新しい制度と環境を整えて起業を促す必要がある。外国から見れば日本は何といっても豊かな社会を実現した立派な先進国だ。だがそれは危機意識を持って変化する現実に対処しなければ続かない。急に大きな話の展開になってしまった。まず、小さい事例でも成功者を讃える明るい心を持つことから始めたい。そのような例をまわりで話題にして少しでも明るくしたい。
(2011年12月15日寄稿)


『ミンダナオ和平と日本の貢献』2011.10.31

『ミンダナオ和平と日本の貢献』 


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          前フィリピン大使   桂 誠

8月4日、ミンダナオ和平に関しアキノ大統領と反政府指導者とのトップ会談が東京近郊で極秘裏に行われ、翌日、発表・報道された。「平和構築外交」が日本外交の重要な柱の一つとして打ち出される中で、日本は本件に多大の貢献をしており、それが、トップ会談の場として東京近郊が選ばれたことに繋がったことは間違いない。


1.ミンダナオ和平問題とは
スペインが来航するまでは、現在のマレ-シアから比のミンダナオ島にかけての地域は、イスラム教徒が各地にスルタンを擁して支配しており、スペインが比を植民地にした後も、この地域には統治は及んでいなかった。ミンダナオ島全域に統治が及んだのは、19世紀末に米国がスペインに替わって宗主国となった後である。さて1946年の比の独立後、ビサヤ地方(ルソン島とミンダナオ島の中間にある比の中部)から多数のキリスト教徒がミンダナオ島に入植し、イスラム教徒が次第に追いやられ土地を失っていったと言われている。イスラム教徒は比全土では人口の約5%しか占めないが、ミンダナオ島では約四分の一を占め、その一部が、同島の中部で中央政府に対し武装闘争を行うようになった。

1996年9月には、MNLF(Moro National Liberation Front)とラモス政権との間で和平が成立し、一定の地域で一定の自治権が与えられる代わりに、MNLFは武装闘争を終止したが、これに納得しない強硬派のMILF(Moro Islamic Liberation Front)は、武装闘争を継続した。1998年成立のエストラ-ダ政権は、MILFを武力で掃討しようとしたが成功せず、2001年成立のアロヨ政権は、交渉で問題を解決する方針をとった。

2003年7月には、政府とMILFとの間で停戦合意が成立し、2004年10月には、停戦監視のための国際監視団(International Monitoring Team。IMT)が、ミンダナオ島中部のコタバト市を拠点として活動を開始した。これはマレ-シア、ブルネイ、リビアの兵士約六十名からなるものであった。
和平交渉は、MILFに強い影響力のあるマレ-シアを仲介役としKLで断続的に行われてきたところ、MILFも独立を要求している訳ではなく、MNLFが1996年に得た合意よりも広い地域で、より高度の自治を得ることを要求しているものである。

2.日本の基本的考え方と貢献
ミンダナオ島は、北海道と四国を合わせた面積を持ち、土地は肥沃で豊富な鉱物資源を有し、台風が来ないという良好な自然環境にある。よってミンダナオ和平問題の解決は、比全体の開発の遅延の解消に大きく寄与する可能性が高い。また、MILFの中の強硬派は、アブ・サヤフ等のテロリスト・グル-プと親密であり、この問題の解決不調は、テロ対策にも悪影響を与えるものである。 このような考え方から、2006年7月の麻生外相(当時)訪比の際に、我が国がミンダナオ支援に大きく踏み出す旨が表明された。
具体的には、上記一.の国際監視団に、2006年10月より、非イスラム国家として始めて参加することした。この国際監視団は、国連平和維持活動(PKO)ではなく、自衛隊員を送る余地がなかったので、JICAの専門家にマニラの日本大使館に出向して貰い、更にマニラから、復興支援の担当として現地の国際監視団に送ることとしたものである。最初は一名、現在は二名が活発に活動し、現地で高く評価されている。

また日本は、対比ODAの一環として、ミンダナオ島の元紛争地域に学校、給水施設、職業訓練センタ-を草の根無償の形で建設する協力等を開始し、これをJ-BIRD(Japan Bangsamoro Initiatives for Reconstruction and Development)と称して継続、強化している。紛争終了前からこのような復興支援を開始するのは、「平和構築外交」において新たな試みである。「BIRD」は、平和をよぶ「鳥」となるよう願いを込めて、担当大使館員が考えた略称である。Bangsamoroは「イスラムの人々・国家」という意味である。既に40以上の学校等が建設され、筆者も、完成式の際に訪問する等、現地を三回訪問した。

  • ambassador_with_milf_chairman_ibrahim2.JPGMILF最高指導者であるムラド議長と筆者

このうち初回は、2007年10月に行ったものであり、コタバト市近郊にあるMILFの本部も訪問し、最高指導者であるムラド議長に面会した。停戦ラインを越え、筆者等の身柄が政府側支配地域からMILF側支配地域に引き渡される際には緊張したが、MILF側も、日本の前記のような支援は高く評価しているので、丁重に迎えられ、ムラド議長からアロヨ大統領への伝言を預ったりした。日本大使館の代々の政務公使、担当書記官が、比政府とMILFの間の意思疎通の円滑化に貢献している。特に2008年夏以降、停戦が崩れ戦闘が再開され、数十万人の避難民が困難な状況に置かれた際には、日本大使館の担当公使、書記官が、停戦再開のために比政府とMILFの間で大きな役割を果たした。これが翌09年7月23日の停戦再開に繋がったと考えられる。

2009年12月には、政府とMILFの間の交渉が進展せず、オブザ-バ-のような形で交渉に助言するグル-プの結成が求められた。ICG(国際コンタクト・グル-プ。International Contact Group。)と称されることとなった同グル-プには、日本、英国、トルコ、サウディと幾つかのNGOが参加を求められた。
英国の場合は、北アイルランドの和平交渉の経験に基づいて参加が求められたものであるが、英国は、国際監視団(IMT)に人を出していた訳ではないし、J-BIRDのような復興支援に取り組んでいる訳でもない。
他方、米国や豪は、復興支援は行っているが、国際監視団に人を出している訳ではないし、ICGにも参加を求められていない。特に米国の場合、キリスト教の超大国であるので、IMTは勿論、ICGに入って来ることには抵抗が強いのであろう。

中国は、このミンダナオ和平問題には何ら貢献していないし、他の主要国も前記のような状況にある中で、国際監視団に人を出し、復興支援に積極的に取り組み、ICGにも参加しているのは日本だけである。筆者は、比各地で日本のODAで建設された道路、橋等の完成式にアロヨ大統領(当時)と出席する機会が多かったが、大統領は筆者の顔を見ると、よく、ミンダナオ和平への貢献に感謝すると言っていた。アキノ氏については、昨年五月の大統領選挙で当確となった直後に筆者が表敬して日比関係につき説明を行った際、この問題についての日本の貢献に触れたところ、そこまで協力してくれているのかと驚いていた。この8月、MILF側と東京近郊でトップ会談を行うことができ、日本への感謝の念を更に深めたものと推測される。なお筆者は4月末に離任したので、このトップ会談の設定には関わっていないが、秘密が漏れやすい比を相手として、実現翌日の発表まで、よく秘密が保たれたと感心している。

3.2008年夏の挫折とミンダナオ和平の今後
さて、トップ会談が行われたからといって、交渉が前進するとは限らない。筆者は、2008年夏にアロヨ政権下でMILFとの合意が成立し署名式がKLで行われる予定となった際、米国大使等とともに招待されたことがある。しかし外相、和平担当閣僚や我々を乗せた飛行機がマニラからKLに向っている最中に、マニラで最高裁が「本件合意は違憲のおそれあり」として翌日の署名を禁じる仮処分を決定してしまった。MILF側は強く反発し停戦が崩れた。米国大使や筆者がマニラに戻ると、多くの知人から「MILFに譲歩しすぎた合意内容を知っての上でKLでの署名式に立会いに行ったのか」と難詰された。「全人口の5%しか占めないイスラム教徒の、そのまた一部である強硬派のために、憲法改正が必要となる程の譲歩はしたくない」というのがキリスト教徒である有力者たちの自然な反応であることを痛感した。また高度の自治が与えられる地域に含まれてしまう市町村に住んでいる現地のキリスト教徒の反発や、これらキリスト教徒の出身地である比中部の政治家の反発も激しかった。

いずれにせよ、この時に署名されかかった合意より不利な合意は、MILFにとって受諾困難である。他方、政府にとっては、この時の合意と同様、又は、それ以上の譲歩は、最高裁から違憲とされる危険が高い。かくして交渉の早期進展は容易ではないと考えられる。
勿論交渉の前進が望ましいが、ボトム・ラインは、交渉が決裂せず、停戦が崩れないことである。日本としては、このための環境作りに資すべく、前記の三分野での貢献を忍耐強く継続していくことが肝要と考えられる。  (2011年10月24日寄稿)



『柔道は世界の無形文化財』 2011-10-24

『柔道は世界の無形文化財』 
   日本はもっと国際的「経営」意識を



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         元駐デンマーク大使 柔道6段 小川郷太郎


私は、大学でやっていた柔道を外務省入省後も続け、在勤地のフランス、フィリピン、旧ソ連、韓国、ハワイ、カンボジア、デンマークのいずれでも、稽古、試合、デモンストレーションなど様々な形を通じて柔道と関わってきた。退官した今も週1回程度ではあるが稽古を続ける一方で、ホームページを立ち上げてフランス語と英語で柔道に関する日本の考えや取組みを世界に発信するなど、「口技」にも手を出すようになった。それには訳がある。

若い頃は、結構辛い練習をやり遂げることに肉体的快感と精神の爽快感を覚えたりした。本省勤務時代にはまだ真っ暗な真冬の早朝に大学の寒稽古に通い現役の学生と一緒に汗を流したあと外務省に登庁すると、仕事にも「やるぞ」という闘志が漲ってきたものだった。数多くの怪我や体型の変更を伴う柔道を半世紀余り続けてきたことを振り返ると、やはり鍛錬を通じて、忍耐力や冷静さが身に付き、また、あまり外見や格好に拘らない質実を重んずる生活姿勢が養われた気もする。

mrogawa2.gif 若かりし頃の小川郷太郎氏(1969年フランス・ツール市にて)
海外勤務で気が付いたのは、柔道の世界への凄い浸透ぶりであった。世界で柔道が最も盛んな国であるフランスは、私が研修を始めた1969年の時点で全国どこに行ってもどんな小さな町にも道場があり、老若男女が稽古に励んでいた。ポルポト時代に柔道人口も壊滅的に減少したカンボジアでも2000年前ごろから柔道が復活し、青年海外協力隊員が指導に当たっていた。北欧の小さな国デンマークでも、片田舎に行った時でさえ武道を学び練習する多くの人々に出会った。世界の非常に多くの道場で柔道創始者である嘉納治五郎師範の写真や「精力善用」「自他共栄」の文字が正面に掲げられていて、小学生など小さな子供も練習の始めと終わりには正座して「先生に礼」という日本語の号令で礼儀正しく礼をする。
現在、国際柔道連盟(IJF)に加盟する国や地域の連盟数は国連加盟国数より大きい200を数える。アフリカも含め世界中に柔道が浸透しているのはなぜか?様々な国の人々と柔道を通じて交流してきた経験からすると、柔道の持つ、理に適ったダイナミックな技の魅力と礼節を含めた精神性に世界の人々が惹きつけられるからだと考えている。嘉納師範は体育と知育の両面を目的として柔道を創始した。フランスでは、大人たちが柔道を楽しんでいるが、その大人たちが自分の子供に規律や礼節を身につけさせようとして道場に子供たちを連れてくる。それが柔道人口の大きさにも繋がっている。

東北大震災の後、フランス柔道誌の L’Esprit du Judo は第1ページ全面に「我々は皆日本人だ」と題する異例の特別社説を掲げた。その中で、「柔道を通じて我々は日本に親近感を抱いている。(中略)日本は我々の一部であり、我々の日常や夢の一部である。我々は日本人と兄弟であり、彼らの苦しみは我々のものである。我々は皆日本人である。」と述べ、日本に同情と連帯のメッセージを送ってくれた。

judo2.gif「 2003年 日・カンボジア外交関係樹立50周年記念式典にて」

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また、かつてプーチン前ロシア大統領(現在首相)を単独インタビューした元NHK解説委員の小林和男氏によると、大統領が自邸にある道場に氏を招き入れ「柔道は日本の伝統と文化に根差す哲学である」旨述べて柔道への傾倒を熱く語ったそうである。世界にスポーツは数多くあるが、肉体と精神の修養を同等に重要視するものは殆どない。単なる格闘技とは違う、柔道の精神修養的側面こそ、世界の多くの人が「柔の道」に進む背景の重要な要素である。この意味で、柔道は「世界の無形文化財」と考えるべきものである。

柔道がこれだけ浸透したのは日本にとって喜ばしいことであるが、国際化に伴って柔道も当然ながら変化し、問題も生じてきた。ルールが変更を重ねて試合の内容も変わってきた。最近まで、足取りやタックルが増え一時は「ジャケットを着たレスリング」とまで揶揄されるに及んで、ルールが改定されてかなりまともな姿に戻ってきたが、まだ課題が残る。オリンピック以外に世界選手権が毎年行われるようになり、「世界ランキング制度」のもとで柔道の競技志向傾向が強まり、また、国際大会の様相にも商業主義的色彩が目につくようになって来た。その副次的結果として、勝った選手が派手なガッツポーズをするなど、選手の礼節が失われてきた。競技柔道志向の強まりに押されメダル獲得に注力するあまり、日本選手の行動にさえ礼節に欠ける面も出てきた。

国際化の過程でルール変更とか競技重視や商業主義の強まりによって柔道の本質的側面が損なわれる場合には、日本が主導的に各国とも協力してこれを本来の姿に戻すことが重要だ。しかしながら、柔道に関しては最も経験や知見を備えているはずの日本は国際的なルール作りや大会の運営方針についてこれまで主導権を発揮してこなかった。2007年のIJF の理事選挙では山下泰裕氏の再選が阻まれ、アジア柔道連盟の会長選挙では日本の候補者で柔道の実績、識見とも立派な佐藤宣践氏がクウェートの候補に完敗するなど、国際柔道界での選挙で日本は敗北が続いた。

日本のスポーツ界はおしなべて国際的発言力に欠けていると言われるが、少なくとも日本発祥の柔道についてはやはり日本が指導力を発揮してもらいたいものだ。本来の理念や特質を維持して柔道を発展させることが重要であり、それには日本の役割が極めて重要である。柔道衣や畳にも事欠きながらも柔道の精神的側面にも惹かれて世界の隅々で一生懸命稽古をしている貧しい国の何百万の柔道家たちの支援にも思いを致す必要がある。日本は、自国で始まり世界に発展している柔道の国際的「経営」に力を入れて関与すべきである。「世界の無形文化財」を適正に管理するのは日本の責任でもある。最後の海外勤務となってデンマークから帰国後、私は日本の柔道界に対し、国際的発信や行動の必要性を唱えてきたが、まだ大きな変化は見られない。

一昨年、Judo International : Voice of Japan というサイト( www.judo-voj.com )を立ち上げたのは、少しでも柔道に関する日本の考えを世界に発信したいとの思いからである。サイトを立ち上げてから徐々に各国から反応も出てきた。フランスの柔道誌はよく読んでくれて、同誌の1ページ大のコラムに毎回日本の立場から書くことを求められもした。今年の8月にパリの世界選手権を見に行ったとき、会場内を歩いていると多くの人から笑顔や声を掛けられた。柔道雑誌への私の寄稿が顔写真入りで行われているからだろう。フランス人の柔道への高い関心や日本の見解に関心がもたれていることを感じた。

本来の理念を生かして柔道を国際的に発展させていくには、同じ志を持つ世界の柔道関係団体とも連携していく必要がある。日本はメダルの数も大事だが、柔道の健全な発展のために柔道の国際的運営にもっと力を入れるべきだ。そのためには、ともすれば実績重視傾向のある柔道界に内外の多くの人材を加えて「オールジャパン」で国際的な発言力や行動力を強化してほしい。

 (2011年10月23日寄稿)



『国際的に注目されるロシア農業の動向』
         2011-10-3

『国際的に注目されるロシア農業の動向』



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道都大学名誉教授 元駐ソ連大使館参事官  柴崎 嘉之

1. はじめに
ロシアは、2010年8月15日から2011年6月まで、穀物の禁輸措置をとり、同年7月に解除した。ここでは、国際穀物市場に与える影響の大きいロシアの農業動向をみることとする。なお、主要な参考文献は「エコノミスト」(露文)(①)と「農工コンプレックス」(②)である。

2. 穀物禁輸とその解除
ロシア政府は、2010年8月15日から同年末まで穀物(小麦、大麦、ライムギ、トウモロコシ、小麦粉等)を禁輸すると発表した。その後、禁輸(小麦粉を除く)を2011年6月末まで延期した。しかし、2011年産の作柄回復により、同年7月からは、禁輸が解除された。
ロシアの穀物生産は、2008年に1億820万トン、2009年に9,710万トンと連続豊作の後で、2010年には6,100万トンへと大きく減産した。2010年は、130年の観測史上初めての暑く、雨の少ない天候のために、穀物の作付面積(4,800ヘクタール)のうち、25%が壊滅するという被害を受けた。このため、冬穀物、春穀物の種子不足が1,440万トン、飼料不足が1,330万トンと見込まれたことから禁輸措置に踏み切った(②10・9)。禁輸措置がなければ、家畜の大量と殺を余儀なくされたであろうとしている(①10・10)。
ロシアの禁輸措置は、世界的な穀物価格高騰の一因となったとみられる。ロシアの小麦は、安価で中東諸国で輸入されていた。小麦の輸入の半分がロシア産であったエジプトにおいて、トン当たりの食用小麦の価格は、2010年8月9日のフランス産が285ドルであったが、2010年7月のロシア産は184ドルであった。このような急激な小麦価格高騰は、「中東の春」をひきおこす原因のひとつとなったとも考えられる。禁輸後において、小麦のトン当たり価格は、ロシアにおいて、国際水準より100~120ドルも低かった。

3. 世界の穀物貿易の変化
旧ソ連は1987~91年の期間に、平均してネットで35,00万トンの穀物を輸入していたが、2009年には旧ソ連合せてて5,500万トン近い輸出をした。この違いは、往復で9,000万トンの穀物が世界市場に供給されたのに等しい。なお、2010/11年における世界の穀物貿易量は2億7,754万トンと見込まれている。
ロシアは2000年頃にはほとんど穀物の国際市場に登場していなかったのが、2005年以降穀物の輸出大国として出現した。スクルイニキ農相は、「長い年次においてロシアは初めて世界の食料市場でかなりのプレーヤーとなり、穀物輸出が2008年に2,400万トンと世界第三位の輸出国となった。今後10~15年のうちに穀物生産1億2,000万~1億2,500万トン、輸出3,000万~4,000万トンを安定的に行うことを可能にさせるであろう。」(①10・4)と述べている。
米国農務省は、2019年までに、世界の小麦の生産や貿易で大きな変化が起きると予測している。すなわち、第二次世界大戦以来世界最大の小麦の輸出国であった米国が、第一位の輸出国の地位を2019年までにロシアに譲り渡すと見込んでいる。
ロシアは、2008年および2009年には、北アフリカや中東向けに小麦の輸出量を著しく増加させるとともに、インドネシアやマレーシアにも輸出を開始するとともに、日本、韓国、ブラジルまで輸出することを視野に入れるようになった。
ロシアの穀物輸出増大の野心は、今回の禁輸によって試練を迎えたが、2011年の作柄好転により、2011年7月からは穀物輸出を再開することになった。

4. ロシアの農業生産動向
最近におけるロシアの穀物輸出増大の動きの背景には、改革年次において畜産部門が急激に縮小したため、飼料穀物の需要が減り、国内で余剰が生じたために、これを輸出しようとしたことがある。
対比価格でみたロシアの農業生産は、1990年を100とすると、1995年は66.9、2000年は60.7と大きく落ち込み、その後、回復に向かったものの2005年に68.1、2010年に71.3にとどまっている(①11・6)。

改革年次において、農業生産が低迷している理由を若干指摘しよう。
第一は、価格関係が農業にとって不利になっていることである。すなわち、1991年から2008年の間の上昇率は、農業生産物の販売価格が8,000倍だったのに対し、農業が必要とする生産物やサービスの価格が4万6,000倍となった(②10・4)。この結果、農業機械、化学肥料、農薬等の購入量は急減した。

第二は、農業に対する国家支援が急減したことである。現在価格水準でみて、連邦政府の農業・漁業向けの支出は、1989年において約1兆125億ルーブル(②10・4)だったのに対し、2010年には353億ルーブル(1,000億円)へと減少した。

第三は、農村インフラが未整備なことである。例えば、農業組織(2008年における平均規模は、播種面積が2,800ヘクタール、従業員128人)のうち、舗装された経営内道路を有していたのは47%にすぎなかった(②09・6)。
播種面積は、1990年の1億1,771万ヘクタールから2010年の7,484万ヘクタールへと4,252万ヘクタールも減少した。この減少面積は、ドイツ、フランス、イタリアの耕地面積を合わせたものに相当する。これらの耕作放棄地には、雑草、低木樹林などが繁茂し、病害虫の巣となっている(②10・5)。

家畜の頭羽数(年末)は、改革年次において、牛およびそのうちの乳牛の頭数は一貫して減少し、いまだに減少に歯止めがかかっていない。豚や家きんは、大きく減少したものの2005年以降は増加傾向にあり、羊・山羊も急減した後で、2006年以降は、ほぼ横ばいの状況にある。この結果、頭羽数は、1992年から2010年の間に、牛は61.7%減、うち、乳牛は56.4%減、豚は45.4%減、羊・山羊は57.6%減となり、家きんは、2009年までに33.9%減となっている。
食肉生産は、牛肉および子牛肉は、改革年次を通じて一貫して減少したのに対し、豚肉、家きん肉、山羊・羊肉は、減少の後、2005年以降は2010年までに、豚肉は47%増、家きん肉は約2倍、山羊・羊肉は22%増となった。この結果、2010年の1992年に対する生産の比率は、食肉全体で14%減、うち、牛肉および子牛肉が53%減、豚肉が17%減、羊・山羊肉が43%減に対し、家きん肉はほぼ2倍となった。
肉牛、豚、羊の飼料要求は、先進国の1.5~2倍(①09・4)となっているが、飼料が量的にも不足し、たんぱく不足など質てきにも問題があるためである。
2005年以降、生産が増加している養鶏部門は、専門企業に生産が集中し、家きん肉の87%、鶏卵の76%を占めている。ブロイラーは約3億羽の人工孵化の鶏および6,200万羽のハイブリッドのひなが輸入されている(②10・8)。同じく、2005年以降に増産が進む豚肉は、主として工業タイプの生産設備によって達成されている(②10・5)。なお、肉牛の生産性は、先進国の2分の1から3分の2と低い(①10・8)。

5. 深刻化する農村問題
 世界経済が示していることは、所得上位10%層と下位10%層の所得格差が1:10を超えると危機的な社会的緊張の状態にあるとされるが、ロシアは1990年に1:4.5だったのが、現在1:18である。なお、欧州連合は1:6である。
 農業組織の平均労働報酬(2010年には、月額で1万573ルーブル:3万133円)の国民経済全体に対する比率は、1990年の95%から2010年には49.9%に低下した。これは、燃料部門の23%、金融部門の22%にしかすぎない(②11・5)。
 2010年の農村住民の失業率は、10.8%で、都市部の住民の5.8%を大きく上回っている。全人口に対する農村人口の比率は27%なのに対し、農村に貧困者の42%が集中している(②11・6)。居住者100人以下の農村集落には商業や生活サービス(理髪等)の店舗のなく、移動販売車もやってこない。農村集落の約3分の1は、舗装した道路へのアクセスをもたない。(①11・4)。


6. おわりに
 世界での人口増加と途上国を中心に所得向上に伴う穀物需要の増大に対し、穀物生産を増大させる可能性の大きい国としてロシアが期待されている。ロシアに存在する4,200万ヘクタール超の耕作放棄地と自然条件の類似したカナダに比べ穀物の単位面積当たり収量は3分の2である(②11・4)ことから、作付けの増大、単位面積当たり収量の上昇の可能性がある。2006年の1人当たり穀物生産量は、欧州連合が550キログラム、ロシアが533キログラムであった。欧州連合は穀物と畜産物の主要な輸出地域であるのに対し、ロシアは穀物を輸出することはあるものの、畜産物は大量に輸入している(①10・12)。ロシアは穀物の利用効率を上昇させ、余剰を生み出す余地が大きい。
 ロシアの良好な営農条件にめぐまれた地域では穀物を中心に生産、加工、流通(輸出を含む)、販売などの垂直的な統合を図るホールデングが出現し、傘下の企業の機械・設備などの近代化投資を積極的に進め成果をあげているものがある(②10・12)。また、既にみたごとく、最近年次において効率的な養鶏工場や養豚コンプレックスの建設が進められている。
 ロシアが穀物輸出を推進していくためには、穀物の保管、輸送、港湾施設などの改善を必要としている。
 輸出が軌道にのり、その恩恵を穀作農民が受けることができ、穀物増産とその利用効率向上に積極的に取り組むようになれば、穀物の輸出大国になる可能性もあろう。豊凶変動、自国の利益優先の政策など不確定なありながらも、穀物輸出大国の地位を高める可能性もあるであろう。ロシアの今後の動向が注目される。 (9月27日寄稿)




『日本の近隣国との関係』2011-9-26

『日本の近隣国との関係』



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元国際情報局長、元駐イスラエル大使、元国際テロ対策担当大使 茂田 宏

国際情勢に関するをブログ「国際情報センター」を主宰。

日本の近隣国の国際法を含むルールへの姿勢〔領土問題を中心として〕

領土問題は国家の基本に関する問題であり、法と歴史に基づき正当な主張はこれを堅持していくべきである。安易な妥協は我々の前の世代、後の世代に対する責任を考えれば出来ない。 その上、わが国と領土問題を抱えている国々のしている主張は、歴史や国際法を含むルールに照らし、根拠薄弱といわざるを得ない。わが国の主張とこれらの国の主張は国際法を含むルールに照らして、等価値のものではない。そのことを認識することが必要であると考えているので、近隣諸国の国際法を含むルールへの姿勢についての私の感想を述べておきたい。

  • 1.  ロシア外務省は9月8日、玄葉外務大臣がロシアには北方領土を領有する『法的根拠』がないと述べたのに対し、遺憾の意を表明するとともに、「南クリル諸島は第2次大戦の結果としてわが国の一部になった。国際法的には、ヤルタ協定、ポツダム宣言、サンフランシスコ条約及び国連憲章第107条がある」と述べた。
  • このロシア外務省声明は、ロシアが北方領土問題について解決済みというブレジネフ時代の最強硬姿勢に立ち戻ったことを示している。 そもそも戦争の結果と言うものは平和条約により最終的に確定されるものである。そんなことは常識中の常識である。ヴェルサイユ条約の締結がないのに、第1次大戦の結果が決まるというようなことはない。第2次大戦についても同様である。日ロ間には、1945年から65年以上経つのに平和条約が結ばれていない。そしてその理由が両国間に領土についての係争があるからに他ならないことは、厳然たる事実である。 そういうことを無視して、第2次大戦の結果が出ているかのような言説は常識に反する主張である。
  • ソ連、ロシアもこの主張があまりに常識外れであるとの意識があるので、日ロ国境には未確定な部分があると述べたことがあるし、日ロ平和条約交渉の必要性を認めてきた。
  • ヤルタ協定について言うと、これは米英ソの首脳が、ソ連が対日参戦をする条件として秘密裏に、戦後処理の中で千島のソ連への引渡しと南樺太のソ連への返還を行うことを約束したものである。これは領土不拡大の宣言をしておきながら、日本の領土をソ連に併合させることを約束したものである。ある国の領土をその国の同意なしに処分する行為は、国際法に反する行為である。たとえば日米中が、ロシアの沿海州は1860年の北京条約と言う不平等条約でロシアに割譲されたものであるから、中国に返還すると約束した場合、ロシアはそれを認めるであろうか。不法な取り決めとして断罪するに決まっている。ヤルタ協定について、日本は当事国ではないから拘束されないという議論を日本側はして来たが、この協定の問題は上記のようにより根本的なところにある。 その上、戦後、冷戦が始まる中で、米国はヤルタ協定を実施することを拒否した。サンフランシスコ条約批准の際に、ダレス国務長官は上院で、米国はヤルタ協定を正式に拒否すると述べている。ソ連からすると、これは米国の裏切り行為に他ならない。しかしその結果として、ヤルタ協定ガ実施されなかったのは事実である。 ポツダム宣言について言うと、日本の領土は本州、北海道、九州、四国と「われら〔注:連合国〕の決定する諸小島」とするとされているが、主として冷戦が始まったがゆえに、連合国のここに言う決定は明確な形でなされなかったし、今なおなされていない。それがないから、領土問題があるのである。
  • サンフランシスコ条約について言うと、グロムイコはこの条約を採択した会議で、南樺太・千島を日本に放棄させるだけで、日本に南樺太、千島へのソ連の主権を認める義務を課していないと論難し、署名をせずに帰国した。南樺太、千島の問題が未解決であることをグロムイコは自身認めている。これら領土の帰属は未定である。ロシアは自分ガ署名していない条約を援用する権利はないし、更にサンフランシスコ条約は、署名しない国には条約から出てくる利益を与えないと明記している。日本の領土放棄に伴う利益も、ソ連・ロシアは主張できない。ロシアの南樺太、千島領有も国際法上の根拠を欠いている。
  • 国連憲章107条はいわゆる旧敵国条項であるが、その文言からして、ソ連の北方領土併合を合法化する効果などもちえない。 戦前、ロシア革命後、日ソは1925年に日ソ関係の基本法則に関する条約を締結し、国交正常化を行った。このとき、ソ連は南樺太を日本に割譲した日露戦争後のポーツマス条約について、否認はしないとしつつ、それについての政治的責任を負わないとの声明を出した。その後、スターリン、モロトフはポーツマス条約を否認する主張を行い、日本に南樺太を返還するように要求した。
  • さらに、平和裏の交渉で出来た千島・樺太交換条約で合法的に日本に帰属していた千島の返還を主張し続けた。これがヤルタ協定につながり、現在の北方領土問題につながっている。
  •  要するに条約を無視した要求を行い、なんら恥じなかった。それで終戦後、ドサクサにまぎれて千島を占領して、今に至っている。 ソ連崩壊後ロシアが成立し、国際法を尊重する国になったかと思ったが、このロシアもスターリン外交の戦果を保持することを対日外交の眼目としている。日本は北方領土について、国際法上日本に属することを主張して来たが、それを馬耳東風と聞き流し、今日に至っている。
  • ソ連は1946年2月に、樺太、千島、北方領土を併合する最高会議幹部会令を発出して、日本の領土を自国に併合した。戦争中に敵国の領土を占領することはあるし、そういう軍事占領は合法である。しかしそれを平和条約を待たずに併合するのは明らかに国際法違反である。赤軍は戦時中ベルリンを占領したが、併合などしていない。併合はあるとすれば、平和条約を通じてでしかありえない。
  •  私はこういう国に対しては、サンフランシスコ条約2条C(樺太・千島放棄条項)を度外視する主張を、日本としても展開していくことが最も適切である気さえする。
  • 日ロ間の領土問題は、よく言われるように4島か2島かの問題などではない。北方領土だけの問題でもない。4島の日本帰属を決めると共に、ロシアが法的な根拠なく占拠している千島、南樺太の帰属を決める問題である。
  • ロシアは国際法違反行為をすること、又はその違法行為の結果を保持することに、何のためらいも持たない国である。
  • 2.  中国政府は2011年版外交白書「中国外交 2011」に「釣魚島(注、:尖閣列島)は中国固有の領土であり、中国は争いのない主権を有している。日本側による中国の漁民と漁船に対する拘束や調査、司法措置は違法で無効であり、謝罪と賠償が必要である」と記述していると報じられている。
  • 9月22日、程永華駐日中国大使は、尖閣諸島付近で海洋活動を活発化している中国の動きについて、「釣魚島は中国の領土なので、中国の関係機関が色々と活動している。海洋進出の問題ではない」と述べたとされている。
  •  中国は過去において、尖閣諸島が日本領土であることを何度も認めている。1960年代の中国の公式地図にも日本領と記している。
  • 中国の尖閣諸島への領有権主張は、いわゆるエストッペル(禁反言:既に言ったことに矛盾する主張は認められないとの法の一般原則)だけでさえ認められないことである。然るに、そういうことは全く無視して、尖閣に対する領有権主張を、何の恥じらいもなく主張し続けている。
  •  北方領土問題については、1964年、毛沢東が佐々木更三社会党委員長〔当時〕に、ソ連は千島を日本に返すべしと述べた。その後、何度もソ連帝国主義批判のなかで、ソ連の千島占領はソ連の拡張主義の表れであると主張してきた。
  • 然るに昨年のメドヴェージェフ訪中の際には、核心的利益の相互支持は中露戦略的パートーナー関係の重要な一部であるとして、これまでの立場を変え、ロシアの北方領土に対する主張を支持する姿勢を明らかにした。
  •  中国は前言を尊重しない国であると断じざるを得ない。
  • 日中関係を「戦略的互恵」にするとの共同声明での文言や、日中平和友好条約にある「覇権反対条項」を、中国が尊重すると考えるのは間違っているだろうし、それを対中政策の基本におくことは間違いにつながるだろう。
  •  要するに、その時々の都合で中国は前言や条約の規定をいつでも平気で反故にする、あるいは反故にするに等しい主張をする国である。
  • 3. 中露の今の政権は、国内でも法の支配からは程遠い政治をしている。国際的な場で、同じ傾向を示すのはある意味で当然であろうかとも思われる。
  • 韓国は民主化された国で、法の支配もそれなりに確立している。
  • しかるに竹島については、日本が国際司法裁判所への提訴を求めても応じず、竹島は日本の朝鮮侵略の第1歩であったとの事実に裏付けられない議論を振り回している。
  • 韓国はサンフランシスコ講和条約で、日本の領域から外される地域に竹島を入れるように米に要求した。しかし米は調査後、竹島は日本領土であるとした。このような経緯、歴史を全く無視している。
  • 当時、米は朝鮮戦争中であったこともあり、李承晩政権に極めて好意的であった。韓国はサンフランシスコ条約に戦勝国として署名したいという要望を米にした。ダレスはそれに好意的な配慮をしようとまでした。英がいくらなんでもそれはないだろうと主張してそうはならなかった。そのときに韓国は、波浪島という島も自国領にすることを要求したが、米が調べて見たら、そんな島はどこにもなかった。
  • 韓国との関係では、朴大統領時代に金大中拉致事件があった。主権侵害ではないかと抗議したら、35年間主権を侵害しておきながら、何をいうのかと反論してきた。
  • 歴史問題を理由に、自分の国際法違反を正当化しようとする行為であった。竹島についても、おなじ傾向がある。
  • 4.  北朝鮮の国際法無視については、もう論じる必要もない。
  • 5.  日本は、国際的なルールや法を尊重しない諸国に囲まれている。そのことを今一度、認識することが必要である。
  • 憲法前文にいう『諸国民の公正と信義』は、ここでは存在しないのではないかと考えざるを得ない。
  •  私はもちろん近隣諸国との関係の改善を切望している。しかし前に言ったことを翻して恥じないことや、国際法やルールを無視してくることに対しては、厳しく対応していくことが必要であり、それが東アジアの情勢の健全化に役立つと信じている。
  • また、こういうルールを尊重しない国に対しては、力のバランスをわが方に不利なように変えさせてはならないし、変えさせないことが平和を維持することになると考えている。
  • 東アジア共同体を共通の価値観ではなくとも、ルールに基づくものとして構築しうるのではないかとの議論があるが、日本の近隣諸国には未だルール尊重の気持ちに欠けるところがある。

(9月24日寄稿)

『体験的アフリカ協力論2011-9-14

『体験的アフリカ協力論』



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        前ウガンダ大使 加藤圭一

1.歴史に翻弄されたアフリカ
 アフリカの人々は、元来、農耕、牧畜を生業とした部族社会を形成し、自給自足の生活を営んできた。その後、植民地支配、1950年代から70年代にかけて殆どの国が独立を果たしたものの、東西冷戦に巻き込まれ、今またグローバル化された世界の中で生きていかなければならないという大きな変化と挑戦の時代にさしかかっている。部族社会の運営経験はあっても異なる部族を国民とする国家の運営経験を有せず、独立を果たして国家として国際社会にデビューしても紛争、独裁政権、度重なるクーデター、腐敗、更には蔓延するエイズ等の感染症などが重なり開発にも暗い影を落としてきた。
21世紀初頭(2004年)のアフリカは、人口が8.762億人で全世界の13.8%、国数が53カ国で28%、面積が3,000万平方キロで22.4%、GDPは9,260億ドルで2.1%、輸出額が2,645.41億ドル3%、輸入額は2,454.85億ドルで2.7%、ODAは821.3343億ドルで30.1%、HIV/AID感染者数は2,490万人で64.5%、難民・避難民は486万人で25%などとなっており、一日1ドル未満で生活する人が全人口の46%にも達していている。

2.アフリカの時代へ向けて
アフリカは、本年7月に新たに独立した南スーダンを含め54の国家があるもののナイジェリアなどのごく限られた国を除けば人口が数百万人から数千万人といった国々が殆どで市場規模が限られている。過度な首都への人口と富と近代化の集中、貧しく・安全な水・基本的な医療へのアクセスもままならない農村社会の地方、近代的な交換経済と自給自足経済が混在し、一部の資源国を除けば基本的には農業が主要な産業となっている。多くのアフリカ諸国の経済基盤である一次産品の国際価格は概ね低水準にあり貿易収支は恒常的に赤字となっている。外国企業はアフリカに投資するにはリスクが大きいとして投資を控え、民間資本に変わる資金源として援助に依存せざるをえないといった現実に直面している。貿易と投資、これらを補完する援助が程よいバランスで援助が国家発展の触媒として機能したアジアのモデルは、アフリカの現状に照らして明らかに異なる対応を求められていることに気づかされる。 それでもアフリカは、アフリカ連合(AU)を中心とした政治的な統合、東アフリカ共同体(EAC)などに見られる地域の経済連携の動きの加速、複数政党制による選挙を通じた民主化の進展、ソマリアなど依然として紛争が続いているものの、多くの地域や国内で平和と安全の取り組みが進んでいること、域内の貿易の活発化、2050年には10億人を超え世界人口の20%にも達すると推定され潜在的な巨大市場となる等その歩みは遅いものの着実に国際社会における存在感を増してきている。

3.ウガンダの歩み
(1)1962年に独立、以来、政治・経済的な混乱を経て、1986年にムセベニ現大統領が
   政権を掌握して世界銀行・IMFの構造調整を受け入れ適切・堅実な経済政策を
   実施して、この25年間6-6.5%、最近の5年間は年平均8%以上の経済成長を続け
   マクロ経済は安定している。2009年の政府統計によればGDPが162億ドル、一人
   当たり国民総所得460ドル、外貨準備24億ドル、貧困率31.5%、基礎教育の充実、
   安全な水へのアクセスの向上など着実な成果を挙げると共に、20年来の懸案で
   あった北部の治安も回復して復旧・復興がはじまっている。1997年、貧困と不公平
   の削減、人的資源開発の改善、経済成長を目指す貧困削減行動計画(PEAP)を
   策定、2000年及び2004年にそれぞれ改定を行って貧困削減を更に加速させること
   にした。2010年には、海外からの投資を呼び込み持続的な経済成長を通じた貧困
   削減を目指して、民間主導型の成長と雇用創出に重点を置いて社会・経済変革を
   図ることを骨子とする新たな中期国家開発計画(NDP:2010-2015)を策定して実
   施に移している。2009/2010年の国際社会からの援助は7.818億ドル、国家予算に
   対する援助比率は27%、EU、英国等のヨーロッパ諸国が主体の財政支援は48.7%
   となっている。2008/2009年の主要な援助国・機関は世界銀行(2.66億ドル)、EU
   (2.06億ドル)、米国(1.42億ドル)、英国(1.23億ドル)、アフリカ開発銀行
   (1.05億ドル)、中国(86.4百万ドル)、アイルランド(79.3百万ドル)、デンマーク
   (61.8百万ドル)、オランダ(56.9百万ドル)、日本(51.8百万ドル)などとなって
   いて、アフリカではエティオピア、スーダン、タンザニア、モザンビークに次いで
   5番目の援助受取国となっている。欧米諸国はウガンダを大湖地域の政治・経済的
   安定の要と位置づけている。世界銀行は水力発電所などのインフラ、教育、保健
   医療、業などに、EUは道路整備などのインフラ、農業、法整備などに、米国は
   エイズ、マラリア対策などの保健医療分野に、英国は教育、法整備、民主化支援
   などを重点分野として支援を行っていて援助協調の最も進んでいる国ともなって
   いる。日本はウガンダの国家開発計画の優先度の高い、理数科教育・学校の整
   備などの教育・人材育成、農業(ネリカ米の普及)、病院建設などの保健医療、地方
   電化、北部国内避難民支援、道路、橋梁、送電網整備などのインフラ、100名を
   超える青年海外協力隊員が地方に派遣され村落開発などの分野で活動するなど
   幅広い支援を行っている。
   過日、西部地域で行われた地方電化プロジェクト(電化率は12%であるが、地方の
   電化率は4%で、電気を供給する為の電柱・電線を敷設するもの)プロジェクト
   の引渡し式典に出席したところ、電気のひかれる村々から大勢の人々が駆けつけ、
   「私たちはこの工事が始まってからずっとその模様を目のあたりにしてきた。
   日本から来た技術者はウガンダの人々と共に汗を流し、我々の声にも耳を傾けて
   くれ、予定よりも早く工事が終了した。この地域には道が通じるところまで開発の手
   がさしのべられるという言い伝えがある。今まではケロシン・ランプを使っていたが
   電気が通じれば子供達が夜に本を読むことが出来るなど生活の質が変わる、明日
   への希望の光を遠くのアジアから来た日本人がもたらしてくれた」と語ってくれた
   言葉が印象的であった。このように、アフリカ諸国のオーナーシップを尊重し、経験
   や技術をアフリカの人々に移転すること、常にアフリカの人々と同じ目線で現場で
   共に汗を流すなど欧米諸国とは一味違う日本の援助に対する評価は高いものが
   ある。 インド及び中国もウガンダにおいては他のアフリカ諸国同様に大きな存在
   である。実質的にウガンダ経済を支配し、アミン元大統領時代(1971年-79年)
   に追放された6万人ともいわれたインド人移住者は、3万人ほどが帰還し、現在
   では砂糖やお茶の大規模なプランテーションを所有し、卸小売業などの流通を
   事実上支配してインド本国からの投資も増大している。在住中国人は、2500-3500
   人と言われているが、建設業、電気通信、卸小売業、最近では石油事業、金融部
   門にも進出している。また、中国とアフリカ諸国との協力の一環として2009年に
   7,600万ドルの援助を表明して学校建設、病院建設、農業協力、インフラ整備事業
   などを行っている。
(2)ウガンダは、独立後の政治・経済の混乱をこの25年間で漸くにして解消し、国家
   開発の第二の出発点に立っている。投資環境整備のための道路、鉄道、電力な
   どのインフラ整備、インフレ抑制、国家歳入の多角化、財政赤字の削減、マイクロ
   ファイナンスの普及、民間投資の促進、輸出の多様化、EACや近隣諸国との経済
   連携の強化、西部地域で発見された石油(現在の推定埋蔵量は25億バーレル、
   日産10万バーレルで未開発地域の探査が進めば更なる埋蔵量の増が見込まれ
   ている)収入の有効活用などを通じて民間主導・輸出主導型の持続的な経済成長
   を目指している。各援助国・機関ともこのような政府の政策を後押しする支援を活発
   化させている。課題は、年率3.3%と世界最高水準にある人口増加率(毎年約100万
   人ずつの人口増)、主要生産品である一次産品(農産品)の生産性向上、農業に付
   加価値をつけて農家所得の向上を図ること、青年層の雇用確保などである。
   ここ数年、EAC諸国のみならず、コンゴ(民)東部、南スーダンを含む国境貿易が
   急激な伸びを見せており、アフリカでも数少ない食糧自給国として周辺国に対する
   食糧の供給拠点ともなっている。
(3)最近でこそ石油が発見されたものの、めぼしい資源も有しない小国ウガンダが何故
   堅実な発展を遂げることが出来たのか、その背景にあるのは何なのか、いくつか
   気付きの点をあげてみたい。かねてより、ムセベニ大統領は、アフリカの弱点は、
   天然資源の輸出依存と技術力の弱さ、政治的な混乱による市場拡大の限界、政治
   的・経済的な統合力のなさに起因する国際交渉力の脆弱さ、民間セクターへの投
   資の少なさ、そして、文化的な分断にある。アフリカが21世紀の国際社会の中で
   生きていく為には、地域の政治経済的な統合、インフラの整備、政策・法律の整備・
   調和化、人材育成、人・物・金の自由化、科学技術の振興、地域紛争・テロなどに
   対する防衛の強化などを通じた政治・経済・安全保障が重要であると説いてきた。
   農産物価格の自由化、輸出品の公社による独占廃止、国営企業の民営化、公共
   部門の縮小、万人の為の教育政策(初・中等教育の強化)、基礎医療の強化、万人
   の繁栄政策を通じた地方農民の所得向上、地方向けマイクロファイナンスの創設、
   投資環境整備のためのインフラ整備、北部ウガンダの紛争に終止符を打ち復旧・
   復興計画を策定・実施、人口約1.2億人を擁する東アフリカ共同体(EAC)の関税
   同盟の導入、共通市場などを通じた政策を国民に明示し、強力なリーダーシップの
   下で実施に移してきた経緯がある。このような一連のウガンダの歩みを通じて見え
   てくることは、第一に、北部地域で反政府組織「神の抵抗軍(LRA)」の活動に
   よって国内紛争の被害を受け約180万人にも及ぶ国内避難民の大部分が帰還し
   て勢が改善し全土に平和が到来したこと、第二に、この25年間政治が安定し
   大統の強いリーダーシップのもと重要政策が次々と実施に移されたこと、第三
   に、貧困削減行動計画(PEAP)や中期国家開発計画(NDP)が策定され実施
   されていること、そして、これら政策の実施を担う人材もある程度育ってきている
   こと、第四に、累次にわたる大統領・議会・地方選挙を通じて国民の支持を得て
   きたことがあげられる。

4.おわりに
アフリカは、市場経済、民主主義、基本的人権などを共通の価値観とする今日的な国際社会に遅れて登場してきたが、それぞれ状況は異なるものの、ウガンダの例で見られるように、①平和・安全、②政治的な安定・強力なリーダーシップ、③適切な開発計画と人材及び④国民の支持といった一定の要件がそろえば、発展が著しい諸国に加えて、次なる国々が続く可能性を秘めている。
アフリカにおける協力の基本は、アフリカの人々が持続的な経済成長を通じた貧困削減に取り組めるような環境整備を支援すること、具体的には、紛争の予防・終結、民主化支援、法の支配の確立、人材の育成、教育・保健医療・農業の効率化等それぞれの国の実情に応じて行われることにある。

 (9月5日寄稿)



『サイバー戦争」は戦争か 2011-9-8

『「サイバー戦争」は戦争か』






           国連代表部公使  前情報通信課長 中前隆博


最近「サイバー戦争」という言葉をよく見かけますが、コンピューターが近年どういう形で国際政治や安全保障に結びつけられるようになったのか大雑把ながらまとめてみたいと思います。なお本稿の中で主観的な記述にわたる部分は私の個人的な意見です。

歴史
 他人のコンピューターに侵入しその機能に障害をもたらす行為は、パソコンがインターネットに接続して使われるようになった1990年代前半からみられました。その頃は他人の機器を壊したりデータを消したりする「愉快犯」が中心でしたが、やがて企業のネットワークから営業データや個人情報などを盗み出すなどして不正な経済的利得をねらう、経済犯罪の手段にもなりました。

 国際関係に連動して大規模に展開され世界的な関心を呼んだのは、2007年5月エストニアの政府や銀行のサイトが攻撃を受けたケースです。これは、エストニアの旧ソ連兵顕彰碑を移動する計画に反感をもったロシア系の人々が、ロシア人ハッカーの支援を受け約3週間にわたり攻撃を行ったとされています。また、2008年、グルジアとロシアが対立した際に、グルジアの政府のサイトが多数の攻撃を受けました。特に、大統領府のサイトが改ざんされ、サーカシビリ大統領の画像がヒトラーと並べて掲載されるようなことがありました。

 高度さと規模の大きさで世界の耳目を引いたのは、2009年 7月に韓国と米国の政府機関に行われた攻撃です。この場合、攻撃者はあらかじめ韓国内の不特定多数の個人用コンピューターにウイルスを埋め込み、自らの思い通りに動くロボットのように支配しておきます(これをボット化と呼びます)。その上で、指定した日時に特定のサイトに対して一斉に通信を行わせる(一秒に数十万回)ことで、攻撃対象のシステムをいわばパンク状態にしてしまうものです(一般にDDoS攻撃(Distributed Denial of Service)と呼ばれます)。

 コンピューターの侵害行為が社会的に大きなインパクトを持つようになった背景には、「情報処理・管理」と「通信」の一体化がすすみ、かつこれが日々の生活に不可欠な道具として普及してきたことが重要です。今日人々はLANの中に蓄積したデータやインターネット上の様々な知識を使いながら文書を作成したり取引したりします。サイバー上の脅威は、毎日の仕事や生活が情報通信技術なしでは成り立たない経済・社会インフラの変貌を前提に増大してきたものと見ることが大切です。

 しかし、これらの侵入行為や情報窃取が「サイバー戦争」と呼ばれることはあったものの、実体上の「戦争」として認識するには抵抗感があったようです。
 まず、主体の問題があります。これまでのケースでは攻撃を仕掛けたのは個人またはその集団で、背後に国家の関与や支援が疑われる場合も、名指しされた国はこれを否定しています。また、これまでのケースはいずれも単発的で比較的短期間のもので、軍による組織的で継続的な作戦・戦闘行為と同視することは困難でしょう。また、確かに政府や主要企業のサイトが一時的に止まったり内容が改ざんされたりすれば社会的な影響は認められますが、少なくとも経済を破壊したり人命を奪ったりするものとまでは考えられません。むしろ「サイバー暴徒であり騒々しい示威活動」(ルイスCSIS技術公共政策部長)という認識が主流だったといえます。
 しかし、過去2年ほどの間に関係者の認識は大きく変容を余儀なくされてきました。

中国に対する注目
 国際政治上の動機によるサイバー侵害や情報窃取が中国を発信地として行われたとされる例は以前から指摘されてきました。最近では、尖閣諸島をめぐって日中間の緊張が高まる中、中国のハッカーグループの呼びかけで日本の政府や団体のサイトに改ざんなどの攻撃がありました。大抵は侵入者の発信元や情報流出先の割り出しから中国の関与が疑われますが、個人の行為によるものであるのか、政府の後ろ盾があるものかについては明らかになりません。
 そういう中で、2009年10月、米議会の米中経済安全保障委員会に「中国のサイバー戦およびコンピューター侵害遂行能力」という報告書が提出されました。この報告書は、中国が軍事上の目的を実現する手段としてサイバー空間を利用する意思と体制を持ち、具体的な作戦行動が実施されつつあることを88ページにわたって具体的、実証的に示したもので、国際的に大きな注目を集めました。

  特に注目される点を抜粋すると以下の通りです。

  • 中国人民解放軍は「統合ネットワーク電子戦」と銘打った
  •   戦略を策定し、総参謀部第3部がネットワーク防衛と諜報、 
  •   第4部がネットワーク攻撃と電子戦を担当。
  • 同戦略は、紛争の初期段階の作戦あるいは先制措置とし
  •  て、敵の指揮命令・情報などのネットワークを攻撃するもの。
  • 米国との紛争が生じた場合、米国防総省の非機密系 
  •  (unclassified)ネットワークや補給業務に従事する民間
  •  業者のシステムなどが優先的な標的となる。その目的は
  •  米軍の展開の遅延と戦域に駐在する部隊の機能低下で
  •  ある。
  • 中国が米国の保秘ネットワークを攻撃する場合、その目的は
  •  暗号通信の解読よりもその妨害である可能性が高い。
  •  これに対して中国外務省は、この報告は「ねつ造」であり
  •  「冷戦思考に基づくもの」であると厳しく批判しています。

米国の対応
2009年5月、オバマ大統領はサイバーセキュリティに関する政策スピーチを行い、サイバー上の脅威を「国が直面する経済上、国家安全保障上もっとも深刻な課題のひとつ」としました。その上で、同年12月にはサイバーセキュリティ調整官を指名し、また、翌年米軍中央司令部にサイバー・コマンド(US Cyber Command)が設置されました。

 2010年8月、リン国防副長官は「フォーリン・アフェアーズ」に論文を発表し、その中でサイバー空間を陸、海、空、宇宙に次ぐ新たな戦争領域であると規定しつつ、「サイバー戦争」の特徴について以下を指摘しています。

  • 非対称性。少数の個人が全米のシステムを脅かし得る。
  •   高額の武器は不要。
  • 攻撃側に圧倒的に有利。インターネットでは安全確保や
  •  個人情報管理の優先度は低い。
  • 確証破壊理論に基づく抑止は機能しない。まず攻撃元の
  •  特定が困難。また攻撃のコスト引き上げでは抑止は不可能。
  • サイバー脅威の対象は軍事目標に限らない。電力、交通、
  •  金融も含まれる。これらは米軍の展開に不可欠なインフラ。
  •  さらに2011年7月、米国防省は「サイバー空間での展開戦略」
  •  を発表し、①サイバー空間を(軍の)展開領域とする、②国防
  •  省の情報通信を保護するための新たな運用コンセプトの採
  •  用、③国内官民との連携、④同盟国等との関係強化、
  •  ⑤体制整備と技術革新、という5つの戦略方針を打ち
  •  出しました。

破壊兵器としてのコンピューター
サイバー攻撃は人命を奪ったり軍事標的を直接破壊したりすることはないという従来の見方を大きく覆すことになったのが、スタックスネット(Stuxnet)の一件です。
スタックスネットはコンピューターウイルスの一つです。2010年6月に発見されました。
当初これの正体は不明でしたが、9月になって、イラン政府は核開発施設が未知のウイルスに汚染されたことを発表しました。その後イラン自身は認めていませんが、ナタンズにあるウラン濃縮プラントの遠心分離機が機能障害を起こし、その原因がこのスタックスネットであることが次第に明らかになりました。
スタックスネットは、これまでのウイルスに比べ格段に複雑で高度な機能を持ちその全容は明らかではありませんが、USBメモリなどを媒介として目標施設のネットワーク(LAN)を経由して制御システムに感染し、遠心分離機のモーターを撹乱、誤作動させるとされています。
しかもこれは、特定の対象(この場合、イランの核施設に設置されたシーメンス社製の遠心分離機制御システム)のみに働くことが特徴です。これによってイランの核開発計画は少なくとも数年の遅延を余儀なくされたとも言われています。
このスタックスネットでは2つの点で大きな飛躍があります。一つは、インターネットに接続されない閉鎖系ネットワークを狙ってくること、もう一つは、その目的が情報資産の攪乱や窃取などではなく、プラントを動かす制御システムの破壊であることです。
スタックスネットは、その作成にきわめて高度な技術を必要とし、攻撃対象の詳細な情報の収集と莫大な開発資金が必要であることから、個人やハッカー集団が開発することは不可能といわれます。どこかの国の政府が作成したものと強く疑われている所以です。
今日、各国の政府機関や軍がスタックスネットの研究にしのぎを削っていると想像されます。もしもこれに類似のウイルスが、原子力発電、航空管制、高速鉄道などの制御システムを攪乱し、機能障害を起こすことに成功すれば、これは事実上これらの施設を爆撃することと類似の軍事的効果が期待されます。スタックスネットはサイバーセキュリティの考え方を根本的に変えた、とされるのもこのためです。

「サイバー戦争」と国際法
「サイバー」が戦闘行為の手段として相当現実的なものとなる中、果たして国際法は「サイバー戦争」を規律できるのか、ということが問題になります。
この点についての議論はまだごく初歩的な段階ですが、2010年に英王立国際問題研究所のヒュー研究員がある程度踏み込んだ検討を試みています。「サイバー戦争」を従来型の武器による武力行使と比較する観点からはなかなか興味深いので、以下に概要をご紹介します。

  1. 現時点ではサイバー戦は大抵「非正規戦(irregular warfare)」と認識され、戦時国際法の適用についてはコンセンサスがない。既存の国際法における「武器の使用」で規律することは困難。
  2. 軍事的必要性の原則(military necessity)では、直接戦争活動に寄与しない民間人や民間財産は、これを攻撃しても軍事的優勢を確保することは期待されないから、故意の攻撃の対象にはならないとされる。しかしサイバー戦においては、通信施設の軍事・民事目的の区別が非常に困難。その結果民間の情報インフラが敵対行為の対象となる可能性が高い。
  3. 現行の国際法では、区別原則(distinction)により戦闘員と非戦闘員は区別される。しかし、ネットワーク上の攻撃は遠隔の地から隠密要員により行われることが多い。攻撃者が非戦闘員、民間人である場合、この原則の適用が更に難しくなる。
  4. 均衡性の原則(proportionality)は軍事目標達成に必要な程度を超える武力の使用を禁ずる。しかし数千マイルの遠隔地からエネルギー網や通信網に対し行なわれるサイバー攻撃での軍事的成果は不明確である。
  5. 無差別兵器(indiscriminate weapons)の禁止との関連では、例えば、公共のウェブサイトに埋め込まれた悪質なコードによる被害が戦闘員よりも非戦闘員に対して大きい場合、無差別兵器の使用と判断されうる。しかし何がサイバー兵器であるかについてのコンセンサスが殆どない現状では、この原則の適用が意味のあるものとすることには困難がある。
  6. 法的な保護施設と歴史上認められたもの(赤十字、赤新月など)に対する攻撃は規制され、軍がこの識別を悪用することは背信行為(perfidy)として禁じられる。サイバー空間では軍の補給システムに民間の商標を使ったり指揮命令の伝達に学界ネットワークを利用したりするような場合がこれにあたる。病院や学校などのシステムはサイバー攻撃の対象となることを回避するよう明確に識別される必要がある。
  7. 境界のない空間におけるサイバー戦においては領土に密接に関係する中立(neutrality)の適用はきわめて困難である。

結び
「サイバー攻撃」とその防御においては、技術的なイタチごっこが延々と続きます。そのなかで、ふと、不用意に外から持ってきたUSBメモリを差し込む、ウェブで不適切なサイトを閲覧する、受け取ったメールを無分別に開く、などといった行為が、システム全体を壊す原因になります。またこのことは、個人のパソコンの使用においても何ら変わりません。注意を怠ると「ボット化」されて、サイバー攻撃の片棒を担ぐことになるからです。
サイバー空間においても、あるいはそこにおいてこそ、個々人の「防衛意識」というのが重要、ということのようです。


『日本のアフリカ農業支援二題(その2)』
     2011-8-18

『日本のアフリカ農業支援二題(その2)』



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        元国連大使、JICA副理事長  大島  賢三

― 日本・ブラジル・モザンビークの三角協力 ―


前号では、日本がアフリカの食料安全保障のため稲作振興に着目し、国際機関などを巻き込んで「コメ生産10年倍増」に向けたイニシアティブ( CARD )をスタートさせた取り組みを紹介した。本号では、東南アフリカのモザンビークで、日本とブラジルが組んで大掛かりな「三角協力」型の農業協力を始めようとしていることを取り上げたい。


セラード農業開発
 この背景には、日伯間の「セラード農業開発」がある。ブラジルに勤務経験のある人や農業関係の開発協力に携わった人には、「セラード農業開発」は、なじみのある言葉であろう。首都ブラジリアを中心にブラジル中西部に広がる“Cerrado”と呼ばれる地域は、面積にして207万ha(国土の24%、日本の5.5倍)に及ぶ広大な熱帯サバンナ地帯である。ポルトガル語で「閉ざされた、密集した」という意味合いのこの地域は、灌木林など特殊な植生が覆い、強酸性土壌で、農業には不向きの「不毛の地」とされていた。
 今日、最大の農産物貿易黒字額を計上し「世界最強の農業国」の地位を誇っているのはアメリカではなく、ブラジルである。国運FAO統計(2007年)によれば、意外にも「世界のブレッド・バスケット」アメリカは4位(180億ドル)で、ブラジル(369億ドル)の約半分にすぎない。ちなみに、同統計によれば、日本はランキング最下位で(184位、輸入超437億ドル)、中国よりも赤字額は大きい(182位、同270億ドル)。
 しかし、そのブラジルも約半世紀前には「飢餓社会」を抱えていた。それが今日の有数の農業国へと大変貌を遂げたのが、1970年代半ばからの農業の急速な発展であり、その中心が「セラード開発」であった。そして、日本はこのセラード農業開発に20余年に亘って技術協力と資金協力を投じ、少なからぬ貢献をしたのである。「緑の革命」の最大の功労者とされ、ノーベル平和賞を受賞した故ノーマン・ボーローグ博士(米国)は、セラード農業開発は「20世紀農学史上最大の偉業の1つ」と絶賛を惜しまなかった。最近の英誌エコノミストは、世界の食料価格高騰のコンテクストでブラジル農業の発展を特集し、「セラードの奇跡」を称賛した(ただし、この記事では、遺憾ながら日本の貢献のことに触れられることはなかった)。


大豆禁輸のショック
 日本がブラジルのセラードに関心を寄せる直接のきっかけとなったのは、1973年のアメリカによる大豆禁輸措置である。第1次オイルショックのあおりで禁輸措置が取られると、大豆など穀物輸入先をほぼアメリカ一国に依存していた日本は大きな衝撃を受け、食料輸入先の多角化、開発輸入、食料安全保障といった議論が本格化した。こうした中で、セラード地帯が大豆の供給基地になりうるとの期待が高まり、農水省を中心に対ブラジル農業協力事業の構想が生まれたのである。

 そして、1974年、ブラジルを訪問した田中角栄総理とガイゼル大統領との共同発表を契機に、両国政府間でセラード農業開発事業の実現に向けて検討が始まり、基本構想が固まっていった。すなわち、この事業はODAとして、①ブラジル国内の地域開発(地域益)への貢献となる、②世界の食料供給増大(国際益)にかなう、③日本の食料安全保障(国益)にもなるという3つの“win”である。


日本の貢献
 その上で、事業具体化のため、(a)技術協力と(b)資金協力を「車の両輪」として組み合わせ、今日では「プログラム・アプローチ」と称される総合的な協力計画へと進んだ。一方、この時期(1970年代半ば)、ブラジル政府は農業開発に向けて「セラード農牧研究所、CPAC」を創設したほか、農業金融制度を整え、社会・経済インフラ(道路、農村電化、港湾、貯蔵施設など) の充実に着手する。このブラジル側の努力に呼応して、日本は1977年に始まった(a)の技術協力で、CPACへの支援として研究機材を潤沢に供与し、人材育成を通してその研究能力向上に多大な貢献をした。これによりセラード農業に係る研究論文は飛躍的に増加し、CPACは一流の研究機関へと発展した。温帯原産である大豆の熱帯性品種が育種され、また土壌改良技術、各種作物の栽培技術、環保全技術が向上する。
 そして5年の準備期間を経て、1979年には(b)の資金協力(日伯セラード農業開発協力―PRODECER)も始まった。その後、22年間にわたり684億円が投入され、8つの州において21もの入植地の造成が進められた。この成果そのものは、ブラジル側が4半世紀にセラード地帯において新たに耕地化した全体面積約1000万haの3.5%に過ぎないが、その規模が示唆する以上に、事業地が開発拠点として周辺地域農地造成の先導役となり大きな開発インパクをもたらした。さらにPRODECERの開発方式は環境保全にも大きく寄与したと評価されている。


日系人の活躍
 セラード開発の初期過程で忘れてならないのが、日系人社会の果たした役割である。早くも1973年、日系のコチア産業組合がミナス・ジェライス州と共同で入植地事業を計画し、これがセラード農業開発の嚆矢となった。翌年にコチア農業協同組合員89名により、「無謀としか言いようのない」未開地への集団入植が始まり、数々の困難を乗り越えながら24000haの造成など、「特筆すべき大計画」への取り組みが進んだ。

 こうして1990年代になるとセラード農業開発は軌道に乗り発展期を迎える。その農学上のリスクは大幅に軽減されて民間(農家、アグリビジネス)の進出が促進され、農業生産量と輸出量が急速に増大し、営農形態や作物も多様化、農産加工業の進出も盛んになって今日へと至っている。

 セラード開発の牽引車となったのが大豆生産である。それまで大豆はセラード地帯でほとんど生産されていなかったが、農業開発が本格化し大豆が導入されると、その栽培面積は爆発的に拡大し、4半世紀でセラード地帯での大豆生産量は約3300万トン(2006年)(ブラジルの大豆生産量の63%)におよび、ブラジルはアメリカに比肩する世界第2位の大豆生産国となった。この結果、日本へのインパクトとして、アメリカからの大豆輸入依存度が95%(1977年)から71%(2010年)へ減少し、一方、ブラジルからの輸入比率は2.0%から16%へと増加し、輸入先の多角化につながった。
 今日、セラード地帯は大豆以外にも、綿花、トウモロコシ、果実、牛肉、コーヒー、野菜等の一大生産地帯となり、多くのアグリビジネスが興隆している。ODAによる協力に日本側が乗り出すに当たって描いた当初構想の目的は、こうしてほぼ達成されたと言ってよい。
セラードの経験をアフリカヘ
 さて、この2国間の大がかりな農業協力を通じて、ブラジルと日本は相互に多くのものを学び、信頼関係が生まれたが、この貴重な経験と知見を「地球最後の農業フロンティア」とされるアフリカで生かせないか、「アフリカ緑の革命」に役立てられないか、アフリカの需要を賄うだけでなく世界の食料供給増にも貢献できないか―という発想がどこからか出てきても不思議ではない。事実、先述のノーマン・ボーローグ博士は、われわれより以前に「セラードを開発した技術は、サハラ砂漠以南の広大な地域(や、インドネシアと中国南部)のかなりの地域に応用できると確信している」と予言的に述べている。
 日本とブラジルの間には、このセラード開発以外にも、日系移民に対する各種の支援、ブラジルを根拠地とした周近国への技術移転支援(南南協力、三角協力)などの日本からのODA協力実績があり、相互信頼の積み重ねがある。例えば、JICAの支援によりアフリカ諸国からブラジルに農業研修生などを受け入れる「三角協力」は1989年に始まり、その後10年間に400名以上のアフリカ研修生が参加した。


日伯パートナーシップ
 こうした実績を基礎に、2000年になり「日伯パートナーシップ」が両国政府間で署名された。そして2007年、JICA緒方理事長とアモリン外相の間で、このパートナーシップをアフリカでの共同事業に広げる可能性が話し合われ、その具体化の第一号大型案件として浮上したのが、このモザンビークにおける農業開発協力である。
 世界植生地図を広げると、赤道直下に熱帯雨林が帯状に広がり、その両側に熱帯雨林を挟むように熱帯サバンナ地帯が広がる。このうち、アフリカの熱帯サバンナの面積は約7億ha、そのうち4億haが農耕適地とされる(世銀資料)。この多様性に富む熱帯サバンナの中で、現在までのところブラジル・セラードのみが世界有数の農業生産地帯に変貌を遂げたわけである。


北部モザンビークヘの展開
さて、モザンビークは、東南アフリカに位置し、面積は80万k㎡(日本の2.1倍)。国土の7割を熱帯サバンナが占め、経済開発ポテンシアルは大きいが、17年続いた内戦の影響もあり貧しい脆弱国の1つである。日本とブラジルの専門家による基礎調査によれば、北部の「ナカラ回廊地帯」と呼ばれる一帯は、ブラジルのセラード地帯とほぼ同緯度で、比較的雨量もあり、耕作地に転換できる広大な未耕地が広がっている。その地域を東西につなぐ道路と鉄道は流通インフラとして重要で、日本、韓国、アフリ力開銀がその道路改修に資金援助する方針も決まっている。その東端のインド洋側には天然の良港ナカラ港が位置する。
 こうしてナカラ回廊地帯を「三角協力」の対象地として選ぶことに決まったが、一方でモザンビークとブラジルでは経済社会の相違も大きい。モザンビークは欧米からの財政支援なくして国家財政が成り立たない最貧国であり、技術レベルも低い。従って、ブラジル・セラードの開発モデルを右から左へとそのまま移植できないが、それでもブラジルとの三角協力に期待できることは多い。ブラジルには、零細農民の入植事業、大型農業の導入によるフロンティア開発、アグリビジネス、環境保全、衛星システムの技術にも優れた知見があり、モザンビークヘの応用が可能である。日本には農業分野の技術協力と資金協力の手段かある。
 こうして2009年7月、「世界の食料安全保障」が主要テーマの1つとなったG8のラクイラ・サミットにおいて、麻生総理とブラジルのルーラ大統領(いずれも当時)の間で「日伯セラード開発協力の経験を活かして、日伯連携でモザンビークでの農業開発協力を実施する」ことが合意された。実務的には、同年9月、モザンビークの首都マプトにて、JICAを代表して筆者、ブラジル国際協力庁長官、モザンビーク農業大臣の三者間で大枠合意が署名された。


三角協力の実施プラン
 この“ProSAVANA”と称される事業計画によれば、全体の計画を第一の準備段階と第二の事業化段階に分け、まず、第一段階では日伯共同でモザンビーク側の研究・普及能力向上を支援し、地域全体の農業マスタープランの作成、農村レベルでの実証調査、農産物増産支援、農村組合活動促進を行う。その上で第二の事業化段階では、ODA有償資金の投入、日伯民間企業の参入、国際機関(世銀など)との連携などにより本格的農業生産に入ることが計画されている。
 こうして始まった日・伯・モザンビークの「三角協力」は今後、恐らく10年以上は続く息の長い取り組みが必要になるであろう。これが成功すれば、同じくポルトガル語系で潜在可能性の高いアンゴラその他のアフリカ諸国における農業開発のモデルにもなりうる。


新しい農業開発モデルに向けて
 アフリカやアジアを舞台に今、中東湾岸諸国や、インド、中国など新興国、韓国などが潤沢な資金を投じて、広大な農地を借り上げる「農地争奪、Land grab」と呼ばれる熾烈な農地獲得競争が展開しつつある。その幾つかのやりかたは、零細農家を駆逐する「第二の植民地主義」だと批判を招いている。そういう風潮が広がる中で、この「三角協力」のモデルが、ホスト国の農業基盤の強化に貢献するだけでなく、大規模農場と小規模零細農場の双方に調和のとれた農業開発の可能性を開き、責任ある海外農業投資の行動規範を示すことになれば、3つの“win”を実現する極めて意義のある事業となるであろう。その意味で、 三国がInnovativeなアイディアを試み、日伯連携で相乗効果を実現していくことが期待されている。

 幸いなことに、日本側には、JICA・OB職員で現役時代にセラード開発に専門家として通算17年間にわたり直接に関わった本郷豊氏のような人物が健在で、引き続いてこの「三角協力」に携わることになっている。本稿も同氏の論稿を参考にさせていただいた部分が多い。ブラジル側には、政府のバックアップのほかに、前述のCPACを傘下に持つ強力な中核組織である「ブラジル農牧公社(EMBRAPA)」の人材など、セラード協力で鍛えられた専門家が数多くいて、この事業に全面的に参加することになっている。

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世界最大の食料輸出国たるブラジルと世界最大の食料輸入国たる日本が組み、アフリカで農業共同事業を展開することになったと言えば、あるいは皮肉のように聞こえるかもしれないが、既述のように、これは偶然ではない。近年、勢いが衰えてきているとはいえ、日本は、(アフリカではTICADプロセスなどを通じて)ODAを中心とする国際協力では、着実で信頼できるパートナーとしての地位・名声を得ているので、ブラジルにとりそういう日本と組むメリットは大きい。日本にとっても農業大国ブラジルと組むことのメリットは大きいので、まさに双方にとり“win-win”である。
 加えて、二国間関係で言えば、ブラジルは世界最大の日系社会を擁し、大の親日国である。G20の一員、食料、エネルギー、鉱物資源の安定的な供給国でもある。国連安保理改革ではG4の一員として日本の仲間だ。ブラジルと組むことで、「地デジ・システム」は南米と一部の南部アフリカで日本システム導入に効果を挙げたことも記憶に新しい。代表的な新興国、マーケットとしても日本と世界にとり益々重要性を増す国、ダイナミズムにあふれた複合民族国家、そして民主体制を整えた国でもある。
 アフリカの地で日本とブラジルが農業分野で大型の連携協力を進めることは、日伯両国にとり新たな、大きな資産になるに違いない。世界の食料安全保障のためにも一石を投じることになれば、なお幸いである。   (会報5月号より転載)




『日本のアフリカ農業支援二題(その1)』 
        2011-8-01

『日本のアフリカ農業支援二題(その1)』



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   元国連大使、JICA副理事長 大  島  賢  三

世界的な食料価格高騰が再び表面化し懸念を生んでいる。6月のG20農相会合で対策が話し合われる予定もあるようだ。筆者には農業や食料危機の問題を真正面から論じる資格はないが、開発協力の視点から、現在日本が関わっているアフリカに対する二つの大きな農業協力計画について紹介したい。本号では「コメ倍増計画」について、次号で日本とブラジルが協力してモザンビークで進める「三角協力」を取り上げたい。
 この前に食料危機が世界を騒がせたのは2008年春から夏のころ、ちょうどリーマンショック直前のことであった。5年ごとに日本が主導する「第4回アフリカ開発会議、TICAD4」が丁度、この時期(2008年5月)に横浜で聞かれていた。折からアフリカをふくむ30以上の国で食料暴動が発生し、政権崩壊につながる例も出ていただけに、横浜での会議に参加していたアフリカ40ヵ国以上の各国首脳や国際機関の関係者には、深刻な課題として頭上に重くのしかかったに相違ない。アルゼンチン、ウクライナ、ロシア、インドなど少なからぬ穀物輸出国が輸出規制に訴えたことも、パニックを広げた。
 そのような経験から「食料安全保障」に対する意識が各国に強まり、日本など輸入国側を中心に、価格抑制や輸出規制に関する国際的ルール作りへの関心も高まった。その後、食料価格の方は少し落ち着きを戻したものの、高止まり傾向は続いてきた。そして、今の危機再来の兆しである。
 世界的な食料高騰を招く元凶として、最近の豪州やロシアなど穀物大生産国における(気候変動による影響を含め)干ばつや洪水など天候不順の激化、〝膨らむ胃袋″(人口増と中国など新興国での消費増大)、バイオーエタノール生産との競合、さらには農業セクターへの投資不足、投機マネーの流入といった数々の要因が指摘されている。多くは中長期的、構造的な要因であり、将来的な影響の広がりは大きい。つまり、安い食料、カネさえあれば世界から食料を輸入できる時代は当然視されなくなりつつある。日本のように食料自給率が低く、大量の穀物輸入に頼る国は安閑としておれなくなる。こうして、日本でも一部商社は海外での食料権益確保へと動き、湾岸産油国や韓国など一部の食料輸入国の政府や企業が逸早く、世界各地の優良農地、遊休地をめがけて農地争奪(Land grabとかLand rush)と呼ばれる動きに走っている。

農業軽視への反省 
開発の観点から見るとどうなのであろうか。農業や農村開発はODAの伝統的分野の1つではあるが、ここ2、30年間を見ると、特に多くのアフリカ諸国においては、独立以来、生産から流通まで公的セクターで管理していた農業セクターの効率悪化が顕著になる中、また余剰農産物や〝安い食料価格″を背景に、先進援助国による農業分野への資源配分は減少を続けてきた。ことに80年代から90年代にかけて流行した世銀・IMF主導の「構造調整政策」の下で、アフリカなどでは農業関連案件の予算はバッサ、バッサと削られた。その中で、日本は比較的に農業・農村開発を重視したドナーであるが、世界全体的には農業軽視は否めなかった。最近の2、3年こそ、こうした減少に歯止めがかかり増勢に転じているが、はっきりと警鐘を鳴らしたのは2008年版の世銀の「世界開発報告」である。この年の報告は農業を特集し、(一般に誤りを認めたがらない)その世銀が、「過去の農業軽視は誤りであった」と率直に認め、政策転換をアピールしたのである。
 いったん食料危機が起きると、最も脆弱な国や地域は飢餓や貧困の多いところ、特にアフリカ(サブサハラ・アフリカ地域)だ。同時に、(見落とされがちであるが)農業生産性を上げる余地、農地開発の余地が大きいのも、実はアフリカである。危機と潜在可能性が同居するこのアフリカの農業・食料問題の改善に向けて、日本が力を入れて協力できること、比較優位があるとすれば、それは何であろうか。数力月後に追っていたTICAD4への準備として、世銀報告のメッセージをくみ取りながら、JICAではこれにいかに対応すべきか検討を進めていた。
その答えは、(常識的ながら) コメである。日本はキャッサバ、大豆、トウモロコシ、小麦などについては特段の比較優位はないが、コメであればアフリカでも数力国で協力実績の積み重ねがある。西部アフリカにおけるコメ専門の地域機関であるWARDA(後に
「アフリカ稲センター」に改称) への資金援助・専門家派遣や、東部のケニア、タンザニアなどでも協力を続けてコメ増産に貢献している。DACの先進援助国グループの中で
コメ専門家派遣などにより稲作協力ができるのは、日本くらい(あと若干ではあるがフランス、研究支援などでアメリカ)である。ただし、コメに特化するにしても、従来の二国間協力タイプの稲作プロジェクトを少々増やすだけでは新味はなく、インパクトも限られる。新しいイニシアティブを打ち出す以上は、従来の実績を活かしつつも少々大胆な発想、ちょっとした戦略アプローチが必要である。

 こうして、TICAD開催までの数力月の間に新しいアイディアの太枠を固め、それに基づきアフリカをはじめとする関係機関・団体等への周到な根回しが始められた。その上で、2008年5月の横浜会議の機会に打ち上げられたのが、以下に概略を述べる。〝CARD″と略称される「アフリカ・コメ生産10年倍増計画」である。

10年倍増計画の打ち上げ
コメを主食とするアジアには及ばないが、アフリカでもコメは多くの国で主要穀物の1つになっている。日本人のコメ消費量は漸減して、最近では65キロ前後/年であるが、インド洋に浮かぶマダガスカルが最も消費が多くて日本の倍近く(120キロ以上)、西アフリカの象牙海岸、セネガル、ギニアなどでは日本以上の80キロ前後を食べている。東アフリカのケニア、タンザニア、ウガンダなどはまだ10キロ以下に留まるが、ここでも近年消費量は急速に伸びている。(貧困層にはまだ手が届きにくいが)コメは保存が効き、調理が簡単、栄養価が高いので、とくに都市部を中心に消費の伸びが大きく、都市化の進行が全体の消費を押し上げる構造になっている。特に1990年代後半以降に、アフリカの多くの国でコメ需要が急速に増大し、主に耕作面積の拡大により生産増が図られてきたものの需要に追いつかず、アジア等からの輸入に頼っているが、このため多額の貴重な外貨が使われている。サブサハラ・アフリカ全体のコメ生産量は、推定約1,400万トン (自給率は全体で60%) で、これはフィリピン一国の生産量に過ぎない。また、コメは、アフリカにおける主要穀物のうちで唯一、低湿地の適切な開発や媽灌漑の拡大、栽培技術の改良による生産増大のポテンシァルが高く、一般に農民のコメ生産意欲も高いとされている。

稲作振興のための共同体立ち上げ
そこで、アフリカのコメ生産を画期的に増やすとして、その目標をどのように設定するか、その目標実現に向けて国際協力の仕組みをどうするか、JICAとしてアフリカ側の、どのパートナーと組むのが適当か―これらが最初の検討課題であった。
 まず目標設定は、専門家の意見も良く聞いて、向こう10年間を目途にサブサハラ・アフリカ全体で生産を「倍増」することを目指すことにした(1,400万トンから2,800万トン次に協力・連携の仕組みとして、まずドナー側では、①アフリカの農業・稲作に関心を持つ二国間ドナー(米、仏など)、②マルチ援助機関(世銀、アフリカ開銀など)、③農業関連の国際機関(FAO、IFAD、WFPなど国連機関)、④マニラに本部を置く国際稲研究所(IRRI)、農水省傘下の国際農業水産研究センター(JIRCAS)、⑤アフリカ地域機関・研究機関(WARDAなど)を出来る限り広く巻き込んだ上で、これを協議グループとして組織化し、情報の共有を進め、個々のプロジェクト活動の調整と調和を図ることを目的とする「共同体」を立ち上げることにした。

 こうして生まれたのが、「アフリカ稲作振興のための共同体、Coalition for African Rice Development’ CARD」である。CARDは、コメという単品作物に特化し、幅広い参加機関のそれぞれの比較優位を活かしながら、「緩やかな援助協調」を目指すというユニークな位置づけの仕組みと言えるであろう。
 JICAはこの「共同体」の中で主導的役割を果たすが、アフリカの〝オーナーシップ″を担保する意味でアフリカ側にも主導的なパートナーがあった方が良いとの考えから、「アフリカ緑の革命のための同盟、Alliance for a Green Revolution in Africa’ AGRA」という民間組織をこれに選ぶこととした。アジアでは1960年代から70年代にかけて小麦とコメ増産に画期的成果を挙げることで「緑の革命」を成功させたが、アフリカ版の「緑の革命」を実現させようと数年前にスタートしたのがAGRAである。アメリカのゲーツ財団、ロックフェラー財団などがこれを強力にバックアップしており、その会長には国連事務総長を退いたコフィ・アナン氏が就いている。ケニアの首都ナイロビに本部事務所、アフリカの数力所に支部を置いて、コメをふくむアフリカ農業振興全体のために活発な支援活動を展開しており、頼りになるパートナーである。
 AGRA会長のコフィ・アナン氏は、かつて筆者が国連事務局に勤務していた時のボスであった。それも助けになったか、アナン氏を訪ねて「共同体」の構想を説明しその同意を取り付けることは、幸い比較的簡単に進んだ。また、AGRAの本部事務局の一角にCard専任の小さな事務局を設置することについても快諾を得た。

CARDの活動
 こうして立ち上がったCARDは、2008年10月にナイロビで第一回の本会合を開いて本格的活動を開始した。ここで①支援対象国が正式に決定された(コメの重要性が相対的に高い「第1グループ」としてマダガスカル、ナイジェリア、ガーナ、ギニア、セネガル、ケニア、タンザニアなど12力国、これに続く「第2ダループ」としてエチオピア、ザンビア、コンゴなど11力国の合計23力国)。②また、「共同体」の総会を2年に1度のペースで開くこと、コア・メンバー(JICA、AGRA、世銀、IRRI、JIRCASなど11機関)によって構成される運営委員会が最低毎年1回会合して全体の連携・調整にあたること、③CARD事務局を設置して日常業務の運営にあたること等が合意された。さらに、④「第1グループ」と「第2グループ」の支援対象国は、各国それぞれの「稲作振興戦略」を策定すること、それを基礎に各国の自助努力と国際支援が相まって振興策が進むよう努力を傾注していくことも合意された。
 それから、約2年半、CARDの枠組みの下での活動は徐々にではあるが、着実に進展を見せているこの間に、上記の[稲作振興戦略]ペーパーは各国により作成され、その着実な実施に向けての動きも具体化しつつある

 ドナー側の投入計画も次第に強化されつつある。日本は、世銀に設定している「開発政策・人材育成基金」の中からCARDの下でのアフリカ稲作支援に向けて1億ドルを振り向けることを決定し、コメ生産性向上のための研究強化、人材育成等の支援に充てられる。
JICAは、コメ関連技術者・普及員など人材育成のための研修、コメ専門家の派遣、濯漑計画などを強化してCARD達成への貢献を主導する。モンティ・ジョーンズ博士(シエラレオーネ出身)がアフリ力種とアジア種を交雑させ、両者の長所を発揮させることに成功した「ネリカ米」の普及にも日本人専門家が大きく貢献している。
 上述のAGRA、世銀・アフリカ開銀、FAOやIFADなど国連機関も、それぞれ投入計画を増やして協力を強化している。オバマ政権下の米国(USAID)は新援助政策の下で、「食料安全保障」を主要な柱に据えているが(“Feed the Future” 計画)、CARDを今後の日米援助協力の一つに柱に育てていこうとする流れも出てきている。


アジア・アフリカ協力の芽
 さらに、今後注目されるのは、稲作を軸とした「アジア・アフリカ協力」の進展可能性である。コメであれば、アフリカとアジアの間で「南南協力」「三角協力」を進める「入り口」になり易い。現にその方向で幾つかの動きが出始めており、JICAとしても、東南アジア諸国がCARDに参加することを奨励していくこととしている。現に、インドネシア、フィリピン、ベトナムなどは、JICA支援の下に自国のコメ専門家をアフリカの稲作国に派遣し、あるいは研修員を受け入れることに積極的で、今後拡大していく可能性が大いにある。韓国(JICAのカウンターパートであるKOICA)のCARD参加の話も出ている。エチオピアのメレス首相など、一部のアフリカのリーダーは「アジア経済発展の経験から学ぼう」と熱心に提唱しているが、CARDを通じる支援・交流が一石を投じることになれば面白い。
 勿論、CARDの前途には数々の難題が山積しているのも事実だ。稲作に限らずアフリカの農業は、低い生産性、無駄の多い収穫後処理、肥料・農薬などの低投入、灌漑施設や農村道路などインフラ不備、農業技術や品種改良の後れ、マーケティングの溢路など課題は多い。生産から市場への流れ全体をにらんだ対策(いわゆるバリュー・チェーンーアプローチ) に取り組む必要性が高いことも強調されている。ただ、アフリカの多くの政府は農業重視へと舵を切りかえ始めており、政府予算の10%を農業に振り向けようと言う目標も設定されている。コメはアフリカ農業全体からみればごく一部に限られるが、CARDを通じてアフリカ農業の改善・発展に良いインパクトが生まれることになれば幸いである。 
                 (会報4月号より転載)

                 (会報4月号より転載)

『宗教や過去の軽視からの脱皮(バチカンを通して日本を見る)』2011-7-21

『宗教や過去の軽視からの脱皮(バチカンを通して日本を見る)』



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   杏林大学外国語学部客員教授・前駐バチカン大使 上野 景文

昨秋帰国するまでの4年間、バチカンに勤務している間に---と言っても、実態はと言えば、ローマ市にいたのだが---「見えるようになった」ことが幾つかある。特に、世界各国の事情を観察する際、宗教と言う「補助線」が有用な場合があることや、バチカンは「過去」に徹底的にこだわる処だと言うことを見出だして、新鮮に感じた。しかも、これらの点は、日本の現状に関し「このままで良いのか」と振り返る材料を提供してくれているようでもあるので、右の二点を取り上げ、そのインプリケーションを探ってみることとした。

1. 宗教から逃げるな
先ず、第1点--「補助線」の話---について。バチカンでの仕事を通じて、宗教や信仰という「補助線」を持ち出すことにより、世界各地の事情の理解が容易になる場合がある、或いは、それまで見えなかったものが見えてくる場合がある、と言う点が分かるようになった。然も、近年宗教の「復権」がグローバルに進む(注1)中で、宗教と言う補助線の有用性は当然のことながら、高まって来ている。
たとえば、バチカンとイランの間にはしっかりとしたパイプがあると言う、日本からは見えにくい意外な事実があるのだが、両国とも宗教が政治の上に立つ「宗教国家」であるという共通性を掴(つか)んでおきさえすれば、「さもありなん」ということになる。ジャスミン革命、ナイル革命後の中近東で、イスラムの「復権」がどこまで進むかを見極めないと、5-10年先の地域の姿は占えない。米国が「宗教国家」の顔を持つことは周知のことだが、その点を押さえておかないと、同国はすっきり理解できない。米国と比べると「世俗化」、どぎつく言えば、「脱キリスト教化」が進んだ西欧北部ですら、「宗教の気配」を感じさせることがある。といっても、「神無き信仰」の台頭の話だが。たとえば、自然を神聖視する「動物権」信仰の影響下、薬品開発実験に動物を使うことを規制する、或いは、家畜の屠殺法を規制するEU指令が次々と制定されている。同時に、動物権信仰の徒等は、反捕鯨キャンペーンを含め、あちこちで摩擦を生じている。これらは「宗教摩擦」だと位置付けないと、有効な対応策は立て難い。
「宗教の復権」がグローバルに進展しつつある中、日本がやがてその波をかぶることになることは必至なのだが、昨秋久方ぶりに戻った日本は、世界の潮流に無頓着であり、宗教は何と「部屋の片隅に追いやられている」風ではないか!! 内外のギャップは歴然。おまけに、学者であれ、ジャーナリストであれ、政治家、行政官であれ、この国では宗教に「触れよう」としない。露骨に言えば、「逃げている」。
クジラの問題を例にとろう。反捕鯨運動家は、「鯨を殺すことは正義に悖る(=不正義である)」と言う教理を掲げた信仰に突き動かされており、これにきちっと反論するためには、日本人の宗教・信仰の観点は絶対に避けては通れないのだが、現状はと言えば、その観点は素通りしている。昨年神戸新聞に書いたので、ここでは詳細には立ち入らないが、水産庁の役人に宗教論に踏み込むことを求めるのが無理であるのならば、せめて、宗教者、あるいは、宗教に詳しい人材が、国際的論戦に参画することが期待される(注2)。ということで、さる神社関係者に論戦への出馬を奨めてみたりもしたが、消極的反応しか得られていない。
宗教を避けんとする風潮に関連して、もう一点指摘しておく。大震災であれだけの犠牲者が出たのに、「国民全体が一丸となって、喪に服そう」との声はついぞ聞かれない。政府はもとより、学者、メディアからも。宗教的ニュアンスのあることは、誰も触れたがらないと言うことなのだろう。欧州であれ、北米であれ、今度のような悲劇があったら、「国民の総意として、一緒になって喪に服す」のが普通であり、自然だ。誰もそう言い出さないという事実そのものに、私は違和感を覚える。勿論、震災後多くの国民が自発的に哀悼の意を示し、また、「自粛」と言う形で、各層より連帯の意思が示された。それはそれで、極めて貴重なことだと思う。が、それだけでよいのだろうか。やはり、国民の総意であることを示すために、公的な形を整えて、つまり、「国家として弔う」ということがあって良いのではないか。その際、政府がイニシアチブをとるべきことは言うまでもない。救出、瓦礫撤去が一段落したところで、宗教色を含めなくても良いのだが、国民的な形で「喪に服して」はどうだろうか。

2. 「過去」へのこだわり
では第2点に移ろう。「過去へのこだわり」の話だ。欧州は、過去の否定の上に建国され米国とは異なり、おしなべて「過去」に強いこだわりを示す。中でも「過去」へのこだわりが強いのがバチカンだ。それを強く感じたのは、江戸時代初期に処刑されたキリシタン百八十八人をバチカンが長崎で顕彰(「列福」と言う)した三年前だ。日本人の感覚では、江戸時代初期は今日からは「完全に隔絶された世界」なのだが、彼らは「昨日のこと」のように扱っていた。
それだけにとどまらない。キリスト教はこの二千年間、五百年ごとに分裂を繰り返して来たが、バチカンは、二千年前に別れたユダヤ教とも、千五百年前別れた中東系正教とも、千年前別れたギリシャ・スラブ系正教とも、更には、五百年前別れた英国国教会とも、この五十年、関係を修復している。また、カトリック教会が依拠している典礼、しきたり、衣装などには、古代~中世から継承されて来ているものが少なくない。
つまり、バチカンにとっては、五百、千年はもとより、千五百年前ですら「過去」になりきっていないことがあると言うことだ。「過去」はしばしば「現在」として扱われる。「過去」にこだわるバチカン文化ほど、日本とのギャップを感じさせるものはない。何しろ、こっちは数十年前を「切り棄てる」ことすら逡巡しないのだから。
振り返ってみれば、近~現代を通じ、日本人の伝統・過去への眼差しは「冷ややか」なものであった。明治になると、江戸時代は「遅れていた」と言ってこれを切り棄て、戦後になると戦前は「暗黒だった」と切り棄てた。そのたびに、外来を中心とする新しいシンボルに飛びついた。だから、明治初期、日本人が見棄てた浮世絵は二束三文で手放され、海外に流出した。明治政府は、「なんば歩き」と言う旧来の歩行法すら切り棄てた。文部省は、明治以来つい数年前まで、学校教育の現場から邦楽を一貫して締め出して来た。だから、文部省唱歌はすべて「和製洋楽」だ。戦後も、「古い」の一言で切り棄てられた「過去」は少なくない。たとえば、半世紀前、新住居表示導入のため、古い町名を全国的に放逐するという文化的暴挙が敢行された。この結果、明治期、或いは、江戸期を対象とした小説のリアリティーが半減するところとなった。然も、さしたる反対や抵抗なしに。郵政当局だけでなく、国民の意識も「過去を棄てる」ことに躊躇がなかったということだ。
その点を改めて感じさせられたのは、震災前、古文書を紐解き、貞観津波など幾つもの事例から、巨大津波につき警鐘した学者がいたのに、原発専門家や担当する官僚は十分アテンションを払わなかったと聞いた時だ。ひとつには、既定の施策を大幅に改定させられることへの抵抗感がそうさせたということだろう。だが、それだけか。国民が総じて「過去に冷たい」という日本的状況、より正確に言えば、日本の文化的状況が、専門家の「心をも縛っていた」のではないか。だとすれば、問題の根は深い。そのような空気が充満する日本だから、千年前の地震のことを持ち出しても、実務家は、「そんな大昔の研究につきあっている暇はない。学者の間で議論を続けるのは構わないが。」と相手にしなかったのではないか。
「過去を棄てる」という日本のこれまでの生き様であるが、西洋的モダニズム導入のためには「仕方なかった」との弁明はあるのだろう。一般論としてはそうかもしれない。が、日本の場合度を越しており、「ほどほど」を遥かに超えている。勿論、何もかも「棄てず」に守り通すことは、全て「棄てる」のと同じくらい、愚かなことだ。要は、新たに取り入れた「現在」と、棄てずに堆積した「多様な過去」との間に見られる矛盾に耐えるだけの精神的強靭さを持つことだ。時間とともに、堆積した「多様な過去」の間で、習合作用が働き、新たなアイデンティティーが生まれるのだが、それまでの間、耐え忍ぶ「強さ」がなくてはならない。今の日本には、その強さが欠けている。何はともあれ、国民の多くが「棄てる」ことに「痛み」を感じない現状は文化的疾患というものだ。このたびの震災を奇貨として、「過去軽視」の生き様を改めることを呼びかけたい。何もバチカン並みを求めるつもりはないが、「過去に敬意を払う文化」への転換は不可欠だ。

3. まとめ
以上お示しした二つの見解を読者はどう受け止められたであろうか。中には、「筆者はバチカンにかぶれやがって」と反発された方もおられよう。念のために付け加えるが、私は、バチカンの真似をせよと言っている訳ではない。ただ、バチカンから観察した「世界の潮流」に照らすなら、日本はかけ離れていると言う事実をお伝えしたかっただけだ。陳腐なレトリックを使えば、宗教面でも日本は「ガラパゴス化」の危険があると言うことでもある。そう、「宗教」及び「過去」に「正当な地位」を与えることが、まずもって必要だ(注3)。

(注1) 拙文 「『宗教復権』潮流直視を」 (讀賣新聞、2011年1月25日)
(注2) 拙文 「反『反捕鯨』論を深めるには」(神戸新聞、2010年8月23日)
(注3) 拙著 「バチカンの聖と俗 :日本大使の一四〇〇日」(かまくら春秋社) 

                      (2011年7月19日寄稿)


『脱原発、減原発は日本の国益に適うか』
         2011-7-21


『脱原発、減原発は日本の国益に適うか』


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  元原子力委員会 委員長代理 遠藤 哲也

今回の「脱原発、減原発は日本の国益に適うか」掲載にともない3月31日論壇掲載 「福島原発事故から何を学ぶべきか」と5月9日時事コラム掲載の「福島原発事故の国際的な影響-原子力の安全には国境はない-」も合わせてご覧ください。 (霞関会編集部)



(日本にとっての原発の重要性)
 エネルギーと食料は国家の経済活動と国民生活の根幹であるが、日本はその自給率が非常に低い。 特にエネルギーについては、自給率はわずか4%と先進国の中で最低の水準にある。それに島国であるから、近隣国から電力の融通を受けることが出来ない。このような状況の中で、原子力は日本のエネルギーの安全保障に大きな貢献をしている。原子力発電は準国産的なところがあり、原子力を入れると、エネルギーの自給率は20%近くになる。他方、アジアを中心とする新興国の経済発展は目覚しく、化石燃料の需要が急速に増えて来ることが予想されるので、原子力の重要性は一段と大きくなって来るであろう。
 今一つは、世界喫緊の課題である地球温暖化防止であり、CO2を排出しない原子力の重要性である。鳩山首相(当時)は、2009年9月の国連気候変動首脳級会合で、2020年の中期目標として、CO2の排出を1990年比25%の削減(2005年比30%減)するとの宣言を行った。これは条件付宣言ではあったが、事実上国際公約として数字が一人歩きしている。この削減を達成するために原子力分野では原子炉9基の増設、稼働率を80%以上とすることが期待されていた。

(日本の原発の危機)
 ところが、福島事故は世界中に大きな衝撃を与えた。(原発事故に国境なし)原発の安全規制を国内的及び国際的に強化すべし、IAEAがその中心的な役割を果たすべしとの点については、各国の一致した反応であったが、原子力発電そのものをどうするかについては各国様々であった。多くの国は、安全に一層留意しつつ今後とも開発を進めるという姿勢をとっているが、ドイツ、イタリアなど一部の西欧諸国は市民感情に押されて脱原発へと舵を切った。
 事故当事国の日本では、市民の反発感情が盛り上がり、それを一部のマス・メディア、政権の一部などが個人的にせよ煽るようなところがあって、原発は一種の岐路に立っている。現在、54基の原子炉のうち18基しか稼動しておらず、定期検査後の再稼動が政治的に難しい状況にあり、最悪のケースでは来年3月には日本全国の原発がすべてストップすることにもなりかねない。
 2010年6月に閣議決定されたばかりのエネルギー基本計画と、それによる原発の積極推進の方針は白紙とされ又、新成長戦略の一環と位置づけられた原発のプラント輸出もその行方がはっきりしなくなっている。日本が新しい輸出ターゲットとして考えていたベトナム、トルコ、ヨルダンなどは福島事故以降も日本との協力に積極的な姿勢を示しているのに対し、日本の方の反応は今一つという感じである。目下国会に承認を求めて提出されているロシア、ベトナム、ヨルダン、韓国との原子力協定の帰すうもはっきりしないし、トルコ、ブラジルなどとの原子力協定交渉も事実上中断状態である。いずれにせよ、日本の原子力に対する姿勢は、国内、国外共に甚だ消極的になっている。

(日本は脱原発、減原発でやってゆけるのか)
 それでは、日本は脱原発、減原発(原発の規模を縮小すること)でやってゆけるのだろうか。
・ 日本の総発電量の約30%を占める原発がなくなる、あるいは大幅に減少される場合、何でそれを代替するのか。短期的には、おそらく化石燃料だろうが、輸入経費がかさむし、CO2排出を伴うので排出権購入費が必要となり、発電コストを引き上げる。しかも化石燃料は今後上昇することが予想されるので尚更である。中・長期的には自然エネルギー(風力、太陽光、地熱、バイオマス等)であり、一見大衆向けするが、日本は先進国の中でも開発に立ち遅れ、現在総発電量の1%程度に過ぎず、今後開発に努力すべきだが自然エネルギーそれ自身少なからぬ問題を抱えている。供給の安定性(例えば、太陽光発電の日本での平均利用率は約12%、風力は年間の利用率26%など)、量的拡大の難しさ、経済性、発電される電気の質(系統安定の問題など)などである。
従って、自然エネルギーは分散電源、補充電源としては役に立つが、大規模経済のベースロードの基幹電源とするには無理がある。原発の代わりに自然エネルギーをあてるには、単に掛け声だけでは駄目で、定量的な分析、工程表、制度設計が必要である。いたずらなエネルギー政策の変更あるいは変更への掛声は、国の経済活動、国民生活に大きな混乱を招きかねない。日本経済に致命的な打撃を与えかねない。
・ 国際的にかかわりのある原発のプラント輸出はどうするつもりなのか。地球温暖化防止対策としてのCO2排出に関する事実上の国際収束はどうするか。
――force majeure(不可抗力)を主張するか。
これらは、日本の国際信用の問題である。
・ 脱原発は、資源に乏しい日本にとって最も重要なエネルギー政策と原子力発電の黎明期から一貫して位置づけられた「核燃料サイクル」からの撤退を意味する。核燃料サイクルは経験の蓄積と人材の育成から成り立つもので一旦撤退すると再び立て直すのは極めて困難である。本当に撤退してよいのか熟慮すべきであろう。

(おわりに)
 筆者は、かつて原子力委員会委員をつとめたため、我田引水ととられるかもしれないが、日本のおかれた地政学的条件や経済規模などを冷静に考えるとき、又、定量的に物事を考えるとき、日本の脱原発は多くの問題を抱えていると思う。日本は、安全面を根本的に見直しつつ、原発を推進してゆく(むしろ原子力の拡大)、それとあわせ自然エネルギーの開発も積極的に進め、各エネルギー間のベスト・ミックスをはかってゆくのが最も国益にかなう現実的な政策であると思う。脱原発や減原発は日本がとるべき途ではない。

                   (2011年7月21日寄稿)

『保護する責任とリビヤ決議』2011-7-7


『保護する責任とリビヤ決議』


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              人権人道担当大使 上田秀明 

1、アラブの「民主化」のうねりが続く中で、リビヤのカダフィ政権に対して国連安保理決議に基づく空爆が継続している。3月17日に採択されたこの決議1973号は、東日本大震災の直後であったため、日本での注目度はさして高くはなかったが、国際社会が「保護する責任」(responsibility to protect, 略してR2P)の観点から行動をとった事例として国際的には注目されている。
国際社会(といっても欧米先進国)は、1990年代初めの旧ユーゴの紛争での民族浄化やルワンダの虐殺などに際して無力感を味わい、90年代末にコソヴォや東チモールで再び同様の事態に直面した際に、「人道介入」について議論を活発化した。
アナン国連事務総長(当時)が、いかなる時に人道的な軍事介入が行われるべきかをより明確にすることを呼びかけたのを受けて、カナダの提案で「介入と国家主権についての国際委員会」が設置され、2001年12月に報告書を提出した。
その要点は、「国家主権は責任を意味し、人々を保護する主要な責任は国家自身にある。しかし、内戦などにより民衆が深刻な被害を受けている際に、当該国家が被害を回避したり防止しようとせず、又はすることができない時には、国際社会による『保護する責任』が不干渉原則に優越する。」とするもので、その根拠を国連憲章や人道法、世界人権宣言などに求めていた。これについて先進国側は介入の決定は安保理決議に求めるとの前提で支持する国が多かったが、伝統的国家主権を尊重する中国をはじめとする途上国から強い反発があった。

2、 カナダは、この課題を2000年の国連ミレニアム総会および2005年のフォロウアップ首脳会議での合意事項にすべく活発な外交を展開した。そのころ日本は、人間の安全保障を打ち出しており、カナダの目指すところが人間の安全保障の一側面ともいえることは理解しつつも、途上国の反発を考慮して、意識的に2つの概念を分けて議論した経緯もある。様々な議論を経て、2005年の首脳会議の成果文書に、保護する責任と人間の安全保障がともに含まれた。
保護する責任については、パラ138で、「 各々の国家は、大量殺戮、戦争犯罪、民族浄化及び人道に対する犯罪からその国の人々を保護する責任を負う。・・・国際社会は、適切な場合に、国家がその責任を果たすことを奨励し助けるべきであり、国連が早期警戒能力を確立することを支援すべきである。」とされ、139 で、「国際社会も、・・・憲章第6章及び8章にしたがって、適切な外交的、人道的及びその他の平和的手段を用いる責任を負う。・・・仮に平和的手段が不十分であり、国家当局が(上記4つの)犯罪から自国民を保護することに明らかに失敗している場合は、適切な時期に断固とした方法で、安全保障理事会を通じ、第7章を含む国連憲章に則り、個々の状況に応じ、かつ適切であれば関係する地域機関とも協力しつつ、集団的行動をとる用意がある。」とするものであった。
これを踏まえ、2009年1月に事務総長報告が発表された。これは、上記成果文書の合意を説明するもので、国家に保護する責任があることを強調し、その能力向上のために国際社会が協力すべきであると指摘した上で、国際社会の対応については、国家が明らかに保護を提供できない場合に、適切な時期に断固とした方法で、集団として対応するのは加盟国の責任であるとしている。 そして、対応振りについては、何もしないかあるいは武力行使かという二者択一の選択である必要はなく、憲章第6章の平和的手段、第7章の強制的な手段、および/あるいは第8章の地域的取極との協力を含むとしている。 

3、この論議は、グローバル化が進む世界において、国家主権、とりわけ内政不干渉原則と人類普遍の原則たる人権・人道の理念とのコンフリクトを浮き彫りにし、グローバル・ガヴァナンスの観点からも厄介な課題である。国際法がここまで発展しており、国家の基本的な権利義務とされるものも絶対的なものではないことを示しているわけだが、R2Pの適応は「言うは易く、行うは難し」とみられてきており、現にスーダン情勢をめぐっては、中国が難色を示していた。 
ところが、チュニジア、エジプトに続き、リビヤで民主化を求める民衆の運動が起きた際に、カダフィ政権が空軍力をも用いてこれを弾圧するに及んで、安保理は、2月26日の決議1970号において、カダフィ政権により「一般市民に行われている広範かつ組織的な攻撃は人道に対する罪と同然でありうると考慮」するとし、「国民を保護するリビヤ当局の責任を想起」するとした上で、リビヤ当局に暴力の停止を求め、同国の状況を国際刑事裁判所の検察官に付託することを決定した。
さらに、事態が悪化するのを見て、3月17日の決議1973号では、「国民を保護するリビヤ当局の責任を繰り返し表明し」、依然として続く弾圧行為が「人道に対する罪と同然」でありうると考慮し、「事態は国際の平和および安全に対する脅威を構成すると認定して」、「憲章7章に基づいて行動する」と前置きした上で、加盟国に「文民および文民居住地区を守るために・・・必要なあらゆ措置を講じる権限を付与」するという決議を採択したのである(そのほかにノーフライ・ゾーンの設置、貨物検査の実施などを決定)。
英、仏が主導し、米が賛成し、中国、ロシアは棄権に回った。カダフィにはあまり奇矯な振る舞いが多く、アラブ連盟も見限った感があり、このような介入を支持したので、中、露も拒否権を行使しなかったのだろうと見られている。
潘基文事務総長は、3月18日付で声明を発表し、「安保理は歴史的決定を行った。1973決議は、その政府によって犯された暴力から市民を保護する責任を果たすとの国際社会の決意を明々白々に確認した。」と指摘している。
これに基づき、米、英、仏、伊など各国空軍(現在はNATOの責任で)による空爆が頻繁に行われて、反カダフィ政権側を支援している状況にあることは周知のところである。

4、この決議は、確かに保護する責任に言及した画期的な決議である。ただし、安保理が係る根拠として、国際の平和及び安全に対する脅威であるためであるとしている点は伝統的アプローチもとっている。そして決議の目的は、「停戦の即時確立、暴力ならびに文民に対するあらゆる攻撃および虐待の完全な終焉を求める」ものであり、「リビヤの主権、独立、領土保全および国の統一については安保理が公約」するとしており、カダフィ政権の打倒ないし排除は直接には言及されていない。また、リビヤ領域内への外国軍の占領は排除するとしているので、地上部隊によるカダフィ軍の排除は考えられていない。
しかしカダフィの態度からみて、政権交代が無くては保護する責任も果たせないのではないかと考えられ、いったいどこまで国際社会が介入すれば目的が達成できるのか、いかなる事態になったら平和と安全への脅威にならなくなるのかなど、終結点の見極めには微妙なものがあり、予断を許さない。ただし、国連人権理事会ではリビヤの理事国資格が停止されている。また、国際刑事裁判所の検察官がガダフィに対する逮捕状を発出している。
保護する責任の概念を擁護する人々は、このようなケースに適用できなければR2Pの意味がなく、ここが正念場であるとしている。批判する者は、欧米の価値観に基づく安易な介入を許すことになるし、武力諸勢力が国際社会の支援を得るためにむしろ衝突をおこすとの見方まである。
今やリビヤと同様の事態になりつつあるシリアについてはどう対応するのかという喫緊の問題があり、さらには、北朝鮮の状況、中国やロシアの少数民族「弾圧」はどうかという問題がある。後者について、P-5の国内問題にはR2Pが適応されないのであれば、途上国からは、ダブルスタンダードだと非難されるであろう。
なお、R2Pは、人間の安全保障の1側面であると見ることができようが、人間の安全保障に関する事務総長報告(2010年3月)においては、「武力行使は人間の安全保障の適用には予想されていない」としてR2Pと区別している。 日本としては、R2Pのための武力行使に参加することには制約があるが、今後の国連活動への参画の観点から検討を要するところであり、少なくとも関連する難民支援などには人間の安全保障の観点から一層の協力が求められると考える。(2011年7月3日寄稿)


『強大化する中国との関係を考える』2011-6-10


『強大化する中国との関係を考える。』



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                    国広道彦(元駐中国大使)

はじめに
 私か対中外交の第一線を退いてから16年経った。それなのにこれからの日中関係について正面から議論を試みるのはいささかおこがましさを感じる。
 しかし、小泉政権の問靖国問題のために政治関係が不安定に過ぎ、その後は日本側で短期政権が続いて、安倍総理の時代に折角「戦略的互恵関係」に合意しながらその実現に弾みがつかなかった。他方、中国は旺盛な経済発展を続け、軍車力も強化して、世界における存在感を強めてきた。民主党政権は国内問題の処理に追われているうちに、千年に1度といわれる大地震と大津波に襲われ、復興の道筋をつけるのに苦労している。こういう状況の下でわが国の外交は世界の潮流の中を漂流しているように思われる。特に中国との関係では、中国が湧きおこしている大きな渦の中に巻きこまれてしまいそうな気がする。
 勿論、外務省の現役は日夜奮闘しているであろう。しかし、中国が米国に比肩する存在になりつつある今日、日本は対米関係でやっているように、あらゆる分野の人々の力を糾合して、中国との関係を健全に維持していかなければならない。そこで、私のような老兵が蛮勇を奮って大雑把な意見を披露し、それをたたき台にしていただきたいと思う次第である。

これからの中国をどう見るか?
まず、これからの中国についてどう考えるかについて述べたい。
 昨年、中国のGDPは39兆2800億元(1元=12.45円)に達してついに日本を追い越した。かなり前から予想されていたことではあるが、やはり時代の変化を画するものである。日本の世論はこれを冷静に受け止めた。変にナショナリスティックな反応が起きなかったことに安堵したが、もう少し奮起する議論もあってもよいのではないかという気もした。それはともかくとして、日中国交正常化以来、中国の改革開放政策を支援してきたわが国がこのような旺盛な中国の発展に多少なりとも貢献できたのは祝福すべきことである。

 中国では、今年3月に開催された全人代において、「第12次5ヵ年計画」が採択された。これで今後5年間の中国の発展のブルー・プリントが明らかになった。5年間の経済成長を年率7%と想定している(前期の目標は7.5%)。過去30年間、年平均約10%の成長をしてきたのと比べれば低めの目標であるが、中国の労働力の頭打ち、資源環境問題の将来、国際市場の先行きなどを考えて余裕を持たせた想定であろう。それでも2015年のGDPは55兆元を上回る勘定になる。10年くらいの中国経済の先行きも大よそ見通せる気がする。その頃は日本経済との規模の差は画然としてきて、経済力の強化に伴い軍事力も必然的に強化されていくだろう。

 勿論、中国経済はいろいろな困難を抱えている。しかし、中国社会はその時々の困難を乗り切って、10年後には先進国のレベルに達するであろう。(最近のIMFでは購買力平価ペースで中国のGDPは2016年に米国を追い越すと予測している。)それを可能にするのは中国の大きな貯蓄(=投資の資源)であり、国内市場の大きさであり、研究開発投資の増加(毎年20%の伸び)であり、政策決定の早さである。
中国は当面の課題をインフレ抑制であるとしているが、中長期的には経済成長パターンの転換を重要課題としている。量的より質的な発展に転換しようとしているのである。投資依存型の成長から消費拡大による成長への転換である。資源の制約、国際環境の制約のみならず、これまでの発展が富の格差を増幅して大衆の不満が昂じていることを考えても必要な政策転換である。 政治的にいえば「民生」重視、成長より再分配重視と言うことになる。

 去年初めて、中国の農村部の純収入の伸び率が都市部の可処分所得の伸び率を上回った。今年は都市部と農村の所得の増加を経済成長率と同率の8%増にすると言っている。具体的には最低賃金を年平均13%以上引き上げるとも言っている。農産物の価格引き上げ額も提示している。本末、経済成長を投資に依存し、国内消費加対GDP比40%に満たない低さであるのが中国経済の弱点である。労働者、農民の所得を増やすことは望ましいことではあるが、それをインフレを年4%程度に抑えながら実現できるかどうか見ものではある。

 問題は30年間の高度成長が生んだ社会問題をうまく処理できるかどうかである。「和諧社会」を標榜する胡錦涛政権の最後の2年間の正念場である。
 中国の貧富の格差については周知の通りであるが、これに腐敗・汚職が重なることにより、大衆の怒りが増幅されている。鄧小平が 「先富論」を唱えた頃は、金持ちが出現してもチャイニーズードリームを抱かせた。しかし、今の中国は「高幹グループ」とか「紅色一族」といわれるような既得権集団が支配して、一般大衆は住宅の人手も絶望的になり不満を募らせている。それに加えて、幹部の汚職が後を絶たないという状況では社会不安が憂慮される。

 地方政府は経済発展の財源の過半を土地の使用権を開発業者に売ることによってまかなっている。そのため住民は有無を言わせぬ立ち退きを強いられる。土地を失った農民の怒りは大きい。また、地方政府は銀行融資を受けるための特別のプラットフォームを設けており、その債務(2009年末7.38兆元)を返済する目途が立たないでいる。いずれ莫大な公的資金による解決が迫られるであろう。

以上のような社会情勢にかんがみ、この数年来の予算では医療、保険、教育、「三農」対策等の民主関係予算を重点的に増やしている。胡綿涛政権が「和諧社会」に向けて最後の2年間に掉尾を振るっているとも言える。しかし、昨年7.3%の増に抑えられた国防予算の増加が今年再び2桁増(12.6%)に戻っている。これに加えて、今年は公安予算が国防予算を上回っている。 他方、最近胡錦涛政権は政策を「安定第一」に切り替えて、国内の取締りを強化している。北アフリカの「ジャスミン革命」もあり、このところ言論統制が目立って強化され、民主活動家が次々と拘束されている。 内政上の取締りの強化と並行して、昨年秋以降中国の対外姿勢の強硬化が目立った。

昨年末戴秉国・国務委員が「平和発展の道を歩むことを堅持せよ」という論文を発表したのに対して、馬暁天・副総参謀長が「戦略的チャンスの時代的意味を把握し、我々の歴史的使命と責任を明確にせよ」という論文を発表した。後者は鄧小平の「韜光養晦」を乗り越えようする発言ではないかと注目されている。(この前にも、若手将軍の中から勇ましい発言が出る傾向が生じていたが、その源は一昨年7月に開催された在外公館長会議で行なった胡錦涛の重要演説にあると言われている。その中で胡錦涛は「堅持積極韜光養晦、積極有所作為」と述べたと伝えられている。)

 これは中国指導部における、いわゆる国際協調派とナショナリズム派の対立の兆候だと私には見える。中国は経済的にも、政治的にも大国になっているにもかかわらず、歴史的被害者意識を克服できず、偏狭なナショナリズムに走りやすい。これが、世界にとって中国の最大の問題である。中国が世界のステークホールダーとしての責任を果たすよう希望する。 中国は中国共産党の1党独裁の国であるが、その政策決定は党書記の専制で行なわれているのではない。いろいろな国内政治の力学の所産として生み出されているのである。その国内政治と力として昔から強いのが軍である。また最近は国有企業その他の利益集団、さらにはインターネットの圧力なども顕著になっている。中国の動向を把握しようとする場合に一筋縄でいかないゆえんである。

これからの日中関係について
以上のように中国は旺成な経済発展を遂げながら、国内的にはいろいろな不安要因を抱えているが、そのなかで両国経済の相互依存度は年々高まっている。中国の経済が下降すればわが国経済も深刻な打撃を受ける。万一中国に政治的混乱が生じればそれが日本を含め周辺国に大きな影響をこうむる。わが国としては平和的に発展する中国と安定的関係を維持していくのが国益である。

 民主党政権になってからは、靖国神社のようなお互いに敏感な問題を表面化させずに来ていた。それを覆したのが、昨年秋に生じた尖閣諸島沖の中国漁船の衝突事件であった。漁船を拿捕したとき、仙石官房長官は「国内法により粛々と処理する」と当然のことをしているようなことを言ったが、これはそもそも「魚釣島」に主権を主張している中国側が最も聞きたくない言葉だった。しかも船長を2週間の拘留期限を延長したかと思えば、温家総理の強硬発言、レアアースの規制措置、日本人会社員の逮捕などが続くと、突然沖縄の地方検事が船長を処分節留にして釈放してしまった。その間の不明朗な措置に日本国民の多くは日本政府が中国の圧力に屈してしまったという感じを持った。今回の民生党政権の取り扱いが日中関係に好ましからざる悪例を残したことは否定できない。

 これと前後して南シナ海での中国の強硬な姿勢にアセアンの関係国が反発を示した。4月30日、温家宝首相はジャカルタで「領土主権や領海の問題が存在するが、2国間で適切に解決しなければならない」、「中国は領有権問題で騒ぎを広げたり、緊張を高めたりすることには同意しない」と述べた。尖閣問題についてもこの方針が守られることを希望する。 日本が中国の改革開放を支援した基礎には中国の経済が発展して、生活水準が向上すれば、政治面でも民主化につながるであろうと言う期待があったが、それは幻想に終りそうである。私か中国に在勤した頃(1995年初めまで)と比べれば中国の社会は格段と自由になっている。しかし、共産党の1党独裁体制は変わらなかったし、今後もかなりの間変わりそうにない。勿論中国がもっと人権を尊重する国になって欲しいとは思うが、それも中国国内の政治的力学によって決まるものである。日本が中国の民主化を政策と掲げても中国側の反感を招くだけである。また、民主化した中国では当面反日感情が強まることが予想される。 総論はこれくらいにして、以下私の具体的提言を若干述べさせていただく。

 第1に、「戦略的互恵関係」の推進は日中双方にとり利益のある方針である。中国は「戦略的」と「ウィン・ウィンの関係」という言葉を好んで使う。「戦略的」という言葉に軍事、安全保障の要素があることは、ロシア、米国との間に軍の「戦略的協議メカニズム」が構築されていることからも分かるが、多くの場合この言葉を大局的、長期的という意味で使っている。
 ところが日本側では、細川政権以来、靖国問題でもめた小泉政権を除き、毎年のように政権の交代があった。その間、首脳会談や外相会談をするたびに日本側は期待を持たせる言をするが、その当事者が実行に移す前に、時には会談の直後に、政治舞台から姿を消してしまった。これでは長期的、大局的な議論はできないし、戦略的互恵関係は築けない。なによりも日本の内政をしっかりして欲しい。これは対中外交のみならず、日本の民主主義の根幹にかかわる問題でもある。

 第2に、日本は中国にとり大事につきあう価値のある国であらなければならない。その要点は日本の経済力、特に技術力だと思う。中国は自主イノベーションに重大な力点を置いている。新5ヵ年計画中のR&Dを年率2.2%増やすという方針を明らかにしている。単純な比較は難しいようであるが、日本の科学技術予算が3年連続削減されてきたのとは大変な違いである。しかも、中国は莫大な輸入の力を利用して外国技術の導入を積極的に図っている。2006年に日本のMSKを買収したサンテクパワーが太陽光発電の世界的リーダーとして躍進したようなM&Aによる技術力向上の例も多い。中国は日本以外の国々からも広範な技術導入を試みているが、日本の技術に大きな関心かおることは間違いない。

 しかし、新幹線のように日本が売り込もうとしている間に中国の方が日、欧の技術を摂取して国内の新幹線網を急速に拡大し、海外に進出しようと言う勢いを見せる例も生じている。風力発電でもあっという間に世界のトップクラスに躍り出た。もともと、宇宙開発のように以前から中国のほうがリードしている科学技術分野があり、これから日本が技術リードを維持する分野は狭くなって行くだろうが、ナノテクや生物化学など日本が先行しうる分野はまだまだいろいろあるだろう。技術の世界は胡坐をかいているとすぐに追い越されてしまう。資金と人材育成の両面で日本は不断の努力をしなければならない。日本は技術立国以外に生き延びる方法がない。 将来の検討課題としては自由貿易協定かある。しかし、現実には双方共に困難が多いと思う。当面は日中韓の共同研究を続けるのが妥当であろう。

 もう一つ、日本が中国人の関心をひきつけ得るものとして日本社会のモデルが考えられるのではあるまいか。安全、安心で、高齢者も生きがいを感じて生活できるような社会のモデルである。日本は少子高齢化の先進国である。中国も急速に高齢化しつつある。その中国に対して高齢者も生き生きと暮らせていけるような社会造りの見本を示したいものである。この点に関し、近年社会道徳が乱れ、自殺者が年間3万人も続き、親子の殺人事件などが度々発生するような日本社会の劣化傾向は大変懸念される。しかし、国際的な比較では日本社会は安定しているし、自然の美も保たれている。社会保障も最低限のものは与えられている。言論の自由も、法の支配も定着している。このようなコミュニティを守ることが日本の存在意義を高める。

 他方、経済発展の著しい中国では住宅価格が庶民の手の届かないところまで上がってしまい、土地なし農民の数が増える一方で、社会保障が整備できないうちに高齢化社会に入ってしまうのではないかと憂慮されている。また、カネ稼ぎの競争社会に嫌気がさして、カネ儲けよりも安らかな生活のほうを求める傾向が中国にも生じているという声も聞く。東日本大震災における日本社会の秩序を見て日本に対する敬意を抱いたという中国人の話も聞いた。そのような日本に対する再評価が生まれれば大地震の悲劇も少し救われる気がする。大地震の復興の中にも日本社会のモデルを示したい。

 第三に「外交力」の強化である。外交関係者だけでなく、シンクータンクやNGOをふくめ、あらゆる専門家の力を結集した「外交力」の強化である。特に重要なのは政治家の議論する力、交渉する力の養成である。中国共産党は8千万人近くの党員を母体に30年くらいかけて幹部を養成し、その競争に勝ち残ったものが中央委員、政治局委員になっている。百戦錬磨の実力者が鍛え上げられている。日本の政治家にももっと組織的な訓練が必要だと思う。

 歴史的にも中国人は議論を得意とする。戦前の日本人に対しては王道を説き、戦後の日本人には歴史認識などを利用して「戦略的高みに立った」議論をする。中国人は世界の秩序を守ると言いながらも、既存の秩序を自国に有利に変えようとする姿勢を崩さない。日本人は戦後のアメリカを中心とした世界秩序に安住してか日本の国家像をまともに議論してこなかったし、日本がどういう国になりたいと思っているか、どういう世界を望んでいるか世界に示す努力も真剣にはしてこなかった。敗戦の結果「出る釘は打たれる」の戒めが骨にしみたのか、大勢順応、状況対応型の外交姿勢が多かった。これは中国人には誤解を招く。日本が基本戦略について腹を割った議論をすれば、中国と立場に違いはあっても、共通するものがかなりあるはずである。そこで見出す共通の利益を拡大して行くことが日中関係を積極的に拡大することになると思う。

「外交力」は宣伝力でもある。日本は「五・四運動」以来世界世論に対するアピールにおいて常に中国に遅れをとっている。1つにはメディアの利用における立ち遅れがある。新革社の発表は直ちに7~8ヵ国語に翻訳されて世界中に配信されている。日本のメディアはせいぜい英語に翻訳される程度である。また、中国のネット発信は多様であり、日本語でも「新華網」、「人民網」などいくつかの発信が行なわれている。日本の報道機関では大分前から「共同網」が中国語で発信しているが、他のメディアも実行して欲しい。現在中国で最もヒット数が多い日本の中国語ネットは「中国経済新聞」の「日本新聞網」ではなかろうか。発行者は元日本留学生の徐静波氏である。

今やパブリック・ディプロマシーの時代である。4億5千万人を超えた中国のネット人口に日本を直接知らせたい。しかも、相手は「八十年后」、「九十年后」に世代替わりしている。アニメ以外に日本のことを殆ど知らない「新新中国人」に日本が知って欲しいことをふんだんに伝えなければならない。日本からの部品や原材料の輸入は中国経済にとって致命的に重要だということ、日本企業が中国国内でいかに多くの雇用を生み出していることなど、また、環境問題や安全保障などの面での共通の利益がいかに大きいかも知らせなければならない。
 加えて、民間交流による日中関係の下支えを強化することが必要である。日中間には250を超える姉妹都市関係があり、しかもいろいろな活動を続けている。次期党主席に想定されている習近平副主席も福建省時代に姉妹都市関係を通じて長崎県と親しい関係になった。中国人の多くが日本人に会ったことがないというのが現実であり、日本を訪れた中国人の多くが日本に対する認識を改めたとも言われている。今後の日中関係における民間交流の重要性はますます高まる。

 忘れてならないのはいわゆる「過去の問題」である。日本はすでに戦争中の過去についてすでに何度も謝ったし、そのことは温家宝首相も2007年の国会演説で認めている。だから、日本人としては過去の問題はすでに水に流されたと考えたいところだが、中国の国民一般の感情は違う。現在ではアニメで日本大好きと言う若者が増えていることは事実であるが、それでもこと歴史問題になると彼らの思考スイッチが簡単に切り替えられてしまう。幸い、最近はこの問題が下火になっているので、火を掻き起こすようなことはしないように日本側で言動に注意すべきである。日本人の中には、中国が強大化するのを見て何か一言強がりを言いたい衝動に駆られる人もあるだろう。しかし、大局をわきまえて己を処することが肝要である。日中の歴史共同研究の報告書は全文発表されていないが、かなりの成果を挙げたようである。台湾の文書公開から南京事件の実態が相当分かってきたそうだ。日中間でも今後さらに歴史研究を積み重ねれば事実関係が明るみに出てくるであろう。
最後に最も肝心な安全保障問題を取り上げる。先ず、日本が戦後ずっと依存している日米安保体制についてである。これを継続することは日中が国交正常化したときの前提であったし、中ソ対立の中で中国にとっても効用があった。ソ連の崩壊後に中国の日米安保に対する考え方に変化が生じたことも事実であろう。中国の中には、日米安保条約が日本の自主防衛を抑制する効果を認めながらも、中国の軍のなかには中国は米国の世界戦略により包囲されており、その要が日米安保であると言う見方もあるようだ。しかし、中国も一国の防衛に関しては理解するはずであり、米中共に今や戦争と言う選択肢はないというのが基本的考え方であるから、日米安保を現実として受け止めるはずである。 日米安保は地域安全保障の上からも重視されている。日本としては、インドやアセアンの友好国、豪州、ニュージランドなどとの関係を密にしながら、日米安保を堅持して、東アジアの平和と安全のために中国と話し合っていけばよい。

 同時に、密輸、麻薬、テロ、災害援助などの「非伝統的安全保障」分野における国際協力は中国を含めて随分進んでいる。それに比して、日中二国間の防衛交流は度々滞りがちであるが、防衛当局者間の相互理解は進めなければならない。
他方、昨年秋の尖閣列島沖における漁船逮捕のときの中国側の主権の主張は強烈なものであった。この事件の経緯については今なお不明なことが多く、中国側の意図は測りがたいが、その後も中国の漁業監視船は尖閣沖に出没している。中国の尖閣列島に対する中国側の主張はいずれ表面化してくると覚悟しておくべきである。我々は先般のような醜態を繰り返さない準備をしておかなければならない。最近政府は南西諸島に自衛隊を配備し、監視船も増加する計画も発表した。当然のことである。もっと充実すべきではなかろうか。日本は中国と二度と戦争をしてはならない。しかし、国土と海域を守る強固な決意は常に明らかにしておかなければならない。

 私は中国の強力な軍備拡大を大きな関心をもって注視している。それを十分に分析する専門的能力はないが、特に強い関心を持っているのは最近の「接近拒否」、「地域拒否」のミサイル能力の発達である。中国が米第7艦隊の空母が近寄れないような空母攻撃能力を持つようになると西太平洋防衛の構図が変わってくる。もう1つはサイバー戦争能力の向上である。万一宇宙通信に障害が起きたら米国の防衛機能が働かなくなる。世界中の経済活動が損なわれる。宇宙平和利用を保障する国際協力の推進は世界的課題である。
 要するに、米中間ではすでに経済関係がMAD(相互確実破壊)の段階に入っているが、軍事関係でもMADの状態に近づきつつあるのではあるまいか。そういう時代における日本は米国との同盟関係を堅持しつつも、中国との間でもアジアの平和と繁栄のために協力して行かなければならない。将来構想としては東アジアの平和維持機構ができることが望ましいが、当面期待できない。私見としては昨年秋アセアンが試みた拡大アセアン国防相合議が将来上手く成長することを願っている。
2010年度の中国の国防白書を見ると、北朝鮮問題など違和感を感じるところもいろいろあるが、世界と地域の平和、国際協調について立派なことも多く書いてある。わが国にとっても、安全保障についての議論のべースとなりうると思う。

 明年秋には第18回党大会が聞かれ、習近平国家副主席が党総書記長に選出されることが確実視されている。建国以来、初めて法律で決められた手続きに従って指導者が選任される。習氏についてはまだ外部に知らされていないところが多い。父親は党の有力幹部であったが、文華時代に投獄されていた間に、七年間下放生活をしたそうだ。地方の上司の推薦で北京大学に入学、党軍事委員会の秘書室に勤務の後は自分から希望して地方勤務を続けた。太子党の1人ではあるが、大変な苦労人で、党は人民のためにあるという信念の共産党人で現場主義者だと言われている。政権の座に着いた習近平党総書記が民生の向上と睦隣外交を続けることを願う。

(最近の中国関係参考資料)
「日米中トライアングル」 王緝思、ジェラルド・カーティス、国分良成編(岩波書店)
「かくて中国はアメリカを抜く」 胡鞍鋼著(PHP)
「中国は、いま」国分良成編(岩波新書)
「これから、中国とどう付き合うか」 宮本雄二著(日本経済新聞社)
「中国の新しい対外政策」リンダ・ヤコブソン、ディーン・ノックス著(岩波現代文庫)
「ネット大国中国」 遠藤誉著(岩波新書)
「中国動漫新人類――日本のアニメと漫画が中国を動かす」遠藤誉著(日経BP社)
「習近平の正体」 茅沢勤著(小学館)
「中国 巨大国家の底流」 興梠一郎著(文芸春秋)
「国の真実」(中国の技術力) 伊佐進一著(講談社現代新書)
「中国の地下経済」 富坂聡著(文春新書)
「中国 静かなる革命」 呉軍華著(日本経済出版社)
「チャイナ・アズ・ナンバーワン」 関志雄著(東洋経済出版社)
「『中国問題』の核心 清水美和著(ちくま新書)
「中国最大の敵日本を攻撃せよ」 戴旭著(徳間書店)

“Will China Rise to War?” Foreign Affairs March/April 2011
“Military and Security Developments Involving the Peoples Republic of China 2010 (Office of the Secretary of Defense)
“Capitalism with Chinese Characteristics” Yasheng Huang(Cambridge University Press)

                             (2011年5月15日寄稿)







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